東周列國志第四十一回 連谷城で子玉が自殺する/践土の壇で晋侯が盟を主宰する (連谷城子玉自殺 踐土壇晉侯主盟)

城濮の戦いの決着

  • さて、楚の将、鬥越椒は小将軍の成大心とともに、祁瞞を追撃せず、そのまま晋の中軍に斬り込んだ。越椒は大将の旗が風になびいているのを見て、一矢でこれを射落とした。晋軍は大将の旗を見失い、たちまち大混乱に陥った。そこへ荀林父・先蔑の二手の兵が呼応して救援に到着し、荀林父は鬥越椒を迎え撃って戦い、先蔑は成大心を迎え撃って戦った。
  • 成得臣は軍を率いて大いに進み、腕まくりして大声で叫んだ。「今日、晋軍の一人たりとも生きて還すことを許すならば、誓って軍を引き返さぬ!」まさに手はずを整えていたところ、先軫・郤溱の兵が到着し、両軍はしばらく入り乱れて戦った。欒枝・胥臣・狐毛・狐偃も一斉に到着し、銅の壁鉄の垣のように包囲を固めてきた。
  • 得臣はようやく左右の二軍がすでに潰えたことを知り、戦を続ける気を失って、急いで銅鑼を鳴らして軍を収めるよう令を伝えた。しかし晋の兵は勢い盛んで、楚の兵将を十か所ほどに分けて包囲してしまった。
  • 小将軍成大心は一本の画戟を振るい、神出鬼没の働きをし、一族の兵六百人を率いて、一人で百人に当たらぬ者はなく、父の得臣を守りながら命がけで重囲を突破した。しかし鬥越椒の姿が見えないので、再び身を翻して斬り込んだ。
  • あの鬥越椒は子文の従弟で、その姿は熊や虎のようで、声は山犬や狼のようであり、万人が立ち向かっても敵わぬ勇があり、弓の技に精通し、矢は一発も外さなかった。晋軍の中を左右に突き進み、まさに成家の父子を探していた。ちょうど成大心に出会い、成大心が「元帥は無事です、将軍も早くお逃げください!」と言った。二人はそこで合流し、それぞれ神のごとき勢いを振るって、さらに多くの楚軍を救い出し、包囲を破って脱出した。

晋文公の追撃中止と祁瞞の拘禁

  • 晋文公は有莘山の上で、晋軍が勝利を得たのを見て、急いで人を遣わし先軫に命じて各軍に伝えさせた。「ただ楚の兵を宋・衛の境の外まで追い払えばそれで十分である。無用に捕らえたり殺したりして両国の情誼を傷つけ、楚王が恩恵を施してくれた志に背いてはならぬ。」先軫はそこで諸軍を制止し、追撃を行わせなかった。祁瞞は命令に背いて出撃したため、後軍に囚われ、処分を待つことになった。胡曾先生の詩がある。
  • (詩:三舎を避けて恩に報い、また深追いを戒めて楚軍を逃したことを詠み、敵と対峙してさえこれほど義理堅いのに、平時に義に背く者は何者かと問う趣旨)

成得臣の連谷への敗走

  • 陳・蔡・鄭・許の四国は兵を損じ将を失い、各自命からがら逃げ、それぞれ本国へ帰っていった。
  • さて成得臣は成大心・鬥越椒とともに重囲を脱し、急いで本営へ向かった。前哨が「本営の中にはすでに斉・秦両家の旗印が立てられております!」と報告した。もとより国帰父・小子憖の二将が楚兵を追い散らして本営を占拠し、輜重や兵糧・馬の飼い葉はことごとくその手に帰していたのである。得臣はそこを通ることができず、やむを得ず引き返して有莘山の後ろから睢水沿いの道を進んだ。鬥宜申・鬥勃がそれぞれ残兵を率いて合流してきた。
  • 空桑の地に至ったとき、突然連発の砲が鳴り響き、一軍が道を塞いだ。旗には「大将魏」の字が書かれていた。魏犨はかつて楚国で一人で貘獣を制したことがあり、楚人は皆その神のごとき勇に服していた。今日、この険しい道でこの強敵に出会い、あの残兵たちは皆弓に傷ついた鳥のようなもので、誰一人肝を潰さぬ者はなく、すでに敵の姿を見ただけで浮き足立ち、崩れ潰えていた。
  • 鬥越椒は大いに怒り、小将軍に元帥を守るよう命じ、自らは奮い立って独力で防ぎ戦った。鬥宜申・鬥勃も無理をして手助けをした。魏犨は三将と力戦し、水も漏らさぬほどであった。
  • まさに対峙していたところ、突然北から一人が馬を飛ばしてやって来て、大声で叫んだ。「将軍、戦をやめてください。元帥の先軫どのが主公の命を奉じております。『楚将を本国へ生きて帰し、亡命の折に款待を受けた恩に報いよ』とのことです。」魏犨はそこでようやく手を止め、兵士に両軍を分けさせ、大声で言った。「お前たちを許してやる!」
  • 得臣らは慌てふためいて逃げ、連谷まで戻って残兵を点検すると、中軍は損失はあったものの、なお十のうち六、七は残っていた。しかし申・息の軍で左右二軍に配属されていた者は、十のうち一、二しか残っていなかった。哀れなことよ!古人に戦場を弔う詩がある。
  • (詩:勝敗は兵家の常であり、英雄も幾人が戦場で老いることができようか。逃げ惑う禽獣は落とし穴に落ち、肉は震え筋は飛んで剣先に晒される。鬼火は幽かに燃えて魂は草に宿り、悲風は音を立てて骨に霜が及ぶ。諸君よ封侯の事を羨んではならない、一人の将が功を成せば万の命が失われるのだ、という趣旨)

成得臣の自刎

  • 得臣は大いに嘆いて言った。「もともと楚国のために万里に威を揚げようと図ったのに、思いもかけず晋人の詭計にはまり、功を貪って敗北を招いた。罪をどうして逃れられようか。」そこで鬥宜申・鬥勃とともに連谷に自ら囚われ、その子の大心に残軍を統率させて楚王のもとへ行かせ、自ら誅を受けることを請わせた。
  • 時に楚成王はまだ申城にあり、成大心が到着したのを見て大いに怒って言った。「お前の父は以前に『勝てなければ甘んじて軍令を受ける』と言っておいた。今さら何を言うことがあろうか。」大心は叩頭して言った。「臣の父は自らの罪を知り、すぐにも自殺しようとしましたが、臣がこれを実際に止めました。主君の御手で誅を受けさせ、国法を明らかにしたいと存じます。」
  • 楚王は言った。「楚国の法では、兵に敗れた者は死である。諸将は速やかに自裁すべし。我が処刑の道具を汚してはならぬ!」大心は楚王に憐れみ赦す意のないのを見て、泣き叫びながら退出し、得臣に復命した。
  • 得臣は嘆いて言った。「たとえ楚王が私を赦したとしても、私はどの面目あって申・息の父老たちに会えようか。」そこで北に向かって再拝し、佩剣を抜いて自刎して死んだ。

蒍賈の進言と免死の赦免使

  • さて蒍賈は家にあって、父の蒍呂臣に尋ねた。「令尹が兵に敗れたと聞きましたが、本当ですか。」呂臣は「本当だ」と答えた。蒍賈は「王はどう処置なさるのですか」と尋ねた。蒍呂臣は「子玉と諸将は死を請い、王はこれをお聞き入れになった」と言った。
  • 蒍賈は言った。「子玉は強情で驕っており、独りに任せてはなりませんが、その人柄は強く屈しません。もし知謀ある者に補佐させれば、功を立てさせることができます。今回は兵に敗れたとはいえ、他日晋への仇を報いることができるのは、必ず子玉でしょう。父上はなぜ諫めて留めなさらないのですか。」
  • 呂臣は言った。「王の怒りは甚だしく、言っても無益であろう。」蒍賈は言った。「父上は范巫矞似の言葉をお忘れですか。」呂臣は「試しに言ってみよ」と言った。
  • 蒍賈は言った。「矞似は人相を見るのが得意で、主上がまだ公子であられたとき、矞似はかつて『主上と子玉・子西の三人は、後日いずれも尋常な死に方をなさらないでしょう』と言いました。主上はその言葉を深く記憶され、即位の日に、子玉・子西にそれぞれ死罪を免じる札を賜り、矞似の言葉が的中しないようにしようとなさいました。主上は怒りのあまり、たまたまそれをお忘れになっているだけです。父上がこのことに言及すれば、主上は必ず二人の臣を留められることでしょう、疑いございません。」
  • 呂臣はすぐに楚王に会いに行き、奏して言った。「子玉の罪は死に当たるとはいえ、我が王はかつて死罪を免じる札を彼に与えられておりますので、赦すことができましょう。」楚王は驚いて言った。「これは范巫矞似のことではないか。お前が言わねば、寡人はほとんど忘れるところであった!」
  • そこで大夫の潘尪を遣わし、成大心とともに急いで楚王の命を伝えさせた。「敗軍の将は一様に死を免じる!」しかし連谷に到着したときには、得臣はすでに半日前に死んでいた。左師将軍の鬥宜申は梁に首をかけて縊死しようとしたが、身体が重く大きかったため、掛けた帛が切れてしまい、ちょうど免死の命が到着して命を取り留めた。鬥勃はもともと子玉・子西の屍を収めようとしてから自殺するつもりであったため、これも死なずに済んだ。ただ一人成得臣だけが死んだのは、運命ではなかろうか。潜淵居士に彼を弔う詩がある。
  • (詩:楚国に威風堂々たる一丈夫がおり、全晋を呑み込むほどの雄図を抱いていたが、ひとたび足を踏み外して身を滅ぼし、初めて剛強な者こそ死に至りやすいと悟る、という趣旨)

楚の戦後処理と令尹子文の遺言

  • 成大心は父の屍を納棺して仮安置した。鬥宜申・鬥勃・鬥越椒らは潘尪に従って申城へ行き楚王に謁し、地に伏して殺されなかった恩を拝謝した。楚王は得臣が自殺したことを知り、悔やんでやまなかった。郢都へ帰り、蒍呂臣を令尹に昇任させ、鬥宜申を降格して商邑尹とし、これを商公と呼んだ。鬥勃は出て襄城を守ることとなった。
  • 楚王はかえって得臣の死を憐れみ、その子の成大心・成嘉をともに大夫に任じた。
  • 令尹の子文は政を退いて家に居たが、得臣の敗戦を聞いて嘆いて言った。「蒍賈の予想を外れなかった!我が見識はかえって子供にも及ばぬ、まことに恥じ入るばかりだ!」血を数升も吐き、床に伏して起き上がれなくなった。
  • 子の鬥般を呼んで言い聞かせた。「私の死は目前に迫っている。ただ一言お前に言い聞かせておく。お前の叔父の越椒は、生まれた日からすでに熊や虎の姿、山犬や狼の声を持っていた。これは一族を滅ぼす相である。私はその時、お前の祖父にこの子を育てぬよう勧めたが、祖父は聞き入れなかった。私が見るに、蒍呂臣は長命でなく、鬥勃と宜申もともに天寿を全うする相ではない。楚国の政をとるのは、お前でなければ越椒であろう。越椒は傲慢で残忍、殺しを好む。もし政をとれば、必ず道理に外れた望みを抱くだろう。鬥氏の祖宗の祭祀は絶えてしまうのではないか。私の死後、越椒が政をとるようなら、お前は必ずそこから逃れ、その禍に関わってはならぬ。」鬥般は再拝して命を受けた。子文はそのまま亡くなった。
  • まもなく蒍呂臣も死んだ。成王は子文の功を追念し、鬥般に令尹の職を継がせ、越椒を司馬とし、蒍賈を工正とした。この話はここまでとする。

晋文公の凱旋、祁瞞の斬罪と黄河渡河

  • さて晋文公は楚軍を破ると、楚の本営に陣を移した。本営の中に残された兵糧と馬の飼い葉は非常に多く、各軍はこれを食糧とし、冗談交じりに「これは楚人が我らを館舎でもてなしてくれているようなものだ」と言った。斉・秦および諸将は皆、北を向いて臣下の礼をとり祝賀を述べた。文公は辞退して受けず、顔に憂いの色を浮かべた。諸将が「わが君は敵に勝ちながら憂えておられるのはなぜですか」と尋ねると、文公は言った。「子玉は喜んで人の下風に立つ者ではない。勝ったからといって頼みにはできぬ、懼れずにいられようか。」
  • 国帰父・小子憖らは暇を告げて帰ろうとしたので、文公は戦利品の半分を彼らに贈った。両国は凱旋して帰った。宋の公孫固もまた本国へ帰り、宋公は自ら使者を遣わして斉・秦に謝意を表した。この話はここまでとする。
  • 先軫は祁瞞を捕らえて文公の前に連れて行き、命令に背いて軍を辱めた罪を奏上した。文公は言った。「もし上軍・下軍の二軍が先に勝っていなければ、楚兵をなお制することができただろうか。」司馬の趙衰に命じてその罪を定めさせ、祁瞞を斬って軍中に晒し、号令を発した。「今後、元帥の令に背く者は、この者を見よ!」軍中はますます畏れ懼れるようになった。
  • 大軍は有莘に三日留まり、その後兵を引き上げる令を下した。南河まで進んだところ、偵察の騎兵が「河のほとりの船がまだ揃っておりません」と復命した。文公は舟之僑を召そうとしたが、僑もその場にいなかった。もとより舟之僑は虢国からの降将で、晋に仕えて久しく、重用されて功を立てることを心待ちにしていたが、南河へ船を集めるよう命じられたことに内心不満を抱いていた。ちょうど家からの報せを受け、妻が家で重病だと聞き、僑は晋楚が対峙すればきっと日数がかかり、すぐには兵を引き上げられまいと考え、そのため一旦帰国して様子を見に行っていたのである。
  • 思いもよらず、夏四月戊辰の日に軍は城濮に至り、己巳の日に交戦してたちまち楚軍を大破し、三日休兵した後、癸酉の日に大軍はもう帰還を始めた。前後わずか六日で晋侯は早くも河のほとりに至り、渡河の準備に間に合わなかったのである。
  • 文公は大いに怒り、兵士に四方を捜索させて民船を捕らえさせようとした。先軫は言った。「南河の民は、我らが楚を破ったと聞けば、誰しも震え恐れるでしょう。もし捜索させれば、必ず逃げ隠れましょう。むしろ令を出して手厚い賞で募るのが良いでしょう。」文公は「よかろう」と言った。賞を軍門に懸けたとたん、民は先を争って船を漕ぎ寄せて応募し、たちまち舟が蟻のように集まり、大軍はついに黄河を渡ることができた。
  • 文公は趙衰に言った。「曹・衛の恥はすでに雪いだが、鄭への仇だけはまだ報いていない、どうすればよいか。」趙衰は答えた。「君が軍を旋らせて鄭を通過されれば、鄭が来ないことを心配する必要はございません。」文公はこれに従った。

王子虎の来訪と踐土会見の準備

  • 行軍数日も経たぬうちに、遠くに一隊の車馬が見え、一人の貴人を取り囲んで東からやって来た。前隊の欒枝が迎え出て「来られたのはどなたか」と尋ねると、答えて言った。「私は周の天子の卿士、王子虎です。晋侯が楚を伐って勝利を収め、中原がいくらか安んじたと聞き、天子は自ら御車を駆って三軍をねぎらいにお出でになります。まずこの虎に報せに来させたのです。」欒枝はすぐに子虎を案内して文公に会わせた。
  • 文公は群臣に尋ねた。「今、天子が寡人をねぎらいに下ってこられる、道中でどのような礼を行うべきか。」趙衰は言った。「ここから衡雍まで遠くありません。踐土という地名があり、その地は広く平らです。夜を徹して王宮をそこに築き、その後主公が列国の諸侯を率いて駕を迎え、朝礼を行われれば、君臣の義を失わずに済みましょう。」文公はそこで王子虎と期日を取り決め、五月の吉日に踐土で周王の駕の到着を待つことを約した。子虎は辞去した。

鄭との講和

  • 大軍は衡雍に向かって進んだ。途中でまた一隊の車馬を見かけ、一人の使臣が出迎えに来た。鄭の大夫、子人九であった。鄭伯の命を奉じ、晋兵が来て罪を討たれるのを恐れ、特に和議を求めに遣わされたのである。晋文公は怒って言った。「鄭は楚が敗れたと聞いて懼れているだけで、本心から出たものではない。寡人は王に朝覲した後、必ず自ら軍を率いて、城下まで至るであろう。」
  • 趙衰は進み出て言った。「我らが出兵してこのかた、衛君を追い、曹伯を捕らえ、楚軍を破り、兵威はすでに大いに震わせております。さらに鄭に多くを求めれば、軍を疲れさせるだけではございませんか。どうか御心のうちに鄭の請いをお許しくださいませ。もし鄭が固く心を決めて帰順するなら赦せばよく、もしまた二心を抱くなら、しばらく数ヶ月休息した後に討っても遅くはございません。」文公はそこで鄭との和議を許した。
  • 大軍は衡雍に至って陣を張った。一方で狐毛・狐偃に本隊の兵を率いさせて踐土へ行き王宮を築造させ、一方で欒枝を鄭の城内へ入らせて鄭伯と盟いを結ばせた。鄭伯は自ら衡雍に至り、食糧を贈って謝罪した。文公は再び血をすすって盟い、好誼を結んだ。
  • 話の間に、子玉の英勇を褒めそやすことがあった。鄭伯は「すでに連谷で自殺いたしました」と言った。文公は長らく嘆息した。
  • 鄭伯が退出した後、文公は密かに諸臣に言った。「吾は今日、鄭を得たことを喜んでいるのではなく、楚が子玉を失ったことを喜んでいるのだ。子玉が死んだ以上、他の者は懸念するに足りぬ。諸卿は枕を高くして眠るがよい!」髯翁の詩がある。
  • (詩:得臣は粗暴な男児であったが、勝敗は将来どうなったか分からなかったはずで、楚兵が今また敗れたと皆言うが、連谷に屍を車に載せて運ぶこととなったのが哀れであるという趣旨)

明堂賦と踐土の王宮

  • さて狐毛・狐偃は踐土に王宮を築いたが、明堂の制にのっとった。どのようなものであったか。《明堂賦》がその証である。
  • (賦:明堂の壮麗な構えと、天子が諸侯を身分の序列に従って配置し朝見を受ける制度の詳細を描写する趣旨)
  • 王宮の左右にはさらに数箇所の館舎が別に建てられ、昼夜兼行の工事で一月あまりで完成した。諸侯に檄を伝え、「皆五月朔日に踐土に集合されたい」とした。

諸侯の参集

  • この時、宋の成公王臣、斉の昭公潘は、いずれも旧来の好誼があったため、鄭の文公捷は新たに帰服した国であったため、率先して駆けつけた。その他、魯の僖公申は楚と好誼を通じており、陳の穆公款・蔡の荘公甲午は楚と兵を連ねていたが(いずれも楚の党であった)、この段になって罪を懼れて会に赴いた。邾・莒などの小国は言うまでもない。
  • ただ許の僖公業だけは、楚に仕えることが最も長く、晋に従うことを望まなかった。秦の穆公任好は、晋と結んではいたものの、いまだかつて中原の会盟に加わったことがなく、躊躇して来なかった。衛の成公鄭は襄牛に出ており、曹の共公襄は五鹿に囚われたままであった。この二人については、晋侯がかつて帰国して位に復することを許すと言っていたものの、まだ明確な赦しが出ていなかったため、いずれも会には加わらなかった。

衛成公の出奔と叔武への国譲り

  • さて衛の成公は晋がまさに諸侯を集めようとしていると聞き、寧俞に言った。「会への招集は衛に及んでいない、晋の怒りはまだ収まっていないのだ。寡人はここに留まってはおられぬ!」
  • 寧俞は答えて言った。「君がただ出奔なさるだけでは、誰が君を受け入れましょうか。むしろ位を叔武に譲り、元咺にこれを奉じさせて踐土での盟いを願い出させ、君は遜って身を避けるという形で国を出られるのが良いでしょう。もし天が衛に幸いするなら、武(叔武)が盟いに与れれば、武が国を保つのはすなわち君が保つのと同じことです。まして武はもとより孝行で兄弟仲もよい、どうして代わって位に即くに忍びましょうか。必ずや君の復位のための計を立てるでしょう。」
  • 衛侯は内心望まなかったものの、この事態に至ってはどうしようもなく、孫炎に君命をもって国を叔武に委ねさせ、寧俞の言葉通りにさせた。孫炎は命を受けて楚丘へ行った。
  • 衛侯はまた寧俞に尋ねた。「寡人は今出奔しようと思うが、どの国が良いだろうか。」俞はためらって答えなかった。衛侯はさらに「楚へ行くのはどうか」と尋ねた。俞は答えた。「楚は婚姻の間柄とはいえ、実際は晋の仇です。しかも以前すでに絶交を告げております、再び行くべきではございません。陳へ行かれるのがよろしいでしょう。陳はまさに晋に仕えようとしており、また晋に通じる足がかりとすることもできます。」
  • 衛侯は言った。「そうではない。絶交を告げたのは寡人の本意ではない、楚は必ず諒解してくれよう。晋と楚のこれからのことは、まだ定まらぬ。武に晋に仕えさせ、私は楚に身を寄せる、両方に目を配るのも良いのではないか。」
  • 衛侯はそこで楚へ向かったが、楚の国境の者に追いかけられて罵られ、それで陳へ行き先を変えた。ここで初めて寧俞の先見の明に服したのである。
  • 孫炎は叔武に会い、衛侯の命を伝えた。武は言った。「私が国を守るのは代行に過ぎない、どうして譲りを受けられようか。」そのまま元咺とともに会に赴いた。孫炎を遣わして衛侯に復命させ、「晋に会う時には、必ず兄上のために憐れみを乞い復位を求めましょう」と言わせた。

元咺と歂犬の確執

  • 元咺は言った。「君は猜疑心が強い、私が身内の子弟を同行させなければ、どうして信を得られようか。」そこで自分の子の元角を孫炎に同行させて赴かせた。名目は安否を尋ねる挨拶であったが、実際には人質を留める意図であった。
  • 公子歂犬は密かに元咺に言った。「我が君(衛侯)が復位できないのは、もはや明らかなことだ。あなたはなぜ譲位のことを国人にはっきり告げ、夷叔(叔武)を擁立して補佐しないのか。晋人は必ず喜ぶだろう。あなたが晋の威勢を頼みに衛に臨めば、これはあなたと武とで衛を共にすることになる。」
  • 元咺は言った。「叔武でさえ敢えて兄を無視しないのに、私がどうして主君を無視できようか。この度の行は、まさに我が君の復位を請うためのものだ。」歂犬は言葉に詰まって退いた。
  • 歂犬は、衛侯がひとたび帰国して位に復したとき、元咺がこの言葉を漏らせば、自分が罪を得るのを免れないと恐れ、密かに陳国へ行き、衛侯に密告し、逆に「元咺はすでに叔武を君に立て、晋との会盟を謀ってその位を定めようとしております」と言った。
  • 衛の成公はその言葉に惑わされ、孫炎に問うた。孫炎は答えた。「臣は存じません。元角は今君の御側におります。その父に謀りごとがあれば、角も必ず聞き及んでいるはずです、君はなぜ角にお尋ねにならないのですか。」衛侯は改めて元角に尋ねたが、角はそのようなことは全くないと言った。寧俞もまた言った。「咺がもし君に不忠であれば、子を遣わして仕えさせるでしょうか。君は疑われますな。」
  • 公子歂犬は密かに衛侯に会って言った。「咺が計を設けて君を拒もうとしているのは、一日のことではございません。その子を遣わしたのは、君に忠実であるからではなく、君の動静を窺い、それに備えるためです。もし晋に憐れみを乞うて我が君の復位を求めるのであれば、必ず会を辞退して参加しないはずです。もし公然と会に参加するようであれば、叔武を君に立てたという話が本当だと裏づけられるのです。君はよくお察しください。」
  • 衛侯は果たして密かに人を踐土へ遣わし、叔武・元咺の様子を窺わせた。胡曾先生の詩がある。
  • (詩:弟は友愛を尽くし臣は忠義を尽くしていたのに、歂犬がほしいままに讒言を弄したことに耐えられようか、昔から富貴はねたみと疑いを生むもので、忠孝はしばしば永遠の冤罪を負う、という趣旨)

周襄王の踐土行幸

  • さて周の襄王は夏五月丁未の日に、踐土へ行幸した。晋侯は諸侯を率いて、あらかじめ三十里外まで出迎え、王宮に車駕をお迎えした。襄王が御殿に上ると、諸侯は拝謁して頭を地につけて礼をした。起居の礼が終わると、晋文公は捕らえた楚の俘虜を王に献じた。(甲を着けた馬は百乗、歩卒は千人、武器や鎧は十余台の車に及んだ。)
  • 襄王は大いに喜び、自らこれを労って言った。「伯舅の斉侯が世を去られてから、荊楚は再び強くなり、中夏を脅かしていたが、叔父が義を仗みに討伐され、王室を尊んでくださったおかげで、文王・武王以来の伝統も、皆叔父の善行に頼ることとなった。これは朕一人のためだけではない。」
  • 晋侯は再拝稽首して言った。「臣重耳は幸いにも楚の賊を殲滅できましたが、これはすべて天子の御威光のおかげでございます、臣に何の功がございましょうか。」

晋侯、方伯に冊命される

  • 翌日、襄王は甘い酒を設けて晋侯をもてなした。上卿の尹武公と内史の叔興に命じ、晋侯を方伯に策命させた。大輅の服を賜り鷘冕を身につけさせ、戎輅の服を賜り韋弁を身につけさせ、彤弓一張、彤矢百本、玈弓十張、玈矢千本、黒黍の酒一樽、虎賁の士三百人を賜った。
  • 宣命して言った。「爾晋侯に、専ら征伐を行い、王命に背く悪しき者を正すことを許す。」晋侯は再三辞退した後、ようやく受けた。そして王命を諸侯に布告した。

踐土の盟

  • 襄王はさらに王子虎に命じ、晋侯を盟主に冊封させ、諸侯を集めて盟会の政を修めさせた。晋侯は王宮の傍らに盟壇を設け、諸侯はまず王宮に至って覲見の礼を行い、その後それぞれ会所へ赴いた。王子虎がその事に立ち会って監督した。晋侯がまず壇に登り、牛耳を執り、諸侯が順に登った。元咺はすでに叔武を伴って晋侯に謁見していた。この日、叔武は衛君の位を代行する立場で、載書(盟約文書)の末尾に名を連ねた。
  • 子虎は誓詞を読み上げて言った。「およそこの同盟に連なる者は、皆王室を助け、互いに害してはならない。盟いに背く者があれば、明神がこれを誅殺し、禍は子孫に及び、命を落とし祭祀を絶やされるであろう!」諸侯は声を揃えて言った。「王命は睦みを修めよとのこと、謹んで承らずにいられましょうか!」それぞれ血をすすって盟い、誓いの証とした。潜淵の読史詩がある。
  • (詩:晋国の君臣が大いなる謀を打ち立て、威を取り覇を定めて諸侯を服させた。城濮では旌旗を掲げて捕虜と斬り取った敵の左耳を検分し、王宮では袂を連ねて天子に拝謁した。今朝の踐土の盟をさらに羨むべきであり、かつての葵丘の会を誇るまでもない。桓公は晩年に遺恨を残したが、重耳はこの志を成し遂げたという趣旨)

叔武の辞退と兄の復位嘆願

  • 盟いの事がすでに終わると、晋侯は叔武を襄王に会わせ、衛君に立てて成公に代えようとした。叔武は涙を流して辞退して言った。「昔、寧母の会において、鄭の子華が子でありながら父を犯そうとした時、斉の桓公はこれを拒みました。今、君侯はまさに桓公の業を継ごうとしておられるのに、この武に弟でありながら兄を犯させようとなさるのですか。君侯がもし武に恵みを賜り、憐れみをお示しくださるならば、どうか臣の兄鄭の位を回復させてください。臣の兄鄭は君侯にお仕えするにあたり、決して力を尽くさぬことはございません!」元咺もまた叩頭して哀願し、晋侯はようやく承知した。衛侯がいつ帰国して位に復するかはまだ分からない、次回を見よ。
原文(底本)
話說楚將鬥越椒與小將軍成大心,不去追趕祁瞞,竟殺入中軍,越椒見大將旗迎風蕩颺,一箭射將下來。晉軍不見了帥旗,即時大亂。卻得荀林父先蔑兩路接應兵到,荀林父接住鬥越椒廝殺,先蔑便接住成大心廝殺。成得臣麾軍大進,攘臂大呼曰:「今日若容晉軍一個生還,誓不回軍!」正在施設,先軫郤溱兵到,兩下混戰多時。欒枝、胥臣、狐毛、狐偃一齊都到,如銅牆鐵壁,圍裹將來。得臣方知左右二軍已潰,無心戀戰,急急傳令鳴金收軍。怎當得晉兵眾盛,把楚家兵將,分做十來處圍住。小將軍成大心一枝畫戟,神出鬼沒,率領宗兵六百人,無不一以當百,保護其父得臣,拼命殺出重圍。不見了鬥越椒,復翻身殺入。那鬥越椒,乃是子文之從弟,生得狀如熊虎,聲若豺狼,有萬夫不當之勇,精於射藝,矢無虛發。在晉軍中左沖右突,正尋覓成家父子。恰好成大心遇見,說:「元帥有了,將軍可快行!」兩個遂合做一處,各奮神威,復救出許多楚軍,潰圍而出。

  晉文公在有莘山上,觀見晉兵得勝,忙使人教先軫傳諭各軍:「但逐楚兵出了宋衛之境足矣。不必多事擒殺,以傷兩國之情,負了楚王施惠之意。」先軫遂約住諸軍,不行追趕。祁瞞違令出戰,囚於後軍,伺候發落。胡曾先生有詩云:

    避兵三舍為酬恩,又誡窮追免楚軍;兩敵交鋒尚如此,平居負義是何人?

陳、蔡、鄭、許四國,損兵折將,各自逃生,回本國去了。單說成得臣同成大心鬥越椒出了重圍,急投大寨。前哨報:「寨中已豎起齊秦兩家旗號了!」原來國歸父小子憖二將殺散楚兵,據了大寨,輜重糧草,盡歸其手。得臣不敢經過,只得倒轉從有莘山後,沿睢水一路而行。鬥宜申鬥勃各引殘兵來會。行至空桑地面,忽然連珠砲響,一軍當路,旗上寫「大將魏」字。魏犨先在楚國,獨制貘獸,楚人無不服其神勇,今日路當險處,遇此勁敵,那殘兵又都是個傷弓之鳥,誰人不喪膽消魂!早已望風而潰了。鬥越椒大怒,叫小將軍保護元帥,奮起精神,獨力拒戰。鬥宜申鬥勃也只得勉強相幫。魏犨力戰三將,水泄不漏。正在相持,忽見北來一人,飛馬而至,大叫:「將軍罷戰,先元帥奉主公之命:『放楚將生還本國,以報出亡時款待之德。』」魏犨方纔住手,教軍士分開兩下,大喝:「饒你去!」得臣等奔走不迭,回至連谷,點檢殘軍,中軍雖有損折,尚十存六七;其申息之師,分屬左右二軍者,所存十無一二。哀哉!古人有弔戰場詩云:

    勝敗兵家不可常,英雄幾個老沙場?禽奔獸駭投坑穽,肉顫筋飛飽劍鋩;鬼火熒熒魂宿草,悲風颯颯骨侵霜。勸君莫羨封侯事,一將功成萬命亡!

得臣大慟曰:「本圖為楚國揚萬里之威,不意中晉人詭謀,貪功敗績,罪復何辭?」乃與鬥宜申鬥勃俱自囚於連谷,使其子大心部領殘軍,去見楚王,自請受誅。時楚成王尚在申城,見成大心至,大怒曰:「汝父有言在前:『不勝甘當軍令。』今又何言?」大心叩頭曰:「臣父自知其罪,便欲自殺,臣實止之;欲使就君之戳,以申國法也。」楚王曰:「楚國之法,兵敗者死。諸將速宜自裁,毋污吾斧鑕!」大心見楚王無憐赦之意,號泣而出,回復得臣。得臣嘆曰:「縱楚王赦我,我亦何面目見申息之父老乎?」乃北向再拜,拔佩劍自刎而死。

  卻說蒍賈在家,問其父蒍呂臣曰:「聞令尹兵敗,信乎?」呂臣曰:「信。」蒍賈曰:「王何以處之?」蒍呂臣曰:「子玉與諸將請死,王聽之矣。」蒍賈曰:「子玉剛愎而驕,不可獨任;然其人強毅不屈,使得智謀之士,以為之輔,可使立功。今雖兵敗,他日能報晉仇者,必子玉也。父親何不諫而留之?」呂臣曰:「王怒甚,恐言之無益。」蒍賈曰:「父親不記范巫矞似之言乎?」呂臣曰:「汝試言之。」蒍賈曰:「矞似善相人,主上為公子時,矞似曾言:『主上與子玉子西三人,日後皆不得其死。』主上切記其言,即位之日,即賜子玉子西免死牌各一面,欲使矞似之言不驗也。主上怒中,偶忘之耳。父親若言及此,主上必留二臣無疑矣。」呂臣即時往見楚王,奏曰:「子玉罪雖當死,然吾王曾有免死牌在彼,可以赦之。」楚王愕然曰:「豈非范巫矞似之故耶?微子言,寡人幾忘之矣!」乃使大夫潘尪同成大心乘急傳宣楚王命:「敗將一概免死!」比及到連谷時,得臣先死半日矣。左師將軍鬥宜申懸梁自縊,因身軀重大,懸帛斷絕,恰好免死命至,留下性命。鬥勃原要收殮子玉子西之屍,方纔自盡,故此亦不曾死。單死了個成得臣,豈非命乎?潛淵居士有詩弔之云:

    楚國昂藏一丈夫,氣吞全晉挾雄圖;一朝失足身軀喪,始信堅強是死徒。

  成大心殯殮父屍。鬥宜申、鬥勃、鬥越椒等,隨潘尪到申城謁楚王,伏地拜謝不殺之恩。楚王知得臣自殺,懊悔不已。還駕郢都,升蒍呂臣為令尹;貶鬥宜申為商邑尹,謂之商公;鬥勃出守襄城。楚王轉憐得臣之死,拜其子成大心成嘉俱為大夫。令尹子文致政居家,聞得臣兵敗,嘆曰:「不出蒍賈所料!吾之識見,反不如童子,寧不自羞!」嘔血數升,伏牀不起。召其子鬥般囑曰:「吾死在旦夕。惟有一言囑汝:汝叔越椒,自初生之日,已有熊虎之狀,豺狼之聲,此滅族之相也。吾比時曾勸汝祖勿育之,汝祖不聽。吾觀蒍呂臣不壽,勃與宜申,皆非善終之相,楚國為政,非汝則越椒。越椒傲狠好殺,若為政,必有非理之望,鬥氏之祖宗其不祀乎?吾死後,椒若為政,汝必逃之,無與其禍也。」般再拜受命。子文遂卒。未幾,蒍呂臣亦死。成王追念子文之功,使鬥般嗣為令尹,越椒為司馬,蒍賈為工正。不在話下。

  卻說晉文公既敗楚師,移屯於楚大寨。寨中所遺糧草甚廣,各軍資之以食,戲曰:「此楚人館穀我也。」齊秦及諸將等,皆北面稱賀。文公謝不受,面有憂色。諸將曰:「君勝敵而憂,何也?」文公曰:「子玉非甘出人下者,勝不可恃,能勿懼乎?」國歸父小子憖等辭歸,文公以軍獲之半遺之,二國奏凱而還。宋公孫固亦歸本國,宋公自遣使拜謝齊秦。不在話下。

  先軫囚祁瞞至文公之前,奏其違命辱師之罪。文公曰:「若非上下二軍先勝,楚兵尚可制乎?」命司馬趙衰定其罪,斬祁瞞以徇於軍,號令曰:「今後有違元帥之令者,視此!」軍中益加悚懼。大軍留有莘三日,然後下令班師。行至南河,哨馬稟復:「河下船隻,尚未齊備。」文公使召舟之僑。僑亦不在。原來舟之僑是虢國降將,事晉已久,滿望重用立功,卻差他南河拘集船隻,心中不平。恰好接得家報,其妻在家病重,僑料晉楚相持,必然日久,未必便能班師,因此暫且回國看視。不想夏四月戊辰,師至城濮,己巳交戰,便大敗楚師,休兵三日,至癸酉大軍遂還,前後不過六日,晉侯便至河下,遂誤了濟河之事。文公大怒,欲令軍士四下搜捕民船。先軫曰:「南河百姓,聞吾敗楚,誰不震恐?若使搜捕,必然逃匿。不若出令以厚賞募之。」文公曰:「善。」纔懸賞軍門,百姓爭艤船應募,頃刻舟集如蟻,大軍遂渡了黃河。文公謂趙衰曰:「曹衛之恥已雪矣,惟鄭仇未報,奈何?」趙衰對曰:「君旋師過鄭,不患鄭之不來也。」文公從之。

  行不數日,遙見一隊車馬,簇擁著一位貴人,從東而來。前隊欒枝迎住,問:「來者何人?」答曰:「吾乃周天子之卿士王子虎也。聞晉侯伐楚得勝,少安中國,故天子親駕鑾輿,來犒三軍,先令虎來報知。」欒枝即引子虎來見文公。文公問於群下曰:「今天子下勞寡人,道路之間,如何行禮?」趙衰曰:「此去衡雍不遠,有地名踐土,其地寬平,連夜建造王宮於此,然後主公引列國諸侯迎駕,以行朝禮,庶不失君臣之義也。」文公遂與王子虎訂期,約以五月之吉,於踐土候周王駕臨。子虎辭去。大軍望衡雍而進。途中又見車馬一隊,有一使臣來迎,乃是鄭大夫子人九。奉鄭伯之命,恐晉兵來討其罪,特遣行成。晉文公怒曰:「鄭聞楚敗而懼,非出本心,寡人俟覲王之後,當親率師徒,至於城下。」趙衰進曰:「自我出師以來,逐衛君,執曹伯,敗楚師,兵威已大震矣。又求多於鄭,奈勞師何?君心許之。若鄭堅心來歸,赦之可也;如其復貳,姑休息數月,討之未晚。」文公乃許鄭成。大軍至衡雍下寨。一面使狐毛狐偃帥本部兵,往踐土築造王宮;一面使欒枝入鄭城,與鄭伯為盟。鄭伯親至衡雍,致餼謝罪。文公復與歃血訂好。話間,因誇美子玉之英勇。鄭伯曰:「已自殺於連谷矣。」文公嘆息久之。鄭伯既退,文公私謂諸臣曰:「吾今日不喜得鄭,喜楚之失子玉也。子玉死,餘人不足慮,諸卿可高枕而臥矣!」髯翁有詩云:

    得臣雖是莽男兒,勝負將來未可知;盡說楚兵今再敗,可憐連谷有輿屍!

卻說狐毛狐偃築王宮於踐土,照依明堂之制。怎見得?有《明堂賦》為證:

    赫赫明堂,居國之陽。嵬峨特立,鎮壓殊方。所以施一人之政令,朝萬國之侯王。面室有三,總數惟九。間太廟於正位,處太室於中霤;啟閉乎三十六戶,羅列乎七十二牖。左個右個,為季孟之交分;上圓下方,法天地之奇偶。及夫諸位散設,三公最崇。當中階而列位,與群臣而不同。諸侯東階之東,西面而北上;諸伯西階之西,東面而相向;諸子應門之東而鵠立,諸男應門之西而鶴望。戎夷金木之戶外,蠻狄水火而位配。九采外屏之右以成列,四塞外屏之左而遙對。朱干玉戚,森聳以相參;龍旗豹韜,抑揚而相錯。肅肅沉沉,巒崇壑深。煙收而卿士齊列,日出而天顏始臨。戴冕旒以當軒,見八紘之稽顙;負斧扆而南面,知萬國之歸心。

王宮左右,又別建館舍數處,晝夜并工,月餘而畢。傳檄諸侯:「俱要五月朔日,踐土取齊。」是時,宋成公王臣,齊昭公潘,俱係舊好;鄭文公捷,是新附之國;率先來赴。他如魯僖公申,與楚通好;陳穆公款,蔡莊公甲午,與楚連兵,(都是楚黨。)至是懼罪,亦來赴會。邾莒小國,自不必說。惟許僖公業,事楚最久,不願從晉。秦穆公任好,雖與晉合,從未與中國會盟,遲疑不至。衛成公鄭,出在襄牛;曹共公襄,見拘五鹿;晉侯曾許以復國,尚未明赦,亦不與會。

  單說衛成公聞晉將合諸侯,謂寧俞曰:「徵會不及於衛,晉怒尚未息也。寡人不可留矣!」寧俞對曰:「君徒出奔,誰納君者!不如讓位於叔武,使元咺奉之,以乞盟於踐土,君若為遜避而出。天如祚衛,武獲與盟,武之有國,猶君有之。況武素孝友,豈忍代立?必當為復君之計矣。」衛侯心雖不願,到此地位,無可奈何,使孫炎以君命致國於叔武,如寧俞之言。孫炎領命,往楚丘去了。衛侯又問於寧俞曰:「寡人今欲出奔,何國而可?」俞躊躇未答。衛侯又曰:「適楚何如?」俞對曰:「楚雖婚姻,實晉仇也,且前已告絕,不可復往,不如適陳。陳將事晉,又可藉為通晉之地也。」衛侯曰:「不然,告絕非寡人意,楚必諒之。晉楚將來,事未可定。使武事晉,而我託於楚,兩途觀望,不亦可乎?」衛侯遂適楚,楚邊人追而詈之;乃改適陳,始服寧俞之先見矣。孫炎見叔武,致衛侯之命。武曰:「吾之守國,攝也,敢受讓乎?」即同元咺赴會。使孫炎回復衛侯,言:「見晉之時,必當為兄乞憐求復也。」元咺曰:「君性多猜忌,吾不遣親子弟相從,何以取信?」乃使其子元角,伴孫炎以往,名雖問候,實則留質之意。公子歂犬私謂元咺曰:「君之不復,亦可知矣。子何不以讓國之事,明告國人,擁立夷叔而相之?晉人必喜。子挾晉之重以臨衛,是子與武共衛也。」元咺曰:「叔武不敢無兄,吾敢無君乎?此行且請復吾君矣。」歂犬語塞而退。恐衛侯一旦復國,元咺洩其言,未免得罪,乃私往陳國,密報衛侯,反說:「元咺已立叔武為君,謀會晉以定其位。」衛成公惑其言,以問孫炎。孫炎對曰:「臣不知也。元角見在君所,其父有謀,角必與聞,君何不問之?」衛侯復問於元角,角言並無是事。寧俞亦言曰:「咺若不忠於君,肯遣子出侍乎?君勿疑也。」公子歂犬私見衛侯曰:「咺之設謀拒君,非一日矣。其遣子,非忠於君也,將以窺君之動靜,而為之備也。若使乞憐於晉,以求復吾君,必辭會而不敢與,如公然與會,則為君信矣。君其察之。」衛侯果陰使人往踐土,伺察叔武元咺之事。胡曾先生有詩云:

    弟友臣忠無間然,何堪歂犬肆讒言?從來富貴生猜忌,忠孝常含萬古冤。

  卻說周襄王以夏五月丁未日,駕幸踐土。晉侯率諸侯,預於三十里外迎接,駐蹕王宮。襄王御殿,諸侯謁拜稽首。起居禮畢,晉文公獻所獲楚俘於王,(被甲之馬凡百乘,步卒千人,器械衣甲十餘車。)襄王大悅,親勞之曰:「自伯舅齊侯即世之後,荊楚復強,憑陵中夏,得叔父仗義翦伐,以尊王室,自文武以下,皆賴叔父之休,豈惟朕躬?」晉侯再拜稽首曰:「臣重耳幸殲楚寇,皆仗天子之靈,臣何功焉?」

  次日,襄王設醴酒以享晉侯。使上卿尹武公,內史叔興,策命晉侯為方伯。賜大輅之服,服鷘冕;戎輅之服,服韋弁;彤弓一,彤矢百,玈弓十,玈矢千,秬鬯一卣,虎賁之士三百人。宣命曰:「俾爾晉侯,得專征伐,以糾王慝。」晉侯遜謝再三,然後敢受。遂以王命布告於諸侯。襄王復命王子虎,冊封晉侯為盟主,合諸侯修盟會之政。晉侯於王宮之側,設下盟壇,諸侯先至王宮行覲禮,然後各趨會所。王子虎監臨其事。晉侯先登,執牛耳,諸侯以次而登。元咺已引叔武謁過晉侯了。是日,叔武攝衛君之位,附於載書之末。子虎讀誓詞曰:「凡茲同盟,皆獎王室,毋相害也。有背盟者,明神殛之,殃及子孫,隕命絕祀!」諸侯齊聲曰:「王命修睦,敢不敬承!」各各歃血為信。潛淵讀史詩云:

    晉國君臣建大猷,取威定伯服諸侯。揚旌城濮觀俘馘,連袂王宮覲冕旒。更羨今朝盟踐土,謾誇當日會葵邱。桓公末路留遺恨,重耳能將此志酬。

盟事既畢,晉侯欲以叔武見襄王,立為衛君,以代成公。叔武涕泣辭曰:「昔寧母之會,鄭子華以子奸父,齊桓公拒之。今君方繼桓公之業,乃令武以弟奸兄乎?君侯若嘉惠於武,賜之矜憐,乞復臣兄鄭之位。臣兄鄭事君侯,不敢不盡!」元咺亦叩頭哀請,晉侯方纔首肯。不知衛侯何時復國,再看下回分解。

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