十七史百將傳巻八 周 韋叔裕(孝寛)

現代語訳

Kindle版『現代語訳 十七史百將傳 2 巻六〜巻十』(全2巻の第2巻)として出版する予定です。

要約

韋叔裕は字を孝寬、京兆杜陵の人。蕭寶寅の乱に先駆けを請い統軍となり、周文帝に従って潼關を克ち、竇泰を擒にした。辺境が騒然とすると宜陽郡の事を代行し南兗州刺史に遷った。

東魏の段琛らが牛道恆に辺民を扇動させると、孝寬は諜者に道恆の手跡を得させ、帰順を述べた偽書を琛の営へ届けさせた。琛は道恆を疑って用いず、孝寬は奇兵で襲って両者を擒にし、崤・澠は清まった。玉壁に鎮して山胡を服させ大都督となった。

齊の神武が玉壁を攻めた。土山には楼に木を縛り継ぎ、地道は塹壕で遮り火を落として焼き、攻車には布幕を張り、火の松竿は鉄鉤で切り落とし、崩れた所には木柵を立てた。降伏を勧められると、關西の男子で必ず降将軍とはならぬと答え、城主を斬る者への懸賞の書には、高歡を斬る者も同じ賞によると裏に書いて射返した。弟の子を城下で白刃にかけられても顧みず、士卒は難に死ぬ心を抱いた。神武は六十日苦戦して死傷は十のうち四、五に及び、夜逃げ去って後に憤死した。

齊に入らせた間諜は皆力を尽くし、金貨を得て書簡を通じる齊人もあり、齊の動静は朝廷が先に知った。城を守らせた許盆が反くと、諜者に首を斬らせた。

汾北の生胡が住民を掠めるので要所に大城を置こうとし、兵の少なさを難じる姚岳に、築城は十日で終わり晉州が兵を集め議する間に遅れが出ると説いた。齊人は大軍を疑って進まず、夜に諸村で火を放たせると軍営と思って兵を収め、版築は成った。

晉公の護の東征を諫めたが容れられず、大軍は利あらず終わった。華谷・長秋への築城策も行われず、齊人は汾北に築城した。斛律明月が会見して汾北で償いを取ると言うと、孝寬は、汾北は我が棄てた地であり、武を窮めて人民を塗炭に陥れるのは取らぬところだと答えた。參軍の曲嚴が来年東朝で殺戮し合うと言うので、嚴に「百升飛びて天に上り、明月長安を照らす」という謡歌を作らせて鄴へ流させ、祖孝徵が潤色して明月は誅された。

武帝が齊を平らげる志を抱くと孝寬は三策を上疏した。第一は軹關から大軍を出し、陳氏と掎角を為して百の道から虜の本拠へ趨る策。第二は陳人と兵勢を分かたせ、奇兵で辺境を破り相手を離散させる策。第三は鋭気を蓄えて隙を観て動く長き策である。後に二度の出師で山東は定まった。

帝は東伐の途次に玉壁へ行幸し防いだ場所を観て嘆じ、先駆けの請いは許さず、孝寬は行軍總管で華谷の四城を克った。凱旋して再び行幸した帝が、少年たちと一挙に賊を平らげたがどう思うかと問うと、今は衰え耄いたが少壮のときは關右を定めたと答え、帝は大笑して上柱國に進めた。

行軍元帥として淮南を巡り取ると至る所誠意を送ってきた。険要の五門を急ぎ占拠させ、陳の吳文立が堰を切らせたが間に合わず、江北は平らげられた。

宣帝が崩じ隋文帝が輔政すると、孝寬を尉遲迥に代えて相州總管とした。迥の使いと語って変事を疑い病と称して遅く行き、逃げ還る叱列長文に会って事情を知ると、馳せ還って橋や道を毀し、駅の馬を抱え込み、駅将には蜀公が到るから肴酒を備えよと勧め、迥の追手は供応に留まって追いつけなかった。元帥として東伐して薛公禮らを破り、永橋城は攻めず武陟で迥の子の敦を破った。鄴に次すると迥は戦って破られ自殺し、關東は平らげられた。凱旋して京に還り薨じた。孝寬の経略はいつも人に解されず、事が成って初めて驚き服された。

孫子はいう、親しんでいる者は離間させる、守るときは必ず固くする、因間はその土地の人に因って用いる、動くことは雷の震うごとくにする、安逸な敵は労させる、城には攻めないところがある、と。偽書で段琛を離間し謡言で明月を誅させ、玉壁を守って高歡が抜けず、金貨で齊人の動静を知り、雷轟電激と言い、齊人に奔り回る労を負わせようとし、永橋を攻めなかったのが、これである。

年表

字は孝寬、京兆杜陵の人、韋叔裕。字をもって通称とした。沈着聡敏で経史に通じ、蕭寶寅の乱を機に統軍となり、周文帝に従って潼關を克ち竇泰を擒にした。偽の手書きで段琛と牛道恆を離間して崤・澠を清め、玉壁に鎮しては齊の神武の総攻めを六十日にわたり防ぎ切った。諜者を巧みに用い、謡歌を流して斛律明月を誅せしめ、齊を平らげる三策を武帝に上った。晩年は淮南を平定し、尉遲迥の反を討って關東を平らげ、凱旋ののち薨じた。

年表(1件)
原文(底本)
韋叔裕,字孝寬,京兆杜陵人也,以字行。沈敏和正,涉獵經史。弱冠,屬蕭寶寅作亂關右,乃詣關,請為軍前驅。朝廷嘉之,即拜統軍。隨長孫承業西征,每戰有功,拜國子博士。周文帝自原州赴雍州,命孝寬隨軍。及克潼關,即授弘農郡守。從禽竇泰,兼左丞,節度宜陽兵馬事。又從戰於河橋。時大軍不利,邊境騷然,乃令孝寬行宜陽郡事。尋遷南兗州剌史。是歲,東魏將段琛、堯傑復據宜陽,遣其楊州剌史牛道恆扇誘邊人。孝寬深患之,乃遣諜人訪獲道恆手跡,令善作書者偽作道恆與孝寬書,論歸款意。又為落燼燒跡,若火下書者,還令諜人送於琛營。琛得書,果疑道恆,有所欲經略,皆不見用。孝寬知其離阻,因出奇兵掩襲,禽道恆及琛等,崤、澠遂清。尋移鎮玉壁,兼攝南汾州事。先是,山胡負險,累為劫盜。孝寬示以威信,州境肅然。進授大都督。齊神武傾山東之眾,志圖西入,以玉壁衝要,先命攻之。連營數十里,至於城下,乃於城南起土山,欲乘之以入。當其山處,城上先有兩高樓。孝寬更縛木接之,令極高峻,多積戰具以御之。齊神武使謂城中曰:"縱爾縛樓至天,我會穿城取爾。"遂於城南鑿地道,又於城北起土山,攻具,晝夜不息。孝寬復掘長塹,要其地道,仍簡戰士屯塹。城外每穿至塹,戰士即禽殺之。又於塹外積柴貯火,敵人有在地道內者,便下柴火以皮排吹之。火氣一衝,咸即灼爛。城外又造攻車,車之所及,莫不摧毀。雖有排楯,莫之能抗。孝寬乃縫布為縵,隨其所向則張設之。布垂於空中,其車終不能壞。城外又縛松於竿,灌油加火,規以燒布,並欲焚樓。孝寬復長作鐵鈎,利其鋒刃,火竿亦來,以鈎遙割之,松麻俱落。外又於城四面穿地,作二十一道,分為四路,於其中各施梁柱,作訖,以油灌柱,放火燒之,柱折,城並崩壞。孝寬又隨崩虛立木柵捍之,敵不得入。城外盡其攻擊之術,孝寬咸拒破之。神武無如之何,乃遣倉曹參軍祖孝徵謂曰:"未聞救兵,何不降也?"孝寬報云:"我城池嚴固,兵食有餘,攻者自勞,守者常逸。豈有旬朔之間,已須救援。適憂爾眾有不反之危。孝寬關西男子,必不為降將軍也。"俄而孝徵復謂城中人曰:"韋城主受彼榮祿,或復可爾,自外軍士,何事相隨入湯火中邪?"乃射募格於城中云:"能斬城主降者,拜太尉,封開國郡公,邑萬戶,償帛萬疋。"孝寬手題書背,反射城外云:"若有斬高歡者,亦依此賞。"孝寬弟子遷,先在山東,又鎖至城下,臨以白刃,雲若不早降,便行大戮。孝寬慷慨激揚,略無顧意。士卒莫不感勵,人有死難之心。神武苦戰六旬,傷及死病者十四五,智力俱困,因而發疾,其夜遁去。後因此忿恚,遂殂。周文帝嘉孝寬功,令殿中尚書長孫紹遠至玉璧勞問,授驃騎大將軍、開府儀同三司,賜姓宇文氏。周文北巡,命孝寬還鎮玉璧。孝寬善於撫御,能得人心。所遣間諜入齊者,皆為盡力。亦有齊人得孝寬金貨,遙通書疏。故齊人動靜,朝廷皆先知。時有主帥許盆,孝寬托以心膂,令守城。盆乃以城東反。孝寬怒,遣諜取之,俄而斬首而還。其能致物情如此。汾州之北,離石以南,悉是生胡,抄掠居人,阻斷河路。孝寬深患之。而地入於齊,無方誅翦。欲當其要處,置一大城。乃於河西征役徒十萬,甲士百人,遣開府姚岳監築之。岳色懼,以兵少為難。孝寬曰:"計成此城,十日即畢。既去晉州四百餘里,一日創手,二日偽境始知。設令晉州召兵,三日方集。謀議之間,自稽三日。計其軍行,二日不到。我之城隍,足以辦矣。"乃令築之。齊人果至南首,疑有大軍,乃停留不進。其夜,又令汾水以南,傍介山、稷山諸村,所在縱火。齊人謂是軍營,遂收兵自固。版築克就,卒如其言。進位柱國。時晉公護將東討,孝寬遣長史辛道獻啟陳不可,護不納。既而大軍果不利。後孔城遂陷,宜陽被圍。孝寬乃謂其將帥曰:"宜陽一城之地,未能損益。然兩國爭之,勞師數載。彼多君子,寧乏謀猷。若棄崤東,來圍汾北,我之疆界必見侵擾。今宜於華谷及長秋速築城,以杜賊志。脫其先我,圖之實難。"於是畫地形,具陳其狀。事不行。齊人果解宜陽之圍,經略汾北,遂築城守之。其丞相斛律明月至汾東,請與孝寬相見。明月云:"宜陽小城,久勞爭戰。今既入彼,欲於汾北取償,幸勿怪也。"答曰:"宜陽彼之要衝,汾北我之所棄。我棄彼圖,取償安在?且君輔翼幼主,位重望隆,理宜調陰陽,撫百姓,焉用極武窮兵,構怨連禍!苟貪尋常之地,塗炭疲弊之人,竊為君不取。"孝寬參軍曲嚴頗知卜筮,謂孝寬曰:"來年東朝必大相殺戮。"孝寬因令嚴作謠歌曰:"百升飛上天,明月照長安。"百升,斛也。又言:"高山不推自崩,槲木不扶自舉。"令諜人多傳此文,遺之於鄴。祖孝徵既聞,更潤色之,明月卒以此誅。建德之後,武帝志在平齊,孝寬乃上疏陳三策。其第一策曰:"臣在邊積年,頗見間隙,不因際會,難以成功。今大軍若出軹關,方軌而進,兼與陳氏共為掎角。並令廣州義旅出自三鵶,又募山南驍銳沿河而下,復遣北山稽胡絕其並、晉之路。凡此諸軍,仍令各募關、河之外勁勇之士,厚其爵賞,使為前驅。岳動川移,雷駭電激,百道俱進,並趨虜庭。必當望旗奔潰,所向摧殄。一戎大定,實在此機。"其第二策曰:"若國家更為後圖,未即大舉,宜與陳人分其兵勢。三鵶以北,萬春以南,廣事屯田,預為貯積。募其勇悍,立為部伍。彼既東南有敵,戎馬相持,我出奇兵,破其疆場。彼若興師赴援,我則堅壁清野,待其去遠,還復出師。常以邊外之軍,引其腹心之眾。我無宿舂之費,彼有奔命之勞。一二年中,必自離散。乘間電掃,事等摧枯。"其第三策曰:"昔句踐亡吳,尚期十載;武王取亂,猶煩再舉。若今更存遵養,且復相時,臣謂宜還崇鄰好,申其盟約,安人和眾,通商惠工,蓄銳養威,觀釁而動。斯則長策遠馭,坐自兼併也。"書奏,武帝遣淮南公元衛、開府伊婁謙等重幣聘齊。爾後遂大舉,再駕而定山東,卒如孝寬之策。孝寬每以年迫懸車,屢請致仕。帝以海內未平,優詔弗許。帝東伐,過幸玉壁,觀禦敵之所,深嘆美之,移時乃去。孝寬自以習練齊人虛實,請為先驅。帝以玉壁要衝,非孝寬無以鎮之,乃不許。及趙王招率兵出稽胡,與大軍掎角,乃敕孝寬為行軍總管,圍守華谷以應接之。孝寬克其四城。武帝平晉州,復令孝寬還舊鎮。及帝凱還,復幸玉壁,從容謂孝寬曰:"世稱老人多智,善為軍謀。然朕惟共少年,一舉平賊。公以謂如何?"孝寬對曰:"臣今衰耄,唯有誠心而已。然昔在少壯,亦曾輸力先朝,以定關右。"帝大笑曰:"實如公言。"乃請孝寬隨駕還京,進位上柱國。大業元年,為行軍元帥,徇地淮南,所在皆密送誠款。然彼五門,尤為險要,陳人若開塘放水,即津濟路絕。孝寬遽令分兵據守之。陳剌史吳文立果遣決堰,已無及。於是陳人退走,江北悉平。及宣帝崩,隋文帝輔政。時尉遲迥先為相州總管,詔孝寬代之。又以小司徒叱列長文為相州剌史,先令赴鄴。孝寬續進,至朝歌,迥遣其大都督賀蘭貴齎書候孝寬。留貴與語,以察之,疑其有變,遂稱疾徐行。又使人至相州求醫藥,密以伺之。既到湯陰,逢長文奔還。孝寬審知其狀,乃馳還。所經橋道,皆令毀撤,驛馬悉擁以自隨。又勸驛將曰:"蜀公將至,可多備肴酒芻粟以待之。"迥果遣儀同梁子康將數百騎追孝寬,驛司供設豐厚,所經之處,皆輒停留,由是不及。詔發關中兵,以孝寬為元帥東伐。軍次河陽。迥所置儀同薛公禮等圍逼懷州,孝寬遣兵擊破之。進次懷縣永橋城之東南。其城既在要衝,雉堞牢固,迥已遣兵據之。諸將皆曰:"此城當路,請先攻取。"孝寬曰:"城小而固,若攻而不拔,損我軍威。令破其大軍,此亦何能為也。"於是引軍次於武陟,入破迥子敦,敦輕騎奔鄴。軍次於鄴西門豹祠之南。迥自出戰,又破之。迥窮迫自殺。關東悉平,凱還京,薨。孝寬在邊多載,屢抗強敵。所有經略,布置之初,人莫之解。見其成事,方乃驚服。

孫子曰:"親而離之。"孝寬詐為手書而間段琛,偽作謠言而誅明月。又曰:"守而必固。"孝寬守玉壁而高歡不能拔。又曰:"因間者,因其鄉人而用之。"孝寬以金貨啖齊人而知其動靜。又曰:"動如雷震。"孝寬謂雷駭電激,所向摧殄。又曰:"佚而勞之。"孝寬欲使齊人有奔命之勞。又曰:"城有所不攻。"孝寬不攻永橋是也。
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