十七史百將傳巻二 前漢 霍去病
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。
要約
霍去病は大将軍青の姉の子である。年十八で騎射に巧みで、大将軍に従って嫖姚校尉となり、騎兵八百で大将軍を数百里離れ、斬首と捕虜が当たる数を超えて冠軍侯に封じられた。
元狩三年の春、驃騎将軍として一万騎で隴西から出、焉支山を過ぎること千余里、皋蘭で折蘭王と盧侯王を斬り、斬首と捕虜八千九百六十級、休屠の金人を収め加増された。
その夏、北地から深く入り、道に迷った敖と会えぬまま祁連山に至り、斬首と捕虜三万二百、王ら五十九人を得て加増された。右北平から出た李広は左賢王に囲まれ、後れた張騫が着くと匈奴は去った。張騫も敖も後れた罪で庶人となった。去病の率いるのは常に選りすぐりで、日ごとに貴ばれ大将軍に並んだ。
單于が渾邪王を誅そうとすると渾邪王は漢に降ろうとし、偽降を恐れた主上は去病に迎えさせた。去病は馬を駆け入って渾邪王と会い、逃げる者八千人を斬り、数万人を率いて黄河を渡った。渾邪王は漯陰侯となり、隴西・北地・上郡の戍卒は半減され、降った者は旧塞の外に属国とされた。
翌年、青と去病は各五万騎で、去病は代郡、青は定襄から出た。單于は趙信の計で精兵を砂漠の北に待たせた。青は塞を出て千余里で單于の陣に出くわし、武剛車を環に並べて営とし五千騎を差し向けた。日没に大風が起こって砂礫が顔を打ち、漢が左右の翼で取り巻くと單于は数百騎で去り、夜追っても捕らえられず一万余級を得て帰った。青軍の入塞時は一万九千級。去病は代・右北平から二千余里出て匈奴の左方の兵に当たり、功は青より多く五千八百戸を加増されたが、青は得なかった。出塞の馬十四万匹のうち帰りは三万に満たず、二人は大司馬となった。
去病は口数が少なく、兵法を教えようとした主上に「方略がどうかが問題です」、邸宅を見せられると「匈奴が滅んでいないのに家を構えるいわれはありません」と答えた。しかし士卒を顧みず、帰還のとき穀物や肉を棄てながら士には飢える者があり、塞外でも蹴鞠をしていた。青は仁があって士を好み謙ったが、天下に称えられはしなかった。去病は元狩六年に薨じ、塚は祁連山にかたどられた。元封五年に青が薨じた。青は七たび匈奴を撃って斬首と捕虜五万余級、侯となった裨将・校尉は九人、特将は十五人であった。
孫子はいう、郷導を用いねば地の利を得ず、選鋒無ければ敗走す、強ければこれを避ける、重地には食をつながせる、車を破り馬を疲らせ十のうち七を失う、卒を視ること愛子のごとくす、と。青が張騫に導かせ、去病の兵が選りすぐりで、青が武剛車を環に並べ、去病が食を敵から取り、帰った馬が三万に満たず、去病が穀物や肉を棄てて士に飢える者があったのが、これである。
年表
大将軍衛青の姉の子(?–前117年)。年十八で騎射に巧みで、嫖姚校尉として初陣に功を立て冠軍侯に封ぜられた。驃騎将軍として隴西・北地から出撃して祁連山に至り、渾邪王の降伏を迎え入れ、幕北の役では代・右北平から二千余里進んで匈奴の左方の兵を破り、大司馬に至った。常に選りすぐりの兵を率いて深く侵入したが、士卒を顧みないところがあった。
原文(底本)
霍去病,大將軍青姊子也。年十八,善騎射,從大將軍為嫖姚校尉。與輕勇騎八百,直棄大將軍數百里赴利,斬捕首虜過當,封去病為冠軍侯。蘇建至,上弗誅,贖為庶人。張騫從大將軍,以嘗使大夏留匈奴中久,導軍、知善水草處,軍得以為饑渴,因前使絕國功,封騫為博望侯。去病侯三歲,元狩三年春為驃騎將軍,將萬騎出隴西,有功。上曰:"驃騎將軍率戎士逾烏盭,討遬濮,涉孤奴,歷五王國,輜重人眾,攝慴者弗取,幾獲單于子,轉戰六日,過焉支山千有餘里,合短兵,鏖皋蘭下,殺折蘭王,斬盧侯王,銳悍者,誅全甲,獲丑,執渾邪王子及相國都尉,捷首虜八千九百六十級,收休屠祭天金人,師率減什七,益封去病戶。"其夏,去病與合騎侯敖俱出北地,異道。博望侯張騫、郎中令李廣俱出右北平,異道。廣將四千騎先至,騫將萬騎後。匈奴左賢王將數萬騎圍廣,廣與戰二日,死者過半,所殺亦過當。騫至,匈奴引兵去。騫坐行留,當斬,贖為庶人。而去病出北地,遂深入,合騎侯失道,不相得。去病至祁連山,捕首虜甚多。上曰:"驃騎將軍涉鈞耆,濟居延,遂臻小月氏,攻祁連山,楊武乎鱳得,得單于單相酋塗王及相國都尉,以眾降下者二千五百人,可謂能舍服知成而止矣,捷首虜三萬二百,獲五王、王母、單于閼氏、王子五十九人,相國、將軍、當戶、都尉六十三人,師大率減什三,益封去病戶,賜校尉從至小月氏者爵左庶長。"合騎侯敖坐行留不與票騎將軍會,當斬,贖為庶人。諸宿將所將士馬兵亦不如去病,去病所將常選,然亦敢深入,常與壯騎先其大軍,軍亦有天幸,未嘗困絕也。然而諸宿將常留落不耦,由此去病日以親貴,比大將軍。其後單于怒渾邪王居西方,數為漢所破亡數萬人,以票騎之兵也,欲召誅渾邪王。渾邪王與休屠王等謀,欲降漢,使人先要道邊。是時大行李息將城河上,得渾邪王使,即馳傳以聞。上恐其以詐降而襲邊,乃令去病將兵往迎之。去病既渡河,與渾邪眾相望。渾邪裨王將見漢軍,而多欲不降者,頗遁。去病乃馳入,得與渾邪王相見,斬其欲亡者八千人,遂獨遣渾邪王乘傳先詣行在所,盡將其眾渡河降者數萬人,號稱十萬。既至長安,天子所以賞賜數十巨萬,封渾邪王萬戶,為漯陰侯。上嘉去病之功,曰:"票騎將軍去病率師征匈奴,西域王渾邪王及厥眾萌咸奔於率,以軍糧接食,並將控弦萬有餘人,誅獟悍,捷首虜八千餘級,降異國之王三十二。戰士不離傷,十萬之眾畢懷集服,仍興之勞,爰及河塞,庶幾亡患,減隴西、北地、上郡戍卒之半,以寬天下繇役。"乃分處降者於邊五郡故塞外,而皆在河南,因其故俗為屬國。其明年,匈奴入右北平、定襄,殺略漢千餘人。上與諸將議曰:"翕侯趙信為單于畫計,常以為漢兵不能度幕輕留。今大發卒,其勢必得所欲。"令大將軍青、票騎將軍去病各五萬騎,步兵轉者踵軍數十萬,而敢力戰深入之士皆屬去病。去病始為出定襄,當單于,捕虜,虜言單于東。乃更令去病出代郡,令青出定襄。趙信為單于謀曰:"漢兵即度幕,人馬罷,匈奴可坐收虜耳。"乃悉遠北其輜重,皆以精兵待幕北。而適直青軍出塞千餘里,見單于兵陳而待。於是青令武剛車自環為營,而縱五千騎往當匈奴,匈奴亦從萬騎。會日且入而大風起,沙礫擊面,兩軍不相見,漢益縱左右翼繞單于。單于視漢兵多而士馬尚強戰,而匈奴不利,薄莫,單于遂乘六羸、壯騎可數百,有冒漢圍西北馳去。昏,漢、匈奴相紛拿,殺傷大當。漢軍左校捕虜,言單于未昏而去。漢軍因發輕騎夜追之,青因隨其後,匈奴兵亦散走。會明,行二百餘里,不得單于,頗捕斬首虜萬餘級,遂至窴顏山趙信城,得匈奴積粟食軍。軍留一日而還,悉燒其城、餘粟以歸。青軍入塞,凡斬首虜萬九千級。去病騎兵車重與大將軍軍等,而亡裨將,悉以李敢等為大校,當裨將,出代、右北平二千餘里,直左方兵,所斬捕功已多於青。既皆還,上曰:"驃騎將軍去病約輕齎,絕大幕,執訊獲丑士萬有四百四十三級,師率減什二,取食於敵,卓行殊遠而糧不絕。以五千八百戶益封驃騎將軍。"賞賜甚多,而青不得益封。兩軍之出塞,塞閱官及私馬凡十四萬匹,而後入塞者不滿三萬匹。乃至大司馬位。大將軍、驃騎將軍皆為大司馬。去病為人少言不泄,有氣敢往。上嘗欲教之孫、吳兵法,對曰:"顧方略何如耳,不至學古兵法。"上為治第,令視之,對曰:"匈奴不滅,無以家為也。"由此上益重愛之。然少而侍中,貴不省士。其從軍,士為遣太官,齎數十乘。既還,重車餘棄梁肉,而士有飢者。其在塞外,卒乏糧,或不能自振,而去病尚穿域蹋鞠也。事多此類。青仁喜士謙退,以和柔自媚於上,然於天下未有稱悉。去病元狩六年薨,為冢象祁連山。元封五年,青薨。自青圍單于後十四歲而卒,不復擊匈奴者。以漢馬少,又方南誅兩越,東伐朝鮮,系羌西南夷,以故久不伐胡。青尚平陽主,與主合葬,起冢象蘆山雲。大將軍青凡七出擊匈奴,斬捕首虜五萬餘級,一與單于戰,收河南地,置朔方郡。其裨將及校尉侯者九人,為特將者十五人。 孫子曰:"不用鄉導者,不能得地利。"青以張騫道軍而無饑渴。又曰:"兵無選鋒曰北。"去病所將常選。又曰:"強而避之。"青以武剛車自環為營。又曰:"重地,吾將繼其食。"去病約齎,絕幕取食於敵而糧不絕。又曰:"破車疲馬,十去其七。"青與去病以十四萬騎出塞,而歸者不滿三萬匹。又曰:"視卒如愛子。"去病反,餘棄梁肉,而士有飢者是也。