東周列國志第四十九回 公子鮑、厚く施して国を買う/斉の懿公、竹池で変に遇う (公子鮑厚施買國 齊懿公竹池遇變)
士会、無事に晋へ帰る
- さて士会は寿餘とともに黄河を渡り、東へ向かった。一里も行かぬうちに、一人の若い将軍が一隊の軍馬を率いて出迎え、車上で身をかがめて会釈し、言った。「隨季(士会)、お変わりありませんか」。士会が近づいて見ると、その将軍は姓を趙、名を朔といい、趙相国盾の子であった。三人は車を降りて挨拶を交わした。士会がその来意を尋ねると、朔は「私は父の命を受け、あなたに呼応して迎え、後詰めとなって朝廷にお連れするために参りました。後にはさらに大軍が控えております」と言った。ちょうどそこへ砲声が一つ轟き、車は水のごとく馬は龍のごとく、取り巻いて士会と寿餘を晋へと連れて行った。
- 秦の康公は人を遣わして河の対岸を見張らせたが、その報告を聞いて大いに怒り、河を渡って晋を討とうとした。しかし前哨からまた「河東に大軍が到着したのが確認され、大将は荀林父・郤缺の二人である」との報告が入った。西乞術は「晋にはすでに大軍が呼応して後詰めに就いている、必ず我らの渡河を許さないだろう、帰るに越したことはない」と言ったので、康公は兵を引き上げた。荀林父らは秦軍がすでに去ったのを見て、これもまた晋に帰った。
- 士会は秦に身を寄せて三年、この日ようやく再び絳城に入り、感慨に堪えなかった。霊公に謁見し、上半身を肌脱ぎにして罪を謝した。霊公は「卿に罪はない」と言い、六卿の列に加えた。趙盾は魏寿餘の功を称え、霊公に言上して戦車十乗を賜らせた。秦の康公は人を遣わして士会の妻子を晋に送り、「私は黄河の誓いに背かなかった」と言わせた。士会は康公の義に感じ、書状を送って謝意を伝え、あわせて兵を休め民を養い、それぞれ四境を保つよう勧めた。康公はこれに従った。これより秦晋は数十年にわたって兵を交えなかった。
匡王即位、楚荘王嗣立と趙盾の会盟
- 周の頃王六年、崩御し、太子班が即位した。これが匡王である。晋の霊公の八年にあたる。この頃、楚の穆王が薨じ、世子の旅が位を嗣いだ。これが荘王である。趙盾は楚に新たに喪があることに乗じ、先代の盟主の業を取り戻そうと考え、諸侯を新城に大いに会盟させた。宋の昭公・杵臼、魯の文公・興、陳の霊公・平国、衛の成公・鄭、鄭の穆公・蘭、許の昭公・錫我らが、皆この会に集まった。宋・陳・鄭の三国の君は、それぞれ先に楚に従った事情を訴え、やむを得ずのことであったと弁明した。趙盾もそれぞれを慰め、諸侯は再び晋に付き従うようになった。ただ蔡侯だけは以前のまま楚に付いて、会に赴こうとしなかった。趙盾は郤缺に軍を率いさせて蔡を討たせ、蔡人が和を求めたので、軍を引き返した。
斉懿公商人、簒位す
- 斉の昭公・潘は、もともとこの会盟に赴くつもりであったが、たまたま病にかかり、盟の期日に間に合わないうちに、昭公は薨じた。太子の舎が即位した。その母は魯の公女・子叔姫で、昭姫と呼ばれた。昭姫は昭公の夫人ではあったが、それほど寵愛を得ていなかった。世子の舎は才も人望も凡庸で、国人にもさほど敬われていなかった。
- 公子商人は、斉の桓公の妾・密姫の子で、もとより簒位の志を抱いていたが、昭公が彼を大変厚遇していたため、その念はしばらく抑えられ、昭公の死後を待って事を起こそうとしていた。昭公の晩年、公子元を衛から召して国政を任せた。商人は公子元の賢明さを妬み、人心を得ようと考え、自らの家財をすべて出して貧民に施し、足りない者には貸し与えて援助したので、民衆は皆感激した。また多くの死を覚悟した勇士を家に集め、朝夕鍛錬させ、出入りには常に付き従わせた。
- 世子舎が即位すると、たまたま彗星が北斗に現れた。商人は人にこれを占わせたところ、「宋・斉・晋の三国の君は、皆乱によって死ぬだろう」との答えを得た。商人は「斉を乱すのは、私でなくて誰であろうか」と言い、死を覚悟した勇士たちに命じて喪の幕の中で世子舎を刺し殺させた。商人は公子元が年長であることから、偽って言った。「舎には人君の威厳がなく、大位に留まるべきではありませんでした。私がこの挙に出たのは、兄上のためを思ってのことです」。公子元は大いに驚いて言った。「私はお前が君になりたがっていたことを、もう長く知っていた。どうして私を巻き込むのだ。私はお前に仕えることはできるが、お前が私に仕えることはできまい。ただお前が君になった後は、私を斉国の一匹夫として過ごさせ、寿命を全うさせてもらえれば、それで十分だ」。商人はそのまま即位した。これが懿公である。公子元は商人の所業を心中憎み、門を閉ざして病と称し、生涯朝廷に出ることはなかった(底本は「終身入朝」に作るが、前文の「閉門托病」から「終身不入朝」の意に解した)。これは公子元のよきところであった。
昭姫の幽閉と単伯拘束事件
- さて昭姫は、その子が非業の死を遂げたことを悲しみ、日夜泣き続けた。懿公はこれを憎み、別室に幽閉して飲食を制限した。昭姫はひそかに宮人に賄賂を贈り、魯へ通信させた。魯の文公は斉の強大さを恐れ、大夫の東門遂を周に遣わして匡王に訴え、天子の威光を借りて昭姫の幽閉を解いてもらおうとした。匡王は単伯を斉に遣わし、懿公に告げさせた。「すでにその子を殺したのだ、どうしてその母まで幽閉するのか。魯に帰して、斉の寛大な徳を示してはどうか」。懿公は舎を弑した事実を隠しており、「その子を殺した」との言葉を聞くと、顔を真っ赤にして黙り込んだ。単伯は退いて客館に留まった。
- 懿公は昭姫を別の宮に移し、人を遣わして単伯を誘って言わせた。「わが君は国母(昭姫)に対して敢えて怠慢に扱ってはおりません。まして天子の諭を受けたからには、承らないわけがございましょうか。あなたはなぜ国母にお目にかかり、天子が同姓の一族の国である魯を気にかけておられるお心をお伝えにならないのですか」。単伯はこれを好意と思い込み、車を仕立てて使者について宮中に入り、昭姫に謁見した。昭姫は涙を流し、簡単に苦しい事情を訴えたが、単伯がまだ答えぬうちに、思いがけず懿公が外から乗り込んできて、大いに罵った。「単伯はなぜ勝手にわが宮に入り、国母と密会して、みだらな事をしようというのか。寡人はこのことを天子に訴えるぞ」。そして単伯もともに拘禁し、昭姫とはそれぞれ別室に閉じ込めた。懿公は魯人が王命を盾に自分を圧迫したことを恨み、兵を挙げて魯を伐った。
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論者はこう評する。懿公は幼君を弑し、国母を幽閉し、天子の使者を拘束し、隣国に暴虐を働いた、凶悪の極みであるのに、天理がどうしてこれを容認できようか。ただ当時、高氏・国氏という代々の重臣が朝廷に居並んでいたのに、なぜ公子元を奉じて商人の罪を鳴らそうとせず、その凶悪に任せきりで一言も発しなかったのか。当時の事の成り行きは、まことに嘆かわしいものであった。詩に言う。
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(詩:大位を図ろうとして孤児となった主君を欺いたこと、まず家財を散じて庶民の心を買ったこと、朝廷に居並ぶ印綬を帯びた高官たちが、市井の者と同じように凶悪な人物に媚びたことこそ恨めしい、と詠む)
扈の会盟、伐斉は中止され斉魯和す
- 魯は上卿の季孫行父を晋に遣わして急を告げた。晋の趙盾は霊公を奉じ、宋・衛・蔡・陳・鄭・曹・許の諸侯を、晋を合わせて八国として扈の地に集め、斉を討つことを協議した。斉の懿公は晋に賄賂を贈り、あわせて単伯を周に返し、昭姫を魯に返した。諸侯はそこで解散し、それぞれの国へ帰った。魯は晋が結局斉を討たなかったことを知ると、また公子遂を遣わして斉に賄賂を贈り、和を求めた。これはこれ以上語らない。
宋昭公の治世と王姫の乱
- さて宋の襄公の夫人・王姫は、周の襄王の姉であり、宋の成公・王臣の母、昭公・杵臼の祖母にあたる。昭公は世子であったころから、公子卬・公孫孔叔・公孫鐘離の三人と、狩猟や遊興を通じて親しかった。即位してからは、この三人の言うことばかりを聞き入れ、六卿を用いず、祖母のもとへも朝見せず、公族を疎んじ、民政を怠り、日々狩猟を楽しみとした。司馬の楽豫は宋国が必ず乱れることを見越し、その官職を公子卬に譲った。司城の公孫寿もまた禍が及ぶことを恐れ、老いを理由に政を退き、昭公はその子・蕩意諸を用いて司城の官を継がせた。
- 襄夫人の王姫は年老いてなお淫らで、昭公の庶弟である公子鮑は、婦人にもまさる美貌の持ち主であった。襄夫人は彼を深く愛し、酒に酔わせて無理に関係を結び、彼を君に立てることを約束した。そして昭公を廃して公子鮑を立てようとした。昭公は穆・襄の一族の勢力が強大であることを恐れ、公子卬らと謀ってこれを排除しようとした。王姫はこれをひそかに二族に告げたため、二族は乱を起こし、公子卬・公孫鐘離の二人を朝門で包囲して殺した。司城の蕩意諸は恐れて魯へ出奔した。公子鮑は日頃から六卿を敬い仕えていたので、この時、国内に留まっていた諸卿とともに二族と和を講じ、勝手に人を殺した件は追及しなかった。蕩意諸を魯から呼び戻し、その地位を回復させた。
公子鮑、民心を買い襄夫人と昭公弑殺を謀る
- 公子鮑は、斉の公子商人が手厚い施しによって人心を買い、斉の位を簒奪したことを聞き、これにならって自らも家財を散じて貧民に施した。昭公七年、宋国は不作の年で、公子鮑は倉庫の穀物をすべて出して貧しい者を救った。また老人を敬い賢者を尊び、国中で七十歳以上の者には毎月粟と帛を送り、あわせて美味な食事を供し、人を遣わして安否を尋ねさせた。一芸に秀でた者があれば、皆自分の門下に召し抱え、厚くもてなした。公卿大夫の家には毎月贈り物をした。同族には親疎を問わず、吉凶の費用があればすべて自分の財布から助けた。
- 昭公八年、宋は再び大飢饉となり、公子鮑の倉庫はすでに底をついたが、襄夫人は宮中の蓄えをすべて出して施しを助けた。国じゅうの人々が公子鮑の仁を称えぬ者はなかった。宋国の人々は、身分の高低や親疎を問わず、誰もが公子鮑を君に戴くことを願うようになった。公子鮑は国人が自分を助けようとしていることを知り、ひそかに襄夫人に告げて昭公を弑する謀を相談した。襄夫人は言った。「杵臼(昭公)は孟諸の沢へ狩りに出ると聞く。彼が出立する隙に乗じて、私は公子須に門を閉じさせよう。あなたは国人を率いてこれを攻めれば、必ず成功するだろう」。鮑はその言葉に従った。
昭公、蕩意諸の諫めも聞かず出猟し弑される
- 司城の蕩意諸は賢名が高く、公子鮑も日頃から彼を敬い礼を尽くしていた。ここに至って、襄夫人の謀を聞き知り、昭公に告げて言った。「君は狩りに出てはなりません、もし出られれば、戻れなくなる恐れがございます」。昭公は「もし彼らが逆謀を企てているなら、たとえ国の中にいても免れられまい」と言い、右師の華元、左師の公孫友に留守を任せ、府庫の宝をすべて積んで側近とともに、冬十一月、孟諸をめざして進発した。
- ようやく城を出たところで、襄夫人は華元・公孫友を宮中に留め置かせ、公子須には門を閉じさせた。公子鮑は司馬の華耦に軍中で号令させた。「襄夫人のご命令である。今日、公子鮑を君に立てる。我らは無道の愚かな君主を除き、共に道理ある君主を戴こう、皆はどう思うか」。兵士たちは皆奮い立って「命に従います」と言った。国人もまた喜んで従わぬ者はなかった。華耦は衆を率いて城を出て、昭公を追いかけた。
- 昭公は道半ばでこの変事を聞いた。蕩意諸は昭公に他国へ出奔して後の再挙を図るよう勧めたが、昭公は言った。「上は祖母から下は国人に至るまで、皆寡人を仇としている。どの諸侯が私を受け入れてくれようか。他国で死ぬよりは、むしろ故郷で死のう」。そこで令を出して車を止め食事の支度をさせ、狩りに従う者たちに皆腹一杯食べさせた。食べ終わると、昭公は左右の者に言った。「罪は寡人一身にある、お前たちに何の関わりがあろうか。お前たちは数年の間、私に付き従ってくれた、何も贈るものがない、今、国中の宝玉はすべてここにある、これをお前たちに分け与える、それぞれ逃げて生き延びよ、寡人と一緒に死ぬことはない」。左右の者は皆哀しみ泣いて言った。「どうか君は先にお進みください、もし追手が来れば、私たちは死力を尽くして戦います」。昭公は「無駄に殺されるだけだ、益はない。寡人はここで死ぬ、お前たちは寡人に未練を残すな」と言った。
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しばらくして、華耦の軍が到着し、昭公を包囲した。襄夫人の命が伝えられた。「無道の愚かな君主のみを誅する、他の者には関わりがない」。昭公は急いで左右の者を追い散らせたが、大半の者は散り逃げ、ただ蕩意諸だけが剣を手に昭公の側に立ち続けた。華耦は再び襄夫人の命を伝え、意諸だけを呼び出そうとした。意諸は嘆いて言った。「人の臣たる者が、その難を避けるようでは、生きていても死んだも同然だ」。華耦がそのまま戈を執って昭公に迫ると、蕩意諸は身をもってこれを庇い、剣を挺んじて戦った。軍民は一斉に襲いかかり、まず意諸を殺し、次いで昭公を殺した。側を離れなかった者は、皆殺戮された。ああ、痛ましいことである。史臣に詩がある。
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(詩:かつて華督が殤公を弑したように、今日また華耦が凶行を助けたこと、賊子や乱臣にはやはり血筋というものがあり、薔薇と桃李のように善悪は異なるものであることを詠む)
文公(公子鮑)の即位
- 華耦は軍を率いて帰り、襄夫人に報告した。右師の華元、左師の公孫友らは連名で奏上した。「公子鮑は仁厚で民心を得ております、大位を嗣ぐにふさわしい方です」。そこで公子鮑を君に擁立した。これが文公である。華耦は朝賀を終えて家に帰ったところ、突然心臓の発作で急死した。文公は蕩意諸の忠義を讃え、その弟・蕩虺を用いて司馬とし、華耦の後を継がせた。母を同じくする弟・公子須は司城となり、蕩意諸の欠員を補った。
晋の宋征討と鄭の楚傾斜
- 趙盾は宋に君主弑逆の乱があったと聞き、荀林父に命じて軍を率いさせ、衛・陳・鄭の兵とともに宋を討たせた。宋の右師・華元は晋軍のもとに至り、国人が公子鮑を戴くことを願っている事情をつぶさに述べ、あわせて金帛数車を集めて軍への労いの礼とし、晋との和議を求めた。荀林父はこれを受け入れようとしたが、鄭の穆公が言った。「我らは鐘鼓を鳴らし、将軍に従って宋に来たのは、主君を弑して君なき国にした罪を討つためでした。もしその和議を許せば、乱賊はその望みを遂げることになりましょう」。荀林父は言った。「斉と宋は同じことだ。我らはすでに斉には寛大に処した、どうして宋にだけ厳しく誅罰を科せようか。しかも国人が望むところに従ってこれを定めるのも、よいことではないか」。そこで宋の華元と盟を結び、文公の地位を定めて軍を引き返した。
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鄭の穆公は退いて言った。「晋はただ賄賂を貪るのみで、名目だけあって実がない、もはや諸侯に覇を唱えることはできまい。楚王は新たに立ち、まさに征伐に乗り出そうとしている、晋を捨てて楚に従うほうが、身を安んじられよう」。そして人を遣わして楚に帰順を申し入れたが、晋にはどうすることもできなかった。髯仙に詩がある。
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(詩:義をもって残虐を除くのが覇者の道であるはずなのに、逆に兵を挙げて乱臣を助けてしまったこと、商人(斉懿公)が咎めもなく、鮑(宋文公)が位に安んじていることを、中原に丈夫が少ないと笑うほかないことを詠む)
斉懿公、邴原の墓を暴き閻職の妻を奪う
- さて斉の懿公商人は、生まれつき貪欲で横暴な性質であった。父の桓公が在位していたころ、大夫の邴原と田地の境界を争ったことがあり、桓公は管仲にその是非を裁かせたところ、管仲は商人の言い分を非として、田地を邴氏に帰した。商人はそれ以来ずっとこの一件を根に持っていた。ここに至って舎を弑して自ら位に就くと、邴氏の田をすべて奪い取り、さらに管仲が邴氏に肩入れしたことを恨み、その封邑の半分も削ってしまった。管氏の一族は罪に問われることを恐れ、楚国へ逃亡し、子孫は楚に仕えることとなった。
- 懿公はなおも邴原への恨みが尽きなかった。この時すでに邴原は亡くなっていたが、その墓が東郊にあると知り、狩りのついでにその墓所を通りかかると、兵士に命じて墓を掘らせ、屍を掘り出してその足を断った。邴原の子・邴歜は側に控えていた。懿公は「そなたの父は罪に照らして足を断つべきだったか。そなたは寡人を恨んでいないか」と問うた。歜は答えた。「臣の父は生前、刑罰を免れたこと自体すでに望外のこと、まして今はただの朽ちた骨に過ぎません、臣がどうして恨みましょうか」。懿公は大いに喜んで「そなたは父の過ちを補ってくれる子と言えよう」と言い、奪った田を返してやった。邴歜は父の屍を改めて葬ることを願い出て、懿公はこれを許した。
- 懿公はさらに国中の美女を求め続け、遊興と快楽にふけって満足することがなかった。ある人が大夫・閻職の妻がたいそう美しいと褒めたので、元日に令を出し、大夫の内子(妻)は皆、中宮(君夫人)に朝見するようにさせた。閻職の妻もその中にいた。懿公は見て心惹かれ、宮中に留め置いて帰そうとせず、閻職に言った。「夫人がそなたの妻を話し相手として気に入っている、そなたは別に妻を娶るがよい」。閻職は怒りを覚えたが、あえて口に出すことはできなかった。
申池の変、懿公弑される
- 斉の西南門に申池という地名があり、池の水は清らかで浴びるのに適していた。池のほとりには竹木が生い茂っていた。夏五月、懿公は申池へ避暑に行こうとし、邴歜に車を御させ、閻職を陪乗させた。右師の華元がひそかに諫めて言った。「主君は邴歜の父の足を断たれ、閻職の妻を奪われました。この二人がどうして主君を恨んでいないと言えましょうか。それなのに主君はこの二人を側近くに置いておられます。斉の臣下に人材が欠けているわけではございません、なぜこの二人でなければならないのですか」。懿公は「この二人はかつて寡人を恨んだことなどない、卿は疑うことはない」と言った。
- そこで車を駆って申池に遊び、酒を飲んでたいそう楽しんだ。懿公は酔いが深まり、暑さに苦しんで、刺繍を施した榻を取り寄せ、竹林の奥まった場所に置いて横たわり涼をとった。邴歜と閻職は申池の水浴びをしていた。邴歜は懿公を深く恨み、常々彼を弑して父の仇を報じたいと思っていたが、共に事をなす相手を得られずにいた。閻職に妻を奪われた恨みがあると知って相談しようとしたが、口に出しにくかったので、池で共に水浴びをしている折に一計を案じ、わざと折れた竹で閻職の頭を打った。職は怒って「なぜ私を侮るのか」と言った。邴歜は笑いながら言った。「妻を奪われてすら怒らなかったのに、一撃くらいで我慢できないのか」。閻職は言った。「妻を失ったのは私の恥に過ぎない、だが父の屍が足を断たれたことに比べれば、どちらが重いか。あなたは自分の父のことには耐えているのに、私には妻のことで我慢できないと責めるのは、なんと物分かりの悪いことか」。
- 邴歜は言った。「私には胸に秘めた思いがあり、まさにあなたに話したかったのだが、ずっと言い出せずにいた。あなたがすでに以前の恥を忘れてしまったのではと恐れていたからだ。言ったところで何の益もないだろうと思っていた」。閻職は言った。「人にはそれぞれ心があるものだ、いつ忘れようか、ただ力が及ばぬことを恨んでいるだけだ」。邴歜は言った。「今、あの凶悪な人物は酔って竹林の中で眠っている。付き従っているのは我ら二人だけだ。これは天が我らに報復の機会を与えたもうたのだ、時を逃してはならぬ」。閻職は言った。「あなたが大事を決行するなら、私も助力しよう」。
- 二人は体を拭って服を着け、共に竹林の中に入った。見れば、懿公はまさに熟睡しており、鼾は雷のようで、内侍が左右に控えていた。邴歜は「主公は酔いが覚めれば、必ず湯水を求められる、お前たちは前もって用意して待つがよい」と言った。内侍が湯水を用意しに立ち去ると、閻職は懿公の手を押さえ、邴歜はその喉を扼して、佩剣で首を刎ねた。頭は地に落ちた。(懿公の在位はわずか四年であった。)二人は屍を扶えて竹林の奥深くに隠し、その首は池に投げ捨てた。
- 内侍が湯水を持って戻ると、邴歜は言った。「商人(懿公)は君を弑して位に就いた者、斉の先君が我らに命じて誅を行わせたのだ。公子元は賢く孝行な方、君に立てるべきだ」。左右の者は皆「はい、はい」と答えるだけで、あえて一言も口を挟まなかった。邴歜と閻職は車を駆って城内に入り、改めて酒宴を開いて痛飲し、喜び合って祝った。すでに人がこれを上卿の高傾・国帰父に報告していた。高傾は「その罪を討って誅すべきではないか、後世への戒めとするために」と言ったが、国帰父は「君を弑した者を、私は討つことができなかった。その者を他人が代わりに討ってくれたのだ、彼らに何の罪があろうか」と言った。
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邴・閻の二人は飲み終えると、大車に家財を積み、二頭立ての車に妻子を乗せて、南門から出発した。家人が急いで馳せ去るよう勧めたが、邴歜は「商人は無道であった、国人は今その死を喜んでいる、私に何を恐れることがあろうか」と言い、ゆっくりと進んで、二人とも楚国へ去っていった。高傾と国帰父は群臣を集めて協議し、公子元を君に立てた。これが恵公である。髯翁に詩がある。
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(詩:仇である相手をどうして供に連れて遊山などできようか、仇に近づけば結局その仇が報復を招くこと、逆臣に遠大な策があったわけではなく、天が二人の恨みを持つ者に凶謀を果たさせたのだということを詠む)
魯文公の家系と三桓
- 話は二つに分かれる。さて魯の文公、名は興、僖公の正室・声姜の子で、周の襄王二十六年に位を嗣いだ。文公は斉の昭公の娘・姜氏を夫人として娶り、二人の子、悪と視を儲けた。その寵妾である秦の女・敬嬴もまた二人の子、倭と叔肹を儲けた。四人の子の中で倭が最年長であったが、悪は正室の子であったため、文公は悪を世子に立てた。
- 当時、魯国は三桓(三氏族)を用いて政を執っていた。孟孫氏は公孫敖といい、子に穀・難を儲けた。叔孫氏は公孫茲といい、子に叔仲彭生・叔孫得臣を儲けた。文公は彭生を世子の太傅とした。季孫氏は季無佚といい、季友の子である。無佚は行父(すなわち季文子)を儲けた。魯の荘公には庶子の公子遂がおり、また仲遂とも、東門に住むことから東門遂とも呼ばれ、僖公の代から三桓とともに国政に携わっていた。世代を論じれば、公孫敖と仲遂は再従兄弟にあたり、季孫行父はさらにその下の世代であった。公孫敖が仲遂に罪を犯し、他国で客死したため、孟孫氏は権勢を失い、逆に仲孫氏・叔孫氏・季孫氏の三家が政を執ることとなった。
公孫敖の醜聞と仲遂・敬嬴の結託
- さて公孫敖がどのようにして罪を得たかを語ろう。敖は莒の女・戴己を内子として娶った。この戴己が穀の母である。その妹・声己は難の母である。戴己が病没すると、敖は生来淫らな性質で、再び己氏の娘に求婚した。莒人は「声己どのがまだご健在です、彼女こそ後添えとなさるべきでしょう」と辞退した。敖は「私の弟・仲遂はまだ妻がおらぬ、では遂のために娶ることにしよう」と言った。莒人はこれを承諾した。
- 魯の文公七年、公孫敖は君命を受けて莒へ聘問に赴き、そのついでに仲遂のために嫁を迎えることとなった。鄢陵に至ったとき、敖は城壁に登って眺め、己氏の娘の美しさを見て、その夜のうちに己氏のもとに泊まり込み、自ら娶って家に連れ帰ってしまった。仲遂は自分の妻を奪われたことを知って大いに怒り、文公に訴えて兵をもって敖を討ちたいと願い出た。叔仲彭生が諫めて言った。「なりません。臣はこう聞いております。『兵は内にあれば乱となり、外にあれば寇となる』と。幸いにも外寇がないというのに、内乱を招いてよいものでしょうか」。文公は公孫敖を召し、己氏を莒に送り返させて、仲遂の恨みを解かせた。敖と遂の兄弟はもとのように和解した。
- 敖はなおも己氏を思い続け、翌年、周への使いを命じられ、襄王の喪を弔うことになったが、京師には行かず、弔いの品を携えたまま、ひそかに莒国へ赴き、己氏夫婦として共に暮らした。魯の文公もこれを追及しなかった。敖の子・穀を孟氏の祭祀の主とした。その後、敖はふと故国を思い出し、人を遣わして穀に伝え、穀はこれを叔父の仲遂に取り次いだ。遂は言った。「お前の父がもし帰りたいなら、必ず私が定める三つの条件を守らねばならぬ。朝廷に入らぬこと、国政に関わらぬこと、己氏を連れて来ないことだ」。穀は人を遣わして公孫敖にこれを伝えた。敖は帰国を急ぐあまり、喜んでこれを承知した。
- 敖は魯に帰って三年、果たして門を閉ざして外に出なかった。しかしある日、突然家中の財宝や金や絹をすべて持ち出して、再び莒国へ赴いてしまった。孟孫穀は父を思うあまり、年を越した翌年に病死した。その子・仲孫蔑はまだ幼く、そこで孟孫難が卿の位に立てられた。まもなく己氏が亡くなると、公孫敖は再び魯へ帰ることを思い立ち、家財をことごとく文公に献上し、あわせて仲遂にも贈り、その子・難に父の帰国を願わせた。文公はこれを許し、敖はついに帰国することとなったが、斉に至ったところで病に倒れて歩けなくなり、堂阜で死んだ。孟孫難は強く願い出て、その柩を魯に運んだ。難は罪人(敖)の子であり、しかも仲蔑の成長を待つ間の一族の祭祀の代理を務めていたため、それほど国事には深く関わらなかった。
- 季孫行父は、仲遂と彭生・得臣がいずれも叔父の世代にあたるため、何事も自ら専断することはできなかった。彭生は仁厚で、太傅の任にあった。得臣はしばしば兵権を握っていた。それゆえ仲遂と得臣の二人が、とりわけ権力を用いる立場にあった。
- 敬嬴は文公の寵愛を頼みとし、自分の子が世子になれなかったことを恨み、重い贈り物で仲遂と誼を結び、自分の子・倭を彼に託して言った。「いつか倭が君となれば、魯国はあなたと共にするつもりです」。仲遂はこの信頼に感じ入り、心中では公子倭を推戴しようという思いを抱くようになった。仲遂は考えた。「叔仲彭生は世子・悪の傅役だから、決して同調はしないだろう。しかし叔孫得臣は賄賂を好む性質だから、利益で動かすことができる」。そこで折に触れ、敬嬴から贈られた品を得臣に分け与えては、「これは嬴氏夫人が私に託されて、あなたに贈るものです」と言った。また公子倭にたびたび得臣の屋敷を訪ねさせ、謙虚に教えを請わせたので、得臣もまた心中で倭に傾くようになった。
魯文公薨去、次回への伏線
- 周の匡王四年、魯の文公十八年にあたる。この年の春、文公が薨じ、世子の悪が喪を取り仕切って即位した。各国から皆使者が弔問に訪れた。この時、斉の恵公・元は、新たに大位に就いたばかりで、商人の暴政を改めようとしていた矢先であり、特に人を遣わして魯へ、文公の葬儀に参列させた。仲遂は叔孫得臣に言った。「斉と魯は代々の誼を結んできた国柄だ。斉の桓公と魯の僖公の二君は兄弟のように親しかった。斉の孝公の代に怨みを結び、それが商人にまで及んで仇敵となった。今、公子元が新たに立ったが、わが国はまだ祝賀の使いを送っておらぬのに、彼のほうから先に葬儀への使者を遣わしてきた。これは友好を修めようという厚意であり、行って謝意を表さぬわけにはいくまい。この機会に乗じて斉と結んで援けとし、公子倭を立てる、これも一つの策ではないか」。叔孫得臣は「あなたが行かれるなら、私も同行しよう」と言った。二人は斉へ赴き、いったいどのような事を企むのか、次の回で語られる。
原文(底本)
話說士會同壽餘濟了黃河,望東而行。未及里許,只見一位年少將軍,引著一隊軍馬來迎,在車上欠身曰:「隨季別來無恙?」士會近前視之,那將軍姓趙名朔,乃趙相國盾之子也。三人下車相見。士會問其來意,朔曰:「吾奉父命,前來接應吾子還朝,後面復有大軍至矣。」當下一聲砲響,車如水,馬如龍,簇擁士會同壽餘入晉去了。秦康公使人隔河瞭望,回報康公,大怒,便欲濟河伐晉。前哨又報:「探得河東復有大軍到來,大將乃是荀林父郤缺二人。」西乞術曰:「晉既有大軍接應,必不容我濟河,不如歸也。」乃班師。荀林父等見秦軍已去,亦還晉國。士會去秦三載,今日復進絳城,不勝感慨。入見靈公,肉袒謝罪。靈公曰:「卿無罪也。」使列於六卿之間。趙盾嘉魏壽餘之勞,言於靈公,賜車十乘。秦康公使人送士會之妻孥於晉,曰:「吾不負黃河之誓也!」士會感康公之義,致書稱謝,且勸以息兵養民,各保四境。康公從之。自此秦晉不交兵者數十年。 周頃王六年,崩,太子班即位,是為匡王。即晉靈公之八年也。時楚穆王薨,世子旅嗣位,是為莊王。趙盾以楚新有喪,乘此機會,思復先世盟主之業,乃大合諸侯於新城。宋昭公杵臼、魯文公興、陳靈公平國、衛成公鄭、鄭穆公蘭、許昭公錫我,並至會所。宋、陳、鄭三國之君,各訴前日從楚之情,出於不得已。趙盾亦各各撫慰,諸侯始復附於晉。惟蔡侯附楚如故,不肯赴會。趙盾使郤缺引軍伐之,蔡人求和,乃還。 齊昭公潘,本欲赴會,適患病,未及盟期,昭公遂薨。太子舍即位。其母乃魯女子叔姬,謂之昭姬。昭姬雖為昭公夫人,不甚得寵。世子舍才望庸常,亦不為國人所敬重。公子商人,齊桓公之妾密姬所生,素有篡位之志,賴昭公待之甚厚,此念中沮,欲候昭公死後,方舉大事。昭公末年,召公子元於衛,任以國政。商人忌公子元之賢,意欲結納人心,乃盡出其家財,周卹貧民,如有不給,借貸以繼之,百姓無不感激。又多聚死士在家,朝夕訓練,出入跟隨。及世子舍即位,適彗星出於北斗,商人使人占之。曰:「宋、齊、晉三國之君,皆將死亂。」商人曰:「亂齊者,非我而誰?」命死士即於喪幕中,刺殺世子舍。商人以公子元年長,乃偽言曰:「舍無人君之威,不可居大位,吾此舉為兄故也。」公子元大驚曰:「吾知爾之求為君也久矣,何乃累我?我能事爾,爾不能事我也。但爾為君以後,得容我為齊國匹夫,以壽終足矣!」商人即位,是為懿公。子元心惡商人之所為,閉門托病,終身入朝。此乃是公子元的好處。 且說昭姬痛其子死於非命,日夜悲啼。懿公惡之,乃囚於別室,節其飲食。昭姬陰賂宮人,使通信於魯。魯文公畏齊之強,命大夫東門遂如周,告於匡王,欲借天子恩寵,以求釋昭姬之囚。匡王命單伯往齊,謂懿公曰:「既殺其子,焉用其母,何不縱之還魯,以明齊之寬德?」懿公諱弒舍之事,聞「殺子」之語,面頰發赤,嘿然無語。單伯退就客館。懿公遷昭姬於他宮,使人誘單伯曰:「寡君於國母未之敢慢。況承天子降諭,敢不承順?吾子何不謁見國母,使知天子眷顧宗國之意?」單伯只道是好話,遂駕車隨使者入宮謁見昭姬。昭姬垂涕,略訴苦情,單伯尚未及答,不虞懿公在外掩至,大罵曰:「單伯如何擅入吾宮,私會國母,欲行苟且之事耶?寡人將訟之天子!」遂並單伯拘禁,與昭姬各囚於一室。恨魯人以王命壓之,興兵伐魯。論者謂懿公弒幼主,囚國母,拘天使,虐鄰國,窮凶極惡,天理豈能容乎?但當時高國世臣,濟濟在朝,何不奉子元以聲商人之罪,而乃縱其凶惡,絕無一言?時事至此,可嘆矣!有詩云: 欲圖大位欺孤主,先散家財買細民;堪恨朝中綬若若,也隨市井媚兇人! 魯使上卿季孫行父如晉告急。晉趙盾奉靈公合宋、衛、蔡、陳、鄭、曹、許共八國諸侯,聚於扈地,商議伐齊。齊懿公納賂於晉,且釋單伯還周,昭姬還魯,諸侯遂散歸本國。魯聞晉不果伐齊,亦使公子遂納賂於齊以求和。不在話下。 卻說宋襄公夫人王姬,乃周襄王之女兄,宋成公王臣之母,昭公杵臼之祖母也。昭公自為世子時,與公子卬、公孫孔叔、公孫鐘離三人,以田獵遊戲相善;既即位,惟三人之言是聽,不任六卿,不朝祖母,疏遠公族,怠棄民事,日以從田為樂。司馬樂豫知宋國必亂,以其官讓於公子卬。司城公孫壽亦慮禍及,告老致政,昭公即用其子蕩意諸,嗣為司城之官。襄夫人王姬老而好淫,昭公有庶弟公子鮑,美艷勝於婦人,襄夫人心愛之,醉以酒,因逼與之通,許以扶立為君。遂欲廢昭公而立公子鮑。昭公畏穆襄之族太盛,與公子卬等謀逐之。王姬陰告於二族,遂作亂,圍公子卬公孫鐘離二人於朝門而殺之。司城蕩意諸懼而奔魯。公子鮑素能敬事六卿,至是,同在國諸卿,與二族講和,不究擅殺之事。召蕩意諸於魯,復其位。 公子鮑聞齊公子商人,以厚施買眾心,得篡齊位,乃效其所為,亦散家財,以周給貧民。昭公七年,宋國歲飢,公子鮑盡出其倉稟之粟,以濟貧者。又敬老尊賢,凡國中年七十以上,月致粟帛,加以飲食珍味,使人慰問安否。其有一才一藝之人,皆收致門下,厚糈管待。公卿大夫之門,月有饋送。宗族無親疏,凡有吉凶之費,傾囊助之。昭公八年,宋復大飢,公子鮑倉廩已竭,襄夫人盡出宮中之藏以助之施,舉國無不頌公子鮑之仁。宋國之人,不論親疏貴賤,人人願得公子鮑為君。公子鮑知國人助己,密告於襄夫人,謀弒昭公。襄夫人曰:「聞杵臼將獵於孟諸之藪,乘其駕出,我使公子須閉門,子帥國人以攻之,無不克矣。」鮑依其言。 司城蕩意諸,頗有賢名,公子鮑素敬禮之。至是,聞襄夫人之謀,以告昭公曰:「君不可出獵,若出獵,恐不能返。」昭公曰:「彼若為逆,雖在國中,其能免乎?」乃使右師華元,左師公孫友居守。遂盡載府庫之寶,與其左右,以冬十一月望孟諸進發。纔出城,襄夫人召華元公孫友留之宮中,而使公子須閉門。公子鮑使司馬華耦號於軍中曰:「襄夫人有命:『今日扶立公子鮑為君。』吾等除了無道昏君,共戴有道之主,眾議以為何如?」軍士皆踴躍曰:「願從命!」國人亦無不樂從。華耦率眾出城,追趕昭公。昭公行至半途聞變,蕩意諸勸昭公出奔他國,以圖後舉。昭公曰:「上自祖母,下及國人,無不與寡人為仇,諸侯誰納我者?與其死於他國,寧死於故鄉耳!」乃下令停車治餐,使從田者皆飽食。食畢,昭公謂左右曰:「罪在寡人一身,與汝等何與?汝等相從數年,無以為贈,今國中寶玉,俱在於此,分賜汝等,各自逃生,毋與寡人同死也!」左右皆哀泣曰:「請君前行,倘有追兵,我等願拼死一戰。」昭公曰:「徒殺身,無益也。寡人死於此,汝等勿戀寡人!」少頃,華耦之兵已至,將昭公圍住,口傳襄夫人之命:「單誅無道昏君,不關眾人之事。」昭公急麾左右,奔散者大半,惟蕩意諸仗劍立於昭公之側。華耦再傳襄夫人之命,獨召意諸。意諸嘆曰:「為人臣而避其難,雖生不如死!」華耦乃操戈直逼昭公,蕩意諸以身蔽之,挺劍格鬥。眾軍民齊上,先殺意諸,後殺昭公,左右不去者,盡遭屠戮。傷哉!史臣有詩云: 昔年華督弒殤公,華耦今朝又助凶。賊子亂臣原有種,薔薇桃李不相同。 華耦引軍回報襄夫人。右師華元,左師公孫友等合班啟奏:「公子鮑仁厚得民,宜嗣大位。」遂擁公子鮑為君,是為文公。華耦朝賀畢,回家患心疼暴卒。文公嘉蕩意諸之忠,用其弟蕩虺為司馬,以代華耦。母弟公子須為司城,以補蕩意諸之缺。 趙盾聞宋有弒君之亂,乃命荀林父為將,合衛、陳、鄭之師伐宋。宋右師華元至晉軍,備陳國人願戴公子鮑之情,且歛金帛數車,為犒軍之禮,求與晉和。荀林父欲受之。鄭穆公曰:「我等鳴鐘擊鼓,以從將軍於宋,討無君也。若許其和,亂賊將得志矣。」荀林父曰:「齊宋一體也,吾已寬齊,安得獨誅宋乎?且國人所願,因而定之,不亦可乎?」遂與宋華元盟,定文公之位而還。鄭穆公退而言曰:「晉惟賂是貪,有名無實,不能復伯諸侯矣。楚王新立,將有事於征伐,不如棄晉從楚,可以自安。」乃遣人通款於楚,晉亦無如之何也!髯仙有詩云: 仗義除殘是伯圖,興師翻把亂臣扶。商人無恙鮑安位,笑殺中原少丈夫! 再說齊懿公商人,賦性貪橫,自其父桓公在位時,曾與大夫邴原,爭田邑之界,桓公使管仲斷其曲直,管仲以商人理曲,將田斷歸邴氏,商人一向銜恨於心。及是弒舍而自立,乃盡奪邴氏之田,又恨管仲黨於邴氏,亦削其封邑之半。管氏之族懼罪,逃奔楚國,子孫遂仕於楚。懿公猶恨邴原不已,時邴原已死,知其墓在東郊,因出獵過其墓所,使軍士掘墓,出其屍,斷其足,邴原之子邴歜隨侍左右,懿公問曰:「爾父罪合斷足否?卿得無怨寡人乎?」歜應曰:「臣父生免刑誅,已出望外,況此朽骨,臣何敢怨?」懿公大悅曰:「卿可謂幹蠱之子矣!」乃以所奪之田還之。邴歜請掩其父,懿公許之。復購求國中美色,淫樂惟日不足,有人譽大夫閻職之妻甚美,因元旦出令,凡大夫內子俱令朝於中宮。閻職之妻,亦在其內,懿公見而悅之,因留宮中,不遣之歸,謂閻職曰:「中宮愛爾妻為伴,可別娶也。」閻職敢怒而不敢言。 齊西南門有地名申池,池水清潔可浴,池旁竹木甚茂。時夏五月,懿公欲往申池避暑,乃命邴歜御車,閻職驂乘。右師華元私諫曰:「君刖邴歜之父,納閻職之妻,此二人者,安知不銜怨於君?而君乃親近之。齊臣中未嘗缺員,何必此二人也?」懿公曰:「二子未嘗敢怨寡人也,卿勿疑。」乃駕車遊於申池,飲酒甚樂。懿公醉甚,苦熱,命取繡榻,置竹林密處,臥而乘涼。邴歜與閻職浴於申池之中,邴歜恨懿公甚深,每欲弒之,以報父仇,未得同事之人,知閻職有奪妻之怨,欲與商量,而難於啟口,因在池中同浴,心生一計,故意以折竹擊閻職之頭。職怒曰:「奈何欺我?」邴歜帶笑言曰:「奪汝之妻,尚然不怒,一擊何傷,乃不能忍耶?」閻職曰:「失妻雖吾之恥,然視刖父之屍,輕重何如?子忍於父,而責我不能忍於妻,何其昧也!」邴歜曰:「我有心腹之言,正欲語子,一向隱忍不言,惟恐子已忘前恥,吾雖言之,無益於事耳。」閻職曰:「人各有心,何日忘之,但恨力不及也。」邴歜曰:「今凶人醉臥竹中,從遊者惟吾二人,此天遣我以報復之機,時不可失!」閻職曰:「子能行大事,吾當相助。」二人拭體穿衣,相與入竹林中,看時,懿公正在熟睡,鼻息如雷,內侍守於左右。邴歜曰:「主公酒醒,必覓湯水,汝輩可預備以待。」內侍往備湯水。閻職執懿公之手,邴歜扼其喉,以佩劍刎之,頭墜於地。二人扶其屍,藏於竹林之深處,棄其頭於池中。(懿公在位纔四年耳。)內侍取水至,邴歜謂之曰:「商人弒君而立,齊先君使我行誅。公子元賢孝,可立為君也。」左右等唯唯,不敢出一言。邴歜與閻職駕車入城,復置酒痛飲,歡呼相慶。早有人報知上卿高傾國歸父,高傾曰:「盍討其罪而戮之,以戒後人?」國歸父曰:「弒君之人,吾不能討,而人討之,又何罪焉?」邴閻二人飲畢,命以大車裝其家資,以駢車載其妻子,行出南門,家人勸使速馳,邴歜曰:「商人無道,國人方幸其死,吾何懼哉?」徐徐而行,俱往楚國去訖。高傾與國歸父聚集群臣商議,請公子元為君,是為惠公。髯翁有詩云: 仇人豈可與同遊?密邇仇人仇報仇。不是逆臣無遠計,天教二憾逞凶謀。 話分兩頭。卻說魯文公名興,乃僖公嫡夫人聲姜之子,於周襄王二十六年嗣位。文公娶齊昭公女姜氏為夫人,生二子,曰惡,曰視。其嬖妾秦女敬嬴,亦生二子,曰倭,曰叔肹。四子中惟倭年長。而惡乃嫡夫人所生,故文公立惡為世子。時魯國任用三桓為政。孟孫氏曰公孫敖,生子曰穀,曰難。叔孫氏曰公孫茲,生子曰叔仲彭生,曰叔孫得臣。文公以彭生為世子太傅。季孫氏曰季無佚,乃季友之子,無佚生行父,即季文子也。魯莊公有庶子曰公子遂,亦曰仲遂,住居東門,亦曰東門遂,自僖公之世,已與三桓一同用事。論起輩數,公孫敖與仲遂為再從兄弟,季孫行父又是下一輩了。因公孫敖得罪於仲遂,客死於外,故孟孫氏失權,反是仲孫氏、叔孫氏、季孫氏三家為政。 且說公孫敖如何得罪。敖娶莒女戴己為內子,即穀之母;其娣聲己,即難之母也。戴己病卒,敖性淫,復往聘己氏之女。莒人辭曰:「聲己尚在,當為繼室。」敖曰:「吾弟仲遂未娶,即與遂納聘可也。」莒人許之。魯文公七年,公孫敖奉君命如莒修聘,因順便為仲遂逆女。及鄢陵,敖登城而望,見己氏色甚美,是夜竟就己氏同宿,自娶歸家。仲遂見奪其妻,大怒,訴於文公,請以兵攻之。叔仲彭生諫曰:「不可。臣聞之:『兵在內為亂,在外為寇。』幸而無寇,可啟亂乎?」文公乃召公孫敖,使退還己氏於莒,以釋仲遂之憾。敖與遂兄弟講和如故。敖一心思念己氏,至次年,奉命如周,奔襄王之喪,不至京師,竟攜弔幣,私往莒國,與己氏夫婦相聚。魯文公亦不追究,立其子穀主孟氏之祀。其後敖忽思故國,使人言於穀,穀轉請於其叔仲遂。遂曰:「汝父若欲歸,必依我三件事,乃可。無入朝,無與國政,無攜帶己氏。」穀使人回復公孫敖。敖急於求歸,欣然許之。敖歸魯三年,果然閉戶不出。忽一日,盡取家中寶貨金帛,復往莒國。孟孫穀想念其父,踰年病死。其子仲孫蔑尚幼,乃立孟孫難為卿。未幾,己氏卒,公孫敖復思歸魯,悉以家財納於文公,並及仲遂,使其子難為父請命。文公許之,遂復歸。至齊,病不能行,死於堂阜。孟孫難固請歸其喪於魯。難乃罪人之後,又權主宗祀,以待仲蔑之長,所以不甚與事。季孫行父讓仲遂與彭生得臣是叔父行,每事不敢自專。而彭生仁厚,居師傅之任。得臣屢掌兵權,所以仲遂得臣二人,尤當權用事。敬嬴恃文公之寵,恨其子不得為嗣,乃以重賂交結仲遂,因以其子倭託之,曰:「異日倭得為君,魯國當與子共之。」仲遂感其相託之意,有心要推戴公子倭。念:「叔仲彭生,乃是世子惡之傅,必不肯同謀。而叔孫得臣,性貪賄賂,可以利動。」時時以敬嬴所賜分贈之,曰:「此嬴氏夫人命我贈子者。」又使公子倭時時詣得臣之門,謙恭請教,故得臣亦心向之。 周匡王四年,魯文公十有八年也。是年春,文公薨,世子惡主喪即位。各國皆遣使弔問。時齊惠公元,新即大位,欲反商人之暴政,特地遣人至魯,會文公之葬。仲遂謂叔孫得臣曰:「齊魯世好也。桓僖二公,歡若兄弟。孝公結怨,延及商人,遂為仇敵。今公子元新立,我國未曾致賀,而彼先遺人會葬,此修好之美意,不可不往謝之。乘此機會,結齊為援,以立公子倭,此一策也。」叔孫得臣曰:「子去,我當同行。」畢竟二人如齊,商量出甚事來,且看下回分解。
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