十七史百將傳巻二 前漢 周亜夫

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。

要約

周亞夫は絳侯周勃の子で、孝文帝が條侯に封じた。文帝の後六年、匈奴が大挙して侵入し、劉禮を霸上、徐厲を棘門、亞夫を細柳に陣させた。上が軍を労うと霸上・棘門では馳せ入れたが、細柳では「軍中では将軍の令を聞き、天子の詔は聞かない」と入れず、節を持たせて詔してようやく門が開き、天子は手綱を押さえて進んだ。亞夫は武器を手にしたまま軍礼をもって見えた。文帝は「これこそ真の将軍だ。霸上・棘門は子供の遊びだ」と褒めて亞夫を中尉とし、太子に「急な事態があれば周亞夫こそ兵を将いさせるに足る」と戒めた。

孝景三年、吳・楚が反くと、亞夫は太尉となり「梁を委ねてその糧道を断てば制せます」と請うて許された。父の食客鄧都尉も同じ策を説き、亞夫は昌邑に塁を築いた。吳では田祿伯の別働の奇策も、桓将軍の急ぎ西して洛陽の武庫に拠る策も用いられなかった。

梁が急を告げ、景帝が詔しても、太尉は昌邑で壁を固めて出ず、軽騎に吳・楚の糧道を断たせた。吳兵は飢えて挑んだが応ぜず、夜の騒乱にも臥したまま起きなかった。吳が壁の東南へ走ると西北に備えさせ、その精兵は入れず、吳兵は引き揚げた。太尉は追撃して大いに破り、吳王濞は逃げて越人に首を斬られた。三か月で吳・楚は平定され、諸将はようやく太尉の計謀を正しいとした。

のち匈奴の王徐盧ら五人が降り、景帝が侯にしようとすると、亞夫は「主に背いた者を侯とされては節を守らぬ人臣を責められません」と言った。景帝は用いず列侯とし、亞夫は病のため辞し、のち廷尉のもとに召されて血を吐いて死んだ。

孫子はいう、将が能があって君が掣肘しなければ勝つ、敵が攻めないところを守る、と。亞夫が規約を厳しくし、吳の東南の攻めに西北を備えたのが、これである。

年表

絳侯周勃の子で、條侯に封ぜられて絳氏の後を継いだ周亞夫。細柳に陣して軍令を厳しく守り、文帝から「真の将軍」と称えられた。景帝のとき太尉として吳・楚七国の反乱を討ち、梁を敵に委ねて糧道を断つ策で三か月のうちにこれを平定した。のち丞相となったが、匈奴の降王を侯にすることに反対して容れられず、病と称して辞し、廷尉に召されて血を吐いて死んだ。

年表(3件)
  • 文帝
  • の後六年前158年河内守から将軍となり細柳に陣して匈奴に備え、文帝に真の将軍と称される
  • 孝景三年前154年吳・楚が反き、中尉から太尉となって東へ討伐に向かう
  • 孝景三年前154年昌邑に壁を固めて吳の糧道を断ち、攻め守ること三か月で吳・楚を平定する
原文(底本)
周亞夫,絳侯勃子也。孝文帝封亞夫為條侯,續絳氏後。文帝之後六歲,匈奴大入邊。乃以宗正劉禮為將軍,軍霸上;祝茲侯徐厲為將軍,軍棘門;以河內守亞夫為將軍,軍細柳,以備胡。上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,銳兵刃,彀弓弩持滿。天子先驅至,不得入。先驅曰:"天子且至!"軍門都尉曰:"將軍令曰:軍中聞將軍令,不聞天子之詔。"居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:"吾欲入勞軍。"亞夫乃傳言開壁門。壁門士吏謂從屬車騎曰:"將軍約:軍中不得驅馳。"於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:"介冑之士不拜,請以軍禮見。"天子為動,改容式車,使人稱謝:"皇帝慰勞將軍。"成禮而去。既出軍門,群臣皆驚。文帝曰:"嗟乎,此真將軍矣!曩者霸上、棘門軍,若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯邪?"稱善者久之。月余,三軍皆罷,乃拜亞夫為中尉。孝文誡太子曰:"即有緩急,周亞夫真可任將兵。"文帝崩,拜亞夫為車騎將軍。孝景三年,吳、楚反。亞夫以中尉為太尉,東擊吳、楚,因自請上曰:"楚兵剽輕,難與爭鋒。願以梁委之,絕其糧道,乃可制。"上許之。亞夫至洛陽見劇孟,喜曰:"七國反,吾乘傳至此,不自意全,又以為諸侯已得劇孟。孟今無動,吾據滎陽,滎陽以東無足憂者。"至淮陽,問故父絳侯客鄧都尉曰:"策安出?"客曰:"吳楚兵銳,甚難與爭鋒。楚兵輕,不能久。方今為將軍計,莫若引兵東北壁昌邑,以梁委吳,吳必盡銳攻之。將軍深兵高壘,使輕兵絕淮泗口,塞吳餉道,使吳、梁相弊而糧食竭。乃以全制其極,破吳必矣。"絳侯曰:"善。"從其策。遂堅壁昌邑南,輕兵絕吳餉道。吳王之初發也,吳臣田祿伯為大將軍。田祿伯曰:"兵屯聚而西,無他奇道,難以立功。臣願得五萬人別循江淮而上,收淮南、長沙,入武關與大王會。此亦一奇也。"吳王太子諫曰:"王以反為名,此兵難以籍人,人亦且反,王奈何?且擅兵而別,多他利害,徒自損耳。"吳王即不許田祿伯。吳少將桓將軍說王曰:"吳多步兵,步兵利險;漢多車騎,車騎利平地。願大王所過城不下,直去,疾西據洛陽武庫,食敖倉粟,阻山河之險,以令諸侯。雖無入關,天下固已定矣。大王徐行,留下城邑,漢軍車騎至,馳入梁、楚之郊,事敗矣。"吳王問吳老將,老將曰:"此年少摧鋒可耳,安知大慮?"於是王不用桓將軍計。太尉既會兵滎陽,吳方攻梁。梁急請救,太尉引兵東北走昌邑,深壁而守。梁日使使請太尉,太尉守便宜不肯往。梁上書言景帝,景帝使使詔救梁。太尉不奉詔,堅壁不出,而使輕騎兵弓高侯等絕吳、楚兵後糧道。吳兵乏糧,飢,數欲挑戰,終不出。夜軍中驚,內相攻擊擾亂,至於太尉帳下,太尉終臥不起。頃之,復定。後吳奔壁東南陬,太尉使備西北。已而其精兵果奔西北,不得入。吳兵既餓,乃引而去。太尉出精兵追逐,大破之。吳王濞棄其軍,而與壯士數千人亡走。因乘勝,遂盡虜之,降其兵,購吳王千金。月余,越人斬吳王頭以告。凡相攻守三月,而吳、楚破平。於是,諸將乃以太尉計謀為是。其後,匈奴王徐盧等五人降,景帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰:"彼背其主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?"景帝曰:"丞相議不可用。"乃悉封徐盧等為列侯。亞夫因謝病。居無何,召詣廷尉,嘔血而死。

孫子曰:"將能而君不御者勝。"亞夫嚴約,而天子按縉徐行。又曰:"守而必固者,守其所不攻。"吳攻東南,而亞夫使備西北是也。
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