東周列國志第七十七回 秦の庭に泣いて申包胥が兵を借りる/呉の師を退けて楚の昭王が国に返る (泣秦庭申包胥借兵 退吳師楚昭王返國)
伍子胥、随国に楚王の引き渡しを求める
- さて、伍員は随国の南の辺境に陣を張り、人を遣わして随侯に書を送った。その大意は次のようなものであった。「周の子孫で漢水流域にあった国々は、楚に呑み尽くされてしまいました。今、天は呉国を祐け、楚君の罪を問うております。もし楚の珍しきものを出して呉と誼を通じられれば、漢陽の地はすべて貴国に帰し、わが君と貴殿は世々兄弟として共に周室にお仕えいたしましょう。」
- 随侯は読み終えると群臣を集めて協議した。
- 楚の臣、子期は容貌が昭王に似ていたので、随侯に言った。「事は急を要します!私が王の身代わりとなりますゆえ、この私を偽りの王として呉に差し出していただければ、王は難を免れられましょう。」
- 随侯は太史に吉凶を占わせた。太史は次の卦辞を献じた。(詩:平らかなるはやがて傾き、往きしものはやがて復る。故きを棄てず、新しきを求めるな。西の隣は虎となり、東の隣は肉となる、という趣旨)
- 随侯は言った。「楚は古き縁、呉は新しき縁。鬼神が我らに示されたのだ。」
- そこで人を遣わして伍員に断りの言葉を伝えさせた。「わが国は楚に依って国を成し、代々盟誓を交わしてきました。楚君がもし落ちてこられたなら、お迎えせぬわけには参りません。しかし今はすでに他へ移られました。将軍、どうか御賢察を!」
- 伍員は囊瓦が鄭にいることから、昭王もまた鄭に逃げたのではと疑い、しかも鄭人が太子建を殺した仇もまだ報いていなかったので、そのまま兵を移して鄭を攻め、その郊外を包囲した。
鄭への進撃と漁師の子による解囲
- そのとき鄭の賢臣、游吉が亡くなったばかりで、鄭定公は大いに恐れ、囊瓦を責めた。囊瓦は自害した。
- 鄭伯は囊瓦の屍を呉軍に差し出し、楚王が実際には鄭に来ていないことを説明した。
- しかし呉軍はなおも退こうとせず、必ず鄭を滅ぼして太子の仇を報おうとした。
- 諸大夫たちは城を背にして一戦し、存亡を決すべきだと進言した。
- 鄭伯は言った。「鄭の兵馬が楚に及ぼうか。楚ですら破れたのだ、まして鄭はなおさらだ。」そこで国中に命令を出した。「呉軍を退けられる者があれば、寡人はその者と国を分かって共に治めよう。」この命令は三日間掲げられた。
- そのとき、鄂渚の漁師の子が、戦乱を避けて鄭の城中に逃げ隠れており、呉国が伍員を主将としていると聞いて、鄭君に謁見を求め、自ら「呉軍を退けられます」と申し出た。
- 鄭定公は「卿が呉兵を退けるには、車と兵をどれほど用いるか」と尋ねた。
- 答えて言った。「臣は一寸の兵も一斗の糧も用いません。ただ櫂を一本お貸しくだされば、それを持って道中を歌い歩けば、呉兵は退きます。」
- 鄭伯は信じなかったが、他に策もなく、やむを得ず左右の者に櫂を一本持たせて授けた。「果たして呉を退けられれば、褒美を惜しむものではない。」
- 漁師の子は城壁を縄で下り、まっすぐ呉軍の中へ入って行き、陣営の前で櫂を叩いて歌った。(詩:蘆中の人よ、蘆中の人よ、腰の宝剣は七星の紋、渡江の折の麦飯と干し魚の羹を覚えているかと歌ったもの)
- 兵士たちはこれを捕らえて伍員のもとへ連れて来た。その者は相変わらず「蘆中人」を歌い続けた。
- 伍員は席を降りて驚いて尋ねた。「そなたは何者か。」
- 男は櫂を挙げて答えた。「将軍、私の手にあるものが見えませんか。私は鄂渚の漁師の子です。」
- 伍員はしみじみとして言った。「そなたの父は私のために死んだ。常々恩に報いたいと思いながら、その道がなく恨めしく思っていた。今日幸いにも巡り会うことができ、そなたが歌って私を訪ねて来てくれた。何を望むのか。」
- 男は答えた。「他に望むことはありません。鄭国はあなた様の軍勢を恐れ、国中に令を出しました。『呉軍を退けられる者には、国を分かって治めさせる』と。臣は先父とあなた様との思いがけぬ巡り会いを思い、あなた様に鄭国の赦しを乞いたく存じます。」
- 伍員は天を仰いで嘆じた。「ああ!私が今日あるを得たのは、皆漁師の恩によるもの。天は蒼々として、どうして忘れようか!」その日のうちに囲みを解いて去るよう命じた。
- 漁師の子は鄭伯に復命した。鄭伯は大いに喜び、百里の地を封じて与えた。国人はこれを「漁大夫」と呼んだ。今も溱洧の間に丈人村があるが、それはこのとき封じられた地である。
- 髯翁に詩がある。(詩:蘆洲での密やかな語らいは生死を分けたが、櫂を打って歌う声は楚歌にも勝り、三軍が散じた後には茅土を分かたれて領地に封ぜられ、あの時の江上の情を裏切らなかった、という趣旨)
- 伍員は鄭国の囲みを解いた後、軍を楚の境に戻し、各地を分けて守らせ、大軍は麋の地に陣を張り、人を四方に遣わして楚の属国に降伏を促し、あわせて昭王の行方を急いで探させた。
申包胥、伍子胥に書を送る
- さて申包胥は郢都が破れて以来、夷陵の石鼻山に逃れて隠れていたが、子胥が墓を暴いて屍に鞭打ち、なおも楚王を捜し求めていると聞き、人を遣わして子胥に書を送った。その大意は次のようなものであった。「そなたはもとより平王の臣として臣下の礼をとってお仕えした身。今それなのに、その屍を辱めるとは、いかに仇を報じるためとはいえ、あまりに度を過ぎているのではないか。物事は極まれば必ず反転する。そなたは早く兵を引き揚げて呉へ帰るがよい。さもなくば、私は『楚を復興する』との誓いを果たすことになろう!」
- 伍員は書を受け取ると、しばらく黙り込み、使者に言った。「私は軍務に忙殺されており、返書をしたためる暇がない。あなたの口を借りて、申君にお詫びを伝えていただきたい。忠と孝は両立し得ぬもの、私は日暮れて道は遠い、それゆえ道理に逆らったやり方をしているまでなのだ、と。」
- 使者は戻って申包胥に報告した。申包胥は言った。「子胥が楚を滅ぼす気であることは間違いない。私は座して待ってはいられぬ。」
申包胥、秦に援軍を乞う
- 申包胥は、楚平王の夫人が秦哀公の娘であり、楚昭王が秦の外孫にあたることを思い出し、楚の難を解くには秦に頼るほかないと考えた。
- 昼夜西へと駆け続け、足の裏はすっかり破れ、歩くたびに血が流れたので、衣の裾を裂いてこれを包んだ。
- 雍州にたどり着き、秦哀公に謁見して言った。「呉は大猪のように貪り、長蛇のように毒を持ち、久しく諸侯を蚕食しようとしており、その兵はまず楚から始まりました。わが君は社稷を守り切れず、草莽の間に逃げ延びております。特に下臣を遣わし、貴国に急を告げ、伏して願わくは君が姻戚の情を思い、代わりに兵を興して危難をお解きください。」
- 秦哀公は言った。「秦は遠く西の辺境にあり、兵は少なく将も足りぬ。自らを守るだけで手一杯だ、どうして他国のために動けようか。」
- 包胥は言った。「楚と秦は境を接しております。楚が兵禍に遭っても秦が救わなければ、呉がもし楚を滅ぼせば、次には必ず秦にも及びましょう。君が楚を存続させることは、秦を固めることでもあります。もし秦がついに楚国を得るならば、それは呉に得させるよりもましではありませんか。もし撫でて存続させ、その祭祀を絶やさぬようにしていただければ、代々臣下として秦にお仕えする所存です。」
- 秦哀公はまだ決めかねて言った。「大夫はしばらく宿舎に落ち着いて休まれよ。孤は群臣と相談してみよう。」
- 包胥は答えた。「わが君は草莽に落ちぶれ、まだ安らかに休むこともできておりません。下臣がどうして館に落ち着いて自らを楽にすることができましょうか。」
- そのとき秦哀公は酒に溺れて国事を顧みずにいた。包胥がいよいよ切に出兵の裁可を請うても、哀公はついに出兵を承知しなかった。
- そこで包胥は衣冠も脱がず、秦の朝廷に立ち、昼夜泣き叫び続け、その声を絶やさなかった。このように七日七夜、水も飲み物も一口として口にしなかった。
- 哀公はこれを聞き大いに驚いて言った。「楚の臣が主君を思う切なる情が、ここまでとは!楚にこれほどの賢臣がいるのに、呉はなお楚を滅ぼそうとしている。寡人にはこのような賢臣がいない。呉がどうして我が国を容赦してくれようか。」そして涙を流し、『無衣』の詩を賦してこれを称えた。詩に曰く。(詩:衣がないなどと誰が言おうか、そなたと衣を共にしよう、王が軍を興せば、そなたと仇を共にしようという趣旨)
- 包胥はぬかずいて謝意を述べ、それから初めて食事を口にした。
- 秦哀公は大将の子蒲・子虎に戦車五百乗を率いさせ、包胥に従わせて楚を救わせた。
- 包胥は言った。「わが君は随にあって援軍を望んでおられます。大旱に雨を望むに等しいものです。私が先に一足先に行き、わが君に知らせましょう。元帥は商穀から東に進めば、五日で襄陽に至り、そこから南に折れれば荊門です。私は楚の残兵を率いて石梁山から南に来ますので、二か月とかからずに落ち合えましょう。呉は勝ちを恃み、必ず備えを怠っております。兵士も外にあって長らく帰郷を思っているはず、もし一軍を破れば、自ずと瓦解しましょう。」
- 子蒲は言った。「私は道を知らぬ。必ず楚兵に道案内をしてもらわねばならぬ。大夫、期日を違えられるな。」
秦・楚連合軍、呉軍を破る
- 包胥は秦の元帥に別れを告げ、夜通し随に至り、昭王に謁見して言った。「臣が求めた秦兵は、すでに国境を出ました。」
- 昭王は大いに喜び、随侯に言った。「占い師の言った『西の隣は虎となり、東の隣は肉となる』とは、秦は楚の西にあり、呉はその東にある。まさにこの言葉のとおりになった。」
- そのとき薳延・宋木らも残兵をまとめ、王に従って随にいた。子西・子期も随の兵を挙げて、一斉に進発した。
- 秦の軍は襄陽に陣を張って楚軍を待った。包胥は子西・子期らを秦の元帥に引き合わせた。
- 楚兵が先行し、秦兵が後に続いた。沂水で夫概の軍勢に出会った。
- 子蒲は包胥に言った。「そなたは楚軍を率いてまず呉と戦え。私は後から駆けつけてそなたに合流しよう。」
- 包胥はそこで夫概と交戦した。夫概は勇猛を恃み、包胥を物ともせず、十余合ほど戦ったが、勝敗はつかなかった。
- 子蒲・子虎が大軍を駆って攻め込んで来た。夫概は旗印に「秦」の字が見えるのに驚いて言った。「西の兵がどうしてここに来られたのか!」急いで兵を収めたが、すでに半数以上を失っていた。
- 子西・子期らは勝ちに乗じて五十里も追撃してようやく止めた。
- 夫概は郢都へ逃げ帰り、呉王に会って秦兵の勢いが鋭く、当たれないと盛んに述べた。闔閭は恐れの色を見せた。
- 孫武は進み出て言った。「兵とは凶器であり、しばらく用いることはあっても長く用いてはなりません。しかも楚の国土はなお広く、人心はいまだ呉に服してはおりません。臣が以前、王に羋勝を立てて楚を撫でることをお願いしたのも、まさに今日のような変事を懸念してのことでした。今の策としては、秦と使者を通じて誼を結び、楚君を復位させることを許すべきです。楚の西の辺境を割いて呉の領土を増やせば、王にも利がないわけではありません。もし長く楚の宮殿に恋々として滞在し対峙を続ければ、楚人は憤って力を尽くし、呉人は驕って怠けます。それに加えて虎狼のごとき秦が控えている。臣は万全とは申せません。」
- 伍員も楚王をもはや捕らえられないと知り、孫武の言葉をもっともだと思った。
- 闔閭がこれに従おうとすると、伯嚭が進み出て言った。「我が軍は東呉を離れて以来、破竹の勢いで進み、五戦して郢を落とし、楚の社稷を平らげました。今、秦兵に一度出くわしただけで兵を引き上げるとは、なんと初めは勇ましく後は臆病なことでしょうか。願わくは臣に兵一万をお与えください。必ずや秦兵を一兵たりとも帰さぬようにいたします。もし勝てなければ、甘んじて軍令に服します!」
- 闔閭はその言葉を勇壮とし、これを許した。
- 孫武と伍員は力を尽くして兵を動かすことを止めようとしたが、伯嚭は聞き入れなかった。
- 兵を率いて城を出、両軍は軍祥で出会い、陣を敷いた。
- 伯嚭は楚軍の隊列が整っていないのを望み見て、太鼓を鳴らして車を駆り突入した。ちょうど子西に出会い、大いに罵った。「万死に値しながら生き残った残り者めが、まだ冷えきった灰が再び熱くなるのを望むというのか!」
- 子西も罵り返した。「国に背いた叛徒め!今日どんな顔で会おうというのか。」
- 伯嚭は大いに怒り、戟を構えてまっすぐ子西に向かった。子西も戈を振るって迎え撃った。数合戦ったところで、子西はわざと負けたふりをして逃げた。
- 伯嚭がこれを追い、二里も行かぬうちに、左からは沈諸梁の一軍、右からは薳延の一軍が攻めかかり、秦の将、子蒲・子虎も精鋭部隊を率いて、呉陣の中央をまっすぐ貫いた。
- 三方の兵が呉兵を三つに断ち切り、伯嚭は左右に衝突を繰り返したが、脱出できなかった。
- そこへ伍員の兵が到着し、大いに戦って伯嚭を救い出した。一万の軍馬のうち、残ったのは二千人にも満たなかった。
- 伯嚭は自ら己を囚人として、呉王に会いに来て罪を待った。
- 孫武は伍員に言った。「伯嚭という人物は、功を誇り自分を過信する性質だ。後々必ず呉国の禍となろう。この敗戦に乗じて軍令によって斬るべきだ。」
- 伍員は言った。「彼には確かに敗軍の罪があるが、これまでの功も小さくない。それに敵を目前にして、一大将を斬るわけにはいかぬ。」そして呉王に奏上して罪を赦させた。
- 秦兵は郢都に直接迫った。闔閭は夫概と公子山に城を守らせ、自らは大軍を率いて紀南城に陣を張った。伍員・伯嚭はそれぞれ磨城・驢城に分屯し、互いに呼応して敵を挟み撃つ掎角の勢を取り、秦兵と対峙した。
- さらに使者を遣わして唐・蔡に援軍を求めた。
- 楚の将、子西は子蒲に言った。「呉は郢を巣穴としているため、堅く壁を守って対峙している。もし唐・蔡がさらに助力すれば、我らは敵しきれません。むしろこの隙に乗じて唐に兵を加えるべきです。唐が破れれば、蔡人も必ず恐れて自ら守りに専念しましょう。そうすれば我らは呉に専念して力を尽くせます。」
- 子蒲はこの計をもっともとした。そこで子蒲は子期と共に一隊の兵を分け、唐城を襲って破り、唐成公を殺し、その国を滅ぼした。
- 蔡哀公は恐れをなし、あえて兵を出して呉を助けなかった。
夫概の反乱と呉都の危機
- さて夫概は自ら楚を破った第一の功を恃んでいたが、沂水の敗戦以来、呉王が郢都の守備につけたため、内心不満に思っていた。
- そして呉王が秦と対峙して決着がつかないと聞き、突然心が動き、こう考えた。「呉国の制度では、兄が終われば弟が継ぐのが習わし。私が跡を継ぐべきなのに、今、王はその子の波を太子に立ててしまった。私はもう立てぬではないか!この大軍が出征して本国が手薄になっている隙に乗じ、こっそり帰国して王を称し位を奪ってしまえば、後々まで争うよりよいのではないか。」
- そこで本隊の軍馬を率いて、こっそり郢都の東門を出て、漢水を渡って帰国した。そして偽って言った。「闔閭は秦に敗れ、行方が知れぬ。私が跡を継ぐべきだ。」
- そのまま自ら呉王と称し、その子、扶臧に全兵を率いて淮水に拠らせ、呉王の帰り道を遮らせた。
- 呉の世子波は専毅とともに変事を知り、城に登って防御を固め、夫概を入れなかった。
- 夫概はそこで使者を三江から越へ遣わし、越に進軍を説き、共に呉国を挟み撃ちにするよう提案し、事が成れば五城を割いて謝礼するとした。
闔閭、帰国して夫概を討つ
- 一方、闔閭は秦兵が唐を滅ぼしたと聞き、大いに驚き、まさに諸将を召して戦うか守るかの策を協議しようとしていた。
- そこに公子山が知らせを持ってきて、「夫概はどういうわけか本隊の兵を率いて、こっそり呉国へ帰ってしまいました」と告げた。
- 伍員は言った。「夫概のこの行動、必ず謀反です。」
- 闔閭は言った。「どうすればよいか。」
- 伍員は言った。「夫概はただの一勇の徒に過ぎず、恐れるに足りません。懸念されるのは、越人が変事を聞いて動くことです。王は速やかにお帰りになり、まず内乱を鎮めるべきです。」
- 闔閭はそこで孫武と子胥を留めて郢都を守らせ、自らは伯嚭と共に水軍で川を下って帰った。
- 漢水を渡ったところで、太子波からの急告を受け取った。「夫概が反乱を起こして王を称し、さらに越兵と結んで攻め入ろうとしています。呉都は旦夕に危うい状態です。」
- 闔閭は大いに驚いて言った。「子胥の見立てどおりであった。」
- そこで使者を郢都に遣わし、孫武と伍員の兵を呼び戻し、自らは夜通し馳せ帰り、川沿いに将士に布告した。「夫概から離れて帰順する者は元の地位に戻す。後から来る者は誅する。」
- 淮上の兵はみな戈を逆にして帰順した。扶臧は谷陽へ逃げ戻った。
- 夫概は民を駆り立てて甲を授けようとしたが、民衆は呉王がまだ健在であると聞き、みな逃げ隠れた。
- 夫概はやむなく本隊だけを率いて出戦した。
- 闔閭は問うた。「私はお前を手足のように頼りにしてきたのに、なぜ反逆した。」
- 夫概は答えた。「お前が王僚を弑したのは、反逆ではないというのか。」
- 闔閭は怒り、伯嚭に「私のために賊を捕らえよ!」と命じた。
- 数合戦ったところで、闔閭は大軍をまっすぐ進撃させた。夫概は勇猛であったが、衆寡敵せず、大敗して逃げた。
- 扶臧は江に船を用意して夫概を渡らせ、宋国へ逃げ延びさせた。
- 闔閭は民を撫で安んじ、呉都に帰り着いた。太子波が城に迎え入れ、闔閭は越を防ぐ策を練った。
孫武・伍子胥の撤兵と羋勝擁立
- さて孫武は呉王の兵を引き上げよとの詔を受け、まさに伍員と相談していたところ、「楚の陣中から人が書を送って来た」との知らせが入った。
- 伍員が書を受け取って見ると、それは申包胥が遣わしたものであった。書の大意は次のようなものであった。「そなたは君臣を挙げて郢を占拠すること三季にもなるが、なお楚を平定しきれなかった。天意は楚を滅ぼすことを望んでいないのが分かる。そなたが『楚を覆す』という言葉を果たしたのなら、私もまた『楚を復興する』という志を遂げたい。友の道は互いに成し合うものであり、互いに傷つけ合うものではない。そなたが呉の威を尽くさぬなら、私もまた秦の力を尽くさぬことにしよう。」
- 伍員はこの書を孫武に示して言った。「呉が数万の兵を率いて楚に深く入り、その宗廟を焼き、社稷を破壊し、死者の屍に鞭打ち、生者の邸宅を占拠した。古来、臣下が仇を報いる者で、これほど痛快に果たした者はない。しかも秦兵は我が別働の一軍を破ったとはいえ、我らに大した損害はない。『兵法』にいう『機を見て進み、難しいと知れば退く』と。幸い楚はまだ我らの窮状を知らぬ。この機に退くべきであろう。」
- 孫武は言った。「むなしく退けば楚に笑われる。羋勝の件を請うてはどうか。」
- 伍員は「よかろう」と言い、返書をしたためた。その大意は次のようなものであった。「平王は無実の子を追放し、無実の臣を殺した。私は実にその憤りに堪えかね、ここまでのことをしてしまった。昔、斉桓公は邢を存続させ衛を立てさせ、秦穆公は三度晋君を立て、その土地を貪らなかった。今にまで伝えられ称えられている。私も才は足りぬながら、ひそかにこの義を耳にしていた。今、太子建の子、勝は呉で糊口をしのぎ、一寸の土地も持っていない。楚がもし勝を帰し、故太子の祭祀を継がせてくれるなら、私も退避して、あなたの志を成すことをあえて拒みません。」
- 申包胥は書を受け取ると、子西に伝えた。子西は言った。「故太子の後を封じることこそ、まさに私の望むところだ。」そこで使者を遣わして呉から羋勝を迎えさせた。
- 沈諸梁は諫めて言った。「太子はすでに廃されました。勝は仇の側の者です。どうして仇を養って国を害するようなことをするのですか。」
- 子西は言った。「勝は一介の匹夫に過ぎぬ。何の害があろうか。」ついに楚王の名で召し、大邑を封じることを許した。
- 楚の使者が出発すると、孫武と伍員はそのまま兵を引き上げた。楚の府庫にあった宝玉はすべて満載して持ち帰り、さらに楚の領内の戸口一万戸を移し、呉の空虚な土地を充実させた。
- 伍員は孫武を水路から先に行かせ、自らは陸路で歴陽山を通過し、東皋公に恩を報いようとしたが、その邸宅はすでに跡形もなかった。
- さらに使者を龍洞山に遣わして皇甫訥を訪ねさせたが、これもまた行方が知れなかった。
- 伍員は嘆じて言った。「まことに高潔な人であった!」その地に向かって再拝して去った。
- 昭関に至ると、すでに楚兵の守りはなかった。伍員はその関所を取り壊すよう命じた。
- さらに溧陽の瀬水のほとりを通り過ぎるとき、嘆じて言った。「私はかつてここで飢えと困窮に苦しみ、一人の女子に食を乞うたことがあった。女子は盆の飲み物と飯を私に与えてくれた後、川に身を投げて死んでしまった。私はかつて石に文字を留めておいたはず、まだ残っているだろうか。」
- 左右の者に土を掘らせると、その石の文字はそのまま磨り減らずに残っていた。千金をもってその恩に報いたかったが、その家がわからなかった。そこで人に千金を瀬水に投げ入れさせて言った。「女子よ、もし霊あらば、私が恩を忘れていないことを明らかにしよう!」
- 一里も行かぬうちに、道端で一人の老女が、通り過ぎる兵を見て泣いていた。兵士がこれを捕らえようとして尋ねた。「婆さん、どうしてそんなに悲しく泣いているのか。」
- 老女は言った。「私の娘は三十年間ひとりで暮らし嫁がずにおりました。かつて瀬で絹を洗っていたとき、ある窮した旅の君子に出会い、食事を与えました。それが漏れることを恐れ、自ら瀬水に身を投げたのです。聞くところによれば、食事を与えた相手は楚の亡命臣、伍君だったとか。今、伍君は戦に勝って帰って来られたのに、その恩に報いていただくこともできず、むなしく死んでしまったことを思うと悲しいのです。」
- 兵士は老女に言った。「我らの主将こそが伍君である。千金でそなたに恩を報いたいと思われたが、その家がわからず、すでに水に投げ入れられた。行って取りに行かれるがよい。」
- 老女は金を取って帰った。今もその水を投金瀬と呼ぶ。
- 髯仙に詩がある。(詩:投金瀬の水は今も流れ続け、なお亡命の臣が恩に報いた時のことを偲ばせる、三十年来伴侶を持たなかったその芳しき名は、子胥の名と共に永く伝わる、という趣旨)
越の自立と孫武の隠退
- 越子允常は、孫武らの軍が呉国へ帰ったと聞き、孫武が用兵に長けているため勝つのは難しいと判断し、こちらも兵を引き上げて帰り、「越は呉と対等の国である」と言って、自ら越王と称した。これ以上は述べない。
- 闔閭は楚を破った功を論じ、孫武を第一とした。孫武は官位に就くことを望まず、ひたすら山に帰ることを願い出た。王は伍員にこれを留めさせようとした。
- 孫武はひそかに伍員に言った。「そなたは天道を知っているか。暑さが去れば寒さが来て、春が去れば秋が来るものだ。王は自らの強盛を恃み、四方に憂いがなくなれば、驕り楽しみが必ず生じよう。そもそも功を成して退かなければ、後患が生じる。私はただ自分の身を全うしたいだけでなく、そなたのことも全うしたいのだ。」
- 伍員はこれをもっともとは思わなかった。孫武はそのまま飄然と去って行った。
- 王は金帛数車を贈ったが、孫武はすべて道すがら貧しい民に施し与えた。その後の行方は知れない。
- 史臣に讃がある。(詩:孫子の才は伍員によって世に彰され、二人の妃を軍法で処断して軍中に威を振るった。兵を統率することは一人を用いるがごとく、敵を見通すことはまるで神のようであった。楚に大いに力を伸ばし、秦には小さな挫折を喫した。智謀は偏らず、策謀は全て行われたわけではないが、爵禄を受けず、興亡の理を知っていた。世に出て道が顕れ、身を退いて名が成った。書『十三篇』は兵家の尊ぶところとなった、という趣旨)
闔閭の論功行賞と国政整備
- 闔閭は伍員を相国に立て、斉の「仲父」、楚の「子文」という、名を呼ばずに尊称・字で呼ぶ先例にならい、「子胥」と呼んで名では呼ばなかった。
- 伯嚭を太宰とし、共に国政に参与させた。
- 閶門の名を「破楚門」と改めた。
- さらに南界に石塁を築き、門を設けて兵に守らせ、越人を防いだ。これを「石門関」と号した。
- 越の大夫、范蠡もまた浙江の入り口に城を築いて呉を防いだ。これを「固陵」と号し、固く守れることを意味した。(これは周敬王十五年のことである。)
楚昭王の帰国と論功行賞、新郢への遷都と扈子の諫め
- 話は変わって、子西と子期は再び郢城に入り、一方では平王の骸骨を収めて葬り、宗廟社稷を新たに草創し始め、もう一方では申包胥に水軍を率いさせて随に昭王を迎えに行かせた。
- 昭王は随君と盟を結び、二度と侵略しないことを誓った。随君は自ら昭王を舟まで見送り、ようやく引き返した。
- 昭王は大江の中を進みながら、欄干にもたれて四方を眺め、これまでの苦難を思い出したが、今日再びこの江を渡る身となり、川の流れに心はなお安らかで、心中大いに喜んだ。
- ふと水面に一物が見えた。斗ほどの大きさで、色は真っ赤であった。水夫に打ち上げさせて調べたが、群臣に尋ねてもだれも識別できなかった。
- 佩刀で切り開くと、中には瓜のような果肉があり、試しに食してみると甘美このうえなかった。そこで左右の者にあまねく分け与えて言った。「これは名も知れぬ果実である。これを覚えておき、いずれ博識の士に会ったときに尋ねるとしよう。」
- 幾日もかからぬうちに、雲中に至った。昭王は嘆じて言った。「ここは私が盗賊に遭った場所だ。忘れてはならぬ。」そこで船を岸に泊め、鬥辛に人夫を督励させて雲夢の地に小城を築かせ、旅人が宿泊できるようにした。今の雲夢県にある楚王城という地名は、その旧跡である。
- 子西・子期らは郢都から五十里の地点で昭王を出迎えた。君臣は互いに慰め労った。
- 郢城に着いてみると、城外には白骨が麻のように散らばり、城中の宮殿も半ば壊れており、思わず涙をこぼした。
- そのまま宮中に入り、母の伯嬴に会うと、母子は互いに向かい合って泣いた。
- 昭王は言った。「国家は不幸にもこの大変事に遭い、廟社は荒れ果て、陵墓すら辱められた。この恨みはいつになれば雪げようか。」
- 伯嬴は言った。「今日、復位したからには、まず賞罰を明らかにし、それから民をいたわり救い、ゆっくりと国力を回復させてから恢復を図るべきです。」
- 昭王は再拝してその教えを受けた。この日は寝所に落ち着くこともせず、斎宮に泊まった。
- 翌日、宗廟社稷に祭りを告げ、墳墓を巡視し、それから正殿に登って、百官が祝賀した。
- 昭王は言った。「寡人は人を用いる目を誤り、あわや国を滅ぼすところであった。もし卿らがいなければ、どうして再び天日を見ることができたであろうか。国を失ったのは寡人の罪であり、国を復興させたのは卿らの功である。」
- 諸大夫はみなぬかずいて、恐れ多いことですと辞退した。
- 昭王はまず秦の将たちを宴に招いて労い、その軍勢を酒食で手厚く慰労してから、帰国させた。
- それから論功行賞を行い、子西を令尹に、子期を左尹に任じた。
- 申包胥が秦に援軍を乞うた功が大きいことから、右尹に任じようとした。
- 申包胥は言った。「臣が秦に援軍を乞うたのは、君主のためであり、我が身のためではありません。王がすでに国にお戻りになった以上、臣の志はもう遂げられました。あえてこれによって利を求めましょうか。」固く辞退して受けなかった。
- 昭王が強く勧めると、包胥は妻子を連れて逃げてしまった。
- 妻は言った。「あなたは身を疲れさせ、心を尽くして秦に援軍を乞い、楚国を定めました。恩賞は当然の分け前です。どうして逃げるのですか。」
- 包胥は言った。「私は初め友の道義を守り、子胥の企てを漏らさなかった。それによって子胥は楚を破ることができた。それは私の罪である。罪ある身でありながら功を自分のものとして受け取ることなど、私には恥である!」そのまま深山に逃げ入り、生涯世に出なかった。
- 昭王は人を遣わして探させたが見つからず、その門に「忠臣之門」と掲げて表彰した。
- 王孫繇于を右尹とし、「雲中で寡人に代わって矛を受けてくれたことを忘れはしない」と言った。
- そのほか沈諸梁、鍾建、宋木、鬥辛、鬥巣、薳延らも、それぞれ爵位と領地を加増された。
- 鬥懐も召し出して褒賞しようとした。子西は言った。「鬥懐は君を弑逆しようとした者です。罪に問うのが妥当です。まして褒賞するなど。」
- 昭王は言った。「彼は父の仇を報いようとしたのだ、孝子ではないか。孝子となれる者が、忠臣となることも難しくあるまい。」そこで大夫に任じた。
- 藍尹亹は昭王への謁見を求めた。王は成臼で一緒に舟に乗せてくれなかった恨みを思い、捕らえて誅そうとし、人を遣わして言わせた。「お前は寡人を道端に見捨てたのに、今また戻って来るとは何事か。」
- 藍尹亹は答えた。「囊瓦はただ徳を捨てて怨みを植えたために柏挙で敗れました。王もどうしてそれに倣うのですか。そもそも成臼の舟と、郢都の宮殿とでは、どちらが安泰でしょうか。臣が王を成臼で見捨てたのは、王を戒めるためだったのです!今日参上したのは、大王が悔い改められたかどうかを見たかったからです。王が国を失った過ちを省みず、臣が乗せなかった罪を覚えておられるなら、臣の死など惜しくもありません。ただ惜しむべきは楚の宗社のみです。」
- 子西は奏上した。「亹の言葉は率直です。王はこれを赦し、以前の敗戦を忘れぬようにされるべきです。」
- 昭王はそこで亹の謁見を許し、元通り大夫に復させた。
- 群臣は昭王の度量の広さを見て、みな大いに喜んだ。
- 昭王の夫人は、自らが闔閭に身を汚されたことから夫に会わせる顔がないとして、首を吊って死んだ。
- そのとき越はちょうど呉と戦を構えており、楚王が国を復興したと聞くと、使者を遣わして祝賀し、あわせて宗女を王に献じた。王はこれを継室に立てた。越姫は大変賢徳があり、王から厚く敬われた。
- 王は季羋が患難の折に付き従ってくれたことを思い、良き婿を選んで嫁がせようとした。
- 季羋は言った。「女子の道理は、みだりに男性に近づかぬものです。鍾建はかつて私を背負ってくれました。それこそ私の夫となる人です。あえて他の人に嫁ぎましょうか。」
- 昭王はそこで季羋を鍾建に嫁がせ、鍾建を司楽大夫とした。
- また故相の孫叔敖の霊を思い、人を遣わして雲中に祠を立てて祭らせた。
- 子西は、郢都が荒廃し、しかも呉人が長く滞在してその道筋を熟知してしまったことから、改めて鄀の地を選んで城を築き宮殿を建て、宗廟社稷を立てて遷都した。これを新郢と名付けた。
- 昭王は新しい宮で酒宴を開き、群臣と大いに会した。酒がまさに酣となったとき、楽師の扈子は、昭王が今の楽しみに慢心し、かつての苦しみを忘れ、再び平王の轍を踏むことを恐れ、王の前で琴を抱いて奏上した。「臣に『窮衄』の曲がございます。大王のために弾かせていただきたく存じます。」
- 昭王は「寡人は聞きたいと思う」と言った。
- 扈子は琴を手に取って弾いた。その音はひどく悲しく怨みに満ちていた。その歌詞は次のようなものであった。(詩:王よ王よ、なぜそれほど道理に外れたことをしたのか、宗廟を顧みずに讒臣の言を聞き入れ、無忌を用いて多くの人を殺し、忠孝の者を誅し滅ぼして大綱を絶ってしまった。二人の子は東の呉・越へと逃れ、呉王は哀れんで二人の悲嘆に力を添え、涙を流して兵を挙げ西へ討伐に向かった。子胥・伯嚭・孫武がこれを決行し、五戦して郢を破り王は逃げ出した。兵を留め騎兵を放って荊闕を掠奪し、先王の骸骨は暴かれ、鞭打たれ屍を辱められた恥は雪ぎがたい。宗廟社稷は危うく滅びかけ、君王は死を逃れて各地をさすらい歩いた。卿士は悲しみに沈み、民は血の涙を流し、呉軍は去ってもなお恐れは尽きない。願わくば王よ、これより忠節ある者を重んじ、讒言の口車にはもう乗らぬように、という趣旨)
- 昭王は琴の曲の意味を深く理解し、涙を流してやまなかった。
- 扈子は琴を収めて階を降り、昭王はそのまま宴を終えた。
- これより早朝から出仕し、夜遅くまで退かず、国政に励み、刑を省き租税を軽くし、士を養い武を訓練し、関所を修復し、兵を厳しくして固く守った。
- 羋勝が帰国すると、楚昭王は白公勝に封じ、城を築いて白公城と名付け、「白」を氏として本族を集めて住まわせた。
- 夫概は楚王が旧怨を思わないと聞き、宋から楚へ亡命して来た。王はその勇を知り、堂谿に封じ、堂谿氏と号させた。
- 子西は禍が唐・蔡から起こったことを思い、唐はすでに滅んだが蔡はなお残っているとして、蔡を討ってその仇を報いることを願い出た。
- 昭王は言った。「国事はまだ大まかに定まったばかり、寡人はいまだ民を労することをしたくない。」
評語
- 『春秋伝』によれば、楚昭王は十年に国を出て逃亡し、十一年に帰国したが、二十年になってようやく兵を用いて頓を滅ぼし、頓子の牂を捕らえ、二十一年には胡を滅ぼし、胡子の豹を捕らえて、かつて晋に従って楚を侵した仇を報いた。二十二年には蔡を包囲し、呉に従って郢に入った罪を問い、蔡昭侯は降伏を願い出て、その国を江水と汝水の間に遷させた。
- この間、民力を休めることほぼ十年に及んだため、いざ軍を動かせば功を上げることができ、楚国は再興し、ついに「湛盧」の吉祥、「萍実」の瑞兆に符合する結果となった。後の事を知りたければ、次回をご覧いただきたい。
原文(底本)
話說伍員屯兵於隨國之南鄙,使人致書於隨侯,書中大約言:「周之子孫,在漢川者,被楚吞噬殆盡。今天祐吳國,問罪於楚君。若出楚珍,與吳為好,漢陽之田,盡歸於君,寡君與君世為兄弟,同事周室。」隨侯看畢,集群臣計議。楚臣子期,面貌與昭王相似,言於隨侯曰:「事急矣!我偽為王而以我出獻,王乃可免也。」隨侯使太史卜其吉凶,大史獻繇曰: 平必陂,往必復。故勿棄,新勿欲。西鄰為虎,東鄰為肉。 隨侯曰:「楚故而吳新,鬼神示我矣。」乃使人辭伍員曰:「敝邑依楚為國,世有盟誓。楚君若下辱,不敢不納。然今已他徙矣,惟將軍察之!」伍員以囊瓦在鄭,疑昭王亦奔鄭,且鄭人殺太子建,仇亦未報,遂移兵伐鄭,圍其郊。時鄭賢臣游吉新卒,鄭定公大懼,歸咎囊瓦,瓦自殺。鄭伯獻瓦屍於吳軍,說明楚王實未至鄭。吳師猶不肯退,必欲滅鄭,以報太子之仇。諸大夫請背城一戰,以決存亡。鄭伯曰:「鄭之士馬孰若楚?楚且破,況於鄭乎?」乃出令於國中曰:「有能退吳軍者,寡人願與分國而治。」懸令三日。時鄂渚漁丈人之子,因避兵亦逃在鄭城之中,聞吳國用伍員為主將,乃求見鄭君,自言:「能退吳軍。」鄭定公曰:「卿退吳兵,用車徒幾何?」對曰:「臣不用一寸之兵,一斗之糧,只要與臣一橈,行歌道中,吳兵便退。」鄭伯不信,然一時無策,只得使左右以一橈授之:「果能退吳,不吝上賞。」漁丈人之子,縋城而下,直入吳軍,於營前叩橈而歌曰: 蘆中人!蘆中人!腰間寶劍七星文,不記渡江時,麥飯鮑魚羹? 軍士拘之,來見伍員。其人歌「蘆中人」如故。員下席驚問曰:「足下是何人?」舉橈而對曰:「將軍不見吾手中所操乎?吾乃鄂渚漁丈人之子也。」員惻然曰:「汝父因吾而死,正思報恩,恨無其路。今日幸得相遇,汝歌而見我,意何所須?」對曰:「別無所須也。鄭國懼將軍兵威,令於國中:『有能退吳軍者,與之分國而治。』臣念先人與將軍有倉卒之遇,今欲從將軍乞赦鄭國。」員乃仰天歎曰:「嗟乎!員得有今日,皆漁丈人所賜,上天蒼蒼,豈敢忘也!」即日下令解圍而去。漁丈人之子回報鄭伯。鄭伯大喜,乃以百里之地封之,國人稱之曰:「漁大夫」。至今溱洧之間,有丈人村,即所封地也。髯翁有詩云: 密語蘆洲隔死生,橈歌強似楚歌聲﹔三軍既散分茅土,不負當時江上情。 伍員既解鄭國之圍,還軍楚境,各路分截守把,大軍營於麋地,遣人四出招降楚屬,兼訪求昭王甚急。 卻說申包胥自郢都破後,逃避在夷陵石鼻山中,聞子胥掘墓鞭屍,復求楚王,乃遣人致書於子胥,其略曰: 子故平王之臣,北面事之,今乃僇辱其屍,雖云報仇,不已甚乎?物極必反,子宜速歸。不然,胥當踐「復楚」之約! 伍員得書,沉吟半晌,乃謂來使曰:「某因軍務倥傯,不能答書,借汝之口,為我致謝申君:忠孝不能兩全,吾日暮途遠,故倒行而逆施耳!」使者回報包胥,包胥曰:「子胥之滅楚必矣。吾不可坐而待之。」想起楚平王夫人,乃秦哀公之女,楚昭王乃秦之甥,要解楚難,除是求秦。乃晝夜西馳,足踵俱開,步步流血,裂裳而裹之。奔至雍州,來見秦哀公曰:「吳貪如封豕,毒如長蛇,久欲荐食諸侯,兵自楚始。寡君失守社稷,逃於草莽之間,特命下臣,告急於上國,乞君念甥舅之情,代為興兵解厄。」秦哀公曰:「秦僻在西陲,兵微將寡,自保不暇,安能為人?」包胥曰:「楚秦連界,楚遭兵而秦不救,吳若滅楚,次將及秦,君之存楚,亦以固秦也。若秦遂有楚國,不猶愈於吳乎?倘能撫而存之,不絕其祀,情願世世北面事秦。」秦哀公意猶未決,曰:「大夫姑就館驛安下,容孤與群臣商議。」包胥對曰:「寡君越在草莽,未得安居,下臣何敢就館自便乎?」時秦哀公沉湎於酒,不恤國事。包胥請命愈急,哀公終不肯發兵。於是,包胥不脫衣冠,立於秦庭之中,晝夜號哭,不絕其聲。如此七日七夜,水漿一勺不入其口。哀公聞之,大驚曰:「楚臣之急其君,一至是乎?楚有賢臣如此,吳猶欲滅之﹔寡人無此賢臣,吳豈能相容哉?」為之流涕,賦《無衣》之詩以旌之。詩曰: 豈曰無衣?與子同袍。王于興師,與子同仇。 包胥頓首稱謝,然後始進壺飱。秦哀公命大將子蒲子虎帥車五百乘,從包胥救楚。包胥曰:「吾君在隨望救,不啻如大旱之望雨。胥當先往一程,報知寡君。元帥從商穀而東,五日可至襄陽,折而南,即荊門。而胥以楚之餘眾,自石梁山南來,計不出二月,亦可相會。吳恃其勝,必不為備,軍士在外,日久思歸,若破其一軍,自然瓦解。」子蒲曰:「吾未知路徑,必須楚兵為導,大夫不可失期。」 包胥辭了秦帥,星夜至隨,來見昭王,言:「臣請得秦兵,已出境矣。」昭王大喜,謂隨侯曰:「卜人所言:『西鄰為虎,東鄰為肉。』秦在楚之西,而吳在其東,斯言果驗矣。」時薳延宋木等,亦收拾餘兵,從王於隨。子西子期并起隨眾,一齊進發。秦師屯於襄陽,以待楚師。包胥引子西子期等與秦帥相見。楚兵先行,秦兵在後,遇夫概之師於沂水,子蒲謂包胥曰:「子率楚師先與吳戰,吾當自後會之。」包胥便與夫概交鋒。夫概恃勇,看包胥有如無物。約鬥十餘合,未分勝敗。子蒲子虎驅兵大進。夫概望見旗號有秦字,大驚曰:「西兵何得至此?」急急收軍,已折大半。子西子期等乘勝追逐五十里方止。夫概奔回郢都,來見吳王,盛稱秦兵勢銳,不可抵當。闔閭有懼色。孫武進曰:「兵,凶器,可暫用而不可久也。且楚土地尚廣,人心未肯服吳,臣前請王立羋勝以撫楚,正虞今日之變耳。為今之計,不如遣使與秦通好,許復楚君﹔割楚之西鄙,以益吳疆,君亦不為無利也。若久戀楚宮,與之相持,楚人憤而力,吳人驕而惰,加以虎狼之秦,臣未保其萬全。」伍員知楚王必不可得,亦以武言為然。闔閭將從之。伯嚭進曰:「吾兵自離東吳,一路破竹而下,五戰拔郢,遂夷楚社。今一遇秦兵,即便班師,何前勇而後怯耶?願給臣兵一萬,必使秦兵片甲不回。如若不勝,甘當軍令!」闔閭壯其言,許之。孫武與伍員力止不可變兵,伯嚭不從。引兵出城,兩軍相遇於軍祥,排成陣勢。伯嚭望見楚軍行列不整,便教鳴鼓,馳車突入,正遇子西,大罵:「汝萬死之餘,尚望寒灰再熱耶?」子西亦罵:「背國叛夫!今日何顏相見?」伯嚭大怒,挺戟直取子西,子西亦揮戈相迎。戰不數合,子西詐敗而走。伯嚭追之,未及二里,左邊沈諸梁一軍殺來,右邊薳延一軍殺來,秦將子蒲子虎引生力軍,從中直貫吳陣。三路兵將吳兵截為三處,伯嚭左衝右突,不能得脫。卻得伍員兵到,大殺一陣,救出伯嚭。一萬軍馬,所存不上二千人。伯嚭自囚,入見吳王待罪。孫武謂伍員曰:「伯嚭為人,矜功自任,久後必為吳國之患,不如乘此兵敗,以軍令斬之。」伍員曰:「彼雖有喪師之罪,然前功不小,況敵在目前,不可斬一大將。」遂奏吳王赦其罪。秦兵直逼郢都,闔閭命夫概同公子山守城,自引大軍屯於紀南城,伍員伯嚭分屯磨城驢城,以為犄角之勢,與秦兵相持。又遣使徵兵於唐蔡。楚將子西謂子蒲曰:「吳以郢為巢穴,故堅壁相持,若唐蔡更助之,不可敵矣!不若乘間加兵於唐,唐破,則蔡人必懼而自守,吾乃得專力於吳。」子蒲然其計。於是子蒲同子期分兵一支,襲破唐城,殺唐成公,滅其國。蔡哀公懼,不敢出兵助吳。 卻說夫概自恃有破楚之首功,因沂水一敗,吳王遂使協守郢都,心中鬱鬱不樂。及聞吳王與秦相持不決,忽然心動,想道:「吳國之制,兄終弟及,我應嗣位。今王立子波為太子,我不得立矣!乘此大兵出征,國內空虛,私自歸國,稱王奪位,豈不勝於久後相爭乎?」乃引本部軍馬,偷出郢都東門,渡漢而歸。詐稱:「闔閭兵敗於秦,不知所往,我當次立。」遂自稱吳王,使其子扶臧悉眾據淮水,以遏吳王之歸路。吳世子波,與專毅聞變,登城守禦,不納夫概。夫概乃遣使由三江通越,說其進兵,夾攻吳國,事成割五城為謝。 再說闔閭聞秦兵滅唐,大驚,方欲召諸將計議戰守之事。忽公子山報到,言:「夫概不知何故,引本部兵私回吳國去了。」伍員曰:「夫概此行,其反必矣。」闔閭曰:「將若之何?」伍員曰:「夫概一勇之夫,不足為慮。所慮者,越人或聞變而動耳。王宜速歸,先靖內亂。」闔閭於是留孫武子胥退守郢都,自與伯嚭以舟師順流而下。既渡漢水,得太子波告急信,言:「夫概造反稱王,又結連越兵入寇,吳都危在旦夕。」闔閭大驚曰:「不出子胥所料也。」遂遣使往郢都,取回孫武伍員之兵。一面星夜馳歸,沿江傳諭將士:「去夫概來歸者,復其本位﹔後到者誅。」淮上之兵,皆倒戈來歸。扶臧奔回谷陽。夫概欲驅民授甲。百姓聞吳王尚在,俱走匿。夫概乃獨率本部出戰。闔閭問曰:「我以手足相託,何故反叛?」夫概對曰:「汝弒王僚,非反叛耶?」闔閭怒,教伯嚭:「為我擒賊!」戰不數合,闔閭麾大軍直進。夫概雖勇,爭奈眾寡不敵,大敗而走。扶臧具舟於江,以渡夫概,逃奔宋國去了。闔閭撫定居民,回至吳都,太子波迎接入城,打點拒越之策。 卻說孫武得吳王班師之詔,正與伍員商議,忽報:「楚軍中有人送書到。」伍員命取書看之,乃申包胥所遣也。書略云: 子君臣據郢三時,而不能定楚,天意不欲亡楚,亦可知矣。子能踐「覆楚」之言,吾亦欲酬「復楚」之志。朋友之義,相成而不相傷。子不竭吳之威,吾亦不盡秦之力。 伍員以書示孫武曰:「夫吳以數萬之眾,長驅入楚,焚其宗廟,墮其社稷,鞭死者之屍,處生者之室,自古人臣報仇,未有如此之快者。且秦兵雖敗我餘軍,於我未有大損也。《兵法》:『見可而進,知難則退。』幸楚未知吾急,可以退矣。」孫武曰:「空退為楚所笑,子何不以羋勝為請?」伍員曰:「善。」乃復書曰: 平王逐無罪之子,殺無罪之臣,某實不勝其憤,以至於此。昔齊桓公存邢立衛,秦穆公三置晉君,不貪其土,傳誦至今。某雖不才,竊聞茲義。今太子建之子勝,餬口於吳,未有寸土。楚若能歸勝,使奉故太子之祀,某敢不退避,以成吾子之志。 申包胥得書,言於子西。子西曰:「封故太子之後,正吾意也。」即遣使迎羋勝於吳。沈諸梁諫曰:「太子已廢,勝為仇人,奈何養仇以害國乎?」子西曰:「勝匹夫耳!何傷?」竟以楚王之命召之,許封大邑。楚使既發,孫武與伍員遂班師而還。凡楚之府庫寶玉,滿載以歸,又遷楚境戶口萬家,以實吳空虛之地。伍員使孫武從水路先行,自己從陸路打從歷陽山經過,欲求東皋公報之,其廬舍俱不存矣。再遣使於龍洞山問皇甫訥,亦無蹤跡。伍員嘆曰:「真高土也!」就其地再拜而去。至昭關,已無楚兵把守,員命毀其關。復過溧陽瀨水之上,乃嘆曰:「吾嘗饑困於此,向一女子乞食,女子以盎漿及飯飼我,遂投水而亡。吾曾留題石上,未知在否?」使左右發土,其石字宛然不磨。欲以千金報之,未知其家,乃命投金於瀨水中曰:「女子如有知,明吾不相負也!」行不一里,路傍一老嫗,視兵過而哭泣。軍士欲執之,問曰:「嫗何哭之悲也?」嫗曰:「吾有女守居三十年不嫁,往年浣紗於瀨,遇一窮途君子,而輒飯之,恐事洩,自投瀨水。聞所飯者,乃楚亡臣伍君也。今伍君兵勝而歸,不得其報,自傷虛死,是以悲耳。」軍士乃謂嫗曰:「吾主將正伍君也。欲報汝千金,不知其家,已投金於水中,盍往取之?」嫗遂取金而歸。至今名其水為投金瀨。髯仙有詩云: 投金瀨下水澌澌,猶憶亡臣報德時﹔三十年來無匹偶,芳名已共子胥垂。 越子允常聞孫武等兵回吳國,知武善於用兵,料難取勝,亦班師而回,曰:「越與吳敵也。」遂自稱為越王。不在話下。 闔閭論破楚之功,以孫武為首。孫武不願居官,固請還山。王使伍員留之。武私謂員曰:「子知天道乎?暑往則寒來,春還則秋至。王恃其強盛,四境無虞,驕樂必生。夫功成不退,將有後患。吾非徒自全,并欲全子。」員不謂然。武遂飄然而去。贈以金帛數車,俱沿路散於百姓之貧者。後不知其所終。史臣有讚云: 孫子之才,彰於伍員﹔法行二嬪,威振三軍。御眾如一,料敵若神﹔大伸於楚,小挫於秦。智非偏拙,謀不盡行﹔不受爵祿,知亡知存。身出道顯,身去名成﹔書十三篇,兵家所尊。 闔閭乃立伍員為相國,亦倣齊仲父楚子文之意,呼為子胥而不名。伯嚭為太宰,同預國政。更名閶門曰破楚門。復壘石於南界,留門使兵守之,以拒越人,號曰石門關。越大夫范蠡亦築城於浙江之口,以拒吳,號曰固陵,言其可固守也。(此周敬王十五年事。) 話分兩頭。再說子西與子期重入郢城,一面收葬平王骸骨,將宗廟社稷,重新草創,一面遣申包胥以舟師迎昭王於隨。昭王遂與隨君定盟,誓無侵伐。隨君親送昭王登舟,方纔回轉。昭王行至大江之中,憑欄四望,想起來日之苦,今日重渡此江,中流自在,心中甚喜。忽見水面一物,如斗之大,其色正紅,使水手打撈得之,遍問群臣,皆莫能識。乃拔佩刀砍開,內有饟似瓜,試嘗之,甘美異常。乃遍賜左右曰:「此無名之果,可識之,以俟博物之士也。」不一日,行至雲中,昭王嘆曰:「此寡人遇盜之處,不可以不識。」乃泊舟江岸,使鬥辛督人夫築一小城於雲夢之間,以便行旅投宿。今雲夢縣有地名楚王城,即其故址。子西子期等離郢都五十里,迎接昭王。君臣交相慰勞。既至郢城,見城外白骨如麻,城中宮闕,半已殘毀,不覺淒然淚下。遂入宮來見其母伯嬴,子母相向而泣。昭王曰:「國家不幸,遭此大變,至於廟社凌夷,陵墓受辱,此恨何時可雪?」伯嬴曰:「今日復位,宜先明賞罰,然後撫恤百姓,徐俟氣力完足,以圖恢復可也。」昭王再拜受教。是日不敢居寢,宿於齋宮。次日,祭告宗廟社稷,省視墳墓,然後升殿,百官稱賀。昭王曰:「寡人任用匪人,幾至亡國,若非卿等,焉能重見天日。失國者,寡人之罪﹔復國者,卿等之功也。」諸大夫皆稽首謝不敢。昭王先宴勞秦將,厚犒其師,遣之歸國。然後論功行賞,拜子西為令尹,子期為左尹。以申包胥乞師功大,欲拜為右尹。申包胥曰:「臣之乞師於秦,為君也,非為身也。君既返國,臣志遂矣,敢因以為利乎?」固辭不受。昭王強之,包胥乃挈其妻子而逃。妻曰:「子勞形疲神,以乞秦師,而定楚國,賞其分也。又何逃乎?」包胥曰:「吾始為朋友之義,不洩子胥之謀,使子胥破楚,吾之罪也。以罪而冒功,吾實恥之!」遂逃入深山,終身不出。昭王使人求之不得,乃旌表其閭曰:「忠臣之門」。以王孫繇于為右尹,曰:「雲中代寡人受戈,不敢忘也。」其他沈諸梁、鍾建、宋木、鬥辛、鬥巢、薳延等,俱進爵加邑。亦召鬥懷欲賞。子西曰:「鬥懷欲行弒逆之事,罪之為當,況可賞乎?」昭王曰:「彼欲為父報仇,乃孝子也。能為孝子,何難為忠臣?」亦使為大夫。藍尹亹求見昭王,王思成臼不肯同載之恨,將執而誅之,使人謂曰:「爾棄寡人於道路,今敢復來,何也?」藍尹亹對曰:「囊瓦惟棄德樹怨,是以敗於柏舉。王奈何效之?夫成臼之舟,孰若郢都之宮之安?臣之棄王於成臼,以儆王也!今日之來,欲觀大王之悔悟與否?王不省失國之非,而記臣不載之罪,臣死不足惜,所惜者楚宗社耳。」子西奏曰:「亹之言直,王宜赦之,以無忘前敗。」昭王乃許亹入見,使復為大夫如故。群臣見昭王度量寬洪,莫不大悅。昭王夫人自以失身闔閭,羞見其夫,自縊而死。時越方與吳搆難,聞楚王復國,遣使來賀,因進其宗女於王,王立為繼室。越姬甚有賢德,為王所敬禮。王念季羋相從患難,欲擇良婿嫁之。季羋曰:「女子之義,不近男人。鍾建常負我矣,是即我夫也。敢他適乎?」昭王乃以季羋嫁鍾建,使建為司樂大夫。又思故相孫叔敖之靈,使人立祠於雲中祭之。子西以郢都殘破,且吳人久居,熟其路徑,復擇鄀地築城建宮,立宗廟社稷,遷都居之,名曰新郢。昭王置酒新宮,與群臣大會,飲酒方酣,樂師扈子恐昭王安今之樂,忘昔之苦,復蹈平王故轍,乃抱琴於王前奏曰:「臣有《窮衄》之曲,願為大王鼓之。」昭王曰:「寡人願聞。」扈子援琴而鼓,聲甚淒怨。其詞曰: 王耶王耶何乖劣?不顧宗廟聽讒孽!任用無忌多所殺,誅夷忠孝大綱絕。二子東奔適吳越,吳王哀痛助忉怛﹔垂涕舉兵將西伐,子胥、伯嚭、孫武決。五戰破郢王奔發,留兵縱騎虜荊闕﹔先王骸骨遭發掘,鞭辱腐屍恥難雪!幾危宗廟社稷滅,君王逃死多跋涉﹔卿士悽愴民泣血,吳軍雖去怖不歇。願王更事撫忠節,勿為讒口能謗褻! 昭王深知琴曲之情,垂涕不已。扈子收琴下階,昭王遂罷宴。自此早朝晏罷,勤於國政,省刑薄斂,養士訓武,修復關隘,嚴兵固守。羋勝既歸,楚昭王封為白公勝,築城名白公城,遂以白為氏,聚其本族而居。夫概聞楚王不念舊怨,自宋來奔。王知其勇,封之堂谿,號為堂谿氏。子西以禍起唐蔡,唐已滅而蔡尚存,乃請伐蔡報仇。昭王曰:「國事粗定,寡人尚未敢勞民也。」按《春秋傳》楚昭王十年出奔,十一年返國,直至二十年,方纔用兵滅頓,擄頓子牂,二十一年滅胡,擄胡子豹,報其從晉侵楚之仇,二十二年圍蔡,問其從吳入郢之罪,蔡昭侯請降,遷其國於江汝之間。中間休息民力近十年,所以師輒有功,楚國復興,終符「湛盧」之祥,「萍實」之瑞也。要知後事,且看下回分解。
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