東周列國志第三十三回 宋公、斉を伐って子昭を入れる/楚人、兵を伏せて盟主を脅す (宋公伐齊納子昭 楚人伏兵劫盟主)
高虎、豎刁を誅し無虧滅ぶ
- さて高虎は雍巫が兵を統率して城を出た隙に、城楼に壮士を伏せ、人を遣わして豎刁を議事に招いた。
- 豎刁は疑わず、意気揚々とやって来た。
- 高虎は楼中に酒を用意して待ち受け、三杯を過ぎると口を開いた。「今、宋公が諸侯を糾合し、大軍を興して太子をここまで送り届けてきた、どうやってこれを防ごうか。」
- 豎刁は「すでに易牙(=雍巫)が兵を統率して郊外に出て迎え撃っております」と言った。
- 虎は「多勢に無勢だ、どうしたものか。老夫はそなたの力を借りて斉の難を救いたい」と言った。
- 豎刁は「刁に何ができましょう、老大夫にご用命があれば、仰せのままに従います」と言った。
- 虎は「そなたの首を借りて、宋に謝罪したいのだ」と言った。
- 刁は愕然として急いで立ち上がった。虎は左右を顧みて「まだ手を出さぬのか」と喝した。
- 壁の間から壮士が突き出て豎刁を捕らえて斬った。
- 虎はそこで城門を大きく開き、人を遣わして「世子はすでに城外に到着された、迎えに行きたい者は私に従え」と呼びかけさせた。
- 国人はもとより雍巫・豎刁の人となりを憎んでおり、そのため無虧に付き従わなかった。高虎が世子を出迎えるのを見て、みな腕まくりして喜んで従わない者はなく、随行する者は千人を下らなかった。
- 国懿仲は入朝し、まっすぐ宮門を叩いて無虧に見えることを求め、奏上した。「人心は世子を戴くことを思い、相率いて奉迎しております。老臣は止めることができません、主公は速やかに難を避けるお計らいをなさるべきです。」
- 無虧は「雍巫・豎刁はどこにいるのか」と問うた。懿仲は「雍巫は勝敗まだ分かりません。豎刁はすでに国人に殺されました」と答えた。
- 無虧は大いに怒り、「国人が豎刁を殺したのに、そなたが知らないはずがあろうか」と、左右に命じて懿仲を捕らえようとしたが、懿仲は朝門から走り出た。
- 無虧は内侍数十人を率い、小車に乗って、憤然として剣を提げ宮を出て、丁壮を徴発して武具を配り、自ら敵を防ぎに行こうと命じた。
- 内侍たちは東西に呼びかけて回ったが、国中の誰一人応じる者はなく、かえって多くの仇敵をおびき出す結果となった。まさに次のようであった。(詩:恩徳は必ず報いられ、仇怨は取り除きがたい、以前してきたことの報いが、不運にも一斉に押し寄せてくる、という趣旨。)
- これらの仇敵とは、高氏・国氏・管氏・鮑氏・寧氏・陳氏・晏氏・東郭氏・南郭氏・北郭氏・公孫氏・閭邱氏など、多くの官員の一族の者たちであった。
- もとは無虧に味方しなかったため雍巫・豎刁に殺害された者たちで、その家族は人々みな怨みを含み、それぞれ恨みを抱いていた。今日、宋君が太子を国に送り込み、雍巫が兵を統率して迎え撃っていると聞き、私心を言えば、雍巫が敗れることを望んでいた。
- また宋の軍が到来すれば、別の一段の殺戮の惨事が起こるのではと恐れ、みな腹の内に鬼胎を抱いていた。
- そこへ高相国が豎刁を殺して太子を迎えに行ったと聞くと、喜ばぬ者はなく、みな「今日、天の眼がようやく開いた」と言い合った。
- みな武具を帯びて身を守り、東門で太子が来るという知らせを探っていると、ちょうど無虧が車に乗ってやって来るのに出くわした。仇同士が顔を合わせ、なおのこと目を怒らせ、一人が先頭に立つと、みなが加勢し、それぞれ武具を構えて無虧を取り囲んだ。
- 内侍が「主公はここにおられる、無礼をするな」と怒鳴ったが、人々は「どこがわが主公か」と言い、内侍を乱れ斬りにした。
- 無虧は防ぎきれず、急いで車を下りて逃げようとしたが、これも人々に殺された。
- 東門は騒然としたが、国懿仲が来て人々をなだめると、ようやく人々は散っていった。
- 懿仲は無虧の屍を別館に運んで納棺し仮に安置させ、一方で人を遣わして高虎に急ぎ報告した。
雍巫、魯へ逃亡する
- さて雍巫は東関に屯兵し、宋と対峙していたが、突然軍中が夜に乱れ、「無虧・豎刁がともに死んだ、高虎相国が国人を率いて太子昭を君に迎え入れる、我らは逆賊の側に立ってはならぬ」と伝わった。
- 雍巫は軍心がすでに変わったと知り、心は針で刺されるようで、急いで腹心の数人を引き連れ、夜のうちに魯国へと逃亡した。
- 天が明けると、高虎はすでに到着し、雍巫の率いていた軍を安撫した。
- そのまま郊外に至り、世子昭を出迎え、宋・衛・曹・邾の四国と講和した。四国は兵を退いた。
- 高虎は世子昭を伴い臨淄城外に至り、しばらく公館に留まり、人を遣わして国懿仲に君主の車駕の準備と百官の出迎えを整えさせた。
三公子の抵抗と世子昭の即位
- さて公子元・公子潘はこのことを知ると、公子商人と示し合わせ、ともに城外に出て新君を迎えようとした。
- 公子商人はむっとして「我らは国にあって喪に服していたのに、昭は喪の泣き哀しむ列に加わりもしなかった。今、宋の兵威を借りて、少をもって長を凌ぎ、強いて斉国を奪おうとしている、道理に合わない。諸侯の兵はすでに退いたと聞く、我らはいっそそれぞれ自家の兵を率い、無虧の仇を討つと称して昭を追い殺そう。我ら三人の中で、大臣の公議によって一人を君に立てれば、宋国に締め付けられずに済み、亡き先君の盟主の志気も貶められずに済む」と言った。
- 公子元は「そうであれば、宮中の命令を奉じて行うべきだ、そうすれば名分が立つ」と言った。
- そこで宮に入り長衛姫に報告した。長衛姫は泣いて「そなたたちが無虧の仇を討ってくれるなら、私は死んでも恨みはない」と言った。
- すぐに無虧の旧臣たちを糾合させ、三公子の党と合わせ、ともに世子を拒むこととした。
- 豎刁の手下にも腹心の者たちがおり、その主の仇を討とうとして、これにも加勢し、それぞれ手分けして臨淄城の各門を占拠した。
- 国懿仲は四家の勢いを恐れ、府門を固く閉ざし、あえて表に出なかった。
- 高虎は世子昭に言った。「無虧・豎刁は死んだとはいえ、残党がなお存在し、しかも三公子が主となって門を閉ざして受け入れません。もし入城を求めれば、必ず戦になります、もし戦って勝てなければ、これまでの功はすべて無に帰します。いっそ再び宋国に走って救いを求めるのが上策でしょう。」
- 世子昭は「ただ国老のお計らいに従います」と言った。
- 高虎は世子昭を奉じて再び宋国へ逃れた。
- 宋の襄公は兵を引き上げてちょうど国境に着いたところで、世子昭が来たのを見て大いに驚き、来意を尋ねた。高虎は事の次第を一つ一つ説明した。
- 襄公は「これは寡人が兵を早く引き上げすぎたためだ。世子は安心されよ、寡人がいる限り、どうして臨淄に入れないことがあろうか」と言った。
- すぐに大将の公孫固に命じて車馬を増やさせた。(先には衛・曹・邾の三国とともに事に当たり、二百乗しか用いなかったが、今回は独自に出兵するため、四百乗に増やした。)
- 公子蕩を先鋒とし、華御事を殿とし、自らは中軍を率いて、世子を護送し、再び宋の境を離れ、再び斉の郊外に入った。
- その時、高虎が先導していたので、関を守る将吏は高相国であると望み見て、すぐに門を開いて迎え入れた。まっすぐ臨淄に迫り布陣した。
- 宋の襄公は都の城門が固く閉ざされているのを見て、三軍に攻城の器具を準備するよう命じた。
- 城内では公子商人が公子元・公子潘に言った。「宋がもし城を攻めれば、必ず民衆を騒がせよう。我らは四家の勢力を率い、彼らがまだ落ち着かないうちに合力して攻めよう。うまくいけば良し、不幸にして敗れれば、ひとまずそれぞれ避難を図り、改めて身の振り方を考えればよい。ここに立てこもって死守するよりは、そのほうがましだ。万一、諸侯の軍が集結してしまえば、どうしようもなくなるのだから。」
- 元と潘はこれを是とした。その日の夜、城門を開き、それぞれ軍を率いて宋の陣を夜襲した。虚実を知らぬまま、ただ先鋒公子蕩の前営だけを襲った。
- 蕩は手出しできず陣を棄てて逃げた。中軍の大将公孫固は前の陣が失われたと聞き、急いで大軍を率いて救援に来た。後軍の華御事、および斉国の老大夫高虎も、それぞれ部下を率いて応援に駆けつけた。
- 両軍は入り乱れて戦い、夜明けまで続いた。四家の手下は多勢とはいえ、それぞれ主を異にし、人心が一致せず、宋の大軍には敵わなかった。
- 一夜混戦の末、四家の兵は宋軍に斬り立てられ、ちりぢりに討ち散らされた。
- 公子元は、世子昭が国に入れば自分は禍を免れまいと恐れ、混乱に乗じて腹心の数人を率いて衛国に逃げ込んだ。
- 公子潘・公子商人は敗兵を収めて城に戻った。
- 宋の兵はすぐ後を追い、城門を閉じることができず、崔夭が世子昭のために車を御して、まっすぐ突入した。
- 上卿国懿仲は四家の兵が散り、世子がすでに入城したと聞くと、百官を集め、高虎とともに世子昭を擁立して即位させた。
- すぐに本年を元年とし、これを孝公とした。
- 孝公は即位すると、論功行賞を行い、崔夭を大夫に進めた。
- 大いに金や絹を出して宋軍を厚くねぎらった。
- 襄公は斉の境に五日留まり、ようやく宋に帰った。
- その時、魯の僖公が大軍を興して無虧を救おうとしていたが、孝公がすでに立ったと聞き、途中で引き返した。これより魯と斉には隙ができた。この件はここまでにしておく。
桓公の厚葬と、後世の盗掘
- さて公子潘と公子商人は相談し、出兵して敵に抵抗した罪をすべて公子元に押し付けた。
- 国・高の二国老は四家がともに謀ったことを明らかに知っていたが、孝公に恨みを解いて和睦させようとし、ただ首謀者の雍巫・豎刁の二人の罪だけを問い、その党をすべて誅殺し、他の者はみな赦して不問とした。
- その秋八月、桓公を牛首堈の上に葬り、三つの大きな墳を連ねて築いた。晏蛾兒はその傍らに合葬され、別に小さな墳が一つ築かれた。
- また無虧と公子元が乱を起こしたゆえに、その生母である長衛姫・少衛姫両宮の内侍・宮人をことごとく連座させて桓公に殉葬させ、死者は数百人に及んだ。
- のちに晋の永嘉末年、天下大乱の折、村人が桓公の塚を暴いたところ、塚の前に水銀の池があり、寒気が鼻を突き、人が入れず、数日経ってその気がようやく消えた。
- そこで猛犬を牽いて塚の中に入れ、金の蚕数十斛、真珠の襦と玉の匣、絹の彩物や軍器などが数え切れぬほど得られたが、塚の中には骸骨が乱雑に散らばっており、みな殉葬された人々のものであった。
- 孝公が当時、父の葬儀をいかに厚くしたかが知れる。しかし何の益があったろうか。
- 髯仙が詩を作った。(詩:盗掘を惑わすための囮の墳が三つ、山のようにそびえていたが、金の蚕と玉の匣は人の手に渡ってしまった、昔から厚く蓄えれば盗掘されることが多い、薄葬こそ吝嗇でないと知るべきだ、という趣旨。)
宋襄公、覇を求めて鄫子を殺す
- 話は変わる。さて宋の襄公は斉の兵を破り、世子昭を君に立てたことで、自らを比類なき奇功と思い、諸侯を号令して斉の桓公に代わり盟主となろうと考えた。
- しかし大国が容易に集まらないことを恐れ、まず滕・曹・邾・鄫の小国と、曹国の南で盟を結ぼうとした。
- 曹・邾の二君が到着したのち、滕子の嬰斉がようやく至った。宋の襄公は嬰斉が盟に参加することを許さず、一室に拘留した。
- 鄫の君は宋の威を恐れて会に赴いたが、すでに期限に二日遅れていた。
- 宋の襄公は群臣に問うた。「寡人はようやく盟好を唱えたばかりだというのに、鄫のような小国が怠慢にもこのように振る舞う。重く懲らしめなければ、どうして威を立てられようか。」
- 大夫の公子蕩が進み出て「かつて斉の桓公は南征北討したが、東夷の民だけは服させられませんでした。君が中原に威を示そうとされるなら、必ずまず東夷を服させねばなりません。東夷を服させるには、必ず鄫子を用いるべきです」と言った。
- 襄公が「どのように用いるのか」と問うと、公子蕩は言った。「睢水のほとりに、風雨を起こせる神がおります。東夷はみなこれを祠に祀り、四季欠かすことがありません。君が真に鄫子を犠牲として睢神を祭られれば、神は必ず福を降されるだけでなく、東夷がこれを聞けば、みな君が諸侯の生殺を操れると言い、誰が畏れ服さぬことがありましょうか。そうしてのちに東夷の力を借りて諸侯を征すれば、覇業は成りましょう。」
- 上卿の公子目夷が諫めて言った。「なりません、なりません。古来、小事には大きな犠牲の獣を用いない、命を重んじるからです、まして人ならなおさらです。祭祀とは、人のために福を祈るものです。人を殺して人の福を祈っても、神は必ず享けますまい。それに国には常祀があり、宗伯が司っております。睢水の河神など、妖鬼にすぎません。夷の風俗が祀るものを、君もまた祀るのでは、君が夷に勝るところを見せられません、誰が服しましょうか。斉の桓公は四十年盟を主宰し、亡国を存し絶えた家を継がせ、年々徳を天下に施しました。今、君はわずか一度の盟会を挙げただけで、諸侯を殺して妖神に媚びようとしておられる、臣は諸侯が恐れて我らに叛くのを見るでしょう、服するのを見るとは思えません。」
- 公子蕩は言った。「子魚の言は誤りです。君の覇を図る道は斉とは異なります。斉の桓公は二十余年国を治めてから盟主となりました、君はそれを待てましょうか。緩やかであれば徳を用い、急ならば威を用いる、遅速の順序を見極めねばなりません。夷を同じくしなければ夷は我らを疑い、諸侯を畏れさせなければ諸侯は我らを侮ります。内で侮られ外で疑われては、どうして覇を成せましょうか。昔、武王は紂の頭を斬り、太白の旗に懸けて天下を得ました。これは諸侯が天子に対して行ったことです、まして小国の君に対してをや。君は必ずこれを用いるべきです。」
- 襄公は本来、諸侯を得ることに逸っていたので、目夷の言に従わず、邾の文公に命じて鄫子を捕らえさせ、殺したうえでその体を煮て、睢水の神への犠牲として供えた。
- 人を遣わして東夷の君長を召し、みな睢水に集まって祭祀に参加させようとしたが、東夷はもとより宋公の政令に慣れておらず、来る者はいなかった。
- 滕子の嬰斉は大いに驚き、人を遣わして重い賄賂で釈放を求め、嬰斉の拘留はようやく解かれた。
- 曹の大夫僖負羈は曹の共公襄に「宋は躁がしく暴虐です、事は必ず成りません、帰るべきです」と言った。共公は暇を告げて帰り、地主の礼を尽くさなかった。
- 襄公は怒り、人を遣わして責めさせた。「昔、国君同士が会う時は、乾肉や食料の贈与があり、賓主の好を修めるものだ。わが君は君の国境のあたりに逗留してすでに久しい。三軍の者は、いったいどこにもてなし役の主人がいるのか、いまだに分からずにいる。君にお考えいただきたい。」
- 僖負羈は答えた。「館を授け食事を届けるのは、諸侯が互いに訪問する際の常礼です。今、君は公事のため南の辺境をお通りになり、寡人は急な事態に対応するのに手一杯で、他のことに考えが及びませんでした。今、君に主人の礼で責められること、わが君は大変恥じ入っております、どうか君のご寛恕を。」
- 曹の共公はそのまま帰国した。
- 襄公は大いに怒り、兵を移して曹を討つよう命じた。公子目夷はまた諫めて言った。「昔、斉の桓公の会盟の跡は列国に遍く及んでいましたが、厚く与えて薄く受け、施しに見返りを求めず、及ばぬところを咎めもしませんでした、これは人の力を寛くし人の情を恤む所以です。曹の礼を欠いたことは、君に損はありません、なぜ兵を用いる必要がありましょうか。」
- 襄公は聞かず、公子蕩に兵車三百乗を率いさせて曹を討ち、その城を包囲した。
- 僖負羈は方々に手を尽くして守りを固め、公子蕩と三か月対峙したが、蕩は勝てなかった。
- その時、鄭の文公が真っ先に楚に朝貢し、魯・斉・陳・蔡の四国の君と約して楚の成王と斉の境で盟を結んだ。
- 宋の襄公はこれを聞いて大いに驚いた。一つには斉魯二国の中に覇を唱える者が出れば、宋は争えないことを恐れ、二つには公子蕩の曹攻めが失敗し、鋭気をくじかれ、諸侯に笑われることを恐れて、蕩を呼び戻した。
- 曹の共公も宋の軍が再び来ることを恐れ、宋に人を遣わして謝罪した。これより宋と曹はもとのように睦まじくなった。
宋襄公、鹿上にて楚に会を求める
- さて宋の襄公はひたすら覇を求め、小国の諸侯が次々と服さず、大国はかえって遠く楚と盟を結んだのを見て、心中憤りを覚え、公子蕩と相談した。
- 公子蕩は進み出て「今の大国は斉と楚に及ぶものはありません。斉は覇主の後継とはいえ、内紛がようやく定まったばかりで国勢が振るいません。楚は王号を僭称し、ようやく中原と通じたばかりで、諸侯が畏れております。君がもし卑辞と厚幣を惜しまず楚に諸侯を求められれば、楚は必ずこれを許しましょう。楚の力を借りて諸侯を集め、また諸侯を借りて楚を圧する、これは一時の権宜の計です」と言った。
- 公子目夷はまた諫めて「楚には諸侯がついています、どうして我らに味方しましょうか。我らが楚に諸侯を求めれば、楚がどうして我らの下に立ちましょうか。争いの端はこれより開かれることを恐れます」と言ったが、襄公はこれを是としなかった。
- そこで公子蕩に厚い賄賂を持たせて楚に行かせ、楚の成王に謁見させた。成王は来意を尋ね、来年の春、鹿上の地で会うことを許した。
- 公子蕩は帰って襄公に報告した。襄公は「鹿上は斉の地だ、斉侯に伝えないわけにはいかない」と言い、再び公子蕩を遣わして斉に赴かせ、楚王との会見の期日について述べさせた。斉の孝公もこれを許した。
- 時は宋の襄公の十一年、周の襄王の十二年であった。
鹿上の会、斉と楚の駆け引き
- 翌年春正月、宋の襄公は先に鹿上に至り、盟壇を築いて斉と楚の君を待った。
- 二月上旬、斉の孝公がようやく至った。襄公は孝公を国に納れた功を自負しており、会見の際にはかなり恩着せがましい様子であった。孝公も宋の恩に感じ入り、かなり地主の礼を尽くした。
- さらに二十余日、楚の成王がようやく到着した。宋・斉二君の会見では爵位の序が用いられた。楚は王号を僭称していたが、実際は子爵であった。宋公が首位、斉侯が次、楚子がさらにその次、これが宋の襄公が定めた席次であった。
- 期日になり、ともに鹿上の壇に登ると、襄公は毅然として盟主を自任し、先に牛耳を執り、まったく謙譲しなかった。
- 楚の成王は心中不快であったが、無理に血をすすって盟うことを受け入れた。
- 襄公は両手を組んで礼をして言った。「茲父(襄公の名)は不相応ながら前代の王朝(殷)の後裔であるゆえ、周の王家に賓として遇されております。徳の薄さ、力の乏しさを顧みず、密かに盟会の政を修めたいと存じます。人心が引き締まらぬことを恐れ、二君の余威をお借りして、諸侯をわが国の盂の地に会させたく、秋八月を期とします。もし君が見捨てなさらず、諸侯を率いて盟にお恵みくださるなら、寡人は世々兄弟の好を篤くしたく存じます。そうなれば殷の先王以下、みなが君の恩賜を拝することになりましょう、どうして寡人一人のことでありましょうか。」
- 斉の孝公は両手を組んで礼をして楚の成王に譲り、成王もまた両手を組んで礼をして孝公に譲った。二君は互いに譲り合い、長らく決着がつかなかった。
- 襄公は「二君が寡人を見捨てなさらないなら、どうかともに署名なさってください」と言い、会を招集する文書を出したが、斉侯には送らず、まず楚の成王に送って署名を求めた。孝公は内心不快に思った。
- 楚の成王は文書に目を通すと、諸侯を合わせて盟会を修める旨が記され、斉の桓公の衣裳の会に倣い、兵車を用いないとあった。文書の末尾には宋公がすでに署名していた。
- 楚の成王は密かに笑い、襄公に「諸侯は君が自ら集められる、どうして寡人に頼る必要があろうか」と言った。
- 襄公は「鄭と許は久しく君の傘下におり、陳と蔡も近頃また斉の地で君との盟に加わったばかりです、君のお力を頼らねば、異心を抱くのではと恐れます、寡人はそれゆえ大国のお力をお借りするのです」と言った。
- 楚の成王は「それならば斉君が署名すべきで、次いで寡人に及ぶのがよかろう」と言った。
- 孝公は「寡人は宋に対してさえ、その傘下にある身のようなものです。招き寄せにくい諸侯については、大国の威令が要るというだけのことです」と言った。
- 楚王は笑って署名し、筆を孝公に渡した。孝公は「楚があれば、斉は必ずしもなくともよい。寡人は流浪して幾度も死地をくぐった末、幸いにも社稷を失わずに済み、末席で血をすすって盟うことに加われるだけでも光栄です、どうして重んずるに足りましょうか、この文書を汚す必要がありましょうか」と言い、頑として署名しなかった。
- 斉の孝公の内心は、宋の襄公が先に楚王に署名を求めたことを怪しみ、彼が楚を重んじ斉を軽んじていると見抜いたため、署名しなかったのである。
- 宋の襄公は自ら斉に恩があると自負していたので、孝公の言葉を心からのものと受け取り、そのまま文書を収めてしまった。
- 三君は鹿上でさらに数日過ごし、丁寧に別れを告げた。
- 髯仙が詩を作って嘆いた。(詩:諸侯はもともと中華に属するのに、なぜこれほど楚に頼るのか、同根の一本の木だと誤って認識しているが、実はそれぞれに枝分かれしていることを誰が知ろうか、という趣旨。)
成得臣、盟主劫略を進言する
- 楚の成王は帰国すると、その経緯を令尹の子文に述べた。子文は「宋君は狂気じみている、わが王はなぜ会の招集を許されたのですか」と言った。
- 楚王は笑って「寡人は中華の政を主宰したいと望んで久しい、その機会がないことを恨んでいたのだ。今、宋公が衣裳の会を唱え、寡人はこれに乗じて諸侯を合わせようとしている、これでよいではないか」と言った。
- 大夫の成得臣が進み出て「宋公は名を好むが実がなく、軽信して謀が浅い人物です、もし鎧を着けた兵を伏せておいてこれを襲えば、その人物は虜にできます」と言った。
- 楚王は「寡人の考えもまさにその通りだ」と言った。
- 子文は「人と会うことを約束しておきながらこれを劫かせれば、人は楚に信がないと言うでしょう、それでどうして諸侯を服させられましょうか」と言った。
- 得臣は言った。「宋は盟主となることを喜び、必ず諸侯に対して驕る心を持ちましょう。諸侯はまだ宋の政に慣れておらず、味方する者はおりますまい。これを劫かして威を示し、劫かしてから釈放すれば、また徳を示すこともできます。諸侯は宋の無能を恥じ、楚に帰属しないでどこに帰しましょうか。小さな信義にこだわって大きな功を失うのは、良策ではありません。」
- 子文は「子玉(成得臣)の計は、臣の及ぶところではございません」と奏上した。
- 楚王はそこで成得臣・鬥勃の二人を将として、それぞれ勇士五百人を選び、操練させて命に従わせ、あらかじめ盟主を劫かす計を定めた。詳しくは述べず、この先の文で明らかになろう。
宋襄公、目夷の諫めを聞かず盟会に赴く
- さて宋の襄公は鹿上から帰ると、機嫌よく喜色を浮かべ、公子目夷に「楚はすでに寡人のために諸侯を招き集めることを承知してくれた」と言った。
- 目夷は諫めて「楚は蛮夷です、その心は測りがたいものです。君はその口を得ましたが、その心を得たわけではありません。臣は君が欺かれることを恐れます」と言った。
- 襄公は「子魚は心配しすぎだ、寡人は忠信をもって人に接している、人がどうして寡人を欺けようか」と言い、目夷の言に従わず、諸侯を集める檄文を伝えた。
- まず人を遣わして盂の地に壇場を築かせ、公館を増修させ、極めて華麗にした。
- 倉庫には秣と糧食を蓄え、各国の軍馬が食う分に備えた。賓客への饗応と贈答、各国の随行軍をねぎらう振る舞いの儀は、一つ一つ手厚くし、準備せぬものはなかった。
- 秋七月に至り、宋の襄公は乗車で会に赴くことにした。
- 目夷はまた諫めて「楚は強くて義がありません、どうか兵車を率いて赴かれますよう」と言った。
- 襄公は「寡人は諸侯と『衣裳の会』を約したのだ、もし兵車を用いれば、自ら約束したことを自ら破ることになる、後日、諸侯に信を示すことができなくなろう」と言った。
- 目夷は「君は乗車のみで信を全うされるとして、臣に三里の外に兵車百乗を伏せさせ、緩急に備えさせてはいかがでしょう」と言ったが、襄公は「そなたが兵車を用いれば、寡人が用いるのと何ら変わらない、決してならぬ」と言った。
- 出発の際、襄公は目夷が国内で兵を起こして呼応することを恐れ、その信義を損なうことを避けようとして、目夷を同行させることにした。目夷は「臣も心配で仕方がありません、ご一緒させていただきます」と言った。
- こうして君臣ともに会の場所へと向かった。
- 楚・陳・蔡・許・曹・鄭の六国の君は、期日通りに到着した。ただ斉の孝公は心中不快に思い、魯の僖公はまだ楚と通じておらず、二君は来なかった。
- 襄公は使者を遣わして六国の諸侯を迎えさせ、宿舎に分かれて休ませたところ、報告によれば「みな乗車を用いておりました。楚王の従者は多いとはいえ、これも乗車でございました」とのことであった。
- 襄公は「わしは楚が我らを欺かないことを知っていた」と言った。
盟壇の劫略
- 太史が盟の日の吉日を占い、襄公は各国に伝え知らせた。数日前から壇上の執事の役割を定めておいた。
- その朝、五更に壇の上下にはみなかがり火が設けられ、白昼のように照らし出された。壇のかたわらには別に休憩の場所があり、襄公は先に来て待った。
- 陳の穆公穀、蔡の荘公甲午、鄭の文公捷、許の僖公業、曹の共公襄の五人の諸侯が次々と到着した。
- しばらく待つうち、空が明るみかけた頃、楚の成王熊惲がようやく到着した。
- 襄公は主人の礼に則り、一通りの挨拶を交わし、左右二つの階から壇に登った。右の階は賓が登るもので、諸侯はあえて楚の成王を差し置くことができず、これを筆頭に立たせた。成得臣・鬥勃の二将が付き従い、諸侯もそれぞれ従臣を連れていた。詳しくは述べない。
- 左の階は主が登るもので、宋の襄公と公子目夷の君臣二人だけであった。
- 階を登る段階では、賓と主の序を論じておけば済む。しかしいったん盟壇の上に登り、犠牲を陳ね血をすすって盟い、天日に誓いを立て、名を列ねて盟書を作るとなれば、誰を盟主として推し尊ぶかを決めねばならない。
- 宋の襄公は楚王が口を開くのを期待し、目で促した。楚王は頭を垂れて何も言わなかった。陳・蔡以下の国々も顔を見合わせ、誰も先んじて口を開こうとしなかった。
- 襄公は我慢できなくなり、昂然として進み出て言った。「本日の挙は、寡人が先の伯主斉の桓公の遺業を継ぎ、王を尊び民を安んじ、兵を息め戦を罷め、天下とともに太平の福を享けようとするものです、諸君はいかがお考えか。」
- 諸侯がまだ答えぬうちに、楚王が身を乗り出して言った。「君の言はまことに良い。ただ盟主は今、誰に属するのか分からぬが。」
- 襄公は「功ある者を論じ、功なくば爵を論ずる、それ以上に何を言うことがあろうか」と言った。
- 楚王は「寡人は爵を冒して王を名乗って久しい。宋は上公にすぎない、王の前には列しがたい、寡人は失礼ながら先んじさせてもらう」と言い、そのまま第一の位に立った。
- 目夷は襄公の袖を引き、しばらく我慢して改めて策を練るよう促そうとした。
- 襄公は盟主の座を掌中に収めたつもりでいたのに、土壇場でひっくり返されたのだから、腹が立たぬはずがない。腹の中に一杯の怒気を含みつつ、思わず激しい言葉と険しい顔つきになり、楚王に言った。「寡人は先代の福を受けて上公を辱くも受け継ぎ、天子もまた賓客の礼をもって遇してくださっている。君が『爵を冒す』と言われるのは、すなわち王号の僭称だ。どうして仮の王が真の公を圧するというのか。」
- 楚王は「寡人がすでに仮の王だというなら、その寡人をここへ招けと誰がそなたに言ったのだ。ほかならぬそなた自身が招いたのではないか」と言った。
- 襄公は「君がここに来られたのは、これも鹿上ですでに合意があったからだ、寡人が勝手に約束を破ったのではない」と言った。
- 成得臣がそばから大声で言った。「本日のことは、ただ諸侯に問えばよい、楚のために来たのか、宋のために来たのか。」
- 陳・蔡各国はふだんから楚に畏服しており、声を揃えて「我らは実に楚の命を奉じて参りました、来ずにはいられませんでした」と言った。
- 楚王は呵呵と大笑して「宋君にはさらに何か言うことがあるか」と言った。
- 襄公はこれはまずいと見て、道理を説こうとしたが、相手は理の是非などまったく構わず、身を脱する術を図ろうにも、身を護る甲兵が一人もおらず、まさに躊躇していた。
- そこへ成得臣・鬥勃が礼服を脱ぎ捨て、中には重い鎧を身につけ、腰にはそれぞれ小さな紅旗を差しているのが見え、旗を壇の下に向けて振ると、楚王に付き従っていた者は千人を下らず、一人一人が衣を脱いで鎧を露わにし、隠し持った武器を手に、蜂の群れ蟻の群れのように壇の上に殺到した。
- 諸国の諸侯はみな魂が飛ぶほど驚いた。
- 成得臣はまず宋の襄公の両袖をしっかりと捻り取り、鬥勃とともにその鎧を露わにした武装兵たちを指揮して、壇上に並べられていた玉や絹、器物の類を掠奪した。
- 執事の者たちはあわてて逃げ惑った。
- 宋の襄公は公子目夷がすぐそばに付き従っているのを見て、低い声で「そなたの言を聞かなかったことを悔いる、こんなことになろうとは、速やかに国に帰って守りを固めよ、寡人のことは気にかけずともよい」と言った。
- 目夷はもはや付き従っても益がないと察し、混乱に乗じて逃げ帰った。
- 宋の襄公がどう身を脱するかは分からない、次回を見られよ。
原文(底本)
話說高虎乘雍巫統兵出城,遂伏壯士於城樓,使人請豎刁議事。豎刁不疑,昂然而來。高虎置酒樓中相待,三杯之後,高虎開言:「今宋公糾合諸侯,起大兵送太子到此,何以禦之?」豎刁曰:「已有易牙統兵出郊迎敵矣。」虎曰:「眾寡不敵,奈何?老夫欲借重吾子,以救齊難。」豎刁曰:「刁何能為?如老大夫有差遣,惟命是聽!」虎曰:「欲借子之頭,以謝罪於宋耳!」刁愕然遽起。虎顧左右喝曰:「還不下手!」壁間壯士突出,執豎刁斬之。虎遂大開城門,使人傳呼曰:「世子已至城外,願往迎者隨我!」國人素惡雍巫豎刁之為人,因此不附無虧,見高虎出迎世子,無不攘臂樂從,隨行者何止千人。國懿仲入朝,直叩宮門,求見無虧,奏言:「人心思戴世子,相率奉迎,老臣不能阻當,主公宜速為避難之計。」無虧問:「雍巫豎刁安在?」懿仲曰:「雍巫勝敗未知。豎刁已為國人所殺矣。」無虧大怒曰:「國人殺豎刁,汝安得不知?」顧左右欲執懿仲,懿仲奔出朝門。無虧帶領內侍數十人,乘一小車,憤然仗劍出宮,下令欲發丁壯授甲,親往禦敵。內侍輩東喚西呼,國中無一人肯應,反叫出許多冤家出來。正是: 恩德終須報,冤仇撒不開。從前作過事,沒興一齊來。 這些冤家,無非是高氏、國氏、管氏、鮑氏、寧氏、陳氏、晏氏、東郭氏、南郭氏、北郭氏、公孫氏、閭邱氏眾官員子姓。當初只為不附無虧,被雍巫豎刁殺害的,其家屬人人含怨,個個銜冤,今日聞宋君送太子入國,雍巫統兵拒戰,論起私心,巴不得雍巫兵敗。又怕宋國兵到,別有一番殺戮之慘,大家懷著鬼胎。及聞高老相國殺了豎刁,往迎太子,無不喜歡,都道:「今日天眼方開!」齊帶器械防身,到東門打探太子來信,恰好撞見無虧乘車而至,仇人相見,分外眼睜,一人為首,眾人相助,各各挺著器械,將無虧圍住。內侍喝道:「主公在此,諸人不得無禮!」眾人道:「那裏是我主公!」便將內侍亂砍,無虧抵擋不住,急忙下車逃走,亦被眾人所殺。東門鼎沸,卻得國懿仲來撫慰一番,眾人方纔分散。懿仲將無虧屍首抬至別館殯殮,一面差人飛報高虎。 再說雍巫正屯兵東關,與宋相持,忽然軍中夜亂,傳說:「無虧豎刁俱死,高虎相國率領國人,迎接太子昭為君,吾等不可助逆。」雍巫知軍心已變,心如芒刺,急引心腹數人,連夜逃奔魯國去訖。天明,高虎已到,安撫雍巫所領之眾。直至郊外,迎接世子昭,與宋、衛、曹、邾四國請和。四國退兵。高虎奉世子昭行至臨淄城外,暫停公館,使人報國懿仲整備法駕,同百官出迎。卻說公子元公子潘聞知其事,約會公子商人,一同出郭奉迎新君。公子商人咈然曰:「我等在國奔喪,昭不與哭泣之位,今乃借宋兵威,以少凌長,強奪齊國,於理不順。聞諸侯之兵已退,我等不如各率家甲,聲言為無虧報仇,逐殺子昭。吾等三人中,憑大臣公議一人為君,也免得受宋國箝制,滅了先公盟主的志氣。」公子元曰:「若然,當奉宮中之令而行,庶為有名。」乃入宮稟知長衛姬。長衛姬泣曰:「汝能為無虧報仇,我死無恨矣!」即命糾集無虧舊日一班左右人眾,合著三位公子之黨,同拒世子。豎刁手下亦有心腹,欲為其主報仇,也來相助,分頭據住臨淄城各門。國懿仲畏四家人眾,將府門緊閉,不敢出頭了。高虎謂世子昭曰:「無虧豎刁雖死,餘黨尚存,況有三公子為主,閉門不納。若欲求入,必須交戰,儻戰而不勝,前功盡棄。不如仍走宋國求救為上。」世子昭曰:「但憑國老主張。」高虎乃奉世子昭復奔宋國。宋襄公纔班師及境,見世子昭來到,大驚,問其來意。高虎一一告訴明白。襄公曰:「此寡人班師太早之故也。世子放心,有寡人在,何愁不入臨淄哉?」即時命大將公孫固增添車馬。(先前有衛、曹、邾三國同事,止用二百乘,今日獨自出車,加至四百乘。)公子蕩為先鋒,華御事為合後,親將中軍,護送世子,重離宋境,再入齊郊。時有高虎前驅,把關將吏,望見是高相國,即時開門延入,直逼臨淄下寨。宋襄公見國門緊閉,吩咐三軍准備攻城器具。城內公子商人謂公子元公子潘曰:「宋若攻城,必然驚動百姓。我等率四家之眾,乘其安息未定,合力攻之。幸而勝固善,不幸而敗,權且各圖避難,再作區處。強如死守於此,萬一諸侯之師畢集,如之奈何?」元潘以為然。乃於是日,夜開城門,各引軍出來劫宋寨,不知虛實,單劫了先鋒公子蕩的前營。蕩措手不及,棄寨而奔。中軍大將公孫固,聞前寨有失,急引大軍來救。後軍華御事,同齊國老大夫高虎,亦各率部下接應。兩下混戰,直至天明。四家黨羽雖眾,各為其主,人心不齊,怎當得宋國大兵。當下混戰了一夜,四家人眾,被宋兵殺得七零八落。公子元恐世子昭入國,不免於禍,乘亂引心腹數人,逃奔衛國避難去訖。公子潘公子商人收拾敗兵入城。宋兵緊隨其後,不能閉門,崔夭為世子昭御車,長驅直入。上卿國懿仲聞四家兵散,世子已進城,乃聚集百官,同高虎擁立世子昭即位。即以本年為元年,是為孝公。孝公嗣位,論功行賞,進崔夭為大夫。大出金帛,厚犒宋軍。襄公留齊境五日,方纔回宋。時魯僖公起大兵來救無虧,聞孝公已立,中道而返,自此魯齊有隙。不在話下。 再說公子潘與公子商人計議,將出兵拒敵之事,都推在公子元身上。國高二國老,明知四家同謀,欲孝公釋怨修好,單治首亂雍巫、豎刁二人之罪,盡誅其黨,餘人俱赦不問。是秋八月,葬桓公於牛首堈之上,連起三大墳。以晏蛾兒附葬於旁,另起一小墳。又為無虧公子元之故,將長衛姬少衛姬兩宮內侍宮人,悉令從葬,死者數百人。後至晉永嘉末年,天下大亂,有村人發桓公塚,塚前有水銀池,寒氣觸鼻,人不敢入,經數日,其氣漸消。乃牽猛犬入塚中,得金蠶數十斛,珠襦玉匣,繒綵軍器,不可勝數,塚中骸骨狼藉,皆殉葬之人也。足知孝公當日葬父之厚矣。亦何益哉!髯仙有詩云: 疑塚三堆峻似山,金蠶玉匣出人間。從來厚蓄多遭發,薄葬須知不是慳。 話分兩頭。卻說宋襄公自敗了齊兵,納世子昭為君,自以為不世奇功,便想號召諸侯,代齊桓公為盟主。又恐大國難致,先約滕、曹、邾、鄫小國,為盟於曹國之南。曹邾二君到後,滕子嬰齊方至。宋襄不許嬰齊與盟,拘之一室。鄫君懼宋之威,亦來赴會,已踰期二日矣。宋襄公問於群臣曰:「寡人甫倡盟好,鄫小國,輒敢怠慢,後期二日,不重懲之,何以立威!」大夫公子蕩進曰:「向者齊桓公南征北討,獨未服東夷之眾。君欲威中國,必先服東夷。欲服東夷,必用鄫子。」襄公曰:「用之何如?」公子蕩曰:「睢水之次,有神能致風雨。東夷皆立社祠之,四時不缺。君誠用鄫子為犧牲,以祭睢神,不惟神將降福,使東夷聞之,皆謂君能生殺諸侯,誰不聳懼來服?然後藉東夷之力,以征諸侯,伯業成矣。」上卿公子目夷諫曰:「不可,不可!古者小事不用大牲,重物命也,況於人乎?夫祭祀,以為人祈福也。殺人以祈人福,神必不饗。且國有常祀,宗伯所掌。睢水河神,不過妖鬼耳!夷俗所祀,君亦祀之,未見君之勝於夷也。而誰肯服之?齊桓公主盟四十年,存亡繼絕,歲有德施於天下。今君纔一舉盟會,而遂戮諸侯以媚妖神,臣見諸侯之懼而叛我,未見其服也。」公子蕩曰:「子魚之言謬矣!君之圖伯與齊異。齊桓公制國二十餘年,然後主盟,君能待乎?夫緩則用德,急則用威,遲速之序,不可不察也。不同夷,夷將疑我;不懼諸侯,諸侯將玩我。內玩而外疑,何以成伯?昔武王斬紂頭,懸之太白旗,以得天下。此諸侯之行於天子者也,而何有於小國之君?君必用之。」襄公本心急於欲得諸侯,遂不聽目夷之言,使邾文公執鄫子殺而烹之,以祭睢水之神。遣人召東夷君長,俱來睢水會祀。東夷素不習宋公之政,莫有至者。滕子嬰齊大驚,使人以重賂求釋,乃解嬰齊之囚。曹大夫僖負羈謂曹共公襄曰:「宋躁而虐,事必無成,不如歸也。」共公辭歸,遂不具地主之禮。襄公怒,使人責之曰:「古者國君相見,有脯資餼牢,以修賓主之好。寡君逗留於君之境上,非一日矣。三軍之眾,尚未知主人之所屬。願君圖之!」僖負羈對曰:「夫授館致餼,朝聘之常禮也。今君以公事涉於南鄙,寡人亟於奔命,未及他圖。今君責以主人之禮,寡君愧甚,惟君恕之!」曹共公遂歸。襄公大怒,傳令移兵伐曹。公子目夷又諫曰:「昔齊桓公會盟之跡,遍於列國,厚往薄來,不責其施,不誅其不及,所以寬人之力,而恤人之情也。曹之缺禮,於君無損,何必用兵?」襄公不聽,使公子蕩將兵車三百乘,伐曹圍其城。僖負羈隨方設備,與公子蕩相持三月,蕩不能取勝。是時,鄭文公首先朝楚,約魯、齊、陳、蔡四國之君,與楚成王為盟於齊境。宋襄公聞之大驚。一來恐齊魯兩國之中,或有倡伯者,宋不能與爭,二來又恐公子蕩攻曹失利,挫了銳氣,貽笑於諸侯,乃召蕩歸。曹共公亦恐宋師再至,遣人至宋謝罪。自此宋曹相睦如初。 再說宋襄公一心求伯,見小國諸侯,紛紛不服,大國反遠與楚盟,心中憤急,與公子蕩商議。公子蕩進曰:「當今大國,無過齊楚。齊雖伯主之後,然紛爭方定,國勢未張。楚僭王號,乍通中國,諸侯所畏。君誠不惜卑詞厚幣,以求諸侯於楚,楚必許之。借楚力以聚諸侯,復借諸侯以壓楚,此一時權宜之計也。」公子目夷又諫曰:「楚有諸侯,安肯與我?我求諸侯於楚,楚安肯下我?恐爭端從此開矣!」襄公不以為然。即命公子蕩以厚賂如楚,求見楚成王。成王問其來意,許以明年之春,相會於鹿上之地。公子蕩歸報襄公,襄公曰:「鹿上齊地,不可不聞之齊侯。」復遣公子蕩如齊修聘,述楚王期會之事。齊孝公亦許之。時宋襄公之十一年,乃周襄王之十二年也。 次年春正月,宋襄公先至鹿上,築盟壇以待齊楚之君。二月初旬,齊孝公始至。襄公自負有納孝公之功,相見之間,頗有德色。孝公感宋之德,亦頗盡地主之禮。又二十餘日,楚成王方到。宋齊二君接見之間,以爵為序。楚雖僭王號,實是子爵。宋公為首,齊侯次之,楚子又次之。這是宋襄公定的位次。至期,共登鹿上之壇,襄公毅然以主盟自居,先執牛耳,並不謙讓。楚成王心中不悅,勉強受歃。襄公拱手言曰:「茲父忝先代之後,作賓王家,不自揣德薄力微,竊欲修舉盟會之政。恐人心不肅,欲借重二君之餘威,以合諸侯於敝邑之盂地,以秋八月為期。若君不棄,倡率諸侯,徼惠於盟,寡人願世敦兄弟之好。自殷先王以下,咸拜君之賜,豈獨寡人乎?」齊孝公拱手以讓楚成王,成王亦拱手以讓孝公,二君互相推讓,良久不決。襄公曰:「二君若不棄寡人,請同署之。」乃出徵會之牘,不送齊侯,卻先送楚成王求署。孝公心中亦懷怏怏。楚成王舉目觀覽,牘中敘合諸侯修會盟之意,效齊桓公衣裳之會,不以兵車。牘尾宋公先已署名。楚成王暗暗含笑,謂襄公曰:「諸侯君自能致,何必寡人?」襄公曰:「鄭許久在君之宇下,而陳蔡近者復受盟於齊,非乞君之靈,懼有異同。寡人是以借重於上國。」楚成王曰:「然則齊君當署,次及寡人可也。」孝公曰:「寡人於宋,猶宇下也,所難致者,上國之威令耳。」楚王笑而署名,以筆授孝公。孝公曰:「有楚不必有齊。寡人流離萬死之餘,幸社稷不隕,得從末歃為榮,何足重輕,而褻此簡牘為耶?」堅不肯署。論齊孝公心事,卻是怪宋襄公先送楚王求署,識透他重楚輕齊,所以不署。宋襄公自負有恩於齊,卻認孝公是衷腸之語,遂收牘而藏之。三君於鹿上又敘數日,丁寧而別。髯仙有詩嘆曰: 諸侯原自屬中華,何用紛紛乞楚家?錯認同根成一樹,誰知各自有丫叉? 楚成王既歸,述其事於令尹子文。子文曰:「宋君狂甚!吾王何以徵會許之?」楚王笑曰:「寡人欲主中華之政久矣,恨不得其便耳。今宋公倡衣裳之會,寡人因之以合諸侯,不亦可乎?」大夫成得臣進曰:「宋公為人好名而無實,輕信而寡謀,若伏甲以劫之,其人可虜也。」楚王曰:「寡人意正如此。」子文曰:「許人以會而復劫之,人謂楚無信矣,何以服諸侯?」得臣曰:「宋喜於主盟,必有傲諸侯之心。諸侯未習宋政,莫之與也。劫之以示威,劫而釋之,又可以示德。諸侯恥宋之無能,不歸楚,將誰歸乎?夫拘小信而喪大功,非策也。」子文奏曰:「子玉之計,非臣所及。」楚王乃使成得臣鬥勃二人為將,各選勇士五百人,操演聽令,預定劫盟之計。不必詳說,下文便見。 且說宋襄公歸自鹿上,欣然有喜色,謂公子目夷曰:「楚已許我諸侯矣。」目夷諫曰:「楚,蠻夷也,其心不測。君得其口,未得其心。臣恐君之見欺也。」襄公曰:「子魚太多心了。寡人以忠信待人,人其忍欺寡人哉?」遂不聽目夷之言,傳檄征會。先遣人於盂地築起壇場,增修公館,務極華麗。倉場中儲積芻糧,以待各國軍馬食費。凡獻享犒勞之儀,一一從厚,無不預備。至秋七月,宋襄公命乘車赴會。目夷又諫曰:「楚強而無義,請以兵車往。」襄公曰:「寡人與諸侯約為『衣裳之會』若用兵車,自我約之,自我墮之,異日無以示信於諸侯矣。」目夷曰:「君以乘車全信,臣請伏兵車百乘於三里之外,以備緩急何如?」襄公曰:「子用兵車,與寡人用之何異?必不可!」臨行之際,襄公又恐目夷在國起兵接應,失了他信義,遂要目夷同往。目夷曰:「臣亦放心不下,也要同去。」於是君臣同至會所。楚、陳、蔡、許、曹、鄭六國之君,如期而至。惟齊孝公心懷怏怏,魯僖公未與楚通,二君不到。襄公使候人迎接六國諸侯,分館安歇,回報:「都用乘車。楚王侍從雖眾,亦是乘車。」襄公曰:「吾知楚不欺吾也!」 太史卜盟日之吉,襄公命傳知各國。先數日,預派定壇上執事人等。是早五鼓,壇之上下,皆設庭燎,照耀如同白日。壇之旁,另有憩息之所,襄公先往以待。陳穆公穀,蔡莊公甲午,鄭文公捷,許僖公業,曹共公襄五位諸侯,陸續而至。伺侯良久,天色將明,楚成王熊惲方到。襄公且循地主之禮,揖讓了一番,分左右兩階登壇。右階賓登,眾諸侯不敢僭楚成王,讓之居首。成得臣鬥勃二將相隨,眾諸侯亦各有從行之臣。不必細說。左階主登,單只宋襄公及公子目夷君臣二人。方纔升階之時,論個賓主,既登盟壇之上,陳牲歃血,要天矢日,列名載書,便要推盟主為尊了。宋襄公指望楚王開口,以目視之。楚王低頭不語。陳蔡諸國,面面相覷,莫敢先發。襄公忍不往了,乃昂然而出曰:「今日之舉,寡人欲修先伯主齊桓公故業,尊王安民,息兵罷戰,與天下同享太平之福,諸君以為何如?」諸侯尚未答應,楚王挺身而前曰:「君言甚善!但不知主盟今屬何人?」襄公曰:「有功論功,無功論爵,更有何言!」楚王曰:「寡人冒爵為王久矣。宋雖上公,難列王前,寡人告罪占先了。」便立在第一個位次。目夷扯襄公之袖,欲其權且忍耐,再作區處。襄公把個盟主捏在掌中,臨時變卦,如何不惱。包著一肚子氣,不免疾言遽色,謂楚王曰:「寡人徼福先代,忝為上公,天子亦待以賓客之禮。君言冒爵,乃僭號也。奈何以假王而壓真公乎?」楚王曰:「寡人既是假王,誰教你請寡人來此?」襄公曰:「君之至此,亦是鹿上先有成議,非寡人之謾約也。」成得臣在旁大喝曰:「今日之事,只問眾諸侯,為楚來乎?為宋來乎?」陳蔡各國,平素畏服於楚,齊聲曰:「吾等實奉楚命,不敢不至。」楚王呵呵大笑曰:「宋君更有何說?」襄公見不是頭,欲待與他講理,他又不管理之長短,欲作脫身之計,又無片甲相護,正在躊躇。只見成得臣鬥勃卸去禮服,內穿重鎧,腰間各插小紅旗一面,將旗向壇下一招,那跟隨楚王人眾,何止千人,一個個俱脫衣露甲,手執暗器,如蜂攢蟻聚,飛奔上壇。各國諸侯,俱嚇得魂不附體。成得臣先把宋襄公兩袖緊緊捻定,同鬥勃指揮眾甲士,擄掠壇上所陳設玉帛器皿之類。一班執事,亂竄奔逃。宋襄公見公子目夷緊隨在旁,低聲謂曰:「悔不聽子言,以至如此,速歸守國,勿以寡人為念!」目夷料想跟隨無益,乃乘亂逃回。不知宋襄公如何脫身,且看下回分解。
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