清史紀事本末ジュンガル・チベットの兵事(準噶爾及西蔵之兵事)
要約
康熙二十九年六月、準噶爾部の噶爾丹が辺を侵し、詔して親征した。天山北の四衛拉特は明の瓦剌で、四部に分かれていた。西蔵でラマの噶爾丹は兄僧格が弑されるや帰って仇を討ち、準噶爾汗に立ち四部を兼ね、天山南北と青海を統一し、喀爾喀三汗の内訌に乗じ撃ち走らせた。奔り来た部衆に帝は科爾沁の地を貸したが、噶爾丹は喀爾喀を追うと称して烏珠穆沁に侵入し、阿喇尼は烏爾会山で襲って退いた。
七月、裕親王福全を撫遠大将軍、胤禔を副として古北口から出し、帝も塞外で誓師した。噶爾丹は烏蘭布通に至ったが、八月、福全らの激戦に死傷多く夜に遁れ、ラマ済隆の乞和で追撃は及ばなかった。
三十四年十一月、再び親征を議し、薩布素を東路、費揚古を西路、帝は中路に出た。三十五年三月、砂磧に大砲を留めて進み、五月、瀚海を渡ったが両軍は至らず、班師を請うた伊桑阿を許さず兌魯倫河に趨った。噶爾丹は軍容に驚いて夜に遁れ、追ったが及ばなかった。
噶爾丹は昭莫多で費揚古の西路軍に遇い、偽り敗れた前鋒に誘われ奇兵に輜重を襲われて潰え、可敦の阿弩も砲で死に、数十騎で遁れた。帝は費揚古を漠北に留め、使者に七十日を限って降を促し、糧が尽きても追うと誓った。
三十六年二月、三たび親征して昌平州に次した。噶爾丹の伊犁は兄の子策妄阿喇布坦に併呑され、回部・青海も叛いた。三月、寧夏に次し、哈密で糧を徴した子塞卜騰巴爾珠爾は回人に捕えられ献ぜられた。噶爾丹は伊犁に帰れば策妄に献ぜられると恐れ、西蔵への道も留屯軍に絶たれ、閏三月、薬を飲んで死んだ。
四十五年十二月、西蔵の拉蔵汗が偽のダライを捕らえ京に送った。西蔵は唐の吐蕃、元の世祖はラマ八斯巴を法王とし、永楽初め宗喀巴の興した黄教のダライ・パンチェン両ラマが宗主となり、呼畢爾罕に転世するとされた。ダライ五世が二十一年に脱緇すると、第巴の桑結は喪を秘し矯命し、蔵で厚遇した噶爾丹を諸汗と仇殺させ、済隆に南侵をそそのかさせ烏蘭布通の追撃を遅らせ、三十三年には土伯特王に封ぜられた。帝は手詔で責めたが、桑結は転生を秘す事情を密奏して免れた。四十四年、桑結は嗣立した拉蔵汗を除こうとして討ち誅され、偽ダライは廃されて伊西堅錯が六世に立ち、拉蔵は翼法恭順汗に冊封された。
五十四年四月、策妄阿喇布坦が哈密を侵掠したので富寧安を遣わした。噶爾丹討伐の功で阿爾泰以西を遊牧地とされた策妄は、青海の諸モンゴルが拉蔵汗の立てた六世を偽とし噶爾蔵堅錯を奉じ争うのに乗じ、蔵を襲う牽制に哈密北境を擄掠した。八月、富寧安は糧運の難に屯田を興し進兵の停止を請うた。帝は侍衛阿斉関らに噶斯湖の畔を屯させ、青海からの道を断たせた。五十六年、富寧安に靖逆、傅爾丹に振武の将軍を授けた。七月、策凌敦多布が蔵に侵入し、拉蔵汗は六十日相持したが兵少なく退き、十月、内応で準兵は拉蔵汗を殺し六世を幽閉した。
五十七年二月、額倫特・色楞らに西寧から蔵を援けさせ、傅爾丹の伊犁進討は停めた。九月、哈喇烏蘇の額倫特らは偽り退く敵に河を渡らされ糧道を断たれ覆没した。十月、胤禵を撫遠大将軍として西寧に駐め年羹堯を四川総督とした。廷臣は進兵を諫めたが、土伯特の人々が新ダライの護送を請うので許した。五十九年正月、西寧の軍は延信、四川の軍は噶爾弼に属させた。二月、噶爾蔵堅錯を六世ダライラマに冊封した。八月、延信は当拉嶺を越えて策凌敦多布を三たび破り、噶爾弼はラサに入って乱を助けたラマを誅し、伊犁に還り得た敵は半に満たなかった。九月、新ダライが蔵に入り西蔵は平定され、モンゴル兵二千を留め、康済鼐・頗羅鼐に前蔵・後蔵を分掌させ、駐蔵大臣を設けて、はじめて中国の属土となった。
年表
厄魯特モンゴルの準噶爾部と西蔵をめぐる清の兵事を記す。康熙二十九年(1690年)から康熙五十九年(1720年)までの約三十年間を扱う。準噶爾汗ガルダンが天山南北を統一して喀爾喀を追い東侵すると、聖祖は三たび親征し、烏蘭布通・昭莫多の戦いを経てガルダンは康熙三十六年に自殺した。西蔵では第巴桑結がダライ五世の死を秘してガルダンを操ったが拉蔵汗に誅され、のち策妄阿喇布坦の将策凌敦多布が蔵に侵入して拉蔵汗を殺した。清は延信・噶爾弼の二軍を分け進めて準の兵を駆逐し、新ダライを入蔵させ、駐蔵大臣を置いて西蔵を属土とした。
年表(9件)
- 西暦1690年 聖祖康熙二十九年ガルダンが東侵し、福全らが烏蘭布通で激戦するも夜に遁走される
- 西暦1695年 聖祖康熙三十四年三路から挟撃する準噶爾親征を議し、薩布素・費揚古らに出兵を命じる
- 西暦1696年 聖祖康熙三十五年帝が瀚海を越えて迫り、費揚古が昭莫多でガルダン軍を大破する
- 西暦1697年 聖祖康熙三十六年ガルダンが窮迫して薬を飲み自殺する
- 西暦1706年 聖祖康熙四十五年拉蔵汗が桑結を誅し、偽のダライを捕らえて京に送る
- 西暦1715年 聖祖康熙五十四年策妄阿喇布坦が哈密を侵掠し、富寧安らに出兵を命じる
- 西暦1717年 聖祖康熙五十六年策凌敦多布が西蔵に侵入し、招城を陥れて拉蔵汗を殺す
- 西暦1718年 聖祖康熙五十七年額倫特・色楞の軍が哈喇烏蘇で糧道を断たれ全軍覆没する
- 西暦1720年 聖祖康熙五十九年延信・噶爾弼の二軍が蔵に入り、新ダライを立てて西蔵を平定する
現代語訳全文
西暦1690年 聖祖康熙二十九年
- 夏六月、準噶爾部のガルダン(噶爾丹)が辺を侵したので、詔を下して親征した。ガルダンは厄魯特モンゴル人である。厄魯特の地は天山の北にあり、もと元代の牧場で、四衛拉特と称した。訳せば四大部の意である。元が衰えると、その臣の猛可帖木児が拠って部落とし、明の時には極めて強盛であった。衛拉特の音が転じて訛って瓦剌となり、これを瓦剌といった。その汗の也先が死んでから、その勢いは中ごろ衰え、その地は四部に分かれた。一を和碩特といい、烏魯木斉付近に居る。一を準噶爾といい、伊犁に居る。一を杜爾伯特といい、厄爾斉斯河の流域に居る。一を土爾扈特といい、塔爾巴哈台の付近にある。これらの部を厄魯特モンゴルという。
- ガルダンは準噶爾の部長である僧格の同母弟であった。僧格はその異母兄の車臣および卓特巴巴図に弑された。ガルダンはそのとき西蔵にあってラマとなっていたが、帰って車臣・卓特巴巴図らを討ち殺し、そのままみずから準噶爾汗に立ち、四部を兼ね有し、さらに兵を引いて南路カシュガル(喀什噶爾)の内乱を平定してその領地を有した。こうしてガルダンは天山の南北および科布多・青海などの地を統一した。
- さらに東のかた喀爾喀を併せようとした。ちょうど喀爾喀の汗である土謝図・車臣・扎薩克図らが仲違いから内訌を起こし、ガルダンは兵を引いてその地に入り、ことごとくこれを撃って走らせた。三汗の部衆数十万は、みな奔り来た。帝は科爾沁の水草の地を貸し与えて遊牧させた。ここに至ってガルダンは喀爾喀を追うことを名目に、精鋭をあげて東に侵し、索岳爾済山付近の烏珠穆沁部にまで侵入した。そのとき尚書の阿喇尼が烏爾会山に駐軍しており、モンゴル兵と合わせてこれを襲撃したが、戦い利あらずして退いた。
- 秋七月、準の兵が烏珠穆沁の境に深く入り、裕親王福全を撫遠大将軍とし、皇長子胤禔をその副として、古北口から出し、阿爾尼を召して配下を率いて福全の軍に会させ、また盛京・吉林および科爾沁の兵を調えて助戦させた。帝はさらにみずから塞外に赴いて誓師した。常寧の軍(原文「長寧軍」は「常寧」の誤りか)は烏珠穆沁の境で敵に遇い、戦いはやはり利あらず、ガルダンは勝ちに乗じて西喇木倫河を渡り、烏蘭布通に至った。京師を去ることわずかに七百里であった。そのとき福全の軍は烏蘭布通の三十里の外に屯しており、詔して常寧に兵を引いてこれに会させた。
- 八月、福全らはガルダンと烏蘭布通で激戦し、敵軍の死傷は甚だ多く、ガルダンは夜に乗じて遁れた。翌日、ダライの使者であるラマ済隆が軍前に詣で、代わって和を乞い、追撃の軍を緩めさせた。六日を経て福全は悟り、はじめて軽騎を発して追ったが、すでに及ばず、そこで班師した。
西暦1695年 聖祖康熙三十四年
- 冬十一月、ふたたび準噶爾の親征を議し、将軍薩布素に満洲の軍を率いて科爾沁の部隊と会してその東から出させ、大将軍費揚古は帰化城に馳せ赴き、陝西・甘粛の兵を調えて寧夏から出し、翁金河からその西に出させた。帝はみずから禁軍を率いて独石口から出て中路とし、期日を定めて挟み撃つこととした。
西暦1696年 聖祖康熙三十五年
- 春三月、帝は中路の軍を率いて辺を出た。砂磧は車に適さないので、大砲を留め、子母砲を馱わせて進んだ。
- 夏五月、帝は瀚海を渡り、敵境に近く迫った。そのとき東西の両軍は道が阻まれて至らず、またロシアが助戦するという説が伝えられ、大学士伊桑阿が力を尽くして班師を請うた。帝は怒って許さず、兵を率いて疾く兌魯倫河に趨り、使者を遣わしてガルダンに諭させた。ガルダンは帝が至るとは思わず、大将軍が自分を欺いたのだと考えたが、高きに登って軍容を望み見ると大いに驚き、営を抜いて夜に遁れた(「霄」は「宵」の誤りか)。帝が河に至ったときには、北岸にはもはや敵の踪跡が無かった。河に沿って追い、三日して托拉山に至ったが、及ばずに返った。
- ガルダンは遁れて土拉河上流東岸の昭莫多に至り、西路の軍に遇った。費揚古らは陣を列ねて待ち、前鋒営を遣わして偽り敗れて敵を誘い至らせ、両軍は激戦して、日中から日暮れまで決しなかった。費揚古は奇兵を敵陣の後ろに出し、その輜重を襲うと、敵ははじめて潰えた。その可敦の阿弩は砲に当たって死んだ。可敦とは、準噶爾部でその汗の妃を称する語である。すらりとして色白く、よく戦ったが、ここに至って彼女もまた砲で死んだ。ガルダンは数十騎で遁れ去った。
- 西路軍の捷報が至ると、帝は費揚古に漠北の防備に留まるよう命じ、陝甘の軍を凱旋させ、みずから察罕托拉山および昭莫多の山に銘を撰して還った。
- そのとき糧が尽きたので引き返そうとしたが、敵に襲われることを恐れた。ちょうどガルダンの使者である格畳沽英が軍中(原文「軍人」は「軍中」の誤りか)におり、帝はこれを帰し、語って言った。「帰って汝の主に告げよ。速やかに来たり降れ。七十日を限って返報せよ。期を過ぎれば、朕はただちに兵を進める。」語がここに至ったとき、包衣の人である違都虎が進み出て言った。「軍用の米はまさに尽きようとしております。」帝は怒って言った。「違都虎は軍心を揺り惑わすものだ、斬ってよい。糧が尽きても、朕は必ず雪を噛んで追い詰める。誓って師を返さぬ。」諸軍はみな解しかねた。格畳沽英を帰したのち、人を随わせて二十里の外まで出させ、そこで班師を伝令すると、衆ははじめて大いに喜んだ。
西暦1697年 聖祖康熙三十六年
- 春二月、準噶爾を親征し、軍は昌平州に次した。そのときガルダンの伊犁の根拠地は、その兄の僧格の子である策妄阿喇布坦に併呑され、回部・青海もまた相次いで叛き去り、属する部衆は千人にも足らず、みな老いて弱く、困窮は日々甚だしかった。
- 三月、帝は寧夏に次した。そのときガルダンは子の塞卜騰巴爾珠爾を遣わして哈密で糧を徴発させたが、回人がこれを捕らえて献じてきた。
- 閏三月、ガルダンが薬を飲んで死んだ。ガルダンの左右の親信は相率いて引き去り、軍門に款を納めて嚮導をつとめることを請う者もあった。ガルダンは伊犁に帰ろうとしたが、策妄阿喇布坦が功を貪って自分を擒え献ずることを慮り、西蔵に身を投じようとしたが、西路の留屯軍がすでにその通路を絶っていた。窮してほかに術も無く、ついに自殺した。
西暦1706年 聖祖康熙四十五年
- 冬十二月、西蔵の拉蔵汗が偽のダライラマを捕らえて京に送った。
- 西蔵は古の三危の地で、その種族を唐古特族といい、また土伯特とも称する。すなわち唐の時の吐蕃である。貞観年間に、印度から僧侶を迎えて国都のラサ(拉薩)に入れ、布教させた。僧侶はラマと称し、王室の保護を受け、特権があった。元の世祖の時、ラマの八斯巴という者に道術があり、世祖はその信仰を表そうとして尊んで国師とし、法王に封じ、蔵の地を領させ、後蔵の扎倫布の付近に居らせた。明代はことに礼敬を加えた。その法王の衣冠はみな赤い。永楽の初めに宗喀巴というラマが出て、宗教改革を自任し、別に新派を創め、みずから黄衣・黄冠を服したので、これを黄教といい、旧教のラマを紅教と名づけた。黄教は前蔵に盛んに行われ、その勢力は法王に劣らなかった。宗喀巴が入寂したのち、その徒は二人、一をダライラマ、一をパンチェンラマ(班禅喇嘛)といい、ともにラサに居って、黄教の宗主となった。その教は妻を娶ることを禁じ、その嗣続の法では、ダライ・パンチェンの両ラマは死なず、ただ呼畢爾罕となるという。訳せば転世の意である。
- ダライの一世を敦根珠巴、二世を敦根堅錯、三世を鎖南堅錯、四世を雲丹堅錯という。五世の羅卜蔵堅錯は順治九年に来朝し、世祖は封じて西天自在大善仏とした。康熙二十一年に脱緇した。その第巴である桑結は、秘して喪を発せず、一切を矯命して行った。
- ガルダンが蔵にいたとき、桑結から厚い待遇を受けたので、準噶爾に君臨してのちは、あらゆることでその指図に従った。桑結は策を構えて、彼を和碩特・カシュガル・喀爾喀の諸汗と仇殺させた。喀什喀の三汗が内附すると、帝はダライに命じて使者を遣わしガルダンに兵を罷めるよう諭させたが、桑結はひそかに遣わしたラマ済隆に言い含め、陰にガルダンをそそのかして南に侵させた。ガルダンが烏蘭布通で敗れ、身も危うくなると、済隆はまた偽って講和を図り、追撃の軍を遅らせた。三十三年にはまたダライの名を借りて、自分のために封を乞い、詔して土伯特王に封ぜられた。桑結はそこで中国は欺けるものと考え、ガルダンをそそのかして侵入させた。三十五年、策妄阿喇布坦が詔を奉じてガルダンの捕縛に協力しようとすると、桑結はまた人を遣わして途中で待ち受けさせ(底本は「要諸逮」に作る。「逮」は「塗(途)」の誤りか)、その出師を阻み、またひそかに青海の諸部に戦備を整えさせた。ガルダンが窮迫して自殺すると、その気勢ははじめて沮喪した。
- 帝は烏蘭布通の役で準噶爾の潰兵を捕らえて訊問し、つぶさにその実情を得て、手詔で桑結を厳しく責め、あわせて済隆を捕らえて献ずるよう命じた。桑結は使者を遣わして誠を輸し、密奏して言った。「ダライ五世が歿してすでに十六年、いま転生してまた十五年になります。今年十月をもって内外に宣告いたしますので、しばらくは秘しておくことをお許しください。」また、済隆は中国に罪を得たので、すでに喀木へ流し(追放し)、その家に蔵するものは籍没した、追ってこれを京師に送り献ずる、と言った。
- そのとき帝はその勢力を利用してモンゴル・チベットと歓を結ぼうとしていたので、その陳情によってこれを置いた。四十四年に至って、桑結は、和碩特部の達延汗の孫である拉蔵汗がラサで嗣立したので、彼が蔵の事に干渉することを恐れ、暗殺を謀ったが成らず、さらに兵力で逐おうとした。拉蔵汗は衆を集めてこれを討ち誅し、桑結の立てた偽のダライを廃することを奏し、新たにダライ伊西堅錯を立てて六世とし、あわせて桑結がそれまでに中国を欺いた種々の罪状を暴いた。帝は護軍統領席桂、学士舒蘭を使者としてラサに赴かせ、拉蔵を翼法恭順汗に冊封し、蔵の地を鎮守させ、偽のダライを捕らえて京に送らせるよう命じた。ここに至って人を遣わし、護送して来た。
西暦1715年 聖祖康熙五十四年
- 夏四月、準噶爾部の策妄阿喇布坦が哈密を侵掠した。富寧安に命じて兵を帯びて前往させ、また外藩の兵を徴して帰化城に集め、右衛将軍費揚固に軍務を総理させた。
- 初め、策妄阿喇布坦はガルダン討伐を助けて功があり、帝は阿爾泰山以西から伊犁に至るまでをことごとく指し示して遊牧させ(「游收」は「游牧」の誤りか)、ふたたび西域の一大部落を成した。ちょうど拉蔵汗の新たに立てたダライ六世を、青海の諸モンゴルはみな偽物とみなし、みずから裏塘の噶爾蔵堅錯を真のダライと奉じ、迎えて青海に居らせ、冊印を賜わるよう請うた。帝は両部が争いを構えること(底本は「構𦦑」に作る。「𦦑」は「釁」の誤りか)を慮り、調停の計として、噶爾蔵堅錯にしばらく西寧城の西南の塔爾寺に居るよう告げたが、両部の争執はもとのままで、時に暗い潮流があった。策妄阿喇布坦はこの時機に乗じて西蔵を襲うことを謀った。しかしこのとき拉蔵汗は桑結を誅討したことによって(底本は「誅討桑結蘇」に作る。「蘇」は衍字か)中国政府の保護を得ていたので、策妄阿喇布坦は蔵地を侵略しようとしても、中国の兵がその後ろを衝くことを恐れ(「議」は「躡」の誤りか)、ここに至って兵を引いて哈密の北境に出、大いに擄掠を行って牽制を図った。
- 秋八月、富寧安の兵が巴里坤に至ったが、道路が険しく遠く、糧の運送が困難なので、哈密付近一帯の地方で兵を募って屯田を興し、念を入れて耕作させ、翌年はしばらく進兵を停めることを奏請した。可と報じた。そのとき帝はまた、準の兵が柴達木の草地を道として青海から蔵に入ることを慮り、侍衛の阿斉関らに青海の諸台吉を督させ、それぞれ兵を選んで噶斯湖の畔に屯させてその通路を断たせ、あわせて拉蔵汗(原文「拉薩汗」は「拉蔵汗」の誤りか)に戒厳して待つよう敕した。
西暦1717年 聖祖康熙五十六年
- 春三月、富寧安に靖逆将軍を授けて巴爾坤から出し、傅爾丹を振武将軍として阿爾泰山から出し、策妄阿喇布坦の動静をうかがい、機に応じて兵を進めさせた。
- 秋七月、策妄阿喇布坦は将の策凌敦多布を遣わし、兵を引いて西蔵を侵掠させた。納克禅の辺内の木宝部から、まもなく蔵に入り、浄科爾庭山の要隘を占拠した。拉蔵汗はその子の蘇爾札と兵を領して達穆河の付近で迎え戦い、殺し捕らえた者は甚だ多かった。六十日相持したが、拉蔵汗は兵が少なくて敵しがたく、退いて招中を保った。
- 冬十月、準の兵が招城を陥れた。これより先、準噶爾人の嚗隆沙克都爾扎布という者がラサに仕え、拉蔵汗は彼に小招を守らせていたが、ここに至ってふたたび叛いて準に帰し、小招をもって降った。台吉那木扎爾はそのとき布達拉の北城を守っていたが、これも城を開いて降った。準の兵は城に入って拉蔵汗を殺し、蘇爾扎を捕らえ、新しいダライ六世を扎布里廟の中に幽閉した。蔵中は大いに乱れた。
西暦1718年 聖祖康熙五十七年
- 春二月、西安将軍額倫特、侍衛色楞、学士査礼渾らに詔して、満・蒙・漢の各軍を督し、前後して西寧から青海に出て、西蔵を援けに行かせた。まもなく傅爾丹の奏が至り、兵を分けて伊犁を進み討つことを請うた。帝は手詔で答え、おおよそ次のように言った。「両路から進み討つのはもとより善いが、聞くところでは昨年、策妄阿喇布坦が策凌敦多布を蔵に入らせたとき、拉蔵を剿滅したらそのまま蔵に駐箚し、彼が自ら西蔵に至るのを待って、あらためて危蔵・巴爾喀木の地を攻め取りに行け、と令したという」云々。「いま拉蔵が戦没したとの知らせが伝えられている。策妄阿喇布坦が果たして西蔵へ行くのなら、我が兵が伊犁に至っても無益である。さきに色楞に軍兵を統帥して西蔵を攻めに行かせた。伊犁の巣穴は、本年はしばらく追剿を停めてよい。」
- 秋九月、これより先、額倫特らは兵を統べて哈喇烏蘇に至り、敵軍と遇った。敵は兵を分けて迎え戦い、偽って敗れてしきりに退き、精兵を河の北に伏せて待った。全軍が河を渡ると、敵は兵の丰(「半」の誤りか)をもって河に拠り、その前を拒み、兵はひそかにその後ろに出て、糧道を断った。一月余り相持し、ここに至って食は尽き矢は竭き、全軍が覆没した。
- 冬十月、皇十四子胤禵を撫遠大将軍とし、西寧に駐軍させ、四川巡撫の年羹堯を総督に改めて、成都で兵を備えさせ、翌年に道を分けて蔵に入ることを期した。そのとき廷臣は前の敗北に懲りて、みな蔵の地は遠く険しく、兵を進めるべきでないと言ったので、出発を停止した。ちょうど土伯特の人々が西寧の新ダライを真の呼畢爾罕と承認し、連名で中国に兵を派して蔵まで護送するよう請うてきた。詔してこれを許した。
西暦1720年 聖祖康熙五十九年
- 春正月、胤禵に詔して穆魯斯烏蘇に駐まって糧餉を治めさせ、西寧の軍は平逆将軍の宗室延信に属させて青海から出し、また四川の地方は緊要で年羹堯を軽々しく離せないので、改めて噶爾弼に定西将軍を授け、四川の兵を統べて打箭炉から出し、道を分けて蔵に入らせた。
- 二月、新ダライの噶爾蔵堅錯を宏法覚衆第六世ダライラマに冊封し、満・漢の兵および青海の兵(原文「清海」は「青海」の誤りか)を派して西蔵へ送らせ、モンゴルの諸部もまたそれぞれ配下を率いて西寧の軍に従い、新ダライを扈衛して進んだ。
- 秋八月、延信は兵を率いて当拉嶺を越え、卜克河に駐軍した。策凌多布(「策凌敦多布」の脱字か)は土拉池の付近で拒ぎ戦ったが、三たび戦って三たび敗れた。この月、噶爾弼の軍は拉里を越えて西へ進み、黒朱工からラサに入り、大小の第巴を召集して徳意を宣布し、乱を助けたラマ五人を誅し、九十余人を幽閉した。策凌敦多布は進むも退くも敵を受け、あえて蔵に帰ることができず、騰格里湖の北から逃げ、道は険しく凍え飢えて、生きて伊犁に還り得た者は半数に満たなかった。
- 九月、新ダライが蔵に入り、噶爾弼は拉蔵の立てたダライを取って京師に帰した。西蔵は平定された。モンゴル兵二千を留めてその地を鎮守させ、拉蔵の旧臣である貝子康済鼐と台吉頗羅鼐に前蔵・後蔵の政を分掌させ、かりに駐蔵大臣を設けてこれを監督させた。これより西蔵ははじめて確かに中国の属土となった。
原文(底本)
聖祖康熙二十九年,夏六月,以準噶爾部噶爾丹犯邊,下詔親征。噶爾丹,厄魯特蒙古人。厄魯特地在天山北,故元代牧場,稱爲四衛拉特,譯言四大部也。元衰,其臣猛可帖木兒據爲部落,明時極強盛,由衛拉特音轉而訛爲瓦剌,謂之瓦剌。自其汗也先死,其勢中衰,其地分爲四部,一曰和碩特,居烏魯木齊附近;一曰準噶爾,居伊犁;一曰杜爾伯特,居厄爾齊斯河域;一曰土爾扈特,塔爾巴哈台附近,部謂之厄魯特蒙古。噶爾丹爲準噶爾部長僧格同母弟,僧格爲其異母兄車臣及卓特巴巴圖所弒。噶爾丹時在西藏爲喇嘛,歸而討殺車臣、卓特巴巴圖等,遂自立爲準噶爾汗,兼有四部,復引兵平定南路喀什噶爾內亂,而有其領地,於是噶爾丹統一天山南北及科布多、青海等地。又欲東併喀爾喀,適喀爾喀汗土謝圖、車臣、扎薩克圖等因隙內訌,噶爾丹引兵入其地,悉擊走之。三汗部衆數十萬,皆來奔。帝假科爾沁水草地,使遊牧,至是噶爾丹以追逐喀爾喀爲名,悉銳東犯,侵及索岳爾濟山附近之烏珠穆沁部。時尚書阿喇尼駐軍烏爾會山,合蒙古兵襲擊之,戰不利而退。 秋七月,準兵深入烏珠穆沁境,命裕親王福全爲撫遠大將軍,皇長子胤禔副之,出古北口,召阿爾尼帥所部會福全軍,又調盛京、吉林及科爾沁兵助戰,帝復親往塞外誓師。長寧軍遇敵烏珠穆沁境,戰亦不利,噶爾丹遂乘勝渡西喇木倫河,至烏蘭布通,去京師僅七百里。時福全軍屯烏蘭布通三十里外,詔常寧引兵會之。 八月,福全等與噶爾丹激戰於烏蘭布通,敵軍死傷甚衆,噶爾丹乘夜遁。翌日,達賴使者喇嘛濟隆詣軍前,代爲乞和以緩追師,閱六日,福全悟,始發輕騎追之,已不及矣,乃班師。 三十四年,冬十一月,復議親征準噶爾,令將軍薩布素引滿洲軍會科爾沁所部出其東,大將軍費揚古馳赴歸化城,調陝甘兵出寧夏,自翁金河出其西。帝自將禁軍出獨石口爲中路,剋期夾攻。 三十五年,春三月,帝帥中路軍出邊,以沙磧不宜車,乃留大礮,馱子母礮而行。 夏五月,帝渡瀚海,近偪敵境。時東西兩軍以道阻未至,復傳言俄羅斯有助戰之說,大學士伊桑阿力請班師。帝怒不許,帥兵疾趨兌魯倫河,遣使往諭噶爾丹。噶爾丹不虞帝至,以爲大將軍誑我,及登高,望見軍容,大驚,拔營霄遁,比帝至河,北岸已無敵人踪跡矣。循河追之,三日,至托拉山,不及而返。噶爾丹遁至土拉河上流東岸之昭莫多,遇西路軍。費揚古等列陣以待,遣前鋒營佯敗以誘敵至,兩軍激戰,自日中至暮,不決。費揚古以奇兵出敵陣後,襲其輜重,敵始潰,其可敦阿弩斃於礮。可敦者,準噶爾部稱其汗之妃也,頎晳敢戰,至是亦斃於礮。噶爾丹以數十騎遁去。西路軍捷奏至,帝命費揚古留防漠北,遣陝甘軍凱旋,而親撰銘察罕托拉山及昭莫多之山而還。時因糧盡,欲引還,恐爲敵所襲。適噶爾丹使人格疊沽英在軍人,帝遣之還,語之曰:『歸語而主,速來降,限七十日還報,踰期,朕即進兵!』語至此,包衣人違都虎進曰:『軍用米將盡矣!』帝怒曰:『違都虎搖惑軍心,可斬也!糧雖盡,朕必嚙雪窮追,誓不回師!』諸軍皆不喻。既遣格疊沽英,使人隨之出二十里外,乃傳令班師,眾始大悅。 三十六年,春二月,親征準噶爾,師次昌平州。時噶爾丹之伊犁根據地爲其兄僧格子策妄阿喇布坦所併,回部青海亦相繼叛去,所屬部眾不及千人,皆老羸,窮蹙日甚。 三月,帝次寧夏,時噶爾丹遣子塞卜騰巴爾珠爾徵糧哈密,回人執以來獻。 閏三月,噶爾丹飲藥死,噶爾丹左右親信相帥引去。有納欵軍門請爲嚮導者,噶爾丹欲返伊犁,慮策妄阿喇布坦貪功,擒獻,投西藏,則西路留屯軍,已絕其通路,窮無復之,遂自殺。 四十五年,冬十二月,西藏拉藏汗執送假達賴喇嘛入京。西藏,古三危地,其種人曰唐古特族,亦稱土伯特,即唐時之吐蕃也。在貞觀中,自印度迎僧侶入國都拉薩布教。僧侶稱喇嘛,受王室保護,有特權。元世祖時,喇嘛八斯巴者有道術,世祖欲表示其信仰,尊爲國師,封法王,使領藏地,居後藏扎倫布附近,明代尤敬禮有加。其法王衣冠皆赤,永樂初有宗喀巴喇嘛者出,以宗教改革自任,別剏新派,自服黃衣黃冠,謂之黃教,而名舊教喇嘛曰紅教。黃教盛行於前藏,其勢力不亞於法王。宗喀巴圓寂後,其徒二,一曰達賴喇嘛,一曰班禪喇嘛,並居拉薩,爲黃教宗主。其教禁娶妻,其嗣續法謂達賴、班禪兩喇嘛不死,惟爲呼畢爾罕,譯言轉世也。達賴一世曰敦根珠巴,二世曰敦根堅錯,三世曰鎖南堅錯,四世曰雲丹堅錯,至五世羅卜藏堅錯於順治九年來朝,世祖封爲西天自在大善佛,康熙二十一年脫緇(藏言死也) ,其第巴(藏言政務官也)桑結祕不發喪,一切矯命行之。噶爾丹在藏時,頗受桑結優待,故君臨準噶爾後,凡百聽其驅策。桑結構使之與和碩特、喀什噶爾、喀爾喀諸汗相仇殺,及喀什喀三汗內附,帝命達賴遣使喻噶爾丹罷兵,桑結私囑所遣喇嘛濟隆,陰嗾噶爾丹南侵,及噶爾丹敗於烏蘭布通,身幾不免,濟隆又僞爲講欵,以遲追師。三十三年復假達賴名,爲己乞封,詔封爲土伯特王,而桑結遂以爲中國可欺,遂嗾令噶爾丹入犯。三十五年,策妄阿喇布坦奉詔協擒噶爾丹,桑結復使人要諸逮,阻其出師,又陰使青海諸部修戰備。會噶爾丹窮蹙自殺,其氣始沮。帝於烏蘭布通之役,擒訊準噶爾潰兵,具得其狀,手詔切責桑結,並令執濟隆以獻。而桑結遣使輸誠密奏,謂:『達賴五世歿已十六年,今轉生又十五年矣,當以今年十月宣告內外,乞暫爲祕之。』且言濟隆得罪中國,已竄諸喀木,並籍沒其家藏,當徐致之獻京師。時帝欲利用其勢力以結懽蒙藏,因其陳情而置之,至四十四年,桑結因和碩特部達延汗之孫拉藏汗嗣立于拉薩,恐其干涉藏事,謀暗殺之,不成,復欲以兵力逐之。拉藏汗乃集眾討誅之,因奏廢桑結所立假達賴,而新立達賴伊西堅錯爲六世,並揭發桑結以前詐欺中國種種罪狀。帝命護軍統領席桂、學士舒蘭爲使,往拉薩,冊封拉藏爲翼法恭順汗,使鎮守藏地,令掬執假達賴送京,至是遣人解至。 五十四年,夏四月,準噶爾部策妄阿喇布坦侵掠哈密。命富寧安帶兵前往,又徵外蕃兵集歸化城,以右衛將軍費揚固(費揚古弟)總理軍務。初,策妄阿喇布坦助勦噶爾丹有功,帝命盡阿爾泰山以西,至伊犁,指俾游收,復成西域一大部落。會拉藏汗新立之達賴六世,青海諸蒙古皆以爲假,自奉裏塘之噶爾藏堅錯爲真達賴,迎居青海,請賜冊印。帝慮兩部構𦦑,爲調停計,詒噶爾藏堅錯暫居西寧城西南之塔爾寺,而兩部之爭執如故,時有暗潮。策妄阿喇布坦乃乘此時機,以謀襲西藏。然是時拉藏汗方以誅討桑結蘇,得中國政府保護,策妄阿喇布坦欲侵略藏地,恐中國兵議其後,至是引兵出哈密北境,大肆擄掠,以圖牽制。 秋八月,富寧安兵至巴里坤,以道路險遠,糧運維艱,奏請於哈密附近一帶地方募兵興屯,加意耕種,明年暫停進兵。報可。時帝又慮準兵取道柴達木草地,自青海入藏,命侍衛阿齊關等督青海諸台吉同,各選兵屯噶斯湖畔,以斷其通路,並敕拉薩汗戒嚴以待。 五十六年,春三月,授富寧安靖逆將軍,出巴爾坤;傅爾丹振武將軍,出阿爾泰山,以窺策妄阿喇布坦之動靜,相機進兵。 秋七月,策妄阿喇布坦遣將策凌敦多布引兵侵掠西藏,納克禪邊內木寶部旋入藏,占據淨科爾庭山要隘,拉藏汗與其子蘇爾札領兵迎戰於達穆河附近,殺獲甚眾。相持六十日,拉藏汗以兵寡不敵,退保招中。 冬十月,準兵陷招城。先是有準噶爾人嚗隆沙克都爾扎布,仕於拉薩,拉藏汗使守小招,至是復叛歸準,以小招降。台吉那木扎爾時守布達拉之北城,亦開城降。準兵入城,殺拉藏汗,執蘇爾扎,幽新達賴六世於扎布⾥廟中,藏中大亂。 五十七年,春二月,詔西安將軍額倫特、侍衛色楞、學士查禮渾等,督滿、蒙、漢各軍,先後自西寧出青海,往援西藏。尋傅爾丹奏至,請分兵進勦伊犁,帝手詔答之,略謂:『兩路進勦固善,惟聞去歲策妄阿喇布坦遣策凌敦多布入藏時,曾有令其𠞽滅拉藏,即在藏駐紮,候其親至西藏再往攻取危藏巴爾喀木之地』等語。『現傳聞拉藏有戰沒之信,策妄阿喇布坦果往西藏,我兵即至伊犁亦屬無益,頃已令色楞統帥軍兵往攻西藏矣。伊犁巢穴,本年暫停追剿可也。』 秋九月,先是額倫特等統兵至哈喇烏蘇,與敵軍遇,敵分兵迎戰,陽敗屢卻,伏精兵於河北以待。比全軍渡河,敵以兵之丰据河。拒其前而兵潛出其後,截餉道,相持月餘,至是食盡矢竭,全軍覆沒。 冬十月,以皇十四子胤禵爲撫遠大將軍,駐師西寧,改四川巡撫年羹堯爲總督,備兵成都,期於明年分道入藏。時廷臣懲前敗,俱言藏地遠險,不宜進兵,遂停止出發,會諸土伯特人承認西寧之新達賴爲真呼畢爾罕,合詞來請中國派兵護送入藏。詔許之。 五十九年,春正月,詔胤禵駐穆魯斯烏蘇治餉,以西寧軍屬平逆將軍宗室延信,出青海;又以四川地方緊要,年羹堯未可輕離,改授噶爾弼爲定西將軍,統川兵出打箭爐,分道入藏。 二月,冊封新達賴噶爾藏堅錯爲宏法覺眾第六世達賴喇嘛,派滿漢兵及清海兵送往西藏,而蒙古諸部亦各帥所部隨西寧軍扈新達賴進征。 秋八月,延信帥兵度當拉嶺,駐軍卜克河,策凌多布拒戰於土拉池附近,三戰三北。是月,噶爾弼軍越拉⾥而西,自黑朱工入拉薩,召集大小第巴,宣布德意,誅喇嘛助亂者五人,幽九十餘人。策凌敦多布進退受敵,不敢歸藏,由騰格里湖北竄,崎嶇凍餒,得生還伊犁者不及半數矣。 九月,新達賴入藏,噶爾弼取拉藏所立達賴歸京師,西藏平定。留蒙古兵二千鎮守其地,而以拉藏舊臣貝子康濟鼐及台吉頗羅鼐分掌前後藏政,權設駐藏大臣以監之。自是西藏始確爲中國屬土矣!
訳文の誤りにお気づきの場合はお問い合わせからお知らせください。