東周列國志第八十九回 馬陵道で万弩が龐涓を射る/咸陽の市で五牛が商鞅を裂く (馬陵道萬弩射龐涓 咸陽市五牛分商鞅)

徐生、太子申を諫める

  • 話は変わって、龐涓は太子申と共に韓を伐つために兵を起こし、外黄を通り過ぎた時、布衣の徐生が太子に謁見を求めた。
  • 太子は尋ねた。「先生が私に会いに来られたのは、何か教えがあってのことか。」
  • 徐生は言った。「太子はこの度、韓を伐とうとされています。私には百戦百勝の術がありますが、太子はお聞きになりたいですか。」
  • 太子は言った。「それは寡人が喜んで聞きたいことだ。」
  • 徐生は言った。「太子は自ら魏よりも富み、王よりも位が高いとお考えですか。」
  • 太子は言った。「いや、富も位もそれらを超えることはない。」
  • 徐生は言った。「今、太子が自ら兵を率いて韓を攻め、幸いにも勝ったとしても、富は魏を超えず、位は王を超えません。万一勝てなければ、どうなさいますか。負けの害が無く、王を称する栄誉があること、これが私の言う百戦百勝です。」
  • 太子は言った。「よろしい。寡人は先生の教えに従い、すぐに兵を引き上げよう。」
  • 徐生は言った。「太子は私の言葉を良しとされても、必ず実行されないでしょう。そもそも一人が鼎で煮ても、多くの人がその汁をすすります。今、太子の汁をすすりたいと思う者が非常に多いのです。太子が引き返そうとしても、誰がそれに従うでしょうか。」徐生は辞去した。
  • 太子は令を出して兵を引き上げようとした。龐涓は言った。「大王は三軍を太子に託されました。まだ勝敗も見ないうちに急に兵を引き上げれば、敗北と何が違いましょうか。」諸将も皆空しく帰ることを望まなかった。
  • 太子申は自分で決めることができず、そこで兵を率いて前進し、まっすぐ韓の都に迫った。

孫臏、韓を利用し魏を攻める策

  • 韓の哀侯は斉に急を告げ、救援を求めた。斉の宣王は群臣を大いに集め、「韓を救うべきか救わざるべきか、どちらが是でどちらが非か」と問うた。
  • 相国の騶忌は言った。「韓魏が互いに併合し合うのは、隣国にとって幸いです。救わない方がよいでしょう。」
  • 田忌と田嬰は皆言った。「魏が韓に勝てば、禍は必ず斉に及びます。救うのが正しいです。」
  • 孫臏だけは黙って何も言わなかった。宣王は言った。「軍師は一言も発しないが、まさか救うのも救わないのも、両方とも間違いだというのか。」
  • 孫臏は答えた。「その通りです。魏国は自らの強さを恃み、前年は趙を伐ち、今年は韓を伐っています。その心はどうして片時も斉を忘れているでしょうか。もし救わなければ、韓を棄てて魏を肥やすことになります。だから救わないというのは間違いだと申します。魏がまさに韓を伐っているのに、韓がまだ疲弊しないうちに我々が救えば、我々が韓に代わって兵を受けることになり、韓はその安寧を享受し、我々がその危険を受けることになります。だから救うというのも間違いだと申すのです。」
  • 宣王は言った。「それではどうすればよいのか。」
  • 孫臏は答えた。「大王のためを思えば、韓に必ず救うと約束し、それによって韓の心を安んじるのがよいでしょう。韓は斉の救援があると知れば、必ず全力で魏に抵抗するでしょう。魏もまた必ず全力で韓を攻めるでしょう。私たちは魏が疲弊するのを待ち、ゆっくりと兵を率いて赴けば、疲弊した魏を攻めて危うい韓を存続させることができ、力を少なく使って功を多く得ることができます。これは先の二つの策より勝るのではないでしょうか。」
  • 宣王は手を打って「よろしい」と称えた。そこで韓の使者に救援を承諾し、「斉の救援は近いうちに到着する」と告げた。
  • 韓の昭侯は大いに喜び、全力で魏に抵抗した。前後五、六回交戦したが、韓は皆勝てず、再び使者を斉に遣わし、救援を催促した。
  • 斉は再び田忌を大将、田嬰を副将、孫子を軍師として用い、戦車五百乗を率いて韓を救わせた。
  • 田忌はまた韓に進もうとしたが、孫臏は言った。「いけません、いけません。私たちが先に趙を救った時、実際には趙に行かなかった。今、韓を救うのに、なぜ韓に行く必要がありますか。」
  • 田忌は言った。「軍師の意図はどうしようというのか。」
  • 孫臏は言った。「そもそも紛争を解く術は、敵が必ず救わなければならない所を攻めることにあります。今日の計としては、ただまっすぐ魏の都に向かうのがよいでしょう。」田忌はこれに従った。そこで三軍をすべて魏国に向けて進発させた。
  • 龐涓は連戦連勝で韓を破り、新都に迫ろうとしていたが、突然本国からの緊急報告を受け、「斉の兵が再び魏の国境を侵しています。元帥は急ぎ兵を引き上げてください」と告げられた。
  • 龐涓は大いに驚き、すぐに韓から魏に引き返す令を伝えた。韓の兵は追撃しなかった。
  • 孫臏は龐涓がまもなく到着することを知り、田忌に言った。「三晋の兵は元来悍勇で斉を軽んじており、斉は臆病だと言われています。戦い上手な者は、この勢いに乗じてこれを誘導するものです。『兵法』にこう言います。『百里を進んで利を求める者は上将を失い、五十里を進んで利を求める者は軍が半分しか到着しない』と。我々の軍は遠く魏の地に入っているので、弱く見せかけて誘うのがよいでしょう。」
  • 田忌は言った。「どのように誘うのか。」
  • 孫臏は言った。「今日は十万のかまどを作り、明日、明後日と次第に減らしていきます。彼らは軍のかまどが急に減るのを見れば、必ず我々の兵が臆病で逃亡者が半数を超えたと考え、道を急いで利を追おうとするでしょう。その気勢は必ず驕り、その力は必ず疲れます。我々はそれによって計略で彼らを取ることができます。」田忌はその計略に従った。

馬陵の伏兵

  • 一方、龐涓は西南に向かって進みながら、韓の兵がしばしば敗れたので、ちょうど征伐を進めるべき時なのに、斉人に妨害されてその成功を台無しにされたことを非常に憤っていた。
  • 魏の国境に着くと、斉の兵は既に先へ去っていることを知った。残された陣営の跡は非常に広く、人にそのかまどの数を数えさせると、十万にも及んだので、驚いて言った。「斉の兵の多さはこれほどか。軽んじてはならない。」
  • 翌日、また前の陣営に着き、そのかまどを調べるとわずか五万余りであった。また翌日、かまどはわずか三万であった。龐涓は手を額に当てて言った。「これは魏王の大きな幸運だ。」
  • 太子申は尋ねた。「軍師は敵の姿もまだ見ていないのに、なぜそのように喜びの色を浮かべるのか。」
  • 龐涓は答えた。「私は元々斉人が元来臆病であることを知っています。今、魏の地に入って、まだ三日なのに、士卒の逃亡は既に半数を超えました。それでもなお戈を取って角逐する勇気があるでしょうか。」
  • 太子申は言った。「斉人は詐術が多い。軍師は十分に注意してください。」
  • 龐涓は言った。「田忌らは今回自ら死にに来たようなものです。私は不才ですが、田忌らを生け捕りにして、桂陵の恥をすすぐことを願います。」
  • そこで令を伝えた。精鋭二万人を選び、太子申と二隊に分かれ、日に倍する速さで進軍させ、歩兵はすべて後方に残し、龐蔥に率いさせて徐々に進ませた。
  • 孫臏は絶えず人を遣わして龐涓の消息を探らせ、報告が返ってきた。「魏の兵は既に沙鹿山を過ぎ、昼夜を分かたず、道を急いで進んでいます。」
  • 孫臏は指を折って行程を計算し、日暮れには必ず馬陵に到着すると読んだ。あの馬陵道は二つの山の間にあり、渓谷は深く狭く、伏兵を置くのに適していた。道端の樹木は密生していたが、孫臏はただ一番大きな一本の木だけを残し、残りの木はすべて切り倒させ、道に縦横に置いて通行を塞いだ。
  • そしてあの大木の東向きの木肌を白く削らせ、黒い墨で大きく六文字を書かせた。「龐涓死此樹下(龐涓この木の下に死す)」。上には横書きで四文字を書かせた。「軍師孫示(軍師孫、示す)」。
  • 部将の袁達と独孤陳にそれぞれ弓弩の手五千を選ばせ、左右に伏せさせ、言いつけた。「ただ木の下に火の光が起こるのを見たら、一斉に矢を放て。」
  • さらに田嬰に一万の兵を率いさせ、馬陵から三里離れた所に伏せさせ、魏の兵が既に通り過ぎるのを待って、後方から遮って襲撃させた。
  • 配置を終えると、自ら田忌と共に兵を率いて遠くに陣を張り、伏兵と呼応して討ち出す態勢を整えた。

龐涓の死

  • 一方、龐涓は道すがら斉の兵が遠くない所を通り過ぎたと聞き、一足でも早く追いつきたいと、ただ急ぎ進んだ。
  • 馬陵道に来た時、ちょうど日は西山に落ち、時は十月下旬で、月の光もなかった。
  • 前軍が「切り倒された木が道を塞いでおり、前進できません」と報告した。龐涓は声を張り上げて言った。「これは斉の兵が我々の追撃を恐れて、この計略を仕掛けたのだ。」
  • まさに兵士に木をどけて道を開かせようとした時、突然頭を上げて木に白く削られた所に、うっすらと文字の跡があるのを見た。ただ暗くて判別できなかったので、小卒に火を持って来させて照らさせた。兵士たちは一斉に火を灯した。
  • 龐涓は火の光の下で、はっきりとそれを見て、大いに驚いて言った。「私は足を切られた男の計略にはまった。」急いで兵士に命じた。「速やかに退け。」
  • 言い終わらないうちに、袁達と独孤陳の二方の伏兵が、火の光を望み見て、万の弩を一斉に発した。矢は驟雨のように降り注ぎ、兵士は大混乱に陥った。
  • 龐涓は身に重傷を負い、もはや脱出できないと悟り、嘆いて言った。「私はあの足を切られた男を殺しきれなかったことを恨む。結局は小僧の名を成すことになってしまった。」すぐに佩剣を抜いて自らの喉を刎ねて絶命した。龐英もまた矢に当たって命を落とした。
  • 射殺された兵士は数え切れないほどであった。史官はこれを詩に詠んでいる。(詩:昔の偽書は幽鬼のように奸智に長け、今宵の待ち伏せの弩は神のごとく妙、人との交わりは忠信を懐くべきであり、龐涓のように自ら身を滅ぼすことを学んではならないと詠む)
  • 昔、龐涓が下山する時、鬼谷は言った。「お前は必ず人を欺いた事によって、逆に人に欺かれるだろう。」龐涓は偽書の事で孫臏を欺いて足切りの刑にしたが、今日また孫臏に欺かれて、そのかまどを減らす計略に陥ってしまった。鬼谷はまた「馬に遇いて瘁る」と言ったが、果たして馬陵で死んだ。数えれば龐涓が魏に仕えてから身が死ぬまで、ちょうど十二年で、花が十二朵開くという占いの兆しと符合した。ここに至って初めて、鬼谷の占いが細かなことまで必ず的中し、その神妙さは測り知れないものであったと分かったのである。

太子申の死と孫臏の凱旋

  • 時に太子申は後陣にいて、前軍が敗れたと聞き、慌てて陣を張ったまま進まなくなった。しかし思いがけず田嬰の一軍が反対に後方から殺到し、魏の兵は肝を潰し、敢えて戦う者はなく、各自四方に散って逃げた。
  • 太子申は勢い孤立し力も無く、田嬰に生け捕りにされ、縛られて車の中に置かれた。田忌と孫臏は大軍を率いて呼応し攻めかかり、魏の軍を屍が野に満ちるほど殺し、重い軍器も軽い軍器もすべて斉のものとなった。
  • 田嬰は太子申を功績として献上し、袁達と独孤陳は龐涓父子の屍を献上した。孫臏は自ら龐涓の首を斬り、車上に懸けた。斉の軍は大勝し、勝利を奏でて帰還した。
  • その夜、太子申は辱めを恐れ、自ら喉を刎ねて死んだ。孫臏は嘆息して止まなかった。
  • 大軍が沙鹿山まで進んだ時、ちょうど龐蔥の歩兵に出遭った。孫臏は人に龐涓の首を掲げさせてこれを示すと、歩兵は戦わずして潰走した。
  • 龐蔥は車を下りてぬかずき、命乞いをした。田忌は彼をも誅殺しようとした。孫臏は言った。「悪をなしたのは龐涓一人のみです。その子でさえ罪はないのに、まして甥に罪があるはずがありません。」
  • そこで太子申と龐英の二つの屍を龐蔥に交付し、魏王への報告を託した。「速やかに上表して朝貢せよ。さもなければ斉の兵が再び至り、宗社は保たれないだろう。」龐蔥は何度も承諾の返事をして去った。(これは周の顕王二十八年のことである。)

孫臏、山に隠棲す

  • 田忌らは兵を引き上げて帰国すると、斉の宣王は大いに喜び、宴を設けて労い、自ら田忌・田嬰・孫臏に酒を注いだ。
  • 相国の騶忌は、以前密かに魏の賄賂を受けて田忌を陥れようとした事を思い、心中忸怩たるものがあり、そこで重病と称して人を遣わし相国の印を返上した。
  • 斉の宣王はそこで田忌を相国に拝し、田嬰を将軍とし、孫臏は軍師のまま、大きな邑を加えて与えた。孫臏は固辞して受けなかった。
  • 自ら祖父孫武の『兵書』十三篇を書き写し、宣王に献上して言った。「臣は廃人でありながら、過分な抜擢をいただき、今、上は主君の恩に報い、下は私の恨みに報いることができ、願いは満たされました。臣の学んだことは、すべてこの書にあります。臣を留めても用はありません。閑かな山の一片を得て、終生を終える計らいをいただきたく存じます。」
  • 宣王は引き留められず、そこで石閭の山を彼に封じた。孫臏はその山に住んで一年余り、ある夜突然姿を消した。あるいは鬼谷先生が彼を導いて世を超脱させたとも言われた。これは後の話である。
  • 武成王廟には『孫子讚』がある。(詩:孫子は兵法を知り、かえって盗人の憎しみを受けた、足を切られた恨みを飲んで、座して策を巡らせた、韓を救い魏を攻め、恥を雪いで名声を揚げた、功成りて賞を辞し、跡を隠して名を蔵した、祖父孫武に照らしても、何ら恥じることはないと詠む)

斉宣王の驕りと鐘離春の諫言

  • 一方、斉の宣王は龐涓の首を都の城門に懸け、国威を示した。人を遣わして諸侯に勝利を告げると、諸侯は皆恐れ驚いた。韓・趙の二君は特に救援の恩に感謝し、自ら朝賀に来た。
  • 宣王は韓・趙と兵を合わせて魏を攻めようとした。魏の恵王は大いに恐れ、また使者を遣わして講和を求め、斉に朝見することを願った。
  • 斉の宣王は三晋の君を集めて博望城で会合し、韓・趙・魏は誰も逆らわなかった。三君が同時に朝見し、天下はこれを栄誉とした。
  • 宣王はそこで自らの強さを恃み、酒色に耽り、城内に雪宮を築いて宴楽に備え、郊外四十里を狩猟のための園として整えた。
  • また文学遊説の士を信じ聴き、稷門に左右の講室を立てて、遊説の徒数千人を集めた。(その中には騶衍・田駢・接輿・環淵など七十六人がおり、皆邸宅を賜り上大夫とされた。)日々議論に耽り、実際の政治は修めなかった。
  • 寵臣の王驩らが権力を握り、田忌はしばしば諫めたが聞き入れられず、鬱々として死んだ。
  • ある日、宣王が雪宮で宴を開き、女楽を盛大に並べていた時、突然一人の婦人が現れた。額が広く目が深く落ちくぼみ、鼻が高く喉仏が突き出て、猫背で首すじが太く、指は長く足は大きく、髪は秋の草のようで、皮膚は漆のように黒く、破れた衣を着て、外から入ってきて「斉王にお目にかかりたい」と言った。
  • 武王がこれを止めて言った。「醜い婦人め、何者だ、大王に会おうとするとは。」
  • 醜い婦人は言った。「私は斉の無鹽の人で、複姓は鐘離、名は春と申します。年は四十を超え、嫁ぐ相手も見つからずにおります。大王が離宮で宴を催されていると聞き、特にお目にかかりに参りました。後宮に入って掃除の仕事をさせていただきたいと存じます。」
  • 左右は皆口を覆って笑った。「これは天下で最も厚顔な女だ。」そこで宣王に奏上した。
  • 宣王は召し入れた。宴に侍っていた群臣は、その醜い容貌を見て皆笑いをこらえた。
  • 宣王は尋ねた。「私の宮中には既に妃や侍女が備わっている。今、お前は容貌が醜く、郷里にも受け入れられず、庶民の身で千乗の君に取り入ろうとしている。何か特別な能力でもあるのか。」
  • 鐘離春は答えた。「私に特別な能力はありません。ただ隠語の術がございます。」
  • 宣王は言った。「試しにその隠術を発してみよ。孤(われ)のために推し量ってみよ。もし言うことが役に立たなければ、すぐに斬首にするぞ。」
  • 鐘離春はそこで目を大きく見開き、歯をむき出し、何度も手を挙げ、膝を打ちながら叫んだ。「危ういかな、危ういかな。」
  • 宣王はその意を解せず、群臣に問うたが、群臣も誰も答えられなかった。
  • 宣王は言った。「春よ、前に来て、寡人のために明らかに言ってみよ。」
  • 春はぬかずいて言った。「大王が私の死罪をお赦しくださるならば、私はあえて申し上げます。」
  • 宣王は言った。「お前の罪を赦す。」
  • 春は言った。「私が目を見開いたのは、大王に代わって烽火の異変を見張ることです。歯をむき出したのは、大王に代わって諫言を拒む口を懲らしめることです。手を挙げたのは、大王に代わって讒言とへつらいの臣を追い払うことです。膝を打ったのは、大王に代わって遊宴の台を取り壊すことです。」
  • 宣王は大いに怒って言った。「寡人にどうしてそのような四つの過ちがあろうか。田舎女がでたらめを言うな。」斬るよう命じた。
  • 春は言った。「大王の四つの過ちを申し述べさせていただき、その後で刑を受けたいと存じます。私が聞くところによれば、秦は商鞅を用いて国が富み強くなり、遠からず函谷関から兵を出して斉と覇を争うでしょう。真っ先にその害を被るのは我が国です。大王は国内に良将が無く、辺境の防備は次第に緩んでいます。私は大王のために目を見開いてこれを見張っているのです。私は聞いております。『君に諍臣あれば国を亡ぼさず、父に諍子あれば家を亡ぼさず』と。大王は内では女色に耽り、外では国政を荒らし、忠諫の士を拒んで受け入れません。私が歯をむき出したのは、大王のために諫言を受けることを表したのです。しかも王驩らはへつらって取り入り、賢者を蔽い地位を盗んでいます。騶衍らは迂遠な議論を語るばかりで実がありません。大王がこの輩を信用しては、社稷を誤ることを私は恐れます。それで手を挙げて大王のためにこれを追い払う仕草をしたのです。王は宮殿や庭園、高殿や池を築き、民力を使い果たし、国の財を虚しく消耗しています。それで膝を打って大王のためにこれを取り壊す仕草をしたのです。大王の四つの過ちは、積み重なった卵のように危ういのに、目前の安逸を貪り、後日の禍を顧みておられません。私は死を冒してこれを申し上げます。もしお聞き入れいただければ、死んでも何の恨みがありましょうか。」
  • 宣王は嘆いて言った。「鐘離氏の言葉が無ければ、寡人は自分の過ちを聞くことができなかっただろう。」その日のうちに宴を止め、車に春を乗せて宮に連れ帰り、正后に立てた。
  • 春は辞退して言った。「大王が私の言葉を採用されないならば、私の身をどうして用いる必要がありましょうか。」そこで宣王は賢者を招き士に下り、へつらう佞臣を遠ざけ、稷下の遊説の徒を解散させ、田嬰を相国とし、鄒の人孟軻を上賓とし、斉国は大いに治まった。無鹽の邑を春の家に封じ、春を無鹽君と号した。これは後の話である。

衛鞅、魏を伐つ計を献ずる

  • 話は二つに分かれる。さて秦の相国衛鞅は龐涓の死を聞き、孝公に言った。「秦と魏は隣国です。秦にとって魏があるのは、人が腹心の病を持つようなもので、魏が秦を併呑するか、秦が魏を併呑するか、その勢いは両立できないことは明らかです。魏は今、斉に大敗し、諸侯もこれに背いています。この機に乗じて魏を伐てば、魏は支えきれず、必ず東に遷都するでしょう。そうすれば秦は河山の険を占め、東に向かって諸侯を制することができます。これこそ帝王の業です。」
  • 孝公はもっともだと考え、衛鞅を大将、公子少官を副将として、兵五万を率いて魏を伐たせた。軍は咸陽を出て、東に向かって進発した。警報は既に西河に至っていた。
  • 守将の朱倉は急を告げる文書を一日に三度出した。恵王は群臣を大いに集め、秦を防ぐ計略を問うた。
  • 公子卬は進んで言った。「衛鞅は昔魏にいた時、臣と親しくしておりました。臣はかつて大王に彼を推薦しましたが、大王はお聞き入れになりませんでした。今日、臣は兵を率いて赴き、まず講和を提案いたします。もし許されなければ、城を固く守り、韓・趙に救援を求めます。」群臣は皆この策に賛成した。
  • 恵王はすぐに公子卬を大将に拝し、また兵五万を率いて西河を救援に赴かせ、吳城に駐屯させた。(あの吳城は呉起が西河を守っていた時に築いた城で、秦を防ぐためのもので、堅固で守るに適していた。)
  • 公子卬はまさに書状を作り、人を秦の陣営に遣わして衛鞅に問い合わせ、兵を止めさせようとした。守城の将兵が「今、秦の相国が使いを遣わして手紙を送って来ており、城外にいます」と報告した。
  • 公子卬は縄でその使者を城壁づたいに引き上げさせ、手紙を開いて見た。手紙にはこう書かれていた。「私、鞅は当初あなたと非常に親しくしており、骨肉と変わらぬ間柄でした。今、それぞれ異なる主君に仕え、二国の将となっていますが、どうして忍んで兵を交え、互いに肉を魚のように切り刻むことができましょうか。私の心づもりでは、あなたと約束し、それぞれ兵車を去り甲冑を脱ぎ、衣冠の会をもって玉泉山でお会いし、楽しく酒を飲んで散会し、両国の民を肝脳が地に塗れる目に遭わせないようにしたいと思います。千秋の後まで、私たち二人の交情を、管仲と鮑叔のようだったと称えられるようにしたいのです。あなたがもし喜んでこれに従ってくださるならば、どうかその期日をお示しください。」
  • 公子卬はこれを読み終えると大いに喜んで言った。「私の意図もまさにこの通りだ。」そこで使者を手厚くもてなし、返書にこう答えた。「相国は昔のよしみを忘れず、斉の桓公の故事に倣い、衣裳をもって兵車に代え、秦魏の民を安んじ、管鮑の誼を明らかにされる、これは私の志です。三日以内に、相国から期日をお示しください。あえて命に従わないことはありません。」
  • 衛鞅は返書を得ると喜んで言った。「私の計略は成った。」再び人を城中に遣わして日取りを取り決めさせ、「秦の前営は既に撤収し、先に帰らせました。ただ元帥にお会いすれば、すぐに陣を引き払います」と伝えさせた。
  • さらに陸地に生える蓮根と麝香を贈って言った。「この二品は秦の地の産物です。蓮根は人を益し、麝香は邪を避けます。少しばかり旧情のしるしとして、永く友好を保ちたく存じます。」
  • 公子卬は衛鞅が自分を愛しんでいると思い、ますますその他意の無さを信じ、返書で謝意を伝えた。
  • 衛鞅は偽って軍令を伝え、前営をすべて撤収させ、公子少官に先行させた。しかし密かに指示を出し、道すがらただ狩猟をして食料を得ると称し、狐岐山・白雀山などで四方に伏兵を配置し、当日の午の刻末から未の刻初め頃、皆が玉泉山の麓に集まったところで、山上の砲の音を合図として、一斉に殺到し、来た者を全員捕らえ、一人も漏らさないようにと定めた。

公子卬の捕縛と魏の河西割譲・大梁遷都

  • 期日になり、早朝、衛鞅は先に人を城中に遣わして報告させた。「相国は先に玉泉山でお待ちしております。随行は三百人に満ちません。」公子卬は十分に信用し、彼もまた軽い車に酒食を載せ、楽師一組を伴い、車に乗って会に赴いた。人数は衛鞅とほぼ同じであった。
  • 衛鞅は山の麓で出迎えた。公子卬は随行者が少なく、しかも武器も無いのを見て、平然として疑わなかった。互いに会うと、昔の交情を語り合い、また今日の講和の意を述べた。魏国の従者たちは皆喜んだ。
  • 両側にはそれぞれ酒席が設けられ、公子卬が主人として先に衛鞅に酒を注いだ。三度献じ三度酬い、音楽を三度奏でた。
  • 衛鞅は軍吏に席上で時刻を報告させ、すぐに魏国の宴席を撤去させ、別に秦国の酒饌を用いた。給仕をする二人は、秦国で有名な勇士であった。一人は烏獲といい、力は千鈞を挙げるほど、一人は任鄙といい、手で虎や豹を打ち倒すほどであった。
  • 衛鞅がやっと最初の杯を勧めた時、目で左右に合図を送ると、その者たちはすぐに山頂へ上って一発の号砲を放った。山下でも砲が鳴り応じ、その音は丘や谷に轟いた。
  • 公子卬は大いに驚いて言った。「この砲は何だ。相国、まさか私を欺いているのではないか。」
  • 衛鞅は笑って言った。「しばらく欺かせていただきます。どうかお許しください。」
  • 公子卬は心が慌てふためき、すぐに逃げようとしたが、烏獲にしっかりと押さえられ、動くことができなくなった。任鄙は左右に人々を捕らえるよう指揮した。
  • 公子少官は兵士を率い、車馬や人員をすべて拘束し、まさに水も漏らさぬ捕らえ方であった。衛鞅は公子卬を囚車に載せ、先に秦国に送り勝利を報告させた。
  • 捕らえた随行の人々は縄を解いてやり、酒を賜って気を鎮めさせ、依然として元の車馬を使わせ、彼らに言い含めた。「ただ総大将が会から帰って来たとだけ言え。城門を開けさせれば、さらに重い褒美を与える。従わなければ、すぐに斬首だ。」
  • あの一行の従者たちは皆下っ端であり、誰も死を恐れない者はなかったので、皆従うことに同意した。烏獲には公子卬に扮させて車の中に座らせ、任鄙を護送使臣に見せかけ、単独で後ろに従わせた。
  • 城の上の者たちは自分たちの仲間だと見分け、すぐに門を開いた。あの二人の勇将は一斉に行動を起こし、城門を拳と足で粉々に叩き壊し、閉めることができなくなった。前に出た兵士は皆打ち倒された。
  • 後方から衛鞅自ら大軍を率いて、飛ぶように駆けつけた。城中の軍民は乱れ逃げまどい、衛鞅は兵士を放って一気に殺戮させ、そのまま吳城を占領した。
  • 朱倉は総大将が捕虜になったことを聞き、西河を守りきれないと悟り、城を棄てて逃げた。
  • 衛鞅は長駆して進み、まっすぐ安邑に迫った。恵王は大いに恐れ、大夫の龍賈を秦の軍に遣わして和議を結ばせようとした。
  • 衛鞅は言った。「魏王は私を用いなかった。だから私は秦国に仕官したのだ。秦王のご厚恩を受けて卿相の位に上り、俸禄万鐘を食むようになった今、既に兵権を交付されている以上、魏を滅ぼさなければ、重い信託に背くことになる。」
  • 龍賈は言った。「私はこう聞いております。『良鳥は旧林を恋しがり、良臣は故主を懐かしむ』と。魏王があなたを用いなかったとはいえ、父母の国です。あなたはどうして情が無いことがありましょうか。」
  • 衛鞅は長い間考えた後、龍賈に言った。「私に兵を引き上げさせたいならば、河西の地をすべて秦に割いていただく以外にありません。」
  • 龍賈はやむを得ず承諾し、恵王に戻って奏上した。恵王はこれに従い、すぐに龍賈に河西の地図を捧げさせ、秦軍に献上して講和を買わせた。衛鞅は地図と土地を受け取り、勝利を奏して帰還した。公子卬はそのまま秦に降った。
  • 魏の恵王は安邑の地が秦に近く、守りにくいと考え、そこで都を大梁に遷した。これより梁国と称されるようになった。

商鞅の栄華と趙良の忠告

  • 秦の孝公は衛鞅の功を称え、列侯に封じ、以前魏から取った商於など十五邑を衛鞅の食邑とし、商君と号した。後世に商鞅と称するのはこれによる。
  • 衛鞅は謝恩して屋敷に帰り、家臣に言った。「私は衛の傍系の子孫でありながら、策を携えて秦に身を寄せて仕え、秦のために政治を改め、たちまち富強をもたらした。今また魏の地七百里を得て、十五城を封じられた。立派な男子が志を得るとは、まさに極まったと言えよう。」賓客は皆声を揃えて祝賀した。
  • その中に一人の上客が声を励まして進み出た。「千人がへつらって唯々諾々とするより、一人の直言する士がいる方がよい。あなた方は商君の門下にいながら、どうしてへつらって主君を陥れることができようか。」
  • 人々がそれを見ると、それは上客の趙良であった。衛鞅は言った。「先生は皆がへつらっているとおっしゃるが、試みに尋ねる。私が秦を治めたことは、五羖大夫と比べてどちらが優れているか。」
  • 趙良は言った。「五羖大夫が穆公を助けた時、三度晋の君を立て、二十の国を併合し、その主君を西戎の覇者とさせました。そして自分自身については、暑くとも車の覆いを張らず、疲れても座って乗ることはありませんでした。死んだ日、民は父母を喪ったかのように悲しみ泣きました。今、あなたが秦の相となって八年、法令は行われていますが、刑罰は非常に惨たらしく、民は威を見ても徳を見ず、利を知っても義を知りません。太子はあなたがその師を刑に処したことを恨み、その恨みは骨髄にまで達しています。民間の父兄子弟も長らく怨みの心を抱いています。ひとたび秦君が崩御すれば、あなたの危うさは朝露のようなものになるでしょう。それでもなお商於の富貴を貪り、自ら立派な男子であると誇ることができましょうか。あなたはなぜ賢人を推薦して自分に代え、俸禄と地位を辞し、田野に退いて耕さないのですか。それでこそなお身を全うできる望みがあります。」
  • 商君は黙り込み、楽しまなかった。

商鞅の最期

  • その後五ヶ月、秦の孝公は病を得て薨じた。群臣は太子駟を奉じて即位させた。これが恵文公である。
  • 商鞅は自分が先代からの旧臣であることを鼻にかけ、出入りに傲慢であった。公子虔は初め商鞅に鼻を切られており、積もる恨みをまだ晴らしていなかった。ここに至り、公孫賈と共に恵文公に奏上した。「臣が聞くところによれば、『大臣が権勢を強めすぎれば国が危うくなり、側近が権勢を強めすぎれば身が危うくなる』と申します。商鞅が法を立てて秦を治め、秦国は治まったとはいえ、婦人や子供までもが商君の法を語り、秦国の法を語る者はおりません。今また十五邑を封じられ、位は尊く権は重く、後には必ず謀叛を企てるでしょう。」
  • 恵文公は言った。「私はこの賊を恨んで久しい。ただ先王の臣であり、まだ謀反の兆候が明らかでないため、しばらく黙認していたのだ。」そこで使者を遣わして商鞅の相国の印を収め、商於に退去させた。
  • 商鞅は朝廷を辞し、車馬を整えて城を出た。その儀仗の隊伍は諸侯にも劣らないほどであった。百官が見送りに来て、朝廷の役所は空になった。
  • 公子虔と公孫賈は密かに恵文公に告げた。「商君は悔い改めることを知らず、王者の儀制を僭称しています。もし商於に帰れば、必ず謀叛するでしょう。」甘龍と杜摯もこの事を証言した。
  • 恵文公は大いに怒り、すぐに公孫賈に武士三千人を率いさせ、商鞅を追撃させ、首を斬って報告させることを命じた。公孫賈は命を受けて朝廷を出た。
  • 当時、民は街々に連なって皆商君を怨んでいた。公孫賈が兵を率いて追撃すると聞くと、腕をまくって従う者は、数千人どころの数ではなかった。
  • 商鞅の車駕が城を出て既に百余里進んだ時、突然後方で喊声が激しく起こった。人を遣わして探らせると、報告があった。「朝廷が兵を発して追撃しています。」
  • 商鞅は大いに驚き、新王に責められたことを知り、禍を免れないと悟り、急いで衣冠を脱いで車を降り、下働きの兵に扮して逃亡した。函谷関に至った時、日は暮れかかっており、旅館に投宿しようとした。
  • 旅館の主人は身分証を求めたが、商鞅は無いと言った。旅館の主人は言った。「商君の法では、証明のない人を宿泊させることを許さず、犯せば泊めた者も泊まった者もともに斬られる。私は留めることができない。」
  • 商鞅は嘆いて言った。「私がこの法を立てたことが、かえって自分を害することになった。」そこで夜を冒して先へ進み、人に紛れてこっそり関門を出て、まっすぐ魏国へ向かった。
  • 魏の恵王は商鞅が公子卬を騙して捕虜にし、その河西の地を割かせたことを恨み、そこで商鞅を捕らえて秦に献じようとした。商鞅は再び商於に逃げ帰り、兵を起こして秦を攻めることを謀ったが、公孫賈に追いつかれ縛られて連れ戻された。
  • 恵文公はその罪を数え挙げ、商鞅を市場に引き出し、五頭の牛で身体を裂く刑に処すよう命じた。民は争ってその肉を食らい、たちまち食べ尽くした。そこでその一族もすべて滅ぼされた。
  • 憐れむべきかな、商鞅は新法を変え立て、秦国を富強にしたが、今日は車裂きの禍を受けた。これは過酷さに対する報いではないだろうか。(これは周の顕王三十一年のことである。)髯翁はこれを詩に詠んでいる。(詩:商於の封邑はまだ一年も経たないのに、五路に身を裂かれるとは何と哀れなことか、酷薄な行いは必ず凶事の報いを招く、君よ熟読せよ『省刑』の篇をと詠む)
  • 商鞅の死以来、民は道で歌い踊り、重い荷を下ろしたかのようであった。六国もこれを聞き、皆互いに祝った。甘龍と杜摯は先に免職されていたが、今皆官に復した。

秦の恵文王、公孫衍を用いる

  • 公孫衍を相国に拝した。公孫衍は恵文公に西の巴蜀を併合し、王を称して天下に号令することを勧め、列国にすべて魏国のように地を割いて贄とするよう求め、従わない者があれば兵を発して伐つよう促した。
  • 恵文公はそこで王を称し、使者を遍く列国に告げさせ、皆地を割いて祝賀するよう求めた。諸侯は皆躊躇して決めかねた。
  • ただ楚の威王熊商だけは、昭陽を用いて新たに越の兵を破り、越王無疆を殺し、越の地をすべて有し、地は広く兵は強く、秦に敵対していた。秦の使者が楚に至ると、楚王に叱咤されて追い返された。
  • そこで洛陽の蘇秦は「兼併」の策を携え、秦王に説くことになった。蘇秦がどのように秦王に説くかは分からない。まずは次回をお聞きいただきたい。
原文(底本)
話說龐涓同太子申起兵伐韓,行過外黃,有布衣徐生請見太子。太子問曰:「先生辱見寡人,有何見諭?」徐生曰:「太子此行,將以伐韓也。臣有百戰百勝之術於此,太子欲聞之否?」申曰:「此寡人所樂聞也。」徐生曰:「太子自度富有過於魏,位有過於王者乎?」申曰:「無以過矣!」徐生曰:「今太子自將而攻韓,幸而勝,富不過於魏,位不過於王也,萬一不勝,將若之何?夫無不勝之害,而有稱王之榮,此臣所謂百戰百勝者也。」申曰:「善哉!寡人請從先生之教,即日班師。」徐生曰:「太子雖善吾言,必不行也。夫一人烹鼎,眾人啜汁。今欲啜太子之汁者甚眾,太子即欲還,其誰聽之?」徐生辭去。太子出令欲班師。龐涓曰:「大王以三軍之寄,屬於太子,未見勝敗,而遽班師,與敗北何異?」諸將皆不欲空還。太子申不能自決,遂引兵前進,直造韓都。韓哀侯遣人告急於齊,求其出兵相救。齊宣王大集群臣,問以:「救韓與不救,孰是孰非?」相國騶忌曰:「韓魏相并,此鄰國之幸也,不如勿救。」田忌田嬰皆曰:「魏勝韓,則禍必及於齊,救之為是。」孫臏獨嘿然無語。宣王曰:「軍師不發一言,豈救與不救,二策皆非乎?」孫臏對曰:「然也。夫魏國自恃其強,前年伐趙,今年伐韓,其心亦豈須臾忘齊哉?若不救,是棄韓以肥魏,故言不救者非也。魏方伐韓,韓未敝而吾救之,是我代韓受兵,韓享其安,而我受其危,故言救者亦非也。」宣王曰:「然則何如?」孫臏對曰:「為大王計,宜許韓必救,以安其心。韓知有齊救,必悉力以拒魏,魏亦必悉力以攻韓。吾俟魏之敝,徐引兵而往,攻敝魏以存危韓,用力少而見功多,豈不勝於前二策耶?」宣王鼓掌稱:「善。」遂許韓使,言:「齊救旦暮且至。」韓昭侯大喜,乃悉力拒魏。前後交鋒五六次,韓皆不勝,復遣使往齊,催趲救兵。齊復用田忌為大將,田嬰副之,孫子為軍師,率車五百乘救韓。田忌又欲望韓進發,孫臏曰:「不可,不可!吾向者救趙,未嘗至趙,今救韓,奈何往韓乎?」田忌曰:「軍師之意,將欲如何?」孫臏曰:「夫解紛之術,在攻其所必救。今日之計,惟有直走魏都耳。」田忌從之。乃令三軍齊向魏邦進發。龐涓連敗韓師,將逼新都,忽接本國警報,言:「齊兵復寇魏境,望元帥作速班師!」龐涓大驚,即時傳令去韓歸魏,韓兵亦不追趕。孫臏知龐涓將至,謂田忌曰:「三晉兵素悍勇而輕齊,齊號為怯,善戰者因其勢而利導之。《兵法》云:『百里而趨利者蹶上將,五十里而趨利者軍半至。』吾軍遠入魏地,宜詐為弱形以誘之。」田忌曰:「誘之如何?」孫臏曰:「今日當作十萬灶,明後日以漸減去,彼見軍灶頓減,必謂吾兵怯戰,逃亡過半,將兼程逐利。其氣必驕,其力必疲,吾因以計取之。」田忌從其計。

  再說龐涓兵望西南而行,心念韓兵屢敗,正好征進,卻被齊人侵擾,毀其成功,不勝之忿。及至魏境,知齊兵已前去了。遺下安營之跡,地甚寬廣,使人數其灶,足有十萬,驚曰:「齊兵之眾如此,不可輕敵也!」明日又至前營,查其灶僅五萬有餘,又明日,灶僅三萬。涓以手加額曰:「此魏王之洪福矣!」太子申問曰:「軍師未見敵形,何喜形於色?」涓答曰:「某固知齊人素怯,今入魏地,纔三日,士卒逃亡,已過半了,尚敢操戈相角乎?」太子申曰:「齊人多詐,軍師須十分在意。」龐涓曰:「田忌等今番自來送死,涓雖不才,願生擒忌等,以雪桂陵之恥。」當下傳令:選精銳二萬人,與太子申分為二隊,倍日并行,步軍悉留在後,使龐蔥率領徐進。孫臏時刻使人探聽龐涓消息,回報:「魏兵已過沙鹿山,不分早夜,兼程而進。」孫臏屈指計程,日暮必至馬陵。那馬陵道在兩山中間,溪谷深隘,堪以伏兵。道傍樹木叢密,臏只揀絕大一株留下,餘樹盡皆砍倒,縱橫道上,以塞其行。卻將那大樹向東樹身砍白,用黑煤大書六字云:「龐涓死此樹下!」上面橫書四字云:「軍師孫示。」令部將袁達獨孤陳,各選弓弩手五千,左右埋伏,吩咐:「但看樹下火光起時,一齊發弩。」再令田嬰引兵一萬,離馬陵三里埋伏,只待魏兵已過,便從後截殺。分撥已定,自與田忌引兵遠遠屯札,准備接應。

  再說龐涓一路打聽齊兵過去不遠,恨不能一步趕著,只顧催趲。來到馬陵道時,恰好日落西山,其時十月下旬,又無月色。前軍回報:「有斷木塞路,難以進前。」龐涓叱曰:「此齊兵畏吾躡其後,故設此計也。」正欲指麾軍士搬木開路,忽抬擡頭看見樹上砍白處,隱隱有字跡,但昏黑難辨。命小軍取火照之。眾軍士一齊點起火來。龐涓於火光之下,看得分明,大驚曰:「吾中刖夫之計矣!」急教軍士:「速退!」說猶未絕,那袁達獨孤陳兩支伏兵,望見火光,萬弩齊發。箭如驟雨,軍士大亂。龐涓身帶重傷,料不能脫,嘆曰:「吾恨不殺此刖夫,遂成豎子之名!」即引佩劍自刎其喉而絕。龐英亦中箭身亡。軍士射死者,不計其數。史官有詩云:

    昔日偽書奸似鬼,今宵伏弩妙如神﹔相交須是懷忠信,莫學龐涓自隕身!

昔龐涓下山時,鬼谷曾言:「汝必以欺人之事,還被人欺。」龐涓用假書之事,欺孫臏而刖之,今日亦受孫臏之欺,墮其減灶之計。鬼谷又言:「遇馬而瘁。」果然死於馬陵。計龐涓仕魏至身死,剛十二年,應花開十二朵之兆。始見鬼谷之占,纖微必中,神妙不測。

  時太子申在後隊,聞前軍有失,慌忙屯札住不行。不提防田嬰一軍,反從後面殺到,魏兵心膽俱裂,無人敢戰,各自四散逃生。太子申勢孤力寡,被田嬰生擒,縛置車中。田忌和孫臏統大軍接應,殺得魏軍屍橫遍野,輕重軍器,盡歸於齊。田嬰將太子申獻功,袁達獨孤陳將龐涓父子屍首獻功。孫臏手斬龐涓之頭,懸於車上。齊軍大勝,奏凱而還。其夜太子申懼辱,亦自刎而死。孫臏嘆息不已。大軍行至沙鹿山,正逢龐蔥步軍,孫臏使人挑龐涓之頭示之,步軍不戰而潰。龐蔥下車叩頭乞命,田忌欲并誅之。孫臏曰:「為惡者止龐涓一人,其子且無罪,況其姪乎?」乃將太子申及龐英二屍,交付龐蔥,教他回報魏王:「速速上表朝貢,不然,齊兵再至,宗社不保。」龐蔥喏喏連聲而去。(此周顯王二十八年事也。)

  田忌等班師回國,齊宣王大喜,設宴相勞,親為田忌、田嬰、孫臏把盞。相國騶忌,自思昔日私受魏賂,欲陷田忌之事,未免於心有愧,遂稱病篤,使人繳還相印。齊宣王遂拜田忌為相國,田嬰為將軍,孫臏軍師如故,加封大邑。孫臏固辭不受。手錄其祖孫武《兵書》十三篇,獻於宣王曰:「臣以廢人,過蒙擢用,今上報主恩,下酬私怨,於願足矣。臣之所學,盡在此書,留臣亦無用,願得閒山一片,為終老之計!」宣王留之不得,乃封以石閭之山。孫臏住山歲餘,一夕忽不見,或言鬼谷先生度之出世矣。此是後話。武成王廟有《孫子讚》云:

    孫子知兵,翻為盜憎﹔刖足銜冤,坐籌運能。救韓攻魏,雪恥揚靈﹔功成辭賞,遁跡藏名。揆之祖武,何愧典型!

  再說齊宣王將龐涓之首,懸示國門,以張國威。使人告捷於諸侯,諸侯無不聳懼。韓趙二君,尤感救兵之德,親來朝賀。宣王欲與韓趙合兵攻魏,魏惠王大恐,亦遣使通和,請朝於齊。齊宣王約會三晉之君,同會於博望城,韓、趙、魏無敢違者。三君同時朝見,天下榮之。宣王遂自恃其強,耽於酒色,築雪宮於城內,以備宴樂。闢郊外四十里為苑囿,以備狩獵。又聽信文學遊說之士,於稷門立左右講室,聚遊客數千人,(內如騶衍、田駢、接輿、環淵﹍﹍等七十六人,皆賜列第,為上大夫。)日事議論,不修實政。嬖臣王驩等用事,田忌屢諫不聽,鬱鬱而卒。

  一日,宣王宴於雪宮,盛陳女樂。忽有一婦人,廣額深目,高鼻結喉,駝背肥項,長指大足,髮若秋草,皮膚如漆,身穿破衣,自外而入,聲言「願見齊王。」武王止之曰:「醜婦何人,敢見大王!」醜婦曰:「吾乃齊之無鹽人也,覆姓鐘離,名春,年四十餘,擇嫁不得。聞大王遊宴離宮,特來求見,願入後宮,以備灑掃。」左右皆掩口而笑曰:「此天下強顏之女子也!」乃奏知宣王。宣王召入。群臣侍宴者,見其醜陋,亦皆含笑。宣王問曰:「我宮中妃侍已備,今婦人貌醜,不容於鄉里,以布衣欲干千乘之君,得無有奇能乎?」鐘離春對曰:「妾無奇能,特有隱語之術。」宣王曰:「汝試發隱術,為孤度之。若言不中用,即當斬首。」鐘離春乃揚目衒齒,舉手再四,拊膝而呼曰:「殆哉,殆哉!」宣王不解其意,問於群臣,群臣莫能對。宣王曰:「春來前,為寡人明言之。」春頓首曰:「大王赦妾之死,妾乃敢言。」宣王曰:「赦爾無罪。」春曰:「妾揚目者,代王視烽火之變﹔衒齒者,代王懲拒諫之口﹔舉手者,代王揮讒佞之臣﹔拊膝者,代王拆遊宴之臺。」宣王大怒曰:「寡人焉有四失?村婦妄言!」喝令斬之。春曰:「乞申明大王之四失,然後就刑。妾聞秦用商鞅,國以富強,不日出兵函關,與齊爭勝,必首受其患,大王內無良將,邊備漸弛,以妾為王揚目而視之。妾聞『君有諍臣,不亡其國﹔父有諍子,不亡其家。』大王內耽女色,外荒國政,忠諫之士,拒而不納,妾所衒炫齒為王受諫也。且王驩等阿諛取容,蔽賢竊位,騶衍等迂談闊論,虛而無實,大王信用此輩,妾恐其有誤社稷,所以舉手為王揮之。王築宮築囿,臺榭陂池,殫竭民力,虛耗國賦,所以拊膝為王拆之。大王四失,危如累卵,而偷目前之安,不顧異日之患。妾冒死上言,倘蒙採聽,雖死何恨!」宣王嘆曰:「使無鐘離氏之言,寡人不得聞其過也!」即日罷宴,以車載春歸宮,立為正后。春辭曰:「大王不納妾言,安用妾身?」於是宣王招賢下士,疏遠嬖佞,散遣稷下游說之徒,以田嬰為相國,以鄒人孟軻為上賓,齊國大治。即以無鹽之邑封春家,號春為無鹽君。此是後話。

  話分兩頭。卻說秦相國衛鞅聞龐涓之死,言於孝公曰:「秦魏比鄰之國,秦之有魏,猶人有腹心之疾,非魏并秦,即秦并魏,其勢不兩存明矣。魏今大破於齊,諸侯叛之,可乘此時伐魏,魏不能支,必然東徙。然後秦據河山之固,東鄉以制諸侯,此帝王之業也!」孝公以為然。使衛鞅為大將,公子少官副之,帥兵五萬伐魏。師出咸陽,望東進發,警報已至西河。守臣朱倉告急文書,一日三發。惠王大集群臣,問禦秦之計。公子卬進曰:「鞅昔日在魏時,與臣相善,臣嘗舉薦於大王,大王不聽。今日臣願領兵前往,先與講和。如若不許,然後固守城池,請救韓趙。」群臣皆贊其策。惠王即拜公子卬為大將,亦率兵五萬,來救西河,進屯吳城。(那吳城是吳起守西河時所築,以拒秦者,堅固可守。)公子卬正欲修書,遣人往秦寨通問衛鞅,欲其罷兵。守城將士報道:「今有秦相國差人下書,見在城外。」公子卬命縋城而上,發書看之。書曰:

    鞅始與公子相得甚歡,不異骨肉。今各事其主,為兩國之將,何忍治兵,自相魚肉?鄙意欲與公子相約,各去兵車,釋甲冑,以衣冠之會,相見於玉泉山,樂飲而罷,免使兩國肝腦塗地﹔使千秋而下,稱吾兩人之交情,同於管鮑。公子如肯俯從,幸示其期!

公子卬讀畢大喜曰:「吾意正欲如此。」遂厚待使者,答以書曰:

    相國不忘夙昔之好,舉齊桓故事,以衣裳易兵車,安秦魏之民,明管鮑之誼,此卬志也。三日之內,惟相國示期,敢不聽命。

衛鞅得了回書,喜曰:「吾計成矣!」復使人入城訂定日期,言:「秦兵前營已撤,打發先回,只等會過元帥,便拔寨都起。」復以旱藕麝香遺之曰:「此二物秦地所產,旱藕益人,麝香辟邪,聊志舊情,永以為好。」公子卬謂衛鞅愛己,益信其無他,答書謝之。衛鞅假傳軍令,使前營盡撤,公子少官率領先行。卻暗暗吩咐,一路只說射獵充食,在狐岐山白雀山等處,四散埋伏,期定是日午末未初,齊到玉泉山下,只聽山上放砲為號,便一齊殺入,將來人盡數拿住,不許走漏一人。

  至期,侵晨,衛鞅先使人報入城中,言:「相國先往玉泉山伺候,隨行不滿三百人。」公子卬十分相信,亦以輶車載酒食,并樂工一部,乘車赴會,人數與衛鞅相當。衛鞅在山下相迎。公子卬見人從既少,且無軍器,坦然不疑。相見之間,各敘昔日交情,并及今日通和之意。魏國從人,無不歡喜。兩邊俱有酒席,公子卬是地主,先替衛鞅把盞。三獻三酬,奏樂三次。衛鞅使軍吏席上報時,即命撤了魏國筵席,另用本國酒饌。兩個侍酒的,都是秦國有名的勇士,一個喚做烏獲,力舉千鈞,一個喚做任鄙,手格虎豹。衛鞅纔舉初杯相勸,以目視左右,便去山頂上放起一聲號砲,山下亦放砲相應,聲震陵谷。公子卬大驚曰:「此砲何來?相國莫非見欺否?」衛鞅笑曰:「暫欺一次,尚容告罪!」公子卬心慌,便欲奔逃。卻被烏獲緊緊幫住,轉動不得。任鄙指揮左右拿人。公子少官率領軍士,拘獲車仗人等,真個是滴水不漏。衛鞅吩咐將公子卬上了囚車,先遞回秦國報捷。卻將所獲隨行人眾,解其束縛,賜酒壓驚,仍用原來車仗,教他:「只說主帥赴會回來。賺開城門,另有重賞﹔如若不從,即時斬首!」那一行從人,都是小輩,誰不怕死,盡皆依允。卻教烏獲假作公子卬坐於車中,任鄙作護送使臣,單車隨後。城上認得是自家人從,即時開門。那兩員勇將,一齊發作,將城門一拳一腳,打個粉碎,關闔不得,軍士上前者,都被打倒。背後衛鞅親率大軍,飛也似趕來。城中軍民亂竄,衛鞅縱軍士亂殺一陣,遂佔了吳城。朱倉聞知主帥被虜,度西河難守,棄城而遁。衛鞅長驅而入,直逼安邑。惠王大懼,使大夫龍賈往秦軍行成。衛鞅曰:「魏王不能用吾,吾故出仕秦國。蒙秦王尊為卿相,食祿萬鐘,今以兵權交付,若不滅魏,有負重託。」龍賈曰:「吾聞『良鳥戀舊林,良臣懷故主。』魏王雖不能用足下,然父母之邦,足下安得無情?」衛鞅沉思半晌,謂龍賈曰:「若要我班師,除非將河西之地,盡割於秦方可。」龍賈只得應諾,回奏惠王。惠王從之,即令龍賈奉河西地圖,獻於秦軍買和。衛鞅接圖受地,奏凱而歸。公子卬遂降於秦。魏惠王以安邑地近於秦,難守,遂遷都大梁去訖。自此稱為梁國。

  秦孝公嘉衛鞅之功,封為列侯,以前所取魏地商於等十五邑,為鞅食邑,號為商君。後世稱為商鞅為此也。鞅謝恩歸第,謂家臣曰:「吾以衛之支庶,挾策歸秦,為秦更治,立致富強。今又得魏地七百里,封邑十五城,大丈夫得志,可謂極矣。」賓客齊聲稱賀。內有一士厲聲而前曰:「千人諾諾,不如一士諤諤。爾等居商君門下,豈可進諂而陷主乎?」眾人視之,乃上客趙良也。鞅曰:「先生謂眾人之諂,試言吾之治秦,與五羖大夫孰賢?」良曰:「五羖大夫之相穆公也,三置晉君,并國二十,使其主為西戎伯主。及其自奉,暑不張蓋,勞不坐乘,死之日,百姓悲哭,如喪考妣。今君相秦八載,法令雖行,刑戮太慘,民見威而不見德,知利而不知義。太子恨君刑其師傅,怨入骨髓,民間父兄子弟,久含怨心。一旦秦君晏駕,君之危若朝露,尚可貪商於之富貴,而自誇大丈夫乎?君何不薦賢人以自代?辭祿去位,退耕於野,尚可望自全也。」商君默然不樂。

  後五月,秦孝公得疾而薨。群臣奉太子駟即位,是為惠文公。商鞅自負先朝舊臣,出入傲慢。公子虔初被商鞅劓鼻,積恨未報,至是,與公孫賈同奏於惠文公曰:「臣聞『大臣太重者國危,左右太重者身危。』商鞅立法治秦,秦邦雖治,然婦人童稚,皆言商君之法,莫言秦國之法。今又封邑十五,位尊權重,後必謀叛。」惠文公曰:「吾恨此賊久矣!但以先王之臣,反形未彰,故姑容旦夕。」乃遣使者收商鞅相印,退歸商於。鞅辭朝,具駕出城,儀仗隊伍,猶比諸侯。百官餞送,朝署為空。公子虔公孫賈密告惠文公,言:「商君不知悔咎,僭擬王者儀制,如歸商於,必然謀叛。」甘龍杜摯證成其事。惠文公大怒,即令公孫賈引武士三千,追趕商鞅,梟首回報。公孫賈領命出朝。當時百姓連街倒巷,皆怨商君。一聞公孫賈引兵追趕,攘臂相從者,何止數千餘人。商鞅車駕出城,已百餘里,忽聞後面喊聲大振,使人探聽,回報:「朝廷發兵追趕。」商鞅大驚,知是新王見責,恐不免禍,急卸衣冠下車,扮作卒隸逃亡。走至函關,天色將昏,往旅店投宿。店主索照身之帖,鞅辭無有。店主曰:「商君之法,不許收留無帖之人,犯者並斬!吾不敢留。」商鞅歎曰:「吾設此法,乃自害其身也。」乃冒夜前行,混出關門,逕奔魏國。魏惠王恨商鞅誘虜公子卬,割其河西之地,於是欲囚商鞅以獻秦。鞅復逃回商於,謀起兵攻秦,被公孫賈追至縛歸。惠文公歷數其罪,吩咐將鞅押出市曹,五牛分屍。百姓爭啖其肉,須臾而盡。於是盡滅其族。可憐商鞅變立新法,使秦國富強,今日受車裂之禍,豈非過刻之報乎?(此周顯王三十一年事也。)髯翁有詩云:

    商於封邑未經年,五路分屍亦可憐!慘刻從來凶報至,勸君熟讀《省刑》篇。

自商鞅之死,百姓歌舞於道,如釋重負。六國聞之,亦皆相慶。甘龍杜摯先被革職,今皆復官。拜公孫衍為相國。衍勸惠文公西并巴蜀,稱王以號召天下,要列國悉如魏國割地為贄,如有違者,即發兵伐之。惠文公遂稱王,遣使者遍告列國,都要割地為賀。諸侯俱猶豫未決。惟楚威王熊商,任用昭陽,新敗越兵,殺越王無疆,盡有越地,地廣兵強,與秦為敵。秦使至楚,被楚王叱咤而去。於是洛陽蘇秦挾「兼并」之策,以說秦王。不知蘇秦如何說秦,且看下回分解。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会