東周列國志第九十一回 国を譲るを学んで燕の噲が兵を招く/地を献ずると偽って張儀が楚を欺く (學讓國燕噲召兵 偽獻地張儀欺楚)

蘇秦の合従と離間

  • 蘇秦がすでに六国を「合従」させたのち、盟約書を一通したためて秦の関所に投じた。
  • 関の役人がこれを秦の恵文王に届けて見せると、恵文王は大いに驚き、相国の公孫衍に言った。「もし六国が一つにまとまれば、寡人の進出の望みは絶たれる。必ず一計を案じてその合従の約を解かねばならぬ。さすれば大事を図れよう。」
  • 公孫衍は言った。「合従を最初に唱えたのは趙です。大王が軍を興して趙を討ち、どの国が真っ先に趙を救うかを見て、その国へ兵を移して討てばよいでしょう。そうすれば諸侯は恐れて合従の約は自然に解けましょう。」
  • そのとき張儀もその場に居合わせたが、内心では趙を討つことを望まなかった。蘇秦への恩義に背くことになるからである。そこで進み出て言った。「六国は結びついて間もなく、その勢いはにわかに離れさせることはできません。秦がもし趙を討てば、韓は宜陽に兵を出し、楚は武関に兵を出し、魏は河外に兵を出し、斉は清河を渡り、燕は精鋭のすべてを挙げて戦を助けるでしょう。秦の軍は防戦に手一杯となり、他へ兵を移す余裕などありましょうか。そもそも秦に近い国は魏に及ぶものはなく、燕は北方の最も遠い国です。大王はまことに使者を遣わし、重い贈り物をもって魏に和を求め、それによって諸国の心を疑わせ、また燕の太子と婚姻を結ばれるがよいでしょう。そうすれば合従の約は自然にほどけましょう。」
  • 恵文王はこれをよしとし、魏に襄陵など七城を返すと約束して和を求めた。魏もまた使者を遣わして秦の聘問に応え、さらに娘を秦の太子に嫁がせる約束をした。
  • 趙王はこれを聞き、蘇秦を召して責めて言った。「そなたは合従の約を唱え、六国が和親して秦を退けるようにしたが、いまだ一年も経たぬのに魏と燕の二国はすでに秦と通じている。合従の約が頼みにならぬことは明らかだ。もし秦の軍が急に趙に攻め寄せたなら、なお二国の救援を望めようか。」
  • 蘇秦は恐れかしこまって謝り、「臣に燕国への使いをお命じください。必ず魏への報復を果たしてみせます」と言い、趙を去って燕へ赴いた。燕の易王は蘇秦を相国とした。
  • そのころ易王は即位したばかりであったが、斉の宣王は喪に乗じて燕を攻め、十城を奪った。易王は蘇秦に言った。「かつて先君はそなたの言に従い、六国は和親した。いま先君の亡骸もまだ冷めやらぬうちに、斉の軍が国境に迫り、我が十城を奪った。洹水での誓いはどうなったのだ。」
  • 蘇秦は「臣が大王のために斉へ使いし、必ず十城を燕に返させましょう」と言った。燕の易王はこれを許した。
  • 蘇秦は斉の宣王に会って言った。「燕王は大王の同盟国であり、秦王の愛婿でもあります。大王が十城の利を貪れば、燕が斉を怨むばかりか、秦もまた斉を怨むことになりましょう。十城を得て二つの怨みを結ぶのは得策ではありません。大王が臣の計に従い、燕の十城を返還して燕と秦の歓心を結ばれれば、斉は燕と秦を得て、天下に号令することも難しくはないでしょう。」
  • 宣王は大いに喜び、十城を燕に返した。
  • 易王の母である文夫人は、かねてより蘇秦の才を慕っており、左右に命じて蘇秦を宮中に召し、密通するようになった。易王はこれを知りながら口にしなかった。蘇秦は恐れ、燕の相国の子之と好誼を結び、互いの子女を娶わせて縁を結んだ。また弟の蘇代・蘇厲を子之と義兄弟に結ばせ、自らの身を固めようとした。
  • 燕夫人はたびたび蘇秦を召したが、蘇秦はますます恐れ、あえて赴かなかった。そこで易王に説いて言った。「燕と斉の勢いは、いずれ併呑し合うことになりましょう。臣は大王のために斉で反間の計を行いたく存じます。」
  • 易王は「反間とはどうするのか」と問うた。蘇秦は答えた。「臣が偽って燕で罪を得たことにして斉国へ亡命すれば、斉王は必ず臣を重用しましょう。臣はそれによって斉の政を乱し、その地を燕のものといたします。」
  • 易王はこれを許し、蘇秦の宰相の印を取り上げた。蘇秦はこうして斉へ奔った。斉の宣王はその名声を重んじ、客卿とした。
  • 蘇秦は宣王に狩猟や音楽の楽しみを勧めた。宣王が財を好めば租税の取り立てを厚くさせ、宣王が色を好めば美しい宮女を選ばせた。斉が乱れるのを待って燕に乗じさせようとしたのである。宣王はまったく気づかず、相国の田嬰、客卿の孟軻が強く諫めたが、いずれも聞き入れなかった。
  • 宣王が薨じ、子の湣王地が立った。即位当初はよく国政に励み、秦の王女を娶って王后とし、田嬰を薛公に封じて靖郭君と号させた。蘇秦は客卿として、依然として重用された。

張儀の魏攻略と楚との確執

  • さて話は二つに分かれる。張儀は、蘇秦が趙を去って合従の約が解けかけているのを知り、魏に襄陵など七邑の地を渡さなかった。
  • 魏の襄王は怒り、人を遣わして秦に土地を求めた。
  • 秦の恵文王は公子華を大将、張儀を副将として軍を率いさせ、魏を討たせて蒲陽を攻め落とした。
  • 張儀は秦王に願い出て蒲陽を魏に返還した。さらに公子繇を魏へ人質として送り、好誼を結んだ。張儀が付き添って魏まで送り届けた。
  • 魏の襄王は秦王の厚意に深く感じ入った。張儀はそこで説いて言った。「秦王は魏との誼をたいへん厚くし、城を得ても取らず、さらに人質まで送りました。魏は秦に無礼であってはなりません。何かお礼をなさるべきでしょう。」
  • 襄王は「何をもって礼としようか」と問うた。張儀は言った。「土地のほかに、秦の望むものはございません。大王が土地を割いて秦に謝すれば、秦の魏への愛顧はいっそう深まりましょう。もし秦魏が兵を合わせて諸侯を図れば、大王が他国から取り戻される代償は、いま献上する土地の十倍にもなりましょう。」
  • 襄王はその言葉に惑わされ、少梁の地を献じて秦に謝し、また人質を受け取ろうとしなかった。秦王は大いに喜んだ。そこで公孫衍を罷免し、張儀を相とした。
  • そのころ楚の威王はすでに薨じ、子の熊槐が立ち、これを懐王という。張儀は人を遣わして懐王に書を送り、楚に残していた自分の妻子を秦へ迎え取り、また昔、璧を盗んだと疑われた冤罪について無実を訴えた。
  • 楚の懐王は昭陽を面と向かって責めて言った。「張儀は賢士であるのに、そなたはなぜ先君に推挙せず、追い詰めて秦に用いられるようにしてしまったのだ。」昭陽は黙り込んで大いに恥じ、家に帰って病を発し死んだ。
  • 懐王は張儀が秦に用いられることを恐れ、改めて蘇秦の「合従」の約を申し固め、諸侯と結んだ。しかし蘇秦はすでに燕で罪を得て、燕を去り斉へ奔っていた。
  • 張儀は秦王に会い、宰相の印を返上して自ら魏へ行くことを願い出た。恵文王は「そなたは秦を捨てて魏へ行き、何をするつもりか」と問うた。張儀は答えた。「六国は蘇秦の説に溺れ、いまだ解けきってはおりません。臣がもし魏の実権を得れば、魏をして真っ先に秦に仕えさせ、諸侯の先例にいたしましょう。」
  • 恵文王はこれを許した。張儀はこうして魏へ投じ、魏の襄王は果たしてこれを相国として用いた。
  • 張儀は説いて言った。「大梁は南に楚、北に趙、東に斉、西に韓と接し、頼みとすべき山川の険がありません。これは四分五裂の道です。それゆえ秦に仕えなければ国は安泰を得られません。」魏の襄王はまだ決めかねていた。
  • 張儀はひそかに人を遣わして秦に魏討伐を促し、秦は魏の軍を大いに破って曲沃を取った。髯翁に詩がある。
  • (詩:斉に仕えては燕のために去り、魏の相となっては秦のために来た、合従連衡と道は分かれても、しょせんは同じ裏切り者にすぎぬ、という趣旨。)
  • 襄王は怒り、いよいよ秦に仕えることを肯んぜず、「合従」を図って、なお楚の懐王を「従約長」に推した。こうして蘇秦は斉でますます重んじられるようになった。

孟嘗君の家督相続と食客の招致

  • そのころ斉の相国田嬰が病没し、子の田文が薛公の跡を継ぎ、孟嘗君と号した。
  • 田嬰には子が四十余人あったが、田文は賤妾の子で、五月五日の生まれであった。生まれたとき、田嬰は妾に「棄てて育てるな」と戒めたが、妾は忍びず、ひそかにこれを育てた。
  • すでに五歳に成長すると、妾は田嬰にこれを引き合わせた。田嬰は命に背いたことに怒った。田文はぬかずいて「父上が私を棄てようとされたのはなぜですか」と問うた。
  • 田嬰は「世に伝えられるところ、五月五日は凶日で、生まれた子は成長して戸口の高さに達すると、父母に不利となるという」と答えた。
  • 田文は「人の生命は天から授かるものです。どうして戸口から授かるものでしょうか。もし本当に戸口から命を授かるというのなら、なぜ戸口を高くしないのですか」と答えた。
  • 田嬰は答えられなかったが、内心ではひそかにその聡明さに驚いた。田文が十余歳になると、賓客の応対に長け、賓客たちは皆彼と交わることを楽しみ、その名声を広めた。諸侯の使者が斉に来ると、皆田文への面会を求めた。
  • そこで田嬰は田文を賢いと認め、嫡子に立て、ついに薛公の爵位を継がせ、孟嘗君と号させた。
  • 孟嘗君は家督を継ぐと、大いに館舎を築き、天下の士を招いた。来投する士があれば、賢愚を問わず、すべて受け入れた。天下の亡命者や罪人も皆彼を頼った。
  • 孟嘗君は身分が高くとも、飲食は賓客と同じであった。ある日、客を迎えて夜食をとっていたとき、ある人が灯火を遮った。客は飯に上下の差があるのではと疑い、箸を投げ出して辞去しようとした。田文は立ち上がり、自ら自分の飯を持ってきて比べさせると、果たして差はなかった。
  • 客は嘆いて「孟嘗君がこれほどまでに士を待遇されるのに、私は過って疑ってしまった。真に心の狭い者であった。どうしてこの門下に立つ顔があろうか」と言い、刀を取って自ら首を刎ねて死んだ。
  • 孟嘗君はその死を大いに悲しんで哭礼を行い、客たちは皆感動した。以後、帰する者はますます多くなり、食客はかつて数千人に達したこともあった。
  • 諸侯は孟嘗君の賢と、その多くの賓客を聞き、皆斉を尊重し、互いに戒めてその境を侵そうとしなかった。まさに次のとおりである。
  • (詩:虎豹が山に拠れば群獣は遠ざかり、蛟龍が水にあれば怪魚は隠れる、堂中に食客三千人を抱え、天下の人々は皆孟嘗君を畏れる、という趣旨。)

五国連合の秦攻めと蘇秦の死

  • さて張儀は魏の相となって三年、魏の襄王が薨じ、子の哀王が立った。楚の懐王は使者を遣わして弔問し、これを機に秦討伐の兵を募ると、哀王はこれを許した。韓の宣恵王、趙の武霊王、燕王噲も皆喜んで兵を出した。
  • 楚の使者が斉に至り、斉の湣王が群臣を集めて計を問うた。左右は皆「秦とは婿と舅の親しみがあり、いまだ仇怨はない、討つべきではない」と言った。蘇秦は「合従」の約を主張し、堅く討つべしと言い張った。
  • 孟嘗君ひとりが言った。「討つべきだというのも、討ってはならないというのも、どちらも正しくありません。討てば秦の恨みを結び、討たねば五国の怒りに触れます。愚見では、兵を発しながらもその行軍を緩め、兵を発すれば五国と異なることはなく、行軍が緩やかであれば形勢を見て進退できましょう。」
  • 湣王はこれをよしとし、孟嘗君に二万の兵を率いさせて向かわせた。孟嘗君は斉の郊外を出るとまもなく病と称して医者を招き治療にかこつけ、道中ずっと進軍を遅らせた。
  • さて韓・趙・魏・燕の四王は楚の懐王と函谷関外で会し、日を定めて進攻することとした。懐王は「従約長」ではあったが、四王はそれぞれ自軍を率い、統一が取れなかった。
  • 秦の守将の樗里疾は関門を大きく開き、陣を布いて挑戦したが、五国は互いに責任をなすりつけ合い、誰も先んじて攻めようとしなかった。数日にらみ合った末、樗里疾は奇兵を出して楚の兵糧の道を断った。楚の兵は食料に窮し、兵士たちは騒ぎ立てた。樗里疾はその隙に乗じて襲撃し、楚の兵は敗走した。こうして四国は皆兵を引き上げた。
  • 孟嘗君は秦の国境にすら到達しないうちに、五国の軍はすでに撤退していた(これは孟嘗君の巧みな計略であった)。
  • 孟嘗君が斉に帰ると、湣王は「もう少しで蘇秦の計を誤って聞き入れるところであった」と嘆き、黄金百斤を孟嘗君に贈って食客の費用とし、ますます厚く重んじた。蘇秦は自ら及ばぬことを恥じた。
  • 楚の懐王は斉と秦が結びつくことを恐れ、使者を遣わして孟嘗君に厚く誼を通じ、斉と盟を申し固めて好誼を結び、両国の使節の往来は絶えなかった。
  • 斉の宣王の代から、蘇秦は専ら重用され寵愛を受けていたため、左右の王族の縁者には妬む者が多かった。湣王の代になっても蘇秦への寵愛は衰えなかった。この度、湣王が蘇秦の計を用いず孟嘗君の策に従い、果たして秦攻めが失敗して孟嘗君が多額の褒賞を受けたことで、左右の者たちは湣王がもはや蘇秦を喜んでいないのではと疑い、壮士を募って利刃を懐に忍ばせ、朝廷で蘇秦を刺した。
  • 匕首が蘇秦の腹に入ると、蘇秦は手で腹を押さえて走り、湣王に訴えた。湣王は賊を捕らえるよう命じたが、賊はすでに逃げ去っており捕まえられなかった。
  • 蘇秦は言った。「臣が死んだのち、大王はどうか臣の首を斬り、市に晒して『蘇秦は燕のために斉で反間を行ったが、いま幸いにも誅殺された。その陰謀を知る者が来て告げれば、千金の賞を与える』と触れてください。そうすれば賊は捕らえられましょう。」
  • 言い終えると匕首を抜き取り、血が地に満ちて死んだ。湣王はその言葉のとおり、蘇秦の首を斉の市中に晒した。
  • しばらくすると、その首の下を通りかかった者が、賞の高札を見て、人に向かって「蘇秦を殺したのは私だ」と自慢げに言った。市の役人はこれを捕らえて湣王に見せた。王は司寇に厳刑をもってこれを尋問させ、主謀の者たちをすべて突き止め、数家を誅滅した。
  • 史官は論じて、蘇秦は身は死んでも、なお計を用いて自らの仇を報いることができたのは智と言えよう、しかし身が刺されるのを免れなかったのは、裏切りを重ねて不忠であった報いではないかと述べた。
  • 蘇秦の死後、その賓客たちはしばしば蘇秦の謀略を漏らし、「蘇秦は燕のために斉に仕えたのだ」と語った。湣王は初めて蘇秦の詐りを悟り、これより燕との間に隙ができ、孟嘗君に兵を率いて燕を討たせようとした。
  • 蘇代は燕王に、人質の子を差し出して斉と和睦するよう説いた。燕王はこれに従い、蘇厲に人質の子を連れて湣王に会わせた。
  • 湣王は蘇秦への恨みが尽きず、蘇厲を捕えようとした。蘇厲は叫んで言った。「燕王は国を挙げて秦に頼ろうとしましたが、臣の兄弟は大王の威徳を説いて、秦に仕えるより斉に仕える方がよいと申し上げ、それゆえ臣を遣わして人質を納め和議を請わせたのです。大王はどうして死んだ者の心を疑い、生きている者に罪を加えられるのですか。」
  • 湣王は喜び、蘇厲を厚く待遇した。蘇厲はついに贄を捧げて斉に臣従し、斉の大夫となった。蘇代は燕に留まって仕えた。史官に「蘇秦贊」がある。
  • (詩:季子(蘇秦)は周の人、鬼谷を師とし、揣摩の術を習得して陰符の書を熟読した。合従を成して連衡を離間させ、六国の宰相の印を帯びたが、晩節を全うできず、燕と斉との間で裏切りを重ねた、という趣旨。)

張儀の再起と燕王噲の禅譲・燕の亡国と昭王の復興

  • さて張儀は、六国の秦討伐が成らなかったのを見て内心ひそかに喜んでいたが、蘇秦がすでに死んだと聞くと大いに喜び、「今こそ我が舌を振るう時だ」と言った。
  • そこで機に乗じて魏の哀王に説いて言った。「秦の強さをもってすれば五国を防いでなお余りあります。これは抗いがたいことが明らかです。もともと『合従』を唱えた蘇秦でさえ、その身を保てず、まして人の国を保てましょうか。実の兄弟で父母を同じくする者でさえ、時に金銭のことで争い続けるのに、まして異国同士ではなおさらです。大王がなお蘇秦の議に固執して秦に仕えなければ、もし列国の中に先んじて秦に仕える国があれば、兵を合わせて魏を攻めることになりましょう。魏は危うくなります。」
  • 哀王は「寡人は相国に従って秦に仕えたいが、秦に受け入れられぬのではと恐れる、どうすればよいか」と言った。張儀は「臣が大王のために秦に謝罪し、両国の好誼を結びましょう」と言った。
  • 哀王は車馬を整えさせ、張儀を秦へ遣わして和を求めさせた。こうして秦魏は好誼を通じた。張儀はそのまま秦に留まり、再び秦の相となった。
  • さて燕の相国の子之は、身の丈八尺、腰回り十囲、肌肉たくましく、顔は広く口は四角、手は飛ぶ鳥をつかみ、走れば奔馬に及ぶほどであった。燕の易王の代からすでに国の実権を握っていた。
  • 燕王噲が即位すると、酒色に溺れ、ただ安逸を貪って朝廷に臨んで政を聴くことを好まなかったので、子之はついに燕を簒奪しようとする意図を抱いた。
  • 蘇代・蘇厲は子之と親しく、諸侯の使者に会うたびにその賢名を吹聴した。燕王噲が蘇代を斉へ遣わして人質の様子を尋ねさせ、任務を終えて燕に帰ると、燕王噲は問うた。「聞くところによれば斉には孟嘗君という天下の大賢がいるというが、斉王にこのような賢臣がいれば、天下に覇を唱えることができようか。」
  • 蘇代は「できません」と答えた。噲が「なぜできぬのか」と問うと、蘇代は「孟嘗君の賢を知りながら、専任していないからです。どうして覇業を成せましょう」と答えた。
  • 噲は「寡人はただ孟嘗君のような臣を得られぬだけだ。専任することの何が難しかろう」と言った。蘇代は「今の相国子之は政事に精通しており、まさに燕の孟嘗君です」と言った。噲はそこで子之に国事を専決させた。
  • ある日、噲は大夫の鹿毛寿に問うた。「昔の君主は多いが、なぜ独り堯舜だけが称えられるのか。」鹿毛寿もまた子之の一派であり、答えて言った。「堯舜が聖と称えられるのは、堯が天下を舜に譲り、舜が天下を禹に譲ったからです。」
  • 噲は「それならば禹はなぜひとり子に伝えたのか」と問うた。鹿毛寿は言った。「禹もまた天下を益に譲るとは言いましたが、ただ政事を代行させただけで、太子を廃したことはありませんでした。それゆえ禹が崩じた後、太子の啓がついに益の天下を奪ったのです。今なお論者が、禹は徳が衰えて堯舜に及ばないというのは、このためです。」
  • 燕王は「寡人は国を子之に譲りたいが、行ってよいものか」と言った。鹿毛寿は「王がそれを行われれば、堯舜と何の違いがありましょう」と言った。
  • 噲はついに群臣を大いに集め、太子平を廃し、国を子之に禅譲した。子之はうわべは謙遜し、再三辞退したうえで、ようやく受けた。そして郊天祭地の礼を行い、袞冕を着け圭を執り、君主の座に就いて王を称し、まったく恥じる色がなかった。
  • 噲はかえって自ら臣下として列に加わり、別宮に退いて住んだ。蘇代・鹿毛寿はいずれも上卿を拝命した。
  • 将軍の市被は心中不服で、自らの部下の兵士を率いて子之を攻め、民衆もこれに従う者が多かった。両軍は十余日連戦し、死傷者は数万人に及んだが、市被はついに勝てず、子之に殺された。
  • 鹿毛寿は子之に「市被が乱を起こしたのは、旧太子の平がまだいるためです」と言った。子之はそこで太子平を捕らえようとした。太傅の郭隗は平とともに身をやつして無終山に逃れ難を避けた。平の庶弟の公子職は韓国へ亡命した。国人は皆怨み憤った。
  • 斉の湣王は燕の乱を聞き、匡章を大将として十万の兵を率い渤海から進軍させた。燕人は子之を骨の髄まで恨み、皆食料と酒を担いで斉軍を迎え、武器を取って抵抗する者はいなかった。匡章は出兵してから五十日、兵はまったく止まることなく進み、まっすぐ燕の都に達した。民衆は門を開いて迎え入れた。
  • 子之の一派は斉軍の勢いが盛んなのを見て、長駆して攻め入られると、皆おそれおののいて逃げ散った。子之は自らの勇を恃み、鹿毛寿とともに兵を率いて大通りで防戦した。兵士は次第に散り、鹿毛寿は戦死し、子之は重傷を負いながらもなお百余人を斬り殺したが、力尽きて捕えられた。燕王噲は別宮で首をくくって死んだ。蘇代は周へ逃れた。
  • 匡章はそこで燕の宗廟を破壊し、燕の府庫の宝貨をすべて収め、子之を囚車に入れ、まず臨淄に送って戦功を報告した。燕の地三千余里は、大半が斉に帰属した。匡章は燕の都に駐屯し、属邑を巡撫した(これは周の赧王元年のことである)。
  • 斉の湣王は自ら子之の罪を数え上げ、凌遅の刑に処し、その肉を醢(塩漬け)にして群臣にあまねく賜った。子之が王であったのはわずか一年余り、痴れた心で位を貪り、自ら滅びを招いたのは、なんと愚かなことであろうか。
  • 燕人は子之を恨んではいたが、斉王の意図が燕を滅ぼすことにあると見て、人心は服さなかった。そこで共に旧太子の平を捜し求め、無終山でこれを見つけ、奉じて君主とした。これが昭王である。郭隗は相国となった。
  • そのころ趙の武霊王は斉が燕を併呑したことを不服とし、大将の楽池に韓から公子職を迎えさせ、燕王に立てようとしたが、太子平がすでに立ったと聞き、これを取りやめた。
  • 郭隗は檄文を燕の都に伝え、復興の大義を告げた。すでに斉に降っていた諸邑は、たちまち一斉に斉に背いて燕に付いた。匡章はこれを止めることができず、ついに兵を引いて斉に帰った。
  • 昭王はそのまま燕の都に戻り、宗廟を修復し、斉への復讐を志し、身をへりくだらせ厚い礼物を用意して賢士を招こうとした。相国の郭隗に言った。「先王の恥は、孤(わたし)が朝夕心にかけているところである。もし賢士を得て、共に斉討伐を図れる者があれば、孤は身をもってその者に仕えたいと思う。ただ先生に人選をお任せしたい。」
  • 郭隗は言った。「昔の君主で、千金をもって涓人(近習の官)に千里の馬を求めさせた者がありました。途中で死馬に出会い、周りの者は皆それを取り囲んで嘆息しました。涓人がその理由を尋ねると、『この馬は生きていたとき一日に千里を行ったが、今死んでしまった、それが惜しいのだ』と答えました。そこで涓人は五百金でその骨を買い、袋に入れて持ち帰りました。君主は大いに怒り、『この死んだ骨が何の役に立つのか、なぜ多くの金を無駄にしたのか』と言いました。涓人は答えました。『五百金を費やしたのは、千里の馬の骨だからこそです。この珍しい出来事は、人々が競って語り伝えるでしょう。必ず「死んだ馬でさえ高値で買われた、まして生きた馬ならなおさらだ」と言うはずです。馬はいまに参りましょう。』果たして一年もたたぬうちに、千里の馬が三匹も手に入りました。今、王が天下の賢士を招きたいと思われるなら、どうか隗をその馬の骨としてお使いください。隗より賢い者であれば、誰が高値を求めて馳せ参じずにおりましょうか。」
  • そこで昭王はことさら郭隗のために宮殿を築き、弟子の礼を執って下座から教えを受け、自ら飲食を供して極めて丁重に扱った。
  • さらに易水のほとりに高台を築き、その上に黄金を積んで四方の賢士を迎え、これを招賢台、また黄金台と名づけた。こうして燕王が士を好むという評判が遠近に広まった。劇辛は趙から、蘇代は周から、鄒衍は斉から、屈景は衛からやって来た。昭王は皆を客卿に任じ、共に国事を謀った。元の劉因に「黄金台詩」がある。
  • (詩:燕山の色は変わらず、易水に音も残らない、誰が知ろうか、あの数尺の台に万古の情がこもっていることを。後の世の些細な人々は、なおも黄金の名を愛でるが、黄金とは何であろうか、賢を重んじたり軽んじたりできるものであろうか。周の道が次第に東へ広まり、二人の老賢(伯夷・太公望)はいずれも西の周へと赴いた、民を養い賢を招くことによって王業はここに成った、という趣旨。)

張儀の楚離間策と楚の敗北

  • さて話は二つに分かれる。斉の湣王はすでに燕に勝ち、燕王噲と子之を殺して威を天下に震わせたので、秦の恵文王はこれを憂えた。楚の懐王は「従約長」として、斉と深く結び、割符を交わして信としていた。
  • 秦王は斉楚の結びつきを離間させようと、張儀を召して計を問うた。張儀は「臣が巧みな弁舌によって南は楚へ遊説し、機会を伺って進言し、必ず楚王をして斉との縁を絶ち秦に親しませてみせます」と言った。
  • 恵文王は「寡人はそなたの言に従おう」と言った。張儀はそこで宰相の印を返上して楚へ遊説に赴いた。楚の懐王に寵臣がいて、姓は靳、名は尚、王の左右にあって言うことは何でも聞き入れられると知り、まず重い賄賂をもってこの靳尚に取り入り、その後で懐王に会いに行った。
  • 懐王は張儀の名を重んじ、郊外まで出迎え、席を賜って問うた。「先生がかたじけなくもわが国にお越しくださったのは、いかなる教えをお持ちくださったのか。」張儀は「臣がこの度参りましたのは、秦楚の交わりを合わせようとしてのことです」と言った。
  • 楚の懐王は「寡人とて秦との誼を結びたくないわけではないが、秦の侵略が止まぬので、あえて親しみを求めなかったのだ」と言った。
  • 張儀は答えて言った。「今、天下の国は七つとはいえ、大国と言えるのは楚と斉、そして秦を合わせて三つに過ぎません。秦が東の斉と結べば斉が重んじられ、南の楚と結べば楚が重んじられます。しかしわが君の意は、実は楚にあって斉にはございません。なぜなら、斉は秦と婚姻を結んだ国でありながら、秦に背くことがとりわけ甚だしいからです。わが君は大王にお仕えしたいと望んでおり、儀とても大王の門先に仕える下働きになることを願っております。しかるに大王が斉と好誼を通じておられるのは、わが君の忌む所に触れております。大王が真に関を閉じて斉との誼を絶たれるならば、わが君は商君(衛鞅)が楚から奪った商於の地六百里を楚に返還し、秦の女を、箕と箒を執って大王にお仕えする妻妾として差し上げましょう。秦楚は代々婚姻を重ねる兄弟の間柄となり、諸侯の患いを防ぐことができましょう。どうか大王、これをお受け入れください。」
  • 懐王は大いに喜び、「秦が故地を返してくれるというなら、寡人はどうして斉を惜しもうか」と言った。群臣は皆、楚が土地を取り戻せることを口を揃えて祝賀した。
  • ただ一人、進み出て「そうではありません、そうではありません。私が見るところ、この事は弔うべきであって、祝すべきではありません」と奏上した者があった。楚の懐王が見ると、客卿の陳軫であった。
  • 懐王は「寡人は一兵も費やさず、座したまま六百里の地を得るのだ。群臣は祝すのに、そなただけが弔うとは、何ゆえか」と言った。
  • 陳軫は「王は張儀を信じられるのですか」と言った。懐王は笑って「なぜ信じないことがあろうか」と言った。
  • 陳軫は言った。「秦が楚を重んじるのは、斉があるからです。今もし斉との誼を絶てば、楚は孤立します。秦がどうして孤立した国を重んじて、六百里もの地を割いて差し上げましょうか。これは張儀の詭計です。もし斉との誼を絶ったのに張儀が大王を裏切って土地を渡さなければ、斉もまた大王を怨み、かえって秦に付くことになります。斉と秦が結んで楚を攻めれば、楚の滅亡は目前です。臣が弔うべきだと申したのはこのためです。王はまず一人の使者を張儀に随行させて秦へ行かせ、土地を受け取ってから斉との誼を絶っても遅くはありません。」
  • 大夫の屈平が進み出て「陳軫の言は正しゅうございます。張儀は裏切りを繰り返す卑しい人物、決して信用してはなりません」と言った。
  • 寵臣の靳尚は「斉との誼を絶たなければ、秦が我らに土地をくれるでしょうか」と言った。
  • 懐王はうなずいて「張儀が寡人を裏切らぬことは明らかだ。陳先生は口を閉じて何も言われるな、寡人が土地を受け取るのをご覧じられよ」と言った。
  • こうして宰相の印を張儀に授け、黄金百鎰、良馬十駟を賜り、北関の守将に斉の使者を通さぬよう命じた。一方で逢侯丑を張儀に随行させ、秦へ土地を受け取りに行かせた。
  • 張儀は道中、逢侯丑と酒を酌み交わし心を語り合い、肉親のごとく打ち解けた。咸陽近くに至ると、張儀はわざと酔ったふりをして車から落ちた。左右が慌てて助け起こすと、張儀は「私は脛を痛めてしまった。急いで治療を受けたい」と言い、まず横になれる車で城内に入り、秦王に上奏して逢侯丑を宿舎に留めた。
  • 張儀は門を閉ざして病気療養と称し、朝廷に出なかった。逢侯丑は秦王に面会を求めたが叶わず、張儀のもとへ見舞いに行っても、まだ癒えぬと言われるばかりであった。このようにして三ヶ月が過ぎ、逢侯丑はついに秦王に上書し、張儀が土地を約束した経緯を述べた。
  • 恵文王は返書で「儀にもし約束があるならば、寡人は必ずそれを果たそう。しかし聞くところによれば楚はいまだ斉との縁をすっかり絶っていないという。寡人は楚に欺かれることを恐れており、張儀の病が癒えぬ限りは信用できぬ」と答えた。
  • 逢侯丑は再び張儀の門を訪ねたが、張儀はついに出てこなかった。そこで人を遣わして秦王の言葉を懐王に報告させた。
  • 懐王は「秦はまだ楚が斉との誼を絶ったことが十分でないと言うのか」と言い、勇士の宋遺を遣わし、宋の国から道を借りて宋の割符でもって直接斉の国境に入らせ、湣王を辱め罵らせた。
  • 湣王は大いに怒り、使者を西の秦へ遣わし、秦とともに楚を攻めたいと申し出た。
  • 張儀は斉の使者が来たと聞き、自らの計略が成ったと知り、病が癒えたと称して朝廷に出た。朝門で逢侯丑に会うと、わざと訝しんで「将軍はなぜ土地を受け取らず、まだ我が国に留まっておられるのか」と言った。
  • 逢侯丑は「秦王は専ら相国に直接会って決めることを望んでおられました。今、幸いにも相国のお体に障りがないとのこと、どうか王に取り次いで、早く境界を定め、わが君に報告させてください」と言った。
  • 張儀は「この事に、どうして秦王のお耳に入れる必要がありましょう。儀が申し上げたのは、儀自身の俸邑六里を、自ら望んで楚王に献上するというだけのことです」と言った。
  • 逢侯丑は「臣はわが君の命を受け、商於の地六百里と聞いております。ただの六里とは聞いておりません」と言った。
  • 張儀は「楚王はもしや聞き誤られたのではないか。秦の地はすべて百戦して得たものだ。どうして尺土たりとも人に譲ろうか、まして六百里などありえない」と言った。
  • 逢侯丑は帰って懐王に報告した。懐王は大いに怒り、「張儀は果たして裏切りを繰り返す卑しい人物であった。捕らえたなら、必ずその肉を生きたまま食らってやる」と言い、旨を伝えて秦討伐の兵を発した。
  • 客卿の陳軫が進み出て「臣は今日、口を開いてよろしいでしょうか」と言った。懐王は「寡人は先生の言を聞かず、狡猾な賊に欺かれた。先生は今、何か妙計をお持ちか」と言った。
  • 陳軫は「大王はすでに斉の助けを失っておられます。今また秦を攻めても、利があるとは思えません。二城を割いて秦に贈り、秦と兵を合わせて斉を攻める方がよろしいでしょう。秦に土地を失っても、なお斉から取り戻すことができます」と言った。
  • 懐王は「もともと楚を欺いたのは秦だ。斉に何の罪があろうか。秦と合わせて斉を攻めれば、人に笑われよう」と言い、その日のうちに屈匄を大将、逢侯丑を副将に任じ、十万の兵を興し、天柱山を経て西北へ進み、藍田を急襲させた。
  • 秦王は魏章を大将、甘茂を副将に任じ、十万の兵を興してこれを防がせた。一方で人を遣わして斉に援軍を求めた。斉の将匡章も軍を率いて助戦した。
  • 屈匄は勇猛であったが、二国の挟撃にはとても敵わず、戦うたびに敗れた。秦斉の軍は丹陽まで追撃し、屈匄は残兵を集めて再び戦ったが、甘茂に斬られた。
  • 前後して斬った首級は八万余、名将逢侯丑ら死者七十余人に及び、漢中の地六百里はすべて秦に奪われ、楚国は震撼した。韓・魏は楚の敗北を聞き、これに乗じて楚を襲おうと謀った。
  • 楚の懐王は大いに恐れ、屈平を斉へ遣わして謝罪させ、陳軫を秦の陣営へ遣わして二城を献じて講和を求めさせた。
  • 魏章は秦王に指示を仰いだ。恵文王は「寡人は黔中の地を得たい。商於の地とこれを交換したい。もし承知するならば、直ちに兵を止めよう」と言った。
  • 魏章は秦王の命を奉じ、人を遣わして懐王に伝えた。懐王は「寡人は土地を得ることを望まない。ただ張儀を得て溜飲を下げたいのだ。もし貴国が張儀を楚に引き渡してくれるなら、寡人は喜んで黔中の地を献じて謝意を表そう」と言った。
  • 秦王が張儀を楚へ行かせることを承知するかどうかは分からない。続きは次回で明かされる。
原文(底本)
話說蘇秦既「合從」六國,遂將從約寫一通,投於秦關。關吏送與秦惠文王觀之,惠文王大驚,謂相國公孫衍曰:「若六國為一,寡人之進取無望矣!必須畫一計散其從約,方可圖大事。」公孫衍曰:「首從約者,趙也。大王興師伐趙,視其先救趙者,即移兵伐之。如是,則諸侯懼而從約可散矣。」時張儀在座,意不欲伐趙,以負蘇秦之德。乃進曰:「六國新合,其勢未可猝離也。秦如伐趙,則韓軍宜陽,楚軍武關,魏軍河外,齊涉清河,燕悉銳師以助戰。秦師拒鬥不暇,何暇他移哉?夫近秦之國無如魏,而燕在北最遠。大王誠遣使以重賂求成於魏,以疑各國之心,而與燕太子結婚,如此,則從約自解矣。」惠文王稱善,乃許魏還襄陵﹍﹍等七城以講和。魏亦使人報秦之聘,復以女許配秦太子。趙王聞之,召蘇秦責之曰:「子倡為從約,六國和親,相與擯秦,今未踰年,而魏燕二國皆與秦通,從約之不足恃明矣。倘秦兵猝然加趙,尚可望二國之救乎?」蘇秦惶恐謝曰:「臣請為大王出使燕國,必有以報魏也。」秦乃去趙適燕,燕易王以為相國。時易王新即位,齊宣王乘喪伐之,取十城。易王謂蘇秦曰:「始先君以國聽子,六國和親。今先君之骨未寒,而齊兵壓境,取我十城,如洹水之誓何?」蘇秦曰:「臣請為大王使齊,奉十城以還燕。」燕易王許之。蘇秦見齊宣王曰:「燕王者,大王之同盟,而秦王之愛婿也。大王利其十城,不惟燕怨齊,秦亦怨齊矣。得十城而結二怨,非計也。大王聽臣計,不如歸燕之十城,以結燕秦之歡。齊得燕秦,於以號召天下不難矣。」宣王大悅,乃以十城還燕。易王之母文夫人,素慕蘇秦之才,使左右召秦入宮,因與私通。易王知之而不言。秦懼,乃結好於燕相國子之,與聯兒女之姻。又使其弟蘇代蘇厲與子之結為兄弟,欲以自固。燕夫人屢召蘇秦,秦益懼,不敢往。乃說易王曰:「燕齊之勢,終當相并。臣願為大王行反間於齊。」易王曰:「反間如何?」秦對曰:「臣偽為得罪於燕,而出奔齊國,齊王必重用臣。臣因敗齊之政,以為燕地。」易王許之,乃收秦相印,秦遂奔齊。齊宣王重其名,以為客卿。秦因說宣王以田獵鐘鼓之樂。宣王好貨,因使厚其賦歛﹔宣王好色,因使妙選宮女﹔欲俟齊亂,而使燕乘之。宣王全然不悟,相國田嬰,客卿孟軻極諫,皆不聽。宣王薨,子湣王地立。初年頗勤國政,娶秦女為王后,封田嬰為薛公,號靖郭君,蘇秦客卿,用事如故。

  話分兩頭。再說張儀聞蘇秦去趙,知從約將解,不與魏襄陵七邑之地。魏襄王怒,使人索地於秦。秦惠王使公子華為大將,張儀副之,帥師伐魏,攻下蒲陽。儀請於秦王,復以蒲陽還魏。又使公子繇質於魏,與之結好。張儀送之。魏襄王深感秦王之意。張儀因說曰:「秦王通魏甚厚,得城不取,又納質焉。魏不可無禮於秦,宜謀所以謝之。」襄王曰:「何以為謝?」張儀曰:「土地之外,非秦所欲也。大王割地以謝秦,秦之愛魏必深。若秦魏合兵以圖諸侯,大王之取償於他國者,必十倍於今之所獻也。」襄王惑其言。乃獻少梁之地以謝秦,又不敢受質。秦王大悅。因罷公孫衍,用張儀為相。時楚威王已薨,子熊槐立,是為懷王。張儀乃遣人致書懷王,迎其妻子,且言昔日盜璧之冤。楚懷王面責昭陽曰「張儀賢士,子何不進於先君,而迫之使為秦用也?」昭陽嘿然甚愧,歸家發病死。懷王懼張儀用秦﹔復申蘇秦「合從」之約,結連諸侯。而蘇秦已得罪於燕,去燕奔齊。張儀乃見秦王,辭相印,自請往魏。惠文王曰:「君舍秦往魏何意?」儀對曰:「六國溺於蘇秦之說,未能即解。臣若得魏柄,請令魏先事秦,以為諸侯之倡。」惠文王許之。儀遂投魏,魏襄王果用為相國。儀因說曰:「大梁南鄰楚,北鄰趙,東鄰齊,西鄰韓,而無山川之險可恃,此四分五裂之道也。故非事秦,國不得安」魏襄王計未定。張儀陰使人招秦伐魏,大敗魏師,取曲沃。髯翁有詩云:

    仕齊卻為燕邦去,相魏翻因秦國來﹔雖則從橫分兩路,一般反覆小人才。

襄王怒,益不肯事秦,謀為「合從」,仍推楚懷王為「從約長」。於是蘇秦益重於齊。

  時齊相國田嬰病卒,子田文嗣為薛公,號為孟嘗君。田嬰有子四十餘人,田文乃賤妾之子,以五月五日生。初生時,田嬰戒其妾棄之勿育。妾不忍棄,乃私育之。既長五歲,妾乃引見田嬰。嬰怒其違命。文頓首曰:「父所以見棄者何故?」嬰曰:「世人相傳五月五日為凶日,生子者長與戶齊,將不利於父母。」文對曰:「人生受命於天,豈受命於戶耶?若必受命於戶,何不增而高之?」嬰不能答,然暗暗稱奇。及文長十餘歲,便能接應賓客,賓客皆樂與之遊,為之延譽。諸侯使者至齊,皆求見田文。於是田嬰以文為賢,立為適子,遂繼薛公之爵,號孟嘗君。孟嘗君既嗣位,大築館舍,以招天下之士。凡士來投者,不問賢愚,無不收留。天下亡人有罪者皆歸之。孟嘗君雖貴,其飲食與諸客同。一日,待客夜食,有人蔽其火光。客疑飯有二等,投箸辭去。田文起坐,自持飯比之,果然無二。客嘆曰:「以孟嘗君待士如此,而吾過疑之,吾真小人矣!尚何面目立其門下?」乃引刀自剄而死。孟嘗君哭臨其喪甚哀,眾客無不感動。歸者益眾,食客嘗滿數千人。諸侯聞孟嘗君之賢,且多賓客,皆尊重齊,相戒不敢犯其境。正是:

    虎豹踞山群獸遠,蛟龍在水怪魚藏﹔堂中有客三千輩,天下人人畏孟嘗。

  再說張儀相魏三年,而魏襄王薨,子哀王立。楚懷王遣使弔喪,因徵兵伐秦,哀王許之。韓宣惠王、趙武靈王、燕王噲皆樂於從兵。楚使者至齊,齊湣王集群臣問計。左右皆曰:「秦甥舅之親,未有仇隙,不可伐。」蘇秦主「合從」之約,堅執以為可伐。孟嘗君獨曰:「言可伐與不可伐,皆非也。伐則結秦之仇,不伐則觸五國之怒。以臣愚計,莫如發兵而緩其行,兵發則不與五國為異同,行緩則可觀望為進退。」湣王以為然。即使孟嘗君帥兵二萬以往。孟嘗君方出齊郊,遽稱病延醫療治,一路耽擱不行。

  卻說韓、趙、魏、燕四王,與楚懷王相會於函谷關外,刻期進攻。懷王雖為「從約長」,那四王各將其軍,不相統一。秦守將樗里疾大開關門,陳兵索戰,五國互相推諉,莫敢先發。相持數日,樗里疾出奇兵,絕楚餉道,楚兵乏食,兵士皆譁。樗里疾乘機襲之,楚兵敗走。於是四國皆還。孟嘗君未至秦境,而五國之師已撤矣。(此乃孟嘗君之巧計也。)孟嘗君回齊,齊湣王嘆曰:「幾誤聽蘇秦之計!」乃贈孟嘗君黃金百斤,為食客費,益愛重之。蘇秦自愧以為不及。楚懷王恐齊秦交合,乃遣使厚結於孟嘗君,與齊申盟結好,兩國聘使往來不絕。自齊宣王之世,蘇秦專貴寵用,左右貴戚,多有妒者。及湣王時,秦寵未衰。今日湣王不用蘇秦之計,卻依了孟嘗君,果然伐秦失利,孟嘗君受多金之賞,左右遂疑湣王已不喜蘇秦矣,乃募壯士,懷利匕首,刺蘇秦於朝。匕首入秦腹,秦以手按腹而走,訴於湣王。湣王命擒賊,賊已逸去不可得。蘇秦曰:「臣死之後,願大王斬臣之頭,號令於市曰:『蘇秦為燕行反間於齊,今幸誅死,有人知其陰事來告者,賞以千金。』如是,則賊可得也。」言訖,拔去匕首,血流滿地而死。湣王依其言,號令蘇秦之頭於齊市中。須臾,有人過其頭下,見賞格,自誇於人曰:「殺秦者,我也!」市吏因執之以見湣王。王令司寇以嚴刑鞫之,盡得主使之人,誅滅凡數家。史官論蘇秦雖身死,猶能用計自報其仇,可為智矣!而身不免見刺,豈非反覆不忠之報乎?蘇秦死後,其賓客往往洩蘇秦之謀,言:「秦為燕而仕齊。」湣王始悟秦之詐,自是與燕有隙,欲使孟嘗君將兵伐燕。蘇代說燕王,納質子以和齊。燕王從之,使蘇厲引質子來見湣王。湣王恨蘇秦不已,欲囚蘇厲。蘇厲呼曰:「燕王欲以國依秦,臣之兄弟陳大王之威德,以為事秦不如事齊,故使臣納質請平。大王奈何疑死者之心,而加生者之罪乎?」湣王悅,乃厚待蘇厲。厲遂委質為齊大夫。蘇代留仕燕國。史官有《蘇秦贊》曰:

    季子周人,師事鬼谷﹔揣摩既就,《陰符》伏讀。合從離橫,佩印者六﹔晚節不終,燕齊反覆。

  再說張儀見六國伐秦無成,心中暗喜,及聞蘇秦已死,乃大喜曰:「今日乃吾吐舌之時矣。」遂乘間說魏哀王曰:「以秦之強,禦五國而有餘,此其不可抗明矣。本倡『合從』之議者蘇秦,而秦且不保其身,況能保人國乎?夫親兄弟共父母者,或因錢財爭鬥不休,況異國哉?大王猶執蘇秦之議,不肯事秦,倘列國有先事秦者,合兵攻魏,魏其危矣。」哀王曰:「寡人願從相國事秦,誠恐秦不見納,奈何?」張儀曰:「臣請為大王謝罪於秦,以結兩國之好。」哀王乃飾車從,遣張儀入秦求和。於是秦魏通好。張儀遂留秦,仍為秦相。

  再說燕相國之身長八尺,腰大十圍,肌肥肉重,面闊口方,手綽飛禽,走及奔馬,自燕易王時,已執國柄。及燕王噲嗣位,荒於酒色,但貪逸樂,不肯臨朝聽政,子之遂有篡燕之意。蘇代蘇厲與子之相厚,每對諸侯使者,揚其賢名。燕王噲使蘇代如齊,問候質子,事畢歸燕,燕王噲問曰:「聞齊有孟嘗君,天下之大賢也,齊王有此賢臣,遂可以霸天下乎?」代對曰:「不能。」噲問曰:「何故不能?」代對曰:「知孟嘗君之賢,而任之不專,安能成霸?」噲曰:「寡人獨不得孟嘗君為臣耳,何難專任哉!」蘇代曰:「今相國子之,明習政事,是即燕之孟嘗君也。」噲乃使子之專決國事。忽一日,噲問於大夫鹿毛壽曰:「古之人君多矣,何以獨稱堯舜?」鹿毛壽亦是子之之黨,遂對曰:「堯舜所以稱聖者,以堯能讓天下於舜,舜能讓天下於禹也。」噲曰:「然則禹何為獨傳於子?」鹿毛壽曰:「禹亦嘗讓於天下於益,但使代理政事,而未嘗廢其太子。故禹崩之後,太子啟竟奪益之天下。至今論者謂禹德衰,不及堯舜,以此之故。」燕王曰:「寡人欲以國讓於子之,事可行否?」鹿毛壽曰:「王如行之,與堯舜何以異哉?」噲遂大集群臣,廢太子平,而禪國於子之。子之佯為謙遜,至於再三,然後敢受。乃郊天祭地,服袞冕,執圭,南面稱王,略無慚色。噲反北面列於臣位,出就別宮居住。蘇代鹿毛壽俱拜上卿。將軍市被心中不忿,乃帥本部軍士,往攻子之,百姓亦多從之。兩下連戰十餘日,殺傷數萬人,市被終不勝,為子之所殺。鹿毛壽言於子之曰:「市被所以作亂者,以故太子平在也。」子之因欲收太子平。太傅郭隗與平微服共逃於無終山避難。平之庶弟公子職,出奔韓國。國人無不怨憤。齊湣王聞燕亂,乃使匡章為大將,率兵十萬,從渤海進兵。燕人恨子之入骨,皆簞食壺漿,以迎齊師,無有持寸兵拒戰者。匡章出兵,凡五十日,兵不留行,直達燕都,百姓開門納之。子之之黨,見齊兵眾盛,長驅而入,亦皆聳懼奔竄。子之自恃其勇,與鹿毛壽率兵拒戰於大衢。兵士漸散,鹿毛壽戰死,子之身負重傷,猶格殺百餘人,力竭被擒。燕王噲自縊於別宮。蘇代奔周。匡章因毀燕之宗廟,盡收燕府庫中寶貨,將子之置囚車中,先解去臨淄獻功。燕地三千餘里,大半俱屬於齊。匡章留屯燕都,以徇屬邑。(此周赧王元年事也。)齊湣王親數子之之罪,凌遲處死,以其肉為醢,遍賜群臣。子之為王纔一歲有餘,癡心貪位,自取喪滅,豈不愚哉!燕人雖恨子之,見齊王意在滅燕,眾心不服,乃共求故太子平,得之於無終山,奉以為君,是為昭王。郭隗為相國。時趙武靈王不忿齊之并燕,使大將樂池迎公子職於韓,欲奉立為燕王,聞太子平已立,乃止。敦隗傳檄燕都,告以恢復之義,各邑已降齊者,一時皆叛齊為燕。匡章不能禁止,遂班師回齊。昭王仍歸燕都,修理宗廟,志復齊仇,乃卑身厚幣,欲以招來賢士,謂相國郭隗曰:「先王之恥,孤早夜在心。若得賢士,可與共圖齊事者,孤願以身事之,惟先生為孤擇其人。」郭隗曰:「古之人君,有以千金使涓人求千里之馬。途遇死馬,旁人皆環而嘆息,涓人問其故,答曰:『此馬生時,日行千里,今死,是以惜之。』涓人乃以五百金買其骨,囊負而歸。君大怒曰:『此死骨何用,而廢棄吾多金耶?』涓人答曰:『所以費五百金者,為千里馬之骨故也。此奇事,人將競傳,必曰:「死馬且得重價,況活馬乎?」馬今至矣。』不期年,得千里之馬三匹。今王欲致天下賢士,請以隗為馬骨,況賢於隗者,誰不求價而至哉?」於是昭王特為郭隗築宮,執弟子之禮,北面聽教,親供飲食,極其恭敬。復於易水之旁,築起高臺,積黃金於臺上,以奉四方賢士,名曰招賢臺,亦曰黃金臺。於是燕王好士,傳布遠近。劇辛自趙往,蘇代自周往,鄒衍自齊往,屈景自衛往。昭王悉拜為客卿,與謀國事。元劉因有《黃金臺詩》云:

    燕山不改色,易水無剩聲﹔誰知數尺臺,中有萬古情!區區後世人,猶愛黃金名﹔黃金亦何物,能為賢重輕?周道日東漸,二老皆西行﹔養民以致賢,王業自此成。

  話分兩頭。再說齊湣王既勝燕,殺燕王噲與子之,威震天下,秦惠文王患之。而楚懷王為「從約長」,與齊深相結納,置符為信。秦王欲離齊楚之黨,召張儀問計。張儀奏曰:「臣憑三寸不爛之舌,南遊於楚,伺便進言,必使楚王絕齊而親於秦。」惠文王曰:「寡人聽子。」張儀乃辭相印遊楚。知懷王有嬖臣,姓靳名尚,在王左右,言無不從。乃先以重賄納交於尚,然後往見懷王。懷王重張儀之名,迎之於郊,賜坐而問曰:「先生辱臨敝邑,有何見教?」張儀曰:「臣之此來,欲合秦楚之交耳!」楚懷王曰:「寡人豈不願納交於秦哉?但秦侵伐不已,是以不敢求親也。」張儀對曰:「今天下之國雖七,然大者無過楚齊,與秦而三耳。秦東合於齊則齊重,南合於楚則楚重。然寡君之意,竊在楚而不在齊。何也?以齊為婚姻之國,而負秦獨深也。寡君欲事大王,雖儀亦願為大王門闌之廝。而大王與齊通好,犯寡君之所忌。大王誠能閉關而絕齊,寡君願以商君所取楚商於之地六百里,還歸於楚,使秦女為大王箕帚妾。秦楚世為婚姻兄弟,以禦諸侯之患。惟大王納之!」懷王大悅曰:「秦肯還楚故地,寡人又何愛於齊?」群臣皆以楚復得地,合詞稱賀。獨一人挺然出奏曰:「不可,不可!以臣觀之,此事宜弔不宜賀!」楚懷王視之,乃客卿陳軫也。懷王曰:「寡人不費一兵,坐而得地六百里,群臣賀,子獨弔,何故?」陳軫曰:「王以張儀為可信乎?」懷王笑曰:「何為不信?」軫曰:「秦所以重楚者,以有齊也。今若絕齊,則楚孤矣。秦何重於孤國,而割六百里之地以奉之耶?此張儀之詭計也。倘絕齊而張儀負王,不與王地,齊又怨王,而反附於秦,齊秦合而攻楚,楚亡可待矣!臣所謂宜弔者,為此也。王不如先遣一使隨張儀往秦受地,地入楚而後絕齊未晚。」大夫屈平進曰:「陳軫之言是也。張儀反覆小人,決不可信!」嬖臣靳尚曰:「不絕齊,秦肯與我地乎?」懷王點頭曰:「張儀不負寡人明矣。陳子閉口勿言,請看寡人受地。」遂以相印授張儀,賜黃金百鎰,良馬十駟,命北關守將勿通齊使。一面使逢侯丑隨張儀入秦受地。張儀一路與逢侯丑飲酒談心,歡若骨肉。將近咸陽,張儀詐作酒醉,失足墜於車下。左右慌忙扶起,儀曰:「吾足脛損傷,急欲就醫。」先乘臥車入城,表奏秦王,留逢侯丑於館驛。儀閉門養病,不入朝。逢侯丑求見秦王,不得,往候張儀,只推未愈。如此三月,丑乃上書秦王,述張儀許地之言。惠文王復書曰:「儀如有約,寡人必當踐之。但聞楚與齊尚未決絕,寡人恐受欺於楚,非得張儀病起,不可信也。」逢侯丑再往張儀之門,儀終不出。乃遣人以秦王之言,還報懷王。懷王曰:「秦猶謂楚之絕齊未甚耶?」乃遣勇士宋遺假道於宋,借宋符直造齊界,辱罵湣王。湣王大怒,遂遣使西入秦,願與秦共攻楚國。張儀聞齊使者至,其計已行,乃稱病愈入朝。遇逢侯丑於朝門,故意訝曰:「將軍胡不受地,乃尚淹吾國耶?」丑曰:「秦王專侯相國面決,今幸相國玉體無恙,請入言於王,早定地界,回覆寡君。」張儀曰:「此事何須關白秦王耶?儀所言者,乃儀之俸邑六里,自願獻於楚王耳。」丑曰:「臣受命於寡君,言商於之地六百里,未聞只六里也。」張儀曰:「楚王殆誤聽乎?秦地皆百戰所得,豈肯以尺土讓人?況六百里哉?」逢侯丑還報懷王。懷王大怒曰:「張儀果是反覆小人,吾得之,必生食其肉!」遂傳旨發兵攻秦。客卿陳軫進曰:「臣今日可以開口乎?」懷王曰:「寡人不聽先生之言,為狡賊所欺,先生今日有何妙計?」陳軫曰:「大王已失齊助,今復攻秦,未見利也。不如割兩城以賂秦,與之合兵而攻齊,雖失地於秦,尚可取償於齊。」懷王曰:「本欺楚者,秦也,齊何罪焉?合秦而攻齊,人將笑我。」即日拜屈匄為大將,逢侯丑副之,興兵十萬,取路天柱山西北而進,逕襲藍田。秦王命魏章為大將,甘茂為副,起兵十萬拒之。一面使人徵兵於齊。齊將匡章亦率師助戰。屈匄雖勇,怎當二國夾攻,連戰俱北。秦齊之兵,追至丹陽,屈匄聚殘兵復戰,被甘茂斬之。前後獲首級八萬有餘,名將逢侯丑等死者七十餘人,盡取漢中之地六百里,楚國震動。韓魏聞楚敗,亦謀襲楚。楚懷王大懼,乃使屈平如齊謝罪。使陳軫如秦軍,獻二城以求和。魏章遣人請命於秦王,惠文王曰:「寡人欲得黔中之地,請以商於地易之,如允,便可罷兵。」魏章奉秦王之命,使人言於懷王。懷王曰:「寡人不願得地,願得張儀而甘心焉!如上國肯以張儀畀楚,寡人情願獻黔中之地為謝。」不知秦王肯放張儀入楚否,且看下回分解。

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