東周列國志第百零四回 甘羅、幼年で高位を取る/嫪毐、腐を偽って秦宮を乱す (甘羅童年取高位  嫪毐偽腐亂秦宮)

王翦の堅守と伏兵の配置

  • 話は続く。王翦は軍を十里退かせ、深く溝を掘り塁を高くし、要害を分けて守らせ、出撃を許さなかった。そして軍二万を分けて桓齮・王賁の援護に遣わし、彼らの戦功を早く上げさせようとした。
  • 樊於期は連日精鋭を尽くして出撃を挑んだが、秦の兵は応じなかった。於期は王翦を臆病だと思い、まさに兵を分けて長子・壺関の二城を救おうと相談していたところ、突然物見が報告した、「二城はすでに秦の兵に攻め落とされました」と。於期は大いに驚き、そこで城外に陣を張り、長安君の心を安んじさせた。
  • さて桓齮・王賁は王翦が伏龍山に陣を移したと聞き、それぞれ兵を率いて合流し、王翦に会って言った、「二城はすでに回復し、兵を分けて守りを固め、諸事整いました」と。王翦は大いに喜んで、「屯留の勢いは孤立した、樊於期さえ捕らえれば、事は片付く」と言った。言い終わらぬうちに、守営の兵が「今、将軍辛勝が秦王の命を奉じて到着し、すでに陣営の外におります」と報告した。
  • 王翦は陣中に迎え入れ、その来意を問うた。辛勝は「一つには、兵士の労苦をねぎらうため、褒賞を賜わりに参りました。二つには、秦王が樊於期を深く恨んでおられ、将軍にお言葉を伝えるようにと、『必ずその者を生きたまま送り届けよ、わしが手ずから剣で首を斬り、この恨みを晴らしたい』とのことです」と言った。王翦は「将軍のこの度のご来訪、まさに用いる場がある」と言った。そこで持ってきた品を全軍に分け与え、それから令を発し、桓齮・王賁にそれぞれ一軍を率いさせ左右に伏せさせ、辛勝には五千の兵で先に挑戦させ、自らは大軍を率いて城攻めの準備をした。

樊於期の逃亡、成嶠の降伏と死 屯留の壊滅

  • さて成嶠は長子・壺関の二城が守られなかったと聞き、人を遣わして急ぎ樊於期を城に呼んで相談した。樊於期は「もはや旦夕のうちに、決戦するほかありません。もし戦って勝てなければ、王子と共に北へ燕・趙に走り、諸侯と連合して共に偽の主を誅し、社稷を安んじましょう」と言った。成嶠は「将軍、くれぐれも用心してくれ」と言った。樊於期は自陣に戻った。
  • 物見が報告した、「秦王が新たに遣わした将軍辛勝が、今戦を挑みに来ております」と。樊於期は「無名の小卒だ、まず私が除いてくれよう」と言い、軍を率いて陣を出て迎え撃った。数合戦ったところで、辛勝は後退した。樊於期は勇にはやって前進し、約五里ほど進んだところで、桓齮・王賁の両路の伏兵が突き出て、於期は大敗した。急いで軍を収めて戻ろうとすると、王翦の軍がすでに城下に満ちていた。於期は奮って神威を発揮し、血路を切り開き、城中では門を開いて呼応して救援し、彼を迎え入れた。
  • 王翦は兵を合わせて城を囲み、攻撃を甚だ急にした。樊於期は自ら城を巡回し、昼夜怠らなかった。楊端和は城中で事態の危うさを見て、夜、長安君成嶠に「機密の事でお目にかかりたい」と申し出た。成嶠は旧知の食客であるので、喜んで招き入れた。端和は左右を退けるよう請い、告げて言った、「秦の強さは、あなたもご存じの通りです。六国ですら勝てないのに、あなたは孤城でこれに抗おうとしておられる、必ず助かりません」と。
  • 成嶠は「樊於期が『今の王は先王のお子ではない』と言い、私を導いてこの事に至らせたのだ、これは私の本意ではなかった」と言った。端和は言った、「樊於期は匹夫の勇に頼り、成否を顧みず、あなたに危険な事を行わせようとしているのです。今、郡県に檄を伝えても、応じる者はなく、しかも王将軍の包囲攻撃は甚だ急です。城が破れた後、あなたはどうやって自らを保たれるのですか」と。成嶠は「私は燕・趙に逃げ込み、『合従』諸国と結ぼうと思う、あなたはどう思うか」と言った。
  • 端和は言った、「『合従』の事は、趙の肅侯・斉の湣王・魏の信陵君・楚の春申君もみな試みましたが、まとまってはすぐに散り、成らないことは明らかです。六国のうち誰が秦を畏れていないでしょうか。あなたが逃げ込んだ国に、秦が使者一人を遣わして責めれば、必ずあなたを縛って献上するでしょう、あなたにまだ生きる望みがありましょうか」と。成嶠は「あなたは私のためにどう計るべきだと思うか」と言った。端和は「王将軍もまた、あなたが樊於期に誘われたことをご存じです、密書一封を持ってきて、あなたにお渡しするよう託されました」と言い、書を差し出した。
  • 成嶠が開いて見ると、おおよそこう書かれていた。「あなたは血縁からいえば王の実弟、身分からいえば侯に封じられた身、なぜ根拠のない言葉に耳を貸し、思いもよらぬ事を行い、自ら滅びを招くのか、惜しむべきことではないか。乱を起こした首謀者は樊於期である。あなたがその首を斬り、軍前に献じ、抵抗せず身柄を委ねて罪に服せば、私が必ず取り成し、王も必ずあなたを許すであろう。もしぐずぐず決断できなければ、悔いても及ばないぞ」と。
  • 成嶠は読み終わると涙を流して言った、「樊将軍は忠直の士だ、どうして忍んで誅することができようか」と。端和は嘆いて「あなたのおっしゃることは、いわゆる婦人の仁というものです。もし従っていただけないなら、臣は辞去いたします」と言った。成嶠は「あなたはしばらくとどまって共にいてくれ、遠くへ行かないでくれ、言われたことはゆっくりまた相談しよう」と言った。端和は「あなたには、私の言葉を漏らさないでいただきたい」と言った。
  • 翌日、樊於期は車を駆って成嶠に会いに来て言った、「秦の兵の勢いは盛んで、人心は恐慌しており、城は今にも保てなくなりそうです。どうか王子と共に燕・趙へ逃れ、さらに今後の策を考えましょう」と。成嶠は「私の一族はみな咸陽にいる、今遠く他国へ逃げたとして、その国が私を受け入れてくれるかどうか分からぬ」と言った。樊於期は「諸国はみな秦の暴虐に苦しんでいます、どうして受け入れないことがございましょうか」と言った。
  • まさに話しているところに、外から「秦の兵が南門で挑戦している」と報告があった。樊於期は何度も急かして「王子、今行かなければ、後には出られなくなりましょう」と言った。成嶠は決断できずにいた。樊於期はやむなく刀を掴んで車に乗り、南門を馳せ出て、再び秦の兵と交戦した。楊端和は成嶠に城に登って戦を見るよう勧めた。
  • 樊於期は長い間激戦を繰り広げたが、秦の兵はますます進み、於期は支えきれず、城下に逃げ戻り、大声で「門を開けよ」と叫んだ。楊端和は剣を引っさげて成嶠の傍らに立ち、声を励まして言った、「長安君はすでに全城を挙げて降伏した。樊将軍は勝手にせよ、あえて門を開ける者は斬る」と。袖の中から一本の旗を出した、旗には「降」の一字があった。左右はみな端和の親戚であったので、そのまま降旗を掲げてしまい、成嶠が主導する余地はなく、成嶠はただ涙を流すばかりであった。
  • 樊於期はため息をついて「あの小僧は輔けるに足りぬ」と言った。秦の兵は於期を幾重にも囲んだが、秦王の命により生きたまま捕らえたかったので、あえて不意打ちの矢を射かけようとはしなかった。於期はさらに血路を切り開き、はるか燕国を目指して落ち延びた。王翦は追いつけなかった。
  • 楊端和は成嶠に門を開かせ、秦の兵を迎え入れさせた。王翦は成嶠を公館に幽閉し、辛勝を咸陽に遣わして戦勝を報告させ、あわせて長安君の処分を請うた。秦の太后は簪を脱いで長安君のために罪を請い、その死を免れさせようとし、さらに呂不韋にも取り成しを乞うた。秦王政は怒って言った、「反逆者を誅さなければ、骨肉もみな謀反を企てるようになろう」と言い、使者を遣わして王翦に命じ、屯留で成嶠を即刻梟首せよと申し渡した。成嶠に従った軍吏はみな斬られた。城中の住民はことごとく臨洮の地に遷された。
  • また一方で懸賞を出して樊於期を求めた、「捕らえて献ずる者があれば、五城を賞として与える」と。使者は屯留に至り、秦王の命を宣した。成嶠は赦されないと聞き、館舎で首を吊って自ら死んだ。翦はなおその首を梟し、城門に懸けた。軍吏で死んだ者は数万人に及び、住民は他所へ強制的に移され、城中は無人となった。これは秦王政七年の事であった。髯翁に詩がある。(詩:異種が苗を侵すからには道理として鋤き除くべきこと、万全を期すにはまず情勢の如何を見極めねばならぬこと、屯留に籠もって守り通してもついに救いはなく、罪状はただ一枚の書に空しく伝わるだけだったと詠じる内容)

蔡沢の燕への使と張唐の固辞

  • このとき秦王政はすでに成人しており、身長八尺五寸、英偉非凡で、性質は聡明、志気は抜きん出て高く、事ごとに自ら判断し、すべてを太后や呂不韋の言いなりにすることはなくなっていた。長安君の乱を平定すると、蒙驁の仇を報いようと、群臣を集めて趙を討つことを議した。
  • 剛成君蔡沢が進んで言った、「趙は燕の代々の仇でございます。燕が趙に附くのは、その本心ではございません。私は燕への使者となり、燕王に人質を出させ臣を称させ、趙の勢いを孤立させることを願います。その後、燕と共に趙を討てば、我らはこれによって河間の地を広げることができましょう、これに勝る利はございません」と。秦王はもっともだと思い、蔡沢を燕に遣わした。
  • 沢は燕王に説いて言った、「燕・趙はともに万乗の国です。一戦して栗腹が死に、再戦して劇辛が滅びました。大王が両度の敗北の恨みをお忘れになり、趙と共に事に当たり、西へ強秦に抗しても、勝てば利は趙に帰し、勝てなければ禍は燕に帰します。これは燕にとって誤った計と申せましょう」と。燕王は「寡人は趙に甘んじているのではない、力が及ばないだけだ」と言った。
  • 蔡沢は言った、「今、秦王は五国が『合従』した恨みに報復しようとしております。臣が思いますに、燕と趙は代々の仇であり、その従軍はほとんどやむを得ぬものでしょう。大王がもし太子を人質として秦に遣わし、これで臣の言葉の証としていただければ、さらに秦の大臣一人を招いて燕の相とすれば、燕と秦の交わりは膠漆のように固くなり、両国の力を合わせれば、趙への雪辱も難しくございません」と。燕王はその言葉を聞き入れ、太子丹を秦に人質として遣わし、あわせて秦の大臣一人を燕の相とするよう請うた。
  • 呂不韋は張唐を遣わそうとし、太史に占わせたところ大吉であった。張唐は病と称して行くことを承知しなかった。不韋は自ら車を駆って請いに行ったが、張唐は辞退して言った、「臣はしばしば趙を討ち、趙の恨みは臣に深うございます。今、燕へ行くには、必ず趙を経なければなりません、臣は行くことができません」と。不韋は再三強いたが、張唐は固く従わなかった。

甘羅、張唐を説く

  • 不韋は府に戻り、一人で堂上に座って悶々としていた。門下の客に甘羅という者があり、これは甘茂の孫であり、時に年わずか十二歳であった。不韋の顔色が優れないのを見て、進み出て問うた、「あなたの心中には何事がおありですか」と。不韋は「子供に何が分かる、私に問うてどうする」と言った。
  • 甘羅は言った、「門下の士が貴ばれるのは、その者があなたのために憂いを分かち、わずらいを引き受けることができるからです。あなたに事があってそれを私に聞かせなければ、たとえ忠を尽くしたくても機会がございません」と。不韋は「先に剛成君に燕へ行かせたところ、燕の太子丹はすでに人質として入っている。今、張卿を燕の相にしようとして、占ってみると大吉であったのに、彼は堅く行くことを拒む。私が不快なのはこのためだ」と言った。
  • 甘羅は「これは小さなことです、なぜもっと早くおっしゃらないのですか。私が行ってまいりましょう」と言った。不韋は怒り、続けざまに叱った、「去れ、去れ。私が自ら請いに行ってもだめだったのに、まさか子供のお前が動かせるものか」と言った。甘羅は言った、「昔、項橐は七歳で孔子の師となりました。今、私は十二歳、橐より五年長うございます。試してみて効果がなければ、その時に私を叱っても遅くございません。なぜ天下の士を軽んじ、いきなり顔色でお当たりになるのですか」と。不韋はその言葉に驚き、態度を改めて謝って言った、「子供が張卿を行かせることができたなら、事が成った暁にはあなたを卿の位に取り立てよう」と。甘羅は喜んで辞去し、張唐に会いに行った。
  • 唐は甘羅が文信侯の食客であることは知っていたが、その若さを見て軽んじ、問うた、「子供が何の用で来たのか」と。甘羅は「特にあなたを弔いに来たのです」と言った。張唐は「私に何の弔うべき事があるのか」と言った。甘羅は「あなたの功績は、自ら武安君と比べてどうお考えですか」と言った。唐は「武安君は南は強楚を挫き、北は燕・趙を威圧し、戦って勝ち、攻めて取り、城を攻め破り邑を陥れたこと、数え切れない。それがしの功績は彼の十分の一にも及ばない」と言った。
  • 甘羅は「それでは、応侯が秦に用いられたことは、文信侯と比べてどちらが専権を得ていましたか」と言った。張唐は「応侯は文信侯ほど専権ではなかった」と言った。甘羅は「あなたは文信侯の権力が応侯より重いことを明らかにご存じですね」と言った。張唐は「なぜ知らないことがあろうか」と言った。
  • 甘羅は言った、「昔、応侯が武安君に趙を攻めさせようとしたとき、武安君は行くことを承知しませんでした。応侯が一たび怒ると、武安君は咸陽を出て、杜郵で死にました。今、文信侯が自ら燕の相となるようあなたに求めたのに、あなたが行こうとしない。これは武安君が応侯に容れられなかったのと同じことです。文信侯があなたを容れると思われますか。あなたの死期は遠くございませんぞ」と。
  • 張唐は恐れおののき、謝って言った、「子供に教えられた」と言い、甘羅を通じて不韋に罪を謝し、その日のうちに旅の支度をした。出発しようとするとき、甘羅は不韋に言った、「張唐は臣の言葉を聞き、やむなく燕に行きます。しかし本心では趙を畏れずにいられません。どうか臣に車五乗を貸してください、張唐のために先に趙へ知らせに参ります」と。
  • 不韋はすでにその才を知っていたので、秦王に言上した、「甘茂の孫甘羅という者がおります。年は若うございますが、名家の子孫であり、たいへん智謀と弁舌に優れております。今、張唐が病と称して燕の相となることを承知しませんでしたが、甘羅が一度説くとすぐに行くことにいたしました。さらに趙王に先に知らせに参りたいと申し出ております、どうか王よりお遣わしください」と。
  • 秦王は甘羅を召して謁見させた。身長わずか五尺、眉目秀麗で絵のようであり、秦王はすでに喜び、問うた、「子供は趙王に会って、どのように言葉を選ぶつもりか」と。甘羅は答えた、「その喜びと懼れのほどを察し、機に応じて進むのみです。言葉は波のように興り、風に従って転じます、あらかじめ定めることはできません」と。秦王は良車十乗、従者百人を与え、趙への使者とした。

甘羅の趙王説得と急死 太子丹は秦に留まる

  • 趙の悼襄王はすでに燕・秦が通好したと聞き、まさに両国が謀を合わせて趙を討つことを恐れていたところ、秦の使者が来たと報告を受け、喜びを言葉にできず、郊外二十里まで出て甘羅を出迎えた。その若さを見るに及び、密かに驚異の念を抱き、問うた、「先に秦のために三川への道を開いたのも甘氏であった、先生とはどういう関係か」と。甘羅は「臣の祖父です」と言った。趙王は「先生の年はいくつか」と言った。答えて「十二歳です」と言った。
  • 趙王は「秦の朝廷には年長の者で使いに立てられる方がいないのか、どうして先生がおいでになったのか」と言った。甘羅は「秦王が人を用いるのは、それぞれの役目に応じてです。年長の者には大事を任せ、年少の者には小事を任せます。臣は最も若いので、趙への使者とされたのです」と言った。趙王はその言葉が堂々としているのを見て、また密かに驚異し、問うた、「先生がわざわざわが国にお越しになった、何かお教えいただけますか」と。
  • 甘羅は「大王は燕の太子丹が秦に人質として入ったことをお聞きですか」と言った。趙王は「聞いている」と言った。甘羅はまた「大王は張唐が燕の相となったことをお聞きですか」と言った。趙王は「これも聞いている」と言った。甘羅は「そもそも燕の太子丹が秦に人質として入ったのは、燕が秦を欺かないということです。張唐が燕の相となったのは、秦が燕を欺かないということです。燕と秦が互いに欺かなければ、趙は危うくなりましょう」と言った。趙王は「秦が燕を親しむのはどういう意図か」と言った。
  • 甘羅は言った、「秦が燕を親しむのは、共に趙を攻めて河間の地を広げようとしているのです。大王は五城を割いて秦に献上し、河間を広げるに越したことはございません。臣がわが君に申し上げ、張唐の行を止め、燕との好誼を絶ち、趙と歓を通じさせましょう。強い趙をもって弱い燕を攻めても、秦は燕を救いません。それで得られるものは、五城どころではございません」と。
  • 趙王は大いに喜び、甘羅に黄金百鎰、白璧二対を賜り、五城の地図を持たせて秦王に報告に帰らせた。秦王は喜んで言った、「河間の地は、子供のおかげで広がったな。子供の智恵は、その身の大きさをはるかに超えている」と言い、そこで張唐を遣わすのを止めた。張唐もまた甘羅に深く感謝した。趙は張唐が行かなかったと聞き、秦が燕を助けないことを知り、そこで龐煖・李牧に兵を合わせて燕を討たせ、上谷の三十城を取り、趙は十九城を得て、十一城を秦に割いて与えた。秦王は甘羅を上卿に封じ、また以前甘茂に封じた田宅を彼に賜った。今、世に伝わる「甘羅十二歳にして丞相となる」とは、まさにこのことを指すのである。詩がある。(詩:わずかな言葉で河間の地を広げ、上谷の疆土をさらに割いて燕から得たこと、これほど大きな功労を童子が成し遂げたのは、天がその智恵を年齢に関わらず授けたからだと詠じる内容)
  • また別の詩がある。(詩:甘羅は早くに栄達したが太公望は遅かった、遅速の運命はそれぞれの時があること、春の花と秋の菊のように、来るべき時が来れば自ずと咲くものだと詠じる内容)
  • 燕の太子丹は秦に人質としていたが、秦が燕を裏切って趙に与したと聞き、針の筵に座るような思いで、逃げ帰ろうとしたが、関を出られないことを恐れた。そこで甘羅に友となってくれるよう求め、その知恵を借りて燕へ帰る計を立てようとした。ある夜、突然、甘羅は紫衣の役人が天の割符を持って現れる夢を見た。役人は「上帝の命を奉じ、天上へ召し帰す」と言った。そのまま病もなく卒した。才ある者が長寿を得ないとは、惜しいことである。太子丹はそのまま秦に留まることとなった。

呂不韋が嫪毐を宮中に送り込み、嫪毐の権勢が呂不韋を凌ぐ

  • 話は二筋に分かれる。さて呂不韋は陽物が盛んで、荘襄后の寵愛を得て、宮中に出入りすることに普段から憚りがなかった。しかし秦王が成長し、非凡な英明さを見せるようになると、初めて恐れの念を抱くようになった。しかし太后の淫心はますます盛んになり、しばしば甘泉宮に召し入れられていた。不韋は事が発覚することを恐れ、禍が己に及ぶことを危惧し、誰か自分に代わる者を進めて太后の意にかなうものを求めようとしたが、その人物が難しかった。
  • 市井に嫪大という者がおり、その男根に定評があり、里中の淫らな婦人たちが争ってこれに仕えていると聞いた。秦の俗語で品行のない者を「毐」と呼んだので、これを嫪毐と称した。嫪毐がたまたま淫らな罪を犯したとき、不韋はこれを曲げて赦し、自邸の舎人として留めた。
  • 秦の習俗では、農事が終わると、国中で三日間歌舞音曲の催しを自由に行わせ、その労苦をねぎらった。あらゆる芸を人々に披露させ、一芸に秀でて人にできぬことを持つ者は、すべてこの日に技を示した。呂不韋は桐の木で車輪を作り、嫪毐にその男根を桐輪の中に貫かせたところ、輪が回っても男根は傷つかなかった。市の人々はみな口を覆って大笑いした。
  • 太后はこの話を聞き、密かに不韋に尋ね、羨望の気配があった。不韋は言った、「太后はその人物にお会いになりたいですか。臣がお引き合わせいたしましょう」と。太后は笑って答えなかったが、しばらくして「あなたは戯言を言っているのか。これは外部の者、どうして内に入れられよう」と言った。不韋は言った、「臣に一計がございます。人を遣わして彼の旧罪を発覚させ、腐刑に処すことにいたします。太后が刑を執り行う者に多額の賄賂を送り、去勢したように見せかけさせ、その後で宦官として宮中で仕えさせれば、長く続けられましょう」と。太后は大いに喜んで「その計は甚だ妙だ」と言い、百金を不韋に授けた。
  • 不韋は密かに嫪毐を召し、事情を告げた。毐は元来好色な性であったので、欣然としてこれを奇遇と思った。不韋は果たして人を遣わしてその他の淫罪を発覚させ、腐刑に処すこととした。そこで百金を刑を司る官吏に分け賄い、驢馬の男根と他の血を用い、去勢したように装い、その髭眉を抜いた。刑を執行した者はわざと驢馬の陽物を左右に示し、みなそれを嫪毐の物と思い込ませた。伝え聞いた者はみな驚き怪しんだ。
  • 嫪毐はこうして宦官のふりをした後、内侍の中に紛れて宮に入れられた。太后は宮中に留めて仕えさせた。夜に寝所に召し、試してみると、その快楽は甚だしく、不韋に十倍まさると思われた。翌日、太后は不韋に厚く賞賜を与え、その功に酬いた。不韋はこうしてかろうじて身を脱することができた。太后と嫪毐は夫婦のように相処するようになった。
  • まもなく懐妊した。太后は出産の折に隠しきれなくなることを恐れ、病と偽り、嫪毐に金を占い師に贈らせ、宮中に祟りがあるので西方二百里の外に避けるべきだと偽って言わせた。秦王政はかねてより呂不韋の事を疑っていたが、太后が幸いにも遠ざかることを喜び、その往来を絶とうと思い、「雍州は咸陽から西二百余里、しかも昔の宮殿がまだ残っている、太后はそこに住まわれるべきです」と言った。そこで太后は雍城に移り、嫪毐が御者としてこれに従った。
  • 咸陽を去って雍の故宮に住み、これを大鄭宮と名づけた。嫪毐と太后はますます親密になり、二年の間に相継いで二人の子を生み、密室を築いて隠し育てた。太后は密かに毐と約束した、他日王が崩じたら、その子を後継とすることを。外部の者にも薄々知る者があったが、あえて言う者はなかった。
  • 太后は嫪毐が王に代わって自分に仕え養った功があると称し、土地を封じるよう請うた。秦王は太后の命を奉じ、毐を長信侯に封じ、山陽の地を与えた。毐は急に貴くなり、ますます驕慢になった。太后は毎日際限なく賞賜し、宮室・輿馬・田猟・遊戯、その欲するがままにさせ、事の大小を問わずすべて毐の決するところとなった。毐は数千人の召使いを蓄え、仕官・栄達を求めて舎人になりたいと願う賓客もまた千余人に及んだ。また賄賂を贈って朝廷の高官を抱き込み自分の党とし、権に趨る者は争ってこれに附き、その声勢はかえって文信侯を超えるほどになった。

嫪毐の乱、太后の遷居

  • 秦王政九年の春、彗星が現れ、その尾は天を貫くほどであった。太史はこれを占って「国中に兵変があるだろう」と言った。もともと秦の襄公が鄜畤を立てて白帝を祀り、後に徳公が雍に都を遷して、そこに天を祀る壇を立て、秦の穆公はさらに宝夫人祠を立て、年ごとに祭祀を行うことが慣例となっていた。後に咸陽に再び遷都したが、この慣例は廃れなかった。太后は雍城に住んでいたので、秦王政は毎年郊祀の時期に雍に赴いて太后に朝見していた。この祭祀を行うにあたっては、もとより車駕を留めるための祈年宮が置かれていた。
  • この春もまたその時期に当たったが、たまたま彗星の異変があったので、出発に際し、大将王翦に咸陽で三日間兵を耀かせ、尚父呂不韋とともに国を守らせた。桓齮に兵三万を率いさせて岐山に屯させ、それから出発した。
  • このとき秦王はすでに二十六歳であったが、まだ冠礼を行っていなかった。太后は徳公の廟で冠礼を行わせ、剣を佩かせ、百官に五日間の酒宴を賜った。太后もまた秦王と大鄭故宮で酒宴を開いた。ここに嫪毐が福を享受しすぎたゆえに、事が起こるべくして起こることになった。
  • 毐は左右の貴臣と博打と酒を楽しんでいたが、四日目に至り、嫪毐は中大夫顔洩と続けて博打に負け、酒に酔い、さらに続けて博打をしようと求めた。洩もまた酔っており、応じなかった。嫪毐はすぐに顔洩を捕まえ、その頬を打った。洩は譲らず、嫪毐の冠の紐を摘み取った。毐は激怒し、目を怒らせて大声で叱った、「私は今の王の義父であるぞ、お前のような貧しい者の子が、どうして私に対抗できるか」と。
  • 顔洩は恐れて逃げ出し、ちょうど秦王政が太后のもとで酒を飲んで宮を出るところに出くわした。顔洩は地に伏して額を地につけ、号泣して死を請うた。秦王政は深く策略をめぐらす人物であったので、一言も発せず、ただ左右に命じて顔洩を祈年宮に扶け入れさせ、それから問い質した。顔洩は嫪毐が頬を打ったこと、および自ら王の義父と称した言葉を、一通り述べた。そして奏上した、「嫪毐は実は宦官ではなく、偽って腐刑を受けたと装い、密かに太后に侍り、今すでに二人の子を宮中に産ませております、遠からず秦国を簒奪しようと謀っております」と。
  • 秦王政はこれを聞き大いに怒り、密かに出兵の割符を持たせて桓齮を召し、兵を率いて雍に至らせた。内史肆と佐弋竭という二人がいた、普段から太后と嫪毐から金銭を受け取り、一味となっていたが、この事を知り、急いで嫪毐の府に走ってこれを告げた。毐はすでに酒が醒めており、大いに驚き、夜に大鄭宮の門を叩き、太后に会いに行き、事情を訴えた、「今日の計は、桓齮の兵がまだ到着していないうちに、宮中の騎兵・衛卒、および賓客・舎人をすべて発し、祈年宮を攻め、今の王を殺すほかありません。そうすれば私たち夫婦はなお身を保てましょう」と。太后は「宮中の騎兵が私の命に従うだろうか」と言った。嫪毐は「太后の璽をお借りし、御宝を偽って使い、『祈年宮に賊がいる、王のご命令だ、宮中の騎兵を召し集めて共に救援に向かえ』と伝えれば、従わないはずがございません」と言った。太后はこのとき考えも乱れており、「お前に任せる」と言い、そこで璽を取り出して毐に渡した。
  • 毐は秦王の御書を偽作し、太后の璽の印を加え、あまねく宮中の騎兵・衛卒、および自邸の賓客・舎人を召し集めた、言うまでもないことである。ごたごたと手間取り、翌日の正午になってようやく勢揃いした。嫪毐と内史肆、佐弋竭は、その部隊をそれぞれ率いて、祈年宮を包囲した。秦王政は台に登り、各軍になぜ王の行宮を犯すのかと詰問した。答えて「長信侯が行宮に賊がいると伝え、特に救援に参りました」と言った。秦王は「長信侯こそ賊である。宮中に何の賊がいようか」と言った。
  • 宮中の騎兵・衛卒らはこれを聞き、半分は散り去り、半分の胆の据わった者は、逆に戈を返して賓客・舎人と戦った。秦王は令を下した、「嫪毐を生け捕りにした者には銭百万を賜う。これを殺してその首を献じた者には銭五十万を賜う。逆党の首一つを得た者には爵一級を賜う、下僕や身分の低い者への賞の規定もすべて同じである」と。そこで宦者・馬飼いなどの人々もみな死力を尽くして出て戦った。
  • 民衆は嫪毐が謀反したと伝え聞き、また棒を持って助力に来た。賓客・舎人で死んだ者は数百人に及んだ。嫪毐は兵に敗れ、道を奪って東門を斬り開いて逃げたが、ちょうど桓齮の大軍に出くわし、生きたまま縛につけられた。あわせて内史肆・佐弋竭らもみな捕らえられ、獄吏に引き渡されて拷問により実情が明らかにされた。
  • 秦王政は自ら大鄭宮に赴いて捜索し、嫪毐が密通して生ませた二人の子を密室に見つけ、左右に命じて布袋に入れて撲殺させた。太后は心中密かに痛みを感じたが、あえて出て救おうとせず、ただ門を閉じて涙を流すばかりであった。秦王はついに母に朝謁せず、祈年宮に帰った。太史の占星が的中したとして、銭十万を賜った。
  • 獄吏が嫪毐の供述書を献じた。「毐が偽って去勢して宮に入ったのは、すべて文信侯呂不韋の計によるものです。同謀の一味は、内史肆・佐弋竭など、おおよそ二十余人です」と。秦王は嫪毐を東門の外で車裂きに処すよう命じ、その三族を滅ぼした。肆・竭らはみな首を梟して晒された。賓客・舎人で叛乱に加わり戦った者は誅殺され、たとえ謀に加わっていなくとも、みな遠く蜀の地に遷され、遷された家はおおよそ四千余に及んだ。
  • 太后は璽を用いて逆賊に党したことで、国母たるにふさわしくないとされ、その禄奉を減らされ、棫陽宮に居を遷された。これは離宮のうち最も小さいものであった。兵三百人でこれを守らせ、出入りする者は必ず取り調べを受けた。太后はこのとき囚われの婦人のようであった、なんと醜いことであろうか。

呂不韋の免官

  • 秦王政は嫪毐の乱を平定し、咸陽に帰った。尚父呂不韋は罪を恐れ、病と偽り、あえて出て謁見しなかった。秦王は彼をも共に誅そうと思い、群臣に問うた。群臣の多くは不韋と結んでいたので、みな「不韋は先王を助けて即位させ、社稷に大功がございます。しかも嫪毐とはまだ対質尋問をさせておらず、虚実の裏づけがございません、連座させるべきではございません」と言った。秦王はそこで不韋を赦して誅せず、ただ相を免じ、その印綬を収めた。桓齮は反賊を捕らえた功により、領地を加増され位を進められた。
  • この年の夏四月、天は大いに寒くなり、霜雪が降り、民衆の多くが凍死した。民間ではみな議論した、「秦王が太后を遠くへ遷し、子でありながら母を認めないから、この異変があるのだ」と。大夫陳忠が進み出て諫めて言った、「天下に母のいない子はおりません、太后を咸陽にお迎えし、孝道を尽くされるべきです、そうすれば天変も治まりましょう」と。秦王は大いに怒り、陳忠の衣服を剥ぎ取り、その身をいばらの上に置いて打ち殺すよう命じ、その屍を宮門の外に晒し、榜文を掲げた、「太后の事で諫めに来る者は、これを見よ」と。しかし秦の臣で相継いで諫めに来る者は止まなかった。秦王が思い改めるかどうか、それは次回の説き明かしをご覧いただきたい。
原文(底本)
話說王翦退軍十里,吩咐深溝高壘,分守險阨,不許出戰。卻發軍二萬,往助桓齮王賁,催他早早收功。樊於期連日悉銳出戰,秦兵只是不應。於期以王翦為怯,正想商議分兵往救長子壺關二處,忽哨馬報道:「二城已被秦兵攻下!」於期大驚,乃立屯於城外,以安長安君之意。

  卻說桓齮王賁聞王翦移營伏龍山,引兵來見,言:「二城俱已收復,分兵設守,諸事停妥。」王翦大喜曰:「屯留之勢孤矣!只擒得樊於期,便可了事。」言未畢,守營卒報道:「今有將軍辛勝,奉秦王之命來到,已在營外。」王翦迎入帳中,問其來意。辛勝曰:「一者,以軍士勞苦,命賷犒賞頒賜;二者,秦王深恨樊於期,傳語將軍:『必須生致其人,手劍斬首,以快其恨!』」王翦曰:「將軍此來,正有用處。」遂將來物犒賞三軍。然後發令,使桓齮王賁各引一軍,分作左右埋伏,卻教辛勝引五千人馬,前去搦戰,自己引大軍准備攻城。

  再說成嶠聞長子壺關二城不守,使人急召樊於期入城商議。樊於期曰:「只在旦晚,與決一戰,若戰而不勝,當與王子北走燕趙,連合諸侯,共誅偽主,以安社稷。」成嶠曰:「將軍小心在意。」樊於期復還本營。哨馬報:「秦王新遣將軍辛勝,今來索戰。」樊於期曰:「無名小卒,吾先除之。」遂率軍開營出迎。略戰數合,辛勝倒退。樊於期恃勇前進,約行五里,桓齮王賁兩路伏兵殺出,於期大敗。急收軍回,王翦兵已布滿城下。於期大奮神威,殺開一條血路,城中開門接應入去了。王翦合兵圍城,攻打甚急。樊於期親自巡城,晝夜不倦。楊端和在城中,見事勢甚危,乘夜求見長安君成嶠,稱:「有機密事求見。」成嶠見是舊日門下之客,欣然喚入。端和請屏左右,告曰:「秦之強,君所知也。雖六國不能取勝,君乃欲以孤城抗之,必無幸矣」。」成嶠曰:「樊於期言:『今王非先王所出。』導我為此,非吾初意也。」端和曰:「樊於期恃匹夫之勇,不顧成敗,欲以君行僥倖之事。今傳檄郡縣,無有應者,而王將軍攻圍甚急,城破之後,君何以自全乎?」成嶠曰:「吾欲奔燕趙,『合從』諸國,足下以為可否?」端和曰:「『合從』之事,趙肅侯、齊湣王、魏信陵、楚春申俱曾為之,方合旋散,其不可成明矣。六國誰非畏秦者?君所在之國,秦遣一介責之,必將縛君以獻,君尚可望活乎?」成嶠曰:「足下為吾計當如何?」端和曰:「王將軍亦知君為樊於期所誘,有密書一封,託致於君。」遂將書呈上。成嶠發而觀之,略曰:

    君親則介弟,貴則侯封,奈何聽無稽之言,行不測之事,自取喪滅,豈不惜哉?首難者樊於期,君能斬其首,獻於軍前,束手歸罪,某當保奏,王必恕君。若遲回不決,悔無及矣!

成嶠看畢,流淚而言曰:「樊將軍忠直之士,何忍加誅?」端和嘆曰:「君所謂婦人之仁也!若不見從,臣當辭去。」成嶠曰:「足下且暫勞作伴,不可遠離,所言俟從容再議。」端和曰:「願君勿洩吾言也。」次日,樊於期駕車來見成嶠曰:「秦兵勢盛,人情惶懼,城旦暮不保,願同王子出避燕趙,更作後圖。」成嶠曰:「吾宗族俱在咸陽,今遠避他國,知其納否?」樊於期曰:「諸國皆苦秦暴,何愁不納?」正話間,外報:「秦兵在南門索戰。」樊於期催并數次曰:「王子今不行,後將不可出矣。」成嶠猶豫不決。樊於期只得綽刀登車,馳出南門,復與秦兵交鋒。楊端和勸成嶠登城觀戰。只見樊於期鏖戰良久,秦兵益進,於期不能抵當,奔回城下,高叫:「開門!」楊端和仗劍立於成嶠之旁,厲聲曰:「長安君已全城歸降矣!樊將軍請自便。有敢開門者斬!」袖中出一旗,旗上有個「降」字。左右皆端和親戚,便將降旗喼起,不由成嶠做主,成嶠惟垂泣而已。樊於期嘆口氣曰:「孺子不足輔也!」秦兵圍於期數重,因秦王之命,欲生致於期,不敢施放冷箭。於期復殺開一條血路,遙望燕國而去。王翦追之不及。楊端和使成嶠開門,以納秦兵。將成嶠幽於公館,遣辛勝往咸陽報捷,兼請長安君發落。秦太后脫笄代長安君請罪,求免其死,且轉乞呂不韋言之。秦王政怒曰:「反賊不誅,骨肉皆將謀叛矣!」遂遣使命王翦即梟斬成嶠於屯留。凡軍吏從嶠者,皆取斬。合城百姓,盡遷於臨洮之地。一面懸賞格購樊於期:「有能擒獻者,賞以五城。」使者至屯留,宣秦王之命。成嶠聞不蒙赦,自縊於館舍。翦仍梟其首,懸於城門。軍吏死者凡數萬人。百姓遷徙,城中一空。此秦王政七年事也。髯翁有詩云:

    非種侵苗理合鋤,萬全須看勢何如?屯留困守終無濟,罪狀空傳一紙書。

  是時秦正政年已長成,生得身長八尺五寸,英偉非常,質性聰明,志氣超邁,每事自能主張,不全由太后呂不韋做主。既定長安君之亂,乃謀復蒙驁之仇,集群臣議伐趙。剛成君蔡澤進曰:「趙者,燕之世仇也,燕之附趙,非其本心。某請出使於燕,使燕王效質稱臣,以孤趙之勢。然後與燕共伐趙,我因以廣河間之地,此莫大之利也。」秦王以為然,即遣蔡澤往燕。澤說燕王曰:「燕趙皆萬乘之國也,一戰而栗腹死,再戰而劇辛亡,大王忘兩敗之仇,而與趙共事,西向以抗強秦,勝則利歸於趙,不勝則禍歸於燕,是為燕計者過也。」燕王曰:「寡人非甘心於趙,其奈力不敵何?」蔡澤曰:「今秦王欲修五國『合從』之怨,臣竊以為燕與趙世仇,其從兵殆非得已,大王若遣太子為質於秦,以信臣之言,更請秦之大臣一人,以為燕相,則燕秦之交,固於膠漆,合兩國之力,於以雪恥於趙不難矣。」燕王聽其言,遂使太子丹為質於秦,因請大臣一人,以為燕相。呂不韋欲遣張唐,使太史卜之,大吉。張唐託病不肯行。不韋駕車親自往請,張唐辭曰:「臣屢次伐趙,趙怨臣深矣!今往燕,必經趙過,臣不可往。」不韋再三強之,張唐堅執不從。

  不韋回府中,獨坐堂上納悶。門下客有甘羅者,乃是甘茂之孫,時年僅十二歲;見不韋有不悅之色,進而問曰:「君心中有何事?」不韋曰:「孺子何知,而來問我?」甘羅曰:「所貴門下土者,謂其能為君分憂任患也。君有事而不使臣得聞,雖欲效忠無地矣。」不韋曰:「吾向者令剛成君使燕,燕太子丹已入質矣。今欲使張卿相燕,占得吉,而彼堅不肯行,吾所以不快者此耳!」甘羅曰:「此小事,何不早言?臣請行之。」不韋怒,連叱曰:「去,去!我親往請之而不得,豈小子所能動耶?」甘羅曰:「昔項橐七歲為孔子師。今臣生十二歲,長於橐五年,試臣而不效,叱臣未晚。奈何輕量天下之士,遽以顏色相加哉?」不韋奇其言,改容謝之曰:「孺子能令張卿行者,事成當以卿位相屈。」甘羅欣然辭去,往見張唐。唐雖知為文信侯門客,見其年少輕之,問曰:「孺子何以見辱?」甘羅曰:「特來弔君耳!」張唐曰:「某有何事可弔?」甘羅曰:「君之功,自謂比武安君何如?」唐曰:「武安君南挫強楚,北威燕趙,戰勝攻取,破城墮邑,不計其數,某功不及十之一也。」甘羅曰:「然則應侯之用於秦也,視文信侯孰專?」張唐曰:「應侯不及文信侯之專。」甘羅曰:「君明知文信侯之權重於應侯乎?」張唐曰:「何為不知。」甘羅曰:「昔應侯欲使武安君攻趙,武安君不肯行,應侯一怒,而武安君遂出咸陽,死於杜郵。今文信侯自請君相燕,而君不肯行;此武安君所以不容於應侯者,而謂文信侯能容君乎?君之死期不遠矣。」張唐悚然有懼色,謝曰:「孺子教我!」乃因甘羅以請罪於不韋,即日治裝。將行,甘羅謂不韋曰:「張唐聽臣之說,不得已而往燕,然中情不能不畏趙也。願假臣車五乘,為張唐先報趙。」不韋已知其才,乃入言於秦王曰:「有甘茂之孫甘羅,年雖少,然名家之子孫,甚有智辯。今者張唐稱病,不肯相燕,甘羅一說而即行。復請先報趙王,惟王遣之!」秦王宣甘羅入見,身纔五尺,眉目秀美如畫,秦王已自喜歡,問曰:「孺子見趙王何以措詞?」甘羅對曰:「察其喜懼,相機而進。言若波興,隨風而轉,不可以預定也。」秦王給以良車十乘,僕從百人,從之使趙。

  趙悼襄王已聞燕秦通好,正怕二國合計謀趙,忽報秦使者來到,喜不可言,遂出郊二十里,迎接甘羅。及見其年少,暗暗稱奇,問曰:「向為秦通三川之路者,亦甘氏,於先生為何人?」甘羅曰:「臣祖也。」趙王曰:「先生年幾何?」對曰:「十二歲。」趙王曰:「秦廷年長者,不足使乎?何以及生生?」甘羅曰:「秦王用人,各因其任。年長者任以大事,年幼者任以小事。臣年最幼,故為使於趙耳。」趙王見其言辭磊落,又暗暗稱奇,問曰:「先生下辱敝邑,有何見教?」甘羅曰:「大王聞燕太子丹入質於秦乎?」趙王曰:「聞之。」甘羅又曰:「大王聞張唐相燕乎?」趙王曰:「亦聞之。」甘羅曰:「夫燕太子丹入質於秦,是燕不欺秦也。張唐相燕,是秦不欺燕也。燕秦不相欺,而趙危矣!」趙王曰:「秦所以親燕者何意?」甘羅曰:「秦之親燕,欲相與攻趙,而廣河間之地也。大王不如割五城獻秦,以廣河間,臣請言於寡君,止張唐之行,絕燕之好,而與趙為歡。夫以強趙攻弱燕,而秦不為救,此其所得,豈止五城而已哉?」趙王大悅,賜甘羅黃金百鎰,白璧二雙,以五城地圖付之,使還報秦王。秦王喜曰:「河間之地,賴孺子而廣矣!孺子之智,大於其身。」乃止張唐不遣,張唐亦深感之。趙聞張唐不行,知秦不助燕,乃命龐煖李牧合兵伐燕,取上谷三十城,趙得十九城,而以十一城歸秦。秦王封甘羅為上卿,復以向時所封甘茂田宅賜之。今俗傳甘羅十二為丞相,正謂此也。有詩為證:

    片言納地廣河間,上谷封疆又割燕;許大功勞出童子,天生智慧豈因年?

又有詩云:

    甘羅早達子牙遲,遲早窮通各有時;請看春花與秋菊,時來自發不愆期。

燕太子丹在秦,聞秦之背燕而與趙,如坐針氈,欲逃歸,又恐不得出關,乃求與甘羅為友,欲資其謀,為歸燕之計。忽一夕,甘羅夢紫衣吏持天符來,言:「奉上帝命,召歸天上。」遂無疾而卒。高才不壽,惜哉!太子丹遂留於秦矣。

  話分兩頭。卻說呂不韋以陽偉善戰,得寵於莊襄后,出入宮闈,素無忌憚;及見秦王年長,英明過人,始有懼意。奈太后淫心愈熾,不時宣召入甘泉宮。不韋怕一旦事發,禍及於己,欲進一人以自代,想可以稱太后之意者,而難其人。聞市人嫪大,其陽具有名,里中淫婦人爭事之。秦語呼人之無士行者曰毐,因稱為嫪毐。偶犯淫罪,不韋曲赦之,留為府中舍人。秦俗:農事畢,國中縱倡樂三日,以節其勞。凡百戲任人陳設,有一長一藝,人所不能者,全在此日施逞。呂不韋以桐木為車輪,使嫪毐以其陽具穿於桐輪之中,輪轉而具不傷,市人皆掩口大笑。太后聞其事,私問於不韋,似有欣羨之意。不韋曰:「太后欲見其人乎?臣請進之。」太后笑而不答,良久曰:「君戲言耶?此外人,安得入內?」不韋曰:「臣有一計在此。使人發其舊罪,下之腐刑,太后行重賂於行刑者,詐為閹割,然後以宦者給事宮中,乃可長久。」太后大悅曰:「此計甚妙!」乃以百金授不韋,不韋密召嫪毐,告之以故。毐性淫,欣然自以為奇遇矣。不韋果使人發其他淫罪,論以腐刑。因以百金分賂主刑官吏,取驢陽具及他血,詐作閹割,拔其鬚眉。行刑者故意將驢陽傳示左右,盡以為嫪毐之具。傳聞者莫不駭異。嫪毐既詐腐如宦者狀,遂雜於內侍之中以進。太后留侍宮中。夜令侍寢,試之,大暢所欲,以為勝不韋十倍也。明日,厚賜不韋,以酬其功。不韋乃倖得自脫。太后與嫪毐相處如夫婦。未幾懷姙,太后恐生產時不可隱,詐稱病,使嫪毐行金賂卜者,使詐言宮中有祟,當避西方二百里之外。秦王政頗疑呂不韋之事,亦幸太后稍遠去,絕其往來,乃曰:「雍州去咸陽西二百餘里,且往時宮殿俱在,太后宜居之。」於是太后徙雍城,嫪毐為御而往。既去咸陽,居雍故宮,名曰大鄭宮,嫪毐與太后,益相親不忌,兩年之中,連生二子,築密室藏而育之。太后私與毐約,異日王崩,以其子為後,外人頗有知者,但無人敢言。太后奏稱嫪毐代王侍養有功,請封以土地。秦王奉太后之命,封毐為長信侯,予以山陽之地。毐驟貴,愈益恣肆。太后每日賞賜無算,宮室輿馬,田獵遊戲,任其所欲,事無大小,皆決於毐。毐蓄家僮數千人,賓客求宦達,願為舍人者,復千餘人。又賄結朝貴為己黨,趨權者爭附之,聲勢反過於文信侯矣。

  秦王政九年春,彗星見,其長竟天,太史占之曰:「國中當有兵變也。」按秦襄公立鄜畤以祀白帝,後德公遷都於雍,遂於雍立郊天之壇,秦穆公又立寶夫人祠,歲歲致祭,遂為常規。後來雖再遷咸陽,此規不廢。太后居於雍城,秦王政每歲以郊祀之期,至雍朝見太后。因舉祀典,自有祈年宮駐駕。是春復當其期,適有彗星之變,臨行,使大將王翦耀兵於咸陽三日,同尚父呂不韋守國。桓齮引兵三萬,屯於岐山,然後起駕。時秦王已二十六歲,猶未冠。太后命於德公之廟,行冠禮,佩劍,賜百官大酺五日。太后亦與秦王宴於大鄭故宮。也是嫪毐享福太過,合當生出事來。毐與左右貴臣,賭博飲酒,至第四日,嫪毐與中大夫顏洩,連博失利,飲酒至醉,復求覆局。洩亦醉,不從。嫪毐直前扭顏洩,批其頰。洩不讓,亦摘去嫪毐冠纓。毐怒甚,瞋目大叱曰:「吾乃今王之假父也!爾窶人子,何敢與我抗乎?」顏洩懼,走出,恰遇秦王政從太后處飲酒出宮。顏洩伏地叩頭,號泣請死。秦王政是有心機之人,不發一言,但令左右扶至祈年宮,然後問之。顏洩將嫪毐批頰,及自稱假父之語,述了一遍。因奏:「嫪毐實非宦者,詐為腐刑,私侍太后,見今產下二子,在於宮中,不久謀篡秦國。」秦王政聞之,大怒,密以兵符往召桓齮,使引兵至雍。有內史肆、佐弋竭二人,素受太后及嫪毐金錢,與為死黨,知其事,急奔嫪毐府中告之。毐已酒醒,大驚,夜叩大鄭宮,求見太后,訴以如此這般:「今日之計,除非乘桓齮兵未到,盡發宮騎衛卒,及賓客舍人,攻祈年宮,殺卻今王,我夫妻尚可相保。」太后曰:「宮騎安肯聽吾令乎?」嫪毐曰:「願借太后璽,假作御寶用之。託言『祈年宮有賊,王有令,召宮騎齊往救駕。』宜無不從。」太后是時主意亦亂,曰:「惟爾行之。」遂出璽付毐。毐偽作秦王御書,加以太后璽文,遍召宮騎衛卒,本府賓客舍人,自不必說。亂至次日午牌,方纔取齊。嫪毐與內史肆、佐弋竭,分將其眾,圍祈年宮。秦王政登臺,問各軍犯駕之意。答曰:「長信侯傳言行宮有賊,特來救駕。」秦王曰:「長信侯便是賊!宮中有何賊耶?」宮騎衛卒等聞之,一半散去;一半膽大的,便反戈與賓客舍人相鬥。秦王下令:「有生擒嫪毐者,賜錢百萬;殺之而以其首獻者,賜錢五十萬;得逆黨一首者,賜爵一級;輿隸下賤,賞格皆同。」於是宦者及牧圉諸人,皆盡死出戰。百姓傳聞嫪毐造反,亦來持梃助力。賓客舍人死者數百人。嫪毐兵敗,奪路斬開東門出走,正遇桓齮大兵,活活的束手就縛,并內史肆、佐弋竭等皆被擒,付獄吏拷問得實。秦王政乃親往大鄭宮搜索,得嫪毐姦生二子於密室之中,使左右置於布囊中撲殺之。太后暗暗心痛,不敢出救,惟閉門流涕而已。秦王竟不朝謁其母,歸祈年宮。以太史占星有驗,賜錢十萬。獄吏獻嫪毐招詞,言:「毐偽腐入宮,皆出文信侯呂不韋之計。其同謀死黨,如內史肆、佐弋竭等,凡二十餘人。」秦王命車裂嫪毐於東門之外,夷其三族。肆、竭等皆梟首示眾。諸賓客舍人,從叛格鬥者,誅死;即不預謀亂者,亦遠遷於蜀地,凡遷四千餘家。太后用璽黨逆,不可為國母,減其祿奉,遷居於棫陽宮。此乃離宮之最小者。以兵三百人守之,凡有人出入,必加盤詰。太后此時,如囚婦矣,豈不醜哉。

  秦王政平了嫪毐之亂,回駕咸陽。尚父呂不韋懼罪,偽稱疾,不敢出謁。秦王欲并誅之,問於群臣。群臣多與交結,皆言:「不韋扶立先王,有大功於社稷;況嫪毐未嘗面質,虛實無憑,不宜從坐。」秦王乃赦不韋不誅,但免相,收其印綬。桓齮擒反賊有功,加封進級。是年夏四月,天發大寒,降霜雪,百姓多凍死。民間皆議:「秦王遷謫太后,子不認母,故有此異。」大夫陳忠進諫曰:「天下無無母之子,宜迎歸咸陽,以盡孝道,庶幾天變可回。」秦王大怒,命剝去其衣,置其身於蒺藜之上,而捶殺之,陳其屍於闕下,榜曰:「有以太后事來諫者,視此!」秦臣相繼來諫者不止。不知可能感悟秦王否,且看下回分解。

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