東周列國志第五十回 東門遂、子倭を援けて立てる/趙宣子、桃園で強く諫める (東門遂援立子倭 趙宣子桃園強諫)

仲遂・得臣、斉へ祝賀に赴き婚約を結ぶ

  • さて仲孫遂と叔孫得臣の二人は斉へ行き、新君を祝賀し、あわせて葬儀への参列に謝意を伝えた。礼を終えると、斉の恵公は宴を賜り、そのついでに魯の新君について尋ねた。「なぜ悪という名なのですか。世に良い名は多いのに、なぜよりによってこの聞こえのよくない字を使ったのですか」。仲遂は答えた。「亡きわが君(文公)がこの子を初めて授かった時、太史に占わせたところ、『悪しき死に方をするだろう、国を長く保てまい』とのお告げがあり、それゆえ亡きわが君はこれに『悪』と名づけ、その凶を厭おうとされたのです。しかしこの子は亡きわが君のお気に入りではございませんでした。お気に入りは長男の倭で、人柄は賢く孝行深く、大臣を敬い礼を尽くすことができ、国人も皆彼を君に戴きたいと願っておりますが、正嫡の身分に阻まれているのです」。恵公は「昔から『子は年長の者を立てる』という道理もある、まして愛されている子であればなおさらではないか」と言った。叔孫得臣は言った。「魯国の慣例では、子は嫡子を立て、嫡子がいなければ長子を立てます。亡きわが君は常の礼にこだわり、倭を措いて悪を立てられましたが、国人は誰も納得しておりません。大国(斉)がもし魯のために賢君を改めて立てるお考えがあるなら、婚姻の好みを結び、もっぱら大国に仕え、四季の朝見と献上の礼を欠かすことはございません」。恵公は大いに喜んで「大夫が国内でこの事を主導できるなら、寡人はただ命に従うのみだ、どうして違えることがあろうか」と言った。仲遂と叔孫得臣は血をすすって誓いを立てることを願い出て、それに合わせて婚約を結んだ。恵公はこれを許した。
  • 遂らは帰国すると、季孫行父に言った。「今、晋の業はすでに衰え、斉が再び強くなろうとしている。彼らは嫡女を公子倭の室に入れようとしているのだ、これは強力な後ろ盾であり、逃してはならぬ」。行父は「跡を継いだ君(悪)は斉侯の甥にあたる。斉侯に娘があるなら、なぜそれを跡を継いだ君に嫁がせずに、公子(倭)に嫁がせようとするのか」と言った。仲遂は言った。「斉侯は公子倭の賢明さを聞いて、心に決めて倭と親しくなり、娘を嫁がせて舅と婿の間柄になりたいと望んでいるのだ。それに夫人姜氏は昭公の娘、桓公の子らは仇敵のように互いに争い、それゆえ四代にわたって皆弟が兄に代わって位を継いできた。彼らは自分の兄すら大事にしないというのに、甥にどんな情があろうか」。行父は黙り込み、帰って嘆いた。「東門氏(仲遂)は他の志があるのだろう」。(仲遂は東門に住んでいたため、東門氏と呼ばれた。)行父はこのことを密かに叔仲彭生に告げたが、彭生は「大位はすでに定まっている、誰があえて二心を抱こうか」と言い、まったく気に留めなかった。

仲遂、悪・視を弑し彭生を謀殺して公子倭を立てる

  • 仲遂は敬嬴とひそかに計を定め、勇士を厩の中に伏せ、馬丁に「馬が良い駒を産みました」と偽って報告させた。敬嬴は公子倭に、悪・視とともに厩へ駒を見に行かせた。勇士たちが突然襲いかかり、木の棍棒で悪を撃ち殺し、あわせて視も殺した。
  • 仲遂は「太傅の彭生がまだ生きている、この者を除かねば事は片付かない」と言い、内侍に跡を継いだ君の命と偽らせて叔仲彭生を宮中に召させた。彭生が出かけようとすると、その家臣・公冉務人は、日頃から仲遂が宮中の者と結託していることを知っており、何か罠があると疑い、止めて言った。「太傅は入ってはなりません、入れば必ず死にます」。彭生は「君命があるからには、たとえ死んでも、それを逃れることができようか」と言った。公冉務人は「もし本当に君命であれば、太傅は死ぬはずがありません。もし君命でないのに死ぬなら、その死に何の名分がございましょうか」と言った。彭生は聞き入れなかった。務人は彼の袖を引いて泣いたが、彭生は袖を振り切って車に乗り、まっすぐ宮中に赴いた。跡を継いだ君はどこにいるかと問うと、内侍は偽って「厩で馬が駒を産んだので、そこでご覧になっています」と答え、彭生を厩の場所へ導いた。勇士たちが再び群がり集まって彭生を殴り殺し、その屍を馬糞の中に埋めた。
  • 敬嬴は人を遣わして姜氏に告げさせた。「君と公子視は、乱暴な馬に蹴られ噛まれて、共に亡くなりました」。姜氏は大いに泣き、厩に赴いて見ると、二つの屍はすでに宮門の外へ移されていた。季孫行父は悪と視の死を聞き、これが仲遂の仕業であると心得たが、あえて公言せず、ひそかに仲遂に言った。「あなたのやり方はあまりに酷い、私は聞くに忍びない」。仲遂は「これは嬴氏夫人がなさったことだ、私には関わりがない」と言った。行父は「もし晋が問責に来たら、どう対処するのか」と言った。仲遂は「斉と宋の先例で、もうお分かりだろう。彼らは自分の年長の君を弑してすら、討伐は行われなかった。今、二人の幼児が死んだだけで、どうして討伐などされようか」と言った。行父は跡を継いだ君の屍を撫でて、思わず声を上げて泣いた。仲遂は「大臣たる者は大事を議すべきなのに、子供のように泣いて何になろうか」と言った。行父は涙を収めた。叔孫得臣もやって来て、兄の彭生の行方を尋ねた。仲遂は「知らない」と偽った。得臣は笑って「わが兄は忠臣として死んだ、それは彼の志であった、どうして隠す必要があろうか」と言った。仲遂はそこでひそかに屍の場所を告げ、あわせて言った。「今日の急務は君を立てることだ。公子倭は賢明で年長でもある、大位を継ぐにふさわしい」。百官は誰も反対しなかった。そこで公子倭を君に立てた。これが宣公である。百官は朝賀した。胡曾先生に詠史詩がある。

  • (詩:外の権力と内の寵愛が私利のもとに結びついたこと、罪なき跡継ぎの君があっという間に命を絶たれたこと、あいまいな態度をとった季文子(行父)を笑うべきこと、三度思案しながらも良い策を出せなかったことを詠む)

  • 得臣は馬糞を掘り、彭生の屍を出して殯した。これはこれ以上語らない。

姜氏、仲遂を糾弾して斉へ去る

  • さて正室夫人の姜氏は、二人の子が共に殺され、仲遂が公子倭を君に立てたと聞き、胸を叩いて大声で泣き、何度も気を失っては生き返った。仲遂はさらに宣公に取り入り、「母は子によって貴くなる」という文言を引いて敬嬴を夫人の位に昇らせ、百官は祝賀した。姜夫人は宮中で心が休まらず、日夜泣き続け、左右の者に車の支度をさせ、斉へ帰る用意をした。仲遂は偽って人を遣わして留めようとし、「新君はあなた様がお産みになったのではありませんが、あなた様は嫡母にあられます、孝養は当然欠かせません。どうして実家に身を寄せようとなさるのですか」と言わせた。姜氏は罵った。「賊の遂め、私たち母子がお前に何をしたというのか、これほど惨たらしいことをするとは。それなのに今さら虚言で私を引き止めようというのか。鬼神に知られれば、決してお前を許しはしまい」。姜氏は敬嬴には会おうともせず、そのまま宮門を出て車に乗って去った。大市の大通りを通り過ぎるとき、声を上げて激しく泣き、叫んで言った。「天よ、天よ!二人の幼子に何の罪があったのか。私に何の罪があったのか。賊の遂は道理も心も失い、嫡を殺して庶を立てた。私は今、国人に永の別れを告げる、二度とこの魯国に戻ることはない」。道行く人々は聞いて哀れまぬ者はなく、涙を落とす者も多かった。この日、魯国では市が休みとなった。人々は姜氏を哀姜と呼び、また斉に出て行ったことから出姜とも呼んだ。出姜は斉に至り、昭公夫人の母子と会い、それぞれの子の無念を語り合い、抱き合って泣いた。斉の恵公はその泣き声を耳障りに思い、別の館を築いて彼女ら母子を移らせた。出姜はついに斉で生涯を終えた。

清廉の弟・叔肹

  • さて魯の宣公と同母の弟・叔肹は、人柄が忠実で正直であった。その兄が仲遂の力を借りて弟を殺し自ら位に立ったのを見て、心中これを非としており、朝賀にも赴かなかった。宣公は人を遣わして召し、重んじて用いようとしたが、肹は固く辞退して赴かなかった。友人がその理由を尋ねると、肹は言った。「私は富貴を嫌っているのではない、ただ兄を見ると、思わず弟のことを思い出してしまう、それが忍びないのだ」。友人は「あなたはすでに兄を義とせぬというのに、なぜ他国へ移らないのか」と言った。肹は「兄は私を絶ったことはない、私がどうして兄を絶つことができようか」と言った。
  • ちょうど宣公が役人に安否を尋ねさせ、粟や帛を贈らせたが、肹は使者に拝辞して言った。「肹は幸いにも凍えや飢えに至らず、公の財を費やすには及びません」。使者が重ねて命を伝えても、肹は「不足があれば、いずれ乞い求めに参ります、今は決して受け取るわけにはまいりません」と言った。友人は「あなたは爵禄を受けずとも、それで志を明らかにできよう。だが家に余分な財産もないというのに、少しばかりの贈り物を受け取って、日々の食事の足しにしても、清廉を損なうことにはなるまい。それをすべて断るのは、あまりに厳しすぎはしないか」と言った。肹は笑って答えなかった。友人はため息をついて去った。使者もあえて留まらず、戻って宣公に報告した。宣公は「わが弟はもともと貧しい、どうやって生計を立てているのだろうか」と言い、人を夜に遣わしてその様子をうかがわせたところ、灯りをともして草履を編み、明朝それを売って朝食の費用にしようとしているところであった。宣公は嘆いて「この子は伯夷叔斉にならって首陽山で薇を採るつもりなのか、私はその志を成し遂げさせてやろう」と言った。肹は宣公の晩年になってようやく卒した。生涯を通じて、兄から一寸の糸、一粒の粟も受け取ることはなく、また生涯、兄の過ちを口にすることもなかった。史臣に賛がある。

  • (詩:賢者たる叔肹が、時勢に感じて血の涙を流したこと、草履を編んで自活し、公の禄には与しなかったこと、殷の遺民が周に仕えるのを恥じたように、薇を採って餓死を甘受したこと、叔肹だけがその音を継ぎ、汚れに染まらなかったこと、同じ乳を分けた兄弟でありながら、兄は頑迷、弟は清廉であったこと、東門の言動が舌を汚すほどであったことを詠む)

  • 魯人は叔肹の義を尊び、称え続けた。成公の初年、その子・公孫嬰斉が大夫に登用された。これより叔孫氏とは別に叔氏という一族ができた。叔老・叔弓・叔輒・叔鞅・叔詣は、皆その子孫である。これは後の話であり、ここで一旦措く。

宣公、斉と婚を結び会盟を求める

  • さて周の匡王五年、宣公の元年にあたる。元日、朝賀が終わると、仲遂は奏上した。「君の内主(夫人)がまだ空いております。臣は先に斉侯と婚姻の約束を交わしております、事は先延ばしにできません」。宣公は「誰が寡人のために斉へ使いするのか」と問うた。仲遂は「約束は臣から出たものです、臣が自ら参りましょう」と答えた。そこで仲遂を斉へ遣わし、婚を請い納幣させた。遂は正月に斉へ至り、二月に夫人・姜氏を迎えて帰った。そのついでに宣公に密奏して言った。「斉とは舅と婿の間柄とはいえ、将来、両国が睦まじくなるか敵対するかは測りがたいものがございます。しかも国に大事があれば、必ず会盟に連なることで、初めて諸侯としての地位が定まるものです。臣はかつて斉侯と血をすすって盟を結び、四季の朝見と献上の礼を欠かさぬことを約束いたしました。これはあらかじめ君の地位を託しておくためのものでした。君は必ず重い贈り物を惜しまず、斉に会盟を求めてください。もし彼らが賄賂を受け取り会盟を許せば、それを機に恭しく仕えれば、両国は親密になり、唇歯の固い関係を得て、君の地位は泰山のごとく安泰になりましょう」。宣公はこの言葉をもっともとし、季孫行父を遣わして斉へ婚儀への謝意を伝えさせ、こう述べさせた。

  • 「わが君は君の恩寵に頼り、宗廟を守っておりますが、諸侯の列に加われず君のお恥になることを、恐れ懼れております。君がもしわが君を顧みてくださり、会盟の好みを賜るなら、済西の豊かならぬ田地は、かつて晋の文公が先君に賜ったものではございますが、大国への贈り物として献じたく存じます。どうか君にはこれをお受け取りください」。

  • 斉の恵公は大いに喜び、夏五月、平州の地で魯君と会うことを約した。

平州の会と済西の田の献上

  • 期日になり、魯の宣公が先に赴き、斉侯が続いて到着した。まず舅と婿としての情を述べ合い、それから両君が相見える礼を行った。仲遂は済西の土田の帳簿を捧げて差し出したが、斉侯は少しも辞退しなかった。事が終わると、宣公は斉侯に別れを告げて魯へ帰った。仲遂は言った。「私は今日ようやく安眠できる」。これより、魯は朝見あるいは聘問と、君臣ともに斉へ赴くことがほぼ絶える日がなく、命令には従わぬことなく、賦役にも従わぬことがなかった。斉の恵公の晩年、魯侯のこの従順な態度に感じ入り、済西の田を魯に返した。これは後の話である。

楚荘王、三年間政を顧みず

  • 話は二つに分かれる。さて楚の荘王・旅は即位して三年、命令を出すこともなく、日々狩猟にふけっていた。宮中にいるときは、ただ日夜婦人たちと酒を飲んで楽しむばかりであった。朝門に令を懸けて言った。「あえて諫める者は死罪、赦さない」。大夫の申無畏が謁見に赴くと、荘王は右に鄭姫を抱き、左に蔡女を抱いて、鐘鼓の間に足を組んで座り、問うた。「大夫が来たのは、酒を飲みたいのか、音楽を聴きたいのか、それとも何か言いたいことがあるのか」。申無畏は言った。「臣は酒を飲みたいわけでも音楽を聴きたいわけでもございません。たまたま臣が郊外を歩いていたところ、謎かけをする者がいて、臣には解けませんでした。どうか大王からその答えを伺いたく存じます」。荘王は「ほう、それはどんな謎かけで、大夫にも解けなかったのか。ひとつ寡人のために話してみよ」と言った。申無畏は言った。「大きな鳥がおります。身は五色に彩られ、楚の高い丘に止まって三年になります。飛ぶ姿を見た者はなく、鳴き声を聞いた者もありません。これは何の鳥でしょうか」。荘王はこれが自分を風刺していると悟り、笑って言った。「寡人にはよく分かる。それはただの鳥ではない。三年飛ばぬのは、飛べば必ず天を衝くほどになるからだ。三年鳴かぬのは、鳴けば必ず人を驚かすほどになるからだ。そなたはそれを待つがよい」。申無畏は再拝して退がった。

蘇従、死を賭して直諫す

  • 数日経っても、荘王は相変わらず淫らな楽しみにふけっていた。大夫の蘇従は人払いを願い出て荘王に謁見し、会うなり大いに泣いた。荘王は「蘇子はなぜそれほど哀しむのか」と言った。蘇従は答えた。「臣は我が身が死ぬこと、そして楚国がやがて滅びるであろうことを泣いているのです」。荘王は「そなたはなぜ死ぬのか、楚国もまたなぜ滅びるというのか」と問うた。蘇従は言った。「臣は王に諫めようとしていますが、王がお聞き入れにならなければ、必ず臣を殺されましょう。臣が死ねば、楚国にはもはや諫める者がいなくなります。王の意のままに楚の政が乱れれば、楚の滅亡はすぐそこまで来ております」。荘王は色を変えて怒り、「寡人には『あえて諫める者は死罪』との令があるのだぞ。諫めれば必ず死ぬと承知していながら、あえて寡人を犯そうというのか、愚かなことだとは思わぬのか」と言った。蘇従は言った。「臣の愚かさは、王の愚かさの甚だしさには及びません」。荘王はますます怒って「寡人がどうしてそれほど愚かだというのか」と言った。
  • 蘇従は言った。「大王は万乗の尊い地位にあり、千里の税を享受し、士馬は精強で、諸侯は畏れ服し、四季の貢献が絶えることはございません。これは万世にわたる利益です。それなのに今、酒色にふけり、音楽に溺れ、朝政を治めず、賢才を親しみもせず、大国は外から攻め、小国は内で背いております。楽しみは目の前にあっても、憂いは後日に控えております。一時の楽しみのために万世の利益を捨てるとは、甚だしい愚か以外の何でありましょうか。臣の愚かさは、我が身が殺されるだけのことです。しかし大王が臣を殺せば、後世は臣を忠臣と呼び、龍逢や比干と肩を並べさせるでしょう、臣は愚かではございません。君の愚かさは、匹夫になりたくてもなれぬところにまで及びましょう。臣の申すことはこれで終わりです。どうか大王の佩剣をお借りし、臣は王の御前で自ら首を刎ね、大王のご命令の重みをお示しいたしましょう」。
  • 荘王ははっと立ち上がって言った。「大夫よ、もうよい。大夫の言葉は忠言である、寡人はそなたの言葉を聞き入れよう」。そこで鐘鼓の懸けを断ち切り、鄭姫を退け蔡女を遠ざけ、樊姫を夫人に立てて宮政を司らせた。荘王は言った。「寡人が狩猟を好んでいたとき、樊姫は諫めても私が聞き入れなかったので、鳥や獣の肉を口にしなくなった。これぞわが賢い内助だ」。

荘王、政を改め賢才を用い宋・晋を破る

  • 蒍賈・潘尪・屈蕩を任じて、令尹・鬥越椒の権力を分けさせた。早くから朝廷に出て酒宴を廃し、号令を発した。鄭の公子帰生に命じて宋を伐たせ、大棘で戦い、宋の右師・華元を捕らえた。蒍賈に命じて鄭を救援させ、晋軍と北林で戦い、晋の将・解揚を捕らえて連れ帰ったが、年を越して釈放して帰した。これより楚の勢いは日ごとに強まり、荘王はついに驕り高ぶって中原に覇を争う志を抱くようになった。

趙盾、崇を侵し秦との和を図る

  • さて晋の上卿・趙盾は、楚が日ごとに強横になることを見て、秦と好みを結んで楚に対抗しようと考えた。趙穿が計を献じて言った。「秦には崇という属国があり、長らく秦に付き従っております。もし一支隊を得てこの崇国を侵せば、秦は必ず救援に来ましょう、それによって和議を結べば、我らが優位に立てましょう」。趙盾はこれに従い、霊公に上奏して戦車三百乗を出し、趙穿を大将としてこれを崇に侵させた。趙朔は言った。「秦晋の恨みは深うございます。その上、その属国を侵せば、秦はますます怒るでしょう、どうして我らとの和議に応じましょうか」。趙盾は「私はすでにそれ(崇侵攻)を許した」と言った。朔はさらに韓厥にこの事を語ると、厥はかすかに冷笑し、朔の耳元でささやいた。「あなたの父上のこの挙は、穿を立てて趙氏の宗を固めようとするもので、秦との和のためではございません」。趙朔は黙って退がった。秦は晋が崇を侵したと聞いても救援に来ず、逆に兵を興して晋を伐ち、焦を包囲した。趙穿は軍を返して焦を救い、秦軍はようやく退いた。穿はこれより兵政に関わるようになった。臾駢が病没すると、穿がその後を継いだ。

晋霊公の暴虐と桃園の遊戯

  • この頃、晋の霊公は成長し、淫らで暴虐となり、民に厳しく税を取り立て、広く土木を興し、遊戯を好んだ。ある大夫を寵任していた、名を屠岸賈という。(屠撃の子、屠岸夷の孫である。)岸賈は媚びへつらって霊公の機嫌を取り、その言うことはすべて受け入れられた。岸賈に命じて絳州の城内に一つの花園を築かせ、あまねく珍しい花や草を求めてその中に植えさせた。とりわけ桃の花が最も盛んで、春には錦繍のように咲き乱れ、これを桃園と名づけた。園中には三層の高台を築き、その中に絳霄楼という楼閣を建てた。彩色された棟木に彫刻を施した梁、朱塗りの柱に彫り物をした垂木、周囲には朱塗りの欄干と曲がりくねった手すりがめぐらされ、欄干にもたれれば四方を見渡すことができ、市井の様子がすべて目の前に見えた。霊公はこれを眺めて楽しみ、しばしば登っては弓で鳥を射たり、岸賈と賭けをしながら酒を飲んで楽しんだ。
  • ある日、俳優を呼んで台上で数々の演芸をさせると、園外に民衆が集まって見物した。霊公は岸賈に言った。「鳥を弾で射るのと、人を弾で射るのとでは、どちらが面白いだろうか。寡人とお前とで試してみよう。目に当てた者を勝ちとし、肩や腕に当てた者は罰を免れ、当てられなかった者は大杯の酒で罰を受けるとしよう」。霊公は人混みの右半分を、岸賈は左半分を狙って弾を放った。台上から「弾を放つぞ」と大声で叫ぶと、弓は満月のようにしなり、弾は流れ星のように飛んだ。人混みの中で、一人は耳の半分を弾き飛ばされ、もう一人は左の肩甲に命中した。驚いた民衆は慌てふためいて逃げ惑い、押し合いへし合いしながら口々に「また弾が来るぞ」と叫んだ。霊公は大いに怒り、いっそのこと左右の弾の使い手たちに一斉に放たせた。弾は雨のように飛び、民衆は避けきれず、頭を割られる者、額を傷つける者、眼球を弾き出される者、前歯を打ち落とされる者もあり、泣き叫ぶ声は耳をふさぎたくなるほどであった。また父を呼び母を叫ぶ者、頭を抱えて逃げ惑う者、押されて倒れる者もあり、慌てふためく様子は目も当てられぬほどであった。霊公は台上からこれを見て、弓を地に投げ捨てて呵々と大笑いし、岸賈に言った。「寡人はこの台に何度も上がって遊んだが、今日ほど楽しかったことはない」。これより民衆は台上に人影を見ると、桃園の前を通ることさえ避けるようになった。市中ではこんな諺が言い交わされた。

  • (民謡:台を見るな、弾が飛んでくるぞ。出かける時は笑って喜んでいても、帰る時には泣いて悲しむことになるということを詠む)

霊獒と趙盾の諫言

  • また周から献上された猛犬があり、霊獒と呼ばれた。身の丈三尺、色は紅の炭のようで、人の意を解した。左右の者が過ちを犯すと、霊公はすぐこの獒を呼んで噛みつかせた。獒は立ち上がってその額を噛み、死ぬまでやめなかった。専らこの犬を飼う者がおり、毎日羊肉を数斤与え、犬もその者の指図を聞いた。この者の名を獒奴といい、霊公は彼に中大夫の俸禄を食ませた。霊公は外朝を廃止し、諸大夫は皆内寝で朝見するよう命じた。朝見や外出の際には、獒奴が細い鎖で犬を牽いて左右に付き従い、見る者は皆恐れおののいた。この頃、列国は心を離し、万民は嘆き恨んでいたが、趙盾らはたびたび諫言し、霊公に賢者を礼遇し佞臣を遠ざけ、政に励み民に親しむよう勧めても、霊公は耳を塞いだかのようにまったく聞き入れず、逆に趙盾らを疑って嫌う様子さえあった。

竹籠の死体事件と士会の諫め

  • ある日突然、霊公が朝を終え、諸大夫が皆退出した中、趙盾と士会だけがまだ寝殿の門にとどまり、国家のことを相談し、互いに嘆きあっていた。ふと見ると、二人の内侍が竹籠を担いで、閨から出てきた。趙盾は「宮中からどうして竹籠が外へ出るのか、これには何か理由があるはずだ」と言い、遠くから「来い、来い」と呼んだ。内侍はただうつむいて答えなかった。盾が「竹籠の中には何が入っているのか」と問うと、内侍は「あなたは相国です、ご覧になりたければご自身で来てご覧ください、私からは申し上げられません」と言った。盾はますます不審に思い、士会を誘って共に見に行った。すると人の手が一つ、籠の外にわずかに覗いているのが見えた。二人の大夫は竹籠を引き留めて子細に見ると、それはばらばらに切り刻まれた一人の死人であった。趙盾は大いに驚き、その経緯を問うたが、内侍はなお言おうとしなかった。盾は「もうこれ以上言わなければ、まずお前を斬るぞ」と言った。内侍はようやく打ち明けた。「これは料理人でございます。主公が熊の掌を煮るよう命じられ、急いで酒の肴にしたいと何度も催促されたので、料理人がやむなく差し上げましたところ、主公は味見をされて、まだ煮え切っていないとご不満で、銅の斗でその料理人を打ち殺されました。さらに幾切れにも切り刻んで、我らに野外に捨てるよう命じられました。時刻を限って報告するようにと言われております、遅れれば罪に問われます」。趙盾は内侍を放ち、そのまま竹籠を担がせて去らせた。
  • 盾は士会に言った。「主上は無道で、人の命を草のように軽んじている。国家の危亡は、もはや目前に迫っている。私とそなたと共に一度厳しく諫めに行こうではないか」。士会は「私たち二人が諫めて聞き入れられなければ、もはや続く者はいないだろう。会(私)が先に入って諫めよう、もし聞き入れられなければ、あなたが続いてください」と言った。この時、霊公はまだ表の広間にいた。士会がまっすぐ入って行くと、霊公はそれを見て、必ず諫言があるだろうと察し、迎えて言った。「大夫は何も言わずともよい、寡人はすでに過ちを承知している、今から改めよう」。士会は頭を地につけて礼をし、答えた。「人は誰しも過ちのないものはございません、過ちて改めることができれば、それは社稷の福でございます、臣らは大変嬉しく存じます」。言い終えると退がり、趙盾にこのことを伝えた。盾は「主公がもし本当に過ちを悔いておられるなら、遅くとも近いうちに何か実行があるはずだ」と言った。

趙盾、桃園門外で強諫す

  • 翌日、霊公は朝を休み、車を出して桃園へ遊びに行こうとした。趙盾は「主公のこの振る舞いは、どうして過ちを改めた者のすることであろうか、私は今日こそ言わないわけにはいかない」と言い、先に桃園の門外に赴き、霊公が来るのを待って進み出て拝謁した。霊公は驚いて「寡人はまだそなたを召していないのに、そなたはどうしてここに来たのか」と言った。趙盾は頭を地につけて二度拝し、口を開いて言った。「死罪でございます。微臣、申し上げたきことがございます、どうか主公は寛大にお聞き入れください。臣はこう聞いております。『道ある君は、楽しみをもって人を楽しませ、道なき君は、楽しみをもって自らを楽しませる』と。宮室で寵姫にふけり、狩猟や遊楽にふけるのは、一身の楽しみに留まるものです、いまだ人を殺すことを楽しみとする者はございません。今、主公は犬を放って人を噛ませ、弾を放って人を打ち、さらに些細な過ちで料理人を切り刻まれました。これは道ある君のなさることではないのに、主公はこれをなさっておられます。人命はこの上なく重いもの、これほどまで濫りに殺せば、民衆は内から離反し、諸侯は外から離れ、桀紂の滅亡の禍が、やがて主公の身に及びましょう。臣が今日申し上げなければ、もはや誰も申し上げる者はございません。臣は君国の危亡を座視するに忍びず、あえて包み隠さず直言いたしました。どうか主公には車を返して朝廷にお戻りいただき、これまでの過ちを改め、遊興を慎み、殺生を好まぬようになさってください。晋国が危うきより安きに転じるならば、臣は死んでも悔いはございません」。
  • 霊公は大いに恥じ入り、袖で顔を覆って言った。「卿はしばらく退がるがよい、寡人に今日だけ遊ばせてくれ、次からはそなたの言葉に従おう」。趙盾は身をもって園の門を塞ぎ、霊公を通そうとしなかった。傍らにいた屠岸賈が言った。「相国の諫言は好意からとはいえ、車駕がすでにここまで来ているのですから、むなしく引き返して人に笑われてはなりません。相国はしばらく道をお譲りください。もし政事のことでしたら、明日の早朝、主公が出御されたときに、朝堂で議されればよろしいのではありませんか」。霊公はすぐに続けて「明日の朝、卿を召そう」と言った。趙盾はやむを得ず身をよけて霊公を園に通し、岸賈を睨みつけて言った。「国を滅ぼし家を破るのは、皆この輩によるものだ」と、恨みが尽きぬ様子であった。

屠岸賈の刺客計、鉏麑の自死

  • 岸賈は霊公の遊興に付き従っていた。まさに歓楽の最中、岸賈は突然ため息をついて言った。「この楽しみもこれきりになりましょう」。霊公が「大夫はなぜそのような嘆きをするのか」と問うと、岸賈は「趙相国は明朝また必ずくどくどと申し立てに参りましょう、主公はもう外に出られなくなりましょう」と言った。霊公は怒りをあらわにして言った。「昔から臣が君に制せられることはあっても、君が臣に制せられるとは聞いたことがない。あの老いぼれがいる限り、寡人には甚だ不便だ、どうにかして除く方法はないか」。岸賈は言った。「臣の客に鉏麑という者がおります。家が貧しく、臣が常々援助しております、臣の恩に感じて死力を尽くすと申しております。もし彼に相国を刺させれば、主公は意のままに楽しむことができましょう、何を心配することがございましょうか」。霊公は「この事が成れば、卿の功は小さくない」と言った。
  • その夜、岸賈はひそかに鉏麑を召し、酒食を与えて言い聞かせた。「趙盾は権力を専らにして君を欺いている、今、晋侯の命を受けて、お前を刺客に行かせる。相国の門前に潜み、五更に朝廷へ赴くところを刺せ、事を誤ってはならぬ」。鉏麑は命を受けて赴き、身支度を整え、雪のように光る匕首を携えて、趙盾の屋敷の周囲にひそかに身を潜めた。物見の太鼓が五更を告げるのを聞くと、趙盾の屋敷の門前に忍び寄った。見ると幾重にも連なる門はどれも開け放たれ、車はすでに門外に整えられ、堂上には灯火の影がゆらめいているのが望まれた。鉏麑は隙をついて中門に忍び込み、暗がりに身を隠して仔細に窺った。堂上には一人の官人が、朝服朝冠を身にまとい、大帯の端を垂らして笏を正しく捧げ持ち、端然と座っていた。この人物こそ相国・趙盾であった。朝廷に急いで赴こうとしたが、まだ夜が明けきらぬため、座して夜明けを待っていたのである。
  • 鉏麑は大いに驚き、門外に退いて嘆いた。「敬うことを忘れぬとは、民の主というべき人だ。その民の主を殺せば不忠となり、君命を受けてそれを放棄すれば不信となる。不忠不信であっては、どうしてこの天地の間に立っていられようか」。そして門前で叫んだ。「私は鉏麑だ。むしろ君命に背いても、忠臣を殺すには忍びない、私は今ここで自ら死ぬ。後から来る者があるかもしれない、相国は用心されるがよい」。言い終えると、門前の一本の大きな槐の木に頭から突っ込み、脳漿を迸らせて死んだ。史臣に賛がある。

  • (詩:壮なるかな鉏麑、刺客の中の第一人者であること、義を聞いて身を転じ、死を見ること帰るがごとくであったこと、自死によって屠岸賈の恩義に報いつつ趙氏を存続させ、その身は滅んでも名は後世に残ったこと、槐の木陰には今もその生気が漂っていることを詠む)

霊公の宴、提彌明の奮戦

  • この時、門番がこの騒ぎに気づき、鉏麑のことをつぶさに趙盾に報告した。盾の車右・提彌明は言った。「相国は今日、朝廷に入られてはなりません、何か異変があるかもしれません」。趙盾は「主公は私に早朝の参内を許された、もし行かなければ、それは無礼にあたる。生死は天命による、何を恐れることがあろうか」と言い、家人に命じて鉏麑の遺体をひとまず槐の木の側に浅く埋めさせた。趙盾は車に乗って朝廷に入り、他の者と並んで礼を行った。
  • 霊公は趙盾が死んでいないのを見て、屠岸賈に鉏麑のことを尋ねた。岸賈は答えた。「鉏麑は行ったきり戻ってまいりません。ある人は槐に頭をぶつけて死んだと言っておりますが、理由は分かりません」。霊公は「この計は失敗した、どうしたものか」と言った。岸賈は奏上した。「臣にはなお一計ございます、これなら万に一つも失敗はなく趙盾を殺せましょう」。霊公は「卿にはどんな計があるのか」と問うた。岸賈は言った。「主公は明日、趙盾を宮中の宴に招いてください。あらかじめ甲士(甲冑を着けた武装兵)を後ろの壁に伏せておきます。三杯の酒が回った後、主公は趙盾に佩剣を見せるよう求めてください。盾は必ず剣を捧げて差し出すでしょう。臣が傍らから声を上げて『趙盾が君の御前で剣を抜き、謀反を働こうとしている、左右の者は御駕を守れ』と叫びます。そこで伏せた武装兵が一斉に出て、彼を縛って斬りましょう。外の者は皆、趙盾が自ら誅殺を招いたと思うでしょう、主公は大臣を殺したという悪名を免れられます。この計はいかがでしょうか」。霊公は「妙だ、妙だ、その計の通りに行おう」と言った。
  • 翌日、霊公は再び朝に出て、趙盾に言った。「寡人はそなたの直言のおかげで、群臣に親しむことができた。ささやかな宴を設けて、そなたをねぎらいたい」。そして屠岸賈に案内させて宮中へ入らせた。車右の提彌明もこれに従ったが、階段を上ろうとすると、岸賈は「君が相国と宴を催されるのです、他の者は堂に上がれません」と言った。彌明はそこで堂下に立った。趙盾は再拝して、霊公の右側に座を占め、屠岸賈は霊公の左に控えた。料理人が膳を献じ、酒が三巡すると、霊公は趙盾に言った。「寡人は、そなたの佩びる剣がすばらしい利剣だと聞いている、どうか解いて寡人に見せてくれぬか」。趙盾はそれが計略とは知らず、まさに剣を解こうとした。
  • 提彌明は堂下からこれを望み見て、大声で叫んだ。「臣が君の宴に侍る時、礼としては三杯を過ぎてはならぬはず、なぜ酒の後に君の御前で剣を抜こうとされるのですか」。趙盾ははっと悟り、立ち上がった。彌明は怒気をみなぎらせ、まっすぐ堂上に駆け上がり、盾を助けて堂を下りた。岸賈は獒奴に霊獒を放たせ、紫の袍を着た者を追わせた。獒は疾風のごとく走り、宮門の内で盾に追いついた。彌明は千鈞もの力を持ち、両手で獒を組み伏せ、その首を折って殺した。霊公は怒り心頭に発し、壁の中に伏せていた武装兵を出して盾を攻めさせた。彌明は身をもって盾を庇い、盾に急いで逃げるよう促した。彌明は独り残って戦い、多勢に無勢で、全身に傷を負い、力尽きて死んだ。史臣に賛がある。

  • (詩:君にも獒があり、臣にも獒がいる。君の獒は臣の獒に及ばぬこと。君の獒は人を害するばかりだが、臣の獒(提彌明)はよく身を守り助けたこと。ああ二つの獒よ、私は誰と親しむべきかを詠む)

霊輒の恩返しと趙盾の出奔

  • さて趙盾は、提彌明が武装兵たちと格闘してくれたおかげで、身をかわして先に逃げることができた。すると突然、一人の男が狂ったように追いかけてきた。盾は大いに恐れたが、その男は言った。「相国、恐れることはございません、私は救いに来たのです、害しに来たのではございません」。盾は「そなたは何者だ」と問うた。相手は答えた。「相国は翳桑の飢えた男を覚えておられませんか。それが私、霊輒でございます」。
  • (もともと五年前、趙盾は九原山へ狩りに出た帰り、翳桑の木陰で休んでいたところ、一人の男が地に横たわっているのを見た。盾は刺客ではないかと疑い、人を遣わして捕らえさせた。その男は飢えて起き上がることもできず、姓名を問うと、「霊輒と申します。衛に三年間遊学し、今日ようやく帰るところですが、路銀もなく食べる物も得られず、すでに三日飢えております」と答えた。盾はこれを憐れみ、飯と干し肉を与えた。輒は小さな籠を取り出し、まずその半分をしまってから食べ始めた。盾が「なぜ半分をしまうのか」と問うと、輒は答えた。「家に老いた母がおります、西門に住んでおりますが、私は長らく外におり、母が生きているかどうかも分かりません。今、そこから遠くありません、もし幸い母が生きていれば、あなた様の食べ物をその腹を満たすために差し上げたいのです」。盾は「これは孝子だ」と嘆じ、残りをすべて食べさせ、さらに別に簞(竹の器)に盛った飯と肉を用意し、それを袋に入れて授けた。霊輒は拝謝して去った。今、絳州に哺飢坂という地名があるのは、この故事による。その後、霊輒は募集に応じて国君直属の兵卒となり、たまたま武装兵の一隊に加えられていたが、趙盾の昔の恩を思い、特に進み出て救ったのであった。)
  • この時、従者たちは変事を聞いて皆逃げ散っていた。霊輒は趙盾を背負い、朝門を急いで出た。武装兵たちは提彌明を殺した後、力を合わせて追いかけてきた。ちょうどそこへ趙朔が家の召使いを総動員して車を駆り迎えに来て、盾を車に乗せた。盾は急いで霊輒を呼んで共に乗せようとしたが、輒はすでに逃げ去っていた。武装兵たちは趙氏の勢力が多いのを見て、あえて追撃しなかった。趙盾は朔に言った。「私はもう家を顧みることができまい。ここを去って翟か秦か、どちらかに身を寄せる場所を求めるほかあるまい」。こうして父子は共に西門を出て、西へ向かって進んだ。趙宣子(趙盾)がどこへ出奔したのか、次の回で語られる。
原文(底本)
話說仲孫遂同叔孫得臣二人如齊拜賀新君,且謝會葬之情。行禮已畢,齊惠公賜宴,因問及魯國新君:「何以名惡?世間嘉名頗多,何遍用此不美之字?」仲遂對曰:「先寡君初生此子,使太史占之,言:『當惡死,不得享國。』故先寡君名之曰惡,欲以厭之。然此子非先寡君所愛也。所愛者長子名倭,為人賢孝,能敬禮大臣,國人皆思奉之為君,但壓於嫡耳。」惠公曰:「古來亦有『立子以長』之義,況所愛乎?」叔孫得臣曰:「魯國故事,立子以嫡,無嫡方立長。先寡君狃於常禮,置倭而立惡,國人皆不順焉。上國若有意為魯改立賢君,願結婚姻之好,專事上國,歲時朝聘,不敢有闕。」惠公大悅曰:「大夫能主持於內,寡人惟命是從,豈敢有違?」仲遂叔孫得臣請歃血立誓,因設婚約。惠公許之。遂等既返,謂季孫行父曰:「方今晉業已替,齊將復強,彼欲以嫡女室公子倭,此厚援不可失也。」行父曰:「嗣君,齊侯之甥也。齊侯有女,何不室嗣君,而乃歸之公子乎?」仲遂曰:「齊侯聞公子倭之賢,立心與倭交懽,願為甥舅。若夫人姜氏,乃昭公之女,桓公諸子,相攻如仇敵,故四世皆以弟代兄,彼不有其兄,何有於甥?」行父嘿然,歸而嘆曰:「東門氏將有他志矣!」(仲遂家住東門,故呼為東門氏。)行父密告於叔仲彭生。彭生曰:「大位已定,誰敢貳心耶?」殊不以為意。

  仲遂與敬嬴私自定計,伏勇士於廄中,使圉人偽報:「馬生駒甚良!」敬嬴使公子倭同惡與視往廄看駒毛色。勇士突起,以木棍擊惡殺之,並殺視。仲遂曰:「太傅彭生尚在,此人不除,事猶未了。」乃使內侍假傳嗣君有命,召仲叔彭生入宮。彭生將行,其家臣公冉務人,素知仲遂結交宮禁之事,疑其有詐,止之曰:「太傅勿入,入必死。」彭生曰:「有君命,雖死,其可逃乎?」公冉務人曰:「果君命,則太傅不死矣。若非君命而死,死之何名?」彭生不聽。務人牽其袂而泣。彭生絕袂登車,逕造宮中,問嗣君何在?內侍詭對曰:「內廄馬生駒,在彼閱之。」即引彭生往廄所。勇士復攢擊殺之,埋其屍於馬糞之中。敬嬴使人告姜氏曰:「君與公子視,被劣馬騠齧,俱死矣。」姜氏大哭,往廄視之,則二屍俱已移出於宮門之外。季孫行父聞惡視之死,心知仲逐所為,不敢明言,私謂仲遂曰:「子作事太毒,吾不忍聞也。」仲遂曰:「此嬴氏夫人所為,與某無與。」行父曰:「晉若來討,何以待之?」仲遂曰:「齊宋往事,已可知矣。彼弒其長君,尚不成討;今二孺子死,又何討焉?」行父撫嗣君之屍,哭之不覺失聲。仲遂曰:「大臣當議大事,乃效兒女子悲啼何益!」行父乃收淚。叔孫得臣亦至,問其兄彭生何在?仲遂辭以不知。得臣笑曰:「吾兄死為忠臣,是其志也,何必諱哉?」仲遂乃私告以屍處,且曰:「今日之事,立君為急。公子倭賢而且長,宜嗣大位。」百官莫不唯唯。乃奉公子倭為君,是為宣公。百官朝賀。胡曾先生詠史詩云:

    外權內寵私謀合,無罪嗣君一旦休;可笑模棱季文子,三思不復有良謀。

得臣掘馬糞,出彭生之屍而殯之。不在話下。

  再說嫡夫人姜氏,聞二子俱被殺,仲遂扶公子倭為君,搥胸大哭,絕而復甦者幾次。仲遂又獻媚於宣公,引「母以子貴」之文,尊敬嬴為夫人,百官致賀。姜夫人不安於宮,日夜啼哭,命左右收拾車仗,為歸齊之計。仲遂偽使人留之曰:「新君雖非夫人所出,然夫人嫡母也,孝養自當不缺。奈何向外家寄活乎?」姜氏罵曰:「賊遂!我母子何負於汝,而行此慘毒之事?今乃以虛言留我!鬼神有知,決不汝宥也!」姜氏不與敬嬴相見,一逕出了宮門,登車而去。經過大市通衢,放聲大哭,叫曰:「天乎,天乎!二孺子何罪?婢子又何罪?賊遂蔑理喪心,殺嫡立庶!婢子今與國人永辭,不復再至魯國矣!」路人聞者,莫不哀之,多有泣下者。是日,魯國為之罷市。因稱姜氏為哀姜,又以出歸於齊,謂之出姜。出姜至齊,與昭公夫人母子相見,各訴其子之冤,抱頭而哭。齊惠公惡聞哭聲,另築室以遷其母子。出姜竟終於齊。

  卻說魯宣公同母之弟叔肹,為人忠直,見其兄藉仲遂之力,殺弟自立,意甚非之,不往朝賀。宣公使人召之,欲加重用。肹堅辭不往。有友人問其故,肹曰:「吾非惡富貴,但見吾兄,即思吾弟,是以不忍耳!」友人曰:「子既不義其兄,盍適他國乎?」肹曰:「兄未嘗絕我,我何敢於絕兄乎?」適宣公使有司候問,且以粟帛贈之,肹對使者拜辭曰:「肹幸不至凍餓,不敢費公帑。」使者再三致命,肹曰:「俟有缺乏,當來乞取,今決不敢受也。」友人曰:「子不受爵祿,亦足以明志矣。家無餘財,稍領饋遺,以給朝夕饔飱之資,未為傷廉。並卻之,不已甚乎?」肹笑而不答。友人嘆息而去。使者不敢留,回復宣公。宣公曰:「吾弟素貧,不知何以為生?」使人夜伺其所為,方挑燈織屨,俟明早賣之,以治朝餐。宣公嘆曰:「此子欲學伯夷叔齊,採首陽之薇耶?吾當成其志可也。」肹至宣公末年方卒。終其身未嘗受其兄一寸之絲,一粒之粟,亦終其身未嘗言兄之過。史臣有贊云:

    賢者叔肹,感時泣血。織屨自贍,於公不屑。頑民恥周,采薇甘絕。惟叔嗣音,入而不涅。一乳同枝,兄頑弟潔。形彼東門,言之污舌!

魯人高叔肹之義,稱頌不置。成公初年,用其子公孫嬰齊為大夫。於是叔孫氏之外,另有叔氏。叔老、叔弓、叔輒、叔鞅、叔詣,皆其後也。此是後話,擱過一邊。

  再說周匡王五年,為宣公元年。正旦,朝賀方畢,仲遂啟奏:「君內主尚虛,臣前與齊侯,原有婚媾之約,事不容緩。」宣公曰:「誰為寡人使齊者?」仲遂對曰:「約出自臣,臣願獨往。」乃使仲遂如齊,請婚納幣。遂於正月至齊,二月迎夫人姜氏以歸,因密奏宣公曰:「齊雖為甥舅,將來好惡,未可測也。況國有大故者,必列會盟,方成諸侯。臣曾與齊侯歃血為盟,約以歲時朝聘,不敢有闕。蓋預以定位囑之。君必無恤重賂,請齊為會。若彼受賂而許會,因恭謹以事之,則兩國相親,有唇齒之固,君位安於泰山矣。」宣公然其言,隨遣季孫行父往齊謝婚,致詞曰:

    寡君賴君之靈寵,備守宗廟,恐恐焉懼不得列於諸侯,以為君羞。君若惠顧寡君,賜以會好,所有不腆濟西之田,晉文公所以貺先君者,願效贄於上國,惟君辱收之!

齊惠公大悅,乃約魯君以夏五月,會於平州之地。

   至期,魯宣公先往,齊侯繼至,先敘甥舅之情,再行兩君相見之禮。仲遂捧濟西土田之籍以進,齊侯並不推辭。事畢,宣公辭齊侯回魯。仲遂曰:「吾今日始安枕而臥矣。」自此,魯或朝或聘,君臣如齊,殆無虛日,無令不從,無役不共。至齊惠公晚年,感魯侯承順之意,仍以濟西田還之。此是後話。

  話分兩頭。卻說楚莊王旅即位三年,不出號令,日事田獵。及在宮中,惟日夜與婦人飲酒為樂。懸令於朝門曰:「有敢諫者,死無赦!」大夫申無畏入謁,莊王右抱鄭姬,左抱蔡女,踞坐於鐘鼓之間,問曰:「大夫之來,欲飲酒乎?聞樂乎?抑有所欲言也?」申無畏曰:「臣非飲酒聽樂也。適臣行於郊,有以隱語進臣者,臣不能解,願聞之於大王。」莊王曰:「噫!是何隱語,而大夫不能解。盍為寡人言之!」申無畏曰:「有大鳥,身被五色,止於楚之高阜三年矣。不見其飛,不聞其鳴,不知此何鳥也?」莊王知其諷己,笑曰:「寡人知之矣!是非凡鳥也。三年不飛,飛必沖天。三年不鳴,鳴必驚人。子其俟之。」申無再拜而通。居數日,莊王淫樂如故。大夫蘇從請間見莊王,至而大哭。莊王曰:「蘇子何哀之甚也?」蘇從對曰:「臣哭夫身死而楚國之將亡也!」莊王曰:「子何為而死?楚國又何為而亡乎?」蘇從曰:「臣欲進諫於王,王不聽,必殺臣。臣死而楚國更無諫者。恣王之意,以墮楚政,楚之亡可立而待矣。」莊王勃然變色曰:「寡人有令:『敢諫者死。』明知諫之必死,而又欲入犯寡人,不亦愚乎?」蘇從曰:「臣之愚,不及王之愚之甚也!」莊王益怒曰:「寡人胡以愚甚?」蘇從曰:「大王居萬乘之尊,享千里之稅,士馬精強,諸侯畏服,四時貢獻,不絕於庭,此萬世之利也。今荒於酒色,溺於音樂,不理朝政,不親賢才,大國攻於外,小國叛於內,樂在目前,患在日後。夫以一時之樂,而棄萬世之利,非甚愚而何?臣之愚,不過殺身。然大王殺臣,後世將呼臣為忠臣,與龍逢比干並肩,臣不愚也。君之愚,乃至求為匹夫而不可得。臣言畢於此矣。請借大王之佩劍,臣當刎頸王前,以信大王之令!」莊王幡然起立曰:「大夫休矣!大夫之言,忠言也,寡人聽子。」乃絕鐘鼓之懸,屏鄭姬,疏蔡女,立樊姬為夫人,使主宮政。曰:「寡人好獵,樊姬諫我不從,遂不食鳥獸之肉,此吾賢內助也。」任蒍賈、潘尪、屈蕩,以分令尹鬥越椒之權。早朝宴罷,發號施令。令鄭公子歸生伐宋,戰於大棘,獲宋右師華元。命蒍賈救鄭,與晉師戰於北林,獲晉將解揚以歸,踰年放還。自是楚勢日強,莊王遂侈然有爭伯中原之志。

  卻說晉上卿趙盾,因楚日強橫,欲結好於秦以拒楚。趙穿獻謀曰:「秦有屬國曰崇,附秦最久,誠得偏師以侵崇國,秦必來救,因與講和,如此,則我占上風矣。」趙盾從之。乃言於靈公,出車三百乘,遣趙穿為將,侵崇。趙朔曰:「秦晉之仇深矣。又侵其屬國,秦必益怒,焉肯與我議和?」趙盾曰:「吾已許之矣。」朔復言於韓厥,厥微微冷笑,附朔耳言曰:「尊公此舉,欲樹穿以固趙宗,非為和秦也。」趙朔嘿然而退。秦聞晉侵崇,竟不來救,興兵伐晉,圍焦。趙穿還兵救焦,秦師始退。穿自此始與兵政。臾駢病卒,穿遂代之。

  是時晉靈公年長,荒淫暴虐,厚斂於民,廣興土木,好為遊戲。寵任一位大夫,名屠岸賈。(乃屠擊之子,屠岸夷之孫。)岸賈阿諛取悅,言無不納。命岸賈於絳州城內,起一座花園,遍求奇花異草,種植其中。惟桃花最盛,春間開放,爛如錦繡,名曰桃園。園中築起三層高臺,中間建起一座絳霄樓,畫棟雕梁,丹楹刻桷,四圍朱欄曲檻,憑欄四望,市井俱在目前。靈公覽而樂之,不時登臨,或張弓彈鳥,與岸賈賭賽飲酒取樂。一日,召優人呈百戲於臺上,園外百姓聚觀,靈公謂岸賈曰:「彈鳥何如彈人?寡人與卿試之。中目者為勝;中肩臂者免;不中者以大斗罰之。」靈公彈右,岸賈彈左。臺上高叫一聲:「看彈!」弓如月滿,彈似流星,人叢中一人彈去了半隻耳朵,一個彈中了左胛。嚇得眾百性每亂驚亂逃,亂嚷亂擠,齊叫道:「彈又來了!」靈公大怒,索性教左右會放彈的,一齊都放。那彈如雨點一般飛去,百姓躲避不迭,也有破頭的,傷額的,彈出眼烏珠的,打落門牙的,啼哭號呼之聲,耳不忍聞。又有喚爹的,叫娘的,抱頭鼠竄的,推擠跌倒的,倉忙奔避之狀,目不忍見。靈公在臺望見,投弓於地,呵呵大笑,謂岸賈曰:「寡人登臺,遊玩數遍,無如今日之樂也!」自此百姓每望見臺上有人,便不敢在桃園前行走。市中為之諺云:

    莫看臺,飛丸來。出門笑且忻,歸家哭且哀!

又有周人所進猛犬,名曰靈獒,身高三尺,色如紅炭,能解人意。左右有過,靈公即呼獒使噬之。獒起立嚙其顙,不死不已。有一奴,專飼此犬,每日啖以羊肉數斤,犬亦聽其指使。其人名獒奴,使食中大夫之俸。靈公廢了外朝,命諸大夫皆朝於內寢。每視朝或出遊,則獒奴以細鍊牽犬,侍於左右,見者無不悚然。其時列國離心,萬民嗟怨,趙盾等屢屢進諫,勸靈公禮賢遠佞,勤政親民,靈公如瑱充耳,全然不聽,反有疑忌之意。

  忽一日,靈公朝罷,諸大夫皆散,惟趙盾與士會,尚在寢門,商議國家之事,互相怨嘆。只見有二內侍抬一竹籠,自閨而出。趙盾曰:「宮中安有竹籠出外?此必有故。」遙呼:「來,來!」內侍只低頭不應。盾問曰:「竹籠中所置何物?」內侍曰:「爾相國也,欲看時可自來看,我不敢言。」盾心中愈疑,邀士會同往察之,但見人手一隻,微露籠外。二位大夫拉住竹籠細看,乃支解過的一個死人。趙盾大驚,問其來歷,內侍還不肯說。盾曰:「汝再不言,吾先斬汝矣!」內侍方纔告訴道:「此人乃宰夫也。主公命煮熊蹯,急欲下酒,催促數次,宰夫只得獻上。主公嘗之,嫌其未熟,以銅斗擊殺之,又砍為數段,命我等棄於野外。立限時刻回報,遲則獲罪矣。」趙盾乃放內侍依舊扛抬而去。盾謂士會曰:「主上無道,視人命如草菅。國家危亡,只在旦夕。我與子同往苦諫一番,何如?」士會曰:「我二人諫而不從,更無繼者。會請先入諫,若不聽,子當繼之。」時靈公尚在中堂,士會直入。靈公望見,知其必有諫諍之言,乃迎而謂曰:「大夫勿言,寡人已知過矣,今當改之!」士會稽首對曰:「人誰無過,過而能改,社稷之福也!臣等不勝欣幸!」言畢而退,述於趙盾。盾曰:「主公若果悔過,旦晚必有施行。」

  至次日,靈公免朝,命駕車往桃園遊玩。趙盾曰:「主公如此舉動,豈像改過之人?吾今日不得不言矣!」乃先往桃園門外,候靈公至,上前參謁。靈公訝曰:「寡人未嘗召卿,卿何以至此?」趙盾稽首再拜,口稱:「死罪!微臣有言啟奏,望主公寬容採納!臣聞:『有道之君,以樂樂人,無道之君,以樂樂身。』夫宮室嬖倖,田獵遊樂,一身之樂止此矣,未有以殺人為樂者。今主公縱犬噬人,放彈打人,又以小過支解膳夫,此有道之君所不為也,而主公為之。人命至重,濫殺如此,百姓內叛,諸侯外離,桀紂滅亡之禍,將及君身!臣今日不言,更無人言矣。臣不忍坐視君國之危亡,故敢直言無隱。乞主公回輦入朝,改革前非,毋荒遊,毋嗜殺。使晉國危而復安,臣雖死不恨!」靈公大慚,以袖掩面曰:「卿且退,容寡人只今日遊玩,下次當依卿言。」趙盾身蔽園門,不放靈公進去。屠岸賈在旁言曰:「相國進諫,雖是好意,然車駕既已至此,豈可空回,被人恥笑?相國暫請方便。如有政事,俟主公明日早朝,於朝堂議之,何如?」靈公接口曰:「明日早朝,當召卿也。」趙盾不得已,將身閃開,放靈公進園,瞋目視岸賈曰:「亡國敗家,皆由此輩!」恨恨不已。

  岸賈侍靈公遊戲。正在歡笑之際,岸賈忽然嘆曰:「此樂不可再矣!」靈公問曰:「大夫何發此嘆?」岸賈曰:「趙相國明早必然又來聒絮,豈容主公復出耶?」靈公忿然作色曰:「自古臣制於君,不聞君制於臣。此老在,甚不便於寡人,何計可以除之?」岸賈曰:「臣有客鉏麑者,家貧,臣常周給之,感臣之惠,願效死力。若使行刺於相國,主公任意行樂,又何患哉?」靈公曰:「此事若成,卿功非小!」是夜,岸賈密召鉏麑,賜以酒食,告以:「趙盾專權欺主,今奉晉侯之命,使汝往刺。汝可伏於趙相國之門,俟其五鼓赴朝刺殺,不可誤事。」鉏麑領命而行,扎縛停當,帶了雪花般匕首,潛伏趙府左右。聞譙鼓已交五更,便踅到趙府門首,見重門洞開,乘車已駕於門外,望見堂上燈光影影。鉏麑乘間踅進中門,躲在暗處,仔細觀看。堂上有一位官員,朝衣朝冠,垂紳正笏,端然而坐。此位官員,正是相國趙盾,因欲趨朝,天色尚早,坐以待旦。鉏麑大驚,退出門外,嘆曰:「不忘恭敬,民之主也!賊殺民主,則為不忠,受君命而棄之,則為不信,不忠不信,何以立於天地之間哉?」乃呼於門曰:「我,鉏麑也,寧違君命,不忍殺忠臣,我今自殺!恐有後來者,相國謹防之!」言罷,望著門前一株大槐,一頭觸去,腦漿迸裂而死。史臣有贊云:

    壯哉鉏麑,刺客之魁!聞義能徙,視死如歸。報屠存趙,身滅名垂,槐陰所在,生氣依依!

此時驚動了守門人役,將鉏麑如此恁般,報知趙盾。盾之車右提彌明曰:「相國今日不可入朝,恐有他變。」趙盾曰:「主公許我早朝,我若不往,是無禮也。死生有命,吾何慮哉?」吩咐家人,暫將鉏麑淺埋於槐樹之側。趙盾登車入朝,隨班行禮。靈公見趙盾不死,問屠岸賈以鉏麑之事。岸賈答曰:「鉏麑去而不返,有人說道觸槐而死,不知何故?」靈公曰:「此計不成,奈何?」岸賈奏曰:「臣尚有一計,可殺趙盾,萬無一失。」靈公曰:「卿有何計?」岸賈曰:「主公來日,召趙盾飲於宮中,先伏甲士於後壁。俟三爵之後,主公可向趙盾索佩劍觀看,盾必捧劍呈上。臣從旁喝破:『趙盾拔劍於君前,欲行不軌,左右可救駕!』甲士齊出,縛而斬之。外人皆謂趙盾自取誅戮,主公可免殺大臣之名,此計如何?」靈公曰:「妙哉,妙哉!可依計而行。」

  明日,復視朝,靈公謂趙盾曰:「寡人賴吾子直言,以得親於群臣。敬治薄享,以勞吾子。」遂命屠岸賈引入宮中。車右提彌明從之,將升階,岸賈曰:「君宴相國,餘人不得登堂。」彌明乃立於堂下。趙盾再拜,就坐於靈公之右,屠岸賈侍於君左。庖人獻饌,酒三巡,靈公謂趙盾曰:「寡人聞吾子所佩之劍,蓋利劍也,幸解下與寡人觀之。」趙盾不知是計,方欲解劍。提彌明在堂下望見,大呼曰:「臣侍君宴,禮不過三爵,何為酒後拔劍於君前耶?」趙盾悟,遂起立。彌明怒氣勃勃,直趨上堂,扶盾而下。岸賈呼獒奴縱靈獒,令逐紫袍者。獒疾走如飛,追及盾於宮門之內。彌明力舉千鈞,雙手搏獒,折其頸,獒死。靈公怒甚,出壁中伏甲以攻盾,彌明以身蔽盾,教盾急走。彌明留身獨戰,寡不敵眾,遍體被傷,力盡而死。史臣贊云:

    君有獒,臣亦有獒;君之獒,不如臣之獒。君之獒,能害人;臣之獒,克保身。嗚呼二獒!吾誰與親?

話說趙盾虧彌明與甲士格鬥,脫身先走。忽有一人狂追及盾,盾懼甚。其人曰:「相國無畏,我來相救,非相害也。」盾問曰:「汝何人?」對曰:「相國不記翳桑之餓人乎?則我靈輒便是。」(原來五年之前,趙盾曾往九原山打獵而回,休於翳桑之下,見有一男子臥地,盾疑為刺客,使人執之。其人餓不能起,問其姓名,曰:「靈輒也。遊學於衛三年,今日始歸,囊空無所得食,已餓三日矣。」盾憐之,與之飯及脯,輒出一小筐,先藏其半而後食。盾問曰:「汝藏其半何意?」輒對曰:「家有老母,住於西門,小人出外日久,未知母存亡何如?今近不數里,倘幸而母存,願以大人之饌,充老母之腹。」盾嘆曰:「此孝子也!」使盡食其餘,別取簞食與肉,置囊中授之。靈輒拜謝而去。今絳州有哺飢坂,因此得名。後靈輒應募為公徒,適在甲士之數,念趙盾昔日之恩,特地上前相救。)時從人聞變,俱已逃散,靈輒背負趙盾,趨出朝門。眾甲士殺了提彌明,合力來追。恰好趙朔悉起家丁,駕車來迎,扶盾登車。盾急召靈輒欲共載,輒已逃去矣。甲士見趙府人眾,不敢追逐。趙盾謂朔曰:「吾不得復顧家矣!此去或翟或秦,尋一託身之處可也。」於是父子同出西門,望西路而進。不知趙宣子出奔何處,再看下回分解。

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