東周列國志第八十三回 羋勝を誅して葉公が楚を定める/夫差を滅ぼして越王が霸を称す (誅羋勝葉公定楚 滅夫差越王稱霸)
渾良夫の死と衛の混乱
- さて衛の荘公蒯瞶は、府庫の宝貨がすべて出公輒に持ち去られていたため、渾良夫に相談した。良夫は言った。「太子疾と亡君は、どちらもあなた様のお子です。あなた様はどうして跡継ぎを選ぶという名目で召し寄せないのですか。亡君が帰れば、器物も得られましょう」。ある小者がこの話を漏れ聞き、ひそかに太子疾に告げた。疾は壮士数人に雄豚を車に載せて自分に従わせ、隙を見て荘公を脅し、血をすすって盟わせ、亡君を召さないこと、そして必ず渾良夫を殺すことを誓わせた。荘公は言った。「輒を召さないのはたやすいことだ。しかしすでに良夫との間に盟があり、三度死に値する罪を犯しても免ずると約束している。どうしたものか」。太子疾は言った。「四つ目の罪を待って、その後で殺しましょう」。荘公は承知した。まもなく、荘公は新しく虎の幕屋を造り、諸大夫を招いてその落成を祝った。渾良夫は紫の衣に狐の皮衣で現れ、上着をはだけて、剣を外さぬまま食事をした。太子疾は力士に命じて良夫を引き立てて退かせた。良夫は言った。「私に何の罪があるのですか」。太子疾はこれを数え上げて言った。「臣下が君にまみえるときには定まった装いがあり、食事に侍るときは必ず剣を外すものだ。お前が紫の衣を着ているのが一つ目の罪、狐の皮衣が二つ目の罪、剣を外さぬのが三つ目の罪だ」。良夫は叫んで言った。「盟いで三つの死罪は免じられるはずだ」。疾は言った。「亡君が子でありながら父に逆らったのに、お前はこれを召し入れようとした。これが四つ目の罪ではないか」。良夫は答えることができず、うなだれて刑を受けた。後日、荘公は悪鬼が髪を振り乱して北を向いてわめく夢を見た。「私は渾良夫だ。天に叫ぶ、我に罪はないと」。荘公は目覚め、卜大夫の胥彌赦に占わせると、「害はありません」と答えた。しかし胥彌赦は退出した後、人に言った。「怨霊が祟りをなしている。身は死に国は危うくなる兆しが、すでに現れている」。そしてそのまま宋へ逃げ出した。
- 蒯瞶が即位して二年、晋は彼が朝見しないことに怒り、上卿趙鞅が軍を率いて衛を伐った。衛人は荘公を追放し、荘公は戎国へ逃げたが、戎人はこれを殺し、あわせて太子疾も殺した。国人は公子般師を立てた。齊の陳恒が軍を率いて衛を救い、般師を捕らえて公子起を立てた。衛の大夫石圃は起を追放し、改めて出公輒を迎えて君とした。輒はすでに国に復帰すると、石圃を追放した。諸大夫は輒と不和になり、輒を追放し、越へ出奔させた。国人は公子黙を立てた。これが悼公である。これより衛は晋に臣従し、国はますます弱まり、趙氏に依存するようになった。この段の話はここで措く。
白公勝の乱――子西・子期の殺害と恵王の幽閉
- さて白公勝は楚国に帰ってから、常に鄭人が父を殺した仇を思っていた。ただ伍子胥が白公勝の恩人であり、子胥は以前すでに鄭を赦しており、しかも鄭は昭王に臣として仕えて、あえて礼を失うようなこともしなかったため、勝は堪え忍んで言い出さずにいた。昭王がすでに薨じてから、令尹子西と司馬子期は、越女の子章を奉じて即位させた。これが恵王である。白公勝は自らを故太子の子であるとして、子西が自分を招いて共に楚の政を執ることを期待していた。ところが子西は結局招かず、俸禄も加えなかったので、心中は快くなかった。子胥がすでに死んだと聞くと、言った。「鄭に報復するのは、今この時だ」。人を遣わして子西に請うて言った。「鄭人が先太子に毒を加えたことは、令尹もご存知のことです。父の仇を報いなければ、人であるとは言えません。令尹がもし先太子の無実を憐れんでくださるなら、軍を発して鄭の罪を鳴らしてください。勝は先鋒となることを願います。死んでも悔いはありません」。子西は辞退して言った。「新王がようやく立ち、楚国はまだ落ち着いていない。しばらく待ってくれ」。白公勝はそこで呉に備えると言い訳をして、腹心の家臣石乞に、城を築き兵を練らせ、大いに戦具を整えた。改めて子西に、自らの私兵を先鋒として鄭を伐ちたいと請うと、子西はこれを許した。まだ出兵しないうちに、晋の趙鞅が兵をもって鄭を伐ち、鄭は楚に救援を求めた。子西は軍を率いて鄭を救い、晋の兵はそこで退いた。子西は鄭と盟を定めて兵を引き上げた。白公は怒って言った。「鄭を伐たずに鄭を救うとは、令尹は私を欺くも甚だしい。まず令尹を殺し、その後で鄭を伐つべきだ」。一族の白善を澧陽に召した。善は言った。「あなたに従って国を乱せば、君に不忠となる。あなたに背いてその私事を密告すれば、一族に不仁となる」。そこで禄を棄て、庭を築き園に水を注いで生涯を終えた。楚人はそこでその庭を「白善将軍薬圃」と名づけた。白公は白善が来ないと聞き、怒って言った。「私に白善がいなくとも、令尹を殺せないというのか」。すぐに石乞を召して協議した。「令尹と司馬に対して、それぞれ五百人を用いれば、十分に討ち取れるだろうか」。石乞は言った。「まだ十分ではありません。市の南に熊宜僚という勇士がおります。もしこの人を得れば、五百人分の働きに匹敵します」。白公は石乞とともに市の南に赴き、熊宜僚に会った。宜僚は大いに驚いて言った。「王孫という貴人が、どうして身をかがめてここまでお出でになったのですか」。白公は言った。「私にはある事があり、あなたと相談したいのです」。そして子西を殺す計画を告げた。宜僚は首を振って言った。「令尹には国に功があり、私には彼への仇がありません。私は命に従うわけにはまいりません」。白公は怒り、剣を抜いてその喉を指して言った。「従わなければ、まずお前を殺す」。宜僚は顔色一つ変えず、落ち着いて答えた。「宜僚一人を殺すのは、蟻を一匹取り除くようなものです。何を怒ることがありましょう」。白公はそこで剣を地に投げ、嘆いて言った。「お前はまことの勇士だ。私はただお前を試しただけだ」。そして車に乗せて連れ帰り、上客として礼遇し、飲食を共にし、出入りを共にした。宜僚はその恩に感じ入り、身をもって白公に仕えることを誓った。
- 呉王夫差が黄池で会盟した際、楚国は呉の強大さを畏れ、国境の民に警戒を命じ、備えを固めさせた。白公勝は呉の兵が楚を襲おうとしていると偽って言い、逆に兵をもって呉の国境を襲い、かなりの略奪をした。そこでその功を誇張して、こう言い立てた。「呉の軍を大破し、その鎧や武器を多数得た。楚の朝廷に自ら赴いてこの戦果を献上し、国威を示したい」。子西はその計略に気づかず、これを許した。白公は自家の甲冑と武器をことごとく持ち出し、呉からの鹵獲品に見せかけて百余乗の車に積み、自ら壮士千人を率いて、押送して朝廷に入り、功を献じた。恵王は殿に登って戦果を受け取り、子西・子期はその傍らに侍立していた。白公勝は謁見を終えると、恵王は階下に全身に甲冑をまとって立つ二人の立派な男を見て、問うた。「これは何者か」。勝は答えた。「これは私の部下の将士、石乞と熊宜僚です。呉討伐に功のあった者たちです」。そして手招きした。二人が歩み出て、まさに階段を上ろうとすると、子期が叫んだ。「我が王が御殿にいらっしゃる。辺境の臣はただ階下でぬかずいて拝礼することのみ許され、階段を上ることは許されぬ」。石乞と熊宜僚はまるで聞き入れず、大股で階段を登った。子期は護衛の兵にこれを阻止させたが、熊宜僚が手で一払いすると、護衛の兵たちは東へ西へと倒れ伏し、二人はそのまま殿中に入った。石乞は剣を抜いて子西を斬りかかり、熊宜僚は剣を抜いて子期を斬りかかった。白公は大声で叫んだ。「皆の者、なぜ一斉に上がらぬのか」。壮士千人が、みな武器を執って、蜂のように群がり登った。白公は恵王を押さえ込み、身動きを許さなかった。石乞は子西を生け捕りにし、百官はみな驚いて逃げ散った。子期は元来剛力の持ち主であったので、御殿の戟を抜き取り、宜僚と戦った。宜僚は剣を捨て、進み出て子期の戟を奪い取った。子期は宜僚が捨てた剣を拾って宜僚を斬りつけ、その左肩に当てた。宜僚もまた子期の腹を刺した。二人はなおも組み合ったまま離れず、もつれ合って、殿の庭で死んだ。子西は勝に言った。「お前は呉国で口を糊していたのに、私は骨肉の情を思い、お前を国に呼び戻し、公爵に封じた。何をお前に負うたというのに、逆らうのか」。勝は言った。「鄭が我が父を殺したのに、お前は鄭と講和した。お前はすなわち鄭だ。私は父の仇を報いようとしているのに、どうして私情を顧みる必要があろうか」。子西は嘆いて言った。「沈諸梁の言葉を聞かなかったことを悔やむ」。白公勝は自ら剣を取って子西の首を斬り、その屍を朝廷にさらした。石乞は言った。「王を弑さなければ、事は結局成就しません」。勝は言った。「あの子供に何の罪があろうか。廃するだけでよい」。そこで恵王を高府に幽閉し、王子啓を王に立てようとした。啓は固く辞退したため、これを殺した。石乞はさらに勝に自立するよう勧めた。勝は言った。「県公はなお多い。すべて召集すべきだ」。そこで太廟に兵を屯した。大夫の管修は家兵を率いて白公を攻め、三日間戦ったが、管修の軍は敗れ、管修自身も殺された。圉公陽は隙を伺い、人に高府の塀に小さな穴を掘らせ、夜にひそかに入り、恵王を背負って外に出し、昭夫人の宮に匿った。
葉公沈諸梁の平定
- 葉公沈諸梁は変事を聞くと、葉の軍勢をことごとく動員して、夜を徹して楚へ向かった。郊外に着くと、民衆が道をふさいで出迎えた。葉公がまだ甲冑を着けていないのを見て、怪しんで言った。「公はどうして冑を着けないのですか。国人が公の到来を望むこと、赤子が父母を望むがごとくです。万一、盗賊の矢が公を傷つけたら、民は何を望みにすればよいのですか」。葉公はそこで甲冑を着けて進んだ。都に近づくと、また一群の民衆に出会い、出迎えた。葉公が冑を着けているのを見て、また怪しんで言った。「公はどうして冑を着けているのですか。国人が公の到来を望むこと、凶年に穀物を望むがごとくです。もし公のお顔を拝見できれば、死んでも生き返ったようなものです。老いも若きも、誰が公のために死力を尽くさないでいられましょう。それなのにどうしてその顔を隠し、人に疑いを抱かせて、力を尽くさせないようにするのですか」。葉公はそこで冑を脱いで進んだ。葉公は民心が自分に付いていることを知り、そこで大旗を車に立てた。箴尹固は白公の召集に応じて自軍を率いて城に入ろうとしていたが、大旗に「葉」の字が見えたので、そのまま葉公に従って城を守った。兵民は葉公が来たのを見て、城門を大きく開いて、その軍を迎え入れた。葉公は国人を率いて太廟に白公勝を攻めた。石乞の軍は敗れ、勝を扶けて車に乗せ、龍山へ逃げた。他国に赴こうとしたが、まだ決まらなかった。葉公が兵を率いて追いつくと、勝は自ら首を吊って死んだ。石乞はその屍を山の後ろに埋めた。葉公の軍が到着し、石乞を生け捕りにし、問うた。「白公はどこにいるか」。答えて言った。「すでに自ら命を絶ちました」。また問うた。「屍はどこにあるか」。石乞は堅く言おうとしなかった。葉公は大釜を取り寄せ、火を焚いて湯を沸かせ、乞の前に置いて言った。「言わなければ、お前を煮るぞ」。石乞は自ら衣を脱いで、笑って言った。「事が成れば貴きこと上卿に至り、事が成らなければ煮られる。これは理の当然のことです。私がどうして死んだ骨を売って、自分だけ助かろうとしましょうか」。そして釜の中に跳び込み、しばらくして肉が崩れ果てた。勝の屍は結局その所在が分からなかった。石乞は従った道こそ正しくなかったが、これもまた好漢というべきであった。葉公は恵王を迎えて復位させた。このとき陳国は楚の混乱に乗じて、兵を挙げて楚を侵していた。葉公は恵王に願い出て、軍を率いて陳を伐ち、これを滅ぼした。子西の子の寧を跡継ぎとして令尹とし、子期の子の寛を跡継ぎとして司馬とし、自らは老いを告げて葉に帰った。これより楚国は危うい状況から再び安定した(これは周の敬王四十二年の事である)。
越王の呉討伐再開
- この年、越王句踐は、呉王が越の兵が退いてから後、酒色に荒れて朝政を治めず、しかも連年の凶作で民心が愁い怨んでいると探り知り、そこで改めて国内の士卒をすべて起こし、大挙して呉を伐とうとした。まさに郊外に出ようとしたとき、道すがら一匹の大きな蛙を見た。目を睜り腹をふくらませ、怒気を帯びているようであった。句踐はうやうやしく、車の横木に手をかけて身を起こした。左右が問うた。「王は何を敬っておられるのですか」。句踐は言った。「私は怒った蛙がまるで戦おうとする士のようなのを見て、それゆえ敬っているのだ」。軍中はみな言った。「我が王が怒った蛙にさえ敬意を払われるのだ。我らは数年にわたって調練と教導を受けてきたというのに、どうして蛙にも及ばないでいられようか」。そこで互いに励まし合い、必死を志とした。国人はそれぞれ子弟を郊外の境まで見送り、みな涙を流して別れを告げ、互いに語り合って言った。「この度、呉を滅ぼさなければ、二度と会うことはない」。句踐は改めて軍中に令を発した。「父子ともに軍中にある者は、父を帰す。兄弟ともに軍中にある者は、兄を帰す。父母がいて兄弟がいない者は、帰って養わせる。病気で戦に堪えない者は、申し出れば、医薬と粥を与える」。軍中は越王の人材を愛する徳に感激し、歓声は雷のようであった。江口まで進むと、罪を犯した者を斬って軍法を明らかにし、軍心は粛然とした。呉王夫差は越の兵が再び来ると聞き、また国中の士卒をすべて起こし、江上で迎え撃った。越の兵は江の南に、呉の兵は江の北に屯した。越王は大軍を左右二陣に分け、范蠡が右軍を、文種が左軍を率いた。君子の卒六千人は、越王に従って中陣となった。翌日、江の中で戦うことになった。そこで黄昏時に、左軍に枚を銜ませ、江を五里さかのぼらせて呉兵を待たせ、夜半に鼓を鳴らして進むよう命じた。さらに右軍に枚を銜ませ、江を渡って十里の地点まで進ませ、左軍が交戦するのを待って、右軍が前に出て挟み撃ちにし、それぞれ大鼓を用い、鼓声を遠くまで響かせるようにした。呉兵は夜半、突然鼓声が天を震わせるのを聞き、越軍が襲来したと知り、慌てて松明を掲げたが、まだよく見えないうちに、遠くでまた鼓声が起こり、両軍が呼応し、包囲を狭めてきた。夫差は大いに驚き、急いで令を伝えて軍を分けて迎え撃たせた。ところが越王はひそかに私兵六千を率い、鐘も太鼓も鳴らさず、暗闇の中でまっすぐ呉の中軍に突入した。このとき天はまだ明けておらず、ただ前後左右中央がすべて越軍であるように感じられ、呉兵は抵抗できず、大敗して逃げた。句踐は三軍を率いてこれを激しく追撃し、笠澤に至った。再び戦い、呉軍はまた敗れた。連続して三戦三敗し、名将の王子姑曹・胥門巣らはみな戦死した。夫差は夜通し逃げ帰り、門を閉ざして自ら守った。句踐は横山より進軍した。今の越来渓がそれである。胥門の外に城を築き、これを越城と呼び、これによって呉を困窮させようとした。越王が呉を包囲すること長らく、呉人は大いに困窮した。伯嚭は病と称して出てこなかった。夫差はそこで王孫駱に肌をあらわにし膝で歩ませて前に出し、越王に和議を請うて言わせた。「孤臣夫差、かつて会稽で罪を得たとき、夫差はあえて命に逆らわず、君王と和議を結んで帰ることができました。今、君王が兵を挙げて孤臣を誅そうとされていますが、孤臣が思うには、これもまた君王が会稽の際のように罪をお赦しくださることを望むばかりでございます」。句踐はその言葉に忍びず、許そうとする気持ちがあった。范蠡は言った。「君王は朝早くから夜遅くまで、二十年間これを謀ってこられました。どうして成就する直前にこれを棄てられるのですか」。そこで和議の実現を許さなかった。呉の使者は七度往復したが、文種と范蠡は堅くこれを拒み続けた。そこで鼓を鳴らして城を攻め、呉人はもはや再戦できなくなった。文種と范蠡は胥門を壊して入ろうと協議した。その夜、呉の南城の上に伍子胥の首が見え、車輪ほど大きく、目は稲妻のように輝き、髭と髪が四方に逆立ち、光は十里まで届いていた。越の将士は誰も畏れぬ者はなく、しばらく兵を留めた。夜半に至って、暴風が南門から起こり、激しい雨が降り注ぎ、雷鳴と稲光が轟き、石が飛び砂が舞い、弓弩よりも激しかった。越兵で遭遇した者は、死なねば傷を負い、船をつなぐもやい綱はみな解け、船列を連ねることができなかった。范蠡と文種は緊急を要し、そこで肌をあらわにして雨を冒し、はるかに南門を望んで、額を地につけて謝罪した。しばらくして、風がやみ雨が止んだ。文種と范蠡は座ったままうたた寝をして、夜明けを待った。夢の中で子胥が白馬に乗り素車に乗って現れ、衣冠は非常に堂々として、生きていた時のようであった。口を開いて言った。「私は前から越の兵が必ず至ることを知っていた。それゆえ我が首を東門に置くことを求め、お前たちが呉に入るのを見ようとしたのだ。呉王は我が首を南門に置いた。我が忠心はまだ絶えておらず、お前たちが我が首の下から入ってくるのを忍びなく思い、それゆえ風雨を起こして、お前たちの軍を退かせたのだ。しかし越が呉を有することは、これは天の定めであり、私にどうしてこれを止められようか。お前たちが入ろうとするなら、改めて東門から入るがよい。私がお前たちのために道を開き、城を貫いてお前たちの通り道を作ろう」。二人が見た夢はどちらも同じであったので、そこで越王に告げ、士卒に渠を掘らせ、南から東へ通した。蛇門と匠門の間に及ぼうとしたとき、突然太湖の水が発し、胥門から洶々と押し寄せ、波濤が衝撃し、ついに羅城を大きく蕩き開けて、鱄䱐(いるか・すなめりの類)が無数に、波に乗って流れ入った。范蠡は言った。「これは子胥が我らのために道を開いてくれたのだ」。そこで兵を駆って城に入った。その後、この穴によって門とし、鱄䱐門と名づけた。水に葑草が多かったので、また葑門ともいう。その水を葑渓という。これはすなわち子胥の霊験のあった旧跡である。
呉の滅亡と夫差の最期
- 夫差は越の兵が城に入り、伯嚭がすでに降ったと聞き、そこで王孫駱およびその三子とともに、陽山へ逃げた。昼夜駆け通しで、腹は空き口は渇き、目はかすんで眩んだ。左右の者が生の稲をもみ、殻を剥いて差し出した。呉王はこれを噛み、地に伏して溝の水を掬って飲んだ。左右に問うた。「食べたものは何か」。左右は答えた。「生の稲です」。夫差は言った。「これは公孫聖が言っていた『火を通したものも食えず慌てふためいて逃げ惑う』ということだ」。王孫駱は言った。「腹いっぱい食べてお発ちください。前方に深い谷があり、しばらく身を隠せます」。夫差は言った。「不吉な夢はすでに的中した。死は目前だ。しばらく避けたところで何になろうか」。そこで陽山にとどまり、王孫駱に言った。「私はかつて公孫聖を殺し、この山の頂に投げ捨てた。まだ霊験があるだろうか」。駱は言った。「王、試しに呼んでみられよ」。夫差はそこで大声で叫んだ。「公孫聖よ」。山の中でもまた応えた。「公孫聖」。三度呼んで三度応えた。夫差は心中恐れをなし、そこで干隧に移った。句踐は千人を率いて追いつき、幾重にもこれを取り囲んだ。夫差は書を作り、矢に結びつけて、越軍の中に射込んだ。軍人がこれを拾って献上し、文種と范蠡がともにこれを開いて見ると、その文にこう書かれていた。「私は聞いております。『狡兎死して良犬烹らる』と。敵国がもし滅べば、謀臣は必ず滅ぼされます。大夫はどうして呉に一筋の望みを残し、自らのために余地を作らないのですか」。文種もまた書を作り、矢に結びつけて答えた。「呉には六つの大きな過ちがあります。忠臣伍子胥を戮したのが、大きな過ちの一つ。直言のゆえに公孫聖を殺したのが、大きな過ちの二つ。太宰はこびへつらって人を陥れる者なのに、これを聴き用いたのが、大きな過ちの三つ。齊と晋は罪がないのに、しばしばその国を伐ったのが、大きな過ちの四つ。呉と越は隣り合う国であるのに侵伐したのが、大きな過ちの五つ。越は自らの手で呉の前王(闔閭)を殺したのに、呉はその仇に報いようとせず、敵を放置して後の患いを残したのが、大きな過ちの六つです。この六つの大きな過ちがあって、滅亡を免れようとしても、できましょうか。かつて天は越を呉に賜いましたが、呉はこれを受け取ろうとしませんでした。今、天は呉を越に賜っています。越がどうしてあえて天命に逆らいましょうか」。夫差はこの書を読み、第六の過ちの箇所に至って、涙を流して言った。「寡人が句踐を誅さなかったのは、先王の仇を忘れたということであり、不孝の子である。これは天が呉を見捨てた所以である」。王孫駱は言った。「臣が再び越王にお目にかかり、哀願いたしましょう」。夫差は言った。「寡人は国を復興することを願わない。もし属国として、代々越に仕えることが許されるなら、まことに願うところである」。駱は越軍に至ったが、文種と范蠡はこれを拒んで入れなかった。句踐は呉の使者が涙を流して去っていくのを見て、いくらか憐れみの情を抱き、人を遣わして呉王に言わせた。「寡人は君の昔日の情を思い、君を甬東に置き、夫婦五百家を与えて、王の一生を終えさせて差し上げたい」。夫差は涙を含んで答えた。「君王が幸いにも呉を赦してくださるなら、呉もまた君の宝物庫となりましょう。もし社稷を覆し、宗廟を廃してしまったのに、五百家をもって何になりましょうか。臣、孤はすでに老いており、庶民の列に連なることはできません。孤にはただ死あるのみです」。越の使者が去った後も、夫差はまだ自裁しようとしなかった。句踐は文種と范蠡に言った。「二人はどうして彼を捕らえて誅殺しないのか」。文種と范蠡は答えて言った。「臣下の身では君主に誅を加えることはできません。主公自らご命令ください。天誅は行うべきであり、久しく躊躇うべきではありません」。句踐はそこで「歩光」の剣を手に執り、軍の前に立ち、人を遣わして呉王に告げさせた。「世に万歳の君はいない。結局は一死あるのみ。何もわざわざ我が軍の手で王に刃を下させることもあるまい」。夫差はそこで幾度も長嘆息し、四方を顧みて望み、泣いて言った。「私は忠臣子胥と公孫聖を殺した。今、自ら死ぬのは遅すぎたくらいだ」。左右に言った。「死者に知るところがあるのなら、あの世で子胥と公孫聖に会わせる顔がない。必ず薄絹を三幅重ねて我が顔を覆え」。言い終わると、佩剣を抜いて自ら首を刎ねた。王孫駱は衣を脱いで呉王の屍を覆い、そのまま組紐で自らその傍らに首を吊った。句踐は諸侯の礼をもって陽山に葬らせ、兵士に一人ずつ土を一籠ずつ運ばせ、たちまち大きな塚ができた。その三子は龍尾山に流し、後世の人はその里を呉山里と名づけた。詩人張羽に嘆きの詩あり(詩:故城の西にある荒れ果てた台に独り登れば、王の車が通った道は寂れ草木も悲しげだと詠み、廃墟となった墓や壊れた牆の様子、採香径は絶えて鹿が来、響屧廊は空しく黍離の地と化したさまを歎じ、伍子胥を弔う場所も分からぬ淡い煙と斜めの月を歎ずる内容)。楊誠齋には『蘇台弔古』の詩あり(詩:天を衝く四つの塔が雲間から現れ、水を隔てた峰々が雪のあと新たに見えると詠み、三百里遠くまで見渡せると言われながらなぜ六千の越兵が見えなかったのかという皮肉で結ぶ内容)。胡曾先生の詠史詩あり(詩:呉王が覇を恃んで才を逞しくし姑蘇で酒に酔いしれる間に、気づかぬうちに銭塘江上の月が、一夜のうちに西へ越の兵を送り届けてきたと詠む内容)。元人薩都刺の詩あり(詩:閶門の柳が春風に揺れ水殿の花が露に濡れて紅く泣くようだと詠み、飛ぶ柳絮が年ごとに城郭を埋めるなか、道行く人はもはや館娃宮の姿を見ることがないと結ぶ内容)。唐人陸亀蒙が西施を詠んだ詩あり(詩:夜半に呉宮が戦場となり血の匂いが宴の香に混じったと詠み、西施は燃え残る蝋にも及ばない、蝋はなお君王のために数行の涙を流すのだからと憐れむ内容)。
越の覇権と伯嚭の誅殺、范蠡の引退と西施の沈江
- さて越王は姑蘇城に入り、呉王の宮を占拠し、百官が祝賀した。伯嚭もその列にあり、かつて会稽のとき句踐のために取りなした恩を頼みにして、恩に着せるような顔つきをしていた。句踐は言った。「お前は呉の太宰である。寡人があえてお前をここに屈せしめてよいものか。お前の主君は陽山にいる。どうして従わないのか」。伯嚭は恥じ入って退いた。句踐は力士に命じて捕らえて殺させ、その一族を滅ぼして言った。「これをもって子胥の忠に報いる」。句踐は呉の民を慰め落ち着かせた後、兵を率いて北へ江淮を渡り、齊・晋・宋・魯の諸侯とともに舒州で会盟し、人を遣わして周に貢を献じた。このとき周の敬王はすでに崩じ、太子の名は仁が跡を継いでいた。これが元王である。元王は人を遣わして句踐に袞冕・圭璧・彤弓・弧矢を賜い、東方の伯に任命した。句踐は命を受け、諸侯はみな人を遣わして祝賀した。このとき楚は陳国を滅ぼしたが、越の兵威を恐れ、また使者を遣わして親交を修めた。句踐は淮上の地を割いて楚に与え、泗水の東、方百里の地を割いて魯に与え、呉が侵した宋の地は宋に返した。諸侯は喜んで服従し、越を覇者として尊んだ。越王は呉国に戻り、人を遣わして会稽に賀台を築かせ、かつて会稽山に追い詰められて籠城させられた恥をおおい隠した。呉の宮の文台の上で酒宴を開き、群臣とともに楽しみ、楽工に『伐呉』の曲を作らせ、楽師が琴を引いてこれを弾いた。その詞に曰く(歌:我が王の神武が兵の威を養い無道を誅する時が来たことを述べ、大夫文種と范蠡が伍子胥を殺した呉を伐たない理由はないと進言し、賢臣が集って謀り天の恵みを迎えて一戦で千里の疆域を開いたことを讃え、その功業を彝器に刻み、賞は出し惜しみせず罰は見逃さず、君臣ともに酒杯を満たして楽しむ、という趣旨)。台上で群臣は大いに喜んで笑ったが、句踐だけは喜びの色を見せなかった。范蠡はひそかに嘆いて言った。「越王は功を臣下に帰したくないのだ。疑い嫌う兆しはすでに現れている」。翌日、越王に暇乞いして言った。「私は聞いております。『主が辱められれば臣は死ぬ』と。先に、大王が会稽で辱めを受けられたとき、臣が死ななかったのは、隠忍して越の功を成し遂げようと思ったからです。今、呉はすでに滅びました。大王がもし臣を会稽での罪から免じてくださるなら、骸骨を乞い、川や湖のほとりで老いたく存じます」。越王は心を痛め、涙を流して衣を濡らしながら言った。「寡人はお前の力に頼って、今日を迎えることができた。まさに報いを図ろうとしているのに、どうして寡人を棄てて去ろうとするのか。留まるならお前と国を共にし、去るなら妻子を戮する」。蠡は言った。「臣は死ぬべきです。妻子に何の罪がございましょう。生死は王次第です。臣は顧みません」。その夜、扁舟に乗って齊女門を出て、三江を渡り、五湖に入った。今、齊門の外に蠡口という地名があるが、これがすなわち范蠡が三江を渡った道である。翌日、越王が人を遣わして范蠡を召したが、蠡はすでに去っていた。越王は憂わしげに顔を曇らせ、文種に言った。「蠡を追わせることはできるか」。文種は言った。「蠡には鬼神も測れぬ機知があります。追うことはできません」。文種が出た後、ある人が一通の書を持ってきて渡した。種が開いて見ると、それは范蠡自筆であった。その書に曰く。「あなたは呉王の言葉を覚えていないのか。『狡兎死して走狗烹られ、敵国破れて謀臣亡ぶ』と。越王の人柄は、長い頸と鳥のような嘴をして、辱めを忍び功を妬む。ともに患難を分かつことはできても、ともに安楽を分かつことはできない。あなたが今去らなければ、禍は必ず免れないであろう」。
- 文種は読み終えると、書を届けた者を呼ぼうとしたが、すでにどこへ行ったか分からなかった。種は気が晴れなかったが、それでもまだこの言葉を深くは信じておらず、嘆いて言った。「少伯(范蠡)はどうしてこれほど憂え過ぎるのだろうか」。数日後、句踐は兵を引き上げて越に帰り、西施を連れて帰った。越の夫人はひそかに人を遣わしてこれを連れ出させ、大きな石を背負わせて、江に沈めて言った。「これは国を滅ぼす物だ。留めて何になろうか」。後世の人はこの事情を知らず、誤って范蠡が西施を五湖に載せて行ったと伝え、「載せ去りし西施は意図がないわけではあるまい。恐らくは留めれば傾国となり君王を誤らせるからだろう」という句が生まれた。范蠡が扁舟で独りで去り、自分の妻子さえも棄てたことを考えれば、ましてや呉宮の寵妃を、どうしてひそかに載せて行ったりしようか。また、范蠡が越王が再びその色に迷うことを恐れて、計をもって江に沈めたという説もあるが、これもまた誤りである。羅隠には西施の冤罪を弁ずる詩がある(詩:国家の興亡には時があるものだと述べ、世の人はなぜ西施を咎めるのかと問い、もし西施が呉を滅ぼす原因になり得たなら、後に越を滅ぼしたのは誰なのかと反問する内容)。
- さて越王は范蠡の功を思い、その妻子を引き取り、百里の地を封じ、さらに優れた職人に命じて金を鋳させ、范蠡の姿をかたどって座の傍らに置き、まるで蠡が生きているかのようにした。
- さて范蠡は五湖から海に入ったが、ある日、人を遣わして妻子を引き取らせ、そのまま齊に入った。名を鴟夷子皮と改め、齊に仕えて上卿となった。まもなく官を棄て、陶山に隠れ、五種の雌の家畜を飼い、繁殖させて利益を上げること千金に及び、自ら陶朱公と号した。後世の人が伝える『致富奇書』は、陶朱公の遺した術だと言われている。その後、呉人は范蠡を呉江に祀り、晋の張翰、唐の陸亀蒙とあわせて「三高祠」とした。宋人劉寅に詩あり(詩:呉が愚かだったという世評は嘘ではないと述べつつ、越の宰相を崇めることが果たしてどうなのかと問い、千年の亡国の恨みは尽きず、ただ江辺で子胥を祀るのがふさわしいと結ぶ内容)。
- 句踐は呉を滅ぼした功に対する賞を行わず、わずかな土地も分け与えることなく、旧臣とは疎遠になり、会うことも次第に稀になった。計倪は狂を装って職を辞し、曳庸らも多くが老いを理由に引退した。文種は范蠡の言葉を思い出し、病と称して朝廷に出なかった。越王の側近には文種を快く思わない者がおり、王に讒言した。「種は自分の功が大きいのに賞が薄いと考え、心に怨望を抱いています。それで朝廷に出ないのです」。越王は元々文種の才能を知っており、呉を滅ぼした後は、これを用いる場がなくなったと考え、いつか乱を起こすのではないかと恐れ、これを制する人がいないことを懸念して、除きたいと思ったが、その口実がなかった。このとき魯の哀公は季氏・孟氏・仲氏の三家と不和になり、越の兵を借りて魯を伐たせ、三家を除こうとし、越への朝見を口実に越国へやって来た。句踐は心中文種を疑っていたので、出兵しなかった。哀公はそのまま越で死んだ。
文種の死
- さて越王はある日、文種の病を見舞い、種は病状を装いつつも、無理をして王を迎え入れた。王は剣を外して座り、言った。「寡人はこう聞いている。『志士は自分の身が死ぬことを憂えず、自分の道が行われないことを憂える』と。お前には七つの術があり、寡人はその三つを行っただけで、呉はすでに滅んだ。まだ四つの術が残っている。それをどう用いるつもりか」。種は答えて言った。「臣にも用途は分かりません」。越王は言った。「その四つの術を用いて、私のためにあの世の呉の前王たちを謀ってはくれぬか」。言い終えると、そのまま輿に乗って去った。佩剣は座に残したままであった。種はこれを取って見ると、剣の鞘に「属鏤」の二文字があった。これはすなわち夫差が子胥に自刎させるために賜った剣であった。種は天を仰いで嘆いて言った。「昔の人は『大徳は報いられない』と言ったが、私が少伯(范蠡)の言葉を聞き入れなかったために、越王に殺されるとは、なんと愚かなことか」。そしてまた自ら笑って言った。「百世の後、これを論じる者は必ず私を子胥と並べるだろう。それならまた何の恨みがあろうか」。そして剣に伏して死んだ。越王は種の死を知ると、大いに喜び、種を臥龍山に葬った。後世の人はそこでこの山を種山と名づけた。葬って一年後、海水が大いに発し、山の脇を貫いて、塚が突然崩れ裂けた。ある人が子胥と文種が前後して波に乗って去っていくのを見たという。今、銭塘江の潮は幾重にも重なるが、前が子胥、後が文種だと言われている。髯翁に『文種賛』あり(賛:忠なるかな文種、治国の傑物と讃え、三術で呉を滅ぼし一身をもって越に殉じたと述べ、范蠡と行を共にせず、むしろ子胥と滅びを共にしたことを詠み、その千載の生気は銭塘の潮のように幾重にも重なると結ぶ内容)。
- 句踐は在位二十七年で薨じた。周の元王の七年のことである。その後、子孫は代々覇者と称された。
晋の六卿の争い――趙無恤の台頭
- 話は二つに分かれる。さて晋国の六卿は、范氏・中行氏の二氏が滅んで以来、智・趙・魏・韓の四卿だけが残った。智氏は荀氏で、范氏と同じく荀から出ていたので、その一族を区別しようと、智罃の旧例に倣って智氏と改称した。当時智瑤が政を執っており、智伯と号された。四家は田氏が君を弑して国を専断しても、諸侯が誰も討伐しないと聞いて、そこで私的に議を立て、それぞれ都合のよい地を選んで自らの封邑とした。晋の出公の邑は、かえって四卿より少なくなったが、どうすることもできなかった。
- とりわけ趙簡子(名は鞅)には数人の子があり、長子は伯魯といい、末子は無恤といって、賤しい婢の生んだ子であった。姑布子卿という人相見に巧みな者がおり、晋にやって来ると、鞅は諸子を召してこれに相させた。子卿は言った。「将軍となる者はおりません」。鞅は嘆いて言った。「趙氏はもう滅びるにちがいない」。子卿は言った。「私が来る途中、道で一人の少年に出会いました。付き従う者たちはみな君の屋敷の人でした。これはあなたの子ではありませんか」。鞅は言った。「これは私の末子の無恤だ。その生まれは非常に卑しい。どうして語るに足ろうか」。子卿は言った。「天が廃そうとする者は、たとえ貴くとも必ず賤しくなり、天が興そうとする者は、たとえ賤しくとも必ず貴くなります。この子の骨相は、他の公子たちと異なるようです。私はまだよく見ておりません。君はこの子をお召しください」。鞅は人を遣わして無恤を召し出した。子卿は望み見て、急いで立ち上がって拱手して言った。「これこそまことの将軍です」。鞅は笑って答えなかった。後日、諸子をすべて召して、その学問を尋ねると、無恤は問われれば必ず答え、条理は明晰であったので、鞅は初めてその賢さを知った。そこで伯魯を廃して無恤を嫡子に立てた。
- ある日、智伯は鄭が朝見しないことに怒り、趙鞅とともに鄭を伐とうとした。鞅はたまたま病を患っていたので、無恤に代わって将として行かせた。智伯は無恤に酒を無理やり飲ませようとしたが、無恤は飲むことができなかった。智伯は酔って怒り、酒の器を無恤の顔に投げつけ、顔は傷ついて血が流れた。趙氏の将士はみな怒り、智伯を攻めようとした。無恤は言った。「これは小さな恥だ。私はしばらく忍ぼう」。智伯は兵を引き上げて晋に帰ってから、逆に無恤の過失を言い立て、鞅にこれを廃するよう求めた。鞅は従わなかった。無恤はこれより智伯と仲違いした。趙鞅は病が篤くなると、無恤に言った。「いつか晋国に難があれば、ただ晋陽だけが頼りになる。お前はこれを覚えておくがよい」。言い終わって没した。無恤が代わって立った。これが趙襄子である(これは周の貞定王十一年の事である)。
- このとき晋の出公は四卿の専権に憤り、ひそかに人を遣わして齊・魯に兵を乞い、四卿を伐つことを請うた。齊の田氏、魯の三家は、逆にその謀を智伯に告げた。智伯は大いに怒り、韓康子(虎)、魏桓子(駒)、趙襄子(無恤)とともに、四家の兵を合わせて、逆に出公を伐った。出公は齊へ出奔した。智伯は昭公の曾孫の驕を晋君に立てた。これが哀公である。これより晋の大権は、すべて智伯瑤に帰した。瑤はそこで晋に代わろうとする志を抱き、家臣を召し集めて協議した。結局、智伯の成否がどうなるかは、次回を見て解き明かそう。
原文(底本)
話說衛莊公蒯瞶因府藏寶貨俱被出公輒取去,謀於渾良夫。良夫曰:「太了疾與亡君,皆君之子,君何不以擇嗣召之?亡君若歸,器可得也。」有小豎聞其語,私告於太子疾。疾使壯士數人,載豭從己,乘間劫莊公,使歃血立誓,勿召亡君,且必殺渾良夫。莊公曰:「勿召輒易耳。業與良夫有盟在前,免其三死,奈何?」太子疾曰:「請俟四罪,然後殺之。」莊公許諾。未幾,莊公新造虎幕,召諸大夫落成。渾良夫紫衣狐裘而至,袒裘,不釋劍而食。太子疾使力士牽良夫以退。良夫曰:「臣何罪?」太子疾數之曰:「臣見君有常服,侍食必釋劍。爾紫衣,一罪也﹔狐裘,二罪也﹔不釋劍,三罪也。」良夫呼曰:「有盟免三死!」疾曰:「亡君以子拒父,大逆不孝,汝欲召之,非四罪乎?」良夫不能答,俯首受刑。他日,莊公夢厲鬼被髮北面而譟曰:「余為渾良夫,叫天無辜!」莊公覺,使卜大夫胥彌赦占之,曰:「不害也。」既辭出,謂人曰:「冤鬼為厲,身死國危,兆已見矣。」遂逃奔宋。蒯瞶立二年,晉怒其不朝,上卿趙鞅帥師伐衛。衛人逐莊公,莊公奔戎國,戎人殺之,并殺太子疾。國人立公子般師。齊陳恒帥師救衛,執般師立公子起。衛大夫石圃逐起,復迎出公輒為君。輒既復國,逐石圃。諸大夫不睦於輒,逐輒奔越。國人立公子默,是為悼公。自是衛臣服於晉,國益微弱,依趙氏。此段話擱過不提。 再說白公勝自歸楚國,每念鄭人殺父之仇,思以報之。只為伍子胥是白公勝的恩人,子胥前已赦鄭,況鄭服事昭王,不敢失禮,故勝含忍不言。及昭王已薨,令尹子西,司馬子期,奉越女之子章即位,是為惠王。白公勝自以故太子之後,冀子西召己,同秉楚政。子西竟不召,又不加祿,心懷怏怏。及聞子胥已死,曰:「報鄭此其時矣!」使人請於子西曰:「鄭人肆毒於先太子,令尹所知也。父仇不報,無以為人,令尹倘哀先太子之無辜,發一旅以聲鄭罪,勝願為前驅,死無所恨!」子西辭曰:「新王方立,楚國未定,子姑待我。」白公勝乃託言備吳,使心腹家臣石乞,築城練兵,盛為戰具。復請於子西,願以私卒為先鋒,伐鄭。子西許之。尚未出師,晉趙鞅以兵伐鄭,鄭請救於楚。子西帥師救鄭,晉兵乃退,子西與鄭定盟班師。白公怒曰:「不伐鄭而救鄭,令尹欺我甚矣!當先殺令尹,然後伐鄭。」召其宗人白善於澧陽。善曰:「從子而亂其國,則不忠於君﹔背子而發其私,則不仁於族。」遂棄祿,築圃灌園終其身。楚人因名其圃曰:「白善將軍藥圃。」白公聞白善不來,怒曰:「我無白善,遂不能殺令尹耶?」即召石乞議曰:「令尹與司馬各用五百人,足以當之否?」石乞曰:「未足也。市南有勇士熊宜僚者,若得此人,可當五百人之用。」白公乃同石乞造於市南,見熊宜僚。宜僚大驚曰:「王孫貴人,奈何屈身至此?」白公曰:「某有事,欲與子謀之。」遂告以殺子西之事。宜僚搖首曰:「令尹有功於國,而無仇於僚,僚不敢奉命。」白公怒,拔劍指其喉曰:「不從,先殺汝!」宜僚面不改色,從容對曰:「殺一宜僚,如去螻蟻,何以怒為?」白公乃投劍於地,嘆曰:「子真勇士,吾聊試子耳!」即以車載回,禮為上賓,飲食必共,出入必俱。宜僚感其恩,遂以身許白公。及吳王夫差會黃池時,楚國畏吳之強,戒飭邊人,使修儆備。白公勝託言吳兵將謀襲楚,乃反以兵襲吳邊境,頗有所掠。遂張大其功,只說:「大敗吳師,得其鎧仗兵器若干,欲親至楚庭獻捷,以張國威。」子西不知其計,許之。白公悉出自己甲兵,裝作鹵獲百餘乘,親率壯士千人,押解入朝獻功。惠王登殿受捷,子西子期侍立於旁。白公勝參見已畢,惠王見階下立著兩籌好漢,全身披掛,問:「是何人?」勝答曰:「此乃臣部下將士石乞熊宜僚,伐吳有功者。」遂以手招二人。二人舉步,方欲升階,子期喝曰:「吾王御殿,邊臣只許在下叩頭,不得升階!」石乞熊宜僚那肯聽從,大踏步登階。子期使侍衛阻之。熊宜僚用手一拉,侍衛東倒西歪,二人逕入殿中。石乞拔劍來砍子西,熊宜僚拔劍來砍子期。白公大喝:「眾人何不齊上!」壯士千人,齊執兵器,蜂擁而登。白公幫住惠王,不許轉動。石乞生縛子西,百官皆驚散。子期素有勇力,遂拔殿戟,與宜僚交戰。宜僚棄劍,前奪子期之戟。子期拾劍,以劈宜僚,中其左肩。宜僚亦刺中子期之腹。二人兀自相持不捨,攪做一團,死於殿庭。子西謂勝曰:「汝餬口吳邦,我念骨肉之親,召汝還國,封為公爵,何負於汝而反耶?」勝曰:「鄭殺吾父,汝與鄭講和,汝即鄭也。吾為父報仇,豈顧私恩哉?」子西嘆曰:「悔不聽沈諸梁之言也!」白公勝手劍斬子西之頭,陳其屍於朝。石乞曰:「不弒王,事終不濟。」勝曰:「孺子者何罪?廢之可也。」乃拘惠王於高府,欲立王子啟為王。啟固辭,遂殺之。石乞又勸勝自立。勝曰:「縣公尚眾,當悉召之。」乃屯兵於太廟。大夫管修率家甲往攻白公,戰三日,修眾敗被殺。圉公陽乘間使人掘高府之牆為小穴,夜潛入,負惠王以出,匿於昭夫人之宮。 葉公沈諸梁聞變,悉起葉眾,星夜至楚。及郊,百姓遮道迎之。見葉公未曾甲冑,訝曰:「公胡不冑?國人望公之來,如赤子之望父母,萬一盜賊之矢,傷害於公,民何望焉?」葉公乃披掛戴冑而進。將近都城,又遇一群百姓,前來迎接,見葉公戴冑,又訝曰:「公胡冑?國人望公之來,如凶年之望穀米,若得見公之面,猶死而得生也,雖老稚,誰不為公致死力者!奈何掩蔽其面,使人懷疑,無所用力乎?」葉公乃解冑而進。葉公知民心附己,乃建大旆於車。箴尹固因白公之召,欲率私屬入城,既見大旗上「葉」字,遂從葉公守城。兵民望見葉公來到,大開城門,以納其眾。葉公率國人攻白公勝於太廟。石乞兵敗,扶勝登車,逃往龍山。欲適他國,未定。葉公引兵追至,勝自縊而死,石乞埋屍於山後。葉公兵至,生擒石乞,問:「白公何在?」對曰:「已自盡矣!」又問:「屍在何處?」石乞堅不肯言。葉公命取鼎鑊,揚火沸湯,置於乞前,謂曰:「再不言,當烹汝!」石乞自解其衣,笑曰:「事成貴為上卿,事不成則就烹,此乃理之當然也。吾豈肯賣死骨以自免乎?」遂跳入鑊中,須臾糜爛。勝屍竟不知所在。石乞雖所從不正,亦好漢也!葉公迎惠王復位。時陳國乘楚亂,以兵侵楚。葉公請於惠王,帥師伐陳,滅之。以子西之子寧嗣為令尹,子期之子寬嗣為司馬,自己告老歸葉。自此楚國危而復安。(此周敬王四十二年事也。) 是年,越王句踐探聽得吳王自越兵退後,荒於酒色,不理朝政,況連歲凶荒,民心愁怨,乃復悉起境內士卒,大舉伐吳。方出郊,於路上見一大鼃,目睜腹漲,似有怒氣,句踐肅然,憑軾而起。左右問曰:「君何敬?」句踐曰:「吾見怒鼃如欲鬥之士,是以敬之。」軍中皆曰:「吾王敬及怒鼃,吾等受數年教訓,豈反不如鼃乎?」於是交相勸勉,以必死為志。國人各送其子弟於郊境之上,皆泣涕訣別,相語曰:「此行不滅吳,不復相見!」句踐復詔於軍曰:「父子俱在軍中者,父歸﹔兄弟俱在軍中者,兄歸﹔有父母無昆弟者,歸養﹔有疾病不能勝兵者,以告,給醫藥糜粥。」軍中感越王愛才之德,歡聲如雷。行及江口,斬有罪者,以申軍法,軍心肅然。吳王夫差聞越兵再至,亦悉起士卒,迎敵於江上。越兵屯於江南,吳兵屯於江北。越王將大軍分為左右二陣,范蠡率右軍,文種率左軍。君子之卒六千人,從越王為中陣。明日,將戰於江中。乃於黃昏左側,令左軍銜枚,遡江而上五里,以待吳兵,戒以夜半鳴鼓而進。復令右軍銜枚,踰江十里,只等左軍接戰,右軍上前夾攻,各用大鼓,務使鼓聲震聞遠近。吳兵至夜半,忽聞鼓聲震天,知是越軍來襲,倉皇舉火,尚未看得明白,遠遠的鼓聲又起,兩軍相應,合圍攏來。夫差大驚,急傳令分軍迎戰。不期越王潛引私卒六千,金鼓不鳴,於黑暗中,逕沖吳中軍。此時天色尚未明,但覺前後左右中央,盡是越軍,吳兵不能抵當,大敗而走。句踐率三軍緊緊追之,及於笠澤。復戰,吳師又敗。一連三戰三北,名將王子姑曹胥門巢等俱死。夫差連夜遁回,閉門自守。句踐從橫山進兵,即今越來溪是也。築一城於胥門之外,謂之越城,欲以困吳。越王圍吳多時,吳人大困。伯嚭託疾不出。夫差乃使王孫駱肉袒膝行而前,請成於越王,曰:「孤臣夫差,異日得罪於會稽,夫差不敢逆命,得與君王結成以歸。今君王舉兵而誅孤臣,孤臣意者,亦望君王如會稽之赦罪!」句踐不忍其言,意欲許之。范蠡曰:「君王早朝晏罷,謀之二十年,奈何垂成而棄之?」遂不准其行成。吳使往返七次,種蠡堅執不肯。遂鳴鼓攻城,吳人不能復戰。種蠡商議欲毀胥門而入。其夜望見吳南城上有伍子胥頭,巨若車輪,目若耀電,鬚髮四張,光射十里。越將士無不畏懼,暫且屯兵。至夜半,暴風從南門而起,疾雨如注,雷轟電掣,飛石揚沙,疾於弓弩。越兵遭者,不死即傷,船索俱解,不能連屬。范蠡文種情急,乃肉袒冒雨,遙望南門,稽顙謝罪。良久,風息雨止,種蠡坐而假寐,以待天明。夢見子胥乘白馬素車而至,衣冠甚偉,儼如生時。開言曰:「吾前知越兵必至,故求置吾頭於東門,以觀汝之入吳。吳王置吾頭於南門,吾忠心未絕,不忍汝從吾頭下而入,故為風雨,以退汝軍。然越之有吳,此乃天定,吾安能止哉?汝如欲入,更從東門,我當為汝開道,貫城以通汝路。」二人所夢皆同,乃告於越王,使士卒開渠,自南而東。將及蛇匠二門之間,忽然太湖水發,自胥門洶湧而來,波濤衝擊,竟將羅城蕩開一大穴,有鱄䱐無數,隨濤而入。范蠡曰:「此子胥為我開道也!」遂驅兵入城。其後因穴為門,名曰鱄䱐門,因水多葑草,又名葑門。其水名葑溪。此乃子胥顯靈古跡也。 夫差聞越兵入城,伯嚭已降,遂同王孫駱及其三子,奔於陽山。晝馳夜走,腹餒口飢,目視昏眩,左右挼得生稻,剝之以進。吳王嚼之,伏地掬飲溝中之水,問左右曰:「所食者,何物也?」左右對曰:「生稻。」夫差曰:「此公孫聖所言,『不得火食走章皇』也。」王孫駱曰:「飽食而去!前有深谷,可以暫避。」夫差曰:「妖夢已准,死在旦夕,暫避何為?」乃止於陽山,謂王孫駱曰:「吾前戮公孫聖,投於此山之巔,不知尚有靈響否?」駱曰:「王試呼之。」夫差乃大呼曰:「公孫聖!」山中亦應曰:「公孫聖。」三呼而三應。夫差心中恐懼,乃遷於干隧。句踐率千人追至,圍之數重。夫差作書,繫於矢上,射入越軍。軍人拾取呈上,種蠡二人同啟,視其詞曰:「吾聞『狡兔死而良犬烹。』敵國如滅,謀臣必亡,大夫何不存吳一線,以自為餘地?」文種亦作書繫矢而答之曰:「吳有大過者六:戮忠臣伍子胥,大過一也﹔以直言殺公孫聖,大過二也﹔太宰讒佞,而聽用之,大過三也﹔齊晉無罪,數伐其國,大過四也﹔吳越同壤而侵伐,大過五也﹔越親戕吳之前王,不知報仇,而縱敵貽患,大過六也。有此六大過,欲免於亡,得乎?昔天以越賜吳,吳不肯受。今天以吳賜越,越其敢違天之命!」夫差得書,讀至第六款大過,垂淚曰:「寡人不誅句踐,忘先王之仇,為不孝之子,此天之所以棄吳也!」王孫駱曰:「臣請再見越王而哀懇之。」夫差曰:「寡人不願復國,若許為附庸,世世事越,固所願矣。」駱至越軍,種蠡拒之不得入。句踐望見吳使者泣涕而去,意頗憐之,使人謂吳王曰:「寡人念君昔日之情,請置君於甬東,給夫婦五百家,以終王之世。」夫差含淚而對曰:「君王幸赦吳,吳亦君之外府也。若覆社稷,廢宗廟,而以五百家為?臣,孤老矣,不能從編氓之列,孤有死耳!」越使者去,夫差猶未肯自裁。句踐謂種蠡曰:「二子何不執而誅之?」種蠡對曰:「人臣不敢加誅於君,願主公自命之!天誅當行,不可久稽。」句踐乃仗「步光」之劍,立於軍前,使人告吳王曰:「世無萬歲之君,總之一死,何必使吾師加刃於王耶?」夫差乃太息數聲,四顧而望,泣曰:「吾殺忠臣子胥公孫聖,今自殺晚矣!」謂左右曰:「使死者有知,無面目見子胥公孫聖於地下,必重羅三幅,以掩吾面!」言罷,拔佩劍自刎。王孫駱解衣以覆吳王之屍,即以組帶自縊於傍。句踐命以侯禮葬於陽山,使軍士每人負土一蔂,須臾,遂成大冢。流其三子於龍尾山,後人名其里為吳山里。詩人張羽有詩嘆曰: 荒臺獨上故城西,輦路淒涼草木悲。廢墓已無金虎臥,壞牆時有夜烏啼﹔採香徑斷來麋鹿,響屧廊空變黍離﹔欲弔伍員何處所?淡煙斜月不堪題! 楊誠齋《蘇臺弔古》詩云: 插天四塔雲中出,隔水諸峰雪後新,道是遠瞻三百里,如何不見六千人? 胡曾先生詠史詩云: 吳王恃霸逞雄才,貪向姑蘇醉綠醅,不覺錢塘江上月,一宵西送越兵來。 元人薩都刺詩云: 閶門揚柳自春風,水殿幽花泣露紅,飛絮年年滿城郭,行人不見館娃宮。 唐人陸龜蒙詠西施云: 半夜娃宮作戰場,血腥猶雜宴時香﹔西施不及燒殘蠟,猶為君王泣數行。 再說越王入姑蘇城,據吳王之宮,百官稱賀。伯嚭亦在其列,恃其舊日周旋之恩,面有德色。句踐謂曰:「子,吳太宰也,寡人敢相屈乎?汝君在陽山,何不從之?」伯嚭慚而退。句踐使力士執而殺之,滅其家,曰:「吾以報子胥之忠也!」句踐撫定吳民,乃以兵北渡江淮,與齊、晉、宋、魯諸侯,會於舒州,使人致貢於周。時周敬王已崩,太子名仁嗣位,是為元王。元王使人賜句踐袞冕、圭璧、彤弓、弧矢,命為東方之伯。句踐受命,諸侯悉遣人致賀。其時楚滅陳國,懼越兵威,亦遣使修聘。句踐割淮上之地以與楚,割泗水之東,地方百里以與魯,以吳所侵宋地歸宋。諸侯悅服,尊越為霸。越王還吳國,遣人築賀臺於會稽,以蓋昔日被棲之恥。置酒吳宮文臺之上,與群臣為樂,命樂工作《伐吳》之曲,樂師引琴而鼓之。其詞曰: 吾王神武蓄兵威,欲誅無道當何時?大夫種蠡前致詞:吳殺忠臣伍子胥,今不伐吳又何須?良臣集謀迎天禧,一戰開疆千里餘。恢恢功業勒常彝,賞無所吝罰不違。君臣同樂酒盈巵。 臺上群臣大悅而笑,惟句踐面無喜色。范蠡私嘆曰:「越王不欲功歸臣下,疑忌之端已見矣!」次日,入辭越王曰:「臣聞『主辱臣死。』向者,大王辱於會稽,臣所以不死者,欲隱忍成越之功也。今吳已滅矣,大王倘免臣會稽之誅,願乞骸骨,老於江湖。」越王惻然,泣下沾衣,言曰:「寡人賴子之力,以有今日,方思圖報,奈何棄寡人而去乎?留則與子共國,去則妻子為戮!」蠡曰:「臣則宜死,妻子何罪?死生惟王,臣不顧矣。」是夜,乘扁舟出齊女門,涉三江,入五湖。至今齊門外有地名蠡口,即范蠡涉三江之道也。次日,越王使人召范蠡,蠡已行矣。越王愀然變色,謂文種曰:「蠡可追乎?」文種曰:「蠡有鬼神不測之機,不可追也。」種既出,有人持書一封投之。種啟視,乃范蠡親筆。其書曰: 子不記吳王之言乎?「狡兔死,走狗烹﹔敵國破,謀臣亡。」越王為人,長頸鳥喙,忍辱妒功﹔可與共患難,不可與共安樂。子今不去,禍必不免! 文種看罷,欲召送書之人,已不知何往矣。種怏怏不樂,然猶未深信其言,嘆曰:「少伯何慮之過乎?」過數日,句踐班師回越,攜西施以歸。越夫人潛使人引出,負以大石,沉於江中,曰:「此亡國之物,留之何為?」後人不知其事,訛傳范蠡載入五湖,遂有「載去西施豈無意?恐留傾國誤君王」之句。按范蠡扁舟獨往,妻子且棄之,況吳宮寵妃,何敢私載乎?又有言范蠡恐越王復迷其色,乃以計沉之於江,此亦謬也。羅隱有詩辨西施之冤云: 家國興亡自有時,時人何苦咎西施!西施若解亡吳國,越國亡來又是誰? 再說越王念范蠡之功,收其妻子,封以百里之地,復使良工鑄金,象范蠡之形,置之座側,如蠡之生也。 卻說范蠡自五湖入海,忽一日,使人取妻子去,遂入齊。改名曰鴟夷子皮,仕齊為上卿。未幾,棄官隱於陶山,畜五牝,生息獲利千金,自號曰陶朱公。後人所傳《致富奇書》,云是陶朱公之遺術也。其後吳人祀范蠡於吳江,與晉張翰,唐陸龜蒙為「三高祠」。宋人劉寅有詩云: 人謂吳癡信不虛,建崇越相果何如?千年亡國無窮恨,只合江邊祀子胥。 句踐不行滅吳之賞,無尺土寸地分授,與舊臣疏遠,相見益稀。計倪佯狂辭職,曳庸等亦多告老,文種心念范蠡之言,稱疾不朝。越王左右有不悅文種者,譖於王曰:「種自以功大賞薄,心懷怨望,故不朝耳。」越王素知文種之才能,以為滅吳之後,無所用之,恐其一旦為亂,無人可制,欲除之,又無其名。其時魯哀公與季、孟、仲三家有隙,欲借越兵伐魯,以除去三家,乃借朝越為名,來至越國。句踐心虞文種,故不為發兵,哀公遂死於越。 再說越王忽一日往視文種之疾,種為病狀,強迎王入。王乃解劍而坐,謂曰:「寡人聞之:『志士不憂其身之死,而憂其道之不行。』子有七術,寡人行其三,而吳已破滅,尚有四術,安所用之?」種對曰:「臣不知所用也。」越王曰:「願以四術,為我謀吳之前人於地下可乎?」言畢,即升輿而去。遺下佩劍於座。種取視之,劍匣有「屬鏤」二字,即夫差賜子胥自剄之劍也。種仰天嘆曰:「古人云『大德不報。』吾不聽范少伯之言,乃為越王所戮,豈非愚哉!」復自笑曰:「百世而下,論者必以吾配子胥,亦復何恨!」遂伏劍而死。越王知種死,乃大喜,葬種於臥龍山,後人因名其山曰種山。葬一年,海水大發,穿山脅,冢忽崩裂,有人見子胥同文種前後逐浪而去。今錢塘江上,海潮重疊,前為子胥,後乃文種也。髯翁有《文種贊》曰: 忠哉文種,治國之傑!三術亡吳,一身殉越。不共蠡行,寧同胥滅,千載生氣,海潮疊疊。 句踐在位二十七年而薨,周元王之七年也。其後子孫,世稱為霸。 話分兩頭。卻說晉國六卿,自范中行二氏滅後,止存智、趙、魏、韓四卿。智氏荀氏因與范氏同出於荀,欲別其族,乃循智罃之舊,改稱智氏,時智瑤為政,號為智伯。四家聞田氏弒君專國,諸侯莫討,於是私自立議,各擇便據地,以為封邑。晉出公之邑,反少於四卿,無可奈何。就中單表趙簡子名鞅,有子數人,長子名伯魯,其最幼者,名無恤,乃賤婢所生。有善相人者,姓姑布,名子卿,至於晉,鞅召諸子使相之。子卿曰:「無為將軍者。」鞅嘆曰:「趙氏其滅矣!」子卿曰:「吾來時遇一少年在途,相從者皆君府中人,此得非君之子耶?」鞅曰:「此吾幼子無恤,所出甚賤,豈足道哉?」子卿曰:「天之所廢,雖貴必賤﹔天之所興,雖賤必貴。此子骨相,似異諸公子,吾未得詳視也。君可召之。」鞅使人召無恤至。子卿望見,遽起拱立曰:「此真將軍矣!」鞅笑而不答。他日悉召諸子,叩其學問,無恤有問必答,條理分明,鞅始知其賢。乃廢伯魯而立無恤為適子。一日,智伯怒鄭之不朝,欲同趙鞅伐鄭。鞅偶患疾,使無恤代將以往。智伯以酒灌無恤,無恤不能飲。智伯醉而怒,以酒斝投無恤之面,面傷出血。趙氏將士俱怒,欲攻智伯。無恤曰:「此小恥,吾姑忍之。」智伯班師回晉,反言無恤之過,欲鞅廢之。鞅不從。無恤自此與智伯有隙。趙鞅病篤,謂無恤曰:「異日晉國有難,惟晉陽可恃,汝可識之。」言畢遂卒。無恤代立,是為趙襄子。(此乃周貞定王十一年之事。)時晉出公憤四卿之專,密使人乞兵於齊魯,請伐四卿。齊田氏,魯三家,反以其謀告於智伯。智伯大怒,同韓康子虎、魏桓子駒、趙襄子無恤,合四家之眾,反伐出公。出公出奔於齊。智伯立昭公之曾孫驕為晉君,是為哀公。自此晉之大權,盡歸於智伯瑤。瑤遂有代晉之志,召集家臣商議。畢竟智伯成敗如何,且看下回分解。
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