東周列國志第七十八回 夾谷に会して孔子が斉を退ける/三都を堕して聞人が法に伏す (會夾谷孔子却齊 墮三都聞人伏法)

魯国の内紛と三桓の家臣専横

  • さて斉景公は、晋が楚を討伐できずにいるのを見て、諸侯の心が離散していく中、晋に代わって盟主として興ろうとする謀をいよいよ急ぎ、衛・鄭と結んで自ら盟主を称した。
  • 魯の昭公は以前、季孫意如に追放されており、景公は昭公を魯に復帰させようと図ったが、意如が頑として応じなかった。
  • 昭公は改めて晋に助けを求めたが、晋の荀躒は意如の賄賂を受け取り、結局復帰させなかった。
  • 昭公は他国で客死した。
  • 意如はそこで太子衍とその同母弟の務人を廃し、庶子の宋を君に擁立した。これが定公である。
  • 季氏が荀躒に賄賂を贈って通じていたため、魯は以後、晋に仕えて斉には仕えなくなった。
  • 斉侯は大いに怒り、代々仕える世族の臣、国夏を将として、たびたび魯の国境を侵したが、魯はこれに報復できなかった。
  • 間もなく季孫意如が没し、その子の斯が継いだ。これが季康子である。
  • そもそも季・孟・叔の三家は、昭公が国にいた頃からすでに魯国を三分し、それぞれ自らの家臣を用いて政を行っており、魯君にはもはや直属の臣下がいなかった。
  • そのため家臣たちがさらに三大夫の権を盗み取り、次々に勝手放題に振る舞い、その主をさえ凌ぐようになっていった。
  • 今、季孫斯・孟孫無忌・叔孫州仇の三家は鼎立していたが、邑の長官がそれぞれ自分の城を自分のものとして扱い、三家の号令すら行き渡らない有様で、どうしようもなかった。
  • 季氏の宗邑を費といい、その長官は公山不狃。孟氏の宗邑を成といい、その長官は公斂陽。叔氏の宗邑を郈といい、その長官は公若藐。
  • この三つの城壁は、いずれも三家がそれぞれ自ら増築したもので、極めて堅固なつくりで、曲阜の都城と変わらぬほどであった。
  • その三人の邑宰の中でも、公山不狃は特に強横であった。
  • さらに家臣の一人に、姓を陽、名を虎、字を貨という者がいた。肩が張り額が広く、身の丈は九尺余り、勇力人に優れ、智謀も百出する男であった。季斯は初め彼を腹心として家宰に任じたが、後に次第に季氏の家政を専断するようになり、勝手気ままに振る舞った。季氏はかえって彼に制せられ、どうしようもなかった。
  • 季氏は内では陪臣に制せられ、外では斉国の侵略を受け、まったく手の打ちようがなかった。
  • そのとき、少正卯という者がいた。博識で記憶力に優れ、弁舌巧みで能弁であり、国中で「名士(聞人)」と呼ばれ、三家からも重んじられていた。
  • 卯は表と裏で言うことが違い、その説を陰陽自在に操った。三家に対しては彼らが君を補佐し国を正した功を称賛し、陽虎らに対してはまた公室を強め臣下の家を抑えるという説を偽り立てて、彼に魯侯を手中に擁してその権威で三家に号令するよう仕向けた。上と下との間を水と火のようにいがみ合わせつつ、人々はみな彼の弁の巧みさを喜び、その奸計に気づく者はいなかった。
  • 中でも孟孫無忌は、仲孫玃の子で、仲孫蔑の孫であった。玃が在位の頃、魯国の孔仲尼の名声を慕い、その子を彼のもとに送って礼を学ばせていた。

孔子誕生の伝説と、用いられぬ日々

  • その孔仲尼、名を丘という。その父、叔梁紇はかつて鄒邑の大夫を務めた人物で、すなわち偪陽の吊り上げ式の城門を手で支えたあの勇士である。
  • 紇は魯の施氏に娶ったが、娘ばかりで男子がなかった。妾が一子、孟皮を生んだが、足が悪く廃人となってしまった。
  • そこで顔氏に婚を求めた。顔氏には五人の娘があり、いずれも未婚であったが、紇の年齢が高いことを疑い、娘たちに「誰が鄒の大夫に嫁ぐ気があるか」と尋ねた。娘たちは誰も答えなかった。
  • 最も幼い娘、徴在が進み出て答えた。「女子の道理は、家にあっては父に従うもの。ただ父の命に従うだけです、何を問うことがありましょうか。」
  • 顔氏はその言葉を珍しく思い、すぐに徴在を婚約させた。
  • 紇のもとに嫁いだ後、夫婦は子がないことを憂い、共に尼山の谷に祈った。
  • 徴在が山に登るとき、草木の葉はすべて上に立ち、祈り終えて下山するときには、草木の葉はすべて下に垂れた。
  • その夜、徴在は黒帝に召される夢を見た。黒帝はこう告げた。「そなたには聖なる子を授ける。もし産むならば、必ず『空桑』の中で産むように。」目覚めると身ごもっていた。
  • ある日、恍惚として夢のような中、五人の老人が庭に並んでいるのを見た。彼らは自ら「五星の精」と名乗り、小牛のようで一角を持つ獣を従えていた。その獣には龍の鱗のような文様があり、徴在に向かって伏せた。
  • その口から玉の尺(ものさし)を吐き出し、そこには「水の精の子、衰えた周を継いで無冠の王となる」という文字が記されていた。
  • 徴在は心中でその異様さを悟り、繍の紱(ひも)をその角に結んでやると、獣は立ち去った。
  • 叔梁紇にこのことを告げると、紇は「この獣は必ず麒麟であろう」と言った。
  • 出産の時期になると、徴在は「地に『空桑』という名の場所はあるか」と尋ねた。
  • 叔梁紇は「南山にうつろの洞穴がある。その洞穴には石門があるが水はなく、俗に空桑とも呼ばれている」と答えた。
  • 徴在は「私はそこで産みたい」と言った。紇がその理由を尋ねると、徴在は先の夢のことを語って聞かせた。そして寝具を携えてその洞穴に向かった。
  • その夜、二匹の蒼龍が天から降りて、山の左右を守り、また二人の神女が空中で香露を捧げ、徴在を洗い清め、しばらくして去って行った。
  • 徴在はこうして孔子を出産した。石門の中から突然清らかな泉が湧き出し、自然に温かく、産湯を使い終わると泉はすぐに涸れた。
  • 今の曲阜県の南二十八里に、俗に女陵山と呼ばれる場所があるが、これが空桑である。
  • 孔子は生まれつき異相があり、牛のような唇、虎のような手のひら、肩は張り背骨は亀のようで、口は大きく喉は太く、頭頂部は反り返った屋根のような形をしていた。
  • 父の紇は「この子は尼山の霊を受けている」と言い、そこで名を丘、字を仲尼とした。
  • 仲尼が生まれてまもなく紇は亡くなり、徴在の手で育てられた。
  • 成長すると、身の丈は九尺六寸に及び、人々は「長人」と呼んだ。聖なる徳があり、学問を好んで倦むことがなかった。
  • 列国を巡り歩き、弟子は天下に満ち、国君たちはみなその名声を敬い慕ったが、権貴の当路者に忌まれ、ついに彼を用いることのできる者はいなかった。

孔子、季斯に用いられ中都宰となる

  • このとき、ちょうど孔子は魯国にいた。無忌は季斯に言った。「内外の変事を鎮めるには、孔子を用いるほかありません。」
  • 季斯は孔子を召し、一日中語り合ったが、まるで大海の中にいるかのようで、その底が見えなかった。
  • 季斯が中座して着替えていると、費邑の人が来て報告した。「井戸を掘っていたところ土器が出てきて、中に羊が一匹入っていました。何であるか分かりません。」
  • 斯は孔子の学識を試そうと思い、口外しないよう命じ、座に戻ると孔子に尋ねた。「誰かが土中に井戸を掘っていたところ犬を得たそうだが、これは何であろうか。」
  • 孔子は言った。「私の考えでは、これは必ず羊であって犬ではありません。」
  • 斯は驚いてその理由を尋ねた。
  • 孔子は言った。「私が聞くところによれば、山の怪は夔魍魎といい、水の怪は龍罔象といい、土の怪は羵羊といいます。今、井戸掘りで得たとのこと、それは土中のことですから、羊であることは間違いありません。」
  • 斯は「なぜそれを羵羊というのか」と尋ねた。
  • 孔子は「雌でも雄でもなく、ただその形があるだけです」と答えた。
  • 斯は費の人を呼んで尋ねると、果たして雌雄の判別がつかない獣であった。斯は大いに驚いて言った。「仲尼の学識は、実に及びがたい!」そして彼を中都宰に登用した。
  • この一件は楚にも伝わり、楚昭王は孔子に贈り物を届け、渡江の折に得た物について尋ねた。
  • 孔子は使者に答えて言った。「それは萍実という名のもので、割いて食べられます。」
  • 使者が「先生はどうしてそれをご存じなのですか」と尋ねると、孔子は答えた。「私はかつて楚に渡し場を尋ねた際、子供たちの歌謡を聞きました。『楚王が渡江して萍実を得た、斗ほどの大きさで日のように赤く、割いて食べれば蜜のように甘い』と。それゆえに知っているのです。」
  • 使者は「常に得られるものでしょうか」と尋ねた。
  • 孔子は言った。「萍というものは、水面を漂う根のない植物ですが、それが実を結ぶことは、千百年に一度あるかないかのことです。これは散じてはまた集まり、衰えてはまた興る兆しであり、楚王のためにお祝い申し上げるべきものです。」
  • 使者は帰って昭王に報告し、昭王は感嘆してやまなかった。
  • 孔子は中都で大いによく治め、四方の人々がみなその政教を見に来て、これを規範とした。
  • 魯定公はその賢明さを知り、司空に任じた。

陽虎の挙兵と季斯の脱出、陽越の死

  • 周敬王十九年、陽虎は魯を乱してその政を専断しようと企んでいた。叔孫輒が叔孫氏に寵愛されておらず、費邑宰の公山不狃と親しいことを知り、この二人と相談した。
  • 計略として、まず季孫を殺し、それから仲叔(孟孫・叔孫)をも除き、公山不狃を斯の位に、叔孫輒を州仇の位に代え、自らは孟孫無忌の位に代わろうと企てた。
  • 陽虎は孔子の賢明さを慕い、その門下に招き入れて自らの助けにしようとした。人を遣わして遠回しに来訪を促したが、孔子は従わなかった。
  • そこで蒸し豚を贈ったところ、孔子は言った。「虎は私が礼を返しに行くのを誘い、私に会おうとしているのだ。」弟子に虎の外出を見計らわせ、名刺を門に投げ入れさせて帰った。虎はついに屈服させることができなかった。
  • 孔子はひそかに無忌に言った。「虎は必ず乱を起こす。乱は必ず季氏から始まる。あなたはあらかじめ備えておくべきだ、そうすれば免れられよう。」
  • 無忌は南門の外に室を建てるふりをして、柵を立てて材木を集め、牧人や馬丁の中から屈強な者三百人を選んで雇い人とし、名目上は工事とするが、実際には乱に備えたのであった。
  • また成の長官、公斂陽に語り、甲冑を修繕して命令を待たせ、もし報せが届いたら夜通し駆けつけて援護するよう約束させた。
  • その年の秋八月、魯は禘祭を行うこととなった。虎は禘祭の翌日、季孫を薄圃に招くことを求めた。
  • 無忌はこれを聞いて言った。「虎が季孫を招くとは、疑わしい話だ。」そこで人を馳せて公斂陽に告げ、当日の正午、武装兵を率いて東門から南門へと通り、様子を見るよう約束させた。
  • 招宴の当日、陽虎は自ら季氏の門に至り、季斯に車に乗るよう促した。
  • 陽虎が前で先導し、虎の従弟の陽越が後ろに付き、左右はみな陽氏の一党であった。ただ御者の林楚だけは、代々季氏の門下に仕える客であった。
  • 季斯は内心で異変を疑い、ひそかに林楚に言った。「そなたは私の車を孟氏の方へ向けることができるか。」林楚はうなずいて意を悟った。
  • 大通りに差しかかったところで、林楚は突然手綱を南へ引き、鞭で連続して馬を打った。馬は怒って走り出した。
  • 陽越はこれを見て「手綱を引け!」と大声で叫んだが、林楚は応じず、さらに鞭を加え、馬はますます速く走った。
  • 陽越は怒り、弓を引いて楚を射たが、当たらず、自らも馬に鞭打った。焦って鞭を落とし、それを拾っているうちに、季氏の車はすでに遠くへ行ってしまっていた。
  • 季斯は南門を出て、まっすぐ孟氏の邸宅に入り、柵の門を閉じさせ、「孟孫、私を救ってくれ!」と叫んだ。
  • 無忌は三百人の壮士に、弓矢を携えて柵の門で待ち構えさせた。
  • しばらくすると陽越が到着し、その一党を率いて柵を攻めた。三百人は柵の内から矢を発し、当たった者は次々と倒れ、陽越も身に数本の矢を受けて死んだ。

陽虎の敗走と亡命

  • さて陽貨(陽虎)は東門まで来て、季孫の姿が見えないのに気づき、車を戻して元の道を辿り、大通りに至って道行く人に「相国の車を見なかったか」と尋ねた。
  • 道行く人は「馬が驚いて、もう南門を出て行きました」と答えた。
  • 言い終わらぬうちに、陽越の敗残兵が到着し、越がすでに射殺されたこと、季孫がすでに孟氏の新しい邸宅に逃げ込んだことを知った。
  • 虎は大いに怒り、その一党を駆って急いで君主の宮殿に向かい、定公を劫かして朝廷から連れ出した。途中で叔孫州仇に出会い、これも同時に拉致した。
  • 君主の宮殿の武装兵すべてと叔孫氏の家兵を挙げ、共に孟氏を南門で攻めた。
  • 無忌は三百人でこれに力の限り抵抗した。
  • 陽虎は火で柵を焼くよう命じ、季斯は大いに恐れた。
  • 無忌は人に日を見させ、ちょうど中天に懸かっていると確かめて言った。「成の兵がもうすぐ着く。心配には及ばぬ。」
  • 言い終わらぬうちに、東の角から猛将が一人、兵を率いて怒号しながらやって来て、「我が主を犯すな!公斂陽ここにあり!」と大声で叫んだ。
  • 陽虎は大いに怒り、長戈を奮って公斂陽を迎え撃った。二人の将はそれぞれの武技を尽くし、五十余合戦ったが、陽虎はますます勢いを増し、公斂陽は次第に力が尽きてきた。
  • 叔孫州仇は急に後ろから「虎は敗れたぞ!」と叫び、すぐに自らの家兵を率いて定公を擁して西へ逃げ、君主の兵もこれに従った。
  • 無忌は壮士を率いて柵を開いて討って出た。季氏の家臣、苫越も武装兵を率いて駆けつけた。
  • 陽虎は孤立無援となり、矛を捨てて逃げ、讙と陽関の二邑に拠って立て籠もった。
  • 三家は兵を合わせてこの関を攻めた。虎は力尽き、萊門に火を放って焼かせた。魯軍は火を避けて退いた。虎は火を冒して脱出し、そのまま斉国に逃げた。
  • 景公に謁見し、占拠していた讙と陽関の田を献上し、兵を借りて魯を討とうとした。
  • 大夫の鮑国は進み出て言った。「魯は今、孔子を用いており、勝てません。むしろ陽虎を捕らえてその田を返し、孔子に取り入るのが得策です。」景公はこれに従い、虎を西方の辺境に幽閉した。
  • 虎は守衛の者を酒に酔わせ、荷車に乗って逃げ、宋国へ亡命した。宋は虎を匡に住まわせた。
  • 虎は匡人を虐待したため、匡人は彼を殺そうとした。虎はまた晋国に亡命し、趙鞅に仕えて臣となった。これ以上は述べない。
  • 宋の儒者はこう論じた。陽虎が陪臣の身でありながら主家を賊しようと謀ったのは、まことに大逆であるが、季氏が自らの君を放逐し、魯の政を専断するのを、家臣たちが傍らからうかがい見てきたのは、すでに一日二日のことではない。今日、家臣がその真似をするのは、天理による報いの当然の道理であり、驚くには当たらない、と。
  • 詩がある。(詩:あの時季氏が孤立した君主を凌いだのに、今日家臣がその主君に叛く、自ら仕出かした忠奸の報いは自らに返る、前の車の音が響けば後の車もそれに倣うという趣旨)
  • さらにこう言う者もあった。魯は恵公の代からすでに天子の礼楽を身分を越えて用いており、その後の三桓の家も八佾の舞を舞い雍の詩で徹(撤饌)を行い、大夫が諸侯を無視し、それゆえ家臣もまた大夫を無視するようになった。逆理はこうして代々受け継がれてきたのであり、その由来は遠い、と。
  • 詩がある。(詩:九成の干戚の舞が入り乱れる中、誰が僭越の端緒を開いたのか問おう、国に叛逆を無くそうとするなら、改めて礼楽を『周官』に問うべきだという趣旨)

夾谷の会と孔子の外交手腕

  • さて斉景公は陽虎を失った上、魯人が叛臣を受け入れたと非難することを恐れ、人を遣わして魯定公に書を送り、陽虎が宋に逃れた事情を説明し、斉魯の国境にある夾谷山の前で乗車の会(兵車を伴わぬ平和の会見)を開くことを約束し、両国の誼を通じて永く干戈を収めることを求めた。
  • 定公は書を受け取ると、すぐに三家を召して相談した。
  • 仲孫無忌は言った。「斉人には詐りが多い。主公は軽々しく行くべきではありません。」
  • 季孫斯は言った。「斉はたびたび我が国に兵を加えてきましたが、今、誼を修めようというのに、どうして拒めましょうか。」
  • 定公は言った。「寡人が行くとして、誰が護衛するのか。」
  • 無忌は言った。「我が師、孔先生でなければなりません。」
  • 定公はすぐに孔子を召し、儀礼の介添え役を任せた。
  • 乗車の準備が整い、定公が出発しようとすると、孔子は奏上した。「臣が聞くところによれば『文事あれば必ず武備あり』と申します。文と武の事は切り離せません。古来、諸侯が国境を出るときには、必ず官を備えて従わせるものです。宋襄公の盂の会での出来事は戒めとすべきです。左右司馬を備えて、不測の事態に備えてください。」
  • 定公はこれに従い、大夫の申句須を右司馬、楽頎を左司馬とし、それぞれ兵車五百乗を率いさせ、遠く離れて随行させた。
  • さらに大夫の茲無還に兵車三百乗を率いさせ、会場から十里の地点に陣を張らせた。
  • 夾谷に着くと、斉景公はすでに到着しており、壇を設けて土の階段を三段に築いていた。作りは簡素であった。
  • 斉侯は壇の右に幕を張り、魯侯は壇の左に幕を張った。
  • 孔子は斉国の兵の護衛が非常に厚いことを聞き、申句須と楽頎に緊密に付き従わせた。
  • そのとき、斉の大夫、黎彌は謀略に長けたことで知られ、梁邱据が死んで以来、景公に特に寵信されていた。
  • その夜、黎彌は幕を叩いて謁見を求めた。景公が招き入れ、「卿には何用があって、こんな夜更けに来たのか」と尋ねた。
  • 黎彌は奏上した。「斉魯が仇敵となって久しくなります。ただ孔某が賢く聖なる人物として魯で用いられていることが、いつか斉に害を及ぼすことを恐れて、今日の会があるのです。臣が孔某の人となりを見るに、礼を知っているが勇がなく、戦のことには不慣れです。明日、主公が儀礼の会を終えられた後、四方の楽を奏するよう仰せ出して魯君を楽しませ、萊夷三百人に偽って楽師の格好をさせ、太鼓を鳴らして進み、機を見て魯侯を捕らえ、あわせて孔某も捕らえましょう。臣は兵車を手配し、壇の下から魯侯の随行の一団を斬り散らして潰走させます。さすれば、魯国君臣の命は我らの手中に握られます。主公がどのように処分されるかはお任せいたしますが、兵を用いて侵伐するよりも優れているとは思いませんか。」
  • 景公は言った。「この件の可否は、相国(晏嬰)と相談せねばならぬ。」
  • 黎彌は言った。「相国は日頃から孔某と親交があります。もし彼に知られれば、この事は必ず失敗に終わるでしょう。臣が一人で引き受けます!」
  • 景公は言った。「寡人は卿の言を聞き入れよう。卿は慎重にな!」黎彌は自ら去り、ひそかに萊の兵と事を取り決めに向かった。
  • 翌朝、両君は壇の下に集まり、譲り合いながら壇に登った。斉は晏嬰が相を、魯は孔子が相を務めた。両相は一礼した後、それぞれ主に従い、壇に登って交拝した。
  • 太公と周公の旧誼を述べ、玉と絹を贈答する礼を交わし終えると、景公は言った。「寡人には四方の楽がある。ぜひ君と共に見物したい。」
  • そこで命令を伝え、まず萊人に前に出て自国の楽を奏させた。壇の下で太鼓の音が大いに轟き、萊夷三百人が旌旄・羽袚・矛戟・剣楯を入り乱れて手に持ち、蜂の群れのように押し寄せ、口々に叫び声を上げてやまなかった。
  • 萊夷が階段を半ばまで登ったところで、定公の顔色が変わった。
  • 孔子は少しも恐れる様子がなく、景公の前に進み出て袖を挙げて言った。「我ら両国の君は好誼のために会しております。本来、中原の礼を行うべきところ、なぜ夷狄の楽を用いるのでしょうか。担当の役人に命じてこれを退けさせてください。」
  • 晏子は黎彌の計略を知らなかったため、景公に「孔某の言うことは、実に正しい礼です」と奏上した。
  • 景公は大いに恥じ入り、急いで萊夷を退かせた。
  • 黎彌は壇の下に潜んでおり、萊夷が動くのをひたすら待って、一斉に事を起こすつもりでいたが、斉侯から退けの指示が下されたのを見て、内心大いに憤慨した。そこで本国の芸人を呼び、こう命じた。「宴席の中頃にお前たちを召して楽を奏させる。『敝笱』の詩を歌い、気ままに戯れよ。もし魯の君臣が笑うか怒るかすれば、ここに重賞を用意する。」
  • そもそもその詩は文姜の淫乱にまつわる故事であり、これによって魯国を辱めようとしたのである。
  • 黎彌は階を登り、斉侯に奏上した。「宮中の楽を奏させ、両君の長寿を祝わせてはいかがでしょうか。」
  • 景公は「宮中の楽は夷の楽ではない、すぐに奏でさせよ」と言った。
  • 黎彌は斉侯の命を伝え、俳優や侏儒二十余人が、異様な衣装を纏い顔を塗り、女装した男や男装した女に分かれて二隊を組み、魯侯の前に進み出て、跳ねたり踊ったりし、口では淫らな詞を一斉に歌い、笑いながら演じた。
  • 孔子は剣に手を掛け目を怒らせ、景公を見据えて奏上した。「匹夫が諸侯を戯弄する罪は死に値します。斉の司馬に命じて法を行わせてください!」
  • 景公は何も答えなかった。俳優たちの戯れは相変わらず続いた。
  • 孔子は言った。「両国はすでに誼を通じ、兄弟のようなものです。魯国の司馬は、すなわち斉の司馬でもあります。」そして袖を下に振って、大声で叫んだ。「申句須、楽頎はどこにいる!」
  • 二将が壇上に馳せ上がり、男女二隊の中からそれぞれ一人ずつ隊長格を捕らえ、その場で首を斬った。残りの者は驚いて逃げ散った。
  • 景公は心中大いに驚いた。魯定公はすぐに席を立った。
  • 黎彌は最初、壇下で魯侯を待ち伏せて捕らえようと考えていたが、まず孔子がこのような手腕を見せ、次に申・楽の二将が英雄的な働きをするのを見て、さらに十里の外にすでに魯軍が布陣していることを探り知り、首をすくめて退いた。
  • 会が終わり、景公は幕舎に帰り、黎彌を召して責めて言った。「孔某はその君を助け、行うことすべて古人の道に則っている。それなのにお前はあえて寡人を夷狄の風俗に陥れようとした。寡人はもともと友好を修めるつもりだったのに、今、かえって仇となってしまった。」
  • 黎彌は恐れ入って謝罪し、あえて一言も答えなかった。
  • 晏子が進み出て言った。「臣が聞くところによれば『小人はその過ちを知ると美辞麗句で言い訳し、君子はその過ちを知ると誠実さで詫びる』と申します。今、魯には汶陽の田が三か所あります。その一つは讙といい、陽虎が不義に献じたもの。その二つは鄆といい、かつて亡命中の魯昭公を住まわせるために取り上げたもの。その三つは龜陰といい、先君頃公の代に晋の力を借りて魯から取り立てたものです。この三か所はいずれも魯の旧領であり、先君桓公の代、曹沫が壇に登って盟を劫かし、この田だけの返還を求めましたが、田は魯に返らず、魯の遺恨は解けませんでした。主公はこの機に乗じて三田をもって過ちを謝せば、魯の君臣は必ず喜び、斉魯の誼は固まりましょう。」
  • 景公は大いに喜び、すぐに晏子に命じて三田を魯へ届けさせた。(これは周敬王二十四年のことである。)
  • 史臣に詩がある。(詩:萊の武具が壇前で騒ぎ立ったが、片言によってそれも収まった、礼を知る者はかえって勇があるもので、三つの田を献じて両君の和が買われたという趣旨)
  • また、斉景公が虚心に過ちを謝することができたこと、だからこそ賢君であり、覇者の地位を回復しかけたのだということを、ひとえに称える詩がある。(詩:壇上の計を誤って黎彌の言に耳を貸したが、臣が諫めれば君はそれに従い、両者が得をした、三田を惜しまずに謝罪を示し、その名は千古にわたり華夷に伝わったという趣旨)

汶陽の田の返還と孔子の大司寇昇進

  • この汶陽の田は、もともと昔、魯僖公が季友に賜ったものであり、今日名目上は魯に返ったとはいえ、実際には季氏のものとなった。
  • これによって季斯は孔子に感謝し、龜陰に城を築いて謝城と名付け、孔子の功を旌表した。定公に進言して、孔子を大司寇の職に昇進させた。

商羊の怪異と孔子の博識

  • そのとき、斉の南の国境に、突然一羽の大鳥が現れた。長さおよそ三尺、身体は黒く首は白く、くちばしは長く、片足で立って両翼を鼓って田畑の間で舞った。田夫が追っても捕らえられず、飛び上がって北へ向かって去っていった。
  • 季斯はこの怪異を聞き、孔子に尋ねた。
  • 孔子は言った。「この鳥は『商羊』という名で、北海のほとりに生まれるものです。天が大雨を降らせようとするとき、商羊は舞い出るのです。その現れた地には、必ず長雨による災いが起こります。斉と魯は境を接していますので、あらかじめ備えておくべきです。」
  • 季斯はあらかじめ汶水沿いの住民に堤防を修繕し屋根を補強させた。三日と経たぬうちに、果たして大雨が降り、汶水は氾濫したが、魯の民は備えができていたため被害を免れた。
  • この一件は斉国にも伝わり、景公はますます孔子を神のごとく思うようになった。これより孔子の博学の名声は天下に広まり、人々はみな彼を「聖人」と呼んだ。
  • 証として詩がある。(詩:五典三墳をつぶさに究めても、誰が萍実を識別し商羊を見分けたことがあろうか、多能にして聖なる資質は天が限りなく授けた賜物、その名声は四海に響き渡ったという趣旨)

三都を墮す計画と郈邑の反乱

  • 季斯は孔子の門下に人材を求め、孔子は仲由と冉求を推挙して政に用いるよう勧め、季氏はいずれも家臣として登用した。
  • ある日、季斯は孔子に尋ねた。「陽虎は去りましたが、不狃(公山不狃)はなお勢力を増しています。どうすればこれを制せられましょうか。」
  • 孔子は言った。「これを制するには、まず礼制を明らかにせねばなりません。古来、臣下は武具を私蔵せず、大夫は百雉の城を持たないものでした。それゆえ邑の長官も乱を起こす拠り所を持てなかったのです。なぜ城を壊し、武備を撤去しないのですか。上下が相和せば、末長く安泰でいられます。」
  • 季斯はこれをもっともとし、孟・叔の二氏にも伝えた。
  • 孟孫無忌は言った。「もし国家のためになるのなら、私事を惜しみましょうか。」
  • そのとき、少正卯は孔子の師弟が権勢を得るのを妬み、その功を打ち破ろうと、叔孫輒にひそかに公山不狃へ密書を送らせた。
  • 不狃は城に籠もって叛くつもりでいたが、孔子が魯の人々から敬われていることを知り、自らも助力を借りようと、厚く礼物を贈って書を送った。その大意は次のようなものであった。「魯は三桓が政を専断して以来、君は弱く臣は強く、人心は積もり積もった怒りに満ちております。不狃は季氏の家宰でありながら、実は公の道義を慕っております。願わくば費を公に帰し公臣とし、公を助けて強暴を除き、魯国が再び周公の昔日を取り戻すようにしたく存じます。先生がもしお許しくださるなら、費までお越しいただき、直接ことを決めたく存じます。粗末ではございますが道中の労を犒う品をお受け取りください。」
  • 孔子は定公に言った。「不狃がもし叛くならば、兵を労することを免れません。臣は身を軽んじて自ら赴き、彼が心を改めるよう説き伏せたいと存じます。いかがでしょうか。」
  • 定公は言った。「国家は多事な折、すべて先生に頼っている。どうして寡人の側から離れることができようか。」
  • 孔子はそこで書と礼物を辞退した。
  • 不狃は孔子が来ないと見て、成の長官、公斂陽、郈の長官、公若藐を誘い、同時に叛乱を起こそうとした。陽と藐はいずれも従わなかった。
  • 一方、郈邑の馬正、侯犯は勇力に優れ弓術に長け、郈の人々に畏服されており、かねてより主家に臣従せぬ謀反の志を抱いていた。そこで馬丁に藐を刺し殺させ、自ら郈の長官の座につき、郈の民衆を動員して城に登らせ、主家である叔孫氏の命令を拒んで籠城する構えを取った。

  • 州仇は郈が叛いたと聞き、無忌に告げに行った。無忌は言った。「私も一臂の力を貸そう。共にこの叛徒を滅ぼそう。」

  • こうして孟・叔の二家は兵を連ねて討伐に向かい、郈城を包囲した。
  • 侯犯は全力で防戦し、攻める側に多くの死者が出て、なかなか勝てなかった。
  • 無忌は州仇に斉から援軍を求めさせた。
  • そのとき、叔氏の家臣、駟赤は郈城の中にいて、偽って侯犯に従うふりをしており、侯犯からも親しく信頼されていた。
  • 赤は犯に言った。「叔氏はすでに斉に援軍を求める使者を出しました。斉と魯が兵を合わせれば、当たることはできません。どうして郈をもって斉に降参しないのですか。斉は表向きは魯と親しくしていますが、内心では恐れています。郈を得られれば魯に迫れることになり、斉は必ず大喜びし、郈の倍にあたる土地をもってあなたに報いるでしょう。要するに、土地を得た上で、危険を去って安全に就くことになるのです。何の不利があるでしょうか。」
  • 侯犯は「その計はまことに良い!」と言い、すぐに人を遣わして斉に降伏を申し出、郈邑を献じた。
  • 斉景公は晏嬰を召して尋ねた。「叔孫氏は郈討伐の兵を求めており、侯犯はまた郈を斉に献じようとしている。寡人はどちらに従うべきか。」
  • 晏子は答えた。「今まさに魯と修好しようとしているのに、どうして叛臣の献上を受けられましょうか。叔孫氏を助けるのが妥当かと存じます。」
  • 景公は笑って言った。「郈は叔孫氏の私邑であり、魯侯には関わりがない。しかも叔孫氏の君臣が互いに争っているのは、魯にとっては不幸だが、斉にとっては幸いである。寡人にはここに計略がある。両方の使者に許諾を与え、双方を欺くとしよう。」そこで司馬の穰苴に兵を率いて国境に駐屯させ、様子を伺わせた。もし侯犯が叔孫を防ぎきれるなら、さらに兵を分けて郈に拠らせ、侯犯を斉国へ迎え取る。もし叔孫が侯犯に勝てば、郈城攻めを助けると言い、その場の状況に応じて臨機に処置させる、というのである。これが斉景公の奸雄たるゆえんであった。

  • さて駟赤は侯犯が使者を斉に送ったのを見て、また犯に言った。「斉は最近魯侯と会盟したばかりです。魯を助けるか郈を助けるかはまだ定まっていません。門に武具を多く配備しておくべきです。万一の事変に備えられます。」

  • 侯犯は一介の勇夫であり、この好都合な言葉を信じ、精鋭の武具を選んで門の下に留めておいた。
  • 駟赤は矢文を城外へ射込んだ。魯の兵がそれを拾い、州仇に献じた。州仇が書を開いて見ると、こう書かれていた。「臣、赤はすでに逆賊侯犯を始末する手筈を七、八分まで整えました。近日、城中に必ず内変が起こりましょう。主君はご心配なさいませんように。」
  • 州仇は大いに喜び、無忌に報告し、兵を厳しく整えて待った。
  • 数日後、侯犯が斉に送った使者が戻り、「斉侯はすでに許諾されました。他の邑をもって償われるとのことです」と告げた。
  • 駟赤は侯犯に祝賀の言葉を述べて退出すると、人を遣わして人々にこう言い触らさせた。「侯氏は郈の民を斉に移そうとしている。使者の話では斉の軍が来るとのことだ。どうしよう!」
  • たちまち人心は動揺し、多くの者が駟赤のもとに問いただしに来た。
  • 赤は言った。「私も聞いている。斉は最近魯と修好したばかりで、土地を得るのは都合が悪いため、お前たちの住民を移して、聊と摂の人の絶えた土地を埋めようというのだろう。」
  • 昔から「住み慣れた土地は離れがたい」と言う。故郷を捨てることになると聞いて、恐れない者などいなかった。人々はこの話を伝え合い、それぞれ恨みの心を抱いた。
  • ある夜、駟赤は侯犯が酒に酔って上機嫌になったのを探り知り、腹心の数十人に城を巡らせて大声で叫ばせた。「斉の軍がもう城外に来ているぞ!我らは急いで支度をして、三日以内に出発せねばならぬ!」そして続けて泣き声を上げさせた。
  • 郈の人々は大いに驚き、みな侯氏の門に集まった。このとき老人子供はただ涙を流すばかりであったが、壮者たちは歯ぎしりして、侯犯を憎み恨んだ。
  • ふと門の中に多くの甲冑が蓄えられているのを見つけ、それがちょうど都合よく使えると、我先にと着込み、それぞれ武器を手にして鬨の声を上げ、侯犯の家を四方から囲んだ。城を守っていた兵まで侯氏に叛いて、人々に加勢した。
  • 駟赤は急いで侯犯に告げた。「郈の民は斉に付くことを望まず、城中は乱れきっております。あなたはまだ甲冑と武器をお持ちですか。私が兵を率いてこれを攻めましょう。」
  • 犯は言った。「甲冑も武器も、すべて人々に奪い取られてしまった。今日のところは、災いを免れることを最優先とせねばならぬ。」
  • 駟赤は「私が命を懸けてあなたをお送りしましょう」と言い、そのまま外に出て人々に言った。「お前たちは道を空けよ、侯氏を出て行かせてやろう。侯氏が出て行けば、斉の軍も来ないだろう。」
  • 人々はこれに従い、道を開けた。駟赤が先頭に立ち、侯犯が後に続き、家族はなお百余人、車十余乗が従った。駟赤はそのまま東門の外まで送った。
  • そして魯の兵を郈城に引き入れ、住民を安撫した。
  • 無忌は侯犯を追撃しようとしたが、駟赤は「臣はすでに彼に災いを免れることを約束しました」と言い、追わせなかった。
  • こうして郈城の城壁を三尺だけ壊した。そのまま駟赤を郈の長官に任じた。
  • 侯犯は斉の軍のもとに逃げたが、穰苴は魯がすでに郈を平定したと知り、そのまま兵を引き上げて斉に帰った。州仇と無忌もまた魯国に帰った。

公山不狃の反乱と孔子の平定

  • 公山不狃は、侯犯が郈に拠って叛いたと最初に聞いたとき、叔氏・仲氏の二家がこれを討伐しに行っていることを喜び、「季氏は孤立した!この隙に乗じて魯を襲えば、国を奪えるぞ」と考えた。
  • そこで費の民をことごとく駆り立て、曲阜に攻め寄せた。叔孫輒が内応し、門を開いて彼らを迎え入れた。
  • 定公は急いで孔子を召して計を問うた。孔子は言った。「公の兵は弱く、頼りになりません。臣が君をお守りして季氏の邸へ参ります。」
  • そこで車を駆って季氏の邸に至った。邸内には高台があり、堅固で守りやすかった。定公はそこに居を構えた。
  • しばらくして司馬の中句須(申句須)・楽頎もそれぞれ到着した。
  • 孔子は季斯にその家の武装兵をすべて出させて司馬に授け、台の左右に伏せさせ、公の兵は台の前に並べさせた。
  • 公山不狃は叔孫輒と相談して言った。「我らのこの挙は、公室を助け私家を抑えるという名目である。魯侯を主として奉じなければ、季氏を打ち破ることはできない。」そこでそのまま君主の宮殿を叩いて定公を探したが見つからなかった。
  • しばらく躊躇した後、すでに季氏の邸に移ったと知り、そのまま兵を移して攻めに向かった。公の兵と交戦したが、公の兵はみな散り散りに逃げた。
  • 突然、左右から大きな喊声が上がり、申句須・楽頎の二将が精鋭の武装兵を率いて攻め込んで来た。
  • 孔子は定公を助けて台上に立たせ、費の人々に向かって言った。「我らの君はここにおられる。お前たちは順逆の道理をわきまえないのか。すぐに武具を捨てよ、既往は咎めぬ!」
  • 費の人々は孔子が聖人であることを知っていたので、誰一人としてこれに従わない者はなく、みな武器を捨てて台の下に平伏した。
  • 公山不狃と叔孫輒は勢いを失い、そのまま呉国へ亡命した。

成邑の墮城問題と少正卯誅殺

  • 叔孫州仇は魯に帰り、郈の城をすでに墮したことを報告した。季斯もまた費城を墮すよう命じ、元の制度に復させた。
  • 無忌もまた成邑の城を墮そうとしたが、成の長官、公斂陽は少正卯に計を問うた。卯は言った。「郈と費は叛乱を理由に墮された。もし成をも同時に墮せば、あなたも叛臣と何も変わらぬではないか。ただ『成は魯国の北門の守りであり、もし成を墮せば、斉軍が我が北の辺境を侵したとき、何をもって防ぐのか』と、この主張を堅持しなさい。たとえ命令に背いても、叛乱とは言われまい。」
  • 陽はこの計に従い、その部下に甲を着けさせて城に登らせ、叔孫氏に対して言わせた。「私は叔孫氏のために守っているのではありません、魯の社稷のために守っているのです。斉兵が旦夕にも急襲することを恐れ、防御の備えがなければ、この命を投げ出してでも城と共に砕けようとも、あえて一片の煉瓦、一塊の土も動かしません!」
  • 孔子は笑って言った。「陽がこのような言葉を弁える器ではない。必ず『名士(少正卯)』が教えたのだろう。」
  • 季斯は孔子が費を平定した功を称え、自分がその万分の一にも及ばないことを知り、宰相の職務を代行させ、事あるごとに相談してから行うようにした。
  • 孔子が何か意見を述べても、少正卯はそのたびに言葉を混乱させて曲解させ、聞く者の多くが惑わされた。
  • 孔子は定公にひそかに奏上した。「魯が振るわないのは、忠と佞が分かたれず、刑と賞が定まらないためです。良い苗を守るには、必ず雑草を除かねばなりません。願わくば君は姑息な態度を取らず、太廟の斧鉞を取り出し、両観(宮門)の下に並べてください。」
  • 定公は「よかろう」と言った。
  • 翌日、群臣に成の城を墮すべきか否かを議論させたが、すべて孔子の裁決に委ねることとした。
  • 人々の意見は分かれ、墮すべきという者、墮すべきでないという者があった。
  • 少正卯は孔子の意に迎合しようとし、成を墮すことの六つの利点を挙げた。それはどのようなものか。一つ、君主のほかに尊ばれる者がいなくなる。二つ、要害としての比重が国都に集まる。三つ、臣下の家を抑える。四つ、跋扈する家臣に拠り所を与えない。五つ、三家の心を平らかにする。六つ、隣国に魯国が改革を道理に適って行っていることを知らせ、敬意を持たせる、というものであった。
  • 孔子は奏上した。「卯の言葉は誤りです!成はすでに孤立した状態にあり、何ができましょうか。しかも公斂陽は公室に忠実であり、跋扈する者と比べられるようなものではありません。卯は巧言を弄して政を乱し、君臣の仲を離間しようとしています。法によれば当然死罪に処すべきです!」
  • 群臣はみな言った。「卯は魯の名士(聞人)です。言葉に不当なところがあったとしても、死に値する罪ではありません。」
  • 孔子はさらに奏上した。「卯の言葉は偽りでありながら弁が立ち、その行いは邪でありながら固執する。ただ虚名によって人々を惑わしているに過ぎず、これを誅せずしては政を為すことはできません。臣は司寇の職にあります、斧鉞の刑をここに正しく行わせてください。」
  • そこで力士に卯を両観の下に縛らせ、これを斬った。群臣はみな顔色を変え、三家も心の中で震え上がった。
  • 史臣に詩がある。(詩:高潔さを養った華士は太公によって誅され、孔子はまた少正卯を除いた、聖人が正しい目を開かなければ、世間の人は両人の書物を共に読んでいたであろうという趣旨)

魯国大治、斉景公の驚き

  • 少正卯が誅されて以来、孔子の意図はようやく発揮できるようになり、定公と三家はみな虚心にこれに耳を傾けた。
  • 孔子は綱紀を立て、礼義を教え、廉恥の心を養わせたので、民は騒がず、事はよく治まった。
  • 三か月後、風俗は大きく変わった。市場で羔(子羊)や豚を売る者は虚偽の値をつけず、男女が道を行くときは左右を分けて乱れることなく、道に落し物があっても自分の物でないことを恥じて拾う者がなく、四方から来る客も、魯の国境に入ればみな決まった供応があり、不足することなく、まるで我が家に帰るように迎えられた。
  • 国人はこれを歌にした。「袞衣に章甫、我が国に来訪する。章甫に袞衣、我らを私心なく慰めてくれる。」
  • この歌詩は斉国にも伝わり、斉景公は大いに驚いて言った。「我が国は必ず魯に併呑されてしまうだろう!」
  • 景公がどのように策を巡らせるかは、次回をご覧いただきたい。
原文(底本)
話說齊景公見晉不能伐楚,人心星散,代興之謀俞急,乃糾合衛鄭,自稱盟主。魯昭公前為季孫意如所逐,景公謀納之。意如固拒不從,昭公改而求晉。晉荀躒得意如賄賂,亦不果納。昭公客死。意如遂廢太子衍及其母弟務人,而援立庶子宋為君,是為定公。因季氏與荀躒通賄,遂事晉而不事齊。齊侯大怒,用世臣國夏為將,屢侵魯境,魯不能報。未幾,季孫意如卒,子斯立,是為季康子。說起季、孟、叔三家,自昭公在國之日,已三分魯國,各用家臣為政,魯君不復有公臣。於是家臣又竊三大夫之權,展轉恣肆,凌鑠其主。今日季孫斯、孟孫無忌、叔孫州仇,雖然三家鼎立,邑宰各據其城,以為己物,三家號令不行,無可奈何。季氏之宗邑日費,其宰公山不狃﹔孟氏之宗邑曰成,其宰公斂陽﹔叔氏之宗邑曰郈,其宰公若藐。這三處城垣,皆三家自家增築,極其堅厚,與曲阜都城一般。那三個邑宰中,惟公山不狃尤為強橫。更有家臣一人,姓陽名虎,字貨,生得鴛肩巨顙,身長九尺有餘,勇力過人,智謀百出,季斯起初任為腹心,使為家宰,後漸專季氏之家政,擅作威福。季氏反為所制,無可奈何。季氏內為陪臣所制,外受齊國侵凌,束手無策。時又有少正卯者,為人博聞強記,巧辯能言,通國號為「聞人」,三家倚之為重。卯面是背非,陰陽其說,見三家則稱頌其佐君匡國之功,見陽虎等又託為強公室抑私家之說,使之挾魯侯以令三家,挑得上下如水火,而人皆悅其辨給,莫悟其奸。內中單說孟孫無忌,乃是仲孫玃之子,仲孫蔑之孫。玃在位之日,慕魯國孔仲尼之名,使其子從之學禮。

  那孔仲尼名丘,其父叔梁紇嘗為鄒邑大夫,即偪陽手托懸門之勇士也。紇娶於魯之施氏,多女而無子。其妾生一子曰孟皮,病足成廢人。乃求婚於顏氏。顏氏有五女,俱未聘,疑紇年老,謂諸女曰:「誰願適鄒大夫者?」諸女莫對。最幼女曰徵在,出應曰:「女子之義,在家從父,惟父所命,何問焉?」顏氏奇其語,即以徵在許婚。既歸紇,夫婦憂無子,共禱於尼山之谷。徵在升山時,草木之葉皆上起,及禱畢而下,草木之葉皆下垂。是夜,徵在夢黑帝見召,囑曰:「汝有聖子,若產,必於『空桑』之中。」覺而有孕。一日,恍惚若夢,見五老人列於庭,自稱「五星之精」,狎一獸,似小牛而獨角,文如龍鱗,向徵在而伏。口吐玉尺,上有文曰:「水精之子,繼衰周而素王。」徵在心知其異,以繡紱繫其角而去。告於叔梁紇,紇曰:「此獸必麒麟也。」及產期,徵在問:「地有名『空桑』者乎?」叔梁紇曰:「南山有空竇,竇有石門而無水,俗名亦呼空桑。」徵在曰:「吾將往產於此。」紇問其故,徵在乃述前夢。遂攜臥具於空竇中。其夜,有二蒼龍自天而下,守於山之左右,又有二神女擎香露於空中,以沐徵在,良久乃去。徵在遂產孔子。石門中忽有清泉流出,自然溫暖,浴畢,泉即涸。今曲阜縣南二十八里,俗呼女陵山,即空桑也。孔子生有異相,牛脣虎掌,鴛肩龜脊,海口輔喉,頂門狀如反宇。父紇曰:「此兒秉尼山之靈。」因名曰丘,字仲尼。仲尼生未幾而紇卒,育於徵在。既長,身長九尺六寸,人呼為「長人」。有聖德,好學不倦。周遊列國,弟子滿天下,國君無不敬慕其名,而為權貴當事所忌,竟無能用之者。是時適在魯國,無忌言於季斯曰:「欲定內外之變,非用孔子不可。」季斯召孔子,與語竟日,如在江海中,莫窺其際。季斯起更衣,忽有費邑人至,報曰:「穿井者得土缶,內有羊一隻,不知何物?」斯欲試孔子之學,囑使勿言,既入座,謂孔子曰:「或穿井於土中得狗,此何物也?」孔子曰:「以某言之,此必羊也,非狗也。」斯驚問其故。孔子曰:「某聞山之怪曰夔魍魎,水之怪曰龍罔象,土之怪曰羵羊。今得之穿井,是在土中,其為羊必矣。」斯曰:「何以謂之羵羊?」孔子曰:「非雌非雄,徒有其形。」斯乃召費人問之,果不成雌雄者。於是大驚曰:「仲尼之學,果不可及!」乃用為中都宰。此事傳聞至楚,楚昭王使人致幣於孔子,詢以渡江所得之物。孔子答使者曰:「是名萍實,可剖而食也。」使者曰:「夫子何以知之?」孔子曰:「某曾問津於楚,聞小兒謠曰:『楚王渡江得萍實,大如斗,赤如日,剖而嘗之甜如蜜。』是以知之。」使者曰:「可常得乎?」孔子曰:「萍者,浮泛不根之物,乃結而成實,雖千百年不易得也。此乃散而復聚,衰而復興之兆,可為楚王賀矣。」使者歸告昭王,昭王嘆服不已。孔子在中都大治,四方皆遣入觀其政教,以為法則。魯定公知其賢,召為司空。

  周敬王十九年,陽虎欲亂魯而專其政,知叔孫輒無寵於叔孫氏,而與費邑宰公山不狃相厚,乃與二人商議。欲以計先殺季孫,然後并除仲叔,以公山不狃代斯之位,以叔孫輒代州仇之位,已代孟孫無忌之位。虎慕孔子之賢,欲招致門下,以為己助。使人諷之來見,孔子不從。乃以蒸豚饋之,孔子曰:「虎誘我往謝而見我也。」令弟子伺虎出外,投刺於門而歸,虎竟不能屈。孔子密言於無忌曰:「虎必為亂,亂必始於季氏,子預為之備,乃可免也。」無忌偽為築室於南門之外,立柵聚材,選牧圉之壯勇者三百人為傭,名曰興工,實以備亂。又語成宰公斂陽,使繕甲待命,倘有報至,星夜前來赴援。是年秋八月,魯將行禘祭。虎請以禘之明日,享季孫於薄圃。無忌聞之曰:「虎享季孫,事可疑矣。」乃使人馳告公斂陽,約定日中率甲由東門至南門,一路觀變。至享期,陽虎親至季氏之門,請季斯登車。陽虎在前為導,虎之從弟陽越在後,左右皆陽氏之黨。惟御車者林楚,世為季氏門下之客,季斯心疑有變,私語林楚曰:「汝能以吾車適孟氏乎?」林楚點頭會意。行至大衢,林楚遽輓轡南向,以鞭策連擊其馬,馬怒而馳。陽越望見,大呼:「收轡!」林楚不應,復加鞭,馬行益急。陽越怒,彎弓射楚,不中,亦鞭其馬,心急鞭墜,越拾鞭,季氏之車已去遠矣。季斯出南門,逕入孟氏之室,閉其柵,號曰:「孟孫救我!」無忌使三百壯士,挾弓矢伏於柵門以待。須臾,陽越至,率其徒攻柵。三百人從柵內發矢,中者輒倒,陽越身中數箭而死。

  且說陽貨行及東門,回顧不見了季孫,乃轉轅復循舊路,至大衢,問路人曰:「見相國車否?」路人曰:「馬驚,已出南門矣。」語未畢,陽越之敗卒亦到,方知越已射死,季孫已避入孟氏新宮。虎大怒,驅其眾急往公宮,劫定公以出朝。遇叔孫州仇於途,并劫之。盡發公宮之甲與叔孫氏家眾,共攻孟氏於南門。無忌率三百人力拒之。陽虎命以火焚柵,季斯大懼。無忌使視日方中,曰:「成兵且至,不足慮也。」言未畢,只見東角上一員猛將,領兵呼哨而至,大叫:「勿犯吾主!公斂陽在此!」陽虎大怒,便奮長戈,迎住公斂陽廝殺。二將各施逞本事,戰五十餘合,陽虎精神愈增,公斂陽漸漸力怯。叔孫州仇遽從後呼曰:「虎敗矣!」即率其家眾,前擁定公西走,公徒亦從之。無忌引壯士開柵殺出,季氏之家臣苫越,亦帥甲而至。陽虎孤寡無助,倒戈而走,入讙陽關據之。三家合兵以攻關,虎力不能支,命放火焚萊門。魯師避火卻退,虎冒火而出,遂奔齊國。見景公,以所據讙陽之田獻之,欲借兵伐魯。大夫鮑國進曰:「魯方用孔某,不可敵也。不如執陽虎而歸其田,以媚孔某。」景公從之。乃囚虎於西鄙。虎以酒醉守者,乘輜車逃奔宋國,宋使居於匡。陽虎虐用匡人,匡人欲殺之。復奔晉國,仕於趙鞅為臣。不在話下。宋儒論陽虎以陪臣而謀賊其家主,固為大逆,然季氏放逐其君,專執魯政,家臣從旁竊視,已非一日,今日效其所為,乃天理報施之常,不足怪也。有詩云:

    當時季氏凌孤主,今日家臣叛主君﹔自作忠奸還自受,前車音響後車聞。

又有言:魯自惠公之世,僭用天子禮樂,其後三桓之家,舞八佾,歌雍徹,大夫目無諸侯,故家臣亦目無大夫,悖逆相仍,其來遠矣。詩云:

    九成干戚舞團團,借問何人啟僭端?要使國中無叛逆,重將禮樂問《周官》。

  齊景公失了陽虎,又恐魯人怪其納叛,乃使人致書魯定公,說明陽虎奔宋之故,就約魯侯於齊魯界上夾谷山前,為乘車之會,以通兩國之好,永息干戈。定公得書,即召三家商議。仲孫無忌曰:「齊人多詐,主公不可輕往。」季孫斯曰:「齊屢次加兵於我,今欲修好,奈何拒之?」定公曰:「寡人若去,何人保駕?」無忌曰:「非臣師孔某不可。」定公即召孔子,以相禮之事屬之。乘車已具,定公將行,孔子奏曰:「臣聞『有文事者,必有武備。』文武之事,不可相離。古者,諸侯出疆,必具官以從。宋襄公會盂之事可鑒也。請具左右司馬,以防不虞。」定公從其言,乃使大夫申句須為右司馬,樂頎為左司馬,各率兵車五百乘,遠遠從行。又命大夫茲無還率兵車三百乘,離會所十里下寨。既至夾谷,齊景公先在,設立壇位,為土階三層,制度簡略。齊侯幕於壇之右,魯侯幕於壇之左。孔子聞齊國兵衛甚盛,亦命申句須樂頎緊緊相隨。時齊大夫黎彌以善謀稱,自梁邱據死後,景公特寵信之。是夜,黎彌叩幕請見。景公召入,問:「卿有何事,昏夜來此?」黎彌奏曰:「齊魯為仇,非一日矣。止為孔某賢聖,用事於魯,恐其他日害齊,故為今日之會耳。臣觀孔某為人,知禮而無勇,不習戰伐之事。明日主公會禮畢後,請奏四方之樂,以娛魯君,乃使萊夷三百人假做樂工,鼓噪而前,覷便拿住魯侯,并執孔某。臣約會車乘,從壇下殺散魯眾,那時魯國君臣之命,懸於吾手,憑主公如何處分,豈不勝於用兵侵伐耶?」景公曰:「此事可否,當與相國謀之。」黎彌曰:「相國素與孔某有交,若通彼得知,其事必不行矣。臣請獨任!」景公曰:「寡人聽卿,卿須仔細!」黎彌自去暗約萊兵行事去了。

  次早,兩君集於壇下,揖讓而登。齊是晏嬰為相,魯是孔子為相。兩相一揖之後,各從其主,登壇交拜。敘太公周公之好,交致玉帛酬獻之禮,既畢,景公曰:「寡人有四方之樂,願與君共觀之。」遂傳令先使萊人上前,奏其本土之樂。於是壇下鼓聲大振,萊夷三百人,雜執旍旄、羽袚、矛戟、劍楯,蜂擁而至,口中呼哨之聲,相和不絕。歷階之半,定公色變。孔子全無懼意,趨立於景公之前,舉袂而言曰:「吾兩君為好會,本行中國之禮,安用夷狄之樂?請命有司去之。」晏子不知黎彌之計,亦奏景公曰:「孔某所言,乃正禮也。」景公大慙,急麾萊夷使退。黎彌伏於壇下,只等萊夷動手,一齊發作﹔見齊侯打發下來,心中甚慍,乃召本國優人,吩咐:「筵席中間召汝奏樂,要歌《敝笱》之詩,任情戲謔,若得魯君臣或笑或怒,我這裏有重賞。」原來那詩乃文姜淫亂故事,欲以羞辱魯國。黎彌升階奏於齊侯曰:「請奏宮中之樂,為兩君壽。」景公曰:「宮中之樂,非夷樂也,可速奏之。」黎彌傳齊侯之命,倡優侏儒二十餘人,異服塗面,裝女扮男,分為二隊,擁至魯侯面前,跳的跳,舞的舞,口中齊歌的都是淫詞,且歌且笑。孔子按劍張目,覷定景公奏曰:「匹夫戲諸侯者,罪當死!請齊司馬行法!」景公不應。優人戲笑如故。孔子曰:「兩國既已通好,如兄弟然,魯國之司馬,即齊之司馬也。」乃舉袖向下麾之,大呼:「申句須樂頎何在?」二將飛馳上壇,於男女二隊中,各執領班一人,當下斬首,餘人驚走不迭。景公心中駭然。魯定公隨即起身。黎彌初意還想於壇下邀截魯侯,一來見孔子有此手段,二來見申樂二將英雄,三來打探得十里之外,即有魯軍屯札,遂縮頸而退。會散,景公歸幕,召黎彌責之曰:「孔某相其君,所行者皆是古人之道,汝偏使寡人入夷狄之俗。寡人本欲修好,今反成仇矣。」黎彌惶恐謝罪,不敢對一語。晏子進曰:「臣聞『小人知其過,謝之以文﹔君子知其過,謝之以質。』今魯有汶陽之田三處,其一曰讙,乃陽虎所獻不義之物﹔其二曰鄆,乃昔年所取以寓魯昭公者﹔其三曰龜陰,乃先君頃公時仗晉力索之於魯者。那三處皆魯故物,當先君桓公之日,曹沫登壇劫盟,單取此田,田不歸魯,魯志不甘,主公乘此機以三田謝過,魯君臣必喜,而齊魯之交固矣。」景公大悅,即遣晏子致三田於魯。(此周敬王二十四年事也。)史臣有詩云:

    紛然鼓噪起萊戈,無奈壇前片語何?知禮之人偏有勇,三田買得兩君和。

又詩單讚齊景公能虛心謝過,所以為賢君,幾於復霸。詩云:

    盟壇失計聽黎彌,臣諫君從兩得之﹔不惜三田稱謝過,顯名千古播華夷。

這汶陽田原是昔時魯僖公賜與季友者,今日名雖歸魯,實歸季氏。以此季斯心感孔子,特築城於龜陰,名曰謝城,以旌孔子之功﹔言於定公,升孔子為大司寇之職。

  時齊之南境,忽來一大鳥,約長三尺,黑身白頸,長喙獨足,鼓雙翼舞於田間,野人逐之不得,飛騰望北而去。季斯聞有此怪,以問孔子。孔子曰:「此鳥名曰『商羊』,生於北海之濱。天降大雨,商羊起舞,所見之地,必有淫雨為災。齊魯接壤,不可不預為之備。」季斯預戒汶上百姓,修堤蓋屋。不三日,果然天降大雨,汶水泛溢,魯民有備無患。其事傳布齊邦,景公益以孔子為神。自是孔子博學之名,傳播天下,人皆呼為「聖人」矣。有詩為證:

    五典三墳漫究詳,誰知萍實辨商羊?多能將聖由天縱,嬴得芳名四海揚。

  季斯訪人才於孔子之門,孔子薦仲由冉求可使從政,季氏俱用為家臣。忽一日,季斯問於孔子曰:「陽虎雖去,不狃復興,何以制之?」孔子曰:「欲制之,先明禮制。古者臣無藏甲,大夫無百雉之城,故邑宰無所憑以為亂。子何不墮其城,撤其武備?上下相安,可以永久。」季斯以為然,轉告於孟叔二氏。孟孫無忌曰:「苟利家國,吾豈恤其私哉?」時少正卯忌孔子師徒用事,欲敗其功,使叔孫輒密地送信於公山不狃。不狃欲據城以叛。知孔子素為魯人所敬重,亦思借助,乃厚致禮幣,遺以書曰:

    魯自三桓擅政,君弱臣強,人心積憤。不狃雖為季宰,實慕公義,願以費歸公為公臣,輔公以鋤強暴,俾魯國復見周公之舊。夫子倘見許,願移駕過費,面決其事。不腆路犒,伏惟不鄙。

孔子謂定公曰:「不狃若叛,未免勞兵。臣願輕身一往,說其回心改過,何如?」定公曰:「國家多事,全賴夫子主持,豈可去寡人左右耶?」孔子遂卻其書幣。不狃見孔子不往,遂約會成宰公斂陽,郈宰公若藐,同時起兵為逆。陽與藐俱不從。卻說郈邑馬正侯犯,勇力善射,為郈人所畏服,素有不臣之志。遂使圉人刺藐殺之,自立為郈宰,發郈眾登城為拒命之計。

  州仇聞郈叛,往告無忌。無忌曰:「吾助子一臂,當共滅此叛奴。」於是孟叔二家,連兵往討,遂圍郈城。侯犯悉力拒戰,攻者多死,不能取勝。無忌教州仇求援於齊。時叔氏家臣駟赤在郈城中,偽附侯犯,侯犯親信之。赤謂犯曰:「叔氏遣使如齊乞師矣。齊魯合兵,不可當也。子何不以郈降齊?齊外雖親魯,內實忌之。得郈可以偪魯,齊必大喜,而倍以他地酬子。總之得地,而可去危以就安,又何不利之有?」侯犯曰:「此計甚善!」即遣人乞降於齊,以郈邑獻之。齊景公召晏嬰問曰:「叔孫氏乞兵伐郈,侯犯又以郈來降,寡人將何適從?」晏子對曰:「方與魯講好,豈可受其叛臣之獻乎?」助叔孫氏為是。景公笑曰:「郈乃叔孫私邑,於魯侯無與。況叔孫氏君臣自相魚肉,魯之不幸,實齊之幸也。寡人有計在此,當兩許其使以誤之。」乃使司馬穰苴屯兵於界上,以觀其變。若侯犯能禦叔孫,更分兵據郈,迎侯犯歸於齊國﹔若叔孫勝了侯犯,便說助攻郈城,臨時便宜行事。此是齊景公的奸雄處。

  卻說駟赤見侯犯遣使往齊去了,復謂犯曰:「齊新與魯侯為會,助魯助郈,未可定也。宜多置兵甲於門,萬一事變不測,可以自衛。」侯犯乃一勇之夫,信為好語,遂選精甲利兵,留於門下。駟赤將羽書射於城外,魯兵拾得,獻於州仇。州仇發書看之,書中言:「臣赤已安排逆犯十有七八,不日城中當有內變,主君不須掛念。」州仇大喜,報知無忌,嚴兵以待。數日後,侯犯使者自齊回,言:「齊侯已許下矣,願以他邑相償。」駟赤入賀侯犯而出,使人宣言於眾曰:「侯氏將遷郈民以附齊,使者回言齊師將至。奈何!」一時人情洶洶,多有造駟赤處問信者。赤曰:「吾亦聞之,齊新與魯好,不便得地,將遷爾戶口,以實聊攝之虛耳。」自古道:「安土重遷。」說了離鄉背井,那一個不怕的?眾人聽說,互相傳語,各有怨心。忽一夜,駟赤探知侯犯飲酒方酣,遂命心腹數十人,遶城大呼曰:「齊師已至城外矣!吾等速治行李,三日內便要起身。」因繼以哭。郈眾大驚,俱集於侯氏之門,此時老弱惟有涕泣,那壯者無不咬牙切齒,憤恨侯犯。忽見門內藏甲甚多,正適其用,大家搶得穿著起來,各執兵器,發聲喊,將侯犯家四面圍住。連守城之兵都反了侯氏,與眾助興了。駟赤亟入告侯犯曰:「郈眾不願附齊,滿城俱變。子更有甲兵否?吾請率而攻之。」犯曰:「甲兵俱被眾掠取矣。今日之事,免禍為上。」駟赤曰:「吾捨命送子。」遂出謂眾曰:「汝等讓一路,容侯氏出奔,侯氏出,齊師亦不至矣。」眾人依言,放開一路。駟赤當先,侯犯在後,家屬尚有百餘人,車十餘乘,駟赤直送出東門。因引魯兵入於郈城,安撫百姓。無忌請追侯犯,駟赤曰:「臣已許之免禍矣。」乃縱之不追。遂墮郈城三尺。即用駟赤為郈宰。侯犯奔齊師,穰苴知魯師已定郈,乃班師還齊。州仇無忌亦回魯國。公山不狃初聞侯犯據郈以叛,叔仲二家往討,喜曰:「季氏孤矣!乘虛襲魯,國可得也。」遂盡驅費眾,殺至曲阜,叔孫輒為內應,開門納之。定公急召孔子問計。孔子曰:「公徒弱,不足用也。臣請御君以往季氏。」遂驅車至季氏之宮,宮內有高臺,堅固可守,定公居之。少頃,司馬中句須樂頎俱至。孔子命季斯盡出其家甲,以授司馬,使伏於臺之左右,而使公徒列於臺前。公山不狃同叔孫輒商議曰:「我等此舉,以扶公室抑私家為名,不奉魯侯為主,季氏不可克也。」乃齊叩公宮,索定公不得。盤桓許久,知已往季氏,遂移兵來攻。與公徒戰,公徒皆散走。忽然左右大譟,申句須樂頎二將,領著精甲殺至。孔子扶定公立於臺上,謂費人曰:「吾君在此,汝等豈不知順逆之理?速速解甲,既往不咎!」費人知孔子是個聖人,誰敢不聽,俱舍兵拜伏臺下。公山不狃叔孫輒勢窮,遂出奔吳國去了。

  叔孫州仇回魯,言及郈都已墮。季斯亦命墮了費城,復其初制。無忌亦欲墮成都,成宰公斂陽問計於少正卯,卯曰:「郈費因叛而墮,若并墮成,何以別子於叛臣乎?汝但云:『成乃魯國北門之守,若墮成,齊師侵我北鄙,何以禦之?』堅持其說,雖拒命不為叛也。」陽從其計,使其徒穿甲而登城,謝叔孫氏曰:「吾非為叔孫氏守,為魯社稷守也。恐齊兵旦暮猝至,無守禦之具,願捐此性命,與城俱碎,不敢動一磚一土!」孔子笑曰:「陽不辨此語,必『聞人』教之耳。」季斯嘉孔子定費之功,自知不及萬分之一,使攝行相事,每事諮謀而行。孔子有所陳說,少正卯輒變亂其詞,聽者多為所惑。孔子密奏於定公曰:「魯之不振,由忠佞不分,刑賞不立也。夫護嘉苗者,必去莠草。願君勿事姑息,請出太廟中斧鉞,陳於兩觀之下。」定公曰:「善。」明日,使群臣參議成城不墮利害,但聽孔子裁決。眾人或言當墮,或言不當墮。少正卯欲迎合孔子之意,獻墮成六便。何謂六便?一,君無二尊,二,歸重都城形勢﹔三,抑私門﹔四,使跋扈家臣無所憑藉﹔五,平三家之心﹔六,使鄰國聞魯國興革當理,知所敬重。孔子奏曰:「卯誤矣!成已作孤立之勢,何能為哉?況公斂陽忠於公室,豈跋扈之比?卯辯言亂政,離間君臣,按法當誅!」群臣皆曰:「卯乃魯聞人,言或不當,罪不及死。」孔子復奏曰:「卯言偽而辯,行僻而堅,徒有虛名惑眾,不誅之無以為政。臣職在司寇,請正斧鉞之典。」遂命力士縛卯於兩觀之下,斬之。群臣莫不變色,三家心中亦俱凜然。史臣有詩云:

    養高華士太公誅,孔子偏將少正除﹔不是聖人開正眼,世間盡讀兩人書。

自少正卯誅後,孔子之意始得發舒,定公與三家皆虛心以聽之。孔子乃立綱陳紀,教以禮義,養其廉恥,故民不擾而事治。三月之後,風俗大變。市中鬻羔豚者,不飾虛價﹔男女行路,分別左右,不亂﹔遇路有失物,恥非己有,無肯拾取者。四方之客,一入魯境,皆有常供,不至缺乏,賓至如歸。國人歌之曰:「袞衣章甫,來適我所﹔章甫袞衣,慰我無私。」此歌詩傳至齊國,齊景公大驚曰:「吾國必為魯所并矣!」不知景公如何計較,且看下回分解。

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