東周列國志第六十六回 甯喜を殺して子鱄が出奔する/崔杼を戮して慶封が独り相となる (殺甯喜子鱄出奔 戮崔杼慶封獨相)
殖綽の敗死(圉村の計略)
- さて、殖綽は精鋭の兵千人を率いて晋の守備陣を襲った。守備兵三百人はひとたまりもなく一掃され、殖綽は茅氏に兵を駐屯させ、使者を衛に遣わして戦勝を報告した。
- 孫林父は衛の兵がすでに東の辺境に侵入したと聞き、孫蒯に雍鉏を伴わせて兵を率いて救援に向かわせた。二人は晋の守備兵がすでに皆殺しにされたことを探り知り、また殖綽が斉国で名高い勇将であると知ると、進んで敵に当たる勇気がなく、全軍を引き返して孫林父に報告した。
- 孫林父は激怒して言った。「悪鬼でさえ祟りをなすことができる。まして人間ならなおさらだ。たった一人の殖綽にすら対陣できないとは。もし衛の大軍が押し寄せてきたら、どうやって防ぐつもりか。もう一度行け。手柄を立てられなければ、二度と私の前に顔を出すな。」
- 孫蒯は不機嫌な顔で退出し、雍鉏と相談した。雍鉏は言った。「殖綽の勇猛さは万人に匹敵し、正面からでは必ず勝てません。敵をおびき出す計略を用いるほかありません。」
- 孫蒯は言った。「茅氏の西に圉村という土地があり、四方は樹木が生い茂り、中に一つの村落がある。村の中には小さな土山があるので、私が人をやって山の麓に落とし穴を掘らせ、草でそれを覆わせよう。お前がまず百人を率いて戦い、村の入り口までおびき寄せろ。私は山の上に兵を置いて口を極めて罵ってやる。殖綽は怒って必ず山に登り私を捕らえに来るだろう。そこで我が計にはまるという寸法だ。」
- 雍鉏はその言葉どおりに、百人を率いて茅氏へと馳せ向かい、偵察するような様子を装った。殖綽の兵に出会うや、恐れをなしたふりをしてすぐさま引き返して逃げた。
- 殖綽は自分の勇猛さを頼み、雍鉏の兵が少ないのを侮って、全軍出撃の命令も出さず、ただ身辺の武装兵数十人だけを連れ、身軽な戦車に乗って追撃した。雍鉏はくねくねと道を折れながら殖綽を圉村まで誘い込んだが、村には入らず、そのまま斜めに折れて樹林の中へと去っていった。殖綽もまた林の中に伏兵があるのではと疑い、戦車を止めさせた。
- 見ると土山の上に、約二百人ほどの歩兵の一団が屯し、一人の将を取り囲んでいた。その将は小柄な体格で、金の兜に刺繍入りの甲冑を身にまとい、殖綽の名を呼びながら罵った。「貴様は斉の国を追われたろくでなし、欒氏の家で用済みとなった捨て物ではないか。今この衛の国に身を寄せて飯を食いながら、恥を知らずまだ出しゃばろうというのか。我が孫氏は八代にわたる世臣であるぞ、それに逆らおうとは。上下の分別もまるでわきまえぬ、禽獣にも劣るやつめ。」
- 殖綽はこれを聞いて激怒した。衛の兵の中に見知った者があり、指さして言った。「あれこそ孫相国の長子、孫蒯という者です。」殖綽は言った。「孫蒯を捕らえれば、孫林父の半分を得たも同然だ。」
- その土山はなだらかで、それほど高くはなかった。殖綽は「車を駆れ」と怒鳴った。車は馬を疾走させ、ちょうど山の坂の下に至ったとき、その車の勢いがあまりに激しく、落とし穴を踏んでしまい、馬はそのまま車を引きずって落ち込み、殖綽は坑の中に転げ落ちた。
- 孫蒯は殖綽の勇力を抑えきれないことを恐れ、あらかじめ弓弩を用意しておき、殖綽が穴に落ちるやいなや、矢を集中させて射た。哀れなことに、あれほどの猛将が、今日凡庸な者の手にかかって死んだのである。まさに「瓦の甕は井戸端で割れるのが常、将軍は多く陣の前で命を落とす」という通りである。(詩:殖綽の勇猛と、孫蒯が奮起して手柄をあげたことを讃える内容)
- 孫蒯は鉤竿で殖綽の死体を引き上げるとその首級を斬り取り、衛軍(殖綽配下の兵)を打ち破って追い散らし、孫林父のもとに戻って報告した。孫林父は言った。「もし晋が我らに守備兵を救わなかった咎めを問うたなら、私に罪があることになる。この勝利を隠して、むしろ敗れたと報告するに越したことはない。」そこで雍鉏を晋に遣わし、敗れたと告げさせた。
衛献公の幽閉と釈放、寧喜の専横
- 晋の平公は衛が自国の守備兵を殺したと聞いて激怒し、正卿趙武に命じ、諸大夫を澶淵に集めて衛に兵を加えようとした。衛の献公は寧喜とともに晋に赴き、孫林父の罪を面と向かって訴えたが、平公は逆に献公と寧喜の二人を捕らえて幽閉してしまった。
- 斉の大夫晏嬰は斉の景公に進言した。「晋侯が孫林父のために衛侯を捕らえたとあっては、諸国の強臣たちは皆その志を遂げることになりましょう。主君はどうか晋に赴いて衛侯の釈放を請うてください。かつて(亡命中の衛侯を)萊に住まわせて差し上げた我が国の恩は、途中で無にしてはなりません。」景公は「よかろう」と言い、使者を遣わして鄭の簡公と日取りを申し合わせ、両君そろって晋へ赴き、衛のために取りなしを求めた。
- 晋の平公はその来意には感じ入ったものの、孫林父が先に訴えていたこともあって、なかなか承知しなかった。晏平仲(晏嬰)はひそかに羊舌肹に語った。「晋は諸侯の盟主として、患難を憐れみ欠けたるを補い、弱きを助け強きを抑えるのが盟主の務めです。孫林父ははじめその主君を追放しましたのに、晋はこれを討つこともできず、今度は臣下のために主君を捕らえております。君主であるというのは、なんと難しいことではありませんか。昔、文公は元晅の言葉を誤って聞き入れ、衛の成公を捕らえて京師に連れ帰りましたが、周の天子はその不忠順を憎み、文公は恥じてこれを釈放しました。京師に連れ帰ることさえ許されなかったのに、まして諸侯をもって諸侯を幽閉するなど、なおさら許されましょうか。諸君子がこれを諫めないのは、臣下に味方して主君を抑えることになり、その名は保てません。私は晋が覇者としての地位を失うことを恐れ、あえて貴殿に私見を申し上げる次第です。」
- 羊舌肹はこれを趙武に伝え、強く平公に願い出たので、平公は衛侯を釈放して帰国させた。しかしまだ寧喜の釈放までは承知しなかった。右宰穀は献公に美しい女楽十二人を贈り物として晋に差し出し、寧喜の身代金とするよう勧めた。晋侯は喜び、あわせて寧喜も釈放した。
- 寧喜は帰国すると、いよいよ得意な様子を見せ、事あるごとに独断で決め、まったく主君の命令を仰がなくなった。政務を議論する大夫たちも、皆寧氏の私邸に出向いて指示を仰ぐ有様で、献公はただ手を組んで座っているだけであった。
弭兵の会の提唱と、公孫免余らによる寧氏討伐の密議
- その頃、宋の左師向戍は、晋の趙武と親しく、また楚の令尹屈建とも親しかった。向戍は楚へ聘問した際、かつて華元が晋楚両国を和合させようとした故事に言及した。屈建は言った。「それは大変よいことです。ただ諸侯がそれぞれ党を分けているために、和議はこれまで実現しなかったのです。もし晋楚それぞれの属国が互いに参内して貢ぎ物を献じ合い、一家のごとく親しくなれば、干戈を永く絶やすことができましょう。」
- 向戍はもっともだと思い、そこで晋楚両国の君主を宋で会わせ、兵を止めて互いに参内し合う盟約を面談で定めようと提唱した。楚は共王の代からこのかた、しばしば呉の侵掠に遭って辺境が安まらなかったため、屈建は晋と好を通じて呉への対応に専念しようとしていた。一方趙武もまた、楚が度々鄭を伐っていたことから、和議さえ成れば数年の安息を得られると期待していた。両者はともに喜んでこれに従い、使者を各属国へ遣わして会期を通達し、日取りを取り決めた。
- 晋の使者が衛国に至ったとき、寧喜は献公に知らせぬまま、独断で石悪を会に赴かせた。献公はこれを聞いて激怒し、公孫免余に訴えた。免余は「私が礼をもって彼を責めましょう」と言い、すぐに寧喜のもとへ赴いて言った。「会盟という大事を、どうして主君に知らせずに済ませられましょうか。」寧喜はむっとして言った。「子鮮(公子鱄)とはすでに約束を交わしてあるのだ。私はもはや単なる臣下ではないぞ。」
- 免余は戻って献公に報告した。「寧喜の無礼はなはだしいものです。どうして殺してしまわないのですか。」献公は言った。「寧氏がいなければ、今日の我が身はなかった。約束の言葉は実に寡人自身が出したものだ、後悔することはできぬ。」免余は言った。「臣は主君の格別なご厚意をこうむりながら、お報いする術がありません。どうか自ら一族を率いて寧氏を討たせてください。事が成れば利益は主君に帰し、成らなければ害は臣一人が引き受けます。」献公は言った。「卿のよいように図るがよい。ただ寡人を巻き添えにするな。」
- 免余はそこで一族の弟である公孫無地・公孫臣のもとへ行き、言った。「相国(寧喜)の専横ぶりは、あなた方もご存じの通りだ。主君はなお杓子定規な信義にこだわり、じっと耐え忍んで口にされないが、そのままではやがてその勢いを養い、禍いはついに孫氏の乱と同じことになろう。どうしたものか。」無地と臣は口をそろえて答えた。「どうして殺してしまわないのですか。」免余は言った。「私は主君に申し上げたが、主君はお聞き入れにならなかった。もし我々が偽って乱を起こしたことにして、うまくいけば主君の幸い、うまくいかなくても出奔するだけのことだ。」無地は言った。「我ら兄弟が先鋒を務めましょう。」免余は血をすすって誓うことを求めた。
寧喜の誅殺と公子鱄の出奔
- 時に周の霊王二十六年のことである。寧喜がちょうど春の宴を催していたとき、無地は免余に言った。「寧氏は春の宴を開いており、必ず備えが手薄であろう。私がまず先に試してみるので、あなたは後に続いてくれ。」免余は言った。「占ってみてはどうか。」無地は言った。「事は必ず行わねばならぬのだ、占いなど要るものか。」
- 無地と臣は一族の兵をことごとく起こして寧氏を攻めた。寧氏の門内には仕掛けの罠が設けられていた(罠とは、地面を掘って深い穴を作り、その上に板を敷き、別に木で仕掛けを作って、それに触れると仕掛けが下から発動して板が開き、人が落ちる仕組みである。昼間は仕掛けを外しておき、夜になると設置していた)。この日は春の宴のため、一族の者は皆堂で歌舞を見物しており、門番がいなかったので、仕掛けを門番の代わりに設置していた。無地はそれを知らず、誤って仕掛けに触れ、穴に落ちてしまった。
- 寧氏の者は大いに驚き、争って出て賊を捕らえようとし、無地を捕らえた。公孫臣は戈を振るって救おうとしたが、寧氏の人数が多く、臣は戦い敗れて殺された。寧喜は無地に尋ねた。「お前がここに来たのは、誰の指図か。」無地は目をいからせて罵った。「お前は功に頼って専横をきわめ、臣として不忠である。我ら兄弟はまさに社稷のためにお前を誅そうとしたのだ。事が成らなかったのは天命というものだ。どうして人の指図など受けようか。」寧喜は怒り、無地を庭の柱に縛りつけ、鞭打って死なせ、その後首を斬った。
- 右宰穀は寧喜が賊を捕らえたと聞き、夜、車に乗って様子を尋ねに来た。寧氏がちょうど門を開けたところへ、免余が兵を率いてやって来て、その隙に乗じて中に入った。まず右宰穀を門で斬った。寧氏の堂の中は大混乱となり、寧喜は驚き慌てる中で、急いで尋ねた。「賊をなす者は何者か。」免余は言った。「国中の者が皆ここにいるのだ、いちいち姓名を問う必要があるか。」寧喜は恐れて逃げ出し、免余は剣を奪ってこれを追い、堂の柱を三周するうちに、寧喜は二か所を斬られて柱の下で死んだ。
- 免余は寧氏の一族をことごとく滅ぼし、戻って献公に報告した。献公は寧喜と右宰穀の死体を取り寄せさせ、朝廷にさらした。公子鱄はこれを聞き、裸足のまま朝廷に駆け込み、寧喜の死体を撫でて泣いた。「主君が信義を失ったのではない、私が実にお前を欺いたのだ。お前が死んでしまった以上、私はどんな顔をして衛の朝廷に立てようか。」天を仰いで三たび長く号泣すると、そのまま走り出て、すぐに牛車に妻子を乗せ、晋国へと出奔した。
- 献公は人を遣わして引き止めさせたが、鱄は従わなかった。黄河のほとりまで来たとき、献公はさらに大夫の斉悪を早馬で追わせ、追いつかせた。斉悪は衛侯の意向を伝え、ぜひとも子鱄に帰国するよう求めた。子鱄は言った。「私に衛へ戻れというのなら、寧喜が生き返るしかあるまい。」斉悪がなおも強いてやまなかったので、子鱄は生きた雉を一羽取り寄せ、斉悪の前で佩刀を抜いて雉の首を斬り落とし、誓って言った。「鱄とその妻子は、今後再び衛の地を踏み、衛の粟を食らうことがあれば、この雉と同じ目に遭うであろう。」斉悪はもはや強いることができないと悟り、自ら引き返すしかなかった。
- 子鱄はそのまま晋国へ出奔し、邯鄲に隠れ住み、家族とともに草履を織って粟に換えて暮らし、生涯「衛」という一字を口にすることはなかった。史官はこれを詩に詠んでいる。(詩:異郷での暮らしの寂しさと、約束を守り通した子鱄の心を讃える内容)
- 斉悪は帰って献公に報告し、献公は嘆き悲しんでやまず、二人の死体を収めて葬るよう命じた。免余を正卿に立てようとしたが、免余は「私は人望が薄うございます、太叔には及びません」と言った。そこで太叔儀が政を執ることとなり、これより衛国はようやく安定した。
宋における弭兵の会
- 話は二つに分かれる。さて宋の左師向戍は、兵を止める会盟を提唱し、面談で互いに参内し合う取り決めを協議した。晋の正卿趙武と楚の令尹屈建は、ともに宋の地に至り、各国の大夫も次々と到着した。晋の属国である魯・衛・鄭は晋の陣営に従って左に、楚の属国である蔡・陳・許は楚の陣営に従って右に位置した。車を並べて城塞となし、それぞれ一方に陣取った。宋は会の主催者であるから言うまでもない。
- 取り決められた内容は次の通りである。参内して貢ぎ物を献ずる常例に照らし、楚の属国は晋にも参内し、晋の属国も楚に参内する。その貢献の礼物は、それぞれ半分ずつを両者で分けて用いる。斉・秦のような大国は対等の与国として扱い、属国の数には含めず、いずれもこの相互の参内の取り決めには加わらない。晋に属する小国、たとえば邾・莒・媵・薛や、楚に属する小国、たとえば頓・胡・沈・麇などは、力のある国は自ら参内し、力のない国は従属国の例に従って近隣の大国に付属する。こうして宋の西門の外で、血をすすって盟約を結んだ。
- 楚の屈建はひそかに命令を伝え、鎧を服の下に着込んで事に臨み、武力で盟を脅し取って主導権を握り、あわせて趙武を襲殺しようと企てたが、伯州犁が固く諫めたためやめた。趙武は楚が鎧を着込んでいると聞き、羊舌肹に相談して、あらかじめ対抗の策を用意しようとした。羊舌肹は言った。「そもそもこの盟は兵を止めるために結ぶものです。もし楚が兵を用いれば、彼らのほうが先に諸侯への信義を失うことになります。諸侯の誰がそれに服しましょうか。あなたは信義を守っていればよいのです、何を心配することがありましょう。」
- いよいよ盟を結ぶという段になって、楚の屈建はまた先に血をすすろうとし、向戍に晋へその旨を伝えさせた。向戍は晋の陣に赴いたが、口に出しかねて、従者に代わりに述べさせた。趙武は言った。「昔、我が先君文公は、践土において王命を受け、四方の国々を安んじ、代々諸夏の長であり続けた。楚がどうして晋より先んじられようか。」向戍はこれを屈建に伝え返した。屈建は言った。「王命について言うなら、楚もかつて恵王より受命したことがある。互いに参内し合うというのは、楚と晋とが対等であるという意味だ。晋が盟主であり続けて久しいので、今回は楚に譲るのが道理であろう。もしなお晋が先とあっては、楚が晋より弱いということになってしまう、それでどうして対等の国と言えようか。」
- 向戍は再び晋の陣へ行きこれを伝えた。趙武はなお承知しなかったので、羊舌肹は趙武に言った。「盟主というのは徳によるものであり、勢いによるものではありません。もし徳があれば、たとえ血をすするのが後であっても、諸侯はこれに従うでしょう。もし徳がなければ、たとえ先にすすっても、諸侯は背くでしょう。そもそも諸侯を集めるのは兵を止めるためであり、兵を止めることは天下の利益です。もし血をすする順序を争えば必ず兵を用いることになり、兵を用いれば必ず信義を失うことになります。それでは天下を利するという本来の目的を失うことになります。あなたはひとまず楚に譲ってください。」趙武はそこで楚が先に血をすすることを許し、盟を結んで散会した。
- 時に衛の石悪もこの盟に参加していたが、寧喜が殺されたと聞いて衛に帰るのを恐れ、そのまま趙武に従って晋国にとどまった。これより晋楚両国は事無く過ぎた。この話はここまでにしておく。
崔氏の内訌と崔杼の最期、慶封の独相
- さて斉の右相崔杼は、荘公を弑して景公を立ててよりこのかた、その威勢は斉国に轟いていた。左相慶封は酒を好み狩猟を好む性分で、常に国内にいなかった。崔杼が一人朝政を握り、専横の度合いはますます甚だしくなり、慶封は心中ひそかに嫉妬を抱いていた。
- 崔杼はもともと棠姜に崔明を跡継ぎに立てることを許していたが、長子崔成が腕に障害を負っていることを不憫に思い、口に出しかねていた。崔成はその意を察し、嫡子の地位を崔明に譲ることを願い出て、その代わり崔の邑を与えられて老後を養いたいと願った。崔杼はこれを許した。ところが東郭偃と棠無咎はこれを承知せず、「崔の邑は宗家の邑であり、必ず宗子(跡継ぎに立てられた者)に授けるべきものです」と言った。崔杼は崔成に言った。「私は本来、崔の邑をお前に与えるつもりだったが、偃と無咎が承知しない、どうしたものか。」
- 崔成はこの事を弟の崔疆に訴えた。崔疆は言った。「跡継ぎの地位でさえ、すでに譲ってしまったというのに、一つの邑さえも惜しんで与えないというのか。父上がご存命の間でさえ東郭らはこのように我らを押さえつける。父上が亡くなれば、我ら兄弟は奴僕にでもなりたいと願っても叶うまい。」崔成は言った。「ひとまず左相にお願いして取りなしていただこう。」
- 成と疆の二人は慶封に会って、その事情を訴えた。慶封は言った。「お前たちの父は、偃と無咎の言うことばかりを聞いており、私が進言してもきっと聞き入れはしまい。この先お前たちの父の害となるかもしれない、いっそのこと除いてしまってはどうか。」成と疆は言った。「私どももそう思ってはおりますが、力が弱く、事を成し遂げられないのではと恐れております。」慶封は「もう少し相談してみよう」と言った。二人が去った後、慶封は盧蒲嫳を呼んで、二人の言葉を伝えた。盧蒲嫳は言った。「崔氏の乱は、慶氏にとっての利益となりましょう。」慶封は大いに悟るところがあった。
- 数日して、成と疆が再びやって来て、東郭偃と棠無咎の悪事についてさらに訴えた。慶封は言った。「お前たちがもし事を起こせるなら、私が武具を貸して助けよう。」そこで精鋭の甲冑百具と、それに応じた武器を与えた。成と疆は大いに喜び、夜半に一族の者を率いて甲冑を身につけ武器を手にし、崔氏の邸の近くに分散して潜伏した。東郭偃と棠無咎は毎日必ず崔氏に参内していたので、二人が門に入るのを待ち構え、甲士たちが一斉に起こって、東郭偃と棠無咎を戈で突き刺して殺した。
- 崔杼は変事を聞いて激怒し、急いで人を呼んで車を用意させようとしたが、御者も従者も皆逃げ隠れてしまっていて、ただ馬丁だけが厩舎に残っていた。そこで馬丁に馬を引かせ、一人の小者を御者として、慶封のもとへ向かい、家の災難を泣きながら訴えた。慶封は何も知らぬふりをして驚いたように言った。「崔と慶とは、二つの家とはいえ、実は一体のようなものです。若造どもがこのように無礼を働くとは。もし討伐なさりたいのなら、私が力をお貸ししましょう。」崔杼はこれを真に受けて信じ、感謝して言った。「もしこの二人の逆賊を除いて崔の宗家を安んじることができれば、明(崔明)にあなたを父として拝ませましょう。」
- 慶封は一族の甲士をことごとく起こし、盧蒲嫳を呼んでこれを率いさせ、こう言い含めた。「このようにこうせよ……」盧蒲嫳は命を受けて出発した。崔成と崔疆は、盧蒲嫳の軍勢が来るのを見て、門を閉じて自ら守ろうとした。盧蒲嫳は彼らを誘って言った。「私は左相の命を受けて参りました。あなた方の利益になることであって、害を与えるものではありません。」成は疆に言った。「もしや妾腹の弟である明を除こうというのではないか。」疆は「ありうることだ」と言った。そこで門を開いて盧蒲嫳を迎え入れた。
- 嫳が門に入ると、甲士たちも皆入ってきた。成と疆はこれを阻止できず、嫳に尋ねた。「左相のご命令はどのようなものか。」嫳は言った。「左相はお前たちの父の訴えを受け、私にお前たちの首を取れと命じられたのだ。」そして甲士たちに叫んだ。「まだ手を下さぬか。」成と疆が答える間もなく、その首はすでに地に落ちていた。盧蒲嫳は甲士たちを解き放って一族の家財を略奪させ、車馬や器物は一つ残らず奪い取り、さらにその門戸を打ち壊した。棠姜は驚き恐れ、自ら部屋で首を吊った。ただ崔明だけは先に外に出ていて、この災難を免れた。
- 盧蒲嫳は成と疆の首を車に懸けて、戻って崔杼に報告した。崔杼は二つの死体を見て、憤りと悲しみが入り混じり、嫳に尋ねた。「まさか内室にまで及んで驚かせはしなかったろうな。」嫳は言った。「奥方はちょうど高いびきでまだお目覚めではありません。」崔杼は喜色を浮かべ、慶封に言った。「帰りたいのだが、あいにく小者は御者がうまくない、どうか御者を一人貸していただけまいか。」盧蒲嫳は「私が相国のために御をつとめましょう」と言った。崔杼は慶封に何度も礼を述べ、車に乗って別れた。
- 邸に着くと、幾重にも重なる門が大きく開いており、動いている人影は一人もなかった。表座敷に入り、内室をまっすぐ見渡すと、窓も戸も、もぬけの殻であった。棠姜は梁に首を吊ったまま、まだ縄も解かれていなかった。崔杼は魂も抜けるほど驚き、盧蒲嫳に問いただそうとしたが、すでに挨拶もなくいなくなっていた。あちこち崔明を探しても見つからず、声をあげて泣いた。「私は今、慶封に売られたのだ。私にはもう家がない、生きていて何になろう。」そして自らも首を吊って死んだ。崔杼の受けた禍いは、なんと惨めなことであろうか。髯翁は詩に詠んでいる。(詩:かつては心を同じくして謀反を起こした者同士が、今日は互いに軋み合い攻め合うことになった。崔杼の家門の惨たらしさを言うな、そもそも奸雄で良い最期を遂げた者が幾人あろうか、と詠う)
- 崔明は夜半にひそかに邸に戻り、崔杼と棠姜の死体を盗み出し、一つの棺に納めて車に載せて運び出し、祖先の墓を掘り開けてその中に棺を下ろし、そのまま覆い隠した。馬丁一人だけがこれに手を貸し、他に知る者はいなかった。事が終わると、崔明はそのまま魯国へ出奔した。
- 慶封は景公に奏上した。「崔杼は実に先君を弑した罪人です、討伐しないわけにはまいりません。」景公はただ「うむ、うむ」と応じるばかりであった。慶封はこうして一人で景公を輔佐する相国となった。景公の名において陳須無を呼び戻し、斉国に復帰させた。須無は老いを理由に辞退し、その子の陳無宇がこれに代わった。これは周の霊王二十六年の出来事である。
呉楚の抗争と養繇基の死
- その頃、呉と楚はしばしば互いに攻め合っていた。楚の康王は水軍を整えて呉を討伐したが、呉には備えがあり、楚軍は功を得ずに引き返した。呉王余祭は即位してわずか二年、勇を好み命を軽んじる性分で、楚に攻められたことに怒り、相国の屈狐庸を遣わして楚の属国である舒鳩を誘い、楚に背かせた。
- 楚の令尹屈建は軍を率いて舒鳩を討伐し、養繇基は自ら先鋒を願い出た。屈建は言った。「将軍はもう年を召しておられる。舒鳩は取るに足らぬ小国、勝てないことを心配する必要はない、わざわざ煩わせるまでもない。」養繇基は言った。「楚が舒鳩を討てば、呉は必ずこれを救援に来ます。私はしばしば呉軍と戦い、その軍情をよく知っております。どうか同行させてください、たとえ死んでも悔いはありません。」屈建はその「死」という言葉を聞いて、心中哀れに思った。基はさらに言った。「私は先王のご恩顧を受け、かつてこの身をもって国に報いたいと願いながら、その機会に恵まれませんでした。今、髭も髪もすっかり白くなり、もし一朝にして寝床で病死するようなことになれば、令尹殿が私に負い目を作ることになりましょう。」屈建はその決意が固いのを見て、その願いを許し、大夫の息桓を助けにつけた。
- 養繇基が離城まで進んだとき、呉王の弟夷昧が相国の屈狐庸とともに兵を率いて救援に来た。息桓は大軍を待とうとしたが、養繇基は言った。「呉人は水戦を得意とするが、今は舟を捨てて陸に上がっており、しかも弓射や車を御することはもともと得意ではない。まだ態勢が整わないうちに乗じて、急襲すべきだ。」そこで弓に矢をつがえ、自ら士卒の先頭に立ち、射れば必ず命中して敵を倒したので、呉軍は少し後退した。
- 基がこれを追撃し、車に乗った屈狐庸に出くわし、罵った。「国を裏切った賊め、よくも面と向かって現れられたものだな。」屈狐庸を射ようとしたが、狐庸は車を引いて退き、その速さはまるで風のようであった。基は驚いて言った。「呉人も車を御するのが上手いとは。早く射ておくべきだった、残念だ。」言い終わらぬうちに、四方から鉄の装甲を施した戦車が取り囲むように迫り、基は真ん中に閉じ込められてしまった。乗っている将士は皆、江南の弓の名手たちで、矢が一斉に放たれ、養繇基は乱れ飛ぶ矢の中に死んだ。楚の共王がかつて、彼はその技量を頼みにして必ず死ぬだろうと言っていたが、ここに証明されたのである。
- 息桓は敗残の軍をまとめ、戻って屈建に報告した。屈建は嘆いて言った。「養叔(養繇基)の死は、自ら招いたものだ。」そこで精鋭の兵を栖山に伏せ、別将の子疆に自分の私兵を率いさせて呉軍を誘って交戦させ、わずか十数合を交えたところでわざと逃げ出させた。狐庸は伏兵があるのではと疑って追わなかった。夷昧は高い場所に登って眺めたが、楚軍の姿は見えず、「楚軍はすでに逃げ去った」と言い、そのまま全軍を挙げてこれを追撃した。栖山の麓に至ったとき、子疆が引き返して戦いを仕掛け、伏兵が一斉に起こって夷昧を取り囲み、突破できずにいた。ようやく狐庸の兵が到着し、楚軍を打ち破って夷昧を救い出した。呉軍は敗れて帰った。屈建はこうして舒鳩を滅ぼした。
上下其手の故事
- 翌年、楚の康王はまた呉を討伐しようとし、秦に援軍を求めた。秦の景公は弟の公子鍼に兵を率いさせてこれを助けさせた。呉は大軍を長江の入り口に集めて守りを固め、楚は侵入することができず、鄭が久しく晋に服従していることを理由に、軍を返して鄭に侵入した。
- 楚の大夫穿封戍は、陣中で鄭の将皇頡を捕らえた。公子囲はこれを横取りしようとしたが、穿封戍は与えなかった。囲はかえって康王に訴え、「すでに皇頡を捕らえたのに、穿封戍に奪われました」と言った。まもなく、穿封戍は皇頡を連行して手柄を献上したが、彼もまたこの事を訴えた。康王は判断できず、太宰の伯州犁に裁定させた。
- 犁は奏上した。「鄭の捕虜は大夫であって、下っ端の者ではありません。捕虜に問えば自然と言うはずです。」そこで捕虜を庭下に立たせ、伯州犁は右に立ち、公子囲と穿封戍は左に立った。犁は両手を組んで上を指し示して言った。「こちらの位置におられるのは王子囲様、わが君の実の弟君です。」続いて下を指し示して言った。「こちらの位置は穿封戍、方城の外の県尹です。実際に汝を捕らえたのはどちらか、正直に申せ。」皇頡はすでに犁の意図を悟り、王子囲に取り入りたいという下心から、わざと目を見開いて囲を見つめ、答えた。「私はこの王子様にかなわず、それで捕らえられたのです。」
- 穿封戍は激しく怒り、武器架から戈を抜いて公子囲を殺そうとし、囲は驚いて逃げ出したが、戍は追いつくことができなかった。伯州犁が追いついて仲裁し、事は収まった。康王に報告し、二人の功績を半々に分け、さらに自ら酒宴を設けて、囲と戍の二人を和解させた。今の人が、私情に阿って不正に取り計らうことを論じて「手を上下する(上下其手)」というのは、この伯州犁の故事に由来するものである。後世の人はこれを詩に詠んで嘆いている。(詩:功績の真偽を私情によって曲げて判定した伯州犁の不公正を批判する内容)
余祭の弑殺と季札の歴聘
- さて呉の隣国に越という国があり、子爵の位を持ち、夏王禹の子孫である。無余が始めてこの地に封じられて以来、夏から周にかけて三十余代を経て、允常に至った。允常は政治に励んだので、越は次第に強盛となり、呉はこれを恐れるようになった。
- 余祭は即位して四年、初めて兵を用いて越を討伐し、その一族の者を捕らえて足を切断し、門番として「余皇」という大船を守らせた。余祭がその船を見物していた折、酒に酔って横になっていたところ、その門番は余祭の帯びていた刀を解いて、余祭を刺し殺した。従者たちが気づいて、皆でその門番を殺した。
- 余祭の弟夷昧が順に位を継ぎ、国政を季札に委ねた。札は兵を収めて民を安んじ、中原の大国と好誼を通じることを求め、夷昧はこれに従い、まず札を魯国へ使者として遣わした。札は五代の楽および列国の音楽を観たいと求め、一つ一つ評価してみせ、そのたびごとに的を射たものであったので、魯人はこれを音楽の通と認めた。次に斉に使いし、晏嬰と親しく交わった。次に鄭に使いし、公孫僑(子産)と親しく交わった。衛に至っては、蘧瑗と親しく交わった。そして晋へ赴き、趙武・韓起・魏舒と親しく交わった。彼が親しく交わった相手は皆その時代の賢臣であり、季札の賢明さもまたそこからうかがい知ることができよう。
- この後の出来事は、次回に述べることとしよう。
原文(底本)
話說殖綽帥選卒千人,去襲晉戍,三百人不勾一掃,遂屯兵於茅氏,遣人如衛報捷。林父聞衛兵已入東鄙,遣孫蒯同雍鉏引兵救之。探知晉戍俱已殺盡,又知殖綽是齊國有名的勇將,不敢上前拒敵,全軍而返,回復林父。林父大怒曰:「惡鬼尚能為厲!況人乎?一個殖綽不能與他對陣,倘衛兵大至,何以禦之?汝可再往,如若無功,休見我面!」孫蒯悶悶而出,與雍鉏商議,雍鉏曰:「殖綽勇敵萬夫,必難取勝,除非用誘敵之計方可。」孫蒯曰:「茅氏之西,有地名圉村,四圍樹木茂盛,中間一村人家。村中有小小土山,我使人於山下掘成陷坑,以草覆之,汝先引百人與戰,誘至村口,我屯兵於山上,極口詈罵,彼怒,必上山來擒我,中吾計矣。」雍鉏如其言,帥一百人馳往茅氏,如探敵之狀,一遇殖綽之兵,佯為畏懼,回頭便走。殖綽恃勇,欺雍鉏兵少,不傳令開營,單帶隨身軍甲數十人,乘輕車追之。雍鉏彎彎曲曲,引至圉村,卻不進村,逕打斜往樹林中去了。殖綽也疑心林中有伏,便教停車。只見土山之上,又屯著一簇步卒,約有二百人數,簇擁著一員將。那員將小小身材,金鍪繡甲,叫著殖綽的姓名,罵道:「你是齊邦退下來的歪貨!欒家用不著的棄物!今捱身在我衛國吃飯,不知羞恥,還敢出頭!豈不曉得我孫氏是八代世臣,敢來觸犯!全然不識高低,禽獸不如!」殖綽聞之大怒。衛兵中有人認得的指道:「這便是孫相國的長子,叫做孫蒯。」殖綽曰:「擒得孫蒯,便是半個孫林父了。」那土山平穩,頗不甚高。殖綽喝教「驅車!」車馳馬驟,剛剛到山坡之下,那車勢去得凶猛,踏著陷坑,馬就牽車下去,把殖綽掀下坑中。孫蒯恐他勇力難制,預備弓弩,一等陷下,攢箭射之。可憐好一員猛將,今日死於庸人之手!正是:「瓦罐不離井上破,將軍多在陣前亡。」有詩為證: 神勇將軍孰敢當?無名孫蒯已奔忙。只因一激成奇績,始信男兒當自強。 孫蒯用撓鉤搭起殖綽之屍,割了首級,殺散衛軍,回報孫林父。林父曰:「晉若責我不救戍卒,我有罪矣。不如隱其勝而以敗告。」乃使雍鉏如晉告敗。 晉平公聞衛殺其戍卒,大怒,命正卿趙武,合諸大夫於澶淵,將加兵於衛。衛獻公同寧喜如晉,面訴孫林父之罪,平公執而囚之。齊大夫晏嬰,言於齊景公曰:「晉侯為孫林父而執衛侯,國之強臣,皆將得志矣。君盍如晉請之,寓萊之德,不可棄也。」景公曰:「善。」乃遣使約會鄭簡公一同至晉,為衛求解。晉平公雖感其來意,然有林父先入之言,尚未肯統口。晏平仲私謂羊舌肹曰:「晉為諸侯之長,恤患補闕,扶弱抑強,乃盟主之職也。林父始逐其君,既不能討,今又為臣而執君,為君者不亦難乎?昔文公誤聽元晅之言,執衛成公歸於京師,周天子惡其不順,文公愧而釋之。夫歸於京師,而猶不可,況以諸侯囚諸侯乎?諸君子不諫,是黨臣而抑君,其名不可居也。嬰懼晉之失伯,敢為子私言之。」肹乃言於趙武,固請於平公,乃釋衛侯歸國。尚未肯釋寧喜。右宰穀勸獻公飾女樂十二人,進於晉以贖喜。晉侯悅,并釋喜。喜歸,愈有德色,每事專決,全不稟命。諸大夫議事者,竟在寧氏私第請命,獻公拱手安坐而已。 時宋左師向戍,與晉趙武相善,亦與楚令尹屈建相善。向戍聘於楚,言及昔日華元欲為晉楚合成之事。屈建曰:「此事甚善,只為諸侯各自分黨,所以和議迄於無成。若使晉楚屬國互相朝聘,歡好如同一家,干戈可永息矣。」向戍以為然。乃倡議晉楚二君,相會於宋,面定弭兵交見之約。楚自共王至今,屢為吳國侵擾,邊境不寧,故屈建欲好晉以專事於吳。而趙武亦因楚兵屢次伐鄭,指望和議一成,可享數年安息之福。兩邊皆欣然樂從,遂遣使往各屬國訂期。晉使至於衛國,寧喜不通知獻公,逕自委石惡赴會。獻公聞之大怒,訴於公孫免餘。免餘曰:「臣請以禮責之。」免餘即往見寧喜,言:「會盟大事,豈可使君不與聞?」寧喜艴然曰:「子鮮有約言矣,吾豈猶臣也乎哉?」免餘回報獻公曰:「喜無禮甚矣!何不殺之?」獻公曰:「若非寧氏,安有今日?約言實出自寡人,不可悔也。」免餘曰:「臣受主公特達之知,無以為報,請自以家屬攻寧氏,事成則利歸於君,不成則害獨臣當之。」獻公曰:「卿斟酌而行,勿累寡人也。」免餘乃往見其宗弟公孫無地公孫臣曰:「相國之專,子所知也。主公猶執硜硜之信,隱忍不言,異日養成其勢,禍且倚於孫氏矣。奈何?」無地與臣同辭而對曰:「何不殺之?」免餘曰:「吾言於君,君不從也。若吾等偽為作亂,幸而成,君之福,不成,不過出奔耳。」無地曰:「吾弟兄願為先驅。」免餘請歃血為信。 時周靈王二十六年。寧喜方治春宴,無地謂免餘曰:「寧氏治春宴,必不備,吾請先嘗之,子為之繼。」免餘曰:「盍卜之?」無地曰:「事在必行,何卜之有?」無地與臣悉起家眾以攻寧氏。寧氏門內,設有伏機,(伏機者,掘地為深窟,上鋪木板,別以木為機關,觸其機,則勢從下發,板啟而人陷,日間去機,夜則設之。)是日因春宴,家屬皆於堂中觀優,無守門者,乃設機以代巡警。無地不知,誤觸其機,陷於窟中。寧氏大驚,爭出捕賊,獲無地。公孫臣揮戈來救,寧氏人眾,臣戰敗被殺。寧喜問無地曰:「子之此來,何人主使?」無地瞋目大罵曰:「汝恃功專恣,為臣不忠,吾兄弟特為社稷誅爾,事之不成,命也!豈由人主使耶?」寧喜怒,縛無地於庭柱,鞭之至死,然後斬之。右宰穀聞寧喜得賊,夜乘車來問。寧氏方啟門,免餘帥兵適至,乘之而入。先斬右宰穀於門。寧氏堂中大亂,寧喜驚忙中,遽問:「作賊者何人?」免餘曰:「舉國之人皆在,何問姓名乎?」喜懼而走,免餘奪劍逐之,繞堂柱三周,喜身中兩劍,死於柱下。免餘盡滅寧氏之家,還報獻公。獻公命取寧喜及右宰穀之屍,陳之於朝。公子鱄聞之,徒跣入朝,撫寧喜之屍,哭曰:「非君失信,我實欺子。子死,我何面目立衛之朝乎?」呼天長號者三,遂趨出,即以牛車載其妻小,出奔晉國。獻公使人留之,鱄不從。行及河上,獻公復使大夫齊惡馳驛追及之,齊惡致衛侯之意,必要子鱄回國。子鱄曰:「要我還衛,除是寧喜復生方可!」齊惡猶強之不已,子鱄取活雉一隻,當齊惡前拔佩刀剁落雉頭,誓曰:「鱄及妻子,今後再履衛地,食衛粟,有如此雉!」齊惡知不可強,只得自回。子鱄遂奔晉國,隱於邯鄲,與家人織屨易粟而食,終身不言一「衛」字。史臣有詩云: 他鄉不似故鄉親,織屨蕭然竟食貧,只為約言金石重,違心恐負九泉人。 齊惡回復獻公,獻公感嘆不已,乃命收殮二屍而葬之。欲立免餘為正卿,免餘曰:「臣望輕,不如太叔。」乃使太叔儀為政,自此衛國稍安。 話分兩頭。卻說宋左師向戍,倡為弭兵之會,面議交見之事。晉正卿趙武,楚令尹屈建,俱至宋地,各國大夫陸續俱至。晉之屬國魯、衛、鄭,從晉營於左﹔楚之屬國蔡、陳、許,從楚營於右。以車為城,各據一偏。宋是地主,自不必說。議定:照朝聘常期,楚之屬朝聘於晉,晉之屬亦朝聘於楚。其貢獻禮物,各省其半,兩邊分用。其大國齊秦,算做敵體與國,不在屬國之數,各不相見。晉屬小國,如:邾、莒、媵、薛,楚屬小國,如:頓、胡、沈、麇,有力者自行朝聘,無力者從附庸一例,附於鄰近之國。遂於宋西門之外,歃血訂盟。楚屈建暗暗傳令,衷甲將事,意欲劫盟,襲殺趙武,伯州犁固諫乃止。趙武聞楚衷甲,以問羊舌肹,欲預備對敵之計。羊舌肹曰:「本為此盟以弭兵也。若楚用兵,彼先失信於諸侯,諸侯其誰服之!子守信而已,何患焉。」及將盟,楚屈建又欲先歃,使向戍傳言於晉。向戍造晉軍,不敢出口,其從人代述之。趙武曰:「昔我先君文公,受王命於踐土,綏服四國,長有諸夏。楚安得先於晉?」向戍還述於屈建。建曰:「若論王命,則楚亦嘗受命於惠王矣。所以交見者,謂楚晉匹敵也。晉主盟已久,此番合當讓楚。若仍先晉,便是楚弱於晉了,何云敵國?」向戍復至晉營言之。趙武猶未肯從,羊舌肹謂趙武曰:「主盟以德不以勢,若其有德,歃雖後,諸侯戴之。如其無德,歃雖先,諸侯叛之。且合諸侯以弭兵為名,夫弭兵天下之利也,爭歃則必用兵,用兵則必失信,是失所以利天下之意矣。子姑讓楚。」趙武乃許楚先歃,定盟而散。時衛石惡與盟,聞寧喜被殺,不敢歸衛,遂從趙武留於晉國。自是晉楚無事。不在話下。 再說齊右相崔杼,自弒莊公,立景公,威震齊國。左相慶封性嗜酒,好田獵,常不在國中。崔杼獨秉朝政,專恣益甚,慶封心中陰懷嫉忌。崔杼原許棠姜立崔明為嗣,因憐長子崔成損臂,不忍出口。崔成窺其意,請讓嗣於明,願得崔邑養老。崔杼許之。東郭偃與棠無咎不肯,曰:「崔,宗邑也,必以授宗子。」崔杼謂崔成曰:「吾本欲以崔予汝,偃與無咎不聽,奈何?」崔成訴於其弟崔疆。崔疆曰:「內子之位,且讓之矣,一邑尚吝不予乎?吾父在,東郭等尚然把持﹔父死,吾弟兄求為奴僕不能矣。」崔成曰:「姑浼左相為我請之。」成疆二人求見慶封,告訴其事。慶封曰:「汝父惟偃與無咎之謀是從,我雖進言,必不聽也。異日恐為汝父之害,何不除之?」成疆曰:「某等亦有此心,但力薄,恐不能濟事。」慶封曰:「容更商之。」成疆去,慶封召盧蒲嫳述二子之言。盧蒲嫳曰:「崔氏之亂,慶氏之利也。」慶封大悟。過數日,成疆又至,復言東郭偃棠無咎之惡。慶封曰:「汝若能舉事,吾當以甲助子。」乃贈之精甲百具,兵器如數。成疆大喜,夜半率家眾披甲執兵,散伏於崔氏之近側。東郭偃棠無咎每日必朝崔氏,候其入門,甲士突起,將東郭偃棠無咎攢戟刺死。崔杼聞變大怒,急呼人使駕車,輿僕逃匿皆盡,惟圉人在廄。乃使圉人駕馬,一小豎為御,往見慶封,哭訴以家難。慶封佯為不知,訝曰:「崔慶雖為二氏,實一體也。孺子敢無上至此!子如欲討,吾當效力。」崔杼信以為誠,乃謝曰:「倘得除此二逆,以安崔宗,我使明也拜子為父。」慶封乃悉起家甲,召盧蒲嫳使率之,吩咐:「如此如此。﹍﹍」盧蒲嫳受命而往。崔成崔疆,見盧蒲嫳兵至,欲閉門自守。盧蒲嫳誘之曰:「吾奉左相之命而來,所以利子,非害子也。」成謂疆曰:「得非欲除孽弟明乎?」疆曰:「容有之。」乃啟門納盧蒲嫳。嫳入門,甲士俱入。成疆阻遏不住,乃問嫳曰:「左相之命何如?」嫳曰:「左相受汝父之訴,吾奉命來取汝頭耳!」喝令甲士:「還不動手!」成疆未及答言,頭已落地。盧蒲嫳縱甲士抄擄其家,車馬服器,取之無遺,又毀其門戶。棠姜驚駭,自縊於房。惟崔明先在外,不及於難。盧蒲嫳懸成疆之首於車,回復崔杼。杼見二屍,且憤且悲,問嫳曰:「得無震驚內室否?」嫳曰:「夫人方高臥未起。」杼有喜色,謂慶封曰:「吾欲歸,奈小豎不善執轡,幸借一御者。」盧蒲嫳曰:「某請為相國御。」崔杼向慶封再三稱謝,登車而別。行至府第,只見重門大開,並無一人行動。比入中堂,直望內室,窗戶門闥,空空如也。棠姜懸梁,尚未解索。崔杼驚得魂不附體,欲問盧蒲嫳,已不辭而去矣。遍覓崔明不得,放聲大哭曰:「吾今為慶封所賣,吾無家矣,何以生為?」亦自縊而死。杼之得禍,不亦慘乎?髯翁有詩曰: 昔日同心起逆戎,今朝相軋便相攻。莫言崔杼家門慘,幾個奸雄得善終! 崔明半夜,潛至府第,盜崔杼與棠姜之屍,納於一柩之中,車載以出,掘開祖墓之穴,下其柩,仍加掩覆,惟圉人一同做事,此外無知者。事畢,崔明出奔魯國。慶封奏景公曰:「崔杼實弒先君,不敢不討也。」景公唯唯而已。慶封遂獨相景公。以公命召陳須無復歸齊國。須無告老,其子陳無宇代之。此周靈王二十六年事也。 時吳楚屢次相攻,楚康王治舟師以伐吳,吳有備,楚師無功而還。吳王餘祭,方立二年,好勇輕生,怒楚見伐,使相國屈狐庸,誘楚之屬國舒鳩叛楚。楚令尹屈建帥師伐舒鳩,養繇基自請為先鋒。屈建曰:「將軍老矣!舒鳩蕞爾國,不憂不勝,無相煩也。」養繇基曰:「楚伐舒鳩,吳必救之。某屢拒吳兵,熟知軍情,願隨一行,雖死不恨!」屈建見他說個「死」字,心中惻然。基又曰:「某受先王知遇,嘗欲以身報國,恨無其地。今鬚髮俱改,脫一旦病死牖下,乃令尹負某矣。」屈建見其意已決,遂允其請,使大夫息桓助之。養繇基行至離城,吳王之弟夷昧同相國屈狐庸率兵來救。息桓欲俟大軍,養繇基曰:「吳人善水,今棄舟從陸,且射御非其長,乘其初至未定,當急擊之。」遂執弓貫矢,身先士卒,所射輒死,吳師稍卻。基追之,遇狐庸於車,罵曰:「叛國之賊!敢以面目見我耶?」欲射狐庸。狐庸引車而退,其疾如風,基駭曰:「吳人亦善御耶?恨不早射也。」說猶未畢,只見四面鐵葉車圍裹將來,把基困於垓心。乘車將士,皆江南射手,萬矢齊發,養繇基死於亂箭之下。楚共王曾言其恃藝必死,驗於此矣。息桓收拾敗軍,回報屈建。建嘆曰:「養叔之死,乃自取也!」乃伏精兵於栖山,使別將子疆以私屬誘吳交鋒,纔十餘合遂走,狐庸意其有伏不追。夷昧登高望之,不見楚軍,曰:「楚已遁矣!」遂空壁逐之。至栭山之下,子疆回戰,伏兵盡起,將夷昧圍住,沖突不出。卻得狐庸兵到,殺退楚兵,救出夷昧。吳師敗歸。屈建遂滅舒鳩。 明年,楚康王復欲伐吳,乞師於秦,秦景公使弟公子鍼帥兵助之。吳盛兵以守江口,楚不能入,以鄭久服事晉,遂還師侵鄭。楚大夫穿封戍,擒鄭將皇頡於陣。公子圍欲奪之,穿封戍不與。圍反訴於康王,言:「已擒皇頡,為穿封戍所奪。」未幾,穿封戍解皇頡獻功,亦訴其事。康王不能決,使太宰伯州犁斷之。犁奏曰:「鄭囚乃大夫,非細人也,問囚自能言之。」乃立囚於庭下,伯州犁立於右,公子圍與穿封戍立於左,犁拱手向上曰:「此位是王子圍,寡君之介弟也。」復拱手向下曰:「此位為穿封戍,乃方城外之縣尹也。誰實擒汝?可實言之!」皇頡已悟犁之意,有心要奉承王子圍,偽張目視圍,對曰:「頡遇此位王子不勝,遂被獲。」穿封戍大怒,遂於架上抽戈欲殺公子圍,圍驚走,戍逐之不及。伯州犁追上,勸解而還。言於康王,兩分其功,復自置酒,與圍戍二人講和。今人論狥私曲庇之事,輒云:「上下其手。」(蓋本伯州犁之事也。)後人有詩嘆云: 斬擒功績辨虛真,私用機門媚貴臣。幕府計功多類此,肯持公道是何人! 卻說吳之鄰國名越,子爵,乃夏王禹之後裔,自無余始封,自夏歷周,凡三十餘世,至於允常。允常勤於為治,越始強盛,吳忌之。餘祭立四年,始用兵伐越,獲其宗人,刖其足,使為閽,守「餘皇」大舟。餘祭觀舟醉臥,宗人解餘祭之佩刀,刺殺餘祭。從人始覺,共殺宗人。餘祭弟夷昧,以次嗣立,以國政任季札。札請戢兵安民,通好上國,夷昧從之。乃使札首聘魯國,求觀五代及列國之樂,札一一評品,輒當其情,魯人以為知音。次聘齊,與晏嬰相善。次聘鄭,與公孫僑相善。及衛,與蘧瑗相善。遂適晉,與趙武、韓起、魏舒相善。所善皆一時賢臣,札之賢亦可知矣。要知後事,再看下回分解。
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