殘唐五代史演義傳第五十九回 郭威、衆に推されて黄袍を着せられる (郭威為眾加黃袍)
要約
澶州で李洪義が郭威を迎え王殷も合流した。退く気の威を諸将は国家が公に背いたのだと励まし、一同前進した。
梅坡に陣した郭威に、隠帝は袁義・劉重進の禁軍を赤岡、慕容彦超を七里店に屯させた。出馬した彦超は李栄に敵せず部下百余人を失って兗州へ逃げ、侯益らは郭威に会った。玄化門で劉銖に射かけられた隠帝は趙村で乱兵に弑され、蘇逢吉・閻晋卿・郭允明は自殺し、郭威の入城後に諸軍は大いに掠奪した。
百官は太后に禅国を奏し、太后は隠帝の弟劉贇を立てようとしたが、契丹入寇で郭威が大軍を督した。澶州で将士数千が騒ぎ、天子は侍中みずからお為しになるべきで劉氏は立てられぬと言い、黄旗を裂いて威に披せ掛けて南へ向かった。太后は贇を廃して湘陰公とし威に監国を命じ、百官の勧めで漢は廃された。漢は二帝四年、歳は辛亥。史臣は、高祖は時に会って主となったにすぎず、隠帝は小人の謀で禍を招いたとした。
郭威は太原の人で、妻の柴氏は荘宗の宮人ながら父母の反対を押して嫁いだ。即位すると周の虢叔の後裔と称して国号を後周、太祖高帝と称し大赦して広順元年と改元、柴氏を皇后とし、子がなく柴守禮の子の柴栄を晋王として嗣とした。劉崇は贇の死を聞いて晋陽で帝を称し、並・汾以下十二州を得て北漢と号した。
周主は病篤く晋王に政を聴かせ、十八陵が金玉ゆえ掘られたと語り、紙衣瓦棺で葬り陵近くの民三十戸に守らせ、倹約を遺命したと石に刻めと戒めて息絶えた。年五十三、広順三年二月上旬。史臣は、周祖は君を弑して位を纂ったが施策は称するに足る、ただ刺青のまま天子の位に居ては民に号令できぬと断じた。
范質の請いで晋王栄が即位した。世宗皇帝、改元は顕徳、年三十三。馮道を太師とし、周主を新鄭に葬って太祖皇帝と諡し柴后を太后とした。劉崇は周主の死を喜び契丹に兵を請い、契丹主は楊兗に万騎で助戦させ、崇は三万で洛陽へ攻め寄せた。親征に群臣は大将一人で足ると諫めたが、世宗は大喪に乗じ年少を侮るゆえ必ず自ら来ると言い、争う馮道に唐の太宗を引くと、道は陛下が太宗や山たり得るかは分かりかねますと答えた。王溥のみ出行を勧めた。卓吾子は、世宗は矢石を冒して克つを期した英武の主と評した。
現代語訳全文
澶州から南下する郭威
郭威の兵が澶州に至ると、李洪義はこれを迎え入れ、王殷もまた兵を引いて合流し、一つにまとまった。郭威には兵を退ける気持ちがあったが、諸将はみな言った。国家の大事は目下のこの一挙にかかっています、明公はなぜ退き縮まれるのか。国家の方が公に背いたのであって、公が国家に背いたのではない、だからこそ万人が争って奮い立ち、まるで兵の一人一人が自分の私怨を晴らすかのようなのです。侯益の輩に何ができましょうか、と。そこで一同は勇み立って前進し、軍の声威は大いに振るった。
梅坡の対陣と官軍の崩壊
翌日、兵は梅坡に至って陣営を構えた。隠帝は郭威の兵がすでに近づいたと聞いて甚だ驚き、あらためて袁義・劉重進に禁軍を率いさせて侯益らと赤岡に合わせ屯させ、彦超は大軍を七里店に屯させた。隠帝は自ら出て軍を労おうとしたが、太后がこれを止めた。郭威の兵が戦いを挑んで来たとの報が入り、帝は彦超に出馬を命じ、敵兵を呼んで話し合わせようとした。威は李栄を陣に出し、彦超と十数合ほど交鋒したが、彦超は李栄に敵しきれないと見て馬を返して本陣へ逃げ戻った。李栄が馬を走らせて追撃したが、両翼の兵に射すくめられて退いた。
その日、彦超が兵を収めたとき、部下の戦死者は百余人に及んだ。これにより諸軍の鋭気はやや挫けた。北軍の侯益らはひそかに郭威のもとへ会いに行き、威はそれぞれを営に帰した。彦超は戦いに敗れて十余騎とともに兗州へ逃げ帰った。隠帝はただ三人の宰相と従官数十人だけを伴って七里寨に宿り、他の者はみな逃げ散った。
隠帝の最期
翌朝、宮に還ろうとして玄化門に入ったところ、劉銖がすでに門の上にいて、弓を引き矢をつがえて隠帝を射た。隠帝はこれを躱し、急ぎ馬を駆って西北へ逃げた。趙村まで来たとき、後ろの追兵がすでに迫った。隠帝は勢い切迫して馬を下り歩いて逃げたが、乱兵に弑された。蘇逢吉・閻晋卿・郭允明らはみな自殺した。郭威は迎春門から入って私邸に帰り、諸軍は入城してひとしきり大いに掠奪した。
澶州の兵変と黄袍
翌日、文武百官が太后に朝し、国を禅る事を奏した。王殷は、国は一日も君なきを得ません、早く明君を立てて天下を安んじていただきたいと請うた。太后は詔を下し、隠帝の弟である河東節度使の劉灑を迎え立てて皇帝の位に即けようとした。このとき贇はまだ到着しておらず、おりしも契丹が入寇したので、太后は郭威に大軍を督して撃たせた。
威が澶州に至り、まさに出発しようとする際、将士数千人余りが突然大騒ぎを始めた。急いで門を閉じさせたが、将士は垣を越えて入り込んで言った。天子は侍中みずからお為しになるべきだ、将士はすでに劉氏と仇となった以上、劉氏を立ててはならぬ、と。言い終わらぬうちに、一人の将官が黄色の旗を一面裂いて郭威の身に披せ掛け、みなでこれを挟み抱えた。その声は数十里に聞こえ、そのまま威を擁して南へ向かった。
威は太后に箋を上って、漢の宗廟を奉じ、太后に母太后として仕えることを請うた。太后は詔を下して贇を廃して湘陰公とし、郭威に監国を命じた。百官および藩鎮が相次いで上表して即位を勧め、威はついに漢を廃した。漢は二帝を伝えて歴年は四年、この歳は辛亥、こうして漢は亡んだ。
史臣は評して言う。高祖は精鋭の兵を擁し形勢の便のよい地に拠り、胡の騎兵が北へ引き返すのに乗じて中州の主となったので、ゆったりと南面して天下が帰服した。これはその材徳が抜きん出ていたのだろうか。いや、なすべき時に出会っただけである。根の疎いものは固まらず、基の薄いものは危うい。隠帝は南面の号はあっても政は自らより出ず、民は君を知らず、小人どもの謀を軽々しく信じて跋扈の臣を除こうとし、禍が踵を返す間もなく及んだのは自然の勢いであった。父子相継いで四年で滅んだ。古来、国を享けた年数の短いことでこれに及ぶものはない。ああ、哀しいことだ。
柴氏と郭威の縁
郭威は太原の人である。唐の荘宗の宮人であった柴氏が実家に帰って嫁ぎ先を択んでいた。
ある日、門から覗いていると、疾く走り過ぎる者があった。柴氏は大いに驚いてこの人は誰かと問うた。知る者が、従軍馬使の郭雀児ですと答えた。柴氏はこれに嫁ぎたいと言ったが、父母は、お前は皇帝の側近くに仕えた者だ、帰ったからには節度使に嫁ぐべきなのに、なぜこのような者に嫁ごうとするのかと言った。
柴氏は堅く他へは嫁がず、ついに威のもとに嫁いだ。威は即位すると、みずから周の虢叔の後裔であると称して国号を後周とし、太祖高帝と称して天下に大赦し、広順元年と改元した。柴氏を皇后に封じた。周主には子がなかったので、妻の兄である柴守禮の子の柴栄を嗣とし、栄を晋王に封じた。
劉崇、晋陽に帝を称す
このとき劉崇は晋陽で帝を称した。はじめ崇は隠帝が害されたと聞いて兵を起こし南向しようとしたが、贇が迎え立てられると聞いて大いに喜び、我が子が帝となった、この上何を求めようか、と言った。その贇が死んだと聞いて、ついに自ら帝を称したのである。並・汾・忻・代・嵐・憲・降・蔚・沁・潦・麟・石の十二州の地がことごとくその手に帰した。判官の鄭珙・趙華国を平章事とし、臣下に向かって言った。朕は高祖の業が一朝にして地に墜ちたので、今日の位号もやむを得ず称するのだ。思えば我は何ほどの天子であり、汝らは何ほどの節度使であろうか、と。国号を北漢といった。
周太祖の遺戒と崩御
周主が鄴都にいたころ、小吏の曹翰の才を格別に愛し、翰を晋王栄に仕えさせていた。栄が澶州を鎮守すると翰を牙将とした。栄が開封尹となったとき、翰は進み出て問うた。大王は国の跡継ぎであり万民の仰ぎ見るところです。先ごろ主上が病を得られたと聞きました、大王は都に入って医薬に侍るべきなのに、なぜなお外邦で政務を決しておられるのか。もし一旦変事があれば、誰が主となりましょうか、と。栄は聞いて大いに驚き、喜んで闕に帰った。
周主の病は篤くなり、詔して晋王に政を聴かせた。周主は戒めて言った。昔わしが西征したとき大唐の十八陵を見たが、廃れ掘られていない陵は一つもなかった。他でもない、ただ金玉を多く蔵していたためだ。わしの死後は紙の衣を着せ、瓦の棺に斂め、墓穴の中には石を用いず、敷き瓦で代えよ。工人も人夫もみな賃を払って雇い、百姓を労役させるな。葬った後は陵に近い民三十戸を募ってその雑徭を免じ、守り視させよ。下宮を造るな、宮人を用いるな、石羊・石虎・石人・石馬を作るな。ただ石に刻んで陵の前に置き、周の天子は生涯倹約を好み、遺命して紙衣瓦棺を用いた、嗣ぐ天子は敢えてこれに違わぬ、と記せ。汝がわしの言に背けば、わしは汝に福をもたらさぬぞ、と。言い終わると大きく一声叫び、息が絶えて亡くなった。年は五十三歳、広順三年二月上旬のことであった。
史臣の断はこう言う。周祖は二度その君を弑して大位を纂い取った。国を得た初めには、四方からの珍味の貢献をやめさせ、百官に封事を上らせ、漢の宮室や器皿を毀ち、詞翰の法を立て、税租皮法を定め、戸部の営田をやめ、租の半課を除いた。また曲阜の孔子の祠に詣で、その墓を拝した。そのうえ王濬が軍事を助け、范質が法度を定め、李谷が上意を導いた。国を享けた日は浅くとも、その施策には称するに足るものがある。だから先儒はこれを唐の明宗・周の世宗に次ぐ者と称したのである。しかし、すでに身に刺青をしていながら甘んじてそれに従い、そのうえ平然と天子の位に自ら居たのでは、黄屋の中に黥人が一人坐っているようなものだ。それで何をもって天下の民に号令できようか。劉崇に向かって、昔から花の項をした天子などあろうかと言ったのを見れば、周祖自身の身の処し方もまた明らかである。
世宗の即位と北漢の来寇
周主が殂すると偏殿に殮め、百官有司の哀慟は甚だしかった。平章事の范質が、主上が晏駕され天下が震動しております、早く嗣君を立てて国統を承けていただきたいと言い、晋王栄を請うて皇帝の位に即けた。称号を世宗皇帝といい、改元して顕徳とした。晋王はもと姓を柴といい、時に年三十三歳であった。馮道を太師に封じた。のち八月に周主を新鄭に葬り、諡して太祖皇帝とし、皇后柴氏を太后と尊んで養老宮に入れ、天下に大赦した。
北漢王の劉崇は周主がすでに殂したと聞いて大いに喜び、郭威は吾が家の天下を纂った、常に仇を復したいと思いながらその機会を得なかったが、今その郭威が死んだからには憂いはないと言った。ただちに使者を遣わして金帛を厚く賂い、契丹に兵を請うた。契丹主は大将の楊兗に万騎を率いさせて助戦に来させた。北漢主は自ら三万の人馬を率いて洛陽へ攻め寄せた。辺関からは続けざまに急を告げてきた。
世宗はこれを聞いて群臣を集めて議り、自ら兵を率いて防ごうとした。群臣は奏して言った。なりません、劉崇は平陽から逃げ去って以来、勢いは縮こまり気も沮んでおり、必ず自らは来ますまい。陛下は初めて大宝に登られ山陵の日も近く、人心は動きやすいのですから、軽々しく動かれるべきではありません、一人の大将を遣わせば足ります、なぜ聖駕を労して親征なさるのかと。世宗は、そうではない、崇は我が大喪に乗じ、朕が年少で新たに立ったのを侮っているのだ、これは必ず自ら来る、朕が行かぬわけにはいかぬと言った。馮道が強く争ったので、世宗は、昔、唐の太宗が天下を定めたとき自ら行かなかったことはない、朕がなぜ安逸を貪ろうかと言った。道は、陛下が唐の太宗たり得るかは分かりかねますと言った。世宗が、我が兵力の強さをもってすれば劉崇を破るのは山を推して卵を圧すようなものだと言うと、道は、陛下が山たり得るかは分かりかねますと言った。世宗は不快であったが、ただ王溥だけが車駕の出行を勧めた。勝負がどうなるかは次回に述べる。
評語
卓吾子は評する。世宗は北漢がまだ服さないとあれば、自ら矢石を冒して必ず克つことを期した。これもまた英武の主と称してよかろう。
原文(底本)
卻說郭威,兵至澶州,李洪義納之,王殷亦引兵相會,合於一處。郭威心有退兵之意,諸將皆曰:「國家大事,在目下一舉,明公何退縮耶?國家負公,公不負國家,所以萬人爭奮,如報私仇!侯益輩何能為乎?」於是,眾皆踴躍前進,軍聲大振。 次日,兵至梅坡,紮了營寨。隱帝聞郭威兵已至近,心甚驚駭,復遣袁義、劉重進帥禁軍,與侯益等會屯赤岡,彥超以大軍屯七里店,隱帝欲自出勞軍,太后止之。忽人報郭威兵來搦戰。帝命彥超出馬,喚敵兵答話。威遣李榮出陣,與彥超交鋒約戰十數合,彥超料敵李榮不住,撥馬便走回本陣,李榮縱馬追襲,被兩翼兵射住,榮遂退回。 當日彥超罷兵,部下死者百餘人。於是諸軍銳氣稍挫。北軍侯益等,潛往見威,威各遣還營。彥超戰敗,遂與十餘騎奔還兗州。隱帝獨與三相,及從官數十人宿於七里寨,餘皆逃潰。 次早將還宮,入至玄化門,劉銖已在門上,拽弓搭箭,來射隱帝,隱帝躲過,急勒馬奔回西北。比及到趙村之時,後面追兵已至,隱帝見勢迫,遂下馬步走,為亂兵所弒。蘇逢吉、閻晉卿、郭允明等,皆自殺。郭威自迎春門入,歸至私第,諸軍入城,大掠一番。 次日,文武百官,朝於太后,具奏稱禪國事。王殷請曰:「國不可一日無君,請早立明君,以安天下。」太后下詔,迎立隱帝之弟、河東節度使劉灑即皇帝位。此時,贇尚未至,正值契丹入寇,太后乃遣郭威督大軍擊之。威至澶州,將發之際,將士逾數千人,忽大喧鬧,急令閉門,將士逾垣而入,曰:「天子須侍中自為之,然將士已與劉氏為仇,不可立也!」言未盡,只見一將官,裂一面黃旗,披於郭威身上,共挾抱之。聲聞數十里,因擁威南行。威乃上太后箋,請奉漢之宗廟,事太后為母太后,乃下詔廢贇為湘陰公,即命郭威監國,百官及藩鎮,相繼上表勸進,威遂廢漢。漢傳二帝,歷年四,是歲辛亥,漢遂亡。史臣評曰: 高祖擁精銳之兵,居形便之地,屬胡騎北旋中州之主,故雍容南面,而天下歸之,豈其材德之首出哉?乃會其時之可為也。夫根疏者不固,基薄者易危。隱帝雖有南面之號,而政非已出,民不知君,輕信群小之謀,欲除跋扈之臣,禍不旋踵,自然之勢也。父子相繼,四年而滅,自古享國之短,未有若茲也!吁,哀哉! 卻說郭威,乃太原人也。唐莊宗有宮人柴氏歸其家擇姻。 一日窺於門,見有疾走而過者,柴氏大驚,問:「此人為誰?」有識者告曰:「從軍馬使郭雀兒也!」柴氏欲嫁之,父母曰:「汝乃皇帝左右之人,歸當嫁節度使,奈何欲嫁此等之人?」 柴氏堅不他適,竟歸於威。威既即位,自謂乃周虢叔之後,國號後周,稱為太祖高帝,大赦天下,改元廣順元年,封柴氏為皇后,周主無子,乃立妻兄柴守禮之子柴榮為嗣,封榮為晉王。 此時,劉崇稱帝於晉陽。初,崇聞隱帝遇害,欲起兵南向,及聞迎立贇,崇大喜曰:「吾兒為帝,吾復何求?」復聞贇死,遂自稱帝,所有並、汾、忻、代、嵐、憲、降、蔚、沁、潦、麟、石十二州之地,盡歸所有。以判官鄭珙、趙華國為平章事,謂其臣曰:「朕以高祖之業,一朝墜地,今日位號,不得已而稱之,顧我是何天子,爾曹是何節度耶?」國號北漢。 卻說周主在鄴都之時,奇愛小吏曹翰之才,使翰侍事晉王榮,榮鎮澶州,以翰為牙將。榮入尹開封,翰請問曰:「大王國之儲嗣,萬民之所瞻仰,昨聞主上得沾一疾,大王當入侍醫藥,奈何猶決事於外邦?若一旦有變,誰肯為之主耶!」榮聽言大驚,遂欣然回闕。周主疾篤,乃詔晉王聽政。周主戒曰:「昔吾西征之時,見大唐十八陵,無一陵不遭廢掘者,此無他,惟多藏金玉故也。我死後當衣以紙衣,斂以瓦棺,壙中無用石,以甓代之。工人役徒皆和僱,勿使勞役百姓。既葬之後,募近陵之民三十戶,蠲其雜傜,使之守視。勿修下宮,勿用宮人,勿作石羊、石虎、石人、石馬,惟刻石置陵前云:周天子生平好約,遺命用紙衣瓦棺,嗣天子不敢違也。汝違吾言,吾不福汝矣!」言訖,大叫一聲,氣絕而殂。年五十三歲,時廣順三年二月上旬也。史臣斷云: 周祖兩弒其君,纂取大位。得國之初,罷四方貢獻珍食,詔百官上封事,毀漢宮室器皿,立詞翰法,定稅租皮法,罷戶部營田,除租半課。又如曲阜謁孔子祠,復拜其墓。況有王濬以贊軍事,范質以定法度,李谷以導上意,雖享國日淺,而施為有足稱者。故先儒稱其為唐明周世之亞,蓋以此耳!然其既已文身,而甘心從之,而又偃然自處天位,則是黃屋中居一黥人耳!何以令天下眾庶乎?觀其語劉崇曰:「自古豈有花項天子?」則周祖之自處亦明矣! 周主既殂,殮於偏殿,百官有司,哀慟至甚。平章事范質曰:「主上晏駕,天下震動,請早立嗣君,以承國統。」乃請晉王榮即皇帝位,稱號世宗皇帝,改元顯德。晉王本姓柴,時年三十三歲,封馮道為太師。後八月,葬周主於新鄭,諡曰太祖皇帝,尊皇后柴氏為太后,入養老宮,大赦天下。 卻說北漢王劉崇聞周主已殂,乃大喜曰:「郭威纂吾家天下,每欲復仇,未得其由,今郭威已死,吾無憂矣!」即遣使厚賂金帛,請兵於契丹。契丹主遂遣大將楊兗,率領萬騎前來助戰。北漢主自帥三萬人馬,殺奔洛陽。邊關累累告急,世宗聽知,聚群臣商議,欲自將兵以御之。群臣奏曰:「不可!劉崇自平陽遁走以來,勢蹙氣沮,必不敢自來。陛下初登大寶,山陵有日,人心易搖,不宜輕動,只遣一大將御之足矣!安勞聖駕以親討乎?」世宗曰:「不然!崇乘我大喪,輕朕年少新立,此必自來,朕不可不往!」馮道力爭之,世宗曰:「昔唐太宗定天下,未嘗不自行,聯何故偷安?」道曰:「未審陛下能為唐太宗否?」世宗曰:「以吾兵力之強,破劉崇,直如推山壓卵耳!」道曰:「未審陛下能如山否?」世宗不悅,惟王溥勸車駕行。未知勝負如何,且聽下回分解。 卓吾子評: 世宗以北漢未服,則親冒失石,期於必克,亦可稱英武之主矣!
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