十七史百將傳巻三 後漢 鄧禹(仲華)

現代語訳

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要約

鄧禹は字を仲華、南陽の新野の人である。光武が河北を安んじていると聞いて北へ渡り鄴で追いついた。仕官は望まぬと答え、明公の威徳が四海に加わり功名を竹帛に垂れたいと言い、英雄を招いて高祖の業を立てよと説いた。光武は悦んで鄧将軍と号させ、幕中に宿らせ計議を定めた。

赤眉が関中に入ると、光武は禹に西討の略を授け、前将軍として精兵二万を与えた。建武元年、箕関を破り、樊参を解の南で斬った。王匡らが十余万で撃って軍は不利であったが、禹は夜に去れという勧めを聴かず、匡らが六甲の窮日として出ない間に兵を整え、翌朝、敵を営の下まで引き寄せて出撃し、大いに破って河東を平定した。

光武が即位すると大司徒に拝し酇侯に封じた。禹は年二十四であった。軍の行くところ紀律があると聞いて降る者は日に千を数え、名は関西に震った。

諸将は長安を攻めよと勧めたが、禹は赤眉の鋭鋒に当たるべきでないとして北の道に兵を休め疲弊を観ようとし、帝は進まぬことを敕で責めた。馮愔が宗歆を殺して禹を撃ったが、帝の推し量ったとおり黄防が愔を捕らえて服した。禹は長安に至って高廟に謁り、十一帝の神主を洛陽へ届けさせた。

禹は藍田に戦って克てず、赤眉がふたたび長安に入るとこれに敗れて高陵に走った。帝は召し還し、赤眉は穀がなく自ずと東へ来る、みだりに進むなと敕した。禹は慚じて戦いを挑んだが不利で、鄧洪とともに撃って敗られ、二十四騎で宜陽へ還った。のち鄧曄を監督して延岑を鄧と武当に破り、十三年、天下が平定されて高密侯に封じられた。薨じた。

孫子はいう、利に雑えてこそ務めを伸ばす、道を修めて法を保つ、軍には撃たざる所あり、と。禹が賊の出ぬに乗じて兵を整え、紀律あって降る者が日ごとに多く、長安を攻めず鋭鋒を避けたのが、これである。

年表

後漢の功臣、鄧禹(字は仲華)。南陽の新野の人で、更始に仕えず光武を鄴に追って帰し、高祖の業を立てるべきことを説いて鄧将軍と号され、常に幕中に宿って計議に与り、諸将の人選も多く任された。前将軍として精兵二万を与えられ西のかた関中に入って河東を平定し、光武の即位後は大司徒・酇侯となり、名を関西に震わせた。しかし長安攻めを避けて北道に兵を休めるうち馮愔の反乱で威が損なわれ、赤眉との戦いに敗れて二十四騎で宜陽に還った。のち延岑を破り、天下平定ののち高密侯に封ぜられて薨じた。

年表(2件)
原文(底本)
鄧禹,字仲華,南陽新野人也。更始立,豪傑多薦舉禹,禹不肯從。及聞光武安集河北,即杖策北渡,追及於鄴。光武見之甚歡,謂曰:"我得專封拜,生遠來,寧欲仕乎?"禹曰:"不願也。"光武曰:"即如是,何欲為?"禹曰:"但願明公威德加於四海,禹得效其尺寸,垂功名於竹帛耳。"光武笑,因留宿。禹進說曰:"諸將皆庸人崛起,志在財幣,爭用威力,朝夕自快而已,非有深慮遠圖,欲尊主安民者也。明公素有盛德大功,為天下所向服,軍政齊肅,賞罰明信。為今之計,莫如延攬英雄,務悅民心,立高祖之業,救萬民之命。以公而慮天下,不足定也。"光武大悅,因令左右號禹曰鄧將軍。常宿止於中,與定計議。時任使諸將,多訪於禹。禹每有所舉者,皆當其才,光武以為知人。及赤眉西入關,更始使王匡、成冊、劉均以拒之。光武籌赤眉必破長安,欲乘釁並關中,而方有事山東,未知所寄。以禹沈深有大度,故授以西討之略。乃拜為前將軍持節,中分麾下精兵二萬人,遣西入關,令自選偏裨以下可與俱者。建武元年,禹自箕關將入河東,河東都尉守關不開。禹攻十日,破之,獲輜重千餘乘。進圍安邑,數月未能下。更始大將軍樊參將數萬人,度大陽欲攻禹,禹遣諸將逆擊於解南,大破之,斬參首。王匡、成冊、劉均等人合軍十餘萬,復共擊禹。禹軍不利,會日暮,戰罷,諸將見兵勢已摧,皆勸禹夜去,禹不聽。明日癸亥,匡等以六甲窮日不出,禹因得更理兵勒眾。明旦,匡悉軍出攻禹。禹令軍中無得妄動,既至營下,因傳發諸將鼓而並進,大破之。匡等皆棄軍亡走,禹率輕騎急追,獲劉均,遂定河東。光武即位,使使者持節拜禹為大司徒,封為酇侯。禹時年二十四。是時,三輔連覆敗,赤眉所過殘賊,百姓不知所歸。聞禹乘勝獨克而師行有紀,皆望風相攜負以迎軍,降者日以千數,眾號百萬。禹所止輒停車駐節,以勞來之。父老童稚,垂髮載白,滿其車下,莫不感悅,於是名震關西。帝嘉之,數賜書褒美。諸將豪傑皆勸禹徑攻長安,禹曰:"不然。今吾眾雖多,能戰者少。前無可仰之積,後無轉饋之資。赤眉新拔長安,財富充實,鋒銳未可當也。夫盜賊群居,無終日之計,財谷雖多,變故萬端,寧能堅守者也?上郡、北地、安定三郡,土廣人稀,饒谷多畜,吾且休兵北道,就糧養士,以觀其弊,乃可圖也。"於是引軍北至枸邑。禹所到,擊破赤眉別將諸營堡,郡邑皆聞門歸附。帝以關中未定,而禹久不進兵,下敕曰:"司徒,堯也;亡賊,桀也。長安吏人,遑遑無所依歸。宜以時進討,鎮慰西京,系百姓之心。"禹猶執前意,遣馮愔、宗歆守枸邑。二人爭權相攻,愔遂殺歆,因反擊禹,禹遣使以聞帝。帝問使人:"愔所親愛為誰?"對曰:"護軍黃防。"帝度愔、防不能久和,勢必相忤,因報禹曰:"縛馮愔者,必黃防也。"乃遣尚書宗廣持節降之。後月余,防果執愔,將其眾歸罪。時赤眉西走扶風,禹乃南至長安,軍昆明池,大饗士卒。率諸將齋戒,擇吉日,修禮謁祠高廟,收十一帝神主,遣使奉詣洛陽,因循行園陵,為置吏士奉守焉。禹引兵與延岑戰於藍田,不克,復就谷雲陽。自馮愔反後,禹威稍損,又乏食,歸附者離散。而赤眉復還入長安,禹與戰,敗走至高陵,軍士飢餓者,皆食棗菜。帝乃召禹還,敕曰:"赤眉無谷,自當來東,吾折捶笞之,非諸將憂也。無得復妄進兵。"禹慚於受任而功不遂,數以飢卒檄戰,輒不利。後與車騎將軍鄧洪擊赤眉,遂為所敗,眾皆死散,獨與二十四騎還詣宜陽。延岑與秦豐寇順陽間,遣禹護復漢將軍鄧曄擊破岑於鄧。追至武當,復破之。岑奔漢中,餘黨悉降。十三年,天下平定封禹為高密侯。薨。

孫子曰:"雜於利而務可伸。"禹因賊不出而更得理兵。又曰:"修道而保法。"禹師行有紀而降者日眾。又曰:"軍有所不擊。"禹不攻長安以避其銳是也。
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