東周列國志第百零六回 王敖、反間をもって李牧を殺す/田光、頸を刎ねて荊軻を薦める (王敖反間殺李牧  田光刎頸薦荊軻)

代の地震と童謡、燕太子丹の脱出

  • 趙王遷の五年、代の地で地震が起こり、家屋の大半が倒壊し、平地に百三十歩にわたる裂け目が生じ、邯鄲は大干魃に見舞われた。
  • 民間ではこんな童謡が歌われた。「秦人笑い、趙人号泣す。信ぜざれば地に毛の生ずるを見よ。」
  • 翌年、地面には果たして白い毛が生え、長さは一尺余りとなったが、郭開はこれを覆い隠し、趙王には知らせなかった。
  • このとき秦王は再び大将の王翦・楊端和を分けて派遣し、趙を討たせた。王翦は太原の道から進軍し、楊端和は常山の道から進軍した。さらに内史騰に軍十万を率いさせ、上党に駐屯させて後詰めとした。
  • 当時、燕の太子丹は秦に人質となっていたが、秦軍が大挙して趙を討つのを見て、禍が必ず燕に及ぶと悟り、ひそかに人を遣わして燕王に書を送り、戦いと守りの備えをさせた。また燕王に病と偽らせ、人を遣わして太子の帰国を請わせた。
  • 燕王はその計に従い、使者を秦に遣わした。秦王政は言った。「燕王が死なぬうちは、太子を帰すわけにはいかぬ。太子を帰したくば、烏の頭が白くなり、馬に角が生えるのを待つほかない。」
  • 太子丹は天を仰いで大声を発すると、怨みの気が一筋、天に沖き、烏の頭がみな白くなった。それでも秦王は帰そうとしなかった。
  • 太子丹はそこで衣を替え顔を毀して人夫に成りすまし、函谷関を脱け出て、夜を日についで燕国へ逃げ帰った。今の真定府定州の南に「聞雞台」という台があるが、これは太子丹が秦から逃げる途中、鶏の声を聞いて早発した所である。
  • 秦王はちょうど韓・趙を攻め取ろうと図っていたので、燕丹の逃亡の罪を問う暇はなかった。

王敖の反間の計と李牧の讒死

  • さて趙の武安君李牧は、大軍を灰泉山に駐屯させ、陣営が数里に連なり、秦の両路の車馬もあえて進めなかった。
  • 秦王はこの報せを聞き、再び王敖を王翦の軍中に遣わした。王敖は王翦に言った。「李牧は北辺の名将で、たやすく勝つことはできません。将軍はしばらく彼と和平の使者を通わせてください。ただし約定は取り決めず、使者の往来のうちに、私に策があります。」
  • 王翦は果たして人を趙の陣営へ遣わして講和を持ちかけた。李牧もまた人を遣わして応じた。
  • 王敖は趙に至り、再び郭開のもとへ手づるをつけ、こう言った。「李牧は秦と私かに講和し、趙を破った暁には代郡を分けて王となる約束をしています。もしこの話を趙王に上奏し、他の将に李牧を代えさせるならば、私が秦王に申し上げましょう、あなたの功労は少なくないと。」
  • 郭開はすでに裏切る心を抱いていたので、王敖の言葉に従い、ひそかに趙王に上奏した。趙王はひそかに左右の者を遣わしてその実情を探らせたところ、果たして李牧と王翦の使者が往来しているのを見て、事実だと信じ込み、郭開と謀った。
  • 郭開は上奏した。「趙蔥・顏聚が今軍中におります。大王が誠にお使いに出兵の割符を持たせて遣わされ、軍中で趙蔥を大将に任じ、李牧に代えて呼び戻すのです。ただし『相国に任ずるため』と言えば、李牧も必ず疑いますまい。」
  • 趙王はその言に従い、司馬尚に節を持たせて灰泉山の軍中に遣わし、趙王の命を宣べさせた。
  • 李牧は言った。「両軍が対峙する中、国家の安危は一将にかかっている。たとえ君命であろうと、私は従うわけにはいかぬ。」
  • 司馬尚はひそかに李牧に告げた。「郭開が将軍を謀反の疑いありと讒言し、趙王がその言を信じたゆえの召還です。相国に任じるというのは、将軍を欺く言葉に過ぎません。」
  • 李牧は憤然として言った。「郭開はかつて廉頗を讒言し、今また私を讒言する。私は兵を率いて朝廷に入り、まず君側の悪を除いてから、秦を防ぐべきだ。」
  • 司馬尚は言った。「将軍が兵を挙げて宮闕を犯せば、事情を知る者は忠と見ましょうが、知らぬ者はかえって謀反と見ます。それではかえって讒言する者に口実を与えるだけです。将軍ほどの才があれば、どこにいても功名は立てられましょう。何も趙にこだわる必要はありません。」
  • 李牧は嘆いて言った。「私はかつて楽毅・廉頗が趙の将として全うできなかったのを恨んでいたが、思いもよらず今日、この身に及ぼうとは。」また言った。「趙蔥は将たるに堪えぬ。私はあの印を彼に授けるわけにはいかぬ。」
  • そして印を幕中に懸け、夜半に微行で逃げ出し、魏国へ向かおうとした。
  • 趙蔥は郭開の推挙の恩に感じ、また李牧が印を授けなかったことに怒り、力士を遣わして急ぎ李牧を捕えさせた。李牧は宿屋で、酔っている隙に捕らえられ、縛られて斬られ、その首が献じられた。哀れ、一代の名将たる李牧は、郭開に害され、なんと冤罪であったことか。史臣に詩がある。「秦を却け代を守りて威名著し、大廈まったく一木の支うるに憑る。何事ぞ郭開外市を貪り、致して一旦長城を壊らしむ。」
  • 司馬尚は復命することができず、妻子を連れてひそかに海辺の地へ逃げ去った。趙蔥はそのまま李牧に代わって印を掛け大将となり、顏聚が副将となった。代の兵はもとより李牧に心服していたが、その無実の死を見て憤怒に堪えず、一夜のうちに山を越え谷を越えて一人残らず逃げ散り、趙蔥はこれを止めることができなかった。

趙蔥の敗死と韓の滅亡

  • さて秦兵は李牧の死を聞き、軍中でみな酒を酌んで祝った。王翦・楊端和の両路の軍馬は、期日を定めて共に進軍した。
  • 趙蔥は顏聚と相談し、兵を分けて太原・常山の二処を救おうとした。顏聚は言った。「大将が新たに代わったばかりで軍心が定まらぬ。兵を合わせてこそ守るに足るが、分ければ勢いが弱まる。」
  • 言い終わらぬうちに、物見の兵が報せた。「王翦が狼孟を攻めることはなはだ急で、明日にも落ちましょう。」趙蔥は言った。「狼孟が破られれば、彼らは井陘まで長駆し、両路の軍が合して常山を攻めるだろう。そうなれば邯鄲も危うい。救わぬわけにはいかぬ。」
  • こうして顏聚の諫めを聞かず、命じて陣を払って進発させた。王翦はこれを探り知り、あらかじめ大谷に伏兵を潜ませた。人を高台に遣わして見張らせ、趙蔥の兵が半ば通り過ぎたところで号砲を放たせると、伏兵が一斉に躍り出て、趙の兵を二つに断ち切り、首尾が相応じられぬようにした。
  • 王翦は大軍を率い、江河を傾け倒すような勢いで攻め寄せ、趙蔥はこれに応戦したが敗れ、王翦に討たれた。顏聚は敗軍をまとめて邯鄲へ逃げ帰った。秦兵はそのまま狼孟を落とし、井陘から進軍して下邑を攻め取った。楊端和もまた常山の残地を取り、邯鄲を包囲した。
  • 秦王政は両路の軍がともに勝利を得たと聞き、内史騰に命じて軍を韓へ移させ、その領土を受け取らせた。韓王安は大いに恐れ、その城をすべて献じ、みずから秦に入って臣下に列した。秦は韓の地を穎川郡とした。
  • これは韓王安の九年、秦王政の十七年のことである。韓は武子万が晋より邑を受けたのに始まり、三代を経て献子厥に至り、初めて晋の政を執った。厥から三代を経て康子虎に至り、初めて智氏を滅ぼした。虎から二代を経て景侯虔に至り、初めて諸侯となった。虔から六代を経て宣恵王に至り、初めて王を称した。それから四代を経て王安に至り、国は秦に入った。韓虎の六年から宣恵王の九年まで、侯であったこと合わせて八十年、宣恵王の十年から王安の九年の亡国まで、王であったこと合わせて九十四年であった。これより六国はただ五国のみとなった。史臣に賛がある。「韓万が韓原に封ぜられて韓氏は始まったが、その子孫で賢者と呼べるのは献子厥ただ一人であった。厥は趙氏の遺児を救い守る計をめぐらし、その陰徳を最後まで口外しなかった。韓氏は初め晋の六卿の一つに列なり、ついには晋を三つに裂く一角となった。合従の盟約は守られず、ついには秦の宮門に額づいて降った。韓非を使者として秦に送りはしたが、国の滅亡を救うことはできなかった。」

邯鄲の陥落

  • さて秦兵は邯鄲を包囲し、顏聚は全軍を挙げて防戦したが、趙王遷は恐懼し、隣国に使者を送って救援を求めようとした。
  • 郭開は進言した。「韓王はすでに秦の臣となり、燕・魏はみずからを保つのに精一杯で、とても助けられますまい。愚見では、秦の兵勢は大きく、いっそ城を挙げて帰順すれば、封侯の位を失うことはございますまい。」趙王はこれに従おうとした。
  • 公子嘉は地に伏して痛哭して言った。「先王は社稷宗廟を王にお伝えになりました。どうして棄てられましょうか。私は顏聚とともに力を尽くして死ぬ覚悟です。万一城が破れても、代郡の数百里はなお国と成しうるものを、どうして手をこまねいて人の虜囚となりましょうか。」
  • 郭開は言った。「城が破れれば王も虜となる。どうして代まで及びましょうか。」公子嘉は剣を抜いて手にし、郭開を指して言った。「国を覆す讒臣め、なお多言するか。必ず斬ってやる。」趙王が仲裁してようやく収まった。
  • 趙王遷は宮に戻ったが、なす術もなく、ただ酒を飲んで楽しむばかりであった。郭開は秦兵と約して城を献じようとしたが、あいにく公子嘉が宗族と賓客を率いて顏聚の防守を助け、水も漏らさぬ守りで、通信ができなかった。
  • そのころ連年の凶作で、城外の民は逃げ尽くし、秦兵は野で掠奪するものがなかったが、城中には積んだ穀物が豊富にあり、食用に困ることはなく、なかなか落ちなかった。そこで楊端和と相談し、いったん五十里外へ兵を退いて糧を運ぶことにした。
  • 城中では秦兵が退いたのを見て防備がやや緩み、日に一度門を開いて出入りするようになった。郭開はこの隙に乗じ、腹心を城外に遣わし、密書一封を秦の陣営へ送らせた。書にはおおよそこうあった。「私は久しく城を献ずる意がありましたが、その機会がありませんでした。趙王はすでに十分に恐れております。もし秦王がみずから駕を進められれば、必ず力を尽くして趙王に、璧を口にくわえ棺を車に載せて出るという降伏の礼を行うよう勧めましょう。」
  • 王翦は書を得ると、すぐに人を遣わして秦王に馳せ報じた。秦王はみずから精兵三万を率い、大将李信に護衛させ、太原路を取って邯鄲に至り、再びその城を包囲し、昼夜攻め立てた。
  • 城上から「秦王」の字のある大旗を望み見て、趙王に急報した。趙王はますます恐れた。郭開は言った。「秦王みずから兵を率いてここに来られたのは、邯鄲を破らずには終わらぬというお心です。公子嘉・顏聚らはあてになりません。どうか大王ご自身でご決断ください。」
  • 趙王は言った。「わしは秦に降ろうと思うが、殺されるのが恐ろしい。どうしたものか。」郭開は言った。「秦は韓王を害しませんでした。どうして大王を害しましょうか。もし和氏の璧と邯鄲の地図を出して献ずれば、秦王は必ず喜びましょう。」
  • 趙王は言った。「そなたが可と見るなら、降伏の書を書け。」郭開は降伏の書を書き上げると、さらに上奏した。「降伏の書は書きましたが、公子嘉が必ず阻もうとしましょう。聞くところでは秦王の大営は西門にあります。大王は巡城と称して駕をそこへ進め、そのまま門を開いて降伏を申し入れれば、どうして受け入れられぬことがありましょうか。」
  • 趙王はもとより昏迷しており、ただ郭開の言うことばかり聞いていたが、この危急の際にはますます主体性を失い、その言に従った。
  • 顏聚はちょうど北門を巡視していたところ、趙王がすでに西門を出て秦に降伏を申し入れたと聞き、大いに驚いた。公子嘉もまた馬を飛ばして駆けつけ、言った。「城上では趙王の命により、すでに降旗を掲げました。秦兵はすぐにも入城しましょう。」
  • 顏聚は言った。「私は死をもってこの北門を守りましょう。公子は一族を収めて急ぎこちらへ来て、共に代地へ逃れ、再び恢復を図りましょう。」
  • 公子嘉はその計に従い、一族数百人を率い、顏聚とともに北門を出て、夜を日についで代へ向かった。
  • 顏聚は公子嘉に勧めてみずから代王を名乗らせ、その配下を統率させた。李牧の功を表彰し、その官爵を回復させ、みずから祭を設けて代の人心を収め、使者を東の燕に遣わして連合し、上谷に軍を屯して秦の侵攻に備えさせた。代国はこうしてどうにか安定した。この件はここまでとしよう。

趙王遷の最期

  • さて秦王政は趙王遷の降伏を受け入れ、長駆して邯鄲城に入り、趙王の宮に居した。趙王は臣の礼をもって拝謁したが、秦王は座したままこれを受けたので、居並ぶ趙の旧臣で涙を流す者が多かった。
  • 翌日、秦王は和氏の璧を手に弄びながら、群臣に笑って言った。「これは先王が十五城と引き換えても得られなかったものだ。」
  • そこで秦王は命令を発し、趙の地を鉅鹿郡とし、郡守を置いた。趙王を房陵に移して幽閉し、郭開を上卿に封じた。
  • 趙王はようやく郭開の売国の罪を悟り、嘆いて言った。「もし李牧がここにいたら、秦人がどうしてわが邯鄲の穀物を食らうことができようか。」
  • あの房陵は四方に石室があり、家屋のようであった。趙王は石室の中に居して、水の音がさらさらと聞こえるので左右の者に尋ねた。左右は答えた。「楚には四つの川があります。江・漢・沮・漳。これは沮水と申し、房山より出て漢江に達します。」
  • 趙王は悽然として嘆いて言った。「水は無情の物であるのに、なお自ら漢江に達することができる。わしはここに囚われの身となり、故郷を千里の彼方に望むばかりで、どうして帰れようか。」そして山水の謳を作った。「房山を宮とし、沮水を漿とす。琴を調べ瑟を奏でるを聞かず、ただ流水の湯湯たるを聞くのみ。水の無情なることよ、なお自ら漢江に至る。ああ我は万乗の主にして、ただ夢に故郷を懐うのみ。誰が我をここに至らしめたるや、これ讒言のはなはだ張れるゆえなり。良臣は淹没し、社稷は淪亡す。我聞くこと聡からず、あえて秦王を怨みんや。」
  • 終夜手持ち無沙汰の中、謳をひとたび発するごとに左右の者を哀しませ、ついに病を発して起き上がれなくなった。代王嘉は王遷の死を聞き、諡して幽謬王とした。詩がある。「呉主が国を喪いしは佞臣伯嚭に繇り、趙王遷が死せしは貪欲な郭開に繇る。もし貪佞をよく疏遠せしめば、万歳の金湯永く隤れざらん。」

郭開の末路

  • 秦王は兵を引き上げて咸陽に帰り、しばらく兵を休め士を養った。郭開は積んだ黄金がはなはだ多く、携え去ることができなかったので、みな邯鄲の邸宅に窖に埋めておいた。事が定まると、みずから秦王に申し出て休暇を願い、趙に戻って家財を取りに行こうとした。秦王は笑ってこれを許した。
  • 郭開は邯鄲に着くと窖を掘って黄金を取り出し、数台の車に積んだが、途中で盗賊に殺され、黄金を奪い去られた。ある者は言う、「これは李牧の客の仕業である」と。ああ、黄金を得て国を売り、いたずらに自分の身を滅ぼしただけであった。愚かなことよ。

燕太子丹と田光、荊軻の推挙

  • さて燕太子丹は逃げ帰って燕国に戻り、秦王を深く恨み、家財を散じて広く賓客を集め、秦への報復を謀った。勇士の夏扶・宋意を訪ね得て、いずれも厚くもてなした。
  • 秦舞陽という者がおり、年十三にして白昼、都市で仇人を殺した。市の人々は恐れて近寄らなかったが、太子はその罪を赦し、門下に収めた。
  • 秦の将軍樊於期は罪を得て燕へ逃れ、深山に隠れていたが、太子が客を好むと聞き、みずから出て身を寄せた。丹は上賓としてもてなし、易水の東に一城を築いて住まわせ、樊館と名づけた。
  • 太傅の鞠武は諫めて言った。「秦は虎狼の国、まさに諸侯を蚕食しております。たとえ隙が無くとも、なお事を構えようとするでしょう。まして彼らの仇人を収めてこれを的とするのは、龍の逆鱗に触れるようなもの、必ず害を受けます。どうか太子は速やかに樊将軍を匈奴へ移し、秦に口実を与えぬようにし、西は三晋と約し、南は斉・楚と連なり、北は匈奴と結び、しかる後にゆっくりと図られませ。」
  • 太子丹は言った。「太傅の計は、実現までに日数がかかりすぎます。丹の心は焦げるように焼けて、片時も安んじられません。まして樊将軍は窮困して身を寄せてこられた、これは丹が哀れんで結んだ交わりです。丹はどうして強秦を恐れるあまり、樊将軍を遠く荒漠に見捨てられましょうか。丹は死んでもそれはできません。どうか太傅、丹のために改めてお考えください。」
  • 鞠武は言った。「弱い燕をもって強い秦に抗するのは、毛を炉に投げ入れるようなもの、焼けぬはずがありません。卵を石に投げるようなもの、砕けぬはずがありません。臣は智浅く見識も乏しく、太子のために策を立てることができません。私が知る田光先生という方は、智深く沈勇であり、また多くの並はずれた人物を知っております。太子がもし秦を図ろうとお思いなら、田光先生でなくてはなりません。」
  • 太子丹は言った。「丹はまだ田先生と面識がありません。どうか太傅の手で紹介していただきたい。」鞠武は言った。「謹んで承ります。」
  • 鞠武はすぐに車を駆って田光の家へ行き、告げた。「太子丹は先生を敬慕し、お会いして事を決したいとの仰せです。どうか先生、お断りになりませんように。」
  • 田光は言った。「太子は貴人であられる。どうして車駕を煩わせられようか。もし光を卑陋の者とお思いにならぬなら、共に事を計るべく、光の方から参りましょう。自ら安逸を貪ることはいたしません。」
  • 鞠武は言った。「先生が駕を枉げることを惜しまれぬとは、太子の幸いです。」そこで田光と車を同じくして太子の宮に赴いた。
  • 太子丹は田光が来たと聞き、みずから宮を出て迎え、その車の手綱を取って田光を車から降ろし、後ろ向きに退きながら先導し、再拝して敬意を表し、跪いてその席の塵を払った。田光は年老いており、腰を曲げて上座に登ったので、傍らで見ていた者はみな竊かに笑った。
  • 太子丹は左右の者を退け、自分の座を離れて下がり、請うて言った。「今日の情勢、燕と秦とは両立できません。先生は智勇十分に備わり、奇策を発揮できると聞いております。燕の危急を救っていただけましょうか。」
  • 田光は答えた。「臣が聞くところでは、『駿馬は盛んな壮年の時、一日に千里を馳せるが、その老いに及べば、駑馬にも先んじられる』と申します。今、鞠太傅はただ臣の盛壮の時のみを知り、臣がすでに衰老したことを知りません。」
  • 太子丹は言った。「先生の交遊のうちに、先生の若い頃のような智勇の者はおられましょうか。先生に代わって籌を執っていただける方は。」田光は首を振って言った。「難しい、難しい。とはいえ、太子ご自身、門下の客をよくご覧になり、使える者が何人いるか、光がその人相を見て見極めましょう。」
  • 太子丹はそこで夏扶・宋意・秦舞陽を悉く召して田光に引き合わせた。田光は一人一人を見て、その姓名を尋ね、太子に言った。「私が拝見するに、太子の客はみな使うに足る者がおりません。夏扶は血勇の人で、怒れば顔が赤くなります。宋意は脈勇の人で、怒れば顔が青くなります。秦舞陽は骨勇の人で、怒れば顔が白くなります。怒りが顔に表れて人に気づかれるようでは、どうして事を成せましょうか。私が知る荊卿という者は神勇の人で、喜怒を顔に表しません。この者ならまさっているでしょう。」
  • 太子丹は言った。「荊卿とは何という名で、どこの人ですか。」田光は言った。「荊卿は名を軻といい、もとは慶氏、斉の大夫慶封の後裔です。慶封は呉に奔り朱方に家しましたが、楚が慶封を討って殺し、その一族は衛に奔って衛の人となりました。剣術をもって衛の元君に説きましたが、元君は用いませんでした。秦が魏の東地を取り濮陽を東郡としたとき、軻は再び燕に奔り、姓を改めて荊とし、人は荊卿と呼びました。性は酒を好み、燕の高漸離という者が築を巧みに演奏することから、軻はこれを愛し、日ごと共に燕の市中で酒を飲みました。酒がたけなわになると漸離が築を打ち、荊卿はこれに和して歌い、歌い終えるといつも涕泣して嘆き、天下に知己なしと思っていました。この人物は沈深にして謀略があり、光ははるかに及びません。」
  • 太子丹は言った。「丹はまだ荊卿と面識がありません。どうか先生の手で紹介していただきたい。」田光は言った。「荊卿は貧しく、私はいつも彼に酒代を給しております。ですから私の言葉を聞いてくれるでしょう。」
  • 太子丹は田光を門まで送り、自分の乗る車を奉り、内侍に御をさせた。光が車に乗ろうとするとき、太子は嘱して言った。「丹が申したことは国の大事です。どうか先生、他人に洩らされませんように。」田光は笑って言った。「老臣、あえて洩らしません。」
  • 田光は車に乗り、酒市に荊軻を訪ねた。軻は高漸離と共に半ば酔うほど飲んでいたところで、漸離はちょうど築を調子合わせしていた。田光は築の音を聞き、車を下りて真っすぐ入り、荊卿を呼んだ。漸離は築を携えて場を避けた。
  • 田光は荊軻と会うと、軻を自分の家に招いて言った。「荊卿はかつて天下に知己なしと嘆いておられたが、光もそう思っておりました。しかし光はすでに老い、精力衰え、知己として駆けまわるには足りません。荊卿は今まさに壮盛の時、胸中の奇略を一度試してみるお気持ちはありませんか。」
  • 荊軻は言った。「望まぬはずがありましょうか。ただその機会がなかっただけです。」田光は言った。「太子丹は身を折って客を重んじており、燕国中で知らぬ者はありません。今、光の衰老を知らずに、燕秦の事を光に謀り及ばれました。光と卿とは仲がよく、卿の才を知っておりますので、推薦して自分に代えたいのです。どうか卿、すぐに太子の宮へお越しください。」
  • 荊軻は言った。「先生のご命令とあらば、軻はあえて従わぬわけにはまいりません。」
  • 田光は荊軻の志を奮い立たせようと、剣を撫でて嘆いて言った。「光はこう聞いております。『徳ある者の行いは、人に疑われぬようにする』と。今、太子は国事を光に告げ、光に洩らすなと嘱された。これは光を疑っているのです。光がどうして人の事を成させながら、その疑いを受けていられましょうか。光は死をもって自ら潔白を明かします。どうかあなた、急ぎ太子に報じてください。」そして剣を抜いてみずから首を刎ねて死んだ。
  • 荊軻がまさに悲泣していたところへ、太子が再び使者を遣わして見に来させた。「荊先生はお越しになりましたか。」荊軻はその誠を知り、田光が乗ってきた車に乗って太子の宮へ行った。
  • 太子は荊軻を迎え、田光と変わらぬもてなしをした。会うと尋ねた。「田先生はなぜご一緒に来られなかったのか。」荊軻は言った。「光は太子の私かな嘱を聞き、死をもってそれを洩らさぬことを明かそうとし、すでに剣に伏して死にました。」
  • 太子丹は胸を叩いて慟哭し、言った。「田先生は丹のために死んだ。なんと痛ましいことか。」しばらくして涙を収め、軻を上座に迎え入れ、太子丹は自分の座を離れて下がり、額を地につけて拝した。軻は慌てて答礼した。
  • 太子丹は言った。「田先生は丹を不肖と見ず、丹に荊卿と会わせてくださいました。これは天の与えた幸いです。どうか荊卿、丹を見捨てられませんように。」
  • 荊軻は言った。「太子が秦を憂えられるわけは何でしょうか。」丹は言った。「秦はたとえば虎狼、食らい尽くして飽きるところがなく、天下の地をすべて収め、海内の王を臣としなければ、その欲は満たされません。今、韓王はすでに地をことごとく秦に納めて郡県となりました。王翦の大軍は再び趙を破り、その王を虜としました。趙が滅べば、次は必ず燕に及びます。これが丹が寝ても安らかならず、食に臨んで箸を廃するゆえんです。」
  • 荊軻は言った。「太子のお考えでは、兵を挙げて勝負を争われるおつもりですか、それとも別に策がありましょうか。」太子丹は言った。「燕は小弱で、しばしば兵に苦しめられてきました。今、趙の公子嘉はみずから代王を称し、燕と兵を合わせて秦を防ごうとしております。丹が思うに、国を挙げての兵でも秦の一将にも当たれません。たとえ代王を頼みとしても、その勢いが盛んになるとは思われません。魏・斉はもとより秦に付き従い、楚はまた遠く及びません。諸侯は秦の強さを恐れ、『合従』を肯んじる者がおりません。丹には愚かな計がございます。まことに天下の勇士を得て、偽って秦に使いさせ、重い利をもって誘い、秦王が貪欲にもし近づけば、隙に乗じてこれを劫し、諸侯から奪った地をことごとく返させる、曹沫が斉の桓公に対したようにできれば、まことに最善です。もし従わなければ、これを刺殺します。秦の大将たちは大軍を握り、互いに一歩も譲らず、君は亡び国は乱れ、上下猜疑するでしょう。そのうえで楚・魏と連合し、共に韓・趙の後裔を立て、力を合わせて秦を破る、これが乾坤再造の時です。どうか荊卿、心に留めていただきたい。」
  • 荊軻は長く思案してから答えた。「これは国の大事です。臣は駑鈍にして、その任に堪えられぬかと恐れます。」太子丹は前に進み出て額を地につけて拝し、しきりに請うた。「荊卿の高い義に、丹は命を委ねたいのです。どうかお断りになりませんように。」荊軻は再三謙遜したが、そのうえで承諾した。
  • そこで荊軻を上卿として尊び、樊館の右手に再び一城を築いて荊館と名づけ、荊軻をもてなした。太子丹は日ごと門下に機嫌伺いに赴き、太牢の御馳走を供した。時折、車馬や美女を進め、思いのままにさせ、ただその気に入らぬことを恐れるほどであった。
  • 軻はある日、太子と東宮に遊び、池の水を眺めていたところ、大きな亀が池の傍らに出てきた。軻はふと瓦を拾って亀に投げると、太子丹は金の丸を捧げてこれを瓦の代わりとした。
  • また別の日、共に乗馬を試みたところ、太子丹は一日千里を行く馬を持っていたが、軻がふと馬肝の味は美味だと言うと、しばらくして料理人が肝を進めた。殺されたのはまさにその千里の馬であった。
  • 丹はまた秦の将軍樊於期が秦王に罪を得て燕国にいる話をした。荊軻は会うことを求めた。太子は華陽の台に酒を設け、荊軻と樊於期の会見をもうけ、寵愛する美人を出して酒を勧め、さらに美人に琴を弾かせて客をもてなした。荊軻はその両手の玉のように美しいのを見て、「美しい手だ」と讃えた。宴が散じると、丹は内侍に玉盤に物を載せて軻に送らせた。軻が開いて見ると、それはあの美人の手であった。丹は軻に自ら明かし、少しも惜しむ様子がなかった。軻は嘆いて言った。「太子が軻を遇すること、ここまで厚いとは。まさに死をもって報いねばならぬ。」
  • 荊軻がどのように恩に報いるかは、次回をご覧あれ。
原文(底本)
話說趙王遷五年,代中地震,牆屋傾倒大半,平地裂開百三十步,邯鄲大旱。民間有童謠曰:

    秦人笑,趙人號,以為不信,視地生毛。

明年,地果生白毛,長尺餘,郭開蒙蔽,不使趙王聞之。時秦王再遣大將王翦楊端和分道伐趙。王翦從太原一路進兵,楊端和從常山一路進兵。復遣內史騰引軍十萬,屯於上黨,以為聲援。時燕太子丹為質於秦,見秦兵大舉伐趙,知禍必及於燕,陰使人致書於燕王,使為戰守之備。又教燕王詐稱有疾,使人請太子歸國。燕王依其計,遣使至秦。秦王政曰:「燕王不死,太子未可歸也。欲歸太子,除是烏頭白,馬生角,方可!」太子丹仰天大呼,怨氣一道,直沖霄漢,烏頭皆白。秦王猶不肯遣。太子丹乃易服毀面,為人傭僕,賺出函谷關,星夜往燕國去訖。今真定府定州南,有臺名聞雞臺,即太子丹逃秦時,聞雞早發處也。秦王方圖韓趙,未暇討燕丹逃歸之罪。

  再說趙武安君李牧,大軍屯於灰泉山,連營數里,秦兩路車馬,皆不敢進。秦王聞此信,復遣王敖至王翦軍中,王敖謂翦曰:「李牧北邊名將,未易取勝。將軍姑與通和,但勿定約,使命往來之間,某自有計。」王翦果使人往趙營講和。李牧亦使人報之。王敖至趙,再打郭開關節,言:「李牧與秦私自講和,約破趙之日,分王代郡。若以此言進於趙王,使以他將易去李牧,某言於秦王,君之功勞不小。」郭開已有外心,遂依王敖說話,密奏趙王。趙王陰使左右往察其情,果見李牧與王翦信使往來,遂信以為實然,謀於郭開。郭開奏曰:「趙蔥顏聚,見在軍中,大王誠遣使持兵符,即軍中拜趙蔥為大將,替回李牧,只說『用為相國』,牧必不疑。」趙王從其言,遣司馬尚持節至灰泉山軍中,宣趙王之命。李牧曰:「兩軍對壘,國家安危,懸於一將,雖有君命,吾不敢從!」司馬尚私告李牧曰:「郭開譖將軍欲反,趙王入其言,是以相召,言拜相者,欺將軍之言也。」李牧忿然曰:「開始譖廉頗,今復譖吾,吾當提兵入朝,先除君側之惡,然後禦秦可也。」司馬尚曰:「將軍稱兵犯闕,知者以為忠,不知者反以為叛,適令讒人藉為口實。以將軍之才,隨處可立功名,何必趙也。」李牧嘆曰:「吾嘗恨樂毅廉頗為趙將不終,不意今日乃及自己!」又曰:「趙蔥不堪代將,吾不可以將印授之。」乃懸印於幕中,中夜微服遁去,欲往魏國。趙蔥感郭開舉薦之恩,又怒李牧不肯授印,乃遣力士急捕李牧,得於旅人之家,乘其醉,縛而斬之,以其首來獻。可憐李牧一時名將,為郭開所害,豈不冤哉!史臣有詩云:

    卻秦守代著威名,大廈全憑一木撐;何事郭開貪外市,致令一旦壞長城!

司馬尚不敢復命,竊妻孥奔海上去訖。趙蔥遂代李牧掛印為大將,顏聚為副。代兵素服李牧,見其無辜被害,不勝憤怒,一夜間踰山越谷,逃散俱盡,趙蔥不能禁也。

  卻說秦兵聞李牧死,軍中皆酌酒相賀。王翦楊端和兩路軍馬,刻期並進。趙蔥與顏聚計議,欲分兵往救太原常山二處。顏聚曰:「新易大將,軍心不安,若合兵猶足以守,一分則勢弱矣。」言未畢,哨馬報:「王翦攻狼孟甚急,破在旦夕!」趙蔥曰:「狼孟一破,彼將長驅井陘,合攻常山,而邯鄲危矣!不得不往救之。」遂不聽顏聚之諫,傳令拔寨俱起。王翦覘探明白,預伏兵大谷。遣人於高阜瞭望,只等趙蔥兵過一半,放起號砲,伏兵一齊殺出,將趙兵截做兩段,首尾不能相顧。王翦引大軍傾江倒峽般殺來,趙蔥迎敵,兵敗,為王翦所殺。顏聚收拾敗軍,奔回邯鄲。秦兵遂拔狼孟,由井陘進兵,攻取下邑。楊端和亦收取常山餘地,進圍邯鄲。秦王政聞兩路兵俱已得勝,因命內史騰移兵往韓受地。韓王安大懼,盡獻其城,入為秦臣。秦以韓地為穎川郡。此韓王安之九年,秦王政之十七年也。韓自武子萬受邑於晉,三世至獻子厥,始執晉政。厥三傳至康子虎,始滅智氏。虎再傳至景侯虔,始為諸侯。虔六傳至宣惠王,始稱王。四傳至王安,而國入於秦。自韓虎六年,至宣惠王九年,凡為侯共八十年;自宣惠王十年,至王安九年國滅,凡為王九十四年。自此,六國只存其五矣。史臣有贊云:

    萬封韓原,賢裔惟厥;計全趙孤,陰功不泄。始偶六卿,終分三穴;從約不守,稽首秦闕。韓非雖使,無救亡滅!

  再說秦兵圍邯鄲,顏聚悉兵拒守,趙王遷恐懼,欲遣使鄰邦求救。郭開進曰:「韓王已入臣,燕魏方自保不暇,安能相救?以臣愚見,秦兵勢大,不如全城歸順,不失封侯之位。」王遷欲聽之。公子嘉伏地痛哭曰:「先王以社稷宗廟傳於王,何可棄也?臣願與顏聚竭力效死!萬一城破,代郡數百里,尚可為國,奈何束手為人俘囚乎?」郭開曰:「城破則王為虜,豈能及代哉?」公子嘉拔劍在手,指郭開曰:「覆國讒臣,尚敢多言!吾必斬之!」趙王勸解方散。王遷回宮,無計可施,惟飲酒取樂而已。郭開欲約會秦兵獻城,奈公子嘉率其宗族賓客,幫助顏聚加意防守,水洩不漏,不能通信。其時歲值連荒,城外民人逃盡,秦兵野無所掠,惟城中廣有積粟,食用不乏,急切不下;乃與楊端和計議,暫退兵五十里外,以就糧運。城中見秦兵退去,防範稍弛,日啟門一次,通出入。郭開乘此隙,遣心腹出城,將密書一封,送入秦寨。書中大意云:「某久有獻城之意,奈不得其便。然趙王已十分畏懼,倘得秦王大駕親臨,其當力勸趙王行銜璧輿櫬之禮。」王翦得書,即遣人馳報秦王。秦王親帥精兵三萬,使大將李信扈駕,取太原路,來至邯鄲,復圍其城,晝夜攻打。城上望見大旆有「秦王」字,飛報趙王。趙王愈恐。郭開曰:「秦王親提兵至此,其意不破邯鄲不已,公子嘉顏聚輩不足恃也。願大王自斷於心!」趙王曰:「寡人欲降秦,恐見殺如何?」郭開曰:「秦不害韓王,豈害大王哉?若以和氏之璧,并邯鄲地圖出獻,秦王必喜。」趙王曰:「卿度可行,便寫降書。」郭開寫就降書,又奏曰:「降書雖寫,公子嘉必然阻擋。聞秦王大營在西門,大王假以巡城為名,乘駕到彼,竟自開門送款,何愁不納?」趙王一向昏迷,惟郭開之言是聽,到此危急之際,益無主持,遂依其言。顏聚方在北門點視,聞報趙王已出西門,送款於秦,大驚。公子嘉亦飛騎而至,言:「城上奉趙王之命,已喼降旗,秦兵即刻入城矣。」顏聚曰:「吾當以死據住北門,公子收歛公族,火速到此,同奔代地,再圖恢復。」公子嘉從其計,即率其宗族數百人,同顏聚奔出北門,星夜往代。顏聚勸公子嘉自立為代王,以令其眾;表李牧之功,復其官爵,親自設祭,以收代人之心;遣使東與燕合,屯軍於上谷,以備秦寇。代國賴以粗定。不在話下。

  再說秦王政准趙王遷之降,長驅入邯鄲城,居趙王之宮。趙王以臣禮拜見,秦王坐而受之,故臣多有流涕者。明日,秦王弄和氏之璧,笑謂群臣曰:「此先王以十五城易之而不得者也!」於是秦王出令,以趙地為鉅鹿郡,置守;安置趙王於房陵;封郭開為上卿。趙王方悟郭開賣國之罪,嘆曰:「使李牧在此,秦人豈得食吾邯鄲之粟耶?」那房陵四面有石室,如房屋一般。趙王居石室之中,聞水聲淙淙,問左右。對曰:「楚有四水,江、漢、沮、漳,此名沮水,出房山達於漢江。」趙王悽然嘆曰:「水乃無情之物,尚能自達於漢江,寡人羈囚在此,望故鄉千里,豈能至哉!」乃作山水之謳云:

    房山為宮兮,沮水為漿;不聞調琴奏瑟兮,惟聞流水之湯湯!水之無情兮,猶能自致於漢江;嗟余萬乘之主兮,徒夢懷乎故鄉!夫誰使余及此兮?迺讒言之孔張!良臣淹沒兮,社稷淪亡;余聽不聰兮!敢怨秦王?

終夜無聊,每一發謳,哀動左右,遂發病不起。代王嘉聞王遷死,諡為幽謬王。有詩為證:

    吳主喪邦繇佞嚭,趙王遷死為貪開;若教貪佞能疏遠,萬歲金湯永不隤。

  秦王班師回咸陽,暫且休兵養士。郭開積金甚多,不能攜帶,乃俱窖於邯鄲之宅第。事既定,自言於秦王,請休假回趙,搬取家財。秦王笑而許之。既至邯鄲,發窖取金,載以數車,中途為盜所殺,取金而去。或云:「李牧之客所為也。」嗚呼!得金賣國,徒殺其身,愚哉!

  再說燕太子丹逃回燕國,恨秦王甚,乃散家財,大聚賓客,謀為報秦之舉。訪得勇士夏扶宋意,皆厚待之。有秦舞陽,年十三,白晝殺仇人於都市,市人畏不敢近,太子赦其罪,收致門下。秦將樊於期得罪奔燕,匿深山中,至是聞太子好客,亦出身自歸。丹待為上賓,於易水之東,築一城以居之,名曰樊館。太傅鞠武諫曰:「秦虎狼之國,方蠶食諸侯,即使無隙,猶將生事,況收其仇人以為射的,如批龍之逆鱗,其傷必矣。願太子速遣樊將軍入匈奴以滅口,請西約三晉,南連齊楚,北結匈奴,然後乃可徐圖也。」太子丹曰:「太傅之計,曠日彌久。丹心如焚炙,不能須臾安息。況樊將軍窮困來歸,是丹哀憐之交也。丹豈以強秦之故,而遠棄樊將軍於荒漠?丹有死,不能矣。願太傅更為丹慮之!」鞠武曰:「夫以弱燕而抗強秦,如以毛投爐,無不焚也,以卵投石,無不碎也。臣智淺識寡,不能為太子畫策。所識有田光先生,其人智深而勇沉,且多識異人。太子必欲圖秦,非田光先生不可。」太子丹曰:「丹未得交於田先生,願因太傅而致之。」鞠武曰:「敬諾。」鞠武即駕車往田光家中,告曰:「太子丹敬慕先生,願就而決事,願先生勿卻!」田光曰:「太子,貴人也,豈敢屈車駕哉?即不以光為鄙陋,欲共計事,光當往見,不敢自逸。」鞠武曰:「先生不惜枉駕,此太子之幸也。」遂與田光同車,造太子宮中。太子丹聞田光至,親出宮迎接,執轡下車,卻行為導,再拜致敬,跪拂其席。田光年老,僂行登上坐,旁觀者皆竊笑。太子丹屏左右,避席而請曰:「今日之勢,燕秦不兩立,聞先生智勇足備,能奮奇策,救燕須臾之亡乎?」田光對曰:「臣聞:『騏驥盛壯之時,一日而馳千里,及其衰老,駑馬先之。』今鞠太傅但知臣盛壯之時,不知臣已衰老矣。」太子丹曰:「度先生交遊中,亦有智勇如先生少壯之時,可代為先生持籌者乎?」田光搖首曰:「大難,大難!雖然,太子自審門下客,可用者有幾人?光請相之。」太子丹乃悉召夏扶、宋意、秦舞陽至,與田光相見。田光一一相過,問其姓名,謂太子曰:「臣竊觀太子客,俱無可用者。夏扶血勇之人,怒則面赤;宋意脈勇之人,怒則面青﹔秦舞陽骨勇之人,怒則面白。夫怒形於面,而使人覺之,何以濟事?臣所知有荊卿者,乃神勇之人,喜怒不形,似為勝之。」太子丹曰:「荊卿何名?何處人氏?」田光曰:「荊卿者,名軻,本慶氏,齊大夫慶封之後也。慶封奔吳,家於朱方,楚討殺慶封,其族奔衛,為衛人。以劍術說衛元君,元君不能用。及秦拔魏東地,并濮陽為東郡,而軻復奔燕,改氏曰荊,人呼為荊卿,性嗜酒,燕人高漸離者,善擊築,軻愛之,日與飲於燕市中。酒酣,漸離擊築,荊卿和而歌之,歌罷,輒涕泣而嘆,以為天下無知己。此其人沉深有謀略,光萬不如也。」太子丹曰:「丹未得交於荊卿,願因先生而致之。」田光曰:「荊卿貧,臣每給其酒資,是宜聽臣之言。」太子丹送田光出門,以自己所乘之車奉之,使內侍為御。光將上車,太子囑曰:「丹所言,國之大事也,願先生勿泄於他人。」田光笑曰:「老臣不敢。」田光上車,訪荊軻於酒市中。軻與高漸離同飲半酣,漸離方調築。田光聞築音,下車直入,呼荊卿。漸離攜築避去。荊軻與田光相見,邀軻至其家中,謂曰:「荊卿嘗嘆天下無知己,光亦以為然。然光老矣,精衰力耗,不足為知己驅馳。荊卿方壯盛,亦有意一試其胸中之奇乎?」荊軻曰:「豈不願之,但不遇其人耳。」田光曰:「太子丹折節重客,燕國莫不聞之。今者不知光之衰老,乃以燕秦之事謀及於光。光與卿相善,知卿之才,薦以自代,願卿即過太子宮。」荊軻曰:「先生有命,軻敢不從!」田光欲激荊軻之志,乃撫劍嘆曰:「光聞之:『長者為行,不使人疑。』今太子以國事告光,而囑光勿泄,是疑光也。光奈何欲成人之事,而受其疑哉!光請以死自明,願足下急往報於太子。」遂拔劍自刎而死。荊軻方悲泣,而太子復遣使來視:「荊先生來否?」荊軻知其誠,即乘田光來車,至太子宮。太子接待荊軻,與田光無二。既相見,問:「田先生何不同來?」荊軻曰:「光聞太子有私囑之語,欲以死明其不言,已伏劍死矣!」太了丹撫膺慟哭曰:「田先生為丹而死,豈不冤哉!」良久收淚,納軻於上座,太子丹避席頓首。軻慌忙答禮。太子丹曰:「田先生不以丹為不肖,使丹得見荊卿,天與之幸,願荊卿勿見鄙棄。」荊軻曰:「太子所以憂秦者,何也?」丹曰:「秦譬猶虎狼,吞噬無厭,非盡收天下之地,臣海內之王,其欲未足。今韓王盡已納地為郡縣矣。王翦大兵復破趙,虜其王。趙亡,次必及燕。此丹之所以臥不安席,臨食而廢箸者也。」荊軻曰:「以太子之計,將舉兵與角勝負乎?抑別有他策耶?」太子丹曰:「燕小弱,數困於兵。今趙公子嘉自稱代王,欲與燕合兵拒秦。丹恐舉國之眾,不當秦之一將,雖附以代王,未見其勢之盛也。魏齊素附於秦,而楚又遠不相及,諸侯畏秦之強,無肯『合從』者。丹竊有愚計,誠得天下之勇士,偽使於秦,誘以重利,秦王貪得,必相近,因乘間劫之,使悉反諸侯侵地,如曹沫之於齊桓公,則大善矣。倘不從,則刺殺之。彼大將握重兵,各不相下,君亡國亂,上下猜疑,然後連合楚魏,共立韓趙之後,并力破秦,此乾坤再造之時也!惟荊卿留意焉。」荊軻沉思良久,對曰:「此國之大事也,臣駑下,恐不足當任使。」太子丹前頓首固請曰:「以荊卿高義,丹願委命於卿,幸毋讓!」荊軻再三謙遜,然後許諾。於是尊荊軻為上卿,於樊館之右,復築一城,名曰荊館,以奉荊軻。太子丹日造門下問安,供以太牢。間進車騎美女,恣其所欲,惟恐其意之不適也。軻一日與太子遊東宮,觀池水,有大龜出池旁,軻偶拾瓦投龜,太子丹捧金丸進之以代瓦。又一日共試騎,太了丹有馬日行千里,軻偶言馬肝味美,須臾,庖人進肝,所殺即千里馬也。丹又言及秦將樊於期得罪秦王,見在燕國。荊軻請見之。太子治酒於華陽之臺,請荊軻與樊於期相會,出所幸美人奉酒,復使美人鼓琴娛客。荊軻見其兩手如玉,贊曰:「美哉手也!」席散,丹使內侍以玉盤送物於軻,軻啟視之,乃斷美人之手。自明於軻,無所吝惜。軻嘆曰:「太子遇軻厚,乃至此乎?當以死報之!」不知荊軻如何報恩,且看下回分解。

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