十七史百將傳巻七 宋 檀道済
現代語訳
Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。
要約
檀道済は高平の金郷の人。宋の武帝の北伐で前鋒となり、降る者を収めて洛陽に進んだ。俘囚を京観にせよという議に、罪ある者を伐ち人を吊うのは今日だと釈すと中原は帰服した。
文帝の即位後、先駆けとして西へ伐ち、謝晦は才略はあるが勝ちを決したことはなく臣の勇を知り尽くすと答えた。晦は道済が誅されたと思い、遡ると聞いて自ら潰えた。
元嘉八年、北へ攻略し済水に至り、魏軍は盛んで滑台は陥ちた。三十余度戦って多く勝ち、歴城で糧尽き還った。降人が糧尽きを説き士卒が懼れると、夜に唱籌量沙し残る米を散らし、魏軍は追わず降人を斬った。軍士に甲を着けさせ自ら白服で輿に乗って出ると、魏軍は伏兵を懼れて迫らず軍を全うした。
威名が重く朝廷は疑い、文帝が病むと彭城王が召し、向氏は禍が至ると言った。道済は捕らえられ一斛を飲み干して幘を投げ、汝の万里の長城を壊すのかと言った。
魏人は憚るに足らずと毎年南を伐った。継ぐ者を問われた殷景仁は重ねた戦功ゆえと答えたが、帝は李広がいた間匈奴は南を望まなかったと言った。魏が瓜歩に至ると文帝は石頭城に登り、道済がいたならここまで至ったかと嘆いた。
孫子はいう、将軍は心を奪われる、強弱は形である、と。道済が臣の勇を知り尽くすと言うと晦は潰え、唱籌量沙して魏軍を退けたのが、これである。
年表
高平の金郷の人、檀道済。宋の武帝の北伐で前鋒を務め、洛陽へ進んだ際には捕虜を京観にせず釈放し、中原の人心を得た。文帝の代には謝晦討伐の先駆けとなり、征南大将軍に遷った。北略では唱籌量沙の計で魏軍を欺いて全軍を保ち、魏に大いに憚られたが、威名の重さを朝廷に疑われて召し出され、「汝の万里の長城を壊すのか」と叫んで誅された。
年表(1件)
- 西暦431年 元嘉八年征討諸軍事を都督して北へ攻略し、唱籌量沙の計で魏軍を退けて軍を全うして帰る
原文(底本)
檀道濟,高平金鄉人也。宋武帝北伐,道濟為前鋒,所至望風降服。徑進洛陽,議者謂所獲俘囚應悉戮以為京觀。道濟曰:"伐罪吊人,正在今日。"皆釋而遣之。於是中原感悅,歸者甚眾。文帝即位,使道濟與中領軍劉彥之前驅西伐。上問策於道濟,對曰:"臣昔與謝晦同從北征,入關十策,晦有其九,才略明練,殆難與敵。然未嘗孤軍決勝,戎事恐非其長。臣悉晦智,晦悉臣勇。今奉王命外討,必未陣而禽。"時晦本謂道濟與徐羨之同誅,忽聞來上,遂不戰自潰。事平,遷征南大將軍。元嘉八年,劉彥之侵魏,已平河南,復失之。道濟都督征討諸軍事,北略地,轉戰至濟上。魏軍盛,遂克滑台。道濟時與魏軍三十餘戰,多捷。軍至歷城,以資運竭乃還。時人降魏者具說糧食已罄,於是士卒憂懼,莫有鬥志。道濟夜唱籌量沙,以所餘少米散其上。及旦,魏軍謂資糧有餘,故不復追,以降者妄斬以徇。時道濟兵寡弱,軍中大懼。道濟乃命軍士悉甲,身白服乘輿,徐出外圍。魏軍懼有伏,不敢逼,乃歸。道濟雖不克定河南,全軍而反,雄名大振,魏甚憚之。道濟立功前朝,威名甚重,左右腹心,並經百戰,諸子又有才氣,朝廷疑畏之。時人或目之曰:"安知非司馬仲達也?"文帝寢疾,彭城王義康慮宮車晏駕,道濟不復可制,召道濟入朝,其妻向氏曰:"夫高世之勛,道家所忌。今無事相召,禍其至矣。"道濟見收,憤怒氣盛,目光如炬。俄爾間引飲一斛,乃脫幘投地曰:"乃壞汝萬里長城!"魏人聞之,皆曰:"道濟已死,吳子輩不足復憚。"自是頻歲南伐,有飲馬長江之志。文帝問殷景仁曰:"誰可繼道濟?"答曰:"道濟以累有戰功,故致威名餘未任耳。"帝曰:"不然。昔李廣在朝,匈奴不敢南望,後繼者復有幾人?"魏至瓜步,文帝登石頭城望,甚有憂色,嘆曰:"若道濟在豈至此。" 孫子曰:"將軍可奪心。"道濟謂晦悉臣勇,果不戰而自潰。又曰:"強弱形也。"道濟唱籌量沙而卻魏軍是也。