東周列國志第九十三回 趙の主父、沙丘宮で餓死する/孟嘗君、ひそかに函谷関を越える (趙主父餓死沙邱宮 孟嘗君偷過函谷關)

趙武霊王の胡服騎射と主父の秦偵察

  • さて趙の武霊王は身の丈八尺八寸、龍のかんばせに鳥のくちばし、広い鬢に虯のようなひげ、顔は黒く光沢があり、胸幅は三尺、気迫は万人にまさり、志は四海を呑まんとするものであった。
  • 即位五年、韓の女を娶って夫人とし、子章を生ませて太子に立てた。十六年に至り、夢の中で美人が琴を弾く姿を見て、その容貌を恋い慕い、翌日、群臣にこのことを語った。
  • 大夫の胡広は、自らの娘の孟姚が琴に巧みであると申し出た。武霊王は大陵の台にこれを召し見ると、容貌はまさに夢の中で見た通りであり、そこで琴を弾かせて大いに喜び、宮中に納めて呉娃と呼んだ。彼女は子の何を生んだ。
  • 韓后が薨じると、ついに呉娃を王后に立て、太子章を廃して何を太子とした。
  • 武霊王は、趙国が北は燕、東は胡、西は林胡・楼煩と接し、秦とはただ一つの河を隔てるのみで、四方から攻められる地に居ることを憂え、日に日に国が弱まっていくことを恐れた。そこで自ら胡服を身につけ、革帯・皮靴とし、民にも皆胡の風俗を模させ、袖を細く、襟を左前にした服にして騎射に便利にさせた。国中で貴賤を問わず、胡服を着ない者はなかった。
  • 車に乗ることをやめて馬に乗り、日々狩猟に励み、兵はますます強くなった。武霊王は自ら軍を率いて土地を切り取り、常山に至り、西は雲中の果てまで、北は雁門の果てまで達し、数百里の地を切り開いた。
  • ついに秦を呑む志を抱き、雲中から道を取り、九原から南下してまっすぐ咸陽を襲おうとした。諸将にひとり任せることはできぬと考え、その子に国事を治めさせ、自らは各地を経略しようとした。
  • そこで東官に群臣を集めて大朝会を開き、位を太子何に伝えた。これが恵王である。武霊王は自ら「主父」と号した(主父とは後世でいう太上皇のようなものである)。
  • 肥義を相国とし、李兌を太傅とし、公子成を司馬とした。長子の章を安陽の地に封じて安陽君と号させ、田不礼をその相とした(これは周の赧王十七年のことである)。
  • 主父は秦の山川の形勢をうかがい、また秦王の人となりを観察しようと、趙国の使者趙招と偽り、国書を持って秦国に立君の告知に行くと称した。工人数人を連れて、道すがらその地形を図に描かせ、ついに咸陽に入って秦王に謁見した。
  • 昭襄王は「そなたの王の年齢はいかほどか」と問うた。答えて「まだ壮年でございます」と言った。また問うた。「壮年でありながら、なぜ子に位を伝えたのか。」答えて「わが君は、位を継ぐ者の多くが事に通じていないため、自身が存命のうちにこれに習熟させようと思われたのです。わが君は『主父』ではありますが、国事は依然として自ら裁決しておられます」と言った。
  • 昭襄王は「そなたの国もまた秦を恐れているか」と問うた。答えて「わが君がもし秦を畏れていなかったならば、胡服を身につけて騎射を習うことなどございませんでした。今、馬を馳せ弓を引く士は昔の十倍にもなっております。これをもって秦に対すれば、あるいは終には盟好を全うできるでございましょう」と言った。
  • 昭襄王はその応対のあまりに的確なるを見て、大いに敬い重んじた。使者は辞去し、宿舎に着いた。
  • 昭襄王は眠りについたが、真夜中になってふと、趙の使者の姿が魁偉で堂々としており、人臣の相ではないと思い当たり、不審を覚えて寝返りを打ち、眠れなくなった。
  • 夜が明けると、趙招を召して会おうとした。従者が答えて「使者は病にかかり、朝廷に参れません、しばらくお待ちください」と言った。
  • 三日過ぎても、使者はなお出てこなかった。昭襄王は怒り、役人を遣わして迫らせた。役人が直接宿舎に入ると、使者の姿はなく、ただ従者だけが捕らえられた。彼は自らを本物の趙招と名乗り、昭襄王の前に引き出された。
  • 王が「そなたが本物の趙招であるならば、使者と称していたのは、いったい誰なのか」と問うと、答えて「実は我が王、主父にございます。主父は大王の威容を拝したく、そこで偽って使者と称してやって来られたのです。今すでに咸陽を出て三日になります。特別に臣を残し、ここで罪をお待ちさせております」と言った。
  • 昭襄王は大いに驚き、地団駄を踏んで「主父はひどく寡人を欺いたものだ」と言った。すぐに涇陽君に白起とともに精兵三千を率いさせ、夜を徹して追わせた。函谷関に至ると、関を守る将士は「趙国の使者は三日前にすでに関を出ました」と言った。
  • 涇陽君らは秦王に復命し、秦王は心臓の高鳴りが数日治まらなかったが、礼をもって趙招を国へ帰らせた。髯翁に詩がある。
  • (詩:まさしく猛虎が咸陽に踞っているというのに、誰が敢えて函谷関をひそかにうかがおうか。思いもよらず龍顔の趙主父が、堂上でこっそりと秦王を見定めていたとは、という趣旨。)

趙の強盛と、楚懐王の客死・屈原の憤死

  • 翌年、主父は再び雲中へ巡幸し、代から西へ、楼煩から兵を収めた。霊寿に城を築いて中山を鎮め、趙王城と名づけた。呉娃もまた肥郷に城を築き、夫人城と号した。このころ趙の強さは三晋の中で群を抜いていた。
  • その年、楚の懐王が秦から逃げてきたが、恵王は群臣とともに協議し、秦の怒りを触れることを恐れ、また主父が遠く代の地にあってあえて独断できず、ついに関を閉ざして受け入れなかった。
  • 懐王は計り尽きて、南の大梁へ逃げようとしたが、秦の兵に追いつかれ、再び涇陽君とともに咸陽へ連れ戻された。懐王は憤懣やるかたなく、血を一斗あまりも吐いて病を発し、まもなく薨じた。秦はその亡骸を楚へ帰した。
  • 楚の人々は懐王が秦に欺かれ、異郷で客死したことを憐れみ、亡骸を迎える人々は皆声をあげて泣き、あたかも肉親を悲しむようであった。諸侯は皆秦の無道を憎み、再び「合従」して秦を退けようとした。
  • 楚の大夫屈原は、懐王の死が子蘭と靳尚とに誤られたことによると痛切に思っていたが、今日、この二人は依然として実権を握り、君臣ともに一時の安泰を貪り、秦への報復の志はまったくなかった。そこで屈原はしばしば諫言し、頃襄王に賢を進め佞を遠ざけ、将を選び兵を練り、懐王の恥をすすぐことを図るよう勧めた。
  • 子蘭はその意を察し、靳尚に頃襄王へこう言わせた。「屈原は自らが同姓でありながら重用されないことに恨みを抱いており、また人に会うたびに大王が秦への仇を忘れたのは不孝であり、子蘭らが秦討伐を主張しないのは不忠であると言っております。」
  • 頃襄王は大いに怒り、屈原の職を削り、郷里へ追い払った。
  • 屈原には姉があり、名を嬃といい、すでに遠くへ嫁いでいたが、原が放逐されたと聞いて実家に帰り、夔にある屈原の旧宅を訪ねた。屈原が髪を乱し垢だらけの顔で、やつれ果てた姿で川辺を吟じ歩いているのを見て、諭して言った。「楚王はそなたの言を聞き入れなかった。そなたの真心はもはや尽くし切ったのだ。憂え思い悩んでも何の益があろうか。幸い田畑があるのだから、力を尽くして耕し、自ら食べて、余生を全うしてはどうか。」
  • 屈原は姉の意に背きがたく、そこで鋤を執って耕した。里人は屈原の忠誠を哀れみ、皆その労を助けた。
  • ひと月余りして姉が去ると、屈原は嘆いて「楚の事がここまで至ったからには、私は宗室の滅亡を見るに忍びない」と言った。ある日の朝、起き出して石を抱き、汨羅江に身を投げて死んだ。その日は五月五日であった。
  • 里人は屈原が自ら溺れたと聞き、争って小舟を漕ぎ出し、川に出て救おうとしたが、もはや間に合わなかった。そこで角黍(ちまき)を作って川に投じて祭り、彩糸で縛ったのは、蛟龍に食べられることを恐れたためである。また竜舟の競渡の戯れも、屈原を救おうとしたことに由来し、今に至るまで楚から呉まで、風習として受け継がれている。
  • 屈原が耕した田は、白玉のような米が獲れたので、「玉米田」と名づけられた。里人はひそかに屈原の祠を立て、その郷を姉帰郷と名づけた。今の荊州府に帰州があるのも、姉帰にちなんで名づけられたものである。
  • 宋の元豊年間に至り、屈原は清烈公に封ぜられ、あわせてその姉のために廟を立て、姉帰廟と号した。のちにさらに屈原に忠烈王の称号を加えた。髯翁に「過忠烈王廟詩」がある。
  • (詩:高くそびえる廟の姿は江のほとりに立ち、香煙は忠烈王のもとへ人々が争って参る。佞臣の骨はどこで朽ちたかも分からず、竜舟は毎年、滄浪の川で弔いを行う、という趣旨。)

主父、章を代王に立てんとする議

  • さて趙の主父は雲中への巡幸から邯鄲へ戻り、功績に応じて賞を与え、国中の人々に五日間の酒肴を賜った。その日、群臣は皆参集して祝賀した。
  • 主父は恵王に朝廷に臨んで政務を執らせ、自らはその傍らに設けた便座に座って、その儀礼の様子を見た。何は年若くして袞冕を着け、南を向いて王の座に就いて拝礼を受け、長子の章は堂々たる一人前の男でありながら、かえって北を向いて下座で拝舞している様を見て、兄が弟の下に屈しているのを、たいそう憐れに思った。
  • 朝が終わると、主父は公子勝が傍にいるのを見て、密かに言った。「そなたは安陽君を見たか。班に従って拝舞していたが、いかにも不満そうな色があった。私は趙の地を二つに分け、章を代王として趙と並び立たせようと思うが、そなたはどう思うか。」
  • 趙勝は答えて「王は昔すでに誤られました。今、君臣の分はすでに定まっているのに、また事の発端を生じさせれば、争いや変事が起こるのではと恐れます」と言った。
  • 主父は「事の権はわしにある。何を憂えることがあろうか」と言った。
  • 主父が宮に戻ると、夫人の呉娃はその顔色が変わっているのを見て、「今日、朝廷で何かあったのですか」と問うた。主父は「わしは旧太子の章を見た。兄でありながら弟に朝することは、道理に順わぬ。代王に立てたいと思うが、勝がまた不都合であると言うので、それでためらって決めかねているのだ」と言った。
  • 呉娃は言った。「昔、晋の穆侯には二人の子があり、長男を仇、次男を成師といいました。穆侯が薨じると、子の仇が跡を継いで立ち、翼に都を置き、弟の成師を曲沃に封じました。その後、曲沃はますます強くなり、ついに仇の子孫をすべて滅ぼして翼国を併呑してしまいました。これは主父もご存じのことでしょう。成師は弟でありながら、なお兄を害することができたのです。まして兄でありながら弟に臨み、年長でありながら年少者に臨むとなれば、なおさらではございませんか。私たち母子はまるで魚肉となってしまいます。」
  • 主父はその言葉に惑わされ、そこでこの計画を取りやめた。
  • 旧太子章に東宮でかつて仕えていた侍人が、主父が協議していたことを聞き、密かにこれを章に告げた。章は田不礼にこのことを相談した。
  • 田不礼は言った。「主父が趙の地を二分して二人の子をそれぞれ王に立てようとされたのは、公明な心から出たことですが、ただ婦人に妨げられただけです。王はまだ年若く事に通じておられません。まことに機に乗じて計略をめぐらし、王を除いてしまえば、主父とてどうしようもできますまい。」章は「この事はただ君のご配慮次第だ。富貴を共にしよう」と言った。
  • 太傅の李兌は肥義と親しく、密かに告げた。「安陽君は強壮で驕慢であり、その一派は非常に多く、しかも怨望の心を抱いております。田不礼は強情で荒々しく、自分勝手であり、進むことを知って退くことを知りません。この二人が徒党を組めば、危険を冒して僥倖を得ようとするでしょう。事はそう遠くありません。あなたは重責を担い、地位も高いので、禍は必ず真っ先にあなたに及ぶでしょう。なぜ病と称して政事を公子成に伝え、自ら難を避けないのですか。」
  • 肥義は言った。「主父は王を私に託し、私を尊んで相国とした。それは私に安危を任せうると思われたからだ。今、禍の兆しがまだ見えぬうちに、自ら先んじて避けたなら、荀息(晋の忠臣)に笑われることにならないだろうか。」
  • 李兌は嘆いて「あなたは今、忠臣にはなれても、もはや智者にはなれますまい」と言い、涙を流し、しばらくして別れ去った。
  • 肥義は李兌の言葉を思い、夜も眠れず、食も喉を通らず、寝返りを打ち続けたが、良策は得られなかった。そこで近侍の高信に「今後、もし王を召す者があれば、必ず先に私に知らせよ」と言った。高信は「かしこまりました」と言った。

主父、沙邱宮にて餓死す

  • ある日、主父は王とともに沙邱へ出遊し、安陽君の章もこれに従った。その沙邱には台があり、これは商の紂王が築いたものであった。離宮が二つあり、主父と王とはそれぞれ一方の宮に居り、互いに五六里離れていた。安陽君の館はちょうどその中間にあった。
  • 田不礼は安陽君に言った。「王が外に出遊されて、その護衛の兵はさほど集まっておりません。もし主父の命だと偽って王を召せば、王は必ず来られましょう。私は途中に伏兵を置き、これを要撃して殺し、その機に乗じて主父を奉じてその配下を鎮めれば、誰があえて背きましょうか。」章は「この計は妙である」と言った。
  • すぐに腹心の内侍を遣わし、偽って主父の使者と称させ、夜、恵王を召させて「主父が急に病を発し、王のお顔を拝したいと望んでおられます。急ぎお越しください」と言わせた。
  • 高信はすぐに相国肥義に走り告げた。肥義は「王には元より病はなかった。この事は疑わしい」と言い、王に入って「義がまず身をもって先に行きましょう。何事もなければ、王はそれから行かれるとよいでしょう」と言った。さらに高信に「宮門を固く閉ざし、決して軽々しく開けてはならぬ」と言った。
  • 肥義は数騎を連れ、使者に付き従って王より先に出発したが、途中で伏兵は誤って彼を王だと思い込み、群がって皆殺しにしてしまった。田不礼が火をかざして確認すると、肥義であった。
  • 田不礼は大いに驚いて言った。「事態は狂ってしまった。企てがまだ露見しないうちに、すべての兵を挙げて夜に乗じて王を襲うべきだ。あるいは勝機があるかもしれぬ。」そこで安陽君を奉じて王を攻めた。
  • 高信は肥義の言いつけにより、すでにあらかじめ準備をしていた。田不礼は王宮を攻めたが入ることができなかった。夜が明けると、高信は王に付き従っていた兵士たちを屋根に登らせて矢を放たせ、賊は多くが傷つき死んだ。
  • 矢が尽きると、瓦を投げつけさせた。田不礼は木に大石を縛って、これで宮門を撞くよう命じ、喚声は雷のようであった。恵王がまさに危急に瀕していたとき、宮外に喊声が大きく上がるのが聞こえ、二隊の軍馬が殺到してきた。賊兵は大敗し、散り散りに逃げた。
  • もとより公子成と李兌が国中で協議し、安陽君が機に乗じて乱を起こすことを恐れ、それぞれ一軍を率いて呼応して救援に駆けつけていたのであり、ちょうど王宮を包囲していた賊にぶつかり、この難を解いたのであった。
  • 安陽君は兵が敗れると、田不礼に「今、どうすればよいか」と言った。田不礼は「急いで主父のもとへ走り、涙ながらに哀れみを乞われよ。主父は必ず匿ってくれるだろう。私は力を尽くして追手を防ごう」と言った。
  • 章はその言葉に従い、単騎で主父の宮中へ駆け込んだ。主父は果たして門を開いて彼を匿い、まったく難色を示さなかった。
  • 田不礼は残った兵を駆り立て、再び公子成・李兌と交戦したが、衆寡敵せず、田不礼は李兌に斬られた。
  • 李兌は、安陽君が身を寄せる所がなく、必ず主父のもとへ逃げ込んだと察し、兵を率いて主父の宮を包囲した。宮門を打ち破り、李兌は抜き身の剣を手に先頭に立って道を切り開き、公子成が後に続いた。二人は主父に会い、額を地につけてぬかずき、「安陽君は反叛いたしました。法として許すことはできません。どうか主父、彼をお引き渡しください」と言った。
  • 主父は「彼はここに来てはおらぬ。二卿は他をお探しなさい」と言った。李兌と公子成は再三申し立てたが、主父はまったく口を割らなかった。
  • 李兌は「事はすでにここまで来ております。一度捜索を行い、もし賊が見つからなければ、そのとき罪をお詫びしても遅くはございません」と言った。公子成は「あなたの言われるとおりだ」と言った。
  • そこで親兵数百人を呼び集め、宮中をあまねく捜索し、二重壁の中から安陽君を見つけ、引きずり出した。李兌はただちに剣を抜き、その首を斬り落とした。
  • 公子成は「なぜそれほど急いだのか」と言った。李兌は「もし主父にお会いしていたら、万一取り上げられるかもしれない。これに逆らえば臣下の礼に背き、従えば賊を取り逃がしたことになる。殺してしまうに越したことはない」と言った。公子成はこれに納得した。
  • 李兌は安陽君の首を持って宮の中から出たが、主父の泣き声が聞こえたので、再び公子成に言った。「主父は宮を開いて章を受け入れられた。すでに心の内で彼を憐れんでおられるのだ。我らは章のために主父の宮を包囲し、捜索して殺してしまった。これは主父のお心を傷つけることにならぬか。事が収まったのち、主父が宮を包囲した罪を我らに問われれば、我らの一族は皆殺しにされるだろう。王はまだ年若く相談する相手にはならぬ。我らは自ら決断せねばならぬ。」
  • そこで兵士に「包囲を解いてはならぬ」と命じた。人を遣わして恵王の命だと偽り、「宮中にいる者たちよ、先に出る者は罪を許す、後に出る者は賊党とみなして一族を滅ぼす」と伝えさせた。
  • 従臣や内侍たちはこの命を聞き、争って先に宮を出た。ただ主父ひとりが残された。主父が人を呼んでも、誰一人応える者はなかった。出ようとすると、門はすでに鍵がかけられていた。
  • 数日間包囲は解かれず、主父は宮中で飢えに苦しみ、食を得る術がなかった。庭に雀の巣がある木があり、その卵を探り出して生のまま食べたが、一ヶ月余りで餓死した。髯仙が詩を作って嘆いた。
  • (詩:胡服にて辺境を巡行し、胡虜の起こす戦塵を鎮め、雄心はまっすぐ西の秦をも併呑せんとしたのに、呉娃ひとりの血筋が禍の種をはらみ、夢の中の琴の音が人を誤らせたのだ、という趣旨。)

主父の葬送と平原君の賢名

  • 主父はすでに死んでいたが、外の人々はまだ知らなかった。李兌らはなお恐れてすぐには入らず、三月余りが経ってようやく鍵を開けて中を見ると、主父の亡骸はすでに干からびていた。
  • 公子成は恵王を奉じて沙邱宮へ行き、納棺の儀に立ち会って喪を発し、代の地に葬った。今の霊邱県は、武霊王が葬られたことにちなんで名づけられたものである。
  • 恵王は国に帰ると、公子成を相国とし、李兌を司寇とした。まもなく公子成が没すると、恵王は公子勝がかつて主父が国を分けて王を立てる計画を止めたことを理由に、これを相国に用い、平原の地に封じて平原君と号させた。
  • 平原君もまた士を好み、孟嘗君の風があった。すでに貴い身分になると、ますます賓客を招き、居候して食べる者は常に数千人に及んだ。
  • 平原君の邸宅には楼閣があり、そこに美人を住まわせていた。その楼は民家を見下ろす位置にあった。ある民家の主人には足の不自由な病があり、朝早く水汲みによろよろと出てきたのを、楼上から見た美人が大いに笑った。
  • しばらくして、その不自由な男が平原君の門を訪れ、面会を求めた。公子勝は会釈して迎え入れた。不自由な男は言った。「聞くところによれば、あなた様は士を好まれるとのこと。士が千里を遠しとせずあなた様の門に集うのは、あなた様が士を貴び色を軽んじられるからです。臣は不幸にも歩行の障害を持っておりますが、あなた様の後宮の者は、私を見下ろして笑いました。私は婦人の辱めを甘んじて受けることはできません。私を笑った者の首をいただきたいのです。」
  • 勝は笑って「承知した」と応じた。不自由な男は去った。平原君は笑って「この愚か者め。一笑いのことで、私の美人を殺そうというのか」と言った。
  • 平原君の門下には常規があり、主客の係が毎月客の名簿を記帳し、客の増減を調べ、銭穀の出入りを計算していた。以前は客は増えるばかりで減ることはなかったが、この頃になると次第に去っていく者が現れ、一年余りで客は半分に減った。
  • 公子勝は不審に思い、鐘を鳴らして諸客を大いに集め、「私が皆様を待遇するにあたり、あえて礼を失したことはないはずだが、なぜ次々と去っていかれるのか」と問うた。
  • 客の中の一人が進み出て答えた。「あなた様が不自由な男を笑った美人を殺されなかったので、皆が不満を抱き、あなた様が色を愛して士を軽んじておられると思い、それで去っていったのです。臣らとても、遠からず辞去することになりましょう。」
  • 平原君は大いに驚き、自ら罪を認めて「これは勝の過ちであった」と言った。すぐに佩剣を解き、左右に楼上の美人の首を斬らせ、自ら不自由な男の門を訪ね、長くひざまずいて謝罪した。不自由な男は喜んだ。
  • こうして門下の者は皆平原君の賢を称え、賓客は再び元のように集まった。当時の人々は三字の言葉でこれを言い表した。
  • (詩:我らに食わせて飽かせ、我らに着せて温め、その館に憩わせ、その門に遊ばせてくださる。斉には孟嘗、趙には平原、佳き公子、賢き主人、という趣旨。)

秦昭王、孟嘗君を招く

  • そのころ秦の昭襄王は平原君が美人を斬って不自由な男に謝った話を聞き、ある日、向寿にこの話をして、その賢を嘆じた。
  • 向寿は「それでもまだ斉の孟嘗君ほどではございません」と言った。秦王は「孟嘗君はどうなのか」と問うた。
  • 向寿は言った。「孟嘗君はその父田嬰がまだ存命の頃から、すでに家政を任され、賓客の接待にあたっておりました。賓客は雲のように彼のもとへ集まり、諸侯は皆これを敬い慕い、田嬰に世子とするよう願い出るほどでした。薛公の跡を継ぐと、賓客はますます盛んになり、衣食は自分と同じにして、供給の費用は莫大で、そのために家産を破ってしまうほどでした。斉から来た士は、皆孟嘗君が自分を親しんでくれると思い、その間に不満の声はありません。今、平原君が、美人が不自由な男を笑ったのを大目に見て誅さず、賓客の心が離れるのを待ってから首を斬って謝ったのは、遅すぎたのではございませんか。」
  • 秦王は「寡人はどうしたら孟嘗君に会い、共に事をなすことができようか」と言った。向寿は「王がもし孟嘗君にお会いになりたければ、なぜお召しにならないのですか」と言った。秦王は「彼は斉の相国だ、召したところで来てくれようか」と言った。
  • 向寿は言った。「王がもし親しい子弟を斉へ人質として送り、それによって孟嘗君を招かれれば、斉は秦を信じて、遣わさぬわけには参りません。王が孟嘗君を得られれば、すぐに相とし、斉もまた必ず王の親しい子弟を相とするでしょう。秦と斉が互いに相を交換すれば、その交わりは必ず結ばれ、その後に共に諸侯を図ることも難しくはございません。」
  • 秦王は「よかろう」と言い、涇陽君悝を斉への人質として遣わし、「孟嘗君を秦へお迎えし、寡人にその顔を一目拝ませ、飢渇の思いを慰めさせていただきたい」と伝えさせた。
  • 賓客たちは秦の招きを聞き、皆孟嘗君に必ず行くよう勧めた。ちょうど蘇代が燕の使者として斉にいたが、孟嘗君に言った。「今、代は外から参りましたが、土の人形と木の人形が語り合っているのを見ました。木の人形は土の人形に『天がまさに雨を降らそうとしている。そなたは崩れてしまうだろう。どうするのか』と言いました。土の人形は笑って『私は土から生まれた者、崩れれば元の土に還るだけだ。そなたは雨に流され、どこへ行き着くか分からないではないか』と答えました。秦は虎狼の国、楚の懐王でさえ帰れなかったのに、まして君侯においてはなおさらではございませんか。もしあなた様を留めて帰さぬようなことがあれば、臣はあなた様がどのような終わりを迎えられるか分かりません。」
  • 孟嘗君はそこで秦行きを辞退し、行かないことにした。
  • 匡章は湣王に言った。「秦が人質を差し出してまで孟嘗君との面会を求めるのは、斉に親しもうとしているからです。孟嘗君が行かなければ、秦の歓心を失うことになりましょう。しかしそうはいっても、秦の人質を留め置いたままでいるのは、なお秦を信じていないことになります。王は礼をもって涇陽君を秦へ帰し、孟嘗君を秦へ聘問させて、秦の礼に応えられるのがよいでしょう。そうすれば、秦王は必ず孟嘗君を信頼し、斉を厚く扱うようになりましょう。」
  • 湣王はこれをよしとし、涇陽君に「寡人はまもなく相国文を遣わして貴国へ使者として送り、秦王のご機嫌をうかがわせようと思っております。どうして貴人を人質にする必要がありましょうか」と言った。すぐに車馬を整えて涇陽君を秦へ送り帰し、孟嘗君を秦への聘問に赴かせた。

狗盗鶏鳴の脱出

  • 孟嘗君は賓客千余人、車騎百余乗を率い、西へ咸陽に入り、秦王に謁見した。秦王は階を降りてこれを迎え、手を握って歓談し、日頃から慕っていた思いを語った。
  • 孟嘗君には白狐の裘(毛皮の衣)があり、毛の深さ二寸、その白さは雪のようで、価は千金に値し、天下に二つとないものであった。これを私的な礼物として秦王に献上した。
  • 秦王はこの裘を着て宮中に入り、寵愛する燕姫に誇った。燕姫は「この裘くらい、よくあるものではございませんか。なぜそれほど貴重なのですか」と言った。
  • 秦王は言った。「狐は数千年を経なければ毛が白くならないものだ。今の白い裘というのは、皆、狐の脇の下の一片ずつを取り、それを繋ぎ合わせて作ったものにすぎない。これは純白の一枚皮であるがゆえに貴重なのだ。まさに無価の珍品である。斉は東方の大国であるからこそ、こうした珍しい品があるのだ。」
  • そのころ天候はまだ暖かかったので、秦王は裘を主藏の役人に預け、大切にしまっておくよう命じ、後日着用するときを待たせた。
  • 日を選んで孟嘗君を丞相に立てようとした。樗里疾は孟嘗君が用いられることを妬み、自らの相権を奪われることを恐れ、その食客である公孫奭に秦王を説かせて言った。「田文は斉の一族であり、今秦の相となれば、必ず斉を優先し秦を後にするでしょう。孟嘗君の賢明さをもってすれば、その謀事は的中しないことがなく、さらに多くの賓客を抱えており、秦の権力を借りて陰で斉のために謀るならば、秦は危うくなりましょう。」
  • 秦王はこの言葉を樗里疾に問うた。樗里疾は「奭の言うことは正しゅうございます」と答えた。秦王は「それならば彼を帰らせようか」と言った。樗里疾は答えて言った。「孟嘗君が秦に居ること一月余り、その賓客千人は、すでに秦の大小の事情をことごとく知り尽くしております。もし彼を斉へ帰らせれば、結局は秦の害となりましょう。殺すに越したことはございません。」
  • 秦王はその言葉に惑わされ、孟嘗君を館舎に幽閉するよう命じた。
  • 涇陽君は斉にいたとき、孟嘗君の厚遇を受けており、毎日飲食を供され、帰るときにはさらに数々の宝器を贈られていたので、大いにその恩義を感じていた。この度、秦王の企みを聞き、密かに孟嘗君に会ってこの事情を告げた。
  • 孟嘗君は恐れて計を問うた。涇陽君は言った。「王の腹は未だ決まっておりません。宮中に燕姫という者がおり、最も王の心を得ており、その言うことは何でも聞き入れられます。君は貴重な器物をお持ちでしょう、私が君のためにこれを燕姫に献上し、一言口添えしてもらって君を国へ帰す道を求めれば、禍を免れることができるでしょう。」
  • 孟嘗君は白璧二双を涇陽君に託し、燕姫に献上して解決を求めさせた。燕姫は「私はたいそう白狐の裘を欲しく思っております。もし東方の大国にあるという例の裘をいただければ、私は一言を惜しむことなく、璧など欲しくございません」と言った。
  • 涇陽君は孟嘗君に報告した。孟嘗君は「裘はただ一枚しかなく、すでに秦王に献上してしまった。どうして再び手に入れられようか」と言い、賓客一同に「白狐の裘を再び手に入れられる者はいないか」と尋ねた。皆手をこまねいて答えられなかった。
  • 最も下座にいた一人の客が、自ら「私にはできます」と言い出た。孟嘗君は「そなたにはどのような計があって裘を得られるのか」と問うた。客は「臣は狗盗(犬泥棒)ができます」と言った。孟嘗君は笑ってこれを遣わした。
  • その客はその夜、犬の姿に扮し、穴から秦の宮の庫蔵にひそかに侵入し、犬の吠え声を上げた。主藏の役人は番犬だと思い、疑わなかった。客は役人が熟睡するのを待ち、その傍らに隠していた鍵を取り、蔵の櫃を開け、果たして白狐の裘を手に入れ、これを盗み出して孟嘗君に献上した。
  • 孟嘗君は涇陽君にこれを転じて燕姫に献上させ、燕姫は大いに喜んだ。ちょうど王と夜、酒を酌み交わし歓を尽くしていたとき、燕姫は進言した。「妾が聞くところでは、斉には孟嘗君という天下の大賢がいるとのことです。孟嘗君はもともと斉の相であって秦に来たがらなかったのを、秦が請うて招いたのです。用いないならばそれでよろしいものを、なぜ誅そうとされるのですか。人の国の相を招いておきながら、理由もなくこれを誅せば、賢を戮したという汚名を負うことになり、妾は天下の賢士が皆足を裹んで秦から遠ざかることを恐れます。」
  • 秦王は「よかろう」と言った。翌日、御殿に出て、すぐに車馬を整え通行証を給い、孟嘗君を斉へ帰らせるよう命じた。
  • 孟嘗君は「私は燕姫の一言のおかげで幸運にも虎口を脱することができた。万一秦王が心変わりでもすれば、私の命は終わりだ」と言った。客の中に偽の通行証を作ることに巧みな者がおり、孟嘗君のために通行証の中の姓名を変えて、星を追うようにして去った。
  • 函谷関に至ったのは、夜半ちょうどのことであった。関門はすでに鍵をかけて久しかった。孟嘗君は追手が来ることを恐れ、急いで関を出ようとした。関の開閉は決まった時刻があり、人が寝静まると閉ざされ、鶏が鳴くと開かれることになっていた。
  • 孟嘗君と賓客たちは皆関の内に群がって集まり、心中大いに焦っていた。突然、鶏の鳴き声が客の一団の中から起こった。孟嘗君が怪しんで見ると、下座の客の一人で、鶏の鳴き声を真似ることのできる者であった。これによって群鶏がすべて鳴き出した。
  • 関の役人は夜が明けたものと思い、すぐに起きて通行証を検めて関を開いた。孟嘗君の一行は再び星を追うように駆け去った。
  • 二人の客に「私が虎口を脱することができたのは、狗盗と鶏鳴の力によるものだ」と言った。賓客一同は自らの無功を恥じ、これより下座の客をおろそかにしなくなった。髯翁に讚がある。
  • (詩:明珠を弾いて雀を射るより、泥の弾丸の方がよい。白璧で飢えを癒そうとするより、粗末な食事の方がよい。犬の吠え声で裘を得て、鶏の鳴き声で関を開かせた。たとえ聖賢であっても、あの卑しい者たちには及ばない。細流も海に注ぎ、塵が積もれば丘となる。人を用いるにはその器に応じて用いよ、孟嘗君を見下してはならない、という趣旨。)

秦王の後悔

  • 樗里疾は孟嘗君が釈放されて帰国を許されたと聞き、すぐさま朝廷に駆け込み、昭襄王に会って言った。「王がもし田文を殺されぬのでしたら、せめて人質として留め置くべきでした。なぜお遣わしになったのですか。」
  • 秦王は大いに後悔し、すぐに人を急使として孟嘗君を追わせた。函谷関に至って客の名簿を調べたが、斉の使者田文の姓名はなかった。使者は「もしや間道を通って、まだ到着していないのではないか」と言った。半日待ったが、何の音沙汰もなかった。
  • そこで孟嘗君の風貌や賓客・車馬の数を述べた。関の役人は「もしそうであれば、今朝方関を出た者がそれでございましょう」と言った。使者は「まだ追いつけるだろうか」と言った。関の役人は「その速さは飛ぶがごとくで、今すでに百里も遠く去っております。追いつくことはできません」と言った。
  • 使者はそこで戻って秦王に報告した。王は嘆じて「孟嘗君には鬼神も測りかねる機知がある。まことに天下の賢士である」と言った。
  • のちに秦王が主藏の役人に白狐の裘を求めたが見つからず、燕姫がこれを着ているのを見て、その理由を問い質し、孟嘗君の客に盗まれたものであったと知り、再び嘆じて言った。「孟嘗君の門下は、まるで大都会の市場のようで、無いものはない。我が秦国にはとても及ぶものがない。」
  • ついにその裘を燕姫に賜り、主藏の役人を罰しなかった。
  • 孟嘗君が無事に帰国できたかどうかは分からない。続きは次回で明かされる。
原文(底本)
話說趙武靈王身長八尺八寸,龍顏鳥噣,廣鬢虯髯,面黑有光,胸開三尺,氣雄萬夫,志吞四海。即位五年,娶韓女為夫人,生子曰章,立為太子。至十六年,因夢美人鼓琴,心慕其貌,次日,向群臣言之。大夫胡廣自言其女孟姚,善於琴。武靈王召見於大陵之臺,容貌宛如夢中所見,因使鼓琴,大悅之,納於宮中,謂之吳娃,生子曰何。及韓后薨,竟立吳娃為后,廢太子章,而立何為太子。武靈王自念趙國北邊於燕,東邊於胡,西邊於林胡樓煩,與趙為鄰,而秦止一河之隔,居四戰之地,恐日就微弱。乃身自胡服,革帶皮靴,使民皆效胡俗,窄袖左衽,以便騎射。國中無貴賤,莫不胡服者。廢車乘馬,日逐射獵,兵以益強。武靈王親自帥師略地,至於常山,西極雲中,北盡雁門,拓地數百里。遂有吞秦之志,欲取路雲中,自九原而南,竟襲咸陽。以諸將不可專任,不若使其子治國事,而出其身經略四方。乃使群臣大朝於東官,傳位於太子何,是為惠王。武靈王自號曰主父。(主父者,猶後世稱太上皇也。)使肥義為相國,李兌為太傅,公子成為司馬。封長子章以安陽之地,號安陽君,使田不禮為之相。(此周赧王十七年事也。)主父欲窺秦之山川形勢,及觀秦王之為人,乃詐稱趙國使者趙招,賷國書來告立君於秦國。攜工數人,一路圖其地形﹔竟入咸陽,來謁秦王。昭襄王問曰:「汝王年齒幾何?」對曰:「尚壯。」又問曰:「既在壯年,何以傳位於子?」對曰:「寡君以嗣位之人,多不諳事,欲及其身,使嫻習之。寡君雖為『主父』,然國事未嘗不主裁也。」昭襄王曰:「汝國亦畏秦乎?」對曰:「寡君不畏秦,不胡服習騎射矣。今馳馬控弦之士,十倍昔年,以此待秦,或者可終徼盟好。」昭襄王見其應對鑿鑿,甚相敬重。使者辭出就館。昭襄王睡至中夜,忽思趙使者形貌魁梧軒偉,不似人臣之相,事有可疑,展轉不寐。天明,傳旨宣趙招相見。其從人答曰:「使人患病,不能入朝,請緩之。」過三日,使者尚不出。昭襄王怒,遣吏迫之。吏直入舍中,不見使者,止獲從人,自稱真趙招,乃解到昭襄王面前。王問:「汝既是真趙招,使者的係何人?」對曰:「實吾王主父也。主父欲睹大王威容,故詐稱使者而來,今已出咸陽三日矣。特命臣招待罪於此。」昭襄王大驚,頓足曰:「主父大欺吾也!」即使涇陽君同白起領精兵三千,星夜追之。至函谷關,守關將士言:「趙國使者,於三日前已出關矣。」涇陽君等回復秦王,秦王心跳不寧者數日,乃以禮遣趙招還國。髯翁有詩云:

    分明猛虎踞咸陽,誰敢潛窺函谷關?不道龍顏趙主父,竟從堂上認秦王。

  次年,主父復出巡雲中,自代而西,收兵於樓煩。築城於靈壽,以鎮中山,名趙王城。吳娃亦於肥鄉築城,號夫人城。是時趙之強,甲於三晉。其年,楚懷王自秦來奔,惠王與群臣計議,恐觸秦怒,且主父遠在代地,不敢自專,遂閉關不納。懷王計窮,欲南奔大梁。秦兵追及之,復與涇陽君俱至咸陽。懷王憤甚,嘔血斗餘,遂發病,未幾而薨。秦乃歸其喪於楚。楚人憐懷王為秦所欺,客死於外,百姓往迎喪者,無不痛哭,如悲親戚。諸侯咸惡秦之無道,復為「合從」以擯秦。

  楚大夫屈原痛懷王之死,繇子蘭靳尚誤之,今日二人,仍舊用事,君臣貪於苟安,絕無報秦之志,乃屢屢進諫,勸頃襄王進賢遠佞,選將練兵,以圖雪懷王之恥。子蘭悟其意,使靳尚言於頃襄王曰:「原自以同姓不得重用,心懷怨望,且每向人言大王忘秦仇為不孝,子蘭等不主張伐秦為不忠。」頃襄王大怒,削屈原之職,放歸田里。原有姊名嬃,已遠嫁,聞原被放,乃歸家,訪原於夔之故宅。見原被髮垢面,形容枯槁,行吟於江畔,乃喻之曰:「楚王不聽子言,子之心已盡矣!憂思何益?幸有田畝,何不力耕自食,以終餘年乎?」原重違姊意,乃秉耒而耕,里人哀原之忠者,皆為助力。月餘,姊去,原嘆曰:「楚事至此,吾不忍見宗室之亡滅!」忽一日,晨起,抱石自投汨羅江而死。其日乃五月五日。里人聞原自溺,爭掉小舟,出江拯救,已無及矣。乃為角黍投於江中以祭之,繫以彩線,恐為蛟龍所攖食也。又龍舟競渡之戲,亦因拯救屈原而起,至今自楚至吳,相沿成俗。屈原所耕之田,獲米如白玉,因號曰:「玉米田」。里人私為原立祠,名其鄉曰姊歸鄉。今荊州府有歸州,亦因姊歸得名也。至宋元豐中,封原為清烈公,兼為其姊立廟,號姊歸廟,後復加封原為忠烈王。髯翁有過《忠烈王廟詩》云:

    峨峨廟貌立江傍,香火爭趨忠烈王﹔佞骨不知何處朽,龍舟歲歲弔滄浪。

  再說趙主父出巡雲中,回至邯鄲,論功行賞,賜通國百姓酒餔五日。是日,群臣畢集稱賀。主父使惠王聽朝,自己設便坐於傍,觀其行禮。見何年幼,服兗冕南面為王,長子章魁然丈夫,反北面拜舞於下,兄屈於弟,意甚憐之。朝既散,主父見公子勝在側,私謂曰:「汝見安陽君乎?雖隨班拜舞,似有不甘之色。吾分趙地為二,使章為代王,與趙相並,汝以為何如?」趙勝對曰:「王昔日已誤矣!今君臣之分已定,復生事端,恐有爭變!」主父曰:「事權在我,又何慮哉?」主父回宮,夫人吳娃見其色變,問曰:「今日朝中有何事?」主父曰:「吾見故太子章,以兄朝弟,於理不順,欲立為代王,勝又言其不便,吾是以躊躇而未決也。」吳娃曰:「昔晉穆侯生二子,長曰仇,弟曰成師,穆侯薨,子仇嗣立,都於翼,封其弟成師於曲沃,其後曲沃益強,遂盡滅仇之子孫,并吞翼國。此主父所知也。成師為弟,尚能戕兄,況以兄而臨弟,以長而臨少乎?吾母子且為魚肉矣!」主父惑其言,遂止。有侍人舊曾服事故太子章於東宮者,聞知主父商議之事,乃私告於章。章與田不禮計之。不禮曰:「主父分王二子,出自公心,特為婦人所阻耳。王年幼,不諳事,誠乘間以計圖之,主父亦無如何也。」章曰:「此事惟君留意,富貴共之!」太傅李兌與肥義相善,密告曰:「安陽君強壯而驕,其黨甚眾,且有怨望之心。田不禮剛狠自用,知進而不知退。二人為黨,行險僥倖,其事不遠。子任重而勢尊,禍必先及,何不稱病,傳政於公子成,可以自免。」肥義曰:「主父以王屬義,尊為相國,謂義可託安危也。今未見禍形,而先自避,不為荀息所笑乎?」李兌嘆曰:「子今為忠臣,不得復為智士矣。」因泣下,久之,別去。肥義思李兌之言,夜不能寐,食不下咽,展轉躊躇,未得良策,乃謂近侍高信曰:「今後若有召吾王者,必先告我。」高信曰:「諾。」

  忽一日,主父與王同遊於沙邱,安陽君章亦從行。那沙邱有臺,乃商紂王所築。有離宮二所,主父與王各居一宮,相去五六里,安陽君之館適當其中。田不禮謂安陽君曰:「王出遊在外,其兵眾不甚集。若假以主父之命召王,王必至。吾伏兵於中途,要而殺之,因奉主父以撫其眾,誰敢違者!」章曰:「此計甚妙!」即遣心腹內侍,偽為主父使者,夜召惠王曰:「主父卒然病發,欲見王面,幸速往!」高信即走告相國肥義,義曰:「王素無病,事可疑也。」乃入謂王曰:「義當以身先之,俟無他故,王乃可行。」又謂高信曰:「緊閉宮門,慎勿輕啟。」肥義與數騎隨使者先行,至中途,伏兵誤以為王,群起盡殺之。田不禮舉火驗視,乃肥義也。田不禮大驚曰:「事已變矣!及其機未露,宜悉眾乘夜襲王,幸或可勝。」於是奉安陽君以攻王。高信因肥義吩咐,已預作準備。田不禮攻王宮不能入。至天明,高信使從軍乘屋發矢,賊多傷死者。矢盡,乃飛瓦下擲之。田不禮命取巨石繫於木,以撞宮門,譁聲如雷。惠王正在危急,只聽得宮外喊聲大舉,兩隊軍馬殺來,賊兵大敗,紛紛而散。原來是公子成李兌在國中商議,恐安陽君乘機為亂,各率一枝軍前來接應,正遇著賊圍王宮,解救了此難。安陽君兵敗,謂田不禮曰:「今當如何?」不禮曰:「急走主父處涕泣哀求,主父必然相庇,吾當力拒追兵。」章從其言,乃單騎奔主父宮中,主父果然開門匿之,殊無難色。田不禮驅殘兵再與成兌交戰,眾寡不敵,不禮被兌斬之。兌度安陽君無處託身,必然往投主父,乃引兵前圍主父之宮。打開宮門,李兌仗劍當先開路,公子成在後,入見主父,叩頭曰:「安陽君反叛,法所不宥,願主父出之。」主父曰:「彼未嘗至吾宮中,二卿可他覓也。」兌成再四告稟,主父並不統口。李兌曰:「事已至此,當搜簡一番,即不得賊,謝罪未晚。」公子成曰:「君言是也。」乃呼集親兵數百人,遍搜宮中,於複壁中得安陽君,牽之以出。李兌遽拔劍擊斷其頭。公子成曰:「何急也?」兌曰:「若遇主父,萬一見奪,抗之則非臣禮,從之則為失賊,不如殺之。」公子成乃服。李兌提安陽君之首,自宮內出,聞主父泣聲,復謂公子成曰:「主父開宮納章,心已憐之矣!吾等以章故,圍主父之宮,搜章而殺之,無乃傷主父之心?事平之後,主父以圍宮加罪,吾輩族滅矣!王年幼不足與計,吾等當自決也。」乃吩咐軍士:「不許解圍。」使人詐傳惠王之令曰:「在宮人等,先出者免罪﹔後出者即係賊黨,夷其族!」從宮及內侍等,聞王令,爭先出宮,單單剩得主父一人。主父呼人,無一應者,欲出,則門已下鑰矣。一連圍了數日,主父在宮中餓甚,無從取食。庭中樹有雀巢,乃探其卵生啖之,月餘餓死。髯仙有詩嘆曰:

    胡服行邊靖虜塵,雄心直欲并西秦﹔吳娃一脈能胎禍,夢里琴聲解誤人。

  主父既死,外人未知。李兌等尚不敢入,直待三月有餘,方纔啟鑰入視,主父屍身已枯癟矣。公子成奉惠王往沙邱宮,視殮發喪,葬於代地。今靈邱縣,以葬武靈王得名也。惠王回國,以公子成為相國,李兌為司寇。未幾,公子成卒,惠王以公子勝曾阻主父分王之謀,乃用為相國,封以平原,號為平原君。

  平原君亦好士,有孟嘗君之風。既貴,益招致賓客,坐食者常數千人。平原君之府第,有畫樓,置美人於上。其樓俯臨民家,民家之主人有躄疾,曉起蹣跚而出汲,美人於樓上望見,大笑。少頃,躄者造平原君之門,請見。公子勝揖而進之。躄者曰:「聞君之喜士,士所以不遠千里集於君之門者,以君貴士而賤色也。臣不幸有罷癃之病,不良於行,君之後宮,乃臨而笑臣。臣不甘受婦人之辱,願得笑臣者之頭!」勝笑應曰:「諾。」躄者去。平原君笑曰:「愚哉此豎也!以一笑之故,遂欲殺吾美人乎?」平原君門下有個常規:主客者,每月一進客籍,稽客之多少,料算錢穀出入之數。前此客有增無減,至是日漸引去,歲餘客減半。公子勝怪之,乃鳴鐘大會諸客,問曰:「勝所以待諸君者,未嘗敢失禮,乃紛紛引去,何也?」客中一人前對曰:「君不殺笑躄之美人,眾皆咈然,以君愛色而賤士,所以去耳。臣等不日亦將辭矣!」平原君大驚,引罪曰:「此勝之過也!」即解佩劍,令左右斬樓上美人之頭,自造躄者之門,長跽請罪。躄者乃喜。於是門下皆稱頌平原君之賢,賓客復聚如初。時人為三字語云:

    食我飽,衣我溫,息其館,遊其門。齊孟嘗,趙平原,佳公子,賢主人。

  時秦昭襄王聞平原君斬美人謝躄之事,一日,與向壽述之,嗟嘆其賢。向壽曰:「尚不及齊孟嘗君之甚也!」秦王曰:「孟嘗君如何?」向壽曰:「孟嘗君自其父田嬰存日,即使主家政,接待賓客。賓客歸之如雲,諸侯咸敬慕之,請於田嬰以為世子。及嗣為薛公,賓客益盛,衣食與己無二,供給繁費,為之破產。士從齊來者,人人以為孟嘗君親己,無有間言。今平原容美人笑躄而不誅,直待賓客離心,乃斬頭以謝,不亦晚乎?」秦王曰:「寡人安得一見孟嘗君,與之同事哉?」向壽曰:「王如欲見孟嘗君,何不召之?」秦王曰:「彼齊相國也,召之安肯來乎?」向壽曰:「王誠以親子弟為質於齊,以請孟嘗君,齊信秦,不敢不遣。王得孟嘗君,即以為相,齊亦必相王之親子弟。秦齊互相,其交必合,然後共謀諸侯不難矣。」秦王曰:「善!」乃以涇陽君悝為質於齊:「願易孟嘗君來秦,使寡人一見其面,以慰飢渴之想。」賓客聞秦召,皆勸孟嘗君必行。時蘇代適為燕使於齊,謂孟嘗君曰:「今代從外來,見土偶人與木偶人相與語,木偶人謂土偶人曰:『天方雨,子必敗矣!奈何!』土偶人笑曰:『我生於土,敗則仍還於土耳。子遭雨漂流,吾不知其所底也!』秦,虎狼之國,楚懷王猶不返,況君乎?若留君不遣,臣不知君之所終矣。」孟嘗君乃辭秦不欲行。匡章言於湣王曰:「秦之效質而求見孟嘗君,欲親齊也。孟嘗君不往,失秦懽矣!雖然,留秦之質,猶為不信秦也。王不如以禮歸涇陽君於秦,而使孟嘗君聘秦,以答秦之禮。如是,則秦王必聽信孟嘗君,而厚於齊。」湣王以為然。謂涇陽君曰:「寡人行將遣相國文,行聘於上國,以候秦王之顏色,豈敢煩貴人為質?」即備車乘送涇陽君還秦,而使孟嘗君行聘於秦。

  孟嘗君同賓客千餘人,車騎百餘乘,西入咸陽,謁見秦王。秦王降階迎之,握手為歡,道平生相慕之意。孟嘗君有白狐裘,毛深二寸,其白如雪,價值千金,天下無雙。以此為私禮,獻於秦王。秦王服此裘入宮,誇於所幸燕姬。燕姬曰:「此裘亦常有,何以足貴?」秦王曰:「狐非數千歲色不白。今之白裘,皆取狐腋下一片,補綴而成。此乃純白之皮,所以貴重,真無價之珍也。齊乃山東大國,故有此珍服耳。」時天氣尚煖,秦王解裘付主藏吏,吩咐珍藏,以俟進御。擇日將立孟嘗君為丞相。樗里疾忌孟嘗君見用,恐奪其相權,乃使其客公孫奭說秦王曰:「田文,齊族也,今相秦,必先齊而後秦。夫以孟嘗君之賢,其籌事無不中,又加以賓客之眾,而借秦權以陰為齊謀,秦其危矣!」秦王以其言問於樗里疾。疾對曰:「奭言是也。」秦王曰:「然則遣之乎?」疾對曰:「孟嘗君居秦月餘,其賓客千人,盡已得秦鉅細之事,若遣之歸齊,終為秦害,不如殺之。」秦王惑其言,命幽孟嘗君於館舍。涇陽君在齊時,孟嘗君待之甚厚,日具飲食,臨行,復餽以寶器數事,涇陽君甚德之。至是,聞秦王之謀,私見孟嘗君言其事。孟嘗君懼而問計。涇陽君曰:「王計尚未決也。宮中有燕姬者,最得王心,所言必從。君攜有重器,吾為君進於燕姬,求其一言,放君還國,則禍可免矣。」孟嘗君以白璧二雙,託涇陽君獻於燕姬求解。燕姬曰:「妾甚愛白狐裘,聞山東大國有之,若有此裘,妾不惜一言,不願得璧也。」涇陽君回報孟嘗君。孟嘗君曰:「只有一裘,已獻秦王,何可復得?」遍問賓客:「有能復得白狐裘者否?」眾皆束手莫對。最下坐有一客,自言:「臣能得之。」孟嘗君曰:「子有何計得裘?」客曰:「臣能為狗盜。」孟嘗君笑而遣之。客是夜裝束如狗,從竇中潛入秦宮庫藏,為狗吠聲。主藏吏以為守狗,不疑。客伺吏睡熟,取身邊所藏鑰匙,逗開藏櫃,果得白狐裘,遂盜之以出,獻於孟嘗君。孟嘗君使涇陽君轉獻燕姬,燕姬大悅。值與王夜飲方懽,遂進言曰:「妾聞齊有孟嘗君,天下之大賢也!孟嘗君方為齊相,不欲來秦,秦請而致之,不用則已矣,乃欲加誅?夫請人國之相,而無故誅之,又有戮賢之名,妾恐天下賢士,將裹足而避秦也!」秦王曰:「善。」明日御殿,即命具車馬,給驛券,放孟嘗君還齊。孟嘗君曰:「吾僥倖燕姬之一言,得脫虎口,萬一秦王中悔,吾命休矣。」客有善為偽券者,為孟嘗君易券中名姓,星馳而去。至函谷關,夜方半,關門下鑰已久。孟嘗君慮追者或至,急欲出關。關開閉,俱有常期,人定即閉,雞鳴始開。孟嘗君與賓客咸擁聚關內,心甚惶迫。忽聞雞鳴聲自客隊中出。孟嘗君怪而視之,乃下客一人,能效雞聲者。於是群雞盡鳴。關吏以為天且曉,即起驗券開關。孟嘗君之眾,復星馳而去。謂二客曰:「吾之得脫虎口,乃狗盜雞鳴之力也!」眾賓客自愧無功,從此不敢怠慢下坐之客。髯翁有讚曰:

    明珠彈雀,不如泥丸﹔白璧療飢,不如壺餐。狗吠裘得,雞鳴關啟﹔雖為聖賢,不如彼鄙。細流納海,累塵成岡﹔用人惟器,匆陋孟嘗。

樗里疾聞孟嘗君得放歸國,即趨入朝,見昭襄王曰:「王即不殺田文,亦宜留以為質,奈何遣之?」秦王大悔,即使人馳急傳追孟嘗君,至函谷關,索出客籍閱之,無齊使田文姓名。使者曰:「得無從間道,尚未至乎?」候半日,杳無影響。乃言孟嘗君狀貌及賓客車馬之數。關吏曰:「若然,則今早出關者是矣。」使者曰:「還可追否?」關吏曰:「其馳如飛,今已去百里之遠,不可追也。」使者乃還報秦王。王嘆曰:「孟嘗君有鬼神不測之機,果天下賢士也!」後秦王索狐白裘於主藏吏不得,及見燕姬服之,因叩其故,知其為孟嘗君之客所盜,復嘆曰:「孟嘗君門下,如通都之市,無物不有。吾秦國未有其比!」竟以裘賜燕姬,不罪主藏吏。不知孟嘗君歸國如何,且看下回分解。

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