東周列國志第八十五回 楽羊子、怒って中山の羹を啜る/西門豹、偽って河伯の嫁を送る (樂羊子怒餟中山羹 西門豹喬送河伯婦)

趙無䘏の遺言と三家の晋分割

  • さて趙無䘏は豫讓に三度その衣を撃たれ、続けて三度身震いした。豫讓の死後、無䘏がその衣の斬られた箇所を見ると、すべて血の跡があった。これより病にかかり、一年余り治らなかった。無䘏には五人の子があったが、兄の伯魯が自分のために廃されたことを思い、伯魯の子の周を跡継ぎにしようとした。しかし周は先に死んでしまったので、周の子の浣を世子に立てた。無䘏は臨終に際し、世子趙浣に言った。「三卿で智氏を滅ぼし、領地は広く豊かになった。民も心服している。この機会に乗じて、韓・魏と約して晋国を三分し、それぞれ廟社を立て、子孫に伝えるべきだ。もし数年ためらっているうちに、晋にもし英主が出て、権力を掌握し政務に励み、民心を収攬すれば、趙氏の祭祀は保てなくなるだろう」。言い終えると息を引き取った。趙浣は喪を治め終えると、すぐにこの遺言を韓虎に告げた。このとき周の考王四年、晋の哀公が薨じ、子の柳が立った。これが幽公である。韓虎は魏・趙と謀を合わせ、ただ絳州・曲沃の二邑だけを幽公の食禄として残し、残りの地はすべて三家に分けて入れ、三晋と号した。幽公は微弱で、逆に三家に参内して謁見するようになり、君臣の分は転倒してしまった。

田盤の専横と東西二周の始まり

  • さて齊の相国田盤は、三晋がことごとく君主家の領地を分割したと聞き、自らの兄弟や一族の者を、みな齊の都邑の大夫とし、使者を遣わして三晋に祝賀し、これと好を通じた。これより諸国の間の交際は、田・趙・韓・魏の四家が、自らの名義で往来するようになり、齊と晋の君主は、まるで木偶のように手をこまねいているだけとなった。このとき周の考王はその弟の揭を河南の王城に封じ、周公の官職を継がせた。揭の末子の班は、別に鞏に封じられた。鞏が王城の東にあることから、東周公と号し、河南を西周公と称した。これが東西二周の始まりである。考王が薨じ、子の午が立った。これが威烈王である。

三晋の諸侯冊立

  • 威烈王の代に、趙浣が卒し、子の趙籍が代わって立った。そして韓虔が韓を継ぎ、魏斯が魏を継ぎ、田和が田を継ぎ、四家の結びつきはますます深まり、互いに助け合い、共に大事を成すことを約定した。威烈王二十三年、雷電が周の九鼎を撃ち、鼎はみな揺れ動いた。三晋の君主はこれを聞き、ひそかに議して言った。「九鼎は三代伝わる重器である。今にわかに震動したのは、周の運もそろそろ終わろうとしているのだろう。我らが国を立ててすでに久しいのに、まだ正式な名号を得ていない。この王室が衰微している機に乗じて、それぞれ使者を遣わして周王に命を請い、諸侯としての地位を求めよう。彼は我らの強さを畏れて、あえて許さないわけにはいくまい。このようにすれば、名分が正しく道理も通り、富貴の実を得ながら、簒奪の名を負わずに済む。これこそ美事ではないか」。そこでそれぞれ腹心の使者を遣わし、魏は田文を、趙は公仲連を、韓は俠累を遣わし、それぞれ金や絹、土地の産物を携えて、威烈王に献上し、正式な任命を求めた。威烈王は使者に問うた。「晋の地はすべて三家に入ったのか」。魏の使者田文は答えた。「晋はその政を失い、外は離反し内は叛乱が起こりました。三家は自ら兵力をもって叛臣を征討し、その地を有するに至ったのであり、君主家から奪ったわけではございません」。威烈王はまた言った。「三晋がすでに諸侯となろうとするなら、どうして自ら立たずに、また朕に告げるのか」。趙の使者公仲連は答えた。「三晋の代々の強さをもってすれば、自立することはまことに容易でございます。それでもあえて王に任命を請おうとするのは、天子の尊厳を忘れないためにほかなりません。王がもし三晋の君を冊封され、代々忠貞を貫かせてくださるならば、周室の藩屏となりましょう。王室にとって何の不利がございましょうか」。威烈王は大いに喜び、すぐに内史に策命を作らせ、籍を趙侯に、虔を韓侯に、斯を魏侯に封じ、それぞれ黼冕・圭璧一式ずつを賜った。田文らが帰って報告すると、趙・韓・魏の三家は、それぞれ王命をもって国中に宣布した。趙は中牟に、韓は平陽に、魏は安邑にそれぞれ都を置き、宗廟社稷を立てた。さらに使者を遣わしてあまねく列国に告げ、列国もまた多く祝賀の意を伝えた。ただ秦国だけは、晋を棄てて楚に附いて以来、中原と通じておらず、中原諸国もまた夷狄として扱っていたため、独り祝賀の使者を遣わさなかった。まもなく、三家は晋の靖公を廃して庶人とし、純留に遷し、その残りの地もあわせて分割した。晋は唐叔から伝わって靖公に至るまで、あわせて二十九世、その祭祀はここに絶えた。髯翁に嘆きの詩あり(詩:六卿が四に、四が三に帰したことを詠み、南面して諸侯を称することを恥じぬさまを述べ、権力の道具は軽々しく人に授けるべきではないと戒め、多くの愚かな君主が奸悪を導いたと結ぶ内容)。また周王が三晋の求めに従ったことを譏り、人に叛逆を導いたことを詠じた詩あり(詩:王室は微弱でまるで瘤のようであり、どうして三晋が侯を称することを禁じられようかと問い、もし冊命がなければ結局は簒奪となったであろうに、世人はただ三侯ばかりを咎めて周王を咎めないと嘆く内容)。

魏文侯の賢政

  • さて三晋の中で、魏の文侯(斯)が最も賢く、謙虚に人材に下ることができた。当時、孔子の高弟である卜商、字は子夏が、西河で教えを授けており、文侯はこれに従って経学を学んだ。魏成は田子方の賢を推薦し、文侯はこれと友となった。魏成はさらに言った。「西河の人段干木は、徳行があり、隠居して仕えておりません」。文侯はすぐに車を命じて訪ねて行った。干木は車駕が門に至ったと聞くと、そこで後ろの垣を越えて避けた。文侯は嘆いて言った。「高士である」。そこで西河に一か月留まり、日々門を叩いて面会を求め、その庵に近づくときは、車の横木に手をかけて起立し、あえて座ったままでいることはなかった。干木はその誠意を知り、やむを得ず会見した。文侯は安車に乗せて帰り、田子方とともに王の賓客とした。四方の賢士は、その評判を聞いて集まって来た。さらに李克・翟璜・田文・任座といった一団の謀臣が、朝廷に大勢集まり、当時の人材の盛んなることは、魏に及ぶ国はなかった。秦人はしばしば魏に兵を加えようとしたが、その賢臣の多いことを畏れ、そのために兵を控えた。
  • 文侯はかつて虞人(狩猟係)と午の刻に郊外で狩りをすることを約束した。その日の朝、雨が降って非常に寒かった。群臣に酒を賜り、君臣ともに酒を飲み、ちょうど和やかな雰囲気になったとき、文侯は左右に問うた。「時刻は午に及んだか」。答えて言った。「時刻はすでに午でございます」。文侯はすぐに酒宴を撤するよう命じ、御者に急いで郊外へ車を出させようとした。左右は言った。「雨で、狩りはできますまい。どうしてわざわざお出かけになる必要がございましょう」。文侯は言った。「私は虞人と約束をしている。彼は必ず郊外で待っているだろう。たとえ狩りをしなくとも、あえて自ら赴いて約束を守らずにおられようか」。国人は文侯が雨を冒して出かけるのを見て、みな不思議に思ったが、虞人との約束を守るためだと聞くと、みな顔を見合わせて語り合った。「我が君の人に信を失わないことは、これほどまでなのだ」。これより、政令はすべて朝に令すれば夕には行われ、あえてこれに背く者はいなかった。

樂羊の中山討伐

  • さて晋の東に、中山という国があった。姫姓、子爵で、白狄の一派であり、また鮮虞とも号した。晋の昭公の代より、背いたり従ったりが定まらず、しばしば征討され、趙簡子が軍を率いて包囲すると、初めて和を請い、朝貢するようになった。三晋が国を分割してからは、専属する所がなかった。中山の君である子爵の姫窟は、長夜の宴を好み、昼を夜とし夜を昼とし、大臣を疎んじ、群小に狎れ親しみ、民は生業を失い、災異がしばしば現れた。文侯はこれを伐とうと考えた。魏成は進み出て言った。「中山は西は趙に近く、南は魏から遠い。もし攻め取っても、守るのは容易ではありません」。文侯は言った。「もし趙が中山を得れば、北方の勢力はさらに重くなるだろう」。翟璜が奏上して言った。「私が一人推薦したい者がおります。姓は樂、名は羊、本国穀邱の人です。この人は文武両道に秀で、大将の任に堪えます」。文侯は言った。「何をもってそれが分かるのか」。翟璜は答えて言った。「樂羊はかつて道を歩いていて、落ちている金を拾い、持ち帰りました。その妻はこれに唾を吐きかけて言いました。『志ある士は盗泉の水を飲まず、廉潔な者は嗟来の食を受けないものです。この金は出所も知れないのに、どうしてこれを取り、素行を汚すのですか』と。樂羊は妻の言葉に感じ入り、金を野に投げ捨て、妻に別れを告げて出発し、魯・衛に遊学しました。一年過ぎて帰って来ると、妻はちょうど機を織っており、夫に問いました。『学問は成りましたか』。樂羊は言いました。『まだです』。妻は刀を取ってその機の糸を断ち切りました。樂羊は驚いてその理由を尋ねました。妻は言いました。『学問は成ってから初めて行うべきものであり、それは布が織り上がってから初めて着られるのと同じです。今、あなたの学問はまだ成っていないのに、途中で帰ってきました。これはこの機の糸を断ち切ったのと何が違いましょう』と。樂羊は感じ入って悟り、再び学問に向かい、七年帰らずに励みました。今、この人は本国におりますが、自らを高く評価し、小さな仕官には甘んじておりません。どうしてこれを用いないのですか」。文侯はすぐに翟璜に輅車をもって樂羊を招かせた。左右がこれを阻んで言った。「臣は樂羊の長子樂舒が、中山に仕えていると聞いております。どうして任用できましょうか」。翟璜は言った。「樂羊は功名を重んじる士です。その子は中山におりますが、かつてその子が主君のために樂羊を招こうとしたとき、羊は中山君が無道であるとして行きませんでした。主公がもし彼に将としての大任を委ねられれば、どうして成功を得られないことがございましょうか」。文侯はこれに従った。樂羊は翟璜に従って朝廷に入り文侯に謁見した。文侯は言った。「寡人は中山の事を卿に委ねたい。ただ卿の子があちらの国にいることをどうするか」。樂羊は言った。「男子たるもの功業を建てるには、それぞれその主のために尽くすもの。どうして私情のために公事を廃せましょうか。臣がもし中山を滅ぼせないなら、甘んじて軍法の処罰を受けます」。文侯は大いに喜んで言った。「お前が自らを信じられるなら、寡人もお前を信じないことはない」。そこで元帥に任じ、西門豹を先鋒とし、五万の兵を率いて、中山討伐に向かわせた。姫窟は大将の鼓須を遣わし、楸山に兵を屯させて、魏の軍を防がせた。樂羊は文山に兵を屯した。一月余り対峙し、勝敗はつかなかった。樂羊は西門豹に言った。「私は主公の前で軍令状を出してここに来た。今、出兵して一月余り、まだ何の功もない。恥ずかしいことだ。私が見るに、楸山には楸の木が多い。誠に胆勇のある士を得て、ひそかに赴かせ、火を放って林を焼けば、敵兵は必ず混乱する。混乱に乗じれば、勝てないことはあるまい」。西門豹は自ら行くことを願い出た。
  • ちょうど八月中秋、中山の君である子爵の姫窟は、使者を遣わして羊と酒を楸山に届け、鼓須をねぎらわせた。鼓須は月に向かって存分に酒を飲み、楽しみに酔いしれて我を忘れた。三更の頃、西門豹は精兵を率い枚を銜ませて突如として至り、一人一人が長い松明を持ち、みな枯れ枝を束ねたもので、中には引火性の薬物が仕込まれていた。四方から楸の木に火を放って焼いた。鼓須は軍中で火の手が上がり、陣営に燃え広がるのを見ると、酔ったまま兵士を率いて消火に当たったが、あちこちでバチバチと燃え広がり、山全体が燃え上がって、消火できる場所は一つもなかった。軍中は大混乱に陥った。鼓須は前営に魏の兵がいることを知り、急いで山の後ろへ逃げた。ちょうどそこへ樂羊が自ら兵を率いて山の後ろから襲ってきたので、中山の兵は大敗し、鼓須は死に物狂いで戦って脱出した。白羊関まで逃げたが、魏の兵が背後に迫ってきており、鼓須は関を捨てて逃げた。樂羊は一気に攻め込み、行く先々で敵を打ち破った。鼓須は敗残兵を率いて姫窟に会い、樂羊の勇智に敵わないと報告した。まもなく、樂羊は兵を率いて中山を包囲し、姫窟は大いに怒った。大夫の公孫焦が進み出て言った。「樂羊は樂舒の父であり、舒は本国に仕えております。主公が樂舒に命じ、城の上から父の兵を退かせるよう説得させれば、これは上策となりましょう」。姫窟はこの計に従い、樂舒に言った。「お前の父が魏の将として城を攻めている。もし説得して兵を退かせることができれば、大きな邑を封じよう」。樂舒は言った。「臣の父は以前中山に仕えることを肯んぜず、魏に仕えました。今はそれぞれ自分の主のために尽くしているだけです。どうして臣がこれを説得できましょうか」。姫窟は強いてこれを命じた。樂舒はやむを得ず、城に登って大声で叫び、父に会うことを求めた。樂羊は轈車に武装して登り、樂舒に一目会うと、口を開かせる前に、すぐに責めて言った。「君子は危うい国に居らず、乱れた朝廷に仕えない。お前は富貴を貪り、去就をわきまえない。私は君命を奉じて苦しむ民を慰撫し、罪ある者を討つのだ。お前は君を勧めて速やかに降伏させよ。さすれば会うことも許されよう」。樂舒は言った。「降伏するかどうかは我が君のお決めになることであり、私が一存で決められるものではありません。ただ、父上にしばらく攻撃を緩めていただき、我が君臣にじっくり協議させていただきたいのです」。樂羊は言った。「私はしばらく一か月、兵を休めよう。それによって父子の情を全うする。お前ら君臣は早々に議を決めよ。大事を誤ってはならぬ」。樂羊は果たして令を出し、ただ緩やかに包囲して封じ込めるだけで、城を攻めさせなかった。姫窟は樂羊の我が子を愛する心を頼みにして、決して急攻はしないだろうと考え、なおも延引を図り、まったく方策を立てなかった。一か月経つと、樂羊は人を遣わして降伏の返事を求めた。姫窟はまた樂舒に猶予を求めさせ、樂羊はまた一か月延ばした。このようなことが三度に及んだ。西門豹が進み出て言った。「元帥は中山を落とすつもりがないのですか。どうして長らく攻めないのですか」。樂羊は言った。「中山君は民を憐れまない。だから私はこれを伐っているのだ。もし急激に攻めれば、民の被害はますます大きくなる。私が三度その求めに従っているのは、父子の情のためだけではなく、民心を収めるためでもあるのだ」。

中山落城と樂舒の死――樂羊、靈壽君に封ぜられる

  • さて魏の文侯の左右の者は、樂羊が新たに登用され、急に重用されたことを、みな快く思っていなかった。三度攻撃を止めたと聞くと、そこで文侯に讒言して言った。「樂羊は連戦連勝の勢いに乗じ、破竹の勢いであったのに、ただ樂舒の一言によって、三か月も攻めていません。父子の情が深いことも分かります。主公がもし召還されなければ、軍を長引かせ財を費やすばかりで、何の益もないことを恐れます」。文侯は応じず、翟璜に問うた。璜は言った。「これには必ず計略があるのでしょう。主公はお疑いになりませぬよう」。これより群臣が次々と上書し、中山が国の半分を分けて樂羊に与えようとしていると言う者もあれば、樂羊が中山と共謀して魏国を攻めようとしていると言う者もいたが、文侯はすべて封じて箱に納めた。ただ時々使者を遣わしてねぎらい、あらかじめ都に邸宅を用意して、その帰りを待った。樂羊は心中大いに感激し、中山がなお降伏しないのを見て、そこで自ら将士を率いて力を尽くして攻撃した。中山の城は堅く厚く、しかも兵糧を多く蓄えており、鼓須と公孫焦は昼夜見張りをし、城中の木石を取り壊して防御に用いた。数か月攻めても、なお破ることができなかった。樂羊は業を煮やし、西門豹とともに自ら矢石の下に立ち、四方の門から急襲するよう督励した。鼓須はちょうど兵士を指揮していたところ、額に矢を受けて死んだ。城中の家屋や塀は、次第にすべて取り壊されてしまった。公孫焦は姫窟に言った。「事態はもはや切迫しております。今、一つだけ策がございます。魏の兵を退けることができましょう」。窟は問うた。「どのような策か」。公孫焦は言った。「樂舒が三度猶予を求め、羊がそれをすべて聞き入れたことから見ても、その我が子への愛情の深さは明らかです。今、攻撃が急を告げております。樂舒を縛り上げて高い竿に縛りつけ、もし軍を退かなければ、その子を殺すと脅せば、樂舒が哀れを叫んで命乞いをすることになり、樂羊の攻撃は必ずまた緩むでしょう」。姫窟はこの言葉に従った。樂舒は高い竿の上から、大声で叫んだ。「父上、お助けください」。樂羊はこれを見て、大いに罵って言った。「不肖の子め。お前は他国に仕えていながら、上はその主に戦勝の功をもたらすこともできず、下は危急に際して命を投げ出すこともできず、お前の主君に和議を決断させることもできない。それでいて乳飲み子のように哀れを乞うつもりか」。言い終えると、弓を構え矢をつがえ、樂舒を射殺そうとした。舒は苦しみを叫びながら城を下り、姫窟に会って言った。「父は国のために志を立てており、父子の情を顧みません。主公は自ら戦うか守るかの策をお考えください。臣は君の御前で死んで、兵を退けられなかった罪を明らかにいたします」。公孫焦は言った。「その父が城を攻めているのですから、その子に罪がないとは言えません。まさに死を賜るべきです」。姫窟は言った。「樂舒の過ちではない」。公孫焦は言った。「樂舒が死ねば、臣にはすぐに兵を退けさせる計がございます」。姫窟はそこで剣を舒に授け、舒は自らその首を刎ねて死んだ。公孫焦は言った。「人情は父子ほど親しいものはありません。今、樂舒を煮て羹とし、樂羊に贈れば、羊は羹を見て必ず忍びなく思うでしょう。その哀しみに乗じて、心が攻撃に向かわなくなったところで、主公が一軍を率いて打って出て、大いに一戦を交え、幸運にも勝てれば、また改めて計を考えましょう」。姫窟はやむを得ずこれに従った。樂舒の肉を煮て羹とさせ、その首とともに樂羊のもとへ送って、こう伝えさせた。「わが君は、若将軍が兵を退かせられなかったため、すでに殺して煮ました。謹んでその羹を献上いたします。若将軍にはまだ妻子がおります。元帥がもしさらに城を攻められるなら、すぐにみな誅殺いたします」。樂羊はそれが我が子の首だと認め、大いに罵って言った。「不肖の子め。無道の暗君に仕えたのだから、死ぬのも当然だ」。すぐに羹を取り、使者に見せつけながら、器一杯すべて食べ尽くした。使者に言った。「お前の主君から羹を賜ったことに感謝する。城が落ちる日には、直接お礼申し上げよう。我が軍中にも人を煮るための大釜がある。お前の主君を煮るために待っているのだ」。使者は帰って報告した。姫窟は樂羊にわが子を悼む心が微塵もないのを見て、攻城がますます急になったので、城が落ちて辱めを受けることを恐れ、後宮に入って自ら首を吊った。公孫焦は門を開いて降伏した。樂羊はその讒佞にして国を敗った罪を数え上げ、これを斬った。住民を撫慰し終えると、兵五千を留め、西門豹に守らせた。中山の府庫の宝玉をすべて収め、兵を引き上げて魏に帰った。魏の文侯は樂羊の成功を聞き、自ら城を出て出迎え、ねぎらって言った。「将軍は国のために子を喪った。まことに孤の過ちである」。樂羊は額を地につけて拝し、言った。「臣は義として、私情を顧みて主公より託された斧鉞の任にそむくようなことは、あえていたしません」。樂羊は朝見を終えると、中山の地図と宝貨の数を献上した。群臣は祝賀した。文侯は内台で宴を設け、自ら杯を捧げて樂羊に賜った。羊は杯を受けて飲み、意気揚々として、大いに功を誇る様子であった。宴が終わると、文侯は左右に二つの箱を提げさせ、非常に厳重に封をして、樂羊の邸へ届けさせた。左右がその二つの箱を手渡すと、樂羊は思った。「箱の中は必ず真珠や金や玉の類だろう。主公は群臣の妬みを恐れて、あえて封をして私に贈られたのだろう」。家人に命じて母屋の広間に運ばせ、箱を開いて見ると、すべて群臣の上奏文であり、その内容はすべて樂羊が謀反を企てているというものであった。樂羊は大いに驚いて言った。「朝廷でこれほどの中傷があったのか。我が君がこれほど深く私を信じてくださり、惑わされなかったからこそ、成功を得ることができたのだ」。翌日、朝廷に参内して謝恩すると、文侯は上賞を加えようと議した。樂羊は再拝して辞退して言った。「中山の滅亡は、すべて主公が内で力を持ちこたえてくださったおかげです。臣は外でいささか犬馬の労を尽くしただけです。何の力がございましょうか」。文侯は言った。「寡人でなければ卿を用いることはできず、卿でなければ寡人の委任に堪えることはできなかった。しかし将軍は疲れたであろう。どうか領地に就いて安んじられよ」。そこで靈壽の地を羊に封じ、靈壽君と称し、その兵権を解いた。翟璜が進み出て言った。「主公はすでに樂羊の能力をご存知でありながら、どうして兵を率いて辺境を守らせず、安閑とさせるのですか」。文侯は笑って答えなかった。璜は朝廷を出て李克に尋ねると、克は言った。「樂羊は我が子さえ愛さなかった。まして他人をやである。これが管仲が易牙を疑った所以だ」。翟璜はそこで悟った。

世子撃と田子方の問答

  • 文侯は中山の地が遠いことを思い、必ず信頼できる人を守りに置かねば、安心できないと考えた。そこでその世子の撃を中山君とした。撃は命を受けて出発する際、田子方がぼろぼろの車に乗ってやってくるのに出会った。撃は慌てて車を下り、道の傍らで両手を組んで立ち、敬意を示した。田子方は車を駆って通り過ぎ、傲然として振り返りもしなかった。撃は内心穏やかならず、そこで人にその車の縄を引かせ、進み出て言った。「撃はあなたにお尋ねしたい。富貴な者が人に驕るものか、貧賤な者が人に驕るものか」。子方は笑って言った。「昔から、ただ貧賤な者だけが人に驕るのであり、富貴な者が人に驕るという道理はどこにありましょうか。国君が人に驕れば、社稷を保てず、大夫が人に驕れば、宗廟を保てません。楚の霊王は驕りによってその国を滅ぼし、智伯瑤は驕りによってその家を滅ぼしました。富貴が頼みにならないことは、これで明らかです。そもそも貧賤の士は、食べるものは粗末な野菜にすぎず、着るものは粗末な布の衣にすぎず、人に求めることなく、世に欲することもありません。ただ士を好む主がいれば、自ら喜んでその主のもとへ仕えに行くのです。言葉が聞き入れられ計が合えば、努めてそこに留まります。そうでなければ、悠然と長く去っていくだけです。誰がこれを止められましょうか。武王は万乗の紂を誅することができましたが、首陽山の伯夷・叔齊の二士を屈服させることはできませんでした。貧賤の士がこれほどまでに貴いということです」。太子撃は大いに恥じ入り、謝罪して去った。文侯は子方が世子にも屈しなかったと聞き、ますますこれを敬い礼遇した。

西門豹の鄴治――河伯の嫁取りを廃す

  • このとき鄴の都には守り手がなく、翟璜は言った。「鄴は上党と邯鄲の間に位置し、韓・趙と隣り合っております。必ず強く聡明な人物にこれを守らせねばなりません。西門豹でなければなりません」。文侯はすぐに西門豹を鄴都の守とした。豹が鄴城に着くと、町並みは寂れ、人民は少なかった。父老たちを前に召し、その苦しみを問うた。父老たちはみな言った。「河伯に嫁を娶らせることに苦しんでおります」。豹は言った。「奇妙なことだ、奇妙なことだ。河伯がどうして嫁を娶るのか。詳しく話してくれ」。父老は言った。「漳水は沾嶺から流れ来て、沙城を経て東へ向かい、鄴を経て漳河となります。河伯とはすなわちこの清漳の神です。この神は美しい婦人を好み、毎年一人の夫人を納めます。もし嫁を選んでこれを娶らせれば、常に豊作を保ち、雨水も調和すると言われます。そうしなければ、神は怒り、水があふれ、人家を漂わせ溺れさせるというのです」。豹は言った。「この事は誰が言い始めたのか」。父老は言った。「これはこの邑の巫女たちが言い出したことです。世の人は水害を恐れ、あえて従わずにはいられません。毎年、里の豪族と廷掾が、巫女とともに謀って、民から数百万銭を取り立て、そのうち二三十万を河伯の嫁取りの費用に用い、その残りは共に分け合っております」。豹は問うた。「民はその財産を分け取りされるままにしているのか。一言も言わないのか」。父老は言った。「巫女は祈祷の事を司り、三老・廷掾は徴収・奔走の労がありますので、公費を分け取りするのを、当然のこととして甘んじて受け入れております。もっと苦しいことがあります。毎年春の初めに種をまく頃、巫女は各家を訪ね歩いて、いくらか容色のある女子を見つけると、『この娘は河伯の夫人にふさわしい』と言います。願わない者は、多くの金品を出して免除を求め、別の娘を探させます。貧しい民でこれを買い戻す余裕のない者は、やむなく娘を差し出すことになります。巫女は河のほとりに斎宮を建て、深紅の帳や寝台をしつらえて新調し、その娘を沐浴させ着替えさせて、斎宮の中に住まわせます。吉日を占い、葦を編んで舟を作り、娘をこれに乗せて、河に浮かべ、数十里流れて沈むのです。人家はこの煩わしい出費に苦しみ、また娘を愛する者は、河伯に娶られるのを恐れ、娘を連れて遠くへ逃げます。それゆえ城中はますます空虚になっているのです」。豹は言った。「あなた方の邑は水害を受けたことがあるのか」。父老は言った。「毎年嫁を娶らせているおかげで、河神の怒りに触れたことはございません。しかし溺れる被害はまぬがれていても、この邑は土地が高く川から遠いため、日照りのたびに乾く被害があります」。豹は言った。「神に本当に霊験があるなら、嫁入りの際、私も行って送り、あなた方のために祈ろう」。
  • 期日になると、父老は果たしてやって来て告げた。西門豹は衣冠を整えて自ら河のほとりに赴いた。邑中の役人、三老、豪族、里長、父老は、集まらない者はなく、遠近の民もみな集まり、見物する者は数千人に及んだ。三老・里長らは大巫女を案内して来たが、その様子はたいそう傲慢であった。豹がこれを見ると、老いた女であった。小巫である女弟子二十余人は、身なりを整え、みな手拭い・櫛・香炉の類を持って、その後に侍していた。豹は言った。「大巫女、ご苦労である。河伯の夫人を呼んでもらいたい。私も見てみたい」。老巫女は弟子を振り返って呼ばせた。豹が女子を見ると、鮮やかな衣に白い足袋を履き、容色は中程度であった。豹は巫女嫗と三老・衆人に言った。「河伯は貴い神である。女子は必ず絶世の美人でなければ、釣り合わない。この女子は良くない。大巫女に頼んで河伯に報告してもらおう。ただ太守の言葉を伝えてくれ。『別に良い女子を求めて、後日改めて送る』と」。すぐに吏卒数人に命じて、老巫女を抱え上げ、河の中に投げ込ませた。左右の者は誰もが驚き顔色を失った。豹は静かに立ってしばらく待ち、言った。「嫗は年老いて事にうとい。河の中にずいぶん長くいるのに、まだ返事がない。弟子よ、私のために催促してくれ」。再び吏卒に弟子の一人を抱えさせ、河に投げ込ませた。しばらくして、また言った。「弟子はどうしてこんなに長いのか」。また弟子を一人遣わして催促させた。それでもまだ遅いと言って、さらに一人投げ込んだ。あわせて弟子三人を投げ込み、水に入るとすぐに沈んだ。豹は言った。「これらはみな女子の身であり、伝言が要領を得ないのだろう。三老に頼んで河に入り、はっきりと言ってもらおう」。三老はまさに辞退しようとした。豹は叱った。「早く行け。すぐに答えを取って戻ってこい」。吏卒は左右から引っ張り、有無を言わさず、また河に押し込み、波に乗って流れて行った。傍らで見ていた者は、みな舌を巻いた。西門豹は筆を髪に挟み、身をかがめて、河に向かって恭しく待った。およそ一時辰(二時間ほど)が過ぎて、豹は言った。「三老は年老いており、これもうまくいかなかったようだ。廷掾か里の豪族の長に行って報告してもらう必要がある」。廷掾や里の豪族たちは、顔面蒼白になり、汗が背中を伝って流れ落ち、一斉に地に額をすりつけて哀願し、血が顔じゅうに流れても、決して立とうとしなかった。西門豹は言った。「しばらく待とう」。皆は恐れ震えながら、さらに一刻ほど過ぎると、西門豹は言った。「河の水は滔々として、去っては戻らない。河伯はどこにいるのか。お前たちはいわれなく民間の女子を殺してきた。その罪は命で償うべきである」。皆は再びぬかずいて謝って言った。「今までみな巫女嫗に欺かれておりました。私どもの罪ではございません」。豹は言った。「巫女嫗はすでに死んだ。今後もし河伯の嫁取りを言う者があれば、すぐにその者自身を媒として、河伯に報告に行かせよ」。そこで廷掾、里の豪族、三老が着服していた財貨は、すべて取り立てて民間に分け戻された。さらに父老に、民の中から、年配で妻のない者を探させ、女弟子たちを嫁がせた。巫女の風習はこうして絶えた。逃げていた民たちも、みな郷里に戻ってきた。詩にこう証されている(詩:河伯が本当に妻を娶ったところなど誰も見たことがなく、愚民は無知ゆえに巫女に欺かれていたと詠み、賢明な県令が疑いの網を取り除いてこそ、女子は損なわれずに安眠できるようになったと結ぶ内容)。
  • 豹はまた地形を測量し、漳水の通せる場所を見て、民に渠を掘らせ、それぞれ十二か所に、漳水を引いて渠に入れた。これによって水の勢いを殺すとともに、内側の田畑が渠の水で潤うようになり、干ばつの心配がなくなり、穀物の収穫は倍増し、民は生業を楽しむようになった。今、臨漳県に西門渠があるのは、すなわち豹が掘ったものである。

西河の守を問われ、翟璜が呉起を挙げる

  • 文侯は翟璜に言った。「寡人は卿の言葉を聞き入れ、樂羊に中山を伐たせ、西門豹に鄴を治めさせたが、いずれもその任に堪えてくれた。寡人はこれに頼っている。今、西河は魏の西の辺境にあり、秦人が魏を侵す通り道となっている。卿は誰がこれを守るのにふさわしいと考えるか」。翟璜はしばし考え込んでから、答えた。「臣が一人推薦したい者がおります。姓は呉、名は起。この人物は大いに将才がございます。今、魯から魏へと参りました。主公は速やかにお召しになって用いられるべきです。もし遅れれば、また他国へ行ってしまうでしょう」。文侯は言った。「起は妻を殺して魯の将となることを求めた者ではないか。この人物は財を貪り色を好み、性質も残忍であると聞く。どうして重任を託せようか」。翟璜は言った。「臣が推薦するのは、その者が主公のために一日の功を成し遂げる能力を取り上げているのであり、平素の行いを問題にするものではございません」。文侯は言った。「試しに寡人のためにこれを召してみよ」。呉起がどのように魏で功を立てたかは分からない。次回を見て解き明かそう。
原文(底本)
話說趙無䘏被豫讓三擊其衣,連打三個寒噤,豫讓死後,無䘏視衣砍處,皆有血跡,自此患病,逾年不痊。無䘏生有五子,因其兄伯魯為己而廢,欲以伯魯之子周為嗣,而周先死,乃立周之子浣為世子。無䘏臨終,謂世子趙浣曰:「三卿滅智氏,地土寬饒,百姓悅服。宜乘此時,約韓魏三分晉國,各立廟社,傳之子孫。若遲疑數載,晉或出英主,攬權勤政,收拾民心,則趙氏之祀不保矣。」言訖而瞑。趙浣治喪已畢,即以遺言告於韓虎。時周考王之四年,晉哀公薨,子柳立,是為幽公。韓虎與魏趙合謀,只以絳州曲沃二邑,為幽公俸食,餘地皆三分入於三家,號曰三晉。幽公微弱,反往三家朝見,君臣之分倒置矣。

  再說齊相國田盤,聞三晉盡分公家之地,亦使其兄弟宗人,盡為齊都邑大夫,遣使致賀於三晉,與之通好。自是列國交際,田、趙、韓、魏四家,自出名往來,齊晉之君,拱手如木偶而已。時周考王封其弟揭於河南王城,以續周公之官職。揭少子班,別封於鞏。因鞏在王城之東,號曰東周公,而稱河南曰西周公,此東西二周之始。考王薨,子午立,是為威烈王。威烈王之世,趙浣卒,子趙籍代立。而韓虔嗣韓,魏斯嗣魏,田和嗣田,四家相結益深,約定彼此互相推援,共成大事。威烈王二十三年,有雷電擊周之九鼎,鼎俱搖動。三晉之君,聞此私議曰:「九鼎乃三代傳國之重器,今忽震動,周運其將終矣。吾等立國已久,未正名號,乘此王室衰微之際,各遣使請命於周王,求為諸侯,彼畏吾之強,不敢不許。如此,則名正言順,有富貴之實,而無篡奪之名,豈不美哉?」於是各遣心腹之使,魏遣田文,趙遣公仲連,韓遣俠累,各齎金帛及土產之物,貢獻於威烈王,乞其冊命。威烈王問於使者曰:「晉地皆入於三家乎?」魏使田文對曰:「晉失其政,外離內叛,三家自以兵力征討叛臣,而有其地,非攘之於公家也。」威烈王又曰:「三晉既欲為諸侯,何不自立?乃復告於朕乎?」趙使公仲連對曰:「以三晉累世之強,自立誠有餘,所以必欲稟命者,不敢忘天子之尊耳。王若冊封三晉之君,俾世篤忠貞,為周藩屏,於王室何不利焉?」威烈王大悅,即命內史作策命,賜籍為趙侯,虔為韓侯,斯為魏侯,各賜黼冕圭璧全副。田文等回報,於是趙、韓、魏三家,各以王命宣布國中。趙都中牟,韓都平陽,魏都安邑,立宗廟社稷。復遣使遍告列國,列國亦多致賀。惟秦國自棄晉附楚之後,不通中國,中國亦以夷狄待之,故獨不遣賀。未幾,三家廢晉靖公為庶人,遷於純留,而復分其餘地。晉自唐叔傳至靖公,凡二十九世,其祀遂絕。髯翁有詩嘆云:

    六卿歸四四歸三,南面稱侯自不慚;利器莫教輕授柄,許多昏主導奸貪。

  又有詩譏周王不當從三晉之命,導人叛逆。詩云:

    王室單微似贅瘤,怎禁三晉不稱侯?若無冊命終成竊,只怪三侯不怪周。

  卻說三晉之中,惟魏文侯斯最賢,能虛心下士。時孔子高弟卜商,字子夏,教授於西河,文侯從之受經。魏成薦田子方之賢,文侯與之為友。成又言:「西河人段干木,有德行,隱居不仕。」文侯即命駕車往見。干木聞車駕至門,乃踰後垣而避之。文侯嘆曰:「高士也!」遂留西河一月,日日造門請見,將近其廬,即憑軾起立,不敢倨坐。干木知其誠,不得已而見之。文侯以安車載歸,與田子方同為王賓。四方賢士,聞風來歸。又有李克、翟璜、田文、任座一班謀士,濟濟在朝,當時人才之盛,無出魏右。秦人屢次欲加兵於魏,畏其多賢,為之寢兵。文侯嘗與虞人期定午時,獵於郊外。其日早朝,值天雨,寒甚,賜群臣酒,君臣各飲,方在浹洽之際,文侯問左右曰:「時及午乎?」答曰:「時午矣。」文侯遽命撤酒,促輿人速速駕車適野。左右曰:「雨,不可獵矣,何必虛此一出乎?」文侯曰:「吾與虞人有約,彼必相候於郊,雖不獵,敢不親往以踐約哉?」國人見文侯冒雨而出,咸以為怪,及聞赴虞人之約,皆相顧語曰:「我君之不失信於人如此。」於是凡有政教,朝令夕行,無敢違者。

  卻說晉之東,有國名中山,姬姓,子爵,乃白狄之別種,亦號鮮虞。自晉昭公之世,叛服不常,屢次征討,趙簡子率師圍之,始請和,奉朝貢。及三晉分國,無所專屬。中山子姬窟,好為長夜之飲,以日為夜,以夜為日,疏遠大臣,狎昵群小,黎民失業,災異屢見。文侯謀欲伐之。魏成進曰:「中山西近趙,而南遠於魏,若攻而得之,未易守也。」文侯曰:「若趙得中山,則北方之勢愈重矣。」翟璜奏曰:「臣舉一人,姓樂名羊,本國穀邱人也。此人文武全才,可充大將之任。」文侯曰:「何以見之?」翟璜對曰:「樂羊嘗行路,得遺金,取之以歸,其妻唾之曰:『志士不飲盜泉之水,廉者不受嗟來之食。此金不知來歷,奈何取之,以污素行乎?』樂羊感妻之言,乃拋金於野,別其妻而出,遊學於魯衛。過一年來歸,其妻方織機,問夫:『所學成否?』樂羊曰:『尚未也。』妻取刀斷其機絲。樂羊驚問其故。妻曰:『學成而後可行,猶帛成而後可服。今子學尚未成,中道而歸,何異於此機之斷乎?』樂羊感悟,復往就學,七年不返。今此人見在本國,高自期許,不屑小仕,何不用之?」文侯即命翟璜以輅車召樂羊,左右阻之曰:「臣聞樂羊長子樂舒,見仕中山,豈可任哉?」翟璜曰:「樂羊,功名之士也。子在中山,曾為其君招樂羊,羊以中山君無道不往。主公若寄以斧鉞之任,何患不能成功乎?」文侯從之。樂羊隨翟璜入朝見文侯,文侯曰:「寡人欲以中山之事相委,奈卿子在彼國何?」樂羊曰:「丈夫建功立業,各為其主,豈以私情廢公事哉?臣若不能破滅中山,甘當軍令!」文侯大喜曰:「子能自信,寡人無不信了。」遂拜為元帥,使西門豹為先鋒,率兵五萬,往伐中山。姬窟遣大將鼓須,屯兵楸山,以拒魏師。樂羊屯兵於文山。相持月餘,未分勝負。樂羊謂西門豹曰:「吾在主公面前,任軍令狀而來,今出兵月餘,未有寸功,豈不自愧!吾視楸山多楸樹,誠得一膽勇之士,潛師而往,縱火焚林,彼兵必亂,亂而乘之,無不勝矣。」西門豹願往。其時八月中秋,中山子姬窟,遣使齎羊酒到楸山,以勞鼓須。鼓須對月暢飲,樂而忘懷。約至三更,西門豹率兵壯銜枚突至,每人各持長炬一根,俱枯枝扎成,內灌有引火藥物,四下將楸木焚燒。鼓須見軍中火起,延及營寨,帶醉率軍士救火,只見咇咇??,遍山皆著,沒救一頭處。軍中大亂。鼓須知前營有魏兵,急往山後奔走。正遇樂羊親自引兵從山後襲來,中山兵大敗,鼓須死戰得脫。奔至白羊關,魏兵緊追在後,鼓須棄關而走。樂羊長驅直入,所向皆破。鼓須引敗兵見姬窟,言樂羊勇智難敵。須臾,樂羊引兵圍了中山,姬窟大怒。大夫公孫焦進曰:「樂羊者,樂舒之父,舒仕於本國。君令舒於城上說退父兵,此為上策。」姬窟依計,謂樂舒曰:「爾父為魏將攻城,如說得退兵,當封汝大邑。」樂舒曰:「臣父前不肯仕中山,而仕於魏,今各為其主,豈臣說之可行哉?」姬窟強之。樂舒不得已,只得登城大呼,請其父相見。樂羊披掛登於轈車,一見樂舒,不等開口,遽責曰:「君子不居危國,不事亂朝。汝貪於富貴,不識去就。吾奉君命弔民伐罪,可勸汝君速降,尚可相見。」樂舒曰:「降不降在君,非男所得專也。但求父暫緩其攻,容我君臣從容計議。」樂羊曰:「吾且休兵一月,以全父子之情。汝君臣可早早定議,勿誤大事。」樂羊果然出令,只教軟困,不去攻城。姬窟恃著樂羊愛子之心,決不急攻,且圖延緩,全無主意。過了一月,樂羊使人討取降信。姬窟又叫樂舒求寬,樂羊又寬一月。如此三次,西門豹進曰:「元帥不欲下中山乎?何以久而不攻也?」樂羊曰:「中山君不恤百姓,吾故伐之。若攻之太急,傷民益甚。吾之三從其請,不獨為父子之情,亦所以收民心也。」

  卻說魏文侯左右見樂羊新進,驟得大用,俱有不平之意。及聞其三次輟攻,遂譖於文侯曰:「樂羊乘屢勝之威,勢如破竹,特因樂舒一語,三月不攻,父子情深,亦可知矣。主公若不召回,恐老師費財,無益於事。」文侯不應,問於翟璜。璜曰:「此必有計,主公勿疑。」自此群臣紛紛上書,有言中山將分國之半與樂羊者,有言樂羊謀與中山,共攻魏國者,文侯俱封置篋內。但時時遣使勞苦,預為治府第於都中,以待其歸。樂羊心甚感激,見中山不降,遂率將士儘力攻擊。中山城堅厚,且積糧甚多,鼓須與公孫焦晝夜巡警,拆城中木石,為捍禦之備,攻至數月,尚不能破。惱得樂羊性起,與西門豹親立於矢石之下,督令四門急攻。鼓須方指揮軍士,腦門中箭而死。城中房屋牆垣,漸已拆盡。公孫焦言於姬窟曰:「事已急矣!今日止有一計,可退魏兵。」窟問:「何計?」公孫焦曰:「樂舒三次求寬,羊俱聽之,足見其愛子之情矣。今攻擊至急,可將樂舒綁縛,置於高竿,若不退師,當殺其子,使樂舒哀呼乞命,樂羊之攻,必然又緩。」姬窟從其言。樂舒在高竿上,大呼「父親救命!」樂羊見之,大罵曰:「不肖子!汝仕於人國,上不能出奇運策,使其主有戰勝之功﹔下不能見危委命,使君決行成之計﹔尚敢如含乳小兒,以哀號乞憐乎?」言畢,架弓搭矢,欲射樂舒。舒叫苦下城,見姬窟曰:「吾父志在為國,不念父子之情。主公自謀戰守,臣請死於君前,以明不能退兵之罪。」公孫焦曰:「其父攻城,其子不能無罪,合當賜死。」姬窟曰:「非樂舒之過也。」公孫焦曰:「樂舒死,臣便有退兵之計。」姬窟遂以劍授舒,舒自剄而亡。公孫焦曰:「人情莫親於父子,今將樂舒烹羹以遺樂羊,羊見羹必然不忍,乘其哀泣之際,無心攻戰,主公引一軍殺出,大戰一場,幸而得勝,再作計較。」姬窟不得已而從之。命將樂舒之肉烹羹,并其首送於樂羊曰:「寡君以小將軍不能退師,已殺而烹之,謹獻其羹。小將軍尚有妻孥,元帥若再攻城,即當盡行誅戮。」樂羊認得是其子首,大罵曰:「不肖子!事無道昏君,固宜取死。」即取羹對使者食之,盡一器。謂使者曰:「蒙汝君饋羹,破城日面謝。吾軍中亦有鼎鑊,以待汝君也。」使者還報。姬窟見樂羊全無痛子之心,攻城愈急,恐城破見辱,遂入後宮自縊。公孫焦開門出降,樂羊數其讒諂敗國之罪,斬之。撫慰居民已畢,留兵五千,使西門豹居守。盡收中山府藏寶玉,班師回魏。魏文侯聞樂羊成功,親自出城迎勞曰:「將軍為國喪子,實孤之過也。」樂羊頓首曰:「臣義不敢顧私情,以負主公斧鉞之寄。」樂羊朝見畢,呈上中山地圖,及寶貨之數。群臣稱賀。文侯設宴於內臺之上,親捧觴以賜樂羊。羊受觴飲之,足高氣揚,大有矜功之色。宴畢,文侯命左右挈二篋,封識甚固,送樂羊歸第。左右將二篋交割,樂羊想道:「篋內必是珍珠金玉之類。主公恐群臣相妒,故封識贈我。」命家人擡進中堂,啟篋視之,俱是群臣奏本,本內盡說樂羊反叛之事。樂羊大驚曰:「原來朝中如此造謗!若非吾君相信之深,不為所惑,怎得成功?」次日,入朝謝恩,文侯議加上賞。樂羊再拜辭曰:「中山之滅,全賴主公力持於內。臣在外稍效犬馬,何力之有?」文侯曰:「非寡人不能任卿,非卿亦不能副寡人之任也。然將軍勞矣,盍就封安食乎?」即以靈壽封羊,稱為靈壽君,罷其兵權。翟璜進曰:「君既知樂羊之能,奈何不使將兵備邊,而縱其安閒乎?」文侯笑而不答。璜出朝以問李克,克曰:「樂羊不愛其子,況他人哉?此管仲所以疑易牙也。」翟璜乃悟。文侯思中山地遠,必得親信之人為守,乃保無虞。乃使其世子擊為中山君。擊受命而出,遇田子方乘敝車而來。擊慌忙下車,拱立道旁致敬。田子方驅車直過,傲然不顧。擊心懷不平,乃使人牽其車索,上前曰:「擊有問於子,富貴者驕人乎?貧賤者驕人乎?」子方笑曰:「自古以來,只有貧賤驕人,那有富貴驕人之理?國君而驕人,則不保社稷,大夫而驕人,則不保宗廟。楚靈王以驕亡其國,智伯瑤以驕亡其家,富貴之不足恃明矣。若夫貧賤之士,食不過藜藿,衣不過布褐,無求於人,無欲於世,惟好士之主,自樂而就之,言聽計合,勉為之留。不然,則浩然長往,誰能禁焉?武王能誅萬乘之紂,而不能屈首陽之二士,蓋貧賤之足貴如此。」太子擊大慚,謝罪而去。文侯聞子方不屈於世子,益加敬禮。

  時鄴都缺守,翟璜曰:「鄴介於上黨邯鄲之間,與韓趙為鄰,必得強明之士以守之,非西門豹不可。」文侯即用西門豹為鄴都守。豹至鄴城,見閭里蕭條,人民稀少,召父老至前,問其所苦。父老皆曰:「苦為河伯娶婦。」豹曰:「怪事,怪事!河伯如何娶婦?汝為我詳言之。」父老曰:「漳水自沾嶺而來,由沙城而東,經於鄴,為漳河。河伯即清漳之神也。其神好美婦,歲納一夫人。若擇婦嫁之,常保年豐歲稔,雨水調均。不然,神怒,致水波泛溢,漂溺人家。」豹曰:「此事誰人倡始?」父老曰:「此邑之巫覡所言也。俗畏水患,不敢不從。每年里豪及廷掾,與巫覡共計,賦民錢數百萬,用二三十萬,為河伯娶婦之費,其餘則共分用之。」豹問曰:「百姓任其瓜分,寧無一言乎?」父老曰:「巫覡主祝禱之事,三老廷掾有科歛奔走之勞,分用公費,固所甘心。更有至苦,當春初布種,巫覡遍訪人家女子,有幾分顏色者,即云『此女當為河伯夫人。』不願者,多將財帛買免,別覓他女。有貧民不能買免,只得將女與之。巫覡治齋宮於河上,絳帷床席,鋪設一新,將此女沐浴更衣,居於齋宮之內。卜一吉日,編葦為舟,使女登之,浮於河,流數十里乃滅。人家苦此煩費﹔又有愛女者,恐為河伯所娶,攜女遠竄,所以城中益空。」豹曰:「汝邑曾受漂溺之患否?」父老曰:「賴歲歲娶婦,不曾觸河神之怒,但漂溺雖免,奈本邑土高路遠,河水難達,每逢歲旱,又有乾枯之患。」豹曰:「神既有靈,當嫁女時,吾亦欲往送,當為汝禱之。」及期,父老果然來稟。西門豹具衣冠親往河上。凡邑中官屬,三老、豪戶、里長、父老,莫不畢集,百姓遠近皆會,聚觀者數千人。三老里長等,引大巫來見,其貌甚倨。豹觀之,乃一老女子也。小巫女弟子二十餘人,衣裳楚楚,悉持巾櫛爐香之類,隨侍其後。豹曰:「勞苦大巫,煩呼河伯婦來,我欲視之。」老巫顧弟子使喚至。豹視女子,鮮衣素襪,顏色中等。豹謂巫嫗及三老眾人曰:「河伯貴神,女必有殊色,方纔相稱。此女不佳,煩大巫為我入報河伯,但傳太守之語:『更當別求好女,於後日送之。』」即使吏卒數人,共抱老巫,投之於河,左右莫不驚駭失色。豹靜立俟之,良久曰:「嫗年老不幹事,去河中許久,尚不回話,弟子為我催之。」復使吏卒抱弟子一人,投於河中。少頃,又曰:「弟子去何久也?」復使弟子一人催之。又嫌其遲,更投一人。凡投弟子三人,入水即沒。豹曰:「是皆女子之流,傳語不明,煩三老入河,明白言之。」三老方欲辭。豹喝:「快去,即取回覆。」吏卒左牽右拽,不由分說,又推河中,逐波而去。旁觀者皆為吐舌。豹簪筆鞠躬,向河恭敬以待。約莫又一個時辰,豹曰:「三老年高,亦復不濟。須得廷掾豪長者往告。」那廷掾里豪,嚇得面如土色,流汗浹背,一齊皆叩頭求哀,流血滿面,堅不肯起。西門豹曰:「且俟須臾。」眾人戰戰兢兢,又過一刻,西門豹曰:「河水滔滔,去而不返,河伯安在?枉殺民間女子,汝曹罪當償命!」眾人復叩頭謝曰:「從來都被巫嫗所欺,非某等之罪也。」豹曰:「巫嫗已死,今後再有言河伯娶婦者,即令其人為媒,往報河伯。」於是廷掾、里豪、三老,乾沒財賦,悉追出散還民間。又使父老即於百姓中,詢其年長無妻者,以女弟子嫁之,巫風遂絕。百姓逃避者,復還鄉里。有詩為證:

    伯何曾見娶妻?愚民無識被巫欺﹔一從賢令除疑網,女子安眠不受虧。

豹又相度地形,視漳水可通處,發民鑿渠,各十二處,引漳水入渠,既殺河勢,又腹內田畝,得渠水浸灌,無旱乾之患,禾稼倍收,百姓樂業。今臨漳縣有西門渠,即豹所鑿也。文侯謂翟璜曰:「寡人聽子之言,使樂羊伐中山,使西門豹治鄴,皆勝其任,寡人賴之。今西河在魏西鄙,為秦人犯魏之道,卿思何人可以為守?」翟璜沉思半晌,答曰:「臣舉一人,姓吳名起,此人大有將才,今自魯奔魏,主公速召而用之,若遲,則又他適矣。」文侯曰:「起非殺妻以求為魯將者乎?聞此人貪財好色,性復殘忍,豈可託以重任哉?」翟璜曰:「臣所舉者,取其能為君成一日之功,若素行不足計也。」文侯曰:「試為寡人召之。」不知吳起如何在魏立功,且看下回分解。

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