東周列國志第五十六回 蕭夫人、台に登って客を笑う/逢丑父、服を替えて君を免れさせる (蕭夫人登臺笑客 逢丑父易服免君)
郤雍の死と士会の教化
- 荀林父は郤雍を用いて盗賊を取り締まらせたが、羊舌職は郤雍がろくな死に方をしないだろうと見抜いており、林父はその理由を尋ねた。
- 羊舌職は答えた。「周の諺に『淵の魚を見抜く者は不祥、隠れた悪事を察知する知恵者は禍を招く』とあります。郤雍一人の観察力だけでは群盗すべてを取り締まることはできず、逆に群盗が力を合わせれば郤雍を制することができます。死なずに済みましょうか。」
- 三日と経たぬうちに、郤雍がたまたま郊外を歩いていると、数十人の群盗が一斉に襲いかかり、その首を切って持ち去った。
- 荀林父は憂憤のあまり病を得て死んだ。
- 晋の景公は羊舌職の言葉を聞き、彼を召して尋ねた。「そなたの郤雍への見立ては当たった。では盗賊を鎮める策は何か。」
- 羊舌職は答えた。「知恵をもって知恵を制するのは、石で草を圧するようなもので、草は必ず裂け目から生えてきます。乱暴をもって乱暴を禁じるのは、石で石を撃つようなもので、石は両方とも砕けます。ゆえに盗賊を鎮める方策は、その心根を教化し、廉恥を知らしめることにあり、多く捕らえることを能とするものではありません。主君が朝廷の善人を選び、民の上に立てて栄誉を与えれば、不善の者は自ずと感化されましょう。どうして盗賊を憂える必要がありましょうか。」
- 景公はさらに尋ねた。「今の晋で善人といえば誰が最もふさわしいか。卿、試みに挙げてみよ。」
- 羊舌職は言った。「士会に及ぶ者はおりません。その人となりは、言葉は信に依り、行いは義に依り、和やかでありながら諂わず、廉潔でありながらそれを見せびらかさず、正直でありながら高ぶらず、威厳がありながら猛々しくありません。主君は必ずこの者を用いるべきです。」
- 士会が赤狄を平定して帰還すると、晋の景公は狄の捕虜を周に献上し、士会の功績を周の定王に奏上した。
- 定王は士会に黻冕の服を賜り、位を上卿とした。
- こうして士会は林父の任を代わって中軍の元帥となり、さらに太傅の職を加えられ、范の地に改めて封じられた。これが范氏の始まりである。
- 士会は盗賊を取り締まる科条をことごとく取り除き、もっぱら教化と勧善によって民を導いた。
- こうして悪しき民はみな秦国に逃げ去り、盗賊は一人もいなくなり、晋国は大いに治まった。
景公の覇業再興の策
- 景公は再び覇者となる意向を持つようになった。
- 謀臣の伯宗が進み出て言った。「先君文公が初めて践土で盟を結ばれてより、列国は靡然として従いました。襄公の代になっても、なお新城での盟を受け、あえて二心を抱く国はありませんでした。しかし令狐で信を失ってより、秦との友好は絶えてしまいました。さらに斉・宋で臣下が主君を弑した際にわが国はこれを討伐できず、山東の諸国は次第に晋を軽んじて楚に付くようになりました。鄭を救って功なく、宋を救っても果たせず、また二国を失いました。今や晋の傘下にあるのは、衛と曹などわずか三、四国のみです。そもそも斉と魯は天下が仰ぎ見る国です。主君が再び盟主の業を復されるならば、斉魯と親しむのが一番です。どうか使者を遣わしてこの二国を聘問させ、誼を結んで、楚の隙をうかがえば、志を得ることができましょう。」
- 晋の景公はこれを是とし、上軍の元帥郤克を遣わして魯および斉を聘問させ、その礼と幣を手厚くした。
四国の使者、斉を聘問す
- さて魯の宣公は、斉の恵公が自分の君位を定めてくれた恩義から、丁重に事え、朝見と聘問はいずれも定まった時期を守っていた。
- 斉で頃公無野が跡を継いでからも、宣公は旧来の規則どおりにならい、いまだかつて礼を欠いたことはなかった。
- 郤克が魯に至って聘問の礼を終え、辞去して斉に赴こうとしていたところ、魯の宣公もちょうど斉を聘問する時期であったので、上卿の季孫行父を郤克とともに出発させた。
- 一行が斉の郊外に至ると、衛の上卿孫良夫、曹の大夫公子首も、同じく斉を聘問するためにやって来ていた。
- 四人は顔を合わせ、それぞれ来意を語り合い、期せずして落ち合ったことに、互いに志を同じくすることを実感した。
- 四人の大夫は客館に落ち着いた。
- 翌日、朝見してそれぞれ主君の意向を伝え、礼を終えた。
- 斉の頃公は四人の大夫の容貌を見て、内心密かに怪しみ、「大夫方はしばらく公館にお戻りください。ただちに饗宴を設けてもてなしましょう」と言った。
- 四人の大夫は朝門を退出した。
頃公、母に四使者の容貌を語る
- 頃公は宮中に入り、母の蕭太夫人に会うと、笑いをこらえきれなかった。
- 太夫人は蕭君の娘で、斉の恵公に嫁いでいた。恵公が薨じてより、蕭夫人は日夜悲しみ泣いていた。
- 頃公は母に孝を尽くし、事あるごとにその心を喜ばせようとし、市中に笑い話があれば必ずそれを語って母を一笑させようとしていた。
- この日、頃公はひとり笑いを漏らしたが、その理由を言わなかった。
- 蕭太夫人が尋ねた。「外に何か楽しいことがあって、そのように笑うのですか。」
- 頃公は答えた。「外に別段楽しいことはありませんが、一つの怪事を見たのです。今、晋・魯・衛・曹の四国からそれぞれ大夫が聘問に遣わされてきました。晋の大夫郤克は片目の見えない男で、片目だけで人を見ています。魯の大夫季孫行父は禿頭で、一本の毛髪もありません。衛の大夫孫良夫は跛で、両足の高さが違っています。曹の公子首は猫背で、両目が地面ばかり見ています。思うに人が病を抱えるのは、五体のうち欠けたところがある者もいるものですが、この四人はそれぞれ一つずつの病を持ち、しかも同時にわが国へやって来たのです。堂上に一群の化け物が集まったようなもので、これは可笑しくないでしょうか。」
- 蕭太夫人は信じず、「私も一目見てみたいものです」と言った。
- 頃公は言った。「使臣が来国すると、公の宴のあとに、慣例として私的な饗応があります。明日、私は後苑に宴を設けさせますので、大夫たちは必ず崇台の下を通ります。母上が台上に登り、帳を張って盗み見なさっては、どうして難しいことがありましょうか。」
台上の観覧と使者たちの怒り
- 話は公の宴を省いて語らず、もっぱら私の宴について述べる。蕭太夫人はすでに崇台の上にいた。
- 旧例では、使臣が来ると、車馬や従者はすべて主国が供応し、しばらく客人の労をねぎらうことになっていた。
- 頃公の意図は、もっぱら母の一笑を誘うことにあったので、国中でひそかに片目の者、禿頭の者、跛の者、猫背の者を各一人選び出し、四人の大夫の車をそれぞれに御させた。
- 郤克は片目なので片目の御者を、行父は禿頭なので禿頭の御者を、孫良夫は跛なので跛の御者を、公子首は猫背なので猫背の御者を、それぞれ用いた。
- 斉の上卿国佐が諫めて言った。「朝見と聘問は国の大事です。賓主が互いに敬い、敬をもって礼を成すべきであり、戯れてはなりません。」
- 頃公は聞き入れなかった。
- 車中には二人の片目、二人の禿頭、双方の猫背、双方の跛が乗り、台下を通り過ぎると、蕭夫人は帳を開けて見やり、思わず大笑いした。左右の侍女もみな口を覆って笑い、笑い声は外にまで届いた。
- 郤克は初め御者が片目であるのを見ても、偶然のことと思い、怪しまなかった。しかし台上から婦女のあざけり笑う声が聞こえるに及んで、心中大いに疑いを抱いた。
- 酒を数杯そこそこに済ませ、すぐさま起き上がって館舎へ戻り、人をやって尋ねさせた。「台上にいるのは何者か。」
- 「国母の蕭太夫人でございます。」
- ほどなく、魯・衛・曹三国の使臣がみな郤克のもとへやって来て告げた。「斉国はわざとあのような御者どもをあてがって我らを戯弄し、婦人の観覧の種にしたのです。これはどういう了見でしょうか。」
- 郤克は言った。「我らは好意から聘問を修めに来たのに、逆に辱めを受けた。もしこの仇を報いなければ、一人前の男ではない。」
- 行父ら三人は声をそろえて言った。「大夫がもし軍を興して斉を討たれるならば、我らも主君に奏上し、国を挙げて助力いたしましょう。」
- 郤克は言った。「諸大夫が果たして同じ心であるならば、直ちに血をすすって盟を結ぼう。斉を討つ日に、力を尽くして事に従わぬ者は、明神がこれを誅殺せんことを。」
- 四人の大夫は一堂に集まり、夜を徹して相談し、明け方に至ると、斉侯に別れも告げず、そのまま車に乗り込み、御者に星を追うように急がせて、それぞれ本国へ帰って行った。
- 国佐は嘆じて言った。「斉の禍いはこれより始まるであろう。」
- 史臣に詩がある(詩:主賓の礼は敬をもって先とすべきなのに、身体の障りを御者の役に配したことをいぶかしみ、台上の笑い声がまだ消えぬうちに、四方の郊野にはすでに戦の狼煙が上がっていると詠う)。
復讐の誓いと三桓をめぐる密謀
- この時、魯の卿の東門仲遂と叔孫得臣はともに世を去っていた。
- 季孫行父が正卿となって政を執っており、斉を聘問して笑われたことより誓って仇を報いようとしていた。
- 郤克が晋侯に兵を求めたものの、郤克と太傅士会の意見が合わなかったため晋侯はまだ許していない、と行父は聞いた。行父は心中いらだち、宣公に奏上して、人を遣って楚に兵を借りようとした。
- ちょうどそのとき、楚の荘王が旅先で病没し、世子の審が即位した。時にわずか十歳であり、これが共王である。
- 史臣に楚荘王を讃える詩がある(詩:赫たる荘王は、父の失政を正し、初めは鳴かず飛ばずであったが、ついに楚を強大にした。樊姫の内助、孫叔敖の外からの補佐を得て、舒を戮し義を広め、晋を挫いて武を示し、周を窺い宋を包囲して、その威声は虎のごとくであった。取るに足らぬ荊蛮の地から興り、桓公・文公と肩を並べるに至ったと詠う)。
- 楚の共王はちょうど新たな喪に服していたため、出師を辞退した。
- 行父は憤懣の最中にあったところ、晋国から来た者が告げた。「郤克は日夜、斉を討つ利を説いており、斉を討たなければ覇業を図りがたいと言って、晋侯はその言に惑わされています。士会は郤克の意志を翻せぬと知り、老いを理由に政を譲りました。今は郤克が中軍の元帥として晋国の政を主っており、遠からず軍を興して斉に報復するでしょう。」
- 行父は大いに喜び、仲遂の子である公孫帰父を遣わして晋を聘問させ、一つには郤克への礼に答え、二つには斉を討つ日取りを取り決めさせた。
- 魯の宣公は仲遂によって国を得たため帰父を寵任し、群臣の中でも別格の扱いをしていた。
- 当時、魯の孟孫・叔孫・季孫の三家は子孫が繁栄しており、宣公は常にこれを憂いとしていた。
- 子孫が必ず三家に凌がれるであろうことを知り、帰父が出発する日、その手を握って密かに命じた。「三桓の勢いは日々盛んになり、公室は日々衰えている。そなたも知る通りだ。公孫よ、この行で、機を見て晋の君臣にこの事情を密かに訴え、もし彼の兵力を借りて我が家のために三家を追い払うことができるならば、毎年幣帛を送って晋の恩に報い、永く二心を持たないと誓おう。卿は心して事に当たり、決して漏らしてはならぬ。」
- 帰父は命を受け、重い賂を携えて晋に至った。屠岸賈が再びおもねりへつらうことで景公に寵愛され、司寇に任じられたと聞き、岸賈に賄賂を贈り、主君が三家を追放しようとしていることを告げた。
- 岸賈は趙氏に恨まれていたため、欒・郤の二族と結ぼうと心に決め、往来を頻繁にしていた。そこで帰父の言葉を欒書に告げた。
- 欒書は言った。「元帥(郤克)はちょうど季孫氏と同じ仇を共有している。この謀りはうまくいかぬかもしれぬ。私が探ってみよう。」
- 欒書は機会をうかがって郤克に話すと、郤克は言った。「この者は魯国を乱そうとしている。聞き入れてはならぬ。」
- そこで密書を一通したため、人を遣わして夜を徹して魯へ届けさせ、季孫行父に急報した。
- 行父は大いに怒って言った。「かつて公子悪と公子視を弑殺したのは、みな東門遂が主謀したことだ。私は国家の安寧を図ろうとして事を隠忍し、彼を庇護してやった。それなのに今、その子が我らを追い出そうとするとは、虎を養って患いを残したようなものではないか。」
- そして郤克の密書を叔孫僑如に見せた。
- 僑如は言った。「主公は朝に出られなくなって、もう一月になります。病気だと言っていますが、おそらく口実でしょう。我らそろって見舞いに行き、主公の寝台の前で罪を請う姿を装って、様子をうかがってみましょう。」
- 仲孫蔑にも同行を誘わせたが、蔑は辞退して言った。「君臣の間で是非を問いただす筋合いはない。私は行きかねる。」
- そこで司寇の臧孫許を誘って一緒に行った。
- 三人は宮門まで来たが、宣公の病が篤いと聞き、拝謁するまでには至らず、ただ見舞いの言葉を伝えて引き返した。
魯宣公薨去と東門氏の追放
- 翌日、宣公が薨去した。時に周の定王の十六年であった。
- 季孫行父らは世子の黒肱を擁立した。時に十三歳、これが成公である。
- 成公は幼く、すべての事は季氏によって決められた。
- 季孫行父は諸大夫を朝堂に集めて議った。「主君は幼く国は弱い。政刑を大いに明らかにせねばならぬ。当初、嫡子を殺して庶子を立て、もっぱら斉に媚びて晋との友好を失わせたのは、みな東門遂の仕業である。仲遂には国を誤らせた大罪があり、これを追及して処罰すべきだ。」
- 諸大夫はみな唯々として命に従った。
- 行父は司寇の臧孫許に命じ、東門氏の一族を追放させた。
- 公孫帰父は晋から魯へ帰る途中、国境に着かぬうちに宣公がすでに薨去し、季氏がちょうど先祖の罪を追及していることを知り、斉国へと出奔した。一族の者もみな彼に従った。
- 後の儒者は仲遂が自ら弑逆を行い宣公を擁立したことを論じ、身が死んで間もなく子孫が追放されたのは、悪事を働いた者に何の益があろうかと評した。
- 髯翁に詩がある(詩:宣公を擁立して富貴を千秋に望んだが、誰が三桓が仇讐となろうとは思っただろうか。柱が折れて「東門」の喬木は枯れ、ただ史書に悪名だけが残ったと詠う)。
斉の魯侵攻と新築の戦い
- 魯の成公が即位して二年、斉の頃公は魯が晋と結んで斉を討とうと謀っていることを聞き、一方では使者を遣わして楚と好誼を結び、斉の危急の際の助けとした。
- 一方では車馬・兵卒を整え、自ら先頭に立って魯を討ち、平陰から進軍して龍邑に至った。
- 斉侯の寵臣盧蒲就魁が軽々しく進軍し、北門の兵士に捕らえられた。
- 頃公は人を車に登らせ、城上の人に呼びかけさせた。「盧蒲将軍を返してくれれば、直ちに軍を退こう。」
- 龍邑の人々は信用せず、就魁を殺して、その屍を城楼の上に磔にした。
- 頃公は大いに怒り、三軍に四方から攻めさせ、三日三晩休まなかった。
- 城が破れると、頃公は城北の一角において、軍民を問わずことごとく殺し尽くし、就魁の恨みを晴らした。
- さらに深く攻め込もうとしていたところ、斥候の騎兵が、衛国の大将孫良夫が兵を率いて斉の国境に入ろうとしていると探り出して報告した。
- 頃公は言った。「衛はわが虚を窺って我が国境を侵犯しに来た。当然、矛先を返してこれを迎え撃たねばならぬ。」
- そこで龍邑に兵を留めて守らせ、兵を引き上げて南へ向かった。
- 新築の国境まで来ると、ちょうど衛の前隊の副将石稷がすでに到着しており、両軍はそれぞれ陣営を構えた。
- 石稷は中軍の孫良夫のもとに至って告げた。「我らは斉の虚を突けとの命を受けたが、今や斉の軍はすでに戻り、その君も自ら軍中にいる。軽々しく敵とすべきではない。退兵して帰路を譲り、晋魯と力を合わせるのを待つのが万全であろう。」
- 孫良夫は言った。「もともと斉君の一笑の仇を報いようとしていたのに、今や仇敵が目の前にいて、どうしてこれを避けられようか。」
- そこで石稷の諫めを聞き入れず、その夜、中軍を率いて斉の陣営を夜襲した。
- 斉の人々も衛軍の来襲を懸念して、すでに備えを整えていた。
- 良夫は陣営の門に斬り込んだが、劫略したのは空き陣営であった。車を返そうとしたところ、左に国佐、右に高固の二人の大将に取り囲まれてしまった。
- 斉侯は自ら大軍を率いて掩い寄せ、大声で叫んだ。「跛男よ、その首を置いていけ。」
- 良夫は死力を尽くして持ちこたえたが、どうにも対抗できず、危機に瀕した。
- そこへ寧相と向禽の二隊の車馬が呼応して救援に駆け付け、良夫を救い出して北へ逃れた。衛軍は大敗した。
- 斉侯は二将を率いて後から追いかけて来た。衛将石稷の軍もまた到着し、孫良夫を迎えて言った。「元帥はひたすら前へお進みください。私が殿を務めます。」
- 良夫は軍を率いて急ぎ走ったが、一里も行かぬうちに、前方に土埃が立ち、車の音が雷のように鳴った。
- 良夫は嘆いて言った。「斉にはさらに伏兵がいたのか。我が命もこれまでか。」
- 車馬が次第に近づくと、一人の将が車中で身をかがめて言った。「小将は元帥が交戦中であることを知らず、救援が遅れましたこと、伏してお詫び申し上げます。」
- 良夫は尋ねた。「そなたは何者か。」
- その将は答えた。「私は新築の守備を務める大夫、仲叔于奚でございます。この地の兵をことごとく起こし、百余乗がここにございます。一戦するに足ります。元帥、ご心配には及びません。」
- 良夫はようやく安心し、于奚に言った。「石将軍が後にいる。そなたが助けてやってくれ。」
- 仲叔于奚は応じて車を巡らせて去った。
仲叔于奚の功と辞退
- さて斉軍は石稷の殿の軍に遭遇し、まさに交戦しようとしたところ、北の道に車の砂塵が天を覆うのを見て、仲叔于奚の兵が到着したことを知った。
- 斉の頃公は自身が衛の地にあり、兵力が続かぬことを恐れて、鉦を鳴らして軍を収め、輜重を掠め取っただけで引き返した。
- 石稷と于奚もまた追撃しなかった。
- のちに晋の人々とともに斉に勝って帰国したとき、衛侯は于奚に孫良夫を救った功があるとして、邑を賞として与えようとした。
- 于奚は辞退して言った。「邑はいただきたくございません。『曲県』と『繁纓』を賜って身分ある役人の中で誉れを得られれば、それで願いは満ち足ります。」
- 『周礼』によれば、天子の楽は四面すべてに楽器を懸け、これを「宮県」という。諸侯の楽は三面だけに懸け、南方だけを欠く。これを「曲県」、また「軒県」ともいう。大夫は左右にのみ懸けるだけである。「繁纓」とは、諸侯が馬を飾るためのものである。この二つはいずれも諸侯の制度であり、于奚は自らの功を恃んでこれを願い出た。
- 衛侯は笑ってこれを許した。
- 孔子は『春秋』を編纂するにあたりこの事を論じ、爵位と礼器の定めは貴賤を区別するものであって人に貸し与えてはならないものだとし、衛侯はその賞の与え方を誤ったとした。
- これは後の話であり、ここでは述べるにとどめる。
晋・魯・衛・曹の連合軍、斉を討つ
- さて孫良夫は敗軍を収めて新築城に入った。
- 数日休息したのち、諸将は帰国の時期を尋ねたが、良夫は言った。「私はもともと斉に報復しようとしたのに、逆に敗れてしまった。どんな顔で我が主にお目にかかれよう。晋国に援兵を乞い、生きたまま斉君を捕らえてこそ、私の胸中の憤りが晴れる。」
- そこで石稷らに新築で屯兵させ、自らは晋国へ援兵を借りに赴いた。
- ちょうどそのとき魯の司寇臧孫許も晋にて援兵を求めていた。
- 二人はまず郤克と話を通じ合わせてから、晋の景公に謁見した。内外呼応し、双方が唱和し合うので、晋の景公も従わないわけにはいかなかった。
- 郤克は斉の強さを慮り、車八百乗を要請し、晋侯はこれを許した。
- 郤克は中軍を率い、解張が御者、鄭邱緩が車右となった。士燮は上軍を率い、欒書は下軍を率い、韓厥が司馬となった。
- 周の定王十八年の夏六月、軍は絳州城を出て、東の道を目指して進発した。
- 臧孫許が先に帰って報告し、季孫行父は叔孫僑如とともに軍を率いて合流し、新築に至った。
- 孫良夫はさらに曹の公子首と会合を約した。
- 各軍はいずれも新築に集結し、隊伍を整え、順次前進し、連なること三十余里、車の音が絶えなかった。
鞍の戦い 緒戦
- 斉の頃公はあらかじめ人を魯の国境に遣わして偵察させており、すでに臧司寇が晋の兵を借り得たとの情報を知っていた。
- 頃公は言った。「晋の軍が国境に入るのを待てば、民が動揺する。国境で兵をもってこれを迎え撃つべきだ。」
- そこで車馬・兵卒を大いに閲兵し、五百乗を選び抜き、三日三晩で五百余里を進んで、鞍の地に直行して陣を張った。
- 前哨が報告した。「晋軍はすでに靡笄山の麓に屯している。」
- 頃公は使者を遣わして開戦を求め、郤克は明日決戦することを許した。
- 大将高固は頃公に言った。「斉と晋はいまだかつて交戦したことがなく、晋人が勇敢か臆病かを知りません。臣にこれを探らせてください。」
- そこで単独の車を駆り、まっすぐ晋の陣営に入って戦いを挑んだ。
- 晋の末将が一人、車に乗って陣営の門から出てきた。高固は大きな石を取って投げつけ、まさにその頭に命中させると、その将は車の上に倒れ、御者は驚いて逃げ去った。
- 高固は身を躍らせて、たちまち晋の車に飛び乗り、足で捕らえた晋の将を踏みつけ、手で手綱を握り取って、斉の陣営まで馳せ戻った。
- ぐるりと一巡りして、大声で叫んだ。「余った勇気を売りに参ったぞ。」
- 斉軍はみな笑った。晋軍はこれに気づいて追ったが、もう間に合わなかった。
- 高固は頃公に言った。「晋の軍勢は多くても、よく戦う者は少なく、恐れるに足りません。」
- 翌日、斉の頃公は自ら甲を着けて出陣し、邴夏が御者、逢丑父が車右となった。
- 両軍はそれぞれ鞍に陣を結んだ。国佐は右軍を率いて魯を防ぎ、高固は左軍を率いて衛と曹を防いだ。両軍はにらみ合うだけで交戦せず、もっぱら中軍の様子を待った。
- 斉侯は自らの勇に恃んで晋人を眼中に置かず、錦の袍と繍の甲を身にまとい、金の輿に乗って、兵士たちに一斉に弓を引き絞って構えさせ、命じた。「私の馬の足が到達した所を見て、一斉に矢を放て。」
- 太鼓が一つ鳴り響くと、馳せる車がまっすぐ晋の陣に突っ込んだ。矢は蝗のように飛び、晋兵の死者は非常に多かった。
- 解張は肘に二本の矢を連続して受け、血が車輪にまで流れ落ちたが、なおも痛みを堪えて手綱を握り続けた。
- 郤克はまさに太鼓を打って軍を進めていたが、彼もまた矢を左脇に受け、血が靴にまで滴り、太鼓の音がにわかに緩んだ。
- 解張は言った。「軍の耳目は中軍の旗と太鼓にある。三軍はこれによって進退を決める。傷はまだ死に至るものではない。努めて戦いに赴かねばならぬ。」
- 鄭邱緩は言った。「解張どのの言う通りだ。生死は天命に任せるのみ。」
- 郤克はそこでばちを取って続けて太鼓を打ち、解張は馬に鞭打ち、矢を冒して進んだ。
- 鄭邱緩は左手で笠を持って郤克を守り、右手で戈を振るって敵を殺した。
- 左右の者が一斉に太鼓を打ち鳴らし、太鼓の音は天を震わせた。
鞍の戦い 斉軍の敗北と逢丑父の身代わり
- 晋軍はただ自軍の本陣がすでに勝ったものと思い込み、先を争って馳せ追い、勢いは山を排し海を倒すようで、斉軍はこれに耐えられず、大敗して逃げた。
- 韓厥は郤克の傷が重いのを見て言った。「元帥はしばらくお休みください。私が力を尽くしてこの賊を追いましょう。」
- 言い終わると、自分の部隊を率いて車を駆り追跡した。斉軍はちりぢりに四散した。
- 頃公は華不注山を回って逃げた。韓厥は遠くに金の輿を望み見て、力の限り追った。
- 逢丑父は邴夏を顧みて言った。「将軍は急いで囲みを脱し、援軍を呼んできてください。私が将軍に代わって手綱を執りましょう。」
- 邴夏は車を下りて去った。
- 晋兵の到来する者はますます増え、華不注山を三重に囲んだ。
- 逢丑父は頃公に言った。「事は急を要します。主公、急いで錦の袍と繍の甲を脱いで私に着させ、主公に見せかけましょう。主公は私の服を着て、傍らで手綱を執り、晋人の目を欺いてください。もし不測のことがあれば、私は死をもって君に代わりましょう。君はそれで逃れることができます。」
- 頃公はその言葉に従った。
- 着替えを終えたばかりの頃、まさに華泉に至ろうとしていたところ、韓厥の車がすでに馬の頭のところまで来た。
- 韓厥は錦の袍と繍の甲を見て斉侯と思い込み、そこで手を伸ばしてその馬の絆をつかみ取り、再拝稽首して言った。「わが主君は魯・衛の請いを断ることができず、群臣に貴国にその罪を問わせております。私、厥はこの軍中に身を置く者ですが、願わくば君侯の御車を導き、わが国にお運びいたしましょう。」
- 丑父は喉が渇いて答えられぬふりをし、瓢を斉侯に授けて言った。「丑父よ、私のために水を汲んできてくれ。」
- 斉侯は車を降り、華泉へ水を汲みに行くふりをした。水が届くと、丑父はまた濁っていると難じて、さらに清らかな水を汲んで来るよう言いつけた。
- 斉侯はそのまま山の左手を回って逃げた。ちょうど斉の将鄭周父が副車を御して来て、言った。「邴夏はすでに晋軍の中に陥っています。晋の勢いは大きいですが、この道だけは兵が少のうございます。主公、急いでお乗りください。」
- そこで手綱を斉侯に授け、斉侯は車に乗って逃げ延びた。
- 韓厥は先に人を遣わして晋軍に報告させた。「すでに斉侯を捕らえた。」
- 郤克は大いに喜んだ。
- 韓厥が丑父を献上すると、郤克はこれを見て言った。「これは斉侯ではない。」
- 郤克はかつて斉に使いしたことがあり、斉侯の顔を知っていた。韓厥はそれを知らなかったため、この計略に欺かれたのであった。
- 韓厥は怒って丑父に尋ねた。「お前は何者だ。」
- 丑父は答えた。「私は車右将軍逢丑父です。わが君を問うなら、先ほど華泉に水を汲みに行った者がそれです。」
- 郤克もまた怒って言った。「軍法では、三軍を欺く者は死罪である。お前は斉侯になりすまして我が軍を欺いた。まだ生きようと望むのか。」
- そして左右に大声で命じた。「丑父を縛って斬れ。」
- 丑父は大声で叫んだ。「晋軍よ、私の一言を聞け。今より後、主君に代わって患難を引き受ける者はいなくなるであろう。丑父は君を患難から免れさせたのに、今まさに殺されようとしているのだ。」
- 郤克はその縛めを解くよう命じ、言った。「人が主君に忠を尽くすのに、これを殺すのは不祥である。」
- 後ろの車に載せさせた。
- 潜淵居士に詩がある(詩:山を取り巻く武装の軍勢は林のように密であり、繍の甲を着た君王は危うく捕らえられるところだった。千尺の華泉も源は尽きぬというが、丑父の計略の深さには及ばないと詠う)。
- 後世の人は華不注山を金輿山と名付けたが、これは正に斉侯の金の輿がここに駐まったことに由来する。
丑父の捜索と斉軍の退却
- 頃公はすでに脱して本営に帰り着いたが、丑父が命を救ってくれた恩を思い、再び軽車に乗って晋軍の中に馳せ入り、丑父を捜し求め、出ては再び入ることを三度繰り返した。
- 国佐と高固の二将は、中軍がすでに敗れたと聞き、斉侯に何かあってはと恐れ、それぞれ軍を率いて助けに駆けつけたが、斉侯が晋軍の中から出てくるのを見て、大いに驚いて言った。「主公はどうしてかように千乗の尊い身をもって自ら虎穴を探られるのですか。」
- 頃公は言った。「逢丑父が私に代わって敵中に陥り、生死が分からぬままだ。寡人は座して席にも安んじられず、それゆえに彼を捜し求めているのだ。」
- 言い終わらぬうちに、斥候の騎兵が「晋兵が五路に分かれて攻め寄せて参ります」と報告した。
- 国佐は奏した。「軍の士気はすでに挫けております。主公、ここに長居してはなりません。ひとまず国に戻って堅く守り、楚の援軍が来るのを待つべきです。」
- 斉侯はその言に従い、そこで大軍を率いて臨淄に帰った。
- 郤克は大軍を率い、魯・衛・曹三国の軍とともに、長駆して直入し、通り過ぎる関所はことごとく焼き払い、まっすぐ斉の国都に迫り、志は斉を滅ぼすことにあった。
- 斉国がどのように応戦するかは分からない。続きは次回で語られる。
原文(底本)
話說荀林父用郤雍治盜,羊舌職度郤雍必不得其死,林父請問其說。羊舌職對曰:「周諺有云:『察見淵魚者不祥,智料隱慝者有殃。』恃郤雍一人之察,不可以盡群盜,而合群盜之力,反可以制郤雍,不死何為?」未及三日,郤雍偶行郊外,群盜數十人,合而攻之,割其頭以去。荀林父憂憤成疾而死。晉景公聞羊舌職之言,召而問曰:「子之料郤雍當矣!然弭盜何策?」羊舌職對曰:「夫以智禦智,如用石壓草,草必罅生。以暴禁暴,如用石擊石,石必兩碎。故弭盜之方,在乎化其心術,使知廉恥,非以多獲為能也。君如擇朝中之善人,顯榮之於民上,彼不善者將自化,何盜之足患哉?」景公又問曰:「當今晉之善人,何者為最?卿試舉之。」羊舌職曰:「無如士會。其為人,言依於信,行依於義,和而不諂,廉而不矯,直而不亢,威而不猛。君必用之。」及士會定赤狄而還,晉景公獻狄俘於周,以士會之功,奏聞周定王。定王賜士會以黻冕之服,位為上卿。遂代林父之任,為中軍元帥,且加太傅之職,改封於范,是為范氏之始。士會將緝盜科條,盡行除削,專以教化勸民為善。於是奸民皆逃奔秦國,無一盜賊,晉國大治。 景公復有圖伯之意。謀臣伯宗進曰:「先君文公,始盟踐土,列國景從。襄公之世,猶受盟新城,未敢貳也。自令狐失信,始絕秦懽。及齊宋弒逆,我不能討,山東諸國,遂輕晉而附楚。至救鄭無功,救宋不果,復失二國。晉之宇下,惟衛曹寥寥三四國耳。夫齊魯天下之望,君欲復盟主之業,莫如親齊魯。盍使人行聘於二國,以聯屬其情,而伺楚之間,可以得志。」晉景公以為然,乃遣上軍元帥郤克,使魯及齊,厚其禮幣。 卻說魯宣公以齊惠公定位之故,奉事惟謹,朝聘俱有常期。至頃公無野嗣立,猶循舊規,未曾缺禮。郤克至魯修聘,禮畢,辭欲往齊,魯宣公亦當聘齊之期,乃使上卿季孫行父,同郤克一齊啟行。方及齊郊,只見衛上卿孫良夫,曹大夫公子首,也為聘齊來到。四人相見,各道來由,不期而會,足見同志了。四位大夫下了客館。次日朝見,各致主君之意。禮畢,齊頃公看見四位大夫容貌,暗暗稱怪,道:「大夫請暫歸公館,即容設饗相待。」四位大夫,退出朝門。 頃公入宮,見其母蕭太夫人,忍笑不住。太夫人乃蕭君之女,嫁於齊惠公。自惠公薨後,蕭夫人日夜悲泣。頃公事母至孝,每事求悅其意,即閭巷中有可笑之事,亦必形容稱述,博其一啟顏也。是日,頃公乾笑,不言其故。蕭太夫人問曰:「外面有何樂事,而歡笑如此?」頃公對曰:「外面別無樂事,乃見一怪事耳!今有晉、魯、衛、曹四國,各遣大夫來聘。晉大夫郤克,是個瞎子,只有一隻眼光著看人。魯大夫季孫行父,是個禿子,沒一根毛髮。衛大夫孫良夫,是個跛子,兩腳高低的。曹公子首,是個駝背,兩眼觀地。吾想生人抱疾,五形四體,不全者有之。但四人各占一病,又同時至於吾國,堂上聚著一班鬼怪,豈不可笑?」蕭太夫人不信,曰:「吾欲一觀之可乎?」頃公曰:「使臣至國,公宴後,例有私享。來日兒命設宴於後苑,諸大夫赴宴,必從崇臺之下經過。母親登於臺上,張帷而竊觀之,有何難哉?」 話中略過公宴不題,單說私宴。蕭太夫人已在崇臺之上了。舊例:使臣來到,凡車馬僕從,都是主國供應,以暫息客人之勞。頃公主意,專欲發其母之一笑,乃於國中密選眇者、禿者、跛者、駝者各一人,使分御四位大夫之車。郤克眇,即用眇者為御﹔行父禿,即用禿者為御﹔孫良夫跛,即用跛者為御﹔公子首駝,即用駝者為御。齊上卿國佐諫曰:「朝聘,國之大事。賓主主敬,敬以成禮,不可戲也。」頃公不聽。車中兩眇,兩禿,雙駝,雙跛,行過臺下,蕭夫人啟帷望見,不覺大笑,左右侍女,無不掩口,笑聲直達於外。 郤克初見御者眇目,亦認為偶然,不以為怪。及聞臺上有婦女嬉笑之聲,心中大疑。草草數杯,即忙起身,回至館舍,使人詰問:「臺上何人?」「乃國母蕭太夫人也。」須臾,魯、衛、曹三國使臣,皆來告訴郤克,言:「齊國故意使執鞭之人,戲弄我等,以供婦人觀笑,是何道理?」郤克曰:「我等好意修聘,反被其辱﹔若不報此仇,非丈夫也!」行父等三人齊聲曰:「大夫若興師伐齊,我等奏過寡君,當傾國相助。」郤克曰:「眾大夫果有同心,便當歃血為盟。伐齊之日,有不竭力共事者,明神殛之!」四位大夫聚於一處,竟夜商量,直至天明,不辭齊侯,竟自登車,命御人星馳,各還本國而去。國佐嘆曰:「齊患自此始矣!」史臣有詩云: 主賓相見敬為先,殘疾何當配執鞭?臺上笑聲猶未寂,四郊已報起烽煙。 是時魯卿東門仲遂,叔孫得臣俱卒。季孫行父為正卿,執政當權。自聘齊被笑而歸,誓欲報仇。聞郤克請兵於晉侯,因與太傅士會主意不合,故晉侯未許,行父心下躁急,乃奏知宣公,使人往楚借兵。值楚莊王旅病薨,世子審即位,時年纔十歲,是為共王。史臣有楚莊王讚云: 於赫莊王,干父之蠱﹔始不飛鳴,終能張楚。樊姬內助,孫叔外輔﹔戮舒播義,衂晉覿武。窺周圍宋,威聲如虎﹔蠢爾荊蠻,桓文為伍! 楚共王方有新喪,辭不出師。行父正在憤懣之際,有人自晉國來述:「郤克日夜言伐齊之利,不伐齊難以圖伯,晉侯惑之。士會知郤克意不可回,乃告老讓之以政。今郤克為中軍元帥,主晉國之事,不日興師報齊矣。」行父大喜,乃使仲遂之子公孫歸父行聘於晉,一來答郤克之禮,二來訂伐齊之期。魯宣公因仲遂得國,故寵任歸父,異於群臣。時魯孟孫、叔孫、季孫三家,子孫眾盛,宣公每以為憂。知子孫必為三家所凌,乃於歸父臨行之日,握其手密囑之曰:「三桓日盛,公室日卑,子所知也。公孫此行,覷便與晉君臣密訴其情,倘能借彼兵力,為我逐去三家,情願歲輸幣帛,以報晉德,永不貳志。卿小心在意,不可洩漏!」歸父領命,齎重賂至晉,聞屠岸賈復以諛佞得寵於景公,官拜司寇。乃納賂於岸賈,告以主君欲逐三家之意。岸賈為得罪趙氏,立心結交欒郤二族,往來甚密。乃以歸父之言,告於欒書。書曰:「元帥方與季孫氏同仇,恐此謀未必協也。吾試探之。」欒書乘間言於郤克,克曰:「此人欲亂魯國,不可聽之。」遂寫密書一封,遣人星夜至魯,飛報季孫行父。行父大怒曰:「當年弒殺公子惡及公子視,皆是東門遂主謀,我欲圖國家安靖,隱忍其事,為之庇護。今其子乃欲見逐,豈非養虎留患耶?」乃以郤克密書,面致叔孫僑如看之。僑如曰:「主公不視朝,將一月矣。言有疾病,殆託詞也。吾等同往問疾,而造主公榻前請罪,看他如何?」亦使人邀仲孫蔑。蔑辭曰:「君臣無對質是非之理,蔑不敢往。」乃拉司寇臧孫許同行。三人行至宮門,聞宣公病篤,不及請見,但致問候而返。 次日,宣公報薨矣。時周定王之十六年也。季孫行父等擁立世子黑肱,時年一十三歲,是為成公。成公年幼,凡事皆決於季氏。季孫行父集諸大夫於朝堂,議曰:「君幼國弱,非大明政刑不可。當初殺嫡立庶,專意媚齊,致失晉好,皆東門遂所為也。仲遂有誤國大罪,宜追治之。」諸大夫皆唯唯聽命。行父遂使司寇臧孫許,逐東門氏之族。公孫歸父自晉歸魯,未及境,知宣公已薨,季氏方治其先人之罪,乃出奔於齊國,族人俱從之。後儒論仲遂躬行弒逆,援立宣公,身死未幾,子孫被逐,作惡者亦何益哉?髯翁有詩嘆云: 援宣富貴望千秋,誰料三桓作寇仇?楹折「東門」喬木萎,獨餘青簡惡名留。 魯成公即位二年,齊頃公聞魯與晉合謀伐齊,一面遣使結好於楚,以為齊緩急之助。一面整頓車徒,躬先伐魯,由平陰進兵,直至龍邑。齊侯之嬖人盧蒲就魁輕進,為北門軍士所獲。頃公使人登車,呼城上人語之曰:「還我盧蒲將軍,即當退師。」龍人不信,殺就魁,磔其屍於城樓之上。頃公大怒,令三軍四面攻之,三日夜不息。城破,頃公將城北一角,不論軍民,盡皆殺死,以洩就魁之恨。正欲深入,哨馬探得衛國大將孫良夫,統兵將入齊境。頃公曰:「衛窺吾之虛,來犯吾界,合當反戈迎之。」乃留兵戍龍邑,班師而南。行至新築界口,恰遇衛兵前隊副將石稷已到,兩下各結營壘。石稷詣中軍告於孫良夫曰:「吾受命侵齊,乘其虛也。今齊師已歸,其君親在,不可輕敵。不如退兵,讓其歸路,俟晉魯合力並舉,可以萬全。」孫良夫曰:「本欲報齊君一笑之仇,今仇人在前,奈何避之?」遂不聽石稷之諫,是夜率中軍往劫齊寨。齊人也慮衛軍來襲,已有整備。良夫殺入營門,劫了空營。方欲回車,左有國佐,右有高固,兩員大將,圍裹將來。齊侯自率大軍掩至,大叫「跛夫!且留下頭顱!」良夫死命相持,沒抵當一頭處,正在危急。卻得寧相向禽兩隊車馬,前來接應,救出良夫北奔。衛軍大敗。齊侯招引二將從後追來,衛將石稷之兵亦至,迎著孫良夫叫道:「元帥只顧前行,吾當斷後。」良夫引軍急走,未及一里,只見前面塵頭起處,車聲如雷。良夫嘆曰:「齊更有伏兵,吾命休矣!」車馬看看近前,一員將在車中鞠躬言曰:「小將不知元帥交兵,救援遲誤,伏乞恕罪!」良夫問曰:「子何人也?」那員將答曰:「某乃守新築大夫,仲叔于奚是也。悉起本境之眾,有百餘乘在此,足以一戰,元帥勿憂。」良夫方纔放心,謂于奚曰:「石將軍在後,子可助之。」仲叔于奚應聲麾車而去。 再說齊兵遇石稷斷後之兵,正欲交戰,見北路車塵蔽天,探是仲叔于奚領兵來到。齊頃公身在衛地,恐兵力不繼,遂鳴金收軍,止掠取輜重而回。石稷和于奚亦不追趕。後與晉人勝齊歸國,衛侯因于奚有救孫良夫之功,欲以邑賞之。于奚辭曰:「邑不願受,得賜『曲縣』『繁纓』,以光寵於縉紳之中,于願足矣。」按《周禮》:天子之樂,四面皆縣,謂之「宮縣」﹔諸侯之樂,止縣三面,獨缺南方,謂之「曲縣」,亦曰「軒縣」﹔大夫則左右縣耳。「繁纓」,乃諸侯所以飾馬者。二件皆諸侯之制,于奚自恃其功,以此為請。衛侯笑而從之。孔子修《春秋》,論此事,以為惟名器分別貴賤,不可假人。衛侯為失其賞矣!此是後話,表過不提。 卻說孫良夫收拾敗軍,入新築城中。歇息數日,請將請示歸期,良夫曰:「吾本欲報齊,反為所敗,何面目歸見吾主?便當乞師晉國,生縛齊君,方出我胸中之氣!」乃留石稷等屯兵新築,自己親往晉國借兵。適值魯司寇臧宣叔亦在晉請師。二人先通了郤克,然後謁見晉景公,內外同心,彼唱此和,不由晉景公不從。郤克慮齊之強,請車八百乘,晉侯許之。郤克將中軍,解張為御,鄭邱緩為車右。士燮將上軍,欒書將下軍,韓厥為司馬。於周定王十八年夏六月,師出絳州城,望東路進發。臧孫許先期歸報,季孫行父同叔孫僑如帥師來會,同至新築。孫良夫復約會曹公子首。各軍俱於新築取齊,擺成隊伍,次第前行,連接三十餘里,車聲不絕。 齊頃公預先使人於魯境上覘探,已知臧司寇乞得晉兵消息。頃公曰:「若待晉師入境,百姓震驚,當以兵逆之於境上。」乃大閱車徒,挑選五百乘,三日三夜,行五百餘里,直至鞍地紮營。前哨報:「晉軍已屯於靡笄山下。」頃公遣使請戰,郤克許來日決戰。大將高固請於頃公曰:「齊晉從未交兵,未知晉人之勇怯,臣請探之。」乃駕單車,逕入晉壘挑戰。有末將亦乘車自營門而出,高固取巨石擲之,正中其腦,倒於車上,御人驚走。高固騰身一躍,早跳在晉車之上,腳踹晉囚,手挽轡索,馳還齊壘,周圍一轉,大呼曰:「出賣餘勇!」齊軍皆笑。晉軍中覺而逐之,已無及矣。高固謂頃公曰:「晉師雖眾,能戰者少,不足畏也。」次日,齊頃公親自披甲出陣,邴夏御車,逢丑父為車右。兩家各結陣於鞍。國佐率右軍以遏魯,高固帥左軍以遏衛曹,兩下相持,各不交鋒,專候中軍消息。齊侯自恃其勇,目無晉人,身穿錦袍繡甲,乘著金輿,令軍士俱控弓以俟,曰:「視吾馬足到處,萬矢俱發。」一聲鼓響,馳車直沖入晉陣。箭如飛蝗,晉兵死者極多。解張手肘,連中二箭,血流下及車輪,猶自忍痛,勉強執轡。郤克正擊鼓進軍,亦被箭傷左脅,摽血及屨,鼓聲頓緩。解張曰:「師之耳目,在於中軍之旗鼓,三軍因之以為進退。傷未及死,不可不勉力趨戰!」鄭邱緩曰:「張侯之言是也!死生命耳!」郤克乃援枹連擊,解張策馬,冒矢而進。鄭邱緩左手執笠,以衛郤克,右手奮戈殺敵。左右一齊擊鼓,鼓聲震天。晉軍只道本陣已得勝,爭先馳逐,勢如排山倒海,齊軍不能當,大敗而奔。韓厥見郤克傷重,曰:「元帥且暫息,某當力追此賊!」言畢,招引本部驅車來趕,齊軍紛紛四散。頃公繞華不注山而走。韓厥遙望金輿,儘力逐之。逢丑父顧邴夏曰:「將軍急急出圍,以取救兵,某當代將軍執轡。」邴夏下車去了。晉兵到者益多,圍華不注山三匝。逢丑父謂頃公曰:「事急矣!主公快將錦袍繡甲脫下,與臣穿之,假作主公。主公可穿臣之衣,執轡於旁,以誤晉人之目。倘有不測,臣當以死代君,君可脫也。」頃公依其言。更換方畢,將及華泉,韓厥之車,已到馬首。韓厥見錦袍繡甲,認是齊侯,遂手攬其絆馬之索,再拜稽首曰:「寡君不能辭魯衛之請,使群臣詢其罪於上國。臣厥忝在戎行,願御君侯,以辱臨於敝邑!」丑父詐稱口渴不能答言,以瓢授齊侯曰:「丑父可為我取飲。」齊侯下車,假作華泉取飲,水至,又嫌其濁,更取清者。齊侯遂繞山左而遁,恰遇齊將鄭周父御副車而至,曰:「邴夏已陷於晉軍中矣!晉勢浩大,惟此路兵稀,主公可急乘之!」乃以轡授齊侯,齊侯登車走脫。韓厥先遣人報入晉軍曰:「已得齊侯矣!」郤克大喜。及韓厥以丑父獻,郤克見之曰:「此非齊侯也!」郤克曾使齊,認得齊侯。韓厥卻不認得,因此被他設計賺去。韓厥怒問丑父曰:「汝是何人?」對曰:「某乃車右將軍逢丑父。欲問吾君,方纔往華泉取飲者就是。」郤克亦怒曰:「軍法:『欺三軍者,罪應死!』汝冒認齊侯,以欺我軍,尚望活耶?」叱左右:「縛丑父去斬!」丑父大呼曰:「晉軍聽吾一言,自今無有代其君任患者。丑父免君於患,今且為戮矣!」郤克命解其縛,曰:「人盡忠於君,我殺之不祥。」使後車載之。潛淵居士有詩云: 遶山戈甲密如林,繡甲君王險被擒。千尺華泉源不竭,不如丑父計謀深。 後人名華不注山為金輿山,正以齊侯金輿駐此而得名也。 頃公既脫歸本營,念丑父活命之恩,復乘輕車馳入晉軍,訪求丑父,出而復入者三次。國佐高固二將,聞中軍已敗,恐齊侯有失,各引軍來救駕,見齊侯從晉軍中出,大驚曰:「主公何輕千乘之尊,而自探虎穴耶?」頃公曰:「逢丑父代寡人陷於敵中,未知生死,寡人坐不安席,是以求之。」言未畢,哨馬報:「晉兵分五路殺來了!」國佐奏曰:「軍氣已挫,主公不可久留於此。且回國中堅守,以待楚救之至可也。」齊侯從其言,遂引大軍,回至臨淄去了。郤克引大軍,及魯、衛、曹三國之師,長驅直入,所過關隘,盡行燒毀,直抵國都,志在滅齊。不知齊國如何應敵,再看下回分解。
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