東周列國志第三十回 秦と晋、竜門山で大いに戦う/穆姫、台に登って大赦を求める (秦晉大戰龍門山 穆姬登臺要大赦)

管仲の死

  • さて管仲は病床にあって、桓公に易牙・豎刁・開方の三人を遠ざけるよう諭し、隰朋を政に推挙した。左右にこの話を聞いた者がいて、易牙に告げた。易牙は鮑叔牙に会って言った。「仲父の宰相の地位は、あなたが推挙されたものです。今、仲が病んで、君がお見舞いに行かれたところ、あなたを政に用いてはならないと言い、隰朋を推薦したそうです、私はたいへん不満に思います。」鮑叔牙は笑って言った。「それこそが牙が仲を推挙した理由なのだ。仲は国のために忠を尽くし、友人を私しない。もし牙に司寇(刑罰を司る官)をさせて、佞人を追放させるなら、それには十分な力がある。しかし国政を執らせれば、そなたたちはどこに身を置けるだろうか。」易牙は大いに恥じ入って退いた。一日おいて、桓公は再び仲を見舞ったが、仲はすでに口を利けなかった。鮑叔牙・隰朋はみな涙を流した。その夜、仲は亡くなった。桓公は激しく泣いて言った。「痛ましいことだ、仲父よ。これは天が私の腕を折ったようなものだ。」上卿の高虎に喪の取り仕切りを命じ、葬儀を手厚く行った。生前の采邑(領地)はすべてその子に与え、代々大夫とさせた。易牙は大夫伯氏に言った。「昔、君はそなたの駢邑三百を奪って、仲の功に賞として与えられた。今、仲父はすでに亡くなった、なぜ君に申し上げてその邑を取り戻さないのか。私が傍らから助けよう。」伯氏は泣いて言った。「私はもとより功がなかった、それゆえ邑を失ったのだ。仲は死んでも、仲の功績は今もなお存在する。私にどんな面目があって君に邑を求められようか。」易牙は嘆じて「仲は死してもなお伯氏を心服させている、我々こそまことにつまらぬ人間だ」と言った。

鮑叔牙、政を執る

  • さて桓公は管仲の遺言を思い、公孫隰朋を政に用いた。しかし一月も経たぬうちに、隰朋も病で亡くなった。桓公は「仲父はまことに聖人であったか。どうして朋の用いられる期間が長くないと知っていたのか」と言った。そこで鮑叔牙に朋の地位を継がせた。牙は固く辞退したが、桓公は「今、朝廷中に卿より優れた者はいない、卿は誰にこれを譲ろうというのか」と言った。牙は答えた。「臣が善を好み悪を憎むことは、君のご存じのとおりです。君がどうしても臣を用いようとされるなら、どうか易牙・豎刁・開方を遠ざけていただきたい、そうすればあえて命を承りましょう。」桓公は「仲父もまことにそう言っていた、寡人がどうしてそなたに従わないことがあろうか」と言い、その日のうちに三人を退け、朝廷に入って会うことを許さなかった。鮑叔牙はそこで政務を受けた。時に淮夷が杞国を侵犯し、杞の人々は斉に急を告げた。斉の桓公は宋・魯・陳・衛・鄭・許・曹の七国の君主を集め、自ら救援に赴き、杞の都を縁陵に移した。諸侯はなお斉の命令に従っていた、それは鮑叔をよく用いて、管仲の政を改めなかったからである。

秦、飢饉の晋に穀物を送る

  • 話は二つに分かれる。さて晋は恵公が即位して以来、何年も麦や穀物の実りが悪く、五年目にはさらに大飢饉となった。倉庫は空になり、民間は食糧が尽き、恵公は他国から穀物を借りようとした。考えるに、秦こそ隣国であり地も近く、しかも婚姻の国であるが、以前の約束を果たしていない負い目があり、口を開きにくかった。郤芮が進み出て言った。「私たちは秦との約束に背いたわけではありません、ただその期限を延ばすと告げただけです。もし穀物を求めて秦が与えなければ、秦が先にこちらとの関係を絶ったことになります、私たちが約束を破っても、それには理由があることになります。」恵公は「そなたの言葉はもっともだ」と言った。そこで大夫の慶鄭に宝玉を持たせて秦へ穀物を求めさせた。穆公は群臣を集めて協議した。「晋は五城を約束しながら与えていない、今、飢饉によって穀物を求めてきたが、与えるべきだろうか。」蹇叔と百里奚は声をそろえて答えた。「天災はどの国にも及ぶもの、災いを救い隣国を助けるのは、道理の常です。道理に従って行えば、天は必ず我らに福をもたらします。」穆公は「私が晋に施した恩はすでに重い」と言った。公孫枝は答えた。「もし重ねて施して報いを得られれば、秦に何の損がありましょうか。もし報いがなければ、非は先方にあります。民がその上の者を憎めば、誰が我らと敵対しましょうか。君は必ず与えるべきです。」丕豹は仇への思いから、腕まくりして言った。「晋侯は無道です、天が災いを下したのです。この飢饉に乗じて討伐すれば、晋を滅ぼすことができます、この機を逃してはなりません。」繇余は言った。「『仁ある者は危機に乗じて利益を求めない、智ある者は僥倖によって成功を成そうとしない』と申します。与えるのが適切です。」穆公は言った。「私に背いたのは晋君だ。飢えているのは晋の民だ。私は君のせいで民に禍を移すことは忍びない。」そこで数万斛の穀物を渭水に運び、河・汾・雍・絳の間まで直通させ、船が次々と連なり、これを「泛舟の役」と名づけ、晋の飢饉を救った。晋人はみな感激し喜んだ。史官が穆公の善行を称える詩がある。(詩:晋君の無道が天災を招いたのに、雍から絳まで穀物を惜しみなく送り届けた、恨みに対して恩をもって報いる者が誰にいようか、穆公の徳と器量はまことに奇特であると詠む)

立場逆転、晋の穀物拒否

  • 翌年の冬、秦国は不作となり、晋はかえって大豊作となった。穆公は蹇叔・百里奚に言った。「寡人は今日になって二卿の言葉を思い返した、豊作と凶作は互いに入れ替わるものだ。もし寡人が去年の冬、晋への穀物提供を拒んでいたら、今日の飢饉に晋に穀物を求めることも難しかっただろう。」丕豹は「晋君は貪欲で信義がありません、たとえ求めても、必ず与えないでしょう」と言った。穆公はこれをそうとは思わなかった。そこで冷至にもまた宝玉を持たせて、晋へ穀物を求めに行かせた。恵公は河西の穀物を放出して秦の求めに応じようとした。郤芮が進み出て言った。「君は秦に穀物を与えれば、また秦に地も与えることになるのではありませんか。」恵公は「寡人はただ穀物を与えるだけだ、どうして地まで与えようか」と言った。芮は「君が穀物を与えるのは何のためですか」と尋ねた。恵公は「あの『泛舟の役』の恩に報いるためだ」と言った。芮は言った。「もし泛舟を秦の徳とするなら、昔君を国に納れてくれた徳のほうがさらに大きいものです。君はその大きな恩を捨てて、小さな恩に報いようとされるのですか。」慶鄭は言った。「私は去年、秦へ穀物を求める使いをいたしましたが、秦君は一言も否とせず承諾されました、その心はまことに美しいものでした。今それなのに穀物の提供を拒めば、秦は私たちを恨むでしょう。」呂飴甥は言った。「秦が晋に穀物を与えたのは、晋を好んでのことではなく、地を求めてのことです。穀物を与えずに秦が恨むのも、穀物を与えて地を与えないのも、秦が恨むのは同じです、どちらにしても恨まれるなら、なぜ与える必要がありましょう。」慶鄭は言った。「人の災いを幸いとするのは不仁です。人の施しに背くのは不義です。不義不仁で、どうして国を守れましょうか。」韓簡は言った。「鄭(慶鄭)の言葉はもっともだ。もし去年、秦が我らへの穀物の提供を拒んでいたら、君のお気持ちはどうであったろうか。」虢射は言った。「去年は天が晋を飢えさせて晋を秦に授けたのに、秦はそれを取ることを知らず、かえって我らに穀物を施し与えた、それはたいへん愚かなことでした。今年は天が秦を飢えさせて秦を晋に授けているのに、晋がどうして天に逆らって取らずにいられましょうか。私の愚見では、梁伯と約束を交わし、この機に乗じて秦を討伐し、共にその地を分け取るのが上策と存じます。」恵公は虢射の言葉に従った。そこで冷至に断りを告げて言った。「わが国は何年も飢饉が続き、民は流浪しております、今年の冬はやや実りが良くなり、流浪していた者も次第に故郷に戻りましたが、ようやく自給できる程度で、他国を助ける余裕はございません。」冷至は言った。「わが君は婚姻の誼を思い、地を求めず、穀物の提供も拒まず、まことに『同じ患いにあるときは互いに助け合うものだ』とおっしゃいました。わが君は君の急を救ったのに、君に報いていただけないとは、下臣として復命に窮します。」呂飴甥・郤芮は大声で言った。「そなたは以前、丕鄭父と共謀して、重い賄賂で我らを誘おうとしたが、幸い天がその奸謀を破り、我らはその計にはまらなかった。今度もまた口先だけで何を言うのか。帰ってそなたの君主(秦の穆公)に伝えるがよい、晋の穀物を食べたければ、兵を用いて取るしかない、と。」冷至は憤懣を抱いて退いた。慶鄭は朝廷を出て、太史の郭偃に「晋侯は徳に背いて隣国を怒らせている、禍いはたちどころに至るだろう」と言った。郭偃は「今秋、沙鹿山が崩れ、草木がみな倒れ伏した。そもそも山川はその国の主たるものだ、晋には亡国の禍いがあろうとしているのではないか、それがまさにこれではないか」と言った。史臣が晋の恵公を諷刺する詩がある。(詩:泛舟の役で遠く飢えを救ってくれたのに、たまたま秦が飢えると態度を一変させた、昔から恩に背く人は少なくないが、晋の恵公が秦公に背いたことほどひどいものはない、と詠む)

秦の出兵と晋の応戦

  • 冷至は秦君に復命し、「晋は秦に穀物を与えないばかりか、かえって梁伯と結んで秦討伐の軍を起こそうとしている」と報告した。穆公は大いに怒って言った。「人の無道さがこれほどまでとは、思いもよらなかった。寡人はまず梁を破り、その後に晋を討とう。」百里奚は言った。「梁伯は土木事業を好み、国内の空き地にはことごとく城を築き家を建てながら、そこに住まわせる民がいません、民はみな怨んでおります、これは梁が晋を助けて多くの兵を動かせないことを明らかに示しています。晋君は無道とはいえ、呂・郤らはともに力を尽くして自ら任じています、もし絳州の軍勢を起こせば、必ず西の辺境を震撼させるでしょう。兵法に『先んずれば人を制す』とあります。今、君の賢明さと諸大夫の忠実な働きをもって、晋侯の徳に背いた罪を鳴らして討伐に赴けば、勝利は間違いございません。そのついでに余勢をもって梁の疲弊に乗じれば、枯葉を振るい落とすようなものでしょう。」穆公はこれをよしとした。そこで大いに三軍を起こし、蹇叔・繇余を残して太子罃を輔け国を守らせ、孟明視に軍を率いさせて国境を巡回し諸戎を鎮圧させた。穆公自ら百里奚とともに中軍を率い、西乞術・白乙丙が護衛につき、公孫枝が右軍を、公子縶が左軍を率い、合わせて戦車四百乗、堂々たる陣容で晋国へ攻め入った。
  • 晋の西の辺境が、恵公に急を告げた。恵公は群臣に「秦が理由もなく兵を起こして国境を犯している、どう防ぐべきか」と尋ねた。慶鄭が進み出て言った。「秦の兵はわが君が徳に背いたゆえに討伐に来たのです、どうして理由がないと言えましょう。私の愚見では、ただ罪を認めて和を請い、五城を割いて信義を全うし、干戈を交えることを避けるべきです。」恵公は大いに怒って言った。「堂々たる千乗の国でありながら、地を割いて和を求めては、寡人にどんな面目があって君主でいられようか。」そして命じた。「まず慶鄭を斬れ、その後で兵を出して迎え撃つ。」虢射は言った。「まだ兵を出していないのに、先に将を斬れば、軍にとって不利です。しばらく赦して従軍させ、功をもって罪を償わせるべきです。」恵公はこの奏上を認めた。その日、車馬を大いに閲兵し、六百乗を選んだ。郤歩揚・家僕徒・慶鄭・蛾晰にそれぞれ左右の軍を率いさせ、自らは虢射とともに中軍にあって指揮を執り、屠岸夷を先鋒とした。絳州を離れて西へ向けて進発した。晋侯の乗る馬は「小駟」といい、鄭国から献上されたものであった。その馬は体が小柄で、たてがみは艶があり、歩みは安定しており、恵公は日頃たいへんこの馬を愛していた。慶鄭はまた諫めて言った。「昔から出征という大事には、必ず本国産の馬に乗るものです。その馬は本土で生まれ、人の心を理解し、その調教に慣れ、道にも慣れているため、戦になれば人の意のままに動き、思いどおりにならないことがありません。今、君は大敵に臨みながら、異国産の馬に乗られる、うまくいかないのではと心配です。」恵公は叱って「これは私が乗り慣れた馬だ、そなたはあれこれ言うな」と言った。

龍門山の対陣、屠岸夷と白乙丙の一騎討ち

  • さて秦の軍はすでに黄河の東に渡り、三戦三勝、守将たちはみな逃げ散った。長駆して進み、まっすぐ韓原まで至って陣を張った。晋の恵公は秦の軍が韓に至ったと聞き、眉をひそめて「敵はすでに深く入り込んでいる、どうしたものか」と言った。慶鄭は「君が自らこれを招いたのです、今さら何を問われるのですか」と言った。恵公は「鄭は無礼だ、下がれ」と言った。晋の軍は韓原から十里離れたところに陣を張り、韓簡に秦兵の数を探らせた。簡は戻って「秦の軍勢はわが軍より少ないですが、その闘志は我らの十倍あります」と報告した。恵公は「なぜか」と尋ねた。簡は答えた。「君は始め秦が近いという理由で梁に奔り、次に秦の援助によって国を得、さらに秦の穀物の施しによって飢饉を免れました。三度も秦の恩を受けながら一度も報いておりません。秦の君臣は憤りを積もらせており、それゆえに討伐に来たのです、三軍はみな貸しを取り立てようという気持ちでおり、その気迫は鋭く、十倍どころではございません。」恵公は不機嫌に「これは慶鄭の言葉だろう、定伯(韓簡の字)もこう思うのか、寡人は秦と決死の戦いをするつもりだ」と言った。そこで韓簡に秦の軍へ挑戦を告げに行かせた。「寡人には甲車六百乗があり、君を迎え撃つのに十分だ。君がもし軍を退かれるなら、それが寡人の願いである。もし退かれないなら、寡人は君を避けたいところだが、この三軍の兵士たちをどうすればよいだろうか。」穆公は笑って「若造がなんと驕っていることか」と言った。そこで公孫枝に答えさせた。「君が国を望まれたので、寡人は君を国に入れて君位に即けた。君が穀物を望まれたので、寡人はこれを与えた。今、君が戦を望まれるなら、寡人がどうして命令に逆らえようか。」韓簡は退いて「秦の道理は正しい、私はどこで死ぬかわからない」と嘆いた。晋の恵公は郭偃に車右(戦車の右に乗る武人)を占わせたが、誰も吉と出る者がなく、ただ慶鄭だけが可であった。恵公は「鄭は秦に心を寄せている、どうして任せられようか」と言い、家僕徒を車右に改め、郤歩揚に車を御させて、韓原で秦の軍を迎え撃った。百里奚は塁に登り、晋の軍勢がたいへん多いのを望み見て、穆公に「晋侯は我らに死力を尽くしてくるでしょう、君は戦わないほうがよろしいでしょう」と言った。穆公は天を指さして「晋は私にひどく背いた、もし天道がなければそれまでだが、天に知るところがあるなら、私は必ず勝つ」と言い、そこで龍門山の麓に陣を整えて待った。
  • しばらくすると、晋の軍もまた陣立てを終え、両軍が対峙し、中軍がそれぞれ鼓を鳴らして進軍した。屠岸夷は勇に頼み、百斤どころではない重さの鉄づくりの槍を手に、まず真っ先に敵陣に突入し、出会う者を片端から刺し、秦の軍は総崩れとなった。ちょうど白乙丙と出くわし、両者は五十合あまり戦い、殺気立ってそれぞれ車を飛び降り、取っ組み合った。屠岸夷は「お前と死ぬまで戦うぞ、人の助けを借りるようでは、真の好漢とは言えぬ」と言った。白乙丙は「まさに一人でお前を捕らえてこそ、英雄というものだ」と言い、周りの者に「誰も来るな」と命じた。二人は拳や蹴りを浴びせ合いながら、陣の後ろまで組み合ったまま入り込んで行った。晋の恵公は屠岸夷が敵陣に突っ込んだのを見て、急いで韓簡・梁繇靡に左を突かせ、自らは家僕徒らを率いて右を突き、中軍で合流する約束をした。穆公は晋軍が二手に分かれて突入してくるのを見て、こちらも二手に分かれて迎え撃った。さて恵公の車は、ちょうど公孫枝に出会い、恵公は家僕徒に応戦させたが、公孫枝には万人にも敵う勇があり、家僕徒はとても敵わなかった。恵公は歩揚に「しっかり手綱を取れ、寡人自ら加勢する」と言った。公孫枝は戟を横たえて大声で「戦う者は一斉にかかって来い」と叫んだ。この一声は雷鳴のように響き渡り、国舅の虢射はすっかり怖じ気づいて車の中に伏せ、息もできないほどであった。あの小駟(恵公の愛馬)は実戦経験がなく、これにも驚いて、御者の言うことを聞かずに前へ向かって暴れ、そのまま泥濘に陥ってしまった。

恵公の被虜と穆公の危機

  • 歩揚は力いっぱい鞭を振るったが、馬が小さく力も弱いためどうしても足が抜けなかった。まさに危急のとき、ちょうど慶鄭の車が前を通りかかった。恵公は「鄭よ、早く私を助けてくれ」と呼んだ。慶鄭は「虢射はどこにいるのだ、それでなお私を呼ぶのか」と言った。恵公はさらに「鄭よ、早く車を寄せて寡人を乗せてくれ」と呼んだ。鄭は「君は小駟に安んじて乗っておられよ、私は他の者に報せて助けに来させよう」と言い、そのまま轅を左に転じて去った。歩揚は他の車を探し求めようとしたが、秦の兵に取り囲まれてしまい、脱出できなかった。さて韓簡の軍は突入して、ちょうど秦の穆公の中軍に出会い、秦の将西乞術と交戦し、三十合あまり、勝敗は決しなかった。蛾晰の軍もまた到着し、両側から挟み撃ちにすると、西乞術は敵わず、韓簡の戟に突かれて車から落ちた。梁繇靡は「敗れた将など役に立たない、力を合わせて秦君を捕らえよう」と大声で叫んだ。韓簡は西乞術を顧みず、晋の兵を率いて、まっすぐ穆公の戎輅(戦車)を目指して迫った。穆公は嘆いて「今日、私はかえって晋の捕虜となるのか、天道はどこにあるのか」と言った。嘆くやいなや、ちょうど正西の方角から、勇士約三百人あまりの一隊が、「わが恩人を傷つけるな」と叫びながら現れた。穆公が頭を上げて見ると、その三百人あまりは、髪を振り乱し肩をあらわにし、草鞋を履き、飛ぶように歩き、手にはみな大砍刀を持ち、腰には弓矢を帯び、まるで魔王配下の鬼兵のようであった。行く先々で晋の兵を切り倒していった。韓簡と梁繇靡は慌てて応戦した。またそこへ一人が北から車を飛ばして到着した、慶鄭であった。大声で叫んだ。「戦いに執着するな、主君はすでに秦の兵に龍門山の泥濘の中で囲まれている、急いで助けに行け。」韓簡らは戦う気力を失い、その勇士の一隊を捨てて、まっすぐ龍門山へ君主を助けに向かった。しかし晋の恵公はすでに公孫枝に捕らえられており、家僕徒・虢射・歩揚らも一斉に縛られ、すでに秦の本陣に連れて行かれた後だった。韓簡は足を踏み鳴らして「秦君を捕らえていればなお相殺できたものを、慶鄭が私を誤らせた」と言った。梁繇靡は「君はすでに捕らえられた、我らはどこに帰るというのか」と言い、韓簡とともにそれぞれ武器を捨てて、秦の陣営に投降し、恵公と一緒になった。さてあの三百人あまりの勇士たちは、秦の穆公を救い、さらに西乞術も救った。秦の兵は勝ちに乗じて攻め立て、晋の兵は大いに崩れた。龍門山の麓には屍が山のように積み重なり、六百乗のうち脱出できた者は、十分の二、三ほどにすぎなかった。慶鄭は晋君が捕らえられたと聞き、秦の軍から逃れ出て、傷を負って倒れている蛾晰に出会い、これを助けて車に乗せ、共に晋国へ帰った。髯翁(作者の別号)に、韓原の戦いを詠んだ詩がある。(詩:龍門山の麓に多くの屍が横たわったことを嘆く、それはひとえに暗君が恩に報いなかったためである、善悪二つの家の勝敗が分かれた、まさに天道が見通していることを示すと詠む)

岐山の野人、穆公の恩に報いる

  • さて秦の穆公は本陣に戻り、百里奚に言った。「井伯(百里奚)の言葉を聞かなかったばかりに、危うく晋に笑われるところであった。」あの三百人あまりの勇士たちは、一斉に陣営の前に来て叩頭した。穆公は「そなたたちは何者だ、なぜ寡人のために死力を尽くしてくれたのか」と尋ねた。勇士たちは答えた。「主君は昔、良馬を失われたことをお忘れではありませんか、私どもはみなその馬肉を食べた者です。」もともと穆公はかつて梁山に狩りに出て、夜に良馬数匹を失い、役人に探させたことがあった。岐山の麓まで探し求めると、野人三百人あまりが群がってその馬肉を食べていた。役人はあえて驚かせず、穆公に急いで報告し「急ぎ兵を遣わして捕らえれば、みな捕らえられます」と言った。穆公は嘆いて「馬はもう死んでしまった、それなのにさらに人を殺せば、民は寡人が家畜を貴んで人を賤しんでいると言うだろう」と言った。そこで軍中の美酒数十甕を取り寄せ、人をやって岐山の麓へ届けさせ、君命を伝えて賜って言った。「わが君の仰せです、『良馬の肉を食べても、酒を飲まなければ人を傷つける』とのことです。今、美酒を賜ります。」野人たちは頭を下げて恩を謝し、酒を分けて飲み、みな嘆じて言った。「馬を盗んでも罪に問わず、さらに我らが体を傷めることまで心配して、美酒を賜るとは、主君の恩はまことに大きい、どう報いたらよいだろうか。」そして今、穆公が晋を討伐すると聞き、三百人あまりが、命をなげうって韓原に駆けつけ、参戦した。ちょうど穆公が包囲されたところに出くわし、一斉に奮い立って救い出したのであった。まことにこう言えよう。(詩:瓜を植えれば瓜が実り、豆を植えれば豆が実る、薄い施しには薄い報い、厚い施しには厚い報いがある、施して報いがなければ、それは禽獣と何ら変わらない、と詠む)穆公は天を仰いで嘆じた。「野人でさえ恩に報いる義がある、晋侯は一体何者なのか。」そこで人々に「仕官を望む者があれば、寡人は爵禄を与えよう」と尋ねた。勇士たちはそろって答えた。「私ども野人は、ただ恩人の一時のご恩に報いただけです、仕官は望みません。」穆公はそれぞれに金と絹を贈ったが、野人たちは受け取らずに去った。穆公は感嘆してやまなかった。後世の人に詩がある。(詩:韓原山下で両軍が交戦し、晋の重装の兵が穆公を囲み込んだ、あの日もし牧馬の士(野人たち)を誅殺していたら、今日どうして囚われの身から脱出できただろうか、と詠む)

白乙丙と屠岸夷の決着

  • 穆公が将校を点検すると、誰も欠けていなかったが、ただ白乙丙一人だけが見当たらなかった。兵士に方々を探させると、土穴の中からうめき声が聞こえた。急いで見に行くと、白乙丙が屠岸夷と組み合ったまま穴の中に転がり込んでおり、二人とも力尽き息絶え絶えながら、なおも組み付いたまま手を離さずにいた。兵士が二人を引き離し、それぞれ車に乗せて本陣へ運んだ。穆公が白乙丙に尋ねたが、すでに口が利けなかった。二人が命がけで戦った様子を目撃していた者がおり、進み出て事の次第をそのまま奏上した。穆公は「二人とも好漢だ」と嘆じた。左右の者に「晋の将の姓名を知る者はいるか」と尋ねた。公子縶は車に近寄って車中を覗き込み、奏上した。「これは勇士の屠岸夷でございます。臣は以前、晋の二公子(重耳・夷吾)を弔問した際、夷もまた本国の大臣の命で(重耳を)迎えに来ており、旅先で出会って知り合いました。」穆公は「この者は秦のために留めて用いられようか」と尋ねた。公子縶は言った。「卓子を弑し、里克を殺したのも、すべてこの者の手によるものです。今こそまさに天に従って誅罰を行うべきです。」穆公はそこで屠岸夷を斬首するよう命じた。自ら錦の袍を脱いで白乙丙に掛け、百里奚に命じて輼車(横たわったまま乗れる臥車)で先に秦国へ運ばせ、治療を受けさせた。丙は薬を服用し、数斗もの血を吐き、半年後にようやく回復した。これは後の話である。

晋侯の連行と処遇の議論

  • さて穆公は大勝を収め、陣を引き払って出発し、人をやって晋侯に伝えさせた。「君は寡人を避けようとされなかった、ならば寡人も今、君を避けることはしない、願わくは、わが国に至って罪を請われよ。」恵公はうなだれて言葉もなかった。穆公は公孫枝に戦車百乗を率いさせ、晋君を護送させて秦へ向かわせた。虢射・韓簡・梁繇靡・家僕徒・郤歩揚・郭偃・郤乞らは、みな髪を振り乱し顔を垢で汚し、まるで喪に服す者のように歩いて野宿しながら付き従った。穆公はまた人をやって諸大夫を弔い、慰めて言った。「そなたたちの君臣は、晋の穀物を食べるには兵を用いて取るしかないと言われた。寡人が君を留めているのは、いささか晋の穀物をこちらへ取り寄せようというだけのことで、あえて度を過ごすつもりはない。そなたたちは君主に事欠くことを心配することはない、あまり悲しまれるな。」韓簡らは再拝して頭を下げ、「君はわが君の愚かさを憐れみ、寛大な処置をなさり、度を過ごすことをなさらない、皇天后土も、まことに君のお言葉を聞いておられましょう。臣らはあえて拝謝せずにおられましょうか」と言った。秦の軍は雍州の境まで戻ると、穆公は群臣を集めて協議した。「寡人は上帝の命を受けて晋の乱を平定し、夷吾を立てた。今、晋君は寡人の恩に背いた、これは上帝に対しても罪を得たことになる。寡人は晋君を犠牲に供して、上帝を郊祀し、天の恵みに応えようと思うが、どうだろうか。」公子縶は「君の仰せはまことにもっともです」と言った。公孫枝が進み出て言った。「いけません。晋は大国です、私たちがその民を捕虜にしたことで、すでに怨みを買っております。さらにその君主を殺せば、その憤りを増すだけです、晋が秦に報復することは、秦が晋に報復すること以上になりましょう。」公子縶は言った。「私の考えは、ただ晋君を殺すだけではありません、さらに公子重耳を代わりに立てるつもりです。無道の者を殺して有道の者を立てれば、晋人は我らに感謝するばかりで、どうして怨みましょう。」公孫枝は言った。「公子重耳は仁の人です。父子の親しみと兄弟の親しみとは、わずか一段の隔たりがあるにすぎません。重耳は父の喪を利用しようとはしませんでした、弟の死を利用しようとするでしょうか。もし重耳が入国しなければ、他の人を立てるほかありません、それでは夷吾と何が変わりましょうか。もし彼が入国することを望むなら、必ず弟(夷吾)のために秦を仇と見なすでしょう。君は夷吾に対して以前の恩を廃し、重耳に対して新たな仇を作ることになります、臣はひそかにこれをよくないと考えます。」穆公は「それでは追放するか、囚えておくか、それとも復位させるか、この三つのうちどれが有利か」と尋ねた。公孫枝は答えた。「囚えておけば、一介の匹夫にすぎません、秦にとって何の益がありましょう。追放すれば、必ず彼を迎え立てようとする者が現れます。復位させるのが一番でしょう。」穆公は「秦の功績が損なわれないだろうか」と尋ねた。枝は答えた。「私の考えは、ただ復位させるだけではありません。必ず彼に河西五城の地を秦に返させ、さらにその世子圉を秦に人質として留め置かせてから、和議を許すのです。そうすれば、晋君は生涯秦を憎むことができなくなります、そして後日父が死んで子(圉)が継いだとき、私たちはまた圉に恩を売ることができます。晋は代々秦を戴くことになる、これほどの利益はございません。」穆公は「子桑(公孫枝の字)の計略は、数世代先まで見通している」と言った。そこで恵公を霊台山の離宮に安置し、千人でこれを守らせた。

穆姫の哀訴、晋侯赦免へ

  • 穆公は晋侯の処置を終え、まさに出発しようとしたところ、一団の内侍たちが、みな喪服を着てやって来るのを見た。穆公は夫人の身に何か変事があったのかと思い、尋ねようとした。すると内侍は夫人の言葉を伝えて言った。「上天が災いを下し、秦晋両君を戦いに至らせました。晋君が捕らえられたことは、わたくしの恥辱でもございます。もし晋君が朝にご入城になれば、わたくしは朝に死に、夕にご入城になれば、わたくしは夕べに死にます。今、特に内侍に喪服を着せて、君の軍を迎えさせました。もし晋侯をお赦しになれば、それはわたくしをお赦しになることと同じでございます、どうか君のご裁量にお任せいたします。」穆公は大いに驚き、「夫人は宮中でどのような様子か」と尋ねた。内侍は奏上した。「夫人は晋君が捕らわれたと聞くや、すぐに太子とともに喪服をまとい、徒歩で宮を出て、後園の高台に至り、草の小屋を建てて住んでおられます。台の下にはすでに数十層の薪が積まれ、食事を運ぶ者はその薪の上を上り下りしております。夫人は仰せです、『晋君が入城するのを待って、すぐに台の上で自ら命を絶ちます。火をつけて我が屍を焼き、兄弟の情を表すのです。』」穆公は嘆じて「子桑が私に晋君を殺すなと勧めてくれた、そうでなければ危うく夫人の命を失うところであった」と言った。そこで内侍に喪服を脱がせ、穆姫に「寡人は近いうちに晋侯を晋へ帰す」と伝えさせた。穆姫はようやく宮に戻った。内侍はひざまずいて尋ねた。「晋侯は利を見て義を忘れ、わが君との約束に背き、さらに君夫人の託されたことにも背きました。今日、自ら囚われの辱めを招いたのです、夫人はなぜこれほどまでにお嘆きになるのですか。」穆姫は言った。「私が聞くところでは、『仁ある者は怨みがあっても親を忘れず、怒りがあっても礼を捨てない』と申します。もし晋侯がついに秦で命を落とすようなことになれば、私にもまた罪があることになりましょう。」内侍たちはみな君夫人の賢徳を称えないものはなかった。果たして晋侯がどのように帰国することになるか、続きは次回を見られたい。
原文(底本)
話說管仲於病中,囑桓公斥遠易牙、豎刁、開方三人,薦隰朋為政。左右有聞其言者,以告易牙。易牙見鮑叔牙謂曰:「仲父之相,叔所薦也。今仲病,君往問之,乃言叔不可以為政,而薦隰朋,吾意甚不平焉。」鮑叔牙笑曰:「是乃牙之所以薦仲也。仲忠於為國,不私其友。夫使牙為司寇,驅逐佞人,則有餘矣。若使當國為政,即爾等何所容身乎?」易牙大慚而退。踰一日,桓公復往視仲,仲已不能言。鮑叔牙隰朋莫不垂淚。是夜,仲卒。桓公哭之慟,曰:「哀哉,仲父!是天折吾臂也!」使上卿高虎董其喪,殯葬從厚。生前采邑,悉與其子,令世為大夫。易牙謂大夫伯氏曰:「昔君奪子駢邑三百,以賞仲之功。今仲父已亡,子何不言於君,而取還其邑?吾當從旁助子。」伯氏泣曰:「吾惟無功,是以失邑。仲雖死,仲之功尚在也。吾何面目求邑於君乎?」易牙嘆曰:「仲死猶能使伯氏心服,吾儕真小人矣!」

  且說桓公念管仲遺言,乃使公孫隰朋為政。未一月,隰朋病卒。桓公曰:「仲父其聖人乎?何以知朋之用於吾不久也?」於是使鮑叔牙代朋之位。牙固辭,桓公曰:「今舉朝無過於卿者,卿欲讓之何人?」牙對曰:「臣之好善惡惡,君所知也。君必用臣,請遠易牙、豎刁、開方,乃敢奉命。」桓公曰:「仲父固言之矣,寡人敢不從子!」即日罷斥三人,不許入朝相見。鮑叔牙乃受事。時有淮夷侵犯杞國,杞人告急於齊。齊桓公合宋、魯、陳、衛、鄭、許、曹七國之君,親往救杞,遷其都於緣陵。諸侯尚從齊之令,以能用鮑叔,不改管仲之政故也。

  話分兩頭。卻說晉自惠公即位,連歲麥禾不熟,至五年,復大荒。倉廩空虛,民間絕食,惠公欲乞糴於他邦。思想惟秦毗鄰地近,且婚姻之國,但先前負約未償,不便開言。郤芮進曰:「吾非負秦約也,特告緩其期耳。若乞糴而秦不與,秦先絕我,我乃負之有名矣。」惠公曰:「卿言是也。」乃使大夫慶鄭,持寶玉如秦告糴。穆公集群臣計議:「晉許五城不與,今因饑乞糴,當與之否?」蹇叔百里奚同聲對曰:「天災流行,何國無之,救災恤鄰,理之常也。順理而行,天必福我。」穆公曰:「吾之施於晉已重矣。」公孫枝對曰:「若重施而獲報,何損於秦?其或不報,曲在彼矣。民憎其上,孰與我敵?君必與之。」丕豹思念之仇,攘臂言曰:「晉侯無道,天降之災。乘其饑而伐之,可以滅晉。此機不可失!」繇余曰:「『仁者不乘危以邀利,智者不僥倖以成功。』與之為當。」穆公曰:「負我者,晉君也。饑者,晉民也。吾不忍以君故,遷禍於民。」於是運粟數萬斛於渭水,直達河、汾、雍、絳之間,舳艫相接,命曰:「泛舟之役」,以救晉之饑。晉人無不感悅。史官有詩稱穆公之善云:

    晉君無道致天災,雍絳紛紛送粟來。誰肯將恩施怨者?穆公德量果奇哉!

  明年冬,秦國年荒,晉反大熟。穆公謂蹇叔百里奚曰:「寡人今日乃思二卿之言也,豐凶互有。若寡人去冬遏晉之糴,今日歲饑,亦難乞於晉矣。」丕豹曰:「晉君貪而無信,雖乞之,必不與。」穆公不以為然。乃使冷至亦賷寶玉,如晉告糴。惠公將發河西之粟,以應秦命。郤芮進曰:「君與秦粟,亦將與秦地乎?」惠公曰:「寡人但與粟耳,豈與地哉?」芮曰:「君之與粟為何?」惠公曰:「亦報其『泛舟之役』也。」芮曰:「如以泛舟為秦德,則昔年納君,其德更大。君舍其大而報其小,何哉?」慶鄭曰:「臣去歲奉命乞糴於秦,秦君一諾無辭,其意甚美。今乃閉糴不與,秦怨我矣!」呂飴甥曰:「秦與晉粟,非好晉也,為求地也。不與粟而秦怨,與粟而不與地,秦亦怨,均之怨也,何為與之?」慶鄭曰:「幸人之災,不仁。背人之施,不義。不義不仁,何以守國?」韓簡曰:「鄭之言是也。使去歲秦閉我糴,君意何如?」虢射曰:「去歲天饑晉以授秦,秦弗知取,而貸我粟,是甚愚也!今歲天饑秦以授晉,晉奈何逆天而不取?以臣愚意,不如約會梁伯,乘機伐秦,共分其地,是為上策。」惠公從虢射之言。乃辭冷至曰:「敝邑連歲饑饉,百姓流離,今冬稍稔,流亡者漸歸故里,僅能自給,不足以相濟也。」冷至曰:「寡君念婚姻之誼,不責地,不閉糴,固曰:『同患相恤也。』寡君濟君之急,而不得報於君,下臣難以復命。」呂飴甥郤芮大喝曰:「汝前與丕鄭父合謀,以重幣誘我,幸天破奸謀,不墮汝計。今番又來饒舌!可歸語汝君,要食晉粟,除非用兵來取!」冷至含憤而退。慶鄭出朝,謂太史郭偃曰:「晉侯背德怒鄰,禍立至矣。」郭偃曰:「今秋沙鹿山崩,草木俱偃。夫山川國之主也,晉將有亡國之禍,其在此乎?」史臣有詩譏晉惠公云:

    泛舟遠道賑饑窮,偏遇秦饑意不同。自古負恩人不少,無如晉惠負秦公。

  冷至回復秦君,言:「晉不與秦粟,反欲糾合梁伯,共興伐秦之師。」穆公大怒曰:「人之無道,乃至出於意料若此!寡人將先破梁,而後伐晉。」百里奚曰:「梁伯好土功,國之曠地,皆築城建室,而無民以實之,百姓胥怨,此其不能用眾助晉明矣。晉君雖無道,而呂郤俱疆力自任,若起絳州之眾,必然震驚西鄙。《兵法》云:『先發制人。』今以君之賢,諸大夫之用命,往聲晉侯負德之罪,勝可必也。因以餘威,乘梁之敝,如振槁葉耳!」穆公然之。乃大起三軍,留蹇叔繇余輔太子罃守國,孟明視引兵巡邊,彈壓諸戎。穆公同百里奚親將中軍,西乞術白乙丙保駕。公孫枝將右軍,公子縶將左軍,共車四百乘,浩浩蕩蕩,殺奔晉國來。

  晉之西鄙,告急於惠公。惠公問於群臣曰:「秦無故興兵犯界,何以禦之?」慶鄭進曰:「秦兵為主上背德之故,是以來討,何謂無故?依臣愚見,只宜引罪請和,割五城以全信,免動干戈。」惠公大怒曰:「以堂堂千乘之國,而割地求和,寡人何面目為君哉?」喝令:「先斬慶鄭,然後發兵迎敵!」虢射曰:「未出兵,先斬將,於軍不利。姑赦令從征,將功折罪。」惠公准奏。當日大閱車馬,選六百乘。命郤步揚、家僕徒、慶鄭、蛾晰分將左右,己與虢射居中軍調度,屠岸夷為先鋒。離絳州望西進發。晉侯所駕之馬,名曰「小駟」,乃鄭國所獻。其馬身材小巧,毛鬣潤澤,步驟安穩,惠公平昔甚愛之。慶鄭又諫曰:「古者出征大事,必乘本國出產之馬。其馬生在本土,解人心意,安其教訓,服習道路,故遇戰隨人所使,無不如志。今君臨大敵,而乘異產之馬,恐不利也。」惠公叱曰:「此吾慣乘,汝勿多言!」

  卻說秦兵已渡河東,三戰三勝,守將皆奔竄。長驅而進,直至韓原下寨。晉惠公聞秦軍至韓,乃蹙額曰:「寇已深矣,奈何?」慶鄭曰:「君自招之,又何問焉?」惠公曰:「鄭無禮,可退!」晉兵離韓原十里下寨,使韓簡往探秦兵多少。簡回報曰:「秦師雖少於我,然其鬥氣十倍於我。」惠公曰:「何故?」簡對曰:「君始以秦近而奔梁,繼以秦援而得國,又以秦賑而免饑,三受秦施而無一報。君臣積憤,是以來伐,三軍皆有責負之心,其氣銳甚,豈止十倍而已!」惠公慍曰:「此乃慶鄭之語,定伯亦為此言乎?寡人當與秦決一死敵!」遂命韓簡往秦軍請戰曰:「寡人有甲車六百乘,足以待君。君若退師,寡人之願:若其不退,寡人即欲避君,其奈此三軍之士何!」穆公笑曰:「孺子何驕也?」乃使公孫枝代對曰:「君欲國,寡人納之。君欲粟,寡人給之。今君欲戰,寡人敢拒命乎?」韓簡退曰:「秦理直,吾不知死所矣!」晉惠公使郭偃卜車右,諸人莫吉,惟慶鄭為可。惠公曰:「鄭黨於秦,豈可任哉?」乃改用家僕徒為車右,而使郤步揚御車,逆秦師於韓原。百里奚登壘,望見晉師甚眾,謂穆公曰:「晉侯將致死於我,君其勿戰。」穆公指天曰:「晉負我已甚,若無天道則已,天而有知,吾必勝之!」乃於龍門山下,整列以待。須臾,晉兵亦布陣畢,兩陣對圓,中軍各鳴鼓進兵。屠岸夷恃勇,手握渾鐵槍一條,何止百斤之重,先撞入對陣,逢人便刺,秦軍披靡。正遇白乙丙,兩下交戰,約莫五十餘合,殺得性起,各跳下車來,互相扭結。屠岸夷曰:「我與你拼個死活,要人幫助的,不為好漢!」白乙丙曰:「正要獨手擒拿你,方是英雄!」吩咐眾人:「都莫來!」兩個拳搥腳踢,直扭入陣後去了。晉惠公見屠岸夷陷陣,急叫韓簡梁繇靡,引軍沖其左,自引家僕徒等沖其右,約於中軍取齊。穆公見晉分兵兩路沖來,亦分作兩路迎敵。且說惠公之車,正遇見公孫枝,惠公遂使家僕徒接戰。那公孫枝有萬夫不當之勇,家僕徒如何鬥得過?惠公教步揚:「用心執轡,寡人親自助戰。」公孫枝橫戟大喝曰:「會戰者一齊上來!」只這一聲喝,如霹靂震天,把個國舅虢射嚇得伏於車中,不敢出氣。那小駟未經戰陣,亦被驚嚇,不繇御人做主,向前亂跑,遂陷於泥濘之中。步揚用力鞭打,奈馬小力微,拔腳不起。正在危急,恰好慶鄭之車,從前而過。惠公呼曰:「鄭速救我!」慶鄭曰:「虢射何在?乃呼鄭耶?」惠公又呼曰:「鄭速將車來載寡人!」鄭曰:「君穩乘小駟,臣當報他人來救也!」遂催轅轉左而去。步揚欲往覓他車,爭奈秦兵圍裹將來,不能得出。再說韓簡一軍沖入,恰遇著秦穆公中軍,遂與秦將西乞術交戰,三十餘合,未分勝敗。蛾晰引軍又到,兩下夾攻,西乞術不能當,被韓簡一戟刺於車下。梁繇靡大叫:「敗將無用之物,可協力擒捉秦君!」韓簡不顧西乞術,驅率晉兵,逕奔戎輅,來捉穆公。穆公嘆曰:「我今日反為晉俘,天道何在?」纔嘆一聲,只見正西角上,一隊勇士約三百餘人,高叫:「勿傷吾恩主!」穆公抬頭看之,見那三百餘人,一個個蓬首袒肩,腳穿草履,步行如飛,手中皆執大砍刀,腰懸弓箭,如混世魔王手下鬼兵一般。腳蹤到處,將晉兵亂砍。韓簡與梁繇靡慌忙迎敵。又見一人飛車從北而至,乃慶鄭也。高叫:「勿得戀戰,主公已被秦兵困於龍門山泥濘之中,可速往救駕!」韓簡等無心廝殺,撇了那一夥壯士,逕奔龍門山來救晉侯。誰知晉惠公已被公孫枝所獲,並家僕徒、虢射、步揚等,一齊就縛,已歸大寨去了。韓簡頓足曰:「獲秦君猶可相抵,慶鄭誤我矣!」梁繇靡曰:「君已在此,我輩何歸?」遂與韓簡各棄兵仗,來投秦寨,與惠公做一處。再說那壯士三百餘人,救了秦穆公,又救了西乞術。秦兵乘勝掩殺,晉兵大潰。龍門山下屍積如山,六百乘得脫者,十分中之二三耳。慶鄭聞晉君見擒,遂偷出秦軍,遇蛾晰被傷在地,扶之登車,同回晉國。髯翁有詩,詠韓原大戰之事。詩曰:

    龍門山下嘆輿屍,只為昏君不報施。善惡兩家分勝敗,明明天道豈無知!

  卻說秦穆公還於大寨,謂百里奚曰:「不聽井伯之言,幾為晉笑。」那壯士三百餘人,一齊到營前叩首。穆公問曰:「汝等何人,乃肯為寡人出死力耶?」壯士對曰:「君不記昔年亡善馬乎?吾等皆食馬肉之人也。」原來穆公曾出獵於梁山,夜失良馬數匹,使吏求之。尋至岐山之下,有野人三百餘,群聚而食馬肉。吏不敢驚之,趨報穆公:「速遣兵往捕,可盡得。」穆公嘆曰:「馬已死矣,又因而戮人,百姓將謂寡人貴畜而賤人也。」乃索軍中美酒數十甕,使人賷往岐下,宣君命而賜之曰:「寡君有言:『食良馬肉,不飲酒傷人。』今以美酒賜汝。」野人叩頭謝恩,分飲其酒,齊嘆曰:「盜馬不罪,更慮我等之傷,而賜以美酒,君之恩大矣。何以報之!」至是,聞穆公伐晉,三百餘人,皆舍命趨至韓原,前來助戰。恰遇穆公被圍,一齊奮勇救出。真個是:

    種瓜得瓜,種豆得豆。施薄報薄,施厚報厚。有施無報,何異禽獸!

穆公仰天嘆曰:「野人且有報德之義,晉侯獨何人哉?」乃問眾人中:「有願仕者,寡人能爵祿之。」壯士齊聲應曰:「吾儕野人,但報恩主一時之惠,不願仕也!」穆公各贈金帛,野人不受而去。穆公嘆息不已,後人有詩云:

    韓原山下兩交鋒,晉甲重重困穆公。當日若誅牧馬士,今朝焉得出樊籠?

穆公點視將校不缺,單不見白乙丙一人。使軍士遍處搜尋,聞土窟中有哼聲,趨往視之,乃是白乙丙與屠岸夷相持滾入窟中,各各力盡氣絕,尚扭定不放手。軍士將兩下拆開,抬放兩個車上,載回本寨。穆公問白乙丙,已不能言。有人看見他兩人拼命之事,向前奏知如此如此。穆公嘆曰:「兩人皆好漢也!」問左右:「有識晉將姓名者乎?」公子縶就車中觀看,奏曰:「此乃勇士屠岸夷也。臣前弔晉二公子,夷亦奉本國大臣之命來迎,相遇於旅次,是以識之。」穆公曰:「此人可留為秦用乎?」公子縶曰:「弒卓子,殺里克,皆出其手。今日正當順天行誅。」穆公乃下令將屠岸夷斬首。親解錦袍,以覆白乙丙,命百里奚先以溫車載回秦國就醫。丙服藥,吐血數斗,半年之後,方纔平復。此是後話。

  再說穆公大獲全勝,拔寨都起,使人謂晉侯曰:「君不欲避寡人,寡人今亦不能避君,願至敝邑而請罪焉!」惠公俛首無言。穆公使公孫枝率車百乘,押送晉君至秦。虢射、韓簡、梁繇靡、家徒僕、郤步揚、郭偃、郤乞等,皆披髮垢面,草行露宿相隨,如奔喪之狀。穆公復使人弔諸大夫,且慰之曰:「爾君臣謂要食晉粟,用兵來取。寡人之留爾君,聊以致晉之粟耳,敢為已甚乎?二三子何患無君?勿過戚也!」韓簡等再拜稽首曰:「君憐寡君之愚,及於寬政,不為已甚,皇天后土,實聞君語。臣等敢不拜賜!」秦兵回至雍州界上,穆公集群臣議曰:「寡人受上帝之命,以平晉亂,而立夷吾。今晉君背寡人之德,即得罪於上帝也。寡人欲用晉君,郊祀上帝,以答天貺,何如?」公子縶曰:「君言甚當。」公孫枝進曰:「不可。晉大國也,吾俘虜其民,已取怨矣。又殺其君,以益其忿,晉之報秦,將甚於秦之報晉也!」公子縶曰:「臣意非徒殺晉君已也,且將以公子重耳代之。殺無道而立有道,晉人德我不暇,又何怨焉?」公孫枝曰:「公子重耳,仁人也。父子兄弟,相去一間耳。重耳不肯以父喪為利,其肯以弟死為利乎?若重耳不入,別立他人,與夷吾何擇?如其肯入,必且為弟而仇秦。君廢前德於夷吾,而樹新仇於重耳,臣竊以為不可。」穆公曰:「然則逐之乎?囚之乎?抑復之乎?三者孰利?」公孫枝對曰:「囚之,一匹夫耳!於秦何益?逐之,必有謀納者。不如復之。」穆公曰:「不喪功乎?」枝對曰:「臣意亦非徒復之已也。必使歸吾河西五城之地,又使其世子圉留質於吾國,然後許成焉。如是,則晉君終身不敢惡秦,且異日父死子繼,吾又以為德於圉。晉世世戴秦,利孰大乎?」穆公曰:「子桑之算,及於數世矣!」乃安置惠公於靈臺山之離宮,以千人守之。

  穆公發遣晉侯,方欲起程。忽見一班內侍,皆服衰絰而至。穆公意謂有夫人之變,方欲問之。那內侍口述夫人之命,曰:「上天降災,使秦晉兩君,棄好即戎。晉君之獲,亦婢子之羞也。若晉君朝入,則婢子朝死,夕入,則婢子夕死!今特使內侍以喪服迎君之師。若赦晉侯,猶赦婢子,惟君裁之!」穆公大驚,問:「夫人在宮作何狀?」內侍奏曰:「夫人自聞晉君見獲,便攜太子服喪服,徒步出宮,至於後園崇臺之上,立草舍而居。臺下俱積薪數十層,送饔飱者履薪上下。吩咐:『只待晉君入城,便自殺於臺上。縱火焚吾屍,以表兄弟之情也。』」穆公嘆曰:「子桑勸我,勿殺晉君。不然,幾喪夫人之命矣!」於是使內侍去其衰絰,以報穆姬曰:「寡人不日歸晉侯也。」穆姬方纔回宮。內侍跪而問曰:「晉侯見利忘義,背吾君之約,又負君夫人之託,今日乃自取囚辱,夫人何為哀痛如此?」穆姬曰:「吾聞『仁者雖怨不忘親,雖怒不棄禮。』若晉侯遂死於秦,吾亦與有罪矣!」內侍無不誦君夫人之賢德。畢竟晉侯如何回國,且看下回分解。

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