東周列國志第八十七回 秦君を説いて衛鞅が法を変える/鬼谷を辞して孫臏が山を下る (說秦君衞鞅變法 辭鬼谷孫臏下山)

衛鞅、魏の公叔痤に仕える

  • 話は変わって、衛人の公孫鞅は元々衛侯の傍系の子孫であり、常々刑名の学を好んでいたが、衛国が微弱で自分の才能を発揮するには足りないと見て、魏国に入り、相国田文に仕えることを求めようとした。
  • 田文は既に死去しており、公叔痤が代わって相国となっていたので、衛鞅はそこで公叔痤の門に身を寄せた。
  • 公叔痤は衛鞅の賢を知り、中庶子に推薦し、大事があるたびに必ず彼と相談した。衛鞅の謀は当たらないことがなく、公叔痤は深く彼を愛し、高位に引き上げようとしたが、まだそれを果たさないうちに公叔痤は病に倒れた。
  • 恵王は自ら見舞いに行き、公叔痤の病勢が既に重く、息も絶え絶えであるのを見て、涙を流して尋ねた。「公叔の病、万一治らなければ、寡人は国を誰に託せばよいか。」
  • 公叔痤は答えた。「中庶子の衛鞅は、その年はまだ若いですが、実に当代の奇才です。主君が国を挙げて彼に委ねれば、私に勝ること十倍です。」
  • 恵王は黙っていた。
  • 公叔痤はさらに言った。「主君がもし衛鞅を用いないのであれば、必ず彼を殺し、国境を出させないでください。他国に用いられれば、必ず魏の害となることを恐れます。」
  • 恵王は言った。「分かった。」
  • 車に乗ると、恵王は嘆いて言った。「公叔の病はひどいものだ。私に国を衛鞅に託せと言い、また『用いなければ殺せ』と言う。衛鞅に何ができようか。これは正気を失った言葉ではないか。」
  • 恵王が去った後、公叔痤は衛鞅を寝台のそばに呼び、言った。「私は先ほど主君にこう申し上げた。主君にお前を用いるよう勧めたが、主君はお許しにならなかった。そこで私はさらに、もし用いないのなら殺すべきだ、と申し上げた。主君は『分かった』と言われた。私は先に君主への義を尽くし、後に臣下であるお前への情を尽くしたのだ。だから先に主君に告げ、後にお前に告げたのだ。お前は必ず急いで立ち去れ、災いに及ぶことのないように。」
  • 衛鞅は言った。「主君は相国の言葉に従って私を用いることさえできないのに、どうして相国の言葉に従って私を殺すことができましょうか。」ついに立ち去らなかった。
  • 大夫の公子卬は衛鞅と仲が良く、卬もまた恵王に推薦したが、恵王は結局用いなかった。

衛鞅、秦孝公に帝道・王道を説くも用いられず

  • ここに至り、秦の孝公が賢を招く令を下したと聞き、衛鞅はそこで魏を去って秦に入り、孝公の寵臣景監に謁見を求めた。景監は国事を論じて衛鞅の才能を知り、孝公に述べた。
  • 孝公は召見し、治国の道を問うた。衛鞅は羲・農・堯・舜の事績を次々に挙げて答えたが、語り終わらぬうちに孝公は既に眠ってしまった。
  • 翌日、景監が入朝すると、孝公は彼を責めて言った。「お前の客は妄言の人物にすぎない。その言葉は迂遠で無用だ。なぜそれを推薦したのか。」
  • 景監は退朝すると、衛鞅に言った。「私はあなたを主君に会わせ、主君の好みに投じることを望み、それによってあなたが重用されることを期待した。それなのになぜ迂遠で無用の話をして君のお耳を汚したのか。」
  • 衛鞅は言った。「私は主君に帝道を行わせようと望んだが、主君はまだ悟られなかった。もう一度お会いして説きたい。」
  • 景監は言った。「主君の御意が晴れておらず、五日後でなければ話せない。」
  • 五日過ぎて、景監は再び孝公に言った。「私の客は言葉をまだ言い尽くしていません。自ら再度の謁見を求めています。どうかお許しください。」
  • 孝公は再び衛鞅を召し、衛鞅は夏の禹が土地を区分し賦税を定めたこと、湯・武が天に順い人に応じたことを詳しく述べた。
  • 孝公は言った。「客はまことに博聞強記であるが、古今で事情は異なる。言われたことは、まだ用いるに適さない。」そこで手を振って退かせた。
  • 景監は先に門で待っていて、衛鞅が宮殿から出るのを見ると、迎えて尋ねた。「今日の説はどうでしたか。」
  • 衛鞅は言った。「私は主君に王道を説いたが、まだ主君の意にかなわなかった。」
  • 景監は不機嫌に言った。「君主が士を得て用いるのは、猟師が矢を扱うようなもので、朝夕に獲物を得ることを望むのだ。どうして目前の効果を捨てて、遠く帝王の法を語ることができようか。先生、もうやめてください。」
  • 衛鞅は言った。「私は先には主君の意をまだ察していなかった。主君の志が高いのに私の言葉が卑近にすぎるのではないかと懸念して、まず探りを入れてみたのだ。今はもう分かった。もし私がもう一度主君にお会いできれば、進言が容れられない心配はない。」
  • 景監は言った。「先生は二度進言して、二度我が君の意に逆らった。私はどうしてこれ以上お喋りして君の怒りを買うことができようか。」
  • 翌日、景監は入朝して謝罪し、二度と衛鞅のことを言わなかった。景監が家に帰ると、衛鞅は尋ねた。「あなたはまた私のために主君に言ってくれましたか。」
  • 景監は言った。「まだです。」
  • 衛鞅は言った。「惜しいことだ。主君はただ賢を求める令を下すだけで、才を用いることができない。私は立ち去ろう。」
  • 景監は言った。「先生はどこへ行かれるのですか。」
  • 衛鞅は言った。「六国は騒然としている。どうして秦君より賢を好む主がいないことがあろうか。そうでなくとも、あなたよりも巧みに賢を推挙する人がいないことがあろうか。私はそれを求めに行こう。」
  • 景監は言った。「先生、しばらくお待ちください。もう五日待って、私はもう一度言いましょう。」

衛鞅、覇道を説き重用される

  • また五日過ぎて、景監は孝公に侍り、孝公はちょうど酒を飲んでいたが、突然飛ぶ鴻を見て、杯を止めて嘆いた。
  • 景監は進んで言った。「主君は飛ぶ鴻を目にされて、何を嘆いておられるのですか。」
  • 孝公は言った。「昔、斉の桓公はこう言った。『私が仲父を得たのは、飛ぶ鴻に羽翼があるようなものだ』と。寡人は賢を求める令を下してから既に数ヶ月経つが、一人の奇才も来ない。譬えれば鴻雁のように、ただ天を衝く志があっても、それを支える羽翼が無いようなものだ。それで嘆いているのだ。」
  • 景監は答えた。「臣の客の衛鞅は、自ら帝・王・覇の三術があると言っています。先に帝王の事を述べたところ、主君は迂遠で用いがたいとされましたが、今また『覇術』を献じたいと申しております。どうか少しの時間をお割きくださり、その言葉を終わりまでお聞きください。」
  • 孝公は「覇術」の二字を聞き、まさにその心にかない、景監にすぐに衛鞅を召させた。
  • 衛鞅が入ると、孝公は尋ねた。「あなたには覇道があると聞くが、なぜ早く寡人に教えてくれなかったのか。」
  • 衛鞅は答えた。「臣は言いたくなかったわけではありません。ただ覇者の術は帝王の術とは異なります。帝王の道は民情に順うことにありますが、覇者の道は必ず民情に逆らわねばなりません。」
  • 孝公は勃然として剣に手をかけ顔色を変えて言った。「そもそも覇者の道が必ず人情に逆らわねばならぬなどということが、どこにあろうか。」
  • 衛鞅は答えた。「琴瑟が調わなければ、必ず弦を替えて張り直さねばなりません。政治も改革しなければ、治めることはできません。小民は目前の安寧に慣れ親しみ、百世の利益を顧みません。成功を共に楽しむことはできても、事を始めるにあたっては相談しがたいものです。かつて管仲が斉の相となり、内政を整えて軍令を寄せ、国を二十五郷に区分し、四民にそれぞれの職業を守らせて、斉国の旧制をことごとく改めました。これがどうして小民が喜んで従うところでしょうか。しかし内政が成って外敵が服したとき、君はその名声を享受し、民もまたその利益を受けました。それでようやく管仲が天下の才であると分かったのです。」
  • 孝公は言った。「あなたにまことに仲父のような術があるならば、寡人はどうして国を委ねてあなたに従わないことがあろうか。ただその術がどこにあるか分からない。」
  • 衛鞅は答えた。「そもそも国が富まなければ兵を用いることはできず、兵が強くなければ敵を摧くことはできません。国を富ませるには農耕に力を入れるのが一番であり、兵を強くするには戦いを奨励するのが一番です。重い賞をもって誘えば、その後で民は向かうべき所を知り、重い罰をもって脅かせば、その後で民は畏れるべき所を知ります。賞罰が必ず信のあるものであり、政令が必ず行われるようにすれば、国が富み強くならないことはありません。」
  • 孝公は言った。「よろしい。この術は寡人が実行できる。」
  • 衛鞅は答えた。「そもそも富強の術は、それに適した人物を得なければ行えません。人を得てもこれを任用するのに専一でなければ行えません。任用が専一でも他人の言葉に惑わされ、意志が二転三転すれば、それでも行えません。」
  • 孝公はまた言った。「よろしい。」
  • 衛鞅は退出を願ったが、孝公は言った。「寡人はまさにあなたの術を尽く聞きたいのに、なぜ急に退くのか。」
  • 衛鞅は答えた。「主君に三日間じっくりお考えいただき、主意が決まった後で、臣は敢えて余さず申し上げます。」
  • 衛鞅が朝廷を出ると、景監はまたこれを咎めて言った。「幸いにも主君が再三善しと仰せられたのに、この機に乗じて全て言い尽くさず、また主君に三日考えさせようとするのは、主君を意のままに操ろうとするようなものではないか。」
  • 衛鞅は言った。「主君の御意はまだ固まっていない。このようにしなければ途中で変わることを恐れているのだ。」
  • 翌日、孝公は人を遣わして衛鞅を召したが、衛鞅は断って言った。「臣は主君に申し上げた。三日後でなければお会いできません。」
  • 景監はまた辞退しないよう勧めたが、衛鞅は言った。「私は初めに主君と約束したのに信用を失えば、後日どうして主君の信を得ることができようか。」景監はそこで納得した。
  • 三日目に至って、孝公は人を遣わして車で迎えに来させた。衛鞅は再び入って会うと、孝公は座を賜り、教えを請い、その意はとても切実であった。衛鞅はそこで秦の政治で改めるべきことを詳しく述べた。互いに問答すること、連続三日三晩、孝公にはまったく疲れた様子がなかった。
  • そこで衛鞅を左庶長に拝し、屋敷一区、黄金五百鎰を賜り、群臣に「今後の国政は、すべて左庶長の施行に従え。違反抗命する者は君命にそむいた者と同罪とする」と諭した。群臣は粛然とした。

徙木の信、変法の令

  • 衛鞅はそこで変法の令を定め、条項を孝公に呈上し、協議して決まった。まだ掲示していないうちに、民が信用しないことを恐れ、すぐに実行しなかった。
  • そこで三丈の木を取り、咸陽の市の南門に立て、役人に守らせて、令して言った。「これを北門に運べる者には十金を与える。」
  • 見物する民衆は非常に多かったが、皆心の中で疑い怪しみ、その意図を測りかね、運ぶ者はいなかった。
  • 衛鞅は言った。「民が運ぼうとしないのは、金が少ないのを嫌っているのではないか。」再び令を改め、五十金まで増やした。人々はますます疑った。
  • 一人が独り進み出て言った。「秦の法は元々重い賞が無い。今急にこのような令があるのは、必ず何か狙いがあるはずだ。たとえ五十金を得られなくても、少しの褒美くらいはあるだろう。」
  • そこでその木を担ぎ、そのまま北門まで行きこれを立てた。民衆で見物する者が壁のように取り囲んだ。
  • 役人が衛鞅に急ぎ報告すると、衛鞅はその人を呼んで、褒めて言った。「お前は本当に良民だ。私の令に従うことができた。」すぐに五十金を与えて言った。「私は決してお前たち民への信を失わない。」
  • 市の人々は互いに伝え聞き、皆左庶長の令は出せば必ず行われると言い、あらかじめ互いに戒め合った。翌日、新しい令が発布されると、市の人々は集まって見て、皆舌を出して驚いた。(これは周の顕王十年のことである。)新しい令には次のように書かれていた。

変法の条文

  • 一、定都。秦の地で最も勝れているのは咸陽に及ぶ所はない。山を背に負い河を巡らせた要害の地であり、千里にわたって金城のごとく堅固である。今、都を咸陽に遷し、永く王業を定めるべきである。
  • 一、建県。境内の村や町はすべて併せて県とする。各県に令・丞を各一人設置し、新法の施行を督めさせる。職務を果たさない者は、軽重に応じて罪を議す。
  • 一、闢土。郊外の空き地で、車馬が必ず通る道及び田間の畦道でないものは、近隣の住民に開墾させて田とする。成熟した後、歩数を計って畝とし、通常通り租を納めさせる。六尺を一歩とし、二百四十歩を一畝とする。一歩の長さを六尺より長く取って測る者は詐称とみなし、その田は没収して官に入れる。
  • 一、定賦。すべての賦税は畝によって課税し、井田什一の制は用いない。すべての田は官に属し、民衆は一尺一寸も私有できない。
  • 一、本富。男は耕し女は織り、粟や帛の多い者を良民と呼び、その一家の徭役を免除する。怠けて貧しい者は没収して官家の奴僕とする。灰を道に捨てる者は農を怠る罪として論じ、工商には重く課税する。民に二人の男子がいれば、必ず分家させ、それぞれ丁銭を出させる。分家しない者は一人で二人分の課税を出させる。
  • 一、勧戦。官爵は軍功によって序列を定める。敵の首一つを斬った者にはすぐに爵一級を賞する。一歩でも退く者はすぐに斬る。功の多い者には上の爵を授け、車や衣服の華美を禁じない。功の無い者は富家であっても粗末な布の衣を着て牛車に乗ることしか許さない。宗室は軍功の多寡によって親疎を定め、戦っても功が無ければ属籍を削り、庶民と同等にする。私に争闘する者があれば、理非を問わず、皆斬首とする。
  • 一、禁奸。五家を保とし、十家を相連させ、互いに監視し合わせる。一家に過ちがあれば、九家がこれを間知し告発する。告発しない者は、十家連座して皆腰斬にする。奸を告発した者には、敵を破った者と同じ賞を与える。一件の奸を告発すれば爵一級を得る。罪人を私かに匿う者は、罪人と同罪とする。旅館に人を宿泊させる場合は、必ず身分証を取って調べ、証明の無い者は宿泊させてはならない。民が一人でも罪を犯せば、その家族全員を官に没収する。
  • 一、重令。政令が既に出た以上、貴賎を問わず一体に遵行しなければならない。従わない者は見せしめに処刑する。

反対者と太子の師傅への処罰、秦の富強と方伯冊命

  • 新令が出ると、民衆は議論紛々とし、不便だと言う者もいれば便利だと言う者もいた。衛鞅はそれらをことごとく捕らえて府に引き立てさせ、これを責めて言った。「お前たちは令を聞けば、ただ奉じて行うべきだ。不便だと言う者は令に逆らう民であり、便利だと言う者もまた令にへつらう民である。これは皆良民ではない。」
  • その姓名をすべて記録し、辺境に移して守備兵とした。大夫の甘龍・杜摯が私かに新法を議論すると、庶人に落とされた。これにより道行く人々は目でしか意思を伝えず、敢えて口に出さなくなった。
  • 衛鞅はそこで大いに人夫を徴発し、咸陽城内に宮殿を築き、日を選んで遷都することにした。
  • 太子駟は遷都を望まず、また変法の非を言った。衛鞅は怒って言った。「法が行われないのは、上位者がこれを犯すことから始まる。太子は君の跡継ぎであるから、刑を加えることはできない。もし赦せば、それは法に背くことになる。」
  • そこで孝公に言い、その罪を太子の師に負わせた。太傅の公子虔を鼻切りの刑に処し、太師の公孫賈を顔に入れ墨する刑に処した。
  • 民衆は互いに言い合った。「太子が令に違反しても、その師の刑を免れないのだから、ましてや他の者はどうであろうか。」
  • 衛鞅は人心が既に定まったと知り、日を選んで遷都した。雍州の有力な一族で咸陽に移り住んだ者は、およそ数千家であった。秦国を三十一県に分け、田畑を開墾させ、税収は百余万まで増加した。
  • 衛鞅は常に自ら渭水に至り囚人を検分し、一日に七百余人を誅殺した。渭水はこれによって真っ赤に染まり、哭き声が野に満ち、民衆は夜寝ても夢の中で皆震え戦いた。
  • そこで道に落ちた物を拾わず、国に盗賊が無くなり、穀物の蔵は満ち足り、公戦には勇んで私闘は敢えてしなくなった。秦国は富み強くなり、天下に比べる者が無くなった。そこで軍を興して楚を伐ち、商於の地を取り、武関の外、六百余里の地を拓いた。周の顕王は使者を遣わして秦を方伯に任命し、諸侯は皆祝賀した。

魏の恵王、賢を招き孟軻を迎える

  • この時、三晋のうち魏だけが王を称し、韓・趙を併呑する意図があったが、衛鞅が秦国に用いられていると聞き、嘆いて言った。「公叔痤の言葉を聞かなかったことを悔いる。」
  • その頃、卜子夏・田子方・魏成・李克らは皆既に死去しており、そこで多額の礼物を投じて四方の豪傑を招き寄せた。
  • 鄒の人、孟軻、字は子輿は、子思の門下の高弟であった。子思は姓を孔、名を伋といい、孔子の嫡孫である。孟軻は子思から聖賢の伝を得て、世を救い民を安んずる志を持っていた。
  • 魏の恵王が士を好むと聞き、鄒から魏に至り、恵王は郊外まで迎えて上賓の礼を執り、国を利する道を尋ねた。
  • 孟軻は言った。「臣は聖人の門下に学び、ただ仁義があることを知り、利があることは知りません。」
  • 恵王はその言葉を迂遠だとして用いず、孟軻はそこで斉に赴いた。潜淵に詩がある(詩:仁義は功利の謀とは同じでない、争乱の世で誰が儒者を用いようとするか、子輿は空しく王道の術を抱いて諸侯を巡ったが、その話は誰にも受け入れられなかったと詠む)。

鬼谷子と門弟たち

  • さて周の陽城に鬼谷という所があった。山が深く木が密生し、幽かで測り知れず、人が住む所とは思えなかったので、鬼谷と呼ばれた。
  • その中に一人の隠者がいて、自ら鬼谷子と号した。伝えられるところでは姓は王、名は栩といい、晋の平公の時代の人で、雲夢山で宋の人墨翟と共に薬を採り修道した。
  • 墨翟は妻子を持たず、天下を遊行して人を救い物を利すること、その苦厄を抜き危難を救うことを願とした。ただ王栩は鬼谷に潜居し、人々はただ鬼谷先生と呼んだ。
  • その人は天地に通じ、いくつかの学問を身につけており、人々はこれに及ばなかった。その学問とは。第一に術数の学、日星や天象は掌中にあるように、往を占い来を察して、言えば当たらないことがなかった。第二に兵学、六韜三略は変化窮まりなく、陣を布き兵を動かすさまは鬼神も測り知れなかった。第三に遊説の学、広く記憶し多く聞き、理を明らかにし勢いを審らかにし、言葉を発すれば万人もかなわなかった。第四に出世間の学、すなわち仙道の修行で、真を修め性を養い、仙薬を服用し気を導く術を行い、病を退け寿命を延ばし、いつでも仙人として昇天できるほどであった。
  • その先生は既に仙家の飛昇の術を知っているのに、なぜ俗世に身を屈しているのか。それはただ何人かの聡明な弟子を導き、共に仙境に帰らせるためであり、それでこの鬼谷に身を寄せていたのだった。
  • 初めは偶然市に入り、人のために占いをすると、その言う吉凶禍福は神のように的中した。次第にその術を慕い学ぶ者が現れた。先生はただ来た者の資質を見て、どの学問に近いかによって、その術を授けた。一つには何人かの人材を成就させ、七国のために用いさせるためであり、二つには仙骨のある者を訪ね求め、共に出世間の道すなわち仙道を修めるためであった。
  • 彼が鬼谷に住んで何年になるか計り知れず、弟子として学ぶ者はどれほどいたか分からない。先生は来る者を拒まず、去る者を追わなかった。
  • その中で同時期の何人かの有名な弟子を挙げると、斉人の孫賓、魏人の龐涓、張儀、洛陽人の蘇秦であった。孫賓と龐涓は義兄弟となり、共に兵法を学んだ。蘇秦と張儀は義兄弟となり、共に遊説を学んだ。それぞれが一家の学問を成した。

龐涓、鬼谷先生に暇乞いして下山する

  • ここで龐涓について語れば、兵法を三年余り学び、自ら能力があると考えていた。ある日、水を汲むために偶然山の麓まで行った時、道行く人が魏国が厚い礼をもって賢を招き、将相を求めていると伝えるのを聞いた。龐涓の心は動き、先生に暇乞いして下山し、魏国に応募しようとした。
  • しかし先生が許してくれないことを恐れ、心の中で躊躇し、言おうとして言えなかった。先生は表情から情を察し、既にその意図を知り、笑って龐涓に言った。「お前の時運は既に至った。なぜ下山して富貴を求めないのか。」
  • 龐涓は先生の言葉を聞き、まさに心にかなうことだったので、跪いて願い出た。「弟子はまさにその意がありましたが、この行が意にかなうかどうか分かりません。」
  • 先生は言った。「お前は行って山の花を一枝摘んでこい。私がお前のためにこれを占おう。」
  • 龐涓は下山して山の花を探した。この時はちょうど六月の炎天で、百花は咲き終わり、山に花は無かった。龐涓はあちこち探し回り、長い間探して、ようやく草花を一茎見つけ、根ごと引き抜き、師に献上しようとした。
  • 突然思った。「この花は質が弱く身体が小さい。大した器にはならない。」地に棄て、また探し回った。しかし怪しいことに他に花は全く無く、やむを得ず先ほど取った草花を袖に隠し、先生の元に戻って答えた。「山には花がありませんでした。」
  • 先生は言った。「花が無いなら、お前の袖の中にあるものは何だ。」龐涓は隠しきれず、取り出して差し出した。その花は土から離れ、また先に日に当たったため、既に半ば萎れていた。
  • 先生は言った。「お前はこの花の名を知っているか。馬兜鈴である。一度開いて十二の花をつける。これはお前の栄達の年数である。鬼谷で採り、日に見られて萎えた。鬼の傍に委を付ければ『魏』という字になる。お前の出世は必ず魏国であろう。」
  • 龐涓は密かに驚嘆した。先生はさらに言った。「ただお前は今、花を隠して私を欺いてしまった。後日、必ずその人を欺く行いによって、逆に人に欺かれることになる。戒めなければならない。私に八字がある。お前は記しておけ。『羊に遇いて栄え、馬に遇いて瘁る。』」
  • 龐涓は再拝して言った。「先生の大きな教えを、どうして忘れられましょうか。」
  • 出発する際、孫賓は龐涓を見送って山を下った。龐涓は言った。「私とあなたは義兄弟の交わりを結び、共に富貴を誓った。この度、もし出世の機会があれば、必ず兄上を推薦し、共に功業を立てよう。」
  • 孫賓は言った。「弟のこの言葉は本当か。」
  • 龐涓は言った。「もし弟が偽りを言えば、万本の矢の下で死ぬがよい。」
  • 孫賓は言った。「厚情を感謝する。何もそこまで重い誓いをする必要はない。」二人は涙を流して別れた。
  • 孫賓が山に戻ると、先生はその涙の跡を見て尋ねた。「お前は龐涓が去ったことを惜しんでいるのか。」
  • 孫賓は言った。「同学の情、どうして惜しまずにいられましょうか。」
  • 先生は言った。「お前は龐涓の才が大将たるに足ると思うか。」
  • 孫賓は言った。「先生の教えを長く受けてきましたが、なぜいけないでしょうか。」
  • 先生は言った。「まったく足りない、まったく足りない。」孫賓は大いに驚き、その理由を尋ねたが、先生は言わなかった。

孫賓、祖父孫武の兵法書を授かる

  • 翌日、先生は弟子たちに言った。「私は夜、鼠の声を聞くのが嫌だ。お前たちは交代で宿直し、私のために鼠を追い払ってくれ。」弟子たちは命に従った。
  • その夜、孫賓が当番となった。先生は枕の下から一巻の書物を取り出し、孫賓に言った。「これはお前の祖父孫武子の『兵法』十三篇である。昔、お前の祖父はこれを呉王闔閭に献じ、闔閭はその策を用いて楚の軍を大破した。後に闔閭はこの書を惜しみ、広く人に伝えることを欲せず、鉄の櫃に入れて姑蘇台の柱の中に隠した。越の兵が台を焼いてから、この書は伝わらなくなった。私は昔お前の祖父と交わりがあり、この書を求め得て、自ら注解を加えた。用兵の秘密はすべてこの中にあり、まだ軽々しく一人にも授けたことがない。今、お前の心根が忠実誠実であることを見て、特にお前に授けよう。」
  • 孫賓は言った。「弟子は幼くして父母を失い、国家の多事に遭い、宗族は離散し、祖父にこの書があると聞いてはいましたが、実際に伝えを受けたことはありません。先生に既に注解があるならば、なぜこれを龐涓には伝えず、私だけに授けるのですか。」
  • 先生は言った。「この書を得た者は、善く用いれば天下の利となり、善く用いなければ天下の害となる。龐涓は立派な人物ではない。どうして軽々しく授けられようか。」
  • 孫賓はこれを持って寝室に戻り、昼夜研究し誦読した。三日後、先生は突然孫賓にその原本を返すよう求めた。孫賓は袖からそれを取り出し、先生に返した。先生は一篇ごとに問いただしたが、孫賓は流れるように答え、一字も遺漏が無かった。
  • 先生は喜んで言った。「お前がこれほど心を用いたのだから、お前の祖父は死んだことにならないだろう。」

龐涓、魏の元帥となる

  • さて龐涓は孫賓に別れ、そのまま魏国に入り、兵法をもって相国王錯に取り入り、王錯は恵王に推薦した。
  • 龐涓が入朝した時、ちょうど料理人が蒸し羊を恵王の前に進めており、恵王がまさに箸を取ろうとしていたので、龐涓は密かに喜んだ。「先生の『羊に遇いて栄える』という言葉は、間違っていなかった。」
  • 恵王は龐涓の立派な人物ぶりを見て、箸を置いて立ち上がり、迎えて礼を尽くした。龐涓は再拝し、恵王はこれを支えて起こし、その学んだところを尋ねた。
  • 龐涓は答えた。「臣は鬼谷先生の門で学び、用兵の道はかなり精通しております。」そして指し示しながら詳しく説き、胸中を余さず語った。
  • 恵王は尋ねた。「我が国は東に斉、西に秦、南に楚、北に韓・趙・燕があり、皆勢力が拮抗している。しかも趙人が我が中山を奪った。この仇はまだ報いていない。先生はどう策を立てるか。」
  • 龐涓は言った。「大王が微臣を用いなければそれまでですが、もし微臣を将に用いてくだされば、必ず戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取り、天下を併呑することもできます。六国など何を憂うことがありましょうか。」
  • 恵王は言った。「先生の大言、実行できないのではないか。」
  • 龐涓は答えた。「臣は自ら思うところの長所を推し量れば、実に六国を掌中に操ることができます。もし任用して効果が無ければ、進んで罪に服します。」
  • 恵王は大いに喜び、龐涓を元帥に任命し、軍師の職を兼ねさせた。龐涓の子龐英、甥の龐蔥・龐茅は皆列将となった。
  • 龐涓は兵を練り武を訓じ、まず衛・宋などの小国を侵し、しばしば勝利を得た。宋・魯・衛・鄭の君主たちは申し合わせ、相次いで朝見に来た。ちょうど斉の兵が国境を侵した時も、龐涓はこれを再び防ぎ退け、そこで自らを不世出の功績があると考え、その誇りは限りなかった。

墨翟、孫賓を魏に推薦する

  • 時に墨翟は名山を遊歴し、たまたま鬼谷を過ぎて友を訪ねた。一目で孫賓に会うと、彼と語り合い、深く意気投合した。
  • そこで孫賓に言った。「あなたは学業を既に成しているのに、なぜ出て功名を立てず、長く山沢に沈んでいるのか。」
  • 孫賓は言った。「私には同学の龐涓がおり、魏に仕官している。志を得た日には必ず互いに引き立て合うと約束したので、私はそれを待っているのだ。」
  • 墨翟は言った。「龐涓は今魏の将となっている。私があなたのために魏に入り、龐涓の心を探ってみよう。」
  • 墨翟は別れを告げて去り、そのまま魏国に至り、龐涓が自らの能力を恃み大言を恥じないのを聞いて、孫賓を推薦する意図が無いことを知った。そこで自ら野人の服のまま魏の恵王に謁見を求めた。
  • 恵王は元々墨翟の名を聞いており、階を降りて迎え入れ、兵法について尋ねた。墨翟はその概略を指し示した。
  • 恵王は大いに喜び、官職に留めようとした。墨翟は固辞して言った。「臣は野に育った性分で、衣冠に慣れておりません。臣が知る中には孫武子の孫、名を賓という者がおり、真に大将の才があります。臣は万分にも及びません。彼は今、鬼谷に隠れています。大王はなぜ彼をお召しになりませんか。」
  • 恵王は言った。「孫賓は鬼谷で学び、龐涓の同門である。卿はこの二人の学問はどちらが優れていると思うか。」
  • 墨翟は言った。「孫賓と龐涓は、同学とはいえ、孫賓は独りその祖父の秘伝を得ています。天下にその相手はいません。まして龐涓など及ぶはずがありません。」
  • 墨翟が去った後、恵王はすぐに龐涓を召して尋ねた。「お前の同学に孫賓という者がいて、独り孫武子の秘伝を得ており、その才は天下無双だと聞いた。将軍、なぜ寡人のために彼を召さないのか。」
  • 龐涓は答えた。「臣は孫賓の才を知らないわけではありません。ただ孫賓は斉人で、宗族は皆斉にいます。今もし魏に仕えれば、必ず斉を先にして魏を後にするでしょう。臣はそれで進言を敢えてしませんでした。」
  • 恵王は言った。「『士は己を知る者のために死す』という。どうして必ず本国の人でなければ用いられないということがあろうか。」
  • 龐涓は答えた。「大王が既に孫賓を召そうとされるなら、臣はすぐに手紙を書いて呼び寄せましょう。」
  • 龐涓は口では何も言わなかったが、心の中で躊躇した。「魏国の兵権は、ただ私一人の手にある。もし孫賓が来れば、必ず寵を奪われるだろう。既に魏王に命があるからには従わざるを得ない。しばらく来るのを待って、計略をめぐらせて彼を害し、その進用の道を阻もう。それが良いのではないか。」
  • そこで書状一通をしたため、恵王に呈上した。恵王は四頭立ての立派な車、黄金・白璧を用い、龐涓の書状を持たせた人を遣わし、まっすぐ鬼谷に赴いて孫賓を招聘させた。

鬼谷先生、孫賓の名を孫臏に改める

  • 孫賓は書状を開いて見た。おおよそ次のように書かれていた。「私、涓は兄上のお蔭を被り、一度魏王にお目にかかるとすぐに重用されました。あの分かれ道で兄上を引き立てるとお約束した私の言葉は、心に刻んで忘れておりません。今、特に魏王に推薦いたしましたので、どうか急ぎ召しに応じて来ていただき、共に功業を図りましょう。」
  • 孫賓はこの書を鬼谷先生に見せた。先生は龐涓が既に時を得て重用されており、今回孫賓を招く書状を送ってきたのに、まったく一言も師への挨拶が無いことを知り、これは薄情で恩を忘れる人物だが、その非礼を咎め立てするまでもないと考えた。
  • しかし龐涓は生まれつき驕り妬み深い性質であり、孫賓がもし行けば、どうして両立できようか。行かせないようにしようとしても、魏王の使命が丁重であり、孫賓自身も既に行こうとする心が急いていたので、うまく止めることができなかった。
  • そこで龐涓の時と同じように孫賓にも花を一枝取らせ、先生がその吉凶を占うことにした。この時はちょうど九月であり、孫賓は先生の机の上に、瓶に活けられた黄菊の一枝があるのを見て、それを抜いて差し出すと、すぐに瓶に戻した。
  • 先生はそこで占い判じて言った。「この花は既に折り取られており、完全な状態ではない。しかしその性質は歳寒に耐え、霜を経ても損なわれない。害を受けたとはいえ、大凶ではない。そして瓶の中に活けられていることを喜ぶべきだ。人に大切にされているのだ。瓶は金属を鋳て作られたもので、鐘鼎の類である。結局は威令が霜雪のように厳しく行き渡り、名は鼎や鐘に刻まれることになるだろう。しかしこの花はさらに引き抜かれることになる。恐らく一時は意にかなわないだろう。それでも瓶に戻ったのだから、お前の功名は結局故郷にある。私はお前のために名を改めよう。それによって進んで世に出る道を図れるように。」
  • そこで孫賓の「賓」の字の左に月偏を加えて「臏」とした。字書によれば「臏」は刖刑の名である。今、鬼谷子が孫賓を孫臏と改めたのは、明らかに足を切られる事があることを知っていたからだが、ただ天機を漏らすことを望まなかったのである。なんと並はずれた人ではないか。
  • 髯翁に詩がある(詩:山の花を手に取って吉凶を知る、これを蓍亀に比べればさらに霊験がある、今の占い師たちを笑うべきだ、いたずらに鬼谷の占形を真似るだけだと詠む)
  • 出発に臨んで、先生はさらに錦の袋一つを授け、言いつけた。「必ず至急の窮地に遭った時、初めて開いて見よ。」孫臏は先生に拝辞し、魏王の使者に従って山を下り、車に乗って去った。

蘇秦・張儀、下山を決意する

  • 蘇秦と張儀は傍らにいて、皆羨望の色を浮かべ、互いに相談して先生に申し出て、彼らもまた辞して帰り、功名を求めようとした。
  • 先生は言った。「天下で最も得難いのは聡明な士である。お前たち二人の資質をもって、もし俗念を絶って心を静め、道を学べば、神仙になれる。なぜ苦しんで俗塵の中でせわしなく働き、浮わついた名利に追われることを甘んじるのか。」
  • 蘇秦と張儀は声を揃えて答えた。「そもそも『良材は岩の下に朽ち果てず、良剣は匣の中に永く隠れない』と申します。日月は流れるように過ぎ去り、光陰は再び来ません。私たちは先生の教えを受けましたが、時に乗じて功を建て、名を後世に揚げたいと願っています。」
  • 先生は言った。「お前たち二人のうち、一人でも私と共に留まる者はいないか。」蘇秦と張儀はどちらも行くことを固く望み、留まろうとする者はいなかった。
  • 先生は強いることができず、嘆いて言った。「仙才を得ることの難しさはこれほどのものか。」そこで二人のためにそれぞれ一度占いを立て、判じて言った。「蘇秦は先に吉で後に凶、張儀は先に凶で後に吉。蘇秦の説は先に行われ、張儀は遅れて達成する。私が見るに孫臏と龐涓の二人は、勢い相容れず、必ず互いに呑み合う事があるだろう。お前たち二人は将来、互いに譲り合って名誉を成すべきで、同学の情を傷つけてはならない。」
  • 二人は頭を地につけて礼をし、教えを受けた。先生はまた書物二冊を取り出し、二人にそれぞれ贈った。蘇秦と張儀がこれを見ると、太公の『陰符篇』であった。
  • 蘇秦と張儀は言った。「この書物は、わたくしどもがとうに熟読暗誦しております。先生は今日これを下されますが、どのような用がありましょうか。」
  • 先生は言った。「お前たちは熟読しているとはいえ、その精髄をまだ得ていない。今後もし意にかなわないことがあれば、ただこの篇について探求せよ。自ずと進歩があるだろう。私もこれより海外に逍遥し、二度とこの谷には留まらない。」
  • 蘇秦と張儀が別れ去ってから、数日も経たぬうちに、鬼谷子もまた海に浮かんで蓬莱の島へ遊びに行き、あるいは既に仙人となったとも言われた。孫臏が招聘に応じて山を下り、後にどうなるかは分からない。まずは次回をお聞きいただきたい。
原文(底本)
話說衛人公孫鞅原是衛侯之支庶,素好刑名之學,因見衛國微弱,不足展其才能,乃入魏國,欲求事相國田文。田文已卒,公叔痤代為相國,鞅遂委身於痤之門。痤知鞅之賢,薦為中庶子,每有大事,必與計議。鞅謀無不中,痤深愛之,欲引居大位,未及,而痤病。惠王親往問疾,見痤病勢已重,奄奄一息,乃垂淚而問曰「公叔恙,萬一不起,寡人將託國於何人?」痤對曰:「中庶子衛鞅,其年雖少,實當世之奇才也。君舉國而聽之,勝痤十倍矣!」惠王默然。痤又曰:「君如不用鞅,必殺之,勿令出境。恐見用於他國,必為魏害。」惠王曰:「諾。」既上車,嘆曰:「甚矣,公叔之病也,乃使我託國於衛鞅,又曰『不用則殺之』。夫鞅何能為?豈非昏憒之語哉?」惠王既去,公叔痤召衛鞅至床頭,謂曰:「吾適言於君如此。欲君用子,君不許,吾又言,若不用當殺之,君曰『諾』。吾向者先君而後臣,故先以告君,後以告子。子必速行,毋及禍也!」鞅曰:「君既不能用相國之言而用臣,又安能用相國之言而殺臣乎?」竟不去。大夫公子卬與鞅善,卬復薦於惠王,惠王竟不能用。

  至是,聞秦孝公下令招賢,鞅遂去魏入秦,求見孝公之嬖臣景監。監與論國事,知其才能,言於孝公。公召見,問以治國之道。衛鞅歷舉羲、農、堯、舜為對,語未及終,孝公已睡去矣。明日,景監入見,孝公責之曰:「子之客,妄人耳!其言迂闊無用,子何為薦之?」景監退朝,謂衛鞅曰:「吾見先生於君,欲投君之好,庶幾重子。奈何以迂闊無用之談,瀆君之聽耶?」鞅曰:「吾望君行帝道,君不悟也。願更一見而說之。」景監曰:「君意不懌,非五日之後,不可言也。」過五日,景監復言於季公曰:「臣之客,語尚未盡,自請復見,願君許之。」孝公復召鞅,鞅備陳夏禹畫土定賦,及湯武順天應人之事。孝公曰:「客誠博聞強記,然古今事異,所言尚未適於用。」乃麾之使退。景監先候於門,見衛鞅從公宮出,迎而問曰:「今日之說何如?」鞅曰:「吾說君以王道,猶未當君意也。」景監慍曰:「人主得士而用,如弋人治繳,旦暮望獲禽耳。豈能舍目前之效,而遠法帝王哉?先生休矣!」鞅曰:「吾向者未察君意,恐其志高,而吾之言卑,故且探之﹔今得之矣。若使我更得見君,不憂不入。」景監曰:「先生兩進言,而兩拂吾君,吾尚敢饒舌以干君之怒哉?」明日,景監入朝謝罪,不敢復言衛鞅。景監歸舍,鞅問曰:「子曾為我復言於君否乎?」監曰:「未曾。」鞅曰:「惜乎!君徒下求賢之令,而不能用才,鞅將去矣。」監曰:「先生何往?」鞅曰:「六王擾擾,豈無好賢之主勝於秦君者哉?即不然,豈無委曲進賢勝於吾子者哉?鞅將求之。」景監曰:「先生且從容,更待五日,吾當復言。」

  又過五日,景監入侍孝公,孝公方飲酒,忽見飛鴻過前,停盃而嘆。景監進曰:「君目視飛鴻而嘆何也?」孝公曰:「昔齊桓公有言:『吾得仲父,猶飛鴻之有羽翼也。』寡人下令求賢,且數月矣,而無一奇才至者。譬如鴻雁,徒有沖天之志,而無羽翼之資,是以嘆耳。」景監答曰:「臣客衛鞅,自言有帝、王、伯三術。向者述帝王之事,君以為迂遠難用,今更有『伯術』欲獻,願君省須臾之暇,請畢其詞。」孝公聞「伯術」二字,正中其懷,命景監即召衛鞅。鞅入,孝公問曰:「聞子有伯道,何不早賜教於寡人乎?」鞅對曰:「臣非不欲言也。但伯者之術,與帝王異。帝王之道,在順民情,伯者之道,必逆民情。」孝公勃然按劍變色曰:「夫伯者之道,安在其必逆人情哉!」鞅對曰:「夫琴瑟不調,必改弦而更張之。政不更張,不可為治。小民狃於目前之安,不顧百世之利,可與樂成,難於慮始。如仲父相齊,作內政而寄軍令,制國為二十五鄉,使四民各守其業,盡改齊國之舊。此豈小民之所樂從哉?及乎政成於內,敵服於外,君享其名,而民亦受其利,然後知仲父為天下才也。」孝公曰:「子誠有仲父之術,寡人敢不委國而聽子!但不知其術安在?」衛鞅對曰:「夫國不富,不可以用兵,兵不強,不可以摧敵。欲富國莫如力田,欲強兵莫如勸戰。誘之以重賞,而後民知所趨,脅之以重罰,而後民知所畏。賞罰必信,政令必行,而國不富強者,未之有也。」孝公曰:「善哉!此術寡人能行之。」鞅對曰:「夫富強之術,不得其人不行﹔得其人而任之不專,不行﹔任之專而惑於人言,二三其意,又不行。」孝公又曰:「善。」衛鞅請退,孝公曰:「寡人正欲悉子之術,奈何遽退?」鞅對曰:「願君熟思三日,主意已決,然後臣敢盡言。」鞅出朝,景監又咎之曰:「賴君再三稱善,不乘此罄吐其所懷,又欲君熟思三日,無乃為要君耶?」鞅曰:「君意未堅,不如此恐中變耳。」至明日,孝公使人來召衛鞅,鞅謝曰:「臣與君言之矣,非三日後不敢見也。」景監又勸令勿辭,鞅曰:「吾始與君約而遂自失信,異日何以取信於君哉?」景監乃服。至第三日,孝公使人以車來迎。衛鞅復入見,孝公賜坐,請教,其意甚切。鞅乃備述秦政所當更張之事。彼此問答,一連三日三夜,孝公全無倦色。遂拜衛鞅為左庶長,賜第一區,黃金五百鎰,諭群臣:「今後國政,悉聽左庶長施行。有違抗者,與逆旨同!」群臣肅然。

  衛鞅於是定變法之令,將條款呈上孝公,商議停當。未及張掛,恐民不信,不即奉行。乃取三丈之木,立於咸陽市之南門,使吏守之,今曰:「有能徒此木於北門者,予以十金。」百姓觀者甚眾,皆中懷疑怪,莫測其意,無敢徒者。鞅曰:「民莫肯徒,豈嫌金少耶?」復改令,添至五十金。眾人愈疑。有一人獨出曰:「秦法素無重賞,今忽有此令,必有計議。縱不能得五十金,亦豈無薄賞!」遂荷其木,竟至北門立之。百姓從而觀者如堵。吏奔告衛鞅,鞅召其人至,獎之曰:「爾真良民也,能從吾令!」隨取五十金與之,曰:「吾終不失信於爾民矣。」市人互相傳說,皆言左庶長令出必行,預相誡諭。次日,將新令頒布,市人聚觀,無不吐舌。(此周顯王十年事也。)只見新令上云:

    一、定都:秦地最勝,無如咸陽,被山帶河,金城千里。今當遷都咸陽,永定王業。一、建縣:凡境內村鎮,悉并為縣。每縣設令丞各一人,督行新法﹔不職者,輕重議罪。一、闢土:凡郊外曠土,非車馬必由之途及田間阡陌,責令附近居民開墾成田。俟成熟之後,計步為畝,照常輸租。六尺為一步,二百四十步為一畝。步過六尺為欺,沒田入官。一、定賦:凡賦稅悉照畝起科,不用井田什一之制。凡田皆屬於官,百姓不得私尺寸。一、本富:男耕女織,粟帛多者,謂之良民,免其一家之役﹔惰而貧者,沒為官家奴僕。棄灰於道,以惰農論﹔工商則重征之。民有二男,即令分異,各出丁錢﹔不分異者,一人出兩課。一、勸戰:官爵以軍功為敘,能斬一敵首,即賞爵一級﹔退一步者即斬。功多者受上爵,車服任其華美不禁﹔無功者雖富室,止許布褐乘犢。宗室以軍功多寡為親疏,戰而無功,削其屬籍,比於庶民。凡有私下爭鬥者,不論曲直,並皆處斬。一、禁奸:五家為保,十家相連,互相覺察,一家有過,九家間舉﹔不舉者,十家連坐,俱腰斬。能首奸者,與克敵同賞。告一奸,得爵一級﹔私匿罪人者,與罪人同。客舍宿人,務取文憑辨驗,無驗者不許容留。凡民一人有罪,併其室家沒官。一、重令:政令既出,不問貴賤,一體遵行﹔有不遵者,戮以狥。

新令既出,百姓議論紛紛,或言不便,或言便。鞅悉令拘至府中,責之曰:「汝曹聞令,但當奉而行之。言不便者,梗令之民也﹔言便者,亦媚令之民也。此皆非良民!」悉籍其姓名,徙於邊境為戍卒。大夫甘龍杜摯私議新法,斥為庶人。於是道路以目相視,不敢有言。衛鞅乃大發徒卒,築宮闕於咸陽城中,擇日遷都。太子駟不願遷,且言變法之非。衛鞅怒曰:「法之不行,自上犯之。太子君嗣,不可加刑﹔若赦之,則又非法。」乃言於孝公,坐其罪於師傅。將太傅公子虔劓鼻,太師公孫賈鯨面。百姓相謂曰:「太子違令,且不免刑其師傅,況他人乎?」鞅知人心已定,擇日遷都。雍州大姓徙居咸陽者,凡數千家。分秦國為三十一縣,開墾田畝,增稅至百餘萬。衛鞅常親至渭水閱囚,一日誅殺七百餘人,渭水為之盡赤,哭聲遍野,百姓夜臥,夢中皆戰。於是道不拾遺,國無盜賊,倉廩充足,勇於公戰,而不敢私鬥。秦國富強,天下莫比。於是興師伐楚,取商於之地,武關之外,拓地六百餘里。周顯王遣使冊命秦為方伯,於是諸侯畢賀。

  是時,三晉惟魏稱王,有吞併韓趙之意,聞衛鞅用於秦國,嘆曰:「悔不聽公叔痤之言也!」時卜子夏、田子方、魏成、李克等俱卒,乃捐厚幣,招來四方豪傑。鄒人孟軻字子輿,乃子思門下高弟。子思姓孔名伋,孔子嫡孫。孟軻得聖賢之傳於子思,有濟世安民之志。聞魏惠王好士,自鄒至魏,惠王郊迎,禮為上賓,問以利國之道。孟軻曰:「臣遊於聖門,但知有仁義,不知有利。」惠王迂其言,不用,軻遂適齊。潛淵有詩云:

    仁義非同功利謀,紛爭誰肯用儒流?子輿空挾圖王術,歷盡諸侯話不投。

  卻說周之陽城,有一處地面,名曰鬼谷。以其山深樹密,幽不可測,似非人之所居,故云鬼谷。內中有一隱者,但自號曰鬼谷子,相傳姓王名栩,晉平公時人,在雲夢山與宋人墨翟,一同採藥修道。那墨翟不畜妻子,發願雲遊天下,專一濟人利物,拔其苦厄,救其危難。惟王栩潛居鬼谷,人但稱為鬼谷先生。其人通天徹地,有幾家學問,人不能及。那幾家學問:一曰數學,日星象緯,在其掌中,占往察來,言無不驗﹔二曰兵學,六韜三略,變化無窮,布陣行兵,鬼神不測﹔三曰游學,廣記多聞,明理審勢,出詞吐辯,萬口莫當﹔四曰出世學,修真養性,服食導引,卻病延年,沖舉可俟。那先生既知仙家沖舉之術,為何屈身世間?只為要度幾個聰明弟子,同歸仙境,所以借這個鬼谷棲身。初時偶然入市,為人占卜,所言吉凶休咎,應驗如神。漸漸有人慕學其術。先生只看來學者資性,近著那一家學問,便以其術授之。一來成就些人才,為七國之用﹔二來就訪求仙骨,共理出世之事。他住鬼谷,也不計年數。弟子就學者不知多少,先生來者不拒,去者不追。就中單說同時幾個有名的弟子:齊人孫賓、魏人龐涓、張儀、洛陽人蘇秦。賓與涓結為兄弟,同學兵法﹔秦與儀結為兄弟,同學游說﹔各為一家之學。單表龐涓學兵法三年有餘,自以為能,忽一日,為汲水,偶然行至山下,聽見路人傳說魏國厚幣招賢,訪求將相,龐涓心動,欲辭先生下山,往魏國應聘。又恐先生不放,心下躊躇,欲言不言。先生見貌察情,早知其意,笑謂龐涓曰:「汝時運已至,何不下山,求取富貴?」龐涓聞先生之言,正中其懷,跪而請曰:「弟子正有此意,未審此行可得意否?」先生曰:「汝往摘山花一枝,吾為汝占之。」龐涓下山,尋取山花。此時正是六月炎天,百花開過,沒有山花。龐涓左盤右轉,尋了多時,止覓得草花一莖,連根拔起,欲待呈與師父。忽想道:「此花質弱身微,不為大器。」棄擲於地,又去尋覓了一回。可怪絕無他花,只得轉身將先前所取草花,藏於袖中,回復先生曰:「山中沒有花。」先生曰:「既沒有花,汝袖中何物?」涓不能隱,只得取出呈上。其花離土,又先經日色,已半萎矣。先生曰:「汝知此花之名乎?乃馬兜鈴也。一開十二朵,為汝榮盛之年數。採於鬼谷,見日而萎﹔鬼傍著委,汝之出身,必於魏國。」龐涓暗暗稱奇。先生又曰:「但汝不合見欺,他日必以欺人之事,還被人欺,不可不戒!吾有八字,汝當記取:『遇羊而榮,遇馬而瘁。』」龐涓再拜曰:「吾師大教,敢不書紳!」臨行,孫賓送之下山,龐涓曰:「某與兄有八拜之交,誓同富貴,此行倘有進身之階,必當舉薦吾兄,同立功業。」孫賓曰:「吾弟此言果實否?」涓曰:「弟若謬言,當死於萬箭之下!」賓曰:「多謝厚情,何須重誓!」兩下流淚而別。孫賓還山,先生見其淚容,問曰:「汝惜龐生之去乎?」賓曰:「同學之情,何能不惜?」先生曰:「汝謂龐生之才,堪為大將否?」賓曰:「承師教訓已久,何為不可?」先生曰:「全未,全未!」賓大驚,請問其故。先生不言。至次日,謂弟子曰:「我夜間惡聞鼠聲,汝等輪流值宿,為我驅鼠。」眾弟子如命。其夜,輪孫賓值宿,先生於枕下,取出文書一卷,謂賓曰:「此乃汝祖孫武子《兵法》十三篇。昔汝祖獻於吳王闔閭,闔閭用其策,大破楚師。後闔閭惜此書,不欲廣傳於人,乃置以鐵櫃,藏於姑蘇臺屋楹之內。自越兵焚臺,此書不傳。吾向與汝祖有交,求得其書,親為注解﹔行兵祕密,盡在其中,未嘗輕授一人。今見子心術忠厚,特以付子。」賓曰:「弟子少失父母,遭國家多故,宗族離散,雖知祖父有此書,實未傳領。吾師既有注解,何不并傳之龐涓,而獨授於賓也?」先生曰:「得此書者,善用之為天下利,不善用之為天下害﹔涓非佳士,豈可輕付哉!」賓乃攜歸臥室,晝夜研誦。三日之後,先生遽向孫賓索其原書。賓出諸袖中,繳還先生。先生逐篇盤問,賓對答如流,一字不遺。先生喜曰:「子用心如此,汝祖為不死矣!」

  再說龐涓別了孫賓,一逕入魏國,以兵法干相國王錯,錯薦於惠王。龐涓入朝之時,正值庖人進蒸羊於惠王之前,惠王方舉箸,涓私喜曰:「吾師言『遇羊而榮』,斯不謬矣。」惠王見龐涓一表人物,放箸而起,迎而禮之。龐涓再拜,惠王扶住,問其所學。涓對曰:「臣學於鬼谷先生之門,用兵之道,頗得其精。」因指畫敷陳,傾倒胸中,惟恐不盡。惠王問曰:「吾國東有齊,西有秦,南有楚,北有韓、趙、燕,皆勢均力敵。而趙人奪我中山,此仇未報,先生何以策之?」龐涓曰:「大王不用微臣則已,如用微臣為將,管教戰必勝,攻必取,可以兼并天下,何憂六國哉?」惠王曰:「先生大言,得無難踐乎:」涓對曰:「臣自揣所長,實可操六國於掌中,若委任不效,甘當伏罪。」惠王大悅,拜為元帥,兼軍師之職。涓子龐英,姪龐蔥龐茅,俱為列將。涓練兵訓武,先侵衛宋諸小國,屢屢得勝。宋、魯、衛、鄭諸君,相約聯翩來朝。適齊兵侵境,涓復禦卻之,遂自以為不世之功,不勝誇詡。

  時墨翟遨遊名山,偶過鬼谷探友,一見孫賓,與之談論,深相契合。遂謂賓曰:「子學業已成,何不出就功名,而久淹山澤耶?」賓曰:「吾有同學龐涓,出仕於魏,相約得志之日,必相援引,吾是以待之。」墨翟曰:「涓見為魏將,吾為子入魏,以察涓之意。」墨翟辭去,逕至魏國,聞龐涓自恃其能,大言不慚,知其無援引孫賓之意﹔乃自以野服求見魏惠王。惠王素聞墨翟之名,降階迎入,叩以兵法。墨翟指說大略。惠王大喜,欲留任官職。墨翟固辭曰:「臣山野之性,不習衣冠。所知有孫武子之孫,名賓者,真大將才,臣萬分不及也。見今隱於鬼谷,大王何不召之?」惠王曰:「孫賓學於鬼谷,乃是龐涓同門,卿謂二人所學孰勝?」墨翟曰:「賓與涓,雖則同學,然賓獨得乃祖祕傳,雖天下無其對手,況龐涓乎?」墨翟辭去,惠王即召龐涓問曰:「聞卿之同學有孫賓者,獨得孫武子祕傳,其才天下無比,將軍何不為寡人召之?」龐涓對曰:「臣非不知孫賓之才,但賓是齊人,宗族皆在於齊,今若仕魏,必先齊而後魏,臣是以不敢進言。」惠王曰:「『士為知己者死。』豈必本國之人,方可用乎?」龐涓對曰:「大王既欲召孫賓,臣即當作書致去。」龐涓口雖不語,心下躊躇:「魏國兵權,只在我一人之手,若孫賓到來,必然奪寵﹔既魏王有命,不敢不依,且待來時,生計害他,阻其進用之路,卻不是好?」遂修書一封,呈上惠王。惠王用駟馬高車,黃金白璧,遣人帶了龐涓之書,一逕望鬼谷來聘取孫賓。賓拆書看之,略曰:

    涓託兄之庇,一見魏王,即蒙重用。臨岐援引之言,銘心不忘。今特薦於魏王,求即驅馳赴召,共圖功業。

孫賓將書呈與鬼谷先生。先生知龐涓已得時大用,今番有書取用孫賓,竟無一字問候其師,此乃刻薄忘本之人,不足計較。但龐涓生性驕妒,孫賓若去,豈能兩立?欲待不容他去,又見魏王使命鄭重,孫賓已自行色匆匆,不好阻當。亦使賓取出花一枝,卜其休咎。此時九月天氣,賓見先生几案之上,瓶中供有黃菊一枝,遂拔以呈上,即時復歸瓶中。先生乃斷曰:「此花見被殘折,不為完好﹔但性耐歲寒,經霜不壞,雖有殘害,不為大凶﹔且喜供養瓶中,為人愛重。瓶乃範金而成,鐘鼎之屬。終當威行霜雪,名勒鼎鐘矣。但此花再經提拔,恐一時未能得意。仍舊歸瓶,汝之功名,終在故土。吾為汝增改其名,可圖進取。」遂將孫賓「賓」字,左邊加月為「臏」。按字書,臏乃刖刑之名,今鬼谷子改孫賓為孫臏,明明知有刖足之事,但天機不肯洩漏耳。豈非異人哉?髯翁有詩云:

    山花入手知休咎,試比蓍龜倍有靈﹔卻笑當今賣卜者,空將鬼谷畫占形。

臨行,又授以錦囊一枚,吩咐:「必遇至急之地,方可開看。」孫臏拜辭先生,隨魏王使者下山,登車而去。

  蘇秦張儀在旁,俱有欣羨之色,相與計議來稟,亦欲辭歸,求取功名。先生曰:「天下最難得者聰明之士,以汝二人之質,若肯灰心學道,可致神仙,何苦要碌碌塵埃,甘為浮名虛利所驅逐也!」秦儀同聲對曰:「夫『良材不終朽於巖下,良劍不終祕於匣中。』日月如流,光陰不再,某等受先生之教,亦欲乘時建功,圖個名揚後世耳。」先生曰:「你兩人中肯留一人與我作伴否?」秦儀執定欲行,無肯留者。先生強之不得,嘆曰:「仙才之難如此哉!」乃為之各占一課,斷曰:「秦先吉後凶,儀先凶後吉。秦說先行,儀當晚達。吾觀孫龐二子,勢不相容,必有吞噬之事。汝二人異日,宜互相推讓,以成名譽,勿傷同學之情!」二人稽首受教。先生又取書二本,分贈二人。秦儀觀之,乃太公《陰符篇》也。秦儀曰:「此書弟子久已熟誦,先生今日見賜,有何用處?」先生曰:「汝雖熟誦,未得其精。此去若未能得意,只就此篇探討,自有進益。我亦從此逍遙海外,不復留於此谷矣。」秦儀既別去,不數日,鬼谷子亦浮海為蓬島之遊,或云已仙去矣。不知孫臏應聘下山,後來如何,且看下回分解。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会