十七史百將傳巻二 前漢 張良
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。
要約
張良の先祖は韓の人で、秦が韓を滅ぼすと家財を投じ刺客を求めた。力士に百二十斤の鉄槌を操らせ、秦の皇帝の巡遊のとき博浪沙で狙撃したが副車に当て、皇帝が天下を捜索すると名を改め下邳に隠れた。
下邳の圯の上で老父がわざと履を落とし、小僧、取って来いと言った。張良は堪えて取り履かせると、老父は教えるに足ると言って夜明けの会を約し、二度の遅参を怒った後『太公兵法』を与え、これを読めば王者の師となれる、十年で興り、十三年目に済北の谷城山の下の黄石がわしだと言った。
十年の後、陳涉らが兵を起こし、張良も少年を集め下邳の西の沛公に属した。説くと沛公は常にその策を用い、天が授けた人だと言った。
秦の下軍を撃つにあたり、張良は旗幟の疑兵と酈食其の利誘を説き、秦将が叛くと士卒は従うまいとしてその懈に乗じ撃てと説いた。沛公は秦軍を破って咸陽に至り、子嬰は降った。宮殿に留まろうとする沛公に張良が桀を助け虐をなすと言うと、沛公は軍を霸上に還した。
項羽が鴻門で沛公を撃とうとすると、項伯が夜に軍中に入り張良と逃げようとした。張良は、逃げるのは義ではないと項伯に断り、沛公に告げてから項伯を引き留めた。沛公は項伯と婚姻を結び、関を閉ざしたのは盗賊に備えたためと言わせて事は解けた。
漢元年、沛公は漢王となって巴蜀に王たり、韓へ帰る張良は棧道を焼いて還る心の無きを示せと説いた。韓から項羽に、漢王は関中を得たいだけだと書を送り、齊が趙と組んで楚を滅ぼそうとすると報せると、項羽は齊を撃った。
漢王は三秦を平定し張良を成信侯とした。彭城で敗れて誰と功をともにできるかと問われると、張良は黥布、彭越、韓信に捨てておやりなさいと答え、楚を破ったのはこの三人の力であった。張良は病がちで兵を率いず策を画る臣であった。
二年、滎陽で包囲されると、酈食其は六国の後裔を復立すれば楚は朝見すると説き、漢王は印を刻めと命じた。張良は、陛下の事業は終わりですと言い、湯武は桀紂の死命を制すと見きわめて封じたが陛下にできるか、遊士が従うのは寸土を望むためで六国を復せばみな旧主に帰ると言い、漢王は腐れ儒者めと罵り印を鋳つぶさせた。
漢四年、固陵で諸侯が期日に至らぬときも張良の計で至った。漢六年の論功で、高帝は、帷幄で籌をめぐらし千里の外に勝ちを決したのは子房の功だとし三万戸を択ばせようとしたが、辞して留に封ぜられた。
大功臣二十余人を封じた後も残る者は功を争い封が行えず、砂上で語り合う諸将を留侯は謀反と答え、封ぜられたのは蕭何ら旧知、誅されたのは仇怨の者ばかりで誅を恐れるとし、憎む雍齒をまず封じよと勧め、雍齒が什方侯になると群臣は喜んだ。
劉敬が関中に都せと説き、大臣は多く洛陽を勧めたが、留侯は、洛陽は四面に敵を受けるが関中は三面を阻み一面で諸侯を制する天府の国だと言い、高帝はその日関中へ都した。
漢十一年、黥布が反いて主上が東へ向かうと、留侯は楚人は勇猛だから鋒を争うなと言った。十二年、主上が帰ると、留侯は、三寸の舌で帝者の師となり万戸に封ぜられたのは布衣の極みだとし、人間の事を棄て赤松子に従い游びたいと願い、辟穀・導引を学んだ。圯上の会から十三年後、高帝に従い済北を過ぎ、谷城山の下に黄石を見て宝として祠り、没した。
孫子は言う、約なくして和を請う者は謀るところがある、と。張良は秦将を利で誘って襲撃を請うた。また言う、智者の思慮は必ず利と害とを交える、と。張良は前の箸を借りて酈生の説を破った。また言う、善く戦う者には智謀の名声も武功も無い、と。張良にはついに戦闘の功が無かった。また言う、鋭卒は攻めるな、と。楚人と鋒を争うなと言ったのがこれである。
年表
先祖は韓の人で、秦が韓を滅ぼすと家財を投じて刺客を求め、博浪沙で秦の皇帝を狙撃して失敗し、下邳に逃れて身を隠した張良(字は子房)。圯の上で老父から『太公兵法』を授かり、のち沛公に従って帷幄の中に籌をめぐらす謀臣となった。鴻門の危難を解き、棧道を焼き、六国の後裔を立てる議を止め、関中に都を定めさせるなど、戦闘の功を持たぬまま漢の創業を決した。留侯に封ぜられ、晩年は辟穀・導引を学んで世を去った。
原文(底本)
張良者,其先韓人也。秦滅韓,良悉以家財求客剌秦王,為韓報仇。使力士操鐵椎重百二十斤,秦皇帝東遊,良與客狙擊秦皇帝博浪沙中,誤中副車。秦皇帝大怒,大索天下,求賊甚急。良乃更姓名,亡匿下邳。嘗從容步游下邳圯上,有一老父衣褐至良所,直墮其履圯下,顧謂良曰:"孺子下取履。"良鄂然,欲歐之,為其老,乃強忍,下取履。父曰:"履我。"良業為取,復因長跪履之父以足受,笑而去。良殊大驚,隨目之。父去里所,復還曰:"孺子可教矣,後五日平明與我會此。"良因怪之,跪曰:"諾。"五日平明,良往,父已先在,怒曰:"與老人期,後何也?"去曰:"後五日早會。"五日雞鳴,良往,父又先在,復怒曰:"後何也?"去曰:"後五日復早來。"五日,良夜未半往。有頃,父亦來,喜曰:"當如是。"出一編書曰:"讀此則為王者師矣。後十年興,十三年孺子見我濟北谷城,山下黃石即我矣。"遂去,無他言,不復見。旦日視其書,乃《太公兵法》也。良因異之,常習誦讀之。後十年,陳涉等起兵。良亦聚少年百餘人,遇沛公將數千人略地下邳西,遂屬焉。良數以《太公兵法》說沛公,沛公善之,常用其策。良為他人言,皆不省。良曰:"沛公殆天授。"故遂從之。沛公欲以兵二萬人擊秦下軍,良說曰:"秦兵尚強,未可輕。臣聞其將屠者子,賈豎易動以利。願沛公且留壁,使人先行,為五萬人具食,益張旗幟諸山上為疑兵,令酈食其持重寶啖秦將。"秦將果畔,欲連和俱西襲咸陽。沛公欲聽之,良曰:"此獨其將欲叛耳。恐士卒不從,不從必危。不如因其懈擊之。"沛公乃引兵擊秦軍,大破之。遂北至藍田,再戰,秦軍終敗,遂至咸陽。秦王子嬰降沛公。沛公入秦宮,意欲留居之。良曰:"夫秦為無道,故沛公得至此。夫為天下除殘去暴,宜縞素為資。今始入秦即安其樂,此所謂助桀為虐。"沛公乃還軍霸上。項羽至鴻門下,欲擊沛公。項伯乃夜馳入沛公軍,私見張良,欲與俱去。良曰:"臣為韓王送沛公,今事有急,亡去,不義。"乃具以語沛公,沛公大驚曰:"為將奈何?"良曰:"沛公誠欲倍項羽邪?"沛公曰:"鯫生教我距關,無內諸侯,秦地可盡王,故聽之。"良曰:"沛公自度能卻項羽乎?"沛公默然良久,曰:"固不能也,今為奈何?"良乃固要項伯。項伯見沛公,沛公與飲為壽,結為婚,令項伯具言沛公不敢倍項羽,所以距關者備他盜也。及見項羽後,解。漢元年,沛公為漢王,王巴蜀。漢王之國,良歸韓。良因說漢王曰:"王何不燒絕所過棧道,示天下無還心,以固項王意。"乃使張良還行燒棧道。良歸至韓。時漢王還定三秦,良乃遺項羽書曰:"漢王失職,欲得關中如約即止,不敢東。"又以齊反書遺羽曰:"齊與趙欲並滅楚。"項羽以故北擊齊,良乃間行歸漢王。漢王亦已還定三秦矣,復以良為成信侯,從東擊楚,至彭城,漢敗而還。漢王下馬踞鞍而問曰:"吾欲捐關以東等棄之,誰可與共功者?"良進曰:"九江王黥布,楚梟將,與項王有隙。彭越與齊王田榮反梁地。此兩人可急使。而漢王之將,獨韓信可屬大事,當一面。即欲捐之,捐之此三人,則楚可破也。"漢王乃遣隨何說九江王黥布,而使人連彭越及魏王豹反,使韓信特將北擊之,因舉燕、代、齊、趙。然卒破楚者,此三人力也。良多病,未嘗特將兵,嘗為畫策臣,時時從漢王。二年,項羽急圍漢王滎陽。漢王憂恐,與酈食其謀撓楚權。食其曰:"昔湯伐桀,封其後於杞;武王代紂,封其後於宋。今秦失德棄義,滅六國之後,使無立錐之地。陛下誠能復立六國後,其君臣百姓皆戴陛下之德,莫不鄉風慕義,願為臣妾。德義已行,陛下南鄉稱霸,楚必斂衽而朝。"漢王曰:"善。趣刻印,先生因行佩之矣。"食其未行,張良從外來謁漢王。王方食,曰:"子房前,客有為我計撓楚權者。"具以酈生語告於子房,曰:"何如?"良曰:"誰為陛下畫此計者?陛下事去矣。"漢王曰:"何哉?"良曰:"臣請借前箸為大王籌之。"曰:"湯伐桀封其後於杞者,度能制桀之死命也。今陛下能制項籍之死命乎?"曰:"未能也。""其不可一矣。武王伐紂,封其後於宋者,度能得紂之頭也。今陛下能得項籍之頭乎?"曰:"未能也。""其不可二矣。武王入商,表商容之閭,釋箕子之拘,封比干之墓。今陛下能封聖人之墓,表賢者之閭,式智者之門乎?"曰:"未能也。""其不可三矣。發巨橋之粟,散鹿台之錢,以賜貧窮。今陛下能散府庫以賜貧窮乎?"曰:"未能也。""其不可四矣。倒置於戈,覆以虎皮,以示天下不復用兵。今陛下能偃武修文,不復用兵乎?"曰:"未能也。""其不可五矣。休馬華山之陽,示以無所為。今陛下能休馬無所用乎?"曰:"未能也。""其不可六矣。放牛桃林之陰,以示不復輸積。今陛下能放牛不復輸積乎?"曰:"未能也。""其不可七矣。且天下游士離親戚,棄墳墓,去故舊,從陛下游者,徒欲日夜望咫尺之地。今復六國,立韓、魏、燕、趙、齊、楚之後,天下游士各歸事其主,從其親戚,反其故舊墳墓,陛下與誰取天下乎?其不可八矣。且夫楚唯無強,六國立者復撓而從之,陛下焉得而臣之?誠用客之謀,陛下事去矣。"漢王輟食吐哺罵曰:"豎儒,幾敗乃公事!"令趣銷印。漢四年,漢王追楚至陽夏,南戰不利而壁固陵,諸侯期不至。良說漢王,漢王用其計,諸侯皆至。漢六年,封功臣。良未嘗有戰鬥功,高帝曰:"運籌帷幄中,決勝千里外,子房功也。自擇齊三萬戶。"良曰:"臣始起下邳,與上會留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中。臣願封留足矣,不敢當三萬戶。"封良為留侯。上已封大功臣二十餘人,其餘日夜爭功不決,未得行封。上在洛陽南宮,望見諸將往往相與坐沙中語。上曰:"此何語?"留侯曰:"陛下不知乎?此謀反耳。"上曰:"天下屬安定,何故反乎?"留侯曰:"陛下起布衣,以此屬取天下。今陛下為天子,而所封皆蕭、曹故人所親愛,而所誅者皆生平所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封,此屬畏陛下不能盡封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。"上乃憂曰:"為之奈何?"留侯曰:"上平生所憎,群臣所共知,誰最甚者?"上曰:"雍齒與我故,數窘辱我,我欲殺之,為其功多,故不忍。"留侯曰:"今急先封雍齒以示群臣,群臣見雍齒封,則人人自堅矣。"於是上乃置酒,封雍齒為什方侯,而急趣丞相、御史定功行封。群臣罷酒,皆喜曰:"雍齒尚為侯,我屬無患矣。"劉敬說帝都關中,左右大臣皆山東人,多勸上都洛陽:"洛陽東有成皋,西有淆、黽,背河,向伊、洛,其固亦足恃。"留侯曰:"洛陽四面授敵,此非用武之國。夫關中左淆、函,右隴、蜀,沃野千里,南有巴、蜀之饒,北有胡苑之利,阻三面而固守,獨以一面東制諸侯。諸侯安定,河渭漕輓,西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國也。劉敬說是也。"於是高帝即日駕,西都關中,留侯從入關。漢十一年,黥布反,上自將兵而東。留侯曰:"臣宜從,病甚。楚人剽疾,願上無與楚人爭鋒。"十二年,上從擊破布軍歸,留侯乃稱曰:"家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,為韓報仇強秦,天下震動。今以三寸舌為帝者師,封萬戶,位列侯。此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。"乃學辟穀道引輕身。卒。子房始所見下邳圯上老父與《太公書》者,後十三年從高帝過濟北,果見谷城山下黃石,取而寶祠之。 孫子曰:"無約而請和者,謀也。"良請啖秦將而襲擊之。又曰:"智者之慮,必雜於利害。"良借前箸以破酈生之說。又曰:"善戰者,無智名,無勇功。"良未嘗有戰鬥功。又曰:"厲於廊廟之上,以誅其事。"良連籌帷幄,決勝千里。又曰:"銳卒勿攻。"良謂楚人剽疾,勿與爭鋒是也。