東周列國志第三十九回 柳下恵、辞を授けて敵を退ける/晋の文公、衛を伐ち曹を破る (柳下惠授詞却敵 晉文公伐衞破曹)
斉孝公の魯侵攻と展喜の辞令
- 話は変わって、晋文公は温・原・樊陽・攢茅の四邑の封境を定め、まっすぐ太行山の南に通じさせた。これを南陽と呼んだ。時は周襄王十七年の冬であった。
- この時、斉の孝公もまた覇を嗣ごうという意向を持っていた。無虧の死以来、魯の僖公との仲は悪化し、鹿上の会盟には署名せず宋の襄公との仲もこじれ、孟の会には赴かず楚の成王にも背いた。諸侯の心は離れ、あいさつに参上する者もいなかった。
- 孝公は心中憤りを抱き、中原に用兵し、先代の業を振興しようとした。そこで群臣を集めて問うた。「先君桓公が在世の時は、年ごとに征伐し、日々戦っておられた。今、寡人は朝堂に安座し、まるでかたつむりの殻の中に居るようなもので、外の事情を知らない。寡人はこれを恥じている。昔、魯侯は無虧を救う謀りごとをし、寡人と難を構えた。この仇はまだ報いていない。今、魯は北で衛と結び、南で楚と通じている。もし連合して斉を伐てば、どう防げばよいか。聞くところでは魯は今年凶作という。寡人はこれに乗じて兵を加え、その謀りごとを未然に断ちたいと思う。諸卿はどう考えるか。」
- 上卿の高虎は奏して言った。「魯は今、味方が多く、討伐しても功を得られますまい。」孝公は言った。「功がなくとも、しばらく試みに一行し、諸侯の離合の状況を観察しよう。」
- そこで自ら車二百乗を率いて、魯の北の辺境を侵そうとした。国境の人々はこれを聞いて急を告げた。
- 魯はちょうど飢饉の最中で、民は兵役に耐えられなかった。大夫の臧孫辰が僖公に言った。「斉は憤りを抱いて深く攻め入っており、彼らと勝敗を争ってはなりません。どうか言葉によってこれを謝絶いたしましょう。」
- 僖公は言った。「今、辞令に長けている者は誰か。」臧孫辰は答えて言った。「私が一人を推挙します。先朝の司空無駭の子で、展氏、名は獲、字は子禽と申します。士師の官に就いており、柳下に領地を賜っています。この人物は外は柔和で内は節操があり、博識で道理に通じておりますが、官に就いて法を執行することが時代に合わず、職を辞して隠居しております。もしこの人を使者に立てれば、必ず君命を辱めることなく、斉から重んじられるでしょう。」
- 僖公は言った。「寡人ももとよりこの者を存じている。今どこにいるのか。」「今は柳下におります。」人を遣わして召したが、展獲は病を理由に辞退し行けないと答えた。
- 臧孫辰は言った。「獲には喜という従弟がおり、下級の官職にありますが、なかなかの弁舌の持ち主です。もし喜を獲の家に赴かせ、その指図を仰がせれば、必ず聞くに値するものが得られましょう。」僖公はこれに従った。
- 展喜は柳下に至り、展獲に会い、君命の趣旨を伝えた。展獲は言った。「斉が我が国を伐つのは、桓公の覇業を継ごうとしているからです。そもそも覇を図るには王を尊ぶことに勝るものはありません。もし先王の命をもって彼らを責めれば、言葉に事欠くことはありますまい。」
- 展喜は僖公に復命して言った。「私は斉を退ける方法が分かりました。」僖公はすでに軍をねぎらう物を用意しており、犠牲や酒、粟や布の類を数台の車に積んで、展喜に託した。
- 展喜は北の辺境に至ったが、斉の軍はまだ国境に入っていなかった。そこで先回りして迎え出た。汶南の地で、ちょうど斉軍の前隊に出会った。先鋒は崔夭であった。
- 展喜はまず礼物を崔夭に贈った。崔夭が展喜を大軍のもとまで案内すると、展喜は斉侯に謁見し、軍をねぎらう礼物を捧げて言った。「わが君は、君がみずからおみ足をお運びになり、かたじけなくもわが国にお越しくださると聞き、下臣喜を遣わして君の御許(執事)に犒いを奉らせました。」
- 孝公は言った。「魯の人々は寡人が軍を興したと聞いて、肝を冷やしているであろうな。」喜は答えて言った。「下賤の者どもはあるいは肝を冷やしているかもしれませんが、下臣にはそれは分かりません。もし君子であれば、まったく懼れる意はございません。」
- 孝公は言った。「お前の国には文には施伯の智もなく、武には曹劌の勇もなく、しかもちょうど飢饉に遭って野に青草もない有様だ。何を頼みにして懼れないのか。」
- 喜は答えて言った。「わが国には他に頼るものはございません。頼るところはただ先王の命のみでございます。昔、周の先王が太公を斉に封じ、我が先君伯禽を魯に封じられた際、周公と太公とに犠牲を割いて盟わせられました。両人は誓って『世々子孫、ともに王室を助け、互いに害さぬこと』と申しました。この言葉は盟府に記録され、太史がこれを掌っております。桓公はこれゆえに九たび諸侯を合わせ、まず莊公と柯の盟を結んだのも、王命を奉じてのことでした。君が位を嗣がれて九年、わが国の君臣は首を伸ばして斉を望み、『どうか先の覇者の業を修め、諸侯を親睦させてほしい』と願っております。もし成王の命を棄て、太公の誓いに背き、桓公の業を堕落させ、好誼を仇に変えるようなことをなさるはずはあるまいと、君侯を推し量っております。わが国はこれを頼りにして懼れずにいるのです。」
- 孝公は言った。「お前は帰って魯侯にこう伝えよ、寡人は和睦を修めることを望み、二度と兵を用いない、と。」その日のうちに兵を引き上げる令を伝えた。潜淵の詩に、臧孫辰が柳下惠の賢を知りながら、同朝に推挙できなかったことを譏る詩がある。
- (詩:北方を望むと烽煙で魯の勢いは危うかったが、わずかな言葉で敵を退け、大きな功を奏した。臧孫は賢者への道を開こうとせず、柳下惠はいまだに士師の地位に埋もれたままだ、という趣旨)
楚への求援
- 展喜は魯に帰って僖公に復命した。臧孫辰は言った。「斉の軍は退いたとはいえ、その本心では魯を軽んじております。私は仲遂とともに楚に赴き、援軍を乞い斉を討たせ、斉侯に再び魯をまともに見させないようにすべきです。これは数年にわたる魯の福となりましょう。」僖公はこれをもっともとし、公子遂を正使、臧孫辰を副使として、楚に使いさせた。
楚の斉討伐と令尹子文の引退、蒍賈の予言
- 臧孫辰はもとより楚の将、成得臣と面識があり、得臣にまず楚王への紹介を依頼した。楚王に対して「斉は鹿上の約に背き、宋は泓水の戦を起こしました。この二国はいずれも楚の仇です。王がもし二国の罪を問われるなら、わが君は全兵力をことごとく尽くして王の先駆けとなることを願っております」と言った。
- 楚成王は大いに喜び、そこで成得臣を大将に任命し、申公叔侯をその副として、兵を率いて斉を討たせた。陽穀の地を取り、斉桓公の子雍に与え、雍巫に補佐させた。武装兵千人を留め、申公叔侯に従って戍らせ、魯への声援とした。成得臣は凱旋して朝廷に戻った。
- 令尹の子文はすでに年老いており、政を得臣に譲ることを請うた。楚王は言った。「寡人は宋への怨みを、斉への怨みよりも深く抱いている。子玉(得臣)はすでに私のために斉に報いてくれた。卿は私のために宋を討ち、鄭をめぐる仇(宋)に報復してほしい。凱旋の日を待って、卿の望むままに引退を許そう。」
- 子文は言った。「臣の才は子玉に遠く及びません。臣に代わって彼を任じられることを願います。決して君王のお仕事を誤ることはございません。」
- 楚王は言った。「宋は今、晋に仕えている。楚がもし宋を討てば、晋は必ずこれを救おうとするだろう。晋と宋の両方に当たれるのは、卿でなければならぬ。卿よ、強いて私のために一行してほしい。」
- そこで子文に暌で軍を治め、車馬を点検し軍法を明らかにするよう命じた。子文は内心、子玉の能力を見せつけたいと望んでいたので、この日はいい加減に事を済ませ、朝のうちに切り上げてしまい、一人も処罰しなかった。
- 楚王は言った。「卿は軍を閲兵しながら一人も処罰しなかった。どうやって威を立てるのか。」子文は奏して言った。「臣の才力は、強弩の末(勢いの衰えたもの)のようなものです。必ず威を立てたいのであれば、子玉でなければなりません。」楚王はさらに得臣に蒍で軍を治めさせた。
- 得臣は精密に点検し、法を厳格に用い、犯した者は赦さず、ようやく一日がかりで事を終えた。総計、七人の背中を鞭打ち、三人の耳を貫いた。まさに鐘鼓の音が高まり、旌旗の色が改まるほどの厳しさであった。楚王は喜んで言った。「子玉は果たして将の才がある。」子文はまた引退を願い出て、楚王はこれを許した。そこで得臣を令尹とし、中軍元帥の事を掌らせた。
- 群臣は皆子文の邸宅に赴き、人材の推挙を祝賀し、酒を捧げてもてなした。この時、文武の官が皆集まったが、大夫の蒍呂臣だけは軽い病でやって来なかった。酒がほろ酔いになった頃、門番が「門外に一人の小児が謁見を求めております」と報告した。
- 子文が招き入れるよう命じると、その小児は手を挙げ体を屈めて挨拶をし、まっすぐ末席に座り、酒を飲み肉を食べ、傍らに人がいないかのように振る舞った。ある人がこの子を見知っていて、蒍呂臣の子で名を蒍賈といい、年はまだ十三歳であった。
- 子文はこれを不思議に思い、尋ねた。「私は国のために一人の大将を得た。国の長老たちは皆祝ってくれるのに、お前だけは祝わない。どうしてか。」蒍賈は言った。「諸公は祝うべきとお考えですが、私は弔うべきだと思います。」
- 子文は怒って言った。「お前は弔うべきだと言うが、どんな言い分があるのか。」賈は言った。「私が観察するに、子玉の人となりは、任事には勇敢ですが、決断の機微には疎いです。進むことはできても退くことができず、戦の補佐に使うことはできても、単独で全権を委ねるべきではありません。もし軍政を彼に委ねれば、必ず事を誤りましょう。諺に『あまりに剛なるものは折れる』と言いますが、まさに子玉のことです。一人を挙げて国を敗るとしたら、何を祝うことがございましょうか。もし敗れないなら、その時こそ祝っても遅くはございません。」
- 左右の者は言った。「これは子供のたわごとに過ぎない、聞く必要はない。」蒍賈は大笑して外に出て行き、公卿たちも皆散会した。
楚軍の宋侵攻と晋の対応
- 翌日、楚王は得臣を大将に拝し、自ら大軍を統率し、陳・蔡・鄭・許の四路の諸侯を糾合して、ともに宋を討ち、緡邑を包囲した。
- 宋の成公は司馬公孫固を晋に遣わして急を告げさせた。晋文公は群臣を集めて計を問うた。
- 先軫が進み出て言った。「今、楚のみが強横であり、しかもその楚は君に私恩を施しております。今、楚は穀に戍り宋を討ち、中原に事を生じさせております。これは天が我らに、災いを救い患いを恤む名分をお授けくださったのです。威を取り覇を定めるのは、まさにこの一挙にございます。」
- 文公は言った。「寡人は斉宋の患いを解きたいが、どうすればよいか。」狐偃は進み出て言った。「楚は先頃曹を得て、新たに衛と婚を結びました。この二国もまた主公の仇です。もし兵を興して曹・衛を討てば、楚は必ず兵を移して救いに来るでしょう。そうすれば斉・宋の困難は緩みます。」文公は「よかろう」と言った。
- そこでこの謀りごとを公孫固に告げ、宋公に復命させ、堅く守るよう命じさせた。公孫固は命を受けて帰った。
- 文公は兵が少ないことを心配した。趙衰が進み出て言った。「古には大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍でございました。我が曲沃武公は初めて一軍で命を受けられました。献公は初めて二軍を作られ、霍・魏・虞・虢の諸国を滅ぼし、千里の地を拓かれました。晋は今日、次国と言うにとどまりません。三軍を作るべきです。」
- 文公は言った。「三軍を作れば、すぐに用いてよいものか。」趙衰は言った。「まだです。民はまだ礼を知らず、集まってもすぐ散り散りになりましょう。君はどうか大蒐(大規模な狩猟を兼ねた軍事演習)を行って礼を示し、民に尊卑長幼の序を知らしめ、上を親しみ長を守って死する心を動かさせて、その後にようやく用いることができるでしょう。」
- 文公は言った。「三軍を作るには、必ず元帥を立てねばならぬ。誰がその任に堪えられるか。」趙衰は答えて言った。「そもそも将たる者は、勇があるより智があるほうがよく、智があるより学があるほうがよいのです。君が智勇の将を求められるなら、人材に事欠くことはございません。しかし学のある者を求められるなら、私が知るのはただ郤縠一人のみです。縠は年五十余、学を好んで倦むことなく、『礼』『楽』を説き、『詩』『書』を篤く学んでおります。そもそも『礼』『楽』『詩』『書』は、先王の法であり、徳義の府庫です。民の生活は徳義を本とし、兵事は民を本とします。徳義ある者だけが、民を憐れむことができます。民を憐れむことができる者だけが、兵を用いることができるのです。」
- 文公は「よかろう」と言い、郤縠を召して元帥とした。縠は辞退して受けなかったが、文公は言った。「寡人はお前を知っている。お前は辞退してはならぬ。」強く求めること再三に及び、ようやく就任した。
- 日を選んで被廬で大蒐を行い、中・上・下の三軍を作った。郤縠は中軍を将とし、郤溱がこれを佐け、祁瞞が大将の軍旗と太鼓を掌った。狐偃に上軍を将とさせようとしたが、偃は辞退して言った。「私の兄が先におります。弟が兄より先んじることはできません。」そこで狐毛に上軍を将とさせ、狐偃をその佐とした。
- 趙衰に下軍を将とさせようとしたが、衰は辞退して言った。「私の貞慎さは欒枝に及ばず、謀略は先軫に及ばず、博識は胥臣に及びません。」そこで欒枝に下軍を将とさせ、先軫をその佐とした。荀林父は御戎(御者)を務め、魏犨は車右を務め、趙衰は大司馬を務めた。
- 郤縠は壇に登って令を発した。三度太鼓が鳴り終わると、陣法を演習し、若い者を前に、年長者を後ろに配し、座す・立つ・進む・退くのいずれにも定まった規則があった。できない者があれば教え、三度教えてもなお従わなければ命令違反として、その後刑を用いた。三日間連続して演習を行い、正法と奇法の変化を、思うがままに指揮した。諸将は郤縠の寛厳が程よいのを見て、心服しない者はなかった。
- 撤収の鐘を鳴らそうとしたところ、突然、将台の下から一陣の旋風が起こり、大帥の旗竿を吹き折って二つにしてしまった。皆が顔色を変えた。郤縠は言った。「元帥の旗が倒れ折れたのは、主将がこれに応じることになるだろう。私は長くはこの一同と事を共にできまい。しかし主公は必ず大功を成し遂げられよう。」
- 皆がその理由を尋ねたが、縠はただ笑うのみで答えなかった。時は周襄王十九年、冬十二月のことであった。
曹衛への出兵計画
- 翌年の春、晋文公は兵を分けて曹・衛を討つことを議し、郤縠に諮った。縠は答えて言った。「私はすでに先軫と相談して決めております。今日は曹・衛と事を構えるのが目的ではございません。兵を分ければ曹・衛に当たることはできても、楚に当たることはできません。主公は曹を討つことを名目に掲げ、衛に道を借りられるのがよろしい。衛と曹は今仲が良いので、必ず許さないでしょう。私たちは南河から兵を渡らせ、不意を突いて、まっすぐ衛の境内に攻め入る。いわゆる『迅雷、耳を掩うに及ばず』というもので、十中八九勝てましょう。すでに衛に勝てば、その勢いに乗じて曹に臨みます。曹伯はもとより民心を失っており、また衛が破られた威に脅えるでしょうから、曹を破ることは必定です。」
- 文公は喜んで言った。「お前は真に学のある将だ。」そこで人を衛に遣わして曹討伐のための道を借りさせた。
- 衛の大夫元咺は成公に願い出て言った。「はじめ晋君が出奔された時、我が国を通過されましたが、先君は礼を尽くされませんでした。今、道を借りに来ておりますので、主公は必ずこれをお聞き入れになるべきです。そうでなければ、彼らはまず衛を討ってから曹を討つことになりましょう。」
- 成公は言った。「寡人は曹とともに楚に服従している。もし曹討伐の道を貸せば、晋の歓心を得られぬうちに、楚の怒りを先に招くことを恐れる。晋を怒らせても、なお楚を頼みにできるが、両方を怒らせれば、何を頼みにすればよいのか。」ついに許さなかった。
- 晋の使いは戻って文公に報告した。文公は言った。「元帥の予想通りであった。」そこで迂回して南に進むよう命じた。
- 黄河を渡り、五鹿の野に至った。文公は言った。「ああ、ここは介子推が股肉を割いたところだ。」思わず涙を流し、諸将も皆感じ入って悲しんだ。
- 魏犨は言った。「我らは城を落とし邑を取り、君のために往年の恥をそそぐべきです。何を嘆く必要がございましょうか。」先軫は言った。「武子(魏犨)の言葉は正しい。私は自分の配下の兵を率いて、独力で五鹿を取りたく思います。」文公はその言葉を壮とし、これを許した。魏犨は言った。「私も一臂の力を貸そう。」二将は車に乗って前進した。
- 先軫は兵士に多くの旗指物を持たせ、通過する山林や高地には皆それを差し立て、必ず林の上に突き出るようにさせた。魏犨は言った。「私が聞くところでは『兵は詭道を行く』というのに、今、遍く旗を張るのは、かえって敵に備えを知らせることにならないか。どういう意図だ。」
- 先軫は言った。「衛はもとより斉に臣従していたが、近ごろ荊蛮(楚)に仕えるようになり、国人は服しておらず、常に中原の諸侯からの討伐を恐れています。我が主は斉の覇業を継ごうとしているので、弱さを示してはなりません。まず声威をもって彼らの気勢を奪うべきなのです。」
五鹿の陥落と郤縠の進言
- さて五鹿の民は、晋兵が急に押し寄せてくるとは思いもよらず、城に登って望み見ると、旌旗が山林一面に立ち並び、兵がどれほどいるのかまったく分からなかった。城内城外の住民を問わず、皆先を争って逃げ散り、守備の役人も止めることができなかった。先軫の軍が到着すると、守る者もおらず、一撃で陥落させた。人を遣わして文公に勝報を告げた。
- 文公は喜色を浮かべ、狐偃に言った。「舅殿がかつて言った『土地を得る』とは、今日その通りになったな。」そこで老将の郤歩揚を留めて五鹿を守らせ、大軍は陣を移して斂盂に進んで駐屯した。
- 郤縠は突然病にかかり、文公自ら見舞いに赴いた。郤縠は言った。「臣は主公の並外れたお引き立てを受け、もとより肝脳を塗して知己に報いたいと思っておりました。しかし天命には限りがあり、旗が折れた兆しに応じて、死は今にも迫っております。まだ申し上げたいことが一言ございます。」
- 文公は言った。「卿には何の言葉があるのか。寡人は聞き入れないことはない。」
- 縠は言った。「君が曹・衛を討たれるのは、もともと楚を招き寄せる謀りごとです。楚を招き寄せるには、必ずまず戦を計り、戦を計るには、必ずまず斉・秦と結ばねばなりません。秦は遠く斉は近いので、君は速やかに使者を遣わして斉侯と好誼を結び、盟いを結ぶことを願われるべきです。斉はちょうど楚を憎んでおり、また晋と結ぶことを望んでいます。もし斉侯が親臨されれば、曹・衛は必ず懼れて講和を請うでしょう。それにより秦をも収めることができます。これが楚を制する完全な策です。」
- 文公は「よかろう」と言い、使者を遣わして斉に好誼を通じさせ、桓公先代との旧好を述べ、盟いを結んで共に荊蛮を攘うことを願った。
斉昭公との会見と衛の動揺
- この時、斉の孝公はすでに薨じており、国人はその弟の潘を推し立てていた。これが昭公である。潘は葛嬴の生んだ子で、新たに大位を嗣いだばかりであった。穀を取られた恨みのために、正に晋と結んで楚に抗おうとしていた。晋侯が斂盂に軍を屯していると聞くと、その日のうちに車を命じて衛の地に赴き会見した。
- 衛の成公は五鹿がすでに失われたのを見て、慌てて寧速の子、寧俞を遣わして謝罪し講和を請うた。
- 文公は言った。「衛は道を貸すことを許さなかったのに、今、懼れて講和を求めるのは、本心ではあるまい。寡人は近いうちに楚丘を踏み平らげよう。」
- 寧俞は戻って衛侯に報告した。この時、楚丘城中では晋兵がまもなく到着するとの誤った噂が広まり、一夜に五度も驚くほどであった。俞は衛の成公に言った。「晋の怒りはまさに盛んで、国人は震え恐れております。主公はしばらく城を出て避けられるのが良いでしょう。晋は主公がすでに出られたと知れば、必ず楚丘を攻めては来ないでしょう。その後改めて晋との好誼を求め、社稷を保全することができましょう。」
- 成公は嘆いて言った。「先君は不幸にして亡命の公子(重耳)に礼を失った。寡人もまた一時の判断を誤って道を貸すことを許さず、こうなってしまった。国人にまで累を及ぼした。寡人もまた国中に居る面目がない。」そこで大夫の元咺と、自分の弟である叔武とに国事を代行させ、自らは襄牛の地に避け居った。一方、大夫孫炎を遣わして楚に救援を求めた。時は春二月であった。髯翁に詩がある。
- (詩:姫を献じ馬を贈るなど紛々たる話ばかりだが、患難にどうして主客の別が必要であろうか。誰が知ろう、五鹿で疆を開いた者が、まさにあの当時の物乞いであったとは、という趣旨)
先軫の元帥就任と衛滅亡見送り
- この月、郤縠は軍中で卒した。晋文公は深く悼み惜しみ、人を遣わしてその柩を国に護送させた。先軫が五鹿を取った功があるので、元帥に昇格させ、胥臣を下軍の佐として先軫の欠を補った。(趙衰が先に胥臣の博識を薦めていたので、これを任じたのである。)
- 文公は衛国を滅ぼし尽くそうとしたが、先軫は諫めて言った。「もともと楚に困窮させられた斉・宋を救うためにここまで来たのです。今、斉・宋の患いはまだ解けていないのに、まず他国を滅ぼしてしまうのは、亡びかけた国を存続させ、小国を憐れむという覇者の道義ではございません。それに衛は無道とはいえ、その君はすでに出奔しており、廃するも立てるも我ら次第です。むしろ兵を移して東の曹を討つべきです。楚の軍が衛を救いに来る頃には、我らはすでに曹におりましょう。」文公はその言葉に従った。
曹の抵抗と落城、僖負羈の家の保護
- 三月、晋軍は曹を囲んだ。曹の共公は群臣を集めて計を問うた。僖負羈が進み出て言った。「晋君のこの行動は、脅の跡を見られた恨みに報いるためです。その怒りはまさに深く、力で争うことはできません。私はどうか使者を務め、謝罪して和平を請い、一国の民の難を救いたく存じます。」
- 曹の共公は言った。「晋は衛を許さないのに、独り曹を許すだろうか。」大夫の于朗が進み出て言った。「私が聞くところでは、晋侯が出奔の際に曹を通過した時、負羈は密かに飲食を贈ったといいます。今また自ら使者を志願するのは、これは国を売る計略に他なりません、聞き入れてはなりません。主公はまず負羈を斬られ、私に晋を退ける計がございます。」
- 曹の共公は言った。「負羈は国を謀るのに忠実ではないが、代々仕える世臣の家柄であることを考慮し、殺すのは免じて官を罷免しよう。」負羈は謝恩して朝廷を退いた。まさに「門を閉ざして窓の前の月を管理せず、梅の花に自ら生きよと言い聞かせる」という有様であった。
- 共公は于朗に「計はどのようなものか」と尋ねた。于朗は言った。「晋侯は勝利を頼みに、その気はきっと驕っているでしょう。私は密書を偽造し、黄昏時に城門を開いてお渡しすると約束を持ちかけましょう。あらかじめ精兵に弓弩を持たせ、城壁の内側に伏せさせ、晋侯を騙して城に入らせ、落とし門を下ろして退路を塞ぎ、矢を一斉に放てば、必ず粉々になるでしょう。」曹の共公はその計に従った。
- 晋侯は于朗の降伏の書を得て、すぐに城に進もうとした。先軫は言った。「曹の力はまだ衰えていません。どうしてこれが詐略でないと分かりましょうか。私が試させていただきます。」そこで軍中から長い髭で立派な容貌の者を選び、晋侯の衣冠を着せて代わりに行かせた。寺人勃鞮が自ら御者を志願した。
- 黄昏時になると、城上に降伏の旗が一つ立てられ、城門が大きく開かれた。偽の晋侯は五百余人を率いて、まっすぐ長駆して入った。半分も入らないうちに、城壁の内側から梆(拍子木)の音が乱れ響き、矢が飛蝗のように降り注いだ。急いで車を返そうとしたが、門はすでに落とされていた。哀れなことに、勃鞮と三百余人は死んで山をなした。幸い晋侯自身は行っていなかったので、そうでなければ「崑崗が火に見舞われれば、玉も石も共に焼ける」ことになるところであった。
- 晋文公は先年曹を通過しており、曹人には晋侯を見知っている者が多かったが、その夜は慌ただしく真偽を見分けられなかった。于朗はただ晋侯がすでに死んだと思い込み、曹の共公の前でずいぶんと自慢げに語った。夜が明けて検分すると、初めて偽物であったと知り、いくらか勢いを削がれた。
- まだ城に入らなかった者たちは、逃げ帰って晋侯に会いに来た。晋侯は怒りに怒りを重ね、攻城をますます急がせた。
- 于朗はさらに計を献じて言った。「射殺した晋兵を城上に晒しましょう。彼らの軍がこれを見れば、必ず気落ちして、攻撃に力が入らなくなりましょう。さらに数日を稼げば、楚の救援が到着します。これは軍心を揺さぶる計です。」曹の共公はこれに従った。
- 晋軍は城頭に竿を組んで晒された屍が連なっているのを見て、口々に恨み嘆いた。文公は先軫に言った。「軍心が変わりそうだ、どうすればよいか。」
- 先軫は答えて言った。「曹国の墓地はすべて西門の外にございます。どうか軍を半分に分け、墓地に陣を張りましょう。今にも墓を掘り起こさんばかりの様子を見せつければ、城中は必ず懼れ、懼れれば必ず混乱し、その後乗じることができます。」文公は「よかろう」と言った。
- そこで軍中に「曹人の墓を発掘するつもりだ」と言い触らさせ、狐毛・狐偃に部下を率いさせて墓地に陣を移させ、鍬や鋤を用意させ、翌日の午の刻を期限として、それぞれ墓中の髑髏を功として献上させると命じさせた。
- 城内の者はこの知らせを聞いて心胆ともに震え上がった。曹の共公は人を城上から大声で叫ばせた。「墓を発掘しないでくれ、今度こそ本当に降伏する。」先軫もまた人を遣わして答えさせた。「お前たちは我が軍を誘い出して殺し、さらに屍を城上に晒した。皆の心が忍びず、墓を発掘してこの恨みに報いようとしていたのだ。お前たちが死者の遺体を整え、棺に納めて我が軍に送り返すことができれば、我らは兵を収めて退こう。」
- 曹人は返答した。「そういうことであれば、どうか三日の猶予をください。」先軫は答えた。「三日以内に屍と棺を送らなければ、我らが汝らの祖先を辱めることを恨まないでほしい。」
- 曹の共公は果たして城上の遺骨を収め、数を数え、それぞれ棺を用意し、三日の内に、きちんと納棺を済ませて、喪車に積み込んだ。
- 先軫は計略を定め、あらかじめ狐毛・狐偃・欒枝・胥臣に兵車を整えさせ、四手に分けて伏兵とした。曹人が門を開いて棺を出すのを待って、四方の門から一斉に攻め込むこととした。
- 四日目になり、先軫は人を遣わして城下から大声で叫ばせた。「今日、屍と棺を返してくれるか。」曹人は城上から答えた。「囲みを解いて五里退いてください、すぐにお渡しします。」先軫は文公に稟告し、退軍を令し、果たして五里ほど退いた。
- 城門が開かれ、棺を積んだ車が四つの門から分かれて押し出された。三分の一ほど出たところで、突然砲声が大きく鳴り響き、四方の伏兵が一斉に発動した。城門は喪車に塞がれ、急には閉められなくなり、晋兵は混乱に乗じて攻め入った。
- 曹の共公はちょうど城上で指揮していたが、魏犨は城外からこれを見つけ、車から一躍して城壁に登り、胸倉を掴んで縛り上げた。于朗は城を越えて逃げようとしたが、顛頡に捕らえられて斬られた。
- 晋文公は諸将を率いて城楼に登り、戦勝を受けた。魏犨は曹伯襄を献上し、顛頡は于朗の首級を献上し、諸将もそれぞれ捕虜を得た。
- 晋文公は仕官名簿を取り寄せて閲覧した。乗車の資格を持つ者三百人、皆姓名が記されていた。名簿に従って捕らえたところ、一人も漏れなかった。名簿の中に僖負羈の名前が見えなかったので、ある人が言った。「負羈は曹君に和議を勧めたため、すでに籍を除かれて民となっております。」
- 文公は曹伯の罪を面と向かって数え上げて言った。「お前の国にはただ一人の賢臣がいたのに、それを用いず、くだらぬ者どもの一団を任用した。まるで幼児の遊びのようなものだ。滅びずにいられようか。」そう言って命じた。「本営に幽閉し、楚を破った後に処分を待たせよ。」乗車資格を持つ三百人はすべて誅殺され、その家財を没収し、労った兵士たちに賞として与えた。
- 僖負羈には飯を捧げてくれた恩があり、その家は北門にあった。北門一帯を囲んで、命令を伝えた。「決して騒がせてはならない。もし僖氏の一草一木を犯す者があれば斬首とする。」晋侯は諸将を分けて配置し、半分に城を守らせ、半分を随行させて本営に駐屯させた。胡曾先生の詠史詩がある。
- (詩:曹伯は賢者を軽んじて捕虜となり、負羈は恩恵を施したことで誅殺を免れた。目先で人に便宜を図らなければ、後になって是非を知ることになるものだ、という趣旨)
魏犨・顛頡の放火
- さて魏犨・顛頡の二人は、日頃から功を誇り驕り高ぶる思いを抱いていたが、今日、晋侯が僖氏を保護せよという令を見て、魏犨は憤然として言った。「我らは今日、君を捕らえ将を斬ったというのに、主公は一言の褒め言葉もない。わずかな飯の恵みごときで、これほどまでに情をかけるとは、まことに軽重をわきまえないことだ。」
- 顛頡は言った。「この者がもし晋に仕えれば、必ず重用されるだろう。我らはその者に圧迫されることになる。むしろ一把の火で焼き殺し、後患を絶ってしまおう。主公がお知りになったとしても、まさか本当に我らを斬首にはできまい。」
- 魏犨は言った。「もっともだ。」二人は共に酒を飲み、夜が静まるのを待って、密かに軍卒を率い、僖負羈の家を取り囲み、前後の門から火を放った。火炎は天を衝いた。
- 魏犨は酒の勢いに任せて、門楼に躍り上がり、火勢を冒して軒の樋を伝って飛ぶように走り、僖負羈を探し出して殺そうとした。しかし梁や垂木が焼け崩れ落ちてきて、ドサッという音とともに、魏犨は足を滑らせて地に落ち、仰向けに倒れた。
- ちょうど天が裂け地が崩れるような音がして、焼け折れた梁の一本が、まさに魏犨の胸を打った。魏犨は激痛のあまり声も出ず、たちまち鮮血を吐いた。前後左右には火の球が飛び散る中、なんとか身を起こし、庭の柱に縋りながら再び屋根に飛び上がり、旋回して脱出した。全身の衣服には火がついており、ぼろぼろに引き裂かれた身一つで、ようやく焼死を免れた。
- 魏犨は勇猛とはいえ、この時ばかりは疲れきって倒れ込んでしまった。ちょうど顛頡がやって来て、空いている場所に助け入れ、着物を解いて着せかけ、共に車に乗って宿舎に戻り休んだ。
僖負羈の死と魏犨・顛頡の処分の議
- さて狐偃・胥臣は城内にいて、北門で火が起こったのを見て、軍の変事があるのではと疑い、慌てて兵を率いて見に行った。僖負羈の家が火に包まれているのを見て、急いで兵士に消火させたが、すでにさんざんに焼け崩れていた。
- 僖負羈は家人を率いて消火に当たったが、煙にあたって倒れた。助け起こされた時にはすでに火の毒に当たり、意識を失っていた。その妻は言った。「僖氏に後継ぎがないようにしてはなりません。」そこで五歳の子、僖祿を抱いて裏庭に逃げ、汚水の池に立って難を免れた。
- 混乱は五更まで続き、ようやく火は収まった。僖氏の召使いで死んだ者が数人あり、周辺の民家数十軒も焼け崩れた。
- 狐偃・胥臣は、これが魏犨・顛頡の二人が放った火だと知り、大いに驚き、あえて隠し立てはせず、急ぎ本営に報告した。その本営は城から五里離れており、この夜は城中の火光が遠くに見えたものの、はっきりとは分からなかった。夜が明けて、文公は報告を受け、初めてその事情を知った。
- すぐさま車を進めて城に入り、まず北門に行って僖負羈を見舞った。負羈は目を開いて一目見ると、そのまま息を引き取った。文公は嘆息してやまなかった。
- 負羈の妻は五歳の子僖祿を抱いて地に伏して泣いた。文公もまた涙を流し、彼女に言った。「賢嫂(奥方さま)よ、心配なさるな。寡人がこの子を育てよう。」そこで懐に抱きかかえて大夫に任命し、金や絹を厚く贈り、負羈を丁重に葬り、その妻子を連れて晋に帰った。曹伯が晋に帰服した後、負羈の妻は郷里に帰って墓参りをしたいと願い出たので、人を遣わして帰らせた。僖祿は成長した後、そのまま曹に仕えて大夫となった。これは後の話である。
- その日、文公は司馬趙衰に、命令に背いて放火した罪を議定するよう命じ、魏犨・顛頡を誅殺しようとした。趙衰は奏して言った。「この二人には十九年の亡命随行の労があり、近ごろもまた大きな功を立てました。どうか赦してください。」
- 文公は怒って言った。「寡人が民に信を得る所以は、令である。臣が令に従わなければ臣とは言えず、君が臣に令を行えなければ君とは言えない。君でもなく臣でもないなら、どうして国を立てられよう。諸大夫の中に寡人に功労のある者は非常に多い。もし皆が令を犯し勝手に振る舞うことが許されるなら、寡人は今後一つの令も出せなくなってしまう。」
- 趙衰はさらに奏して言った。「主公のお言葉はまことにごもっともです。しかし魏犨の才勇は諸将に及ぶ者がなく、彼を殺すのは実に惜しゅうございます。それに罪には首謀者と従犯の別があります。私は顛頡一人を借りるだけでも、十分に衆を戒めることができると考えます。どうして両方とも誅する必要がございましょうか。」
- 文公は言った。「魏犨は胸を負傷して起き上がれないと聞く。この今にも死にそうな者を惜しんで、我が法を行わないでいられようか。」
- 趙衰は言った。「私が君命をもって彼に問わせてください。もし本当に死にそうであれば、まさに君のおっしゃる通りにいたしましょう。もしまだ働けるようであれば、どうかこの虎将を留めて、緊急の備えとしていただきたいのです。」文公はうなずいて「よかろう」と言った。
- そこで荀林父を遣わして顛頡を召させ、趙衰に魏犨の病状を見に行かせた。魏犨の命がどうなるかは、次回を見よ。
原文(底本)
話說晉文公定了溫、原、樊陽、攢茅四邑封境,直通太行山之南,謂之南陽。此周襄王十七年之冬也。時齊孝公亦有嗣伯之意。自無虧之死,惡了魯僖公。鹿上不署,彆了宋襄公。孟會不赴,背了楚成王。諸侯離心,朝聘不至。孝公心懷憤怒,欲用兵中原,以振先業。乃集群臣問曰:「先君桓公在日,無歲不征,無日不戰。今寡人安坐朝堂,如居蝸殼之中,不知外事,寡人愧之!昔年魯侯謀救無虧,與寡人為難,此仇未報。今魯北與衛結,南與楚通,倘結連伐齊,何以當之?聞魯歲饑,寡人意欲乘此加兵,以杜其謀。諸卿以為何如?」上卿高虎奏曰:「魯方多助,伐之未必有功。」孝公曰:「雖無功,且試一行,以觀諸侯離合之狀。」乃親率車徒二百乘,欲侵魯之北鄙。邊人聞信,先來告急。魯正值饑饉之際,民不勝兵,大夫臧孫辰言於僖公曰:「齊挾忿深入,未可與爭勝負也,請以辭令謝之!」僖公曰:「當今善為辭令者何人?」臧孫辰對曰:「臣舉一人,乃先朝司空無駭之子,展氏獲名,字子禽,官拜士師,食邑柳下。此人外和內介,博文達理,因居官執法,不合於時,棄職歸隱。若得此人為使,定可不辱君命,取重於齊矣。」僖公曰:「寡人亦素知其人,今安在?」曰:「見在柳下。」使人召之,展獲辭以病不能行。臧孫辰曰:「禽有從弟名喜,雖在下僚,頗有口辯。若令喜就獲之家,請其指授,必有可聽。」僖公從之。展喜至柳下,見了展獲,道達君命。展獲曰:「齊之伐我,欲紹桓公之伯業也。夫圖伯莫如尊王,若以先王之命責之,何患無辭?」展喜復於僖公曰:「臣知所以卻齊矣。」僖公已具下犒師之物,無非是牲醴粟帛之類,裝做數車,交與展喜。喜至北鄙,齊師尚未入境,乃迎將上去。至汶南地方,剛遇齊兵前隊,乃崔夭為先鋒。展喜先將禮物呈送崔夭。崔夭引至大軍,謁見齊侯,呈上犒軍禮物,曰:「寡君聞君親舉玉趾,將辱臨於敝邑,使下臣喜奉犒執事。」孝公曰:「魯人聞寡人興師,亦膽寒乎?」喜答曰:「小人則或者膽寒,下臣不知也。若君子,則全無懼意。」孝公曰:「汝國文無施伯之智,武無曹劌之勇,況正逢饑饉,野無青草,何所恃而不懼?」喜答曰:「敝邑別無所恃,所恃者先王之命耳。昔周先王封太公於齊,封我先君伯禽於魯,使周公與太公割牲為盟,誓曰:『世世子孫,同獎王室,無相害也。』此語載在盟府,太史掌之。桓公是以九合諸侯,而先與莊公為柯之盟,奉王命也。君嗣位九年,敝邑君臣,引領望齊曰:『庶幾修先伯主之業,以親睦諸侯。』若棄成王之命,違太公之誓,墮桓公之業,以好為仇,度君侯之必不然也。敝邑恃此不懼。」孝公曰:「子歸語魯侯,寡人願修睦,不復用兵矣。」即日傳令班師。潛淵有詩,譏臧孫辰知柳下惠之賢,不能薦引同朝。詩云: 北望烽煙魯勢危,片言退敵奏功奇。臧孫不肯開賢路,柳下仍淹展士師。 展喜還魯,復命於僖公。臧孫辰曰:「齊師雖退,然其意實輕魯。臣請偕仲遂如楚,乞師伐齊,使齊侯不敢正眼覷魯,此數年之福也。」僖公以為然。乃使公子遂為正使,臧孫辰為副使,行聘於楚。 臧孫辰素與楚將成得臣相識,使得臣先容於楚王,謂楚王曰:「齊背鹿上之約,宋為泓水之戰,二國者,皆楚仇也。王若問罪於二國,寡君願悉索敝賦,為王前驅。」楚成王大喜。即拜成得臣為大將,申公叔侯副之,率兵伐齊。取陽穀之地,以封齊桓公之子雍,使雍巫相之。留甲士千人,從申公叔侯屯戍,以為魯之聲援。成得臣奏凱還朝。令尹子文時已年老,請讓政於得臣。楚王曰:「寡人怨宋,甚於怨齊。子玉已為我報齊矣,卿為我伐宋,以報鄭之仇。俟凱旋之日,聽卿自便何如?」子文曰:「臣才萬不及子玉,願以自代,必不誤君王之事。」楚王曰:「宋方事晉,楚若伐宋,晉必救之。兩當晉宋,非卿不可,卿強為寡人一行。」乃命子文治兵於暌,簡閱車馬,申明軍法。子文滿意欲顯子玉之能,是日草草完事,終朝畢事,不戮一人。楚王曰:「卿閱武而不戮一人,何以立威?」子文奏曰:「臣之才力,比於強駑之末矣。必欲立威,非子玉不可。」楚王更使得臣治兵於蒍。得臣簡閱精細,用法嚴肅,有犯不赦,竟一日之長,方纔事畢。總計鞭七人之背,貫三人之耳,真個鐘鼓添聲,旌旗改色。楚王喜曰:「子玉果將才也!」子文復請致政,楚王許之。乃以得臣為令尹,掌中軍元帥事。群臣皆造子文之宅,賀其舉薦得人,致酒相款。時文武畢集,惟大夫蒍呂臣有微恙不至。酒至半酣,閽人報:「門外有一小兒求見。」子文命召人。那小兒舉手鞠躬,竟造末席而坐,飲酒啖炙,傍若無人。有人認識此兒,乃蒍呂臣之子,名日蒍賈,年方一十三歲。子文異之,問曰:「某為國得一大將,國老無不賀,爾小子獨不賀,何也?」蒍賈曰:「諸公以為可賀,愚以為可弔耳!」子文怒曰:「汝謂可弔,有何說?」賈曰:「愚觀子玉為人,勇於任事,而昧於決機。能進而不能退,可使佐鬥,不可專任也。若以軍政委之,必至僨事。諺云『太剛則折』,子玉之謂矣!舉一人而敗國,又何賀焉?如其不敗,賀未晚也。」左右曰:「此小兒狂言,不須聽之。」蒍賈大笑而出,眾公卿俱散。 明日,楚王拜得臣為大將,親統大兵,糾合陳、蔡、鄭、許四路諸侯,一同伐宋,圍其緡邑。宋成公使司馬公孫固如晉告急。晉文公集群臣問計。先軫進曰:「方今惟楚強橫,而於君有私恩。今楚戍穀伐宋,生事中原,此天授我以救災恤患之名也。取威定伯,在此舉矣!」文公曰:「寡人欲解齊宋之患,如何而可?」狐偃進曰:「楚始得曹而新婚於衛,是二國又皆主公之仇也。若興師以伐曹衛,楚必移兵來救,則齊宋寬矣。」文公曰:「善。」乃以其謀告公孫固,使回報宋公,令其堅守。公孫固領命去了。文公以兵少為慮。趙衰進曰:「古者大國三軍,次國二軍,小國一軍。我曲沃武公,始以一軍受命。獻公始作二軍,以滅霍、魏、虞、虢諸國,拓地千里。晉在今日,不得為次國,宜作三軍。」文公曰:「三軍既作,遂可用否?」趙衰曰:「未也。民未知禮,雖聚而易散。君盍大蒐以示之禮,使民知尊卑長幼之序,動親上死長之心,然後可用。」文公曰:「作三軍,必須立元帥,誰堪其任?」趙衰對曰:「夫為將者,有勇不如有智,有智不如有學。君如求智勇之將,不患無人。若求有學者,臣所見惟郤縠一人耳。縠年五十餘矣,好學不倦,說《禮》《樂》而敦《詩》《書》。夫《禮》、《樂》、《詩》、《書》,先王之法,德義之府也。民生以德義為本,兵事以民為本。惟有德義者,方能恤民。能恤民者,方能用兵。」文公曰:「善。」乃召郤縠為元帥,縠辭不受。文公曰:「寡人知卿,卿不可辭!」強之再三,乃就職。擇日,大蒐於被廬,作中上下三軍。郤縠將中軍,郤溱佐之,祁瞞掌大將旗鼓。使狐偃將上軍,偃辭曰:「臣兄在前,弟不可以先兄。」乃命狐毛將上軍,狐偃佐之。使趙衰將下軍,衰辭曰:「臣貞慎不如欒枝,有謀不如先軫,多聞不如胥臣。」乃命欒枝將下軍,先軫佐之。荀林父御戎,魏犨為車右,趙衰為大司馬。郤縠登壇發令。三通鼓罷,操演陣法,少者在前,長者在後,坐作進退,皆有成規。有不能者,教之;三教而不遵,以違令論,然後用刑。一連操演三日,奇正變化,指揮如意。眾將見卻縠寬嚴得體,無不悅服。方欲鳴金收軍,忽將臺之下,起一陣旋風,竟將大帥旗杆,吹為兩段,眾皆變色。卻縠曰:「帥旗倒折,主將當應之。吾不能久與諸子同事,然主公必成大功。」眾問其故,縠但笑而不答。時周襄王十九年,冬十二月之事也。 明年春,晉文公議分兵以伐曹衛,謀於郤縠。縠對曰:「臣已與先軫商議停當矣。今日非與曹衛為難也,分兵可以當曹衛,而不可以當楚。主公宜以伐曹為名,假道於衛,衛曹方睦,必然不允。我乃從南河濟師,出其不意,直搗衛境,所謂『迅雷不及掩耳』,勝有八九。既勝衛,然後乘勢而臨曹。曹伯素失民心,又惕於敗衛之威,其破曹必矣!」文公喜曰:「子真有學之將也!」即使人如衛假道伐曹。衛大夫元咺請於成公曰:「始晉君出亡過我,先君未嘗加禮。今來假道,君必聽之。不然,彼將先衛而後曹矣。」成公曰:「寡人與曹共服於楚,若假以伐曹之路,恐未結晉歡,而先取楚怒也。怒晉,猶恃有楚,並怒楚,將何恃乎?」遂不許。晉使回報文公。文公曰:「不出元帥所料也!」乃命迂道南行。渡了黃河,行至五鹿之野,文公曰:「嘻!此介子推割股處也!」不覺淒然淚下,諸將皆感嘆助悲。魏犨曰:「吾等當拔城取邑,為君雪往年之恥,何用嘆息?」先軫曰:「武子之言是也。臣願率本部之兵,獨取五鹿。」文公壯其言,許之。魏犨曰:「吾當助子一臂。」二將升車前進。先軫令軍士多帶旗幟,凡所過山林高阜之處,便教懸插,務要透出林表。魏犨曰:「吾聞『兵行詭道』,今遍張旗表,反使敵人知備,不知何意?」先軫曰:「衛素臣服於齊,近改事荊蠻,國人不順,每虞中國之來討。吾主欲繼齊圖伯,不可示弱,當以先聲奪之。」 卻說五鹿百姓,不意晉兵猝然來到,登城瞭望,但見旌旗布滿山林,正不知兵有多少。不論城內城外居民,爭先逃竄,守臣禁止不住。先軫兵到,無人守禦,一鼓拔之。遣人報捷於文公。文公喜形於色,謂狐偃曰:「舅云得土,今日驗矣!」乃留老將郤步揚屯守五鹿,大軍移營,進屯斂盂。郤縠忽然得病,文公親往視之。郤縠曰:「臣蒙主公不世之遇,本欲塗肝裂腦,以報知己。奈天命有限,當應折旗之兆,死在旦夕!尚有一言奉啟。」文公曰:「卿有何言?寡人無不聽教。」縠曰:「君之伐曹衛,本謀固以致楚也。致楚必先計戰,計戰必先合齊秦。秦遠而齊近,君速遣一使結好齊侯,願與結盟。齊方惡楚,亦思結晉。倘得齊侯降臨,則衛曹必懼而請成,因而收秦。此制楚之全策也。」文公曰:「善。」遂遣使通好於齊,敘述桓公先世之好,願與結盟,同攘荊蠻。 時齊孝公已薨,國人推立其弟潘,是為昭公。潘,葛嬴所生也,新嗣大位。以取穀之故,正欲結晉以抗楚。聞知晉侯屯軍斂盂,即日命駕至衛地相會。衛成公見五鹿已失,忙使寧速之子寧俞,前來謝罪請成。文公曰:「衛不容假道,今懼而求成,非其本心。寡人旦夕當踏平楚丘矣。」寧俞還報衛侯。時楚丘城中,訛傳晉兵將到,一夕五驚。俞謂衛成公曰:「晉怒方盛,國人震恐,君不如暫出城避之。晉知主公已出,必不來攻楚丘。然後再乞晉好,保全社稷可也。」成公嘆曰:「先君不幸失禮於亡公子,寡人又一時不明,不允假道,以至如此。累及國人,寡人亦無面目居於國中!」乃使大夫咺同其弟叔武攝國事,自己避居襄牛之地;一面使大夫孫炎,求救於楚。時乃春二月也。髯翁有詩云: 納姬贈馬怪紛紛,患難何須具主賓?誰知五鹿開疆者,便是當年求乞人! 是月,郤縠卒於軍。晉文公悼惜不已,使人護送其喪歸國。以先軫有取五鹿之功,升為元帥。用胥臣佐下軍,以補先軫之缺。(因趙衰前薦胥臣多聞,是以任之。)文公欲遂滅衛國,先軫諫曰:「本為楚困齊宋,來拯其危,今齊宋之患未解,而先覆人國,非伯者存亡恤小之義也。況衛雖無道,其君已出,廢置在我。不如移兵東伐曹。比及楚師救衛,則我已在曹矣。」文公然其言。 三月,晉師圍曹。曹共公集群臣問計。僖負羈進曰:「晉君此行,為報觀脅之怨也。其怒方深,不可較力。臣願奉使謝罪請平,以救一國百姓之難。」曹共公曰:「晉不納衛,肯獨納曹乎?」大夫于朗進曰:「臣聞晉侯出亡過曹,負羈私餽飲食,今又自請奉使,此乃賣國之計,不可聽之。主公先斬負羈,臣自有計退晉。」曹共公曰:「負羈謀國不忠,姑念世臣,免殺罷官。」負羈謝恩出朝去了。正是:「閉門不管窗前月,吩咐梅花自主張。」共公問于朗:「計將安出?」于朗曰:「晉侯恃勝,其氣必驕。臣請詐為密書,約以黃昏獻門。預使精兵挾弓弩,伏於城堧之內,哄得晉侯入城,將懸門放下,萬矢俱發,不愁不為齏粉。」曹共公從其計。晉侯得于朗降書,便欲進城。先軫曰:「曹力未虧,安知非詐?臣請試之。」乃擇軍中長鬚偉貌者,穿晉侯衣冠代行。寺人勃鞮自請為御。黃昏左側,城上豎起降旗一面,城門大開,假晉侯引著五百餘人,長驅而入。未及一半,但聞城堧之內,梆聲亂響,箭如飛蝗射來。急欲回車,門已下閘。可惜勃鞮及三百餘人,死做一堆!幸得晉侯不去,不然,「崑崗失火,玉石俱焚」了。晉文公先年過曹,曹人多有認得的,其夜倉卒不辨真偽。于朗只道晉侯已死,在曹共公面前,好不誇嘴!及至天明辨驗,方知是假的,早減了一半興。其未曾入城者,逃命來見晉侯。晉侯怒上加怒,攻城愈急。于朗又獻計曰:「可將射死晉兵,暴屍於城上,彼軍見之,必然慘沮,攻不盡力。再延數日,楚救必至,此乃搖動軍心之計也。」曹共公從之。晉軍見城頭用枰竿懸屍,纍纍相望,口中怨嘆不絕。文公謂先軫曰:「軍心恐變,如之奈何?」先軫對曰:「曹國墳墓,俱在西門之外。請分軍一半,列營於墓地,若將發掘者,城中必懼,懼必亂,而後乃可乘也。」文公曰:「善。」乃令軍中揚言:「將發曹人之墓。」使狐毛狐偃率所部之眾,移屯墓地,備下鍬鋤,限定來日午時,各以墓中髑髏獻功。城內聞知此信,心膽俱裂。曹共公使人於城上大叫:「休要發墓,今番真正願降!」先軫亦使人應曰:「汝誘殺我軍,復磔屍城上,眾心不忍,故將發墓,以報此恨!汝能殯殮死者,以棺送還吾軍,吾當歛兵而退矣。」曹人覆曰:「既如此,請寬限三日!」先軫應曰:「三日內不送屍棺,難怪我辱汝祖宗也!」曹共公果然收取城上屍骸,計點數目,各備棺木,三日之內,盛歛得停停當當,裝載乘車之上。先軫定下計策,預令狐毛、狐偃、欒枝、胥臣整頓兵車,分作四路埋伏。只等曹人開門出棺,四門一齊攻打進去。到第四日,先軫使人於城下大叫:「今日還我屍棺否?」曹人城上應曰:「請解圍退兵五里,即當交納。」先軫稟知文公,傳令退兵,果退五里之遠。城門開處,棺車分四門推出。纔出得三分之一,忽聞砲聲大舉,四路伏兵一齊發作,城門被喪車填塞,急切不能關閉,晉兵乘亂攻入。曹共公方在城上彈壓,魏犨在城外看見,從車中一躍登城,劈胸揪住,縛做一束。于朗越城欲遁,被填頡獲住斬之。晉文公率眾將登城樓受捷。魏犨獻曹伯襄,顛頡獻于朗首級,眾將各有擒獲。晉文公命取仕藉觀之,乘軒者三百人,各有姓名,按藉拘拿,無一脫者。籍中不見僖負羈名字,有人說:「負羈為勸曹君行成,已除籍為民矣。」文公乃面數曹伯之罪曰:「汝國只有一賢臣汝不能用,郤任用一班宵小,如小兒嬉戲,不亡何待」喝教:「幽於大寨,俟勝楚之後,待聽處分。」其乘軒三百人,盡行誅戮,抄沒其家,以賞勞軍士。僖負羈有盤飱之惠,家住北門,環北門一帶,傳令:「不許驚動,如有犯僖氏一草一木者斬首!」晉侯分調諸將,一半守城,一半隨駕,出屯大寨。胡曾先生詠史詩云: 曹伯慢賢遭縶虜,負羈行惠免誅夷。眼前不肯行方便,到後方知是與非。 郤說魏犨顛頡二人,素有挾功驕恣之意,今日見晉侯保全僖氏之令,魏犨忿然曰:「吾等今日擒君斬將,主公並無一言褒獎。些須盤飱,所惠幾何,郤如此用情,真個輕重不分了!」顛頡曰:「此人若仕於晉,必當重用,我等被他欺壓,不如一把火燒死了他,免其後患。便主公曉得,難道真個斬首不成?」魏犨曰:「言之有理。」二人相與飲酒,候至夜靜,私領軍卒,圍住僖負羈之家,前後門放起火來,火燄沖天。魏犨乘醉恃勇,躍上門樓,冒著火勢,在簷溜上奔走如飛,欲尋僖負羈殺之。誰知棟榱焚毀,倒塌下來,撲陸一聲,魏犨失腳墜地,跌個仰面朝天。只聽得天崩地裂之聲,一根敗棟刮喇的,正打在魏犨胸脯上。魏犨大痛無聲,登時口吐鮮血,前後左右,火毬亂滾,只得掙䦟起來,兀自攀著庭柱,仍躍上屋,盤旋而出。滿身衣服,俱帶著火,扯得赤條條,方免焚身之禍。魏犨雖然勇猛,此時不繇不困倒了。剛遇顛頡來到,扶到空閒去處,解衣衣之,一同上車,回寓安歇。 卻說狐偃胥臣在城內,見北門火起,疑有軍變,慌忙引兵來視。見僖負羈家中被火,急教軍士撲滅,已自焚燒得七零八落。僖負羈率家人救火,觸煙而倒,比及救起,已中火毒,不省人事。其妻曰:「不可使僖氏無後!」乃抱五歲孩兒僖祿奔後園,立污池中得免。亂到五更,其火方熄。僖氏家丁死者數人,殘毀房舍民居數十餘家。狐偃胥臣訪知是魏犨顛頡二人放的火,大驚,不敢隱瞞,飛報大寨。那大寨離城五里,是夜雖望見城中火光,不甚明白,直到天明,文公接得申報,方知其故。即刻駕車入城,先到北門來看僖負羈,負羈張目一看,遂瞑。文公嘆息不已。負羈妻抱著五歲孩兒僖祿,哭拜於地。文公亦為垂淚,謂曰:「賢嫂不必愁煩,寡人為汝育之。」即懷中拜為大夫,厚贈金帛,殯葬負羈,攜其妻子歸晉。直待曹伯歸附之後,負羈妻願歸鄉省墓,乃遣人送歸。僖祿長成,仍仕於曹為大夫。此是後話。 當日文公命司馬趙衰,議違命放火之罪,欲誅魏犨顛頡。趙衰奏曰:「此二人有十九年從亡奔走之勞,近又立有大功,可以赦之!」文公怒曰:「寡人所以取信於民者,令也。臣不遵令,不謂之臣,君不能行令於臣,不謂之君。不君不臣,何以立國?諸大夫有勞於寡人者甚眾,若皆可犯令擅行,寡人自今不復能出一令矣!」趙衰復奏曰:「主公之言甚當。然魏犨材勇,諸將莫及,殺之誠為可惜!且罪有首從,臣以為借顛頡一人,亦足警眾,何必並誅?」文公曰:「聞魏犨傷胸不能起,何惜此旦暮將死之人,而不以行吾法乎?」趙衰曰:「臣請以君命問之,如其必死,誠如君言。倘尚可驅馳,願留此虎將,以備緩急。」文公點頭道:「是。」乃使荀林父往召顛頡,使趙衰視魏犨之病。不知魏犨性命如何,且看下回分解。
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