東周列國志第百零一回 秦王、周を滅ぼして九鼎を遷す/廉頗、燕を破って二将を斬る (秦王滅周遷九鼎 廉頗敗燕斬二將)
鄭安平の降伏と范睢の庇護
- 鄭安平が兵を率いて魏に降ったので、応侯范睢はその推薦者であったから、法により連座すべき立場にあり、藁筵に座して罪を待った。
- 秦王は「安平を任用したのは、もとより寡人の意向によるもので、丞相には関わりがない」と言い、再三慰撫して、そのまま職に復させた。
- 群臣がこの件について盛んに議論するので、秦王は范睢の心中が穏やかでなくなることを恐れ、国中に令を下して言った、「鄭安平には罪があり、その一族はすでに誅滅した。もはや論ずるな。もし再びこの件を口にする者があれば、即座に斬首する」と。国人はこれ以後あえて再びこの件を言わなくなった。
- 秦王は范睢に食物を賜り、平常より手厚くした。応侯は甚だ心苦しく思い、秦王に周を滅ぼして帝を称するよう説き、これによって取り入ろうとした。そこで張唐を大将とし、韓を討たせ、まず陽城を取って三川への道を通じようとした。
楚考烈王と春申君の合従の議
- 楚の考烈王は信陵君が秦軍を大破し、春申君黄歇が功なくして軍を引き返したことを聞き、嘆いて言った、「平原君の『合従』の謀は、根拠のない言葉ではなかった。寡人は信陵君を将とすることができなかったのを恨む。どうして秦人を憂えることがあろうか」と。
- 春申君は恥じ入った顔つきで進み出て言った、「先に『合従』の議論があったとき、大王が盟主でございました。今、秦の兵は新たに挫かれ、その気勢はすでに奪われております。大王が誠に使者を発して列国と約を結び、力を合わせて秦を攻め、さらに周王を説いて盟主として奉り、天子を擁してその名のもとに誅討の声を挙げるならば、五伯の功も語るに足りないものとなりましょう」と。
- 楚王は大いに喜び、すぐに使者を周に遣わし、秦を伐つ謀を赧王に告げた。赧王はすでに秦王が三川を通じようと欲しており、その意図が周を伐つことにあると聞いていたので、今日秦を伐つ話は、まさに『兵法』にいう「先んじて発すれば人を制す」の言葉に合致する、どうして従わないでいられようか。楚王はそこで五国と合従の約を定め、期日を刻んで大挙することとした。
周赧王の窮乏と「避債台」
- このとき周の赧王はかねてより微弱で、天子の位にありながら、ただ空名を守るばかりで、号令を発することができなかった。韓・趙は周の地を二つに分け、雒邑の河南王城を西周とし、鞏を本拠としてこれに成周を附したものを東周とし、両周公にそれぞれ治めさせていた。赧王は成周から王城に移り、西周公に頼って住まい、手をこまねいているばかりであった。
- ここに至り、兵を発して秦を攻めようとし、西周公に命じて丁を徴発させたが、わずかに五六千人を得るのみで、なお車馬の費用すら賄えなかった。そこで国中の富裕な者を訪ね、貸借して軍資とし、彼らと証文を結び、兵を引き上げる日に得た戦利品の中から利子を出して償還すると約束した。
- 西周公は自らその軍を率い、伊闕に屯して諸侯の兵を待った。このとき韓はちょうど兵禍を被っており自らを顧みる余裕がなく、趙は囲みが解かれたばかりで残る恐れがまだ消えず、斉は秦と和好していて同調を望まなかった。ただ燕将楽閒、楚将景陽の二軍だけが先に到着し、共に陣を並べて様子見をしていた。
- 秦王は各国の人心が一致せず進撃の意志がないと聞き、ますます兵を発して張唐を助けさせ、陽城を攻め落とし、別に将軍嬴樛を遣わして函谷関の外に十万の兵を耀かせた。燕・楚の兵は、三月余り屯していたが、他国の兵が集まらないのを見て軍心が緩み、それぞれ兵を引き上げた。西周公も兵を引いて帰った。
- 赧王は出兵を一度行ったが、ただ無益に費えを出しただけであった。富民たちはみな証文を持って償還を求め、日々宮門に群集し、その罵り声は内寝にまで直に達した。赧王は恥じ入り、応じるすべもなく、高台に避難した。後世の人はその台を名づけて「避債台」と呼んだ。
秦、西周を滅ぼし赧王没す、九鼎を咸陽に遷す
- さて秦王は燕・楚の兵が散じたと聞き、すぐに嬴樛に張唐と兵を合わせ、陽城の道を取って西周を攻めさせた。赧王は兵員も食糧もともに欠き、防ぎ守ることができず、三晋に逃げようとした。
- 西周公は進み出て言った、「昔、太史儋が言いました、『周と秦は五百年にして合し、覇王たる者が出る』と。今がまさにその時です。秦には天下を統一する勢いがあり、三晋も遠からず秦の有となりましょう。王はこれ以上辱めを受けてはなりません。土地を捧げて自ら帰服するに越したことはございません、それでも宋の封に劣らぬものが残りましょう」と。
- 赧王は施す策もなく、群臣と子や甥たちを率いて文武の廟で三日間哭泣し、残っている領地の地図を捧げ持って、自ら秦軍に赴いて献上し、自ら身を縛って咸陽に降ることを願った。嬴樛はその献上を受け取った。合わせて三十六城、戸数三万であった。
- 西周の所属地はすでに尽き、ただ東周のみが残った。嬴樛はまず張唐に赧王の君臣・子孫を護送させて秦に入り勝利を奏上させ、自ら軍を率いて雒陽城に入り、地界を経略した。赧王は秦王に謁見し、額を地につけて拝し、罪を詫びた。
- 秦王は心中これを憐れみ、梁城を赧王に封じ、周公に降格させ、属国に准じる扱いとした。もとの西周公は家臣に降格された。東周公は爵を貶されて君となり、東周君と呼ばれた。赧王は年老いており、周と秦の間を往来して労苦に堪えなかった。梁城に至って一月を経ずして病死した。秦王はその国を廃した。
- また嬴樛に命じて雒陽の丁壮を徴発させ、周の宗廟を毀し、その祭器を運ばせ、あわせて九鼎を運んで咸陽に安置しようとした。秦に役されるのを望まない周の民は、みな鞏城へ逃げ、東周公に頼って住んだ。ここにも人心が周を忘れがたく思うことが見て取れる。
- 鼎を遷す前日、居民は鼎の中から泣き声が聞こえたと言った。泗水まで運んだとき、一つの鼎が突然舟中から水底に飛び沈んだ。嬴樛は人を潜らせて探させたが、その者は鼎を見つけられず、ただ一頭の蒼龍を見ただけであった。鱗と鬣を怒らせ逆立て、たちまち波濤が沸き立ち、舟人は恐れて近づこうとしなかった。
- 嬴樛はその夜、周の武王が太廟に座しているのを夢に見た。武王は樛を召し寄せ、これを責めて言った、「お前はどうして私の重器を遷し、私の宗廟を毀してよいものか」と。左右に命じてその背中を三百回鞭打たせた。嬴樛は夢から覚めると、たちまち背中に疽を患い、病を押して秦に帰り、八鼎を秦王に献上し、あわせてその一部始終を奏上した。
- 秦王が失った鼎を調べると、まさに豫州の鼎であった。秦王は嘆いて言った、「地はことごとく秦に入ったのに、鼎だけは寡人に従わないのか」と。多くの兵卒を発してさらに取りに行かせようとしたが、嬴樛が諫めて言った、「これは霊のある神物です、再び取りに行くことはできません」と。秦王はそこでやめた。嬴樛はついに疽により死んだ。
- 秦王は八鼎と祭器を秦の太廟の中に陳列し、雍州で上帝を郊祀し、列国に布告して、みな朝貢し祝賀に来るべきこと、来朝して臣従しない国は討伐すると告げた。韓の桓恵王が真っ先に入朝し、頭を地につけて拝礼し、臣を称した。斉・楚・燕・趙はみな国相を遣わして祝賀に来た。ただ魏国の使者だけがまだ到着しなかった。
- 秦王は河東守王稽に命じて兵を率いさせ魏を襲わせた。王稽は普段から魏と通じており、密かに金銭を受け取っていたため、この事を漏らしてしまった。魏王は恐れ、使者を遣わして謝罪し、太子増を人質として秦に送り、国事を秦の指図に委ねた。これより六国はみな秦に服従した。時は秦の昭襄王の五十二年であった。
- 秦王は魏に通じた事件を追及し、王稽を召して誅殺した。范睢はますます不安になった。
蔡沢、范睢に相印を譲らせる
- ある日、秦王は朝廷に臨んで嘆息した。范睢が進み出て言った、「臣は聞いております、『主が憂えれば臣は辱を受け、主が辱められれば臣は死ぬ』と。今大王が朝に臨んで嘆かれるのは、臣らが職責を果たしておらず、大王のために憂いを分かつことができないためです。臣、あえて罪を請います」と。秦王は言った、「物事は普段から備えていなければ、突発事に応じることができない。今、武安君は誅されて死に、鄭安平は背いた。外には強敵が多く、内には良将がいない。寡人はこれゆえに憂えているのだ」と。范睢は恥じ入り恐れ、返答もできずに退出した。
- このとき燕人に蔡沢という者がいた。博学で弁が立ち、自負が甚だ高く、ぼろ車に乗って諸侯に遊説したが、遇う者がなかった。大梁に至り、人相見の上手な唐挙に出会い、問うて言った、「私が聞くところでは、先生はかつて趙の李兌の人相を見て、『百日以内に国政を握る』と言われ、果たしてその通りになったとのこと、本当ですか」と。唐挙は「その通りだ」と答えた。蔡沢は「私のような者は、先生が見てどうお思いになりますか」と言った。唐挙はじっと見て笑い、言った、「先生の鼻は蝎虫のようで、肩は項より高く、顔は醜く眉根を寄せ、両膝は曲がっている。私は『聖人には人相がない』と聞くが、まさか先生がそれか」と。蔡沢は唐挙がからかっているのを知り、言った、「富貴は私が自ら持っているものだ。私が知らないのはただ寿命だけだ」と。唐挙は「先生の寿命は、今より後四十三年です」と言った。蔡沢は笑って言った、「私が粱の飯を食い肥肉を噛み、車に乗り馬を躍らせ、黄金の印を懐にし紫綬を腰に結び、人主の前で揖譲の礼を交わす顕官として立つのが、四十三年もあれば十分だ。なお何を求めようか」と。
- その後さらに韓・趙に遊説したがうまくいかず、魏に戻る途中、郊外で盗賊に遭い、釜や蒸し器をすべて奪われ、炊事もできず、木の下で休んでいると、再び唐挙に出会った。唐挙はからかって言った、「先生はまだ富貴になっていないのか」と。蔡沢は「今まさに探しているところだ」と言った。唐挙は「先生は金水の骨相を持ち、西方で発するはずだ。今、秦の丞相応侯が用いた鄭安平・王稽は、いずれも重罪を得て、応侯は甚だ恥じ恐れており、必ず急いで肩の荷を下ろしたがっている。先生はなぜ一度行ってみないのか、こんな所で困り果てているのか」と言った。蔡沢は「道が遠く至りがたい、どうしようか」と言った。唐挙は袋の中から金数枚を取り出して贈った。蔡沢はその援助を得て、そこで西へ咸陽に入った。
- 宿の主人に言った、「お前は必ず白い粱の飯、必ず肥えた肉を食わせよ。私が丞相になった時には、必ず厚く報いよう」と。主人は「客人は何者だ、丞相になるつもりか」と言った。沢は言った、「私は姓を蔡、名を沢という。天下の雄弁で智謀のある士であり、特に秦王にお目にかかりに来た。秦王が一目私を見れば、必ず私の説を悦び、応侯を退けて私に代えるだろう。宰相の印はすぐにも私の腰にかかることになろう」と。主人はその狂気じみた話を笑い、人々に話した。応侯の食客がその話を聞き、范睢に伝えた。
- 范睢は言った、「五帝三代の事、百家の説、私が聞いていないものはない。衆口の弁も私に会えば屈する。あの蔡沢なる者が、どうして秦王を説いて私の宰相の印を奪えようか」と。そこで人を旅宿に遣わして蔡沢を召した。主人は沢に言った、「客人に禍が至りましたぞ。客人が応侯に代わって相になろうと言い触らしたのが、今応侯の府から召しがあったのです。先生がもし行けば、必ず大きな辱めを受けます」と。蔡沢は笑って言った、「私が応侯に会えば、彼は必ず私に宰相の印を譲るだろう。秦王に会う必要さえない」と。主人は「客人はあまりに狂っている、私を巻き添えにしないでくれ」と言った。
- 蔡沢は布衣に草鞋履きで、范睢に会いに行った。睢は足を投げ出して尊大に座ったまま彼を迎えた。蔡沢は両手を組んで会釈するだけで、拝礼しなかった。范睢もまた座るよう命じず、厳しい声で問い詰めて言った、「外で言い触らして、私に代わって丞相になろうとしているのはお前か」と。蔡沢は傍らに端然と立って言った、「その通りだ」と。范睢は「お前にどんな言い分があって、私の爵位を奪うことができるのか」と言った。
- 蔡沢は言った、「ああ、あなたの見識はなんと遅いことか。四季の巡りでは、成功した者は退き、来るべき者が進む。あなたは今こそ退くべき時だ」と。范睢は「私が自ら退かなければ、誰が私を退けられようか」と言った。蔡沢は言った、「そもそも人がその身体強健で、手足が自在に動き、聡明で聖智があり、道を行い徳を天下に施せば、世に敬慕され賢豪とされる者ではないでしょうか」と。范睢は「その通りだ」と答えた。蔡沢はまた言った、「すでに天下に志を得て、しかも安楽長寿、天寿を全うし、高官としての代々の俸禄を子孫に伝え、代々絶えることなく、天地とともに終始する、これこそ世にいう吉祥善事というものではないでしょうか」と。范睢は「その通りだ」と言った。
- 蔡沢は言った、「もし秦の商君、楚の呉起、越の大夫種のように、功を成しながらも自らの死に方を得られなかった場合、あなたはそれでも願うものでしょうか」と。范睢は心中ひそかに思った、「この人は利害を語り、次第に迫ってくる。もし願わないと言えば、その説術の術中に落ちてしまう」と。そこで偽って答えて言った、「何の願わない理由があろうか。公孫鞅は孝公に仕え、公を尽くして私なく、法を定めて国中を治め、秦のために千里の地を拓いた。呉起は楚の悼王に仕え、王室の縁者を退けて戦士を養い、南は呉越を平らげ、北は三晋を退けた。大夫種は越王に仕え、弱きを転じて強とし、強大な呉を併呑し、その主のために会稽の恨みを晴らした。彼らはその死に方を得られなかったとはいえ、立派な男子が身を殺して仁を成すのは、死を帰するがごとく視るものであり、功は当時にあり、名は後世に垂れる。何が願わないことがあろうか」と。
- このとき范睢は口では強がっていたが、座に安んじていられず、立ち上がって聞いていた。蔡沢は答えて言った、「主が聖で臣が賢であるのは、国の福です。父が慈で子が孝であるのは、家の福です。孝子たる者、誰が慈父を得ることを願わないでしょうか。賢臣たる者、誰が明君を得ることを願わないでしょうか。比干は忠であったが殷は滅び、申生は孝であったが国は乱れました。身はむごい死に方をしながら、君父の助けにならなかったのはなぜでしょうか。その君父が明でも慈でもなかったからです。商君・呉起・大夫種もまた不幸にして死んだだけであり、どうして死を求めて後世の名を成そうとしたでしょうか。比干は割かれて微子は去り、召忽は戮せられて管仲は生きました。微子・管仲の名が、どうして比干・召忽に劣ることがありましょうか。ですから立派な男子の処世は、身と名がともに全うされるのが上、名は伝わるが身は死ぬのがその次、ただ名が辱められて身だけが全うされるのが下というものです」と。
- この一段の話は范睢の胸中を爽快にし、思わず席を離れ、堂を降りて「善し」と口にした。蔡沢はまた言った、「あなたは商君・呉起・大夫種の殺身成仁を願うべきものとお考えですが、しかし文王に仕えた閎夭、成王を輔けた周公と比べてどちらがましでしょうか」と。范睢は「商君らはそれに及ばない」と言った。蔡沢は「それでは今の王が忠良を信任し、故旧を厚く遇するさまは、秦の孝公や楚の悼王と比べてどうでしょうか」と言った。范睢はしばらく考え込み「まだどちらとも分からない」と言った。
- 蔡沢は「あなたご自身で見積もって、国家に対する功績と、はかりごとに失策のない点とでは、商君・呉起・大夫種と比べてどうでしょうか」と言った。范睢はまた「私は彼らに及ばない」と言った。蔡沢は言った、「今の王が功臣を親しみ信任することは、秦の孝公・楚の悼王・越王句践を超えるものではなく、しかもあなたの功績は商君・呉起・大夫種に及びません。それなのにあなたの禄位の盛んなことは度を過ぎ、私家の富は彼ら三人の倍もあります。このように盛りのうちに身を退いて自ら全うする策を考えないなら、あの三人でさえ禍を免れなかったのに、まして今のあなたはなおさらではないでしょうか。翡翠・鵠・犀・象は、その処する立場が死から遠くないわけではないのに、それでも死ぬのは、餌に惑わされるからです。蘇秦・智伯の智恵は、自らを守るに十分でなかったわけではないのに、それでも死んだのは、利欲に惑わされて止まらなかったからです。あなたは一介の匹夫、徒歩の身から秦王に知遇を得て、位は上相に至り、富貴はすでに極まっています。怨みにはすでに報い、恩にはすでに報いたのです。それでもなお権勢と利益に貪り執着し、進むばかりで退かなければ、蘇秦や智伯の禍が免れられないのではと恐れます。ことわざにも『日中すれば必ず移り、月満つれば必ず虧く』とあります。あなたはなぜこの時に宰相の印を返上し、賢者を選んでこれを薦めないのですか。薦めた者が賢であれば、薦めたあなたの名はますます重くなります。あなたが名目上は栄誉を辞退しても、実質は肩の荷を下ろすことになる。そうして山川の楽しみを尋ね、王子喬や赤松子のような長寿を享受し、子孫代々長く応侯として続く方が、権勢の重みに拠って測り知れない禍を踏む結果よりましではないでしょうか」と。
- 范睢は言った、「先生は自ら雄弁で智謀があるとおっしゃったが、今まさにその通りである。睢はあえて命を受け入れないことがあろうか」と。そこで上座に招き、賓客の礼をもって遇し、賓館に留めて酒食でもてなした。
- 翌日入朝し、秦王に奏上して言った、「客人で新たに山東より来た者がおります、蔡沢と申します。その人には王者・覇者を成さしめる才があり、時勢に通じ変化に達しており、秦国の政を委ねるに足ります。臣が見てきた人は非常に多いですが、匹敵する者がなく、臣は到底及びません。臣はあえて賢を隠すことなく、謹んで大王に薦めます」と。秦王は蔡沢を奥の御殿に召し、六国を併呑する計略について問うた。蔡沢は落ち着いて条を挙げて答え、秦王の意にかなった。即日、客卿に拝された。
- 范睢は病を理由に宰相の印の返上を願い出た。秦王はこれを許さなかった。睢はそこで病が篤いと称して起きなくなった。秦王はそこで蔡沢を丞相に拝し、范睢に代え、剛成君に封じた。睢は応の地で老いた。
燕、趙を攻める(栗腹の献策)
- 話は二筋に分かれる。さて燕は昭王が国を復して以来、在位三十三年で、王位を恵王に伝えた。恵王は在位七年で、武成王に伝えた。武成王は在位十四年で、孝王に伝えた。孝王は在位三年で、燕王喜に伝えた。喜が即位すると、その子丹を太子に立てた。
- 燕王喜の四年は、秦の昭襄王の五十六年である。この年、趙の平原君趙勝が卒し、廉頗を相国とし、信平君に封じた。燕王喜は趙国と国境を接していたので、その相国栗腹を遣わして平原君の喪を弔わせ、あわせて五百金を趙王への酒資とし、兄弟の誼を結ぶことを約した。
- 栗腹は趙王が厚く贈り物をすることを期待したが、趙王は通常の礼で応対しただけであった。栗腹は不満に思い、帰国して燕王に報告して言った、「趙は長平の敗戦以来、壮健な者はみな死に、遺児はまだ幼いのです。しかも相国は死んだばかりで、廉頗はすでに老いております。もし不意を突いて兵を分けて討てば、趙は滅ぼせましょう」と。
- 燕王はその言葉に惑わされ、昌国君楽閒を召してこれを問うた。閒は答えて言った、「趙は東は燕に隣接し、西は秦の境に接し、南は韓・魏と入り交じり、北は胡貊に連なっており、四方の地の民は兵事に習熟しています。軽々しく討伐すべきではありません」と。燕王は「私が三倍の兵で一を討つとしたらどうか」と言った。楽閒は「まだ不可です」と言った。燕王は「五倍で一を討つとしたらどうか」と言った。楽閒は答えなかった。燕王は怒って言った、「お前は父の墓が趙にあるから、攻めることを望まないのか」と。楽閒は「王がもし信じられないなら、臣に試させてください」と言った。
- 群臣は燕王の意に阿って、みな「天下にどうして五で一に勝てない者があろうか」と言った。大夫将渠だけが痛切に諫めて言った、「王はまず衆寡を言わず、まず理非曲直を言うべきです。王はちょうど趙と歓を交わし、五百金を趙王の寿として贈り、使者が帰って報告するや、すぐに攻めるというのは、不信不義であり、軍は必ず功を成せません」と。燕王はこれを聞き入れなかった。
- 栗腹を大将とし、楽乗をこれに佐けさせ、兵十万を率いて鄗を攻めさせた。慶秦を副将とし、楽閒をこれに佐けさせ、兵十万を率いて代を攻めさせた。燕王は自ら兵十万を率いて中軍とし、後方で後詰めとして呼応することとした。まさに車に乗ろうとしたとき、将渠が王の綬を手で引き止め、涙を垂らして言った、「趙を討つならば、大王自らは行かれませんように。御身に危害の及ぶことを恐れます」と。燕王は怒り、足で将渠を蹴った。渠はそのまま王の足を抱いて泣いて言った、「臣が大王をお留めするのは忠心からです。王がもしお聞き入れにならなければ、燕の禍が至るでしょう」と。燕王はますます怒り、将渠を獄に囚えるよう命じ、凱旋の日に殺すこととした。
- 三軍は道を分かって進み、旌旗は野を蔽い、殺気は空に立ち昇り、趙の土地を踏み平らげ、燕の版図を大きく広げることを一杯に望んでいた。
趙の迎撃準備
- 趙王は燕の兵が至ろうとしていると聞き、群臣を集めて策を問うた。相国廉頗が進んで言った、「燕は我らを敗戦の余で兵員が満たないと言っておりますが、もし国中に大いに恩賞を賜って士気を励まし、民の十五歳以上の者にみな武器を持たせて戦を助けさせれば、軍勢は一気に振るい、燕の気勢は自ら奪われましょう。栗腹は功を喜ぶばかりで、もとより将略はなく、慶秦は無名の小人物、楽閒・楽乗も昌国君の縁で燕趙の間を往来しているだけで、力を尽くそうとはしません。燕軍は容易に打ち破れましょう」と。そして雁門の李牧を推薦し、その才が将たり得ることを述べた。趙王は廉頗を大将とし、兵五万を率いさせて鄗で栗腹を迎え撃たせ、李牧を副将とし、兵五万を率いさせて代で慶秦を迎え撃たせた。
鄗の戦い、燕軍大敗
- さて廉頗の軍が房子城に至り、栗腹が鄗にいることを知ると、その壮丁をすべて鉄山に隠し、ただ老弱だけで陣営を構えた。栗腹はこれを探知し、喜んで「私はもとより趙の兵が戦に堪えないことを知っていた」と言った。そこで大勢を率いて急いで鄗城を攻めた。鄗城の人々は救援がすでに至っていると知り、十五日堅く守って落ちなかった。
- 廉頗は大軍を率いてこれに赴き、まず疲れた兵数千を出して戦いを挑ませた。栗腹は楽乗に城攻めを任せ、自ら陣に出た。ただ一合で趙軍は支えきれず、大敗して逃げた。栗腹は将士を指揮して趙軍を追わせた。約六、七里ほど進んだところで伏兵が一斉に起こり、先頭の一人の大将が車を馳せて出て、大声で叫んだ、「廉頗はここにあり。来将は早々に縛につけ」と。栗腹は大いに怒り、刀を振るって迎え撃った。廉頗の手並みは高く強く、率いる兵はみな精選の兵であり、一人で百人に当たった。幾度も刃を合わせぬうちに燕軍は大敗し、廉頗は栗腹を生け捕った。
- 楽乗は主将が捕らえられたと聞き、囲みを解いて逃げようとした。廉頗は人を遣わして招いたので、楽乗はそのまま趙軍に投じた。ちょうど李牧が代の救援に勝利し、慶秦を斬って勝報を送ってきた。楽閒は残兵を率いて清涼山に籠もったが、廉頗が楽乗に招きの書を書かせて閒を招くと、閒もまた趙に降った。
- 燕王喜は両路の軍がともに敗没したと知り、夜を徹して中都に逃げ帰った。廉頗は長駆して深く入り込み、長い囲いを築いて包囲し、これを苦しめた。燕王は使者を遣わして和議を乞うた。楽閒は廉頗に言った、「もともと趙を討つ謀を唱えたのは栗腹です。大夫将渠には先を見通す明があり、苦言を諫めても聞き入れられず、獄に繋がれています。もし和議を許すならば、必ず燕王に将渠を相国とさせ、彼に和議を申し入れさせるべきです。そうすれば可能になりましょう」と。廉頗はその言に従った。
- 燕王はやむを得ず、獄中から将渠を召し、宰相の印を授けた。将渠は辞退して言った、「臣の不幸な言葉が当たったからといって、どうして国の敗北を幸いとして利にできましょうか」と。燕王は「寡人が卿の言葉を聞かず、自ら辱めと敗北を招いた。今、趙との和睦を求めるのは、卿でなければならぬ」と言った。将渠はそこで宰相の印を受け、燕王に言った、「楽乗・楽閒は、身は趙に投じたとはいえ、その先祖は燕に大功がありました。大王はその妻子を返すべきです。そうすれば彼らも燕の恩を忘れず、和議も速やかに成りましょう」と。燕王はこれに従った。
- 将渠はそこで趙軍に赴き、燕王に代わって謝罪し、あわせて楽閒・楽乗の家族を送り返した。廉頗は和議を許し、栗腹の首を斬り、慶秦の屍と合わせて燕に返し、その日のうちに軍を引いて趙に帰った。趙王は楽乗を武襄君に封じ、楽閒はもとのまま昌国君と称した。李牧を代郡守とした。
- このとき劇辛が燕のために薊州を守っていた。燕王は劇辛がもとから楽毅と共に昭王に仕えていたため、書を送って楽乗・楽閒の二人を招かせた。楽乗・楽閒は燕王が忠言を聞き入れなかったことから、そのまま趙に留まった。将渠は燕の相となったものの、それは燕王の本意から出たことではなかったので、半年も経たぬうちに病を理由に印を辞した。燕王はそこで劇辛にこれを代えさせた。この段の話はしばらく置いておく。
秦昭襄王の死、孝文王の急死と荘襄王の即位、呂不韋の専権
- さて秦の昭襄王は在位五十六年、年は七十近くになり、秋に病を得て薨じた。太子安国君柱が立ち、これが孝文王である。趙女を王后に立て、子楚を太子とした。韓王は秦王の喪を聞き、真っ先に喪服を着て入朝し弔い、喪事を視ること、臣下の礼のようであった。諸侯はみな将相大臣を遣わして会葬させた。
- 孝文王は除服の三日目、群臣を大宴し、宴が散じて宮に帰ると死んだ。国人はみな客卿呂不韋が子楚を速やかに王位に立てようとしているのを疑い、左右に重く賄賂を贈り、酒に毒薬を入れさせたため、秦王が毒に中って死んだのだと考えた。しかし心中不韋を憚り、あえて口にする者はいなかった。
- そこで不韋は群臣とともに子楚を推戴して位を継がせた、これが荘襄王である。華陽夫人を太后として奉り、趙姫を王后に立て、子の趙政を太子とし、趙の字を除いて単に政と名づけた。
- 蔡沢は荘襄王が呂不韋に深く恩を感じ、彼を相にしようとしているのを知り、そこで病と称して宰相の印を譲った。不韋はそこで丞相となり、文信侯に封じられ、河南雒陽の十万戸を食邑とした。不韋は孟嘗・信陵・平原・春申の名声を慕い、自分がそれに及ばないことを恥じ、また館を設けて賓客を招き、およそ三千余人に及んだ。
東周の滅亡
- さて東周君は、秦が続けて二人の王を喪い、秦の国内が多事であると聞き、賓客を諸国に遣わして「合従」して秦を討つよう説かせた。丞相呂不韋は荘襄王に言った、「西周はすでに滅んでおりますが、東周が一縷残っているために、みずから文武の子孫と称して天下を動かそうとしております。いっそすべて滅ぼしてしまい、人望を絶ってしまうべきです」と。
- 秦王はそこで不韋を大将に用い、兵十万を率いて東周を討たせ、その君を捕らえて帰り、鞏城などの七邑をすべて収めた。周は武王が己酉の年に天命を受けてより、東周君の壬子の年に終わるまで、三十七王を経て、合わせて八百七十三年にして、祭祀は秦に絶たれた。
- これを証する覚え歌がある。(歌:武王から赧王に至る周の歴代の王を順に数え上げ、西周十二主・二百五十二年、東遷後の二十六主を合わせて首尾三十八主・八百七十四年に及ぶこと、その系譜が帝嚳の子后稷棄に出て太王・王季・文王昌に続くことを挙げ、卜われた年数・世数をも超える宗廟社稷の長久さは古来二つとないと詠む)
秦の勢威拡大と信陵君召還の試み
- 秦王は周を滅ぼした勢いに乗じ、再び蒙驁を遣わして韓を襲わせ、成皋・滎陽を抜き、三川郡を置いた。その地界は直に大梁に迫った。秦王は言った、「寡人は昔、趙に人質となり、あやうく趙王に殺されるところであった。この恨みは報いずにおくものか」と。そこで再び蒙驁を遣わして趙を攻めさせ、榆次など三十七城を取り、太原郡を置いた。さらに南は上党を平定し、そのまま魏の高都を攻めたが落とせず、秦王はまた王齕に兵五万を率いさせて戦を助けさせた。
- 魏兵はしばしば敗れ、如姫が魏王に言った、「秦が急いで魏を攻めるのは、魏を侮っているからです。魏を侮るのは、信陵君が国におられないからです。信陵君は賢名が天下に聞こえ、諸侯の力を得ることができます。大王が人を遣わし言葉をへりくだり幣を厚くして、趙から公子をお呼び戻しになり、列国と『合従』させ力を合わせて秦を防がせれば、たとえ蒙驁らが百人いようとも、どうしてまともに魏を見ることができましょうか」と。
- 魏王は情勢が危急であったため、やむなくその計に従い、顔恩を使者とし、宰相の印を持たせ、黄金・色絹の贈り物を添えて趙に信陵君を迎えに行かせた。書を贈り、おおよそこう述べた。「公子はかつて趙国の危難を見過ごされなかったのに、今になって魏国の危難は見過ごされるおつもりか。魏は急を告げている。寡人は国を挙げて公子のお帰りを首を長くして待っている。公子におかれてはどうか寡人の過ちをお咎めにならないでほしい」と。
- 信陵君は趙国に居住していたが、その賓客たちが情報を探って絶えず行き来していた。魏が使者を遣わして自分を迎えようとしていると聞き、恨んで言った、「魏王は私を趙に捨て置いてから、すでに十年になる。今、事が急を告げて私を召すのは、心底から私を思っているのではない」と。そこで門下に書を掲げた、「あえて魏王のために使者を通す者は死罪とする」と。賓客はみな互いに戒め合い、あえて帰国を勧める者はなかった。
- 顔恩は魏に半月いても、公子に会うことができなかった。魏王はさらに使者を遣わして催促し、音信が絶えなかった。顔恩は門下の客に取り次ぎを求めようとしたが、みな辞退してあえて通そうとしなかった。信陵君が外出するのを待ち構えて、道で待ち伏せしようとしたが、信陵君は魏の使者を避けるため、まったく門を出なかった。顔恩はどうすることもできなかった。結局のところ信陵君が魏に帰るかどうか、それは次回を見て解かれよう。
原文(底本)
話說鄭安平以兵降魏,應侯范睢是個薦主,法當從坐,於是席藁待罪。秦王曰:「任安平者,本出寡人之意,與丞相無干。」再三撫慰,仍令復職。群臣紛紛議論,秦王恐范睢心上不安,乃下令國中曰:「鄭安平有罪,族滅勿論。如有再言其事者,即時斬首!」國人乃不敢復言。秦王賜范睢食物,比常有加。應侯甚不過意,欲說秦王滅周稱帝,以此媚之。於是使張唐為大將,伐韓,欲先取陽城,以通三川之路。 再說楚考烈王聞信陵君大破秦軍,春申君黃歇無功,班師而還,嘆曰:「平原『合從』之謀,非妄言也!寡人恨不得信陵君為將,豈憂秦人哉!」春申君有慚色,進曰:「向者『合從』之議,大王為長。今秦兵新挫,其氣已奪,大王誠發使約會列國,并力攻秦,更說周王,奉以為主,挾天子以聲誅討,五伯之功,不足道矣。」楚王大喜,即遣使如周,以伐秦之謀,告赧王。赧王已聞秦王欲通三川,意在伐周,今日伐秦,正合著《兵法》「先發制人」之語,如何不從?楚王乃與五國定從約,刻期大舉。 時周赧王一向微弱,雖居天子之位,徒守空名,不能號令。韓趙分周地為二,以雒邑之河南王城為西周,以鞏附成周為東周,使兩周公治之。赧王自成周遷於王城,依西周公以居,拱手而已。至是,欲發兵攻秦,命西周公簽丁為伍,僅得五六千人,尚不能給車馬之費。於是訪國中有錢富民,借貸以為軍資,與之立券,約以班師之日,將所得鹵獲,出息償還。西周公自將其眾,屯於伊闕,以待諸侯之兵。時韓方被兵,自顧不暇;趙初解圍,餘畏未息;齊與秦和好,不願同事;惟燕將樂閒,楚將景陽,二枝兵先到,俱列營觀望。秦王聞各國人心不一,無進取之意,益發兵助張唐攻下陽城;別遣將軍嬴樛,耀兵十萬於函谷關之外。燕楚之兵,約屯三月有餘,見他兵不集,軍心懈怠,遂各班師。西周公亦引兵歸。赧王出兵一番,徒費無益。富民俱執券索償,日攢聚宮門,譁聲直達內寢。赧王慚愧,無以應之,乃避於高臺之上。後人因名其臺曰「避債臺」。 卻說秦王聞燕楚兵散,即命嬴樛與張唐合兵,取路陽城,以攻西周。赧王兵糧兩缺,不能守禦,欲奔三晉。西周公進曰:「昔太史儋言:『周秦五百歲而合,有伯王者出。』今其時矣!秦有混一之勢,三晉不日亦為秦有,王不可以再辱。不如捧土自歸,猶不失宋之封也。」赧王無計可施,乃率群臣子姪,哭於文武之廟,三日,捧其所存輿圖,親詣秦軍投獻,願束身歸咸陽。嬴樛受其獻,共三十六城,戶三萬。西周所屬地已盡,惟東周僅存。嬴樛先使張唐護送赧王君臣子孫入秦奏捷,自引軍入雒陽城,經略地界。赧王謁見秦王,頓首謝罪。秦王意憐之,以梁城封赧王,降為周公,比於附庸。原日西周公降為家臣。東周公貶爵為君,是為東周君。赧王年老,往來周秦,不勝勞苦。既至梁城,不踰月病死。秦王命除其國。又命嬴樛發雒陽丁壯,毀周宗廟,運其祭器,並要搬運九鼎,安放咸陽。周民不願役秦者,皆逃奔鞏城,依東周公以居。亦見人心之不肯忘周矣!將遷鼎之前一日,居民聞鼎中有哭泣之聲。及運至泗水,一鼎忽從舟中飛沉於水底,嬴樛使人沒水求之,不見有鼎,但見蒼龍一條,鱗鬣怒張,頃刻波濤頓作,舟人恐懼,不敢觸之。嬴樛是夜夢周武王坐於太廟,召樛至,責之曰:「汝何得遷吾重器,毀吾宗廟?」命左右鞭其背三百。嬴樛夢覺,即患背疽,扶病歸秦,將八鼎獻上秦王,並奏明其狀。秦王查閱所失之鼎,正豫州之鼎也。秦王嘆曰:「地皆入秦,鼎獨不附寡人乎?」欲多發卒徒,更往取之。嬴樛諫曰:「此神物有靈,不可復取。」秦王乃止。嬴樛竟以疽死。秦王以八鼎及祭器,陳列於秦太廟之中,郊祀上帝於雍州,布告列國,俱要朝貢稱賀,不來賓者伐之。韓桓惠王首先入朝,稽首稱臣。齊、楚、燕、趙皆遣國相入賀。獨魏國使者,尚未見到。秦王命河東守王稽,引兵襲魏。王稽素與魏通,私受金錢,遂洩其事。魏王懼,遣使謝罪,亦使太子增為質於秦,委國聽令。自此六國,俱賓服於秦。時秦昭襄王之五十二年也。秦王究通魏之事,召王稽誅之。范睢益不自安。 一日,秦王臨朝嘆息。范睢進曰:「臣聞『主憂則臣辱,主辱則臣死。』今大王臨朝而嘆,由臣等不職之故,不能為大王分憂,臣敢請罪!」秦王曰:「夫物不素具,不可以應卒。今武安君誅死,而鄭安平背畔,外多強敵,而內無良將,寡人是以憂也。」范睢且慚且懼,不敢對而出。 時有燕人蔡澤者,博學善辯,自負甚高,乘敝車遊說諸侯,無所遇。至大梁,遇善相者唐舉,問曰:「吾聞先生曾相趙國李兌,言:『百日之內,持國秉政。』果有之乎?」唐舉曰:「然。」蔡澤曰:「如僕者,先生以為何如?」唐舉熟視而笑,謂曰:「先生鼻如蝎蟲,肩高於項,魋顏蹙眉,兩膝攣曲,吾聞『聖人不相』,殆先生乎?」蔡澤知唐舉戲之,乃曰:「富貴吾所自有,吾所不知者壽耳!」唐舉曰:「先生之壽,從今以往者四十三年!」蔡澤笑曰:「吾飯粱嚙肥,乘車躍馬,懷黃金之印,結紫綬於腰,揖讓人主之前者,四十三年足矣!尚何求乎?」及再遊韓趙不得意,返魏,於郊外遇盜,釜甑皆為奪去,無以為炊,息於樹下,復遇唐舉。舉戲曰:「先生尚未富貴耶?」蔡澤曰:「方且覓之。」唐舉曰:「先生金水之骨,當發於西。今秦丞相應侯,用鄭安平王稽皆得重罪,應侯慚懼之甚,必急於卸擔。先生何不一往,而困守於此?」蔡澤曰:「道遠難至,奈何?」唐舉解囊中,出數金贈之。蔡澤得其資助,遂西入咸陽。謂旅邸主人曰:「汝飯必白粱,肉必甘肥,俟吾為丞相時,當厚酬汝。」主人曰:「客何人,乃望作丞相耶?」澤曰:「吾姓蔡名澤,乃天下雄辯有智之士,特來求見秦王。秦王若一見我,必然悅我之說,逐應侯而以吾代之,相印立可懸於腰下也。」主人笑其狂,為人述之。應侯門客聞其語,述於范睢。范睢曰:「五帝三代之事,百家之說,吾莫不聞,眾口之辯,遇我而屈,彼蔡澤者,惡能說秦王而奪吾相印乎?」乃使人往旅邸召蔡澤。主人謂澤曰:「客禍至矣!客宣言欲代應侯為相,今應府相召,先生若往,必遭大辱。」蔡澤笑曰:「吾見應侯,彼必以相印讓我,不須見秦王也。」主人曰:「客太狂,勿累我。」蔡澤布衣躡屩,往見范睢。睢踞坐以待之。蔡澤長揖不拜。范睢亦不命坐,厲聲詰之曰:「外邊宣言,欲代我為丞相者是汝耶?」蔡澤端立於旁曰:「正是!」范睢曰:「汝有何辭說,可以奪我爵位?」蔡澤曰:「吁!君何見之晚也。夫四時之序,成功者退,將來者進。君今日可以退矣!」范睢曰:「吾不自退,誰能退之?」蔡澤曰:「夫人生百體堅強,手足便利,聰明聖智,行道施德於天下,豈非世所敬慕為賢豪者與?」范睢應曰:「然。」蔡澤又曰:「既已得志於天下,而安樂壽考,終其天年,簪纓世祿,傳之子孫,世世不替,與天地相終始,豈非世所謂吉祥善事者與?」范睢曰:「然。」蔡澤曰:「若夫秦有商君,楚有吳起,越有大夫種,功成而身不得其死,君亦以為可願否?」范睢心中暗想:「此人談及利害,漸漸相逼,若說不願,就墮其說術之中了。」乃佯應之曰:「有何不可願也。夫公孫鞅事孝公,盡公無私,定法以治國中,為秦將拓地千里;吳起事楚悼王,廢貴戚以養戰士,南平吳越,北卻三晉;大夫種事越王,能轉弱為強,并吞勁吳,為其君報會稽之怨;雖不得其死,然大丈夫殺身成仁,視死如歸,功在當時,名垂後世,何不可願之有哉?」此時范睢雖然嘴硬,卻也不安於坐,起立而聽之。蔡澤對曰:「主聖臣賢,國之福也。父慈子孝,家之福也。為孝子者,誰不願得慈父?為賢臣者,誰不願得明君?比干忠而殷亡,申生孝而國亂,身雖惡死,而無濟於君父,何也?其君父非明且慈也。商君、吳起、大夫種亦不幸而死耳,豈求死以成後世之名哉?夫比干剖而微子去,召忽戮而管仲生,微子管仲之名,何至出比于召忽之下乎?故大丈夫處世,身名俱全者,上也;名可傳而身死者,其次也;惟名辱而身全,斯為下耳。」這段話說得范睢胸中爽快,不覺離席,移步下堂,口中稱:「善!」蔡澤又曰:「君以商君、吳起、大夫種殺身成仁為可願也,然孰與閎夭之事文王,周公之輔成王乎?」范睢曰:「商君等弗如也。」蔡澤曰:「然則今王之信任忠良,惇厚故舊,視秦孝公楚悼王奚若?」范睢沉吟少頃,曰:「未知何如。」蔡澤曰:「君自量功在國家,算無失策,孰與商君、吳起、大夫種?」范睢又曰:「吾弗如!」蔡澤曰:「今王之親信功臣,既不能有過於秦孝公、楚悼王、越王句踐,而君之功績,又不若商君、吳起、大夫種,然而君之祿位過盛,私家之富,倍於三子,如是而不思急流勇退,為自全計,彼三子者,且不能免禍,而況於君乎?夫翠鵠犀象,其處勢非不遠於死,而竟以死者,惑於餌也。蘇秦智伯之智,非不足以自庇,而竟以死者,惑於貪利不止也。君以匹夫,徒步知遇秦王,位為上相,富貴已極,怨已讎而德已報矣。猶然貪戀勢利,進而不退,竊恐蘇秦智伯之禍,在所不免。語云:『日中必移,月滿必虧。』君何不以此時歸相印,擇賢者而薦之?所薦者賢,而薦賢之人益重,君名為辭榮,實則卸擔。於是乎尋川巖之樂,享喬松之壽,子孫世世,長為應侯,孰與據輕重之勢,而蹈不可知之禍哉?」范睢曰:「先生自謂雄辯有智,今果然也。睢敢不受命!」於是乃延之上坐,待以客禮,遂留於賓館,設酒食款待。次日入朝,奏秦王曰:「客新有從山東來者,曰蔡澤,其人有王伯之才,通時達變,足以寄秦國之政。臣所見之人甚眾,更無其匹,臣萬不及也。臣不敢蔽賢,謹薦之於大王。」秦王召蔡澤見於便殿,問以兼并六國之計。蔡澤從容條對,深合秦王之意,即日拜為客卿。范睢因謝病,請歸相印。秦王不准。睢遂稱病篤不起。秦王乃拜蔡澤為丞相,以代范睢,封剛成君。睢老於應。 話分兩頭。卻說燕自昭王復國,在位三十三年,傳位於惠王。惠王在位七年,傳於武成王。武成王在位十四年,傳於孝王。孝王在位三年,傳於燕王喜。喜即位,立其子丹為太子。燕王喜之四年,秦昭襄王之五十六年也。是歲,趙平原君趙勝卒,以廉頗為相國,封信平君。燕王喜以趙國接壤,使其相國栗腹,往弔平原君之喪,因以五百金為趙王酒資,約為兄弟。栗腹冀趙王厚賄。趙王如常禮相待,栗腹意不懌。歸報燕王曰:「趙自長平之敗,壯者皆死,其孤尚幼。且相國新喪,廉頗已老,若出其不意,分兵伐之,趙可滅也。」燕王惑其言,召昌國君樂閒問之。閒對曰:「趙東鄰燕,西接秦境,南錯韓魏,北連胡貊,四野之地,其民習兵,不可輕伐。」燕王曰:「吾以三倍之眾而伐一,何如?」樂閒曰:「未可。」燕王曰:「以五倍伐一,何如?」樂閒不應。燕王怒曰:「汝以父墳墓在趙,不欲攻耶?」樂閒曰:「王如不信,臣請試之。」群臣阿燕王之意,皆曰:「天下焉有五而不能勝一者?」大夫將渠獨切諫曰:「王且勿言眾寡,而先言曲直。王方與趙交歡,以五百金為趙王壽,使者還報,而即攻之,不信不義,師必無功。」燕王不以為然。使栗腹為大將,樂乘佐之,率兵十萬攻鄗。使慶秦為副將,樂閒佐之,率兵十萬攻代。燕王親率兵十萬為中軍,在後接應。方欲升車,將渠手攬王綬,垂淚言曰:「即伐趙,願大王勿親往,恐震驚左右。」燕王怒,以足蹴將渠。渠即抱王足而泣曰:「臣之留大王者,忠心也。王若不聽,燕禍至矣!」燕王愈怒,命囚將渠於獄,俟凱旋日殺之。三軍分路而進,旌旗蔽野,殺氣騰空,滿望踏平趙土,大拓燕疆。 趙王聞燕兵將至,集群臣問計。相國廉頗進曰:「燕謂我喪敗之餘,士伍不充,若大賚國中,使民十五歲以上者,悉持兵佐戰,軍聲一振,燕氣自奪。栗腹喜功,原無將略,慶秦無名小子,樂閒樂乘以昌國君之故,往來燕趙,不為盡力,燕軍可立破也。」乃薦雁門李牧,其才可將。趙王用廉頗為大將,引兵五萬,迎栗腹於鄗,用李牧為副將,引兵五萬,迎慶秦於代。 卻說廉頗兵至房子城,知栗腹在鄗,乃盡匿其丁壯於鐵山,但以老弱列營。栗腹探知,喜曰:「吾固知趙卒不堪戰也!」乃率眾急攻鄗城。鄗城人知救兵已至,堅守十五日不下。廉頗率大軍赴之,先出疲卒數千人挑戰。栗腹留樂乘攻城,親自出陣,只一合,趙軍不能抵當,大敗而走。栗腹指麾將士,追逐趙軍。約六七里,伏兵齊起,當先一員大將,馳車而出,大叫:「廉頗在此!來將早早受縛!」栗腹大怒,揮刀迎敵。廉頗手段高強,所領俱是選的精卒,一可當百。不數合,燕軍大敗,廉頗生擒栗腹。樂乘聞主將被擒,解圍欲走。廉頗使人招之,樂乘遂奔趙軍。恰好李牧救代得勝,斬了慶秦,遣人報捷;樂閒率餘眾保於清涼山,廉頗使樂乘為書招閒,閒亦降趙。燕王喜知兩路兵俱敗沒,遂連夜奔回中都。廉頗長驅直入,築長圍以困之。燕王遣使乞和。樂閒謂廉頗曰:「本倡伐趙之謀者,栗腹也。大夫將渠有先幾之明,苦諫不聽,被羈在獄。若欲許和,必須要燕王以將渠為相國,使他送款,方可。」廉頗從其說。燕王出於無奈,即召將渠於獄中,授相印。將渠辭曰:「臣不幸言而中,豈可幸國之敗以為利哉!」燕王曰:「寡人不聽卿言,自取辱敗,今將求成於趙,非卿不可。」將渠乃受相印,謂燕王曰:「樂乘樂閒,雖身投於趙,然其先世有大功於燕,大王宜歸其妻子,使其不忘燕德,則和議可速成矣。」燕王從之。將渠乃如趙軍,為燕王謝罪,並送還樂閒樂乘家屬。廉頗許和,因斬栗腹之首,並慶秦之屍,歸之於燕,即日班師還趙。趙王封樂乘為武襄君,樂閒仍稱昌國君如故。以李牧為代郡守。時劇辛為燕守薊州,燕王以劇辛素與樂毅同事昭王,使為書以招二樂。樂乘樂閒以燕王不聽忠言,竟留於趙。將渠雖為燕相,不出燕王之意,未及半載,託病辭印。燕王遂用劇辛代之。此段話且擱過一邊。 再說秦昭襄王在位五十六年,年近七十,至秋得病而薨。太子安國君柱立,是為孝文王。立趙女為王后,子楚為太子。韓王聞秦王之喪,首先服衰絰入弔,視喪事,如臣子之禮。諸侯皆遣將相大臣來會葬。孝文王除喪之三日,大宴群臣,席散回宮而死。國人皆疑客卿呂不韋欲子楚速立為王,乃重賄左右,置毒藥於酒中,秦王中毒而死。然心憚不韋,無敢言者。於是不韋同群臣奉子楚嗣位,是為莊襄王。奉華陽夫人為太后。立趙姬為王后。子趙政為太子,去趙字單名政。蔡澤知莊襄王深德呂不韋,欲以為相,乃託病以相印讓之。不韋遂為丞相,封文信侯,食河南雒陽十萬戶。不韋慕孟嘗、信陵、平原、春申之名,恥其不如,亦設館招致賓客,凡三千餘人。 再說東周君聞秦連喪二王,國中多事,乃遣賓客往說諸國,欲「合從」以伐秦。丞相呂不韋,言於莊襄王曰:「西周已滅,而東周一線若存,自謂文武之子孫,欲以鼓動天下,不如盡滅之,以絕人望。」秦王即用不韋為大將,率兵十萬伐東周,執其君以歸,盡收鞏城等七邑。周自武王己酉受命,終於東周君壬子,歷三十七王,共八百七十三年,而祀絕於秦。有歌訣為證: 周武成康昭穆共,懿孝夷厲宣幽終,以上盛周十二主,二百五十二年逢。東遷平桓莊釐惠,襄頃匡定簡靈繼,景悼敬元貞定哀,思考威烈安烈序。顯子慎靚赧王亡,東周廿六湊成雙,系出嚳子后稷棄,太王王季文王昌。首尾三十有八主,八百七十年零四,卜年卜世數過之,宗社靈長古無二。 秦王乘滅周之盛,復遣蒙驁襲韓,拔成皋滎陽,置三川郡,地界直逼大梁矣。秦王曰:「寡人昔質於趙,幾為趙王所殺,此仇不可不報!」乃再遣蒙驁攻趙,取榆次等三十七城,置太原郡。遂南定上黨,因攻魏高都,不拔,秦王復遣王齕將兵五萬助戰。魏兵屢敗,如姬言於魏王曰:「秦所以急攻魏者,欺魏也。所以欺魏者,以信陵君不在也。信陵君賢名聞於天下,能得諸侯之力。大王若使人卑辭厚幣,召之於趙,使其『合從』列國,并力禦秦,雖有蒙驁等百輩,何敢正眼視魏哉!」魏王勢在危急,不得已從其計,遣顏恩為使,持相印,益以黃金彩幣,往趙迎信陵君。遺以書,略曰: 公子昔不忍趙國之危,今乃忍魏國之危乎?魏急矣!寡人舉國引領以待公子之歸也。公子幸勿計寡人之過! 信陵君雖居趙國,賓客探信,往來不絕。聞魏將遣使迎己,恨曰:「魏王棄我於趙,十年於茲矣。今事急而召我,非中心念我也!」乃懸書於門下:「有敢為魏王通使者死!」賓客皆相戒,莫敢勸其歸者。顏恩至魏半月,不得見公子。魏王復遣使者催促,音信不絕。顏恩欲求門下客為言,俱辭不敢通。欲候信陵君出外,於路上邀之。信陵君為迴避魏使,竟不出門。顏恩無可奈何。畢竟信陵君肯歸魏否,且看下回分解。
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。