東周列國志第八十六回 呉起、妻を殺して将を求める/騶忌、琴を弾いて相を取る (吳起殺妻求將  騶忌鼓琴取相)

呉起、母と別れ曾参に学ぶ

  • さて、呉起は衛国の人である。若い頃は村里に住み、剣術を好んで無頼の振る舞いをしたため、母に責められた。
  • 呉起は自分の腕を噛んで血を出し、母に誓って言った。「私はこれより母上に別れを告げ、他国に遊学いたします。卿相となり、使者のしるしの旗を手にし、高車に乗るのでなければ、衛の城には入らず、母上にお目にかかりません。」
  • 母は泣いて引き止めたが、呉起はついに北門を出て振り返らなかった。
  • 魯国に赴き、孔門の高弟である曾参のもとで学問を受けた。昼は研究し夜は誦読し、労苦を厭わなかった。
  • 斉国の大夫田居が魯に来て、呉起の学問好きを喜び、彼と談論すると、その弁は尽きることがなかったので、自分の娘を彼の妻に与えた。
  • 呉起が曾参の門に入って一年余り、曾参は呉起の家にまだ老母がいることを知り、ある日尋ねた。「お前は遊学して六年、帰って母を省みることをしない。子としての心はそれで安らかか。」
  • 呉起は答えた。「私にはかつて誓いの言葉があります。『卿相とならなければ、衛の城には入らない』と。」
  • 曾参は言った。「他人に対する誓いならばよいが、母に対して誓ってよいものか。」これにより曾参は呉起の人柄を心の中で憎むようになった。
  • ほどなく衛国から知らせが来て、呉起の母が既に死んだと告げた。呉起は天を仰いで三度慟哭したが、すぐに涙を収め、以前と変わらず誦読を続けた。
  • 曾参は怒って言った。「呉起は母の喪に駆けつけない。根本を忘れた人間だ。水に源が無ければ涸れ、木に根が無ければ折れる。人として根本が無くて、どうして善き終わりを得られようか。呉起はもはや我が門下ではない。」門人に命じて呉起と絶交させ、二度と会わせなかった。
  • 呉起はそこで儒学を棄てて兵法を学び、三年で学業を成し、魯に仕官を求めた。
  • 魯の相国公儀休は常に呉起と兵法を論じ、その才能を知り、穆公に推挙して大夫に任じさせた。

呉起、妻を殺して将となる

  • 呉起は俸禄が豊かになると、多くの妾や婢を買い、自ら楽しむようになった。
  • 当時、斉の相国田和はその国を簒奪しようと謀っていたが、魯が斉と代々婚姻関係にあるため、あるいはその罪を討ちに来るのではないかと恐れ、艾陵の恨みを名目に軍を興して魯を伐ち、武力で脅して服属させようとした。
  • 魯の相国公儀休は進言した。「斉の兵を退けるには、呉起でなければできません。」
  • 穆公は口では承知したが、結局は用いようとしなかった。
  • 斉軍が既に成邑を落としたと聞くに及び、公儀休は再び請うた。「私が申し上げた通り呉起は用いられます。主公はなぜ実行なさらないのですか。」
  • 穆公は言った。「私は呉起に将才があることは元より知っている。しかし彼の娶った妻は田氏一族の娘だ。夫婦にまさる至愛はない。傍観するつもりが無いと保証できようか。だから躊躇して決めかねているのだ。」
  • 公儀休が朝廷を出ると、呉起は既に相府で先に会見を待っており、尋ねた。「斉の賊は既に深く侵入しています。主公は既に良将を得られましたか。今日は私は自ら誇って推薦するのではありませんが、もし私を将に用いれば、必ず斉の兵を一輪も帰さぬようにいたします。」
  • 公儀休は言った。「私は再三申し上げたが、主公はあなたが田氏一族に婚しているため、それで疑いを持って決めかねているのだ。」
  • 呉起は言った。「主公の疑いを解くこと、それは容易いことです。」
  • そこで家に帰り、妻の田氏に尋ねた。「人が妻を持つことを貴ぶのはなぜか。」
  • 田氏は言った。「外に夫があり内に妻があってこそ、家の道が初めて立ちます。妻を持つことを貴ぶのは、家を成すためです。」
  • 呉起は言った。「そもそも位が卿相となり、俸禄万鐘を食み、功績を書物に書き残し、名を千古に留めること、それこそ家を成すことの大なるものだ。それこそ妻が夫に望むところではないか。」
  • 田氏は言った。「その通りです。」
  • 呉起は言った。「私はお前に求めることがある。お前は私のためにそれを成し遂げてくれ。」
  • 田氏は言った。「私は婦人です。どうして夫が功名を成すのを助けられましょうか。」
  • 呉起は言った。「今、斉の軍が魯を伐ち、魯侯は私を将に用いようとしているが、私が田氏一族に娶っているため疑って用いない。もしお前の首を得て魯侯に謁見すれば、まさに魯侯の疑いは解け、私の功名は成るのだ。」
  • 田氏は大いに驚き、まさに口を開いて答えようとした。呉起は剣を抜いて一振りし、田氏の首は既に地に落ちた。
  • (詩:夫婦の恩を無にして無辜の妻を殺した呉起の非情を嘆く史臣の詩)
  • そこで帛で田氏の首を包み、穆公に見え、上奏した。「臣は国に報いる志がありますのに、主公は妻のことで臣を疑われました。臣は今、妻の首を斬り、臣が魯のためであって斉のためでないことを明らかにいたします。」
  • 穆公は痛ましく思い、楽しまず、言った。「将軍、もうよい。」
  • 少しして、公儀休が入り見えると、穆公は言った。「呉起は妻を殺して将たることを求めた。これは残忍の極みで、その心は測り知れない。」
  • 公儀休は言った。「呉起は妻を愛さず、功名を愛する者です。主公がもし彼を棄てて用いなければ、必ず翻って斉に付くでしょう。」
  • 穆公はそこで公儀休の言に従い、すぐに呉起を大将に拝し、泄柳・申詳を副将とし、兵二万を率いて斉軍を防がせた。
  • 呉起は命を受けた後、軍中で士卒と衣食を共にし、寝るにも席を敷かず、行くにも騎乗せず、士卒が糧を背負い重荷を負うのを見れば分けてこれを担った。ある卒が疽を病むと、呉起は自らその薬を調え、口でその膿血を吸った。士卒は呉起の恩に感じ、父子のようであり、皆奮い立って一戦を願った。

呉起、斉軍を破り、のち魏へ出奔する

  • さて田和は大将田忌・段朋を引き連れて長駆して侵入し、まっすぐ南の辺境を犯した。呉起が魯の将となったと聞き、笑って言った。「これは田氏の婿、好色の徒だ。どうして軍旅のことを知ろうか。魯国はきっと敗れるだろう、それでこの人物を用いたのだ。」
  • 両軍が対陣するに及んでも、呉起が戦いを挑んでこないので、密かに人を使ってその動静を窺わせた。呉起がまさに兵士の中で最も身分の卑しい者と共に地に座り、羹を分けて共に食べているのを見た。
  • 使者が戻って報告すると、田和は笑って言った。「将が尊大であれば士は畏れ、士が畏れれば戦力が生まれる。呉起の振る舞いがそのようであれば、どうして衆を用いることができようか。私は心配無用だ。」
  • さらに寵愛する将の張丑を遣わし、講和を望むと偽って、特に魯軍に至らせ、呉起が戦うつもりか守るつもりかを探らせた。呉起は精鋭の兵を後軍に隠し、すべて老弱の者を客に見せ、偽って恭謹な態度を示し、迎え入れて礼をもって遇した。
  • 張丑は言った。「軍中で将軍が妻を殺して将たることを求めたと伝聞していますが、本当にそのようなことがあったのですか。」
  • 呉起は恐れ入った様子で答えた。「私は不肖ではありますが、かつて孔子の門下で学びました。どうしてそのような無情の事ができましょうか。私の妻は病で亡くなり、軍旅の命がたまたまその時に重なったのです。あなたが聞いたことは、恐らく事実ではありません。」
  • 張丑は言った。「将軍がもし田氏との好誼を棄てないのなら、将軍と盟約を結んで和睦することを願います。」
  • 呉起は言った。「私は書生です。どうして田氏と戦うことがありましょうか。もし和議が成れば、これは私の至願です。」
  • 呉起は張丑を軍中に留め、三日間歓飲させてから、ようやく帰らせ、決して兵事のことには触れなかった。出発に際して、再三好誼を求める意を伝えた。
  • 張丑が辞去すると、呉起はすぐに密かに兵将を調え、三手に分けてその後を尾けさせた。
  • 田和は張丑の報告を得て、呉起の兵は弱く戦意も無いと考え、まったく気に留めなかった。
  • 突然轅門の外で鼓の音が激しく鳴り、魯の兵が突如殺到し、田和は大いに驚いた。馬は甲を付ける暇もなく、車は馬を繋ぐ暇もなく、軍中は大混乱となった。
  • 田忌は歩兵を引き連れて出迎え、段朋は急いで兵士に車馬を整えさせ、田忌に呼応して救援に向かわせた。
  • 思いがけず泄柳・申詳の二軍が左右に分かれ、一斉に殺到し、混乱に乗じて挟み撃ちにした。斉軍は大敗し、屍が野に満ちるまで殺された。魯軍はまっすぐ平陸を過ぎるまで追撃して、ようやく兵を返した。
  • 魯の穆公は大いに喜び、呉起を上卿に進めた。
  • 田和は張丑の失策の罪を責めたが、張丑は言った。「私が見た限りではそうだったのです。どうして呉起の詐術を知ることができましょうか。」
  • 田和はそこで嘆いて言った。「呉起の用兵は孫武・穣苴の流れをくむ者だ。もし終始魯に用いられれば、斉は必ず不安になる。私は一人を魯に遣わし、密かに和を結び、互いに侵さないようにしたい。お前は行けるか。」
  • 張丑は言った。「命を捨てて一度行き、功をもって罪を償うことを願います。」
  • 田和はそこで美女二人を求め、黄金千鎰を加え、張丑に商人を装わせて魯に至らせ、密かに呉起に贈らせた。
  • 呉起は財を貪り色を好んだので、これを見るとすぐに受け取り、張丑に言った。「斉の相国によろしくお伝えください。斉が魯を侵さなければ、魯がどうして斉に手出しをしましょうか。」
  • 張丑は魯の城を出ると、わざとその事を道行く人に漏らした。そこで沸き立つように、呉起が賄賂を受けて斉に通じたという話が伝わった。
  • 穆公は言った。「私は元より呉起の心が測り知れないことを知っていた。」呉起の爵を削り罪を糾そうとした。
  • 呉起はこれを聞いて恐れ、家を棄てて魏国に逃げ、翟璜の家に身を寄せた。
  • ちょうど文侯は翟璜と西河を守る人物について相談していたところで、翟璜はそこで呉起を推薦して用いられると言った。
  • 文侯は呉起を召して見え、言った。「将軍が魯の将として功を立てられたと聞いている。よくぞ辱くも、わが国においでくださった。」
  • 呉起は答えた。「魯侯は讒言を聞き入れ、信任を全うしなかったため、臣はここに逃れて死を免れました。君侯が身をかがめて士を礼遇し、豪傑が心を寄せていることを慕っております。馬前の鞭を執ることを願います。もし駆使していただけるならば、たとえ肝脳が地に塗れようとも、恨みはございません。」
  • 文侯はそこで呉起を西河の守に拝した。呉起は西河に至ると、城を修め池を治め、兵を練り武を訓じ、士卒を愛しみ恤むことは、魯の将であった時とまったく同じであった。城を築いて秦を防ぎ、名付けて呉城といった。

秦の献公即位と魏の人材登用

  • 当時、秦の恵公が薨じ、太子の名は出子が後を嗣いだ。恵公は簡公の子であり、簡公は霊公の叔父であった。霊公が薨じた時、その子師隰は年幼く、群臣はそこで簡公を奉じて立てた。
  • ここに至って三代が経ち、出子に及んだが、師隰は成長しており、大臣に言った。「国は我が父の国である。私に何の罪があって廃されたのか。」
  • 大臣は答える言葉がなく、そこで共に出子を殺して師隰を立てた。これが献公である。
  • 呉起は秦国が多事な時に乗じて兵を興して秦を襲い、河西の五城を取った。韓・趙は皆祝賀に来た。
  • 文侯は翟璜が賢を推薦した功があるとして相国に拝そうとし、李克に相談した。李克は言った。「魏成になさるほうがよろしいでしょう。」文侯は頷いた。
  • 李克が朝廷を出ると、翟璜が迎えて尋ねた。「主公が相を選ぶのに、あなたの意見によって決めると聞いていますが、今もう決まりましたか。誰ですか。」
  • 李克は言った。「既に魏成に決まりました。」
  • 翟璜は憤然として言った。「君が中山を伐とうとした時、私は楽羊を推薦した。君が鄴を憂いた時、私は西門豹を推薦した。君が西河を憂いた時、私は呉起を推薦した。私はどうして魏成に及ばないのか。」
  • 李克は言った。「魏成が推挙した卜子夏・田子方・段干木は、師でなければ友です。あなたが推挙した者は、君は皆彼らを臣下としています。魏成は俸禄千鍾を得ていますが、その十分の九を外に使い、賢士を待遇しています。あなたの俸禄はすべて自分を養うのに使っています。あなたはどうして魏成に比べられましょうか。」
  • 翟璜は再拝して言った。「私の失言でした。門下に仕えて弟子となることを願います。」
  • これより魏国は将相ともに人を得て、辺境は安定し、三晋の中で魏が最強となった。

田和、康公を遷して斉侯に列す

  • 斉の相国田和は魏の強さを見、また文侯の賢名が天下に重いのを見て、深く魏との好誼を結んだ。そこでその君の康公貸を海上に遷し、一城のみをその食邑として与え、その他はすべて自ら取った。
  • 人を魏の文侯のもとに遣わし、周への取り成しを求め、三晋の先例に倣って諸侯に列することを望んだ。周の威烈王は既に崩じ、子の安王、名は驕が立ち、勢いはますます弱まっていた。
  • 時は安王の十三年で、そこで文侯の請いに従い、田和に斉侯の位を授けた。これが田太公である。陳の公子完が斉に奔り、斉の桓公に事えて大夫となって以来、およそ十世を伝え、田和に至って斉に代わって国を有するに至った。姜氏の祭祀はここに絶えた。この話はここまでとする。

韓の俠累と嚴遂の確執

  • 当時、三晋は皆相を選ぶのに人を得ることを尊んだので、相国の権力が最も重くなった。趙の相は公仲連、韓の相は俠累であった。
  • その中で俠累について語れば、微賎の時、濮陽の人嚴仲子、名は遂と、義兄弟の交わりを結んでいた。俠累は貧しく嚴遂は富んでおり、俠累の日用を支え、また千金を助けてその遊費に充てた。俠累はこれによって韓に達し、位が相国にまで至った。
  • 俠累は既に政を執ると、大いに威厳を示し、門は私的な謁見を絶った。嚴遂は韓に至り、俠累に謁見してその引き立てを期待したが、月余り待っても会うことができなかった。
  • 嚴遂は自らの家財を韓の国君の側近に賄賂として送り、烈侯に会うことができた。烈侯は大いに喜び、彼を重く用いようとした。
  • 俠累は再び烈侯の前で嚴遂の欠点を言い、その登用を阻んだ。嚴遂はこれを聞いて大いに恨み、そこで韓を去り、諸国を遍歴し、勇士を求めて俠累を刺殺し、その恨みを晴らそうとした。

嚴遂、聶政を見出して仇討ちを託す

  • 斉国に行き至った時、牛を屠る店で、一人の男が巨斧を振るって牛を切っているのを見た。斧を下ろす所は筋骨がすぐに解け、まったく力を費やさなかった。その斧を見ると、重さは三十余斤ほどあった。
  • 嚴遂はこれを異とし、その人をよく見ると、身長八尺、丸く見開いた目に縮れて曲がった鬚、頬骨が特に突き出ており、声音は斉の人らしくなかった。嚴遂は招いて相見し、その姓名や来歴を尋ねた。
  • 答えて言った。「私は姓を聶、名を政といい、魏の人です。家は軹の深井里にあります。生まれつき粗野で剛直な性質のため、郷里で罪を得て、老母と姉を連れてこの地に移り住み、牛を屠って生計を立てています。」また嚴遂の姓名を尋ねた。嚴遂はこれを告げ、慌ただしく別れた。
  • 翌朝早く、嚴遂は衣冠を整えて訪れ、酒肆に招いて、賓主の礼をなした。酒が三杯進んだところで、黄金百鎰を贈った。聶政はその厚さを怪しんだ。
  • 嚴遂は言った。「あなたに老母が堂上にいらっしゃると聞きましたので、私的にわずかばかりを進呈し、あなたに代わって一日の孝養に充ててもらおうと思っただけです。」
  • 聶政は言った。「あなたが老母のために孝養を計らってくれるのは、必ず私を用いる目的があるのでしょう。もし明言していただけなければ、決して受け取ることはできません。」
  • 嚴遂は俠累が恩義に背いた事情を詳しく説明し、今このようにしてほしいと述べた。
  • 聶政は言った。「昔、専諸はこう言いました。『老母がいる限り、この身は人に許すことはできない』と。あなたは別に勇士をお求めください。私はあなたの尊いご恩を虚しく受けることはできません。」
  • 嚴遂は言った。「私はあなたの高い義を慕い、兄弟の交わりを結びたいと願っているだけです。どうしてあなたが母上を養う孝行を奪って、私の欲を遂げようとしましょうか。」
  • 聶政は強いて断りきれず、やむを得ずこれを受けた。その半分を姉の罃の嫁入りの費用とし、残りの金で日々肥えたうまいものを整えて母を養った。
  • 一年余りして、老母が病で亡くなった。嚴遂は再び弔問に来て、代わって喪を治めた。喪葬が終わると、聶政は言った。「今日のこの身は、あなたの身です。ただ用いてください。もはや自分を惜しみません。」
  • 嚴遂は仇討ちの策を尋ね、車騎壮士を備えようとした。聶政は言った。「相国は至って貴く、出入りには兵の護衛があり、その盛んなことは比類ありません。奇をもって取るべきで、力で勝つことはできません。鋭い匕首を懐に入れさせていただき、隙を伺って事を図ります。今日あなたと別れて先に行き、二度とお会いしません。あなたも私の事を尋ねないでください。」

聶政、俠累を刺殺し自ら顔を削ぐ

  • 聶政は韓に至り、郊外に宿泊し、静かに三日過ごした。早朝城内に入り、ちょうど俠累が朝廷から出るところに出くわした。四頭立ての立派な車に乗り、甲士が戈を執って前後を護衛し、その行くさまは飛ぶようであった。
  • 聶政は相府まで尾行した。俠累が車を下り、再び府で政務を決裁するために座った。大門から堂の階段まで、皆兵仗が並んでいた。
  • 聶政は遠く堂上を望むと、俠累は幾重にも敷物を敷いて案に凭れて座り、左右で書類を差し出して裁可を仰ぐ者が非常に多かった。
  • しばらくして事が終わり退出しようとした時、聶政はその隙に乗じ、口に「相国に急ぎのお知らせがあります」と称して、門外から腕をまくって直ちに進んだ。阻もうとする甲士は皆縦横に倒れた。
  • 聶政は政務の座に迫り、匕首を抜いて俠累を刺した。俠累は驚いて立ち上がったが、席を離れる間もなく、心臓を刺されて死んだ。
  • 堂上は大いに乱れ、皆「賊がいるぞ」と叫んだ。門を閉じて聶政を捕らえようとした。聶政は数人を撃ち殺したが、自ら脱出できないと悟り、人に見破られることを恐れ、急いで匕首で自分の顔を削り、両目をえぐり出し、さらに自分の喉を刺して死んだ。
  • 早くも人が韓の烈侯に報告した。烈侯は「賊は何者か」と問うたが、誰も見分けられなかった。そこで市中にその屍を晒し、千金の賞を懸けて、告発する者を募り、賊の姓名や来歴を得て相国の仇を討とうとした。
  • このように七日、行き交う人は蟻のようであったが、まったく見分ける者はいなかった。

姉の罃、弟の名を世に明かして殉ずる

  • この事は遠く魏国の軹邑まで伝わり、聶政の姉の罃はこれを聞くと、すぐに痛哭して言った。「必ず我が弟のことだ。」白絹で頭を包み、そのまま韓国に至り、聶政の屍が市中に横たわっているのを見ると、撫でて泣き、非常に哀しんだ。
  • 市吏はこれを捕らえて尋ねた。「お前はこの死者と何の関係があるのか。」
  • 婦人は言った。「死んだのは私の弟の聶政です。私はその姉の罃です。聶政は軹の深井里に住み、勇をもって知られていました。彼は相国を刺す罪が重いと知り、私に累が及ぶことを恐れたため、目をえぐり顔を破って自らその名を隠したのです。私がどうして一身の死を惜しんで、我が弟を人の世に永久に埋もれさせられましょうか。」
  • 市吏は言った。「死者がお前の弟だとすれば、必ず犯行の理由を知っているだろう。誰が主謀者だ。明らかに言えば、私は主上に願い出て、お前の死一等を減じよう。」
  • 罃は言った。「私が死を惜しむのなら、ここまで来ません。我が弟は身体を惜しまず、千乗の国の相を誅し、人に代わって仇を報じました。私がその名を言わなければ、我が弟の名を埋没させることになります。私がまたその理由を漏らせば、我が弟の義を埋没させることになります。」
  • そこで市中の井戸の覆い屋の石柱に頭をぶつけて死んだ。
  • 市吏は韓の烈侯に報告し、烈侯は嘆息し、命じてこれを埋葬させた。韓山堅を相国とし、俠累の後任とした。

韓の君位継承と韓山堅の哀侯弑逆

  • 烈侯は子の文侯に伝え、文侯は哀侯に伝えた。韓山堅は元々哀侯と仲が悪く、隙に乗じて哀侯を弑した。諸大臣は共に韓山堅を誅殺し、哀侯の子若山を立てた。これが懿侯である。
  • 懿侯の子は昭侯で、申不害を相に用いた。申不害は刑名の学に精通し、国はこれによって大いに治まった。これは後の話である。

呉起、魏を出奔して楚に赴く

  • さて周の安王十五年、魏の文侯斯の病が重くなり、太子撃を中山から呼び戻した。趙は魏の太子が中山を離れたと聞き、そこで兵を引き連れて襲い、これを取った。これより魏と趙に隙が生じた。
  • 太子撃が帰ると、魏の文侯は既に薨じており、そこで喪を主宰し位を嗣いだ。これが武侯である。田文を相国に拝した。
  • 呉起は西河から入朝し、自ら功が大きいと考え、相に拝されることを満ち足りて望んでいたが、既に田文が相になったと聞き、憤然として不満であった。
  • 朝廷を退出すると、田文に門で出会い、迎えて言った。「あなたは私の功を知っているか。今日あなたと論じてみたい。」
  • 田文は両手を組んで礼をして言った。「お聞かせください。」
  • 呉起は言った。「三軍の衆を率い、士卒に鼓を聞けば死を忘れさせ、国のために功を立てさせること、あなたと私とどちらが優れているか。」田文は言った。「及びません。」
  • 呉起は言った。「百官を治め、万民を親しませ、府庫を充実させること、あなたと私とどちらが優れているか。」田文は言った。「及びません。」
  • 呉起はさらに言った。「西河を守り秦の兵が敢えて東を犯さず、韓・趙が服従すること、あなたと私とどちらが優れているか。」田文はまた言った。「及びません。」
  • 呉起は言った。「この三つのことは、あなたは皆私に及ばないのに、地位が私の上にあるのはなぜか。」
  • 田文は言った。「私が身に余る高位を得たことは、まことに恥ずべきことです。しかし今日は新君が位を嗣ぎ、主君は若く国は疑心暗鬼にあり、人民は親しまず、大臣は未だ従いません。私はただ先代からの勲旧の家柄によって、たまたま身内の要職を継いだだけで、これは功を論じるべき時ではないのかもしれません。」
  • 呉起は俯いて長く考え、言った。「あなたの言うことも一理ある。しかしこの位は結局私に属すべきものだ。」
  • ある内侍がこの二人の功を論じる話を聞き、武侯に伝え報告した。武侯は呉起に不満の心があると疑い、そこで呉起を留めて遣わさず、別に人を選んで西河の守にしようとした。
  • 呉起は武侯に誅殺されることを恐れ、楚国に出奔した。

呉起、楚で富国強兵を進め、悼王の死後に殺される

  • 楚の悼王熊疑は、元より呉起の才を聞いており、一目会うとすぐに宰相の印を授けた。呉起は恩に感激し、慨然として富国強兵を自らの任とした。
  • そこで悼王に願い出た。「楚国の地は数千里、甲を帯びる兵は百余万、本来なら諸侯を圧倒し、代々盟主となるべきです。それが列国に勝てないのは、養兵の道を失っているからです。そもそも養兵の道は、まずその財を豊かにし、その後に力を用いるべきです。今、緊急でない官が朝廷に満ち、遠い一族が公の廩を無駄に費やしています。それでいて戦士はわずかな食糧しか得られません。命を捨てて国に殉じさせることを望むのは、難しいことではありませんか。大王が誠に臣の計を聞き入れ、冗官を淘汰し、疎遠な一族を退け、蓄えた廩禄をすべて敢えて戦う士に充てれば、それでも国威が振るわなければ、臣は妄言の罪に伏することを請います。」
  • 悼王はその計に従った。群臣の多くは呉起の言葉を用いるべきでないと言ったが、悼王は聞かなかった。
  • そこで呉起に官制を詳しく定めさせ、冗官数百人を削り、大臣の子弟が縁故で禄を求めることを許さなかった。また公族で五世以上の者は自らの力で食べさせ、庶民と同等にし、五世以下の者はその遠近を酌量して順次これを削減させ、節約された国の税は数万に及んだ。
  • 国中の精鋭の士を選び、朝夕訓練し、その才器を検分し、支給する食糧に上下をつけ、数倍に厚くする者もあった。士卒は争って励まないことはなく、楚はこれによって兵が強くなり、天下に雄視した。三晋・斉・秦は皆これを畏れ、悼王の代が終わるまで、敢えて兵を加えなかった。
  • 悼王が薨じ、まだ殯葬も終わらぬうちに、楚の貴戚大臣の子弟で禄を失った者たちが、喪に乗じて乱を起こし、呉起を殺そうとした。呉起は宮中の寝殿に逃げ込んだが、衆は弓矢を持ってこれを追った。
  • 呉起は力では敵わないと知り、王の屍を抱いて伏せた。衆は矢を集中して呉起を射たが、王の屍にも数本の矢が当たった。
  • 呉起は大声で叫んで言った。「私が死ぬことは惜しむに足りないが、諸臣が王に対して恨みを抱き、その屍にまで及ぼすことは、大逆無道である。どうして楚国の法から逃れられようか。」言い終わると絶命した。
  • 衆は呉起のこの言葉を聞き、恐れて散り去った。太子熊臧が位を嗣いだ。これが粛王である。月余りして、王の屍を射た罪を追及し、その弟熊良夫に兵を率いさせ、乱を起こした者を捕らえ、次第にこれを誅殺し、およそ七十余家を滅ぼした。
  • (詩:終身大臣として全うしようとしたが、妻を殺し母を捨てて人倫を絶ち、魯と魏で築いた功名も流れる水のように消え去り、楚人の手に身を喪った呉起の生涯を嘆く)
  • また別の一詩があり、呉起が王の屍に伏せて自らの仇を報いようとしたことは、死んでもなお余りある知恵があったと述べている。(詩:国のために身を忘れ死を辞さず、巧みに賊の矢を王の屍に集めた、王法によって誅滅されるのは当然だが、公の仇ではなく私の仇を報いたにすぎないと評する)

田和の子孫が斉王を称し、魏もこれに倣う

  • 話は二つに分かれる。さて田和は斉侯となってから、二年で薨じた。田和は子の午に伝え、午は子の因斉に伝えた。因斉が即位したのは、周の安王の二十三年であった。
  • 因斉は自国が富み兵が強いことを恃み、呉・越がともに王を称し、使命の往来にすべて王号を用いているのを見て、下位に甘んじることを潔しとせず、勝手に斉王を称した。これが斉の威王である。
  • 魏侯罃は斉が王を称したと聞き、「魏はどうして斉に及ばないことがあろうか」と言い、そこで自らも王を称した。これが孟子が謁見した梁の恵王である。

騶忌、琴の道理をもって斉威王を諫める

  • 再び言えば、斉の威王は即位すると、日々酒色に耽り、音楽を聞き、国政を修めなかった。九年の間に、韓・魏・魯・趙が皆兵を起こして討伐し、辺境の将はしばしば敗れた。
  • ある日、一人の士人が門を叩いて謁見を求め、自ら「姓は騶、名は忌、本国の人で、琴を知っています。王が音楽を好むと聞き、特に謁見を求めに参りました」と称した。
  • 威王は召して会い、座を賜り、左右に机を置かせ、琴を前に進ませた。騶忌は弦を撫でるだけで弾かなかった。
  • 威王は尋ねた。「先生は琴が上手だと聞いている。寡人は最上の音を聞きたい。今、弦を撫でるだけで弾かないのは、琴が良くないのか、それとも寡人に何か不足があるのか。」
  • 騶忌は琴を置き、姿勢を正して答えた。「臣が知っているのは琴の道理です。糸桐の音、楽師の技については、臣も知っておりますが、王のお耳を煩わせるには足りません。」
  • 威王は言った。「琴の道理とはどのようなものか、聞かせてもらえるか。」
  • 騶忌は答えた。「琴とは禁ずるという意味です。淫らで邪なことを禁じ止め、正しいことに帰らせるためのものです。昔、伏羲が琴を作った時、長さ三尺六寸六分としたのは三百六十六日を象り、幅六寸としたのは六合を象ったものです。前が広く後ろが狭いのは尊卑を象り、上が丸く下が四角なのは天地に則ったもので、五弦は五行を象っています。大弦は君であり、小弦は臣です。その音は緩急によって清濁が分かれ、濁った音は寛やかで緩まない、これが君の道です。清い音は清廉で乱れない、これが臣の道です。一弦を宮とし、次を商、次を角、次を徴、次を羽とします。文王・武王はそれぞれ一弦を加え、文の弦を少宮、武の弦を少商とし、君臣の恩を合わせました。君臣が互いに得心し、政令が調和すること、治国の道はこれに過ぎません。」
  • 威王は言った。「良いことだ。先生は既に琴の道理を知っているのだから、必ず琴の音にも通じているだろう。先生に一度弾いてみてほしい。」
  • 騶忌は答えた。「臣は琴を仕事とすれば、琴を弾くことに詳しくなります。大王は国を仕事とすれば、国を治めることに詳しくならないはずがありましょうか。今、大王は国を撫でながら治めていません。それは臣が琴を撫でながら弾かないのと何が違いましょうか。臣が琴を撫でて弾かなければ、大王の意を伸ばすことができません。大王が国を撫でて治めなければ、恐らく万民の意を伸ばすことができないでしょう。」
  • 威王は愕然として言った。「先生は琴をもって寡人を諫めたのだな。寡人は教えを受けた。」そこで騶忌を右室に留めた。
  • 翌日、沐浴して騶忌を召し、国事を論じた。騶忌は威王に飲酒を節し女色を遠ざけ、名実を検討し、忠と佞を区別し、民を休ませ戦に備え、覇王の業を経営することを勧めた。威王は大いに喜び、すぐに騶忌を相国に拝した。

淳于髡、五つの譬えで騶忌を試す

  • 当時、弁士の淳于髡は、騶忌がやすやすと宰相の印を取ったのを見て、心に服さず、その徒を率いて騶忌を訪ねた。騶忌はこれを非常に丁重に迎えた。
  • 淳于髡は傲慢な様子で、まっすぐ上座に入り込み、騶忌に言った。「私に愚かな考えがあるので、相国の前で申し上げたいのですが、よろしいでしょうか。」
  • 騶忌は言った。「お聞かせください。」
  • 淳于髡は言った。「子は母を離れず、婦は夫を離れず。」
  • 騶忌は言った。「謹んで教えを受けます。敢えて主君のおそばを離れません。」
  • 淳于髡はさらに言った。「棘の木で作った車輪に豚の脂を塗れば、非常に滑らかになるが、四角い穴に投げ入れれば回転しない。」
  • 騶忌は言った。「謹んで教えを受けます。敢えて人情に逆らいません。」
  • 淳于髡はさらに言った。「弓の柄は膠で固めてあっても、時が経てば解ける。多くの流れが海に注げば、自然に合わさる。」
  • 騶忌は言った。「謹んで教えを受けます。敢えて万民に親しみ寄り添わないことはありません。」
  • 淳于髡はさらに言った。「狐の裘は破れても、黄色い犬の皮で補うことはできない。」
  • 騶忌は言った。「謹んで教えを受けます。賢者を選び、その間に不肖の者を交えないようにいたします。」
  • 淳于髡はさらに言った。「輻と轂は寸法を細かく測り合わせなければ車にならない。琴と瑟は緩急を合わせなければ調べにならない。」
  • 騶忌は言った。「謹んで教えを受けます。法令を修め、奸吏を督めます。」
  • 淳于髡は黙り込み、再拝して退いた。門を出ると、その弟子が言った。「先生は初め相国に会った時、なんと傲慢だったのに、今再拝して退いたのは、なぜそんなにへりくだったのですか。」
  • 淳于髡は言った。「私は五つの微妙な言葉を示したが、相国は口から出るままに応じ、ことごとく私の意を理解した。これはまことに大才で、私の及ぶところではない。」
  • これより遊説の士は騶忌の名を聞くと、敢えて斉に入る者がいなくなった。

阿の大夫を烹殺し即墨の大夫を賞する

  • 騶忌もまた淳于髡の言葉を用い、心を尽くして治めることを図った。常に「邑守の中で誰が賢く誰が不肖か」と訪ね問うた。同朝の人々は皆口を極めて阿の大夫の賢を称え、即墨の大夫を貶した。
  • 騶忌はこれを威王に述べた。威王は不意に時々左右に問うと、答える内容は大体同じであった。そこで密かに人を遣わし二邑の治績の状況を視察させ、実情に基づいて報告させ、それにより阿と即墨の二守を召して入朝させる旨の詔を下した。
  • 即墨の大夫が先に到着し、威王に朝見したが、まったく一言も処分の言葉がなかった。左右は皆驚訝し、その理由が分からなかった。ほどなく阿の邑の大夫も到着した。
  • 威王は群臣を大いに集め、賞罰を行おうとした。左右は心の中で推測し、皆言った。「阿の大夫は今度こそ重い賞を得るだろう。即墨の大夫には災いが降りかかるだろう。」
  • 群臣の朝見が終わると、威王は即墨の大夫を前に召し、言った。「お前が即墨の官についてから、悪い評判が日々届いていた。私が人を遣わして即墨を視察させたところ、田野は開墾され、人民は富み豊かで、役所には未処理の事務がなく、東方はこれによって安寧である。お前が専心して邑を治め、私の側近に媚びなかったため、悪評を蒙ったのだ。お前はまことに賢明な邑の長官だ。」そこで万家の邑を加増して与えた。
  • また阿の大夫を召して言った。「お前が阿を守ってから、良い評判が日々届いていた。私が人を遣わして阿を視察させたところ、田野は荒廃し、人民は凍え飢えていた。以前、趙の兵が近くまで迫った時、お前は救援に行かなかった。ただ厚い金品でもって私の側近に賄賂を贈り、美しい評判を求めていた。守として不肖なことは、お前に過ぎるものはない。」
  • 阿の大夫は額を地につけて拝し、罪を謝して改めることを願った。威王は聞き入れず、力士を呼んで大釜を用意させた。しばらくすると、火は猛り湯は沸き立ち、阿の大夫を縛って鼎の中に投げ入れた。
  • さらに日頃阿の大夫を褒め即墨の大夫を貶していた左右の者たち、およそ数十人を召し、これを責めて言った。「お前たちは寡人の側近にいて、寡人はお前たちに耳目を寄せていたのに、私的に賄賂を受け、是非を転倒させて寡人を欺いた。このような臣がいて何の役に立とうか。皆共に烹られるがよい。」
  • 皆泣いて拝み哀れみを乞うた。威王の怒りはなお収まらず、日頃特に親しく信頼していた者十余人を選び、順ぐりにこれを烹った。皆股が震えた。
  • (詩:権力が左右の側近に握られると毀誉は転倒するものだが、阿を烹り即墨を封じたことで、ついに斉の威王は公道を世に称えられたと詠む)

賢才の登用と朝周の礼

  • そこで賢才を選んで郡守を交替させ、檀子に南城を守らせて楚を防ぎ、田肹に高唐を守らせて趙を防ぎ、黔夫に徐州を守らせて燕を防ぎ、種首を司寇とし、田忌を司馬とした。国内は大いに治まり、諸侯は畏服した。
  • 威王は下邳を騶忌に封じて言った。「寡人の志を成したのは、あなたである。」号して成侯といった。
  • 騶忌は謝恩を終えると、再び上奏した。「昔、斉の桓公・晋の文公は、五覇の中で最も盛んでした。それはなぜかといえば、周を尊ぶことを名分としたからです。今、周室は衰えたとはいえ、九鼎はなお存在します。大王はなぜ周に朝見の礼を行わないのですか。それによって王の寵を借りて諸侯に臨めば、桓公・文公の業も語るに足りなくなります。」
  • 威王は言った。「寡人は既に王号を僭称している。今、王をもって王に朝することができようか。」
  • 騶忌は答えた。「そもそも王を称するのは、諸侯の上に立って盟主となるためであって、天子を圧するためではありません。もし王に朝見する際には、一時的に斉侯を称すれば、天子は必ず大王の謙徳を喜び、寵命がさらに加わるでしょう。」
  • 威王は大いに喜んだ。すぐに車駕を命じて成周に赴き、天子に朝見した。時は周の烈王の六年であった。王室は微弱で、諸侯は久しく朝礼を行わなかったが、独り斉侯が朝見に来たので、上下は皆歓喜し祝った。烈王は大いに宝蔵を捜して贈り物とした。威王は周から斉に戻ると、道すがら称賛の声が満ち、皆その賢を称えた。

戦国七雄の形勢と秦の孤立

  • さてその頃、天下には大国が七つあった。斉・楚・魏・趙・韓・燕・秦である。この七国は地が広く兵が強く、大体互角であった。その他の国は越のように王を称してはいるが日ごとに衰弱し、宋・魯・衛・鄭に至ってはますます語るに足りなかった。
  • 斉の威王が覇を称して以来、楚・魏・韓・趙・燕の五国は皆斉の下に立ち、会合の場では斉を盟主として推した。ただ秦だけは西戎の地に片寄って位置し、中原諸国から擯斥され、通好しなかった。
  • 秦の献公の代、天から金の雨が三日間降り、周の太史儋は密かに嘆いた。「秦の地は、もと周が分封した地である。分かれて五百余年たてば再び合わさり、覇王の君が出る。金徳をもって天下に王たるのだ。今、秦に金の雨が降ったのは、恐らくその瑞兆であろう。」

秦の孝公、賢を招く

  • 献公が薨じ、子の孝公が代わって立つと、中原諸国に列することができないのを恥じた。そこで賢を招く令を下して言った。「賓客や群臣で、奇策を出して秦を強くできる者があれば、尊い官を授け、大邑に封じよう。」
  • どのような賢臣が募集に応じて来るかは分からない。まずは次回をお聞きいただきたい。
原文(底本)
話說吳起衛國人,少居里中,以擊劍無賴,為母所責。起自嚙其臂出血,與母誓曰:「起今辭母,遊學他方,不為卿相,擁節旄,乘高車,不入衛城,與母相見!」母泣而留之,起竟出北門不顧。往魯國,受業於孔門高弟曾參,晝研夜誦,不辭辛苦。有齊國大夫田居至魯,嘉其好學,與之談論,淵淵不竭,乃以女妻之。起在曾參之門,歲餘,參知其家中尚有老母,一日,問曰:「子遊學六載,不歸省覲,人子之心安乎?」起對曰:「起曾有誓詞在前:『不為卿相,不入衛城。』」參曰:「他人可誓,母安可誓也!」由是心惡其人。未幾,衛國有信至,言起母已死﹔起仰天三號,旋即收淚,誦讀如故。參怒曰:「吳起不奔母喪,忘本之人!夫水無本則竭,木無本則折,人而無本,能令終乎?起非吾徒矣。」命弟子絕之,不許相見。起遂棄儒學兵法,三年學成,求仕於魯。魯相公儀休,常與論兵,知其才能,言於穆公,任為大夫。起祿入既豐,遂多買妾婢,以自娛樂。時齊相國田和謀篡其國,恐魯與齊世姻,或討其罪,乃修艾陵之怨,興師伐魯,欲以威力脅而服之。魯相國公儀休進曰:「欲卻齊兵,非吳起不可。」穆公口雖答應,終不肯用。及聞齊師已拔成邑,休復請曰:「臣言吳起可用,君何不行?」穆公曰:「吾固知起有將才,然其所娶乃田宗之女,夫至愛莫如夫妻,能保無觀望之意乎?吾是以躊躇而不決也。」公儀休出朝,吳起已先在相府候見,問曰:「齊寇已深,主公已得良將否?今日不是某誇口自薦,若用某為將,必使齊兵隻輪不返。」公儀休曰:「吾言之再三,主公以子婚於田宗,以此持疑未決。」吳起曰:「欲釋主公之疑,此特易耳。」乃歸家問其妻田氏曰:「人之所貴有妻者,何也?」田氏曰:「有外有內,家道始立。所貴有妻,以成家耳。」吳起曰:「夫位為卿相,食祿萬鐘,功垂於竹帛,名留於千古,其成家也大矣,豈非婦之所望於夫者乎?」田氏曰:「然。」起曰:「吾有求於子,子當為我成之。」田氏曰:「妾婦人,安得助君成其功名?」起曰:「今齊師伐魯,魯侯欲用我為將,以我娶於田宗,疑而不用。誠得子之頭,以謁見魯侯,剛魯侯之疑釋,而吾之功名可就矣。」田氏大驚,方欲開口答話。起拔劍一揮,田氏頭已落地。史臣有詩云:

    一夜夫妻百夜恩,無辜忍使作冤魂?母喪不顧人倫絕,妻子區區何足論。

於是以帛裹田氏頭,往見穆公,奏曰:「臣報國有志,而君以妻故見疑,臣今斬妻之頭,以明臣之為魯不為齊也。」穆公慘然不樂,曰:「將軍休矣!」少頃,公儀休入見,穆公謂曰:「吳起殺妻以求將,此殘忍之極,其心不可測也。」公儀休曰:「起不愛其妻,而愛功名,君若棄之不用,必反而為齊矣。」穆公乃從休言,即拜吳起為大將,使泄柳申詳副之,率兵二萬,以拒齊師。起受命之後,在軍中與士卒同衣食,臥不設席,行不騎乘,見士卒裹糧負重,分而荷之,有卒病疽,起親為調藥,以口吮其膿血,士卒感起之恩,如同父子,咸摩拳擦掌,願為一戰。

  卻說田和引大將田忌段朋,長驅而入,直犯南鄙,聞吳起為魯將,笑曰:「此田氏之婿,好色之徒,安知軍旅事耶?魯國合敗,故用此人也。」及兩軍對壘,不見吳起挑戰,陰使人覘其作為。見起方與軍士中之最賤者,席地而坐,分羹同食。使者還報,田和笑曰:「將尊則士畏,士畏則戰力。起舉動如此,安能用眾?吾無慮矣。」再遣愛將張丑,假稱願與講和,特至魯軍,探起戰守之意。起將精銳之士,藏於後軍,悉以老弱見客﹔謬為恭謹,延入禮待。丑曰:「軍中傳聞將軍殺妻求將,果有之乎?」起觳觫而對曰:「某雖不肖,曾受學於聖門,安敢為此不情之事?吾妻自因病亡,與軍旅之命適會其時,君之所聞,殆非其實。」丑曰:「將軍若不棄田宗之好,願與將軍結盟通和。」起曰:「某書生,豈敢與田氏戰乎?若獲結成,此乃某之至願也。」起留張丑於軍中,歡飲三日,方纔遣歸,絕不談及兵事。臨行,再三致意,求其申好。丑辭去,起即暗調兵將,分作三路,尾其後而行。田和得張丑回報,以起兵既弱,又無戰志,全不掛意。忽然轅門外鼓聲大振,魯兵突然殺至,田和大驚。馬不及甲,車不及駕,軍中大亂。田忌引步軍出迎,段朋急令軍士整頓車乘接應。不提防泄柳申詳二軍,分為左右,一齊殺入,乘亂夾攻。齊軍大敗,殺得僵屍滿野,直追過平陸方回。魯穆公大悅,進起上卿。田和責張丑誤事之罪,丑曰:「某所見如此,豈知起之詐謀哉。」田和乃嘆曰:「起之用兵,孫武穰苴之流也。若終為魯用,齊必不安。吾欲遣一人至魯,暗與通和,各無相犯,子能去否?」丑曰:「願捨命一行,將功折罪。」田和乃購求美女二人,加以黃金千鎰,令張丑詐為賈客,攜至魯,私餽吳起。起貪財好色,見即受之,謂丑曰:「致意齊相國,使齊不侵魯,魯何敢加齊哉?」張丑既出魯城,故意洩其事於行人。遂沸沸揚揚,傳說吳起受賄通齊之事。穆公曰:「吾固知起心不可測也。」欲削起爵究罪。起聞而懼,棄家逃奔魏國,主於翟璜之家。適文侯與璜謀及守西河之人,璜遂薦吳起可用。文侯召起見之,謂起曰:「聞將軍為魯將有功,何以見辱敝邑?」起對曰:「魯侯聽信讒言,信任不終,故臣逃死於此。慕君侯折節下土,豪傑歸心,願執鞭馬前。倘蒙驅使,雖肝腦塗地,亦無所恨。」文侯乃拜起為西河守。起至西河,修城治池,練兵訓武,其愛恤士卒,一如為魯將之時。築城以拒秦,名曰吳城。

  時秦惠公薨,太子名出子嗣位。惠公乃簡公之子,簡公乃靈公之季父。方靈公之薨,其子師隰年幼,群臣乃奉簡公而立之。至是三傳,及於出子,而師隰年長,謂大臣曰:「國,吾父之國也。吾何罪而見廢?」大臣無辭以對,乃相與殺出子而立師隰,是為獻公。吳起乘秦國多事之日,興兵襲秦,取河西五城,韓趙皆來稱賀。文侯以翟璜薦賢有功,欲拜為相國,訪於李克。克曰:「不如魏成。」文侯點頭。克出朝,翟璜迎而問曰:「聞主公欲卜相,取決於子,今已定乎?何人也?」克曰:「已定魏成。」翟璜忿然曰:「君欲伐中山,吾進樂羊,君憂鄴,吾進西門豹,君憂西河,吾進吳起。吾何以不若魏成哉?」李克曰:「成所舉卜子夏、田子方、段干木,非師即友。子所進者,君皆臣之。成食祿千鍾,什九在外,以待賢士。子祿食皆以自贍。子安得比於魏成哉?」璜再拜曰:「鄙人失言,請侍門下為弟子。」自此魏國將相得人,邊鄙安集,三晉之中,惟魏最強。齊相國田和見魏之強,又文侯賢名重於天下,乃深結魏好。遂遷其君康公貸於海上,以一城給其食,餘皆自取。使人於魏文侯處,求其轉請於周,欲援三晉之例,列於諸侯。周威烈王已崩,子安王名驕立,勢愈微弱。時乃安王之十三年,遂從文侯之請,賜田和為齊侯,是為田太公。自陳公子完奔齊,事齊桓公為大夫,凡傳十世,至和而代齊有國。姜氏之祀遂絕。不在話下。

  時三晉皆以擇相得人為尚,於是相國之權最重。趙相公仲連,韓相俠累。就中單說俠累,微時,與濮陽人嚴仲子名遂,為八拜之交。累貧而遂富,資其日用,復以千金助其遊費,俠累因此得達於韓,位至相國。俠累既執政,頗著威重,門絕私謁。嚴遂至韓,謁累冀其引進,候月餘不得見。遂自以家財賂君左右,得見烈侯,烈侯大喜,欲貴重之。俠累復於烈侯前言嚴遂之短,阻其進用。嚴遂聞之大恨,遂去韓,遍遊列國,欲求勇士刺殺俠累,以雪其恨。

  行至齊國,見屠牛肆中,一人舉巨斧砍牛,斧下之處,筋骨立解,而全不費力。視其斧,可重三十餘斤。嚴遂異之。細看其人,身長八尺,環眼虯鬚,顴骨特聳,聲音不似齊人。遂邀與相見,問其姓名來歷。答曰:「某姓聶名政,魏人也,家在軹之深井里。因賤性粗直,得罪鄉里,移老母及姊,避居此地,屠牛以供朝夕。」亦詢嚴遂姓字。遂告之,匆匆別去。次早,嚴遂具衣冠往拜,邀至酒肆,具賓主之禮。酒至三酌,遂出黃金百鎰為贈。政怪其厚。遂曰:「聞子有老母在堂,故私進不腆,代吾子為一日之養耳。」聶政曰:「仲子為老母謀養,必有用政之處,若不明言,決不敢受!」嚴遂將俠累負恩之事,備細說知,今欲如此凭般。聶政曰:「昔專諸有言:『老母在,此身未敢許人。』仲子別求勇士,某不敢虛尊賜。」遂曰:「某慕君之高義,願結兄弟之好,豈敢奪若養母之孝,而求遂其私哉?」聶政被強不過,只得受之。以其半嫁其姊罃,餘金日具肥甘奉母。歲餘,老母病卒,嚴遂復往哭弔,代為治喪。喪葬既畢,聶政曰:「今日之身,乃足下之身也。惟所用之,不復自惜!」仲子乃問報仇之策,欲為具車騎壯士。政曰:「相國至貴,出入兵衛,眾盛無比,當以奇取,不可以力勝也。願得利匕首懷之,伺隙圖事。今日別仲子前行,更不相見,仲子亦勿問吾事。」

  政至韓,宿於郊外,靜息三日。早起入城,值俠累自朝中出,高車駟馬,甲士執戈,前後擁衛,其行如飛。政尾至相府,累下車,復坐府決事。自大門至於堂階,皆有兵仗。政遙望堂上,累重席憑案而坐,左右持牒稟決者甚眾。俄頃,事畢將退,政乘其懈,口稱:「有急事告相國。」從門外攘臂直趨,甲士擋之者,皆縱橫顛躓。政搶至公座,抽匕首以刺俠累。累驚起,未及離席,中心而死。堂上大亂,共呼「有賊!」閉門來擒聶政。政擊殺數人,度不能自脫,恐人識之,急以匕首自削其面,抉出雙眼,還自刺其喉而死。早有人報知韓烈侯。烈侯問:「賊何人?」眾莫能識。乃暴其屍於市中,懸千金之賞,購人告首,欲得賊人姓名來歷,為相國報仇。如此七日,行人往來如蟻,絕無識者。此事直傳至魏國軹邑,聶姊罃聞之,即痛哭曰:「必吾弟也!」便以素帛裹頭,竟至韓國,見政橫屍市上,撫而哭之,甚哀。市吏拘而問曰:「汝於死者何人也?」婦人曰:「死者為吾弟聶政,妾乃其姊罃也。聶政居軹之深井里,以勇聞。彼知刺相國罪重,恐累及賤妾,故抉目破面以自晦其名。妾奈何恤一身之死,忍使吾弟終泯沒於人世乎?」市吏曰:「死者既是汝弟,必知作賊之故。何人主使?汝若明言,吾請於主上,貸汝一死。」罃曰:「妾如愛死,不至此矣。吾弟不惜身軀,誅千乘之國相,代人報仇,妾不言其名,是沒吾弟之名也﹔妾復洩其故,是又沒吾弟之義也。」遂觸市中井亭石柱而死。市吏報知韓烈侯,烈侯嘆息,令收葬之。以韓山堅為相國,代俠累之任。

  烈侯傳子文侯,文侯傳哀侯。韓山堅素與哀侯不睦,乘間弒哀侯。諸大臣共誅殺山堅,而立哀侯子若山,是為懿侯。懿侯子昭侯,用申不害為相。不害精於刑名之學,國以大治。此是後話。

  再說周安王十五年,魏文侯斯病篤,召太子擊於中山。趙聞魏太子離了中山,乃引兵襲而取之。自此魏與趙有隙。太子擊歸,魏文侯已薨,乃主喪嗣位,是為武侯。拜田文為相國。吳起自西河入朝,自以功大,滿望拜相,及聞已相田文,忿然不悅。朝退,遇田文於門,迎而謂曰:「子知起之功乎?今日請與子論之。」田文拱手曰:「願聞。」起曰:「將三軍之眾,使士卒聞鼓而忘死,為國立功,子孰與起?」文曰:「不如。」起曰:「治百官,親萬民,使府庫充實,子孰與起?」文曰:「不如。」起又曰:「守西河而秦兵不敢東犯,韓趙賓服,子孰與起?」文又曰:「不如。」起曰:「此三者,子皆出我之下,而位加吾上,何也?」文曰:「某叨竊上位,誠然可愧。然今日新君嗣統,主少國疑,百姓不親,大臣未附,某特以先世勳舊,承乏肺腑,或者非論功之日也。」吳起俯首沉思,良久曰:「子言亦是。然此位終當屬我。」有內侍聞二人論功之語,傳報武侯。武侯疑吳起有怨望之心,遂留起不遣,欲另擇人為西河守。吳起懼見誅於武侯,出奔楚國。

  楚悼王熊疑,素聞吳起之才,一見即以相印授之。起感恩無已,慨然以富國強兵自任。乃請於悼王曰:「楚國地方數千里,帶甲百餘萬,固宜雄壓諸侯,世為盟主﹔所以不能加於列國者,養兵之道失也。夫養兵之道,先阜其財,後用其力。今不急之官,布滿朝署,疏遠之族,糜費公廩﹔而戰士僅食升斗之餘,欲使捐軀殉國,不亦難乎?大王誠聽臣計,汰冗官,斥疏族,盡儲廩祿,以待敢戰之士,如是而國威不振,則臣請伏妄言之誅!」悼王從其計。群臣多謂起言不可用,悼王不聽。於是使吳起詳定官制,凡削去冗官數百員,大臣子弟,不得夤緣竅祿。又公族五世以上者,令自食其力,比於編氓,五世以下,酌其遠近,以次裁之,所省國賦數萬。選國中精銳之士,朝夕訓練,閱其材器,以上下其廩食,有加厚至數倍者,士卒莫不競勸,楚遂以兵強,雄視天下。三晉、齊、秦咸畏之,終悼王之世,不敢加兵。及悼王薨,未及殯歛,楚貴戚大臣子弟失祿者,乘喪作亂,欲殺吳起。起奔入宮寢,眾持弓矢追之。起知力不能敵,抱王屍而伏。眾攢箭射起,連王屍也中了數箭。起大叫曰:「某死不足惜,諸臣銜恨於王,僇及其屍,大逆不道,豈能逃楚國之法哉!」言畢而絕。眾聞吳起之言,懼而散走。太子熊臧嗣位,是為肅王。月餘,追理射屍之罪,使其弟熊良夫率兵,收為亂者,次第誅之,凡滅七十餘家。髯翁有詩嘆云:

    滿望終身作大臣,殺妻叛母絕人倫﹔誰知魯魏成流水,到底身軀喪楚人。

又有一詩,說吳起伏王屍以求報其仇,死尚有餘智也。詩云:

    為國忘身死不辭,巧將賊矢集王屍﹔雖然王法應誅滅,不報公仇卻報私。

  話分兩頭。卻說田和自為齊侯,凡二年而薨。和傳子午,午傳子因齊。當因齊之立,乃周安王之二十三年也。因齊自恃國富兵強,見吳越俱稱王,使命往來,俱用王號,不甘為下,僭稱齊王,是為齊威王。魏侯罃聞齊稱王,曰:「魏何以不如齊?」於是亦稱魏王,即孟子所見梁惠王也。

  再說齊威王既立,日事酒色,聽音樂,不修國政。九年之間,韓、魏、魯、趙悉起兵來伐,邊將屢敗。忽一日,有一士人,叩閽求見,自稱「姓騶名忌,本國人,知琴。聞王好音,特來求見。」威王召而見之,賜之坐,使左右置几,進琴於前。忌撫弦而不彈。威王問曰:「聞先生善琴,寡人願聞至音。今撫弦而不彈,豈琴不佳乎?抑有不足於寡人耶?」騶忌舍琴,正容而對曰:「臣所知者,琴理也。若夫絲桐之聲,樂工之事,臣雖知之,不足以辱王之聽也。」威王曰:「琴理如何,可得聞乎?」騶忌對曰:「琴者,禁也。所以禁止淫邪,使歸於正。昔伏羲作琴,長三尺六寸六分,象三百六十六日也﹔廣六寸,象六合也﹔前廣後狹,象尊卑也﹔上圓下方,法天地也﹔五弦,象五行也。大弦為君,小弦為臣。其音以緩急為清濁,濁者寬而不弛,君道也﹔清者廉而不亂,臣道也。一弦為宮,次弦為商,次為角,次為徵,次為羽。文王武王各加一弦,文弦為少宮,武弦為少商,以合君臣之恩也。君臣相得,政令和諧,治國之道,不過如此。」威王曰:「善哉。先生既知琴理,必審琴音,願先生試一彈之!」騶忌對曰:「臣以琴為事,則審於為琴﹔大王以國為事,豈不審於為國哉?今大王撫國而不治,何異臣之撫琴而不彈乎?臣撫琴而不彈,無以暢大王之意﹔大王撫國而不治,恐無以暢萬民之意也。」威王愕然曰:「先生以琴諫寡人,寡人聞命矣!」遂留之右室。明日,沐浴而召之,與之談論國事。騶忌勸威王節飲遠色,核名實,別忠佞,息民教戰,經營霸王之業。威王大悅,即拜騶忌為相國。

  時有辯士淳于髡,見騶忌唾手取相印,心中不服,率其徒往見騶忌。忌接之甚恭。髡有傲色,直入踞上坐,謂忌曰:「髡有愚志,願陳於相國之前,不識可否?」忌曰:「願聞。」淳于髡曰:「子不離母,婦不離夫。」忌曰:「謹受教,不敢遠於君側。」髡又曰:「棘木為輪,塗以豬脂,至滑也,投於方孔則不能運轉。」忌曰:「謹受教,不敢不順人情。」髡又曰:「弓幹雖膠,有時而解﹔眾流赴海,自然而合。」忌曰:「謹受教,不敢不親附於萬民。」髡又曰:「狐裘雖敝,不可補以黃狗之皮。」忌曰:「謹受教,請選擇賢者,毋雜不肖於其間。」髡又曰:「輻轂不較分寸,不能成車﹔琴瑟不較緩急,不能成律。」忌曰:「謹受教,請修法令而督奸吏。」淳于髡默然,再拜而退。既出門,其徒曰:「夫子始見相國,何其倨,今再拜而退,又何屈也?」淳于髡曰:「吾示以微言凡五,相國隨口而應,悉解吾意。此誠大才,吾所不及!」於是遊說之士,聞騶忌之名,無敢入齊者。騶忌亦用淳于髡之言,盡心圖治。常訪問:「邑守中誰賢誰不肖?」同朝之人,無不極口稱阿大夫之賢,而貶即墨大夫者。忌述於威王。威王於不意中,時時問及左右,所對大略相同。乃陰使人往察二邑治狀,從實回報,因降旨召阿即墨二守入朝。即墨大夫先到,見朝威王,並無一言發放。左右皆驚訝,不解其故。未幾,阿邑大夫亦到。威王大集群臣,欲行賞罰。左右私心揣度,都道:「阿大夫今番必有重賞,即墨大夫禍事到矣。」眾文武朝見事畢,威王召即墨大夫至前,謂曰:「自子之官即墨也,毀言日至,吾使人視即墨,田野開闢,人民富饒,官無留事,東方以寧,繇子專意治邑,不肯媚吾左右,故蒙毀耳。子誠賢令!」乃加封萬家之邑。又召阿大夫謂曰:「自子守阿,譽言日至,吾使人視阿,田野荒蕪,人民凍餒。昔日趙兵近境,子不往救,但以厚幣精金,賄吾左右,以求美譽。守之不肖,無過於汝!」阿大夫頓首謝罪,願改過。威王不聽,呼力士使具鼎鑊。須臾,火猛湯沸,縛阿大夫投鼎中。復召左右平昔常譽阿大夫毀即墨者,凡數十人,責之曰:「汝在寡人左右,寡人以耳目寄汝,乃私受賄路,顛倒是非,以欺寡人。有臣如此,要他何用?可俱就烹!」眾皆泣拜哀求。威王怒猶未息,擇其平日尤所親信者十餘人,次第烹之。眾皆股慄。有詩為證:

    權歸左右主人依,毀譽繇來倒是非﹔誰似烹阿封即墨,竟將公道頌齊威。

於是選賢才改易郡守,使檀子守南城以拒楚,田肹守高唐以拒趙,黔夫守徐州以拒燕,種首為司寇,田忌為司馬,國內大治,諸侯畏服。威王以下邳封騶忌,曰:「成寡人之志者,吾子也。」號曰成侯。騶忌謝恩畢,復奏曰:「昔齊桓晉文,五霸中為最盛,所以然者,以尊周為名也。今周室雖衰,九鼎猶在,大王何不如周,行朝覲之禮,因假王寵,以臨諸侯,桓文之業,不足道矣。」威王曰:「寡人已僭號為王,今以王朝王可乎?」騶忌對曰:「夫稱王者,所以雄長乎諸侯,非所以壓天子也。若朝王之際,暫稱齊侯,天子必喜大王之謙德,而寵命有加矣。」威王大悅。即命駕往成周,朝見天子。時周烈王之六年。王室微弱,諸侯久不行朝禮,獨有齊侯來朝,上下皆鼓舞相慶。烈王大搜寶藏為贈。威王自周返齊,一路頌聲載道,皆稱其賢。

  且說當時天下,大國凡七:齊、楚、魏、趙、韓、燕、秦。那七國地廣兵強,大略相等。餘國如越,雖則稱王,日就衰弱,至於宋、魯、衛、鄭,益不足道矣。自齊威王稱霸,楚、魏、韓、趙、燕五國,皆為齊下,會聚之間,推為盟主。惟秦僻在西戎,中國擯棄,不與通好。秦獻公之世,上天雨金三日,周太史儋私嘆曰:「秦之地,周所分也,分五百餘歲當復合,有霸王之君出焉,以金德王天下。今雨金於秦,殆其瑞乎?」及獻公薨,子孝公代立,以不得列於中國為恥。於是下令招賢,令曰:「賓客群臣,有能出奇計彊秦者,授以尊官,封之大邑。」不知有甚賢臣應募而來,且聽下回分解。

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