東周列國志第四十六回 楚の商臣、宮中で父を弑す/秦の穆公、殽谷で屍を封ずる (楚商臣宮中弒父 秦穆公殽谷封屍)
先軫の遺表と遺骸交換の約束
- 翟の主・白部胡が討ち取られたことを知った敗残兵が、その弟の白暾に急を告げた。白暾は涙ながらに言った。「私は『晋には天の助けがあるから討ってはならない』と言ったのに、兄はそれを聞かなかった。今、案の定この災難に遭ったのだ」。そこで先軫の遺体を晋に渡して、白部胡の遺体と交換しようと考え、人を晋軍に遣わして話をつけさせようとした。
- 一方、郤缺は白部胡の首級を提げ、諸将とともに中軍へ戻って戦功を献じようとしたが、元帥(先軫)の姿が見えない。陣営を守る兵士が「元帥は単身、車に乗って陣を出て行かれ、『陣門を固く閉ざせ』とだけ命じられました。どこへ行かれたのか分かりません」と言う。先且居(先軫の子)は不審に思い、たまたま机の上に一通の上表文があるのを見つけ、手に取って読んだ。それにはこう書かれていた。
- 「臣、中軍大夫先軫、謹んで申し上げます。臣は自らが君に対して無礼を働いたことを承知しております。それにもかかわらず君は臣を誅罰なさらず、再びお用いくださり、幸いにも戦に勝ち、恩賞がまもなく及ぼうとしております。もし臣が帰還して恩賞を受けなければ、功があっても賞せられぬことになります。もし帰還して恩賞を受ければ、無礼な者でも功を論じられることになります。功があって賞せられなければ、何をもって功を勧めましょうか。無礼な者が功を論じられれば、何をもって罪を懲らしめましょうか。功と罪とが入り乱れては、何をもって国を治めましょうか。臣はこれより翟の軍中に馳せ入り、翟人の手を借りて、君に代わって自らを討たせようと存じます。わが子・且居には将としての才略があり、臣に代わるに十分でございます。臣軫、死に臨み、取り乱した言葉を申し上げました」。
- 且居は「わが父は翟の軍に馳せ入って死んだのだ」と声をあげて激しく泣いた。すぐさま車に乗って翟軍に突入し、父の行方を確かめようとした。このとき郤缺・欒盾・狐鞫居・狐射姑らが陣中に集まっており、必死に諫めてようやく思いとどまらせた。一同は「まず人をやって元帥の生死を確かめてから進軍すべきだ」と相談した。そこへ「翟の主の弟・白暾が、人を遣わして話をつけたいと言っています」との知らせが入った。呼び入れて尋ねると、互いの遺体を交換したいという申し出であった。且居は父の死の知らせが事実だと知り、また一頻り痛哭した。「明日、両軍の前でそれぞれ遺骸を担ぎ出し、互いに引き渡そう」と約束した。翟の使者が帰った後、先且居は「戎狄は謀略が多い、明日は油断してはならぬ」と言い、郤缺・欒盾に相変わらず左右両翼を張らせ、戦闘になればすぐに挟み撃ちにするよう手配し、狐鞫居・狐射姑の二人には中軍を守らせた。
白暾との遺骸交換と激戦
- 翌日、両軍は陣を結んで対峙し、先且居は喪服のまま車に乗り、単身陣前に出て父の遺体を出迎えた。白暾は先軫の霊を恐れ、矢羽を抜き去り、香を入れた湯で清め、自分の着ていた錦の袍を脱いでこれを包み、車に載せて生きている人のように仕立て、陣前に押し出して先且居に引き渡した。晋軍からも白部胡の首級を翟側に引き渡した。翟が送り返したのは香り高い全き遺体、晋が送ったのは血まみれの首一つだけであった。白暾は忍びなく思い、叫んだ。「お前たち晋の者は、よくも人を侮ってくれる!なぜ全き屍を返さぬのか!」先且居は使者を通じて答えさせた。「全き屍が欲しければ、自分で大谷の乱れた屍の中から探して認めるがよい!」白暾は大いに怒り、山を切り開くほどの大斧を手に、翟の騎兵を指揮して突撃してきた。晋軍は軘車(防御用の兵車)を城壁のように連ねて陣を結び、何度も突入を受けても崩れなかった。白暾は行き場を失って怒号するばかりであった。
- 突然、晋軍の中で太鼓が鳴り響き、陣門が開くと、一人の大将が戟を横たえて出て来た。狐射姑であった。白暾はこれと交戦した。何合も戦わぬうちに、左に郤缺、右に欒盾が現れ、両翼の兵士が包み込むように迫った。白暾は晋兵の勢いが盛んなのを見て急いで馬首を返し、晋軍は後ろから追撃した。翟兵の死者は数えきれないほどであった。狐射姑は白暾と見定めてぴったりと追いすがった。白暾は本営を動揺させぬよう、馬を斜めに走らせて逃げた。射姑は捨てず馬の後を追った。白暾は振り返って馬首をめぐらし、尋ねた。「将軍は見覚えがある。もしや賈季ではないか?」射姑は「そうだ」と答えた。白暾は言った。「将軍、その後お変わりないか。将軍父子は共に十二年もわが国に住み、手厚く遇されたはず。今日ここで情けをかけておけば、後日また会わぬとも限らぬではないか。私は白部の弟、白暾である」。狐射姑は昔のことを持ち出されて心に忍びなく思い、答えた。「お前に一筋の生路を与える。急いで軍を返し、ここに長居してはならぬ」。言い終えると車を返して本営に戻った。晋軍はすでに勝利を得ており、白暾を捕らえられなかったことについて誰も文句を言わなかった。その夜、白暾はひそかに軍を退いて翟へ帰った。白部胡には子がなかったため、白暾がその喪を発し、そのまま君の位を継いだ。これは後日の話である。
先且居、元帥を継ぎ論功行賞す
- さて晋軍が凱旋して帰り、晋の襄公に拝謁し、先軫の遺言の上奏文を差し出した。襄公は先軫の死を哀れみ、自ら遺体を殮した。すると両目が再び開き、生気にあふれる様子であった。襄公は屍を撫でて言った。「将軍は国事のために死んだ。その英霊は消えていない。遺言の上奏文に述べられたことは、まさに忠愛の心の表れであり、寡人は決して忘れぬ」。そこで柩の前で先且居を中軍元帥に任じ、父の職を継がせたところ、その両目はようやく閉じた。後世の人は箕城に廟を建てて先軫を祀った。襄公は郤缺が白部胡を討った功を讃え、そのまま冀の地を食邑として与え、「お前は父の過ちを補って余りある。それゆえお前の父の封地をお前に返すのだ」と言った。また胥臣に対しては「郤缺を推挙したのはそなたの功である。そなたがいなければ寡人はどうして郤缺を用いることができようか」と言い、先茅の県を賞として与えた。諸将は襄公の賞がその功に見合っていることを見て、誰もが心服した。
陽処父と鬥勃、泜水で対陣す
- 折しも許・蔡の二国は、晋の文公の代替わりに乗じて、再び楚に服従していた。晋の襄公は陽処父を大将に任じ、軍を率いて許を討たせ、それに乗じて蔡を侵させた。楚の成王は鬥勃と成大心に命じ、軍を率いてこれを救わせた。楚軍は泜水のほとりに至り、対岸に晋軍を望んで、泜水に迫って陣を張った。晋軍は泜水の北に陣を構え、両軍はわずかに水を隔てるだけで、夜警の拍子木の音さえ互いに聞こえるほどであった。晋軍は楚軍に阻まれて前進できず、こうして両軍が対峙すること約二か月に及んだ。年の暮れが近づき、晋軍の食糧が尽きようとしたため、陽処父は撤退しようと考えたが、楚に付け入られることを恐れ、また楚を避けたと人に笑われるのも嫌であった。
- そこで人を泜水を渡らせて楚軍に入らせ、鬥勃に伝言させた。「諺に『来る者は恐れず、恐れる者は来ない』と言う。将軍がもし我と戦いたいなら、我は一舎(三十里)退いて、将軍が渡河して陣を構えるのを待とう。決死の戦いをしようではないか。もし将軍が渡ろうとしないなら、将軍が一舎退いて、我に南岸へ渡らせ、戦期を定めさせてほしい。進みもせず退きもせず、軍を疲れさせ財を費やすばかりでは、何の益があろうか。処父は今すぐ馬を車につないで将軍の返答を待つ。どうか速やかに決断されよ」。鬥勃は憤然として「晋は我が渡河を恐れると侮っているのか」と言い、渡河して戦おうとした。成大心は急いで止めて言った。「晋人は信を重んじぬ者たち。退舎すると言うのは、おそらく我らを誘い出す策であろう。もし我らが半ば渡り終えたところを撃たれれば、進退ともに拠り所を失う。ここは退いて晋に渡らせるに越したことはない。我らが主となり、晋を客とする、これでよいではないか」。鬥勃は悟って「孫伯(成大心)の言う通りだ」と言い、軍中に令を伝えて三十里退いて陣を張り、晋軍を渡らせることにした。使者を陽処父に返報させた。処父は使者の言葉をすり替え、軍中に「楚将鬥勃は晋を恐れて渡河もせず、すでに逃げ去った」と言いふらした。軍中に瞬く間に伝わった。処父は「楚軍はすでに逃げた。我らが渡って何になろう。歳の暮れで寒い、いったん帰って休息し、再挙を待つのがよい」と言い、そのまま兵を引き上げて晋へ帰った。鬥勃は三十里退いて二日待ったが晋軍の動きがないので、人にうかがわせると、すでに遠く去った後であった。鬥勃もまた命を下して兵を引き上げ、帰っていった。
鬥勃、商臣の立太子に異を唱えて剣を賜り死す
- さて楚の成王の長子、名を商臣という。かつて彼を太子に立てようとして、鬥勃に意見を求めた。鬥勃は答えた。「楚国の跡継ぎは、年少の者に利があり、年長の者には利がないというのが代々の例です。ましてや商臣の人相は、蜂の目、山犬の声、その性質は残忍です。今日は愛して立てても、後日にはまた憎んで廃することになりましょう。必ずや乱を起こします」。成王は聞き入れず、ついに商臣を太子に立て、潘崇に傅役をさせた。商臣は鬥勃が自分を立てたがらなかったことを聞いて、心に恨みを抱いた。
- やがて鬥勃が蔡を救援に赴きながら戦わずに帰ってくると、商臣は成王に讒言した。「子上(鬥勃)は陽処父から賄賂を受け取り、それゆえ晋との戦いを避け、晋に手柄と名声を立てさせたのです」。成王はこの言葉を信じ、鬥勃に会うことを許さず、人を遣わして剣を賜った。鬥勃は自らの潔白を証すすべもなく、剣で喉を突いて死んだ。成大心は自ら成王の前に赴いて叩頭し涙を流し、退軍の理由をつぶさに述べ、「賄賂を受け取った事実など全くありません。もし退いたことを罪とするなら、罪は臣が負うべきです」と言った。成王は「卿は自らを責める必要はない。孤もまた悔いておるのだ」と言った。これより成王は太子商臣を疑う心を抱くようになった。その後さらに末子の職を愛するようになり、商臣を廃して職を立てようと考えたが、商臣が謀反を起こすことを恐れ、その過失を探して誅殺しようと思案した。宮中の者がこの話を漏れ聞き、外に伝え広めた。商臣はためらって信じきれず、太傅の潘崇に打ち明けた。潘崇は「私に一計がある。その噂の真偽を確かめられよう」と言った。商臣が「どんな計か」と問うと、潘崇は言った。「王の妹・羋氏は江国に嫁いでおられますが、近ごろ里帰りしてこの楚におられ、長く宮中に住んでおられます。必ずやその件をご存知でしょう。江羋どのは大変気性が激しい方。太子が彼女のために宴を設け、わざと怠慢に振る舞ってその怒りを煽れば、怒りに任せた言葉の中に、必ず何かが漏れましょう」。商臣はその計に従い、宴を用意して江羋を迎えた。
商臣、江羋を試して父の真意を知る
- 羋氏が東宮にやって来ると、商臣は非常に丁重に出迎え拝礼した。三度献酌するうちに、次第に態度が疎かになり、給仕にはただ料理人に膳を出させ、自らは立ち上がろうともせず、しかもわざと酌の侍女とひそひそ私語を交わした。羋氏が二度話しかけても、いずれも満足な返答を得られなかった。羋氏は大いに怒り、案を叩いて立ち上がり、罵った。「この下郎めが、これほど不肖とは、王がお前を殺して職を立てようとなさるのも当然だ!」商臣は偽って謝罪したが、羋氏は取り合わず、そのまま車に乗って去り、なおも罵り声が途絶えなかった。
商臣、潘崇と謀り成王を弑す
- 商臣はその夜のうちに潘崇にこの一部始終を告げ、自らの身を守る策を求めた。潘崇は「あなたは臣下となって職に仕えることができますか」と問うた。商臣は「私は年長の身で年少の者に仕えることなどできぬ」と答えた。潘崇は「もし人に頭を下げて仕えられぬなら、いっそ他国へ行かれてはどうか」と言った。商臣は「頼るあてもなく、恥をさらすだけだ」と答えた。潘崇は「この二つを措いては、他に策はございません」と言った。商臣がなおも執拗に策を求めると、潘崇は「一策ある、たいそう手っ取り早いが、ただあなたが忍びないと思われるかどうかだ」と言った。商臣は「生死の瀬戸際に、何を忍べぬことがあろうか」と答えた。潘崇は耳元でささやいた。「大事を決行するほかない。それでこそ禍を転じて福となすことができる」。商臣は「それならば私にできる」と言った。
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そこで東宮づきの護衛兵を配置し、夜半になって、宮中に変事があると偽って言いふらし、王宮を包囲した。潘崇は剣を手に、力士数人とともに宮中に入り、まっすぐ成王の前に進んだ。左右の者は皆驚いて逃げ散った。成王が「卿は何用で来たのか」と問うと、潘崇は「王は在位四十七年になられました。功を成した者は身を退くもの。今、国人は新しい王を望んでおります。どうか位を太子にお譲りください」と答えた。成王は狼狽して「孤はただちに位を譲ろう。だが命だけは助けてもらえぬだろうか」と言った。潘崇は「一人の君が死に、一人の君が立つ。国に二君があってよいはずがございません。王はなんと老いぼれて、そんな道理も分からぬのか」と言った。成王は「孤はちょうど料理人に熊の掌を煮させているところだ。それが煮えるのを待って食べてから死んでも、恨みはない」と言った。潘崇は厳しい声で言った。「熊の掌は煮えにくいものです。王は時を稼いで外からの救いを待とうというのですか。どうぞご自身で始末をつけてください、臣が手を下すのをお待ちにならずに」。言い終えると、潘崇は束帯を解いて王の前に投げた。成王は天を仰いで叫んだ。「ああ鬥勃よ、鬥勃よ!孤は忠言を聞かず、自ら禍を招いた。今さら何を言おうか」。そして帯を自らの首に巻きつけた。潘崇が左右の者に命じてこれを引かせると、しばらくして息絶えた。江羋は「わが兄を殺したのは私だ」と言い、自らも縊れて死んだ。時に周の襄王二十六年、冬十月丁未の日のことであった。髯翁はこの事を論じて、成王が弟の身で兄を弑し、その子商臣がまた子の身で父を弑した、天理の応報は明らかで違わないと言い、詩に嘆いて言う。
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(詩:かつて楚の成王は兄の熊囏を弑して位に就いたが、今度はその子商臣が、殺された伯父(熊囏)の冤に報いるかのように父を弑した。天は潘崇を逆賊の傅役とし、成王は愚かにも熊の掌を食べようと未練を残していたことを詠む)
商臣即位し穆王となる、鬥宜申を誅し鬥般を撃ち殺す
- 商臣は父を弑した後、急病で薨じたと諸侯に触れ回り、自ら王位に立った。これが穆王である。潘崇の爵位を太師に加え、環列の尹(宮中警護の長)を掌らせ、さらに太子の宮室を賜った。令尹の鬥般らは皆、成王が弑されたことを知っていたが、誰もあえて口に出さなかった。商公の鬥宜申は成王の政変を聞き、喪に赴くと称して郢都にやって来て、大夫の仲歸と穆王を弑そうと謀った。事が露見し、穆王は司馬の鬥越椒に命じて宜申と仲歸を捕らえて殺させた。かつて巫者の范矞似は「楚の成王と子玉・子西の三人は、いずれも尋常な死に方をせぬだろう」と予言していたが、ここに至ってその言葉は的中した。
- 鬥越椒は令尹の位を狙い、穆王に言った。「子揚(鬥般)は常々人に、『父子代々楚の政を執り、先王の莫大な恩を受けながら、先王の志を成し遂げられぬのが恥ずかしい』と言っておりました。その心は公子職を君に立てようとするものです。子上(鬥勃)がかつて来たのも、実は子揚が呼んだのです。今、子上は誅殺され、子揚は心穏やかならず、何か別の企みがあるやもしれません、備えなければなりません」。穆王は鬥般を疑い、彼を召して公子職を殺させようとしたが、鬥般は「できません」と辞退した。穆王は怒って「お前は先王の志を成し遂げようというのか」と言い、自ら銅槌を取って鬥般を撃ち殺した。公子職は晋へ逃げようとしたが、鬥越椒が郊外でこれを追い殺した。穆王は成大心を令尹に任じたが、まもなく大心も卒した。そこで鬥越椒を令尹に、蒍賈を司馬に移した。その後穆王は改めて子文が楚を治めた功を思い、鬥克黄を箴尹に登用した。克黄は字を子儀といい、鬥般の子、子文の孫である。
趙盾、楚の行く末を予見す
- 晋の襄公は楚の成王の死を聞き、趙盾に問うた。「天はついに楚を見捨てたのだろうか」。趙盾は答えた。「楚の君は横暴とはいえ、なお礼義によって教化できる余地がありました。商臣は自らの父すら愛さなかった、まして他の者はなおさらでございましょう。臣は諸侯の禍がまだ止むことはないのではと恐れます」。それから幾年も経たぬうちに、穆王は兵を四方に派遣し、まず江を滅ぼし、次いで六を滅ぼし、蓼を滅ぼし、さらに陳・鄭に兵を用いて、中原は多事となった。まさに趙盾の言葉の通りであった。これは後日の話である。
秦の孟明、彭衙で先且居に大敗す
- さて周の襄王二十七年、春二月、秦の孟明視は穆公に、晋を討って崤山の敗戦の恥をそそぎたいと願い出た。穆公はその志を壮とし、これを許した。孟明は西乞術・白乙丙とともに、戦車四百乗を率いて晋を伐った。晋の襄公は秦が報復に来ることを慮り、毎日人を遠くに探らせていたが、その知らせを得るや笑って言った。「秦の返礼を届けに来た者が来たか」。そこで先且居を大将に、趙衰を副将に、狐鞫居を車右に任じ、国境で秦軍を迎え撃たせた。大軍が出発する間際、狼曋が自らの手勢を率いて働きたいと願い出て、先且居はこれを許した。この時、孟明らはまだ国境を出ていなかった。先且居は「秦が来るのを待って戦うより、こちらから秦を討つほうがよい」と言い、西へ進んで彭衙に至り、ちょうど秦兵と出会って両軍は陣を布いた。
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狼曋は先且居に願い出た。「かつて先元帥(先軫)は曋を臆病者として退け、用いてくださいませんでした。今日、曋が自ら試みたいと請うのは、あえて功を求めるのではなく、ただ以前の恥をそそぎたいだけです」。言い終えると、友の鮮伯ら百余人とともに、まっすぐ秦の陣に突入し、向かうところ敵をなぎ倒し、秦兵を数え切れぬほど殺した。鮮伯は白乙丙に討たれた。先且居は車上から秦の陣がすでに乱れているのを望み見て、大軍を駆って不意に襲いかかり斬り伏せた。孟明らは支えきれず、大敗して逃げた。先且居は狼曋を救い出したが、曋は全身傷だらけで、一斗あまりも血を吐き、一日経って亡くなった。晋軍は凱旋して朝廷に戻った。先且居は襄公に「今日の勝利は狼曋の力によるもので、臣の功ではございません」と奏上した。襄公は上大夫の礼をもって狼曋を西郭に葬るよう命じ、群臣すべてにその葬儀を見送らせた。これは襄公が人材を励ました美徳の一つである。史臣に狼曋の勇を讃える詩がある。
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(詩:壮士たる車右の狼曋が、鶏を割くように囚人を斬ったこと、退けられても妄りに怒らず、身を軽んじて敵の勢いに立ち向かったこと、一死をもって生涯の忠を示し秦軍を打ち破ったこと、地下の先軫もその忠勇に頭を下げるだろうことを詠む)
秦穆公、孟明を用い続け崤山の屍を弔う
- さて孟明は敗れて秦に帰り、自ら必ず死罪になるものと覚悟していたが、穆公はひたすら自らの過ちを咎めるばかりで、少しも咎める様子がなく、以前通り人を郊外に遣わして出迎え労い、かつてのように国政を任せた。孟明は自らの不甲斐なさを恥じ、国政をますます整え、家財をことごとく出して戦死者の家を救済し、毎日兵を訓練して忠義を励まし、翌年には大挙して晋を討つ機会を期した。
- この冬、晋の襄公は再び先且居に命じ、宋の大夫公子成、陳の大夫轅選、鄭の大夫公子帰生と合わせて軍を率いて秦を伐たせ、江と彭衙の二邑を奪って帰った。冗談めかして「これは秦の返礼への礼を果たしたのだ」と言った。かつて郭偃が占ったとき、「一撃三傷」との卦辞があったが、ここに至って三度秦軍を破り、その言葉が的中した。孟明が晋の侵攻を防ぎ迎え撃つ兵さえ請わなかったので、秦人は皆彼を臆病者と見なしたが、穆公だけは深く彼を信じ、群臣に「孟明は必ず晋に報いるだろう。ただ時がまだ来ていないだけだ」と語った。
- 翌年夏五月に至り、孟明は兵を補充し戦車を整え、訓練もすでに精鋭となり、穆公自ら出陣して督戦することを願い出て言った。「もし今度こそ恥をそそげなければ、誓って生きては帰りません」。穆公は「寡人はすでに三度、晋に敗れた。もし再び功がなければ、寡人もまた国に帰る顔がない」と言い、戦車五百乗を選び、日を選んで出兵した。従軍する兵士には皆その家に厚く贈り物をしたので、三軍は奮い立ち、皆進んで死力を尽くそうとした。軍は蒲津関から出発し、黄河を渡り終えると、孟明は令を出して船をことごとく焼き払わせた。穆公は不審に思って「元帥が船を焼くのはどういう意味か」と問うた。孟明視は答えた。「『兵は気をもって勝つ』と申します。我らは度重なる敗戦の後、意気はすでに衰えております。幸いにも勝てば、渡って帰れぬ心配などございません。船を焼くことで三軍に必死の覚悟を示し、進むあって退くなしとすることで、その士気を奮い立たせるのです」。穆公は「よかろう」と言った。孟明は自ら先鋒となり、まっすぐ攻め入り、王官の城を攻め落とした。
- この知らせが絳州に届くと、晋の襄公は群臣を集め、出兵して迎え撃つべきか協議させた。趙衰は言った。「秦の怒りはすでに甚だしく、今回は国を挙げての兵を起こし、我らに死力を尽くそうとしております。しかもその君自ら出陣しているとあれば、当たることはできません。避けるに越したことはございません。しばらくその志を遂げさせれば、両国の争いを終わらせることができましょう」。先且居もまた言った。「窮した獣ですら戦えるもの、まして大国においてはなおさらです。秦の君は敗戦を恥じ、三帥もみな勇を好みますから、その志は勝たねば止みますまい。兵を連ねて禍を結べば終わりがなくなります。子餘(趙衰)の言う通りです」。襄公はそこで四方の境に堅く守って秦と戦わぬよう命令を伝えた。
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繇余は穆公に言った。「晋は我らを恐れております。君はこの兵威に乗じて、崤山の戦死者の骨を収め、かつての恥をそそぐことができましょう」。穆公はこれに従い、軍を率いて黄河を渡り、茅津から渡河して東崤に屯した。晋の兵は一人一騎として迎え撃とうとする者はなかった。穆公は兵士に墮馬崖・絶命巌・落魂澗などの場所で屍骨を収めさせ、草を敷いて山谷の奥まった場所に埋葬させた。牛馬を屠って盛大な祭りを行い、穆公は喪服のまま自ら酒を注ぎ、声をあげて激しく泣いた。孟明ら諸将は地に伏して起き上がることもできず、その哀しみは三軍を動かし、涙を落とさぬ者はなかった。髯仙に詩がある。
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(詩:かつて二人の老臣が出征するわが軍のために哭したのを穆公は疎んじたのに、今日は自ら泣くこととなったこと、屍を封じる盛大な儀式を称えるべきではなく、崤山は険しくとも本来屍などなかったはずだと詠む)
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江と彭衙の二邑の住民は、穆公が晋を討って勝ったと聞き、どっと集まり合い、晋の守将を追い払って、再び秦に帰服した。秦の穆公は凱歌を奏して兵を引き上げ、孟明を亜卿に任じて二人の宰相とともに国政を執らせた。西乞術・白乙丙にも共に封賞を加えた。蒲津関を大慶関と改め、この軍功を記した。
秦、西戎の伯主となる
- さて西戎の主・赤班は、当初秦軍がたびたび敗れるのを見て秦の弱さを侮り、諸戎を率いて秦に叛こうとしていた。晋を討って帰った後、穆公は軍を移して戎を討とうと考えたが、繇余は檄文を戎中に伝えて朝貢を求め、それに応じなければその後に討つよう進言した。赤班は孟明が勝利を得たと聞いて不安と恐れを抱いていたところへ、この檄文を受け取ると、西方二十余国を率いて土地を差し出して朝見を願い出、穆公を西戎の覇者として尊んだ。史臣は秦の事を論じて「千の軍勢は得やすいが、一人の良将は得がたい」と言う。穆公は孟明の賢を信じ、始終これを用い続けたからこそ、ついに覇業を成し遂げたのである。
周襄王、秦への冊命を思案す
- この時、秦の威名は京師にまで達し、周の襄王は尹武公に言った。「秦と晋は匹敵する国であり、その先代はいずれも王室に功があった。かつて重耳(晋の文公)が中原で盟を主宰したとき、朕は彼を侯伯に任命した。今、秦伯の任好(穆公)は強盛にして晋に劣らぬ。朕もまた晋の例にならって彼を任命したいと思うが、卿はどう思うか」。尹武公は答えた。「秦が西戎の伯となって以来のことを申せば、王室に勤労する点では晋に及びません。今、秦と晋はまさに仲が悪く、しかも晋侯の驩(襄公)は父文公の業をよく継いでおります。もし秦を任命すれば晋の歓心を失うことになりましょう。むしろ使者を遣わして贈り物を賜り秦を祝うほうがよろしいでしょう。そうすれば秦は感謝し、晋にも怨まれずに済みます」。襄王はこれに従った。後の事がどうなるか、次の回で語られる。
原文(底本)
話說翟主白部胡被殺,有逃命的敗軍,報知其弟白暾。白暾涕泣曰:「俺說『晉有天助,不可伐之。』吾兄不聽,今果遭難也!」欲將先軫屍首,與晉打換部胡之屍,遣人到晉軍打話。且說郤缺提了白部胡首級,同諸將到中軍獻功,不見了元帥。有守營軍士說道:「元帥單車出營去了,但吩咐『緊閉寨門』。不知何往?」先且居心疑,偶於案上見表章一道,取而觀之,云: 臣中軍大夫先軫奏言:臣自知無禮於君。君不加誅討,而復用之,幸而戰勝,賞賚將及矣。臣歸而不受賞,是有功而不賞也;若歸而受賞,是無禮而亦可論功也。有功不賞,何以勸功?無禮論功,何以懲罪?功罪紊亂,何以為國?臣將馳入翟軍,假手翟人,以代君之討。臣子且居有將略,足以代臣。臣軫臨死昌昧! 且居曰:「吾父馳翟師死矣!」放聲大哭。便欲乘車闖入翟軍,查看其父下落。此時郤缺、欒盾、狐鞫居、狐射姑等,畢集營中,死勸方住。眾人商議:「必先使人打聽元帥生死,方可進兵。」忽報:「翟主之弟白暾,差人打話。」召而問之,乃是彼此換屍之事。且居知死信真實,又復痛哭了一場。約定:「明日軍前,各抬亡靈,彼此交換。」翟使回復去後,先且居曰:「戎狄多詐,來日不可不備。」乃商議令郤缺欒盾仍舊張兩翼於左右,但有交戰之事,便來夾攻。二狐同守中軍。 次日,兩邊結陣相持,先且居素服登車,獨出陣前,迎接父屍。白暾畏先軫之靈,拔去箭翎,將香水浴淨,自脫錦袍包裹,裝載車上,如生人一般,推出陣前,付先且居收領。晉軍中亦將白部胡首級,交割還翟。翟送還的,是香噴噴一具全屍;晉送去的,只是血淋淋一顆首級。白暾心懷不忍,便叫道:「你晉家好欺負人!如何不把全屍還我?」先且居使人應曰:「若要取全屍,你自去大谷中亂屍內尋認!」白暾大怒,手執開山大斧,指揮翟騎沖殺過來。這裏用軘車結陣,如牆一般,連沖突數次,皆不能入。引得白暾躑躅咆哮,有氣莫吐。忽然晉軍中鼓聲驟起,陣門開處,一員大將,橫戟而出,乃狐射姑也。白暾便與交鋒。戰不多合,左有郤缺,右有欒盾,兩翼軍士圍裹將來。白暾見晉兵眾盛,急忙撥轉馬頭,晉軍從後掩殺。翟兵死者,不計其數。狐射姑認定白暾,緊緊追趕。白暾恐沖動本營,拍馬從刺斜裏跑去。射姑不捨,隨著馬尾趕來。白暾回首一看,帶轉馬頭,問曰:「將軍面善,莫非賈季乎?」射姑答曰:「然也。」白暾曰:「將軍別來無恙?將軍父子,俱住吾國十二年,相待不薄,今日留情,異日豈無相見?我乃白部之弟白暾是也。」狐射姑見提起舊話,心中不忍,便答道:「我放汝一條生路,汝速速回軍,無得淹久於此。」言畢回車,至於大營。晉兵已自得勝,便拿不著白暾,眾俱無話。是夜白暾潛師回翟,白部胡無子,白暾為之發喪,遂嗣位為君。此是後話。 且說晉師凱旋而歸,參見晉襄公,呈上先軫的遺表。襄公憐軫之死,親殮其屍。只見兩目復開,勃勃有生氣。襄公撫其屍曰:「將軍死於國事,英靈不泯,遺表所言,足見忠愛,寡人不敢忘也!」乃即柩前,拜先且居為中軍元帥,以代父職,其目遂瞑。後人於箕城立廟祀之。襄公嘉郤缺殺白部胡之功,仍以冀為之食邑,謂曰:「爾能蓋父之愆,故還爾父之封也。」又謂胥臣曰:「舉郤缺者,吾子之功。微子,寡人何由任缺?」乃以先茅之縣賞之。諸將見襄公賞當其功,無不悅服。 時許蔡二國,因晉文公之變,復受盟於楚。晉襄公拜陽處父為大將,帥師伐許,因而侵蔡。楚成王命鬥勃同成大心,帥師救之。行及泜水,隔岸望見晉軍,遂逼泜水下寨。晉軍營於泜水之北,兩軍只隔得一層水面,擊柝之聲,彼此相聞。晉軍為楚師所拒,不能前進。如此相持,約有兩月。看看歲終,晉軍糧食將盡,陽處父意欲退軍。既恐為楚所乘,又嫌於避楚,為人所笑。乃使人渡泜水,直入楚軍,傳語鬥勃曰:「諺云『來者不懼,懼者不來。』將軍若欲與吾戰,吾當退去一舍之地,讓將軍濟水而陣,決一死敵;如將軍不肯濟,將軍可退一舍之地,讓我渡河南岸,以請戰期。若不進不退,勞師費財,何益於事?處父今駕馬於車,以候將軍之命,惟速裁決!」鬥勃忿然曰:「晉欺我不敢渡河耶?」便欲渡河索戰。成大心急止曰:「晉人無信,其言退舍,殆誘我耳。若乘我半濟而擊之,我進退俱無據矣。不如姑退,以讓晉涉。我為主,晉為客,不亦可乎?」鬥勃悟曰:「孫伯之言是也!」乃傳令軍中,退三十里下寨,讓晉濟水。使人回復陽處父。處父使改其詞,宣言於眾,只說:「楚將鬥勃,畏晉不敢涉水,已遁去矣。」軍中一時傳遍。處父曰:「楚師已遁,我何濟為?歲暮天寒,且歸休息,以俟再舉可也。」遂班師還晉。鬥勃退舍二日,不見晉師動靜,使人偵之,已去遠矣。亦下令班師而回。 卻說楚成王之長子,名曰商臣,先時欲立為太子,問於鬥勃。勃對曰:「楚國之嗣,利於少,不利於長,歷世皆然。且商臣之相,蠭目豺聲,其性殘忍,今日愛而立之,異日復惡而黜之,其為亂必矣。」成王不聽,竟立為嗣,使潘崇傅之。商臣聞鬥勃不欲立己,心懷怨恨。及鬥勃救蔡,不戰而歸,商臣譖於成王曰:「子上受陽處父之賂,故避之以為晉名。」成王信其言,遂不許鬥勃相見,使人賜之以劍。鬥勃不能自明,以劍刎喉而死。成大心自詣成王之前,叩頭涕泣,備述退師之故,如此恁般:「並無受賂之事,若以退為罪,罪宜坐臣。」成王曰:「卿不必引咎,孤亦悔之矣!」自此成王有疑太子商臣之意。後又愛少子職,遂欲廢商臣而立職,誠恐商臣謀亂,思尋其過失而誅之。宮人頗聞其語,傳播於外。商臣猶豫未信,以告於太傅潘崇。崇曰:「吾有一計,可察其說之真假。」商臣問:「計將安出?」潘崇曰:「王妹羋氏,嫁於江國,近以歸寧來楚,久住宮中,必知其事。江羋性最躁急,太子誠為設享,故加怠慢,以激其怒,怒中之言,必有洩漏。」商臣從其謀,乃具享以待江羋。羋氏來至東宮,商臣迎拜甚恭,三獻之後,漸漸疏慢,中饋但使庖人供饌,自不起身,又故意與行酒侍兒,竊竊私語,羋氏兩次問話,俱失應答。羋氏大怒,拍案而起,罵曰:「役夫不肖如此,宜王之欲殺汝而立職也!」商臣假意謝罪,羋氏不顧,竟上車而去,罵聲猶不絕口。 商臣連夜告於潘崇,因叩以自免之策。潘崇曰:「子能北面而事職乎?」商臣曰:「吾不能以長事少也。」潘崇曰:「若不能屈首事人,盍適他國?」商臣曰:「無因也,祇取辱焉。」潘崇曰:「舍此二者,別無策矣!」商臣固請不已,潘崇曰:「有一策,甚便捷,但恐汝不忍耳!」商臣曰:「死生之際,有何不忍?」潘崇附耳曰:「除非行大事,乃可轉禍為福。」商臣曰:「此事吾能之!」乃部署宮甲,至夜半,託言宮中有變,遂圍王宮。潘崇仗劍,同力士數人入宮,徑造成王之前。左右皆驚散。成王問曰:「卿來何事?」潘崇答曰:「王在位四十七年矣,成功者退,今國人思得新王,請傳位於太子!」成王惶遽答曰:「孤即當讓位,但不知能相活否?」潘崇曰:「一君死,一君立,國豈有二君耶?何王之老而不達也?」成王曰:「孤方命庖人治熊掌,俟其熟而食之,雖死不恨!」潘崇厲聲曰:「熊掌難熟,王欲延時刻,以待外救乎?請王自便,勿俟臣動手!」言畢,解束帶投於王前。成王仰天呼曰:「好鬥勃!好鬥勃!孤不聽忠言,自取其禍,復何言哉!」遂以帶自挽其頸,潘崇命左右拽之,須臾氣絕。江羋曰:「殺吾兄者,我也!」亦自縊而死。時周襄王二十六年,冬十月之丁未日也。髯翁論此事,謂成王以弟弒兄,其子商臣,遂以子弒父,天理報應,昭昭不爽。有詩嘆曰: 楚君昔日弒熊囏,今日商臣報叔冤。天遣潘崇為逆傅,痴心猶想食熊蹯。 商臣既弒其父,遂以暴疾訃於諸侯,自立為王,是為穆王。加潘崇之爵為太師,使掌環列之尹,復以為太子之室賜之。令尹鬥般等,皆知成王被弒,無人敢言。商公鬥宜申聞成王之變,託言奔喪,因來郢都,與大夫仲歸謀弒穆王。事露,穆王使司馬鬥越椒擒宜申仲歸殺之。巫者范矞似言:「楚成王與子玉子西三人,俱不得其死。」至是,其言果驗矣!鬥越椒覬令尹之位,乃說穆王曰:「子揚常向人言:『父子世秉楚政,受先王莫大之恩,愧不能成先王之志。』其意欲扶公子職為君。子上之來,子揚實召之。今子上伏誅,子揚意不自安,恐有他謀,不可不備。」穆王疑之,乃召鬥般使殺公子職,鬥般辭以不能。穆王怒曰:「汝欲成先王之志耶?」自舉銅鎚擊殺之。公子職欲奔晉,鬥越椒追殺之於郊外。穆王拜成大心為令尹。未幾,大心亦卒。遂遷鬥越椒為令尹,蒍賈為司馬。後穆王復念子文治楚之功,錄鬥克黃為箴尹。克黃字子儀,乃鬥般之子,子文之孫也。 晉襄公聞楚成王之死,問於趙盾曰:「天其遂厭楚乎?」趙盾對曰:「楚君雖橫,猶可以禮義化誨。商臣不愛其父,況其他乎?臣恐諸侯之禍,方未艾耳!」不幾年,穆王遣兵四出,先滅江,次滅六,滅蓼,又用兵陳鄭,中原多事,果如趙盾之言。此是後話。 卻說周襄王二十七年,春二月,秦孟明視請於穆公,欲興師伐晉,以報崤山之敗。穆公壯其志,許之。孟明遂同西乞白乙,率車四百乘伐晉。晉襄公慮秦有報怨之舉,每日使人遠探,一得此信,笑曰:「秦之拜賜者至矣!」遂拜先且居為大將,趙衰為副,狐鞫居為車右,迎秦師於境上。大軍將發之際,狼曋自請以私屬效勞,先且居許之。時孟明等尚未出境。先且居曰:「與其俟秦至而戰,不如伐秦。」遂西行至於彭衙,方與秦兵相遇,兩邊各排成陣勢。狼曋請於先且居曰:「昔先元帥以曋為無勇,罷黜不用,今日曋請自試,非敢求錄功,但以雪前之恥耳。」言畢,遂與其友鮮伯等百餘人,直犯秦陣,所向披靡,殺死秦兵無算。鮮伯為白乙所殺。先且居登車,望見秦陣已亂,遂驅大軍掩殺前去。孟明等不能當,大敗而走。先且居救出狼曋,曋遍體皆傷,嘔血斗餘,踰日而亡。晉兵凱歌還朝。且居奏於襄公曰:「今日之勝,狼曋之力,與臣無與也。」與襄公命以上大夫之禮,葬狼曋於西郭,使群臣皆送其葬。此是襄公激勵人才的好處。史臣有詩誇狼曋之勇云: 壯哉狼車右,斬囚如割雞!被黜不妄怒,輕身犯敵威。一死表生平,秦師因以摧。重泉若有知,先軫應低眉。 卻說孟明兵敗回秦,自分必死,誰知穆公一意引咎,全無嗔怪之意,依舊使人郊迎慰勞,任以國政如初。孟明自愧不勝。乃增修國政,盡出家財,以卹陣亡之家。每日操演軍士,勉以忠義,期來年大舉伐晉。是冬,晉襄公復命先且居,糾合宋大夫公子成、陳大夫轅選、鄭大夫公子歸生,率師伐秦,取江及彭衙二邑而還。戲曰:「吾以報拜賜之役也。」昔郭偃卜繇,有「一擊三傷」之語,至是三敗秦師,其言果驗。孟明不請師禦晉,秦人皆以為怯。惟穆公深信之,謂群臣曰:「孟明必能報晉,但時未至耳。」至明年夏五月,孟明補卒蒐乘,訓練已精,請穆公自往督戰:「若今次不能雪恥,誓不生還!」穆公曰:「寡人凡三見敗於晉矣。若再無功,寡人亦無面目返國也。」乃選車五百乘,擇日興師。凡軍士從行者,皆厚贈其家,三軍踴躍,皆願效死。兵由蒲津關而出。既渡黃河,孟明出令,使盡焚其舟。穆公怪而問曰:「元帥焚舟,何意也?」孟明視奏曰:「『兵以氣勝。』吾屢挫之後,氣已衰矣。幸而勝,何患不濟?吾之焚舟,示三軍之必死,有進無退,所以作其氣也。」穆公曰:「善。」孟明自為先鋒,長驅直入,破王官城,取之。諜報至絳州,晉襄公大集群臣,商議出兵拒敵。趙衰曰:「秦怒已甚,此番起傾國之兵,將致死於我。且其君親行,不可當也,不如避之。使稍逞其志,可以息兩國之爭。」先且居亦曰:「困獸猶能鬥,況大國乎?秦君恥敗,而三帥俱好勇,其志不勝不已。兵連禍結,未有已時,子餘之言是也。」襄公乃傳諭四境堅守,毋與秦戰。繇余謂穆公曰:「晉懼我矣!君可乘此兵威,收崤山死士之骨,可以蓋昔之恥。」穆公從之。遂引兵渡黃河上岸,自茅津濟師,屯於東崤,晉兵無一人一騎敢相迎者。穆公命軍士於墮馬崖、絕命巖、落魂澗等處,收檢屍骨,用草為襯,埋藏於山谷僻坳之處。宰牛殺馬,大陳祭享。穆公素服,親自瀝酒,放聲大哭。孟明諸將伏地不能起,哀動三軍,無不墮淚。髯仙有詩云: 曾嗔二老哭吾師,今日如何自哭之?莫道封屍豪舉事,崤山雖險本無屍。 江及彭衙二邑百姓,聞穆公伐晉得勝,哄然相聚,逐去晉之守將,還復歸秦。秦穆公奏凱班師,以孟明為亞卿,與二相同秉國政。西乞白乙,俱加封賞。改蒲津關為大慶關,以志軍功。 卻說西戎主赤班,初時見秦兵屢敗,欺秦之弱,欲倡率諸戎叛秦。及伐晉回來,穆公遂欲移師伐戎。繇余請傳檄戎中,徵其朝貢,若其不至,然後攻之。赤班打聽孟明得勝,正懷憂懼;一見檄文,遂率西方二十餘國,納地請朝,尊穆公為西戎伯主。史臣論秦事,以為「千軍易得,一將難求。」穆公信孟明之賢,能始終任用,所以卒成伯業。 是時秦之威名,直達京師,周襄王謂尹武公曰:「秦晉匹也,其先世皆有功於王室。昔重耳主盟中夏,朕冊命為侯伯。今秦伯任好,強盛不亞於晉,朕亦欲冊之如晉。卿以為何如?」尹武公曰:「秦自伯西戎,未若晉之能勤王也。今秦晉方惡,而晉侯驩能繼父業,若冊命秦,則失晉歡矣。不若遣使頒賜以賀秦,則秦知感,而晉亦無怨。」襄王從之。要知後事如何,再看下回分解。
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