東周列國志第四十七回 弄玉、簫を吹いて二人で鳳に乗る/趙盾、秦に背いて霊公を立てる (弄玉吹簫雙跨鳳 趙盾背秦立靈公)
秦、西戎に覇たり、孟明・公孫枝の去就
- 秦の穆公は二十の国を併呑し、ついに西戎に覇を唱えた。周の襄王は尹武公を遣わし、穆公に軍の鐘と太鼓を賜ってこれを祝賀させた。秦伯は自ら年老いたことを理由に入朝を控え、公孫枝を周に遣わして謝恩させた。この年、繇余が病没し、穆公は深く痛惜し、孟明を右庶長に任じた。公孫枝は周から帰り、穆公の意向が孟明にあることを知って、自らも老いを理由に政を退いた。これはこれ以上語らない。
弄玉、笙を愛し佳婿を求める
- さて秦の穆公には幼い娘があった。生まれた時、ちょうど人が璞を献上し、これを磨くと碧色の美しい玉が得られた。娘が一歳になり、宮中で「晬盤(一歳の祝いの品を並べる盤)」を行ったところ、娘だけがこの玉を取って手放そうとしなかったため、弄玉と名づけられた。少し成長すると、その姿は世に絶し、しかも聡明この上なく、笙を吹くのが得意で、楽師によらず自ら音律を成した。穆公は名工に命じてこの美玉を割って笙に作らせた。娘がこれを吹くと、その音は鳳凰の鳴き声のようであった。穆公はこの娘を鍾愛し、幾重にも重ねた楼を築いて住まわせ、鳳楼と名づけた。楼の前には高台があり、これも鳳台と名づけられた。
- 弄玉が十五歳になると、穆公はよい婿を求めようとした。弄玉は自ら誓って言った。「必ず笙をよく吹く人で、私と唱和できる者でなければ、私の夫にはなりません。それ以外は望みません」。穆公は人をあまねく遣わして探させたが、そのような人物は見つからなかった。
弄玉、夢に太華山の主と契りを結ぶ
- ある日、弄玉は楼上で簾を巻き上げて何気なく外を眺めていた。空は晴れ渡り雲もなく、月は鏡のように明るかった。侍女を呼んで香を一炷焚かせ、碧玉の笙を取って窓辺で吹いた。その音は清らかに澄み渡り、天際まで響き渡った。かすかな風が吹く中、ふとそれに和する者があるかのようであった。その音は遠いようでもあり近いようでもあった。弄玉は心に不思議に思い、吹くのをやめて耳を澄ませると、その音もまた止み、余韻だけがなお細々と続いた。弄玉は風に吹かれてぼんやりと何かを失ったかのような心地になり、夜半まで行きつ戻りつしているうち、月も傾き香も燃え尽きたので、玉笙を枕元に置いて無理に床についた。
- 夢の中で、西南の方角に天の門が開き、五色の霞の光が昼のように照り輝いた。一人の美丈夫が羽の冠と鶴の羽織をまとい、彩り豊かな鳳凰に乗って天から降り、鳳台の上に立って弄玉に言った。「私は太華山の主です。上帝が私にあなたと縁を結ぶよう命じられました。中秋の日にお会いすることになるでしょう、これは前世からの縁なのです」。そして腰から赤玉の簫を解き、欄干にもたれて吹いた。その彩鳳もまた翼を広げ舞い鳴き、鳳の声と簫の音とが一つに唱和し、宮商の音律が調和して耳に満ちわたった。弄玉は心を奪われ、思わず尋ねた。「これは何の曲ですか」。美丈夫は「これは『華山吟』の第一曲です」と答えた。弄玉がさらに「この曲は習うことができますか」と問うと、美丈夫は「すでに婚姻の契りを結んだからには、何の難しいことがありましょう」と答え、言い終えるとまっすぐ進んで弄玉の手を取った。弄玉ははっと驚いて目を覚ましたが、夢の中の光景は目の前にありありと残っていた。夜が明けると、自らこの夢を穆公に語った。そこで穆公は孟明に、夢の中の姿を頼りに太華山を訪ねさせた。
孟明、太華山に蕭史を訪ねる
- ある野人がこう教えた。「山上の明星巌に、一人の不思議な人がおります。七月十五日からここに来て、庵を結んで独り住み、毎日山を下りて酒を買っては独りで飲んでおります。夜になると必ず簫を一曲吹き、その音は四方に響き渡り、聞く者は寝るのも忘れるほどですが、どこの人かは分かりません」。孟明は太華山に登り、明星巌の下に至ると、果たして一人の男がいた。羽の冠に鶴の羽織をまとい、玉のような容貌に紅い唇、飄々として俗世を超越した風情があった。孟明は只者ではないと知り、進み出て会釈し、その姓名を尋ねた。相手は答えた。「私は蕭という姓で、名は史と申します。あなたはどなたで、ここへ何用でおいでか」。孟明は言った。「私はこの国の右庶長、百里視と申します。わが君が愛娘のために婿を選んでおられ、娘は笙をよくし、必ずその音律にかなう者を求めております。あなたが音楽に精通していると聞き、わが君はぜひ一目お会いしたいと望まれ、私にお迎えするよう命じられました」。蕭史は「私は多少宮商の理を解するのみで、他に取り柄はありません、お召しに応じるのは畏れ多いことです」と言った。孟明は「ともにわが君にお目にかかれば、おのずと分かりましょう」と言い、そのまま共に車に乗って帰った。
穆公、蕭史を試し弄玉を娶らせる
- 孟明はまず穆公に会い、事の次第を奏上し、それから蕭史を引き入れて謁見させた。穆公は鳳台の上に座しており、蕭史は拝礼して言った。「臣は山野の匹夫にて、礼法を存じません。どうかお許しください」。穆公は蕭史の姿がさっぱりとして俗塵を離れた風情があるのを見て、心中すでに三分の喜びを覚え、傍らに座を賜って尋ねた。「そなたは簫がうまいと聞くが、笙もうまいのか」。蕭史は「臣はただ簫のみで、笙はできません」と答えた。穆公は「もともと笙を吹く連れ合いを求めていたのだ。簫と笙とは楽器が異なる、わが娘の相手にはならぬな」と言い、孟明を顧みて蕭史を退出させようとした。弄玉が侍女を通じて穆公に伝えさせた。「簫と笙は同じ類のものです。客人はすでに簫がお上手とのこと、なぜその腕前を試してみないのですか。せっかくの技をお持ちのまま帰らせてしまってよいのですか」。穆公はもっともだと思い、蕭史に演奏を命じた。
- 蕭史は赤玉の簫を一本取り出した。玉の色は温潤で、赤い光が人の目を照らし、まことに世にも稀な珍品であった。一曲奏でると清風がそよそよと吹き渡り、二曲目を奏でると彩雲が四方に集まり、三曲目を奏でるに至って、白鶴が対になって空を舞い、孔雀が数対、林のはずれに集まり、百鳥が声を合わせて鳴き、しばらくしてようやく散っていった。穆公は大いに喜んだ。この時弄玉は簾の内からその不思議さを窺い見て、喜んで言った。「これぞまさしくわが夫です」。
- 穆公は改めて蕭史に尋ねた。「そなたは笙と簫がどうして作られたか、いつ始まったか知っているか」。蕭史は答えた。「笙とは『生』の意です。女媧氏が作ったもので、万物の発生を意味し、律は太簇に応じます。簫とは『粛』の意です。伏羲氏が作ったもので、清粛を意味し、律は仲呂に応じます」。穆公は「詳しく話してみよ」と言った。蕭史は答えた。「臣は簫の技を修めておりますゆえ、簫についてのみお話しいたします。昔、伏羲氏は竹を編んで簫を作りました。その形は長短参差として鳳凰の翼を象り、その音は和やかで美しく、鳳凰の鳴き声を象っております。大きなものは『雅簫』と呼ばれ、二十三管を編み、長さ一尺四寸。小さなものは『頌簫』と呼ばれ、十六管を編み、長さ一尺二寸。これらを総じて簫管と申します。底のないものを『洞簫』と申します。その後、黄帝は伶倫に命じて昆谿で竹を伐らせ、笛を作らせました。横に七つの穴を開け、これを吹くのもまた鳳凰の鳴き声を象っておりますが、その形はきわめて簡素です。後世の人は簫管の複雑さを厭い、もっぱら一本の管を縦に吹くようになりました。また長いものを『簫』、短いものを『管』と呼ぶようになりました。今の簫は、古の簫とは違うものです」。穆公は「そなたが簫を吹くと、どうして珍しい鳥が集まってくるのか」と問うた。蕭史は答えた。「簫の作りは簡略になりましたが、その音の性質は変わりません。作った者が鳳凰の鳴き声を象ったのであり、鳳凰は百鳥の王ですから、皆その声を聞いて飛び集まるのです。昔、舜が簫韶の楽を作ったとき、鳳凰がその声に応じて舞い降りたと申します。鳳凰さえも招けるのですから、まして他の鳥はなおさらでございます」。蕭史の受け答えは淀みなく、声も朗々としていた。
- 穆公はますます喜び、蕭史に言った。「寡人には愛娘の弄玉がおり、音律にかなり通じている。音律を解さぬ婿に嫁がせるつもりはない。ぜひそなたの妻に迎えてもらいたいのだが」。蕭史は姿勢を正して再拝し、辞退した。「史はもともと山中の田舎者、どうして王侯の貴きお相手が務まりましょうか」。穆公は言った。「わが娘には前々からの誓いがあり、笙をよくする者を配偶に選びたいと望んでいた。今、そなたの簫は天地に通じ万物を感応させる、笙にまさること遥かである。しかもわが娘には夢のお告げもあった。今日はちょうど八月十五夜の中秋、これは天の縁というものだ。そなたに断ることはできぬ」。蕭史は拝謝した。穆公は太史に命じて婚儀の日を選ばせたところ、太史は「今夜の中秋こそ最上の吉日、月は上に円く、人は下に円くございます」と奏上した。そこで左右の者に湯浴みの支度をさせ、蕭史を清め、新しい衣冠に着替えさせて鳳楼へ送り、弄玉と結ばれた。夫婦は仲睦まじく、これは言うまでもない。
蕭史と弄玉、龍鳳に乗り天に去る
- 翌朝、穆公は蕭史を中大夫に任じた。蕭史は朝廷の班列には連なったものの、国政には関わらず、日々鳳楼の中で暮らし、火を通した食物を口にせず、時折酒を数杯飲む程度であった。弄玉もその気をめぐらせる術を学び、次第に穀断ちできるようになった。蕭史は弄玉に簫を教え、『来鳳』の曲を仕込んだ。およそ半年ほど経ったある夜、夫婦が月下で簫を吹いていると、紫の鳳凰が台の左に集まり、赤い龍が台の右にとぐろを巻いた。蕭史は言った。「私はもともと上界の仙人です。上帝が人間界の史籍が散逸していることを憂い、私に整理を命じられ、周の宣王十七年五月五日、周の蕭氏の家に生まれ、蕭三郎と名づけられました。宣王の晩年、史官がその職を怠ったため、私はその本末をつなぎ合わせ、典籍の欠落を補いました。周の人々は私に史の功があるとして『蕭史』と呼ぶようになり、今や百十余年になります。上帝は私を華山の主とし、あなたとは前世からの縁があるゆえ、簫の音によって縁を結ばせてくださいました。しかし久しく人間界に留まるべきものではありません。今、龍と鳳がお迎えに参りました、そろそろ去らねばなりません」。弄玉は父に別れを告げようとしたが、蕭史はそれを許さず、「すでに神仙となったからには、すべてを超脱して思い煩うことがあってはならぬ。まして肉親への未練にとらわれてよいものか」と言った。こうして蕭史は赤龍に乗り、弄玉は紫鳳に乗って、鳳台から雲を翔けて去っていった。(今の人が良い婿を「乗龍」と称するのは、まさにこの故事による。)
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その夜、太華山で鳳凰の鳴き声を聞いた者があった。翌朝、宮の侍者がこれを穆公に報告した。穆公は呆然として、ため息をつきながら言った。「神仙のことは、まことにあるものなのだな。もしこの時に龍鳳が寡人を迎えに来たなら、寡人は山河を捨てることなど、破れ草履を捨てるようなものであろうに」。人を太華山に遣わしてその跡を尋ねさせたが、杳として何の見聞も得られなかった。そこで明星巌に祠を建て、四季折々に酒と果物を供えて祀り、今日まで蕭女祠と呼ばれ、祠の中では今も時折鳳凰の鳴き声が聞こえるという。六朝の鮑照に『蕭史曲』という詩がある。
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(詩:蕭史は若さを愛し、嬴女(弄玉)は童顔であったこと、二人が火を通した食物を捨て仙界に登ることを願ったこと、龍と鳳がそれぞれ天路へ飛び去り秦の関から出て行ったこと、去った後は二度と戻らずとも簫の音が時折響き渡ることを詠む)
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また江總にも詩がある。
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(詩:弄玉は秦の家の娘、蕭史は仙界の童子であったこと、来た時は満月のもと、去った後は鳳楼が空になったこと、二人の睦まじい様子と、紅顔の契りが紫の煙の中へ飛び去っていったことを詠む)
秦穆公の晩年と三良殉葬
- 穆公はこれより兵戈の事を語ることを厭うようになり、超然として世外への思いを抱くようになった。国政はもっぱら孟明に任せ、日々清浄無為の道を修めた。まもなく公孫枝も亡くなった。孟明は子車氏の三人の子、奄息・仲行・鍼虎を推挙した。三人はいずれも賢徳を備え、国中で「三良」と称された。穆公はいずれも大夫に任じ、手厚く礼遇した。
- それから三年後、周の襄王三十一年春二月の望の日、穆公は鳳台に座して月を眺め、娘の弄玉がどこへ行ったのか分からず、もはや再会の機会もないことを思い、ふとまどろんだ。夢の中で蕭史と弄玉が一羽の鳳凰を操って迎えに来て、ともに広寒宮に遊んだが、そこは骨まで冷え込むほど清冷であった。目覚めるとほどなく風邪をひき、数日のうちに薨じた。人々はこれを「仙人となって去ったのだ」と言った。在位三十九年、享年六十九であった。穆公は初め晋の献公の娘を娶り、太子罃を儲けており、ここに至って即位した。これが康公である。
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穆公は雍に葬られた。西戎の習俗に倣い、生きた人間を殉葬に用い、その数は百七十七人に及んだ。子車氏の三人の子もその数に含まれていた。国人はこれを哀しみ、『黄鳥』の詩を作った。この詩は『毛詩・国風』に見える。後世の人は穆公が「三良」を殉葬に用いたことを論じ、死してなお賢人を棄てることになり、後継への配慮を欠いたと評した。ただ宋の蘇東坡学士に秦穆公の墓を題した詩があり、これは世間の意表を突いている。詩に言う。
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(詩:橐泉は城の東にあり、墓は城中にあって(橐泉から)百歩と離れていないこと、そこから昔はまだこの城がなかったのだと分かり、秦人は橐泉を目印にして公の墓の所在を示したのだということ、穆公が生前孟明を誅さなかったのに、死に際してどうして良臣たちを用いる(殉葬させる)ことに忍びえたのかという疑問、そこから三子は公の意に殉じたのだと分かり、それは斉の田横に従った二人の食客と同じであろうということ、古人は一飯の恩にすら身を捨てて報いたのに、今の人にはそのようなことは見られず、自分の見聞で古人を疑ってしまうこと、古人には及びもつかず、今の人はますます嘆かわしいということを詠む)
晋襄公、趙盾を中軍元帥とする
- 話は二つに分かれる。さて晋の襄公六年、その子・夷皋を世子に立て、庶弟の公子楽を陳へ出仕させた。この年、趙衰・欒枝・先且居・胥臣が相次いで亡くなり、四人の卿の位が続けて空いた。翌年、夷の地で大がかりな軍の閲兵(蒐礼)を行い、二軍の編制をやめて、再び三軍の旧制に戻した。襄公は士穀・梁益耳に中軍を率いさせ、箕鄭父・先都に上軍を率いさせようとした。先且居の子・先克が進言した。「狐氏・趙氏には晋に大きな功があります、その子孫を廃してはなりません。しかも士穀は司空の位にあり、梁益耳ともにいまだ戦功がありません。にわかに大将とすれば、恐らく人心が服しますまい」。襄公はこれに従い、狐射姑を中軍元帥とし、趙盾をその補佐とした。箕鄭父を上軍元帥とし、荀林父をその補佐とした。先蔑を下軍元帥とし、先都をその補佐とした。
- 狐射姑は壇に登って号令を発し、意のままに指揮して、傍らに人なきがごとくであった。その部下の軍司馬・臾駢が諫めて言った。「駢はこう聞いております。『軍が勝利を収めるのは和にある』と。今、三軍の将は、古参の将でなければ、代々の家臣です。元帥たる者は虚心に意見を求め、常に謙虚さを保つべきです。剛にして自ら誇るのは、子玉が晋に敗れた原因でございます、戒めなければなりません」。射姑は大いに怒り、「わしが号令を発し始めたばかりだというのに、匹夫が何を偉そうに口を出し、兵士を惑わせるのか」と怒鳴りつけ、左右に命じて鞭打つこと百に及んだ。人々は皆心中で不服を抱いた。
- 一方、士穀・梁益耳は先克が自分たちの登用を阻んだことを聞いて大いに恨んだ。先都も上軍元帥の職を得られず、これまた深く恨んだ。当時、太傅の陽処父は衛に使いしており、この件には関わっていなかった。処父が帰国し、狐射姑が元帥になったと聞くと、ひそかに襄公に奏上した。「射姑は剛にして上に立とうとし、民心を得ておりません、大将の器ではございません。臣はかつて子餘(趙衰)の軍を補佐し、その子・盾とは仲がよく、盾が賢く有能であることをよく存じております。賢者を尊び有能な者を用いるのは国の大切な決まりです。主君が将帥をお選びになるなら、盾に及ぶ者はございません」。襄公はこの言葉に従い、陽処父に命じて董の地であらためて閲兵をやり直させた。狐射姑はまだ帥が変わることを知らず、喜んで中軍の班列の長として振る舞っていたが、襄公は彼の字を呼んで言った。「賈季よ、先には寡人は盾にそなたを補佐させたが、今はそなたが盾を補佐するのだ」。射姑はあえて何も言わず、ただ「はい、はい」と答えて退がった。襄公はそこで趙盾を中軍元帥に任じ、狐射姑にこれを補佐させた。上軍・下軍はもとのままであった。趙盾はこれより国政を執り、大いに政令を整え、国人は喜んで服した。
- ある人が陽処父に言った。「子孟(あなた)は言うべきことを隠さぬ、忠と言えば忠だが、それによって人の怨みを買うことを恐れないのか」。処父は「もし国家に利があるなら、どうして私怨を避けることができようか」と答えた。翌日、狐射姑はひとり襄公に謁見して尋ねた。「主公は先人のわずかな功をお思いくださり、臣を不肖の者としないでくださって、軍事を司らせてくださいました。それが突然変えられたのは、臣に何の罪があってのことか分かりません。もしかして先臣・偃(狐偃)の功が趙衰に及ばないとお考えなのでしょうか。それとも他に理由があるのでしょうか」。襄公は「他意はない。陽処父が寡人に、そなたは民心を得ておらず大将には向かぬと言ったのだ。それゆえ変えたのだ」と言った。射姑は黙って退がった。
晋襄公の死と後継争いの発端
- この年の秋八月、晋の襄公は病に倒れ、死に瀕して太傅の陽処父、上卿の趙盾、そして諸臣を寝台のそばに召して言った。「寡人は父の業を受け継ぎ、狄を破り秦を伐って、外国にその鋭気をくじかれたことがなかった。今、不幸にも寿命が尽きようとし、諸卿と永の別れとなる。太子夷皋はまだ幼い。卿らはどうか心を尽くして輔佐し、隣国と和好を保ち、盟主の業を失わぬようにしてほしい」。群臣は再拝して命を受けた。襄公はそのまま薨じた。
- 翌日、群臣は太子を立てて即位させようとした。趙盾は言った。「国家は多難であり、秦と狄は敵である。幼主を立てるべきではない。今、杜祁の子・公子雍は現に秦に仕えており、善を好み年長でもある。彼を迎えて大位を継がせるべきだ」。群臣は誰も答えられなかった。狐射姑は言った。「公子楽を立てるに越したことはない。その母は先君の寵愛を受けた方。楽は陳に仕えており、陳はもとより晋と親しい、秦のように怨みがある国とは違う。迎えれば朝に発って夕には着けるだろう」。趙盾は言った。「そうではない。陳は小さく遠いが、秦は大きく近い。陳から君を迎えても親密さは増さぬが、秦から迎えれば怨みを解いて援けを得ることができる。必ず公子雍でなければならぬ」。衆議はそこで収まった。そこで先蔑を正使、士会を副使として秦へ喪を報じさせ、それに乗じて公子雍を迎えて君に立てることにした。
- 出発しようとするとき、荀林父がこれを止めて言った。「夫人も太子もおられるのに、他国から君を迎えようというのは、事がうまく運ばず、思わぬ事変が起こりはしないか。あなたは病と称して辞退されてはどうか」。先蔑は「政は趙氏にある、何の変事があろうか」と言った。林父は人に語った。「『同じ官にある者を僚という』。私は士伯(先蔑)と同僚であるから、あえて心を尽くさぬわけにはいかない。彼は私の言うことを聞かない、恐らくは去る日はあっても、帰る日はないだろう」。先蔑が秦へ向かう話はここではひとまず措く。
- さて狐射姑は趙盾が自分の言に従わなかったのを見て怒り、「狐と趙は並び立つ間柄だ。今、趙があって狐がないというのか」と言い、ひそかに人を遣わして公子楽を陳から呼び寄せ、位を争う計を立てようとした。早くもこれを知った者が趙盾に報告した。盾はその客・公孫杵臼に家の召使い百人を率いさせ、途中に伏せて、公子楽が通りかかるのを待ち構えてこれを殺させた。狐射姑はますます怒り、「趙孟に権力を持たせたのは陽処父だ。処父は一族が微弱で援けもない。今、郊外に宿泊して諸国の会葬の事を取り仕切っている、刺すのはたやすい。盾が公子楽を殺すなら、我は処父を殺す、それでよかろう」と言い、その弟・狐鞫居と謀った。鞫居は「この事は私にできます」と言い、家人と共に盗賊を装い、夜半に塀を越えて忍び込んだ。処父はなお灯りをともして書を読んでいたが、鞫居がまっすぐ進んで斬りつけ、肩に当たった。処父は驚いて逃げたが、鞫居は追って殺し、その首を取って帰った。陽処父の従者の中に鞫居の顔を知る者がいて、趙盾に走り報せた。盾は表向き信じないふりをして「陽太傅が盗賊に害されるとは、どうしてそんな誣告をするのか」と叱りつけたが、人を遣わしてその遺体を収めさせた。これは九月中の出来事である。
狐鞫居の誅殺と狐射姑の出奔
- 冬十月に至り、襄公を曲沃に葬った。襄夫人の穆嬴は太子夷皋とともに葬儀に列し、趙盾に言った。「先君に何の罪があったというのか。その正当な跡継ぎにも何の罪があるというのか。なぜこの一塊の肉(わが子)を捨てて、他国に君を求めようとするのか」。趙盾は「これは国家の大事であり、私一人の私事ではありません」と答えた。葬儀を終え、位牌を廟に納めた。趙宣子(趙盾)は廟中で諸大夫に言った。「先君はよく刑罰と恩賞を用いて諸侯に覇を唱えられた。今、君の柩がまだ殯にあるうちに、狐鞫居が擅ままに太傅を殺した。臣たる者、誰が自らの身の危うさを感じずにいられようか。これを討たずにはおけぬ」。そこで鞫居を捕らえて司寇に引き渡し、その罪を数え上げて斬った。そのままその家から陽処父の首を捜し出させ、糸で首を胴に縫いつけて葬らせた。狐射姑は趙盾がすでにその企みを知ったと恐れ、夜、小さな車に乗って翟国へ出奔し、翟の主・白暾のもとに身を寄せた。
長翟僑如の誅滅と狐射姑の潞への逃亡
- 当時、翟国には僑如という名の巨人がいた。身の丈一丈五尺、いわゆる「長翟」である。力は千鈞を挙げるほどで、頭は銅、額は鉄のごとく、瓦礫でも傷つけられなかった。白暾は彼を将として用い、魯を侵させた。魯の文公は叔孫得臣に命じて軍を率いてこれを防がせた。時はちょうど冬、凍った霧が空一面を覆っていた。大夫の富父終甥は、まもなく雪が降ることを見越して計を進めた。「長翟は並外れて勇猛です。ただ知略で捕らえるほかなく、力で対抗してはなりません」。そこで要路に深く落とし穴をいくつも掘り、草を敷いて覆い、その上に浮き土をかけた。その夜、果たして大雪が降り、地面を平らに覆って、どこが実でどこが虚か分からなくなった。
- 富父終甥は一隊の軍を率いて僑如の陣を襲った。僑如が出て戦うと、終甥はわざと敗れたふりをして退いた。僑如は勢いに乗って追撃した。終甥は暗号を残しておいたので道を見分けることができ、落とし穴に沿って走った。僑如はそのまま追いかけ、深い落とし穴に落ちた。得臣の伏兵が一斉に起こり、翟兵を斬り散らした。終甥は戈で僑如の喉を刺して殺し、その屍を大車に載せて運んだ。見る者は皆驚いた。これを防風氏(伝説の巨人)の骨だと言っても、言い過ぎではなかった。得臣はちょうどこの時に長男が生まれたので、「叔孫僑如」と名づけ、この戦功を記念した。これより魯は斉・衛と兵を合わせて翟を伐ち、白暾は逃亡の末に死んで、その国はついに滅ぼされた。
- 狐射姑はさらに赤翟の潞国へ転じて逃れ、潞の大夫・酆舒のもとに身を寄せた。趙盾は言った。「賈季(射姑)は、わが先人と時を同じくして国外へ亡命した者であり、先君の左右にあって功労は浅からぬものであった。私が鞫居を誅したのは、まさに賈季を安んじるためであった。彼は罪を恐れて出奔したというのに、どうして単身のまま翟の地に留め置くに忍びようか」。そこで臾駢にその妻子を潞まで送らせた。臾駢は家の召使いを集めて出発しようとしたが、家の召使いたちは申し出た。「かつて夷の地での蒐(閲兵)の日、主人(臾駢)は狐帥に忠を尽くしたのに、逆に辱められました。この恨みは晴らさねばなりません。今、元帥は主人にその妻子を護送させるとは、これは天の賜物です。皆殺しにして恨みを晴らすべきです」。臾駢は繰り返し言った。「いけない、いけない。元帥が妻子の護送を私に委ねられたのは、私を信頼してのことだ。元帥が送ろうとしているのに私が殺せば、元帥は私を怒らないだろうか。人の危うきに乗じるのは仁ではない。人の怒りを招くのは智ではない」。そして妻子を車に迎え入れ、家財を一つ一つ細かく帳簿に記し、自ら国境まで送り届け、少しの遺漏もなかった。射姑はこれを聞いて嘆いた。「私には賢人がいたのに、それに気づかなかった。私が出奔したのも当然のことだ」。趙盾はこれより臾駢の人柄を重んじ、重用しようという意向を持つようになった。
秦、公子雍を送る
- さて先蔑は士会とともに秦へ赴き、公子雍を迎えて君に立てようとした。秦の康公は喜んで言った。「わが先君は二度も晋の君を定められた。この寡人の代に、また公子雍を立てることになれば、晋の君は代々秦から出ることになる」。そこで白乙丙に戦車四百乗を率いさせ、公子雍を晋に送らせた。
穆嬴の哭訴と霊公の即位
- さて襄夫人の穆嬴は葬儀から朝廷に戻ってから、毎日夜明けに太子夷皋を懐に抱いて朝堂に赴き、大声で泣いては諸大夫に言った。「これは先君の正当な跡継ぎです。どうしてこの子を見捨てるのですか」。朝が終わると、車を仕立てて趙氏の屋敷へ赴き、趙盾に向かって頓首して言った。「先君は臨終の際、この子をあなたに託し、心を尽くして輔佐するようにと言われました。君は世を去られましたが、その言葉は今も耳に残っております。もし他人を立てるなら、この子をどこに置くというのですか。わが子を立ててくださらないなら、私たち母子は死ぬしかありません」。言い終えると、泣き止まなかった。国人はこれを聞き、穆嬴を哀れまぬ者はなく、その咎を趙盾に帰した。諸大夫もまた公子雍を迎えたことが失策であったと言い出した。
- 趙盾はこれを憂い、郤缺に相談して言った。「士伯(先蔑)はすでに秦へ行って年長の君を迎えている。どうして再び太子を立てられようか」。郤缺は言った。「今日、幼子を措いて年長の君を立てても、後日幼子が成長すれば、必ず変事が起こりましょう。急いで人を秦へ遣わして士伯を止めるのが上策です」。盾は「まず君を定め、それから使者を発するのが、名分の立つやり方だ」と言った。そこですぐに群臣を集め、夷皋を即位させた。これが霊公である。時にわずか七歳であった。
秦軍との令狐の戦い、先蔑・士会の秦亡命
- 百官が朝賀を終えたばかりのところへ、突然国境の斥候から報告があった。「秦が大軍を送って公子雍を護送し、すでに河のほとりまで来ております」。諸大夫は「我らは秦に対して信を失った。どう申し開きするのか」と言った。趙盾は言った。「もし我らが公子雍を立てていれば、秦は我らの賓客であった。しかし彼を受け入れなかった以上、もはや敵国である。人を遣わして謝罪しても、彼は逆に我らを非難するだろう。兵をもって拒むほかない」。そこで上軍元帥の箕鄭父に霊公の守りを任せ、盾自らは中軍を率いた。先克を副とし、狐射姑の職に代えた。荀林父は独り上軍を率いた。先都は先蔑が秦に行ってしまったため、独り下軍を率いた。三軍を整え、秦軍を出迎えて廑陰に屯した。
- 秦軍はすでに河を渡って東に進み、令狐に陣を張った。前方に晋軍がいると聞いたが、なお公子雍を迎えに来たものと思い込み、まったく警戒していなかった。先蔑が先に晋軍に至り、趙盾に会った。盾は太子を立てた経緯を告げた。先蔑は目を怒らせて言った。「公子を迎えようと謀ったのは誰の主導だったのか。今また太子を立てて我を拒むというのか」。袖を払って出て行き、荀林父に会って言った。「私はあなたの言葉を聞かなかったことを悔いる、こうなってしまった」。林父は止めて言った。「あなたは晋の臣だ。晋を捨ててどこへ帰ろうというのか」。先蔑は言った。「私は命を受けて秦へ雍を迎えに行った、雍は私の主であり、秦はわが主の後ろ盾である。どうして先の言葉に背いて、故郷の富貴を求めることができようか」。そのまま秦の陣へ走り去った。
- 趙盾は言った。「士伯は晋に留まろうとしない。明日、秦軍は必ず攻め寄せてくる。夜のうちに秦の陣を襲うに越したことはない。不意を突けば志を遂げられよう」。そこで令を出して馬に飼葉を与えさせ、兵士に寝床で腹一杯食べさせ、枚を含ませて音を立てず疾走させた。秦の陣に着いた頃には、ちょうど三更であった。一斉に鬨の声を上げ、太鼓と角笛が鳴り渡り、陣門になだれ込んだ。秦軍は眠りの中で驚き覚め、馬は鎧を着ける間もなく、人は矛を取る間もなく、四方に散り乱れた。晋兵はまっすぐ刳首の地まで追撃し、白乙丙は死に物狂いで戦って逃げ延び、公子雍は乱軍の中で死んだ。先蔑は嘆いて言った。「趙孟は私に背いた、私は秦に背くことはできぬ」。そのまま秦へ奔った。士会もまた嘆いて言った。「私は士伯と行動を共にした。士伯がすでに秦へ行った以上、私だけ帰るわけにはいかない」。そのまま秦軍とともに帰った。秦の康公は二人とも大夫に任じた。
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荀林父は趙盾に言った。「かつて賈季(狐射姑)が狄に奔ったとき、相国は同僚のよしみを思い、その妻子を送り届けられました。今、士伯(先蔑)と随季(士会)は、私とも同僚のよしみがございます。相国が先にされたことに倣いたく存じます」。趙盾は「荀伯が義を重んじるのは、まさにわが意にかなう」と言い、衛士に命じて両家の家族と家財を秦に送らせた。胡曾先生に詩がある。
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(詩:誰があえて国境を越えて他人の妻子を送り届けようとするだろうか、それはただ同僚のよしみゆえのことであること、近ごろの人情は互いに忌み嫌い刻薄になっているが、同じはずの同僚のよしみはいったいどうなってしまったのかということを詠む)
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また髯翁にも、趙宣子が軽々しく公子雍を迎えようとし、賓客をもって寇となしたことを風刺する詩がある。
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(詩:碁を打つのに一手ごとに躊躇すべきなのに、正嫡の跡継ぎがいながらどうして外に君を求めたのか、賓客が瞬く間に仇敵に転じたことを詠み、趙宣子の国を謀るやり方はいったい何を考えてのことかと問う)
蒯得の処分と箕鄭父らの謀議
- この一戦において、各軍の将はいずれも捕虜を獲得したが、ただ先克の部下の猛将・蒯得だけは、功を貪って先に進みすぎ、秦軍に敗れて、逆に戦車五乗を失った。先克は軍法によって彼を斬ろうとしたが、諸将が皆彼のために取りなして助命を願った。先克が趙盾に申し出たので、趙盾はその田禄を奪うにとどめた。蒯得はこれを深く恨んだ。
- また箕鄭父は士穀・梁益耳と日頃から親しく、趙盾が中軍元帥に昇進してから、士穀・梁益耳はいずれも兵権を失い、箕鄭父もまた不満を抱くようになっていた。この時、鄭父が留守を守っており、士穀・梁益耳もともに一つに集まって話し合った。「趙盾は自分勝手に人事を決め、他人を眼中に置かない。今、秦が大軍を送って公子雍を護送していると聞く。もし両軍が対峙して急には解決しないなら、我らがその隙に乱を起こし、趙盾に叛き、夷皋を廃して公子雍を迎え入れれば、大権はことごとく我らの手に帰するだろう」。相談はすでにまとまった。事の成否がどうなるか、次の回で語られる。
原文(底本)
話說秦穆公並國二十,遂伯西戎。周襄王命尹武公賜金鼓以賀之。秦伯自稱年老,不便入朝,使公孫枝如周謝恩。是年,繇余病卒,穆公心加痛惜,遂以孟明為右庶長。公孫枝自周還,知穆公意向孟明,亦告老致政。不在話下。 卻說秦穆公有幼女,生時適有人獻璞,琢之得碧色美玉。女周歲,宮中陳晬盤,女獨取此玉,弄之不舍,因名弄玉。稍長,姿容絕世,且又聰明無比,善於吹笙,不由樂師,自成音調。穆公命巧匠,剖此美玉為笙。女吹之,聲如鳳鳴。穆公鐘愛其女,築重樓以居之,名曰鳳樓。樓前有高臺,亦名鳳臺。弄玉年十五,穆公欲為之求佳婿。弄玉自誓曰:「必得善笙人,能與我唱和者,方是我夫,他非所願也。」穆公使人遍訪,不得其人。忽一日,弄玉於樓上捲帘閒看,見天淨雲空,月明如鏡,呼侍兒焚香一炷,取碧玉笙,臨窗吹之。聲音清越,響入天際,微風拂拂,忽若有和之者。其聲若遠若近。弄玉心異之,乃停吹而聽,其聲亦止,餘音猶嫋嫋不斷。弄玉臨風惘然,如有所失,徙倚夜半,月昃香消,乃將玉笙置於床頭,勉強就寢。夢見西南方,天門洞開,五色霞光,照耀如晝。一美丈夫羽冠鶴氅,騎彩鳳自天而下,立於鳳臺之上,謂弄玉曰:「我乃太華山之主也。上帝命我與爾結為婚姻,當以中秋日相見,宿緣應爾。」乃於腰間解赤玉簫,倚欄吹之。其彩鳳亦舒翼鳴舞,鳳聲與簫聲,唱和如一,宮商協調,喤喤盈耳。弄玉神思俱迷,不覺問曰:「此何曲也?」美丈夫對曰:「此《華山吟》第一弄也。」弄玉又問曰:「曲可學乎?」美丈夫對曰:「既成姻契,何難相授?」言畢,直前執弄玉之手。弄玉猛然驚覺,夢中景象,宛然在目。及旦,自言於穆公。乃使孟明以夢中形像,於太華山訪之。有野夫指之曰:「山上明星巖,有一異人,自七月十五日至此,結廬獨居,每日下山沽酒自酌。至晚,必吹簫一曲,簫聲四徹,聞者忘臥,不知何處人也。」孟明登太華山,至明星巖下,果見一人羽冠鶴氅,玉貌丹唇,飄飄然有超塵出俗之姿。孟明知是異人,上前揖之,問其姓名。對曰:「某蕭姓,史名。足下何人?來此何事?」孟明曰:「某乃本國右庶長,百里視是也。吾主為愛女擇婿,女善吹笙,必求其匹。聞足下精於音樂,吾主渴欲一見,命某奉迎。」蕭史曰:「某粗解宮商,別無他長,不敢辱命。」孟明曰:「同見吾主,自有分曉。」乃與共載而回。孟明先見穆公,奏知其事,然後引蕭史入謁。穆公坐於鳳臺之上,蕭史拜見曰:「臣山野匹夫,不知禮法,伏祈矜宥!」穆公視蕭史形容瀟灑,有離塵絕俗之韻,心中先有三分歡喜;乃賜坐於旁,問曰:「聞子善簫,亦善笙乎?」蕭史曰:「臣止能簫,不能笙也。」穆公曰:「本欲覓吹笙之侶,今簫與笙不同器,非吾女匹也。」顧孟明使引退。弄玉遣侍者傳語穆公曰:「簫與笙一類也。客既善簫,何不一試其長?奈何令懷技而去乎?」穆公以為然,乃命蕭史奏之。蕭史取出赤玉簫一枝,玉色溫潤,赤光照耀人目,誠希世之珍也。纔品一曲,清風習習而來,奏第二曲,彩雲四合,奏至第三曲,見白鶴成對,翔舞於空中,孔雀數雙,棲集於林際,百鳥和鳴,經時方散。穆公大悅。時弄玉於簾內,窺見其異,亦喜曰:「此真吾夫矣!」穆公復問蕭史曰:「子知笙簫何為而作?始於何時?」蕭史對曰:「笙者,生也;女媧氏所作,義取發生,律應太簇。簫者,肅也;伏羲氏所作,義取肅清,律應仲呂。」穆公曰:「試詳言之。」蕭史對曰:「臣執藝在簫,請但言簫。昔伏羲氏,編竹為簫,其形參差,以象鳳翼;其聲和美,以象鳳鳴。大者謂之,『雅簫』,編二十三管,長尺有四寸;小者謂之『頌簫』,編十六管,長尺有二寸。總謂之簫管。其無底者,謂之『洞簫』。其後黃帝使伶倫伐竹於昆谿,製為笛,橫七孔,吹之,亦象鳳鳴,其形甚簡。後人厭簫管之繁,專用一管而豎吹之。又以長者名簫,短者名管。今之簫,非古之簫矣。」穆公曰:「卿吹簫,何以能致珍禽也?」史又對曰:「簫製雖減,其聲不變,作者以象鳳鳴,鳳乃百鳥之王,故皆聞鳳聲而翔集也。昔舜作簫韶之樂,鳳凰應聲而來儀。鳳且可致,況他鳥乎?」蕭史應對如流,音聲洪亮。穆公愈悅,謂史曰:「寡人有愛女弄玉,頗通音律,不欲歸之盲婿,願以室吾子。」蕭史歛容再拜辭曰:「史本山僻野人,安敢當王侯之貴乎?」穆公曰:「小女有誓願在前,欲擇善笙者為偶,今吾子之簫,能通天地,格萬物,更勝於笙多矣。況吾女復有夢徵,今日正是八月十五中秋之日,此天緣也,卿不能辭。」蕭史乃拜謝。穆公命太史擇日婚配,太史奏今夕中秋上吉,月圓於上,人圓於下。乃使左右具湯沐,引蕭史潔體,賜新衣冠更換,送至鳳樓,與弄玉成親。夫妻和順,自不必說。 次早,穆公拜蕭史為中大夫。蕭史雖列朝班,不與國政,日居鳳樓之中,不食火食,時或飲酒數杯耳。弄玉學其導氣之方,亦漸能絕粒。蕭史教弄玉吹蕭,為《來鳳》之曲。約居半載,忽然一夜,夫婦於月下吹簫,遂有紫鳳集於臺之左,赤龍盤於臺之右。蕭史曰:「吾本上界仙人,上帝以人間史籍散亂,命吾整理。乃以周宣王十七年五月五日,降生於周之蕭氏,為蕭三郎。至宣王末年,史官失職,吾乃連綴本末,備典籍之遺漏。周人以吾有功於史,遂稱吾為蕭史,今歷一百十餘年矣。上帝命我為華山之主,與子有夙緣,故以簫聲作合,然不應久住人間。今龍鳳來迎,可以去矣。」弄玉欲辭其父,蕭史不可,曰:「既為神仙,當脫然無慮,豈容於眷屬生係戀耶?」於是蕭史乘赤龍,弄玉乘紫鳳,自鳳臺翔雲而去。(今人稱佳婿為「乘龍」,正謂此也。)是夜,有人於太華山聞鳳鳴焉。次早,宮侍報知穆公。穆公惘然,徐嘆曰:「神仙之事,果有之也!倘此時有龍鳳迎寡人,寡人視棄山河,如棄敝屣耳!」命人於太華蹤跡之,杳然無所見聞。遂立祠於明星巖,歲時以酒果祀之,至今稱為蕭女祠,祠中時聞鳳鳴也。六朝鮑照有《蕭史曲》云: 蕭史愛少年,嬴女童顏。火粒願排棄,霞霧好登攀。龍飛逸天路,鳳起出秦關。身去長不返,簫聲時往還。 又江總亦有詩云: 弄玉秦家女,蕭史仙處童。來時兔月滿,去後鳳樓空。密笑開還斂,浮聲咽更通。相期紅粉色,飛向紫煙中。 穆公自是厭言兵革,遂超然有世外之想。以國政專任孟明,日修清淨無為之業。未幾,公孫枝亦卒。孟明薦子車氏之三子,奄息、仲行、鍼虎並有賢德,國中稱為「三良」。穆公皆拜為大夫,恩禮甚厚。又三年,為周襄王三十一年春二月望目,穆公坐於鳳臺觀月,想念其女弄玉,不知何往,更無會期,驀然睡去。夢見蕭史與弄玉,控一鳳來迎,同游廣寒之宮,清冷徹骨。既醒,遂得寒疾,不數日薨,人以為仙去矣。在位三十九年,年六十九歲。穆公初娶晉獻公女,生太子罃,至是即位,是為康公。葬穆公於雍。用西戎之俗,以生人殉葬,凡用一百七十七人。子車氏之三子亦與其數。國人哀之,為賦《黃鳥》之詩。詩見《毛詩.國風》。後人論穆公用「三良」殉葬,以為死而棄賢,失貽謀之道。惟宋蘇東坡學士有題秦穆公墓詩,出人意表。詩云: 橐泉在城東,墓在城中無百步,乃知昔未有此城,秦人以此識公墓。昔公生不誅孟明,豈有死之日,而忍用其良?乃知三子殉公意,亦如齊之二子從田橫。古人感一飯,尚能殺其身。今人不復見此等,乃以所見疑古人。古人不可望,今人益可傷! 話分兩頭。卻說晉襄公六年,立其子夷皋為世子,使庶弟公子樂出仕於陳。是年,趙衰、欒枝、先且居、胥臣先後皆卒,連喪四卿,位署俱虛。明年,乃大蒐車徒於夷,舍二軍,仍復三軍之舊。襄公欲使士穀梁益耳將中軍,使箕鄭父先都將上軍。先且居之子先克進曰:「狐趙有大功於晉,其子不可廢也。且士穀位司空,與梁益耳俱未有戰功,驟為大將,恐人心不服。」襄公從之。乃以狐射姑為中軍元帥,趙盾佐之;以箕鄭父為上軍元帥,荀林父佐之;以先蔑為下軍元帥,先都佐之。狐射姑登壇號令,指揮如意,傍若無人。其部下軍司馬臾駢諫曰:「駢聞之:『師克在和。』今三軍之師,非夙將,即世臣也。元帥宜虛心諮訪,常存謙退。夫剛而自矜,子玉所以敗於晉也,不可不戒。」射姑大怒,喝曰:「吾發令之始,匹夫何敢亂言,以慢軍士?」叱左右鞭之一百。眾人俱有不服之意。再說士穀梁益耳聞先克阻其進用,心中大恨。先都不得上軍元帥之職,亦深恨之。時太傅陽處父聘於衛,不與其事。及處父歸國,聞狐射姑為元帥,乃密奏於襄公曰:「射姑剛而好上,不得民心,此非大將之才也。臣曾佐子餘之軍,與其子盾相善,極知盾賢而且能。夫尊賢使能,國之令典。君如擇帥,無如盾者。」襄公用其言,乃使陽處父改楥蒐於董。狐射姑未知易帥之事,欣然長中軍之班,襄公呼其字曰:「賈季,向也寡人使盾佐吾子,今吾子佐盾。」射姑不敢言,唯唯而退。襄公乃拜趙盾為中軍元帥,而使狐射姑佐之。其上軍下軍如故。趙盾自此當國,大修政令,國人悅服。有人謂陽處父曰:「子孟言無隱,忠則忠矣,獨不虞取怨於人乎?」處父曰:「苟利國家,何敢避私怨也?」次日,狐射姑獨見襄公,問曰:「蒙主公念先人之微勞,不以臣為不肖,使司戎政;忽然更易,臣未知罪。意者以先臣偃之勳,不如衰乎?抑別有所謂耶?」襄公曰:「無他也。陽處父謂寡人,言吾子不得民心,難為大將。是以易之。」射姑嘿然而退。 是年秋,八月,晉襄公病,將死,召太傅陽處父,上卿趙盾及諸臣,在榻前囑曰:「寡人承父業,破狄伐秦,未嘗挫銳氣於外國。今不幸命之不長,將與諸卿長別。太子夷皋年幼,卿等宜盡心輔佐,和好鄰國,不失盟主之業可也。」群臣再拜受命。襄公遂薨。次日,群臣欲奉太子即位。趙盾曰:「國家多難,秦狄為仇,不可以立幼主。今杜祁之子公子雍,見仕於秦,好善而長,可迎之以嗣大位。」群臣莫對。狐射姑曰:「不如立公子樂。其母,君之嬖也。樂仕於陳,而陳素睦於晉,非若秦之為怨,迎之,則朝發而夕至矣。」趙盾曰:「不然。陳小而遠,秦大而近。迎君於陳不加睦,而迎於秦,可以釋怨而樹援,必公子雍乃可。」眾議方息。乃使先蔑為正使,士會副之,如秦報喪,因迎公子雍為君。將行,荀林父止之曰:「夫人太子皆在,而欲迎君於他國,恐事之不成,將有他變。子何不託疾以辭之?」先蔑曰:「政在趙氏,何變之有?」林父謂人曰:「『同官為僚。』吾與士伯為同僚,不敢不盡吾心。彼不聽吾言,恐有去日,無來日矣。」不說先蔑往秦。且說狐射姑見趙盾不從其言,怒曰:「狐趙等也。今有趙其無狐耶?」亦陰使人召公子樂於陳,將為爭立之計。早有人報知趙盾。盾使其客公孫杵臼,率家丁百人,伏於中路,候公子樂行過,要而殺之。狐射姑益怒曰:「使趙孟有權者,陽處父也。處父族微無援,今出宿郊外,主諸國會葬之事,刺之易耳。盾殺公子樂,我殺處父,不亦可乎?」乃與其弟狐鞫居謀。鞫居曰:「此事吾力能任之。」與家人詐為盜,夜半踰牆而入,處父尚秉燭觀書,鞫居直前擊之,中肩。處父驚而走,鞫居逐殺之,取其首以歸。陽處父之從人,有認得鞫居者,走報趙盾。盾佯為不信,叱曰:「陽太傅為盜所害,安敢誣人?」令人收殮其屍。此九月中事。 至冬十月,葬襄公於曲沃。襄夫人穆嬴同太子夷皋送葬,謂趙盾曰:「先君何罪?其適嗣亦何罪?乃舍此一塊肉,而外求君於他國耶?」趙盾曰:「此國家大事,非盾一人之私也。」葬畢,奉主入廟。趙宣子即廟中謂諸大夫曰:「先君惟能用刑賞,以伯諸侯。今君柩在殯,而狐鞫居擅殺太傅,為諸臣者,誰不自危?此不可不討也!」乃執鞫居付司冠,數其罪而斬之。即於其家,搜出陽處父之首,以線縫於頸而葬之。狐射姑懼趙盾已知其謀,乃夜乘小車,出奔翟國,投翟主白暾去訖。 時翟國有長人曰僑如,身長一丈五尺,謂之長翟。力舉千鈞,銅頭鐵額,瓦礫不能傷害。白暾用之為將,使之侵魯。文公使叔孫得臣帥師拒之。時值冬月,凍霧漫天,大夫富父終甥,知將雨雪,進計曰:「長翟驍勇異常,但可智取,不可力敵。」乃於要道,深掘陷坑數處,將草蓐掩蓋,上用浮土。是夜果降大雪,鋪平地面,不辨虛實。富父終甥引一枝軍,去劫僑如之寨。僑如出戰,終甥詐敗,僑如奮勇追殺。終甥留下暗號,認得路徑,沿坑而走。僑如隨後趕來,遂墜於深坑之中。得臣伏兵悉起,殺散翟兵。終甥以戈刺僑如之喉而殺之,取其屍載以大車,見者都駭,以為防風氏之骨,不是過也。得臣適生長子,遂名曰叔孫僑如,以志軍功。自此魯與齊衛合兵伐翟,白暾走死,遂滅其國。狐射姑轉入赤翟潞國,依潞大夫酆舒。趙盾曰:「賈季,吾先人同時出亡者,左右先君,功勞不淺。吾誅鞫居,正以安賈季也。彼懼罪而亡,何忍使孤身棲止於翟境乎?」乃使臾駢送其妻子往潞。臾駢喚集家丁,將欲起行。眾家丁稟曰:「昔蒐夷之日,主人盡忠於狐帥,反被其辱,此仇不可不報。今元帥使主人押送其妻孥,此天賜我也。當盡殺之,以雪其恨!」臾駢連聲曰:「不可,不可!元帥以送孥見委,寵我也。元帥送之,而我殺之,元帥不怒我乎?乘人之危,非仁也;取人之怒,非智也。」乃迎其妻子登車,將家財細細登籍,親送出境,毫無遺失。射姑聞之,嘆曰:「吾有賢人而不知,吾之出奔宜也!」趙盾自此重臾駢之人品,有重用之意。 再說先蔑同士會如秦,迎公子雍為君。秦康公喜曰:「吾先君兩定晉君,當寡人之身,復立公子雍,是晉君世世自秦出也。」乃使白乙丙率車四百乘,送公子雍於晉。 卻說襄夫人穆嬴自送葬歸朝之後,每日侵晨,必抱太子夷皋於懷,至朝堂大哭,謂諸大夫曰:「此先君適子也,奈何棄之!」既散朝,則命車適於趙氏,向趙盾頓首曰:「先君臨終,以此子囑卿,盡心輔佐。君雖棄世,言猶在耳。若立他人,將置此子於何地耶?不立吾兒,吾子母有死而已。」言畢,號哭不已。國人聞之,無不哀憐穆嬴,而歸咎於趙盾。諸大夫亦以迎雍失策為言。趙盾患之,謀於郤缺曰:「士伯已往秦迎長君矣,何可再立太子?」缺曰:「今日舍幼子而立長君,異日幼子漸長,必然有變。可亟遣人往秦,止住士伯為上。」盾曰:「先定君,然後發使,方為有名。」即時會集群臣,奉夷皋即位,是為靈公,時年纔七歲耳。 百官朝賀方畢,忽邊諜報稱:「秦遣大兵送公子雍已至河下。」諸大夫曰:「我失信於秦矣,何以謝之?」趙盾曰:「我若立公子雍,則秦吾賓客也。既不受其納,是敵國矣。使人往謝,彼反有辭於我,不如以兵拒之。」乃使上軍元帥箕鄭父輔靈公居守。盾自將中軍。先克為副,以代狐射姑之職。荀林父獨將上軍。先都因先蔑往秦,亦獨將下軍。三軍整頓,出迎秦師,屯於廑陰。秦師已濟河而東,至令狐下寨。聞前有晉軍,猶以為迎公子雍而來,全不戒備。先蔑先至晉軍來見趙盾。盾告以立太子之故。先蔑睜目視曰:「謀迎公子,是誰主之?今又立太子而拒我乎?」拂袖而出,見荀林父曰:「吾悔不聽子言,以至今日。」林父止之曰:「子,晉臣也。舍晉安歸?」先蔑曰:「我受命往秦迎雍,則雍是我主,秦為吾主之輔。豈可自背前言,苟圖故鄉之富貴乎?」遂奔秦寨。趙盾曰:「士伯不肯留晉,來日秦師必然進逼,不如乘夜往劫秦寨,出其不意,可以得志。」遂出令秣穀飼馬,軍士於寢蓐飽食,銜枚疾走,比至秦寨,恰好三更,一聲吶喊,鼓角齊鳴,殺入營門。秦師在睡夢中驚覺,馬不及披甲,人不及操戈,四下亂竄。晉兵直追至刳首之地,白乙丙死戰得脫,公子雍死於亂軍之中。先蔑嘆曰:「趙孟背我,我不可背秦!」乃奔秦。士會亦嘆曰:「吾與士伯同事,士伯既往秦,吾不可以獨歸也!」亦從秦師而歸。秦康公俱拜為大夫。荀林父言於趙盾曰:「昔賈季奔狄,相國念同僚之義,歸其妻孥。今士隨伯季與某亦有僚誼,願效相國昔日之事。」趙盾曰:「荀伯重義,正合吾意。」遂令衛士送兩宅家眷及家財於秦。胡曾先生有詩去: 誰當越境送妻孥?只為同僚義氣多。近日人情相忌刻,一般僚誼卻如何? 又髯翁有詩,譏趙宣子輕於迎雍,以賓為寇: 奕棋下子必躊躇,有嫡如何又外求?賓寇須臾成反覆,趙宣謀國是何籌? 按此一戰,各軍將皆有俘獲,惟先克部下驍將蒯得,貪進不顧,為秦所敗,反喪失戎車五乘。先克欲按軍法斬之,諸將皆代為哀請。先克言於趙盾,乃奪其田祿。蒯得恨恨不已。 再說箕鄭父與士穀梁益耳素相厚善,自趙盾升為中軍元帥,士穀梁益耳俱失了兵柄,連箕鄭父也有不平之意。時鄭父居守,士穀梁益耳俱聚做一處,說起:「趙盾廢置自由,目中無人。今聞秦以重兵送公子雍,若兩軍相持,急未能解,我這里從中為亂,反了趙盾,廢夷皋迎公子雍,大權皆歸於吾黨之手。」商議已定。不知成敗如何,且看下回分解。
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