東周列國志第九十二回 鼎を挙げて競い秦の武王が脛を絶つ/軽々しく会に赴いて楚の懐王が秦に陥る (賽舉鼎秦武王絕踁 莽赴會楚懷王陷秦)

張儀、楚に赴き危地を脱する

  • さて楚の懐王は張儀の欺きを恨むあまり、黔中の地を見返りなしに献上してでも、ただ張儀ひとりと引き換えにしたいと望んでいた。
  • 秦の左右で張儀を妬み忌む者たちは、皆「一人の人間と数百里の地とを交換するのは、この上ない利得です」と言った。
  • 秦の恵文王は「張儀は我が股肱の臣である。寡人はたとえ土地を得られなくとも、どうしてこれを見捨てるに忍びようか」と言った。
  • 張儀は自ら願い出て「微臣、参りとうございます」と言った。恵文王は「楚王は激しい怒りを抱いて先生を待ち構えている。行けば必ず殺されよう。ゆえに寡人は先生を遣わすに忍びぬのだ」と言った。
  • 張儀は奏して言った。「臣一人が殺され、それによって秦が黔中の地を得られるならば、臣は死んでもなお余りある栄誉です。まして必ずしも死ぬとは限りません。」
  • 恵文王は「先生にはどのような策があって身を脱せられるのか。試みに寡人のために言ってみよ」と言った。
  • 張儀は言った。「楚の夫人鄭袖は、美しく才知があり、王の寵愛を得ております。臣がかつて楚におりましたとき、楚王が新たに一人の美人を寵愛したと聞きました。鄭袖はその美人に『大王は人の鼻息が自分に触れるのを嫌われる。そなたが王にお目にかかるときは、必ず鼻を覆いなさい』と言いました。美人はその言葉を信じました。楚王が鄭袖に『美人はわしに会うたびに鼻を覆う、なぜか』と問うと、鄭袖は『大王の体臭を嫌って、それが匂うのを嫌がっているのです』と答えました。楚王は大いに怒り、美人の鼻を削ぐよう命じました。以来、鄭袖は寵愛を独占しております。また寵臣の靳尚がおり、鄭袖に媚びへつらって仕え、内外の政に手を伸ばしております。臣は靳尚と親しく、その庇護を借りれば死を免れられると見込んでおります。大王はただ魏章らに漢中に兵を留めさせ、遠く進撃の構えを示させるだけでよろしい。さすれば楚もよもや臣を殺すことはできますまい。」
  • 秦王はそこで張儀を行かせた。張儀が楚国に着くと、懐王はただちに使者に命じて彼を捕え、獄に入れた。日を選んで太廟に告げてから誅殺しようとした。
  • 張儀は別に人を遣わして靳尚に手を回した。靳尚は鄭袖に「夫人の寵愛は終わりを迎えるかもしれません、いかがなさいますか」と言った。
  • 鄭袖は「なぜか」と問うた。靳尚は言った。「秦は楚王が張儀に怒っておられることを知らずに使者を遣わしたのです。今、楚王が儀を殺そうとしていると聞けば、秦は楚から侵し取った地を返還し、自らの娘を楚に降嫁させ、歌の巧みな美人を媵として付け、張儀の罪を贖おうとするでしょう。秦の姫が到着すれば、楚王は必ずこれを尊び礼を尽くされます。夫人は寵愛を独占しようとお思いでも、それができましょうか。」
  • 鄭袖は大いに驚き、「そなたにはこれを止める計はあるか」と言った。靳尚は言った。「夫人が知らぬふりをして、大王に利害を説かれ、張儀を秦に帰らせれば、事は収まりましょう。」
  • 鄭袖は夜中に涙を流し、懐王に言った。「大王が土地と張儀を交換なさろうとして、土地はまだ秦に入っていないのに、張儀の方が先に到着したのは、秦が大王に礼を尽くしているということです。秦の兵は一挙に漢中を席巻し、楚を呑もうとする勢いがあります。もし張儀を殺してこれを怒らせれば、必ず兵を増して楚を攻めるでしょう。私たち夫婦とて身を保てなくなります。私はこのことが胸に刺さり、幾日も食が進みませんでした。そもそも臣たる者はそれぞれの主君に仕えるものです。張儀は天下の智者であり、秦の相を長く務め、秦に偏って厚くするのも当然のことでしょう。大王がもし儀を厚くお扱いになれば、儀が楚に仕える気持ちも、秦への態度と同じようになりましょう。」
  • 懐王は「案じるな、寡人がじっくり計ろう」と言った。
  • 靳尚は再び機に乗じて言った。「張儀ひとりを殺したところで、秦に何の損もありません。それどころか黔中数百里の地を失うことになります。儀を留め置いて、秦との和議の材料にするに越したことはありません。」
  • 懐王もまた黔中の地を惜しみ、秦に渡すことを欲していなかったので、そこで張儀を釈放し、これを厚く礼遇した。張儀はそこで懐王に秦へ仕える利を説いた。懐王はすぐに張儀を秦へ帰し、両国の好誼を通じさせた。
  • 屈平は斉国への使いから帰り、張儀がすでに去ったと聞いて諫めて言った。「先に大王は張儀に欺かれました。儀がやって来たとき、臣は大王が必ずその肉を煮て食らわれるものと思っておりましたが、今、赦して誅さず、さらにその邪説に耳を傾けて真っ先に秦に仕えようとされております。そもそも匹夫でさえ仇を忘れないものですのに、まして君主においてはなおさらではございませんか。秦の歓心をまだ得ぬうちに、先に天下の公憤に触れることになるのは、臣はひそかに得策ではないと存じます。」
  • 懐王は悔い、人を遣わして軺車を駆って張儀を追わせたが、張儀はすでに星を追うように郊外を出て二日が経っていた。
  • 張儀は秦に帰り、魏章もまた軍を引いて帰った。史臣に詩がある。
  • (詩:張儀は反覆常なく秦のために働き、朝には囚われの身、暮れには上客となる。おかしいことに懐王は木偶人のようで、忠臣の計に従わず讒言する者の言葉を聞き入れた、という趣旨。)

秦の連衡策と各国懐柔

  • 張儀は秦王に言った。「儀は万死に一生を得て、再び大王のお顔を拝することができました。楚王は実に秦を大変恐れておりますが、それでも大王は、臣に楚への信義を失わせてはなりません。大王が真に漢中の半分を割いて楚への恩義とし、婚姻を結ばれるならば、臣はこれを機として六国を連ねて秦に仕えさせるべく説いてみせます。」
  • 秦王はこれを許した。そこで漢中五県を割き、人を遣わして楚と好誼を修めた。あわせて懐王の娘を太子蕩の妃に迎え、また秦の女を懐王の末子の蘭に嫁がせた。懐王は大いに喜び、張儀が果たして楚を欺かなかったのだと思った。
  • 秦王は張儀の功労を思い、五邑を封じて武信君と号させた。そこで黄金や白璧、四頭立ての立派な馬車を整えさせ、「連衡」の術をもって列国へ遊説させた。
  • 張儀は東に斉の湣王に会って言った。「大王は自らの土地は秦と比べていかがとお考えですか。武具兵器の備えは秦と比べて強うございますか。合従を斉のために説く者は、皆『斉は秦から遠いので患いはない』と言っております。しかしこれはただ目先を見るだけで、後の患いを顧みておりません。今、秦楚は互いに娘を嫁し婦を娶り、兄弟の好誼を結んでおり、三晋は皆恐れをなして争って土地を献じ秦に仕えております。大王おひとりが秦に仇をなしておられれば、秦は韓魏を駆って斉の南境を攻め、趙の兵をことごとく黄河を渡らせて臨淄・即墨の疲弊に乗じるでしょう。大王がその時になって秦に仕えたいと思われても、もはやできましょうか。今日の計は、秦に仕える者は安泰であり、秦に背く者は危うい、これに尽きます。」
  • 斉の湣王は「寡人は国を挙げて先生に従いたい」と言い、張儀に厚い贈り物をした。
  • 張儀はさらに西の趙王に説いて言った。「わが国の秦王には、装備の粗末な兵、疲れた軍勢ではございますが、大王と邯鄲の城下でお会いしたいと望まれ、まず微臣を遣わして左右のお耳に入れさせました。大王が頼みとされるのは、蘇秦の合従の約に過ぎません。しかし蘇秦は燕に背いて斉へ逃れ、また反間の罪で誅され、自らの身すら保てませんでした。それでもなお人々はこれを信じているのは、誤りというべきです。今、秦楚は婚姻を結び、斉は魚塩の地を献じ、韓魏は東方の藩臣を称しております。これは五国が一つになったということです。大王おひとりの趙が五国の鋒先に抗しようとされれば、万に一つも幸いはございません。ゆえに臣は大王のために、秦に仕えるに越したことはないと申し上げます。」
  • 趙王はこれを承知した。
  • 張儀はさらに北の燕へ赴き、燕の昭王に説いて言った。「大王が最も親しくしておられるのは趙でございましょう。昔、趙の襄子はその姉を代王の夫人としました。襄子は代国を併呑しようと、代王と好誼の会を約束し、工人に長柄の金の斗を作らせ、宴のさなか、料理人が羹を進める際に斗の柄を返して代王を撃たせ、胸を打ち破って殺し、そのまま代国を襲い取りました。その姉はこれを聞いて泣きながら天を呼び、笄を摩って自ら身を刺しました。後世の人はこれによってその山を摩笄山と名づけました。実の姉すらも利のために欺くというのに、まして他人においてはなおさらではございませんか。今、趙王はすでに土地を割いて秦に謝罪し、まもなく澠池において秦王に入朝しようとしております。ひとたび秦が趙を駆り立てて燕を攻めさせれば、易水や長城とてもはや大王のものではなくなりましょう。」
  • 燕の昭王は恐れ、恒山の東の五城を献じて秦と講和することを願った。

秦武王の即位と斉の合従再結成、張儀の最期

  • 張儀の「連衡」の説がすでに行われ、秦への帰路にあった。まだ咸陽に着かぬうちに、秦の恵文王がすでに病で薨じ、太子蕩が即位した。これが武王である。
  • 斉の湣王は初め張儀の説を聞き、三晋がすでに皆秦に土地を献じ仕えていると考え、あえて異を唱えなかった。しかし儀が斉を説いたのちに趙をも説いたと聞くに及んで、儀に欺かれたと考え、大いに怒った。また秦の恵文王の薨去を聞き、孟嘗君に列国へ書を送らせ、共に秦に背いて再び「合従」することを約させた。
  • 楚がすでに秦と婚姻を結んだと疑い、その従わぬことを恐れて、まず楚を討とうとした。楚の懐王は太子横を斉に人質として送り、斉の兵はそこで止まった。
  • 湣王は自ら「従約長」となり、諸侯を連ねて結び、張儀を捕えた者には十城を賞すると約した。
  • 秦の武王は生まれつき粗暴率直な性格で、太子であった頃から張儀の多くの詐りをかねてより嫌っていた。かねてより儀の寵を忌んでいた群臣たちは、この機に及んで皆これを讒言した。
  • 張儀は禍を恐れ、武王に会って言った。「儀に愚かな計がございます。左右にお伝えしたく存じます。」武王は「その計はどのようなものか」と問うた。
  • 張儀は言った。「聞くところによれば、斉王は儀を大変憎んでおり、儀のいる所には必ず軍を興して討とうとするとのことです。儀は大王にお暇をいただき、東の大梁に赴きたく存じます。斉が梁を討つことは必定でございましょう。梁と斉の兵が結ばれ解けぬ間に、大王はその隙に乗じて韓を討ち、三川を通して周王室をうかがわれますれば、これぞ王業でございます。」
  • 武王はこれをよしとし、革張りの兵車三十乗を整えて張儀を大梁へ送らせた。魏の哀王はこれを相国として用い、公孫衍の地位に代えた。公孫衍は魏を去って秦へ入った。
  • 斉の湣王は儀が魏の相となったと知り、果たして大いに怒り、軍を興して魏を討った。魏の哀王は大いに恐れ、張儀に相談した。
  • 儀はその舎人の馮喜に、偽って楚の客と称させ、湣王に会わせて言わせた。「聞くところによれば大王は張儀を大変憎んでおられるとのこと、まことでございますか。」湣王は「その通りだ」と言った。
  • 馮喜は言った。「大王がもし儀を憎んでおられるなら、魏を討たれぬがよろしいでしょう。臣はちょうど咸陽から参りましたが、儀が秦を去るとき、秦王と『斉王は儀を憎んでいる。儀のいる所には必ず軍を興して討つだろう』という約束をしたと聞いております。それゆえ秦王は車を整えて儀を魏に送り、斉と魏の争いを引き起こそうとしたのです。斉と魏の兵が結ばれて解けなければ、秦はその隙に乗じて北方で事を図ることができます。王が今、魏を討たれれば、儀の計中に陥ることになります。王は討たれぬに越したことはありません。そうすれば秦は張儀を信用せず、儀は魏にいても何もできなくなりましょう。」
  • 湣王はそこで兵を引き、魏を討たなかった。魏の哀王は張儀をますます厚く待遇した。翌年、張儀は魏で病没した。この年、斉の無塩后も亡くなった。

甘茂の宜陽攻めと秦武王の挙鼎・昭襄王の即位

  • さて秦の武王は成長すると力が強く、勇士と力比べをして遊ぶことを好んだ。烏獲・任鄙は先代から秦の将であったが、武王はこれをさらに寵任し、その禄と地位を増した。
  • 斉の人で孟賁、字は説という者がいた。力をもって知られ、水を行けば蛟龍をも避けず、陸を行けば虎狼をも避けず、怒りを発し気を吐けば、その声は天を動かすほどであった。あるとき野外で二頭の牛が闘っているのを見て、孟賁が手でこれを分けようとしたところ、一頭は地に伏したが、もう一頭はなお突くのをやめなかった。孟賁は怒り、左手で牛の頭を押さえ、右手でその角を引き抜いた。角が抜けると牛は死んだ。人々はその勇を畏れ、あえて抗う者はなかった。
  • 秦王が天下の勇力の士を招致していると聞き、西へ黄河を渡ろうとした。岸辺には渡し船を待つ人が多く、常は順番に船に乗った。孟賁は最後に到着し、無理に船に乗って先に渡ろうとした。船人はその無礼を怒り、櫂で頭を打って「そなたがこのように強引なのは、まさか孟説ではあるまいな」と言った。
  • 孟賁は目を怒らせてにらみつけ、髪は逆立ち目は裂け、一声叫ぶと波が忽然と沸き立った。舟中の人々は恐れおののき転がり倒れ、皆ことごとく河に投げ出された。孟賁は舵を振り足を踏み鳴らし、一度に数丈進み、たちまち岸に着き、そのまま咸陽に入って武王に会った。
  • 武王はその勇を試して、大官を授け、烏獲・任鄙とともに寵任した(この時は周の赧王六年、秦の武王二年である)。
  • 秦は六国が皆相国の名を持つことを不快に思い、これと同列であることを潔しとせず、そこで特に丞相を置き、左右各一人とし、甘茂を左丞相、樗里疾を右丞相とした。魏章はその宰相の地位を得られなかったことを憤り、梁国へ出奔した。
  • 武王は張儀の言葉を思い出し、樗里疾に言った。「寡人は西戎に生まれ、いまだ中原の盛観を見たことがない。もし三川を通じて鞏・雒の間に一度遊ぶことができれば、死んでも悔いはない。二卿のどちらが寡人のために韓を討ってくれるか。」
  • 樗里疾は言った。「王が韓を討たれるのは、宜陽を取って三川への道を通そうとされるためでしょう。しかし宜陽への道は険しく遠く、軍を疲弊させ財を費やすことになります。梁と趙の救援もまもなく来るでしょう。臣はひそかに不可と存じます。」
  • 武王は改めて甘茂に問うた。甘茂は「臣が大王のために梁へ使いし、共に韓を討つことを約させましょう」と言った。武王は大いに喜び、甘茂を梁王のもとへ遣わして説かせ、梁王は秦を助けて出兵することを許した。
  • 甘茂は初めから樗里疾と意見が食い違っていたため、その中から邪魔をされることを恐れ、まず副使の向寿を先に帰らせて秦王に「魏はすでに命に従いました。しかしそうではありますが、韓を討たれぬ方がよろしいでしょう」と報告させた。
  • 秦の武王はその言葉を疑い、自ら甘茂を出迎えに行き、息壌で甘茂と会った。武王は「相国は寡人のために魏と約して韓を攻めると申したが、今、魏の人はすでに命に従ったのに、相国はまた『韓を討たれぬ方がよい』と言う、なぜか」と言った。
  • 甘茂は言った。「そもそも千里の険を越えて、強大な韓の大邑を攻めるのは、一朝一夕で語れることではございません。昔、曾参が費の地に住んでいたとき、魯の人で曾参と同姓同名の者が人を殺しました。ある人が曾参の母に走り告げて『曾参が人を殺しました』と言いました。母はちょうど機を織っていましたが、『わが子は人を殺すはずがない』と答え、機を織り続けました。まもなく、また一人が走り告げて『曾参が人を殺しました』と言いました。母は梭を止めて考え、『わが子には決してそのようなことはあるまい』と言い、また機を織り続けました。しばらくして、また一人が走り告げて『人を殺したのは、果たして曾参でした』と言うと、母は杼を投げ捨てて機を降り、垣を越えて逃げ隠れました。曾参の賢明さをもってしても、その母は彼を信じておりました。しかし三人が『人を殺した』と言えば、慈母でさえ疑うようになるのです。今、臣の賢明さは曾参に及ばず、王が臣を信じられる度合いも、必ずしも曾参の母のようではございません。しかも臣を『人を殺した』と讒言する者は、三人にとどまらぬでしょう。臣は大王が杼を投げ出されることを恐れるのです。」
  • 武王は「寡人は人の言葉に耳を貸さぬ。そなたと盟を結ぼう」と言った。そこで君臣は血をすすって誓いを立て、誓書を息壌にしまい置いた。
  • こうして五万の兵を発し、甘茂を大将、向寿を副将とした。兵は宜陽に至り、その城を五ヶ月囲んだが、宜陽の守将が固く守ったため、秦軍はこれを落とすことができなかった。
  • 右相の樗里疾は武王に「秦の軍はすでに疲れております。撤退させなければ、変事が起きる恐れがあります」と言った。武王は甘茂に兵を引き上げるよう召した。
  • 甘茂は一通の書状をしたため、武王への弁明とした。武王がその封を開いて見ると、書中にはただ「息壌」の二字があるのみであった。武王は悟って「甘茂はもとよりそう言っていた。これは寡人の過ちである」と言った。
  • さらに五万の兵を増し、烏獲を遣わして甘茂を助けさせた。韓王もまた大将の公叔嬰に軍を率いさせて宜陽を救わせ、城下で大戦した。烏獲は鉄戟一対、重さ百八十斤を持ち、単身で韓軍に切り込み、兵士は皆なぎ倒され、あえて防ぐ者はいなかった。
  • 甘茂と向寿はそれぞれ一軍を率い、勢いに乗じて共に進んだ。韓の兵は大敗し、斬った首は七万余に達した。
  • 烏獲は一躍城壁に登り、手で城壁の狭間をつかんだが、狭間が崩れ、烏獲は石の上に落ちて肋骨を折り死んだ。秦の兵はこれに乗じてついに宜陽を陥落させた。
  • 韓王は恐れ、相国の公仲侈に宝器を持たせて秦へ入り和を乞わせた。武王は大いに喜び、これを許した。甘茂に兵を引き上げるよう詔し、向寿を留めて宜陽の地を鎮めさせた。右丞相の樗里疾に先に三川へ行かせて道を開かせた。
  • 武王は続いて任鄙・孟賁ら勇士の一団を引き連れて出発し、まっすぐ雒陽に入った。周の赧王は使者を遣わして郊外に出迎え、自ら賓主の礼を尽くした。
  • 秦の武王は賓主の礼を辞退して周王には会わず、九鼎が太廟の傍室にあると知り、そこで見物に出向いた。見ると九つの宝鼎が一列に並び、まことに整然としていた。その九鼎は、禹王が九州の貢金を収めて、それぞれ一つの鼎に鋳込ませ、それぞれの州の山川・人物、および貢ぎ物や租税、田畑の数を記したものであり、脚と耳にはいずれも竜の文様があり、また「九竜神鼎」とも呼ばれる。夏から商に伝わり、国を鎮め守る重器となった。周の武王が商を攻め滅ぼすにおよび、これを雒邑に遷した。遷したとき、人夫を用いて引かせ、舟車で運ばせたが、まるで九座の小さな鉄山のようで、その重さがどれほどかは誰も分からなかった。
  • 武王はひととおり見て回り、感嘆してやまなかった。鼎の腹には荊・梁・雍・豫・徐・揚・青・兗・冀などの九字がそれぞれ記されており、武王は雍の字のある一つの鼎を指して嘆じて言った。「これは雍州、すなわち秦の鼎ではないか。寡人はこれを咸陽に持ち帰らねばなるまい。」
  • そして鼎を守る役人に「この鼎をこれまで動かせた人はいるか」と尋ねた。役人はぬかずいて「鼎があってこの方、いまだ動かされたことはございません。聞くところでは各鼎はおよそ千鈞の重さがあるとのこと、誰がこれを持ち上げられましょう」と答えた。
  • 武王はそこで任鄙・孟賁に「二卿は力が強い、この鼎を持ち上げられるか」と問うた。任鄙は武王が力を恃んで勝ちを好むことを知り、辞退して「臣の力はせいぜい百鈞に耐えるのみ、この鼎はその十倍の重さ、臣には持ち上げられません」と言った。
  • 孟賁は腕まくりして進み出て「臣にお試しさせてください。もし持ち上げられなくても、どうかお咎めなきよう」と言った。すぐに左右に青糸で太い縄を作らせ、ゆったりと鼎の耳に繋がせた。孟賁は腰帯を締め、両袖をまくり上げ、両腕を縄の輪に通し、力を込めて「起きよ」と叫んだ。
  • 鼎は地から半尺ほど離れたが、再び地に戻ってしまった。力を入れすぎたため、目玉が飛び出し、まなじりから血が流れた。
  • 武王は笑って「卿はたいへんな苦労であったな。卿がこの鼎を持ち上げた以上、寡人がそれに及ばぬことがあろうか」と言った。任鄙は「大王は万乗の御身、軽々しくお試しになってはなりません」と諫めた。
  • 武王は聞き入れなかった。すぐに錦の袍と玉帯を脱ぎ捨て、腰を縛り、さらに大帯で袖を締めた。任鄙は袖を引いて強く諫めたが、武王は「そなたは自分ができないからといって、寡人を妬むのか」と言った。任鄙はもはやそれ以上言えなくなった。
  • 武王は大股で前に進み出て、自らも両腕を縄の輪に通し、心の中で「孟賁はただ持ち上げただけだ。わしはあえて数歩歩いてみせて勝ちを誇ろう」と思った。生涯の神力をことごとく振り絞り、一息を止めて「起きよ」と叫んだ。
  • 鼎はまた地から半尺離れた。ちょうど足を踏み出そうとしたとき、思わず力尽きて手が滑り、鼎が地に落ち、ちょうど武王の右足を圧し潰した。ぽきりと音がして、脛の骨が真っ二つに押し潰された。
  • 武王は「痛い」と大声で叫び、たちまち気を失った。左右の者は慌てて館舎へ運んだ。血は寝台一面に流れ、痛みが極まって堪えがたく、夜半になって薨じた。
  • 武王はかつて自ら「鞏・雒に遊ぶことができれば、死んでも悔いはない」と言っていたが、今日、果たして雒陽で死んだ。先の言葉が予言となったのではないだろうか。
  • 周の赧王はこの変事を聞いて大いに驚き、急ぎ立派な棺を用意し、自ら弔問に赴き、哭礼を尽くした。樗里疾はその亡骸を奉じて秦に帰った。
  • 武王には子がなく、異母弟の稷を迎えて位を継がせた。これが昭襄王である。
  • 樗里疾は鼎を持ち上げた罪を糾し、孟賁を磔にし、その一族を滅ぼした。任鄙は諫めたことによって、漢中太守に用いられた。
  • 樗里疾はさらに朝廷で「三川を通じたのは甘茂の謀である」と言いふらした。甘茂は樗里疾に害されることを恐れ、魏国へ出奔し、のちに魏で死んだ。

秦の楚討伐と武関会盟の誘い

  • さて秦の昭襄王は、楚が人質の子を斉に送ったと聞き、楚が秦に背いて斉になびいたのではと疑い、樗里疾を大将として兵を興し楚を討たせた。楚は大将の景快を遣わして迎え撃たせたが、敗れて殺された。楚の懐王は恐れた。
  • 昭襄王はそこで使者を遣わし、懐王に書を送った。おおよそ次のようなものであった。
  • 「はじめ寡人は王と兄弟の約を結び、婚姻を結んで、久しく親しんできた。しかるに王は寡人を捨てて斉に人質を納められた。寡人はまことにその憤りに堪えられなかった。それゆえ王の国境を侵したが、それは寡人の本意ではない。今、天下の大国は楚と秦のみである。我ら両君が睦まじくなくして、どうして諸侯に号令できようか。寡人は王と武関で会し、面と向かって約定を結び、盟を結んで別れたい。王の侵された地を返し、以前の好誼を復したいと思う。どうか王よ、これをお許しあれ。王がもしお従いにならなければ、それは明らかに寡人との関係を絶つということであり、寡人はもはや兵を退くことができぬであろう。」
  • 懐王は書を見ると、群臣を召して協議した。「寡人は行くまいと思うが、秦の怒りを刺激することを恐れる。行こうと思えば、秦に欺かれることを恐れる。二つのうちどちらがよいだろうか。」
  • 屈原が進み出て言った。「秦は虎狼のような国です。楚が秦に欺かれたのは、一度二度ではございません。王が行かれれば必ず帰って来られますまい。」
  • 相国の昭睢は言った。「靈均(屈原)の言はまことの忠言です。王よ、行かれてはなりません。急ぎ兵を発して自ら守りを固め、秦の兵の来襲に備えられよ。」
  • 靳尚は言った。「そうではありません。楚はただ秦に敵し得ないゆえに、兵は敗れ将は死に、領地は日々削られております。今、和やかに好誼を結ぼうとしているのに、これを再び拒めば、もし秦王が激怒して兵を増して楚を攻めれば、いかがなさいますか。」
  • 懐王の末子の蘭は、秦の女を娶っており、婚姻が頼みになると考え、力を尽くして王の出行を勧めて言った。「秦楚は互いに娘を嫁がせ娶り合っており、これ以上親しい間柄はございません。彼が兵を率いて来ても、なお和議を求めようとしているのです。まして和やかに親睦の会見を求めているのですから、なおさらのこと。上官大夫(靳尚)の言われることが最も当を得ています。王はお聞き入れにならぬわけには参りません。」
  • 懐王は楚の兵が新たに敗れたことで、内心もとより秦を畏れており、さらに靳尚と子蘭の二人に説き伏せられ、ついに秦王の会に赴くことを承知した。日を選んで出発し、靳尚のみが随行した。

武関の罠と懐王の抑留

  • 秦の昭王は弟の涇陽君悝に、王の車と羽飾りの旗を用いさせ、護衛の兵を整えさせて、偽って秦王を装わせ武関に居させた。将軍の白起には一万の兵を率いさせ、関の内に伏せて楚王を捕らえさせようとした。将軍の蒙驁には一万の兵を率いさせ、関の外に伏せて不測の事態に備えさせた。
  • 一方で使者を遣わし、好意的な言葉で先んじて楚王を迎え、往来を絶やさなかった。楚の懐王はこれを疑わず信じ、ついに武関の下に至った。
  • 関門は大きく開かれ、秦の使者は再び出迎えて言った。「わが君は関内で大王を三日もお待ちしております。あえて野外で御車を辱めることなく、館に到着され、賓主の礼を成させていただきたく存じます。」
  • 懐王はすでに秦国に至っており、断ることもできぬ勢いで、そのまま使者に従って関に入った。懐王がちょうど関門を入ると、砲声が一発鳴り、関門はすでに固く閉ざされていた。
  • 懐王は疑い、使者に「なぜこれほど急いで関を閉ざすのか」と問うた。使者は「これは秦の法でございます。戦乱の世でございますれば、やむを得ないことなのです」と答えた。
  • 懐王は「そなたの王はどこにおられるのか」と問うた。答えて「先に館舎で御車をお待ちしております」と言った。すぐに御者に速く進むよう命じた。
  • およそ二里ほど行くと、秦王の護衛の兵が館舎の前に並んでいるのが見えた。使者は車を止めるよう命じた。館の中から一人が出迎えたが、懐王がこれを見ると、錦の袍と玉帯を身につけてはいるものの、その挙動は秦王のようには見えなかった。懐王は内心ためらい、車を降りようとしなかった。
  • その人は身をかがめて言葉を述べた。「大王、お疑いなきよう。臣は実は秦王ではございません。王の弟、涇陽君にございます。どうか大王、館へお入りください。おのずと話がございます。」
  • 懐王はやむなく館に入った。涇陽君は懐王と会った。まさに席に着こうとしたところ、外で一斉に大声が上がるのが聞こえた。秦の兵一万余りが館舎を取り囲んでいた。
  • 懐王は「寡人は秦王との約に赴いたのに、どうして兵で困らせるのか」と言った。涇陽君は言った。「ご心配には及びません。わが君は『たまたま少々の病があって門を出ることができぬ。それでいて君王への信を失うことを恐れる。そこで微臣悝を遣わして君王をお迎えさせる』と申されました。咸陽まで足をお運びいただき、わが君とご会見ください。少々の軍卒を君王の護衛としておりますので、どうかお断りなさいませんように。」
  • そのとき楚王はもはや自らの意のままにできず、担がれて車に乗せられた。蒙驁の一軍は関の上に留め置かれた。涇陽君が陪乗し、白起は兵を率いて四方を取り囲み、西の咸陽を望んで進んだ。靳尚は楚国へ逃げ帰った。
  • 懐王は嘆いて「昭睢・屈平の言葉を聞かなかったことを悔いる。靳尚に誤られたのだ」と言い、涙を流し続けた。
  • 懐王は咸陽に到着すると、昭襄王は群臣や諸侯の使者を章台の上に大いに集めた。秦王は南を向いて上座に座り、懐王には北を向いて謁見させ、藩臣の礼のようにさせた。
  • 懐王は大いに怒り、声を張り上げて言った。「寡人は婚姻の好誼を信じ、身を軽んじて会に赴いたのだ。今、君王は病と偽って寡人を咸陽まで誘い出し、さらに礼をもって迎えることもしない。これはどういうつもりか。」
  • 昭襄王は言った。「先に君王は寡人に黔中の地を許すと言われたが、それが果たされなかった。今日お呼び立てしたのは、前の約を果たしていただきたいからです。もし君王が朝に土地を割くことを許されれば、暮れには即座に王を楚にお送りいたしましょう。」
  • 懐王は「秦がたとえ土地を得たいと思うにしても、道理をわきまえた言葉で言うべきであろう。なぜこのような詭計を用いるのか」と言った。昭襄王は「そうしなければ、君王は決してお従いにならなかったでしょう」と言った。
  • 懐王は「寡人は黔中を割くことを承知しよう。君王と盟を結び、一人の将軍を寡人に随行させて楚へ行かせ、土地を受け取らせてはいかがか」と言った。
  • 昭襄王は「盟は信用できません。必ずまず使者を楚に帰らせ、土地の境界を明確に引き渡してから、王をお見送りいたしましょう」と言った。
  • 秦の群臣は皆前へ出て懐王に勧めた。懐王はますます怒って「そなたらは私を欺いてここへ誘い込み、さらに強いて土地を割かせようとする。寡人は死ぬなら死ぬまでのこと、そなたらの脅しには屈しない」と言った。
  • 昭襄王はそこで懐王を咸陽の城中に留め置き、帰国させなかった。

頃襄王の即位と懐王の脱出

  • さて靳尚は逃げ帰り、昭睢に報告した。「秦王は楚の黔中の地を得ようとし、王をあちらに抑留しております。」
  • 昭睢は言った。「我が王は秦から帰れず、太子もまた斉に人質となっている。もし斉人が秦と結託して太子までも留め置けば、楚国には君主がいなくなってしまう。」
  • 靳尚は「公子蘭がここにおられます。なぜ彼を立てないのですか」と言った。昭睢は言った。「太子が立てられてすでに久しく、今なお王は秦にご存命であるのに、にわかに王命を無視して、嫡子を捨てて庶子を立てるようなことをしては、後日王が幸いにも帰国された際、どう申し開きできようか。今、わたしは斉に王の訃報を偽って伝え、太子を要請しよう。斉は必ずそれを信じて従うだろう。」
  • 靳尚は「私は我が君のために難を防ぐことができませんでした。この度の使いには微力を尽くしましょう」と言った。昭睢はそこで靳尚を斉へ遣わし、楚王がすでに薨じたと偽って告げ、太子を喪に駆けつけさせるべく呼び戻して位を継がせようとした。
  • 斉の湣王は相国の孟嘗君田文に言った。「楚国に君主がいなくなった。寡人は太子を留め置いて淮北の地を求めようと思うが、いかがか。」
  • 孟嘗君は言った。「よくございません。楚王には元より一人の子だけではございません。太子を留め置けば、あちらが土地を持ってきて贖おうとするならばよいでしょう。しかし、もし彼らが別に一人を立てて王としてしまえば、我らはわずかな利も得られず、いたずらに不義の名を負うことになります。それを何に用いましょうか。」
  • 湣王はこれをよしとし、礼をもって太子横を楚へ帰した。横はすぐに楚王の位に即いた。これが頃襄王である。子蘭・靳尚は依然として実権を握った。
  • 使者を秦に遣わして告げた。「社稷の神霊のおかげで、国にはすでに王が立ちました。」秦王は懐王を空しく留め置いたまま土地を得ることができず、大いに恥じ怒り、白起を将、蒙驁を副将として十万の兵を率いさせ、楚を攻めて十五城を取り帰った。
  • 楚の懐王は秦に一年余り留め置かれたが、秦の見張りが久しく怠慢になったので、懐王は変装して咸陽を脱出し、東へ楚国へ帰ろうとした。秦は兵を発してこれを追わせた。懐王はあえて東へは行けず、北へ道を転じ、間道を通って趙へ走った。
  • 趙国が果たして懐王を受け入れるかどうかは分からない。続きは次回で明かされる。
原文(底本)
話說楚懷王恨張儀欺詐,願白獻黔中之地,只要換張儀一人。左右忌嫉張儀者,皆曰:「以一人而易數百里之地,利莫大焉!」秦惠文王曰:「張儀吾股肱之臣,寡人寧不得地,何忍棄之?」張儀自請曰:「微臣願往!」惠文王曰:「楚王含盛怒以待先生,往必見殺,故寡人不忍遣也。」張儀奏曰:「殺臣一人,而為秦得黔中之地,臣死有餘榮矣!況未必死乎?」惠文王曰:「先生何計自脫?試為寡人言之。」張儀曰:「楚夫人鄭袖,美而有智,得王之寵。臣昔在楚時,聞楚王新幸一美人,鄭袖謂美人曰:『大王惡人以鼻氣觸之,子見王必掩其鼻。』美人信其言。楚王問於鄭袖曰:『美人見寡人,輒掩鼻,何也?』鄭袖曰:『嫌大王體臭,故惡聞之。』楚王大怒,命劓美人之鼻。袖遂專寵。又有嬖臣靳尚,媚事鄭袖,內外用事。而臣與靳尚相善,臣自料能借其庇,可以不死。大王但詔魏章等留兵漢中,遙為進取之勢,楚必然不敢殺臣矣。」秦王乃遣儀行。儀既至楚國,懷王即命使者執而囚之,將擇日告於太廟,然後行誅。張儀別遣人打靳尚關節。靳尚入言於鄭袖曰:「夫人之寵不終矣,奈何!」鄭袖曰:「何故?」靳尚曰:「秦不知楚王之怒張儀,故遣使楚。今聞楚王欲殺儀,秦將還楚侵地,使親女下嫁於楚,以美人善歌者為媵,以贖張儀之罪。秦女至,楚王必尊而禮之,夫人雖欲擅寵,得乎?」鄭袖大驚曰:「子有何計,可止其事?」靳尚曰:「夫人若為不知者,而以利害言於大王,使出張儀還秦,事宜可已。」鄭袖乃中夜涕泣,言於懷王曰:「大王欲以地易張儀,地未入秦,而張儀先至,是秦之有禮於大王也。秦兵一舉而席捲漢中,有吞楚之勢,若殺張儀以怒之,必將益兵攻楚。我夫婦不能相保,妾中心如刺,飲食不甘者累日矣。且人臣各為其主,張儀天下智士,其相秦國久,與秦偏厚,何怪其然?大王若厚待儀,儀之事楚,亦猶秦也。」懷王曰:「卿勿憂,容寡人從長計議。」靳尚復乘間言曰:「殺一張儀,何損於秦?而又失黔中數百里之地。不如留儀,以為和秦之地。」懷王意亦惜黔中之地,不肯與秦,於是出張儀,因厚禮之。張儀遂說懷王以事秦之利。懷王即遣張儀歸秦,通兩國之好。屈平出使齊國而歸,聞張儀已去,乃諫曰:「前大王見欺於張儀,儀至,臣以為大王必烹食其肉,今赦之不誅,又欲聽其邪說,率先事秦。夫匹夫猶不忘仇讎,況君乎?未得秦歡,而先觸天下之公憤,臣竊以為非計也。」懷王悔,使人駕軺車追之,張儀已星馳出郊二日矣。張儀既還秦,魏章亦班師而歸。史臣有詩云:

    張儀反覆為嬴秦,朝作俘囚暮上賓﹔堪笑懷王如木偶,不從忠計聽讒人。

  張儀謂秦王曰:「儀萬死一生,得復見大王之面。楚王誠畏秦甚,雖然,不可使臣失信於楚。大王誠割漢中之半,以為楚德,與為婚姻,臣請借楚為端,說六國連袂以事秦。」秦王許之。遂割漢中五縣,遣人往楚修好。因求懷王之女為太子蕩妃,復以秦女許妻懷王之少子蘭。懷王大喜,以為張儀果不欺楚也。秦王念張儀之勞,封以五邑,號武信君。因具黃金白璧,高車駟馬,使以「連衡」之術,往說列國。張儀東見齊湣王,曰:「大王自料土地孰與秦廣?甲兵孰與秦強?從人為齊計者,皆謂齊去秦遠,可以無患。此但狃目前,不顧後患。今秦楚嫁女娶婦,結昆弟之好,三晉莫不悚懼,爭獻地以事秦。大王獨與秦為仇,秦驅韓魏攻齊之南境,悉趙兵渡黃河,以乘臨淄即墨之敝,大王雖欲事秦,尚可得乎?今日之計,事秦者安,背秦者危!」齊湣王曰:「寡人願以國聽於先生。」乃厚贈張儀。儀復西說趙王曰:「敝邑秦王,有敝甲凋兵,願與君會於邯鄲之下,使微臣先聞於左右。大王所恃者,蘇秦之約耳。秦背燕逃齊,又以反誅,一身不保,而人猶信之,誤矣!今秦楚結婚,齊獻魚鹽之地,韓魏稱東藩之臣,是五國為一也。大王欲以孤趙抗五國之鋒,萬無一幸!故臣為大王計,莫如事秦。」趙王許諾。儀復北往燕國,說燕昭王曰:「大王所最親者,莫如趙。昔趙襄子嘗以其姊為代王夫人,襄子欲并代國,約與代王為好會,令工人製為長柄金斗,方宴,廚人進羹,反斗柄以擊代王,破胸而死,遂襲據代國。其姊聞之,泣而呼天,因摩笄以自刺。後人因號其山曰摩笄山。夫親姊猶欺之以取利,況他人哉?今趙王已割地謝過於秦,將入朝秦王於澠池。一旦驅趙而攻燕,則易水長城,非大王之有也!」燕昭王恐懼,願獻恒山之東五城以和秦。

  張儀「連衡」之說既行,將歸報秦。未至咸陽,秦惠文王已病薨,太子蕩即位,是為武王。齊湣王初聽張儀之說,以為三晉皆已獻地事秦,故不敢自異。及聞儀說齊之後,方往說趙,以儀為欺,大怒。又聞秦惠文王之薨,乃使孟嘗君致書列國,約共背秦復為「合從」。疑楚已結婚於秦,恐其不從,先欲伐之。楚懷王遣其太子橫為質於齊,齊兵乃止。湣王自為「從約長」,連結諸侯,約能得張儀者,賞以十城。秦武王生性粗直,自為太子時,素惡張儀之多詐。群臣先忌儀寵者,至是皆讒譖之。儀懼禍,乃入見武王曰:「儀有愚計,願效於左右。」武王曰:「群計安出?」張儀曰:「聞齊王甚憎儀,儀之所在,必興師伐之。儀願辭大王,東往大梁,齊之伐梁,必矣。梁齊兵連而不解,大王乃乘間伐韓,通三川以窺周室,此王業也。」武王以為然。乃具革車三十乘,送張儀入大梁。魏哀王用為相國,以代公孫衍之位。衍乃去魏入秦。齊湣王知儀相魏,果然大怒,興師伐魏。魏哀王大懼,謀於張儀。儀乃使其舍人馮喜,偽為楚客,往見湣王曰:「聞大王甚憎張儀,信乎?」湣王曰:「然。」馮喜曰:「大王如憎儀,願無伐魏也。臣適從咸陽來,聞儀去秦時,與秦王有約,言『齊王惡儀,儀所在,必興師伐之。』故秦王具車乘,送儀於魏,欲以挑齊魏之鬥。齊魏兵連而不解,秦乃得乘間而圖事於北方。王今伐魏,中儀計。王不如無伐,使秦不信張儀,儀雖在魏,亦無能為矣。」湣王遂罷兵不伐魏。魏哀王益厚張儀。踰年,張儀病卒於魏。是歲,齊無鹽后死。

  卻說秦武王長大多力,好與勇士角力為戲。烏獲任鄙自先世已為秦將,武王復寵任之,益其祿秩。有齊人孟賁字說,以力聞,水行不避蛟龍,陸行不避虎狼,發怒吐氣,聲響動天。嘗於野外見兩牛相鬥,孟賁從中以手分之,一牛伏地,一牛猶觸不止。賁怒,左手按牛頭,以右手拔其角,角出牛死。人畏其勇,莫敢與抗。聞秦王招致天下勇力之士,乃西渡黃河。岸上人待渡者甚眾,常日,以次上船。賁最後至,強欲登船先渡。船人怒其不遜,以楫擊其頭曰:「汝用強如此,豈孟說耶?」賁瞋目而視,髮植目裂,舉聲一喝,波濤頓作。舟中之人,惶懼顛倒,盡揚播入於河。賁振橈頓足,一去數丈,須臾過岸,竟入咸陽,來見武王。武王試知其勇,亦拜大官,與烏獲任鄙,並見寵任。(時周赧王六年,秦武王之二年也。)

  秦以六國皆有相國之名,不屑與同,乃特置丞相,左右各一人,以甘茂為左丞相,樗里疾為右丞相。魏章忿其不得相位,奔梁國去了。武王思張儀之言,謂樗里疾曰:「寡人生於西戎,未睹中原之盛。若得通三川,一遊鞏洛之間,雖死無恨!二卿誰能為寡人伐韓乎?」樗里疾曰:「王之伐韓,欲取宜陽以通三川之道也。宜陽路險而遠,勞師費財,梁趙之救將至,臣竊以為不可。」武王復問於甘茂,茂曰:「臣請為王使梁,約共伐韓。」武王大喜,使甘茂往說梁王,梁王許秦助兵。甘茂初與樗里疾相左,恐從中阻撓其事,先遣副使向壽回報秦王,言:「魏已聽命矣。然雖如此,勸王勿伐韓為便。」秦武王疑其言,乃親往迎甘茂,至息壤,與甘茂相遇。武王曰:「相國許為寡人約魏攻韓,今魏人聽命,相國又曰:『勿伐韓為便。』何也?」甘茂曰:「夫越千里之險,以攻勁韓之大邑,此不可以歲月計也。昔曾參居費,魯人有與曾參同姓名者殺人,人奔告其母曰:『曾參殺人!』其母方織,應曰:『吾子不殺人。』織如故。未幾,又一人奔告曰:『曾參殺人!』其母停梭而思,曰:『吾子必無此事。』復織如故。少頃,又一人奔告曰:『殺人者,果曾參也!』其母投杼下機,踰牆走匿。夫以曾參之賢,其母信之,然而三人言殺人,而慈母亦疑矣。今臣之賢,不及曾參,王之信臣,未必如曾參之母,而謗臣殺人者,恐不止三人,臣恐大王之投杼也。」武王曰:「寡人不聽人言也,請與子盟!」於是君臣歃血為誓,藏誓書於息壤。遂發兵五萬,使甘茂為大將,向壽副之。兵至宜陽,圍其城五月,宜陽守臣固守不能拔。右相樗里疾言於武王曰:「秦師老矣,不撤回,恐有變。」武王召甘茂班師。甘茂乃為書一函,以謝武王。武王啟函視之,書中惟「息壤」二字。武王悟曰:「甘茂固嘗言之,是寡人之過也。」更益兵五萬,使烏獲往助甘茂。韓王亦使大將公叔嬰率師救宜陽,大戰於城下。烏獲持鐵戟一雙,重一百八十斤,獨入韓軍,軍士皆披靡,莫敢禦者。甘茂與向壽各率一軍,乘勢並進。韓兵大敗,斬首七萬有餘。烏獲一躍登城,手攀城堞,堞毀,獲墮於石上,折肋而死。秦兵乘之,遂拔宜陽。韓王恐懼,乃使相國公仲侈,持寶器入秦乞和。武王大喜,許之。詔甘茂班師,留向壽安戢宜陽地方。使右丞相樗里疾先往三川開路。隨後引任鄙孟賁一班勇士起程,直入雒陽。周赧王遣使郊迎,親具賓主之禮。秦武王謝弗敢見,知九鼎在太廟之傍室,遂往觀之。見九位寶鼎一字排列,果然整齊。那九鼎是禹王收取九州的貢金,各鑄成一鼎,載其本州山川人物,及貢賦田土之數,足耳俱有龍文,又謂之「九龍神鼎」。夏傳於商,為鎮國之重器。及周武王克商,遷之於雒邑。遷時,用卒徒牽挽,舟車負載,分明是九座小鐵山相似,正不知重多少斤兩。武王周覽了一回,贊嘆不已。鼎腹有荊、梁、雍、豫、徐、揚、青、兗、冀等九字分別,武王指雍字一鼎嘆曰:「此雍州,乃秦鼎也!寡人當攜歸咸陽耳。」因問守鼎吏曰:「此鼎曾有人能舉之否?」吏叩首對曰:「自有鼎以來,未曾移動。聞人傳說每鼎有千鈞之重,誰人能舉?」武王遂問任鄙孟賁曰:「二卿多力,能舉此鼎否?」任鄙知武王恃力好勝,辭曰:「臣力止可勝百鈞,此鼎十倍之重,臣不能勝。」孟賁攘臂而前曰:「臣請試之,若不能舉,休得見罪。」即命左右取青絲為巨索,寬寬的繫於鼎耳之上,孟賁將腰帶束緊,揎起雙袖,用兩枝鐵臂,套入絲絡,狠狠的喝一聲:「起!」那鼎離起約有半尺,仍還於地。用力過猛,眼珠迸出,目眦流血。武王笑曰:「卿大費力。既然卿能舉起此鼎,寡人難道不如!」任鄙諫曰:「大王萬乘之軀,不可輕試!」武王不聽。即時卸下錦袍玉帶,束縛腰身,更用大帶扎縛其袖。任鄙拖袖固諫。武王曰:「汝自不能,乃妒寡人耶?」鄙遂不敢復言。武王大踏步向前,亦將雙臂套入絲絡,想道:「孟賁止能舉起,我偏要行動數步,方可誇勝。」乃儘生平神力,屏一口氣,喝聲:「起!」那鼎亦離地半尺。方欲轉步,不覺力盡失手,鼎墜於地,正壓在武王右足上,趷札一聲,將脛骨壓個平斷。武王大叫:「痛哉!」登時悶絕。左右慌忙扶歸公館。血流床席,痛極難忍,捱至夜半而薨。武王自言:「得游鞏雒,雖死無恨。」今日果然死於雒陽,前言豈非讖乎?周赧王聞變大驚,急備美棺,親往視殮,哭弔盡禮。樗里疾奉其喪以歸。武王無子,迎其異母弟稷嗣位,是為昭襄王。樗里疾討舉鼎之罪,磔孟賁,族滅其家﹔以任鄙能諫,用為漢中太守。疾復宣言於朝曰:「通三川者,甘茂之謀也!」甘茂懼為疾所害,遂奔魏國,後死於魏。

  再說秦昭襄王聞楚送質子於齊,疑其背秦而向齊,乃使樗里疾為大將,興兵伐楚。楚使大將景快迎戰,兵敗被殺。楚懷王恐懼。昭襄王乃遣使遺懷王書,略云:

    始寡人與王約為兄弟,結為婚姻,相親久矣。王棄寡人而納質於齊,寡人誠不勝其憤!是以侵王之邊境,然非寡人之情也。今天下大國,惟楚與秦,吾兩君不睦,何以令於諸侯?寡人願與王會於武關,面相訂約,結盟而散。還王之侵地,復遂前好,惟王許之。王如不從,是明絕寡人也,寡人不能以兵退矣。

懷王覽書,即召群臣計議曰:「寡人欲勿往,恐激秦之怒﹔欲往,恐被秦之欺。二者孰善?」屈原進曰:「秦,虎狼之國也。楚之見欺於秦,非一二次矣,王往必不歸。」相國昭睢曰:「靈均乃忠言也!王其勿行。速發兵自守,以防秦兵之至。」靳尚曰:「不然。楚惟不能敵秦,故兵敗將死,輿地日削。今歡然結好,而復拒之,倘秦王震怒,益兵伐楚,奈何?」懷王之少子蘭,娶秦女為婦,以為婚姻可恃,力勸王行,曰:「秦楚之女,互相嫁娶,親莫過於此。彼以兵來,尚欲請和,況歡然求為好會乎?上官大夫所言最當,王不可不聽。」懷王因楚兵新敗,心本畏秦,又被勒尚子蘭二人攛掇不過,遂許秦王赴會。擇日起程,只有靳尚相隨。

  秦昭王使其弟涇陽君悝,乘王車羽旄,侍衛畢具,詐為秦王,居武關﹔使將軍白起引兵一萬,伏於關內,以劫楚王﹔使將軍蒙驁引兵一萬,伏於關外,以備非常。一面遣使者為好語前迎楚王,往來不絕。楚懷王信之不疑,遂至武關之下。只見關門大開,秦使者復出迎曰:「寡君候大王於關內三日矣。不敢辱車從於草野,請至敝館,成賓主之禮。」懷王已至秦國,勢不容辭,遂隨使者入關。懷王剛剛進了關門,一聲砲響,關門已緊閉矣。懷王心疑,問使者曰:「閉關何太急也?」使者曰:「此秦法也。戰爭之世,不得不然。」懷王問:「爾王何在?」對曰:「先在公館伺候車駕。」即叱御者速馳。約行二里許,望見秦王侍衛,排列公館之前,使者吩咐停車。館中一人出迎,懷王視之,雖然錦袍玉帶,舉動卻不像秦王。懷王心下躊躇,未肯下車。那人鞠躬致詞曰:「大王勿疑,臣實非秦王,乃王弟涇陽君也。請大王至館,自有話講。」懷王只得就館。涇陽君與懷王相見。方欲就坐,只聽得外面一片聲喊起,秦兵萬餘,圍住公館。懷王曰:「寡人赴秦王之約,奈何以兵見困耶?」涇陽君曰:「無傷也。寡人適有微恙,不能出門,又恐失信於君王,故使微臣悝奉迎君王,屈至咸陽,與寡君一會。以些少軍卒,為君侍衛,萬勿推辭。」那時不由楚王做主,擁之登車。留蒙驁一軍於關上。涇陽君陪乘,白起領兵四下擁衛,西望咸陽而去。靳尚逃歸楚國。懷王嘆曰:「悔不聽昭睢屈平之言,乃為靳尚所誤!」流淚不已。懷王既至咸陽,昭襄王大集群臣及諸侯使者於章臺之上。秦王南面上坐,使懷王北面參謁,如藩臣禮。懷王大怒,抗聲大言曰:「寡人信婚姻之好,輕身赴會。今君王假稱有疾,誘寡人至於咸陽,復不以禮相接,此何意也?」昭襄王曰:「向者蒙君許我黔中之地,已而不果。今日相屈,欲遂前約耳!倘君王朝許割地,暮即送王歸楚矣。」懷王曰:「秦縱欲得地,亦當善言,何必詭計如此?」昭襄王曰:「不如此,君必不從。」懷王曰:「寡人願割黔中矣!請與君王為盟,以一將軍隨寡人至楚受地,何如?」昭襄王曰:「盟不可信也。必須先遣使回楚,將地界交割分明,方與王餞行耳。」秦之群臣,皆前勸懷王。懷王益怒曰:「汝詐誘我至此,復強要我以割地,寡人死即死耳,不受汝脅也!」昭襄王乃留懷王於咸陽城中,不放回國。

  再說靳尚逃回,報與昭睢,如此恁般:「秦王欲得楚黔中之地,拘留在彼。」昭睢曰:「吾王在秦不得還,而太子又質於齊,倘齊人與秦合謀,復留太子,則楚國無君矣!」靳尚曰:「公子蘭見在,何不立之?」昭睢曰:「太子之立已久,今王猶在秦,遽棄其命,舍嫡立庶,異日王幸歸國,何以自解?吾今詐訃於齊,以請太子,齊必信從。」靳尚曰:「吾不能為君禦難,此行當效微勞耳!」昭睢即遣靳尚使齊,詐稱楚王已薨,迎太子奔喪嗣位。齊湣王謂其相國孟嘗君田文曰:「楚國無君,吾欲留太子以求淮北之地,何如?」孟嘗君曰:「不可。楚王固非一子,吾留太子,而彼以地來贖,可也﹔倘彼別立一人為王,我無尺寸之利,而徒抱不義之名,將安用之?」湣王以為然。乃以禮歸太子橫於楚。橫即楚王位,是為頃襄王。子蘭靳尚用事如故。遣使告於秦曰:「賴社稷神靈,國已有王矣!」秦王空留懷王,不可得地,乃大慚怒,使白起為將,蒙驁副之,帥師十萬攻楚,取十五城而歸。楚懷王留秦歲餘,秦守者久而懈怠,懷王變服,逃出咸陽,欲東歸楚國。秦王發兵追之,懷王不敢東行,遂轉北路,間道走趙。不知趙國肯納懷王否。且看下回分解。

訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。

© 好古刊行会