東周列國志第百零五回 茅焦、衣を解いて秦王を諫める/李牧、壁を堅くして桓齮を退ける (茅焦解衣諫秦王  李牧堅壁却桓齮)

茅焦、諫死を覚悟する

  • 話は続く。秦の大夫陳忠が死んだ後も、相継いで諫める者は止まず、秦王はそのたびに彼らを殺し、屍を宮門下に晒した。前後合わせて二十七人を誅殺し、屍は積み重なった。
  • このとき斉王建が秦に朝見に来ており、趙の悼襄王もまた来ていた。互いに咸陽宮で酒宴を開き甚だ歓んでいたが、宮門下の死屍を見るに及んで、その理由を問い、みな秦王の不孝を嘆き私かに議論した。
  • このとき滄州の人茅焦という者があり、たまたま咸陽に遊び、旅宿に泊まっていた。同宿の者たちがこの事に話が及ぶと、焦は憤然として言った、「子でありながら母を囚えるとは、天地が転倒したようなものだ」と。宿の主人に湯水を用意させ、「私は沐浴して、明朝、宮門を叩いて秦王に諫めよう」と言った。同宿の者は笑って「あの二十七人は、みな王が平生親信していた臣であったが、それでも言っても聞き入れられず、死は瞬く間であった。お前のような無位無官の者がひとり欠けているとでもいうのか(お前ごときが出る幕ではない)」と言った。茅焦は「諫める者が二十七人で止まったなら、秦王はついに聞き入れないだろう。もし二十七人で止まらなければ、王が聞くか聞かないか、それはまだ分からない」と言った。同宿の者はみなその愚かさを笑った。
  • 翌朝五更、主人に食事を求め、腹一杯食べた。主人は衣をつかんで止めようとしたが、茅焦は衣を振り切って去った。同宿の者たちは彼が必ず死ぬものと見積もり、互いにその衣類・荷物を分け合った。

湯鑊の前の諫言

  • 茅焦は宮門下に至り、屍に伏して大声で叫んだ、「臣は斉の客茅焦、大王に諫言を上げたく存じます」と。秦王は内侍を出して問わせた、「客の諫めるものは何事か、王太后のことに関わりないか」と。茅焦は「臣はまさにこれについて参りました」と言った。内侍が戻って報告した、「客は果たして太后のことで諫めに参りました」と。
  • 秦王は「あの者に宮門下に積まれた屍を見せてやれ」と言った。内侍は茅焦に言った、「客は宮門下に死人が累々としているのを見ないのか。どうしてこれほどまで死を恐れないのか」と。茅焦は言った、「臣は聞いております、天には二十八宿があり、地に降りれば立派な人物となると。今、死んだ者はすでに二十七人、まだ一人足りない、臣が来たのは、その数を満たすためです。古来、聖賢と言えども誰が死なずにいられましょうか、臣がまた何を恐れましょう」と。
  • 内侍は再び戻って報告した。秦王は大いに怒って「狂夫め、あえて私の禁令を犯すか」と言い、左右を顧みて「庭に鑊を据えて湯を沸かせ、生きたまま煮てやろう。あの者にどうして全き屍を宮門下に残させ、二十七人の数を満たさせられようか」と言った。そこで秦王は剣を按じて座り、眉を逆立て、口から泡を吹き、怒気は激しく抑えがたく、続けて「狂夫を召して煮殺せ」と叫んだ。
  • 内侍が茅焦を召しに行くと、茅焦はわざとゆっくりした小刻みな足取りで、急いで進もうとしなかった。内侍が急ぐよう促すと、茅焦は言った、「私は王に会えばすぐに死ぬのだ、しばらく猶予があってどうして害があろうか」と。内侍は憐れみ、扶けながら前に進ませた。
  • 茅焦は階下に至り、再拝して額を地につけてぬかずき、奏上した、「臣が聞くところでは、『生ある者はその死を口にするのを忌まず、国ある者はその滅亡を口にするのを忌まない。滅亡を口にするのを忌む者は存続を得られず、死を口にするのを忌む者は生を得られない』と言います。そもそも死生存亡の計は、明主の心を尽くすべきところです。大王はこれをお聞きになりたいでしょうか」と。秦王は怒りをやや収め、問うた、「お前にどんな計があるのか、試みに言ってみよ」と。
  • 茅焦は答えて言った、「忠臣は追従の言葉を進めず、明主は道に外れた行いを踏みません。主に悖った行いがあって臣が言わなければ、これは臣が君に背くことになります。臣に忠言があって君が聞かなければ、これは君が臣に背くことになります。大王には天に逆らう悖った行いがありながら、大王自らはそれをお気づきになりません。微臣には耳に逆らう忠言がありながら、大王はまたそれをお聞きになろうとしません。臣は秦国がこれより危うくなることを恐れます」と。
  • 秦王は驚いて長い間黙り、顔色はますます和らいだ。「お前は何の事を言うのか、寡人は聞きたい」と言った。茅焦は「大王は今日、天下のことを事としておられないのですか」と言った。秦王は「その通りだ」と言った。
  • 茅焦は言った、「今、天下が秦を尊ぶ理由は、ただ威力によるだけではございません。また大王が天下の雄主であり、忠臣烈士がみな秦の朝廷に集まっているからでもあります。今、大王は義父(假父・嫪毐)を車裂きにされ、不仁の心をお持ちです。二人の弟を袋に入れて撲殺され、兄弟に情を欠くという名をお持ちです。母を棫陽宮に遷され、不孝の行いをお持ちです。諫める士を誅戮し、屍を宮門下に晒し、桀紂の治めをお持ちです。天下のことを事とすると言いながら、行っておられることがこの通りでは、どうして天下を服せられましょうか。昔、舜は愚かな母に仕えて孝道を尽くし、(堯に)取り立てられて帝となりました。桀は龍逢を殺し、紂は比干を戮し、天下はこれに叛きました。臣は自ら死を免れないことを知っております。ただ恐れますのは、臣が死んだ後、もはや二十八人の後を継いで諫言を進める者がいなくなることです。怨みと謗りが日ましに高まり、忠臣の謀は口をつぐみ、内外の心は離れ、諸侯は叛くでしょう。惜しいことです、秦の帝業がまさに成就しようとするその時に、これを敗るのは大王ご自身によるのです。臣の言葉は以上でございます、どうか烹られる刑にお処しください」と。
  • そう言って立ち上がり衣を脱いで鑊に向かって進んだ。秦王は急いで殿を下り、左手で茅焦を支え、右手を振って左右に合図し、「煮殺しの釜を退けよ」と命じた。茅焦は「大王はすでに諫言を拒む告示を掲げられました。臣を煮なければ、信を立てられません」と言った。秦王は再び左右に命じて告示を撤収させた。また内侍に命じて茅焦に衣を着せ、座に招き、謝って言った、「先に諫めた者たちは、ただ寡人の罪を数え立てるだけで、存亡の計をはっきりと述べた者はいなかった。天が先生を遣わし寡人の頑迷を開いてくださった、寡人はあえて謹んで拝聴しないことがあろうか」と。
  • 茅焦は再拝して進んで言った、「大王がすでに臣の言葉をお聞き入れくださったのなら、どうか速やかに御駕を備え、太后をお迎えください。宮門下の屍は、みな忠臣の血肉です、どうか棺を賜り葬らせてください」と。秦王はすぐに司里に命じ、二十七人の屍を収め、それぞれ棺槨を備えさせ、共に龍首山に葬らせ、その表に「会忠墓」と記させた。この日、秦王は自ら駕を発し、太后を迎えに、茅焦に車を御させ、雍州へ向けて進発した。南屏先生の読史詩がある。(詩:宮門下に積み重なった二十七人の屍、その中を衣を脱いで鑊に進んだ茅焦の勇気を称え、天命により死を免れて忠義の名を万古に留めたことを詠じる内容)

太后との再会、呂不韋の左遷と服毒死

  • 車駕が棫陽宮に至ろうとする頃、先に使者を遣わして知らせを伝えさせた。秦王は膝行して進み、太后に見えると額を地につけて拝し、大いに泣いた。太后もまた涙を流してやまなかった。秦王は茅焦を太后に引き合わせ、指して「これは私にとっての穎考叔でございます」と言った。この夜、秦王は棫陽宮に泊まった。
  • 翌日、太后を輦に乗せて先導させ、秦王は後に従った。千乗万騎が雲のように取り囲み、道行く見物人はみな秦王の孝行を称賛した。咸陽に帰ると甘泉宮で酒宴を開き、母子は歓びを共にして飲んだ。太后は別に酒宴を設けて茅焦を招き、謝して言った、「私たち母子が再び会えたのは、みな茅君の力によるものです」と。秦王は茅焦を太傅に拝し、上卿の爵位を与えた。
  • また不韋が再び宮中と通じることを恐れ、都から出させ、河南の本国に居住させた。列国は文信侯(呂不韋)が封国に赴いたと聞き、それぞれ使者を送って安否を問い、争って呂不韋を招いて相の位に処そうとし、使者が道に絶えなかった。秦王は不韋が他国に用いられ、秦の害となることを恐れ、自ら一封の書をしたためて不韋に賜った。おおよそこう書かれていた。「あなたに秦への何の功があって、十万戸を封じられたのか。あなたに秦への何の親があって、尚父と号されたのか。秦があなたに施したことは厚いものである。嫪毐の逆は、あなたより始まった。寡人は誅を加えることを忍びず、あなたが封国に赴くことを許した。あなたは自ら禍を悔いず、また諸侯の使者と交わりを結んでいる。これは寡人があなたを寛大に扱った意図に背くものである。あなたの家族とともに蜀郡に遷り、郫の一城をもって、あなたの終老の地とせよ」と。
  • 呂不韋は書を読み終わると、怒って言った、「私は家を破って先王を助けて即位させた、その功において誰が私に及ぼうか。太后は私に先に仕え、それから懐妊した。王は私から生まれたのだ、その親しさにおいて誰が私に及ぼうか。王はどうしてこれほどまで私を裏切るのか」と言った。しばらくして、また嘆いて言った、「私は商人の子として、陰謀をもって人の国を奪い、人の妻を淫し、人の君を殺し、人の祀を滅ぼした。皇天がどうして私を容れようか。今日死ぬのは遅すぎたくらいだ」と。そこで酒に鴆毒を入れ、これを服して死んだ。門下の客で普段からその恩を受けていた者たちは、共にその屍を盗み運び、密かに北邙山の麓に葬り、その妻と合葬した。今、北邙の道の西に大きな塚があり、民間では呂母塚と伝えられているが、これは賓客が不韋の葬られた場所であることを憚って言わなかったためである。

逐客令とその撤回

  • 秦王は不韋がすでに死んだと聞き、その屍を求めさせたが得られなかったので、その賓客をすべて追放した。そこで国中に大いに捜索を命じ、他国から来た客はすべて咸陽への居住を禁じ、すでに仕えている者はその官を削り、三日以内にすべて国境の外に追放し、これを匿う家があれば、同様に罪に処するとした。
  • 楚国上蔡の人李斯という者があり、これは名賢荀卿の弟子であり、広く学問があり、かつて秦国に遊学し、呂不韋に仕えて舎人となっていた。不韋はその才能を秦王に薦め、客卿に拝されていた。今回の逐客令が下ると、李斯もその中に含まれ、すでに司里によって咸陽城外に追い出された。
  • 斯は途中で上表文をしたため、機密の事だと偽って郵伝を通じて秦王に届けさせた。おおよそこう書かれていた。「臣が聞くところでは、『太山は土壌を厭わない、それゆえにその高さを成す。河海は細流を選ばない、それゆえにその深さを成す。王者は衆庶を退けない、それゆえにその徳を成す』と申します。昔、穆公の覇業には、西は繇余を戎から取り、東は百里奚を宛から得、蹇叔を宋から迎え、芈豹・公孫枝を晋に求めました。孝公は商鞅を用いて秦国の法を定め、恵王は張儀を用いて六国の合従を散じさせ、昭王は范睢を用いて併呑の謀を得ました。この四君はみな客に頼ってその功を成しました、客に秦に対する何の負い目がございましょうか。大王がもしどうしても客を追放されるなら、客は秦を去って敵国のために用いられるでしょう。秦のために忠を尽くし謀をなす者を求めても、得られなくなりましょう」と。
  • 秦王はこの書を読んで大いに悟り、逐客の令を除き、人を遣わして車を馳せ李斯を追わせ、驪山の麓で追いついた。斯はそこで咸陽に戻り、秦王はその官を復させ、以前のように用いた。

李斯の併呑の策と韓非の死

  • 李斯はそこで秦王に説いて言った、「昔、秦の穆公が覇を興したとき、諸侯はなお多く、周の徳もまだ衰えておりませんでしたので、併呑の術を行うことはできませんでした。孝公以来、周室は衰え弱まり、諸侯は互いに併合し合い、わずかに六国が残るのみとなりました。秦が諸侯を服属させてから、一代のみのことではございません。秦の強さ、大王の賢明さをもってすれば、諸国を掃討することは、竈の塵を払うがごとくたやすいことです。それなのにこの時を逃さず功を図ろうとせず、じっと座して諸侯が再び強大になり、集い合って『合従』するのを待つのは、悔いても及びません」と。秦王は「寡人は六国を併呑しようと思う、どのような計を出すべきか」と言った。李斯は「韓は秦に近く弱い、まず韓を取り、諸国を懼れさせるべきです」と言った。
  • 秦王はその計に従い、内史騰を将とし、兵十万を率いて韓を攻めさせた。このとき韓の桓恵王はすでに薨じ、太子安が即位していた。公子非という者があり、刑名法律の学に優れていた。韓の衰退を見て、しばしば韓王安に上書したが、韓王は用いなかった。
  • 秦の兵が韓を討つに及び、韓王は恐れた。公子非は自らの才を誇り、秦国に用いられることを求め、自ら韓王に願い出て、使者として秦に赴き、兵を止めさせることを求めた。韓王はこれに従った。公子非は西へ秦王に会いに行き、韓王が土地を納めて秦の東の藩となることを願っていると言った。秦王は大いに喜んだ。
  • 非はそこで説いて言った、「臣に天下の『合従』を破る計がございます、これにより秦の併呑の謀を遂げることができます。大王が臣の計を用いて、もし趙が挙げられず、韓が滅びず、楚・魏が臣従せず、斉・燕が附かなければ、臣の首を斬って国に晒し、人臣として不忠なる者への戒めとしてください」と願い出た。そして自ら著した『説難』『孤憤』『五蠹』『説林』などの書、五十余万言を献じた。秦王はこれを読んで善しとし、客卿として用い、国事を議させようとした。
  • 李斯はその才を忌み、秦王に讒言して言った、「諸侯の公子は、それぞれ自分の親族を親しむものです、どうして他人のために用いられましょうか。秦が韓を攻めたので、韓王は急を憂えて非を秦に遣わしたのです。どうしてこれが蘇秦の反間の計と同じではないと言えましょうか。非は用いるべきではございません」と。秦王は「それでは追放するか」と言った。李斯は「昔、魏の公子無忌、趙の公子平原は、みなかつて秦に留まりましたが、秦は用いず、彼らを国に帰らせたため、ついに秦の患いとなりました。非には才がございます、殺すに越したことはございません、そうすれば韓の羽翼を切ることになります」と言った。秦王はそこで韓非を雲陽に囚え、殺そうとした。
  • 非は「私に何の罪があるのか」と言った。獄吏は「一つの巣に二人の雄はいない。今の世では、才ある者は用いられなければ誅されるものだ、何の罪が必要か」と言った。非はそこで慷慨して詩を賦した。(詩:『説難』はまことに難しく、『孤憤』の憤りはどうして已もうか、「五蠹」も未だ除かれず、「説林」も何を取れようか、膏は香りゆえに燃え尽き、麝は臍ゆえに死ぬ、と自らの才が身を滅ぼす様を嘆く内容)
  • その夜、非は冠の紐で自ら喉を絞めて死んだ。韓王は非の死を聞き、ますます恐れ、国を挙げて秦に附し臣を称すことを願った。秦王はそこで内史騰に兵を止めるよう詔した。

尉繚の献策と秦の破趙戦略

  • 秦王はある日、李斯と事を議し、韓非の才を讃えつつ、その死を惜しんだ。李斯はそこで進んで言った、「臣が一人を推薦いたします、姓は尉、名は繚、大梁の人です。深く兵法に通じ、その才は韓非の十倍勝ります」と。秦王は「その人は今どこにいるのか」と言った。李斯は「今、咸陽におります。しかしその人は自負が甚だ高く、臣下の礼をもって屈することはできません」と言った。
  • 秦王はそこで賓礼をもってこれを召した。尉繚は秦王に会うと、両手を組んで会釈するだけで、拝礼しなかった。秦王も礼をもって答え、上座に置き、先生と呼んだ。尉繚はそこで説いて言った、「そもそも列国が強秦に対しては、たとえば郡県のようなものです。分散していれば尽くしやすく、合すれば攻めがたいものです。三晋が合して智伯が滅び、五国が合して斉の湣王が逃げました。大王はこれを考慮なさらねばなりません」と。
  • 秦王は「彼らが分散して再び合わないようにするには、先生はどのような計を出されますか」と言った。尉繚は答えて言った、「今、列国の国家の計は、みな権勢ある重臣によって決せられております。その重臣たちがどうしてみな忠義と智慧を備えておりましょうか、多くの財物を得て楽しむだけのことでございます。大王は府庫の財を惜しまず、その国々の重臣に厚く賄賂を贈り、その謀を乱していただければ、三十万金を失うだけで、諸侯をすべて併呑することができましょう」と。
  • 秦王は大いに喜び、尉繚を上客として尊び、対等の礼をもって遇し、衣服・飲食もすべて自分と同じものを与え、しばしばその館を訪れ、ひざまずいて教えを請うた。尉繚は言った、「私が秦王の人となりを細かく観察するに、鼻は高く隆く目は長く、胸は鶻のように突き出て声は豺のようにしわがれ、心中には虎狼の心を懐き、残忍で恩情が少なく、人を用いる時は軽々しく屈し、用いない時も軽々しく捨てる。今は天下がまだ統一されていないため、身分の低い者にも屈身を惜しまないが、もし志を得れば、天下はみな魚肉とされてしまうだろう」と言った。
  • ある夜、告げずに去った。館吏が急いで秦王に報告した。秦王は片腕を失ったかのようになり、軺車を四方に遣わして追い戻させ、彼と誓いを立て、太尉に拝して兵事を主らせた。その弟子はみな大夫に拝された。そこで大いに内帑の金銭を出し、賓客・使者を分けて列国に派遣し、寵臣で実権を握っている者を見定め、これに厚く賄賂を贈らせ、その国の情勢を探らせた。
  • 秦王はさらに尉繚に併呑の順序を問うた。尉繚は言った、「韓は弱く攻めやすいので、まず最初にすべきです。次は趙・魏に及ぶべきでしょう。三晋がすべて尽きれば、すぐに兵を挙げて楚に加えるべきです。楚が亡べば、燕・斉もどこへ行けましょうか」と。秦王は「韓はすでに藩を称しているが、趙王はかつて咸陽宮で酒宴を開いた仲であり、兵を加える名分がない、どうすればよいか」と言った。
  • 尉繚は言った、「趙の地は大きく兵は強く、しかも韓・魏の助けがございます、一挙に滅ぼすことはできません。韓が内附して藩を称せば、趙は助けの半分を失うことになります。王がもし趙を討つ名分がないことを憂えるなら、まず魏に兵を加えるべきです。趙王には寵臣郭開という者があり、貪欲で満足を知りません。臣は弟子の王敖を魏に遣わし、魏王を説いて郭開に賄賂を贈らせ、趙王に救援を求めさせます。趙は必ず兵を出すでしょう、我らはそれをもって趙の罪とし、兵を移してこれを撃ちます」と。秦王は「善し」と言った。
  • そこで大将桓齮に兵十万を率いさせ、函谷関を出て、魏を討つと言い触らさせた。さらに尉繚の弟子王敖を魏に遣わし、黄金五万斤を持たせ、思うままに使わせた。
  • 王敖は魏に至り、魏王に説いて言った、「三晋が強秦に対抗できるのは、唇と歯のように互いに助け合っていたからです。今、韓はすでに土地を納めて藩を称し、趙王は自ら咸陽に赴いて酒宴で歓を交わしました。韓と趙が手を取り合って秦に事えていますので、秦の兵が魏に至れば、魏は危うくなりましょう。大王はなぜ鄴城を割いて趙に贈り、趙に救援を求めないのですか。趙が兵を出して鄴を守れば、これは趙が魏に代わって守るのと同じことです」と。
  • 魏王は「先生は必ずそれを趙王から得られると思われるか」と言った。王敖は嘘を言って「趙の実権を握る者郭開とは、臣は普段から親しくしております。自ずと得られましょう」と言った。魏王はこの言葉に従い、鄴郡の三城の地界を、国書とともに王敖に付し、趙国に救援を求めに行かせた。
  • 王敖はまず黄金三千斤で郭開に取り入り、それから三城の事を語った。郭開は魏の金を受け取り、悼襄王に言った、「秦が魏を討つのは、魏を併呑しようとしているのです。魏が亡べば、それは趙にも及びます。今、魏は鄴郡の三城を割いて救援を求めております、王はこれをお聞き入れになるべきです」と。悼襄王は扈輒に兵五万を率いさせ、その地を受け取らせた。
  • 秦王はそこで桓齮に鄴を攻めさせた。扈輒は兵を出して防ぎ、東崮山で大戦した。扈輒の兵は敗れた。桓齮は勝ちに乗じて追撃し、そのまま鄴を落とし、続けて九城を破った。扈輒は宜安に籠もり、人を遣わして趙王に急を告げた。趙王は群臣を集めて共に議論した。みな言った、「昔は廉頗だけが秦の兵を防ぐことができました。龐氏・楽氏もまた良将と称されましたが、今、龐煖はすでに死に、楽氏にも人材がおりません。ただ廉頗のみが魏に残っております、なぜ彼を召さないのですか」と。

郭開の讒言、廉頗の悲運

  • 郭開は廉頗と仇があり、彼が再び用いられることを恐れ、趙王に讒言して言った、「廉将軍は年すでに七十近く、筋力は衰えておりましょう。しかも以前、楽乗の一件で確執がございます。もし召しても用いなければ、かえって怨望を増すことになりましょう。大王はしばらく人を遣わして様子を見させ、もしまだ衰えていなければ、その時に召しても遅くはございません」と。趙王はこの言葉に惑わされ、内侍唐玖に𤠯猊の名甲一領、良馬四匹を持たせて労わせ、あわせてその様子を探らせた。
  • 郭開は密かに唐玖を自宅に招き、酒宴を設けてもてなし、黄金二十鎰を餞別として贈った。唐玖はその厚遇を訝しみ、功もないのにと固辞したが、郭開は言った、「一つ相談したいことがある、必ずこの金を受け取ってもらわねば、口を開けない」と。玖はそこでその金を受け取り、「郭大夫は何を仰りたいのですか」と問うた。郭開は言った、「廉将軍と私は普段から仲が良くない。あなたが今度出向いた際、もし彼の筋力が衰えていれば言うまでもないが、万一まだ壮健であっても、あなたからいくつか言葉を添えていただきたい、老いてもう使い物にならないと。そうすれば趙王は二度と召さないだろう、これがあなたの厚いお志というものだ」と。
  • 唐玖は命を受け、そのまま魏国へ行き、廉頗に会って趙王の命を伝えた。廉頗は問うた、「秦の兵が今、趙を犯しているのか」と。唐玖は「将軍はどうしてお分かりになるのですか」と言った。廉頗は言った、「私は魏に数年いるが、趙王からは一言の便りもなかった。今、突然名甲・良馬の下賜があったのは、必ず私を用いる場があるということだ、これで分かるのだ」と。唐玖は「将軍は趙王を恨んでおられませんか」と言った。廉頗は「私はまさに日夜、趙の兵を率いたいと思っているのだ、どうして趙王を恨むことがあろうか」と言った。
  • そこで唐玖を留めて共に食事をし、わざと彼の前で気力を見せつけ、一度の食事で米一斗を平らげ、肉十余斤を食い、狼が餐り虎が呑むがごとくに、腹一杯食べた。それから趙王が下賜した甲を身にまとい、一躍馬に飛び乗り、飛ぶように馬を駆けさせた。さらに馬上で長戟を数回振り回し、それから馬を下りて唐玖に言った、「私は若い頃と比べてどうか。何とぞ趙王によろしくお伝えいただきたい、なお余生をもって報効したいと存じます」と。
  • 唐玖ははっきりと廉頗の気力体力が強壮であるのを見たが、私かに郭開の賄賂を受けていたため、邯鄲に帰ると趙王に言った、「廉将軍は年老いたとはいえ、なお肉を食べご飯もよく召し上がりますが、腹下しの病(脾の疾)がございまして、臣と同座している間に、たちまち三度も便を漏らされました」と。趙王は嘆いて「戦闘の際にどうして便を漏らすことに堪えられようか。廉頗は果たして老いたな」と言い、そのまま二度と召さず、ただ扈輒への援軍を増やすだけであった。時は趙の悼襄王の九年、秦王政の十一年であった。
  • その後、楚王は廉頗が魏にいると聞き、人を遣わして召した。頗は(魏から)今度は楚へ出奔して楚の将となったが、楚の兵が趙に及ばないことから、鬱々として志を得ぬまま死んだ。哀れなことである。史臣に詩がある。(詩:老練な名将廉頗が、便を漏らしたという讒言によってどうしようもなくなったことを述べ、呉が滅び太宰嚭が死んだ故事を引き、郭開が金を受け取ったことをどれほど多く重ねたのかと批判する内容)

郭開の内応、悼襄王の死

  • このとき王敖はなお趙にとどまっており、郭開に「あなたは趙の滅亡を憂えないのか。なぜ王に廉頗を召すよう勧めないのか」と言った。郭開は「趙の存亡は国全体の事だ。しかし廉頗は、ただ私一人の仇である。どうして再び趙に来させられようか」と言った。王敖はその国のために尽くす心がないことを知り、さらに探って「万一趙が亡べば、あなたはどこへ行かれるのか」と言った。郭開は「私は斉・楚のいずれかを選んで身を託そうと思う」と言った。
  • 王敖は言った、「秦には天下を併呑する勢いがございます、斉も楚も趙・魏と同じようなものです。あなたのためを思えば、秦に身を託すに越したことはございません。秦王は度量が広く、自らを屈して賢者に下り、人に対して容れないところがございません」と。郭開は「あなたは魏人なのに、どうして秦王のことをそこまで深くご存じなのか」と言った。王敖は「私の師尉繚子は、今は秦の太尉となっており、私もまた秦に仕えて大夫となっております。秦王はあなたが趙の権を握っておられることを知り、それゆえ私にあなたと親交を結ぶよう命じられたのです。差し上げた黄金は、実は秦王からの贈り物です。もし趙が亡べば、あなたは必ず秦に来られるでしょう、その時には上卿の位を授けましょう。趙の美田・宅地も、あなたの望むままにいたします」と言った。
  • 郭開は「あなたが本当に私を推薦してくださるなら、何かお申し付けがあれば、すべてお受けいたしましょう」と言った。王敖はさらに黄金七千斤を郭開に渡して言った、「秦王が一万金をもって私に託し、趙の将相との交わりを結ぶようにと。今、これをすべてあなたに渡しておきます、後に事があれば、またお願いすることになりましょう」と。郭開は大いに喜んで「開は秦王の厚い贈り物を受けた以上、心を尽くして報いなければ、それは人ではない」と言った。
  • 王敖はそこで郭開に別れを告げ秦に帰り、残った金四万斤を持って復命し、「臣は一万金で郭開を片付け、一人の郭開で趙を片付けました」と言った。秦王は趙が廉頗を用いなかったと知り、さらに桓齮に進軍を催促した。趙の悼襄王は憂いと恐れのあまり、一病にして薨じた。

嫡子嘉の廃太子と李牧の登用、桓齮の大敗

  • 悼襄王の嫡子は嘉といった。趙には歌舞を業とする女芸人(女娼)がおり、歌舞に優れていた。悼襄王はこれを寵愛し、宮中に留め、子を生ませ、名を遷とした。悼襄王はその女芸人を愛し、それゆえ遷にも及んで、嫡子嘉を廃して庶子遷を太子に立て、郭開を太傅とした。遷はもとより学問を好まず、郭開はさらに声色狗馬の事で導いたので、二人はたいへん気が合った。
  • 悼襄王がすでに薨じると、郭開は太子遷を奉じて即位させた。公子嘉には三百戸を封じ、国中に留めた。郭開は相国となって政を執った。
  • 桓齮は趙の喪に乗じ、宜安で趙軍を撃破し、扈輒を斬り、十万余人を殺し、邯鄲に迫った。趙王遷は太子であったとき、代守李牧の能力を聞いていたので、人を遣わして急使を出し、大将軍の印を持たせて李牧を召した。牧は代におり、選抜の戦車千五百乗、選抜の騎兵一万三千匹、精兵五万余人を有していた。そのうち戦車三百乗、騎兵三千、兵一万人を残して代を守らせ、残りをすべて自ら率いて従わせ、邯鄲城外に屯し、単身で城に入って趙王に謁見した。
  • 趙王は秦を退ける策を問うた。李牧は奏上して言った、「秦は連戦連勝の勢いに乗じ、その鋭鋒は容易に挫けません。臣に臨機応変の権を与えていただき、法にとらわれないようにしていただければ、初めて命をお受けできます」と。趙王はこれを許した。また「代の兵は戦に堪えるか」と問うた。李牧は「戦うにはまだ足りませんが、守るには余りございます」と言った。趙王は「今、境内の精鋭兵をすべて挙げれば、なお十万ございます、趙蔥・顔聚にそれぞれ五万を率いさせ、あなたの指揮に従わせよう」と言った。
  • 李牧は命を拝して出発し、肥纍に陣を並べ、壁塁を設けて堅く守り、戦わなかった。毎日牛を屠って士卒をもてなし、隊を分けて弓射の腕を競わせた。兵士は日々賞賜を受け、自ら出撃を望んだが、牧は終始許さなかった。桓齮は言った、「昔、廉頗が堅壁をもって王齮を防いだ、今、李牧もまたこの計を用いているのだ」と。そこで兵の半分を分けて甘泉市を襲わせた。趙蔥はこれを救おうと求めた。
  • 李牧は言った、「彼が攻めて我らが救うのは、人に主導権を握られるということだ、兵家の忌むところである。彼の陣営を攻める方がよい。彼は今、甘泉市に事があり、その陣営は必ず手薄になっている。しかも我らが久しく堅壁を守っているのを見て、戦の備えをしていないだろう。もしその陣営を襲い破れば、桓齮の気勢は挫かれよう」と。そこで兵を三手に分け、夜、その陣営を襲った。
  • 陣営は趙の兵が突然到着するとは思いもよらず、そのまま大潰走した。趙軍は名のある牙将十余員を殺し、士卒の死者は数え切れないほどであった。敗残兵は甘泉市に走り、桓齮に報告した。桓齮は大いに怒り、全軍を挙げて戦いに来た。李牧は両翼を張って待ち構え、代の兵は勇を奮って先を争った。交戦がまさに酣となると、左右の両翼が並んで進み、桓齮は支えきれず、大敗して咸陽へ逃げ帰った。
  • 趙王は李牧に秦を退けた功があったとして、「牧は私にとっての白起である」と言い、武安君に封じ、食邑一万戸を与えた。秦王政は桓齮の敗戦に怒り、彼を庶人に廃した。改めて大将王翦・楊端和に、それぞれ兵を率いさせ、道を分けて趙を討たせた。勝敗がどうなるか、それは次回を見て解かれよう。
原文(底本)
話說秦大夫陳忠死後,相繼而諫者不止,秦王輒戮之,陳屍闕下,前後凡誅殺二十七人,屍積成堆。時齊王建來朝於秦,趙悼襄王亦至,相與置酒咸陽宮甚懽,及見闕下死屍,問其故,莫不嘆息私議秦王之不孝也。時有滄州人茅焦,適遊咸陽,寓旅店,同舍偶言及此事,焦憤然曰:「子而囚母,天地反覆矣。」使主人具湯水:「吾將沐浴,明早叩閽入諫秦王。」同舍笑曰:「彼二十七人者,皆王平日親信之臣,尚且言而不聽,死不旋踵,豈少汝一布衣耶?」茅焦曰:「諫者自二十七人而止,則秦王遂不聽矣;若二十七人而不止,王之聽不聽,未可知也。」同舍皆笑其愚。次早五鼓,向主人索飯飽食。主人牽衣止之,茅焦絕衣而去。同寓者度其必死,相與剖分其衣囊。

  茅焦來至闕下,伏屍大呼曰:「臣齊客茅焦,願上諫大王!」秦王使內侍出問曰:「客所諫者何事?得無涉王太后語耶?」茅焦曰:「臣正為此而來。」內侍還報曰:「客果為太后事來諫也。」秦王曰:「汝可指闕下積屍告之。」內侍謂茅焦曰:「客不見闕下死人纍纍耶?何不畏死若是!」茅焦曰:「臣聞天有二十八宿,降生於地,則為正人。今死者已有二十七人矣,尚缺其一,臣所以來者,欲滿其數耳。古聖賢誰人不死,臣又何畏哉?」內侍復還報。秦王大怒曰:「狂夫故犯吾禁!」顧左右:「炊鑊湯於庭,當生煮之。彼安得全屍闕下,為二十七人滿數乎?」於是秦王按劍而坐,龍眉倒喼,口中沫出,怒氣勃勃不可遏,連呼:「召狂夫來就烹!」內侍往召茅焦,茅焦故意踽踽作細步,不肯急趨。內侍促之速行,茅焦曰:「我見王即死矣!緩吾須臾何害?」內侍憐之,乃扶掖而前。茅焦至階下,再拜叩頭奏曰:「臣聞之:『有生者不諱其死,有國者不諱其亡;諱亡者不可以得存,諱死者不可以得生。』夫死生存亡之計,明主之所究心也。不審大王欲聞之否?」秦王色稍降,問曰:「汝有何計,可試言之?」茅焦對曰:「夫忠臣不進阿順之言,明主不蹈狂悖之行。主有悖行而臣不言,是臣負其君也;臣有忠言而君不聽,是君負其臣也。大王有逆天之悖行,而大王不自知,微臣有逆耳之忠言,而大王又不欲聞,臣恐秦國從此危矣。」秦王悚然良久,色愈降,乃曰:「子所言何事?寡人願聞之。」茅焦曰:「大王今日不以天下為事乎?」秦王曰:「然。」茅焦曰:「今天下之所以尊秦者,非獨威力使然;亦以大王為天下之雄主,忠臣烈士,畢集秦庭故也。今大王車裂假父,有不仁之心;囊撲兩弟,有不友之名;遷母於棫陽宮,有不孝之行;誅戮諫士,陳屍闕下,有桀紂之治。夫以天下為事,而所行如此,何以服天下乎?昔舜事嚚母盡道,升庸為帝;桀殺龍逢,紂戮比干,天下叛之。臣自知必死,第恐臣死之後,更無有繼二十八人之後,而復以言進者。怨謗日騰,忠謀結舌,中外離心,諸侯將叛,惜哉,秦之帝業垂成,而敗之自大王也。臣言已畢,請就烹!」乃起立解衣趨鑊,秦王急走下殿,左手扶住茅焦,右手麾左右曰:「去湯鑊!」茅焦曰:「大王已懸榜拒諫,不烹臣,無以立信。」秦王復命左右收起榜文。又命內侍與茅焦穿衣,延之坐,謝曰:「前諫者,但數寡人之罪,未嘗明悉存亡之計。天使先生開寡人之茅塞,寡人敢不敬聽!」茅焦再拜進曰:「大王既俯聽臣言,請速備駕,往迎太后;闕下死屍,皆忠臣骨血,乞賜收葬!」秦王即命司里,收取二十七人之屍,各具棺槨,同葬於龍首山,表曰:「會忠墓」。是日秦王親自發駕,往迎太后,即令茅焦御車,望雍州進發。南屏先生讀史詩云:

    二十七人屍纍纍,解衣趨鑊有茅焦;命中不死終須活,落得忠名萬古標。

車駕將至棫陽宮,先令使者傳報,秦王膝行而前,見了太后,叩頭大哭,太后亦垂淚不已。秦王引茅焦謁見太后,指曰:「此吾之穎考叔也。」是晚,秦王就在棫陽宮歇宿。次日,請太后登輦前行,秦王後隨,千乘萬騎,簇擁如雲,路觀者無不稱頌秦王之孝。回至咸陽,置酒甘泉宮中,母子歡飲。太后別置酒以宴茅焦,謝曰:「使吾母子復得相會,皆茅君之力也。」秦王乃拜茅焦為太傅,爵上卿。又恐不韋復與宮闈相通,遣出都城,往河南本國居住。列國聞文信侯就國,各遣使問安,爭欲請之,處以相位,使者絡繹於道。秦王恐其用於他國,為秦之害,乃手書一緘,以賜不韋。略曰:

    君何功於秦,而封戶十萬?君何親於秦,而號稱尚父?秦之施於君者厚矣!嫪毐之逆,由君始之,寡人不忍加誅,聽君就國。君不自悔禍,又與諸侯使者交通非寡人所以寬君之意也。其與家屬徙居蜀郡,以郫之一城,為君終老。呂不韋接書讀訖,怒曰:「吾破家扶立先王,功孰與我?太后先事我而得孕,王我所出也,親孰與我?王何相負之甚也!」少頃,又嘆曰:「吾以賈人子,陰謀人國,淫人之妻,殺人之君,滅人之祀,皇天豈容我哉?今日死晚矣!」遂置鴆於酒中,服之而死。門下客素受其恩者,相與盜載其屍,偷葬於北邙山下,與其妻合塚。今北邙道西有大塚,民間傳稱呂母塚,蓋賓客諱言不韋葬處也。

  秦王聞不韋已死,求其屍不得,乃盡逐其賓客。因下令大索國中,凡他方遊客,不許留居咸陽,已仕者削其官,三日內皆要逐出境外,容留之家,一體治罪。有楚國上蔡人李斯,乃名賢荀卿之弟子,廣有學問,向遊秦國,事呂不韋為舍人。不韋薦其才能於秦王,拜為客卿。今日逐客令下,李斯亦在逐中,已被司里驅出咸陽城外。斯於途中寫就表章,託言機密事,使郵傳上之秦王。略曰:

  臣聞:「太山不讓土壤,故能成其高;河海不擇細流,故能就其深;王者不卻眾庶,故能成其德。」昔穆公之霸也,西取繇余於戎,東得百里奚於宛,迎蹇叔於宋,求芈豹公孫枝於晉﹔孝公用商鞅,以定秦國之法;惠王用張儀,以散六國之從;昭王用范睢,以獲兼并之謀。四君皆賴客以成其功,客亦何負於秦哉?大王必欲逐客,客將去秦而為敵國之用,求其效忠謀於秦者,不可得矣。

秦王覽其書,大悟,遂除逐客之令,使人馳車往追李斯,及於驪山之下。斯乃還入咸陽,秦王命復其官,任用如初。

  李斯因說秦王曰:「昔秦穆公興霸之時,諸侯尚眾,周德未衰,故未可行兼并之術。自孝公以來,周室卑微,諸侯相并,僅存六國,秦王之役屬諸侯,非一代矣。夫以秦之強,大王之賢,掃蕩諸國,如拂灶塵。乃不及此時汲汲圖功,坐待諸侯復強,相聚『合從』,悔之何及!」秦王曰:「寡人欲并吞六國,計將安出?」李斯曰:「韓近秦而弱,請先取韓,以懼諸國。」秦王從其計,使內史騰為將,率師十萬攻韓。時韓桓惠王已薨,太子安即位。有公子非者,善於刑名法律之學,見韓之削弱,數上書於韓王安,韓王不能用。及秦兵伐韓,韓王懼,公子非自負其才,欲求用於秦國,乃自請於韓王,願為使聘秦,以求息兵。韓王從之。公子非西見秦王,言韓王願納地為東藩;秦王大喜。非因說之曰:「臣有計可以破天下之『從』,而遂秦兼并之謀。大王用臣之謀,若趙不舉,韓不亡,楚魏不臣,齊燕不附,願斬臣之頭,以徇於國,為人臣不忠者之戒。」因獻其所著《說難》、《孤憤》、《五蠹》、《說林》等書,五十餘萬言。秦王讀而善之,欲用為客卿,與議國事。李斯忌其才,譖於秦王曰:「諸侯公子,各親其親,豈為他人用哉?秦攻韓,韓王急而遣非入秦,安知不如蘇秦反間之計?非不可任也。」秦王曰:「然則逐之乎?」李斯曰:「昔魏公子無忌,趙公子平原,皆曾留秦,秦不用,縱之還國,卒為秦患。非有才,不如殺之,以翦韓之翼。」秦王乃囚韓非於雲陽,將殺之。非曰:「吾何罪?」獄吏曰:「一栖不兩雄。當今之世,有才者非用即誅,何必罪乎?」非乃慷慨賦詩曰:

    《說》果難,《憤》何已?《五蠹》未除,《說林》何取!膏以香消,麝以臍死。

是夜,非以冠纓自勒其喉而死。韓王聞非死,益懼,請以國內附稱臣。秦王乃詔內史騰罷兵。

  秦王一日與李斯議事,誇韓非之才,惜其已死。李斯乃進曰:「臣舉一人,姓尉名繚,大梁人也,深通兵法,其才勝韓非十倍。」秦王曰:「其人安在?」李斯曰:「今在咸陽。然其人自負甚高,不可以臣禮屈也。」秦王乃以賓禮召之。尉繚見秦王,長揖不拜。秦王答禮,置之上座,呼為先生。尉繚因進說曰:「夫列國之於強秦,譬猶郡縣也,散則易盡,合則難攻。夫三晉合而智伯亡,五國合而齊湣走。大王不可不慮。」秦王曰:「欲使散而不復合,先生計將安出?」尉繚對曰:「今國家之計,皆決於豪臣,豪臣豈盡忠智,不過多得財物為樂耳。大王勿愛府庫之藏,厚賂其豪臣,以亂其謀,不過亡三十萬金,而諸侯可盡。」秦王大悅,尊尉繚為上客,與之抗禮,衣服飲食,盡與己同,時時造其館,長跪請教。尉繚曰:「吾細察秦王為人,豐準長目,鶻膺豺聲,中懷虎狼之心,殘刻少恩,用人時輕為人屈,不用亦輕棄人。今天下未一,故不惜屈身於布衣,若得志,天下皆為魚肉矣!」一夕,不辭而去。館吏急報秦王。秦王如失臂手,遣軺車四出追還,與之立誓,拜為太尉,主兵事。其弟子皆拜大夫。於是大出內帑金錢,分遣賓客使者,奔走列國,視其寵臣用事者,即厚賂之,探其國情。

  秦王復問尉繚以并兼次第。尉繚曰:「韓弱易攻,宜先;其次莫如趙魏。三晉既盡,即舉兵而加楚。楚亡,燕齊又安往乎?」秦王曰:「韓已稱藩,而趙王嘗置酒咸陽宮,未有加兵之名,奈何?」尉繚曰:「趙地大兵強,且有韓魏為助,未可一舉而滅也。韓內附稱藩,則趙失助之半矣。王若患伐趙無名,請先加兵於魏。趙王有寵臣郭開者,貪得無厭,臣遣弟子王敖往說魏王,使賂郭開而請救於趙王,趙必出兵,吾因以為趙罪,移兵擊之。」秦王曰:「善。」乃命大將桓齮,率兵十萬,出函谷關,聲言伐魏。復遣尉繚弟子王敖往魏,付以黃金五萬斤,恣其所用。王敖至魏,說魏王曰:「三晉所以能抗強秦者,以唇齒互為蔽也。今韓已納地稱藩,而趙王親詣咸陽,置酒為歡。韓趙連袂而事秦,秦兵至魏,魏其危矣。大王何不割鄴城以賂趙,而求救於趙?趙如發兵守鄴,是趙代魏為守也。」魏王曰:「先生度必得之趙王乎?」王敖謬言曰:「趙之用事者郭開,臣素與相善,自能得之。」魏王從其言,以鄴郡三城地界,并國書付與王敖,使往趙國求救。王敖先以黃金三千斤,交結郭開,然後言三城之事。郭開受魏金,謂悼襄王曰:「秦之伐魏,欲并魏也;魏亡,則及於趙矣。今彼割鄴郡之三城以求救,王宜聽之。」悼襄王使扈輒率師五萬,往受其地。秦王遂命桓齮進兵攻鄴。扈輒出兵拒之,大戰於東崮山。扈輒兵敗。桓齮乘勝追逐,遂拔鄴,連破九城。扈輒兵保於宜安,遣人告急於趙王。趙王聚群臣共議,眾皆曰:「昔年惟廉頗能禦秦兵,龐氏樂氏,亦稱良將,今龐煖已死,而樂氏亦無人矣。惟廉頗尚在魏國,何不召之?」

  郭開與廉頗有仇,恐其復用,乃譖於趙王曰:「廉將軍年近七旬,筋力衰矣。況前有樂乘之隙,若召而不用,益增怨望。大王姑使人覘視,倘其未衰,召之未晚。」趙王惑其言,遣內侍唐玖以𤠯猊名甲一副,良馬四匹勞問,因而察之。郭開密邀唐玖至家,具酒相餞,出黃金二十鎰為壽。唐玖訝其太厚,自謙無功,不敢受。郭開曰:「有一事相煩,必受此金,方敢啟齒。」玖乃收其金,問:「郭大夫有何見諭?」郭開曰:「廉將軍與某素不相能。足下此去,倘彼筋力衰頹,自不必言,萬一尚壯,亦求足下增添幾句,只說老邁不堪,趙王必不復召,此即足下之厚意也。」唐玖領令,竟往魏國,見了廉頗,致趙王之命。廉頗問曰:「秦兵今犯趙乎?」唐玖曰:「將軍何以料之?」廉頗曰:「某在魏數年,趙王無一字相及,今忽有名甲良馬之賜,必有用某之處,是以知之。」唐玖曰:「將軍不恨趙王耶?」廉頗曰:「某方日夜思用趙人,況敢恨趙王也?」乃留唐玖同食,故意在他面前施逞精神,一飯斗米俱盡,啖肉十餘斤,狼餐虎嚥,吃了一飽。因披趙王所賜之甲,一躍上馬,馳驟如飛。復於馬上舞長戟數回,乃跳下馬,謂唐玖曰:「某何如少年時?煩多多拜上趙王,尚欲以餘年報效!」唐玖明明看見廉頗精神強壯,奈私受了郭開賄賂,回至邯鄲,謂趙王曰:「廉將軍雖然年老,尚能食肉善飯,然有脾疾,與臣同坐,須臾間,遺矢三次矣。」趙王嘆曰:「戰鬥時豈堪遺矢?廉頗果老矣!」遂不復召,但益發軍以助扈輒。時趙悼襄王之九年,秦王政之十一年也。其後楚王聞知廉頗在魏,使人召之。頗復奔楚為楚將,以楚兵不如趙,鬱鬱不得志而死。哀哉!史臣有詩云:

    老成名將說廉頗,遺矢讒言奈若何?請看吳亡宰嚭死,郭開何事取金多!

  時王敖猶在趙,謂郭開曰:「子不憂趙亡耶?何不勸王召廉頗也?」郭開曰:「趙之存亡,一國事也。若廉頗,獨我之仇,豈可使復來趙國?」王敖知其無為國之心,復探之曰:「萬一趙亡,君將焉往?」郭開曰:「吾將於齊楚之閒,擇一國而託身焉。」王敖曰:「秦有并吞天下之勢,齊楚猶趙魏也。為君計,不如託身於秦。秦王恢廓大度,屈己下賢,於人無所不容。」郭開曰:「子魏人,何以知秦王之深也?」王敖曰:「某之師尉繚子,見為秦太尉,某亦仕秦為大夫。秦王知君能得趙權,故命某交歡於子,所奉黃金,實秦王之贈也。若趙亡,君必來秦,當以上卿授子。趙之美田宅,惟君所欲。」郭開曰:「足下果肯相薦,倘有見諭,無不奉承。」王敖復以黃金七千斤,付開曰:「秦王以萬金見託,欲交結趙國將相,今盡以付君,後有事,當相求也。」郭開大喜曰:「開受秦王厚贈,若不用心圖報,即非人類。」王敖乃辭郭開歸秦,以所餘金四萬斤反命曰:「臣以一萬金了郭開,以一郭開了趙也。」秦王知趙不用廉頗,更催桓齮進兵。趙悼襄王憂懼,一疾而薨。

  悼襄王適子名嘉。趙有女娼,善歌舞,悼襄王悅之,留於宮中,與之生子,名遷。悼襄王愛娼,因及遷,乃廢適子嘉而立庶子遷為太子,使郭開為太傅。遷素不好學,郭開又導以聲色狗馬之事,二人相得甚歡。及悼襄王已薨,郭開奉太子遷即位。以三百戶封公子嘉,留於國中。郭開為相國用事。桓齮乘趙喪,襲破趙軍於宜安,斬扈輒,殺十萬餘人,進逼邯鄲。趙王遷自為太子時,聞代守李牧之能,乃使人乘急傳,持大將軍印召牧。牧在代,有選車千五百乘,選騎萬三千匹,精兵五萬餘人;留車三百乘,騎三千,兵萬人守代,其餘悉以自隨,屯於邯鄲城外;單身入城,謁見趙王。趙王問以卻秦之術。李牧奏曰:「秦乘累勝之威,其鋒甚銳,未易挫也。願假臣便宜,無拘文法,方敢受命。」趙王許之。又問:「代兵堪戰乎?」李牧曰:「戰則未足,守則有餘。」趙王曰:「今悉境內勁卒,尚可十萬,使趙蔥顏聚各將五萬,聽君節制。」李牧拜命而行,列營於肥纍,置壁壘,堅守不戰。日椎牛享士,使分隊較射。軍士日受賞賜,自求出戰,牧終不許。桓齮曰:「昔廉頗以堅壁拒王齮,今李牧亦用此計也。」乃分兵一半,往襲甘泉市。趙蔥請救之。李牧曰:「彼攻而我救,是致於人也,兵家所忌。不如往攻其營。彼方有事甘泉市,其營必虛,又見我堅壁已久,不為戰備。若襲破其營,則桓齮之氣奪矣。」遂分兵三路,夜襲其營。營中不意趙兵猝至,遂大潰敗,殺死有名牙將十餘員,士卒無算。敗兵奔往甘泉市,報知桓齮。桓齮大怒,悉兵來戰。李牧張兩翼以待之,代兵奮勇當先。交鋒正酣,左右翼並進,桓齮不能抵當,大敗,走歸咸陽。趙王以李牧有卻秦之功,曰:「牧乃吾之白起也!」亦封為武安君,食邑萬戶。秦王政怒桓齕兵敗,廢為庶人。復使大將王翦楊端和,各將兵分道伐趙。不知勝負如何,且看下回分解。

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