東周列國志第三十八回 周の襄王、乱を避けて鄭に居る/晋の文公、信を守って原を降す (周襄王避亂居鄭 晉文公守信降原)

太叔帶の出奔

  • 話は変わって、周の襄王は宮女小東の言葉を聞き、一時かっと怒りが込み上げ、急いで寝台の脇の剣を取り、中宮へ駆けつけて太叔を殺そうとした。数歩進んだところで、ふと思い直した。「太叔は太后の愛する子である。もし私が殺せば、外の者はその罪を知らず、必ず私を不孝と見なすであろう。それに太叔は武芸に優れ、もし逆らって剣を交えれば、かえって見苦しいことになる。むしろしばらく我慢して、明日確かな証拠を得た上で、隗后を退けよう。太叔もおそらく居づらくなり、必ず国外に出奔するだろう。その方が穏便ではないか。」
  • ため息をついて剣を地に投げ捨て、寝室に戻り、側近の内侍を遣わして太叔の様子を探らせた。戻って報告するには「太叔は小東が我が王に訴えたと知り、すでに身を脱して宮を出て行きました」とのことであった。
  • 襄王は言った。「宮門の出入りは、どうして朕に伺いを立てないのか。これも朕が宮門の警備を疎かにしていたせいだ。」
  • 翌朝、襄王は中宮の侍妾たちを捕らえて尋問させた。初めは言い逃れていたが、小東を呼び出して面と向かって証言させると、隠しきれなくなり、これまでの醜聞をすべて白状した。
  • 襄王は隗后を幽閉の宮に落とし、その門を封鎖し、壁に穴を開けて飲食を通させた。太叔帶は自分に罪があることを知り、翟国に逃げ去った。惠太后はこれに驚いて心の病を発症し、これより病床に伏したまま起きられなくなった。

翟の出兵

  • さて頹叔・桃子は隗后が退けられたと聞き、大いに驚いて言った。「そもそも兵を興して鄭を討つよう請うたのも我ら二人、隗氏との婚姻を請うたのも我ら二人であった。今にわかに退けられたとあっては、翟君は必ず我らを咎めるであろう。太叔は今、翟に出奔しているが、必ずでたらめな話をして翟君を煽動するはずだ。もし翟の兵がやって来て罪を問われれば、我らはどうやって身の潔白を証明できようか。」
  • そこでその日のうちに軽い車で急ぎ馳せ、太叔に追いついて、共に相談した。「翟君にお会いになるなら、必ずこのように、このように話してください。」
  • ほどなく翟国に着くと、太叔は郊外に車を止めた。頹叔・桃子はまず城に入って翟君に会い、次のように訴えた。「もともと我らは太叔のために婚姻を求めていたのですが、周王がその美貌を聞き、自ら手に入れて正妃に立ててしまったのです。ただ王后が太后の許にご機嫌伺いに行った際に太叔と行き会い、たまたま太叔が以前のことを話題にし、しばらく語り合っていたところ、宮人の讒言によって周王が軽々しく信じ、貴国の鄭討伐の功労を顧みず、王后を幽閉の宮に落とし、太叔を国外に追いやったのです。恩を忘れ徳に背き、義もなければ恩もありません。どうか一軍をお貸しいただき、王城に攻め入り、太叔を立てて王とし、王后を救い出して再び国母となすことこそ、まさに貴国の義挙でございます。」
  • 翟君はその言葉を信じ、「太叔はどこにいるのか」と尋ねた。頹叔・桃子は「今は郊外で命を待っております」と答えた。翟君はそこで太叔を城に迎え入れた。太叔は婿と義父の礼をもって会うことを願い、翟君は大いに喜んだ。そこで歩兵騎兵五千を割き、大将の赤丁に頹叔・桃子を添えて、太叔を奉じて周を伐たせた。

周軍の出陣と赤丁の計略

  • 周の襄王は翟兵が国境に迫ったと聞き、大夫の譚伯を使者として遣わし、翟軍中にて太叔の内乱の罪を諭させた。赤丁はこれを殺し、兵を進めて王城の下に迫った。
  • 襄王は大いに怒り、卿士の原伯貫を将に任じ、毛衛をその副として、兵車三百乗を率いて城を出て敵を防がせた。伯貫は翟兵の勇猛さを知り、軘車(陣を囲う防御用の兵車)を連ねて陣営を組み、堅固な城のようにした。赤丁は数度突撃したが、いずれも突破できなかった。赤丁が連日戦いを挑んでも、周軍は応じて出て来なかった。
  • 赤丁は大いに憤り、一計を案じた。翠雲山に高台を築かせ、その上に天子の旗を立て、兵士に太叔の扮装をさせて、台上で酒宴と歌舞を楽しませた。一方、頹叔・桃子にそれぞれ千の騎兵を率いさせ、山の左右に伏せさせ、周兵が来るのを待って、台上で砲を放って合図とし、一斉に攻め下ることとした。
  • さらに実子の赤風子に騎兵五百を率いさせ、まっすぐ周の陣営に迫って辱めを与え、怒りを煽らせた。もし敵が陣営を開いて出て来たら、負けたふりをして敗走し、翠雲山の一路に誘い込めば、それを功とすることとした。赤丁と太叔は大隊を率いて後方に控え、呼応して味方を支援する備えをした。手はずはすべて整えられた。

原伯貫の敗北と毛衛の死

  • さて赤風子は騎兵五百を率いて戦いを挑んだ。原伯貫は塁上からこれを望み見て、その少数を侮り、出撃しようとした。毛衛は諫めて言った。「翟人は詐術に長けています。ここは慎重にすべきです。彼らが油断するのを待って、初めて攻撃すべきでしょう。」
  • 正午頃まで持ちこたえていたところ、翟軍は皆馬を下りて地に座り込み、口々に罵り始めた。「周王は無道の君主で、こんな無能な将を用いている。降るでもなく戦うでもなく、いったい何を待っているのか。」中には地に横たわって罵る者もいた。
  • 原伯貫はついに我慢しきれず、陣営を開かせた。営門が開くと、車百余台が湧き出し、車上には金の兜と刺繍の鎧を着け、大きな柄の刀を手にした大将が立っていた。原伯貫その人であった。
  • 赤風子は急いで叫んだ。「者ども、早く馬に乗れ。」自ら鉄の矛を取って迎え戦い、十度も斬り合わないうちに馬首を返して西へ逃げた。兵士の多くは馬に乗り遅れ、周軍は競って馬を奪い、隊列はまったく乱れた。
  • 赤風子は馬を返して、また数合戦い、次第に翠雲山の近くへと誘い込んだ。赤風子は馬や武器をほとんど捨て置き、数騎を率いて山の後ろへ逃げ去った。
  • 原伯貫が頭を上げて見ると、山上に飛龍の赤い旗がひるがえり、繍傘の下に太叔が座り、盛んに音楽を鳴らして酒を飲んでいるのが見えた。原伯貫は言った。「この賊、命運はまさに我が手で尽きるだろう。」そこで平坦な場所を選んで車で山を登ろうとした。
  • 山上から擂木や砲石が投げ下ろされ、原伯はどうしようもなくなった。突然、山の窪みの中から連珠砲の音が響き、左に頹叔、右に桃子、両方の鉄騎が、狂風驟雨のように包囲して攻め寄せて来た。
  • 原伯は心中はかられたことを悟り、急いで車を返させたが、来た道はすでに翟軍が乱木を切り倒して塞ぎ、車が通れなくなっていた。原伯は歩卒に道を開かせようとしたが、兵士たちは皆心を挫かれ、戦わずして潰走した。
  • 原伯はなすすべもなく、刺繍の鎧を脱いで人混みに紛れて逃げようとした。一人の下級の兵卒が「将軍、こちらへ」と叫んだ。頹叔はその叫び声を聞き、原伯かと疑って、翟の騎兵に追跡を指揮させ、二十余人を捕らえたところ、案の定原伯もその中に含まれていた。
  • 赤丁の大軍が到着した時には、すでに大勝利を収めており、車馬や武器はことごとく奪われていた。逃げ延びた兵士は陣営に戻って毛衛に報告した。毛衛はただ堅く守ることを命じ、一方で人を遣わして周王に馳せ奏し、援軍と将の増派を求めた。この話はさておく。
  • 頹叔は原伯貫を縛り上げて太叔に献じた。太叔はこれを陣営に囚えさせた。頹叔は言った。「今、伯貫が捕らえられ、毛衛は必ず肝をつぶして戦意を失っているはず。もし夜半に陣営を奇襲し、火攻めにすれば、毛衛を捕らえることができましょう。」
  • 太叔はもっともだと思い、赤丁に伝えた。赤丁はその策を用い、密かに号令を伝えた。この夜三更以降、赤丁自ら歩兵千余を率い、皆鋭い斧を用いて鎖を断ち切り、大陣営に侵入し、それぞれの車上で蘆や葦に火を放った。
  • たちまち燃え広がり、陣営中は火の球が飛び交い、兵士は大いに乱れた。頹叔・桃子はそれぞれ精鋭の騎兵を率い、勢いに乗じて突入し、その鋭さは防ぎがたかった。
  • 毛衛は急いで小さな車に乗って陣営の後ろから逃げようとしたが、ちょうど歩兵の一隊に出くわし、その先頭に立っていたのは太叔帶であった。「毛衛、どこへ逃げるつもりか」と大喝すると、毛衛は太叔の一槍によって車の下に刺し殺された。
  • 翟軍は大勝利を収め、そのまま王城を包囲した。

襄王の脱出と富辰一族の討死

  • 周の襄王は二将が捕らえられたと聞き、富辰に言った。「早くに卿の言葉に従わなかったせいで、この禍を招いた。」
  • 富辰は言った。「翟の勢いは非常に猛烈です。我が王はしばし都を離れ、他国に身を退かれるべきでしょう。諸侯は必ず王を戻す議を起こすはずです。」
  • 周公孔は奏して言った。「王の軍は敗れたとはいえ、百官とその家族すべてを兵として動員すれば、なお都城を背にして最後の一戦を挑めましょう。どうして軽々しく社稷を棄て、命を諸侯に委ねるべきでしょうか。」
  • 召公過は奏して言った。「戦を論じるのは危険な策です。愚見によれば、この禍はすべて叔隗に起因しております。我が王はまず叔隗を誅してその罪を正し、その上で堅く守りながら諸侯の救援を待つべきです。それこそ万全の策と申せましょう。」
  • 襄王は嘆いて言った。「朕の不明が、自ら禍を招いたのだ。今、太后は病篤い。朕はしばらく位を避け、その心を慰めよう。もし人心が朕を忘れていなければ、後のことは諸侯が自ら図るに任せておけばよい。」
  • そこで周公・召公の二公に向かって言った。「太叔がここに来たのは、隗后のためだけである。太叔が隗氏を手に入れたとなれば、必ず国人の謗りを恐れて、王城には居座れまい。二卿は朕のために兵を修め城を固く守り、朕の帰還を待たれよ。」周公・召公の二公は額を地につけて拝礼し、命を受けた。
  • 襄王は富辰に尋ねた。「周に接する国は、鄭・衛・陳の三国のみである。朕はどこへ行けばよいか。」富辰は答えて言った。「陳・衛は弱いです。鄭に赴くのが良いでしょう。」
  • 襄王は言った。「朕はかつて翟を用いて鄭を討たせた。鄭は怨んでいないだろうか。」富辰は言った。「私が王に鄭へ赴くことをお勧めするのは、まさにその理由によります。鄭の先代は周に功があり、その子孫は必ずそれを忘れておりますまい。王が翟を用いて鄭を討たせたことで、鄭の心は平らかではなく、それゆえ日夜、翟が周に背くのを望んで、自らの恭順を明らかにしようとしております。今、王が鄭に赴かれれば、彼らは必ず喜んで奉迎するでしょう。どうして怨むことがありましょう。」
  • 襄王の意はこうして決まった。富辰はさらに請うて言った。「王が翟の囲みを突き破って脱出なさるとなれば、翟人が全軍を挙げて王に攻めかかることを恐れます。私は自分の家族を率いて翟と決戦し、王には隙を見て脱出していただきたく存じます。」
  • そこで子弟・親族を悉く召し、数百人を集め、忠義をもって彼らを励まし、門を開いて直に翟の陣営に突入し、翟兵を引きつけた。
  • 襄王は簡師父・左鄢父ら十余人を伴い、城を出て鄭国を目指して去った。
  • 富辰は赤丁と大いに戦い、翟兵を殺傷すること甚だ多かったが、辰もまた重傷を負った。頹叔・桃子に出会い、彼らは辰を慰めて言った。「あなたの忠告は、天下皆知るところである。今日は死ぬに及ばない。」
  • 富辰は言った。「かつて私はたびたび王を諫めたが、王は聞き入れず、こうなってしまった。もし私が命懸けで戦わなければ、王は必ず私を、諫言を容れられなかったことを恨む者と見なすであろう。」再び力戦すること久しく、力尽きて死んだ。子弟・親族で共に死んだ者は三百余人であった。史官が讃えた詩がある。
  • (詩:夷狄を用いて諸夏を侵し踏みにじるのがどうして良策であろうか。女を納れて淫らな乱れを引き起こし、自ら禍を招いた。繰り返し諫めたが聞き入れられず、それでも死力を尽くして戦った、富辰の忠義は『春秋』に伝わる、という趣旨)

太叔帶の即位と国人の歌

  • 富辰が死んだ後、翟人はようやく襄王がすでに王城を出たことを知った。この時、城門は再び閉ざされていた。太叔は原伯貫の囚を解き、城外から呼びかけさせた。
  • 周公・召公の二公は城楼の上に立ち、太叔に言った。「もともと門を開いてお迎えしたいのですが、翟兵が入城して略奪するのを恐れ、あえて開けられずにおります。」
  • 太叔は赤丁に願い出て、兵を城外に留めるよう求め、府庫の蓄えを犒いとして出すこととし、赤丁はこれを許した。太叔はそこで王城に入り、まず幽閉の宮に赴いて隗后を釈放し、その後惠太后に謁見した。
  • 太后は太叔を見て喜びに堪えず、一笑して息絶えた。太叔はまだ喪を治めることなく、まず隗后とともに宮中で歓楽を尽くした。小東を探し出して殺そうとしたが、小東は罪を恐れ、すでに井戸に身を投げて自殺していた。ああ、哀れなことである。
  • 翌日、太叔は太后の遺命と偽って自ら王を称し、叔隗を王后とし、朝廷に臨んで賀を受けた。府庫の蔵を開いて翟軍に大いに犒った後、太后の喪を発した。国人はこれを歌にした。
  • (詩:母の喪にも服さずに嫁を娶り、その嫁は嫂であったもの、臣下でありながら后を娶った。恥じることもなく、言うも醜いことだ。誰がこれを追い払うのか、私たちがともに立ち上がろう、という趣旨)
  • 太叔はこの国人の歌を聞き、世論が服していないことを自覚し、変事が起こるのを恐れた。そこで隗氏とともに温に移り住み、大いに宮室を築いて、日夜楽しみに耽った。王城内の国事は、すべて周公・召公の二公に委ねられ、名は王とはいえ、実際には臣民と関わることはなかった。原伯貫は原城へと逃れて行った。この話はしばらく措く。

襄王の氾への避難

  • さて周の襄王は王城を避け出て、鄭国を目指して進んでいたが、心中では鄭の意向が良いか悪いかは分からなかった。氾の地に行き着くと、その地は竹が多く公館がなく、竹川とも呼ばれていた。
  • 襄王が土地の者に尋ねると、すでに鄭の境内に入っていると分かり、すぐに車を止めさせ、農民封氏の草堂に宿を借りた。封氏は「お役職は何でございますか」と尋ねた。
  • 襄王は言った。「私は周の天子である。国中に難があり、それを避けてここに来た。」
  • 封氏は大いに驚き、額を地につけて拝礼し謝罪して言った。「私の家の二郎が、昨夜、赤い太陽が草堂を照らす夢を見ました。果たして貴人が下られたのですね。」そこで二郎に鶏を潰し黍飯を炊いて、もてなしの支度をさせた。
  • 襄王は「二郎とは何者か」と尋ねた。封氏は答えた。「私の継母が生んだ弟です。私とここに同居し、ともに炊事し耕作して、継母に孝養を尽くしております。」
  • 襄王は嘆いて言った。「お前たち農家の兄弟は、これほど和睦しているというのに、朕は天子の貴い身でありながら、逆に同母の弟に害される。朕はこの農民たちにも及ばないのだ。」そう言って悲しげに涙を流した。
  • 大夫の左鄢父が進み出て言った。「周公は大聖の方でしたが、それでも骨肉の変事がありました。我が王は自らを傷めることなく、速やかに諸侯に難を告げるべきです。諸侯もきっと座視はいたしますまい。」
  • 襄王はそこで自ら書の草稿を作り、人を遣わして斉・宋・陳・鄭・衛の諸国に分かれて告げさせた。その文はおおよそ次の通りである。
  • 「不穀(わたくし)は徳が薄く、母の寵愛する弟の帶に罪を得て、遠く鄭の地の氾に身を置いている。あえて告げる。」
  • 簡師父は奏して言った。「今日、覇を図る志を持つ諸侯は、秦と晋のみです。秦には蹇叔・百里奚・公孫枝ら賢者が政を執り、晋には趙衰・狐偃・胥臣ら賢者が政を執っております。必ず自国の君に、王室の危難に軍を出して救う義を勧めることでしょう。他国には期待できません。」
  • 襄王はそこで簡師父に晋への使いを命じ、左鄢父に秦への使いを命じた。
  • さて鄭の文公は襄王が氾に居ると聞き、笑って言った。「天子は今日ようやく翟が鄭に及ばないことを知ったのだろう。」その日のうちに工師を遣わして氾の地に廬舎を建てさせ、自ら赴いて起居を見舞い、器具を検分し、あらゆる供応を薄くしなかった。
  • 襄王は鄭の文公に対しかなり気恥ずかしい思いを抱いた。魯・宋の諸国もまた使者を遣わして安否を尋ね、それぞれ贈り物をした。ただ衛の文公だけは来なかった。魯の大夫臧孫辰(字は文仲)はこれを聞いて嘆いて言った。「衛侯はまもなく死ぬであろう。諸侯にとっての王は、木にとっての根、水にとっての源のようなものだ。木に根がなければ必ず枯れ、水に源がなければ必ず涸れる。死なずしてどうなろうか。」時に襄王十八年の冬十月であった。翌年の春、衛の文公は薨じた。世子の鄭が立ち、これが成公である。果たして臧文仲の言葉の通りとなった。これは後の話である。

晋文公の勤王決断

  • さて話は戻って簡師父が命を奉じて晋に告げた。晋文公は狐偃に問うた。狐偃は答えて言った。「かつて斉の桓公が諸侯を合わせることができたのは、王を尊んだからです。ましてや晋はたびたび君主を替え、民はこれを常のことと思い、君臣の大義を知りません。君はどうか王を王城にお戻しし、太叔の罪を討ち、民に、君主に対して二心を抱いてはならないことを知らしめてください。文侯が周を輔けた功勲を継ぎ、武公が晋を開いた偉業を光らせるのは、まさにここにございます。もし晋が王を納れなければ、秦が必ず納れるでしょう。そうなれば覇業は独り秦のものとなってしまいます。」
  • 文公は太史郭偃に占わせた。偃は言った。「大吉です。これは黄帝が坂泉で戦った兆しです。」文公は言った。「寡人はどうしてこれに当たれようか。」偃は答えて言った。「周室は衰えたとはいえ、天命はいまだ改まっておりません。今の王は、古の帝のようなもの。叔帶に打ち勝つことは必定です。」
  • 文公は言った。「さらに私のために占ってくれ。」得た卦は《乾》下《離》上の《大有》の卦で、第三爻が動き、変じて《兌》下《離》上の《睽》の卦となった。
  • 偃はこれを判断して言った。「《大有》の九三は『公はもって天子に享(もてなし)を捧げる』と言います。戦って勝ち、王が享を受ければ、これに勝る吉はありません。《乾》は天であり、《離》は日です。日が天にかかるのは昭明の象です。《乾》が変じて《兌》となり、《兌》は沢であり、沢は下にあって《離》の日の輝きを受けます。これは天子の恩光が晋国を照らすことを示しております。どうして疑う必要がありましょうか。」
  • 文公は大いに喜び、そこで車と兵を大いに閲兵し、左右の二軍に分けた。趙衰に左軍を将とさせ、魏犨をその佐とし、郤溱に右軍を将とさせ、顛頡をその佐とした。文公は狐偃・欒枝らを引き連れ、左右で呼応して支えた。
  • 出発に際し、河東の守りの役人が報せた。「秦伯が自ら大軍を率いて王室の救援に向かおうとしており、すでに河のほとりにいます。まもなく河を渡るでしょう。」
  • 狐偃は進み出て言った。「秦公は王室を救援する志があるのに、河のほとりに軍を留めているのは、東への道が通じていないためです。草の中の戎、土の中の狄のような部族が、いずれも車馬が必ず通らねばならない道を占めており、秦とはもとより通じていないため、それらが従わないことを恐れて、疑って進めずにいるのです。君が誠意をもって二つの夷族に賄賂を贈り、王室を救援するために道を借りたいという意向を伝えれば、二つの夷族は必ず聞き入れましょう。さらに人を遣わして秦君に出兵を辞退させ、晋の軍がすでに出発したと告げれば、秦は必ず軍を退くでしょう。」
  • 文公はその言葉に従った。一方で狐偃の子、狐射姑に金や絹の類を持たせ、戎・狄に賄賂を贈らせ、また胥臣を遣わして河のほとりで秦に辞を告げさせた。
  • 胥臣は穆公に謁見し、晋侯の言葉を伝えた。「天子は塵にまみれて国外にいらっしゃいます。君のご心痛は、わが君の心痛と同じです。わが君はすでに国中の兵を挙げて出兵し、君のご苦労に代わろうと、すでに手はずを整えております。あえて大軍を遠くまで煩わせることはございません。」
  • 穆公は言った。「寡人は晋君が新たに即位し、軍勢がまだ集結していないことを案じ、それゆえここまで駆けつけ、天子の難を防ごうとしていたのだ。晋君がすでに大義を挙げられるならば、寡人は静かに勝報を聞くこととしよう。」
  • 蹇叔・百里奚は皆言った。「晋侯は大義を専らにし、諸侯を服させようとしているのでしょう。恐らく主公がその功業を分け合うことを恐れて、人を遣わして我らの出兵を止めさせたのです。むしろ勢いに乗じて進撃し、共に天子を迎えようではありませんか。美事ではございませんか。」
  • 穆公は言った。「寡人も王室を救援することが美事であると知らぬわけではないが、東への道がまだ通じておらず、戎・狄が妨げとなることを恐れている。晋は初めて政を執ったばかり、大功がなければ国を安定させられまい。ここは譲るのがよかろう。」そこで公子縶を遣わし、左鄢父とともに氾に赴かせ、襄王を慰問させた。穆公は兵を引き上げて帰った。

晋軍の勤王と太叔帶の最期

  • さて胥臣は秦君が軍を退いたことを晋文公に復命した。晋軍はそこで陽樊に進み駐屯した。守りの役人の蒼葛が郊外に出て軍をねぎらった。
  • 文公は右軍将軍郤溱らに温を囲ませ、左軍将軍趙衰らに氾で襄王を迎えさせた。襄王は夏四月丁巳の日に王城に復帰し、周公・召公の二公が迎えて入朝させた。この話はさておく。
  • 温の人々は周王が復位したと聞き、群集して頹叔・桃子を攻め殺し、大いに城門を開いて晋軍を迎え入れた。太叔帶は慌てて隗后を連れて車に乗り、門を破って翟国へ逃げようとした。守門の兵士は門を閉ざして通さなかった。太叔は剣を振るって数人を斬り倒した。
  • ちょうど魏犨が追いつき、大喝した。「逆賊、どこへ逃げるつもりか。」太叔は言った。「お前が私を城の外に出してくれれば、いずれ厚く報いよう。」魏犨は言った。「天子がお前を放免するというなら、魏犨はそれを恩情としよう。」
  • 太叔は大いに怒り、剣を突き出して来たが、魏犨は車に躍り上がり、一刀のもとに彼を斬った。兵士は隗氏を捕らえて連れて来た。魏犨は言った。「この淫婦、生かしておいて何になろうか。」兵士たちに命じて乱れ矢を浴びせさせた。哀れなことに、花のように美しい夷の女は、太叔帶と半年の歓楽を過ごした後、今日、乱矢の下に死んだ。胡曾先生の詠史詩がある。
  • (詩:兄を追い出し嫂を盗んで南陽に拠ったが、半年の歓楽の末に二人ともども禍を被った。もし淫らな行いと反逆にすぐさま報いがなかったなら、この世に人の守るべき道などなくなっていたであろう、という趣旨)
  • 魏犨は二つの遺体を携えて郤溱のもとへ報告に行った。郤溱は言った。「なぜ檻に収めて天子のもとへ送り、天子の手で公に処刑させなかったのか。」魏犨は言った。「天子は弟を殺したという汚名を避け、晋の手を借りようとするだろう。ならばすぐに誅殺してしまう方が快いというものだ。」郤溱はため息をつきながら、二つの遺体を神農澗のほとりに埋めた。一方で温の民を慰撫し、一方で陽樊に勝報を報せた。

文公への賜邑

  • 晋文公は太叔と隗氏がともに誅殺されたと聞き、自ら王城に赴いて襄王に謁見し、戦勝を奏上した。襄王は甘い酒を設けてこれをもてなし、さらに大いに金や絹を贈った。
  • 文公は再拝して謝辞を述べて言った。「臣重耳はあえて賜り物を受けられません。ただ死後に隧道葬を用いることをお許しいただければ、臣はあの世でも限りなくご恩に浴することができます。」
  • 襄王は言った。「先王の礼制は、これによって上下を隔てるものであり、この生死に関わる文(規定)のみは、朕が私的な労をもって大典を乱すわけにはいかない。叔父(天子が同姓の諸侯を呼ぶ敬称)の大功は、朕は決して忘れない。」そこで畿内の温・原・陽樊・攢茅の四邑を割いて、文公の封地を増した。文公は謝恩して退いた。
  • 民衆は老幼を携えて街に溢れ、争って晋侯を一目見ようとし、嘆いて言った。「斉の桓公が今また現れたようだ。」
  • 晋文公は両路の軍にそれぞれ兵を引き上げるよう命じた。大軍は太行山の南に駐屯し、魏犨に陽樊の田を定めさせ、顛頡に攢茅の田を定めさせ、欒枝に温の田を定めさせ、晋侯自らは趙衰とともに原の田を定めた。
  • なぜ原の田を定めるのに文公自ら赴いたのか。その原はもともと周の卿士、原伯貫の封邑であった。原伯貫は兵に敗れて功がなく、襄王がその邑を取り上げて晋に与えた。伯貫がまだ原城にいたため、文公は伯貫が服さないことを恐れ、そのため必ず自ら赴く必要があったのである。顛頡は攢茅に、欒枝は温に赴くと、それぞれの守りの役人が酒食を携えて出迎えた。

陽樊の蒼葛の抵抗と晋の譲歩

  • さて魏犨が陽樊に至ると、守りの役人の蒼葛はその部下に言った。「周はすでに岐豊の地を失っている。残る地はどれほどあろうか。それなのに晋がまた四邑を受けるというのか。我らも晋も同じく王の臣なのに、どうしてこれに服せようか。」そこで民衆を率いて武器を持ち城に登った。
  • 魏犨は大いに怒り、兵を率いてこれを囲み、大声で叫んだ。「早く降伏せよ。さすれば万事すべて済むことだ。もし城を打ち破れば、皆殺しにするぞ。」
  • 蒼葛は城上から答えて言った。「私が聞くところでは『徳をもって中原の諸国を懐柔し、刑をもって四夷を威圧する』と申します。ここは王畿の地であり、畿内の民衆は、王の宗族でなければ王の親戚です。晋もまた周の臣子ではありませんか。どうして武力で威圧するに忍びましょうか。」
  • 魏犨はその言葉に感じ入り、人を遣わして文公に馳せ報せた。文公は蒼葛に書を送って言った。
  • 「四邑の地は天子の賜り物であり、寡人はあえてその命に背くことはできない。将軍がもし住民が天子の姻戚であることを思うなら、彼らを率いて周に帰るもよい。それもまた将軍の言われる通りにいたそう。」
  • そして魏犨に攻撃を緩めるよう諭し、陽の民の移住を許した。蒼葛は書を得て、城中の民衆に命じた。「周に帰りたい者は去るがよい、晋に従いたい者は残るがよい。」民衆の大半は去ることを願い、蒼葛はその全員をことごとく率いて軹村に移った。魏犨はその境界を定めて戻った。

原の攻略と信義

  • さて文公は趙衰とともに原に地を略め攻めた。原伯貫はその部下を欺いて言った。「晋軍は陽樊を囲み、その民をことごとく屠殺した。」原の人々は恐れ、共に死守を誓い、晋軍はこれを囲んだ。
  • 趙衰は言った。「民が晋に服さないのは、信じていないためです。君が信をもって示せば、攻めずして下るでしょう。」
  • 文公は言った。「どうやって信を示すべきか。」
  • 趙衰は答えて言った。「どうか令を下し、兵士にそれぞれ三日分の兵糧だけを持たせてください。もし三日で原を攻め落とせなければ、そのまま囲みを解いて去ることといたしましょう。」
  • 文公はその言葉に従った。三日目に至って、軍吏が報告した。「軍中には今日分の糧しか残っておりません。」文公は答えなかった。
  • この日の夜半、原の民が城壁を伝って降り、告げた。「城中ではすでに陽樊の民が虐殺されていないことを探り知り、明日の夜に城門を開くことを申し合わせております。」
  • 文公は言った。「寡人はもともと城を攻めるのに三日を期限と約束した。三日で落ちなければ、囲みを解いて去るのだ。今すでに三日を満たした。寡人は明朝退軍する。お前たち民衆は自ら城を守る事に尽くすがよい、二心を抱く必要はない。」
  • 軍吏は請うて言った。「原の民は明夜城門を開くことを申し合わせています。主公はなぜしばらく一日留まって、一つの城を落として帰られないのですか。たとえ兵糧が尽きても、陽樊はここから遠くありません、馳せて取り寄せられましょう。」
  • 文公は言った。「信は国の宝であり、民が頼るところである。三日の令は、誰もが聞いているところだ。もしまた一日留まれば、これは信を失うことになる。原を得ても信を失えば、民はどうして寡人を頼れよう。」
  • 夜明けとともに、原の囲みを解いた。原の民は互いに顔を見合わせて言った。「晋侯はむしろ城を失っても信を失わない。これこそ有道の君である。」そこで争って城楼に降伏の旗を立て、城を伝い降りて文公の軍を追う者が、次々と絶えなかった。原伯貫はこれを止めることができず、やむを得ず城を開いて降伏した。髯仙の詩がある。
  • (詩:盟いに血をすすった口がまだ乾かぬうちに戦を起こす世であるのに、文公はわずか一言の約束で山河を手に入れたのだ。原を去ってこそ結局原は服したのだ、譎詐(だまし討ち)が信義に及ぼうか、という趣旨)
  • 晋軍は三十里進んだところで、原の民が追いつき、原伯貫の降伏の書もまた届いた。文公は車馬を止めるよう命じ、車一台だけで直接原城に入った。民衆は喜び踊って慶事を祝った。
  • 原伯貫は謁見に来ると、文公は王朝の卿士の礼をもって彼を遇し、その家を河北に移した。文公は四邑の守りをそれぞれ定めて言った。「昔、子餘(趙衰)は壺に入れた食べ物を持って寡人に衛でお供し、飢えを忍んで食べなかった。これは信士である。寡人は信によって原を得たのだから、信によってこれを守らせよう。」そこで趙衰を原大夫とし、あわせて陽樊を治めさせた。
  • また郤溱に言った。「お前は自らの一族を私せず、真っ先に欒氏とともに寡人に内通を通じてくれた。寡人はこれを忘れない。」そこで郤溱を温大夫とし、あわせて攢茅を守らせた。それぞれ二千の兵を留めてその地を守らせ、帰還した。
  • 後世の人は文公が王を納れて義を示し、原を討って信を示したことを、覇を図る最初の事業であったと論じた。果たしていつ覇を称することになるか、次回を見よ。
原文(底本)
話說周襄王聞宮人小東之語,心頭一時火起,急取牀頭寶劍,趨至中宮,來殺太叔。纔行數步,忽然轉念:「太叔乃太后所愛,我若殺之,外人不知其罪,必以我為不孝矣。況太叔武藝高強,倘然不遜,挺劍相持,反為不美。不如暫時隱忍,俟明日詢有實跡,將隗后貶退,諒太叔亦無顏復留,必然出奔外境,豈不穩便?」嘆了一口氣,擲劍於地,復回寢宮,使隨身內侍,打探太叔消息。回報:「太叔知小東來訴我王,已脫身出宮去矣。」襄王曰:「宮門出入,如何不稟命於朕?亦朕之疏於防範也!」次早,襄王命拘中宮侍妾審問。初時抵賴,喚出小東面證,遂不能隱,將前後醜情,一一招出。襄王將隗后貶入冷宮,封鎖其門,穴牆以通飲食。太叔帶自知有罪,逃奔翟國去了。惠太后驚成心疾,自此抱病不起。

  卻說頹叔桃子,聞隗后被貶,大驚曰:「當初請兵伐鄭,是我二人;請婚隗氏,又是我二人。今忽然被斥,翟君必然見怪。太叔今出奔在翟,定有一番假話,哄動翟君。倘然翟兵到來問罪,我等何以自解?」即日乘輕車疾馳,趕上太叔,做一路商量:「若見翟君,須是如此如此。」不一日,行到翟國,太叔停駕於郊外。頹叔桃子先入城見了翟君,告訴道:「當初我等原為太叔請婚,周王聞知美色,乃自取之,立為正宮。只為往太后處問安,與太叔相遇,偶然太叔敘起前因,說話良久,被宮人言語誣謗,周王輕信,不念貴國伐鄭之勞,遂將王后貶入冷宮,太叔逐出境外。忘親背德,無義無恩,乞假一旅之師,殺入王城,扶立太叔為王,救出王后,仍為國母,誠貴國之義舉也。」翟君信其言,問:「太叔何在?」頹叔桃子曰:「現在郊外候命。」翟君遂迎太叔入城。太叔請以甥舅之禮相見,翟君大喜。遂撥步騎五千,使大將赤丁同頹叔桃子,奉太叔以伐周。

  周襄王聞翟兵臨境,遣大夫譚伯為使,至翟軍中,諭以太叔內亂之罪。赤丁殺之,驅兵直逼王城之下。襄王大怒,乃拜卿士原伯貫為將,毛衛副之,率車三百乘,出城禦敵。伯貫知翟兵勇猛,將軘車聯絡為營,如堅城一般,赤丁衝突數次,俱不能入。連日搦戰,亦不出應。赤丁憤甚,乃定下計策,於翠雲山搭起高臺,上建天子旌旗,使軍士假扮太叔,在臺上飲宴歌舞為樂,卻教頹叔桃子各領一千騎兵,伏於山之左右,只等周兵到時,臺上放砲為號,一齊攏殺將來。又教親兒赤風子引騎兵五百,直逼其營辱罵,以激其怒。若彼開營出戰,佯輸詐敗,引他走翠雲山一路,便算功勞。赤丁與太叔引大隊在后准備接應。分撥停當。

  卻說赤風子引五百騎兵搦戰,原伯貫登壘望之,欺其寡少,便欲出戰。毛衛諫曰:「翟人詭詐多端,只宜持重。俟其懈怠,方可擊也。」挨至午牌時分,翟軍皆下馬坐地,口中大罵:「周王無道之君,用這般無能之將,降又不降,戰又不戰,待要何如?」亦有臥地而罵者。原伯貫忍耐不住,喝教開營。營門開處,湧出車乘百餘,車上立著一員大將,金盔繡襖,手執大桿刀,乃原伯貫也。赤風子忙叫:「孩兒們快上馬!」自挺鐵搠來迎戰,不上十合,撥馬往西而走。軍士多有上馬不及者,周軍亂搶馬匹,全無行列。赤風子回馬,又戰數合,漸漸引至翠雲山相近。赤風子委棄馬匹器械殆盡,引數騎奔山後去了。原伯貫抬頭一望,見山上飛龍赤旗飄颭,繡傘之下,蓋著太叔,大吹大擂飲酒。原伯貫曰:「此賊命合盡於吾手!」乃揀平坦處驅車欲上。山上檑木砲石打將下來,原伯正沒計較。忽聞山坳中連珠砲響,左有頹叔,右有桃子,兩路鐵騎,如狂風驟雨,圍裹將來。原伯心知中計,急教回車,來路上已被翟軍砍下亂木,縱橫道路,車不能行。原伯喝令步卒開路,軍士都心慌膽落,不戰而潰。原伯無計可施,卸下繡袍,欲雜於眾中逃命。有小軍叫曰:「將軍到這裏來!」頹叔聽得叫聲,疑為原伯,指揮翟騎追之,擒獲二十餘人,原伯果在其內。比及赤丁大軍到時,已大獲全勝,車馬器械,悉為所俘。有逃脫的軍士,回營報知毛衛。毛衛只教堅守,一面遣人馳奏周王,求其添兵助將。不在話下。頹叔將原伯貫綁縛獻功於太叔。太叔命囚之於營。頹叔曰:「今伯貫被擒,毛衛必然喪膽。若夜半往劫其營,以火攻之,衛可擒也。」太叔以為然,言於赤丁。赤丁用其策,暗傳號令。是夜三鼓之後,赤丁自引步軍千餘,俱用利斧,劈開索鏈,劫入大營,就各車上,將蘆葦放起火來。頃刻延燒,遍營中火球亂滾,軍士大亂。頹叔桃子各引精騎,乘勢殺入,銳不可當。毛衛急乘小車,從營後而遁。正遇著步卒一隊,為首乃是太叔帶,大喝:「毛衛哪裏走?」毛衛著忙,被太叔一鎗刺於車下。翟軍大獲全勝,遂圍王城。

  周襄王聞二將被擒,謂富辰曰:「早不從卿言,致有此禍。」富辰曰:「翟勢甚狂,吾王暫爾出巡,諸侯必有倡議納王者。」周公孔奏曰:「王師雖敗,若悉起百官家屬,尚可背城一戰。奈何輕棄社稷,委命於諸侯乎?」召公過奏曰:「言戰者,乃危計也。以臣愚見,此禍皆本於叔隗,吾王先正其誅,然後堅守以待諸侯之救,可以萬全。」襄王嘆曰:「朕之不明,自取其禍!今太后病危,朕暫當避位,以慰其意。若人心不忘朕,聽諸侯自圖之可也。」因謂周召二公曰:「太叔此來,為隗后耳。若取隗氏,必懼國人之謗,不敢居於王城。二卿為朕繕兵固守,以待朕之歸可也。」周召二公頓首受命。襄王問於富辰曰:「周之接壤,惟鄭、衛、陳三國,朕將安適?」富辰對曰:「陳衛弱,不如適鄭。」襄王曰:「朕曾用翟伐鄭,鄭得無怨乎?」富辰曰:「臣之勸王適鄭者,正為此也。鄭之先世,有功於周,其嗣必不忘。王以翟伐鄭,鄭心不平,固日夜望翟之背周,以自明其順也。今王適鄭,彼必喜於奉迎,又何怨焉?」襄王意乃決。富辰又請曰:「王犯翟鋒而出,恐翟人悉眾與王為難,奈何?臣願率家屬與翟決戰,王乘機出避可也。」乃盡召子弟親黨,約數百人,勉以忠義,開門直犯翟營,牽住翟兵。襄王同簡師父左鄢父等十餘人,出城望鄭國而去。富辰與赤丁大戰,所殺傷翟兵甚眾,辰亦身被重傷,遇頹叔桃子,慰之曰:「子之忠諫,天下所知也,今日可以無死。」富辰曰:「昔吾屢諫王,王不聽,以及此。若我不死戰,王必以我為懟矣。」復力戰多時,力盡而死。子弟親黨,同死者三百餘人。史官有詩讚曰:

    用夷凌夏豈良謀?納女宣淫禍自求。驟諫不從仍死戰,富辰忠義播《春秋》。

富辰死後,翟人方知襄王已出王城。時城門復閉,太叔命釋原伯貫之囚,使於門外呼之。周召二公立於城樓之上,謂太叔曰:「本欲開門奉迎,恐翟兵入城剽掠,是以不敢。」太叔請於赤丁,求其屯兵城外,當出府庫之藏為犒,赤丁許之。太叔遂入王城,先至冷宮,放出隗后,然後往謁惠太后。太后見了太叔,喜之不勝,一笑而絕。太叔且不治喪,先與隗后宮中聚闊。欲尋小東殺之,小東懼罪,先已投井自盡矣。嗚呼哀哉!

  次日,太叔假傳太后遺命,自立為王,以叔隗為王后,臨朝受賀。發府藏大犒翟軍,然後為太后發喪。國人為之歌曰:

    莫喪母,且娶婦,婦得嫂,臣娶后。為不慚,言可醜!誰其逐之?我與爾左右!

太叔聞國人之歌,自知眾論不服,恐生他變。乃與隗氏移駐於溫,大治宮室,日夜取樂。王城內國事,悉委周召二公料理,名雖為王,實未嘗與臣民相接也。原伯貫逃往原城去了。此段話且擱過不提。

  且說周襄王避出王城,雖然望鄭國而行,心中未知鄭意好歹。行至氾地,其地多竹而無公館,一名竹川。襄王詢士人,知入鄭界,即命停車,借宿於農民封氏草堂之內。封氏問:「官居何職?」襄王言曰:「我周天子也。為國中有難,避而到此。」封氏大驚,叩頭謝罪曰:「吾家二郎,夜來夢紅日照於草堂。果有貴人下降。」即命二郎殺雞為黍。襄王問:「二郎何人?」對曰:「民之後母弟也。與民同居於此,共爂同耕,以奉養後母。」襄王嘆曰:「汝農家兄弟,如此和睦,朕貴為天子,反受母弟之害,朕不如此農民多矣!」因淒然淚下。大夫左鄢父進曰:「周公大聖,尚有骨肉之變。吾主不必自傷,作速告難於諸侯,料諸侯必不坐視。」襄王乃親作書稿,使人分告齊、宋、陳、鄭、衛諸國。略曰:

    不穀不德,得罪於母之寵子弟帶,越在鄭地汜。敢告。

簡師父奏曰:「今日諸侯有志圖伯者,惟秦與晉。秦有蹇叔、百里奚、公孫枝諸賢為政,晉有趙衰、狐偃、胥臣諸賢為政,必能勸其君以勤王之義,他國非所望也。」襄王乃命簡師父告於晉;使左鄢父告於秦。且說鄭文公聞襄王居氾,笑曰:「天子今日方知翟之不如鄭也。」即日使工師往氾地創立廬舍,親往起居,省視器具,一切供應,不敢菲薄。襄王見鄭文公頗有慚色。魯宋諸國,亦遣使問安,各有餽獻。惟衛文公不至。魯大夫臧孫辰字文仲,聞之嘆曰:「衛侯將死矣!諸侯之有王,猶木之有本,水之有源也。木無本必枯,水無源必竭,不死何為?」時襄王十八年之冬十月也。至明年春,衛文公薨。世子鄭立,是為成公。果應臧文仲之言。此是後話。

  再說簡師父奉命告晉。晉文公詢於狐偃,偃對曰:「昔齊桓之能合諸侯,惟尊王也。況晉數易其君,民以為常,不知有君臣之大義。君盍納王而討太叔之罪,使民知君之不可貳乎?繼文侯輔周之勳,光武公啟晉之烈,皆在於此。若晉不納,秦必納之,則伯業獨歸於秦矣。」文公使太史郭偃卜之。偃曰:「大吉!此黃帝戰於坂泉之兆。」文公曰:「寡人何敢當此!」偃對曰:「周室雖衰,天命未改。今之王,古之帝也,其克叔帶必矣。」文公曰:「更為我筮之。」得《乾》下《離》上《大有》之卦,第三爻動,變為《兌》下《離》上《睽》卦。偃斷之曰:「《大有》之九三云:『公用享於天子。』戰克而王享,吉莫大焉!《乾》為天,《離》為日。日麗於天,昭明之象。《乾》變而《兌》,《兌》為《澤》,《澤》在下,以當《離》日之炤。是天子之恩光炤臨晉國,又何疑焉?」文公大悅,乃大閱車徒,分左右二軍,使趙衰將左軍,魏犨佐之;卻溱將右軍,顛頡佐之。文公引狐偃欒枝等,左右策應。臨發時,河東守臣報稱:「秦伯親統大兵勤王,已在河上,不日渡河矣。」狐偃進曰:「秦公志在勤王,所以頓兵河上者,為東道之不通故也。如草中之戎,麗土之狄,皆車馬必由之路,秦素未與通,恐其不順,是以懷疑不進。君誠行賂於二夷,諭以假道勤王之意,二夷必聽。更使人謝秦君,言晉師已發,秦必退矣。」文公然其言。一面使狐偃之子狐射姑,齎金帛之類,行賂於戎狄,一面使胥臣往河上辭秦。胥臣謁見穆公,致晉侯之命曰:「天子蒙塵在外,君之憂,即寡君之憂也。寡君已掃境內興師,代君之勞,已有成算,毋敢煩大軍遠涉。」穆公曰:「寡人恐晉君新立,軍師未集,是以奔走在此,以禦天子之難。既晉君克舉大義,寡人當靜聽捷音。」蹇叔百里奚皆曰:「晉侯欲專大義,以服諸侯,恐主公分其功業,故遣人止我之師。不如乘勢而下,共迎天子,豈不美哉?」穆公曰:「寡人非不知勤王美事,但東道未通,恐戎狄為梗。晉初為政,無大功何以定國,不如讓之。」乃遣公子縶隨左鄢父至氾,問勞襄王。穆公班師而回。

  卻說胥臣以秦君退師回報,晉兵遂進屯陽樊,守臣蒼葛出郊外勞軍。文公使右軍將軍郤溱等圍溫,左軍將軍趙衰等迎襄王於氾。襄王以夏四月丁巳日復至王城,周召二公迎之入朝。不在話下。溫人聞周王復位,乃群聚攻頹叔桃子,殺之,大開城門以納晉師。太叔帶忙攜隗后登車,欲奪門出走翟國。守門軍士,閉門不容其去。太叔仗劍砍倒數人。卻得魏犨追到,大喝:「逆賊走那裏去?」太叔曰:「汝放孤出城,異日厚報。」魏犨曰:「問天子肯放你時,魏犨就做人情。」太叔大怒,挺劍刺來,被魏犨躍上其車,一刀斬之。軍士擒隗氏來見。犨曰:「此淫婦,留他何用!」命眾軍亂箭攢射。可憐如花夷女,與太叔帶半載歡娛,今日死於萬箭之下。胡曾先生詠史詩云:

    逐兄盜嫂據南陽,半載歡娛並罹殃。淫逆倘然無速報,世間不復有綱常。

魏犨帶二屍以報郤溱,溱曰:「何不檻送天子,明正其戮?」魏犨曰:「天子避殺弟之名,假手於晉,不如速誅之為快也!」郤溱嘆息不已,乃埋二屍於神農澗之側。一面安撫溫民,一面使人報捷於陽樊。

  晉文公聞太叔和隗氏俱已伏誅,乃命駕親至王城,朝見襄王奏捷。襄王設醴酒以饗之,復大出金帛相贈。文公再拜謝曰:「臣重耳不敢受賜。但死後得用隧葬,臣沐恩於地下無窮矣。」襄王曰:「先王制禮,以限隔上下,止有此生死之文,朕不敢以私勞而亂大典。叔父大功,朕不敢忘!」乃割畿內溫、原、陽樊、攢茅四邑,以益其封。文公謝恩而退。百姓攜老扶幼,填塞街市,爭來識認晉侯,嘆曰:「齊桓公今復出也!」晉文公下令兩路俱班師。大軍屯於太行山之南,使魏犨定陽樊之田,顛頡定攢茅之田,欒枝定溫之田,晉侯親率趙衰定原之田。為何定原之田,文公親往?那原乃周卿士原伯貫之封邑,原伯貫兵敗無功,襄王奪其邑以與晉,伯貫見在原城,恐其不服,所以必須親往。顛頡至攢茅,欒枝至溫,守臣俱攜酒食出迎。

  卻說魏犨至陽樊,守臣蒼葛謂其下曰:「周棄岐豐,餘地幾何!而晉復受四邑耶?我與晉同是王臣,豈可服之。」遂率百姓持械登城。魏犨大怒,引兵圍之,大叫:「早早降順,萬事俱休!若打破城池,盡皆屠戮!」蒼葛在城上答曰:「吾聞『德以柔中國,刑以威四夷。』今此乃王畿之地,畿內百姓,非王之宗族,即王之親戚。晉亦周之臣子,忍以兵威相劫耶?」魏犨感其言,遺人馳報文公。文公致書於蒼葛,略曰:

    四邑之地,乃天子之賜,寡人不敢違命。將軍若念天子之姻親,率以歸國,亦惟將軍之命是聽。

因諭魏犨緩其攻,聽陽民遷徙。蒼葛得書,命城中百姓:「願歸周者去,願從晉者留。」百姓願去者大半,蒼葛盡率之,遷於軹村。魏犨定其疆界而還。

  再說文公同趙衰略地至原。原伯貫紿其下曰:「晉兵圍陽樊,盡屠其民矣!」原人恐懼,共誓死守,晉兵圍之。趙衰曰:「民所以不服晉者,不信故也。君示之以信,將不攻而下矣。」文公曰:「示信若何?」趙衰對曰:「請下令,軍士各持三日之糧,若三日攻原不下,即當解圍而去。」文公依其言。到第三日,軍吏告稟:「軍中只有今日之糧了!」文公不答。是日夜半,有原民縋城而下,言:「城中已探知陽樊之民,未嘗遭戮,相約於明晚獻門。」文公曰:「寡人原約攻城以三日為期,三日不下,解圍去之。今滿三日矣,寡人明早退師。爾百姓自盡守城之事,不必又懷二念。」軍吏請曰:「原民約明晚獻門,主公何不暫留一日,拔一城而歸?即使糧盡,陽樊去此不遠,可馳取也。」文公曰:「信,國之寶也,民之所憑也。三日之令,誰不聞之?若復留一日,是失信矣!得原而失信,民尚何憑於寡人?」黎明,即解原圍。原民相顧曰:「晉侯寧失城,不失信,此有道之君!」乃爭建降旗於城樓,縋城以追文公之軍者,紛紛不絕。原伯貫不能禁止,只得開城出降。髯仙有詩云:

    口血猶含起戰戈,誰將片語作山河?去原畢竟原來服,譎詐何如信義多?

晉軍行三十里,原民追至,原伯貫降書亦到。文公命扎住車馬,以單車直入原城,百姓鼓舞稱慶。原伯貫來見,文公待以王朝卿士之禮,遷其家於河北。文公擇四邑之守曰:「昔子餘以壺飱從寡人於衛,忍飢不食,此信士也。寡人以信得原,還以信守之。」使趙衰為原大夫,兼領陽樊。又謂郤溱曰:「子不私其族,首同欒氏通款於寡人,寡人不敢忘。」乃以郤溱為溫大夫,兼守攢茅。各留兵二千戌其地而還。後人論文公納王示義,伐原示信,乃圖伯之首事也。畢竟何時稱伯,且看下回分解。

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