東周列國志第六十一回 晋の悼公、楚を凌いで蕭魚に会す/孫林父、歌がもとで献公を逐う (晉悼公駕楚會蕭魚 孫林父因歌逐獻公)

智罃の激怒と偪陽攻略

  • さて、晉と諸侯の軍は偪陽の城を囲んで二十四日、攻めても落とせずにいた。
  • 突然大雨が降り、平地の水深は三尺にもなった。
  • 荀偃と士匄の二将は、軍心に変化が起きるのを恐れ、そろって中軍に赴き智罃に申し出た。「もともとは城が小さく容易に落とせると思っておりました。今は囲みが長引いて落ちず、天は大雨を降らせ、時はちょうど夏、大水が起ころうとしております。泡水は西に、薛水は東に、漷水は東北にあり、この三つの水はいずれも泗水に通じています。万一長雨が止まなければ、三水が氾濫し、軍を返すにも都合が悪くなりましょう。しばらく引き上げ、再挙を待つのがよいかと存じます。」
  • 智罃は大いに怒り、寄りかかっていた几を取って二将に投げつけ、罵って言った。「この老夫はかつて言ったではないか、『城は小さくとも堅固で、容易に落ちるものではない』と。若造どもが勝手に滅ぼせると請け合い、晉侯の御前で一人で引き受けたのだ。この老夫を引きずり出して、こんな始末にまで引っ張り込んだのだ。攻め囲むこと久しく、寸尺の功も見えぬのに、たまたま天が雨を降らせただけで軍を返そうとするとは。来るのはお前たちの勝手であったが、去るのはお前たちの勝手にはさせぬぞ。今、汝らに七日の期限を与える、必ず偪陽を攻め落とせ。もし功がなければ、軍令状どおり斬首とする。速やかに行け。二度と会いに来るな。」
  • 二将は顔を土気色にして恐れ、諾々と繰り返しながら退いた。
  • 二将は自分の部下の将に言った。「元帥は厳しい期限を立て、七日で城を破れねば我らの首を取ると仰せだ。今わしらもお前たちに期限を立てる。六日以内に城を破れねば、まずお前たちを斬り、そのあと自分の首を刎ねて軍法の重さを示す。」
  • 諸将は皆顔を見合わせた。荀偃と士匄は言った。「軍中に戯言はない。我ら二人は自ら矢石を冒し、昼夜攻め続ける、進むのみで退くことはない。」
  • 魯・曹・邾の三国とも申し合わせ、一斉に力を合わせた。
  • 折しも水勢はやや退いていた。荀偃と士匄は轈車に乗り、士卒の先頭に立ち、城上から矢石が雨のように降っても全く避けなかった。
  • 庚寅の日から攻め始め、甲午の日に至って、城中の矢石は尽きた。荀偃は城壁に取り付いて真っ先に登り、士匄がこれに続き、各国の軍将もこの勢いに乗じて蟻のように取り付いて登った。
  • 妘斑は巷戦の末に死んだ。智罃が城に入ると、偪陽君は群臣を率いて馬前で迎え降伏した。智罃はその一族をすべて捕らえ、中軍にとどめ置いた。
  • 城を攻め始めてから城が破れるまでを数えると、わずか五日であった。もし智罃が怒りを発しなければ、この挙は功を成さなかったであろう。
  • (詩:鉞を執って壇に登った総帥の権を、副将たる者がどうして侵してよいものか。几を投げつけた一人の叱咤に三軍は震え、鉄石のごとく堅固な偪陽の城も恐れるに足りなくなったと詠う)

偪陽処分と悼公の恩賞

  • 時に悼公は偪陽が落ちにくいことを恐れ、あらためて精兵二千人を選び、自ら率いて助戦に向かった。
  • 楚邱まで進んだところで、智罃がすでに大功を成したと聞き、使者を宋に遣わし、偪陽の地を宋の向戍に封じさせた。
  • 向戍は宋平公とともに自ら楚邱に来て晉侯に謁見した。向戍は封地を辞退して受けず、悼公はその地を宋公に帰した。
  • 宋・衛の二君は、それぞれ晉侯をもてなす宴を設けた。
  • 智罃は魯の三将の勇猛を悼公に述べ、悼公はそれぞれに車と衣服を賜り、軍は引き上げた。
  • 悼公は、偪陽の君が楚を助けたことをもって庶人に落とし、その一族の中の賢者を選んで妘姓の祭祀を主らせ、霍城に住まわせた。
  • その秋、荀会が没し、悼公は魏絳が法を執行する能力があるとして、新軍の副将にした。張老を司馬とした。

鄭の内乱と一度目の鄭遠征(三駕の一)

  • その冬、第二軍が鄭を伐ち、牛首に屯し、さらに虎牢の守備を増した。
  • ちょうど鄭の尉止が乱を起こし、公子騑・公子発・公孫輒を西宮の朝廷で殺した。
  • 騑の子で公孫夏、字は子西、発の子で公孫僑、字は子産、それぞれが家の兵を率いて賊を攻め、賊は北宮へ敗走した。
  • 公孫蠆もまた兵を率いて助けに来て、ついに尉止の党をことごとく誅した。公子嘉を立てて上卿とした。
  • 欒黶が言った。「鄭は今乱に見舞われ、必ず戦えまい。急いで攻めれば落とせる。」
  • 智罃は言った。「乱に乗じるのは義に反する。」と、攻撃をゆるめるよう命じた。
  • 公子嘉が人を遣わして和を求め、智罃はこれを許した。楚の公子貞が鄭を救援に来たときには、晉の軍はすでにすっかり退いていた。鄭はまた楚と盟を結んだ。
  • 伝によれば「晉悼公三駕して楚を服せしむ」とあり、これはその「三駕」の一回目である。周霊王九年の事である。

二度目の鄭遠征(三駕の二)

  • 翌年の夏、晉悼公は鄭がなお服さないとして、また第三軍で鄭を伐った。
  • 宋の向戍の兵はまず東門に到り、衛の上卿孫林父は軍を率いて郳の人とともに北の辺境に屯し、晉の新軍元帥趙武らは西郊の外に陣を張った。荀罃は大軍を率いて北林から西へ進み、鄭の南門で兵を示し、諸路の軍馬と申し合わせて同日に鄭を包囲した。
  • 鄭の君臣は大いに恐れ、また使者を遣わして和を請うた。荀罃はまたこれを許し、宋の地に軍を退いた。
  • 鄭簡公は自ら毫城の北に至り、諸軍を大いにねぎらい、荀罃らと血をすすって盟った。晉と宋の各軍はそれぞれ解散した。これが「三駕」の二回目である。
  • 楚共王は大いに怒り、公子貞を秦に遣わして兵を借り、共に鄭を伐つ約束をさせた。時に秦景公の妹は楚王の夫人として嫁いでおり、両国には姻戚のよしみがあった。そこで大将嬴詹に戦車三百乗を率いさせ、援軍とした。共王自ら大軍を率い、滎陽を目指して進発し、言った。「この度は鄭を滅ぼさねば、決して軍を返さぬ。」

公孫舍之の献策と楚軍を宋へ誘導する計

  • さて鄭簡公は毫城の北で晉と盟を結んで帰った後、楚軍が遠からず必ず来ると察知し、群臣を大いに集めて計議した。
  • 諸大夫はみな言った。「今、晉の勢いは強盛で、楚はこれに及びません。しかし晉の兵は来るのが甚だ遅く、去るのが甚だ速く、両国はまだ雌雄を決したことがないため、争いがやみません。もし晉が我が国の争奪に決死でかかってくれば、楚の力はこれに及ばず、必ず晉を避けるでしょう。そうなれば、これからは晉に専心できます。」
  • 公孫舍之が策を献じて言った。「晉に我が国をめぐって決死でかからせたいなら、晉を怒らせるに越したことはありません。晉の怒りを激しくするには、宋を伐つに越したことはありません。宋は晉と最も親しく、我らが朝に宋を伐てば、晉は夕に我らを伐つでしょう。晉は速やかに来られますが、楚はできません。我らはこうして楚に対して言い分ができるのです。」
  • 諸大夫はみな言った。「この計は甚だ善い。」
  • ちょうど計議している最中に、間者が楚が秦に兵を借りたとの知らせを探り出して報告してきた。
  • 公孫舍之は喜んで言った。「これは天が我らに晉に仕えさせようとしているのだ。」人々はその意味が分からなかった。
  • 舍之は言った。「秦と楚が交々鄭を伐てば、鄭は必ずひどく困窮する。まだ国境に入らぬうちに、これを迎えに行き、共に宋を伐つよう導くべきだ。一つには楚の患いを免れ、二つには晉を怒らせて我らに攻め寄せさせる。一挙両得ではないか。」
  • 鄭簡公はその謀に従い、ただちに公孫舍之に供も連れぬ一台の車で夜を徹して南へ馳せさせた。潁水を渡り、一舎(三十里)も行かぬうちに、ちょうど楚軍に出会い、公孫舍之は車を下りて馬前に拝伏した。
  • 楚共王は厳しい顔つきで問うた。「鄭は反覆常なく信を守らぬ。寡人はまさに罪を問いに来たのだ。汝が来たのはどういうつもりか。」
  • 舍之は奏上した。「わが君は大王の徳を懐い、大王の威を畏れ、終身臣従することを願っております。どうして離反などいたしましょうか。ただ晉人が暴虐で、宋と兵を合わせて絶えず侵し乱すため、わが君は社稷が顛覆して大王にお仕えできなくなることを恐れ、やむなくしばらく和を結んでその軍を退かせたまでのこと。晉の軍がひとたび退けば、なお大王への貢献の邑でございます。大王がわが国の誠意をご覧いただけぬのではと恐れ、特に下臣を遣わしてお迎えし、その心中を申し述べさせたのです。大王がもし宋の罪をお問いになるなら、わが君は先鋒として鞭を執ることを願い、いささか犬馬の労を尽くして、決して背かぬとの誓いを明らかに致します。」
  • 共王は怒りを収めて喜びに変え、言った。「汝の君がもし寡人に従って宋を伐つというなら、寡人にまた何の不満があろうか。」
  • 舍之はさらに奏上した。「下臣が旅装を整えた日、わが君はすでに国中の軍勢を悉く挙げ、東の辺境で大王をお待ちしております、決して後れは取りませぬ。」
  • 共王は言った。「そうは言っても、秦の庶長とは滎陽の城下で会う約束をしている。共に事にあたる必要がある。」
  • 舍之はまた奏上した。「雍州は遥かに遠く、必ず晉を越え周を過ぎねば鄭に至れませぬ。大王が使者一人をお遣わしになれば、なお秦軍の発向を差し止めるのに間に合いましょう。大王の威と楚兵の精強をもってすれば、何を西戎の助けなど借りる必要がありましょうか。」
  • 共王はその言葉を喜び、果たして使者を送って秦の軍を辞退させ、そのまま公孫舍之とともに東へ進んだ。有莘の野に至ると、鄭簡公が軍を率いて出迎え、そのまま共に宋国を伐ち、大いに略奪して帰った。

三度目の鄭遠征(三駕の三)

  • 宋平公は向戍を晉に遣わし、楚と鄭が兵を連ねた事を訴えさせた。悼公は果たして大いに怒り、その日のうちに軍を興そうとした。(この番はまた第一軍が出征する順であった。)
  • 智罃が進み出て言った。「楚が秦に兵を借りたのは、まさに連年道を奔走してその労に堪えられぬからでございます。我らが一年に二度も伐てば、楚はまた来られましょうか。この度こそ必ず鄭を得られましょう。強盛な様子を示し、その帰服の志を固めるべきです。」
  • 悼公は言った。「よかろう。」そこで宋・魯・衛・齊・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の各国を大いに合わせ、一斉に鄭に至り、鄭の東門で兵を示し、道々多くの捕虜を得た。(この軍が「三駕」の三回目である。)
  • 鄭簡公は公孫舍之に言った。「そなたは晉の怒りを激しくして速やかに来させようとした。今果たして来た、どうすればよいか。」
  • 舍之は答えた。「臣は一方では晉に和を求め、一方では人を遣わして楚に救援を求めることを願います。楚の兵がもし速やかに来られれば、必ず戦いになりましょう。我らは勝った方に従います。もし楚が来られなければ、我らは晉の盟を受け、それに重い賄賂で晉と結べば、晉は必ず我らを庇いましょう。何の楚を患う必要がありましょうか。」
  • 簡公はもっともと考え、大夫の伯駢を晉に遣わして和を求めさせ、公孫良霄と太宰石㚟を楚に遣わして告げさせた。「晉の軍がまた鄭に至りました。従うもの十一国、兵勢は甚だ盛んで、鄭の滅亡は目前にございます。君王がもし兵威で晉を圧せられるなら、それこそ孤の願いです。さもなくば、孤は社稷の保てぬことを恐れ、やむを得ず晉に安んじざるを得ません。ただ君王には憐れみ、お許しくださいますように。」
  • 楚共王は大いに怒り、公子貞を召して計を問うた。
  • 公子貞は言った。「我らの兵はやっと帰ったばかりで、まだ息もつけておりませぬ、どうしてまた出せましょう。しばらく鄭を晉に譲り、後で取り戻せばよろしい、いつかそのような日が無いはずはございません。」
  • 共王はなお怒りが治まらず、良霄と石㚟を軍府に幽閉し、帰国させなかった。
  • (詩:楚と晉の争覇が世々の怨みを結び、晉兵が次々に到来して楚兵は休むほかなかったこと、使者たる者が何の罪もなく拘留されたことを詠い、晉が軍を分けて交代に出征させた策こそ善き謀であったと評す)

蕭魚の盟と鄭の帰服

  • 時に晉軍は蕭魚に陣を張っていた。伯駢が晉軍に至ると、悼公は召し入れ、厳しい声で問うた。「汝は和を求めると偽って寡人をたばかったこと、これで一度ではない。今回もまた時を稼ぐ計ではないのか。」
  • 伯駢は叩頭して言った。「わが君はすでに別に使者を遣わし、先に楚との絶交を告げております。どうして二心などございましょう。」
  • 悼公は言った。「寡人は誠信をもって汝を待つ。汝がもしまた裏切る気があれば、諸侯の共通の憎しみを犯すことになろう、独り寡人に対してだけではない。汝はしばらく帰り、汝の君とよくよく相談し、また来て返答せよ。」
  • 伯駢はまた奏上した。「わが君は身を清めて下臣を遣わし、実に国を君侯に委ねようとしております。君侯どうかお疑いなさいませんように。」
  • 悼公は言った。「汝の意がすでに決まっているなら、盟を交わそう。」
  • そこで新軍元帥趙武に命じ、伯駢とともに城に入らせ、鄭簡公と血をすすって盟わせた。簡公もまた公孫舍之を趙武に随行させて城を出させ、悼公と約束を交わさせた。
  • その年の冬十二月、鄭簡公は自ら晉軍に入り、諸侯とともに会い、血をすすって盟うことを願い出た。
  • 悼公は言った。「交わした盟はすでに前に済んでいる。君にもし信があれば、鬼神がそれを見ている、どうして再び血をすする必要があろうか。」
  • そして令を伝えた。「捕らえた鄭人を路々すべて縄を解き、本国に帰せ。諸軍には鄭国を少しも侵犯することを禁ずる、違反する者は軍法に処す。虎牢の守備兵は、すべて撤去し、鄭人自身に守らせよ。」
  • 諸侯はみな諫めて言った。「鄭はまだ頼りにできません。もしまた裏切れば、改めて守備を設けるのは難しくなりましょう。」
  • 悼公は言った。「久しく諸国の将士を苦しめ疲れさせ、いつ終わるとも分からぬことを恨みに思っている。今こそ鄭と新たにやり直し、真情を打ち明けて信頼を委ねよう。寡人が鄭に背かねば、鄭も寡人に背かぬだろう。」
  • そして鄭簡公に言った。「寡人は爾が兵を苦にしていることを知っている。ともに休息しようではないか。今後晉に従うか楚に従うかは爾の心のままとし、寡人は強いはせぬ。」
  • 簡公は感激して涙を流し言った。「伯君(覇者たる君)が至誠をもって人に接すれば、禽獣すら感化されましょう、まして某は人でございます、どうして庇護を忘れましょうか。もしまた異志を抱けば、鬼神が必ずわが身を滅ぼしましょう。」
  • 簡公は辞去した。翌日、公孫舍之に贈り物を献じて感謝の意を表させた。楽師三人、女楽十六人、歌鐘三十二枚、鏄磬をこれに添え、針仕事の女工三十人、軘車と広車あわせて十五乗、その他の兵車百乗で、いずれも甲冑と兵器が一式そろっていた。悼公はこれを受けた。
  • 女楽八人、歌鐘十二を魏絳に賜って言った。「そなたは寡人に諸戎狄と和を結ぶことを教え、諸夏を正した。諸侯が親しみ従うのは、音楽の調和のようなものだ。そなたとこの楽を共にしたい。」
  • また兵車の三分の一を智罃に賜って言った。「そなたは寡人に軍を分けて楚を疲弊させることを教えた。今鄭人が服したのは、みなそなたの功である。」
  • 魏絳と智罃の二将は、ともに頓首して辞退して言った。「これはみな君のご威光に頼り、諸侯の労苦によるものです。臣らに何の功がございましょう。」
  • 悼公は言った。「そなたたち二卿がいなければ、寡人はここまで至れなかった。卿らよ、固く辞退することはない。」二人ともに拝して受けた。
  • こうして十二国の車馬は同日に兵を引き上げた。悼公はまた使者を遣わして各国に返礼の訪問をさせ、これまでの出兵の労をねぎらった。諸侯はみな悦んだ。
  • これより鄭国は専心晉に帰服し、二心を抱かなくなった。
  • (詩:鄭人は猿のように反覆常なく、晉の覇者はひたすら詐術と武力でこれを鋤き除こうとしてきたが、二十四年を経てついに鄭が晉の傘下に帰したのを見て、忠信こそが兵戈に勝ると知ったと詠う)
  • その時、秦景公は晉を伐って鄭を救おうとし、櫟で晉軍を破ったが、鄭がすでに晉に降ったと聞き、軍を返した。

呉子壽夢の遺命

  • 翌年、周霊王十一年、呉子壽夢の病が重くなり、その四人の子、諸樊・餘祭・夷昧・季札を寝台の前に呼び、言った。「汝ら兄弟四人のうち、札が最も賢い。もしこれを立てれば、必ず呉国を大いに興隆させられよう。我はかねてより世子に立てようとしたが、札は固く辞退して肯じなかった。我が死んだ後は、諸樊が餘祭に伝え、餘祭が夷昧に伝え、夷昧が季札に伝え、弟から弟へと伝え、孫には伝えるな。必ず季札を君とならしめよ、それが社稷の幸いである。我が命に背く者は不孝であり、天は助けぬぞ。」
  • 言い終えると息絶えた。
  • 諸樊は季札に国を譲って言った。「これは父の志である。」
  • 季札は言った。「弟は父が生きておられた日に世子の位を辞退した、父が亡くなった後に君の位を受けようか。兄がもし再び譲るなら、弟は他国へ逃げるつもりだ。」
  • 諸樊はやむを得ず、弟から弟へと伝える約束を明らかにし、父の命によって即位した。晉悼公は使者を遣わして弔い、また祝賀した。この話はここまでとする。

晉の人事と新軍の廃止

  • また翌年、周霊王十二年、晉の将、智罃・士魴・魏相が相次いで没した。
  • 悼公はまた綿山で軍備を整え、士匄に中軍を将いさせようとしたが、匄は辞退して言った。「伯游(荀偃)が年長でございます。」
  • そこで中行荀偃を智罃の後任とし、士匄を副とした。
  • また韓起に上軍を将いさせようとしたが、起は言った。「臣は趙武の賢に及びません。」
  • そこで趙武を荀偃の後任とし、韓起を副とした。欒黶は下軍を将いること従来どおりとし、魏絳を副とした。新軍にはまだ将帥がなかった。
  • 悼公は言った。「地位を空けて人を待つのはよいが、人によって地位を濫りに埋めてはならぬ。」
  • そこでその軍吏に命じ、官属や卒乗を率いて下軍に付属させた。
  • 諸大夫はみな言った。「君は爵位と礼器の扱いにこれほど慎重であられる。」そこでそれぞれその職を修め、あえて怠らなかった。
  • 晉国は大いに治まり、再び文公・襄公の業を興した。まもなく、新軍を廃して三軍に併合し、諸侯としての礼を守った。

楚共王の死と晉の秦討伐

  • その年秋九月、楚共王審が薨じ、世子昭が立って康王となった。
  • 呉王諸樊は大将公子黨に軍を率いさせ楚を伐った。楚将養繇基が迎え撃ち、公子黨を射殺し、呉軍は敗れて帰った。
  • 諸樊は敗北を晉に告げ、悼公は諸侯を向に合わせて対策を謀った。
  • 晉の大夫羊舌肹が進み出て言った。「呉が楚の喪に乗じて伐ったのは、自ら招いた敗北であり、憐れむには足りません。秦と晉は隣国で、代々姻戚のよしみがありましたが、今は楚に付いて鄭を救い、我らの軍を櫟で破りました。これはまず報復すべきです。もし秦を伐って功があれば、楚の勢いはますます孤立しましょう。」
  • 悼公はもっともと考え、荀偃に三軍の兵を率いさせ、魯・宋・齊・衛・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の十二国の大夫とともに秦を伐たせた。晉悼公は国境で待った。
  • 秦景公は晉軍が至ろうとしていると聞き、人を遣わして毒薬数嚢を涇水の上流に沈めさせた。魯の大夫叔孫豹は莒の軍とともに先に渡り、兵士は水を飲んで中毒し、多くの死者を出した。各軍はそのため渡ることを肯じなかった。
  • 鄭の大夫公子蟜は衛の大夫北宮括に言った。「すでに人に従っている以上、様子見などしていられようか。」公子蟜は鄭の軍を率いて涇水を渡り、北宮括がこれに続いた。こうして諸侯の軍はみな進み、棫林に陣を張った。
  • 「秦軍は遠くないところにいる」との斥候の報せがあった。荀偃は各軍に令した。「鶏鳴とともに車を出し、わが馬首の向くところを見て進め。」
  • 下軍元帥欒黶は、もとより中行偃に服しておらず、この令を聞いて怒って言った。「軍旅の事は衆を集めて謀るべきものだ。たとえ偃が独断できるとしても、進退を明示するのが道理であろう。どうして三軍の衆にその馬首を見よなどということがあろうか。我もまた下軍の帥である。我が馬首は東に向かうつもりだ。」そのまま本隊を率いて東へ帰った。
  • 副将魏絳は言った。「私の職分はわが下軍の帥(欒黶)に従うことにある、中行伯を待つわけにはゆかぬ。」やはり欒黶に従って兵を引き上げた。
  • 早くも人が中行偃に報告した。偃は言った。「令を明らかに出さなかったのは、我の過ちである。令がすでに行われぬのに、どうして成功を望めよう。」そこで諸侯の軍にそれぞれ本国へ帰るよう命じ、晉の帥も引き上げた。
  • 時に欒鍼は下軍の戎右であったが、独り帰ろうとせず、范匄の子の范鞅に言った。「今日の役は、もともと秦に報復するためだった。もし功なく帰れば、これはますますの恥辱となる。我ら兄弟二人はともに軍中にいる、どうして一時に二人とも帰れようか。そなたは私とともに秦軍に赴けるか。」
  • 范鞅は言った。「そなたが国の恥を思うなら、鞅がどうして従わずにおられようか。」
  • そこでそれぞれ本隊を率いて秦軍に馳せ入った。

欒鍼の戦死、范鞅の秦亡命と秦晉の和親

  • さて秦景公は大将嬴詹と公子無地を率い、戦車四百乗で棫林から五十里離れたところに陣を張り、ちょうど人を遣わして晉兵の進退を探らせていた。
  • 突然東の方に土煙が上がるのを見て、一団の車馬が飛ぶように来るのに気づき、急いで公子無地に軍を率いて迎え撃たせた。
  • 欒鍼は奮然と進み、范鞅がこれを助け、続けて甲将十余人を刺し殺した。秦軍は崩れて逃げようとしたが、討ち入って来た欒鍼らに後続の軍がないと見て取り、また鼓を鳴らして兵を合わせ、これを包囲した。
  • 范鞅は言った。「秦兵の勢いは大きい、当たってはならぬ。」欒鍼は聞き入れなかった。
  • 嬴詹の大軍がまた到着し、欒鍼はさらに数人を手にかけて殺したが、身に矢を七本受け、力尽きて死んだ。
  • 范鞅は甲を脱いで一台の車に乗り疾駆し、脱出を得た。
  • 欒黶は范鞅が独り帰ったのを見て問うた。「わが弟はどこにいる。」
  • 鞅は言った。「すでに秦軍で戦死されました。」
  • 黶は大いに怒り、戈を抜いてまっすぐ范鞅を刺そうとした。鞅はあえて抵抗せず、中軍に逃げ込んだ。黶は後を追って来て、鞅は避け去った。
  • 鞅の父范匄が言った。「賢婿殿、なぜそのように怒っておられる。」(欒黶の妻欒祁は范匄の娘であるため、婿と呼んだのである。)
  • 黶は怒気が激しく治まらず、大声で答えた。「汝の子がわが弟を誘って共に秦の軍に入り、わが弟は戦死したのに汝の子は生きて帰った。これは汝の子がわが弟を殺したも同然だ。汝が必ず鞅を追放するならまだ許せる。さもなくば、我は必ず鞅を殺し、わが弟の命の代わりとする。」
  • 范匄は言った。「この事は老夫は知らなかった。今、追放しよう。」
  • 范鞅はこの言葉を聞き、幕の後ろから秦国へと出奔した。
  • 秦景公はその来意を問い、范鞅は始末を述べた。景公は大いに喜び、客卿の礼をもって遇した。
  • ある日、問うた。「晉君はどのような人物か。」范鞅は答えた。「賢君でございます、人を知りよく人を用いられます。」
  • また問うた。「晉の大夫で誰が最も賢いか。」答えた。「趙武は文徳あり、魏絳は勇にして乱れず、羊舌肹は『春秋』に習熟し、張老は篤実で知恵があり、祁午は事に臨んで冷静沈着、臣の父匄は大局をよくわきまえております、みな一時の選りすぐりです。その他の公卿もみな今の典礼に習熟し、よくその官を守っております、鞅はあえて軽々しく論じられません。」
  • 景公はまた言った。「それでは晉の大夫の中で、誰が先に滅びるか。」
  • 鞅は答えた。「欒氏が先に滅びましょう。」
  • 景公は言った。「それは驕り贅沢ゆえではないか。」
  • 范鞅は言った。「欒黶は驕り贅沢とはいえ、なおその身の代で済むでしょう。その子の盈は必ず免れません。」
  • 景公は言った。「なぜか。」
  • 鞅は答えた。「欒武子(欒書)は民を恤み士を愛し、人心が帰していました、だから弑君の悪があっても国中はこれを非難せず、その徳を戴いておりました。召公を慕う者が甘棠にまで愛を及ぼしたと申します、まして武子の子ならばなおさらでございましょう。黶が死ねば、盈の善行はまだ民に行き渡っておらぬのに、武子の徳はすでに遠い昔のものとなっております。黶の怨みに報いようとする者が現れるのは、必ずこの時でございましょう。」
  • 景公は嘆じて言った。「卿は存亡の理を知る者と言えよう。」
  • そこで范鞅を通じて范匄と誼を通じ、庶長武に晉を聘問させて旧好を修めさせ、あわせて范鞅の位の回復を請わせた。
  • 悼公はこれに従い、范鞅は晉に帰った。悼公は鞅と欒盈をともに公族大夫とし、欒黶には怨みを持ち越さぬよう論した。
  • これより秦晉は和を通じ、春秋の世が終わるまで互いに兵を加えなかった。
  • (詩:西と東の隣国は世々婚姻を結びながら一時仇を求めて争ったが、玉帛が通じ兵革が止んだのは昔からの和親の徳であると詠う)
  • その年、欒黶が没し、子の欒盈が代わって下軍副将となった。

衛獻公の放縦と孫寧二卿の不満

  • 話を分けて、衛獻公、名は衎について語る。周簡王十年より父定公に代わって即位した。喪に服しても悲しまなかったため、その嫡母定姜は献公が位を保てぬだろうと察し、しばしばいさめたが、献公は聞かなかった。
  • 位に就いてからは日ましに放縦になり、親しむのはみな讒言・諂い・追従の人ばかり、喜ぶのは鼓楽と狩猟のことばかりであった。
  • 定公の代から、定公の同母弟にあたる公子黒肩がいて、寵をかさに専政していた。黒肩の子公孫剽は父の爵を継いで大夫となり、かなりの権略を持っていた。
  • 上卿孫林父、亜卿寧殖は、献公が無道であるのを見て、みな剽と結交した。林父はまた密かに晉国と結んで外援とし、国中の器物や財貨をすべて戚に移し、妻子をそこに住まわせた。
  • 献公はその反心を疑ったが、一つには形跡がまだ明らかでなく、二つにはその家の強さを恐れ、それゆえ我慢して手を出さなかった。

後園の射と孫林父・寧殖の公子剽擁立の密議

  • ある日、獻公は孫・寧の二卿をともに正午の食事に招いた。二卿はともに朝服を着て門で命を待ったが、朝から正午まで召しの使いは来ず、宮中からも誰一人出て来なかった。二卿は疑いを抱いた。
  • 日が傾いてくると、二卿は空腹でひどく困り、宮門を叩いて謁見を求めた。
  • 門番の内侍が答えた。「主公は今、後園で射を演じておられます。お二人の大夫がお会いになりたければ、ご自身でおいでください。」
  • 孫・寧の二人は心中大いに怒り、飢えを忍んで後園へまっすぐ行くと、獻公はちょうど皮の冠をつけ、射師公孫丁と射を競っているのが望み見えた。
  • 獻公は孫・寧の二人が近づいて来たのを見ても、皮冠を脱がず、弓を腕にかけたまま会い、問うた。「二卿、今日ここに来たのは何用か。」
  • 孫・寧の二人は声をそろえて答えた。「主公が我らに共に午餐をとることをお約束くださいましたので、臣らは今までお待ちしておりました、腹はすでに空いております。君命に背くことを恐れ、それでここに参りました。」
  • 獻公は言った。「寡人は射に夢中になり、たまたま忘れておった。二卿はしばらく退がるがよい、日を改めて再び約束しよう。」
  • 言い終えるとちょうど鴻雁が鳴きながら飛び過ぎ、獻公は公孫丁に言った。「この鴻を的にして射を賭けようか。」
  • 孫・寧の二人は恥じ入りながら退いた。
  • 林父は言った。「主公は遊戯にふけり、群小に狎れ近づき、まったく大臣を敬い礼する意がない。我らは行く末必ず禍を免れまい、どうしたものか。」
  • 寧殖は言った。「君に道がなければ、ただ自ら禍を招くだけです、どうして人に禍を及ぼせましょう。」
  • 林父は言った。「わしは公子剽を奉じて君に立てたいと思うが、そなたはどう考える。」
  • 寧殖は言った。「この挙は甚だ適切でしょう。あなたと私とで機会を見て動けばよいのです。」
  • 言い終えるとそれぞれ別れた。

孫林父の謀反準備と師曹の歌

  • 林父は家に帰り、食事を終えると、その夜のうちにまっすぐ戚邑へ赴き、密かに家臣の庾公差・尹公佗らを呼び、家兵を整え、謀反の計を進めた。
  • 長子の孫蒯を遣わして獻公に会わせ、その口ぶりを探らせた。
  • 孫蒯は衛に至り、内朝で獻公に会い、偽って言った。「臣の父林父は、たまたま風の病にかかり、しばらく河のほとりで療養しております。主公のご寛恕をお願い申し上げます。」
  • 獻公は笑って言った。「そなたの父の病は、思うに飢えすぎたために起きたものであろう。寡人は今後、そなたを二度と飢えさせはせぬぞ。」
  • 内侍に酒を用意させ、楽工を呼んで詩を歌わせ酒を勧めさせた。
  • 太師が尋ねた。「何の詩を歌いましょうか。」
  • 獻公は言った。「『巧言』の終章が、時事によく合う。歌わせよ。」
  • 太師は奏上した。「この詩は語意がよろしくございません、歓宴には向かないかと存じます。」
  • 師曹が一喝して言った。「主公が歌えと仰せなら歌えばよいのだ、何をとやかく言うのか。」
  • もともと師曹は琴に長けており、獻公は師曹にその寵愛する妾へ琴を教えさせていたが、妾が教えに従わなかったため、師曹は妾を十回鞭打った。妾は獻公に泣いて訴え、獻公は寵妾の前で師曹を三百回鞭打った。師曹はこれを深く恨みに思っており、今日、この詩がよろしくないと知りながら、わざと歌おうとし、孫蒯の怒りを激しくさせようとした。
  • そこで声を長く伸ばして歌った。
  • (詩:「彼は何者か、河のほとりに住む。腕力もなく勇もないのに、乱の元となる者だ」と、暗に孫林父を指す内容)
  • 獻公の意図は、孫林父が河のほとりに住み、叛乱の兆しがあるためであり、歌に託してこれを脅かそうとしたのであった。
  • 孫蒯は歌を聞いて座席に落ち着いていられず、まもなく辞去した。
  • 獻公は言った。「先ほど師曹が歌ったこと、子は父に伝えよ。父は河のほとりにいても、寡人はその動静を必ず知っている、よくよく謹んで病体を養うがよい。」
  • 孫蒯は叩頭し、しきりに「滅相もございません」と言いながら退いた。
  • 戚に帰り、林父に述べた。
  • 林父は言った。「主公は我をひどく忌んでおる。我は座して死を待つわけにはいかぬ。大夫の蘧伯玉は衛の賢者だ。彼を仲間にできれば、必ず成るであろう。」
  • そこで密かに衛に赴き、蘧瑗に会って言った。「主公の暴虐は、そなたも知るところ。国が亡ぶことになるかもしれぬ、どうしたらよいか。」
  • 瑗は答えた。「人臣が君に仕えるには、諫めることができれば諫め、諫められなければ去るまでのこと、それ以外は瑗の知るところではない。」
  • 林父は瑗が動かせないと悟り、別れて去った。瑗はその日のうちに魯へ逃れた。

孫林父の挙兵と獻公の逃走

  • 林父は邱宮に徒党を集め、獻公を攻めようとした。獻公は恐れ、使者を邱宮に遣わして林父と和を講じようとしたが、林父はこの使者を殺した。
  • 獻公は寧殖の様子を見に人を遣わすと、すでに車を戒めて林父に応じようとしていた。
  • そこで北宮括を召したが、括は病と称して出なかった。
  • 公孫丁が言った。「事は急でございます。速やかに出奔し、なお復位を求められるようにすべきです。」
  • 獻公は宮中の甲士約二百余人を集め一隊とし、公孫丁は弓矢を携えて従い、東門を開けて出て、齊国へ逃れようとした。
  • 孫蒯・孫嘉の兄弟二人は兵を率いて河沢まで追いつき、さんざんに斬り散らしたので、二百余名の宮中の護衛兵はことごとく逃げ散り、残った者はわずか十数人であった。
  • 幸い公孫丁が射に長けており、矢は一つも外れず、近づく者はことごとく矢を受けて死んだため、獻公を守り、戦いながら逃げることができた。
  • 二孫はあえてそれ以上追わず引き返した。
  • 引き返して三里も行かぬうちに、庾公差・尹公佗の二将が兵を率いてやって来て言った。「相国の命を奉じ、必ず衛侯を捕らえて報告する。」
  • 孫蒯・孫嘉は言った。「弓の巧い者が一人従っている、将軍よ、くれぐれも用心されよ。」
  • 庾公差は言った。「それはわが師の公孫丁ではないか。」
  • もともと尹公佗は射を庾公差に学び、公差はまた射を公孫丁に学んでいた。三人は一つの系統で伝授された仲であり、互いにその技量を知っていた。
  • 尹公佗は言った。「衛侯はそう遠くには行っていない、しばらく追ってみよう。」
  • 約十五里馳せて、獻公に追いついた。御者が傷を負ったため、公孫丁が車で手綱を執っており、振り返って遠くを望むと、それが庾公差だとすぐに分かった。獻公に言った。「来る者は臣の弟子です、弟子は師を害するようなことはいたしません、主公ご安心ください。」そこで車を止めて待った。
  • 庾公差が到着すると、尹公佗に言った。「これは真にわが師である。」そして車を下りて拝謁した。公孫丁は手を挙げて答え、去るよう合図した。
  • 庾公差は車に乗り直して言った。「今日のこと、それぞれその主のためである。もし私が射れば師に背くことになり、射なければ主に背くことになる。私には今、両方を全うする方法がある。」
  • 矢を抜いて輪に叩きつけ、その鏃を取り去り、声を上げて言った。「わが師よ、驚かれるな。」続けて四本の矢を放ち、前は軾に、後ろは軫に、左右は両脇に中て、君臣二人だけを空けて外した。はっきりと腕前を見せつつ、師に恩を売っておこうという意図であった。
  • 庾公差は射終えて叫んだ。「お師匠さま、ご自愛ください。」そして車を返すよう命じた。公孫丁もまた手綱を執って去った。
  • 尹公佗は先に獻公に出会った時、腕前を見せつけようとしたが、庾公差が自分の師であるため勝手に振る舞えなかった。中途に戻る道すがら、次第に後悔の念が起こり、庾公差に言った。「そなたは師弟の分があるゆえ情をかけたが、弟子はもう一段隔たりがある。師の恩は軽く、主の命は重い。もし功なく帰れば、どうして恩主に復命できよう。」
  • 庾公差は言った。「わが師の神業の弓は養繇基にも劣らぬ。そなたはその敵ではない、無駄に命を捨てるだけだぞ。」
  • 尹公佗は庾公の言葉を信じず、その場でまた身を返して衛侯を追った。

(結末は次回に続く)

原文(底本)
話說晉及諸侯之兵,圍了偪陽城二十四日,攻打不下。忽然天降大雨,平地水深三尺。荀偃士匄二將,慮軍心有變,同至中軍來稟智罃曰:「本意謂城小易克。今圍久不下,天降大雨,又時當夏令,水潦將發。泡水在西,薛水在東,漷水在東北,三水皆與泗水相通。萬一連雨不止,三水橫溢,恐班師不便。不如暫歸,以俟再舉。」智罃大怒,取所憑之几,向二將擲之,罵曰:「老夫可曾說來,『城小而固,未易下也。』豎子自任可滅,在晉侯面前,一力承當。牽帥老夫,至於此地!攻圍許久,不見尺寸之效,偶然天雨,便欲班師。來由得你,去由不得你!今限汝七日之內,定要攻下偪陽。若還無功,照軍令狀斬首!速去!勿再來見!」二將嚇得面如土色,喏喏連聲而退。謂本部軍將曰:「元帥立下嚴限,七日若不能破城,必取吾等之首。今我亦與爾等立限,六日不能破城,先斬汝等,然後自剄,以申軍法。」眾將皆面面相覷。偃匄曰:「軍中無戲言!吾二人當親冒矢石,晝夜攻之,有進無退。」約會魯、曹、邾三國,一齊并力。時水勢稍退,偃匄乘轈車,身先士卒,城上矢石如雨,全然不避。自庚寅日攻起,至甲午日,城中矢石俱盡。荀偃附堞先登,士匄繼之,各國軍將,亦乘勢蟻附而上。妘斑巷戰而死。智罃入城,偪陽君率群臣迎降於馬首。智罃盡收其族,留於中軍。計攻城至城破之日,纔五日耳。若非智罃發怒,此舉無功矣。髯翁有詩云:

    仗鉞登壇無地天,偏裨何事敢侵權?一人投杌三軍懼,不怕隆城鐵石堅。

  時悼公恐偪陽難下,復挑選精兵二千人,前來助戰。行至楚邱,聞智罃已成大功,遂遣使至宋,以偪陽之地封宋向戍。向戍同宋平公親至楚邱來見晉侯。向戍辭不受封,悼公乃歸地於宋公。宋衛二君,各設享款待晉侯。智罃述魯三將之勇,悼公各賜車服,乃歸。悼公以偪陽子助楚,廢為庶人,選其族人之賢者,以主妘姓之祀,居於霍城。其秋,荀會卒,悼公以魏絳能執法,使為新軍副將。以張老為司馬。

  是冬,第二軍伐鄭,屯於牛首,復添虎牢之戍。適鄭人尉止作亂,殺公子騑、公子發、公孫輒於西宮之朝。騑之子公孫夏字子西,發之子公孫僑字子產,各帥家甲攻賊,賊敗走北宮。公孫蠆亦率眾來助,遂盡誅尉止之黨,立公子嘉為上卿。欒黶請曰:「鄭方有亂,必不能戰,急攻之可拔也。」智罃曰:「乘亂不義。」命緩其攻。公子嘉使人行成,智罃許之。比及楚公子貞來救鄭,則晉師已盡退矣。鄭復與楚盟。傳稱:「晉悼公三駕服楚。」此乃「三駕」之一。周靈王九年事也。

  明年夏,晉悼公以鄭人未服,復以第三軍伐鄭。宋向戍之兵,先至東門,衛上卿孫林父帥師同郳人屯於北鄙,晉新軍元帥趙武等,營於西郊之外,荀罃帥大軍自北林而西,揚兵於鄭之南門,約會各路軍馬,同日圍鄭。鄭君臣大懼,又遣使行成。荀罃又許之,乃退師於宋地。鄭簡公親至毫城之北,大犒諸軍,與荀罃等歃血為盟,晉宋各軍方散。此乃「三駕」之二。楚共王大怒,使公子貞往秦借兵,約共伐鄭。時秦景公之妹,嫁為楚王夫人,兩國有姻好。乃使大將嬴詹帥車三百乘助戰。共王親帥大軍,望滎陽進發,曰:「此番不滅鄭,誓不班師!」

  卻說鄭簡公自毫城北盟晉而歸,逆知楚軍旦暮必至,大集群臣計議。諸大夫皆曰:「方今晉勢強盛,楚不如也。但晉兵來甚緩,去甚速,兩國未嘗見個雌雄,所以交爭不息。若晉肯致死於我,楚力不逮,必將避之,從此可專事於晉矣。」公孫舍之獻策曰:「欲晉致死於我,莫如怒之。欲激晉之怒,莫如伐宋。宋與晉最睦,我朝伐宋,晉夕伐我。晉能驟來,楚必不能,我乃得有詞於楚也。」諸大夫皆曰:「此計甚善!」正計議間,諜人探得楚國借兵於秦的消息來報。公孫舍之喜曰:「此天使我事晉也!」眾人不解其意。舍之曰:「秦楚交伐,鄭必重困。乘其未入境,當往迎之,因導之使同伐宋國。一則免楚之患,二則激晉之來,豈非一舉兩得?」鄭簡公從其謀,即命公孫舍之乘單車星夜南馳。渡了潁水,行不一舍,正遇楚軍,公孫舍之下車拜伏於馬首之前。楚共王厲色問曰:「鄭反覆無信,寡人正來問罪,汝來卻是何意?」舍之奏曰:「寡君懷大王之德,畏大王之威,所願終身宇下,豈敢離遏?無奈晉人暴虐,與宋合兵,侵擾無已。寡君懼社稷顛覆,不能事君,姑與之和,以退其師。晉師既退,仍是大王貢獻之邑也。恐大王未鑒敝邑之誠,特遣下臣奉迎,布其心腹。大王若能問罪於宋,寡君願執鞭為前部,稍效犬馬,以明誓不相背之意。」共王回嗔作喜曰:「汝君若從寡人伐宋,寡人又何說乎?」舍之又奏曰:「下臣束裝之日,寡君已悉索敝賦,俟大王於東鄙,不敢後也。」共王曰:「雖然如此,但秦庶長約在滎陽城下相會,須與同事方可。」舍之復奏曰:「雍州遼遠,必越晉過周,方能至鄭。大王遣一介之使,猶可及止。以大王之威,楚兵之勁,何必借助於西戎哉?」共王悅其言,果使人辭謝秦師,遂同公孫舍之東行。及有莘之野,鄭簡公帥師來會,遂同伐宋國,大掠而還。

  宋平公遣向戍如晉,訴告楚鄭連兵之事。悼公果然大怒,即日便欲興師。(此番又輪該第一軍出征了。)智罃進曰:「楚之借師於秦者,正以連年奔走道路,不勝其勞也。我一歲而再伐,楚其能復來乎?此番得鄭必矣。當示以強盛之形,堅其歸志。」悼公曰:「善。」乃大合宋、魯、衛、齊、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾各國,一齊至鄭,觀兵於鄭之東門,一路俘獲甚眾。(此師乃「三駕」之三也。)鄭簡公謂公孫舍之曰:「子欲激晉之怒,使之速來,今果至矣,為之奈何?」舍之對曰:「臣請一面求成於晉,一面使人請救於楚。楚兵若能亟來,必當交戰,吾擇其勝者而從之。若楚不能至,吾受晉盟,因以重賂結晉,晉必庇我,又何楚之足患乎?」簡公以為然。乃使大夫伯駢行成於晉﹔使公孫良霄太宰石㚟如楚告曰:「晉師又至鄭矣,從者十一國,兵勢甚盛,鄭亡已在旦夕。君王若能以兵威懾晉,孤之願也。不然,孤懼社稷不保,不得不即安於晉,惟君王憐之,恕之!」楚共王大怒,召公子貞問計。公子貞曰:「我兵乍歸,喘息未定,豈能復發?姑讓鄭於晉,後取之,何患無日!」共王餘怒未平,乃囚良霄石㚟於軍府,不放歸國。髯仙有詩云:

    楚晉爭鋒結世仇,晉兵迭至楚兵休﹔行人何罪遭拘執?始信分軍是善謀。

  時晉軍營於蕭魚,伯駢來至晉軍,悼公召入,厲聲間曰:「汝以行成哄我,已非一次矣。今番莫非又是緩兵之計?」伯駢叩首曰:「寡君已別遣行人先告絕於楚,敢有二心乎?」悼公曰:「寡人以誠信待汝,汝若再懷反覆,將犯諸侯之公惡,豈獨寡人!汝且回去,與汝君商議詳確,再來回話。」伯駢又奏曰:「寡君薰沐而遣下臣,實欲委國於君侯,君侯勿疑。」悼公曰:「汝意既決,交盟可也。」乃命新軍元帥趙武,同伯駢入城,與鄭簡公歃血訂盟。簡公亦遣公孫舍之隨趙武出城,與悼公要約。是冬十二月,鄭簡公親入晉軍,與諸侯同會,因請受歃。悼公曰:「交盟已在前矣,君若有信,鬼神鑒之,何必再歃?」乃傳令:「將一路俘獲鄭人,悉解其縛,放歸本國。禁諸軍不得犯鄭國分毫,如有違者,治以軍法!虎牢戍兵,盡行撤去,使鄭人自為守望。」諸侯皆諫曰:「鄭未可恃也。倘更有反覆,重復設戍難矣。」悼公曰:「久勞苦諸國將士,恨無了期。今當與鄭更始,委以腹心,寡人不負鄭,鄭其負寡人乎?」乃謂鄭簡公曰:「寡人知爾苦兵,欲相與休息。今後從晉從楚,出於爾心,寡人不強。」簡公感激流涕曰:「伯君以至誠待人,雖禽獸可格,況某猶人類,敢忘覆庇?再有異志,鬼神必殛!」簡公辭去。明日使公孫舍之獻賂為謝:樂師三人,女樂十六人,歌鐘三十二枚,鏄磬相副,針指女工三十人,軘車廣車共十五乘,他兵車復百乘,甲兵具備。悼公受之。以女樂八人,歌鐘十二,賜魏絳曰:「子教寡人和諸戎狄,以正諸華。諸侯親附,如樂之和,願與子同此樂也。」又以兵車三分之一,賜智罃曰:「子教寡人分軍敝楚,今鄭人獲成,皆子之功。」絳罃二將,皆頓首辭曰:「此皆仗君之靈,與諸侯之勞,臣等何力之有?」悼公曰:「微二卿,寡人不能至此,卿勿固卻。」乃皆拜受。於是十二國車馬同日班師。悼公復遣使行聘各國,謝其向來用師之勞,諸侯皆悅。自此鄭國專心歸晉,不敢萌二三之念矣。史臣有詩云:

    鄭人反覆似猱狙,晉伯偏將詐力鋤。二十四年歸宇下,方知忠信勝兵戈。

時秦景公伐晉以救鄭,敗晉師於櫟,聞鄭已降晉,乃還。

  明年為周靈王十一年,吳子壽夢病篤,召其四子諸樊、餘祭、夷昧、季札至床前,謂曰:「汝兄弟四人,惟札最賢,若立之,必能昌大吳國。我一向欲立為世子,奈札固辭不肯。我死之後,諸樊傳餘祭,餘祭傳夷昧,夷昧傳季札,傳弟不傳孫。務使季札為君,社稷有幸。違吾命者,即為不孝,上天不祐!」言訖而絕。諸樊讓國於季札曰:「此父志也。」季札曰:「弟辭世子之位於父生之日,肯受君位於父死之後乎?兄若再遜,弟當逃之他國矣。」諸樊不得已,乃宣明次傳之約,以父命即位。晉悼公遣使弔賀。不在話下。

  又明年為周靈王十二年,晉將智罃、士魴、魏相,相繼而卒。悼公復治兵於綿山,欲使士匄將中軍,匄辭曰:「伯游長。」乃使中行荀偃代智罃之任,士匄為副。又欲使韓起將上軍,起曰:「臣不如趙武之賢。」乃使趙武代荀偃之任,韓起為副。欒黶將下軍如故,魏絳為副。其新軍尚無帥。悼公曰「寧可虛位以待人,不可以人而濫位。」乃使其軍吏,率官屬卒乘,以附於下軍。諸大夫皆曰:「君之慎於名器如此。」乃各修其職,弗敢懈怠。晉國大治,復興文襄之業。未幾,廢新軍并入三軍,以守侯國之禮。

  是年秋九月,楚共王審薨,世子昭立,是為康王。吳王諸樊,命大將公子黨帥師伐楚。楚將養繇基迎敵,射殺公子黨,吳師敗還。諸樊遣使告敗於晉,悼公合諸侯於向以謀之。晉大夫羊舌肹進曰:「吳伐楚之喪,自取其敗,不足恤也。秦晉鄰國,世有姻好,今附楚救鄭,敗我師於櫟,此宜先報。若伐秦有功,則楚勢益孤矣。」悼公以為然。使荀偃率三軍之眾,同魯、宋、齊、衛、鄭、曹、莒、邾、滕、薛、杞、小邾十二國大夫伐秦。晉悼公待於境上。秦景公聞晉師將至,使人以毒藥數囊,沉於涇水之上流。魯大夫叔孫豹,同莒師先濟,軍士飲水中毒,多有死者。各軍遂不肯濟。鄭大夫公子蟜謂衛大夫北宮括曰:「既已從人,敢觀望乎?」公子蟜帥鄭師渡涇,北宮括繼之。於是諸侯之師皆進,營於棫林。諜報:「秦軍相去不遠。」荀偃令各軍「雞鳴駕車,視我馬首所向而行!」下軍元帥欒黶,素不服中行偃,及聞令,怒曰:「軍旅之事,當集眾謀,即使偃能獨斷,亦宜明示進退,烏有使三軍之眾,視其馬首者?我亦下軍之帥也,我馬首欲東。」遂帥本部東歸。副將魏絳曰:「吾職在從帥,不敢俟中行伯矣。」亦隨欒黶班師。早有人報知中行偃。偃曰:「出令不明,吾實有過。令既不行,何望成功?」乃命諸侯之師,各歸本國,晉帥亦還。時欒鍼為下軍戎右,獨不肯歸,謂范匄之子范鞅曰:「今日之役,本為報秦,若無功而返,是益恥也。吾兄弟二人,並在軍中,豈可一時皆返?子能與我同赴秦師乎?」范鞅曰:「子以國恥為念,鞅敢不從!」乃各引本部馳入秦軍。

  卻說秦景公引大將嬴詹及公子無地,帥車四百乘,離棫林五十里安營,正遣人探聽晉兵進止。忽見東角塵頭起處,一彪車馬飛來,急使公子無地率軍迎敵。欒鍼奮勇上前,范鞅助之,連刺殺甲將十餘人。秦軍披靡欲走,望其後軍無繼,復鳴鼓合兵圍之。范鞅曰:「秦兵勢大,不可當也!」欒鍼不聽。嬴詹大軍又到,欒鍼復手殺數人,身中七箭,力盡而死。范鞅脫甲,乘單車疾馳得免。欒黶見范鞅獨歸,問曰:「吾弟何在?」鞅曰:「已沒於秦軍矣!」黶大怒,拔戈直刺范鞅。鞅不敢相抗,走入中軍。黶隨後趕到,鞅避去。其父范迎謂曰:「賢婿何怒之甚也?」(黶妻欒祁,乃范匄之女,故以婿呼之。)黶怒氣勃勃,不能制,大聲答曰:「汝子誘吾弟同入秦師,吾弟戰死,而汝子生還,是汝子殺吾弟也。汝必逐鞅,猶可恕,不然,我必殺鞅,以償吾弟之命!」范匄曰:「此事老夫不知也,今當逐之。」范鞅聞其語,遂從幕後出奔秦國。秦景公問其來意,范鞅敘述始末。景公大喜,待以客卿之禮。一日,問曰:「晉君何如人?」對曰:「賢君也,知人而善任。」又問:「晉大夫誰最賢?」對曰:「趙武有文德,魏絳勇而不亂,羊舌肹習於《春秋》,張老篤信有智,祁午臨事鎮定,臣父匄能識大體,皆一時之選。其他公卿,亦皆習於今典,克守其官,鞅末敢輕議也。」景公又曰:「然則晉大夫中,何人先亡?」鞅對曰:「欒氏將先亡。」景公曰:「豈非以汰侈故乎?」范鞅曰:「欒黶雖汰侈,猶可及身,其子盈必不免。」景公曰:「何故?」鞅對曰:「欒武子恤民愛士,人心所歸,故雖有弒君之惡,而國中不以為非,戴其德也。思召公者,愛及甘棠,況其子乎?黶若死,盈之善未能及人,而武之德已遠,修黶之怨者,必此時矣。」景公嘆曰:「卿可謂知存亡故者也!」乃因范鞅而通於范匄,使庶長武聘晉,以修舊好,并請復范鞅之位。悼公從之,范鞅歸晉。悼公以鞅及欒盈並為公族大夫,且諭欒黶勿得修怨。自此秦晉通和,終春秋之世,不相加兵。有詩為證:

    西鄰東道世婚姻,一旦尋仇鬥日新,玉帛既通兵革偃,從來好事是和親。

是年欒黶卒,子欒盈代為下軍副將。

  話分兩頭。卻說衛獻公名衎,自周簡王十年,代父定公即位。因居喪不戚,其嫡母定姜,逆知其不能守位,屢屢規諫,獻公不聽。及在位,日益放縱,所親者無非讒諂面諛之人,所喜者不過鼓樂田獵之事。自定公之世,有同母弟公子黑肩,怙寵專政。黑肩之子公孫剽,嗣父爵為大夫,頗有權略。上卿孫林父,亞卿寧殖,見獻公無道,皆與剽結交。林父又暗結晉國為外援,將國中器幣寶貨,盡遷於戚,使妻子居之。獻公疑其有叛心,一來形跡未著,二來畏其強家,所以含忍不發。

  忽一日,獻公約孫寧二卿共午食。二卿皆朝服待命於門,自朝至午,不見使命來召,宮中亦無一人出來,二卿心疑。看看日斜,二卿飢困已甚,乃叩宮門請見。守閽內侍答曰:「主公在後圃演射,二位大夫若要相見,可自往也。」孫寧二人心中大怒,乃忍飢逕造後圃,望見獻公方帶皮冠,與射師公孫丁較射。獻公見孫寧二人近前,不脫皮冠,掛弓於臂而見之,問:「二卿今日來此何事?」孫寧二人齊聲答曰:「蒙主公約共午食,臣等伺候至今,腹且餒矣。恐違君命,是以來此。」獻公曰:「寡人貪射,偶爾忘之。二卿且退,俟改日再約可也。」言罷,適有鴻雁飛鳴而過,獻公謂公孫丁曰:「與爾賭射此鴻。」孫寧二人,含羞而退。林父曰:「主公耽於遊戲,狎近群小,全無敬禮大臣之意。我等將來必不免於禍,如何?」寧殖曰:「君無道,止自禍耳,安能禍人?」林父曰:「我意欲奉公子剽為君,子以為何如?」寧殖曰:「此舉甚當,你我相機而動便了。」言罷各別。

  林父回家,飯畢,連夜逕往戚邑,密喚家臣庾公差尹公佗等,整頓家甲,為謀叛之計。遣其長子孫蒯,往見獻公,探其口氣。孫蒯至衛,見獻公於內朝,假說:「臣父林父,偶染風疾,權且在河上調理,望主公寬宥。」獻公笑曰:「爾父之疾,想因過餓所致,寡人今不敢復餓子。」命內侍取酒相待,喚樂工歌詩侑酒。太師請問:「歌何詩?」獻公曰:「《巧言》之卒章,頗切時事,何不歌之?」太師奏曰:「此詩語意不佳,恐非歡宴所宜。」師曹喝曰:「主公要歌便歌,何必多言!」原來師曹善於鼓琴,獻公使教其嬖妾,嬖妾不率教,師曹鞭之十下。妾泣愬於獻公,獻公當嬖妾之前,鞭師曹三百,師曹懷恨在心,今日明知此詩不佳,故意欲歌之,以激孫蒯之怒。遂長聲而歌曰:

    彼何人斯,居河之糜?無拳無勇,職為亂階。

獻公的主意,因孫林父居於河上,有叛亂之形,故借歌以懼之。孫蒯聞歌,坐不安席,須臾辭去。獻公曰:「適師曹所歌,子與爾父述之。爾父雖在河上,動息寡人必知,好生謹慎,將息病體。」孫蒯叩頭,連聲「不敢」而退。回戚,述於林父。林父曰:「主公忌我甚矣!我不可坐而待死。大夫蘧伯玉,衛之賢者,若得彼同事,無不濟矣。」乃私至衛,往見蘧瑗曰:「主公暴虐,子所知也。恐有亡國之事,將若之何?」瑗對曰:「人臣事君,可諫則諫,不可諫則去之,他非瑗所知矣。」林父度瑗不可動,遂別去。瑗即日逃奔魯國。

  林父聚徒眾於邱宮,將攻獻公。獻公懼,遣使至邱宮,與林父講和,林父殺之。獻公使視寧殖,已戒車將應林父矣。乃召北宮括,括推病不出。公孫丁曰:「事急矣!速出奔,尚可求復。」獻公乃集宮甲約二百餘人,為一隊,公孫丁挾弓矢相從,啟東門而出,欲奔齊國。孫蒯孫嘉兄弟二人,引兵追及於河澤,大殺一陣,二百餘名宮甲,盡皆逃散,存者僅十數人而已。賴得公孫丁善射,矢無虛發,近者輒中箭而死,保著獻公,且戰且走。二孫不敢窮追而返。纔回不上三里,只見庾公差尹公佗二將,引兵而至,言:「奉相國之命,務取衛侯回報。」孫蒯孫嘉曰:「有一善箭者相隨,將軍可謹防之!」庾公差曰:「得非吾師公孫丁乎?」原來尹公佗學射於庾公差,公差又學射於公孫丁,三人是一線傳授,彼此皆知其能。尹公佗曰:「衛侯前去不遠,姑且追之。」約馳十五里,趕著了獻公。因御人被傷,公孫丁在車執轡,回首一望,遠遠的便認得是庾公差了,謂獻公曰:「來者是臣之弟子,弟子無害師之事,主公勿憂。」乃停車待之。庾公差既到,謂尹公佗曰:「此真吾師也。」乃下車拜見。公孫丁舉手答之,麾之使去。庾公差登車曰:「今日之事,各為其主。我若射,則為背師,若不射,則又為背主,我如今有兩盡之道。」乃抽矢叩輪,去其鏃,揚聲曰:「吾師勿驚!」連發四矢,前中軾,後中軫,左右中兩旁,單單空著君臣二人,分明顯個本事,賣個人情的意思。庾公差射畢,叫聲:「師傅保重!」喝教回車。公孫丁亦引轡而去。尹公佗先遇獻公,本欲逞藝,因庾公差是他業師,不敢自專﹔回至中途,漸漸懊悔起來,謂庾公差曰:「子有師弟之分,所以用情,弟子已隔一層,師恩為輕,主命為重。若無功而返,何以復吾恩主?」庾公差曰:「吾師神箭,不下養繇基,爾非其敵,枉送性命!」尹公佗不信庾公之言,當下復身來追衛侯。不知結末如何,再看下回分解。

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