十七史百將傳巻二 前漢 趙充国(翁孫)
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 1 巻一〜巻五』(全2巻の第1巻)として出版する予定です。
要約
趙充国は字を翁孫、隴西の上邽の人である。沈着で勇があり謀略に長け、兵法を学んで異民族の事情に通じていた。武帝のとき貳師将軍に従って匈奴に包囲されると、壮士百余人と囲みを破って敵陣を陥れ、貳師将軍が随って囲みを解いた。身の二十余の傷を武帝は自ら見て嘆じ、中郎に拝した。昭帝のとき西祁王を捕らえて後将軍となり、匈奴が十余万騎で侵入しようとすると四万騎で九郡に屯して、単于は去った。
義渠安国が諸羌を巡行したとき、先零の豪帥が湟水の北で牧畜したいと願い出て奏聞され、充国は安国が不恭であると弾劾した。羌人はこれを頼みに湟水を渡り、先零は諸羌の豪帥二百余人と仇を解いて盟った。上が問うと充国は、羌人が制しやすいのは種族ごとの勢いが一つにならぬからだが、征和五年には先零が匈奴に使いを通じており、匈奴が羌と結ぶのは一代のことでないから、まだそうならぬうちに備えよと答えた。
一か月余りのち、羌侯の狼何は果たして匈奴に兵を借り、鄯善・敦煌を撃って漢の道を断とうとした。充国は、秋に馬が肥えれば変事は必ず起こるとして備えよと説いた。両府はふたたび義渠安国を遣わしたが、安国は先零の諸豪帥三十余人を斬り、斬首千余級をあげた。降っていた諸羌や楊玉らは恐れ怒って叛き、塞を犯し長史を殺した。安国は浩亹で撃たれ、輜重を多く失って令居に還った。
充国は年七十余であった。誰を将とすべきかと問われて「老臣にまさる者はおりません」と答え、羌の見積もりを問われて「百聞は一見に如かず。兵事は遠くから見積もりがたいものです。臣は金城まで馳せ至り、方略を図に描いて奉ります」と言った。上は笑って「よろしい」と言った。
充国は金城に至ると、夜に三校を銜枚させて先に渡らせ、夜明けに渡り終えた。虜の騎が出入りしたが、誘い出しを恐れ、虜を撃つのは殄滅を期してのことで小利は貪るに足りぬとして撃つなと令した。落都では、虜が四望狭を塞いでいたら兵は入れなかったと語った。常に遠く斥候を出し、行けば戦いの備えをなし、とどまれば営壁を堅くし、先に計を立てて後に戦った。
子の趙昂は支えの兵として令居に至り、虜が輸送路を断つと奏聞して渡し場を通じさせた。罕・開の豪帥靡当兒の弟雕庫は先零の反を告げて人質とされていたが、充国は罪なしとして帰らせ、大軍は罪ある者を誅するのだから自ら区別せよと告げさせ、法を犯した者を斬れば大豪一人に銭四十万など差を設けて賜うと令した。
酒泉太守の辛武賢は、三十日分の糧で兵を分け、鮮水のほとりの罕・開を撃って家畜を奪い妻子を虜にし、冬にまた撃つべきだと上奏した。充国は、遠回りで千里になり三十日分の食を負えば追撃に向かず、虜が山林に退いて漢軍の糧道を断てば危ういと論じ、罕・開の過ちは捨て置いて先に先零を誅し、悔い改めれば赦して良吏に慰撫させるのが辺境を安んずる策だと述べた。
公卿はみな、先に罕・開を破らねば先零は図りえないと考えた。上は許延寿を強弩将軍、辛武賢を破羌将軍に拝し、書をもって充国を敕し責めた。年数をかけてわずかな勝ちを得ようとしている、一万二千人が罕羌を撃つから将軍も西へ並び進め、再び疑うな、と。
充国は、将は臨機の処置を守り通して国家を安んずるのだと考え、上書して罪を謝し兵の利害を陳べた。罕羌はまだ犯すところがなく、罕を先に撃つのは罪なき者を誅して二つの害に就くことである。兵法に「よく戦う者は人を招き寄せて人に招き寄せられない」とあり、兵馬を整えて到来を待つべきで、先に罕羌を撃てば先零は助けて約を堅くし、憂いは十年に及ぼう、と。
璽書が返され、充国の計に従うこととなった。先零の虜は気がゆるみ、大軍を望み見て輜重を棄てて湟水へ向かった。充国は、窮寇は迫れば死に物狂いになるとして徐々に追い立て、降伏と斬首五百余人、家畜十万余頭、車四千余両を鹵獲した。罕の地では村落を焼くのを禁じ、喜んだ豪帥の靡忘がもとの地に還ることを願うと返答を待たず帰らせ、争う護軍以下には、文書を取りつくろって身を守るだけだと言った。まもなく璽書が靡忘を贖罪と令じ、罕は兵を煩わさず降った。
充国が病むと、上は破羌将軍を副とし十二月に先零を撃てと書を賜った。降った羌は一万余人になり、充国は彼らが必ず崩れると見て騎兵を罷め、屯田してその疲弊を待とうとした。進兵の璽書が届くと、昂は恐れて食客を遣わし、上意に合わなければ将軍ご自身すら保てないと諫めた。充国は嘆じ、辛武賢の先遣と穀の買い入れという二つの策を失って羌人は逆らったのだ、わたしは死をもって守り通す、明主には忠言を申し上げてよいのだと言った。
そこで屯田の奏を奉り、羌の虜は計で破るのはたやすく兵で砕くのは難しいこと、臨羌から浩亹まで未墾の土地が多いことを挙げ、騎兵を罷めて一万余人を要害の地に屯させ、一人に二十畝を割り当てたいと請うた。上が決着の時期を問うと、帝王の兵は全きをもって勝ちを取るから謀を貴んで戦を賤しみ、まず勝つべからざる態勢を作って敵を待つのだと述べ、田によって穀を得、虜を肥饒の地から遠ざけ、費えと徭役を省き坐したまま必勝を得るなど、田を留めれば十二の便を得、兵を出せば十二の利を失うと言った。
上がさらに時期を問うと、充国は、先零羌の精兵は七、八千人に過ぎず分散して飢え凍え、罕・開・莫須も叛き帰る者が絶えないから、破れ崩れるのは遠くとも来春だと答え、坐したまま勝つ道を捨てて危険に乗ずるのは蛮夷に示すやり方ではないと述べた。
奏が上るたび公卿に下され、是とする者ははじめ十のうち三、中ごろには五、最後には八となり、さきに不便と言った者は詰問されて服し、丞相の魏相もその計は用いるに足ると認めた。上は両将軍の出撃の議も容れ、両将軍と昂に出撃させた。強弩将軍は四千余人を降し、破羌将軍は斬首二千級、昂も二千余級、充国が降らせた者はさらに五千余人で、詔して兵を罷め、充国だけが屯田にとどまった。
翌年、充国は屯田の兵を罷めることを奏請して還った。浩星賜が功を二将軍に帰せと説いたが、充国は、兵の勢いは国の大事で後世の法とすべきものだ、老臣が明言しないまま死んだなら誰がこれを言うだろうかと言い、考えのままに答えた。上はその計を然りとし、辛武賢を酒泉太守に帰らせ、充国はまた後将軍・衛尉となった。その秋、羌の若零らが先零の大豪猶非・楊玉の首を斬って四千余人を率いて降り、漢は若零らを王や侯とし、金城属国を置いて住まわせた。
護羌校尉を挙げさせたとき、四府が辛武賢の末弟の湯を挙げると、充国は病を押して起き、湯は酒の上で気ままだから蛮夷を司らせてはならず兄の臨衆がよいと奏した。詔で臨衆が代わって用いられたが病で免ぜられ、五府が湯を挙げた。湯は酒で羌人を酔わせ、羌人は叛いて充国の言のとおりになった。朝廷に四夷の大議があるたび兵の謀に参与させられ、先に功徳により霍光らと列を同じくし未央宮に肖像を画かれ、年八十六で薨じた。
成帝のとき西羌に警報があり、上は将帥の臣を思って充国を美とし、楊雄に図画に即して頌させた。先零が漢の西の疆を侵し、漢は後将軍に命じて六師を整え討ち震わせた。営平は節を守り封章を奏し、敵を料って勝ちを制し、威と謀とに並ぶものが無かった。ついに西戎に克って師を京に還し、鬼方は賓服した。漢の中興には充国が武をなし、周の宣王の方・虎の後を継いだ、と。
孫子はいう、変化に因って勝つを神と謂う、備えあるは勝つ、敵の利を取るは貨なり、君が必ず戦えといっても戦わず、人を招き招かれず、威加われば交わり合わず、窮寇には迫るな、飽をもって飢を待つ、進んでは名を求めず、と。充国が兵は遠く見積もりがたいと言い、斥候を遠く出し、銭で羌を誘い、臨機の処置を守り、戦士を鍛えて待ち、先零を攻めて罕羌が服し、先零をゆるやかに追い、三百万斛の穀を買えば羌は動けぬと言い、死をもって守り通したのが、これである。
年表
字は翁孫、隴西上邽の人(?–年八十六で薨去)。武帝のとき假司馬として貳師将軍に従い、囲みを破って身に二十余の傷を受け、中郎に拝された。昭帝のとき匈奴を撃って西祁王を捕らえ後将軍に抜擢される。宣帝のとき七十余歳で「百聞は一見に如かず」と言って羌征討を請い、先零を先に討って罕・開を招き降す策を貫き、出兵を求める詔に抗して屯田の「十二便」を上奏し、ついに朝議を動かして戦わずして羌を瓦解させた。のち後将軍・衛尉に復し、未央宮に肖像を画かれた。
年表(1件)
- 征和五年前88年先零の豪帥封煎らが匈奴に使いを通じたと、のちの上奏で羌と匈奴の連携を論ずる
原文(底本)
趙充國,字翁孫,隴西上邽人也。始為騎士,以六郡良家子善騎射補羽林。為人沉勇,有大略。少好將帥之節而學兵法,通知四夷事。武帝時,以假司馬從貳師將軍擊匈奴,大為虜所圍。漢軍乏食數日,死傷者多,充國乃與壯士百餘人潰圍陷陣,貳師引兵隨之,遂得解,身被二十餘創。武帝親見,視其創,嗟嘆之,拜為中郎,遷車騎將軍長史。昭帝時,擊匈奴,獲西祁王,擢為後將軍。匈奴大發十餘萬騎,南旁塞,至符奚蘆山,欲入為寇。亡者題除渠堂降漢言之,遣充國將四萬騎屯緣邊九郡,單于聞之,引去。是時,光祿大夫義渠安國使行諸羌,先零豪言願時渡湟水北,逐民所不田處畜牧。安國以聞。充國劾安國奉使不恭。是後,羌人旁緣前言,抵冒渡湟水,郡縣不能禁。先零遂與諸羌種豪二百餘人,解仇交質盟詛。上聞之,以問充國,對曰:"羌人所以易制者,以其種自有豪,數相攻擊,勢不壹也。往三十餘歲,西羌反時,亦先解仇合約攻令居,與漢相距,五六年乃定。至征和五年,先零豪封煎等通使匈奴。匈奴使人至小月氏,傳告諸羌曰:'漢二師將軍眾十餘萬人降匈奴,羌人為漢事苦,張掖、酒泉本我地,地肥美,本可共擊居之。'以此觀匈奴欲與羌合,非一世也。間者匈奴困於西方,聞烏桓來保塞,恐兵復從東方起,數使使尉黎、危須諸國,設以子女貂裘,欲沮解之。其計不合。疑匈奴更遣使至羌中,道從沙陰地,出鹽澤,過長坑,入窮水塞,南抵屬國,與先零相直。臣恐羌變未止此,且復結聯他種,宜及未然為之備。"後月余,羌侯狼何果遣使至匈奴藉兵,欲擊鄯善、敦煌以絕漢道。充國以為:狼何,小月氏種,在陽關西南,勢不能獨造此計。疑匈奴使已至羌中,先零、罕、開乃解仇作約,到秋馬肥,變必起矣。宜遣使者行邊兵豫為備,敕視諸羌,毋令解仇,以發覺其謀。於是兩府復白遣義渠安國行視諸羌,分別善惡。安國至,召先零諸豪三十餘人,以尤桀黠,皆斬之;縱兵擊其種人,斬首千餘級。於是諸降羌及歸義羌侯楊玉等恐怒,亡所信鄉,遂劫略小種,背畔犯塞,攻城邑,殺長史。安國以騎都尉將騎三千屯備羌,至浩亹,為虜所擊,失亡車重兵器甚眾。安國引還,至令居,以聞。時充國年七十餘,上老之,使丙吉問誰可將者,充國對曰:"亡逾於老臣者矣。"上遣問焉,曰:"將軍度羌虜何如,當用幾人?"充國曰:"百聞不如一見,兵難遙度,臣願馳至金城,圖上方略。然羌戎小夷,逆天背畔,滅亡不久。願陛下以屬老臣,勿以為憂。"上笑曰:"諾。"充國至金城,須兵滿萬騎,欲渡河,恐為虜所遮,即夜遣三校銜枚先渡,渡輒營陳,會明,畢,遂以次盡渡。虜數十百騎來,出入軍傍。充國曰:"吾士馬新倦,不可馳逐。此皆驍騎難制,又恐其為誘兵也。擊虜以殄滅為期,小利不足貪。"令軍勿擊。遣騎候四望狹中亡虜,夜引兵上至落都,召諸校司馬,謂曰:"吾知羌虜不能為兵矣。使虜發數千人守杜四望狹中,兵豈得入哉!"充國常以遠兵候為務,行必為戰備,止必堅營壁,尤能持重,愛士卒,先計而後戰。遂西至西部都尉府,日饗軍士,士皆欲為用。虜數挑戰,充國堅守。捕得生口,言羌豪相數責曰:"語汝亡反,今天子遣趙將軍來,年八九十矣,善為兵。今請欲一斗而死,可得邪!"充國子右曹郎中將昂,將期門佽飛、羽林孤兒、胡越騎為支兵,至令居。虜並出絕轉道,昂以聞。有詔將入校尉與驍騎都尉、金城太守合疏捕山間虜,通轉道津度。初,罕、開豪靡當兒使弟雕庫來告都尉曰:"先零欲反。"後數日果反。雕庫種人頗在先零中,都尉即留雕庫為質。充國以為亡罪,乃遣歸告種豪:"大兵誅有罪者,明白自別,毋取並滅。天子告諸羌人:犯法者能相捕斬,除罪。斬大豪有罪者一人,賜錢四十萬,中豪十五萬,下豪二萬,大男三千,女子及老小千錢,又以其所捕妻子財物盡與之。"充國計欲以威信招降罕開及劫略者,解散虜謀,徼極乃擊之。酒泉太守辛武賢奏言:"今虜朝夕為寇,土地寒苦,漢馬不能冬,屯兵在武威、張掖、酒泉萬騎以上,皆多羸瘦。可益馬食,以七月上旬齎三十日糧,分兵並出張掖、酒泉合擊罕、開在鮮水上者。虜以畜產為命,皆離散,兵即分出,雖不能盡誅,奪其畜產,虜其妻子,復引兵還,冬復擊之,大兵仍出,虜必震壞。"天子下其書充國,令與校尉以下吏士知羌事者博議。充國以為:"武賢欲輕引萬騎,分為兩道出張掖,回遠千里。以一馬自駝負三十日食,為米二斛四斗,麥八斛,又有衣裝兵器,難以追逐。勤勞而至,虜必商軍進退,稍引去,逐水草,入山林,隨而深入。虜即據前險,守後厄,以絕糧道,必有傷危之憂,為夷狄笑,千載不可復。而武賢以為可奪其畜產,虜其妻子,此殆空言,非至計也。先零首為畔逆,它種劫略。故臣愚冊,欲捐罕開暗昧之過,隱而勿章,先行先零之誅以震動之,宜悔過反善,因赦其罪,選擇良吏知其俗者拊循和輯,此全師保勝安邊之策。"天子下其書。公卿議者咸以為先零兵盛,而負罕、開之助,不先破罕、開,則先零未可圖也。上乃拜侍中樂成侯許延壽為強弩將軍,即拜酒泉太守武賢為破羌將軍,賜璽書嘉納其冊。以書敕誚充國曰:"皇帝問後將軍,甚苦暴露。今張掖以東粟石百餘,芻槁束數十,轉輸並起,百姓煩擾。將軍將萬餘之眾,不早及秋共水草之利爭其畜食,欲至冬,虜皆當畜食,多藏匿山中依險阻,將軍士寒,手足皸瘃,寧有利哉?將軍不念中國之費,欲以歲數而勝微,將軍誰不樂此者!今詔破羌將軍武賢將兵六千一百人,敦煌太守快將二千人,長水校尉富昌、酒泉侯奉世將婼、月氏兵四千人,亡虜萬二千人,齎三十日食,以七月二十二日擊罕羌,入鮮水北句廉上,去酒泉八百里,去將軍可千二百里。將軍其引兵便道西並進,雖不相及,使虜聞東方北方兵並來,分散其心意,離其黨與,雖不能殄滅,當有瓦解者。已詔中郎將昂將胡越佽飛射士、步兵二校,益將軍兵。今五星出東方,中國大利,蠻夷大敗。太白出高,用兵深入敢戰者吉,弗敢戰者凶。將軍急裝,因天時,誅不義,萬下必全,勿復有疑。"充國既得誚,以為將任兵在外,便宜有守,以安國家。乃上書謝罪,因陳兵利害,曰:"臣竊見騎都尉安國前幸賜書,擇羌人可使使罕,諭告以大軍當至,漢不誅罕,以解其謀。恩澤甚厚,非臣下所能及。臣獨私美陛下盛德至計亡已,故遣開豪雕庫宣天子至德,罕、開之屬皆聞知明詔。今先零羌楊玉將騎四千及煎鞏騎五千,阻石山木,候便為寇,罕羌未有所犯。今置先零,先擊罕,釋有罪,誅亡辜,起壹難,就兩害,誠非陛下大計也。臣聞兵法:攻不足者,守有餘。又曰:善戰者,致人,不致於人。今罕羌欲為敦煌、酒泉寇,宜飾兵馬,練戰士,以須其至,坐得致敵之術,以逸擊勞,取勝之道也。今恐二部兵少不足以守,而發之行攻,釋致虜之術而從為虜所致之道,愚以為不便。先零羌虜欲為背畔,故與罕、開解仇結約。然其私心不能亡,恐漢兵至而罕、開背之也。臣愚以為其計常欲先赴罕、開之急,以堅其約,先擊罕羌,先零必助之。今虜馬肥,糧食方饒,擊之恐不能傷害,適使先零得施德于闐羌,堅其約,合其黨。虜交堅黨合,精兵二萬餘人,迫脅諸小種,附著者稍眾,莫須之屬不輕得離也。如是,虜兵寢多,誅之用力數倍。臣恐國家憂累徭十年數,不二三歲而已。臣得蒙天子厚恩,父子俱為顯列。臣位至上卿,爵為列侯,犬馬之齒七十六,為明詔填溝壑,死骨不朽,亡所顧念。獨思惟兵利害至熟悉也,於臣之計,先誅先零已,則罕、開之屬不煩兵而服矣。先零已誅而罕、開不服,須正月擊之,得計之理,又其時也。以今進兵,誠不見其利,唯陛下裁察。"璽書報從充國計焉。充國引兵至先零在所。虜久屯聚,解弛,望見大軍,棄車重,欲渡湟水,道厄狹,充國徐行驅之。或曰逐利行遲,充國曰:"此竊寇,不可迫也。緩之則走不顧,急之則還致死。"諸校皆曰:"善。"虜赴水溺死者數百,降及斬首五百餘人,虜馬牛羊十萬餘頭,車四千餘兩。兵至罕地,令軍毋燔聚落芻牧田中。罕羌聞之,喜曰:"漢果不擊我矣!"豪靡忘使人來言:"願得還復故地。"充國以聞,未報。靡忘來自歸,充國賜飲食,遣還諭種人。護軍以下皆爭之,曰:"此反虜,不可擅遣。"充國曰:"諸君但欲便文自營,非為公家忠計也。"語未卒,璽書報,令靡忘以贖論。後罕卒不煩兵而下。充國病,上賜書曰:"將軍年老加疾,朕甚憂之。今詔破羌將軍諸屯所,為將軍副,急因天時大利,吏士銳氣,以十二月擊先零羌。即疾劇,留屯毋行,獨遣破羌、強弩將軍。"時羌降者萬餘人矣。充國度其必壞,欲罷騎兵屯田,以待其敝。作奏未上,會得進兵璽書,中郎將昂懼,使客諫充國曰:"誠令兵出,破軍殺將以傾國家,將軍守之可也。即利與病,又何足爭?一旦不合上意,遣繡衣來責將軍,將軍之身不能自保,何國家之安?"充國嘆曰:"是何言之不忠也!往者舉可先行羌者,吾舉辛武賢,丞相、御史復白遣義渠安國,竟沮敗羌。金城、湟中谷斛八錢,吾謂耿中丞,糴三百萬斛谷,羌人不敢動矣。耿中丞請糴百萬斛,乃得四十萬斛耳。義渠再使,且費其半。失此二冊,羌人故敢為逆。失之毫釐,差以千里,是既然矣。今兵久不決,四夷卒有動搖,相因而起,雖有知者不能善其後,羌獨足憂邪!吾固以死守之,明主可為忠言。"遂上屯田奏曰:"臣聞兵者,所以明德除害也。故舉得於外,則福生於內,不可不謹。臣所將吏士馬牛食,月用糧谷十九萬九千六百三十斛,鹽千六百九十三斛,茭槁二十五萬二百八十六石。難久不解,徭役不息。又恐它夷卒有不虞之變,相因並起,為明主憂,誠非素定廟勝之冊。且羌虜易以計破,難用兵碎也,故臣愚以為擊之不便。計度臨羌東至浩亹,羌虜故田及公田,民所未墾百二千頃。願罷騎兵,留弛刑應募,及淮陽、汝南步兵與吏士私從者,合凡萬二百八十一人,用谷月二萬十千三百六十三斛,鹽三百八斛,分屯要害。田事出,賦人二十畝。至四月草生,發郡騎及屬國胡騎伉健各千,倅馬什二,就草,為田者游兵。以充入金城郡,益積畜,省大費。今大司農所轉谷至者,足支萬人一歲食。謹上田處及器用簿,唯陛下裁許。"上報曰:"欲罷騎兵萬人留田,即如將軍之計,虜當何時伏誅,兵當何時得決?孰計其便,復奏。"充國上狀曰:"臣聞帝王之兵,以全取勝,是以貴謀而賤戰。戰而百勝,非善之善者也。故先為不可勝,以待敵之可勝。蠻夷習俗雖殊於禮義之國,然其欲避害就利,愛親戚,畏死亡,一也。今虜亡其美地薦草,愁於寄託遠遁,骨肉離心,人有畔志,而明主班師罷兵,萬人留田,順天時因地利,以待取勝之虜,雖未即伏辜,兵決可期月而望。臣謹條不出兵留田便宜十二事。步兵九校,吏士萬人,留屯以為武備,因田致谷,威德並行,一也。又因排折羌虜,令不得歸肥饒之地,貧破其眾,以成羌虜相畔之漸,二也。居民得並田作,不失農業,三也。軍馬一月之食,度支田士一歲,罷騎兵以省大費,四也。至春省甲士卒,循河湟漕谷至臨羌,以視羌虜,揚威武,傳世折衝之具,五也。以閒暇時,繕治郵亭,充入金城,六也。兵出,乘危僥倖,不出,令反畔之虜竄於風寒之地,離霜露疾疫瘃墮之患,坐得必勝之道,七也。亡經阻遠追死傷之害,八也。內不損威武之重,外不令虜得乘間之勢,九也。又亡驚動河南大開、小開使生它變之憂,十也。治湟狹中道橋,令可至鮮水,以制西域,信威千里,從枕席上過師,十一也。大費既省,徭役豫息,以戒不虞,十二也。留屯田得十二便,出兵失十二利。臣充國材下,犬馬齒衰,不識長冊,唯明詔博詳公卿議臣採擇。"上復賜報曰:"將軍言十二便,聞之。虜雖未伏誅,兵決可期月而望。期月而望者,謂今冬邪,謂何時也?將軍孰計復奏。"充國奏曰:"臣聞兵以計為本,故多算勝少算。先零羌精兵今餘不過七八千人,失地遠客,分散飢凍。罕、開、莫須又頗暴略其羸弱畜產,畔還者不絕,皆聞天子明令相捕斬之賞。臣愚以為虜破壞可日月冀,遠在來春,故曰兵決可期月而望。竊見北虜自敦煌至遼東萬一千五百餘里,乘塞列隧有吏卒數千人,虜數大眾攻之而不能害。今留步士萬人屯田,地勢平易,多高山遠望之便,部曲相保,為塹壘木樵,校聯不絕,便兵弩,飾斗具。烽火幸通,執及併力,以逸待勞,兵之利者也。臣愚以為屯田內有亡費之利,外有守御之備。騎兵雖罷,虜見萬人留田為必禽之具,其上崩歸德,宜不久矣。從今盡三月,虜馬蠃瘦,必不敢損其妻子於它種中,遠涉河山而來為寇。又見屯田之士精兵萬人,終不敢復將其累重還歸故地。是臣之愚計,所以度虜且必瓦解其處,不戰而自破之冊也。臣聞:戰不必勝,不苟接刃;攻不必取,不苟勞眾。而釋坐勝之道,從乘危之勢,貶重而自損,非所以視蠻夷也。臣竊自惟念,奉詔出塞,引軍遠擊,窮天子之精兵,散車甲於山野,雖亡尺寸之功,偷得避慊之便,而亡後咎餘責,此人臣不忠之利,非明主社稷之福也。臣幸得奮精兵,討不義,久留天誅,罪當萬死。陛下寬仁,未忍加誅,令臣數得熟計。愚臣伏計熟甚,不敢避斧鉞之誅,昧死陳愚,唯陛下省察。"充國奏每上,輒下公卿議臣。初是充國計者什三,中什五,最後什八。有詔詰前言不便者,皆頓首服。丞相魏相曰:"臣愚不習兵事利害,後將軍數畫軍冊,其言常是,臣任其計可必用也。"上於是報充國曰:"將軍計善。其上留屯田及當罷者人馬數。將軍強食,謹兵事,自愛!"上以破羌、強弩將軍數言當擊,又用充國屯田處離散,恐虜犯之,於是兩從其計,詔兩將軍與中郎將昂出擊。強弩出,降四千餘人,破羌斬首二千級,中郎將昂斬首降者亦二千餘級,而充國所降復得五千餘人。詔罷兵,獨充國留屯田。明年,充國奏請罷屯兵。奏可,充國振旅而還。所善浩星賜迎說充國,曰:"眾人皆以破羌、強弩出擊,多斬首獲降,虜以破壞。然有識者以為虜勢窮困,兵雖不出,必自服矣。將軍即見,宜歸功於二將軍出擊,非愚臣所及。如此,將軍計未失也。"充國曰:"吾年老矣,爵位已極,豈嫌伐一時事以欺明主哉!兵勢,國之大事,當為後法。老臣不以餘命壹為陛下明言兵之利害,卒死,誰當復言之者?"卒以其意對,上然其計,罷遣辛武賢歸酒泉太守官,充國復為後將軍衛尉。其秋,羌若零、離留、且種、兒庫共斬先零大豪猶非、楊玉首,及諸豪弟澤、陽雕、良兒、靡忘皆帥煎鞏、黃羝之屬四千餘人降。漢封若零、弟澤二人為帥眾王,離留、且種二人為侯,兒庫為君,陽雕為言兵侯,良兒為君,靡亡為獻牛君。初置金城屬國,以處降羌。詔舉可護羌校尉者,時充國病,四府舉辛武賢小弟湯,充國遽起奏:"湯使酒,不可典蠻夷。不如湯兄臨眾。"時湯已拜受節,有詔更用臨眾。臨眾病免,五府復舉湯,酒數醉羌人,羌人反畔,卒如充國之言。朝廷每有四夷大議,常與參兵謀,問籌策焉。年八十六薨。初,充國以功德與霍光等列,畫未央宮。成帝時,西羌常有警,上思將帥之臣,追美充國,乃召楊雄即充國圖畫而頌之,曰:"明靈惟宣,戎有先零。先零昌狂,侵漢西疆。漢命虎臣,惟後將軍,整我六師,是討是震。既臨其域,諭以威德,有守矜功,謂之弗克。請奮其旅,於罕之羌,天子命我,從之鮮陽。營平守節,屢奏封章,料敵制勝,威謀靡亢。遂克西戎,還師於京,鬼方賓服,罔不有庭。昔周之宣,有方有虎,詩人歌功,乃列於雅。在漢中興,充國作武,糾糾桓桓,亦紹厥後。" 孫子曰:"能因敵變化而取勝者,謂之神。"充國謂兵難隃度。又曰:"以虞待不虞者,勝。"充國常遠斥侯。又曰:"取敵之利者,貨也。"充國以錢誘羌,令諸捕斬。又曰:"主曰必戰無戰,可也。"充國謂便宜有守以安國家。又曰:"致人而不致於人。"充國練戰士以須其至。又曰:"威加於敵,則其交不得合。"充國攻先零而罕羌服。又曰:"窮寇勿迫。"充國緩驅先零。又曰:"以飽待飢。"充國謂糴三百萬斛谷,羌不敢動。又曰:"進不求名,退不避罪。"充國以死守便宜是也。