東周列國志第七十一回 晏平仲、二つの桃で三士を殺す/楚の平王、嫁を娶って世子を逐う (晏平仲二桃殺三士 楚平王娶媳逐世子)
斉景公の覇権への志と晏嬰の恤民策、斉邦三傑の成立
- 話は変わって、斉の景公は平邱の会から帰国した。晋の兵威を恐れて一時は血をすすって盟うことに応じたものの、晋には遠大な謀はないと見抜き、桓公の覇業を復興しようという志を持つに至った。
- 景公は相国の晏嬰に「晋は西北で覇を唱え、私は東南で覇を唱える。それでよいのではないか」と言った。
- 晏嬰は「晋は土木普請に民を苦しめたために諸侯の心を失いました。わが君が覇を図ろうとなさるなら、民をいたわるに越したことはありません」と答えた。
- 景公が「民をいたわるとはどうすることか」と尋ねると、晏嬰は「刑罰を減らせば民は怨みません。租税を軽くすれば民は恩を知ります。昔の先王は春には耕作の様子を見て不足を補い、夏には収穫の様子を見て足りない分を助けました。わが君はなぜこれに倣われないのですか」と答えた。
- 景公はそこで煩雑な刑罰を除き、米蔵を開いて貧窮の者に貸し与えたので、国人は感激して喜んだ。
- こうして東方の諸侯に対して招聘を行った。徐子がこれに従わなかったので、田開疆を将として師を率いて討伐させた。
- 蒲隧で大戦し、徐の将嬴爽を斬り、甲冑を着けた兵五百余人を捕えた。徐子は大いに恐れ、使いを遣わして斉に和睦を求めた。
- 斉侯は郯子・莒子と徐子を蒲隧で会盟させ、徐は甲父の鼎を賂として贈った。晋の君臣はこれを知ってはいたが、あえて問い質すことができなかった。
- 斉はこれより日ごとに強くなり、晋と並んで覇を唱えるようになった。
- 景公は田開疆の徐を平らげた功を録し、また古冶子の黿を斬った功を嘉し、あらためて「五乗の賓」を立ててこれを表彰した。
- 田開疆はさらに公孫捷の勇を推挙した。その公孫捷は顔は藍で染めたようで、目は突き出て、身の丈一丈、力は千鈞を挙げるほどであった。
- 景公はこれを見て奇異に思い、桐山へともに狩りに行った。
- 突然山中から目の縁が吊り上がり額の白い虎が飛び出し、咆哮して真っ直ぐ景公の馬に飛びかかった。景公は大いに驚いた。
- 見ると公孫捷は車から躍り下り、刀槍も使わず素手で猛虎に立ち向かい、左手で首の皮をつかみ、右手で拳を振るい、ひと打ちであの大虎を打ち殺し、景公を救った。
- 景公はその勇を嘉し、これも「五乗の賓」に加えた。
- 公孫捷はこうして田開疆・古冶子と義兄弟の契りを結び、自ら「斉邦三傑」と号した。
- 三人は功をたのみ勇を頼んで大言を吐き、村里を見下し、公卿を軽んじた。景公の面前でも「お前」「わし」と呼び合ったことがあり、まったく礼儀をわきまえなかった。
- 景公はその才勇を惜しんで、これを大目に見ていた。
- 当時、朝廷には梁邱据という佞臣がいて、もっぱら君の意を先取りしてへつらい、君の歓心を得ることに努めていた。景公はこれを大変寵愛した。
- 梁邱据は内では景公に媚びてその寵を固め、外では三傑と結んでその党派を張った。
- しかも当時、陳無宇は民に手厚く施して人心を集めており、すでに国を奪う兆しが見えていた。田開疆はその陳氏と同族であり、いずれ勢力を結び合わせて国家の禍いとなるであろうと、晏嬰は深く憂えていた。除こうと思っても、主君が聞き入れず、かえって三人の怨みを買うことを恐れていた。
二桃、三士を殺す
- ある日、魯の昭公は晋との関係がうまくいかないため、斉と誼を結ぼうと自ら朝見に来た。
- 景公は宴を設けてこれをもてなした。魯国では叔孫婼が儀礼を執りしきり、斉国では晏嬰が儀礼を執りしきった。
- 三傑は剣を帯びて堂の階(きざはし)の下に立ち、昂然として自若とし、目に人無きがごとくであった。
- 二君の酒がほろ酔いになった頃、晏子は奏上して「園中の金桃がすでに熟しました。新物を薦めて両君の長寿を祝われてはいかがでしょう」と言った。
- 景公はこれを許し、園吏を呼んで金桃を取りに行かせた。
- 晏子は「金桃は得難い物です。臣が自ら行って摘み取りを監督いたしましょう」と奏上し、鍵を受け取って行った。
- 景公は言った。「この桃は亡き先君の時代、東海の人が大きな種を献上したもので、『万寿金桃』と呼ばれ、海外の度索山に産する。また『蟠桃』とも呼ばれる。植えてから三十余年、枝葉は茂ったが花は咲いても実らなかった。今年はいくつか実をつけたので、私はこれを惜しみ、園門を封鎖していたのだ。今日は君侯がお越しになったので、私は独り占めするに忍びず、特に取り寄せて賢君と臣とともに味わいたい」。
- 魯の昭公は両手を組んで礼をし、謝意を示した。
- しばらくして、晏子は園吏を伴い、彫刻を施した盤に載せて献上した。盤の中には六個の桃が盛られており、その大きさは碗のようで、赤さは炭のようで、香りが鼻を突く、まことに珍しい果実であった。
- 景公が「桃の実はこれだけなのか」と尋ねると、晏子は「まだ三、四個は未熟で、それゆえ六個しか摘めませんでした」と答えた。
- 景公は晏子に酒を注ぐよう命じた。晏子は玉の杯を捧げ持ち、恭しく魯侯の前に進み、左右が金桃を献上すると、晏子は言葉を添えて「桃の実は斗のように大きく、天下にも稀なものです。両君これを召し上がれば、千秋にわたり長寿をともにされましょう」と述べた。
- 魯侯は酒を飲み終えると、桃を一つ取って食べた。甘美なこと非常であり、称賛してやまなかった。
- 次に景公の番となり、酒を一杯飲んでから桃を取って食べた。
- 景公は言った。「この桃は容易に手に入らぬものだ。叔孫大夫よ、賢名は四方に鳴り響き、今また儀礼を助けた功もある。ひとつ食べるがよい」。
- 叔孫婼はひざまずいて奏上し「私の賢は相国には遠く及びません。相国は内には国政を修め、外には諸侯を服させ、その功は小さくありません。この桃は相国に賜って食べさせるべきで、私がどうして僭越できましょうか」と言った。
- 景公は「叔孫大夫がそのように相国に譲るのなら、それぞれに酒一杯、桃一個を賜わろう」と言い、二人の臣はひざまずいて拝受し、謝恩して立ち上がった。
- 晏子は奏上して「盤にはまだ二つの桃が残っております。主君は諸臣の中で功が深く労が重い者に、この桃を食べさせてその賢を明らかにするよう令を伝えられてはいかがでしょう」と言った。
- 景公は「その言葉はまことによい」と言い、すぐに左右に命じて令を伝えさせ、階(きざはし)の下に居並ぶ諸臣のうち、自ら功が深く労が重いと信じ、この桃を食べるに値すると思う者は、列を出て自ら申し出よ、相国が功を評定して桃を賜わる、とした。
- 公孫捷が進み出て、宴席に立ち、こう言った。「かつて主君に従い桐山で狩りをしたとき、力をふるって猛虎を誅した。この功はいかがであろうか」。
- 晏子は「天を支えるほどの働きで主君の御身をお守りしたのです、功はこれより大きいものはありません。酒一杯、桃一個を賜り、もとの列にお戻りください」と言った。
- 古冶子は奮然として進み出て「虎を誅したくらいは奇とするに足らぬ。私はかつて黄河で妖怪の黿を斬り、君を危うきより安きに至らしめた。この功はいかがか」と言った。
- 景公は「あの時は波濤が激しく、将軍が妖怪の黿を斬り絶たなければ、必ず溺れていたであろう。これはまことに絶世の奇功である。酒を飲み桃を食べることに何の疑いがあろうか」と言った。晏子は慌てて酒を進め桃を賜った。
- すると田開疆が衣をからげ大股で進み出て「私はかつて命を受けて徐を討伐し、その名将を斬り、甲冑を着けた兵の首級五百余を挙げた。徐君は恐懼して賂を贈って盟を乞い、郯・莒も威を畏れて一時に集まり、我が君を盟主に奉じた。この功は桃を食べるに値するか」と言った。
- 晏子は「開疆の功は、二将に比べればさらに十倍もある。ただ賜るべき桃がない。酒一杯を賜り、来年を待たれよ」と奏上した。
- 景公は「卿の功は最も大きいのに、言うのが遅すぎたばかりに桃がなく、大功を覆い隠すことになるとは惜しい」と言った。
- 田開疆は剣に手をかけて「黿を斬り虎を打つなど、たいしたことではない。私は千里の外を跋渉し、血を流して戦い功を成したのに、かえって桃を食べられず、両国の君臣の前で辱めを受け、万代の笑いものとなるとは、どんな面目があって朝廷に立てようか」と言い、言い終えると剣を抜いて自刎して死んだ。
- 公孫捷は大いに驚き、また剣を抜いて「我らは微功で桃を食べたのに、田君は功が大きいのにかえって食べられなかった。桃を取って譲らないのは廉ではない。人の死を見て従わないのは勇ではない」と言い、言い終えるとまた自刎した。
- 古冶子は気を奮い大声で「我ら三人は義は骨肉に等しく、生死をともにすると誓った。二人はすでに亡くなったのに、私だけが生き永らえて、心に何の安らぎがあろうか」と言い、また自刎して死んだ。
- 景公は急いで人を遣わして止めさせたが、もう間に合わなかった。
- 魯の昭公は席を立ち「私は三人の臣が皆天下の奇勇であると聞いていたが、惜しいことに一朝にして皆滅んでしまった」と言った。
- 景公はこれを聞いて黙りこみ、顔色を変えて不快そうにした。
- 晏嬰はゆったりと進み出て「これらは皆我が国のただの一勇の徒に過ぎません。多少の功労があったとて、取り立てて言うほどのことではありません」と言った。
- 魯侯は「貴国にはこのような勇将が、まだ何人おられるのか」と尋ねた。
- 晏嬰は「廟堂で策を巡らし、威を万里に加える、将相の才を持つ者は数十人おります。血気の勇にすぎない者は、我が君の鞭策の用に備えるだけの者で、その生死などは斉にとって何ほどのものでもございません」と答えた。
- 景公の意はようやく落ち着いた。
- 晏子はさらに両君に杯を進め、歓談して宴は散会した。
- 三傑の墓は蕩陰里にある。後漢の諸葛孔明の『梁父吟』は、まさにこの出来事を詠んだものである。
- (詩:『梁父吟』。斉の東門を出て蕩陰里を遠望すれば、そこに三つの墓が並び立つ。誰の家の墓かと問えば、田開疆と古冶子のそれであり、力は南山を圧するほど、知は天地の理を極めるほどであったのに、一朝の陰謀によって二つの桃で三人の士を死に至らしめた、その謀を成した者こそ斉の相国晏子である、と嘆く趣旨)
田穰苴の登用と軍法の厳格
- 魯昭公が帰った後、景公は晏嬰を召して「卿は宴席で大げさに言い立て、一時は斉国の面目を保ったが、ただ三傑の後を継ぐ者がいないのではないかと恐れる。どうしたものか」と尋ねた。
- 晏子は「臣が一人を推挙いたします。三傑の働きを兼ね備えるに足る人物です」と答えた。
- 景公が「誰か」と尋ねると、晏子は「田穰苴という者がおります。文にあっては人心を得、武にあっては敵を威圧する、まことに大将の才です」と言った。
- 景公は「それは田開疆と同族の者ではないか」と尋ねた。
- 晏子は「この人は田氏の一族から出てはおりますが、妾腹の生まれで身分が低く、田氏に礼遇されず、東海の浜に隠れ住んでおります。君が将を選ばれるなら、これに勝る者はおりません」と答えた。
- 景公は「卿はその賢を知っていながら、なぜ早く申し出なかったのか」と尋ねた。
- 晏子は「仕えるに巧みな者は君を選ぶだけでなく、友をも選ぶものです。田開疆・古冶子の輩のような血気の徒と、穰苴がどうして肩を並べようとするでしょうか」と答えた。
- 景公は口では「うむうむ」と言いながらも、結局は田・陳が同族であることを嫌って、ためらって決断できなかった。
- ある日、辺境の役人が「晋国は三傑がすでに皆死んだと探知し、兵を興して東阿の境を侵している。燕国もまた乗じて北の辺境を侵している」と報告してきた。
- 景公は大いに恐れた。そこで晏子に絹帛を持たせて東海の浜へ行かせ、穰苴を招いて入朝させた。
- 穰苴は兵法を述べ、深く景公の意に叶ったので、その日のうちに将軍に任じ、車五百乗を率いて北方の燕・晋の兵を防がせた。
- 穰苴は「臣はもとより身分が低く、君は私を村里の中から抜擢し、にわかに兵権を授けられましたが、人心はまだ服しておりません。我が君の寵臣一人を得て、国人が日頃から尊重している者を監軍として遣わしていただければ、臣の命令もようやく行えましょう」と願い出た。
- 景公はこれに従い、寵臣の荘賈を遣わして軍を監督させた。
- 穰苴と賈は同時に謝恩して退出した。朝門の外で、荘賈は穰苴に出陣の期日を尋ねた。
- 穰苴は「期日は明日の午の刻とする。私は軍門で待つゆえ、日中を過ぎぬように」と言い、そのまま別れた。
- 翌日の午前、穰苴は先に軍中に至り、軍吏に木の表(日時計)を立てて日影を測らせ、人をやって荘賈を催促させた。
- 荘賈は若く、日頃から驕り高ぶり、景公の寵幸を頼みにしており、穰苴などまるで眼中になかった。
- しかも自分が監軍であることから、権威は将軍と並び立ち勢いも対等であって、急ぐも緩めるも自分の思うままだと高をくくっていた。
- その日、親戚・賓客が皆酒を用意して餞別を送り、荘賈はぐずぐずと歓飲を続け、使者が何度も催促しても、まるで気にとめなかった。
- 穰苴は日影が西に傾くまで待ち、軍吏が「未の刻になりました」と報告しても荘賈は来なかったので、木の表を倒し、漏刻の水を捨てさせ、そのまま壇に登って軍衆に誓いを立て、軍規を申し明らかにした。
- 号令がちょうど終わったころ、日は申の刻にさしかかろうとしていた。
- 遠くを見ると荘賈が高い車に四頭立ての馬をつけて、ゆるゆると乗りつけてきた。顔には酒気が漂っていた。
- 軍門に到着すると、悠然と車を下り、左右に付き添われて将台に上ってきた。
- 穰苴は端然と座り、少しも立ち上がらず、ただ「監軍はなぜ遅参したのか」とだけ問うた。
- 荘賈は両手を組んで礼をし「今日は遠出をするので、親戚旧知が酒を持って餞別をしてくれたので、遅くなりました」と答えた。
- 穰苴は「そもそも将たる者は、命を受けた日から家を忘れ、軍中で軍規に臨めば親を忘れ、太鼓のばちを執って矢石を冒す段になれば我が身をも忘れるものだ。今、敵国が侵略し、辺境が騒然としており、我が君は夜も安らかに眠れず、食事もまともに味わえずにいる。三軍の衆をわれら二人に託し、一刻も早く功を立てて民の逆さ吊りのような苦しみを救うことを願っておられるのに、どうして親族や旧友と酒を飲んで楽しんでいる暇があろうか」と言った。
- 荘賈はなお笑いながら「幸い期日には遅れておりません。元帥、そう過度に責めなさいますな」と答えた。
- 穰苴は机を叩いて大いに怒り「お前は君の寵を頼んで軍心を怠らせている。もし敵を前にしてこの調子であれば、大事を誤らぬはずがない」と言った。
- すぐに軍政司を召して「軍法では期に遅れて到着した者はどのような罪になるか」と問うと、軍政司は「法によれば斬に処すべきです」と答えた。
- 荘賈は「斬」の一字を聞いて、ようやく恐れの色を見せ、将台を駆け下りようとした。
- 穰苴は手下を呼び付け、荘賈を縛り上げさせ、陣営の門に引き出して斬首させた。
- 荘賈は驚愕して酒気もすっかり抜け、口では哀願して赦しを乞い続けた。
- 左右の従者は急いで斉侯のもとへ知らせに走り、救いを求めた。
- 景公も大いに驚いて、急いで梁邱据に節を持たせて赴かせ、特に荘賈の死一等を免ずるよう命じ、軺車を疾駆させるよう命じた。手遅れになることを恐れたのである。
- しかしその時にはもう、荘賈の首は陣営の門にさらされていた。
- 梁邱据はまだそれを知らず、符節を捧げ持って軍中に馬を馳せていった。
- 穰苴はこれを止めさせ、軍政司に「軍中では車を疾駆させてはならぬ。使者は何の罪になるか」と問うと、「法によれば、これも斬に処すべきです」と答えた。
- 梁邱据は顔色を失い、震え上がりながら「命を奉じてまいったのです。私のあずかり知らぬことです」と申し立てた。
- 穰苴は「すでに君命がある以上、誅を加えるわけにはいかない。しかし軍法も廃してはならぬ」と言い、車を壊し添え馬を斬って使者の死に代えた。
- 梁邱据は命拾いをして、頭を抱えて逃げ帰った。
- こうして大小三軍の者は皆股が震えるほど恐れ入った。
- 穰苴の軍がまだ郊外を出ないうちに、晋の軍勢はその噂を聞いて逃げ去った。燕人もまた黄河を渡って北へ帰った。
- 穰苴はこれを追撃し、首級一万余を斬った。燕人は大敗し、賂を納めて和を乞うた。
- 兵を引き上げる日、景公は自ら郊外まで出迎えて労い、穰苴を大司馬に拝命して兵権を掌らせた。史臣に詩がある。
- (詩:寵臣も節を持つ使者も刑を免れず、国法は私することなく必ず行われる、今この穰苴のような者が現れれば、大いに敵愾心を張って民を慰めるであろう、という趣旨)
- 諸侯は穰苴の名を聞いて、畏れ服さぬ者はなかった。
- 景公は内には晏嬰を、外には穰苴を得て、国は治まり兵は強く、四方の境に事なく、日々ただ狩猟と飲酒を楽しむのみで、ほぼ桓公が管仲を用いていた時代のようであった。
景公の夜の訪問(晏嬰・穰苴・梁邱据)
- ある日、景公は宮中で妃妾と酒を飲み、夜になっても興が尽きず、ふと晏子のことを思い出し、左右に酒具を晏子の家に移すよう命じた。
- 先触れが赴いて「君がお越しになります」と告げると、晏子は玄端の衣に帯を締め、笏を執って大門の外に恭しく立った。
- 景公がまだ車を下りぬうちに、晏子は前に出て迎え、驚き惶てて「諸侯に何か事故がございましたか。国家に何か事故がございましたか」と尋ねた。
- 景公は「何もない」と答えた。
- 晏子は「それならば、わが君はなぜこの時ならぬ夜に、わざわざ臣の家までお越しになったのですか」と尋ねた。
- 景公は「相国は政務にお疲れであろう。今、私に美酒と音楽の楽しみがあり、独り楽しむに忍びず、相国とともに味わいたいと思ったのだ」と答えた。
- 晏子は「国家を安んじ、諸侯を定めることは、臣がお謀りいたしましょう。しかし敷物を敷いたり食器を並べたりすることは、わが君の御側近くにそれを担う者がおりますので、臣はあずかり知りません」と答えた。
- 景公は車を戻すよう命じ、司馬穰苴の家に移った。先触れは前と同じように告げた。
- 司馬穰苴は冠の紐を締め甲を着け、戟を執って大門の外に立ち、景公の車を出迎え、身をかがめて「諸侯に兵の動きはございましたか。大臣に叛く者はございましたか」と問うた。
- 景公は「何もない」と答えた。
- 穰苴は「それならば、この夜更けに臣の家に足を運ばれたのはなぜですか」と尋ねた。
- 景公は「私に他意はない。将軍の軍務の労苦を思い、私には美酒の味、音楽の楽しみがあり、将軍とともに味わいたいと思っただけだ」と答えた。
- 穰苴は「外敵を防ぎ、道に背いて乱を起こす者を誅することは、臣がお謀りいたしましょう。しかし敷物を敷いたり食器を並べたりすることは、わが君の御側近くに人が乏しくはございますまい。どうして甲冑の士にまでそれをお求めになるのですか」と答えた。
- 景公は興がすっかり冷めてしまった。
- 左右が「宮にお戻りになりますか」と尋ねると、景公は「梁邱大夫の家に移ろう」と言った。
- 先触れが前と同じように馳せて知らせた。
- 景公の車がまだ門に着かぬうちに、梁邱据は左手に琴を、右手に竽を持ち、口ずさみながら景公を巷口で出迎えた。
- 景公は大いに喜び、そこで衣を脱ぎ冠を外し、梁邱据と管弦の間で歓呼して楽しみ、鶏が鳴くころにようやく帰った。
- 翌日、晏嬰と穰苴は連れ立って入朝し、罪を謝すとともに、景公が臣下の家で夜更けに酒を飲むべきではないことを諫めた。
- 景公は「私に卿ら二人がいなければ、どうして我が国を治めることができようか。梁邱据がいなければ、どうして我が身を楽しませることができようか。私は卿ら二人の職務を妨げないから、卿らも私の楽しみに口を出さないでほしい」と言った。史臣に詩がある。
- (詩:双柱が天を支えるような将相の功、小臣のへつらいによる取り入りとは同列ではない、景公は士を得てよく専任させたことで、その名声を海東にまで広めた、という趣旨)
晋の内乱と魯昭公の追放、斉景公の鄢陵の会
- そのころ中原は多事であり、晋はうまく統率できずにいた。晋の昭公は在位六年で薨じ、世子の去疾が即位した。これが頃公である。
- 頃公の初年、韓起と羊舌肹がともに亡くなった。魏舒が政を執り、荀躒・范鞅が権勢をふるい、貪欲を事とすることで聞こえていた。
- 祁氏の家臣祁勝は鄔臧の妻と通じ、祁盈は祁勝を捕らえた。祁勝は荀躒に賄賂を贈った。
- 荀躒は頃公に讒言し、逆に祁盈を捕らえさせた。羊舌食我は祁氏に与し、祁氏のために祁勝を殺した。
- 頃公は怒り、祁盈と食我を殺し、祁氏・羊舌氏の一族を尽く滅ぼした。国人はこれを冤罪と思った。
- その後、魯の昭公は強臣の季孫意如に追放され、荀躒はまた意如から賄賂を受け取り、昭公を国に納れなかった。
- そこで斉の景公は諸侯を鄢陵に会わせ、魯の難局をどう救うかを議したので、天下はみなその義を高く評価した。斉景公の名は諸侯の間で高まった。これは後の話である。
呉王僚の即位と費無極の讒、平王の秦女すり替え
- さて周の景王十九年、呉王夷昧は在位四年、病が篤くなり、重ねて父兄の遺命を申して季札に位を伝えようとした。
- 季札は辞退して「私が位を受けぬことは明白である。かつて先君に遺命があったが、私はそれに従わなかった。富貴は私にとって秋風が耳をかすめるようなもの、何を惜しむことがあろうか」と言い、延陵に逃げ帰った。
- 群臣は夷昧の子州于を奉じて王とし、名を改めて僚といった。これが王僚である。
- 諸樊の子で名を光という者があり、用兵に長けており、王僚はこれを将として用いた。
- 光は楚と長岸で戦い、楚の司馬公子魴を殺した。楚人はこれを恐れ、州来に城を築いて呉を防いだ。
- そのころ費無極は讒言と媚びへつらいによって寵を得ていた。蔡の平公廬は、すでに嫡子朱を世子に立てていたが、その庶子で東国という者が、嫡子の座を奪おうと図り、無極に賄賂を贈った。
- 無極はまず朝呉を讒言して鄭へ追放した。蔡の平公が薨じると、世子朱が立った。
- 無極は楚王の命だと偽って伝え、蔡人に朱を追放させ、東国を君に立てさせた。
- 平王が「蔡人はなぜ朱を追放したのか」と尋ねると、無極は「朱は楚に叛こうとしていたので、蔡人はこれを望まず、それゆえ追放したのです」と答えた。平王はそれ以上追及しなかった。
- 無極はさらに心中で太子建を忌み、その父子を離間させようとしたが、まだ計略がなかった。
- ある日、平王に奏上して「太子はもう年頃です。なぜ婚姻をお決めにならないのですか。婚姻を求めるなら秦国に勝る所はございません。秦は強国であり、しかも楚と誼を通じております。強国同士の婚姻となれば、楚の勢いはさらに張るでしょう」と言った。
- 平王はこれに従い、費無極を秦国に遣わし、世子のために婚姻を求めさせた。
- 秦の哀公は群臣を召してその可否を諮った。群臣は皆「昔、秦晋は代々婚姻を結んでいましたが、今は晋との誼が久しく絶えております。楚の勢いはまさに盛んですから、許さないわけにはまいりません」と言った。
- 秦の哀公はそこで大夫を遣わして返礼させ、自分のいちばん上の妹である孟嬴を許婚とした。(今の俗説の小説では「無祥公主」と呼ばれているのがこれである。だが公主という号は漢代から始まったもので、春秋の時代にこのような称号があったはずはない。)
- 平王はまた無極に金銀珠玉と絹織物を持たせて秦へ赴かせ、花嫁を迎えさせた。無極は使者に従って秦に入り、聘礼を捧げた。
- 哀公は大いに喜び、すぐに公子蒲に詔して孟嬴を楚まで送らせた。嫁入り道具は百輌、従う媵妾は数十余人であった。
- 孟嬴は兄の秦伯に別れを告げて出発した。
- 無極は途中で、孟嬴が絶世の美貌の持ち主であることを知った。また付き添いの侍女の中に容姿の整った一人がいるのを見つけ、密かにその素性を調べたところ、斉出身の女性で、幼い頃から父に従って秦に仕官し、そのまま宮中に入り、孟嬴の侍妾となっていた者であった。
- 無極はその詳しい素性を調べ上げ、宿駅に泊まった折、密かにその斉女を呼び「私はお前の相を見るに貴人の相がある。お前を取り立てて太子の正妃にしてやりたいと思う。この計略を隠しおおせれば、将来の富貴は尽きぬものになろう」と語った。
- 斉女はうつむいたまま何も言わなかった。
- 無極は一日先立って進み、宮中に駆け込み、平王に復命して「秦の姫はすでに到着しました。あと三舎ほどの距離です」と言った。
- 平王は「卿は会ったのか。容貌はどうであった」と尋ねた。
- 無極は平王が酒色を好む人物であることを知っており、まさに秦女の美しさを誇張して吹聴し、その邪な心を動かそうとしていたところ、ちょうど平王からこの問いがあり、思う壺であった。
- そこで「臣は多くの女性を見てまいりましたが、孟嬴ほどの美人はまだ見たことがございません。楚の後宮にも肩を並べる者はないばかりか、伝え聞く古来の絶世の美女、妲己や驪姫でさえ名ばかりで、おそらく孟嬴の万分の一にも及ばぬでしょう」と奏上した。
- 平王は秦女の美しさを聞いて顔を真っ赤にし、しばらく言葉を発せず、やがてゆっくりと「私は王と称してはいるが、これほどの絶世の美女に遇わなければ、まさに一生を無駄に過ごしたことになろう」と嘆いた。
- 無極は左右を退けるよう請い、そして密かに「王が秦女の美しさを慕われるなら、なぜ自ら娶られないのですか」と奏上した。
- 平王は「すでに世子の嫁として聘したのだ。人倫にさわりがあるのではないか」と言った。
- 無極は「差し支えございません。この女は太子に聘せられたとはいえ、まだ東宮に入ってはおりません。王が宮中に迎え入れられても、誰があえて異議を唱えましょうか」と奏上した。
- 平王は「群臣の口は塞げるとしても、太子の口はどう塞ぐのか」と尋ねた。
- 無極は「臣が見ますところ、従っている付き添いの侍女の中に、斉出身の女で才貌が並外れた者がおります。この者に秦女の代わりを務めさせることができましょう。臣がまず秦女を王宮に進め入れ、あらためて斉女を東宮に進めます。機密を漏らさぬよう言い含めておけば、両方とも隠し通せ、あらゆる美事が揃いましょう」と奏上した。
- 平王は大いに喜び、無極に機密裏に事を運ぶよう命じた。
- 無極は公子蒲に「楚国の婚礼は他国と異なり、まず宮に入って夫の父母にまみえてから、その後に婚礼を挙げる決まりです」と言った。公子蒲は「仰せのままに」と答えた。
- 無極はそこで幌車に孟嬴と付き添いの女たちをすべて乗せて王宮に送り込み、孟嬴だけを留めて斉女を送り出した。宮中の侍妾に秦の付き添いの侍女のふりをさせ、斉女に孟嬴のふりをさせ、太子建に東宮に迎え入れさせて婚礼を挙げさせた。
- 朝廷の文武百官も太子も、みな無極の詐りを知らなかった。
- 孟嬴が「斉女はどこに行ったのか」と尋ねると、「すでに太子に賜りました」と答えられた。潜淵の詠史詩にこうある。
- (詩:衛の宣公が新台で行った先例が悪しき手本となり、蔡国の姦淫は親に逆らう子を育てた、恨めしいことに楚の平王は倫理をすべて失い、また秦女を宮中に召し入れてしまった、という趣旨)
太子建の追放と伍奢の入獄
- 平王は太子が秦女の事情を知ることを恐れ、太子の宮中への出入りを禁じ、母子が会うことを許さなかった。
- 朝夕、秦女とともに後宮で宴楽にふけり、国政を顧みなかった。外では噂が沸き立ち、秦女の事情を疑う者が多かった。
- 無極は太子がそれを知って禍が起こることを恐れ、平王に「晋が長らく天下に覇を唱えられるのは、地が中原に近いからです。かつて霊王は陳・蔡に大城を築いて中華を鎮めましたが、それこそまさに覇を争う基でした。今、二国はまた封じ直され、楚はなお南方に退いて守るばかりで、どうして事業を大きくできましょうか。太子を城父に出して守らせ北方に通じさせ、王は専ら南方のことに当たられれば、天下は坐して謀ることができましょう」と述べた。
- 平王はためらって答えなかった。無極はさらに耳打ちして「秦との婚姻の事は、長引けば必ず露見します。太子を遠くへ退けてしまえば、両方の利を得られましょう」と言った。
- 平王ははっと悟った。そこで太子建を城父に出して守らせるよう命じ、奮揚を城父の司馬とし、「太子に仕えるのは私に仕えるのと同じである」と諭した。
- 伍奢は無極の讒言を知り、諫めようとした。無極はそれを知り、平王に再び言上して、伍奢を城父に遣わし太子を輔けさせるようにした。
- 太子が出発した後、平王は秦女孟嬴を夫人に立て、蔡姫を出して鄖に帰した。
- 太子はここに至ってようやく、秦女が父にすり替えられていたことを知ったが、どうしようもなかった。
- 孟嬴は王の寵愛を受けてはいたが、平王が老いていることを見て、心中不満であった。平王は自分が相応しくないことを自覚し、あえて問い質さなかった。
- 一年余り経って、孟嬴は一子を生んだ。平王はこれを珍宝のように愛し、名を珍と名づけた。
- 珍が満一歳になった頃、平王は孟嬴に「そなたは入宮以来、憂い嘆くことが多く、笑うことが少ない。どうしてか」と尋ねた。
- 孟嬴は「妾は兄の命を受けて君王にお仕えいたしました。妾は自ら秦楚は釣り合い、若さも同じくらいだと思っておりました。ところが宮廷に入ってみれば、王はもう盛年でいらっしゃいます。妾はあえて王を怨むわけではありませんが、生まれてくる時期を誤ったことを嘆いているだけでございます」と答えた。
- 平王は笑って「これは今生の縁ではなく、前世からの縁というものだ。そなたが私に嫁いだのは遅かったかもしれないが、后となる時期はむしろ早すぎたであろう」と言った。
- 孟嬴はこの言葉を怪しく思い、細かく宮人に問い質したところ、宮人は隠しきれず、その経緯を告げた。孟嬴は物悲しく涙を流した。
- 平王はその様子を察し、あらゆる手で機嫌をとり、珍を世子に立てることを約束した。孟嬴の心もようやく落ち着いた。
- 費無極はなおも太子建のことを憂慮し、いずれ位を継いで王となれば禍が自分に及ぶことを恐れ、また機に乗じて平王に「聞くところによれば、世子は伍奢とともに謀反の心を抱き、密かに斉・晋二国に使者を通わせ、援助の約束を得ているとのことです。王は備えなければなりません」と讒言した。
- 平王は「私の子はもとより柔順である。そのようなことがあるはずがない」と言った。
- 無極は「太子は秦女の一件によって、長らく怨みを抱いております。今、城父で鎧を繕い武器を研いで日が経っております。よく穆王が大事を行い、その後楚国を享受し子孫が繁盛したという例を引き合いに出し、それに倣おうとしているのです。王がもし行動なさらなければ、臣は先に辞去して他国に逃げ、誅戮を免れとうございます」と言った。
- 平王はもともと建を廃して幼子珍を立てたいと思っていたところに、さらに無極の言葉に心を動かされ、信じたくなくても信じてしまい、すぐに建を廃する令を出そうとした。
- 無極は「世子は外で兵権を握っております。もし令を伝えて廃すれば、それはかえって反乱を誘発することになります。太師伍奢はその謀主です。王はまず伍奢を召し、それから兵を遣わして世子を襲い捕らえるべきです。そうすれば王の災いは除けましょう」と奏上した。
- 平王はその計に従い、人を遣わして伍奢を召した。伍奢が来ると、平王は「建に叛意があるというが、そなたはそれを知っているか」と尋ねた。
- 伍奢はもとより剛直であり「王は子の嫁をお納めになったことがすでに過ちであるのに、また讒言する小人の言に耳を貸して骨肉の親を疑われるとは、心においてどうしてお忍びになれましょうか」と答えた。
- 平王はその言葉を恥じ、左右に大声で命じて伍奢を捕らえさせ、獄に繋いだ。
- 無極は「伍奢は王が子の嫁を娶ったことを難じました。怨望は明白です。太子は伍奢が捕らえられたことを知れば、動かずにはいられないでしょう。斉晋の軍勢は侮れません」と奏上した。
- 平王は「私は人を遣わして世子を殺したいと思うが、誰を遣わせばよいか」と尋ねた。
- 無極は「他の者が行けば、太子は必ず抗い戦うでしょう。ひそかに司馬奮揚に諭し、これを襲わせて殺させるのが一番です」と答えた。
- 平王はそこで人を遣わして奮揚に密かに諭し「太子を殺せば上賞を与える。太子を逃せば死罪とする」と命じた。
- 奮揚は令を受けると、すぐに腹心を遣わして密かに太子に「速やかに逃げ延びよ、片時も遅れてはならぬ」と知らせた。
- 太子建は大いに驚いた。当時、斉女はすでに子を生んでおり、名を勝といった。建は妻子とともにその夜のうちに宋国へ逃げ出した。
- 奮揚は世子がすでに去ったことを知ると、城父の人に自分を縛らせて郢都に送らせ、平王に面会して「世子は逃げました」と告げた。
- 平王は大いに怒り「言葉は私の口から出て、そなたの耳に入っただけだ。誰が建に告げたのか」と問うた。
- 奮揚は「臣が実際に告げました。君王は臣に『太子に仕えることは私に仕えるのと同じである』と命じられました。臣はこの言葉を謹んで守り、二心を抱かず、それゆえ告げたのです。後になって罪が我が身に及ぶことを思い、悔いてももう遅うございました」と答えた。
- 平王は「そなたは太子を密かに逃したうえ、あえて私に会いに来たのか。死を畏れぬのか」と言った。
- 奮揚は「王の後の命令を奉じられぬ上に、死を畏れて参らねば、それは二重の罪となります。しかも世子にはまだ叛の形跡がなく、殺しても名分が立ちません。もし君王の子が生きながらえられるなら、臣は死んでも本望です」と答えた。
- 平王はいたく心を動かされ、恥じ入る様子を見せ、しばらくして「奮揚は命令には背いたが、その忠直さは称賛に値する」と言った。そこでその罪を赦し、再び城父の司馬に任じた。史臣に詩がある。
- (詩:無実の世子はすでに生き延びることができ、奮揚は刑から逃れようとはせず、みずから釜ゆでの刑を受けに出頭した、讒言とへつらいを事とする者はやがて誅戮を受け、千秋に奮揚の名が留められた、という趣旨)
- 平王は秦女の生んだ子珍を太子に立て、費無極を太師に改めた。
伍奢父子の召喚
- 無極はさらに奏上して「伍奢には二人の子がおります。尚と員と申し、どちらも人傑です。もし呉国へ出奔してしまえば、必ず楚の患いとなりましょう。なぜその父を赦免するとの名目で二人を召し寄せないのですか。彼らは父を愛しておりますから、必ず召しに応じて参りましょう。来れば一挙に皆殺しにして、後の患いを断つことができます」と述べた。
- 平王は大いに喜び、獄中から伍奢を出させ、左右に紙筆を授けさせて「そなたが太子に謀反を教唆したことは、本来なら斬首して衆に示すべきところであるが、そなたの祖父が先朝に功があったことを思い、罪を加えるに忍びない。書を書いて二人の子を朝廷に呼び戻せ。官職を改め封じ、そなたも罪を赦して田野へ帰そう」と命じた。
- 伍奢は楚王が詐りを弄していることを見抜き、その父子をともに斬るつもりであると悟った。
- そこで「臣の長子尚は、慈しみ深く温和で仁信の心があり、臣が召せば必ず参ります。次子員は幼くして文を好み、長じて武を習い、文をもって国を安んじ、武をもって国を定めることができます。屈辱を忍んで大事を成す器です。この者は先を見通す士ですから、どうして参りましょうか」と答えた。
- 平王は「そなたはただ私の言うとおりに、書を送って召せばよい。召しても来なければ、そなたに罪は及ばぬ」と言った。
- 伍奢は君父の命を思い、あえて逆らわず、その場で書を書いた。おおよそこのような内容であった。
- 「書を尚・員の二子に示す。私は諫言を進めて御旨に逆らい、罪を待って縄目につながれている。我が王は、わが祖父が先朝に功のあったことを念じて、その一死を免じてくださり、群臣に功を議させて罪を贖わせ、お前たちの官職を改め封じてくださるという。お前たち兄弟は夜を日に継いで参るがよい。もし命に背いて遅れれば、必ず罪を得ることになる。書状が届きしだい、急ぎ参れ。」
- 伍奢は書き終えると、これを平王に見せた。平王はこれに目を通してから封をし、伍奢を再び獄に戻した。
- 平王は鄢将師を使者として遣わし、四頭立ての馬車に乗せ、封をした書状と印綬を持たせて棠邑へ向かわせた。伍尚はすでに城父に戻っていた。
- 鄢将師は再び城父に至り、伍尚に会うと「お喜びなされ」と声をかけた。
- 尚は「父はまさに囚われの身にあるのに、何を喜べようか」と言った。
- 鄢将師は「王は人の讒言を誤って信じ、尊父を捕らえられましたが、今や群臣が保挙し、あなたの家は三代の忠臣であると称え、王も過ちを聞き入れたことを恥じ、諸侯への恥を恥じて、かえって尊父を相国に拝命し、二人のご子息を侯に封じられました。尚どのは鴻都侯、員どのは蓋侯を賜わります。尊父は久しく獄に繋がれておられましたが、ようやく解かれ、二人の子に会いたいと願われ、あらためて手書きをしたためられ、私めを遣わしてお迎えするようお命じになりました。ぜひとも早々にお発ちになり、尊父の願いをお慰めください」と述べた。
- 伍尚は「父が囚われの身にあることを思うと、胸が張り裂けるようです。免れるだけでも幸いというもの、どうして印綬を貪ることができましょうか」と言った。
- 将師は「これは王命でございます。どうかお断りなさいませんように」と言った。
- 伍尚は大いに喜び、父の書状を持って室に入り、弟の伍員に知らせに行った。伍員がこの召しに応じるかどうかは、次回を見られよ。
原文(底本)
話說齊景公歸自平邱,雖然懼晉兵威,一時受歃,已知其無遠大之謀,遂有志復桓公之業。謂相國晏嬰曰:「晉霸西北,寡人霸東南,何為不可?」晏嬰對曰:「晉勞民於興築,是以失諸侯。君欲圖伯,莫如恤民。」景公曰:「恤民何如?」晏嬰對曰:「省刑罰,則民不怨﹔薄賦斂,則民知恩。古先王春則省耕,補其不足,夏則省斂,助其不給。君何不法之?」景公乃除去煩刑,發倉廩以貸貧窮,國人感悅。於是徵聘於東方諸侯。徐子不從,乃用田開疆為將,帥師伐之。大戰於蒲隧,斬其將嬴爽,獲甲士五百餘人。徐子大懼,遣使行成於齊。齊侯乃約郯子莒子同徐子結盟於蒲隧。徐以甲父之鼎賂之。晉君臣雖知,而不敢問。齊自是日強,與晉並霸。景公錄田開疆平徐之功,復嘉古冶子斬黿之功,仍立「五乘之賓」以旌之。田開疆復舉薦公孫捷之勇。那公孫捷生得面如靛染,目睛突出,身長一丈,力舉千鈞。景公見而異之,遂與之俱獵於桐山。忽然山中趕出一隻弔睛白額虎來,那虎咆哮發喊,飛奔前來,逕撲景公之馬。景公大驚。只見公孫捷從車上躍下,不用刀槍,雙拳直取猛虎,左手揪住項皮,右手揮拳,只一頓,將那隻大蟲打死,救了景公。景公嘉其勇,亦使與「五乘之賓」。公孫捷遂與田開疆古冶子結為兄弟,自號「齊邦三傑」。挾功恃勇,口出大言,凌鑠閭里,簡慢公卿。在景公面前,嘗以爾我相稱,全無禮體。景公惜其才勇,亦姑容之。時朝中有個佞臣喚做梁邱據,專以先意逢迎,取悅於君。景公甚寵愛之。據內則獻媚景公,以固其寵﹔外則結交三傑,以張其黨。況其時陳無宇厚施得眾,已伏移國之兆,那田開疆與陳氏是一族,異日聲勢相倚,為國家之患,晏嬰深以為憂。每欲除之,但恐其君不聽,反結了三人之怨。 忽一日,魯昭公以不合於晉之故,欲結交於齊,親自來朝。景公設宴相待。魯國是叔孫婼相禮,齊國是晏嬰相禮。三傑帶劍,立於階下,昂昂自若,目中無人。二君酒至半酣,晏子奏曰:「園中金桃已熟,可命薦新,為兩君壽。」景公准奏,宣園吏取金桃來獻。晏子奏曰:「金桃難得之物,臣當親往監摘。」晏子領鑰匙去訖。景公曰:「此桃自先公時,有東海人,以巨核來獻,名曰『萬壽金桃』,出自海外度索山,亦名『蟠桃』,植之三十餘年,枝葉雖茂,花而不實。今歲結有數顆,寡人惜之,是以封鎖園門。今日君侯降臨,寡人不敢獨享,特取來與賢君臣共之。」魯昭公拱手稱謝。少頃,晏子引著園吏,將雕盤獻上。盤中堆著六枚桃子,其大如碗,其赤如炭,香氣撲鼻,真珍異之果也。景公問曰:「桃實止此數乎?」晏子曰:「尚有三四枚未熟,所以只摘得六枚。」景公命晏子行酒。晏子手捧玉爵,恭進魯侯之前,左右獻上金桃,晏子致詞曰:「桃實如斗,天下罕有﹔兩君食之,千秋同壽!」魯侯飲酒畢,取桃一枚食之,甘美非常,誇獎不已。次及景公,亦飲酒一杯,取桃食訖。景公曰:「此桃非易得之物,叔孫大夫,賢名著於四方,今又有贊禮之功,宜食一桃。」叔孫婼跪奏曰:「臣之賢,萬不及相國。相國內修國政,外服諸侯,其功不小。此桃宜賜相國食之,臣安敢僭?」景公曰:「既叔孫大夫推讓相國,可各賜酒一杯,桃一枚。」二臣跪而領之,謝恩而起。晏子奏曰:「盤中尚有二桃,主公可傳令諸臣中,言其功深勞重者,當食此桃,以彰其賢。」景公曰:「此言甚善!」即命左右傳諭,使階下諸臣,有自信功深勞重,堪食此桃者,出班自奏,相國評功賜桃。公孫捷挺身而出,立於筵上,而言曰:「昔從主公獵於桐山,力誅猛虎,其功若何?」晏子曰:「擎天保駕,功莫大焉!可賜酒一爵,食桃一枚,歸於班部。」古冶子奮然便出曰:「誅虎未足為奇。吾曾斬妖黿於黃河,使君危而復安,此功若何?」景公曰:「此時波濤洶湧,非將軍斬絕妖黿,必至覆溺,此蓋世奇功也!飲酒食桃,又何疑哉?」晏子慌忙進酒賜桃。只見田開疆撩衣破步而出曰:「吾曾奉命伐徐,斬其名將,俘甲首五百餘人,徐君恐懼,致賂乞盟。郯莒畏威,一時皆集,奉吾君為盟主,此功可以食桃乎?」晏子奏曰:「開疆之功,比於二將,更自十倍。爭奈無桃可賜,賜酒一杯,以待來年。」景公曰:「卿功最大,可惜言之太遲,以此無桃,掩其大功。」田開疆按劍而言曰:「斬黿打虎,小可事耳!吾跋涉千里之外,血戰成功,反不能食桃,受辱於兩國君臣之間,為萬代恥笑,何面目立於朝廷之上耶?」言訖,揮劍自刎而死。公孫捷大驚,亦拔劍而言曰:「我等微功而食桃,田君功大,反不能食。夫取桃不讓,非廉也﹔視人之死而不能從,非勇也。」言訖,亦自刎。古冶子奮氣大呼曰:「吾三人義均骨肉,誓同生死,二人已亡,吾獨苟活,於心何安?」亦自刎而亡。景公急使人止之,已無及矣。魯昭公離席而起曰:「寡人聞三臣皆天下奇勇,可惜一朝俱盡矣。」景公聞言嘿然,變色不悅。晏嬰從容進曰:「此皆吾國一勇之夫,雖有微勞,何足掛齒?」魯侯曰:「上國如此勇將,還有幾人?」晏嬰對曰:「籌策廟堂,威加萬里,負將相之才者數十人﹔若血氣之勇,不過備寡君鞭策之用而已,其生死何足為齊輕重哉!」景公意始釋然。晏子更進觴於兩君,歡飲而散。三傑墓在蕩陰里。後漢諸葛孔明《梁父吟》,正詠其事: 步出齊東門,遙望蕩陰里。里中有三墳,纍纍正相似。問是誰家塚?田疆古冶子。力能排南山,文能絕地紀。一朝中陰謀,二桃殺三士!誰能為此者?相國齊晏子。 魯昭公別後,景公召晏嬰問曰:「卿於席間,張大其辭,雖然存了齊國一時體面,只恐三傑之後,難乎其繼。如之奈何?」晏子對曰:「臣舉一人,足兼三傑之用。」景公曰:「何人?」曰:「有田穰苴者,文能附眾,武能威敵,真大將之才也!」景公曰:「得非田開疆一宗乎?」晏子對曰:「此人雖出田族,然庶孽微賤,不為田氏所禮,故屏居東海之濱。君欲選將,無過於此。」景公曰:「卿既知其賢,何不早聞?」晏子對曰:「善仕者不但擇君,兼欲擇友。田疆古冶輩血氣之夫,穰苴豈屑與之比肩哉?」景公口雖唯唯,終以田陳同族為嫌,躊躇不決。忽一日,邊吏報道:「晉國探知三傑俱亡,興兵犯東阿之境﹔燕國亦乘機侵擾北鄙。」景公大懼。於是令晏子以繒帛詣東海之濱,聘穰苴入朝。苴敷陳兵法,深合景公之意,即日拜為將軍,使帥車五百乘,北拒燕晉之兵。穰苴請曰:「臣素卑賤,君擢之閭里之中,驟然授以兵權,人心不服。願得吾君寵臣一人,為國人素所尊重者,使為監軍,臣之令乃可行也。」景公從其言,命嬖大夫莊賈,往監其軍。苴與賈同時謝恩而出。至朝門之外,莊賈問穰苴出軍之期,苴曰:「期在明日午時,某於軍門專候同行,勿過日中也。」言畢別去。至次日午前,穰苴先至軍中,喚軍吏立木為表,以察日影﹔因使人催促莊賈。賈年少,素驕貴,恃景公寵幸,看穰苴全不在眼。況且自為監軍,只道權尊勢敵,緩急自由。是日親戚賓客,俱設酒餞行,賈留連歡飲,使者連催,坦然不以為意。穰苴候至日影移西,軍吏已報未牌,不見莊賈來到,遂吩咐將木表放倒,傾去漏水,竟自登壇誓眾,申明約束。號令方完,日已將晡。遙見莊賈高車駟馬,徐驅而至,面帶酒容。既到軍門,乃從容下車,左右擁衛,踱上將臺。穰苴端然危坐,並不起身,但問:「監軍何故後期?」莊賈拱手而對曰:「今日遠行,蒙親戚故舊攜酒餞送,是以遲遲也。」穰苴曰:「夫為將者,受命之日,即忘其家﹔臨軍約束,則忘其親﹔秉枹鼓,犯矢石,則忘其身。今敵國侵淩,邊境騷動,吾君寢不安席,食不甘味,以三軍之眾,託吾兩人,冀旦夕立功,以救百姓倒懸之急,何暇與親舊飲酒為樂哉?」莊賈尚含笑對曰:「幸未誤行期,元帥不須過責。」穰苴拍案大怒曰:「汝倚仗君寵,怠慢軍心,倘臨敵如此,豈不誤了大事!」即召軍政司問曰:「軍法期而後至,當得何罪?」軍政司曰:「按法當斬!」莊賈聞一「斬」字,纔有懼意,便要奔下將臺。穰苴喝教手下,將莊賈捆縛,牽出轅門斬首。唬得莊賈滴酒全無,口中哀叫討饒不已。左右從人,忙到齊侯處報信求救。連景公也吃一大驚,急叫梁邱據持節往諭,特免莊賈一死﹔吩咐乘軺車疾驅,誠恐緩不及事。那時莊賈之首,已號令轅門了。梁邱據尚然不知,手捧符節,望軍中馳去。穰苴喝令阻住,問軍政司曰:「軍中不得馳車,使者當得何罪?」答曰:「按法亦當斬!」梁邱據面如土色,戰做一團,口稱:「奉命而來,不干某事。」穰苴曰:「既有君命,難以加誅﹔然軍法不可廢也。」乃毀車斬驂,以代使者之死。梁邱據得了性命,抱頭鼠竄而去。於是大小三軍,莫不股栗。穰宜之兵,未出郊外,晉師聞風遁去。燕人亦渡河北歸。苴追擊之,斬首萬餘。燕人大敗,納賂請和。班師之日,景公親勞於郊,拜為大司馬,使掌兵權。史臣有詩云: 寵臣節使且罹刑,國法無私令必行。安得穰苴今日起,大張敵愾慰蒼生。 諸侯聞穰苴之名,無不畏服。景公內有晏嬰,外有穰苴,國治兵強,四境無事,日惟田獵飲酒,略如桓公任管仲之時也。 一日,景公在宮中與姬妾飲酒,至夜,意猶未暢,忽思晏子,命左右將酒具移於其家。前驅往報晏子曰:「君至矣!」晏子玄端束帶,執笏拱立於大門之外。景公尚未下車,晏子前迎,驚惶而問曰:「諸侯得無有故乎?國家得無有故乎?」景公曰:「無有。」晏子曰:「然則君何為非時而夜辱於臣家?」景公曰:「相國政務煩勞,今寡人有酒醴之味,金石之聲,不敢獨樂,願與相國共享。」晏子對曰:「夫安國家,定諸侯,臣請謀之。若夫布薦席,除簠簋者,君左右自有其人,臣不敢與聞也。」景公命回車,移於司馬穰苴之家,前驅報如前。司馬穰苴冠纓披甲,操戟拱立於大門之外,前迎景公之車,鞠躬而問曰:「諸侯得無有兵乎?大臣得無有叛者乎?」景公曰:「無有。」穰苴曰:「然則昏夜辱於臣家者何也?」景公曰:「寡人無他,念將軍軍務勞苦,寡人有酒醴之味,金石之樂,恩與將軍共之耳。」穰苴對曰:「夫禦寇敵,誅悖亂,臣請謀之。若夫布薦席,陳簠簋,君左右不乏,奈何及於介冑之士耶?」景公意興索然。左右問曰:「將回宮乎?」景公曰:「可移於梁邱大夫之家。」前驅馳報亦如前。景公車未及門,梁邱據左操琴,右挈竽,口中行歌而迎景公於巷口。景公大悅,於是解衣卸冠,與梁邱據歡呼於絲竹之間,雞鳴而返。明日,晏嬰穰苴同入朝謝罪,且諫景公不當夜飲於人臣之家。景公曰:「寡人無二卿,何以治吾國?無梁邱據,何以樂吾身?寡人不敢妨二卿之職,二卿亦勿與寡人之事也。」史臣有詩云: 雙柱擎天將相功,小臣便辟豈相同?景公得士能專任,嬴得芳名播海東。 是時中原多故,晉不能謀,昭公立六年薨,世子去疾即位,是為頃公。頃公初年,韓起羊舌肹俱卒。魏舒為政,荀躒范鞅用事,以貪冒聞。祁氏家臣祁勝,通於鄔臧之室,祁盈執祁勝。勝行賂於荀躒。躒譖於頃公,反執祁盈。羊舌食我黨於祁氏,為之殺祁勝。頃公怒,殺祁盈食我,盡滅祁羊舌二氏之族,國人冤之。其後魯昭公為強臣季孫意如所逐,荀躒復取貨於意如,不納昭公。於是齊景公合諸侯於鄢陵,以謀魯難,天下俱高其義。齊景公之名,顯於諸侯。此是後話。 卻說周景王十九年,吳王夷昧在位四年,病篤,復申父兄之命,欲傳位於季札。札辭曰:「吾不受位明矣!昔先君有命,札不敢從,富貴於我如秋風之過耳,吾何愛焉?」遂逃歸延陵。群臣奉夷昧之子州于為王,改名曰僚,是為王僚。諸樊之子名光,善於用兵,王僚用之為將。與楚戰於長岸,殺楚司馬公子魴,楚人懼,築城於州來,以禦吳。時費無極以讒佞得寵。蔡平公廬,已立嫡子朱為世子,其庶子名東國,欲謀奪嫡,納貨於無極。無極先譖朝吳,逐之奔鄭。及蔡平公薨,世子朱立。無極詐傳楚王之命,使蔡人逐朱,立東國為君。平王問曰:「蔡人何以逐朱?」無極對曰:「朱將叛楚,蔡人不願,是以逐之。」平王遂不問。無極又心忌太子建,欲離間其父子,而未有計。一日,奏平王曰:「太子年長矣,何不為之婚娶?欲求婚,莫如秦國。秦,強國也,而睦於楚﹔兩強為婚,楚勢益張矣。」平王從之,遂遣費無極往聘秦國,因為世子求婚。秦哀公召群臣謀其可否。群臣皆言:「昔秦晉世為婚姻,今晉好久絕,楚勢方盛,不可不許。」秦哀公遂遣大夫報聘,以長妹孟嬴許婚。(今俗家小說稱為無祥公主者是也。公主之號,自漢代始有之,春秋時焉有此號哉?)平王復命無極領金珠彩幣,往秦迎娶。無極隨使者入秦,呈上聘禮。哀公大悅,即詔公子蒲送孟嬴至楚,裝資百輛,從媵之妾數十餘人。孟嬴拜辭其兄秦伯而行。無極於途中,察知孟嬴有絕世之色﹔又見媵女內有一人,儀容頗端,私訪其來歷,乃是齊女,自幼隨父宦秦,遂入宮中,為孟嬴侍妾。無極訪得備細,因宿館驛,密召齊女謂曰:「我相你有貴人之貌,有心要抬舉你,做個太子正妃,汝能隱吾之計,管你將來富貴不盡。」齊女低首無言。無極先一日行,趨入宮中,回奏平王,言:「秦女已到,約有三舍之遠。」平王問曰:「卿曾見否?其貌若何?」無極知平王是酒色之徒,正要誇張秦女之美,動其邪心,恰好平王有此一問,正中其計。遂奏曰:「臣閱女子多矣,未見有如孟嬴之美者。不但楚國後宮,無有其對,便是相傳古來絕色,如妲己驪姬,徒有其名,恐亦不如孟嬴之萬一矣!」平王聞秦女之美,面皮通紅,半晌不語,徐徐嘆曰:「寡人枉自稱王,不遇此等絕色,誠所謂虛過一生耳!」無極請屏左右,遂密奏曰:「王慕秦女之美,何不自取之?」平王曰:「既聘為子婦,恐礙人倫。」無極奏曰:「無害也。此女雖聘於太子,尚未入東宮,王迎入宮中,誰敢異議?」平王曰:「群臣之口可鉗,何以塞太子之口?」無極奏曰:「臣觀從媵之中,有齊女才貌不凡,可充作秦女。臣請先進秦女於王宮,復以齊女進於東宮,囑以毋漏機關,則兩相隱匿,而百美俱全矣。」平王大喜,囑無極機密行事。無極謂公子蒲曰:「楚國婚禮,與他國異。先入宮見舅姑,而後成婚。」公子蒲曰:「惟命。」無極遂命軿車將孟嬴及妾媵,俱送入王宮,留孟嬴而遣齊女。令宮中侍妾扮作秦媵,齊女假作孟嬴,令太子建迎歸東宮成親。滿朝文武及太子,皆不知無極之詐。孟嬴問:「齊女何在?」則云:「已賜太子矣。」潛淵詠史詩云: 衛宣作俑是新臺,蔡國奸淫長逆胎﹔堪恨楚平倫理盡,又招秦女入宮來。 平王恐太子知秦女之事,禁太子入宮,不許他母子相見。朝夕與秦女在後宮宴樂,不理國政。外邊沸沸揚揚,多有疑秦女之事者。無極恐太子知覺,或生禍變,乃告平王曰:「晉所以能久霸天下者,以地近中原故也。昔靈王大城陳蔡,以鎮中華,正是爭霸之基。今二國復封,楚仍退守南方,安能昌大其業?何不令太子出鎮城父,以通北方?王專事南方,天下可坐而策也。」平王躊躇未答。無極又附耳密言曰:「秦婚之事,久則事洩。若遠屏太子,豈不兩得其利?」平王恍然大悟。遂命太子建出鎮城父,以奮揚為城父司馬,諭之曰:「事太子如事寡人也!」伍奢知無極之讒,將欲進諫。無極知之,復言於平王,使伍奢往城父輔助太子。太子行後,平王遂立秦女孟嬴為夫人﹔出蔡姬歸於鄖。太子到此,方知秦女為父所換,然無可奈何矣。孟嬴雖蒙王寵愛,然見平王年老,心甚不悅。平王自知非匹,不敢問之。踰年,孟嬴生一子,平王愛如珍寶,遂名曰珍。珍周歲之後,平王始問孟嬴曰:「卿自入宮,多愁嘆,少歡笑,何也?」孟嬴曰:「妾承兄命,適事君王。妾自以為秦楚相當,青春兩敵。及入宮庭,見王春秋鼎盛,妾非敢怨王,但自嘆生不及時耳!」平王笑曰:「此非今生之事,乃宿世之姻契也。卿嫁寡人雖遲,然為后則不知早幾年矣。」孟嬴心惑其言,細細盤問宮人,宮人不能隱瞞,遂言其故。孟嬴淒然垂淚。平王覺其意,百計媚之,許立珍為世子。孟嬴之意稍定。費無極終以太子建為慮,恐異日嗣位為王,禍必及己,復乘間譖於平王曰:「聞世子與伍奢有謀叛之心,陰使人通於齊晉二國,許為之助,王不可不備。」平王曰:「吾兒素柔順,安有此事?」無極曰:「彼以秦女之故,久懷怨望。今在城父繕甲厲兵有日矣。常言穆王行大事,其後安享楚國,子孫繁盛,意欲效之。王若不行,臣請先辭,逃死於他國,免受誅戮。」平王本欲廢建而立少子珍,又被無極說得心動,便不信也信了,即欲傳令廢建。無極奏曰:「世子握兵在外,若傳令廢之,是激其反也。太師伍奢是其謀主,王不如先召伍奢,然後遣兵襲執世子,則王之禍患可除矣。」平王然其計,即使人召伍奢。奢至,平王問曰:「建有叛心,汝知之否?」伍奢素剛直,遂對曰:「王納子婦已過矣!又聽細人之說,而疑骨肉之親,於心何忍?」平王慚其言,叱左右執伍奢而囚之。無極奏曰:「奢斥王納婦,怨望明矣。太子知奢見囚,能不動乎?齊晉之眾,不可當也。」平王曰:「吾欲使人往殺世子,何人可遣?」無極對曰:「他人往,太子必將抗鬥。不若密諭司馬奮揚,使襲殺之。」平王乃使人密諭奮揚,曰:「殺太子,受上賞﹔縱太子,當死!」奮揚得令,即時使心腹私報太子,教他:「速速逃命,無遲頃刻!」太子建大驚。時齊女已生子名勝,建遂與妻子連夜出奔宋國。奮揚知世子已去,使城父人將自己囚繫,解到郢都,來見平王,言:「世子逃矣!」平王大怒曰:「言出於余口,入於爾耳,誰告建耶?」奮揚曰:「臣實告之。君王命臣曰:『事建如事寡人。』臣謹守斯言,不敢貳心,是以告之。後思罪及於身,悔已無及矣!」平王曰:「爾既私縱太子,又敢來見寡人,不畏死乎?」奮揚對曰:「既不能奉王之後命,又畏死而不來,是二罪也。且世子未有叛形,殺之無名,苟君王之子得生,臣死為幸矣。」平王惻然,似有愧色,良久曰:「奮揚雖違命,然忠直可嘉也!」遂赦其罪,復為城父司馬。史臣有詩云: 無辜世子已偷生,不敢逃刑就鼎烹﹔讒佞紛紛終受戮,千秋留得奮揚名。 平王乃立秦女所生之子珍為太子,改費無極為太師。 無極又奏曰:「伍奢有二子,曰尚曰員,皆人傑也。若使出奔吳國,必為楚患。何不使其父以免罪召之?彼愛其父,必應召而來﹔來則盡殺之,可免後患。」平王大喜,獄中取出伍奢,令左右授以紙筆,謂曰:「汝教太子謀反,本當斬首示眾﹔念汝祖父有功於先朝,不忍加罪。汝可寫書,召二子歸朝,改封官職,赦汝歸田。」伍奢心知楚王挾詐,欲召其父子同斬。乃對曰:「臣長子尚,慈溫仁信,聞臣召必來。少子員,少好於文,長習於武,文能安邦,武能定國,蒙垢忍辱,能成大事。此前知之士,安肯來耶?」平王曰:「汝但如寡人之言,作書往召﹔召而不來,無與爾事。」奢念君父之命,不敢抗違,遂當殿寫書,略云: 書示尚員二子:吾因進諫忤旨,待罪縲絏。吾王念我祖父有功先朝,免其一死,將使群臣議功贖罪,改封爾等官職。爾兄弟可星夜前來。若違命延遷,必至獲罪。書到速速! 伍奢寫畢,呈上平王看過,緘封停當,仍復收獄。平王遺鄢將師為使,駕駟馬,持封函印綬,往棠邑來。伍尚已回城父矣。鄢將師再至城父,見伍尚,口稱「賀喜!」尚曰:「父方被囚,何賀之有?」鄢將師曰:「王誤信人言,囚繫尊公,今有群臣保舉,稱君家三世忠臣,王內慙過聽,外愧諸侯之恥,反拜尊公為相國,封二子為侯,尚賜鴻都侯,員賜蓋侯。尊公久繫初釋,思見二子,故復作手書,遺某奉迎。必須早早就駕,以慰尊公之望。」伍尚曰:「父在囚繫,中心如割,得免為幸,何敢貪印綬哉?」將師曰:「此王命也,君其勿辭。」伍尚大喜,乃將父書入室,來報其弟伍員。不知伍員肯同赴召否,且看下回分解。
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