東周列國志第五十一回 趙盾を責めて董狐が直筆する/闘椒を誅して絶纓の大会を開く (責趙盾董狐直筆 誅鬪椒絕纓大會)
晋霊公、桃園に籠る
- 晋の霊公は趙盾を謀殺しようとしたが、その企ては成らなかった。それでも趙盾が絳城を去ったことを喜び、村の童子が師を離れ、腕白な下男が主人から離れたようにせいせいして、胸のつかえが下りたと感じ、この上なく愉快であった。そこで宮中の側女を連れて桃園に泊まり込み、昼夜城に帰らなくなった。
- 一方、趙穿は西の郊外で狩をして帰る途中、ちょうど趙盾・趙朔父子に出会い、車を止めて対面し、事の次第を尋ねた。
- 趙穿は言った。「叔父はしばらく国境を出ないでください。数日のうちに私から知らせを送りますので、それから身の振り方をお決めください。」
- 趙盾は言った。「そういうことなら、私はしばらく首陽山に留まり、専ら良い知らせを待つ。お前は万事慎重にし、禍の上に禍を重ねるな。」
- 趙穿は趙盾・趙朔父子に別れを告げ、絳城に戻った。霊公が桃園にいると知り、偽って拝謁し、頭を下げて謝罪して言った。「臣穿は、忝くも君家の縁につらなる身ではございますが、それでも罪人の一族でございますので、もはやお側にお仕えするわけにはまいりません。どうかお暇を賜りたく存じます。」
- 霊公はこれを真の誠意と信じ、慰めて言った。「盾はたびたび寡人を欺き侮った。寡人は実に堪えられなかったが、それが卿と何の関わりがあろうか。卿は安心して職に励むがよい。」
- 趙穿は謝恩ののち、さらに奏上して言った。「臣が聞きますに、『人の君たる者にとって貴ぶべきは、ただよく人生の声色の楽しみを極めることである』と申します。主公は鐘鼓こそ懸けておられますが、後宮の女たちは揃っておりません。これでは何の楽しみがございましょうか。斉の桓公は寵愛する側女を宮に満たし、正妻のほかに夫人格の女性が六人おりました。先君文公も亡命の艱難の際に、行く先々で側女を娶り、帰国に至るまで、年齢が六十を過ぎてもなお側室や侍女は数え切れぬほどでした。主公はすでに高殿と広い庭園という寝所をお持ちなのですから、なぜ多く良家の女子を選び、その中に満たし、優れた師に歌舞を教えさせて娯楽に備えないのですか。さぞや美事でございましょう。」
- 霊公は言った。「卿の言うことは、まさに寡人の意にかなう。今、国中の女色を捜し集めようと思うが、誰に任せればよいか。」
- 趙穿は答えた。「大夫の屠岸賈が使えましょう。」
- 霊公はそこで屠岸賈に専らその任を命じた。城内郊外を問わず、容色のある女子で年二十以内の未婚者は、みな名を報告させて選び、一月以内に返答するよう期限を定めた。
- 趙穿はこの公務を口実に屠岸賈を遠ざけると、さらに霊公に奏上した。「桃園の警備は手薄でございます。臣は軍中から精鋭勇猛の者二百人を選び、宿衛として仕えさせたく、御裁可を願い奉ります。」
- 霊公は再びこの奏上を許した。
桃園の変
- 趙穿は陣営に戻り、果たして二百人の甲士(甲冑をつけた武装兵)を選び抜いた。その武装兵たちが尋ねた。「将軍は何をお命じになりますか。」
- 趙穿は言った。「主上は民の情を顧みず、終日桃園で遊興に耽っておられる。私にお前たちを選んで彼の巡警をさせるようお命じになった。お前たちにはみな家族があるのに、これから風に立ち露に宿るような日々がいつ終わるとも知れぬ。」
- 兵士たちはみな嘆き恨んで言った。「このような無道で愚かな君主は、なぜ早く死なぬのか。もし相国がここにいらっしゃれば、必ずこのようなことにはならぬものを。」
- 趙穿は言った。「私に一つ話があるが、お前たちと相談したい。よいだろうか。」
- 兵士たちはみな言った。「将軍が私たちの苦しみを救ってくださるなら、その恩は再生に等しいものです。」
- 趙穿は言った。「桃園は深宮のように守りが厳重ではない。お前たちは二更を合図とし、園中に攻め入り、賞をねだると言いなして、私が袖を振るのを合図に、お前たちが晋侯を殺すのだ。私は相国をお迎えして戻し、新たな君を立てよう。この計はどうだ。」
- 兵士たちはみな言った。「大変よろしい。」
- 趙穿はみなを酒食でねぎらい、桃園の外に列させた。中に入って霊公に報告すると、霊公は台に登ってこれを検分し、一人一人が精悍勇敢であることを見て大いに喜び、そのまま趙穿を留めて酒の相手をさせた。
- 二更まで飲んだところ、外で突然叫び声が聞こえた。霊公が驚いてわけを尋ねると、趙穿は言った。「これはきっと宿衛の兵士が夜行の者を追い払っているのでございましょう。臣が行って諭してまいりますので、どうか驚かれませぬように。」
- 趙穿は灯りを持たせ、階を下りた。選び抜かれた武装兵二百人はすでに門を破って入っていた。趙穿は一同を落ち着かせ、台の前まで導き、楼に登って奏上した。「兵士たちは主公が宴を催しておられると知り、余った酒肴を頂戴して労をねぎらいたいと願っておるだけで、他意はございません。」
- 霊公は命じて内侍に酒を取らせ、皆に分け与えて労い、欄干にもたれて配るさまを見ていた。
- 趙穿は傍らから呼びかけた。「主公が自らお前たちを労ってくださるぞ。それぞれ頂戴せよ。」
- 言い終えると袖を振って合図した。武装兵たちは晋侯と見定めるや、一斉に押し寄せた。霊公は心中慌てふためき、趙穿に言った。「武装兵が台に登ってきたのはどういうことか。卿はすぐに退くよう命じよ。」
- 趙穿は言った。「皆は相国盾に会いたく、主公に召し還して帰国させていただきたいと思っているだけです。」
- 霊公が答え終わらぬうちに、戟がすでに突き刺され、たちまち命を落とした。左右の者はみな驚いて逃げ去った。
- 趙穿は言った。「愚かな君主はすでに除いた。お前たちはみだりに一人も殺してはならぬ。ひとまず私に従って相国をお迎えに行き、朝廷に復されるようにしよう。」
- 晋侯は無道で人を殺すことを好んだため、近侍の者たちは日夜誅殺を恐れており、それゆえ武装兵が反逆を行っても救おうとする者はいなかった。民衆も久しく怨み苦しんでおり、かえって晋侯の死を喜び、趙穿を咎める者は一人もいなかった。
- 七年前、彗星が北斗に入ったとき、占いに「斉・宋・晋三国の君は、みな乱によって死ぬであろう」とあったが、ここに至ってそれが的中したのである。
- 髯翁の詩がある。(詩:高台では歌と管弦の音がまだ鳴りやまぬうちに、血は朱塗りの楼に飛び散って外の兵が起こった。台の前に救う者がいなかったのを怪しむな、霊公が弾を撃って人を避けさせて以来、そこを行き来する者は絶えていたのだ、という趣旨)
趙盾の帰国と成公擁立
- 屠岸賈はちょうど郊外で戸ごとに美女を訪ね歩いていたが、突然「晋侯が弑された」と知らせが入り、大いに驚いた。心中では趙穿の仕業と分かっていたが、あえて声を立てず、密かに屋敷へ引き返した。
- 士会らは変事を聞き、桃園に駆けつけたが、そこには誰もいなかった。彼らもまた趙穿が相国を迎えに行ったのだろうと推し量り、園の門を封鎖して静かに待った。
- ほどなくして趙盾が車を返して絳城に入り、桃園を巡り見ると、百官が一時に集まってきた。趙盾は霊公の屍にすがって激しく泣き、その哀しみの声は園外まで聞こえた。
- これを聞いた民衆はみな言った。「相国はこれほど忠愛の心を持っておられる。晋侯は自ら禍を招いたのであって、相国の過ちではない。」
- 趙盾は霊公の遺体を納棺して安置させ、曲沃に葬らせた。一方で群臣を集め、新君の擁立を議した。当時霊公にはまだ子がなかった。
- 趙盾は言った。「先君襄公が亡くなられたとき、私はかねてより年長の君を立てるべきだと唱えたが、諸臣の考えがまとまらず、今日に至った。今回は慎重にせねばならぬ。」
- 士会は言った。「国に年長の君があることは社稷の福でございます。まことに相国の仰るとおりです。」
- 趙盾は言った。「文公にはなお一人の子がいる。生まれたとき、その母が神人に黒い手で臀を塗られる夢を見たので、名を黒臀という。今は周に仕えており、すでに年も長けている。私はこの人を迎え立てたいと思うが、いかがか。」
- 百官はあえて異論を挟まず、みな言った。「相国のお取り計らいはまことに適切です。」
- 趙盾は趙穿の弑君の罪を解こうと、趙穿を周に遣わし、公子黒臀を迎えて晋に帰らせ、太廟に朝せしめて晋侯の位に就かせた。これが成公である。
成公の治世と趙盾の辞退・董狐の直筆
- 成公が即位すると、専ら趙盾に国政を委ね、自分の娘を趙朔に嫁がせた。これが荘姫である。
- 趙盾はそこで奏上した。「臣の母は狄の女でございました。君姫氏(先君の姫君で、亡父趙衰の正妻、臣の嫡母)には身を引いて譲る美徳がおありで、人を遣わして臣母子を晋に迎え入れてくださり、臣は僭越にも嫡子の座に就き、中軍を主る身となりました。今、君姫氏のお産みになった三人の子、同・括・嬰はみな成長しております。願わくばこの地位を、その者たちにお返ししとうございます。」
- 成公は言った。「卿の弟たちは、我が妹(君姫氏)が鍾愛する子らだ。当然ともに用いるべきであって、そのように過分な譲りをする必要はない。」
- そこで趙同・趙括・趙嬰をそろって大夫とした。趙穿は以前どおり中軍を補佐した。
- 趙穿は密かに趙盾に言った。「屠岸賈は先君に諂い仕え、趙氏と仇敵の間柄でした。桃園の一件について、屠岸賈だけが心中不服に思っております。この者を除かなければ、趙氏の身が安泰ではないでしょう。」
- 趙盾は言った。「人がお前を罪に問わぬのに、お前がかえって人を罪に問うのか。我が宗族はすでに貴く盛んなのだから、ただ同朝の者と睦みを修めるべきであって、仇を尋ねるようなことをしてはならぬ。」
- 趙穿はそこで思いとどまった。屠岸賈もまた慎んで趙氏に仕え、自らの身を守ろうとした。
- 趙盾は終始桃園の一件を心苦しく思っていた。ある日、史館に足を運び、太史の董狐に会い、簡策を求めて見た。董狐は史官の記録を差し出した。
- 趙盾がその簡を見ると、はっきりと「秋七月乙丑、趙盾其の君夷皋を桃園に弑す」と書いてあった。
- 趙盾は大いに驚いて言った。「太史は誤っておる。私はすでに河東に出奔しており、絳城を去ること二百余里、どうして弑君の事など知りえようか。それをお前は私に罪を帰すとは、誣告ではないか。」
- 董狐は言った。「あなたは相国であり、出奔しても国境を越えることはなく、帰国してからも賊を討たれなかった。この事があなたの主謀でないというなら、誰がそれを信じましょうか。」
- 趙盾は言った。「それでもなお改めることはできぬか。」
- 董狐は言った。「是は是とし非は非とする、それを信史と呼びます。私の首は斬ることができても、この簡は改めることができません。」
- 趙盾は嘆いて言った。「ああ、史臣の権は卿相よりも重いのだな。私が直ちに国境を出なかったことが悔やまれる。万世の悪名を受けることになり、悔いても及ばぬ。」
- これより後、趙盾は成公に仕えるにあたり、ますます敬意と慎みを加えるようになった。
- 趙穿は自らの功を頼みとして正卿の地位を求めたが、趙盾は公論に差し障ることを恐れ、許さなかった。
- 趙穿はこれを憤り恨み、背中に疽を発して死んだ。
- 趙穿の子、趙㫋が父の職を継ぎたいと求めたが、趙盾は言った。「お前が後日功を立てるのを待とう。そうすれば卿の位も得難いものではない。」
- 史臣は、趙盾が趙穿父子を私しなかったことについて論じ、みな董狐がありのままに書いたことによるものだとした。賛がある。(賛:凡庸な史官は事を記すのみだが、優れた史官は意を誅する。趙穿が君を弑したのに趙盾がその罪を蒙った。首を斬られても筆に媚びぬ、卓越した董狐よ、その是非は畏るべきである、という趣旨)
- そのとき周の匡王の六年であった。この年、匡王は崩御し、その弟の瑜が立った。これが定王である。
楚荘王の問鼎
- 定王元年、楚の荘王は軍を興して陸渾の戎を討ち、そのまま雒水を渡り、周の国境で兵を誇示し、天子を威嚇し、周と天下を分割統治しようと図った。
- 定王は大夫の王孫満を遣わし荘王を労わせた。荘王は問うた。「寡人が聞くところでは、大禹が九鼎を鋳造し、三代にわたって伝えられ、世の宝とされ、今は雒陽にあるという。その鼎の形の大小と軽重はいかほどか、寡人は一度聞いてみたいものだ。」
- 王孫満は言った。「三代は徳をもって相伝えたのであって、どうして鼎にあったでしょうか。昔、禹が天下を有したとき、九州の牧が金を貢ぎ、それを取って九鼎を鋳造しました。夏の桀が無道であったため、鼎は商に遷りました。商の紂が暴虐であったため、鼎はまた周に遷りました。もし徳があれば、鼎は小さくとも重く、徳がなければ、鼎は大きくとも軽いものです。成王が郟鄏に鼎を定めたとき、卜して三十世、七百年と出ました。天命の在るところは、鼎に問うべきものではありません。」
- 荘王は恥じ入って退き、これより後、二度と周を窺う志を抱かなくなった。
鬥越椒の反乱
- 楚の令尹、鬥越椒は、荘王がその政権を分割してより、怨望の心を抱き、すでに確執を生じていた。自らの才勇を無双と頼み、また先世の功労もあって人々から信服されていたため、久しく謀反の意を抱いていた。常に言っていた。「楚国の人材は、ただ司馬の伯嬴一人のみで、他は数えるに足りない。」
- 荘王が陸渾を討伐する際、鬥越椒が変事を起こすことを慮り、特に蒍賈を国に留めていた。鬥越椒は荘王が軍を率いて出征したのを見て、決意して乱を起こすことにした。一族すべての兵を動員しようとしたが、鬥克がこれに従わなかったため、彼を殺し、そのまま司馬の蒍賈を襲って殺した。
- 蒍賈の子、蒍敖は母を扶けて夢沢に逃れ難を避けた。
- 鬥越椒は蒸野の地に出て陣を布き、荘王の帰路を遮ろうとした。荘王は変事を聞き、急ぎ行軍し、漳澨に至ろうとしたとき、鬥越椒が兵を率いてこれを拒んだ。その軍威は甚だ盛んであった。
- 鬥越椒は弓を張り戟を掲げ、本陣を往来して駆け回り、楚の兵はこれを望み見てみな怖れの色を浮かべた。
- 荘王は言った。「鬥氏は代々楚に功勲がある。むしろ伯棼が寡人に背くとも、寡人は伯棼を裏切らぬ。」
- そこで大夫の蘇従を遣わし、鬥越椒の陣営に赴かせて和睦を持ちかけ、司馬を勝手に殺した罪は赦すと伝えさせ、さらに王みずからの子を人質として差し出すとまで申し出た。
- 鬥越椒は言った。「私は令尹の地位に甘んじることを恥じるのみで、赦しを望んでなどいない。戦えるなら来い。」
- 蘇従は再三諭したが聞き入れなかった。
- 蘇従が去った後、鬥越椒は兵士に太鼓を打たせて前進させた。
- 荘王は諸将に問うた。「誰が鬥越椒を退けられるか。」
- 大将の楽伯が声に応じて進み出た。鬥越椒の子、鬥賁皇がすぐにその相手を引き受け、斬り合いとなった。
- 潘尪は楽伯が賁皇を打ち破れないのを見て、急いで車を駆って陣に出た。鬥越椒の従弟、鬥旗もまた車を駆って応戦した。
- 荘王は戎輅の上で自ら太鼓を打ち、士気を鼓舞して戦を督励した。鬥越椒は遠くから荘王を見つけると、車を飛ばして真っすぐ荘王めがけて突進し、強弓を引き絞って一矢を放った。その矢は車のながえを飛び越し、ちょうど太鼓の架に命中し、荘王は驚いて太鼓のばちを車から落とすほどであった。
- 荘王は急いで矢を避けさせ、左右の者たちが大笠でこれを遮った。鬥越椒はまた一矢を放ち、ちょうど左の笠を貫き通した。荘王はそこで車を返させ、鐘を鳴らして兵を収めさせた。
- 鬥越椒は勢いに乗って追撃したが、右軍の大将、公子側と、左軍の大将、公子嬰齊が両軍そろって攻めかかったため、鬥越椒はようやく退いた。楽伯と潘尪も鐘の音を聞き、陣を捨てて戻った。
- 楚軍はかなりの損耗を出し、皇滸まで退いて陣を構えた。鬥越椒の矢を取って見ると、その長さは普通の矢の一倍半あり、鸛の羽根を矢羽根に、豹の牙を鏃にしていた。切れ味は非常に鋭く、左右で回し見た者はみな舌を巻いた。
- 夜になって、荘王は自ら陣営を見回ると、陣中の兵卒たちが三々五々集まって話しているのを聞いた。「鬥令尹の神業の矢は恐ろしい。とても勝てそうにない。」
- 荘王はそこで人に言わせ、わざと偽って皆に言った。「昔、先君文王の御世に、戎蛮が矢作りに最も優れていると聞き、人を遣わして問うたところ、戎蛮は矢の見本を二本献上した。名を『透骨風』といい、太廟に蔵していたが、鬥越椒に盗まれたのだ。今すでに二本とも射尽くしたのだから、心配することはない。明日には必ず打ち破れる。」
- 皆の心はようやく落ち着いた。荘王はそこで兵を退いて随国に向かうよう命じ、「漢東の諸国の軍勢を起こして鬥氏を討とう」と言いふらした。
- 蘇従は言った。「強敵が目前にいるのに、退けば必ずつけ込まれます。王の御考えは誤りです。」
- 公子側は言った。「これは王の偽りの言葉であろう。我々が拝謁すれば、必ず別の処置があるはずだ。」
- そこで公子嬰齊とともに、夜、荘王に拝謁した。荘王は言った。「逆賊椒の勢いは鋭く、計略で取るべきであって、力で敵するべきではない。」
- 二将にこれこれのように命じ、伏兵を準備させた。二将は計略を受けて去った。
清河橋の戦い
- 翌朝、鶏鳴のころ、荘王は大軍を率いて退却した。鬥越椒はこれを確かに探り知り、大軍を率いて追撃した。
- 楚軍は行軍を急ぎ、すでに竟陵を過ぎて北へ向かった。鬥越椒は一昼夜で二百余里を進み、清河橋に至った。楚軍は橋の北で朝餉の支度をしていたが、追撃の軍が来るのを見て、釜や竈を捨てて逃げた。
- 鬥越椒は命じた。「楚王を捕らえてから朝食を許す。」
- 一同は疲労困憊のうえ、飢えを我慢しながら無理に前進し、後隊の潘尪の軍に追いついた。潘尪は車中に立ち、鬥越椒に言った。「あなたの志は王を捕えることにあるのに、なぜ速く駆けないのですか。」
- 鬥越椒はこれを親切な言葉と信じ、潘尪を見逃した。さらに六十里前進し、青山に至って楚将の熊負羈に出会い、問うた。「楚王はどこにいるか。」
- 熊負羈は言った。「王はまだここには参られておりません。」
- 鬥越椒は疑い、熊負羈に言った。「そなたが私のために王の居所を探ってくれるなら、国を得た暁には、そなたと分治しよう。」
- 熊負羈は言った。「見たところあなたの兵は飢え疲れておられます。まず腹一杯食べてから、戦うがよろしいでしょう。」
- 鬥越椒はもっともだと思い、車を止めて炊事を始めた。炊事がまだ終わらぬうちに、公子側・公子嬰齊の両路の軍が攻め寄せてきた。
- 鬥越椒の軍はもはや戦うことができず、南へ逃げるほかなかった。清河橋まで戻ると、橋はすでに切断されていた。もともと楚の荘王は自ら兵を率いて橋の左右に伏せさせ、鬥越椒が渡り終えるのを待って橋を切り落とし、その帰路を断っていたのである。
- 鬥越椒は大いに驚き、左右に水の深さを測らせ、渡河の計を図ろうとした。すると河向こうで一発の砲声が鳴り、楚軍が河畔で大声で叫んだ。「楽伯はここにいるぞ。逆賊椒よ、速やかに馬を下りて縛につけ。」
- 鬥越椒は激怒し、河越しに矢を放つよう命じた。
養繇基の一矢
- 楽伯の軍中に、射の技に精通した下級の武官がおり、姓を養、名を繇基といい、軍中では神箭養叔と称されていた。彼は自ら楽伯に願い出て、鬥越椒と弓比べをすることを望んだ。
- 河のほとりに立って大声で叫んだ。「河がこれほど広ければ、矢が届くはずもない。令尹殿は弓の名手と聞く。私が腕前を比べてみたい。互いに橋のたもと(橋台)に立って、それぞれ三本ずつ射て、生死は運命に任せよう。」
- 鬥越椒は問うた。「お前は何者か。」
- 答えた。「私は楽将軍配下の下級の将、養繇基でございます。」
- 鬥越椒はその無名を侮り、言った。「私と弓比べをしたいなら、まず私に三本先に射させろ。」
- 養繇基は言った。「三本どころか、百本射てもらってもかまわぬ。私は何を恐れよう。身をかわして避ける者は好漢ではないぞ。」
- そこでそれぞれ後続の軍を止め、橋のたもとの南北両岸に分かれて立った。鬥越椒は弓を引き、まず一矢を放った。養繇基の頭ごと射落としたくてたまらぬほどの勢いであった。
- ところが「慌てる者は熟練せず、熟練した者は慌てない」という通り、養繇基は矢が来るのを見ると、弓の先で軽く払い、その矢はたちまち水中に落ちた。高らかに叫んだ。「早く射よ、早く射よ。」
- 鬥越椒はさらに第二の矢をつがえ、狙いを定めてびゅっと放った。養繇基は身をすっと沈めると、矢は頭上を通り過ぎた。
- 鬥越椒は叫んだ。「身をかわして避けるのは許さぬと言ったのに、なぜ身をかがめて矢を避けたのだ。一人前の男ではないぞ。」
- 養繇基は答えた。「あなたにはまだ一本残っている。私は今度は避けない。それでも中らなければ、今度は私に射させてもらう。」
- 鬥越椒は考えた。「彼が避けないなら、この一矢はきっと当たるはずだ。」そこで第三の矢を取り、端正に狙いを定めて放ち、「当たったぞ」と叫んだ。
- 養繇基は両足を踏ん張り、微動だにせず、矢が到達する瞬間、大きく口を開き、まさに矢の鏃をぴたりと咬み止めた。
- 鬥越椒の三矢はいずれも命中せず、内心すでに慌てていたが、男子たる者、前言を出した以上、失信するわけにはいかず、言った。「お前にも三本射させてやろう。当たらなければ、また私が射る番だぞ。」
- 養繇基は笑って言った。「三本もかけてやっと当てるようでは、まだ初心者だ。私はただ一本で十分、あなたの命はきっと私の手にかかることになる。」
- 鬥越椒は言った。「大言を吐くからには、いくらか腕があるのだろう。好きに射てみるがよい。」内心では、「一本でそう正確に射られるものか。もし一本目が中らなければ、私が止めればよい」と考え、大胆にも射させた。
- 養繇基の矢は百発百中であった。そのとき養繇基は矢を手に取り、「令尹殿、見ておられよ」と一声叫び、弓を引き絞る仕草をしたが、実は矢は放たなかった。
- 鬥越椒は弓弦の音を聞き、矢が来たと思い、左に身をかわした。養繇基は言った。「矢はまだ私の手にあり、弓にはまだかけてもいない。身をかわして避ける者は好漢ではないと言ったであろう。なぜまた身をかわしたのだ。」
- 鬥越椒は言った。「人が避けるのを恐れて撃つ者も、射手として認められはしない。」
- 繇基はまた弓弦を引き絞る音を鳴らすと、鬥越椒はまた右に身をかわした。養繇基はその隙をついて手を放ち矢を放った。鬥越椒は矢が来ることに気づかず、避ける間もなかった。この矢はまっすぐその脳を貫いた。
- あわれなことに、あの鬥越椒は、楚国で数年令尹を務めた身でありながら、今日、下級の将にすぎぬ養繇基のたった一矢に斃れたのであった。
- 髯仙の詩がある。(詩:人生は足るを知るのが最も良く、令尹の身でありながら貪欲にも王位を望んだ。神箭の将軍がちょっと腕試しをしたところ、鬥越椒はもう橋の向こうで命を落とした、という趣旨)
- 鬥氏の軍はすでに飢えと疲労の中にあり、主将が矢に当たったのを見て慌てふためき四方に散り逃げた。楚将の公子側と公子嬰齊が分かれて追撃し、殺された屍は山のように積み重なり、血は河を染めて紅に染まった。
- 鬥越椒の子、鬥賁皇は晋国に逃げ込み、晋侯は彼を大夫に取り立て、苗の地に食邑を与えた。これを苗賁皇という。
鬥氏一族の粛清と鬥克黃
- 荘王はすでに全勝を得て、兵を引き上げよとの令を発し、捕えられた者はすぐさま軍前で斬首させた。凱歌をあげて郢都に帰ると、鬥氏の一族を、老若を問わずことごとく斬首した。
- ただ鬥班の子、名を克黃という者だけは、官が箴尹の位にあった。このとき荘王は斉・秦の二国へ聘問の使者を遣わしており、克黃はそのうち斉への使者を命じられていた。
- 鬥克黃は命を受けて斉に使いし、帰路の宋国で鬥越椒謀反の事を聞いた。左右の者は言った。「郢都に入ってはいけません。」
- 克黃は言った。「国君とは天のようなものだ。その天命を捨てて逃げることなどできようか。」
- 命じて車を駆り郢都に入り、復命を終えると、自ら司寇のもとに赴き囚われることを願い出て言った。「わが祖父の子文は、かつて『鬥越椒には反逆の相があり、必ず一族を滅ぼすことになろう』と言い、臨終の際に父に他国へ逃げるよう命じました。しかし父は代々楚の恩を受けていたためよそに移ることを忍びず、鬥越椒に誅されました。今日まさに祖父の言葉が的中したのです。すでに不幸にして逆臣の一族となり、また不幸にして先祖の教えに背いております。今日死するのが分というものです。どうして刑を逃れることなどできましょうか。」
- 荘王はこれを聞き、嘆じて言った。「子文はまことに神人であった。まして楚のために治めた功は大きい。どうしてその跡継ぎを絶えさせることが忍びようか。」
- そこで克黃の罪を赦し、言った。「克黃は死しても刑を逃れなかった。まことに忠臣である。」
- 元の官に復させ、名を鬥生と改めさせた。死すべきところを生き延びたことを言い表したのである。
虞邱への国政委任と絶纓の会
- 荘王は養繇基の一矢の功を嘉し、厚く賞を加え、親兵を統率させ、車右の職を掌らせた。令尹の適任者が未だ得られなかったため、沈尹の虞邱の賢徳を聞き及び、国事を仮に主らせた。
- 漸台の上に酒宴を設け群臣を大いにもてなし、妃嬪も陪席した。
- 荘王は言った。「寡人が鐘鼓の楽を用いずに、すでに六年になる。今日、叛臣が誅され、四方の国境は安らかになった。諸卿とともに一日の遊びを共にしたいと願う。名づけて『太平の宴』としよう。文武大小の官員は、みな席を設け、存分に楽しみ尽くすようにせよ。」
- 群臣はみな再拝し、次第に着席した。庖人が食を進め、太史が楽を奏した。飲むうちに日は西山に落ちたが、興はまだ尽きなかった。
- 荘王は蝋燭を灯して酒宴を続けるよう命じ、寵愛する許姫(姓は姜氏)に、諸大夫にあまねく酒を注いで回らせた。皆は座を立って立ち飲みをした。
- 突然一陣の怪風が吹き、堂の灯火がすべて消え、左右の者が火を取りに行ってもまだ届かなかった。席の中に一人、許姫の美貌を見て、暗闇の中でその袖を引く者がいた。
- 許姫は左手で袖を振り切り、右手でその者の冠の纓を掴んだ。纓は切れ、その者は驚いて手を放した。
- 許姫は纓を手にし、歩み寄って荘王の前に至り、耳元で奏した。「妾は大王の御命を受け、百官に敬んで酒を捧げておりましたところ、中に一人、無礼にも灯火が消えた隙に強引に妾の袖を引く者がおりました。妾はすでにその纓を手に入れております。王よ、早く火を灯させ、確かめてくださいませ。」
- 荘王は急いで灯り係に命じた。「まだ蝋燭を点すな。寡人の今日の会は、諸卿とともに存分に楽しむという約束であった。諸卿はみな纓を外して痛飲するがよい。纓を切らぬ者は楽しんでおらぬということだ。」
- こうして百官はみな纓を外し、それからようやく蝋燭を灯すことを許した。結局、袖を引いた者が誰であったかは分からずじまいであった。
- 宴が終わり宮中に帰ると、許姫は奏した。「妾が聞くところでは『男女は瀆れてはならぬ』と申します。まして君臣の間はなおさらではありませんか。今、大王が妾に諸臣へ酒を献じさせたのは、敬意を示すためです。妾の袖を引いた者があったのに、王がお調べにならなかったのは、どうして上下の礼をただし、男女の別を正すことになりましょうか。」
- 荘王は笑って言った。「これは婦人の分かるところではない。昔、君臣が宴を催すとき、礼は三爵を過ぎず、ただ昼を占うだけで夜を占わなかった。今、寡人は群臣を存分に楽しませようとし、それに蝋燭を続けさせた。酒後の狂態は人情の常である。もし調べて罪を問えば、婦人の節義を明らかにする一方で、国士の心を傷つけ、群臣をみな楽しませないことになる。それは寡人が命を出した本意ではない。」
- 許姫は感服した。後世、この宴を「絶纓の会」と名づけた。
- 髯翁の詩がある。(詩:暗闇の中で袖を引いた酔中の情、玉の手が風のようにひらめいて纓を切った。皆が言う、君王の度量は江海のように広いと。魚を養う水は清らかすぎることを忌むものだ、という趣旨)
樊姫の諫言と蒍敖の推挙
- ある日、虞邱と政事を論じ、夜更けまで及んでようやく宮に戻った。夫人の樊姫が問うた。「朝廷で今日は何がありましたのか、こんなに遅くまでかかられて。」
- 荘王は言った。「寡人は虞邱と政を論じておって、遅くなったことに気づかなかった。」
- 樊姫は言った。「虞邱とはどのような人物ですか。」
- 荘王は言った。「楚の賢者である。」
- 樊姫は言った。「妾が見るに、虞邱は必ずしも賢者とは申せません。」
- 荘王は言った。「そなたはどうして虞邱が賢者でないと分かるのか。」
- 樊姫は言った。「臣が君にお仕えするのは、妻が夫に仕えるのと同じでございます。妾は後宮の位に備わっておりますが、宮中に美色ある者がいれば、王の御前に進めなかったことはございません。今、虞邱は王と政を論じ、夜更けにまで及びますが、いまだ一人の賢者を推挙したとは聞いておりません。一人の智恵には限りがありますが、楚国の士には限りがございません。虞邱が一人の智恵だけを頼みにして、無数の士を覆い隠しているとしたら、それをどうして賢者と申せましょうか。」
- 荘王はその言葉を善しとし、翌朝、樊姫の言葉を虞邱に伝えた。
- 虞邱は言った。「臣の智恵はここに及びませんでした。ただちに図りましょう。」
- そこであまねく群臣を訪ねた。鬥生が蒍賈の子、蒍敖の賢さを語った。「鬥越椒の難を避けて夢沢に隠棲しております。この人は将相の器でございます。」
- 虞邱がこれを荘王に伝えると、荘王は言った。「伯嬴は智士であった。その子は必ず並みの者ではあるまい。そなたが言わなければ、寡人は危うく忘れるところであった。」
- ただちに虞邱に鬥生を伴わせ、車を駆って夢沢に赴かせ、蒍敖を朝廷に呼び用いることとした。
孫叔敖と両頭の蛇
- 蒍敖は字を孫叔といい、人々は孫叔敖と称した。母を奉じて難を逃れ、夢沢に居を構え、田を耕して自ら生計を立てていた。
- ある日、鋤を担いで出たところ、田の中に頭が二つある蛇を見た。驚いて言った。「聞くところでは両頭の蛇は不祥の物で、これを見た者は必ず死ぬという。私も危ういな。」
- さらに考えた。「もしこの蛇を残しておけば、後の人がまたこれを見て命を落とすことになるかもしれぬ。それなら私一人で引き受けたほうがよい。」
- そこで鋤を振るって蛇を殺し、田の畔に埋め、家に走り帰って母の前で泣いた。
- 母がわけを尋ねると、孫叔敖は答えた。「両頭の蛇を見た者は必ず死ぬと聞きます。私は今それを見てしまいました。母上への孝養を全うできぬのではと恐れ、それゆえ泣いているのです。」
- 母は言った。「その蛇は今どこにあるのか。」
- 孫叔敖は答えた。「後の人がまた見ることを恐れ、すでに殺して埋めました。」
- 母は言った。「人に一念の善があれば、天は必ずこれを祐けるものだ。お前は両頭の蛇を見て、後の人に累が及ぶことを恐れ、殺して埋めた。この善はどうして一念にとどまろうか。お前は必ず死なず、それどころか福を得るであろう。」
- 数日後、虞邱らが使命を奉じて到着し、孫叔敖を召し用いようとした。母は笑って言った。「これは蛇を埋めた報いです。」
- 孫叔敖はその母とともに、虞邱に従って郢に帰った。
孫叔敖、令尹となり軍制と水利を整える
- 荘王は一目見るなり、終日語り合い、大いに喜んで言った。「楚国の諸臣に、卿に比べうる者はいない。」その日のうちに令尹に任じた。
- 孫叔敖は辞退して言った。「臣は田野より起こり、にわかに大政を執るとあっては、どうして人を服させられましょうか。どうか諸大夫の後に従わせてくださいませ。」
- 荘王は言った。「寡人は卿を知っている。卿は辞退してはならぬ。」
- 孫叔敖は再三謙譲した後、ついに命を受けて令尹となった。
- 楚国の制度を考究し、軍法を定めた。すなわち、軍が進むとき、軍の右翼にある者は兵車の轅(ながえ)の左右に付き添って進み、いつでも戦えるよう備え、軍の左翼にある者は馬の飼い葉と敷き草を集め、宿営に備え、前茅は賊の有無を慮り、中権を置き、後勁を備える。(前茅慮無とは、旌旗を前方に立て賊の有無を偵察し、それに応じて計略を練ることをいう。中権とは、権謀がすべて中軍から出て、旁から妨げられないことをいう。後勁とは、精鋭の兵を最後尾に置き、戦うときには奇兵として用い、帰るときにはしんがりとして用いることをいう。)
- 王の親兵は二つの広に分け、それぞれの広には車十五乗、各乗には歩卒百人をつけ、さらに二十五人を遊兵とした。右広は丑・寅・卯・辰・已の五時を管掌し、左広は午・未・申・酉・戌の五時を管掌した。毎日鶏鳴の頃、右広が馬を兵車に繋いでいつでも駆け出せるように備え、日中になると左広がこれに代わり、黄昏でやめた。内宮の者は班を分けて順に亥・子の二時を専ら守り、非常の変に備えた。
- 虞邱に中軍を将いさせ、公子嬰齊に左軍を将いさせ、公子側に右軍を将いさせ、養繇基に右広を将いさせ、屈蕩に左広を将いさせた。四季ごとに閲兵を行い、それぞれ定めの制度があり、三軍は厳しく整い、民衆は乱されることがなかった。
- また芍波を築いて水利を興し、六蓼の地方に至るまで田畑万頃を潤し、民はみなこれを称えた。
- 楚の諸臣は荘王が孫叔敖を寵任するのを見て内心不服であったが、孫叔敖の行いを見るに至って、その手際が実に整然としているのを見て、みな感嘆して言った。「楚国は幸いにして、この賢臣を得た。子文がまた生まれてきたようなものだ。」
- かつての令尹子文が楚国をよく治めたが、今また孫叔敖を得て、子文が再生したかのようであった。
鄭霊公、弑さる
- このころ、鄭の穆公蘭が薨じ、世子の夷が即位した。これが霊公である。
- 公子宋と公子帰生が国政を執り行っていたが、なお晋と楚との間で迷い、どちらに従うか未だ決めかねていた。
- 楚の荘王は孫叔敖と鄭を討伐しようと相談していたが、突然、鄭の霊公が公子帰生に弑されたと聞いた。
- 荘王は言った。「これで鄭を討つ大義名分ができたぞ。」
- 帰生がどのようにして君を弑したかは、次回の解き明かしをご覧あれ。
原文(底本)
話說晉靈公謀殺趙盾,雖然其事不成,卻喜得趙盾離了絳城,如村童離師,頑豎離主,覺得胸懷舒暢,快不可言,遂攜帶宮眷於桃園住宿,日夜不歸。再說趙穿在西郊射獵而回,正遇見盾朔父子,停車相見,詢問緣由。趙穿曰:「叔父且莫出境,數日之內,穿有信到,再決行止。」趙盾曰:「既然如此,吾權住首陽山,專待好音。汝凡事謹慎,莫使禍上加禍!」趙穿別了盾朔父子,回至絳城,知靈公住於桃園,假意謁見,稽首謝罪,言:「臣穿雖忝宗戚,然罪人之族,不敢復侍左右,乞賜罷斥!」靈公信為真誠,乃慰之曰:「盾累次欺蔑寡人,寡人實不能堪,與卿何與?卿可安心供職。」穿謝恩畢,復奏曰:「臣聞『所貴為人主者,惟能極人生聲色之樂也。』主公鐘鼓雖懸,而內宮不備,何樂之有?齊桓公嬖幸滿宮,正娶之外,如夫人者六人。先君文公雖出亡,患難之際,所至納姬,迄於返國,年踰六旬,尚且妾媵無數。主公既有高臺廣囿,以為寢處之所,何不多選良家女子,充牣其中,使明師教之歌舞,以備娛樂,豈不美哉?」靈公曰:「卿所言,正合寡人之意。今欲搜括國中女色,何人可使?」穿對曰:「大夫屠岸賈可使。」靈公遂命屠岸賈專任其事。不拘城內郊外,有顏色女子,年二十以內未嫁者,咸令報名選擇,限一月內回話。趙穿借此公差,遣開了屠岸賈,又奏於靈公曰:「桃園侍衛單弱,臣於軍中精選驍勇二百人,願充宿衛,伏乞主裁!」靈公復准其奏。 趙穿回營,果然挑選了二百名甲士。那甲士問道:「將軍有何差遣?」趙穿曰:「主上不恤民情,終日在桃園行樂,命我挑選汝等,替他巡警。汝等俱有室家,此去立風宿露,何日了期?」軍士皆嗟怨曰:「如此無道昏君,何不速死?若相國在此,必無此事。」趙穿曰:「吾有一語,與汝等商量,不知可否?」眾軍士皆曰:「將軍能救拔我等之苦,恩同再生!」穿曰:「桃園不比深宮邃密,汝等以二更為候,攻入園中,託言討賞,我揮袖為號,汝等殺了晉候,我當迎還相國,別立新君。此計何如?」軍士皆曰:「甚善!」趙穿皆勞以酒食,使列於桃園之外。入告靈公。靈公登臺閱之,人人精勇,個個剛強。靈公大喜,即留趙穿侍酒,飲至二更,外面忽聞喊聲,靈公驚問其故。趙穿曰:「此必宿衛軍士,驅逐夜行之人耳。臣往諭之,勿驚聖駕。」當下趙穿命掌燈,步下層臺。甲士二百人,已毀門而入。趙穿穩住了眾人,引至臺前,升樓奏曰:「軍士知主公飲宴,欲求餘瀝犒勞,別無他意。」公傳旨,教內侍取酒分犒眾人,倚欄看給。趙穿在旁呼曰:「主公親犒汝等,可各領受!」言畢,以袖麾之,眾甲士認定了晉侯,一湧而上。靈公心中著忙,謂趙穿曰:「甲士登臺何意?卿可傳諭速退!」趙穿曰:「眾人思見相國盾,意欲主公召還歸國耳。」靈公未及答言,戟已攢刺,登時身死。左右俱各驚走。趙穿曰:「昏君已除,汝等勿得妄殺一人,且隨我往迎相國還朝也。」只為晉侯無道好殺,近侍朝夕懼誅,所以甲士行逆,莫有救者。百姓怨苦日久,反以晉侯之死為快,絕無一人歸罪於趙穿。七年之前,慧星入北斗,占云:「齊、宋、晉三國之君,皆將死亂。」至是驗矣!髯翁有詩云: 崇臺歌管未停聲,血濺朱樓起外兵,莫怪臺前無救者,避丸之後絕人行。 屠岸賈正在郊外,捱門捱戶的訪問美色女子,忽報:「晉侯被弒!」吃了大驚,心知趙穿所為,不敢聲張,潛回府第。士會等聞變,趨至桃園,寂無一人。亦料趙穿往迎相國,將園門封鎖,靜以待之。不一日,趙盾回車,入於絳城,巡到桃園,百官一時並集。趙盾伏於靈公之屍,痛哭了一場,哀聲聞於園外。百姓聞者皆曰:「相國忠愛如此,晉侯自取其禍,非相國之過也。」趙盾吩咐將靈公殯殮,歸葬曲沃。一面會集群臣,議立新君。時靈公尚未有子,趙盾曰:「先君襄公之歿,吾常倡言欲立長君,眾謀不協,以及今日。此番不可不慎!」士會曰:「國有長君,社稷之福,誠如相國之言。」趙盾曰:「文公尚有一子,始生之時,其母夢神人以黑手塗其臀,因名曰黑臀。今仕於周,其齒已長,吾意欲迎立之,何如?」百官不敢異同,皆曰:「相國處分甚當。」趙盾欲解趙穿弒君之罪,乃使穿如周,迎公子黑臀歸晉,朝於太廟,即晉侯之位,是為成公。 成公既立,專任趙盾以國政,以其女妻趙朔,是為莊姬。盾因奏曰:「臣母乃狄女,君姬氏有遜讓之美,遣人迎臣母子歸晉,臣得僭居適子,遂主中軍。今君姬氏三子同、括、嬰皆長,願以位歸之。」成公曰:「卿之弟,乃吾娣所鐘愛,自當並用,毋勞過讓。」乃以趙同、趙括、趙嬰並為大夫。趙穿佐中軍如故。穿私謂盾曰:「屠岸賈諂事先君,與趙氏為仇,桃園之事,惟岸賈心懷不順。若不除此人,恐趙氏不安!」盾曰:「人不罪汝,汝反罪人耶?吾宗族貴盛,但當與同朝修睦,毋用尋仇為也。」趙穿乃止。岸賈亦謹事趙氏,以求自免。 趙盾終以桃園之事為歉。一日,步至史館,見太史董狐,索簡觀之。董狐將史簡呈上。趙盾觀簡上,明寫:「秋七月乙丑,趙盾弒其君夷皋於桃園。」盾大驚曰:「太史誤矣!吾已出奔河東,去絳城二百餘里,安知弒君之事?而子乃歸罪於我,不亦誣乎?」董狐曰:「子為相國,出亡未嘗越境,返國又不討賊,謂此事非子主謀,誰其信之?」盾曰:「猶可改乎?」狐曰:「是是非非,號為信史。吾頭可斷,此簡不可改也!」盾嘆曰:「嗟乎!史臣之權,乃重於卿相!恨吾未即出境,不免受萬世之惡名,悔之無及。」自是趙盾事成公,益加敬謹。趙穿自恃其功,求為正卿,盾恐礙公論,不許。穿憤恚,疽發於背而死。穿子趙㫋,求嗣父職,盾曰:「待汝他日有功,雖卿位不難致也。」史臣論趙盾不私趙穿父子,皆董狐直筆所致。有贊云: 庸史紀事,良史誅意。穿弒其君,盾蒙其罪。寧斷吾頭,敢以筆媚?卓哉董狐,是非可畏! 時乃周匡王之六年也。是年,匡王崩,其弟瑜立,是為定王。 定王元年,楚莊王興師伐陸渾之戎,遂涉雒水,揚兵於周之疆界,欲以威脅天子,與周分制天下。定王使大夫王孫滿問勞莊王。莊王問曰:「寡人聞大禹鑄有九鼎,三代相傳,以為世寶,今在雒陽。不知鼎形大小與其輕重何如?寡人願一聞之!」王孫滿曰:「三代以德相傳,豈在鼎哉!昔禹有天下,九牧貢金,取鑄九鼎。夏桀無道,鼎遷於商。商紂暴虐,鼎又遷於周。若其有德,鼎雖小亦重,如其無德,雖大猶輕!成王定鼎於郟鄏,卜世三十,卜年七百,天命有在,鼎未可問也?」莊王慚而退,自是不敢復萌窺周之志。 卻說楚令尹鬥越椒,自莊王分其政權,心懷怨望,嫌隙已成。自恃才勇無雙,且先世功勞,人民信服,久有謀叛之意,常言:「楚國人才,惟司馬伯嬴一人,餘不足數也!」莊王伐陸渾時,亦慮越椒有變,特留蒍賈在國。越椒見莊王統兵出征,遂決意作亂。欲盡發本族之眾,鬥克不從,殺之,遂襲殺司馬蒍賈。賈子敖,扶其母奔於夢澤以避難。越椒出屯蒸野之地,欲邀截莊王歸路。莊王聞變,兼程而行,將及漳澨,越椒引兵來拒,軍威甚壯。越椒貫弓挺戟,在本陣往來馳驟,楚兵望之,皆有懼色。莊王曰:「鬥氏世有功勳於楚,寧伯棼負寡人,寡人不負伯棼也!」乃使大夫蘇從,造越椒之營,與之講和,赦其擅殺司馬之罪,且許以王子為質。越椒曰:「吾恥為令尹耳,非望赦也,能戰則來。」蘇從再三諭之,不聽。蘇從去後,越椒命軍士擊鼓前進。莊王問諸將:「何人可退越椒?」大將樂伯應聲而出。越椒之子鬥賁皇便接住廝殺。潘尪見樂伯戰賁皇不下,即忙驅車出陣。越椒之從弟鬥旗亦驅車應之。莊王在戎輅之上,親自執袍,鳴鼓督戰。越椒遠遠望見,飛車直奔莊王,彎著勁弓,一箭射來。那枝箭直飛過車轅,剛剛中在鼓架之上,駭得莊王連鼓槌掉下車來。莊王急教避箭,左右各將大笠前遮。越椒又復一箭,恰恰的把左笠射箇對穿。莊王且教回車,鳴金收兵。越椒奮勇趕來,卻得右軍大將公子側,左軍大將公子嬰齊,兩軍一齊殺到,越椒方退。樂伯潘尪聞金聲,亦棄陣而回。楚軍頗有損折,退至皇滸下寨。取越椒箭視之,其長半倍於他箭,鸛翎為羽,豹齒為鏃,鋒利非常,左右傳觀,無不吐舌。至夜,莊王自出巡營,聞營中軍卒,三三五五,相聚都說:「鬥令尹神箭可畏,難以取勝!」莊王乃使人謬言於眾曰:「昔先君文王之世,聞戎蠻造箭最利,使人問之,戎蠻,乃獻箭樣二枝,名『透骨風』,藏於太廟,為越椒所竊得。今盡於兩射矣,不必慮也。明日當破之。」眾心始定。莊王乃下令退兵隨國,揚言:「欲起漢東諸國之眾,以討鬥氏。」蘇從曰:「強敵在前,一退必為所乘,王失計矣!」公子側曰:「此王之謬言耳。吾等入見,必別有處分。」乃與公子嬰齊,夜見莊王。莊王曰:「逆椒勢銳,可計取,不可力敵也。」吩咐二將,如此恁般,埋伏預備。二將領計去了。 次早,雞鳴,莊王引大軍退走。越椒探聽得實,率眾來追。楚軍兼程疾走,已過竟陵而北。越椒一日一夜,行二百餘里,至清河橋。楚軍在橋北晨炊,望見追兵來到,棄其釜爨而遁。越椒令曰:「擒了楚王,方許朝餐。」眾人勞困之後,又忍著飢餓,勉強前進,追及後隊潘尪之軍。潘尪立於車中,謂越椒曰:「吾子志在取王,何不速馳?」越椒信為好語,乃舍潘尪。前馳六十里,至青山,遇楚將熊負羈,問:「楚王安在?」負羈曰:「王尚未至也。」越椒心疑,謂負羈曰:「子肯為我伺王,如得國,當與子分治。」負羈曰:「吾觀子眾飢困,且飽食,乃可戰耳。」越椒以為然,乃停車治爨。爨尚未熟,只見公子側公子嬰齊兩路軍殺到。越椒之軍,不能復戰,只得南走。回至清河橋,橋已拆斷。原來楚莊王親自引兵,伏於橋之左右,只等越椒過去,便將橋梁拆斷,絕其歸路。越椒大驚,吩咐左右測水深淺,欲為渡河之計。只見隔河一聲砲響,楚軍於河畔大叫:「樂伯在此!逆椒速速下馬受縛!」越椒大怒,命隔河放箭。 樂伯軍中有一小校,精於射藝,姓養名繇基,軍中稱為神箭養叔。自請於樂伯,願與越椒較射。乃立於河口大叫曰:「河闊如此,箭何能及?聞令尹善射,吾當與比較高低,可立於橋堵之上,各射三矢,死生聽命!」越椒問曰:「汝何人也?」應曰:「吾乃樂將軍部下小將養繇基也。」趙椒欺其無名,乃曰:「汝要與我比箭,須讓我先射三矢。」養繇基曰:「莫說三矢,就射百矢,吾何懼哉!躲閃的不算好漢!」乃各約住後隊,分立於橋堵之南北。越椒挽弓先發一箭,恨不得將養繇基連頭帶腦射下河來。誰知「忙者不會,會者不忙。」養繇基見箭來,將弓梢一撥,那箭早落在水中。高叫:「快射,快射!」越椒又將第二箭搭上弓弦,覷得親切,嗖的發來。養繇基將身一蹲,那枝箭從頭而過。越椒叫曰:「你說不許躲閃,如何蹲身躲箭?非丈夫也!」繇基答曰:「你還有一箭,吾今不躲,你若這箭不中,須還我射來。」越椒想道:「他若不躲閃,這枝箭管情射著。」便取第三枝箭,端端正正的射去,叫聲:「著了!」養繇基兩腳站定,並不轉動,箭到之時,張開大口,剛剛的將箭鏃咬住。越椒三箭都不中,心下早已著慌,只是大丈夫出言在前,不好失信,乃叫道:「讓你也射三箭,若射不著,還當我射。」養繇基笑曰:「要三箭方射著你,便是初學了。我只須一箭,管教你性命遭於我手!」越椒曰:「你口出大言,必有些本事,好歹由你射來。」心下想道:「那里一箭便射得正中?若一箭不中,我便喝住他。」大著膽由他射出。誰知養繇基的箭,百發百中。那時養繇基取箭在手,叫一聲:「令尹看射!」虛把弓拽一拽,卻不曾放箭。越椒聽得弓弦響,只說箭來,將身往左一閃。養繇基曰:「箭還在我手,不曾上弓,講過『躲閃的,不算好漢。』你如何又閃去?」越椒曰:「怕人躲閃的,也不算會射!」繇基又虛把弓弦拽響,越椒又往右一閃。養繇基乘他那一閃時,接手放一箭來,鬥越椒不知箭到,躲閃不及,這箭直貫其腦。可憐好個鬥越椒,做了楚國數年令尹,今日死於小將養繇基的一箭之下!髯仙有詩云: 人生知足最為良,令尹貪心又想王;神箭將軍聊試技,越椒已在隔橋亡。 鬥家軍已自飢困,看見主將中箭,慌得四散奔走。楚將公子側公子嬰齊,分路追逐,殺得屍同山積,血染河紅。越椒子鬥賁皇,逃奔晉國,晉侯用為大夫,食邑於苗,謂之苗賁皇。 莊王已獲全勝,傳令班師,有被擒者,即於軍前斬首。凱歌還於郢都,將鬥氏宗族,不拘大小,盡行斬首。只有鬥班之子,名曰克黃,官拜箴尹,是時莊王遣使行聘齊秦二國。鬥克黃領命使齊,歸及宋國,聞越椒作亂之事,左右曰:「不可入矣!」克黃曰:「君,猶天也,天命其可棄乎?」命馳入郢都,復命畢,自詣司寇請囚,曰:「吾祖子文,曾言『越椒有反相,必主滅族。』臨終囑吾父逃避他國。吾父世受楚恩,不忍他適,為越椒所誅。今日果應吾祖之口!既不幸為逆臣之族,又不幸違先祖之訓,今日死其分也!安敢逃刑耶?」莊王聞之,嘆曰:「子文真神人也。況治楚功大,何忍絕其嗣乎?」乃赦克黃之罪,曰:「克黃死不逃刑,乃忠臣也。」命復其官,改名曰鬥生,言其宜死而得生也。 莊王嘉繇基一箭之功,厚加賞賜,使將親軍,掌車右之職。因令尹未得其人,聞沈尹虞邱之賢,使權主國事。置酒大宴群臣於漸臺之上,妃嬪旨從。莊王曰:「寡人不御鐘鼓,已六年於此矣。今日叛臣授首,四境安靖,願與諸卿同一日之遊,名曰:『太平宴』。文武大小官員,俱來設席,務要盡歡而止。」群臣皆再拜,依次就坐。庖人進食,太史奏樂。飲至日落西山,興尚未已。莊王命秉燭再酌,使所幸許姬姜氏,遍送諸大夫之酒,眾俱起席立飲。忽然一陣怪風,將堂燭盡滅,左右取火未至。席中有一人,見許姬美貌,暗中以手牽其袂。許姬左手絕袂,右手攬其冠纓,纓絕,其人驚懼放手。許姬取纓在手,循步至莊王之前,附耳奏曰:「妾奉大王命,敬百官之酒,內有一人無禮,乘燭滅,強牽妾袖。妾已攬得其纓,王可促火察之。」莊王急命掌燈者:「且莫點燭!寡人今日之會,約與諸卿盡歡,諸卿俱去纓痛飲,不絕纓者不懽。」於是百官皆去其纓,方許秉燭,竟不知牽袖者為何人也。席散回宮,許姬奏曰:「妾聞『男女不瀆。』況君臣乎?今大王使妾獻觴於諸臣,以示敬也。牽妾之袂,而王不加察,何以肅上下之禮,而正男女之別乎?」莊王笑曰:「此非婦人所知也!古者,君臣為享,禮不過三爵,但卜其晝,不卜其夜。今寡人使群臣盡懽,繼之以燭,酒後狂態,人情之常。若察而罪之,顯婦人之節,而傷國士之心,使群臣俱不歡,非寡人出令之意也。」許姬嘆服。後世名此宴為「絕纓會」。髯翁有詩云: 暗中牽袂醉中情,玉手如風已絕纓;盡說君王江海量,畜魚水忌十分清。 一日,與虞邱論政,至於夜分,方始回宮。夫人樊姬問曰:「朝中今日何事,而晏罷如此?」莊王曰:「寡人與虞邱論政,殊不覺其晏也。」樊姬曰:「虞邱何如人?」莊王曰:「楚之賢者。」樊姬曰:「以妄觀之,虞邱未必賢矣!」莊王曰:「子何以知虞邱之非賢?」樊姬曰:「臣之事君,猶婦之事夫也。妾備位中官,凡宮中有美色者,未常不進於王前。今虞邱與王論政,動至夜分,然未聞進一賢者。夫一人之智有限,而楚國之士無窮。虞邱欲役一人之智,以掩無窮之士,又烏得為賢乎?」莊王善其言,明早以樊姬之言,述於虞邱。虞邱曰:「臣智不及此,當即圖之。」乃遍訪於群臣。鬥生言蒍賈之子蒍敖之賢:「為避鬥越椒之難,隱居夢澤,此人將相才也。」虞邱言於莊王。莊王曰:「伯嬴智士,其子必不凡。微子言,吾幾忘之。」即命虞邱同鬥生駕車往夢澤,取蒍敖入朝聽用。 卻說蒍敖字孫叔,人稱為孫叔敖。奉母逃難,居於夢澤,力耕自給。一日,荷鋤而出,見田中有蛇兩頭,駭曰:「吾聞兩頭蛇,不祥之物,見者必死,吾其殆矣!」又想道:「若留此蛇,倘後人復見之,又喪其命,不如我一人自當!」乃揮鋤殺蛇,埋於田岸,奔歸向母而泣。母問其故,敖對曰:「聞見兩頭蛇者必死,兒今已見之,恐不能終母之養,是以泣也。」母曰:「蛇今安在?」敖對曰:「兒恐後人復見,已殺而埋之矣。」母曰:「人有一念之善,天必祐之。汝見兩頭蛇,恐累後人,殺而埋之,此其善豈止一念哉?汝必不死,且將獲福矣。」逾數日,虞邱等奉使命至,取用孫叔敖。母笑曰:「此埋蛇之報也。」敖與其母,隨虞邱歸郢。 莊王一見,與語竟日,大悅曰:「楚國諸臣,無卿之比!」即日拜為令尹。孫叔敖辭曰:「臣起自田野,驟執大政,何以服人?請從諸大夫之後!」莊王曰:「寡人知卿,卿可不辭。」叔敖謙讓再三,乃受命為令尹。考求楚國制度,立為軍法:凡軍行,在軍右者,挾轅為戰備;在軍左者,追求草蓐,為宿備;前茅慮無,中權後勁。(前茅慮無者,旌幟在前,以覘賊之有無,而為之謀慮。中權者,權謀皆出中軍,不得旁撓。後勁者,以勁兵為後殿,戰則用為奇兵,歸則用為斷後。)王之親兵,分為二廣,每廣車十五乘,每乘用步卒百人,後以二十五人為遊兵。右廣管丑、寅、卯、辰、已五時;左廣管午、未、申、酉、戌五時。每日雞鳴時分,右廣駕馬以備驅馳,至於日中,則左廣代之,黃昏而止。內宮分班捱次,專主巡亥子二時,以防非常之變。用虞邱將中軍,公子嬰齊將左軍,公子側將右軍,養繇基將右廣,屈蕩將左廣。四時蒐閱,各有常典,三軍嚴肅,百姓無擾。又築芍波以興水利,六蓼之境,灌田萬頃,民咸頌之。楚諸臣見莊王寵任叔敖,心中不服,及見叔敖行事,井井有條,無不嘆息曰:「楚國有幸,得此賢臣,子文其復起矣!」當初令尹子文,善治楚國,今得叔敖,如子文之再生也。 是時鄭穆公蘭薨,世子夷即位,是為靈公。公子宋與公子歸生當國,尚依違於晉楚之間,未決所事。楚莊王與孫叔敖商議欲興兵伐鄭,忽聞鄭靈公被公子歸生所弒,莊王曰:「吾伐鄭益有名矣!」不知歸生如何弒君,且看下回分解。
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