東周列國志第百零七回 地図を献じて荊軻が秦の庭を騒がす/兵法を論じて王翦が李信に代わる (獻地圖荊軻鬧秦庭 論兵法王翦代李信)
樊於期の首
- さて荊軻は日頃、人と剣術を論じることが多かったが、めったに人を認めることがなく、ただ榆次の人蓋聶にだけは心服し、自分は及ばぬと思って深く友となっていた。
- このとき、軻は燕太子丹の厚恩を受け、西に入って秦王を劫かそうと考え、人を遣わして蓋聶を訪ね求め、燕へ招いて共に相談しようとした。しかし蓋聶の行方が定まらず、すぐには来させることができなかった。
- 太子丹は荊軻が豪傑であると知っていたので、朝夕敬い仕え、あえて催促しなかった。
- 突然、辺境からの報せが届いた。「秦王が大将王翦を遣わし、北へ進んで燕の南境まで地を略した。代王嘉が使者を送って盟約を求め、共に兵を発して上谷を守り秦を防ごうとしている。」
- 太子丹は大いに恐れ、荊軻に言った。「秦兵は今にも易水を渡ろうとしている。あなたがいくら燕のために計をめぐらそうとしても、間に合うだろうか。」
- 荊軻は言った。「臣はよくよく考えました。此度の行きが秦王の信を得るものでなければ、近づくことすらできますまい。樊将軍は秦に罪を得て、秦王がその首に黄金千斤、封邑万家を懸けております。督亢の肥沃な地は秦人の欲しがるところ。まことに樊将軍の首と督亢の地図を得て秦王に献ずることができれば、彼は必ず喜んで臣にお目通りを許すでしょう。臣はそれによって太子に報いることができます。」
- 丹は言った。「樊将軍は窮困してわしを頼ってこられたのだ。どうして殺すに忍びよう。督亢の地図なら惜しむところはないが。」
- 荊軻は太子丹が忍びないと知り、ひそかに樊於期に会って言った。「将軍は秦にひどい禍を受けられた。父母宗族はみな戮殺され、今また将軍の首に金千斤、一万戸の領地が懸けられていると聞く。将軍はどのようにしてその恨みを雪ぐおつもりか。」
- 樊於期は天を仰いで大いに嘆息し、涙を流して言った。「私はいつも秦王の政(嬴政)のことを思うたび、痛みが骨の髄まで徹する。あの男もろとも死にたいと願っているが、恨めしいことに、その機会がないだけだ。」
- 荊軻は言った。「今、一つの言葉があります。燕国の患いを解き、将軍の仇を報いることができるものですが、将軍はお聞きになりますか。」於期は急いで尋ねた。「その計はどのようなものか。」荊軻はためらって言わなかった。於期は言った。「荊卿はなぜ言わないのか。」軻は言った。「計は確かにありますが、口に出しにくいのです。」
- 於期は言った。「秦への仇を報いられるならば、たとえ粉骨砕身しようと私は厭いません。どうして口に出すのを難しく思う必要がありましょうか。」
- 荊軻は言った。「私の愚かな計は、進んで秦王を刺そうというものですが、近づくことができぬのを恐れております。まことに将軍の首を得て秦に献じれば、秦王は必ず喜んで臣にお目通りを許すでしょう。臣は左手でその袖をつかみ、右手でその胸を刺せば、将軍の仇は報われ、燕もまた滅亡の患いを免れるでしょう。将軍はいかがお思いですか。」
- 樊於期は衣を脱いで肩を露わにし、腕を振るい足を踏み鳴らして大いに叫んだ。「これこそ私が日夜歯を食いしばり心を焦がして、その策のないことを恨んでいたことだ。今こそその優れたお教えを聞くことができた。」そして帯びていた剣を抜き、自らの喉を刎ねた。喉は絶えたが頸はまだ断たれていなかったので、荊軻がさらに剣でこれを断った。詩がある。「奇策を聞いて喜びのあまり狂わんばかり、その魂はひと足先に咸陽へ飛んで行った。荊卿がもし龍を屠るこの計を成し遂げたなら、将軍が剣の下に死んだのも無駄ではなかったことになる。」
易水の別れ
- 荊軻は人を遣わして太子に急報した。「すでに樊将軍の首を得ました。」太子丹はこれを聞くと、馬車を馳せて至り、屍に伏して極めて哀しく哭した。その遺体を厚く葬るよう命じ、首は木の函に収めさせた。
- 荊軻は言った。「太子はよく切れる匕首をお探しになりましたか。」太子丹は言った。「趙の人徐夫人の匕首があり、長さ一尺八寸、はなはだ鋭利で、丹は百金でこれを得た。工人に命じて毒薬を染み込ませ、人で試したところ、流れ出た血が糸すじを濡らすほどのかすり傷でも、たちどころに死なぬ者はなかった。これを鞘に仕込んで用意し、荊卿を待つこと久しい。荊卿の出発はいつになりますか。」
- 荊軻は言った。「臣が親しくする蓋聶という客がまだ着いておりません。彼を副えとして待とうと思っております。」太子丹は言った。「あなたの客は海中の浮萍のようなもの、当てにはなりません。丹の門下には勇士が数人おり、秦舞陽が最もすぐれております。あるいは彼を副えとしてはいかがでしょう。」
- 荊軻は太子がひどく急いているのを見て、嘆いて言った。「今、一本の匕首をもって計り知れぬ強秦へ入る、これは行けば帰らぬ旅です。臣が遅れているのは、あの客を待って万全を期そうとしているためです。太子がもう待てぬというなら、参りましょう。」
- そこで太子丹は急いで国書を作り、督亢の地図と樊将軍の首を献ずる旨だけを記し、いずれも荊軻に付した。千金をもって軻の旅装をととのえ、秦舞陽を副使として同行させた。
- 出発の日、太子丹とその親しい賓客で事情を知る者たちは、みな白衣素冠で易水のほとりまで見送り、宴を設けて餞別とした。高漸離は荊軻が秦へ入ると聞き、豚の肩肉と斗酒を携えて来た。荊軻は高漸離を太子丹に引き合わせ、丹は同席させた。
- 酒が数巡すると、高漸離が築を打ち、荊軻がこれに和して歌った。変徴の声である。歌に曰く、「風蕭蕭として易水寒し、壮士ひとたび去りてまた還らず。」
- 声はいたく哀慘で、賓客も随行の者もみな涕泣し、あたかも喪に臨むかのようであった。荊軻は面を仰いで気を吐くと、まっすぐ天に沖き、白虹一道となって日を貫き、見る者は驚き異とした。
- 軻はさらに慷慨として羽の声で歌った。「虎の穴を探り、蛟の棲む宮へ踏み込もう。天を仰いで息を吐けば、それが白い虹となる。」その声は激烈雄壮で、みな目を怒らせ奮い立ち、あたかも敵に臨むかのようであった。
- そこで太子丹は再び盃の酒を持ち、跪いて軻に進めた。軻は一息に飲み干し、舞陽の腕を引いて躍り上がって車に乗り、鞭を打って疾駆し、ついに振り返ることなく去った。
- 太子丹は高台に登ってこれを望んだが、見えなくなるまで見送り、悽然として何かを失ったかのように、涙を帯びて帰った。晋の処士陶靖節(陶淵明)に詩がある。「燕の太子丹はよく士を養い、その志は強大な秦(嬴氏)に報復することにあった。百人に一人という傑物をあちこちから集め、年も暮れるころ、ようやく荊卿を得た。君子は自分を知ってくれた者のために死ぬもの、荊軻は剣を提げて燕の都を出て行った。白馬が広い街道でいななき、人々は意気高く彼の旅立ちを見送る。逆立つ髪は高い冠を突き上げ、猛り立つ気は冠の長い紐を吹き払わんばかり。易水のほとりで別れの酒を酌み、四方の席には英傑たちが居並ぶ。左の席では悲しげに築が打たれ、右の席では高らかな歌声が上がる。ひゅうひゅうと哀しい風が吹き過ぎ、川面には淡く冷たい波が立つ。物悲しい商の調べに人々はいっそう涙を流し、激しい羽の調べには壮士たちが奮い立って胸を打たれた。行けば二度と帰らぬと心では分かっていたが、それでも後の世に名を残すことになるのだ。」
秦廷での刺殺未遂
- 荊軻は咸陽に着くと、中庶子蒙嘉が秦王に寵愛されていることを知り、まず千金をもってこれに賄賂を贈り、取り次ぎを求めた。
- 蒙嘉は入って秦王に奏上した。「燕王は大王の威に怖れ、あえて兵を挙げて軍吏に逆らおうとせず、国を挙げて内臣となり、諸侯の列に比して郡県のように貢ぎ物を納め、先人の宗廟を守ることを願っております。恐懼のあまり自ら申し述べることができず、謹んで樊於期の首を斬り、燕の督亢の地図を献じ、燕王みずから函に封じ、庭で使者を拝送いたしました。今、上卿荊軻が宿舎で御旨を待っております。ただ大王のご命令をお待ちしております。」
- 秦王は樊於斯(樊於期)がすでに誅せられたと聞き大いに喜び、朝服して九賓の礼を設け、使者を咸陽宮に召して会うことにした。
- 荊軻は匕首を袖に隠し、樊於期の首を収めた函を捧げ、秦舞陽は督亢の地図の匣を捧げ持ち、相従って進んだ。まさに階を昇ろうとするとき、秦舞陽は顔が死人のように白くなり、恐れ震える様子があった。
- 侍臣が言った。「使者の顔色が変わったのはなぜか。」荊軻は舞陽を振り返って笑い、進み出て深く頭を下げて詫びた。「一介の秦舞陽は北番の蛮夷の卑しい者、生まれてこのかた天子にお目にかかったことがなく、そのため恐れ震えを禁じえず、常の態度を失っております。どうか大王、その罪をお赦しになり、御前での使いを果たさせてくださいますよう。」
- 秦王は令を伝え、正使一人のみの昇殿を許した。左右の者は舞陽に大声で命じ、階下に下がらせた。
- 秦王は首の函を取り寄せて検めさせたところ、果たして樊於期の首であった。荊軻に問うた。「なぜ早く逆臣を殺して献じなかったのか。」荊軻は奏した。「樊於期は天子に罪を得て北の荒れ果てた砂漠に隠れ潜んでおりました。わが君は千金の賞を懸けてこれを得、大王の御前に生きたまま連れて来ようとしましたが、まことに途中で変事があるのを恐れ、その首を斬り、いささか大王のお怒りを和らげようとしたのです。」
- 荊軻の言葉は落ち着き払い、顔色はますます穏やかで、秦王は疑わなかった。
- そのとき秦舞陽は地図の匣を捧げ、頭を垂れて階下に跪いていた。秦王は荊軻に言った。「舞陽が持つ地図を取り、寡人に見せよ。」荊軻は舞陽の手から図の函を受け取り、みずから捧げ上げた。
- 秦王は図を広げ、まさに見ようとした。荊軻の匕首はすでに露わになり、隠しきれず、そこでいくらか慌てた。左手で秦王の袖をつかみ、右手で匕首を執ってその胸を刺そうとしたが、身に及ばぬうちに秦王は大いに驚き、身を奮って立ち上がり、袖が切れた。時は五月初旬の頃で、着ていたのが薄絹の単衣であったため、たやすく裂けたのである。
- 王座の傍らには屏風が置かれ、長さ八尺、秦王はこれを跳び越え、屏風は倒れた。荊軻は匕首を持ってすぐ後ろから追った。秦王は身を脱することができず、柱をめぐって走った。
- もともと秦の法では、殿上に侍る群臣はどんな小さな武器も持つことを許されず、宿衛の郎中の官で武器を執る者はみな殿下に陳列されており、召し出しの命がなければ勝手に殿に入ることはできなかった。今、突然の変事が起こり、呼び喚める暇もなかった。群臣はみな素手で荊軻に組みかかった。軻の勇はすさまじく、近づく者はたちまち倒された。
- 侍医の夏無且は薬囊で軻を打ちつけたが、軻が腕を一振りすると薬囊は砕け散った。荊軻の勇はすさまじいもので、群臣もどうすることもできなかったが、その荊軻も群臣を追い払うのに手を取られていたおかげで、秦王は東へ西へと逃げ回りながらも、荊軻に捕らわれることはなかった。
- 秦王が佩びていた宝剣は「鹿盧」といい、長さ八尺、これを抜いて軻を撃とうとしたが、剣が長く、柄が抜けなかった。小内侍の趙高が急いで叫んだ。「大王、なぜ剣を背に負って抜かれないのですか。」秦王は悟り、その言に従って剣を背後に押しやると、前方が短くなって容易に抜けた。
- 秦王の勇力は荊軻に劣らず、匕首は一尺余りで近くを刺すのみだが、剣は八尺あって遠くを撃つことができた。秦王は剣を手にすると胆が据わり、まっすぐ進んで荊軻を斬りつけ、その左股を断った。
- 荊軻は体を伏せて左の銅柱の傍らに倒れ、立ち上がることができず、匕首を挙げて秦王に投げつけた。秦王は身をかわし、匕首は秦王の耳の傍らを過ぎ、まっすぐ右側の銅柱に突き刺さり、火花が迸った。
- 秦王は再び剣で軻を撃ち、軻は手で剣を受け止めたが、指を三本落とし、続けて八箇所の傷を負った。荊軻は柱に寄りかかって笑い、秦王に向かって足を投げ出して座り、罵った。「幸運であったな、お前は。私は曹沬の故事に倣い、お前を生かしたまま劫し、諸侯から奪った地を返させようとしたが、思いがけず事は成らず、お前は幸いにも難を免れた。これぞ天の加護でなくて何であろう。しかしお前は強力を頼んで諸侯を呑併したとて、国を享受することが果たして長く続くだろうか。」
- 左右の者が争って前に進み、寄ってたかって軻を殺した。秦舞陽は殿下にいて、荊軻が事を起こしたと知り、彼もまた進もうとしたが、郎中らに打ち殺された。
- これは秦王政二十年の事である。惜しいことに、荊軻は燕太子丹に長らく養われながら、一事も成らず、自らを害したばかりか、田光・樊於期・秦舞陽の三人の命をも無駄に害し、燕王喜と太子丹の父子をも破滅させた。剣術の未熟であったことによるのではなかろうか。髯翁に詩がある。「ただ一人、匕首を提げて秦の都に乗り込んだ。神わざのような勇気はあっても、剣術の拙さばかりはどうにもならなかった。壮士は帰らず、企ても成らず、首を差し出した樊君は、あの世でおのれの首を探し回ることになろう。」
秦廷の事後処理、燕の敗亡と太子丹の縊殺
- 秦王は心が戦き目が眩み、呆然と半日座っていたが、ようやく神色が落ち着いた。荊軻の遺体を見に行くと、軻は両目を見開き、まるで生きているかのようで、怒気がなお盛んであった。
- 秦王は恐れ、荊軻と秦舞陽の屍、および樊於期の首を取って、市中で共に焚くよう命じ、燕国から従ってきた者はみな首を斬られ、それぞれ都の城門に懸けられた。
- そして駕を還して内宮に戻った。宮中の后妃たちは変事を聞き、みな進み出て安否を尋ね、酒宴を設けて秦王の驚きを慰め、無事を祝った。
- 一人の胡姫がいた。もとは趙王宮の女官であったが、秦王が趙を破ったとき選ばれて宮に入り、琴に長じて寵を得、妃の位に列していた。秦王は彼女に琴を弾かせて憂さを晴らそうとした。胡姫は琴を持って奏でた。その歌に言う。「薄絹の単衣は、引けば裂けて切れるもの。八尺の屏風は、跳べば越えられるもの。鹿盧の剣は、背に回せば抜けるもの。あの凶悪でずる賢い男がおかしくてならない――その身は滅び、国もまた滅びるのだ。」
- 秦王はその機敏さを愛し、繒綺一箱を賜り、その夜歓を尽くして胡姫の宮に泊まった。後に胡姫は子を生んだが、それが胡亥、すなわち二世皇帝である。これは後の話である。
- 翌朝、秦王は朝に出て論功行賞を行った。まず夏無且を推し、黄金二百鎰を賜って言った。「無且は我を愛して、薬囊を荊軻に投げつけた。」次に小内侍の趙高を呼んで言った。「『剣を背にして抜け』とは、そなたの教えのおかげだ。」これにも黄金百鎰を賜った。群臣の中で素手で荊軻と組み打ちした者には、負った傷の軽重に応じて賞を加えた。殿下の郎中で秦舞陽を撃ち殺した者にも、それぞれ賜り物があった。
- 蒙嘉は誤って荊軻の取り次ぎをしたとして凌遅の刑に処され、その家も滅ぼされた。蒙驁はすでに先に病死していたが、その子蒙武は今、裨将であり、事情を知らなかったとして特に赦された。
- 秦王の怒りは収まらず、さらに兵を発し、王賁にこれを率いさせ、その父王翦を助けて燕を攻めさせた。
- 燕太子丹は憤りに堪えず、全軍を挙げて易水の西で迎え戦ったが、燕兵は大敗し、夏扶・宋意はいずれも戦死した。丹は薊城へ逃げ、鞠武は殺された。王翦は兵を合わせてこれを包囲し、十月に城が破れた。
- 燕王喜は太子丹に言った。「今日、国を破り家を亡ぼしたのは、すべてお前のせいだ。」丹は答えた。「韓・趙が滅んだことまで、この丹の罪だとおっしゃるのですか。今、城中の精兵はなお二万おります。遼東は山を負い河に阻まれ、なお固く守れましょう。父王は速やかに移られますよう。」
- 燕王喜はやむなく車に乗り、東門を開いて出た。太子丹はその精兵をことごとく駆り、みずから殿を務め、燕王を東へ護送し、退いて遼東を保ち、平壌に都を置いた。
- 王翦は薊城を攻め落とし、咸陽に戦捷を報じた。王翦は積年の疲労で病を得、表を上げて老齢を理由に退役を願い出た。秦王は言った。「太子丹への仇を寡人は忘れられぬが、王翦は誠に老いた。」将軍李信に命じてその軍を代わり率いさせ、燕王父子を追わせた。王翦を召し戻し、褒賞を厚く賜った。翦は病を理由に辞し、頻陽で老後を過ごした。
- 燕王は李信の軍が至ると聞き、使者を遣わして代王嘉に救いを求めた。嘉は燕王に返書を送った。おおよそこうあった。「秦が燕を手をゆるめず攻め立てているのは、太子丹への怨みによるものです。王がもし丹を殺して秦に謝せば、秦の怒りは必ず解け、燕の社稷は幸いにも祭祀を保てましょう。」
- 燕王喜は猶予して忍びなかったが、太子丹は誅を恐れ、賓客とともにみずから桃花島に身を隠した。李信は首山に兵を屯し、人を遣わして書を送り、太子丹の罪を数え立てた。
- 燕王喜は大いに恐れ、太子丹に相談があると偽って招き、酒で酔わせてこれを縊り殺し、その首を斬った。燕王喜はこれを痛哭した。時は夏五月であったが、突然天から大雪が降り、平地に深さ二尺五寸積もり、寒さは厳冬のようであった。人々は太子丹の怨気の致すところだと言った。
- 燕王は太子丹の首を函に入れて李信の軍中へ送り、書をもって謝罪した。李信は秦王に馳せ奏し、さらに言った。「五月の大雪で軍人が寒さに苦しみ病む者が多いので、しばらく兵を引き上げることをお許しいただきたい。」
- 秦王は尉繚に謀ったところ、尉繚は奏した。「燕は遼に棲み、趙は代に棲んでおります。たとえば遊魂のようなもので、久しからず自ら散じましょう。今日の策としては、まず魏を下し、次いで荊楚に及ぶのがよろしい。この二国が定まれば、燕・代は労せずして下りましょう。」秦王は「よかろう」と言い、李信に詔して兵を収め帰国させた。改めて王賁を大将に命じ、軍十万を率いて函谷関を出て魏を攻めさせた。
魏の滅亡
- 時に魏の景湣王はすでに薨じ、太子仮が立って三年になっていた。秦が燕を攻めていた頃から、魏王仮は大梁の城を増築し、内外に深い溝を浚い、あらかじめ守備を修めていた。人を遣わして斉王と誼を結び、利害を説いて言った。「魏と斉とは唇歯の国、唇亡べば歯寒し。魏が亡べば、禍は必ず斉に及ぶでしょう。どうか心を同じくして力を合わせ、互いに救援いたしましょう。」
- 斉は君王后が薨じてより、その弟の后勝が相国として政を執っており、多く秦の黄金を受け取っていたので、力説して言った。「秦は決して斉を裏切りませぬ。今もし魏と『合従』すれば、必ず秦の怒りに触れましょう。」斉王建はその言に惑わされ、魏の使者を辞退させてしまった。
- 王賁は連戦連勝し、大梁を包囲した。ちょうど雨が多い天候であった。王賁は油布の幌をかけた車に乗って水勢を見て回り、黄河が城の西北にあり、汴河も滎陽から発源し城の西を経て流れているのを知った。そこで兵士に西北で渠を開かせ、二つの河の水を引き、堤を築いてその下流を塞がせた。兵士は雨を冒して工事に取り組み、王賁は自ら傘をさして督励した。
- 渠が完成すると、雨は十日にわたって止まず、水勢は浩大となった。賁は堤を決壊させて溝を通じさせるよう命じ、城の内外の溝はいずれも氾濫した。城は三日にわたって水に浸かり、崩れる箇所が数か所現れ、秦兵はその隙に乗じて突入した。
- 魏王仮はちょうど群臣と降伏の書を協議していたところであったが、王賁に虜とされ、囚車に乗せられ、宮属とともに咸陽へ送られた。仮は途中で病死した。王賁は魏の地をことごとく取り、三川郡とした。あわせて野王の地を収め、衛君角を廃して庶人とした。
- 魏はもと晋の献公の世に、畢万が封を受けたのに始まり、万は芒季を生み、芒季は武子犨を生み、犨は晋の文公を佐けて覇を成した。犨からさらに四代を経て桓子侈に至り、范氏・中行氏・智氏を滅ぼした。侈は文侯斯を生み、韓・趙とともに晋を三分した。それより七代を経て王仮に至り、国は滅び、あわせて国を保つこと二百年であった。史臣に賛がある。「魏氏は畢公の末裔で、封ぜられた国の名をそのまま姓とした。子孫は代を重ねて栄え、代々忠正の徳を守り伝えた。文侯がはじめて諸侯として国を建て、武侯の代にはいっそう強盛となった。恵王は戦を好んだが、都の大梁はふるわなくなった。信陵君が士を養い、国の気風はいくらか盛り返した。だが景湣王の代に国運は衰え、そこからもう一代を伝えただけで滅び去った。」
李信、楚を伐つ
- 時に秦王政二十二年の事である。この年、秦王は尉繚の策を用い、再び楚を伐つことを謀り、李信に問うた。「将軍、楚を伐つ役、何人を用いれば足りると見るか。」李信は答えた。「二十万人を過ぎませぬ。」
- さらに老将王翦に問うた。翦は答えた。「李信の二十万をもって楚を攻めれば、必ず敗れましょう。臣の愚見では、六十万人でなければなりません。」秦王は心中ひそかに思った。「老人はもとより臆病になりがちなもの、李将軍の壮勇には及ぶまい。」そこで王翦を退け用いず、李信を大将に、蒙武を副えとし、兵二十万を率いて楚を伐たせた。
- 李信は平輿を攻め、蒙武は寝邱を攻めた。信は年少で勇猛、一鼓のうちに平輿城を攻め落とし、そこで兵を率いて西へ進み、申城を攻め落とし、人を遣わして書を持たせ、蒙武と城父で合流し、力を合わせて邾城を攻めることを約した。
楚軍の反撃と王翦の再起用
- 話を分けて楚のことを述べよう。楚は李園が春申君黄歇を殺してより、幽王捍を立てた。捍とは黄歇と李氏との間に生まれた子である。幽王が立って十年で薨じたが、子がなかった。そのとき李園もすでに死んでいた。群臣はそこで一族の公子猶を立てた、これが哀王である。哀王が立って二月にして、その庶兄負芻が哀王を襲い殺し、みずから立って王となった。
- 負芻は在位三年、秦兵が深く楚地に入ったと聞き、項燕を大将に任じ、兵二十余万を率いさせ、水陸並び進ませた。李信の兵が申城を出たと探り知ると、みずから大軍を率いて西陵に迎え、副将屈定に命じて魯台山の諸所に七つの伏兵を設けさせた。
- 李信は勇に恃んで前進し、項燕に出会って両軍交戦した。酣な戦いのうちに七路の伏兵が一斉に起こり、李信は防ぎきれず大敗して逃げた。項燕はこれを追い、三日三夜休むことなく、都尉七人を殺し、兵士の死者は数え切れなかった。
- 李信は残兵を率いて冥阨に退いて守ったが、項燕は再びこれを攻め破った。李信は城を棄てて逃げ、項燕はこれを追って平輿に及び、故地をことごとく回復した。蒙武は城父に未だ至らぬうちに李信の敗報を聞き、これも趙の境へ退き、使者を遣わして急を告げた。
- 秦王は大いに怒り、李信の官邑をことごとく削り、みずから駕を命じて頻陽へ赴き、王翦に会って問うた。「将軍は李信が二十万をもって楚を攻めれば必ず敗れると策したが、果たしてその通りとなり、秦軍は恥辱を受けた。将軍は病であろうが、寡人のために強いて起ち、兵を率いて行ってもらえまいか。」
- 王翦は再拝して謝した。「老臣は病み患い衰え乱れ、心力ともに衰えております。どうか大王、別に賢将をお選びになりお任せください。」秦王は言った。「此度の行き、将軍でなくてはならぬ。将軍、どうかお断りにならぬよう。」
- 王翦は答えた。「大王がやむを得ず臣を用いられるなら、六十万人でなければなりません。」秦王は言った。「寡人が聞くには、『古の大国は三軍、次国は二軍、小国は一軍で、全軍を残らず出撃させることはせず、それでも兵が足りなくなったことはない』という。五覇は諸侯に威を加えたが、その治める国も兵車千乗を過ぎず、一乗七十五人と計算しても、いまだ十万の員数に及ばぬ。今、将軍は必ず六十万を用いるというが、古来未曾有のことだ。」
- 王翦は答えた。「古には日を取り決めて陣を構え、双方の陣が整ってはじめて戦い、進退の動作にもすべて定まった法があり、武を尽くしはしても手負いの敵を重ねて傷つけず、相手の罪を鳴らして討つだけで土地を併呑することはせず、戦さの最中にあっても礼と譲りの心を込めておりました。それゆえ帝王の用兵は、従来多くの兵を用いませんでした。斉の恒公(桓公)が内政を整えたとき、戦いに堪える兵は三万を過ぎませんでしたが、それでもなお交代でこれを用いました。
- 今、列国の兵争は、強をもって弱を凌ぎ、衆をもって寡を暴し、人に逢えば殺し、地に遇えば攻め、討ち取った首級の報告はいつも数万にのぼり、城攻めはいつも数年に及びます。そのため農夫もみな武器を操り、童子までが兵籍(徴兵名簿)に登録される有様、勢いの必ず至るところ、少なく用いようとしても得られません。まして楚国は東南一帯をことごとく領しており、号令が一たび出れば百万の衆を具えることができます。臣は六十万をもってしてもなお相応じられぬかと恐れておりますのに、どうしてこれより減らせましょうか。」
- 秦王は嘆いて言った。「将軍が兵に老練でなければ、ここまで透徹した見識には至れまい。寡人は将軍の言に従おう。」そして後車に王翦を載せて朝に入らせ、その日のうちに大将に拝し、六十万を授け、なお蒙武を副とした。
- 出発に際し、秦王はみずから壩上に至って餞を設けた。王翦は盃を挙げ、秦王のために寿を祝って言った。「大王、これをお召し上がりください。臣には請いたきことがございます。」秦王は一飲みして飲み干し、問うた。「将軍、何を申したいのか。」王翦は袖から一枚の簡を取り出した。そこには咸陽の美田宅数か所が書かれており、秦王に「臣の家に給わりたい」と求めた。
- 秦王は言った。「将軍がもし功を成して戻れば、寡人は将軍と共に富貴を楽しもう。何を貧しさに憂えることがあろうか。」王翦は言った。「臣は老いております。大王はたとえ封侯をもって臣を労われましょうが、たとえば風の中の燭火のようなもの、その光がいつまで続きましょうか。臣の目の黒いうちに、多く美田宅を賜り、子孫の業として、代々大王のご恩を受けさせるにしくはございません。」秦王は大いに笑い、これを許した。
- そして函谷関に至ると、さらに使者を遣わして園池数か所を求めた。蒙武は言った。「老将軍のお求め、少々多すぎはしませぬか。」王翦はひそかに告げた。「秦王の性は強引で酷薄、しかも疑い深い。今、精鋭の武装兵六十万を我に授けたのは、国を空にして我に託したようなものだ。わしが田宅や園池をあれこれ求めるのは、子孫の財産にするという名目で、ひとえに秦王の心を安んじるため、ただそれだけのことだ。」蒙武は言った。「老将軍の高見、私の及ぶところではありません。」
- 王翦が楚をいかに討伐するかは、次回をご覧あれ。
原文(底本)
話說荊軻平日,常與人論劍術,少所許可,惟心服榆次人蓋聶,自以為不及,與之深結為友。至是,軻受燕太子丹厚恩,欲西入秦劫秦王,使人訪求蓋聶,欲邀請至燕,與之商議。因蓋聶游蹤未定,一時不能勾來到。太子丹知荊軻是個豪傑,旦暮敬事,不敢催促。忽邊人報道:「秦王遣大將王翦,北略地至燕南界。代王嘉遣使相約,一同發兵,共守上谷以拒秦。」太子丹大懼,言於荊軻曰:「秦兵旦暮渡易水,足下雖欲為燕計,豈有及哉?」荊軻曰:「臣思之熟矣!此行倘無以取信於秦王,未可得近也。夫樊將軍得罪於秦,秦王購其首,黃金千斤,封邑萬家。而督亢膏腴之地,秦人所欲。誠得樊將軍之首,與督亢之地圖,奉獻秦王,彼必喜而見臣,臣乃得有以報太子。」丹曰:「樊將軍窮困來歸,何忍殺之?若督亢地圖,所不敢惜!」荊軻知太子丹不忍,乃私見樊於期曰:「將軍得禍於秦,可謂深矣。父母宗族,皆為戮歿,今聞購將軍之首,金千斤,邑萬家,將軍將何以雪其恨乎?」樊於期仰天太息,流涕而言曰:「某每一念及秦政,痛徹心髓!願與之俱死,恨未有其地耳。」荊軻曰:「今有一言,可以解燕國之患,報將軍之仇者,將軍肯聽之乎?」於期亟問曰:「計將安出?」荊軻躊躇不語。於期曰:「荊卿何以不言?」軻曰:「計誠有之,但難於出口。」於期曰:「苟報秦仇,雖粉骨碎身,某所不恤,又何出口之難乎?」荊軻曰:「某之愚計,欲前刺秦王,而恐其不得近也。誠得將軍之首,以獻於秦,秦王必喜而見臣,臣左手把其袖,右手斫其胸,則將軍之仇報,而燕亦得免於滅亡之患矣。將軍以為何如?」樊於期卸衣偏袒,奮臂頓足,大呼曰:「此臣之日夜切齒腐心而恨其無策者也,今乃得聞明教。」即拔佩劍刎其喉,喉絕而頸未斷,荊軻復以劍斷之。有詩為證: 聞說奇謀喜欲狂,幽魂先已赴咸陽;荊卿若遂屠龍計,不枉將軍劍下亡。 荊軻使人飛報太子曰:「已得樊將軍首矣!」太子丹聞報,馳車至,伏屍而哭極哀,命厚葬其身,而以其首置木函中。荊軻曰:「太子曾覓利匕首乎?」太子丹曰:「有趙人徐夫人匕首,長一尺八寸,甚利,丹以百金得之,使工人染以毒藥,曾以試人,若出血沾絲縷,無不立死。裝以待荊卿久矣!未知荊卿行期何日?」荊軻曰:「臣有所善客蓋聶未至,欲俟之以為副。」太子丹曰:「足下之客,如海中之萍,未可定也。丹之門下,有勇士數人,惟秦舞陽為最,或可以副行乎?」荊軻見太子十分急切,乃嘆曰:「今提一匕首,入不測之強秦,此往而不返者也。臣所以遲遲,欲俟吾客,本圖萬全。太子既不能待,請行矣。」於是太子丹草就國書,只說獻督亢之地并樊將軍之首,俱付荊軻。以千金為軻治裝。秦舞陽為副使,同行。臨發之日,太子丹與相厚賓客知其事者,俱白衣素冠,送至易水之上,設宴餞行。高漸離聞荊軻入秦,亦持豚肩斗酒而至,荊軻使與太子丹相見,丹命入席同坐。酒行數巡,高漸離擊築,荊軻和而歌,為變徵之聲。歌曰: 風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還! 聲甚哀慘,賓客及隨從之人,無不涕泣,有如臨喪。荊軻仰面呵氣,直沖霄漢,化成白虹一道,貫於日中,見者驚異。軻復慷慨為羽聲,歌曰: 探虎穴兮入蛟宮,仰天噓氣兮成白虹! 其聲激烈雄壯,眾莫不瞋目奮勵,有如臨敵。於是太子丹復引巵酒,跪進於軻。軻一吸而盡,牽舞陽之臂,騰躍上車,催鞭疾馳,竟不反顧。太子丹登高阜以望之,不見而止,淒然如有所失,帶淚而返。晉處士陶靖節有詩曰: 燕丹善養士,志在報強嬴。招集百夫良,歲暮得荊卿。君子死知己,提劍出燕京;素驥鳴廣陌,慷慨送我行。雄髮指危冠,猛氣衝長纓。飲餞易水上,四座列群英;左席擊悲築,右席唱高聲。蕭蕭哀風逝,淡淡寒波生,商音更流涕,羽奏壯士驚。心知去不歸,且有後世名。 荊軻既至咸陽,知中庶子蒙嘉有寵於秦王,先以千金賂之,求為先容。蒙嘉入奏秦王曰:「燕王怖大王之威,不敢舉兵,以逆軍吏,願舉國為內臣,比於諸侯之列,給貢職如郡縣,以奉守先人之宗廟。恐懼不敢自陳,謹斬樊於期之首,及獻燕督亢之地圖,燕王親自函封,拜送使者於庭。今上卿荊軻,見在館驛候旨,惟大王命之。」秦王聞樊於斯已誅,大喜,乃朝服,設九賓之禮,召使者至咸陽宮相見。荊軻藏匕首於袖,捧樊於期頭函,秦舞陽捧督亢輿地圖匣,相隨而進。將次升階,秦舞陽面白如死人,似有振恐之狀。侍臣曰:「使者色變為何?」荊軻回顧舞陽而笑,上前叩首謝曰:「一介秦舞陽,乃北番蠻夷之鄙人,生平未嘗見天子,故不勝振慴悚息,易其常度。願大王寬宥其罪,使得畢使於前。」秦王傳旨,止許正使一人上殿。左右叱舞陽下階。秦王命取頭函驗之,果是樊於期之首,問荊軻:「何不早殺逆臣來獻?」荊軻奏曰:「樊於期得罪天子,竄伏北漠,寡君懸千金之賞,購求得之,欲生致於大王;誠恐中途有變,故斷其首,冀以稍紓大王之怒。」荊軻辭語從容,顏色愈和,秦王不疑。時秦舞陽捧地圖匣,俯首跪於階下。秦王謂荊軻曰:「取舞陽所持地圖來,與寡人觀之!」荊軻從舞陽手中,取過圖函,親自呈上。秦王展圖,方欲觀看。荊軻匕首已露,不能掩藏,當下未免著忙。左手把秦王之袖,右手執匕首刺其胸,未及身,秦王大驚,奮身而起,袖絕。因那時五月初旬天氣,所穿羅縠單衣,故易裂也。王座旁設有屏風,長八尺,秦王超而過之,屏風仆地。荊軻持匕首在後緊追。秦王不能脫身,繞柱而走。原來秦法,群臣侍殿上者,不許持尺寸之兵,諸郎中宿衛之官,執兵戈者,皆陳列於殿下,非奉宣召,不敢擅自入殿。今倉卒變起,不暇呼喚。群臣皆以手共搏軻。軻勇甚,近者輒仆。有侍醫夏無且,亦以藥囊擊軻,軻奮臂一揮,藥囊俱碎。雖然荊軻勇甚,群臣沒奈他何,卻也虧著要打發眾人,所以秦王東奔西走,不曾被荊軻拿住。秦王所佩寶劍,名「鹿盧」,長八尺,欲拔劍擊軻,劍長,靶不能脫。有小內侍趙高急喚曰:「大王何不背劍而拔之?」秦王悟,依其言,把劍推在背後,前邊便短,容易拔出。秦王勇力,不弱於荊軻,匕首尺餘,止可近刺,劍長八尺,可以遠擊,秦王得劍在手,其膽便壯,遂直前來砍荊軻,斷其左股。荊軻撲身倒於左邊銅柱之旁,不能起立,乃舉匕首以擲秦王。秦王閃開,那匕首在秦王耳邊過去,直刺入右邊銅柱之中,火光迸出。秦王復以劍擊軻,軻以手接劍,三指俱落,連被八創。荊軻倚柱而笑,向秦王箕踞罵曰:「幸哉汝也!吾欲效曹沬故事,以生劫汝,反諸侯侵地,不意事之不就,被汝幸免,豈非天乎!然汝恃強力,吞併諸侯,享國亦豈長久耶?」左右爭上前攢殺之。秦舞陽在殿下,知荊軻動手,也要向前,卻被郎中等眾人擊殺。此秦王政二十年事也。可惜荊軻受了燕太子丹多時供養,特地入秦,一事無成,不惟自害其身,又枉害了田光、樊於期、秦舞陽三人性命,斷送燕丹父子,豈非劍術之不精乎?髯翁有詩云: 獨提匕首入秦都,神勇其如劍術疏!壯士不還謀不就,樊君應與覓頭顱。 秦王心戰目眩,呆坐半日,神色方纔稍定。往視荊軻,軻雙目圓睜,宛如生人,怒氣勃勃。秦王懼,命取荊軻秦舞陽之屍,及樊於期之首,同焚於市中,燕國從者皆梟首,分懸國門。遂起駕還內宮。宮中后妃聞變,俱前來問安,因置酒壓驚稱賀。有一胡姬,乃趙王宮人,秦王破趙,選入宮,善琴有寵,列在妃位。秦王使鼓琴解悶。胡姬援琴而奏之,其聲曰: 羅縠單衣兮可裂而絕,八尺屏風兮可超而越,鹿盧之劍兮可負而拔,嗤彼凶狡兮身亡國滅! 秦王愛其敏捷,賜繒綺一篋,是夜盡歡,因宿於胡姬之宮。後來胡姬生子,即胡亥也,是為二世皇帝。此是後話。次早,秦王視朝,論功行賞,首推夏無且,以黃金二百鎰賜之,曰:「無且愛我,以藥囊投荊軻也。」次喚小內侍趙高曰:「『背劍而拔之』,賴汝教我。」亦賜黃金百鎰。群臣中手搏荊軻者,視有傷輕重加賞。殿下郎中人等,擊殺秦舞陽者,亦俱有賜。蒙嘉誤為荊軻先容,凌遲處死,滅其家。蒙驁先已病死,其子蒙武,見為裨將,以不知情,特赦之。秦王怒氣未息,乃益發兵,使王賁將之,助其父王翦攻燕。 燕太子丹不勝其憤,悉眾迎戰於易水之西。燕兵大敗,夏扶宋意皆戰死。丹奔薊城,鞠武被殺,王翦合兵圍之,十月城破。燕王喜謂太子丹曰:「今日破國亡家,盡由於汝!」丹對曰:「韓趙之滅,豈亦丹罪耶?今城中精兵,尚有二萬,遼東負山阻河,猶足固守,父王宜速往!」燕王喜不得已,登車開東門而出。太子丹盡驅其精兵,親自斷後,護送燕王東行,退保遼東,都平壤。王翦攻下薊城,告捷於咸陽。王翦積勞成病,一面上表告老。秦王曰:「太子丹之仇,寡人不能忘,然王翦誠老矣。」使將軍李信代領其眾,以追燕王父子。召王翦歸,賜予甚厚。翦謝病,老於頻陽。燕王聞李信兵至,遣使求救於代王嘉。嘉乃報燕王書,略曰: 秦所以急攻燕者,以怨太子丹故也。王能殺丹以謝於秦,秦怒必解,燕之社稷,幸得血食。 燕王喜猶豫未忍,太子丹懼誅,乃與其賓客,自匿於桃花島。李信屯兵首山,使人持書數太子丹之罪。燕王喜大懼,佯召太子丹計事,以酒灌醉,縊殺之,然後斷其首。燕王喜哭之慟。時夏五月,忽然天降大雪,平地深二尺五寸,寒凜如嚴冬,人謂太子丹怨氣所致也。燕王將太子丹之首,函送李信軍中,為書謝罪。李信馳奏秦王,且言:「五月大雪,軍人苦寒多病,求暫許班師。」秦王謀於尉繚,尉繚奏曰:「燕棲於遼,趙棲於代,譬之游魂,不久自散。今日之計,宜先下魏,次及荊楚,二國既定,燕代可不勞而下。」秦王曰:「善。」乃詔李信收兵回國。再命王賁為大將,引軍十萬,出函谷關攻魏。 時魏景湣王已薨,太子假立三年矣。自秦攻燕時,魏王假增築大梁之城,內外俱浚深溝,預修守備。使人結好齊王,說以利害,言:「魏與齊乃唇齒之國,唇亡則齒寒。魏亡,則禍必及於齊,願同心協力,互相救援。」齊自君王后薨,其弟后勝,為相國用事,多受秦黃金,力言「秦必不負齊,今若與魏『合從』,必觸秦怒。」齊王建惑其言,遂辭魏使。王賁連戰皆勝,進圍大梁。值天道多雨,王賁乘油幙車,訪求水勢,知黃河在城之西北,而汴河從滎陽發源來,亦經由城西而過,乃命軍士於西北開渠,引二河之水,築隄壅其下流。軍士冒雨興工,王賁親自持蓋催督。及渠成,雨一連十日不止,水勢浩大,賁命決隄通溝,內外溝俱泛溢。城被浸三日,頹壞者數處,秦兵遂乘之而入。魏王假方與群臣議書降表,為王賁所虜,上囚車,與宮屬俱送至咸陽,假中途病死。王賁盡取魏地,為三川郡。并收野王地,廢衛君角為庶人。按魏自晉獻公之世,畢萬受封,萬生芒季,芒季生武子犨,犨佐晉文公成霸,犨復四傳至桓子侈,滅范氏、中行氏、智氏,侈生文侯斯,與韓趙三分晉國,凡七傳而至王假,國滅,共有國二百年。史臣贊云: 畢公之苗,因國為姓,胤裔繁昌,世戴忠正。文始建侯,武益強盛;惠王好戰,大梁不競。信陵養士,神氣稍振。景湣式微,再傳而隕。 時秦王政二十二年事也。是年,秦王用尉繚之策,復謀伐楚,問於李信曰:「將軍度伐楚之役,用幾何人而足?」李信對曰:「不過用二十萬人。」復召老將王翦問之。翦對曰:「信以二十萬人攻楚,必敗。以臣愚見,非六十萬人不可。」秦王私念曰:「老人固宜怯,不如李將軍壯勇。」遂罷王翦不用。命李信為大將,蒙武副之,率兵二十萬伐楚。李信攻平輿,蒙武攻寢邱。信年少驍勇,一鼓攻下平輿城,於是引兵而西,攻下申城,遣人持書,約蒙武會於城父,欲合兵以搗邾城。 話分兩頭。卻說楚自李園殺春申君黃歇,立幽王捍,捍即黃歇與李氏所生之子也。幽王立十年而薨,無子。其時李園亦卒。群臣乃立宗人公子猶,是為哀王。哀王立二月,而其庶兄負芻,襲殺哀王,遂自立為王。負芻在位三年,聞秦兵深入楚地,乃拜項燕為大將,率兵二十餘萬,水陸並進。探知李信兵出申城,自率大軍迎於西陵,使副將屈定,設七伏於魯臺山諸處。李信恃勇前進,遇項燕,兩下交鋒,戰酣之際,七路伏兵俱起,李信不能抵敵,大敗而走。項燕逐之,凡三日三夜不息,殺都尉七人,軍士死者無算。李信率殘兵退保冥阨,項燕復攻破之。李信棄城而遁。項燕追及平輿,盡復故地。蒙武末至城父,聞李信兵敗,亦退入趙界,遣使告急。秦王大怒,盡削李信官邑,親自命駕造頻陽,來見王翦,問曰:「將軍策李信以二十萬人攻楚必敗,今果辱秦軍矣。將軍雖病,能為寡人強起,將兵一行乎?」王翦再拜謝曰:「老臣罷病悖亂,心力俱衰,惟大王更擇賢將而任之。」秦王曰:「此行非將軍不可,將軍幸勿卻!」王翦對曰:「大王必不得已而用臣,非六十萬人不可。」秦王曰:「寡人聞:『古者大國三軍,次國二軍,小國一軍,軍不盡行,未嘗缺乏。』五霸威加諸侯,其制國不過千乘,以一乘七十五人計之,從未及十萬之額。今將軍必用六十萬,古所未有也。」王翦對曰:「古者約日而陣,旨陣而戰,步伐俱有常法,致武而不重傷,聲罪而不兼地,雖干戈之中,寓禮讓之意。故帝王用兵,從不用眾。齊恒公作內政,勝兵不過三萬人,猶且更番而用。今列國兵爭,以強凌弱,以眾暴寡,逢人則殺,遇地則攻,報級動曰數萬,圍城動經數年,是以農夫皆操戈刃,童稚亦登冊籍,勢所必至,雖欲用少而不可得。況楚國地盡東南,號令一出,百萬之眾可具,臣謂六十萬,尚恐不相當,豈復能減於此哉?」秦王嘆曰:「非將軍老於兵,不能透徹至此,寡人聽將軍矣!」遂以後車載王翦入朝,即日拜為大將,以六十萬授之,仍用蒙武為副。臨行,秦王親至壩上設餞。王翦引巵,為秦王壽曰:「大王飲此,臣有所請。」秦王一飲而盡,問曰:「將軍何言?」王翦出一簡於袖中,所開寫咸陽美田宅數處,求秦王:「批給臣家。」秦王曰:「將軍若成功而回,寡人方與將軍共富貴,何憂於貧?」王翦曰:「臣老矣,大王雖以封侯勞臣,譬如風中之燭,光耀幾時?不如及臣目中,多給美田宅,為子孫業,世世受大王之恩耳。」秦王大笑,許之。即至函谷關,復遣使者求園池數處。蒙武曰:「老將軍之請乞,不太多乎?」王翦密告曰:「秦王性強厲而多疑,今以精甲六十萬畀我,是空國而託我也。我多請田宅園池,為子孫業,所以安秦王之心耳。」蒙武曰:「老將軍高見,吾所不及。」不知王翦伐楚如何,且看下回分解。
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