東周列國志第五十五回 華元、寝床に登って子反を脅す/老人、草を結んで杜回を防ぐ (華元登牀劫子反 老人結草亢杜回)
楚の対宋策と申舟の使い
- さて楚の荘王は群臣を大いに集め、晋を退ける方策を協議した。
- 公子側が進み出て言った。「楚が最も親しい国は斉のほかになく、晋に堅く仕えている国は宋を超えるものはございません。もし我らが宋を討伐すれば、晋は宋を救うのに手一杯となり、あえて我らと鄭を争えましょうか。」
- 荘王は言った。「そなたの策は良いが、まだ隙がない。先君が泓で宋を敗った際、その君の腿を傷つけたが、宋はそれを我慢した。厥貉の会でも、宋君は自ら労役の割り当てを引き受けたほどであった。その後、昭公が弑され、子鮑が跡を嗣いで、今すでに十八年になる。討伐するにはどのような名分を奉じればよいか。」
- 公子嬰齊が答えた。「それは難しくございません。斉君はしばしば聘問に来ておりますが、まだ一度もお返ししておりません。今、使者を斉に遣わし聘問の返礼をさせ、そのまま宋を通過させ、道を借りぬようにさせて、彼らの出方を探るのがよろしいでしょう。もし彼らがそれを咎めなければ、我らを恐れているということです。君上がお召しになる会盟にも決して逆らわないでしょう。もし無礼を理由に我らの使者を辱めれば、我らはこれを口実にすればよいのです。名分に事欠くことなどございません。」
- 荘王は言った。「誰を使者にすべきか。」
- 嬰齊は答えた。「申無畏はかつて厥貉の会に従っております。この人物を使わせるのがよろしいでしょう。」
- 荘王はそこで無畏に斉への聘問を命じた。無畏は奏上した。「斉への聘問には必ず宋国を通ることになります。道を借りる文書を用意し検分を受けねば、関を通ることはできません。」
- 荘王は言った。「そなたは使者を阻まれることを恐れているのか。」
- 無畏は答えた。「かつて厥貉の会で、諸侯が孟諸で狩をいたしましたが、宋君が命令に背いたため、臣はその御者を捕らえて処刑いたしました。宋は臣を深く恨んでおりましょう。この行に道を借りる文書がなければ、必ず臣を殺すでしょう。」
- 荘王は言った。「文書には汝の名を申舟と改めよう。無畏という旧名は用いなくてよい。」
- 無畏はなおも承知しかね、言った。「名は改められても、顔は改められません。」
- 荘王は怒って言った。「もしそなたを殺すようなことがあれば、寡人は必ず兵を興してその国を滅ぼし、そなたの仇を討ってやる。」
- 無畏はそこであえて重ねて辞退しなかった。
申舟の壮絶な死
- 翌日、無畏はその子の申犀を伴い、荘王に拝謁して言った。「臣は死をもって国に殉じます。それが分というものです。ただ王には、どうかこの子に厚く目をかけてお世話くださいますよう願い上げます。」
- 荘王は言った。「これは寡人が引き受けることだ。そなたは多くを心配せずともよい。」
- 申舟は使者としての礼物を受け取り、暇乞いをして城を出た。子犀は郊外まで見送った。申舟は言いつけた。「そなたの父は今回の行、必ず宋で死ぬことになろう。そなたは必ず君王に願い出て、私の仇を討ってくれ。この言葉を忘れるな。」
- 父子は涙を流して別れた。
- ほどなく睢陽に至った。関吏は楚の使者と知り、道を借りる文書の提示を求めた。申舟は答えた。「楚王の命を奉じ、斉への聘問の文書は持っているが、道を借りる文書は持っていない。」
- 関吏はそこで申舟を留め置き、急ぎ宋の文公に報告した。
- そのとき華元が政を執っており、文公に奏上した。「楚は我らの代々の仇でございます。今、公然と使者を宋に通そうとし、道を借りる礼を経ないとは、我らを甚だしく侮っております。どうか殺してしまいましょう。」
- 宋公は言った。「楚の使者を殺せば、楚は必ず我らを討つであろう。どうすればよいか。」
- 華元は答えた。「我らを侮る恥辱は、討たれることよりも甚だしいものです。しかも我らを侮った以上、勢い必ず討たれることになりましょう。同じく討たれるならば、いっそこの恥をすすいでおきましょう。」
- そこで人を遣わし申舟を捕らえて宋の朝廷に連れて来させた。華元は一目見て、これが申無畏だと気づき、怒りに怒りを重ねて責めた。「そなたは以前、我が亡き先君の御者を殺しておきながら、今、名を改めて死を逃れようとしているのか。」
- 申舟は自らが必ず死ぬと悟り、宋の鮑を大いに罵った。「お前は祖母を奸淫し、嫡流の甥を弑してなお天誅を免れた身でありながら、さらに大国の使者をみだりに殺すとは。楚兵が到着すれば、お前ら君臣は粉々にされるであろう。」
- 華元は先にその舌を割かせ、それから殺させた。斉への聘問の文書と礼物は、郊外に焼き捨てた。従者は車を捨てて逃げ帰り、荘王に報告した。
- 荘王はちょうど昼食をとっているところであったが、申舟が殺されたと聞き、箸を席に投げつけ、袖を振り払って立ち上がった。ただちに司馬の公子側を大将に、申叔時を副将に任じ、直ちに車を整え、自ら宋を討伐に赴いた。申犀を軍正として従軍させた。
- 按ずるに、申舟は夏四月に殺されたが、楚の兵は秋九月にはすでに宋の国境に到達しており、まさに迅速の極みであった。
- 潜淵の詩がある。(詩:宋を欺けば必ず禍を招くと明らかに知っていながら、君命は天のごとし、どうして身を惜しめようか。袖を振り払って軍を起こせば風雨のごとく至り、華元はきっと使者を殺したことを悔いるであろう、という趣旨)
睢陽の攻防と解揚の使命
- 楚の兵は睢陽の城を包囲し、城の高さと等しい楼車を築き、四方から攻めかけた。華元は兵民を率いて巡回して守り、一方で大夫の楽嬰齊を晋に急派して救援を求めた。
- 晋の景公は兵を出して救おうとした。謀臣の伯宗が諫めて言った。「林父が六百乗をもって邲城で敗れたのは、天が楚を助けたのでございます。今、救援に赴いても必ずしも功があるとは限りません。」
- 景公は言った。「今の世で晋に最も親しいのは宋だけである。もし救わなければ、宋を失うことになる。」
- 伯宗は言った。「楚は宋から二千里も離れております。糧食の輸送が続かず、必ず長くは持ちません。今、一人の使者を宋に遣わし、『晋はすでに大軍を起こして救援に向かっている』とだけ伝えさせ、堅く城を守るよう諭させましょう。数か月のうちに楚軍は必ず去ることになります。これで我らは楚と敵対する労を負わずに済み、しかも宋を救った功も得られます。」
- 景公はこれを是とし、「誰が宋への使者になれるか」と問うた。大夫の解揚がその任を願い出た。
- 景公は言った。「そなたのほかにこの任に耐えられる者はいない。」
- 解揚は忍びの姿で宋の郊外まで行ったところ、楚の遊兵に誰何され捕らえられ、荘王のもとに献じられた。
- 荘王は解揚が晋の将であると見て取り、問うた。「そなたは何のために来たのか。」
- 解揚は言った。「晋侯の命を奉じ、宋国に堅く守って救援を待つよう諭しに参りました。」
- 楚の荘王は言った。「なんと晋の使者であったか。そなたは以前、北林の戦役で、我が将の蒍賈に捕らえられたが、寡人はそなたを殺さず、国へ帰らせてやったではないか。今回もまた自ら罠に飛び込んでくるとは、どういう了見か。」
- 解揚は言った。「晋と楚は仇敵の間柄です。捕らえられて殺されるのは分というもの、それ以上何を申しましょうか。」
- 荘王は解揚の身に持っていた文書を探し出させ、読み終えると言った。「宋の城が落ちるのは間もなくのことだ。そなたは文書中の言葉を逆にして、『我が国に事があって、急には救援に赴けない。お前の国のことを誤ることを恐れて、特に私の口から伝える』と言うことができないか。そうすれば宋人は絶望し、必ず出て降伏するであろう。両国の民が屠殺される惨事を免れるというものだ。事が成れば、そなたを県公に封じ、楚国に留めて仕えさせよう。」
- 解揚は頭を下げて答えなかった。荘王は言った。「そうしないならば、そなたを斬るまでだ。」
- 解揚はもとより従うつもりはなかったが、楚軍で身を殺されれば晋君への言伝を伝える者がいなくなることを恐れ、偽って承知して言った。「承知いたしました。」
- 荘王は解揚を楼車の上に登らせ、人を傍らに置いて促させた。解揚はそこで宋人に呼びかけた。「私は晋国の使者、解揚である。楚軍に捕らえられ、そなたたちを誘って降伏させようとされている。決して降伏してはならぬ。我が主公は自ら大軍を率いて救援に向かわれている。まもなく必ず到着する。」
- 荘王はこの言葉を聞き、急ぎ楼車から引き下ろすよう命じ、責めて言った。「そなたはすでに寡人に承諾しておきながら、それに背いた。そなたが自ら信を失ったのであって、寡人の過ちではない。」
- 左右に斬れと命じたが、解揚は少しも懼れる様子を見せず、静かに答えた。「臣は決して信を失ってなどおりません。臣がもし完全に楚に信を尽くせば、必ず晋への信を失うことになります。もし楚に臣がいて、その主の言葉に背いて外国から賂を取るような者がいたとすれば、君上はこれを信と申されますか、不信と申されますか。臣を誅していただき、それをもって楚国の信なるものは他国に対してばかりで、自国の内には及んでいないことを明らかにいたしましょう。」
- 荘王は嘆じて言った。「『忠臣は死を恐れず』とはまさにそなたのことだ。」そう言って解揚を解き放ち帰らせた。
- 宋の華元は解揚の報告により、守りをますます堅くした。
- 公子側は城外に土の物見台を築き、城壁上に設ける防御用の櫓(敵楼)に似せた形に造らせ、自らそこに居座り、城内の様子を窺い、一挙一動を知り尽くしていた。華元もまた城内に土の物見台を築いて対抗した。
- 秋九月の包囲開始から、翌年の夏五月に至るまで、両者は九か月にわたって対峙し、睢陽城中の兵糧も馬草も尽き、多くの者が餓死した。華元はひたすら忠義の心で部下を励まし、民衆は感泣して、子を取り換えて食べ、骨を拾って薪の代わりに使うほどになりながら、それでも変心する者はなかった。
- 荘王もどうしようもなくなった。軍吏が申し出た。「陣中にはあと七日分の糧しかございません。」
- 荘王は言った。「宋国がこれほど落とし難いとは、思いもよらなかった。」自ら車に乗って宋城を巡り視ると、城壁を守る兵士は甚だ厳粛に整っており、深いため息をつき、ただちに公子側を召して軍を引き揚げることを協議した。
築室耕田の計と華元の単身潜入
- 申犀は馬前に泣きふして言った。「臣の父は死をもって王の御命に従いました。王は臣の父への約束を違えられるのですか。」荘王は面に恥じる色を浮かべた。
- 申叔時は荘王の轡を執る御者を務めていたが、計を献じて言った。「宋が降伏しないのは、我が方が長くは持たないと見切っているからです。もし兵士に室を築かせ田を耕させ、長期戦の構えを示せば、宋は必ず懼れましょう。」
- 荘王は言った。「この計はまことに良い。」そこで兵士に城の周囲一帯に兵舎を築かせ、城外の民家を取り壊し、竹木を伐ってこれに用いさせた。兵十人ごとに、五人を攻城に残し、五人を耕作にあて、十日ごとに交代させ、兵士はこの様子を互いに伝え合った。
- 華元はこれを聞き、宋の文公に言った。「楚王には去る意がございません。晋の救援は来ません。どういたしましょうか。臣が楚の陣営に入り、直接子反に会い、脅して和議に持ち込んで、あるいはうまくいくかもしれません。」
- 宋の文公は言った。「社稷の存亡はこの一行にかかっている。くれぐれも用心せよ。」
- 華元は公子側が土の物見台の櫓に宿泊していることを探り知り、あらかじめその左右の者の姓名や、宿直の警備の詳細を把握した。夜更けに謁者のような格好をして、密かに城壁から縄で下り、まっすぐ物見台のそばまで行った。
- 巡回の兵が拍子木を打ちながら来るのに出会い、華元は問うた。「総大将はご在室か。」巡兵は「おられます」と答えた。
- さらに問うた。「もうお休みか。」巡兵は言った。「連日ご苦労なさっており、今夜は大王から酒一樽を賜り、それを飲んですでにお休みになりました。」
- 華元は物見台に上ろうとしたが、守衛の兵士に阻まれた。華元は言った。「私は謁者の庸僚という者だ。大王から緊急かつ機密の御用があり総大将にお伝えせよとのことだ。先ほど酒を賜ったばかりゆえ酔って寝ておられるかと思い、特に私を遣わして直接お耳に入れさせようとのことで、すぐに返事を頂かねばならぬ。」
- 兵士はこれを真に受け、華元を物見台に上がらせた。台内には灯火がまだ明るく、公子側は衣を着たまま眠りこけていた。
- 華元はそのままその寝床に上がり、そっと手で押した。公子側は目を覚まし、身動きしようとしたが、両袖を華元に押さえ込まれていた。急いで問うた。「そなたは何者か。」
- 華元は低い声で答えた。「元帥、驚かれますな。私は宋国の右師、華元でございます。主公の命を奉じ、特に夜こうして和議を求めに参りました。元帥がもしお聞き入れくださるなら、代々和好を結ぶことになりましょう。もし承知なさらぬなら、私と元帥の命は、今夜ここで尽きることになりましょう。」
- 言い終えると、左手で寝床を押さえたまま、右手で袖から真っ白な匕首を取り出し、灯火の下でひらめかせた。
- 公子側は慌てて答えた。「事があるならよく話し合おう、粗暴なことはよせ。」
- 華元は匕首を収め、謝って言った。「死罪をお許しください。事態が切迫しており、悠長に構えていられなかったのです。」
- 公子側は言った。「そなたの国はどのような有様か。」
- 華元は言った。「子を取り換えて食べ、骨を拾って燃やして炊事をする有様で、すでに甚だしく困窮しております。」
- 公子側は驚いて言った。「宋の困窮がここまでに至っていたとは。私は用兵の常道として『虚を実に見せ、実を虚に見せる』と聞いている。そなたはなぜ真実を告げるのか。」
- 華元は言った。「『君子は人の危難を憐れみ、小人は人の危難につけこむ』と申します。元帥は君子であって、小人ではございません。それゆえ私はあえて情を隠さないのです。」
- 公子側は言った。「それならばなぜ降伏しないのか。」
- 華元は言った。「国はすでに困窮の様相を呈しておりますが、人には困窮に屈しない志がございます。君も民も命をかけて城とともに砕けようとしており、どうして城下の盟を結ぶことなどできましょうか。もし憐れみをもってお許しいただけるなら、三十里軍を退いてくだされば、わが君は喜んで国を挙げてお従いし、決して二心を抱かぬと誓います。」
- 公子側は言った。「私も偽らずに言おう。軍中にもただ七日分の糧しか残っていない。もし七日過ぎても城が落ちなければ、我らもまた軍を引き揚げるつもりであった。室を築き田を耕させる令は、しばしそなたたちを脅すためであった。明日、私が楚王に奏上しよう。軍を三十里退かせる。そなたたち君臣も信を失ってはならぬぞ。」
- 華元は言った。「私は自ら人質となり、元帥とともに誓詞を立てましょう。」
- 二人は誓いを立て終えると、公子側はそのまま華元と義兄弟の契りを結び、通行の証となる令の矢一本を華元に渡し、言いつけた。「速やかに行け。」
- 華元は令の矢を得て、堂々と歩き、まっすぐ城下に至り、口に合言葉を唱えると、城上から吊り籠が下ろされ、華元は城壁の上に引き上げられた。華元はその夜のうちに宋公に復命し、喜び勇んで、明日の撤退の知らせをひたすら待つことになった。
講和成立
- 翌朝、公子側は夜来の華元の言葉を荘王に告げた。「臣の一命は、あやうく匕首の下に失われるところでございました。幸い華元の仁心により、国情を実際に臣にお告げくださり、退軍を哀願されました。臣はすでにこれを許してしまいました。どうか王よ、御詔をお願いいたします。」
- 荘王は言った。「宋がここまで困憊しているのなら、寡人はこれを取って帰るとしよう。」
- 公子側は頭を下げて言った。「我が軍にはただ七日分の糧しかないことは、臣がすでに告げてしまっております。」
- 荘王は色をなして怒った。「そなたはなぜ実情を敵に漏らしたのか。」
- 公子側は答えた。「区々たる弱小の宋にさえ、なお人を欺かない臣がおります。まして堂々たる大楚に、かえってそのような臣がいないなどということがございましょうか。それゆえ臣はあえて隠さなかったのです。」
- 荘王は顔色を和らげて言った。「司馬の言うとおりだ。」ただちに退軍の令を下し、三十里の外に駐屯させた。
- 申犀は軍令がすでに下ったのを見て、あえてこれ以上阻もうとせず、胸を打って大いに泣いた。荘王は人を遣わして慰めさせて言った。「そなたは悲しむな。必ずそなたの孝を成就させてやろう。」
- 楚軍は陣を整え終え、華元は先に楚軍に赴き、宋公の命を伝え、盟約を受けたいと請うた。公子側は華元とともに城に入り、宋の文公と血をすすって盟った。宋公は華元に申舟の棺を楚の陣営に送らせ、華元をそのまま人質として楚に留めた。
- 荘王は軍を引き揚げて楚に帰り、申舟を手厚く葬った。朝廷のすべての者が葬儀に赴いた。葬儀が終わると、申犀に父の職を嗣がせ大夫とした。
華元と嬰齊・公子側の交わり
- 華元は楚にいる間、公子側の縁を通じてさらに公子嬰齊とも交わりを結び、嬰齊とも親しくなった。
- ある日、集まりの席で時事を論じるうちに、公子嬰齊が嘆いて言った。「今、晋と楚が争い合い、日々戦を求めている。天下はいつになれば太平を得られようか。」
- 華元は言った。「愚見によれば、晋と楚は雌雄を争って優劣つかず、まことに一人がこの二国の和平を成し遂げ、それぞれがその属国を朝せしめ、兵を息めて好誼を修めることができれば、民が塗炭の苦しみを免れる、まことに世道の大幸となりましょう。」
- 嬰齊は言った。「この事、そなたに任せられるか。」
- 華元は言った。「私は晋の将、欒書と親しく、以前晋に聘問した折にもこのことに触れました。ただ間を取り持つ人がいないだけです。」
- 翌日、嬰齊は華元の言葉を公子側に告げた。側は言った。「二国はまだ兵を厭う心を持っていない。この件は軽々しく議すべきではないだろう。」
- 華元は楚に留まること六年、周の定王十八年に至り、宋の文公鮑が卒し、子の共公固が立った。華元は帰国して喪に服することを願い出て、ようやく宋国に帰った。これは後の話である。
潞国討伐
- さて晋の景公は、楚人が宋を包囲して年を越しても解かれぬと聞き、伯宗に言った。「宋の城守りも疲れ果てているであろう。寡人は宋への信義を失うわけにはいかぬ。救援に赴くべきだ。」
- まさに兵を発しようとしたとき、突然「潞国から密書が届いた」との報告が入った。
- 按ずるに、潞国は赤狄の別種で、隗姓、子爵であり、黎国と隣接していた。周の平王の時、潞君が黎侯を追い出してその地を有し、これより赤狄はますます強くなった。
- このとき潞君の名は嬰兒といい、晋の景公の妹、伯姫を夫人に娶っていた。嬰兒は気弱で、その国相の酆舒がもっぱら権を握り事を専断していた。
- 以前、狐射姑がこの国に亡命してきており、彼は晋国の勲功のあった臣で、見識も広く才もあったため、酆舒も彼には三分ほど遠慮し、あまり放埓には振る舞えなかった。しかし射姑が死んで以降、酆舒はますます憚るところがなくなり、潞君に晋との好誼を絶たせようとし、伯姫に罪をでっち上げ、その君を脅して伯姫を縊り殺させた。
- さらに潞君とともに郊外で狩をした際、酔ったあとに君臣で弾き玉を弄び飛鳥を賭けの的にする遊びをした。酆舒が弾を放ったとき、誤って潞君の目を傷つけてしまったが、弓を地に投げ捨てて笑って言った。「弾がうまく当たらなかった。臣は罰として一杯飲みましょう。」
- 潞君はその横暴に耐えられなかったが、力でこれを制することができず、そこで密書を晋に送り、酆舒の罪を討つ兵を興すよう求めた。
- 謀臣の伯宗が進み出て言った。「酆舒を討ち滅ぼし、潞の地を併合し、その勢いで周辺の国々にも及んで、狄の地をことごとく我が領土といたせば、西南の領土がますます広がり、晋の動員できる兵力も軍役・賦税の負担力もますます充実いたします。この機を逃してはなりません。」
- 景公もまた潞君嬰兒がその妻を庇えなかったことに怒り、荀林父を大将、魏顆を副将に任じ、兵車三百乗を出して潞を討伐させた。
酆舒の敗死と潞の滅亡
- 酆舒は兵を率いて曲梁で防戦したが、敗れて衛に逃げた。衛の穆公速はちょうど晋と親しくしていたため、酆舒を捕らえて晋軍に献上した。荀林父は絳都に縛り送らせ、これを殺した。
- 晋の軍はそのまま長駆して潞城に入った。潞君嬰兒は馬前に出迎えたが、林父は伯姫を無実の罪で殺させた罪を数え立て、彼を捕らえて連れ帰った。「黎の人々は久しく自国の君を思っている」と口実をつけ、黎侯の子孫を探し出し、五百家を割いて城を築いて住まわせた。名づけて「復黎」としたが、実際には潞を滅ぼしたのであった。
- 嬰兒はその国の滅亡を悲しみ、自ら首を刎ねて死んだ。潞の人々はこれを哀れみ、彼のために祠を立てた。今、黎城の南十五里に潞祠山があるのはこれである。
秦の杜回の来襲
- 晋の景公は林父が功を成せぬのではと恐れ、自ら大軍を率いて稷山に駐屯した。林父は先に稷山に至って戦勝を報告し、副将の魏顆を残して赤狄の地を平定させることとした。
- その魏顆が平定を終えて引き返し、輔氏の沢に至ったところ、突然砂塵が空を覆い、喊声が天に轟いた。晋兵は誰の兵かも分からなかった。前哨から急報があった。「秦国が大将の杜回を遣わし兵を起こしてやって来ました。」
- 按ずるに、秦の康公は周の匡王の四年に薨じ、子の共公稻が立った。趙穿が崇に侵攻して事の発端を起こしたため、秦の兵は焦を包囲したが功を成せず、そこで酆舒と厚く結んで晋を共に図ろうとした。共公は在位四年で薨じ、子の桓公榮が立った。今は秦の桓公十一年にあたり、晋が酆舒を討つと聞いて、まさに兵を起こして救おうとしていたが、また晋がすでに酆舒を殺し潞君を捕らえたと聞き、そこで杜回に兵を率いさせて潞の地を争わせに遣わしたのであった。
- あの杜回は秦国きっての力士であった。牙は張り出し銀のように光り、目は突き出て金色に輝き、拳は銅槌のごとく、顔は鉄鉢のようで、虯のような髭に巻き毛、身の丈は一丈余りもあった。力は千鈞を挙げるほどで、いつも山をも切り開くという大斧を一振り手にしており、その重さは百二十斤であった。もとは白翟の人であった。
- かつて青眉山で、一日のうちに五頭の虎を素手で打ち倒し、その皮を剥いで持ち帰ったことがある。秦の桓公はその勇猛さを聞き、車右将軍に招いた。さらに三百人で嵯峨山の賊寇一万余人を破ったことで威名が大いに高まり、そのまま大将となった。
杜回の猛威
- 魏顆は陣を布いて交戦を待った。杜回は車馬を用いず、大斧を手に、戦い慣れた斬り込み隊三百人を率いて、大股に真っすぐ陣中に突入してきた。下は馬の足を斬り払い、上は甲冑の将を斬り伏せ、まさに天から降りてきた殺戮の神のようであった。
- 晋兵はこれまでこのような凶暴さを見たことがなく、防ぎきれず大敗を喫した。魏顆は陣営を固く固め、出撃を控えるよう命じた。
- 杜回は大刀と斧を持つ一隊を率いて陣営の外を跳び回って罵り、三日続けても、魏顆はあえて応戦しなかった。
- 突然、本国から援軍が来たとの報が入った。その将は魏顆の弟、魏錡であった。錡は言った。「主公は赤狄の残党が秦国と結んで変事を起こすことを懸念され、特に私を遣わして助けさせようとされました。」
- 魏顆は秦将杜回の勇猛ぶりを語り、まさに人を遣わして援兵を求めようとしていたところだと述べた。魏錡は信じず、言った。「あのような草寇風情に何ができようか。明日、私が陣に出て、必ず勝ってご覧に入れよう。」
魏錡の敗戦
- 翌日、杜回はまた戦いを挑んできた。魏錡は憤然として出撃しようとし、魏顆はこれを止めたが、魏錡は聞き入れなかった。そこで新たに到着した武装兵を率い、車を駆って真っすぐ進んだ。秦兵はそのまま四方に散り逃げた。魏錡は車を分けてこれを追った。
- 突然、呼び声が一つ上がると、三百人の斬り込み隊がまた一つに合流し、みな杜回に従って、大刀と斧で、下は馬の足を斬り、上は甲冑の将を斬り伏せた。北の歩兵は車について進んでいたが、輅車は方向転換が容易でなく、彼らに前後左右から機を見て斬られ、魏錡は大敗した。
- 幸い魏顆が兵を率いて呼応し救援に来たため、なんとか陣営に戻った。
青草坡の伏兵と結草の助け
- その夜、魏顆は陣中で悶々と考え込み、あれこれ思案していたが、三更頃、疲れて眠りに落ちた。うとうとする中、耳元で誰かが「青草坡」と言う三文字を聞いたようだったが、目覚めるとその意味が分からなかった。再び眠ると、また同じ言葉が聞こえた。
- そこで魏錡に語った。魏錡は言った。「輔氏から左に十里行ったところに大きな坡があり、青草坡と呼ばれています。あるいは秦軍はこの地で敗れるのではないでしょうか。私が先に一軍を率いてそこに伏兵を置き、兄が敵軍をここまで誘い込んでくださるなら、左右から挟み撃ちにすれば勝てましょう。」
- 魏錡は自ら伏兵の準備に赴いた。魏顆は「陣を払って全軍を起こせ」と令し、「ひとまず黎城へ帰る」と言いふらした。
- 杜回は果たして追いかけてきた。魏顆は数合渡り合うと、車を返して逃げ、次第に青草坡へと引き込んでいった。
- 一発の砲声とともに、魏錡の伏兵が一斉に立ち上がった。魏顆も身を翻して戻り、杜回を包囲し、両側から挟み撃ちにした。杜回は少しも懼れる様子を見せず、百二十斤の山をも切り開く大斧を振り回し、縦横に斬りつけ、当たる者はことごとく死んだ。斬り込み隊にはかなりの損害を与えたものの、晋軍は勝ちを収めることができなかった。
- 魏顆・魏錡の兄弟は軍を督励して杜回に力戦を挑んだが、杜回は退かなかった。青草坡の中ほどまで斬り込んだところ、杜回は突然一歩ごとによろめき、油を塗った靴で氷の上を踏むように足元が定まらなくなった。軍中で喊声が上がった。
- 魏顆が目を上げて見ると、遠くに一人の老人がいて、布の袍に草鞋を履き、まるで農夫のような姿で、一筋に生えた青草を結び束ねて杜回の足に絡ませていた。
- 魏顆・魏錡は二台の車を並べて駆け寄り、二本の戟を同時に突き入れ、杜回を突き倒して生け捕りにした。斬り込み隊は主将が捕らえられたのを見て四方に逃げ散ったが、みな晋兵に追われて捕らえられ、三百人のうち逃げおおせた者はわずか四、五十人であった。
- 魏顆は杜回に問うた。「そなたはあれほど英雄ぶっていたのに、どうして捕らえられたのか。」
- 杜回は言った。「私の両足に何かが絡みついたようで、身動きが取れなくなった。天が私の命を絶ったのであって、力が足りなかったのではない。」
- 魏顆は内心不思議に思った。魏錡は言った。「あれほどの力を持つ者を軍中に留めておけば、また変事が起こるかもしれません。」
- 魏顆は言った。「私もまさにそれを懸念していたところだ。」
- そこで杜回をただちに斬首し、稷山に送って功を報告した。
結草の恩義
- その夜、魏顆はようやく安眠できたが、昼間見た老人が夢に現れ、揖礼をして言った。「将軍は杜回がどうして捕らえられたか御存じか。あれは老人がこの手で草を結んで防いだからこそ、つまずいて捕らえられたのでございます。」
- 魏顆は大いに驚いて言った。「私は日頃よりお会いしたこともないのに、ご助力を賜ったとは、どうお礼を申し上げればよいか。」
- 老人は言った。「私は祖姫の父でございます。あなたが先人の正気のうちの遺言に従い、我が娘をよく嫁がせてくださったこと、老いた私は九泉の下でわが娘の命を活かしていただいた恩を感じ、特に微力ながら効を尽くし、将軍がこの軍功を成し遂げるのをお助けいたしました。将軍よ、努めてください。後日必ず代々栄達し、子孫は王侯として貴ばれることでしょう。この言葉をお忘れなきよう。」
魏顆の孝と父の乱命
- もとより魏顆の父、魏犨には愛妾がおり、名を祖姫といった。犨は出征のたびに、必ず魏顆にこう言い含めていた。「もし私が戦場で死んだら、お前は私に代わってこの女に良い配偶を選び嫁がせてやり、行き場に困らせるな。私は死んでも瞑目することができよう。」
- しかし魏犨が病篤くなったとき、また魏顆に言い含めた。「この女は私が愛しんできた者だ。必ず私の葬儀に殉じさせよ。あの世で私に伴わせたいのだ。」言い終えると亡くなった。
- 魏顆は父を葬るにあたり、祖姫を殉葬させなかった。魏錡は言った。「父上が臨終に言い含められたことを覚えておられぬのですか。」
- 顆は言った。「父上は平生、この女を必ず嫁がせよと言っておられた。臨終の言葉は昏迷の中の言葉にすぎない。孝子は正気のうちの遺言に従い、昏乱の中の言葉には従わないものだ。」
- 葬儀を終えると、士人を選んで祖姫を嫁がせた。この陰徳があったからこそ、老人が草を結んで恩に報いてくれたのであった。
- 魏顆は夢から覚めると、魏錡に語った。「私はあのとき父の本心をこまやかに汲み取り、この女を殺さずに済ませたのだが、思いもよらず彼女の父がこれほどまでにあの世でこの恩を感じてくれていたとは。」魏錡もまた深く感嘆した。
- 髯仙の詩がある。(詩:誰が草を結んで杜回を防いだのかといえば、夢の中で明らかに恩返しに来たと語った。人には広く陰徳を積むよう勧めるべきである、道理に順えば心は安らかになり、福は自ずと訪れる、という趣旨)
魏顆への恩賞と赤狄の平定
- 秦の敗兵は雍州に戻り、杜回が戦死したと知って、君臣ともに意気消沈した。晋の景公は魏顆の功を嘉し、令狐の地を封じ、さらに大鐘を鋳造してこの功績を記念し、年月をつぶさに記した。後世の人はこれを晋の景公が鋳造したことから「景鐘」と名づけた。
- 晋の景公はさらに士会に兵を率いさせ、赤狄の残党を滅ぼさせた。あわせて三国を滅ぼした。甲氏、留吁、および留吁の属国である鐸辰である。これより赤狄の地はことごとく晋のものとなった。
郤雍の察盗と羊舌職の予言
- そのころ晋国はその年が凶作で、盗賊が蜂起した。荀林父は国中で盗賊を見抜く力のある者を探し、郤氏の一族で名を雍という者を見つけた。この人物は推し量る力に長け、かつて市中を歩いていたとき、ふと一人を指して盗賊だと言い当てた。人を遣わして拘束し取り調べると、果たして真の盗人であった。
- 林父は問うた。「どうしてそれが分かるのか。」
- 郤雍は言った。「私はその者の眉やまつげの間を観察いたします。市中の物を見て貪欲な様子を見せ、市中の人を見て後ろめたい様子を見せ、私の到来を聞いて懼れる様子を見せる、それでこれと知るのです。」
- 郤雍は毎日数十人もの盗賊を捕らえたが、市井の人々は畏怖するばかりで、盗賊はますます増えていった。
- 大夫の羊舌職は林父に言った。「元帥が郤雍に盗賊を捕らえる任を負わせておられますが、盗賊はまだ捕らえ尽くされておりませんのに、郤雍の死期がすでに迫っております。」
- 林父は驚いて問うた。「なぜか。」
- 羊舌職がどのようなことを言い出すのかは、次回の解き明かしをご覧あれ。
原文(底本)
話說楚莊王大集群臣,計議卻晉之事。公子側進曰:「楚所善無如齊,而事晉之堅,無過於宋。若我興師伐宋,晉方救宋不暇,敢與我爭鄭乎?」莊王曰:「子策雖善,然未有隙也。自先君敗宋於泓,傷其君股,宋能忍之。及厥貉之會,宋君親受服役。其後昭公見弒,子鮑嗣立,今十八年矣,伐之當奉何名?」公子嬰齊對曰:「是不難。齊君屢次來聘,尚未一答。今宜遣使報聘於齊,竟自過宋,令勿假道,且以探之。若彼不較,是懼我也,君之會盟,必不拒矣。如以無禮之故,辱我使臣,我借此為辭,何患無名哉?」莊王曰:「何人可使?」嬰齊對曰:「申無畏曾從厥貉之會,此人可使也。」 莊王乃命無畏如齊修聘。無畏奏曰:「聘齊必經宋國,須有假道文書送驗,方可過關。」莊王曰:「汝畏阻絕使臣耶?」無畏答曰:「向者厥貉之會,諸君田於孟諸,宋君違令,臣執其僕而戮之,宋恨臣必深﹔此行若無假道文書,必然殺臣。」莊王曰:「文書上與汝改名曰申舟,不用無畏舊名可矣。」無畏猶不肯行,曰:「名可改,面不可改。」莊王怒曰:「若殺子,我當興兵破滅其國,為子報仇!」無畏乃不敢復辭。 明日,率其子申犀,謁見莊王曰:「臣以死殉國,分也﹔但願王善視此子。」莊王曰:「此寡人之事,子勿多慮。」申舟領了出使禮物,拜辭出城。子犀送至郊外,申舟吩咐曰:「汝父此行,必死於宋。汝必請於君王,為我報仇,切記吾言!」父子灑淚而別。 不一日,行至睢陽,關吏知是楚國使臣,要索假道文驗。申舟答言:「奉楚王之命,但有聘齊文書,卻沒有假道文書。」關吏遂將申舟留住,飛報宋文公。時華元為政,奏於文公曰:「楚,吾世仇也。今遣使公然過宋,不循假道之禮,欺我甚矣!請殺之!」宋公曰:「殺楚使,楚必伐我,奈何?」華元對曰:「欺我之恥,甚於受伐﹔況欺我,勢必伐我。均之受伐,且雪吾恥。」乃使人執申舟至宋廷,華元一見,認得就是申無畏,怒上加怒,責之曰:「汝曾戮我先公之僕,今改名,欲逃死耶?」申舟自知必死,大罵宋鮑:「汝奸祖母,弒嫡姪,幸免天誅﹔又妄殺大國之使,楚兵一到,汝君臣為虀粉矣!」華元命先割其舌,而後殺之。將聘齊的文書禮物,焚棄於郊外。從人棄車而遁,回報莊王。莊王方進午膳,聞申舟見殺,投箸於席,奮袂而起。即拜司馬公子側為大將,申叔時副之,立刻整車,親自伐宋,使申犀為軍正,從征。按申舟以夏四月被殺,楚兵以秋九月即造宋境,可謂速之至矣!潛淵有詩云: 明知欺宋必遭屯,君命如天敢惜身?投袂興師風雨至,華元應悔殺行人。 楚兵將睢陽城圍困,造樓車高與城等,四面攻城。華元率兵民巡守,一面遣大夫樂嬰齊奔晉告急。晉景公欲發兵救之。謀臣伯宗諫曰:「林父以六百乘而敗於邲城,此天助楚也,往救未必有功。」景公曰:「當今惟宋與晉親,若不救,則失宋矣。」伯宗曰:「楚距宋二千里之遙,糧運不繼,必不能久。今遣一使往宋,只說:『晉已起大軍來救。』諭使堅守。不過數月,楚師將去。是我無敵楚之勞,而有救宋之功也。」景公然其言,問:「誰能與我使宋國者?」大夫解揚請行。景公曰:「非子虎不勝此任也。」解揚微服行及宋郊,被楚之遊兵盤詰獲住,獻於莊王。莊王認得是晉將解揚,問曰:「汝來何事?」解揚曰:「奉晉侯之命,來諭宋國,堅守待救。」楚莊王曰:「原來是晉使臣!爾前者北林之役,汝為我將蒍賈所擒,寡人不殺,放汝回國﹔今番又來自投羅網,有何理說?」解揚曰:「晉楚仇敵,見殺分也,又何說乎?」莊王搜得身邊文書,看畢,謂曰:「宋城破在旦夕矣,汝能反書中之言,說汝國中有事,『急切不能相救,恐誤你國之事,特遣我口傳相報。』如此,則宋人絕望,必然出降,省得兩國人民屠戮之慘。事成之日,當封你為縣公,留仕楚國。」解揚低頭不應。莊王曰:「不然,當斬汝矣!」解揚本欲不從,恐身死於楚軍,無人達晉君之命,乃佯許曰:「諾。」莊王升解揚於樓車之上,使人從旁促之。揚遂呼宋人曰:「我晉國使臣解揚也。被楚軍所獲,使我誘汝出降。汝切不可!我主公親率大軍來救,不久必至矣。」莊王聞其言,命速牽下樓車,責之曰:「爾既許寡人,而又背之,爾自無信,非寡人之過也。」叱左右斬訖報來。解揚全無懼色,徐聲答曰:「臣未嘗無信也。臣若全信於楚,必然失信於晉,假使楚有臣而背其主之言,以取賂於外國,君以為信乎?不信乎?臣請就誅,以明楚國之信,在外不在內!」莊王嘆曰:「『忠臣不懼死。』子之謂矣!」縱之使歸。 宋華元因解揚之告,繕守益堅。公子側使軍士築土堙於外,如敵樓之狀,親自居之,以闞城內,一舉一動皆知。華元亦於城內築土堙以向之。自秋九月圍起,至明年之夏五月,彼此相拒九個月頭,睢陽城中,糧草俱盡,人多餓死。華元但以忠義激勸其下,百姓感泣,甚至易子為食,拾骸骨為爨,全無變志。莊王沒奈何了。軍吏稟道:「營中只有七日之糧矣!」莊王曰:「吾不意宋國難下如此!」乃親自登車,閱視宋城,見守陴軍士,甚是嚴整,嘆了一口氣,即召公子側議班師。 申犀哭拜於馬前曰:「臣父以死奉王之命,王乃失信於臣父乎?」莊王面有慙色。申叔時時為莊王執轡在車,乃獻計曰:「宋之不降,度我不能久耳。若使軍士築室耕田,示以長久之計,宋必懼矣。」莊王曰:「此計甚善!」乃下令,軍士沿城一帶起建營房,即拆城外民居,并砍伐竹木為之。每軍十名,留五名攻城,五名耕種,十日一更番,軍士互相傳說。華元聞之,謂宋文公曰:「楚王無去志矣!晉救不至,奈何?臣請入楚營,面見子反,劫之以和,或可僥倖成事也。」宋文公曰:「社稷存亡,在此一行,小心在意!」華元探知公子側在土堙敵樓上住宿,預得其左右姓名,及奉差守宿備細。捱至夜分,扮作謁者模樣,悄地從城上縋下,直到土堙邊。遇巡軍擊柝而來,華元問曰:「主帥在上乎?」巡軍曰:「在。」又問曰:「已睡乎?」巡軍曰:「連日辛苦,今夜大王賜酒一罇,飲之已就枕矣。」華元走上土堙,守堙軍士阻之。華元曰:「我謁者庸僚也。大王有緊要機密事吩咐主帥。因適纔賜酒,恐其醉臥,特遣我來當面叮囑,立等回復。」軍士認以為真,讓華元登堙。堙內燈燭尚明,公子側和衣睡倒。華元逕上其床,輕輕的以手推之。公子側醒來,要轉動時,兩袖被華元坐住了。急問:「汝是何人?」華元低聲答曰:「元帥勿驚,吾乃宋國右師華元也。奉主公之命,特地夜至求和。元帥若見從,當世從盟好﹔若還不允,元與元帥之命,俱盡於今夜矣!」言畢,左手按住臥席,右手於袖中掣出雪白一柄匕首,燈光之下,晃上兩晃。公子側慌忙答曰:「有事大家商量,不須粗鹵。」華元收了匕首,謝曰:「死罪勿怪!情勢已急,不得從容也。」公子側曰:「子國中如何光景?」華元曰:「易子而食,拾骨而爨,已十分狼狽矣。」公子側驚曰:「宋之困敝,一至此乎?吾聞軍事『虛者實之,實者虛之』。子奈何以實情告我?」華元曰:「『君子矜人之危,小人利人之危。』元帥乃君子,非小人,元是以不敢匿情。」公子側曰:「然則何以不降?」華元曰:「國有已困之形,人有不困之志。君民效死,與城俱碎,豈肯為城下之盟哉?倘蒙矜厄之仁,退師三十里,寡君願以國從,誓無二志!」公子側曰:「我不相欺,軍中亦止有七日之糧矣。若過七日,城不下,亦將班師。築室耕田之令,聊以相恐耳。明日我當奏知楚王,退軍一舍﹔爾君臣亦不可失信。」華元曰:「元情願以身為質,與元帥共立誓詞,各無反悔。」二人設誓已畢,公子側遂與華元結為兄弟,將令箭一枝付與華元,吩咐:「速行。」華元有了令箭,公然行走,直到城下,口中一個暗號,城上便放下兜子,將華元吊上城堙去了。華元連夜回復宋公,歡歡喜喜,專等明日退軍消息。 次早天明,公子側將夜來華元所言,告於莊王,言:「臣之一命,幾喪於匕首。幸華元仁心,將國情實告於我,哀懇退師﹔臣已許之。乞我王降旨!」莊王曰:「宋困憊如此,寡人當取此而歸。」公子側頓首曰:「我軍止有七日之糧,臣已告之矣。」莊王勃然怒曰:「子何為以實情輸敵?」公子側對曰:「區區弱宋,尚有不欺人之臣﹔豈堂堂大楚,而反無之?臣故不敢隱諱。」莊王顏色頓霽曰:「司馬之言是也!」即降旨退軍,屯於三十里之外。申犀見軍令已出,不敢復阻,捶胸大哭。莊王使人安慰之曰:「子勿悲,終當成汝之孝。」楚軍安營已定,華元先到楚軍,致宋公之命,請受盟約。公子側隨華元入城,與宋文公歃血為誓。宋公遣華元送申舟之棺於楚營,即留身為質。莊王班師歸楚,厚葬申舟,舉朝皆往送葬。葬畢,使申犀嗣為大夫。 華元在楚,因公子側又結交公子嬰齊,與嬰齊相善。一日,聚會之間,論及時事,公子嬰齊嘆曰:「今晉楚分爭,日尋干戈,天下何時得太平耶?」華元曰:「以愚觀之,晉楚互為雌雄,不相上下,誠得一人合二國之成,各朝其屬,息兵修好,生民免於塗炭,誠為世道之大幸!」嬰齊曰:「此事子能任之乎?」華元曰:「元與晉將欒書相善,向年聘晉時,亦曾言及於此。奈無人從中聯合耳。」明日,嬰齊以華元之言,告於公子側。側曰:「二國尚未厭兵,此事殆未可輕議也。」華元留楚凡六年,至周定王十八年,宋文公鮑卒,子共公固立,華元請歸奔喪,始返宋國。此是後話。 卻說晉景公聞楚人圍宋,經年不解,謂伯宗曰:「宋之城守倦矣。寡人不可失信於宋,當往救之。」正欲發兵,忽報:「潞國有密書送到。」按潞國乃赤狄別種,隗姓,子爵,與黎國為鄰。周平王時,潞君逐黎侯而有其地,於是赤狄益強。此時潞子名嬰兒,娶晉景公之娣伯姬為夫人。嬰兒微弱,其國相酆舒,專權用事。先時,狐射姑奔在彼國,他是晉國勳臣,識多才廣,酆舒還怕他三分,不敢放恣。自射姑死後,酆舒益無忌憚,欲潞子絕晉之好,誣伯姬以罪,逼其君使縊殺之。又與潞子出獵郊外,醉後君臣打彈為戲,賭彈飛鳥。酆舒放彈,誤傷潞子之目,投弓於地,笑曰:「彈得不准,臣當罰酒一巵!」潞子不堪其虐,力不能制,遂寫密書送晉,求晉起兵來討酆舒之罪。謀臣伯宗進曰:「苦戮酆舒,兼並潞地,因及旁國,盡有狄土,則西南之疆益拓,而晉之兵賦益充,此機不可失也。」景公亦怒潞子嬰兒不能庇其妻,乃命荀林父為大將,魏顆副之,出車三百乘伐潞。 酆舒率兵拒於曲梁,戰敗奔衛。衛穆公速方與晉睦,囚酆舒以獻於晉軍。荀林父令縛至絳都,殺之。晉師長驅直入潞城,潞子嬰兒迎於馬首,林父數其誣殺伯姬之罪,並執以歸。託言曰:「黎人思其君久矣。」乃訪黎侯之裔,割五百家,築城以居之,名為復黎,實則滅潞也。嬰兒痛其國亡,自刎而死。潞人哀之,為之立祠。今黎城南十五里,有潞祠山是也。 晉景公恐林父未能成功,自率大軍屯於稷山。林父先至稷山獻捷,留副將魏顆,略定赤狄之地。還至輔氏之澤,忽見塵頭蔽日,喊殺連天,晉兵不知為誰。前哨飛報:「秦國遣大將杜回起兵來到。」按秦康公薨於周匡王之四年,子共公稻立,因趙穿侵崇起釁,秦兵圍焦無功,遂厚結酆舒,共圖晉國。共公立四年薨,子桓公榮立。此時乃秦桓公之十一年,聞晉伐酆舒,方欲起兵來救﹔又聞晉已殺酆舒,執潞子,遂遣杜回引兵來爭潞地。 那杜回是秦國有名的力士,生得牙張銀鑿,眼突金睛,拳似銅鎚,臉如鐵缽,虯鬚卷髮,身長一丈有餘。力舉千鈞,慣使一柄開山大斧,重一百二十斤。本白翟人氏。曾於青眉山,一日拳打五虎,皆剝其皮以歸。秦桓公聞其勇,聘為車右將軍。又以三百人破嵯峨山賊寇萬餘,威名大振,遂為大將。 魏顆排開陣勢,等待交鋒。杜回卻不用車馬,手執大斧,領著慣戰殺手三百人,大踏步直沖入陣來。下砍馬足,上劈甲將,分明是天降下神煞一般!晉兵從來未見此兇狠,遮攔不住,大敗一陣。魏顆下令,扎紮營壘,且莫出戰。杜回領著一隊刀斧手,在營外跳躍叫罵,一連三日,魏顆不敢出應。忽報本國有兵來到,其將乃顆弟魏錡也。錡曰:「主公恐赤狄之黨,結連秦國生變,特遣弟來幫助。」魏顆述秦將杜回,如此恁般,勇不可當,正欲遣人請兵。魏錡不信,曰:「彼草寇何能為?來日弟當見陣,管取勝之。」 至明日,杜回又來挑戰,魏錡忿然欲出,魏顆止之,不聽。當下領著新來甲士,驅車直進,秦兵卻四散奔走,魏錡分車逐之。忽然呼哨一聲,三百個殺手,復合為一,都跟著杜回,大刀闊斧,下砍馬足,上劈甲將。北邊步卒隨車行轉,輅車不便轉折,被他左右前後,覷便就砍,魏錡大敗。虧著魏顆引兵接應,回營去了。 是夜,魏顆在營中悶坐,左思右想,沒有良策。坐至三更困倦,朦朧睡去,耳邊似有人言「青草坡」三字,醒來不解其義﹔再睡,仍復如前。乃向魏錡言之。魏錡曰:「輔氏左去十里,有個大坡,名為青草坡,或者秦軍合敗於此地也。弟先引一軍往彼埋伏,兄誘敵軍至此,左右夾攻,可以取勝。」魏錡自去行埋伏之事。魏顆傳令:「拔寨都起。」揚言:「且回黎城。」杜回果然來追,魏顆略鬥數合,回車就走,漸漸引近青草坡來。一聲砲響,魏錡伏兵俱起。魏顆復身轉來,將杜回團團圍住,兩下夾攻。杜回全不畏懼,輪著一百二十斤的開山大斧,橫劈豎劈,當者輒死,雖然眾殺手頗有損傷,不能取勝。二魏督率眾軍,力戰杜回不退。看看殺至青草坡中間,杜回忽然一步一跌,如油靴踏著層冰,立腳不住,軍中發起喊來。魏顆舉眼看時,遙見一老人,布袍芒履,似莊家之狀,將青草一路挽結,以攀杜回之足。魏顆魏錡雙車碾到,二戟并舉,把杜回搠倒在地,活捉過來。眾殺手見主將被擒,四散逃奔,俱為晉兵追而獲之,三百人逃不得四五十人。魏顆問杜回曰:「汝自逞英雄,何以見擒?」杜回曰:「吾雙足似有物攀住,不能展動,乃天絕我命,非力不及也。」魏顆暗暗稱奇。魏錡曰:「彼既有絕力,留於軍中,恐有他變。」魏顆曰:「吾意正慮及此。」即時將杜回斬首,解往稷山請功。 是夜,魏顆始得安睡,夢日間所見老人,前來致揖曰:「將軍知杜回所以獲乎?是老漢結草以禦之,所以顛躓被獲耳。」魏顆大驚曰:「素不識叟面,乃蒙相助,何以奉酬?」老人曰:「我乃祖姬之父也。爾用先人之治命,善嫁吾女,老漢九泉之下,感子活女之命,特效微力,助將軍成此軍功。將軍勉之,後當世世榮顯,子孫貴為王侯,無忘吾言。」 原來魏顆之父魏犨,有一愛妾,名曰祖姬。犨每出征,必囑魏顆曰:「吾若戰死沙場,汝當為我選擇良配,以嫁此女,勿令失所,吾死亦瞑目矣。」及魏犨病篤之時,又囑顆曰:「此女吾所愛惜,必用以殉吾葬,使吾泉下有伴也。」言訖而卒。魏顆營葬其父,並不用祖姬為殉。魏錡曰:「不記父臨終之囑乎?」顆曰:「父平日吩咐必嫁此女,臨終乃昏亂之言。孝子從治命,不從亂命。」葬事畢,遂擇士人而嫁之。有此陰德,所以老人有結草之報。魏顆夢覺,述於魏錡曰:「吾當時曲體親心,不殺此女,不意女父銜恩地下如此。」魏錡嘆息不已。髯仙有詩云: 結草何人亢杜回?夢中明說報恩來。勸人廣積陰功事,理順心安福自該。 秦國敗兵,回到雍州,知杜回戰死,君臣喪氣。晉景公嘉魏顆之功,封以令狐之地,復鑄大鐘,以紀其事,備載年月。後人因晉景公所鑄,因名曰「景鐘」。晉景公復遣士會領兵攻滅赤狄餘種,共滅三國:曰甲氏,曰留吁,及留吁之屬國曰鐸辰。自是赤狄之土,盡歸於晉。 時晉國歲飢,盜賊蜂起,荀林父訪國中之能察盜者,得一人,乃郤氏之族,名雍。此人善於億逆,嘗遊市井間,忽指一人為盜,使人拘而審之,果真盜也。林父問:「何以知之?」郤雍曰:「吾察其眉睫之間,見市中之物有貪色,見市中之人有愧色,聞吾之至,而有懼色,是以知之。」郤雍每日獲盜數十人,市井悚懼,而盜賊愈多。大夫羊舌職謂林父曰:「元帥任郤雍以獲盜也。盜未盡獲,而郤雍之死期至矣。」林父驚問:「何故?」不知羊舌職說出甚話來,且看下回分解。
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