東周列國志第二十三回 衛の懿公、鶴を好んで国を亡ぼす/斉の桓公、兵を興して楚を伐つ (衞懿公好鶴亡國 齊桓公興兵伐楚)
衛の懿公と鶴
- 話は変わって、衛の恵公の子懿公は、周の恵王九年に位を継ぎ、在位九年であった。遊興を好み怠り驕り、国政を顧みず、羽族の中でもっとも好んだのが鶴という鳥であった。浮邱伯の『相鶴経』にはこうある。
(引用:鶴は陽の鳥であり、陰の場所で遊ぶ。金の気をよりどころとし、火の精をよりどころとして自らを養う。金の数は九、火の数は七であるから、鶴は七年で一小変し、十六年で一大変し、百六十年で変化が止まり、千六百年で形が定まる。体は清潔を尊ぶゆえその色は白く、声は天まで届くゆえその頭は赤く、水で食を得るゆえその嘴は長く、陸に棲むゆえその足は高く、雲に飛び翔るゆえ毛は豊かで肉は疎ら。喉を大きく開いて吐き、頸を伸ばして新しい気を取り入れるゆえ、その寿命は計り知れない。行くには必ず川の中洲に依り、止まるときは林木に集わない。まさに羽族の宗長であり、仙家の駿馬というべきものである。鶴の上相とは、鼻が隆く口が短ければ眠りが少なく、脚が高く節が疎らであれば力が強く、目が露わで瞳が赤ければ遠くを見通し、鳳の翼と雀の羽を持てば飛ぶことを好み、亀の背と鼈の腹を持てば子を産むことができ、前が軽く後ろが重ければ舞に長け、腿が広く指が細ければ歩みに長けるという)
- あの鶴は色が清らかで形が澄み、よく鳴きよく舞うので、懿公はこれを好んだ。俗諺に「上の者が好まなければ、下の者も求めない」というが、懿公が鶴を偏愛したため、鶴を献上する者にはみな重い褒賞が与えられた。弓で鳥を捕る者は百方に手を尽くしてこれを集め、みな進献に来た。御苑から宮廷まで、いたる所で鶴を飼い、その数は数百どころではなかった。斉の高帝が鶴を詠んだ詩がある。
(詩:八方の風の中を遠くまで翼を舞わせ、九つの野で澄んだ声を弄する、しかし雲間へ向かう志を一たび挫かれ、君主の苑中の禽となってしまったと詠う)
- 懿公が飼っていた鶴には、みな位階と俸禄が与えられていた。上等な鶴は大夫の俸を、次の鶴は士の俸を食んだ。懿公が出遊するときは、鶴もまた班(序列)に分かれて供をし、大きな輿に乗せて車の前に置き、「鶴将軍」と号した。鶴を養う者にも常の俸給があった。民から厳しく取り立てて鶴の糧に充てたので、民は飢えと寒さに苦しんでも、全く顧みられなかった。
諫言の不聴と公子燬への人心の帰附
- 大夫石祁子は石碏の子孫、石駘仲の子であり、人となり忠実で剛直として知られ、寧荘子、名は速と、共に国政を執っていた。二人とも賢臣であった。二人は再三諫言したが、いずれも聞き入れられなかった。公子燬は恵公の庶兄であり、公子碩が宣姜と通じて生まれた子である。すなわち後の文公である。燬は衛が必ず滅びると知り、口実を設けて斉へ赴いた。斉の桓公は宗女を妻として与え、燬はついにそのまま斉国に留まった。衛の人々はもとより亡き太子急子の冤罪を憐れんでいたが、恵公が復位してから、民は日夜こう呪詛していた。「もし天道に知るところあれば、恵公は必ず禄位を全うできまい」。急子と壽にはいずれも子がなく、公子碩は早くに死に、黔牟の血筋もすでに絶えていたため、ただ燬だけが賢徳の持ち主であり、人心はひそかに彼に帰していた。懿公が失政するに及び、公子燬は出奔し、衛人はみな怨みを抱かない者はなかった。
北狄の侵攻
- さて北狄は、周の太王の時代よりすでに強盛で、獯鬻はすでに太王を岐山への遷都に追い込んでいた。武王が天下を統一するに及び、周公が南で荊舒を懲らしめ、北で戎狄を撃ち払ったことで、中原は久しく安泰であった。しかし平王の東遷の後、南蛮北狄が交互にその横暴を極めるようになった。北狄の主、名を瞍瞞という者は、数万の弓騎兵を率い、常に中原を蹂躙する野心を持っていた。斉が山戎を伐ったと聞き、瞍瞞は怒って言った。「斉兵が遠征に来るのは、必ずわれらを軽んじる心があるからだ。先に手を打つべきだ」。そこで胡騎二万を率いて邢を伐ち、その国を打ち破った。斉が邢を救おうと謀っていると聞き、そこで兵を移して衛へ向かった。
- ちょうど衛の懿公は鶴を乗せて出遊しようとしていたところ、間諜の報告があった。「狄人が侵入しました」。懿公は大いに驚き、すぐに兵を集め甲冑を授け、戦いと守りの計を立てた。民はみな村里へ逃げ隠れ、進んで軍役に就こうとしなかった。懿公は司徒に命じて捕らえさせた。しばらくして、百余人を捕らえて連れて来られ、その逃避の理由を問うた。人々は言った。「主君はある一つの物を用いておられます。それだけで狄を防ぐには十分でしょう。どうしてわれらを用いる必要がありましょうか」。懿公は「何の物か」と尋ねた。人々は「鶴です」と言った。懿公は「鶴がどうして狄を防げようか」と言った。人々は言った。「鶴は戦うこともできず、無用の物です。主君は有用の民を無用の鶴を養うために苦しめておられます。民が服従しないのはそのためです」。懿公は言った。「寡人は罪を知った。鶴を放って民に従おうと思うが、よいか」。石祁子は言った。「主君は急いでこれを行われますように。それでも遅すぎるのではと恐れます」。懿公は果たして人を遣って鶴を放たせたが、鶴は日ごろから養われていたため、もとの場所を旋回するばかりで、決して去ろうとしなかった。石・寧の二大夫は自ら町の市場に赴き、衛侯が過ちを悔いる意を述べると、民はようやく少しずつ戻り集まるようになった。
滎澤の戦い
- 狄兵はすでに滎澤まで攻め寄せ、たちまち三度の急報が届いた。石祁子は奏上した。「狄兵は勇猛で、軽々しく戦ってはなりません。臣は斉に救援を求めることを願います」。懿公は言った。「斉は先に命を受けて討伐に来たが、退兵したまま、わが国はまだ聘礼の謝意を修めていない。どうして助けてくれようか。むしろ一戦を交え、存亡を決するべきだ」。寧速は言った。「臣が師を率いて狄を防ぐことを願います。主君は国にお留まりください」。懿公は言った。「孤(懿公自身)が親征しなければ、人々が心を尽くさないことを恐れる」。そこで石祁子に玉玦を与え、代わって国政を執らせて言った。「卿の決断はこの玦のようであれ」。寧速には矢を与え、専心して防守に当たらせた。さらに言った。「国中の事はすべて二卿に委ねる。寡人は狄に勝てなければ、帰ることはない」。石・寧の二大夫はともに涙を流した。
- 懿公は命令を終えると、大々的に車と兵を集めた。大夫渠孔を将とし、于伯を副将とし、黄夷を先鋒とし、孔嬰斉を後隊とした。行軍する軍人たちは口々に怨み言を漏らし、懿公は夜にそれを見て回った。軍中の歌にはこうあった。
(歌:鶴は禄を食み、民は力を尽くして耕す、鶴は輿に乗り、民は武器を執る、狄の鋒は鋭く近づき難いというのに、戦えば十に九までは死ぬ身なのだ、鶴は今どこにいるのか、なぜわたしはあくせくとこの遠征に赴かねばならないのかと詠う)
- 懿公はこの歌を聞き、悶々としてやまなかった。大夫渠孔は法を用いること甚だ厳しく、人心はますます離れていった。滎澤に近づくと、敵軍千余が左右に分かれて馳せ、まったく陣列を成していないのが見えた。渠孔は言った。「人が狄は勇猛だというのは、虚名に過ぎないな」。すぐに太鼓を鳴らして進軍させた。狄人はわざと敗れたふりをして伏兵の中へ引き込み、たちまち一斉に口笛の合図を上げると、天が崩れ地が裂けるかのごとく、衛の軍を三つに寸断し、互いに助け合うことができなくなった。衛の軍はもとより戦う気がなかったため、敵の勢いの猛烈さを見ると、車も装備もすべて捨てて逃げた。懿公は狄兵に幾重にも取り囲まれた。渠孔は言った。「事態は急を告げております。大旗を伏せ、君は目立たぬ服に着替えて車から降りれば、なお逃れられましょう」。懿公は嘆じて言った。「もし諸君が救ってくれるなら、旗を目印にせよ。そうでなければ、旗を取り去っても益はない。孤はむしろ死んで民に謝るまでだ」。しばらくして、衛の軍の前後の隊はことごとく敗れ、黄夷は戦死し、孔嬰斉は自刎して果てた。狄軍の包囲はますます厚くなり、于伯は矢に当たって車から落ち、懿公と渠孔は前後して害された。狄人に肉泥のように切り刻まれ、全軍が全滅した。髯翁の詩がある。
(詩:かつて禽荒(鳥にうつつを抜かすこと)を戒める古訓を聞いたことがあるが、誰が一羽の鶴によって国が滅ぶことなど知ろうか、滎澤には当時鬼火が一面に燃え広がったというが、鶴に乗って仙郷に帰ることなどできようかと詠う)
二太史の機知と衛城の陥落
- 狄人は衛の太史華龍滑と礼孔を捕らえ、殺そうとした。華と礼の二人は胡の風習が鬼神を信じることを知り、こう偽って言った。「われらは太史であり、国の祭祀を掌る者です。われらが先に行って、汝らのために神に申し上げましょう。さもなくば、鬼神は汝らを助けず、国を得ることはできません」。瞍瞞はこの言葉を信じ、そのまま車に乗って去らせた。寧速はちょうど戦装束で城を巡回していたが、車一台が馳せてくるのを望み見て、二人の太史と気づき、大いに驚いて尋ねた。「主公はどちらにおられるか」。「すでに全軍覆没いたしました。狄軍は強盛で、座して滅亡を待つべきではありません。しばらくその鋒先を避けるべきです」。寧速は門を開いて彼らを迎え入れようとしたが、礼孔は言った。「君と共に出たのに、君と共に入らないのは、臣たる者の道義に反します。わたしはあの世でわが君にお仕えいたしましょう」。そのまま剣を抜いて自刎した。華龍滑は「史氏の記録を失ってはならない」と言い、そこで城に入った。
- 寧速と石祁子は相談し、衛侯の宮中の家族と公子申を連れて、夜のうちに小車に乗って城の東へ逃れた。華龍滑は典籍を抱えてこれに従った。国人は二大夫がすでに出発したと聞き、それぞれ男を連れ女を抱いて後を追い、命からがら逃げた。泣き声は天を震わせた。狄兵は勝ちに乗じて勢いよく攻め込み、まっすぐ衛城に入った。逃げ遅れた民は、ことごとく殺戮された。さらに兵を分けて追撃した。石祁子は宮中の家族を守って先に行かせ、寧速は後を断って戦いつつ退いた。従っていた民の半分は狄の刃にかかった。黄河に至る頃、幸いにも宋の桓公が兵を遣って迎え、船を用意していたので、夜を徹して河を渡った。狄兵はようやくそこで退いていき、衛国の府庫と民間に残されていた金と穀物の類をすべて劫掠し尽くし、城郭を打ち壊し、満載して帰って行った。これは省略する。
弘演の納肝
- さて衛の大夫弘演は、先に陳への使者として赴いていたが、任を終えて戻る頃には、衛はすでに滅んでいた。衛侯が滎澤で死んだと聞き、その屍を探しに行った。道すがら、骸骨があらわになり、血肉が散乱しているのを見て、深い悲しみを覚えずにいられなかった。ある所に至ると、大旗が荒れた沢のほとりに倒れているのを見た。弘演は「旗がここにあるからには、屍もそう遠くないはずだ」と言った。数歩も行かないうちに、うめき声を聞き、前へ進んで見ると、一人の小内侍が腕を折って横たわっていた。弘演は「お前は主公の死んだ場所を知っているか」と尋ねた。内侍は一堆の血肉を指して言った。「これがすなわち主公の屍でございます。わたくしは主公が殺されるのを直接見ておりました。腕を傷めて痛み、歩くことができず、それでここに臥して国人が来るのを待って知らせようとしておりました」。
- 弘演がその遺体を見ると、すでにばらばらでもとの形をとどめていなかったが、ただ一つ肝だけが完全な形で残っていた。弘演はこれに向かって再拝し、大いに哭いた。そして肝の前で復命した。生きているときの礼のようにである。これを終えると、弘演は言った。「主公には遺体を収め葬る人がいない。わたしは自らの身をもって棺としよう」。従者に言い含めた。「わたしが死んだ後は、林の下に埋めてくれ。新しい君が立ったら、そのとき告げに行くように」。そこで自ら帯刀で腹を切り裂き、手で懿公の肝を取り出して自分の腹の中に納めると、たちまち息絶えた。従者は言われた通りに埋葬し、それから小内侍を車に乗せて河を渡り、新しい君の消息を探りに行った。
戴公から文公への即位
- さて石祁子は先に公子申を舟に乗せ、寧速は残された民をまとめて後から追いついてきた。漕邑に至って男女を点検すると、わずか七百二十人しか残っていなかった。狄人の殺戮の多さは、どれほど悲しいことであろうか。二大夫は相談した。「国は一日たりとも君を欠くことはできない。しかしこの残された民の少なさをどうしたものか」。そこで共と滕の二邑から十人に三人の割合で人を出させ、あわせて四千余人を得て、残った民と合わせて五千人とし、漕邑に即座に廬舎を建て、公子申を君として立てた。これが戴公である。宋の桓公御説と許の桓公新臣が、それぞれ人を遣って弔いを表した。戴公はすでに病を患っており、即位数日で薨じた。寧速は斉へ赴き、公子燬を迎えて位を継がせた。
- 斉の桓公は言った。「公子はわが国(斉)から帰って宗廟をお守りになる。もし器物が備わっていなければ、それは寡人の過ちである」。そこで良馬一乗、祭服五揃い、牛・羊・豕・鶏・犬をそれぞれ三百頭ずつ贈った。また魚軒(美しく飾った車)をその夫人に贈り、あわせて美しい錦三十端を添えた。公子無虧に車三百乗を率いさせ、これを送らせた。あわせて門の材木を贈り、門戸を立てさせた。公子燬が漕邑に至ると、弘演の従者と、腕を折った小内侍がともに来て、肝を納めた事の詳細を語った。公子燬はまず使者を遣って棺を用意させ、滎澤へ行ってその遺骸を収めさせた。一方で懿公と戴公のために喪を発した。弘演を追封し、その子を用いてその忠を表彰した。諸侯は斉の桓公の義を重んじ、多くが弔いと贈り物を届けた。時に周の恵王十八年冬十二月であった。
文公の改元と邢救援の評議、聶北の屯兵
- 翌年の春正月、衛侯燬は改元し、これが文公である。ようやく車三十乗しかなく、民間に寄居し、まことに荒涼としていた。文公は布衣に帛の冠をつけ、粗末な食事で、早く起き夜遅く休み、民を撫で安んじ、人はその賢を称えた。公子無虧は斉に帰り、甲士三千人を留めて漕邑の防備に協力させ、狄の禍に備えた。無虧が戻って桓公に会うと、衛燬の草創の様子と弘演が肝を納めたことを述べた。桓公は嘆じて言った。「無道の君にさえ、このような忠臣があるものか。その国はまだ滅びる運命にはないのだろう」。管仲が進み出て言った。「今、防備に労力を費やし民を労するより、地を選んで城を築くほうが一度の労で永久の安を得られましょう」。桓公はもっともだと思い、諸侯を糾合して共同で作業に当たろうとした。
- 突然邢国から急を告げる使者が来て言った。「狄兵がまた本国に来襲し、勢いは支えきれません。伏してご援助をお願いいたします」。桓公は管仲に「邢は救えるか」と尋ねた。管仲は答えた。「諸侯が斉に仕えるのは、斉がその災難を救えるからです。衛を救うことができなかった上に、また邢も救わなければ、覇業は失われてしまいます」。桓公は「では邢と衛のどちらを先に急ぐべきか」と尋ねた。管仲は答えた。「邢の患いが収まるのを待ってから、それに乗じて衛の城を築く。これこそ百世の功というものです」。桓公は「よろしい」と言った。すぐに宋・魯・曹・邾の各国に檄を伝え、兵を合わせて邢を救うことを求め、みな聶北に集結させた。宋と曹の二国の兵が先に到着した。管仲はさらに言った。「狄寇はまさに勢いを増しており、邢の力はまだ尽きていません。勢いを増している敵に当たれば、その労は倍増しますが、まだ尽きていない力を助けても、その功は少ないものです。むしろ待つべきです。邢が狄に支えきれなければ必ず潰え、狄が邢に勝てば必ず疲弊します。疲れた狄を駆って潰えた邢を援ければ、それこそ力を省いて功を多くするというものです」。桓公はその謀を用い、魯と邾の兵の到着を待つと口実を設け、聶北に兵を屯し、間諜を遣って邢と狄の攻守の消息を探らせた。史臣に、管仲が早く邢や衛を救わなかったことを譏る詩がある。これは覇者が乱を養って功とする謀であるとするものである。詩にはこうある。
(詩:患いを救うのは逆さ吊りにされた者を解き放つようなもの、兵を率いて出るのになぜ遷延するのか、昔から覇業の事は正義の事に劣るもの、功利がとかく道義より優先されがちだと詠う)
邢の遷都と衛の封建
- さて三国は聶北に駐兵して、約二か月が経った。狄兵は昼夜休みなく邢を攻めた。邢人は力尽き、包囲を突破して逃げ出した。間諜の報告が届いたばかりのところへ、邢国の男女が押し寄せるように来て、みな斉の陣営に投じて救いを求めた。その中の一人が地に倒れ伏して泣いていた。これは邢侯叔顔であった。桓公はこれを助け起こし、慰めて言った。「寡人の救援が早くなかったために、このようなことになった。罪は寡人にある。宋公・曹伯とともにこれから相談し、狄人を追い払おう」。その日のうちに陣を撤収させ出発した。狄の主瞍瞞は略奪に飽き足り、戦う気力もなくなっていたところへ、三国の大軍が来ると聞き、火を放って北へ逃げ去った。各国の兵が到着する頃には、ただ一面の火の海が見えるのみで、狄人はすでに逃げていた。
- 桓公は火を消させ、叔顔に「もとの城にまだ住めるか」と尋ねた。叔顔は言った。「逃げ延びた民は大半が夷儀の地におります。夷儀へ遷ることを願っております。民の望みに従いたく存じます」。桓公はそこで三国にそれぞれ版築の道具を用意させ、夷儀城を築かせ、叔顔をそこに住まわせた。さらに祖先の廟を建て、廬舎を増設し、牛馬や穀物・絹布の類はすべて斉国から運び入れ、そこを満たした。邢国の君臣は、まるでもとの故国に帰ったかのようで、喜びと祝いの声が耳に満ちた。事が終わると、宋と曹は斉に別れを告げ帰国しようとした。桓公は言った。「衛国はまだ定まっていない。邢に城を築いて衛に築かなければ、衛はわれらをどう思うだろうか」。諸侯は「ただ覇君の命に従います」と言った。
- 桓公は令を伝え、兵を衛へ移し、もっこや鋤といった土木道具の類はすべて携えさせた。衛の文公燬が遠くまで出迎えた。桓公は彼が粗末な布の衣、粗末な帛の冠をつけ、喪服のままであるのを見て、しばし悲しみを覚えた。そこで言った。「寡人は諸侯がたの力を借りて、あなたのために都を定めたい。どの地がよいと思われるか」。文公燬は言った。「わたしはすでに楚邱を吉地として占ったのですが、版築の費用は、亡国の身ではまかなえません」。桓公は「その事は寡人が引き受けよう」と言った。その日のうちに三国の兵にすべて楚邱へ赴き工事を始めるよう命じた。また門の材木を運び、改めて祖先の廟を立て、これを「封衛」と呼んだ。衛の文公は斉の再興の恩に感じ、『木瓜』の詩を作ってこれを詠んだ。詩にはこうある。
(詩:木瓜を贈られれば、美しい玉で報いる、木桃を贈られれば、美しい玉で報いる、木李を贈られれば、美しい玉で報いる、と互いに贈り合う交誼を詠う)
- 当時、桓公が三つの滅びかけた国を存続させたと称された。すなわち僖公を立てて魯を存続させ、夷儀に城を築いて邢を存続させ、楚邱に城を築いて衛を存続させたことである。この三大功勲があったからこそ、五覇の首とされたのである。潜淵先生が史を読んで作った詩がある。
(詩:周室が東遷し綱紀は崩れ去ったが、桓公は諸侯を糾合して衰えを立て直した、滅びかけた国を興し絶えかけた血筋を継がせて三国を存続させ、大義は堂々として五覇の魁であると詠う)
楚の台頭と鄭への侵攻
- この時、楚の成王熊惲は令尹子文を用いて国政を治め、覇を争う志があった。斉侯が邢を救い衛を存続させたと聞き、その称賛の声が荊襄にまで伝わると、楚の成王は心中不快であり、子文に言った。「斉侯は徳を布いて名を得ようとし、人心はこれに帰している。寡人は漢水の東に伏し処り、徳をもって人を懐かせるには足りず、威をもって衆を畏れさせるには足りない。今の時代、斉があって楚がないとは、寡人にとって恥辱である」。子文は答えて言った。「斉侯が覇業を経営して、すでに三十年近くになります。彼は王室を尊ぶことを名分とし、諸侯は喜んで附従しております。敵うものではありません。鄭は南北の間に位置し、中原の防壁となっております。王がもし中原を図ろうとするなら、鄭を得なければなりません」。成王は「誰が寡人のために鄭を伐つ任を負えるか」と尋ねた。大夫鬭章が志願し、成王は車二百乗を与え、長駆して鄭へ向かわせた。
- さて鄭は純門まで楚軍の攻撃を受けて以来、日夜楚兵を警戒していた。楚国が兵を興したと知り、鄭伯は大いに恐れ、大夫聃伯を遣って師を率いて純門を守らせ、人を斉へ星夜遣って急を告げさせた。斉侯は檄を伝え、諸侯を檉に大いに集め、鄭を救おうと謀った。鬭章は鄭に備えがあり、また斉の救援が至ると聞くと、その失敗を恐れ、国境まで来て引き返した。楚の成王は大いに怒り、佩剣を解いて鬭廉に賜り、軍中で鬭章の首を斬らせようとした。鬭廉は鬭章の兄である。軍中に至ると、楚王の命令をひとまず伏せ、ひそかに鬭章と相談した。「国法を免れるには、必ず功を立てて自ら贖うほかない」。鬭章は跪いて教えを乞うた。鬭廉は言った。「鄭は退兵したと知って、お前が急に来るとは思っていないはずだ。もし急いで襲えば、志を得られよう」。鬭章は軍を二隊に分け、自ら前隊を率いて先行し、鬭廉は後隊を率いて前隊に呼応し支援することとした。
- さて鬭章は枚を銜え太鼓を伏せて、こっそりと鄭の国境に侵入した。ちょうど聃伯が国境で車馬を点検していたところに出くわした。聃伯は敵の来襲を聞いたが、どの国の兵かも分からず、慌てて兵を集め、国境で迎え撃った。ところが鬭廉の後隊がすでに到着し、逆に鄭の軍の後方に回り込み、前後から挟み撃ちにした。聃伯は支えきれず、鬭章の鉄の棒ただ一撃で打ち倒され、両手で掴み取られて生け捕りにされた。鬭廉は勝ちに乗じて不意を襲い斬り伏せ、鄭の兵はその大半を失った。鬭章は聃伯を囚車に乗せ、そのまま鄭へ長駆しようとした。鬭廉は言った。「今回の急襲は成功したが、まずは死を免れることを図るべきだ。僥倖に頼って事を進めてよいものか」。そこでその日のうちに兵を引き上げた。
- 鬭章は楚の成王に会い、頭を地に打ちつけて罪を請い、奏上した。「臣が軍を返したのは敵をおびき出す計であり、戦いを恐れたのではありません」。成王は言った。「将を捕らえた功があるのだから、罪はひとまず許そう。しかし鄭国はまだ服していない。どうして兵を撤収したのか」。鬭廉は言った。「兵が少なく成功を収められないのでは、国威を汚すことを恐れました」。成王は怒って言った。「お前は兵の少なさを口実にしているが、明らかに敵を恐れているのだ。今、兵車二百乗を加えるから、お前は再び行くがよい。もし鄭を服させることができなければ、二度と寡人の前に出ることはならぬ」。鬭廉は奏上した。「臣は兄弟共に赴くことを願います。もし鄭が降伏しなければ、鄭伯を縛り上げて献上いたしましょう」。成王はその言葉を壮とし、これを許した。そこで鬭廉を大将、鬭章を副将とし、あわせて車四百乗を率いて、再び鄭国へ攻め寄せた。史臣の詩がある。
(詩:荊襄はみずから帝を称するほど勢い盛んで、多くの邦を蚕食する志はまだ止まぬ、溱洧(鄭の地)はどんな罪あってか三度も討伐を受けるのか、危難を解くにはただ覇君を仰ぐしかないと詠う)
楚を討つ謀
- さて鄭伯は聃伯が捕らえられたと聞き、再び斉に救援を求める使者を遣った。管仲が進み出て言った。「君は数年来、燕を救い魯を存続させ、邢に城を築き衛を封じるなど、恩徳を民に加え、大義を諸侯に布いてこられました。もし諸侯の兵を用いようとするなら、まさに今がその時です。君が鄭を救おうとするなら、楚を伐つに越したことはありません。楚を伐つには必ず諸侯を大いに合わせる必要があります」。桓公は「諸侯を大いに合わせれば、楚は必ず備えを固めるだろう。必ず勝てると言えるか」と尋ねた。管仲は言った。「蔡人は君に罪を得ており、君はこれを討とうとしてから久しくなります。蔡と楚は国境を接しております。まことに蔡を討つことを名目とし、それを機に楚に及べば、これが兵法にいう『不意を突く』というものです」。
- (先に、蔡の穆公はその妹を桓公に嫁がせて第三夫人としていた。ある日、桓公は蔡姫と共に小舟に乗り、池の上で遊び、蓮を採って楽しんでいた。蔡姫は戯れに桓公に水をかけた。桓公はこれを止めさせた。姫は公が水を恐れることを知っていたため、わざと舟を揺らし、水が公の衣を濡らした。桓公は大いに怒って言った。「婢の分際で夫に仕えることができぬのか」。そこで豎貂に蔡姫を送って国へ帰させた。蔡の穆公もまた怒って言った。「一度嫁いだ者を帰されるのは、絶縁を意味する」。ついにその妹を改めて楚国に嫁がせ、楚の成王の夫人とした。桓公は深く蔡侯を恨んでいた。そのため管仲はこれに言及したのである。)
- 桓公は言った。「江と黄の二国は楚の暴虐に耐えかね、使者を送って帰順を申し出てきている。寡人はこれと会盟し、楚を伐つ日には内応の約とさせたいが、どうか」。管仲は言った。「江・黄は斉から遠く楚に近く、これまで楚に服従してきたからこそ辛うじて存続できているのです。今、楚に背いて斉に従えば、楚は必ず怒り、怒れば必ず討伐を加えるでしょう。この時、われらが救おうとすれば、道が遠すぎるのが障害となり、救わなければ、同盟の義に反することになります。まして中原の諸侯を五たび六たびと合わせれば、十分に成功を収められましょう、何もこの小さな二国の助けを借りる必要がありましょうか。むしろ好い言葉でこれを断るべきです」。桓公は言った。「遠国が義を慕ってやって来たのに、これを断れば人心を失うだろう」。管仲は言った。「君はただこの言葉を壁に記しておかれよ。いつか江・黄の急を忘れませぬように」。
- 桓公はそこで江・黄二君と盟会し、ひそかに楚を伐つ約束を交わし、翌年の春正月を期とした。二君は言った。「舒人は楚を助けて悪事をなし、天下はこれを『荊舒』と呼びます。討たずにはいられません」。桓公は「寡人がまず舒国を取り、楚の翼を切り落とそう」と言った。そこでひそかに一書をしたため、徐子に渡した。徐は舒と近く、徐嬴は斉の桓公に嫁いで第二夫人となっており、婚姻のよしみがあったため、これまで斉に帰服していた。そこで桓公は舒のことをこれに託した。徐は果たして兵を率いて舒国を襲い取った。桓公はすぐに徐子に舒城に兵を屯させ、緩急に備えさせた。江・黄二君はそれぞれ本国の境を守り、命令を待った。
- 魯の僖公は季友を斉に遣って謝罪させ、こう言わせた。「邾莒との対立があり、邢衛の役に共に参加できませんでした。今、江・黄との会盟を聞き、特にこれから修好を申し上げます。以後征伐あらば、鞭を執って先駆けることを願います」。桓公は大いに喜び、楚を伐つ事についても、ひそかに約定を結んだ。
蔡討伐と豎貂の軍機漏洩
- 時に楚の兵が再び鄭国に至り、鄭の文公は和議を請い、民の苦しみを和らげようとした。大夫孔叔は言った。「なりません。斉がまさに楚に事を起こそうとしているのは、われらのためです。人が我らに恩義を施したのに、これを捨てるのは不吉なことです。堅く守ってこれを待つべきです」。そこで再び使者を斉へ遣り急を告げた。桓公は計を授け、斉の救援がまもなく至るとの噂を流させ、楚を油断させた。期日に至れば、各国は君主自身か臣下かのいずれかが一軍を率いて虎牢を出て、上蔡で集結して足並みをそろえ、共に楚を攻める段取りとなった。そして宋・魯・陳・衛・曹・許の各君にあまねく約束を伝え、みな期日通りに出兵させることとした。名目は蔡を討つとしながら、実際は楚を伐つためであった。
- 翌年、周の恵王の十三年、春正月元旦、斉の桓公は朝賀を終えると、蔡討伐について議した。管仲を大将に任じ、隰朋・賓須無・鮑叔牙・公子開方・豎人貂らを率いさせ、車三百乗、甲士一万人を出し、隊を分けて進発させた。太史は「七日に出軍するのが大吉です」と奏上した。豎貂は先に一軍を率いて蔡を密かに掠め、各国の車馬を集めることを願い出た。桓公はこれを許した。
- 蔡人は楚を頼みとし、まったく備えをしていなかったが、斉兵が到着すると、ようやく兵を集めて守りを固めた。豎貂は城下で威勢を誇示し、攻城を命じ、夜になってようやく退いた。蔡の穆公は豎貂を見知っていた。かつて斉の宮中で蔡姫に仕えていた頃、その恩恵を受けたことがあり、蔡姫が蔡へ送り返された際にも彼が送り届けた経緯があったので、彼が小人物であることを知っていた。そこで夜深く、密かに金と絹を一車分送り、緩兵を求めた。豎貂はこれを受け取ると、密かに斉侯が七路の諸侯を糾合し、先に蔡を侵し、後に楚を伐とうとする軍機の全貌を、蔡に詳しく漏らしてしまった。「まもなく各国の軍が到着し、蔡城を平地に蹂躙するでしょう。早く逃げるほうが賢明です」。使者が戻って報告すると、蔡侯は大いに驚いた。その夜のうちに宮中の家族を率い、門を開いて楚国へ逃げ出した。民は主を失い、たちまち逃げ散った。豎貂は自らの功績と思い込み、斉侯に急いで報告した。
楚との対峙と屈完の外交
- さて蔡侯は楚に至り、成王に会って豎貂の言葉を詳しく述べた。成王はようやく斉の謀略を悟り、兵車を点検整備して戦いと守りに備えさせ、一方で鬭章の鄭伐の兵を撤収させた。数日後、斉侯の兵が上蔡に至った。豎貂は謁見を終えた。七路の諸侯が続々と到着し、一人一人が自ら車と兵を率いて助戦に馳せ参じ、軍威は大いに盛んであった。その七路とは、宋の桓公御説、魯の僖公申、陳の宣公杵臼、衛の文公燬、鄭の文公捷、曹の昭公班、許の穆公新臣である。斉の主盟主桓公小白を合わせて八位。その中で許の穆公は病を抱えながらも力を尽くして軍を率い、先に蔡の地に到着した。桓公はその労をねぎらい、曹伯の上に位を序させた。その夜、許の穆公は薨じた。斉侯は蔡に三日留まり、その喪を執り行った。許国に命じて、侯の礼をもって許の穆公を葬らせた。
- 七国の師は南へ向けて進み、まっすぐ楚の国境に達した。国境で、一人の人物が衣冠を整え、車を道端に停めて、丁重に礼をして言った。「来られたのは斉侯であられましょうか。楚国の使臣が久しくお待ちしておりました、とお取り次ぎ願いたい」。その人物は姓を屈、名を完といい、楚の公族で大夫の官にあった。今は楚王の命を受けて使者となって斉軍のもとへ赴いた。桓公は「楚人はどうしてあらかじめわが軍の到来を知っていたのか」と尋ねた。管仲は言った。「これは必ず誰かが消息を漏らしたのでしょう。彼らが使者を遣った以上、必ず何か申し立てがあるはずです。臣が大義をもってこれを責めれば、彼らは自ずと恥じて屈し、戦わずして降らせることができましょう」。
- 管仲もまた車に乗って出て、屈完と車上で両手を組んで礼をした。屈完は口を開いて言った。「わが君は中原の大国の戦車と歩兵がかたじけなくもわが国までお越しになったと聞き、下臣完に命を伝えさせました。わが君のお言葉は次の通りです。『斉と楚はそれぞれその国を治めている。斉は北海に居り、楚は南海に近い。互いに何の関わりもない間柄である。なぜ君はわが地に踏み込まれたのか』とのこと。何とぞその理由をお聞かせください」。管仲は答えて言った。「昔、周の成王がわれらの先君太公を斉に封じられたとき、召康公に命じてこれを賜わらせ、こう仰せられました。『五侯九伯、汝は代々征伐を掌り、周室を助けよ。その地は東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣に至る。もし王への職貢を果たさぬ者があれば、汝は容赦するな』と。周室が東遷して以来、諸侯は放縦になり、わが君は命を奉じて盟主となり、先業を修復しております。汝ら楚国は南荊の地にあり、毎年包茅(酒を漉すための茅)を貢納し、王の祭祀を助けるべきです。汝らがそれを怠って以来、酒を漉すことができず、寡人はこれを問いただしているのです。かつ昭王は南征したまま帰らなかった、これも汝らの咎によるものではないか。汝らは何と申し開くのか」。
- 屈完は答えて言った。「周の綱紀が失われ、朝貢が廃れたのは天下すべて同じこと、どうして南荊だけの罪でしょうか。とはいえ、酒を漉す茅を献じなかったことは、わが君も罪を知りました。命に従って献上いたしましょう。昭王が帰らなかったことについては、ただ膠で固めた舟の故であり、君はどうか水辺の者にお尋ねください、わが君はその咎を負うものではございません。完はこのことをわが君に復命いたします」。言い終えると車を巡らせて退いた。管仲は桓公に告げた。「楚人は強情で、口先だけでは屈服させられません。さらに進んで圧力をかけるべきです」。そこで八軍に一斉に発せよと令を伝え、まっすぐ陘山に至った。漢水にほど近いところで、管仲は「ここに屯営せよ、これ以上進んではならない」と令を下した。諸侯はみな言った。「兵はすでに深く侵入したのに、なぜ漢水を渡って一戦を決せず、ここに逗留するのか」。管仲は言った。「楚がすでに使者を遣わした以上、必ず備えがあります。ひとたび兵刃を交えれば、もはや解くことはできません。今、われらがこの地に兵を留めて遠く勢いを示せば、楚はわれらの大軍を恐れ、また使者を遣ってくるでしょう。われらはそれを機に和議をまとめられます。討伐を名目に出兵し、楚を服させて帰る、これでよいではありませんか」。諸侯はまだ深く納得せず、議論が紛糾した。
楚成王の使者派遣
- さて楚の成王はすでに鬭子文(子文)を大将に任じ、甲冑を集めて点検し兵器を研がせ、漢水の南に屯していた。諸侯が渡河するのを待って、これを迎え撃つつもりであった。間諜が「八国の兵が陘の地に駐屯しています」と報告した。子文は進み出て言った。「管仲は用兵に長け、万全でなければ動きません。今、八国の大軍で逗留して進まないのは、必ず何か計略があるはずです。改めて使者を遣り、その強弱を探り、その意向を察して、戦うか和すか決めても遅くはありません」。成王は「今回は誰を遣ればよいか」と尋ねた。子文は「屈完はすでに管仲と面識があります。再びこれを遣わすのがよいでしょう」と言った。屈完は奏上した。「酒を漉す茅の貢納を欠いたことについては、臣が先にその咎を負いました。君がもし盟を請われるなら、臣は努めて行きましょう。両国の紛争を解くために。もし戦を望まれるなら、他に有能な者を遣わされますように」。成王は言った。「戦うか盟うかは卿の裁量に任せる。寡人はお前を制することはしない」。屈完はそこで再び斉軍のもとへ赴いた。斉と楚がどうなるか、次の回をご覧いただきたい。
原文(底本)
話說衛惠公之子懿公,自周惠王九年嗣立,在位九年。般樂怠傲,不恤國政,最好的是羽族中一物,其名曰鶴。按浮邱伯《相鶴經》云: 鶴,陽鳥也,而遊於陰。因金氣,乘火精以自養。金數九,火數七,故鶴七年一小變,十六年一大變,百六十年變止,千六百年形定。體尚潔,故其色白。聲聞天,故其頭赤。食於水,故其喙長。棲於陸,故其足高。翔於雲,故毛豐而肉疏。大喉以吐,脩頸以納新,故壽不可量。行必依洲渚,止不集林木。蓋羽族之宗長,仙家之騏驥也。鶴之上相:隆鼻短口則少眠,高腳疏節則多力,露眼赤睛則視遠,鳳翼雀毛則喜飛,龜背鱉腹則能產,輕前重後則善舞,洪髀纖趾則能行。 那鶴色潔形清,能鳴善舞,所以懿公好之。俗諺云:「上人不好,下人不要。」因懿公偏好那鶴,凡獻鶴者皆有重賞。弋人百方羅致,都來進獻。自苑囿宮廷,處處養鶴,何止數百。有齊高帝詠鶴詩為證: 八風舞遙翮,九野弄清音;一摧雲間志,為君苑中禽。 懿公所畜之鶴,皆有品位俸祿:上者食大夫俸,次者食士俸。懿公若出遊,其鶴亦分班從幸,命以大軒,載於車前,號曰「鶴將軍」。養鶴之人,亦有常俸。厚歛於民,以充鶴糧。民有飢凍,全不撫恤。 大夫石祁子,乃石碏之後,石駘仲之子,為人忠直有名,與寧莊子名速,同秉國政,皆賢臣也。二人進諫屢次,俱不聽。公子燬乃惠公庶兄,公子碩烝於宣姜而生者,即文公也。燬知衛必亡,託故如齊。齊桓公妻以宗女,竟留齊國。衛人向來心憐故太子急子之冤,自惠公復位之後,百姓日夜咒詛:「若天道有知,必不終於祿位也!」因急子與壽,俱未有子,公子碩早死,黔牟已絕,惟燬有賢德,人心陰歸附之。及懿公失政,公子燬出奔,衛人無不含怨。 卻說北狄自周太王之時,獯鬻已強盛,逼太王遷都於岐。及武王一統,周公南懲荊舒,北膺戎狄,中國久安。迨平王東遷之後,南蠻北狄,交肆其橫。單說北狄主名曰瞍瞞,控弦數萬,常有迭蕩中原之意。及聞齊伐山戎,瞍瞞怒曰:「齊兵遠伐,必有輕我之心,當先發制之。」乃驅胡騎二萬伐邢,殘破其國。聞齊謀救邢,遂移兵向衛。時衛懿公正欲載鶴出遊,諜報:「狄人入寇。」懿公大驚,即時歛兵授甲,為戰守計。百姓皆逃避村野,不肯即戎。懿公使司徒拘執之。須臾,擒百餘人來,問其逃避之故。眾人曰:「君用一物,足以禦狄,安用我等?」懿公問:「何物?」眾人曰:「鶴。」懿公曰:「鶴何能禦狄耶?」眾人曰:「鶴既不能戰,是無用之物,君敝有用以養無用,百姓所以不服也!」懿公曰:「寡人知罪矣!願散鶴以從民可乎?」石祁子曰:「君亟行之,猶恐其晚也。」懿公果使人縱鶴,鶴素受豢養,盤旋故處,終不肯去。石寧二大夫,親往街市,述衛侯悔過之意,百姓始稍稍復集。狄兵已殺至滎澤,頃刻三報。石祁子奏曰:「狄兵驍勇,不可輕敵,臣請求救於齊。」懿公曰:「齊昔日奉命來伐,雖然退兵,我國並未修聘謝,安肯相救?不如一戰,以決存亡!」寧速曰:「臣請率師禦狄,君居守。」懿公曰:「孤不親行,恐人不用心。」乃與石祁子玉玦,使代理國政,曰:「卿決斷如此玦矣!」與寧速矢,使專力守禦。又曰:「國中之事,全委二卿。寡人不勝狄,不能歸也!」石寧二大夫皆垂淚。懿公吩咐已畢,乃大集車徒。使大夫渠孔為將,于伯副之,黃夷為先鋒,孔嬰齊為後隊。一路軍人口出怨言,懿公夜往察之。軍中歌曰: 鶴食祿,民力耕;鶴乘軒,民操兵。狄鋒厲兮不可攖,欲戰兮九死而一生!鶴今何在兮?而我瞿瞿為此行! 懿公聞歌,悶悶不已。大夫渠孔用法太嚴,人心益離。行近滎澤,見敵軍千餘,左右分馳,全無行次。渠孔曰:「人言狄勇,虛名耳!」即命鼓行而進。狄人詐敗,引入伏中,一時呼哨而起,如天崩地塌,將衛兵截做三處,你我不能相顧。衛兵原無心交戰,見敵勢兇猛,盡棄車仗而逃。懿公被狄兵圍之數重。渠孔曰:「事急矣!請偃大旆,君微服下車,尚可脫也。」懿公嘆曰:「二三子苟能相救,以旆為識。不然,去旆無益也。孤寧一死,以謝百姓耳!」須臾,衛兵前後隊俱敗,黃夷戰死,孔嬰齊自刎而亡。狄軍圍益厚。于伯中箭墜車,懿公與渠孔先後被害,被狄人砍為肉泥,全軍俱沒。髯翁有詩云: 曾聞古訓戒禽荒,一鶴誰知便喪邦。滎澤當時遍燐火,可能騎鶴返仙鄉? 狄人囚衛太史華龍滑禮孔,欲殺之。華禮二人知胡俗信鬼,給之曰:「我太史也,實掌國之祭祀,我先往為汝白神。不然,鬼神不汝佑,國不可得也。」瞍瞞信其言,遂縱之登車。寧速方戎服巡城,望見單車馳到,認是二太史,大驚,問:「主公何在?」曰:「已全軍覆沒矣!狄師強盛,不可坐待滅亡,宜且避其鋒。」寧速欲開門納之,禮孔曰:「與君俱出,不與君俱入,人臣之義謂何?吾將事吾君於地下!」遂拔劍自刎。華龍滑曰:「不可失史氏之籍。」乃入城。寧速與石祁子商議,引著衛侯宮眷及公子申,乘夜乘小車出城東走。華龍滑抱典籍從之。國人聞二大夫已行,各各攜男抱女,隨後逃命,哭聲震天。狄兵乘勝長驅,直入衛城。百姓奔走落後者,盡被殺戮。又分兵追逐。石祁子保宮眷先行,寧速斷後,且戰且走。從行之民,半罹狄刃。將及黃河,喜得宋桓公遣兵來迎,備下船隻,星夜渡河。狄兵方纔退去,將衛國府庫,及民間存留金粟之類,劫掠一空,墮其城郭,滿載而歸。不在話下。 卻說衛大夫弘演,先奉使聘陳,比及反役,衛已破滅。聞衛侯死於滎澤,往覓其屍。一路看見骸骨暴露,血肉狼藉,不勝傷感。行至一處,見大旆倒於荒澤之旁,弘演曰:「旆在此,屍當不遠矣。」未數步,聞呻吟之聲,前往察之,見一小內侍折臂而臥。弘演問曰:「汝認得主公死處否?」內侍指一堆血肉曰:「此即主公之屍也。吾親見主公被殺。為臂傷疼痛,不能行走,故臥守於此,欲俟國人來而示之。」弘演視其屍體,俱已零落不全,惟一肝完好。弘演對之再拜,大哭,乃復命於肝前,如生時之禮。事畢,弘演曰:「主公無人收葬,吾將以身為棺耳!」囑從人曰:「我死後,埋我於林下。俟有新君,方可告之。」遂拔佩刀自剖其腹,手取懿公之肝,納於腹中,須臾而絕。從者如言埋掩,因以車載小內侍渡河,察聽新君消息。 卻說石祁子先扶公子申登舟。寧速收拾遺民,隨後趕上。至於漕邑,點查男女,纔存得七百有二十人。狄人殺戮之多,豈不悲哉!二大夫相議:「國不可一日無君,其奈遺民太少!」乃於共滕二邑,十抽其三,共得四千有餘人,連遺民湊成五千之數,即於漕邑創立廬舍,扶立公子申為君,是為戴公。宋桓公御說許桓公新臣,各遣人致唁。戴公先已有疾,立數日遂薨。寧速如齊,迎公子燬嗣位。齊桓公曰:「公子歸自敝邑,將守宗廟,若器用不具,皆寡人之過也。」乃遺以良馬一乘,祭服五稱,牛、羊、豕、雞、狗各三百隻。又以魚軒贈其夫人,兼美錦三十端。命公子無虧帥車三百乘送之。並致門材,使立門戶。公子燬至漕邑,弘演之從人,同折臂小內侍俱到,備述納肝之事。公子燬先遣使具棺,往滎澤收殮。一面為懿公戴公發喪。追封弘演,錄用其子,以旌其忠。諸侯重齊桓公之義,多有弔賻。時周惠王十八年冬十二月也。 其明年,春正月,衛侯燬改元,是為文公。纔有車三十乘,寄居民間,甚是荒涼。文公布衣帛冠,蔬食菜羹,早起夜息,撫安百姓,人稱其賢。公子無虧辭歸齊國,留甲士三千人,協戍漕邑,以防狄患。無虧回見桓公,言衛燬草創之狀,並述弘演納肝之事。桓公嘆曰:「無道之君,亦有忠臣如此者乎?其國正未艾也。」管仲進曰:「今留戍勞民,不如擇地築城,一勞永逸。」桓公以為然,正欲糾合諸侯同役。忽邢國遣人告急,言:「狄兵又到本國,勢不能支,伏望救援!」恆公問管仲曰:「邢可救乎?」管仲對曰:「諸侯所以事齊,謂齊能拯其災患也。不能救衛,又不救邢,霸業隕矣!」桓公曰:「然則邢衛之急孰先?」管仲對曰:「俟邢患既平,因而城衛,此百世之功也。」桓公曰:「善。」即傳檄宋、魯、曹、邾各國,合兵救邢,俱於聶北取齊。宋曹二國兵先到。管仲又曰:「狄寇方張,邢力未竭,敵方張之寇,其勞倍,助未竭之力,其功少,不如待之。邢不支狄,必潰,狄勝邢,必疲。驅疲狄而援潰邢,所謂力省而功多者也。」桓公用其謀,託言待魯邾兵到,乃屯兵於聶北,遣諜打探邢狄攻守消息。史臣有詩譏管仲不早救邢衛,乃霸者養亂為功之謀也。詩云: 救患如同解倒懸,提兵那可復遷延?從來霸事遜正事,功利偏居道義先。 話說三國駐兵聶北,約及兩月。狄兵攻邢,晝夜不息。邢人力竭,潰圍而出。諜報方到,邢國男女,填湧而來,俱投奔齊營求救。內一人哭倒在地,乃邢侯叔顏也。桓公扶起,慰之曰:「寡人相援不早,以致如此,罪在寡人。當請宋公曹伯共議,驅逐狄人。」即日拔寨都起。狄主瞍瞞擄掠滿欲,無心戀戰,聞三國大兵將至,放起一把火,望北飛馳而去。比及各國兵到,只見一派火光,狄人已遁。桓公傳令將火撲滅,問叔顏:「故城尚可居否?」叔顏曰:「百姓逃難者,大半在夷儀地方,願遷夷儀,以從民欲。」桓公乃命三國各具版築,築夷儀城,使叔顏居之。更為建立朝廟,添設廬舍,牛馬粟帛之類,皆從齊國運至,充牣其中。邢國君臣,如歸故國,懽祝之聲徹耳。事畢,宋曹欲辭齊歸國。桓公曰:「衛國未定,城邢而不城衛,衛其謂我何?」諸侯曰:「惟霸君命。」桓公傳令,移兵向衛,凡畚鍤之屬,盡攜帶隨身。衛文公燬遠遠相接。桓公見其大布為衣,大帛為冠,不改喪服,惻然久之。乃曰:「寡人藉諸君之力,欲為君定都,未審何地為吉?」文公燬曰:「孤已卜得吉地,在於楚邱,但版築之費,非亡國所能辦耳!」桓公曰:「此事寡人力任之。」即日傳令三國之兵,俱往楚邱興工。復運門材,重立朝廟,謂之「封衛」。衛文公感齊再造之恩,為《木瓜》之詩以詠之。詩云: 投我以木瓜兮,報之以瓊琚。投我以木桃兮,報之以瓊瑤。投我以木李兮,報之以瓊玖。 當時稱桓公存三亡國:謂立僖公以存魯,城夷儀以存邢,城楚邱以存衛,有此三大功勞,此所以為五霸之首也。潛淵先生讀史詩云: 周室東遷綱紀摧,桓公糾合振傾頹。興滅繼絕存三國,大義堂堂五霸魁。 時楚成王熊惲,任用令尹子文圖治,修明國政,有志爭霸。聞齊侯救邢存衛,頌聲傳至荊襄,楚成王心甚不樂,謂子文曰:「齊侯布德沽名,人心歸向。寡人伏處漢東,德不足以懷人,威不足以懾眾,當今之時,有齊無楚,寡人恥之!」子文對曰:「齊侯經營伯業,於今幾三十年矣。彼以尊王為名,諸侯樂附,未可敵也。鄭居南北之間,為中原屏蔽,王若欲圖中原,非得鄭不可。」成王曰:「誰能為寡人任伐鄭之事者?」大夫鬭章願往,成王與車二百乘,長驅至鄭。 卻說鄭自純門受師以後,日夜隄防楚兵。探知楚國興師,鄭伯大懼,即遣大夫聃伯,率師把守純門,使人星夜告急於齊。齊侯傳檄,大合諸侯於檉,將謀救鄭。鬭章知鄭有準備,又聞齊救將至,恐其失利,至界而返。楚成王大怒,解佩劍賜鬭廉,使即軍中斬鬭章之首。鬭廉乃鬭章之兄也。既至軍中,且隱下楚王之命,密與鬭章商議:「欲免國法,必須立功,方可自贖。」鬭章跪而請教。鬭廉曰:「鄭知退兵,謂汝必不驟來,若疾走襲之,可得志也。」鬭章分軍為二隊,自率前隊先行,鬭廉率後隊接應。卻說鬭章銜枚臥鼓,悄地侵入鄭界,恰遇聃伯在界上點閱車馬。聃伯聞有寇兵,正不知何國,慌忙點兵,在界上迎住廝殺。不期鬭廉後隊已到,反抄出鄭師之後,腹背夾攻。聃伯力不能支,被鬭章只一鐵簡打倒,雙手拿來。鬭廉乘勝掩殺,鄭兵折其大半。鬭章將聃伯上了囚車,便欲長驅入鄭。鬭廉曰:「此番掩襲成功,且圖免死,敢僥幸從事耶?」乃即日班師。鬭章歸見楚成王,叩首請罪,奏曰:「臣回軍是誘敵之計,非怯戰也。」成王曰:「既有擒將之功,權許準罪。但鄭國未服,如何撤兵?」鬭廉曰:「恐兵少不能成功,懼褻國威。」成王怒曰:「汝以兵少為辭,明是怯敵。今添兵車二百乘,汝可再往,若不得鄭成,休見寡人之面!」鬭廉奏曰:「臣願兄弟同往。若鄭不投降,當縛鄭伯以獻。」成王壯其言,許之。乃拜鬭廉為大將,鬭章副之,共率車四百乘,重望鄭國殺來。史臣有詩云: 荊襄自帝勢炎炎,蠶食多邦志未厭。溱洧何辜三受伐?解懸只把霸君瞻。 且說鄭伯聞聃伯被囚,復遣人如齊請救。管仲進曰:「君數年以來,救燕存魯,城邢封衛,恩德加於百姓,大義布於諸侯,若欲用諸侯之兵,此其時矣。君若救鄭,不如伐楚,伐楚必須大合諸侯。」桓公曰:「大合諸侯,楚必為備,可必勝乎?」管仲曰:「蔡人得罪於君,君欲討之久矣。楚蔡接壤,誠以討蔡為名,因而及楚,《兵法》所謂『出其不意』者也。」(先時,蔡穆公以其妹嫁桓公為第三夫人,一日,桓公與蔡姬共登小舟,遊於池上,採蓮為樂。蔡姬戲以水灑公,公止之。姬知公畏水,故蕩其舟,水濺公衣。公大怒曰:「婢子不能事君!」乃遣豎貂送蔡姬歸國。蔡穆公亦怒曰:「已嫁而歸,是絕之也。」竟將其妹更嫁於楚國,為楚成王夫人。桓公深恨蔡侯,故管仲言及之。)桓公曰:「江黃二國,不堪楚暴,遣使納款,寡人欲與會盟,伐楚之日,約為內應,何如?」管仲曰:「江黃遠齊而近楚,一向服楚,所以僅存。今背而從齊,楚人必怒,怒必加討。當此時,我欲救,則阻道路之遙;不救,則乖同盟之義。況中國諸侯,五合六聚,儘可成功,何必借助蕞爾?不如以好言辭之。」桓公曰:「遠國慕義而來,辭之將失人心。」管仲曰:「君但識吾言於壁,異日勿忘江黃之急也。」桓公遂與江黃二君盟會,密訂伐楚之約,以明年春正月為期。二君言:「舒人助楚為虐,天下稱為『荊舒』,不可不討。」桓公曰:「寡人當先取舒國,以剪楚翼。」乃密寫一書,付於徐子。徐與舒近,徐嬴嫁為齊桓公第二夫人,有婚姻之好,一向歸附於齊,故桓公以舒事囑之。徐果引兵襲取舒國。桓公即命徐子屯兵舒城,以備緩急。江黃二君,各守本界,以候調遣。魯僖公遣季友至齊謝罪,稱:「有邾莒之隙,不得共邢衛之役。今聞會盟江黃,特來申好,嗣有征伐,願執鞭前驅。」桓公大喜,亦以伐楚之事,密與訂約。 時楚兵再至鄭國,鄭文公請成,以紓民禍。大夫孔叔曰:「不可,齊方有事於楚,以我故也。人有德於我,棄之不祥,宜堅壁以待之。」於是再遣使如齊告急。桓公授之以計,使揚言齊救即至,以緩楚。至期,或君或臣,率一軍出虎牢,於上蔡取齊,等候協力攻楚。於是遍約宋、魯、陳、衛、曹、許之君,俱要如期起兵,名為討蔡,實為伐楚。 明年,為周惠王之十三年,春正月元旦,齊桓公朝賀已畢,便議討蔡一事。命管仲為大將,率領隰朋、賓須無、鮑叔牙、公子開方、豎人貂等,出車三百乘,甲士萬人,分隊進發。太史奏:「七日出軍上吉。」豎貂請先率一軍,潛行掠蔡,就會集各國車馬。桓公許之。蔡人恃楚,全不設備直待齊兵到時,方纔歛兵設守。豎貂在城下耀武揚威,喝令攻城,至夜方退。蔡穆公認得是豎貂,先年在齊宮曾伏侍蔡姬,受其恩惠,蔡姬退回,又是他送去的,曉得是宵小之輩。乃於夜深,使人密送金帛一車,求其緩兵。豎貂受了,遂私將齊侯糾合七路諸侯,先侵蔡,後伐楚,一段軍機,備細洩漏於蔡:「不日各國軍到,將蔡城蹂為平地,不如及早逃遁為上。」使者回報,蔡侯大驚。當夜率領宮眷,開門出奔楚國。百姓無主,即時潰散,豎貂自以為功,飛報齊侯去訖。 卻說蔡侯至楚,見了成王,備述豎貂之語。成王方省齊謀,傳令簡閱兵車,准備戰守,一面撤回鬭章伐鄭之兵。數日後,齊侯兵至上蔡。豎貂謁見已畢。七路諸侯陸續俱到,一個個躬率車徒,前來助戰,軍威甚壯。那七路:宋桓公御說,魯僖公申,陳宣公杵臼,衛文公燬,鄭文公捷,曹昭公班,許穆公新臣。連主伯齊桓公小白,共是八位。內許穆公抱病,力疾率師先到蔡地。桓公嘉其勞,使序於曹伯之上。是夜,許穆公薨。齊侯留蔡三日,為之發喪。命許國以侯禮葬之。七國之師,望南而進,直達楚界。只見界上,早有一人衣冠整肅,停車道左,磬折而言曰:「來者可是齊侯?可傳言楚國使臣奉候久矣。」那人姓屈名完,乃楚之公族,官拜大夫。今奉楚王之命為行人,使於齊師。桓公曰:「楚人何以預知吾軍之至也?」管仲曰:「此必有人漏洩消息。既彼遣使,必有所陳。臣當以大義責之,使彼自愧屈,可不戰而降矣。」管仲亦乘車而出,與屈完車上拱手。屈完開言曰:「寡君聞上國車徒,辱於敝邑,使下臣完致命。寡君命使臣辭曰:『齊楚各君其國。齊居於北海,楚近於南海,雖風馬牛不相及也。不知君何以涉於吾地?』敢請其故?」管仲對曰:「昔周成王封吾先君太公於齊,使召康公賜之命,辭曰:『五侯九伯,汝世掌征伐,以夾輔周室。其地東至海,西至河,南至穆陵,北至無棣,凡有不共王職,汝勿赦宥。』自周室東遷,諸侯放恣,寡君奉命主盟,修復先業。爾楚國於南荊,當歲貢包茅,以助王祭。自爾缺貢,無以縮酒,寡人是徵。且昭王南征而不返,亦爾故也。爾其何辭?」屈完對曰:「周失其綱,朝貢廢缺,天下皆然,豈惟南荊?雖然,包茅不入,寡君知罪矣。敢不共給,以承君命!若夫昭王不返,惟膠舟之故,君其問諸水濱,寡君不敢任咎。完將復於寡君。」言畢,麾車而退。管仲告桓公曰:「楚人倔強,未可以口舌屈也,宜進逼之。」乃傳令八軍同發,直至陘山。離漢水不遠,管仲下令:「就此屯札,不可前行!」諸侯皆曰:「兵已深入,何不濟漢,決一死戰,而逗留於此?」管仲曰:「楚既遣使,必然有備,兵鋒一交,不可復解。今吾頓兵此地,遙張其勢,楚懼吾之眾,將復遣使,吾因取成焉。以討楚出,以服楚歸,不亦可乎?」諸侯猶未深信,議論紛紛不一。 卻說楚成王已拜鬭子文為大將,蒐甲厲兵,屯於漢南,只等諸侯濟漢,便來邀擊。諜報:「八國之兵,屯駐陘地。」子文進曰:「管仲知兵,不萬全不發。今以八國之眾,逗留不進,是必有謀。當遣使再往,探其強弱,察其意向,或戰或和,決計未晚。」成王曰:「此番何人可使?」子文曰:「屈完既與夷吾識面,宜再遣之。」屈完奏曰:「缺貢包茅,臣前承其咎矣。君若請盟,臣當勉行,以解兩國之紛。若欲請戰,別遣能者。」成王曰:「戰盟任卿自裁,寡人不汝制也。」屈完乃再至齊軍。畢竟齊楚如何,且看下回分解。
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