清史紀事本末台湾、朱一貴の乱(台湾朱一貴之乱)
要約
康熙六十年四月、台湾の民朱一貴が乱を起こし、総兵官欧陽凱以下が戦死した。一貴は漳州長泰県の人で、轅役を免ぜられて鴨を飼っていた。知府王珍の税斂が苛酷で、結社や盗伐の者二百余人を捕らえ縁座で金品を求めたので、鳳山の民黄殿・李勇らが朱姓の一貴を明の後裔に仮託し、中興大元帥と称して岡山・溏汎を夜襲した。
欧陽凱は周応龍に兵四百と四社の土番を率いさせたが、応龍は進みが遅く、一貴が防汎を襲い把総を殺しても川一つ隔てて救わなかった。小岡山で一貴を山中へ走らせても追わず、土番は民家を焼いて死者数知れず、人心は憤って各郷が旗を立て、杜君英ら各地の徒が一貴と府治攻撃を約した。
君英は苗景龍を下淡水に殺し、救援の応龍は赤山で挟撃されて退き、陳元は戦死した。欧陽凱・劉得紫・許雲は千五百で春牛浦に営したが、夜の騒ぎに兵は四散して戦意無く、許雲の突撃に敵は大敗した。合攻のさなか鎮兵が内乱し、把総楊泰が内応して欧陽凱を刺殺し、劉得紫は捕らえられ、許雲・游崇功ら十余人は戦死し、張彦賢は澎湖に出、応龍は内地へ逃げた。
五月、台湾が陥ちた。北路でも諸羅が陥ちて参将羅万倉が戦死し、七日で全台湾が失われた。一貴らは紅毛楼を四十年ぶりに開いて砲・銃弾・硝黄を得、一貴は中興王と自称し永和元年と号し、封ぜられた千余人が優孟衣冠で道に輝いた。民間は「五月に永和と称し、六月には康熙に戻る」と歌い、婦女子までその滅亡を知っていた。
澎湖では将校が取り乱して厦門へ去ろうとしたが、右営守備の林亮が責めて家族を岸に上がらせ、人心を固めた。変を知った提督施世驃は厦門を出、総督覚羅満保は藍廷珍に水陸八千・船四百を統べさせて討たせた。
偽降した呉良から一貴と君英が争い人民も従わぬ内情を得た。廷珍は賊三十万を誅しきれぬとして首魁のみを問う布告を説き、世驃も濫殺を戒めた。先鋒の林亮・董芳は砲台の火薬を撃ち、鯤身を渡って蘇天威・鄭定瑞を破り、廷珍は安平鎮に入った。西港から水師五千五百を率いて夜に渡り、蘇厝田で敵を潰走させ、黎頭標では夜襲を予期して大破し、七日で府治を回復した。世驃は欧陽凱らを殺した楊泰・黄龍・陳碧をその子に引き渡して自ら処刑させ、惨たらしさは人の道理が無かった。閏六月、廷珍は南北二路を回復し、逃げた一貴を林卿らが溝尾荘で捕らえ、杜君英らとともに京師に送って磔にし、台湾は平定された。
年表
康熙六十年(1721年)、台湾で起きた朱一貴の乱の一部始終を記す。知府王珍の苛斂に耐えかねた鳳山県の黄殿・李勇らが、朱姓の鴨飼い朱一貴を明の後裔に仮託して奉じ、四月に挙兵した。周応龍の討伐は遅滞して土番の焼き討ちが人心を離し、杜君英らが各地で呼応して総兵官欧陽凱・許雲・游崇功らが戦死、わずか七日で全台湾が失われ、一貴は中興王と称して永和と改元した。六月、水師提督施世驃と南澳鎮総兵藍廷珍が渡海し、首魁のみを問う布告を掲げて安平鎮・府治を回復した。閏六月に南北二路も平らぎ、朱一貴・杜君英らは捕らえられて京師で磔にされた。
年表(1件)
- 西暦1721年 聖祖康熙六十年朱一貴が台湾で挙兵して府城を陥れるが、藍廷珍らに討たれ平定される
現代語訳全文
西暦1721年 聖祖康熙六十年
- 夏四月、台湾の民である朱一貴が乱を起こした。総兵官の欧陽凱、水師副将の許雲、南路参将の苗景龍、遊撃の劉得紫・遊崇功、千総の陳元らがこれに戦死した。
- 一貴は福建漳州府長泰県の人で、幼名を祖といい、康熙五十二年に台厦道の轅役(役所の下働き)に充てられたが、まもなく免職となり、母頂の草地に住んで鴨を飼って生計を立てていた。その鴨は朝夕に隊を組んで出入りしたので、愚かな民はこれを不思議がった。
- 当時は泰平の日が長く続き、土地を守る官は安楽に構えていた。知府の王珍は税歙(「歙」は「斂」の誤りか)が苛酷で、風聞をもとに、結社した者や無断で山の木を伐った者二百余人をみだりに捕らえた。縁座で人を引き込んでは金品を要求したので、民はその煩わしさに耐えられず、そこで鳳山県の民である黄殿・李勇・呉外・鄭定瑞らが反乱を謀った。一貴が朱姓であることから明喬(明裔の誤りか。明の後裔)に仮託できるとして、これを奉じて事を起こし、中興大元帥と称し、数百人を率いて夜に岡山・溏汎を襲った。
- 急報が府城に届くと、総兵官の欧陽凱は将校を集めて出兵を議した。中営遊撃の劉得紫が出撃を願い出たが許されず、右営遊撃の周応龍に、兵四百と新港・目加留湾・粛壠・麻豆の四社の土番(現地の先住民)を率いて向かわせた。応龍は体格が立派で議論も活発だったので、兵を主管する者はこれを重んじていた。
- この日は小雨で、応龍は兵と土番を率いて五里進んだだけで止まり、翌日にまた十五里進んだ。一貴はすでにその夜のうちに檳榔林を出て、防汎(守備の分屯所)を襲い、把総を殺し、武器を奪ったが、応龍は川一つを隔てて救援に行かなかった。一貴はそこで四方に出て略奪し、南路の民である杜君英らが起ってこれに呼応した。
- 応龍の兵が小岡山に至って敵に遭い、千総の陳元・把総の呉益らが力を尽くして急襲すると、一貴は敗れて山中へ走り込んだ。応龍は兵を止めて追わせず、ただ懸賞を出して討ち取らせる命令を伝えただけであった。土番は性質が兇悪残忍で、火を放って民家を焼き、死んだ民は数知れず、人心は激しく憤り、各郷が旗を立てて呼応した。
- こうして杜君英・陳福寿・劉国基は淡水で起ち、郭国正・翁義は草潭で起ち、載穆・江図論は下埤頭で起ち、林曹・杜騫・林璉は新園で起ち、王忠は小琉球で起ち、いずれも一貴と約束して府治(台湾府城)を攻めた。
- 君英は衆を合わせて南路参将の苗景龍を下淡水に襲い、景龍は敗れて死んだ。応龍は景を聞いて(底本は「聞景」に作る。「聞警」の誤りか、あるいは「景」の下に脱字があるか)救援に向かったが、一日に十五里しか進まず、翌日、赤山で敵に遭った。君英と一貴が二手から挟み撃ちにし、激戦のさなかに応龍はにわかに後隊を率いて退き、陳元は陣中で戦死した。呉益・周応・李碩らは傷を負って逃れ、応龍はついに府治に引き返し、一貴の大隊がこれに従って進み、府城の中は大いに動揺した。
- 欧陽凱・劉得紫・許雲は合わせて千五百の兵を率いて出て防ぎ、春牛浦に営を並べて待った。突然、軍中で夜の騒ぎが起こって鎮の兵は四散し、夜明けにようやく少し集まったが、人々に戦う気持ちはなかった。日を越して敵兵が大挙して至り、許雲は馬を躍らせて敵陣に突入し、敵は大敗した。
- このとき水師遊撃の游崇功が兵を率いて鹿耳門に入り救援に赴いたが、台厦道の梁文煊・知府の王珍らの家族を乗せた船に出会い、嘆いて言った、「官は兵と民の望みである。官の家族が逃げれば人心は散り、大事は去ってしまう」と。そして衆を指揮して春牛浦へ駆けつけた。
- 一貴と君英が隊を合わせて攻め寄せると、鎮の兵が突然内乱を起こした。把総の楊泰、あだ名を違家勇という者が内応し、欧陽凱を刺して馬から落として死なせ、劉得紫は捕らえられ、許雲・游崇功ら十余人はみな戦死した。水師遊撃の張彦賢らは兵千余人・船四十余艘を率い、船団を連ねて帆を揚げて(底本は「楊帆」に作る。「揚帆」の誤りか)澎湖へ出、応龍はまた逃げて内地(大陸)に帰り、文煊らは澎湖へ奔った。
- 五月、台湾が陥落し、朱一貴は台湾で僭号した。一貴が台湾府城に入ると、北路の賊である頼池・張岳らも同時に諸羅を陥れ、参将の羅万倉が戦死した。わずか七日で全台湾がことごとく失われた。
- 一貴らは官庫を開いた。紅毛楼というものがあり、もとオランダが台湾を占拠していたときに築いたもので、旧名を赤嵌城といい、のちに鄭氏がこれを武器弾薬の貯蔵に用い、四十年来これを開く者がなかったが、ここに至って開かれた。そこから大小の砲・銃弾・硝石と硫黄・銅鉄を数えきれぬほど得た。
- 一貴は中興王と自称し、年号を永和元年と号し、その一党を大いに封じた。国師・太師・公侯・都督・将軍・尚書・総兵以下千余人が、優孟衣冠(役者のまねごとの官服)をまとって道の上に輝いた。民間ではこれを歌にして、「頭には明朝の帽子をかぶり、身には清朝の衣を着る。五月に永和と称し、六月には康熙に戻る」といった。当時は婦女子でさえその必ず滅びることを知っていたのである。
- 六月、南澳鎮総兵の藍廷珍が台湾府を回復し、朱一貴は逃げた。
- これより先、台湾から逃げた官と難民が澎湖に着くと、澎湖協の将校たちは皆うろたえて取り乱し、一貴が一気に攻め寄せてくると思い、それぞれ家族を連れ出して船に乗せ、厦門へ逃げようとした。右守営備(「右営守備」の誤りか)の林亮が、主将に対して船に乗せた家族をそれぞれ呼び戻すよう求めたが、諸将はためらって決めなかった。林亮は剣に手をかけ、厳しい声で言った、「朝廷は海外の領土を我らに託している。いま刃に血を塗らぬうちに揃って捨てて去るとは、よいことか。兵を整え船を配して要害を守り、賊の来るのを待って一死を決して戦おう。戦って勝てなければ、諸公が帰るのもまだ遅くはない」と。そして岸辺へ駆け出し、主将の命令を伝え、偑刀(「偑」は「佩」の誤りか)を抜いて官と民の家族をそれぞれ岸に上がらせ、人心はようやく固まった。
- このとき水師提督の施世驃は厦門に駐屯していたが、難民の船が日ごとに非常に多く到着するのを見て、はじめて台湾の変事を知った。府城の文武の官は澎湖に逃げ、息をついて落ち着いてからようやく文書を作って厦門に報告し、世驃はその日のうちに軍を率いて港を出た。総督の覚羅満保は急ぎ馬を走らせて厦門に至り、南澳鎮総兵の藍廷珍に公文を送った。ちょうど廷珍から進兵の方策を箇条書きにした書状が届き、その議論はすべて満保の考えと一致したので、大いに喜んで言った、「わしがこの君を台湾平定に差し向けたのは、人を得たというものだ」と。
- そこで台湾に渡る水陸の兵八千・船四百艘を統率させ、提督と合流して兵を合わせ討伐に進ませた。軍が出発するとき、満保は自ら海辺に赴いて(底本は「迼」に作る。「詣」の誤りか)これを見送った。廷珍は意気盛んで、ゆったりと総督に語って言った、「草賊ごときは処置に手を煩わすに足りません。それがしがひとたび彼岸に上陸したら、大帥はすぐに平定を奏上してよろしいでしょう」と。
- 澎湖に着くと、ちょうど降将の呉良が一貴の命を受けて澎湖を奪おうと謀り、世驃の陣営の前に出向いて偽りの降伏をした。これを取り調べると一党の内情をすべて吐いたので、その一党が内輪もめしていることを知った。一貴と君英は互いに主導権を争い、攻め合おうと謀っており、人民も付き従っていなかった。
- 廷珍は世驃に言った、「賊どもはみな烏合の衆で、憂えるに足りません。ただ人数が三十万に達し、誅殺しきれません。しかも多く殺しても益はありません。首魁だけを討ち、その他は問わないと布告を掲げるべきです。そうすれば人々は生きる楽しみを持って死ぬ覚悟を持たなくなり、刃を血で汚さずに平定できましょう」と。世驃はこれを承知し、あわせて将兵に、上陸の日にみだりに殺してはならぬと戒めた。
- この日、澎湖から先鋒の林亮・董芳を発し、六隻の船で死を冒してまっすぐ進ませた。遠くに砲台を望むと火薬が積み上げてあり、もっぱら砲をそこに集めて撃ち、命中すると雷のように轟いて爆発し、砲台を守る者は数知れず死んだ。そして帆を揚げてまっすぐ鯤身を渡った。
- 敵将の蘇天威は退いて安平鎮を守り、城守の鄭定瑞とともに隊を並べて迎え撃った。林亮・董芳がまた先頭に立って敵陣に突入し、廷珍が大隊を率いてこれに続き、蘇天威と鄭定瑞は敗走し、廷珍は鎮城に入った。翌日、世驃がようやく到着した。敵は二度攻め寄せたが、いずれも廷珍に撃退され、これより一貴らは府治に退いて出て来ようとしなかった。
- 西港の民某がいて、兵を導いて西港からひそかに渡らせたいと願い出た。西港は府城から遠くなく、呼びかければたちまち応じる者があり、また竹林が多くて伏兵を置ける。ただし敵がもし数千人を要害に分け置いて四方から急襲すれば、林亮らの一軍は危うい。将を遣わして大軍を率いてその後に続かせてこそ万全である、というのであった。世驃が言った、「誰がこれに当たるか」と。廷珍は言った、「他人が行くべきところではありません。それがしは辞退いたしません」と。
- そこで水師五千五百余を率い、夜に西港を目指して出発し、夜明けに上陸し、空になった船をことごとく安平へ帰らせた。諸将がその理由を尋ねると、廷珍は言った、「兵に必死であることを示し、帰る気を起こさせないためだ。今日戦って勝てば、明日はまっすぐ府治に到達するだけだ」と。
- ちょうど敵は蘇厝田で林亮らと激戦の最中であった。廷珍は陣を厳しく整え伏兵を設けて進み、敵は遠くにこれを望み見て「これは老藍(藍廷珍)の旗印だ」と言い、驚いて潰走した。この夜は黎頭標に駐屯し、敵が必ず夜に乗じて陣営を襲うと見込んで、伏兵を置いてこれを大いに破った。明け方に城下に至ると、数万の敵はみな逃げ去っていた。廷珍は夜に城へ入り、少しも民を侵さなかったので、民は大いに喜んだ。進兵からここまでわずか七日であり、こうして府治を回復した。
- 世驃も同じ日に城に着き、欧陽凱・許雲・羅万倉を殺害した楊泰・黄龍・陳碧の三人を捕らえ、それぞれその子である欧陽敏・許方度・羅世正らに引き渡して自ら処刑させた。凌遅(切り刻む刑)・腹裂き・屍の粉砕・骨を撒くことまで行い、惨たらしさは極まって人の道理がなかった。台湾の人は今なおこれを語ると顔色を変えるという。
- 閏六月、総兵官の藍廷珍が台湾の南路・北路を回復し、朱一貴・杜君英らはことごとく捕らえられた(原文は「惡就擒」に作るが、「悉」の誤りか)。廷珍は兵を分けて南北二路を回復し、一貴は下加冬に逃げたが、廷珍はひそかに将の林卿らを遣わして溝尾荘でこれを捕らえ、その一党の村君英(杜君英の誤りか)らとともに京師に送って磔にし、台湾は平定された。
原文(底本)
聖祖康熙六十年,夏四月,臺灣民朱一貴作亂。總兵官歐陽凱,水師副將許雲,南路參將苗景龍,遊擊劉得紫、遊崇功,千總陳元等死之。一貴,福建漳州府長泰縣人,小名祖,於康熙五十二年充臺廈道轅役,尋被革,居母頂草地飼鴨爲生。其鴨旦暮編隊出入,愚民異之。時承平日久,守土恬熙,知府王珍稅歙苛虐,以風聞,濫捕結會及私伐山木者二百餘人。株連需索,民不堪其擾,於是鳳山縣民黃殿、李勇、吳外、鄭定瑞等謀變。以一貴朱姓,可托明喬,遂奉以起事,稱中興大元帥,率眾數百夜襲岡山、溏汎。警報至郡,總兵官歐陽凱集將弁議出兵,中營游擊劉得紫請行,不許,令右營游擊周應龍,以兵四百,及新港、目加留灣、肅壟、麻豆四社土番往。應龍軀幹魁偉,議論風生,故主兵重之。是日微雨,應龍率兵番行五里即止,翌日,再進十五里。一貴已於是夜出檳榔林,刦防汎,戕把總,掠軍械,而應龍隔一水不往救,一貴乃旁掠四出,南路民杜君英等起應之。應龍兵至小岡山,遇敵,千總陳元、把總吳益等奮力掩擊,一貴敗走入山,應龍命止兵弗追,但傳令懸賞購殺。土番性兇殘,縱火燔民居,民死無數,人心激忿,各鄉樹幟響應。於是杜君英、陳福壽、劉國基起淡水;郭國正、翁義起草潭;載穆、江圖論起下埤頭;林曹、杜騫、林璉起新園;王忠起小琉球;皆約一貴攻府治。君英合眾襲南路參將苗景龍於下淡水,景龍敗死。應龍聞景往救,日行十五里,越日遇敵於赤山。君英、一貴兩路夾攻之,方激戰,應龍遽以後隊退,陳元陣歿。吳益、周應、李碩等負傷走,而應龍竟回府治,一貴大隊隨之,郡中大震。歐陽凱、劉得紫、許雲共率師千有五百出禦,列營春牛浦以待。忽軍中夜驚,鎮兵四散,黎明,始稍集,然人無戰心。逾日,敵兵大至,許雲躍馬陷陣,敵大敗。時水師游擊游崇功以兵入鹿耳門赴援,遇臺廈道梁文煊、知府王珍等眷屬舟,嘆曰:「官者,兵民之望。官眷逃則人心散,大事去矣!」麾眾馳春牛浦。一貴、君英合隊來犯,鎮兵忽內亂,把總楊泰,綽號違家勇者為內應,刺歐陽凱墜馬死,劉得紫被執,許雲、游崇功等十餘人皆死之,水師游擊張彥賢等率兵千餘人,船四十餘艘,聯䑸楊帆出澎湖,應龍復遁歸內地,文煊等奔澎湖。 五月,臺灣陷,朱一貴僭號於臺灣。一貴既入臺郡,北路賊賴池、張岳等同時陷諸羅,參將羅萬倉死之。凡七日,而全臺盡失。一貴等開府庫,有紅毛樓者,故荷蘭據臺時所築,舊名赤嵌城,後鄭氏以之貯軍火,四十年來莫有啟者,至是發之。得之大小礮位、槍彈、硝磺、銅鐵無算。一貴乃自稱中興王,號永和元年,大封其眾。國師、太師、公侯、都督、將軍、尚書、總兵以下千餘人,優孟衣冠,輝煌道上,民間為之謠曰:「頭載明朝帽,身穿清朝衣。五月稱永和,六月還康熙。」蓋當日雖婦人孺子亦知其必亡也。 六月,南澳鎮總兵藍廷珍,克復臺灣府,朱一貴遁。先是,臺中逃官及難民抵澎湖,澎協將弁皆倉惶失措,以為一貴將長驅至,亦各出眷屬登舟,將竄廈門。右守營備林亮,請主將掣回登舟各家屬,諸將猶豫未決。亮按劍厲聲曰:「朝廷以海外封疆付我等,今鋒刃未血而相率委去,可乎?請整兵配船守要害,俟賊至,決一死戰!戰不捷,公等歸亦未晚。」乃馳出江干,申主將令,拔偑刀,驅官民眷屬各登岸,人心始固。時水師提督施世驃駐廈門,見難民船日至甚眾,始知臺變,而郡中文武竄至澎湖,喘息稱定,然後具文申報至廈,世驃即日率師出港。總督覺羅滿保疾馳抵廈門,咨檄南澳鎮總兵藍廷珍。而廷珍條上進兵事宜之書至,所議悉與吻合,大喜曰:「吾調此君平臺,得人矣。」使總統渡臺水陸兵八千,船四百艘,會提督合兵進剿。師行,滿保躬迼海濱送之,廷珍意氣激昂,從容語總督曰:「草寇不足煩區處,某一登彼岸,大帥可即奏報蕩平也!」抵澎湖,適降將吳良受一貴命,謀取澎湖,赴世驃營前詐降,訊之,盡吐黨中情形,知其黨內亂。一貴、君英互爭雄長,謀相攻,百姓不附。廷珍言於世驃曰:「群盜皆烏合,不足憂,但眾至三十萬,誅之不勝誅。且多殺無益,宜張示止殲渠魁,餘勿問,則人人有生之樂,無死之心,可不血刄平也。」世驃諾之,並戒將士登岸之日,無得妄殺。是日,發澎湖先鋒林亮、董芳,以六舟冒死直進,遙望礮臺、火藥纍積,專以礮注攻,中之轟發如雷,守臺者死無數,遂揚帆直渡鯤身(海河)。敵將蘇天威退保安平鎮,與城守鄭定瑞列隊迎拒。林亮、董芳復先登陷陣,廷珍督大隊繼之,蘇、鄭敗走,廷珍入鎮城。次日,世驃始至,敵二次來犯,皆為廷珍擊退,自是一貴等退入府治,不敢出。有西港民某,願導兵由西港暗渡,距府不遠,呼召立應,又多竹林,可埋伏,彼若以數千人分佈要害,四面掩擊,亮等一軍危矣。宜遣將統大軍繼其後,方可萬全。驃曰:「誰當此者?」廷珍曰:「非他人所以往,某不敢辭。」遂率水師五千五百餘,夜指西港進發,黎明登岸,令空舟悉回安平。諸將請其故,廷珍曰:「示軍士必死,無還心。今日戰勝,明日直抵府治耳。」會敵在蘇厝田與林亮等正激戰,廷珍嚴陳設伏而進,敵望見曰:「此老藍旗幟也!」驚而潰。是夜駐黎頭標,料敵眾必乘夜刦營,伏兵大敗之。比曉抵城下,敵數萬皆遁去。廷珍夜入城,秋毫無所犯,民大悅,自進兵至此裁七日耳,遂復府治。世驃亦同日抵城,獲殺害歐陽凱、許雲、羅萬倉之楊泰、黃龍、陳碧三人,各付其子歐陽敏、許方度、羅世正等自行處死。淩遲、剖腹、碎屍、揚骨,慘極無人理。臺人至今猶談之而色變云。 閏六月,總兵官藍廷珍復臺南北,朱一貴、杜君英等惡就擒。廷珍分兵收復南北二路,一貴走下加冬,廷珍密遣將林卿等擒之於溝尾莊,與其黨村君英等送京師,磔之,臺灣平。
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