東周列國志第四十四回 叔詹、鼎に拠って晋侯に抗す/弦高、命を偽って秦軍を犒う (叔詹據鼎抗晉侯 弦高假命犒秦軍)
鄭との和議交渉
- さて秦の穆公は密かに鄭と盟いを結び、晋に背いて兵を退いたので、晋文公は大いに怒った。狐偃が進み出て言った。「秦は去ったとはいえ遠くはありません、臣に別働隊を率いてこれを追撃させてください。軍に帰る心があれば、必ず戦意がなく、一戦して勝てましょう。秦にひとたび勝てば、鄭は必ず胆を潰し、攻めずとも自ら降伏するでしょう。」
- 文公は言った。「いや、いけない。寡人は昔その力に頼って社稷を保つことができた。もし秦君がいなければ、寡人がどうしてここまで至れただろうか。子玉が寡人に無礼を働いたときでさえ、寡人はなお三舎を避けてその恩に報いた。まして婚姻の間柄であればなおさらではないか。それに秦がいなくとも、鄭を包囲できないことを心配する必要があろうか。」そこで兵を半分に分け、函陵に陣を敷き、包囲攻撃は元通り続けさせた。
- 鄭伯は燭武に言った。「秦の兵が退いたのは、そなたの力である。晋の兵はまだ退いていない、どうすればよいか。」燭武は答えて言った。「公子蘭が晋侯の寵愛を受けていると聞いております、もし人を遣わして公子蘭を国へ迎え、それによって晋に和議を請えば、晋は必ず従うでしょう。」鄭伯は「これはあの老大夫(燭武)でなければ、務まらぬ使いであろう」と言った。
- 石申父は「武(燭武)は疲れております、臣が代わって一度行かせていただきたく存じます」と言った。そこで重宝を携えて城を出、まっすぐ晋の陣営に至って面会を求めた。文公はこれを入れるよう命じた。石申父は再拝し、重宝を献上し、鄭伯の命を伝えて言った。「わが君は荊蛮(楚)に密接に隣り合っているため、あからさまに絶交することはできませんでしたが、実際には君侯の御膝元を離れる気持ちはございません。君侯が赫然として震怒なさったこと、わが君はすでに罪を悟っております。乏しいながら代々の蔵の品を、左右の方々に献じたく存じます。わが君には弟の蘭がおり、左右にお仕えする幸運を得ております、今、蘭によって君侯のご憐憫を乞いたく存じます。君侯が蘭に鄭の国を監督させてくだされば、朝夕宮廷に伺候いたし、どうして二心を抱きましょうか!」
- 文公は言った。「お前たちは秦を私から引き離しておいて、明らかに私が独力で鄭を降せぬと侮っているのだろう。今また和議を求めに来るとは、時間稼ぎの計で、楚の救援を待つつもりではないのか。もし私に兵を退かせたいなら、必ず私の求める二つのことに従ってこそよかろう。」石申父は「どうぞ君侯、お命じください!」と言った。文公は「必ず公子蘭を世子として迎え立て、かつ謀臣の叔詹を差し出せ、それでこそお前たちの誠意を示すことになろう」と言った。
叔詹の弁と晋侯の敬服
- 石申父は晋侯の言葉を受けて、城内に入り鄭伯に復命した。鄭伯は言った。「孤にはまだ子がいない、子蘭には昔夢の兆しがあったと聞く、世子に立てれば社稷も必ずそれを享受するだろう。ただ叔詹は孤の股肱の臣、どうして孤の左右から去らせられようか。」
- 叔詹は答えて言った。「臣が聞くところでは『主君に憂いあれば臣は辱を受け、主君が辱められれば臣は死ぬ』と申します。今、晋人が臣を求めているのに、臣が行かなければ、兵は必ず解けません。これは臣が死を避けて不忠となり、君に憂いと辱めを残すことになります。臣は行かせていただきたく存じます!」鄭伯は「そなたが行けば必ず死ぬ、孤には忍びがたい!」と言った。
- 叔詹は答えて言った。「君はこの詹一人には忍びがたいとおっしゃりながら、民衆の危難や社稷の滅亡には平気でいられるのですか。一人の臣を捨てて民衆を救い社稷を安んじられるなら、君は何を惜しまれましょうか。」鄭伯は涙を流しながらこれを遣わした。
- 石申父は侯宣多とともに、叔詹を晋の陣営へ送り、言った。「わが君は君の霊威を畏れ、二つのことをともにあえて違えることはございません。今、詹に陣中で罪の裁きを聞かせます、ただ君侯のご裁断あるのみです!また公子蘭をわが国の嫡嗣として賜ることを求め、それによって大国の御徳を最後まで全うしていただきたく存じます。」晋侯は大いに喜び、すぐに狐偃に命じて公子蘭を東の辺境から召し出させ、石申父と侯宣多には陣営で待たせた。
- さて晋侯は叔詹に会うと、大喝して言った。「お前は鄭国の権柄を握りながら、その君に賓客への礼を失わせた、これが第一の罪。盟いを受けながら再び二心を抱いた、これが第二の罪。」左右に命じてすぐに鼎鑊を用意させ、煮殺そうとした。
- 叔詹は顔色一つ変えず、両手を拱いて文公に言った。「臣は言い尽くして死にたく存じます。」文公は「お前に何の言葉があるのか」と言った。詹は答えて言った。「君侯がかたじけなくもわが国にお越しくださったとき、臣は常々我が君にこう申しておりました。『晋の公子は賢明であり、その左右にはすべて卿の器量の者ばかりです、もし国に帰られれば、必ず諸侯の伯となられましょう』と。温の盟いに至って、臣はまた我が君に勧めました。『必ず終始晋にお仕えし、罪を得てはなりません、罪は赦されないでしょう』と。天が鄭に禍を降したとき、この言葉は聞き入れられませんでした。今、君侯は罪を執政の者になすりつけようとされますが、わが君はその無実を明らかにし、断固としてこの詹を差し出そうとしませんでした。臣は『主君が辱められれば臣は死ぬ』の義を引いて、自ら誅を受けることを願い出て、一城の難を救おうとしたのです。事を推し量って的中させることは智であり、心を尽くして国を謀ることは忠であり、難に臨んで避けないことは勇であり、身を殺して国を救うことは仁です。仁智忠勇のすべてを備えた、このような臣がいる以上、晋国の法においては、まことに煮殺されて当然でございましょう!」
- そう言って鼎の耳を掴んで叫んだ。「今より以後、君に仕える者は、この詹を戒めとせよ!」文公は恐れ入り、赦して殺さぬよう命じ、言った。「寡人はいささかそなたを試しただけだ、そなたはまことの烈士である!」礼を加えることこの上なく手厚かった。
- 一日も経たぬうちに、公子蘭が呼び寄せられて到着し、文公は召し出した理由を告げた。叔詹を石申父・侯宣多らとともに、すぐに公子蘭へ世子の礼をもって拝謁させ、その後城内へ随行させた。鄭伯は公子蘭を世子に立て、晋の軍はようやく退いた。これより秦・晋の間には隙が生じた。髯翁の詩に嘆じたものがある。
- (詩:甥(晋文公)と舅(秦穆公)が兵を合わせたときは互いに欺く意などなかったが、燭武の片言によって形勢が動かされた。東道の些細な利益を貪ったために、数世代にわたる戦を招くことになろうとは、どうして知り得ただろうかという趣旨)
魏犨・狐毛・狐偃の死と郤缺の登用
- この年、魏犨は酔って車から落ち、腕を折り、内傷が再発して一斗あまりの血を吐いて死んだ。文公はその子の魏顆を録用して爵位を継がせた。まもなく狐毛・狐偃も相次いで亡くなった。晋文公はこれを哭して悲しみ、「寡人が患難を脱してこの今日に至れたのは、多くは母方のおじたち(狐毛・狐偃)の力に頼るものであった。思いもよらず私を捨てて去ってしまうとは、寡人は右腕を失ったも同然だ。哀しいことよ!」と言った。
- 胥臣が進み出て言った。「主公が二狐の才を惜しまれるならば、臣が一人を推挙いたします、卿相となり得る者です、どうか主公のご裁定を。」文公は「卿の推挙する者とは誰か」と尋ねた。胥臣は言った。「臣が以前使いに出たとき、冀野に宿ったことがございます。そこで一人の人物が耒(すき)を手にして耕作しているのを見ました。その妻が昼餉を捧げ持って行き、両手で献じ、夫もまた威儀を正してこれを受け取りました。夫は祭ってから食し、妻は傍らに侍って立っておりました。しばらくして食事が終わると、夫は妻が立ち去るのを待ってから再び耕作を続け、始終怠る様子がございませんでした。夫婦の間柄でさえ、互いに客人に対するように敬い合う、まして他人に対してはなおさらでございましょう。臣は『よく敬う者には必ず徳がある』と聞いております。名を尋ねましたところ、郤芮の子の郤缺でございました。この人物を晋に用いれば、子犯(狐偃)に劣ることはございません。」
- 文公は「その父には大罪があった、どうしてその子を用いられようか」と言った。胥臣は言った。「堯・舜を父としながら、丹朱・商均のような不肖の子がおり、鯀を父としながら、禹のような聖人が生まれました。賢か不肖かということは、父子の間で相通じるものではございません。君侯はどうして已に過ぎ去った悪事によって、有用な人材を捨てられるのですか。」文公は「よかろう。卿は私のためにその者を召し出してくれ」と言った。
- 胥臣は言った。「臣はその者が他国へ逃げて敵に用いられることを恐れ、すでに連れ帰って臣の家に住まわせております。君侯が使者を遣わされれば、それこそ賢者を礼遇する道でございましょう。」文公はその言葉に従い、内侍に冠と礼服を持たせて郤缺を召させた。郤缺は再拝稽首して辞退して言った。「臣は冀野の農夫に過ぎません、君侯が亡父(郤芮)の罪をもって臣に処罰を加えられなかっただけでもすでに寛大な処置をこうむっております、まして寵を頼んで朝廷の官列を汚すことなどできましょうか。」内侍が再三命を伝えて出仕を勧めたので、郤缺はついに簪を挿し佩を帯びて朝廷に入った。
- 郤缺は身の丈九尺、鼻筋高く頬豊かで、声は大きな鐘のようであった。文公は一目見て大いに喜び、胥臣を下軍元帥に昇任させ、郤缺にこれを補佐させた。さらに二行を二軍に改め、「新上」「新下」と呼んだ。趙衰に「新上軍」を将とさせ、箕鄭がこれを補佐し、胥臣の子の胥嬰に「新下軍」を将とさせ、先都がこれを補佐した。もとの三軍に、今また二軍を加え、あわせて五軍となり、天子の制度に亜ぐほどとなった。豪傑は重く用いられ、軍政に欠けるところがなかった。楚の成王はこれを聞いて懼れ、大夫の鬥章を遣わして晋に和平を請わせた。晋文公はその旧恩を思い、通好を許し、大夫の陽処父を楚へ答礼の使者として遣わした。この話はここまでとする。
鄭文公の薨去と公子蘭の即位、晋文公の薨去
- 周の襄王二十四年、鄭の文公捷が薨じた。群臣はその弟の公子蘭を奉じて即位させた、これが穆公である。果たして昔の夢蘭の兆しに応じたのであった。
- この冬、晋文公は病を患い、趙衰・先軫・狐射姑・陽処父ら諸臣を召して臨終の遺命を受けさせ、世子驩を輔けて君とし、覇業を廃らせぬよう命じた。さらに諸公子が国内で不安定にならぬことを恐れ、あらかじめ公子雍を秦に、公子樂を陳に出仕させた。雍は杜祁の生んだ子であり、樂は辰嬴の生んだ子であった。また幼子の黒臀を周に出仕させ、王室に親しませた。文公は薨じた。在位八年、享年六十八歳であった。史臣に讃える詩がある。
- (詩:道中を奔走すること十九年、神竜が穴に返るように権を得た。河陽での再度の朝見に忠心が顕れ、城濮の三軍に義の名が広まった。恥を雪ぎ恩に報いてついに快心を得、賞罰の政に偏りなかった。度量が広く倹しかったのは天授とはいえ、左右で匡し扶けたのは多くの賢臣のおかげであったという趣旨)
文公の柩の怪異
- 世子驩は喪を主宰して即位した、これが襄公である。襄公は文公の柩を奉じ、曲沃に殯した。まさに絳城を出ようとしたとき、柩の中から突然大きな音が響き、牛の鳴くような声がし、その柩は泰山のように重くなり、車が動かなくなった。群臣は皆大いに驚いた。
- 太卜の郭偃がこれを占い、その占辞を献じた。
- (占辞:鼠が西からやって来て、我が垣根を越える。我には巨大な棒があり、一撃で三つのものを傷つけるであろうという趣旨)
- 偃は言った。「数日のうちに、必ず西方から兵の急を告げる報せがあるでしょう。我が軍がこれを撃てば、大勝を得られます。これは先君の霊が我らにお告げになっているのです。」群臣は皆拝礼し、柩の中の声はぴたりと止み、また重さも感じられなくなり、そのまま常のように進んだ。先軫は「西方とは秦である」と言い、すぐに人を密かに秦へ遣わして情報を探らせた。この話はここまでとする。
秦の杞子らの企みと穆公の決断
- 話は変わって、秦の将、杞子・逢孫・楊孫の三人は、鄭の北門に駐屯して守備していた。晋国が公子蘭を鄭へ送り、世子に立てたのを見て、憤然として言った。「我らは彼らのために守備をして晋兵を防いでやったのに、彼はまた晋に降服してしまった、これでは我らが無功になったも同然だ。」すでに密報を本国に伝えていた。
- 秦の穆公は内心不服であったが、晋侯を憚って、怒りを抱きながらも口には出せなかった。公子蘭が即位すると、杞子らへの待遇に加える礼はなかった。杞子はそこで逢孫・楊孫と相談した。「我らは外地で駐屯して守っていて、いつまでも終わりがない。むしろ我が主君に密かに軍を送って鄭を襲うよう勧めてはどうか、我らは皆多くの獲物を得て帰ることができよう。」
- ちょうど相談していたところ、また晋文公も薨じたと聞き、額に手を挙げて言った。「これは天が我らの成功を助けてくれているのだ!」そこで腹心の者を秦へ帰し、穆公に言わせた。「鄭人は我らに北門の管理を任せております、もし兵を密かに遣わして鄭を襲われれば、我らが内応となり、鄭は滅ぼせましょう。晋には大喪があり、必ず鄭を救えないでしょう。まして鄭君は即位したばかりで、守備もまだ整っておりません、この機を逃してはなりません。」
- 秦の穆公はこの密報を得て、蹇叔と百里奚と相談した。二人の臣は口を揃えて諫めて言った。「秦は鄭を去ること千里の遠さです、その地を得られるわけではございません、ただ略奪物を欲するだけです。そもそも千里も軍を労し、長い日数をかけて進めば、どうして人の耳目を避けられましょうか。もし彼らがこの謀りごとを聞き、備えをすれば、労するばかりで功はなく、途中で必ず変事が起こりましょう。兵をもって人のために守備し、帰ってすぐにこれを謀るのは、信ではございません。人の喪に乗じてこれを討つのは、仁ではございません。成功しても利は小さく、成功しなければ害は大きい、これは智ではございません。この三つを失っては、臣はどうしてそれが可能だと申せましょうか!」
- 穆公はむっとして言った。「寡人は三たび晋君を立て、二たび晋の乱を平定した、威名は天下に著しい。ただ晋侯が城濮で楚を破ったために、覇業をそれに譲ったに過ぎぬ。今、晋侯が世を去った以上、天下に誰が秦の難敵となろうか。鄭は困った鳥が人に頼るようなもので、いずれは飛び去ってしまうだろう。この時に乗じて鄭を滅ぼし、それをもって晋の河東の地と交換すれば、晋は必ず聞き入れよう。何の不利があろうか。」
- 蹇叔はさらに言った。「君はなぜ人を遣わして晋に弔問し、そのついでに鄭にも弔問させ、鄭を攻め取れるかどうか、その備えの実態を窺わせないのですか。杞子らの虚言に惑わされてはなりません。」穆公は「もし弔問に行ってから出兵するのを待てば、往復の間にまた一年近くかかってしまう。そもそも用兵の道は、疾い雷には耳をふさぐ暇もないと言うとおり、迅速さこそが肝要なのだ、お前は老いぼれて何が分かるのか」と言った。そこで密かに来た使者に約束した。「二月上旬に、軍が北門に至る、内外相呼応せよ、誤りがあってはならぬ。」
孟明視の出兵と蹇叔の別れ
- そこで孟明視を大将に召し、西乞術・白乙丙をこれに副え、精兵三千余人を選び、車三百乗をもって、東門の外へ出た。孟明は百里奚の子であり、白乙は蹇叔の子であった。出兵の日、蹇叔と百里奚は号泣して見送り、言った。「哀しいことよ、痛ましいことよ!我らはお前たちの出発を見るだけで、帰るのを見ることはできまい!」穆公はこれを聞いて大いに怒り、人を遣わして二臣を責めさせた。「お前たちはなぜ我が軍を泣くのか。我が軍の心を挫くつもりか。」蹇叔と百里奚はともに答えた。「臣がどうしてあえて君の軍を泣くことがございましょうか。臣はただ我が子のために泣いているだけでございます。」
- 白乙は父の哀哭を見て、行くのを辞退しようとした。蹇叔は言った。「我ら父子は秦の重禄を食んでいる、お前が死ぬのは本分の内のことだ。」そこで密かに一通の簡(書状)を授け、封をしっかり固めて、こう言い含めた。「お前は私のこの簡の中の言葉に従うがよい。」白乙は命を受けて出発したが、心中は惑いと悲しみに満ちていた。ただ孟明だけは自らの才勇を頼みにし、成功は必定と思い込み、まったく意に介さなかった。
蹇叔の隠退
- 大軍がすでに出発すると、蹇叔は病を理由に朝廷に出仕しないと辞退し、そのまま致仕を願い出た。穆公はこれを強いて留めた。蹇叔はそこで重病だと称して、銍村への帰郷を求めた。百里奚がその家を訪ねて病を見舞い、蹇叔に言った。「奚は機を見て身を引く道を知らぬわけではないが、それでもここに留まっているのは、なお我が子(孟明)が生きて帰るのを一目見たいと願うからです。兄上はどう私に教えてくださるのか。」
- 蹇叔は言った。「秦の兵はこの度、必ず敗れるだろう。賢弟は密かに子桑に告げて、河のほとりに舟を用意させておいてくれ、万一脱出できる者があれば、迎え入れて西へ帰らせるためだ。くれぐれも忘れないでくれ!」百里奚は「兄上の言葉、すぐにも実行いたしましょう」と言った。
- 穆公は蹇叔が決意して田舎へ帰ると聞き、黄金二十斤、色染めの絹百束を贈り、群臣は皆郊関の外まで見送って戻った。百里奚は公孫枝の手を握り、蹇叔の言葉を告げて、しかじかと言った。「我が兄は他人に頼らず子桑に託した、それは将軍の忠勇が国家の憂いを分け持てると見込んでのことだ。将軍はこれを漏らしてはならぬ、密かに謀るように!」公孫枝は「謹んで仰せの通りにいたします」と言い、自ら船の用意に取りかかった。この話はここまでとする。
蹇叔の密簡
- さて孟明は白乙が父の密書を受け取ったのを見て、鄭を破る妙計が入っているのではないかと疑い、その夜すでに陣を張り終えたところで、特に見せてほしいと求めた。白乙丙は開いて見せた。中には二行の文字があった。「この度の行では鄭は懸念するに足りない、懸念すべきは晋である。崤山の地は険しい、お前は慎重にせよ。私はここでお前の骸骨を収めることになろう!」孟明は目を覆って急ぎ去り、続けざまに「まったく、縁起でもない、縁起でもない!」と言った。白乙もその言葉が本当になるとは思わなかった。
周の北門通過と王孫満の予言
- 三人の将は冬十二月丙戌の日に出兵し、翌年春正月に至り、周の北門を通過した。孟明は「天子がここにおられる、たとえ戦事のことで謁見はできぬとしても、あえて敬意を示さぬことがあろうか」と言い、左右に令を伝えて、皆兜を脱ぎ車を降りさせた。前哨の牙将、褒蛮子は、驍勇比類なく、都門を過ぎたばかりで、平地からひとっ飛びに走っている車へ飛び乗り、速さは飛鳥のごとく、車は一度も止まらなかった。孟明は「人が皆褒蛮子のようであれば、何事も成らないことがあろうか」と嘆じた。将士たちはどよめいて「我らはどうして褒蛮子に及ばないことがあろうか」と言い、先を争って腕まくりして衆に呼びかけた。「超乗できない者は、殿(しんがり)に退かせよ!」(およそ行軍において殿は臆病とされるが、軍が敗れたときには殿は勇者とされる。ここでしんがりに退けと言うのは、辱めているのである。)一軍全体三百乗、皆超え上がって乗らない者はなかった。車に乗った後は、車の進みは迅速で、疾風閃電のようであり、あっという間に見えなくなった。
- 時に周の襄王は王子虎と王孫満を遣わして秦軍を視察させた。軍が通り過ぎた後、二人は襄王に復命した。王子虎は嘆いて「臣が見るに秦の軍はこれほどまでに勇猛で強い、誰がこれに敵し得ようか。この度の行、鄭には決して幸いがないであろう!」と言った。王孫満は時にまだ年若く、微笑んで答えなかった。襄王は「お前は童子だが、どう思うか」と尋ねた。満は答えて言った。「礼では、天子の門を過ぎるときは、必ず甲を巻き武器を束ねて小走りに進むべきです。今、兜を脱ぐだけに留まっているのは、無礼です。また超え乗って上がるとは、その軽々しさは甚だしいものです。軽々しければ謀りごとが浅く、無礼であれば乱れやすいものです。この度の行、秦は必ず敗北の恥を受けるでしょう、人を害することはできず、ただ自らを害するだけです!」
弦高の機転
- さて鄭国にある一人の商人がおり、名を弦高といい、牛の商いを生業としていた。昔、王子頹が牛を愛好して以来、鄭・衛など各国の商人が牛を周へ販売しに行くと、かなりの利益を得られたものであった。今日、弦高もなおその業を継いでいた。この人は商人の身分とはいえ、忠君愛国の心と患難を解決する策略を持っていたが、ただ推挙してくれる者がおらず、市井の中に埋もれていた。
- この日、数百頭の肥えた牛を仕入れ、周へ商いに出た。黎陽津の近くまで来たとき、旧知の蹇他という人物に出会った、秦国から新たに来たばかりであった。弦高は蹇他と会い、「秦国では近ごろ何かあったか」と尋ねた。蹇他は「秦は三人の将を遣わして鄭を襲おうとしている、十二月丙戌の日に出兵し、間もなく到着するだろう」と言った。
- 弦高は大いに驚いて言った。「我が父母の国に、突如このような災難があろうとは。聞かなかったならともかく、聞いて救わなければ、万一宗社が滅びたとき、私はどんな面目あって故郷に帰れよう。」そこである計略を思いつき、蹇他に別れを告げ、一方では人を遣わして夜を徹して鄭国に急報させ、早急な準備を促した。もう一方では軍をねぎらう贈り物を用意し、肥えた牛二十頭を選んで身に随え、残りの牛はすべて宿屋に預け置いた。
- 弦高は自ら小車に乗り、道を進んで秦の軍を出迎えに行った。滑国の延津という地に至り、ちょうど秦兵の前哨に出会った。弦高は前の道を遮り、大声で叫んだ。「鄭国の使者がここにおります、お目にかかりたく存じます!」前哨はこれを中軍に報告した。孟明はたいそう驚き、こう考えた。「鄭国がどうしてすでに我が軍の到着を知り、使者を遠くまで遣わして出迎えさせたのか。まずその来意を見てみよう。」そこで弦高と車の前で対面した。
- 弦高は鄭君の命だと偽って伝え、孟明に言った。「わが君は三位の将軍がわが国へ軍を進めようとしていると聞き、わずかばかりの品ではございますが、下臣高を遣わして遠くまで従者の方々を犒わせました。わが国は大国の間に挟まれており、外からの侮りが次々と及ぶため、長らく遠方の守備に労苦しており、万一にも警戒を怠って不慮の事態が起こり、大国に罪を得ることを恐れて、日夜警戒して安眠できずにおります。どうか執事にはご賢察いただきますよう!」
- 孟明は「鄭君はすでに軍をねぎらいながら、なぜ国書がないのか」と言った。弦高は「執事が冬十二月丙戌の日に出兵されたと聞き、わが君は従者の方々が力を尽くして馳せて来られると伝え聞き、正式な辞令を整えるのを待っていては出迎えの犒いの機を逸するのではないかと恐れ、そこで口頭で下臣に授け、匍匐して罪をお詫びさせただけで、他意はございません」と言った。
- 孟明は耳元で言った。「わが君がこの視(孟明視)を遣わされたのは滑のためであって、どうして鄭にまで及びましょうか。」そして令を伝えた。「軍を延津に留めよ!」弦高は謝辞を述べて退いた。
滑国の陥落
- 西乞・白乙は孟明に「延津に軍を駐めるのはどういう意図か」と尋ねた。孟明は言った。「我が軍は千里の遠くを渡って来た、ただ鄭人の不意を突くことによって、志を得ることができるのだ。今、鄭人はすでに我らの出兵の日を知っている、その備えはすでに久しいものであろう。攻めれば城は固く落としがたく、囲もうにも兵が少なく後続の援軍もない。今、滑国には備えがない、むしろ滑を襲って破るのがよかろう、そこで奪った物を得れば、なお帰って我が君に復命ができ、出兵に名分が立たぬということにもならないだろう。」
- その夜三更、三人の将は兵を三手に分け、力を合わせて滑城を襲い破った。滑君は翟へ逃げた。秦兵は思うままに略奪し、子女や玉や絹はすべて奪い尽くされた。史臣がこの事を論じるに、秦の軍はもはや眼中に鄭がなかったという。もし弦高が命を偽って軍をねぎらわず、三人の将の謀りを止めなかったならば、国が滅びる禍は、鄭にあって滑にはなかったであろう。詩に讃えたものがある。
- (詩:千里も兵を駆って狼のごとく狠猛であったが、どうして小国の滑ごときのためにその鋭鋒を振るったのであろうか、狙いは初めから鄭にあった。弦高がもし偽りの軍前の犒いを行わなければ、鄭国はどうして滅亡を免れられたであろうかという趣旨)
- 滑はひとたび残破された後、その君は国を復することができず、秦兵が去った後、その地はついに衛国に併合された。この話はここまでとする。
杞子らの逃亡と鄭国の安定
- さて鄭の穆公は商人弦高の密報を受け取ったが、まだ十分には信じていなかった。ちょうど二月上旬にあたり、人を客館へ遣わして、杞子・逢孫・楊孫の様子を窺わせた。すると彼らはすでに車を整え、兵を鍛え馬に飼葉を与え、武具を整え、人々は皆身支度を済ませ、一人一人気を引き締めて、ただ秦兵の到着を待ち、城門を開いて内応する用意をしているところであった。
- 使者が戻って報告すると、鄭伯は大いに驚いた。そこで老大夫の燭武を遣わし、まず杞子・逢孫・楊孫に会わせ、それぞれに絹の束を餞別として贈り、こう言わせた。「あなた方はわが国に長らく滞在され、わが国では供給の都合上、原圃の鹿もすでに尽きてしまいました。今、あなた方が戒厳しておられると聞きます、思うに何か出発なさるご様子でしょうか。孟明ら諸将は周と滑の間におられます、どうかそちらへ従われてはいかがでしょうか。」
- 杞子は大いに驚き、心の中で思った。「我らの謀りごとはすでに漏れている、味方の軍が到着しても功はなく、かえって罪を得ることになろう。鄭に留まるべきでないばかりか、秦にも帰れなくなった。」そこで言葉を濁して燭武に謝辞を述べ、その日のうちに親随数十人を率いて斉国へ逃げた。逢孫・楊孫もまた宋国へ逃げて罪を避けた。
- 守備兵たちは主を失い、北門に屯集して、乱を起こそうとした。鄭の穆公は佚之狐を遣わし、道中の食糧を多く持たせて人々に分け与え、彼らを故郷へ導いて帰らせた。鄭の穆公は弦高の功を録し、軍尉に任命した。これより鄭国は安定した。
秦軍東進の報
- さて晋の襄公は曲沃の殯宮で喪に服していたが、諜報を聞いた。「秦国の孟明将軍が、兵を率いて東へ向かっている、どこへ行くか分からない。」襄公は大いに驚き、すぐに人を遣わして群臣を召し相談した。先軫はすでに情報をつかんでおり、秦君の鄭襲撃の謀りごとを詳しく知っていたので、襄公に会いに来た。先軫がどのように計るか分からない、次回を見よ。
原文(底本)
話說秦穆公私與鄭盟,背晉退兵,晉文公大怒。狐偃進曰:「秦雖去不遠,臣請率偏師追擊之。軍有歸心,必無鬥志,可一戰而勝也。既勝秦,鄭必喪膽,將不攻自下矣。」文公曰:「不可。寡人昔賴其力,以撫有社稷。若非秦君,寡人何能及此?以子玉之無禮於寡人,寡人猶避之三舍,以報其施,況婚姻乎?且無秦,何患不能圍鄭?」乃分兵一半,營於函陵,攻圍如故。鄭伯謂燭武曰:「秦兵之退,子之力也。晉兵未退,如之奈何?」燭武對曰:「聞公子蘭有寵於晉侯,若使人迎公子蘭歸國,以請成於晉,晉必從矣。」鄭伯曰:「此非老大夫,亦不堪使也。」石申父曰:「武勞矣,臣願代一行。」乃攜重寶出城,直叩晉營求見。文公命之入。石申父再拜,將重寶上獻,致鄭伯之命曰:「寡君以密邇荊蠻,不敢顯絕,然實不敢離君侯之宇下也。君侯赫然震怒,寡君知罪矣。不腆世藏,願效贄於左右。寡君有弟蘭,獲侍左右,今願因蘭以乞君侯之憐。君侯使蘭監鄭之國,當朝夕在庭,其敢有二心!」文公曰:「汝離我於秦,明欺我不能獨下鄭也,今又來求成,莫非緩兵之計,欲俟楚救耶?若欲我退兵,必依我二事方可。」石申父曰:「請君侯命之!」文公曰:「必迎立公子蘭為世子,且獻謀臣叔詹出來,方表汝誠心也。」 石申父領了晉侯言語,入城回復鄭伯。鄭伯曰:「孤未有子,聞子蘭昔有夢徵,立為世子,社稷必享之。但叔詹乃吾股肱之臣,豈可去孤左右?」叔詹對曰:「臣聞『主憂則臣辱,主辱則臣死。』今晉人索臣,臣不往,兵必不解。是臣避死不忠,而遺君以憂辱也。臣請往!」鄭伯曰:「子往必死,孤不忍也!」叔詹對曰:「君不忍於一詹,而忍於百姓之危困,社稷之隕墜乎?舍一臣以救百姓而安社稷,君何愛焉?」鄭伯涕淚而遣之。石申父同侯宣多,送叔詹於晉軍,言:「寡君畏君之靈,二事俱不敢違。今使詹聽罪於幕下,惟君侯處裁!且求賜公子蘭為敝邑之適嗣,以終上國之德。」晉侯大悅,即命狐偃召公子蘭於東鄙,命石申父侯宣多在營中等候。 且說晉侯見了叔詹,大喝:「汝執鄭國之柄,使其君失禮於賓客,一罪也;受盟而復懷貳心,二罪也。」命左右速具鼎鑊,將烹之。叔詹面不改色,拱手謂文公曰:「臣願得盡言而死。」文公曰:「汝有何言?」詹對曰:「君侯辱臨敝邑,臣常言於君曰:『晉公子賢明,其左右皆卿才,若返國,必伯諸侯。』及溫之盟,臣又勸吾君:『必終事晉,無得罪,罪且不赦。』天降鄭禍,言不見納。今君侯委罪於執政,寡君明其非辜,堅不肯遣;臣引『主辱臣死』之義,自請就誅,以救一城之難。夫料事能中,智也;盡心謀國,忠也;臨難不避,勇也;殺身救國,仁也。仁智忠勇俱全,有臣如此,在晉國之法,固宜烹矣!」乃據鼎耳而號曰:「自今已往,事君者以詹為戒!」文公悚然,命赦勿殺,曰:「寡人聊以試子,子真烈士也!」加禮甚厚。不一日,公子蘭取至,文公告以相召之意;使叔詹同石申父侯宣多等,即以世子之禮相見,然後跟隨入城。鄭伯立公子蘭為世子,晉師方退。自是秦晉有隙。髯翁有詩嘆云: 甥舅同兵意不欺,卻因燭武片言移;為貪東道蠅頭利,數世兵連那得知? 是年魏犨醉後,墜車折臂,內傷病復發,嘔血斗餘死。文公錄其子魏顆嗣爵。未幾,狐毛狐偃,亦相繼而卒。晉文公哭之慟曰:「寡人得脫患難,以有今日,多賴舅氏之力,不意棄我而去,使寡人失其右臂矣。哀哉!」胥臣進曰:「主公惜二狐之才,臣舉一人,可為卿相,惟主公主裁!」文公曰:「卿所舉何人也?」胥臣曰:「臣前奉使,舍於冀野,見一人方秉耒而耨,其妻饋以午餐,雙手捧獻,夫亦斂容接之。夫祭而後食,其妻侍立於旁。良久食畢,夫俟其妻行而後復耨,始終無惰容。夫妻之間,相敬如賓,況他人乎?臣聞『能敬者必有德。』往問姓名,乃郤芮之子郤缺也。此人若用於晉,不弱於子犯。」文公曰:「其父有大罪,安可用其子乎?」胥臣曰:「以堯舜為父,而有丹朱商均之不肖;以鯀為父,而有禹之聖;賢不肖之間,父子不相及也。君奈何因已往之惡,而棄有用之才乎?」文公曰:「善。卿為我召之。」胥臣曰:「臣恐其逃奔他國,為敵所用,已攜歸在臣家中矣。君以使命往,方是禮賢之道。」文公依其言,使內侍以簪纓袍服,往召郤缺。郤缺再拜稽首辭曰:「臣乃冀野農夫,君不以先臣之罪,加之罪戮,已荷寬宥,況敢賴寵以玷朝班?」內侍再三傳命勸駕,郤缺乃簪佩入朝。郤缺生得身長九尺,隆準豐頤,聲如洪鐘。文公一見大喜,乃遷胥臣為下軍元帥,使郤缺佐之。復改二行為二軍,謂之「新上」「新下」。以趙衰將「新上軍」,箕鄭佐之;胥臣之子胥嬰將「新下軍」,先都佐之。舊有三軍,今又添二軍,共是五軍,亞於天子之制,豪傑向用,軍政無闕。楚成王聞之而懼,乃使大夫鬥章請平於晉。晉文公念其舊德,許之通好,使大夫陽處父報聘於楚。不在話下。 周襄王二十四年,鄭文公捷薨。群臣奉其弟公子蘭即位,是為穆公,果應昔日夢蘭之兆。是冬,晉文公有疾,召趙衰、先軫、狐射姑、陽處父諸臣,入受顧命,使輔世子驩為君,勿替伯業。復恐諸子不安於國,預遣公子雍出仕於秦,公子樂出仕於陳。雍乃杜祁所生,樂乃辰嬴所生也。又使其幼子黑臀,出仕於周,以親王室。文公薨,在位八年,享年六十八歲。史臣有詩讚云: 道路奔馳十九年,神龍返穴遂乘權。河陽再覲忠心顯,城濮三軍義問宣。雪恥酬恩中始快,賞功罰罪政無偏。雖然廣儉繇天授,左右匡扶賴眾賢。 世子驩主喪即位,是為襄公。襄公奉文公之柩,殯於曲沃。方出絳城,柩中忽作大聲,如牛鳴然,其柩重如泰山,車不能動。群臣無不大駭。太卜郭偃卜之,獻其繇曰: 有鼠西來,越我垣牆。我有巨梃,一擊三傷。 偃曰:「數日內,必有兵信自西方來。我軍擊之,大捷。此先君有靈,以告我也。」群臣皆下拜,柩中聲頓止,亦覺不重,遂如常而行。先軫曰:「西方者,秦也。」隨使人密往秦國探信不題。 話分兩頭。卻說秦將杞子、逢孫、楊孫三人,屯戍於鄭之北門。見晉國送公子蘭歸鄭,立為世子,忿然曰:「我等為他戍守,以拒晉兵,他又降服晉國,顯得我等無功了。」已將密報知會本國。秦穆公心亦不忿,只礙著晉侯,敢怒而不敢言。及公子蘭即位,待杞子等無加禮。杞子遂與逢孫楊孫商議:「我等屯戍在外,終無了期。不若勸吾主潛師襲鄭,吾等皆可厚獲而歸。」正商議間,又聞晉文公亦薨,舉手加額曰:「此天贊吾成功也!」遂遣心腹人歸秦,言於穆公曰:「鄭人使我掌北門之管,若遣兵潛來襲鄭,我為內應,鄭可滅也。晉有大喪,必不能救鄭。況鄭君嗣位方新,守備未修,此機不可失。」秦穆公接此密報,遂與蹇叔及百里奚商議。二臣同聲進諫曰:「秦去鄭千里之遙,非能得其地也,特利其俘獲耳。夫千里勞師,跋涉日久,豈能掩人耳目?若彼聞吾謀,而為之備,勞而無功,中途必有變。夫以兵戍人,還而謀之,非信也;乘人之喪而伐之,非仁也;成則利小,不成則害大,非智也;失此三者,臣不知其可也!」穆公艴然曰:「寡人三置晉君,再平晉亂,威名著於天下。只因晉侯敗楚城濮,遂以伯業讓之。今晉侯即世,天下誰為秦難者?鄭如困鳥依人,終當飛去。乘此時滅鄭,以易晉河東之地,晉必聽之。何不利之有?」蹇叔又曰:「君何不使人行弔於晉,因而弔鄭,以窺鄭之可攻與否?毋為杞子輩虛言所惑也。」穆公曰:「若待行弔而後出師,往返之間,又幾一載。夫用兵之道,疾雷不及掩耳,汝老憊何知?」乃陰約來人:「以二月上旬,師至北門,里應外合,不得有誤。」 於是召孟明視為大將,西乞術白乙丙副之,挑選精兵三千餘人,車三百乘,出東門之外。孟明乃百里奚之子,白乙乃蹇叔之子。出師之日,蹇叔與百里奚,號哭而送之曰:「哀哉,痛哉!吾見爾之出,而不見爾之入也!」穆公聞之大怒,使人讓二臣曰:「爾何為哭吾師?敢沮吾軍心耶?」蹇叔百里奚並對曰:「臣安敢哭君之師?臣自哭吾子耳!」白乙見父親哀哭,欲辭不行。蹇叔曰:「吾父子食秦重祿,汝死自分內事也。」乃密授以一簡,封識甚固,囑之曰:「汝可依吾簡中之言。」白乙領命而行,心下又惶惑,又淒楚。惟孟明自恃才勇,以為成功可必,恬不為意。 大軍既發,蹇叔謝病不朝,遂請致政。穆公強之。蹇叔遂稱病篤,求還銍村,百里奚造其家問病,謂蹇叔曰:「奚非不知見幾之道,所以苟留於此者,尚冀吾子生還一面耳!吾兄何以教我?」蹇叔曰:「秦兵此去必敗。賢弟可密告子桑,備舟楫於河下,萬一得脫,接應西還。切記,切記!」百里奚曰:「賢兄之言,即當奉行。」穆公聞蹇叔決意歸田,贈以黃金二十斤,彩緞百束,群臣俱送出郊關而返。百里奚握公孫枝之手,告以蹇叔之言,如此恁般:「吾兄不託他人,而託子桑,以將軍忠勇,能分國家之憂也。將軍不可洩漏,當密圖之!」公孫枝曰:「敬如命。」自去准備船隻。不在話下。 卻說孟明見白乙領父密簡,疑有破鄭奇計在內,是夜安營已畢,特來索看。白乙丙啟而觀之,內有字二行曰:「此行鄭不足慮,可慮者晉也。崤山地險,爾宜謹慎。我當收爾骸骨於此!」孟明掩目急走,連聲曰:「咄咄!晦氣,晦氣!」白乙意亦以為未必然。三帥自冬十二月丙戌日出師,至明年春正月,從周北門而過,孟明曰:「天子在是,雖不敢以戎事謁見,敢不敬乎?」傳令左右,皆免冑下車。前哨牙將褒蠻子,驍勇無比,才過都門,即從平地超越登車,疾如飛鳥,車不停軌。孟明嘆曰:「使人人皆褒蠻子,何事不成?」眾將士譁然曰:「吾等何以不如褒蠻子?」於是爭先攘臂呼於眾曰:「有不能超乘者,退之殿後!」(凡行軍以殿為怯,軍敗則以殿為勇。此言殿後者,辱之也。)一軍凡三百乘,無不超騰而上者。登車之後,車行迅速,如疾風閃電一般,霎時不見。 時周襄王使王子虎同王孫滿,往觀秦師。過訖,回復襄王。王子虎嘆曰:「臣觀秦師驍健如此,誰能敵者?此去鄭必無幸矣!」王孫滿時年甚小,含笑而不言。襄王問曰:「爾童子以為何如?」滿對曰:「禮,過天子門,必卷甲束兵而趨。今止於免冑,是無禮也。又超乘而上,其輕甚矣。輕則寡謀,無禮則易亂。此行也,秦必有敗衂之辱,不能害人,祇自害耳!」 卻說鄭國有一商人,名曰弦高,以販牛為業。自昔王子頹愛牛,鄭衛各國商人,販牛至周,頗得重利。今日弦高尚襲其業。此人雖則商賈之流,倒也有些忠君愛國之心,排患解紛之略,只為無人薦引,屈於市井之中。今日販了數百肥牛,往周買賣。行近黎陽津,遇一故人,名曰蹇他,乃新從秦國而來。弦高與蹇他相見,問:「秦國近有何事?」他曰:「秦遣三帥襲鄭,以十二月丙戌日出兵,不久即至矣。」弦高大驚曰:「吾父母之邦,忽有此難,不聞則已,若聞而不救,萬一宗社淪亡,我何面目回故鄉也?」遂心生一計,辭別了蹇他,一面使人星夜奔告鄭國,教他速作准備。一面打點犒軍之禮,選下肥牛二十頭隨身,餘牛俱寄頓客舍。弦高自乘小車,一路迎秦師上去。來至滑國,地名延津,恰好遇見秦兵前哨,弦高攔住前路,高叫:「鄭國有使臣在此,願求一見!」前哨報入中軍。孟明倒吃一驚,想道:「鄭國如何便知我兵到來,遣使臣遠遠來接?且看他來意如何。」遂與弦高車前相見。弦高詐傳鄭君之命,謂孟明曰:「寡君聞三位將軍,將行師出於敝邑,不腆之賦,敬使下臣高遠犒從者。敝邑攝乎大國之間,外侮迭至,為久勞遠戍,恐一旦不戒,或有不測,以得罪於上國,日夜儆備,不敢安寢。惟執事諒之!」孟明曰:「鄭君既犒師,何無國書?」弦高曰:「執事以冬十二月丙戌日出兵,寡君聞從者驅馳甚力,恐俟詞命之修,或失迎犒,遂口授下臣,匍匐請罪,非有他也。」孟明附耳言曰:「寡君之遣視,為滑故也,豈敢及鄭?」傳令:「住軍於延津!」弦高稱謝而退。西乞白乙問孟明:「駐軍延津何意?」孟明曰:「吾師千里遠涉,止以出鄭人之不意,可以得志。今鄭人已知吾出軍之日,其為備也久矣。攻之則城固而難克,圍之則兵少而無繼。今滑國無備,不若襲滑而破之,得其鹵獲,猶可還報吾君,師出不為無名也。」是夜三更,三帥兵分作三路,並力襲破滑城。滑君奔翟。秦兵大肆擄掠,子女玉帛,為之一空。史臣論此事,謂秦師目中已無鄭矣。若非弦高矯命犒師,以杜三帥之謀,則滅國之禍,當在鄭而不在滑也。有詩讚云: 千里驅兵狠似狼,豈因小滑逞鋒鋩。弦高不假軍前犒,鄭國安能免滅亡? 滑自被殘破,其君不能復國,秦兵去後,其地遂為衛國所並。不在話下。 卻說鄭穆公接了商人弦高密報,猶未深信。時當二月上旬,使人往客館,窺覘杞子、逢孫、楊孫所為。則已收束車乘,厲兵秣馬,整頓器械,人人裝束,個個抖擻,只等秦兵到來,這裏准備獻門。使者回報,鄭伯大驚。乃使老大夫燭武,先見杞子、逢孫、楊孫,各以束帛為贐,謂之曰:「吾子淹久於敝邑,敝邑以供給之故,原圃之麋鹿俱竭矣。今聞吾子戒嚴,意者有行色乎?孟明諸將在周滑之間,盍往從之?」杞子大驚,暗思:「吾謀已洩,師至無功,反將得罪,不惟鄭不可留,秦亦不可歸矣。」乃緩詞以謝燭武,即日引親隨數十人,逃奔齊國。逢孫楊孫,亦奔宋國避罪。戍卒無主,屯聚於北門,欲為亂。鄭穆公使佚之狐,多齎行糧,分散眾人,導之還鄉。鄭穆公錄弦高之功,拜為軍尉。自此鄭國安靖。 卻說晉襄公在曲沃殯宮守喪,聞諜報:「秦國孟明將軍,統兵東去,不知何往?」襄公大驚,即使人召群臣商議。先軫預已打聽明白,備知秦君襲鄭之謀,遂來見襄公。不知先軫如何計較,且看下回分解。
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。