清史紀事本末立儲(立太子)の二転三転(立儲之反復)
要約
康熙十四年十二月、二歳の嫡子胤礽を太子に立て、大赦した。二十九年七月、親征の途に病んだ帝が召した太子に悲しむ様子が無く、忠愛の心無しとして先に京へ帰らせた。太子は率直で礼を欠くことが多く、責められて父子の間に隔てが生じた。三十二年、再びの親征には監国させた。
四十一年十月、徳州で病んだ太子に索額図が忠を尽くすのを憎んだ帝は、起居の保護を命じて手落ちを待った。四十二年五月、索額図を殺した。諸王は儲位をうかがって党を植え、ことに胤禔・胤禛・胤禩が強く、隆科多が擁護してからは群臣も雍邸に心を寄せた。世宗は帝の不例のたび痛哭して湯薬を調えたので愛され、巡狩に従い大計を諮られ祭祀も代行し、胤礽の儲位は日ごとに危うくなった。やがて家人が謀反を訴えると、証拠は無いのに徳州での無礼を罪に市で処刑し、妻妾子孫も没官された。
索額図には謀略があり、鰲拝の捕縛を帝と謀り、尼布楚では外交の優位を占め、三藩の征討には軍機を掌り、呉三桂の刺客さえ感服して奴僕となった。
四十七年九月、帝は布爾哈蘇台で太子を廃した。王大臣の前に跪かせ、索額図のために復讐して朕の身をうかがうと宣し、諭し終えて痛哭し地に身を投げ、索額図の子の格爾芬・阿爾吉善ほか二格ら四人を殺し、残りの東宮属官を盛京に流した。
一年前、帝が不幸な事が現れようとすると語り、朱三太子の事の後に太子が言い当たったと言うと、まだ尽きぬと答えた。朱三太子は崇禎帝の第四子定王慈煥で、名を変えて西席となったが、詐称の罪で凌遅に処された。
太子は拘束後に狂気を発した。帝は午門に群臣を召し、狂乱に近く物の怪が憑いた者のようだと宣して廃し、咸安宮に移した。十月、胤禩の貝勒を奪った。胤禔が張明徳の相見を引いて胤禩を立てよと請い、胤礽を誅すのに皇父の手を煩わすに及ばぬと言い、帝は乱臣賊子と叱り、胤禔は廃位前に張明徳へ太子暗殺を図らせた者があったと申し立て、明徳は磔にされた。
十一月、廃太子を釈した。胤禔がラマの巴漢格隆に廃太子を呪詛させたと胤祉が奏し、胤禔は王位を奪われ、巴漢格隆は磔にされた。帝は、太子は人を死に至らせず国政にも干渉せず狂気は呪いによるとした。廃太子は臣に徳がないため人が乗じたのだと答え、帝は太甲の故事を引いて努めよと諭した。
四十八年三月、ふたたび胤礽を太子に立てた。五十年十月、太子に諂い附いて党羽を結んだ罪で歩軍統領託合斉を磔、子の舒起と尚書耿額・斉世武を絞とし、父子の間に他の事情は無くそなたらが中に立てたのだと語った。獄死した託合斉も戮屍され、徳麟は磔にされ、その父阿哈占は開棺戮屍された。
五十一年十月、再び太子を廃し咸安宮に禁錮した。群臣は、初めの廃立にも黙って主導した者があり、復位してまた廃されたのは嫡位を奪う争いの結果だと疑った。雍正二年八月、世宗が、皇考が朕を愛したので二阿哥は非礼を加えたと語り、疑いは深まった。これより儲君を言うのを禁じ、願い出た者は罪を得た。
五十四年十一月、胤礽が太医賀孟頫に書を普奇へ届けさせ釈放を探らせたのを阿布蘭が告発し、賀孟頫は殺され普奇は下獄した。五十七年正月、朱天保を殺した。太子の過失は左右に由来するから名臣に輔導させよと疏したのを、胤禩の一党の阿霊阿が寵を求めるものだと言い、帝は怒って天保と戴保を法に処し、父の朱都訥も枷で死に、連座十余人が鞭たれた。
六十年三月、儲君を立てよと請うて旨に逆らった大学士王掞と御史陶彝ら十三人を西辺の軍前に送り、老いた王掞には子の奕清を代わらせた。帝は、衰老を理由に儲君を立てよと言うのは清朝の安危が漢人に関わらぬと見るからだと叱り、祖父の王錫爵は明の神宗に泰昌帝を立てよと請うて天下を乱した賊だとそしった。ついに前星は輝かず、瓜をもぎ取る謀が行われたのである。
六十一年十一月、帝が病むと世宗は三たび見舞い、諸臣では隆科多だけが傍らにいた。日の入るころ隆科多が出て、帝が崩じ雍親王が遺詔により即位したと伝えた。あわただしい間に大事が決し、内外に疑議が生じた。
年表
清の聖祖が嫡子胤礽を皇太子に立ててから、二度の廃嫡を経て世宗(胤禛)の即位に至るまでの経緯を記す。康熙十四年(1675年)の立太子後、父子の間に疑いが生じ、胤禔・胤禩・胤禛らが儲位を争い、索額図が処刑された。康熙四十七年(1708年)に太子は廃されたが翌年復位し、五十一年(1712年)に再び廃されて咸安宮に禁錮され、以後は立儲を口にすることが禁じられた。朱天保・王掞ら儲君を請う者は重罰を受け、康熙六十一年(1722年)の帝の崩御に際し、隆科多が伝えた遺詔により雍親王が即位して疑議を残した。
年表(13件)
- 西暦1675年 聖祖康熙十四年二歳の嫡子胤礽を皇太子に立て、詔して大赦を行う
- 西暦1690年 聖祖康熙二十九年親征中に病んだ帝を迎えた太子の態度を咎め、父子の間に隔たりが生じる
- 西暦1693年 聖祖康熙三十二年帝が再びジュンガルを親征し、太子に監国を命じる
- 西暦1702年 聖祖康熙四十一年南巡中に太子が徳州で病み、索額図が世話を命じられる
- 西暦1703年 聖祖康熙四十二年太子を助けて密謀したとの告発により大学士の索額図を処刑する
- 西暦1708年 聖祖康熙四十七年太子胤礽を廃して咸安宮に禁じ、のち胤禔の呪詛が露見して釈放する
- 西暦1709年 聖祖康熙四十八年詔して再び胤礽を皇太子に立て、天地・祖先・社稷に告げ祭る
- 西暦1711年 聖祖康熙五十年太子にへつらい党を結んだ罪で託合斉・耿額・斉世武らを処刑する
- 西暦1712年 聖祖康熙五十一年再び太子を廃して咸安宮に禁錮し、以後は立儲を言うことを禁じる
- 西暦1715年 聖祖康熙五十四年廃太子と通じたとして太医の賀孟頫を殺し、普奇を獄に下す
- 西暦1718年 聖祖康熙五十七年太子の輔導を請うた検討の朱天保を殺し、連座者十余人を罰する
- 西暦1721年 聖祖康熙六十年立儲を請うた王掞・陶彝ら十三人を西辺の軍前に送って働かせる
- 西暦1722年 聖祖康熙六十一年帝が崩じ、隆科多の伝えた遺詔により皇四子の雍親王が即位する
現代語訳全文
西暦1675年 聖祖康熙十四年
- 冬十二月、次子の胤礽を立てて太子とした。諸子の中では胤禔が最年長であったが嫡出ではなく、嫡子は胤礽であった。当時わずか二歳であった。この日、帝は殿に出て祝賀を受け、詔を下して大赦を行った。
西暦1690年 聖祖康熙二十九年
- 秋七月、帝はジュンガル(準噶爾)を親征したが、途中で病を得て京師に還った。帝が舎里烏珠に宿営したとき、太子を召して駅伝を乗り継いで迎えに来させた。太子が参内して見えたとき、悲しむ様子がなかったので、帝は不快に思い、君父を忠愛する心がないと言って、ただちに先に京師へ帰るよう命じた。
- 太子は性質が情け深く弱く、率直で気ままで飾り繕うことがなく、至尊の前でも礼節を欠くことがかなり多かった。帝はそのたびにこれをもって責め咎めたので、父子の間にはしだいに疑いと隔たりが生じた。
西暦1693年 聖祖康熙三十二年
- 春二月、帝は再びジュンガルを親征し、太子に監国を命じた。
西暦1702年 聖祖康熙四十一年
- 冬十月、帝は南河を巡視し、太子が従行した。まもなく太子が病んだので徳州に留まり、大学士の索額図を召して先に行かせて世話をさせた。当時、帝は索額図が太子に忠を尽くすことを憎んでおり、太子が病むと、特に起居を保護するよう命じた。その意図は、少しでも手落ちがあればただちに罪に問おうというところにあった。まもなく太子は癒え、索額図は太子を奉じて京師に帰った。
西暦1703年 聖祖康熙四十二年
- 夏五月、大学士の索額図を殺した。
- これより先、太子が監国していたとき、帝は時ならず病むことがあり、行在は京から数千里を隔てていた。ひそかに藩府(諸王の邸)に付く小人どもが讒言をあらゆる手立てで構え、監国する太子に侍従する者はしばしば罪を得た。諸王は儲位をうかがい、それぞれ党を植えつけてひそかに争ったが、中でも長子の胤禔、四子の胤禛(底本はここに割注の丸括弧だけがあって中の字が無い)、八子の胤禩の働きかけがとりわけ強かった。
- 胤禔と胤禩はいずれも母が卑しい出であったため、母方の実家の後ろ盾がなかった。世宗の母方の伯父である隆科多の佟氏は遼東の名門であり、権勢は君主に匹敵し、富は国に敵するほどであった。彼が身を傾けて擁護してからは、群臣は畏れてこれに付き従った。こうして東宮を補翼する者は少なく、雍邸(胤禛の邸)に功を立てようとする者が多くなった。東宮の師傅の類ですら、当時人望を担っていた張英・湯斌・徐元夢・熊賜履の輩も、みなひそかに黙って心を寄せた。
- 加えて帝は性質が猜疑深く、舎里烏珠の行在以来、太子が病を見舞う態度が慎み深くなく、いつくしみの情はにわかに衰えた。一方、世宗はたまたま帝が不例のときに出会うと、そのたびに痛哭し、内に入って侍することを願い出て、自ら湯薬を調え、この上なく心を尽くした。帝はその懇切さを認めてこれを愛し、しばしば手ずからの諭しにそれを表した。それゆえ巡狩のたびに従行を命じ、軍国の大計もこれに諮って決めることが多く、祭祀の大典も常にこれに代行させた。胤礽の儲位は、これより日ごとにいよいよ危うくなった。
- 帝が京師に還ると、根拠のない噂を上聞に達する者があり、太子を立てたとき索額図が言い出して、およそ太子の衣服調度はすべて黄色を用い、定めた一切の儀礼の次第は帝とほぼ同等である、と言った。帝は深くこれを憎んだ。しかし索額図は国家に大功があるので、こらえて事を起こさずにいた。
- ここに至って索額図の家人をそそのかして謀反を訴え出させる者があり、索額図がひそかに太子を助けて大事を密かに謀っていると告発した。朝廷に下して取り調べたが証拠がなく、再三取り調べたあげく、先に徳州にいたとき索額図が馬に乗ったまま太子の中門まで来てようやく下りたことを罪に問い、罪は死に当たるとして市中で処刑し、妻妾や子孫はみな官に没収され、連座して死んだ大臣も数人あった。
- 索額図には謀略があった。康熙の初め、鰲拜が輔政して甚だ横暴であった。かつて病と偽って朝廷に出ず、帝にその邸へ行幸するよう求めた。寝室に至ると、侍衛の和託は鰲拜の顔色が変わるのを見て、寝台の前に走り寄り、敷物をめくると刀が現れた。帝は急ぎ外に出て、囲碁にことよせて索額図を召し入れて謀った。数日後、鰲拜が参内して見えたとき、突然、布庫(力くらべ)を習っていた者たちに捕らえられ、外廷に引き渡されて、ついに誅に伏した。
- ネルチンスク(尼布楚)の一件は中国と西洋との交渉の始まりであり、索額図は酒宴の席で折衝し、激することも相手に引きずられることもなく、ついに外交上の優位を占めて帰り、ロシア人は今なおこれを称えている。三藩を征討したときには軍機を掌り、軍の文書を処理し、将帥を配置することはみな要点に的中していた。呉三桂はこれを患い、刺客を遣わして暗殺させようとした。
- その夜、索額図は灯を手にして軍の文書を処理していた。刺客は梁の間から匕首を持って降り、長く跪いて首を垂れて言った、「私はここに来てずいぶん久しくなりますが、公が軍機を批閲なさるのがみな自ら見たかのようで、軍の文書を処理して一晩中眠らないのを見ました。まことに良き宰相です。私は愚かとはいえ、どうして良き宰相を刺せましょうか。後ろ手に縛られて死を賜りたい」と。索額図は笑って手を振って追い出した。翌日、刺客は邸に身を投じて奴僕となり、使われて意にかなわぬことがなかった。のちに索額図が獄に下されると、ひそかに入って飲食を差し入れ、刑に処せられると、葬送と納棺の事を処理し終えてから、痛哭して去り、その最期は分からない。
西暦1708年 聖祖康熙四十七年
- 秋九月、帝は布爾哈蘇台に宿営し、詔を下して太子の胤礽を廃した。あらかじめ王と大臣を召して来させ、太子を傍らに跪かせ、罪状を宣布した。その中に「胤礽は索額図のために復讐しようとし、朕の身をうかがい、朕をして今日毒を盛られるか明日害に遭うかも測れぬようにさせている」などの語があった。諭し終わると痛哭し、自ら地に身を投げ出し、諸臣が助け起こした。帝は諸臣に言った、「胤礽が不肖であるため、朕の心中の憤懣をここに至らせた」と。
- そして旨を伝えて、索額図の子の格爾芬・阿爾吉善、および二格・蘇爾特・哈什太・薩爾邦阿らを拘束して殺した。残りは盛京に流し、みな東宮の属官であった。
- これより一年前、帝がある日突然太子に語って言った、「朕は近ごろ心中で、時おり一つの不幸な事が現れようとしているように思う」と。朱三太子の事が起こった後、太子が言った、「皇父のお言葉は当たりました」と。帝は言った、「まだこれだけでは尽きぬのではないかと恐れる」と。
- 朱三太子とは、明の崇禎帝の第四子、定王の慈煥である。王朝が改まった後、姓名を変えて王士元とし、のち張用観と改め、字を潜斎といい、山東新城の李方遠の家に客となり、西席(教師の席)に居た。この年の正月、浙江の大嵐山の劫賊である念一和尚の供述に引き合いに出され、朱三太子であると称されて捕らえられ、浙江へ護送され、のち京に送られて取り調べられ、崇禎帝の第四子であると供述した。帝は第四子は早くに死んだとして、朱三太子を偽り騙った罪に定めてこれを処刑した。しかも諭旨はただ明代の宗室であるとだけ言い、無頼の徒が偽り騙ったとは言わず、凌遅で処刑するよう命じた。その子五人、兟・□(底本欠字)・壬・在・坤と、孫の鈺宝はみなただちに斬られ、この事件はこうして落着した。
- ここに至って、帝はこのことを近侍の者たちに語り、さらに言った、「先ごろは朕もまた再び現れるものが何事であるか分からなかったが、思いがけずついに今日の事があったのだ」と。
- 太子は拘束された後、突然狂気の病を患い、京に帰ってから上駟院の傍らに幽閉した。この日、群臣を午門に召し集め、宣諭して言った、「儲位は重大であり、軽々しく移すべきではない。近ごろ胤礽の挙動を見るに、行状は狂乱に近く、物の怪が憑いている者のようだ。卿らはどう思うか」と。衆は、皇上の御見識はきわめて明らかで、臣らはあえて異なる言葉はございません、と言った。帝は嗚咽してやまず、しばらくしてようやく諸臣を起たせて言った、「朕の志はすでに定まった。ただちに天地・宗廟・社稷に明らかに告げてこれを廃し、咸安宮に移して禁ずる」と。
- 冬十月、胤禩の貝勒の爵を剥奪して散閑宗室とした。廃太子を拘禁したはじめ、胤禔がひそかに帝に言った、「人相見の張明徳がかつて胤禩の相を見まして、のちに必ず大いに貴くなるとのことです。胤禩を立てて皇太子とされるよう請います。臣がこれを輔けましょう」と。さらに、胤礽を誅そうとするなら、皇父の手から出すには及ばない、とも言った。帝は大いに驚き、胤禔を乱臣賊子だと叱りつけて言った、「お前は呉三桂が世にいるようなものか」と。
- 胤禔は恐れて、胤(底本は名の下の一字を欠く)が太子の廃される前に張明徳に太子を暗殺させようとしたことを言った。明徳は、飛賊(すばしこい賊)が十六人おり、すでに二人をここに招き寄せてあると言い、また新満洲の半分を得られれば事を行える、とも言った。帝は大いに怒り、明徳は磔の刑に処せられ、胤禩は爵を下げられた。
- 十一月、詔して廃太子を釈放し、胤禔の王位を剥奪して、その邸内に幽閉した。太子が廃された後、帝は常にこれを思い、病を得るに至った。連日太子を召し見て、帝の気持ちはかなり安らいだ。
- 突然、三子の胤祉が奏上して言った、「直郡王の胤禔は、先にモンゴルのラマである巴漢格隆に廃太子を呪詛させ、呪術を用いて圧伏させました」と。帝は朝臣に引き渡して厳しく取り調べさせ、事実を得て、あわせて呪いの埋め物を十余か所から掘り出した。帝は大いに怒り、胤禔の爵を剥奪し、巴漢格隆を磔にした。
- まもなく詔して廃太子と王・大臣らを召し入れ、これに語って言った、「朕が初めて中路から出師し、太子を留めて朝政を処理させたときは、朝廷を挙げて善いと称えた。朕が寧夏に出師した後になって、突然、太子の平素の行いが変わったと伝えられ、これより朕の心のいつくしみはやや衰えた。京に帰ってから数人を法に処し、そのため外間では太子の不孝と、法にはずれた行いをひそかに議するようになった。日々聞こえてくるものがあり、朕は特にこれを拘束するよう命じたのだ。
- 近ごろ太皇太后と皇后が、みな太子が冤罪を受けたことを夢に現れて告げた。しかも太子を捕らえた日には天の色が急に暗くなり、朕が京に入る前日には大風が車駕の前に渦を巻いた。朕が詳しく体察したところ、太子は平素、激怒して下の者を打ち叩くことはあったものの、人を死に至らせたことはなく、また国政に干渉したこともない。これまでの狂気の病はみな胤禔の呪いによって引き起こされたもので、そのために本来の性が埋もれてしまったにすぎない。
- 以前の事を思うたびに心に晴れぬものがあり、そこで身近に召して念を入れて養生させたところ、いまはすでに全快した。特に太后に奏請してこれを釈放するのは、まことに朕の福であり、また諸臣の福でもある」と。そして振り返って廃太子に問うた、「そなたに何か言うことがあれば、衆の前で隠さずすべて言うがよい」と。廃太子は言った、「すべての事は臣に徳がないためで、人はそれに乗じて陥れたのです。いま臣にはもはや望むところはございません。もし朝臣の中になお私を太子にと望む者があるなら、断じていけません(底本は「望子爲太子者」に作る。「子」は「予」の誤りか)」と。帝は廃太子に語って言った、「古には太甲を放逐したが、ついに立派な君主となった(底本は「今主」に作り、「令主」の誤りか)。そなたは努めよ」と。
西暦1709年 聖祖康熙四十八年
- 春三月、詔して再び胤礽を立てて太子とし、官を遣わして天地・祖先・社稷に告げて祭らせた。その文中に「寛大に釈放してからこのかた、朝な夕なに事に励み、憂いを顔色に表し、薬餌を自ら手ずから調え、子としての務めを十分に尽くすのを見た。朕もまたたびたび様子を見に行ったが、ただ誠実で慎み深いばかりであった」云々とあった。
西暦1711年 聖祖康熙五十年
- 冬十月、帝は暢春園にあり、王と大臣を召し入れ、太子にへつらい付き従い、党羽を引き入れて結んだ罪を責め(底本は「詔附」に作り、「諂附」の誤りか)、歩軍統領の託合斉を磔にして死なせるよう命じ、その子で督統の舒起および尚書の耿額・斉世武はともに絞首に処せられ、その他は差をつけて降格・免職とされた。群臣に語って言った、「朕の父子の間には、ほかに何の事情もない。みなそなたらの輩が中に立って事を起こしただけだ」と。
- まもなく託合斉は獄中で死んだが、なお屍を切り刻んで灰を撒くよう命じ、遺体を収めて葬ることを許さなかった。また太子に随従していた徳麟も罪に問われて磔にされて死に、さらにその父で福陵の閗防官(門防官の誤りか)である阿哈占は、棺を開いて屍を戮せられた。
西暦1712年 聖祖康熙五十一年
- 冬十月、再び詔を下して太子を廃し、また咸安宮に禁錮した。そこで群臣には日ごとに疑いの議が起こり、先に太子を廃したときには必ず黙ってその事を主導した者があり、あらかじめ帝の手を借りてこれを行わせたのであり、ここに至って復位してまた廃されたことで、嫡子の位を奪う争いがついに成り立ったのだ、と言った。そしてこれまでの諭しの中にあった「およそ人には非常に愛する子もあれば、あまり愛さない子もある」という一語に、はじめてはっと思い当たった(底本は「前此而諭中」に作る)。帝の心中にはすでに早くから託すべき人があったのである。
- 雍正二年八月、世宗が胤禩の罪状を宣布したとき、諸王や宗室に語って言った、「二阿哥が太子であったとき、皇考が朕の身を篤く愛されたため、二阿哥は自分に差し障りがあることを恐れ、ついに非礼を加えるに至った」と。また言った、「以前、多くの大臣が廉親王を皇太子に推挙し、みな並外れた人物と見ていた」云々と。これによってますます、世宗が僭邸(潜邸の誤りか。即位前の邸)にあったとき、嫡子の位を奪ったという疑いのそしりを深く生じさせたのは、人の言うことに実がないわけでも、理由がないわけでもないと信じられた。
- これより、帝は儲君を立てる事を言うのを禁じた。群臣でこれを願い出た者は罪を得、甚だしくは死刑に陥る者もあった。
西暦1715年 聖祖康熙五十四年
- 冬十一月、太医の賀孟頫を殺し、都統公の普奇を獄に下した。これより先、胤礽の福晋(妃)が病み、賀孟頫が邸に入って治療した。胤礽は唾を水代わりにして書をしたため、賀孟頫にひそかに普奇へ届けさせ、釈放の知らせがあるかどうかを探り聞かせた。ここに至って輔国公の阿布蘭に告発された。帝は諸人が廃太子と通じたことを憎み、部に引き渡して重く処罰させた。
西暦1718年 聖祖康熙五十七年
- 春正月、検討の朱天保を殺した。当時、儲位をうかがう者は太子が再び立てられることを恐れ、しきりに根拠のない噂を作って帝の怒りをあおり、廃太子を重刑に処させようとしたことが幾度もあった。衆はあえて諫める者がなかったが、朱天保はこれを深く惜しみ、上疏しておおよそ次のように述べた。皇太子は病によって廃されたとはいえ、その過失は実に左右の者に由来し、よからぬ者が驕り横暴なのに慣れたためである。もし大徳ある名臣、たとえば趙申喬(底本は「趙申、喬革」に作る)のような者を選んで輔導させれば、隠れた徳はますます明らかになり、皇太子は聖にしてさらに聖、賢にしてさらに賢となるのが見られよう。そうでなければ、藩臣が儲位をうかがい、天子の家の骨肉の禍いは言い尽くせないものがあろうことを恐れる、と。
- 疏が上がると、帝は長くすすり泣いた。近臣の阿霊阿はもとより胤禩の一党であり、言った、「朱某の言は、後日の寵愛を得ようとしてのことにすぎません」と。帝は大いに怒り、朱天保とその姉の婿である戴保を法に処し、その父で侍郎の朱都訥もまた首枷をかけられて死に、連座した者十余人はみな免職のうえ鞭で打たれた。
西暦1721年 聖祖康熙六十年
- 春三月、大学士の王掞、御史の陶彝・柴謙ら十三人を西方の辺境の軍前に送って働かせた。王掞は高齢で、帝はその子で少詹事の亦清(奕清の誤りか)を代わりに行かせた。儲君を立てることを請うて旨に逆らったからである。当時、十三忠臣一孝子との称があった。
- これより先、王掞は康熙五十六年五月に儲君を立てる事を密奏し、懇々と数千言を述べた。帝は王掞を召し入れて見え、耳打ちすること久しかった。この年の正月、王掞は万寿節を賀しに参内すると、すぐに前の奏上の事を繰り返し、言葉はいっそう痛切であった。陶彝らもまた前後して王掞の言うのと同じく上書した。
- 帝はかねて太子の事を言うのを憎んでおり、これを読んで大いに不機嫌になり、厳しい旨で叱責した。曰く、朕の在位六十年の大慶を王掞らは喜ばず、朕が衰え老いたからとして儲君を立てるべきだと言う。王掞らは清朝の安危は自分たち漢人には関わりがないと見ている、だからこそこうなのだ、と。さらにその祖父の王錫爵が明の神宗の朝にあって泰昌帝を立てることを力をこめて請い、まもなく神宗が崩御して天下を大いに乱れさせたことを痛烈にそしり、王錫爵は明を亡ぼした賊であり、棺を開いて首を斬り、神宗の陵に祭るべきである、王錫爵はすでに明朝を滅ぼした、王掞は朕を神宗になぞらえ、その意は清朝を揺るがそうとするものにほかならない、とした。
- 当時、朝臣が国本を主張する上章をたびたび奉ったが、帝はこれを耳に入れたくない言葉と考え、深く憎み恨んだ。むごい罰で威を示したのは、心を蔽うものがあったからである。つまるところ前星(皇太子を表す星)の輝きは明るくならず、瓜をもぎ取る(骨肉を次々に害する)謀がついに行われたのである。
西暦1722年 聖祖康熙六十一年
- 冬十一月、帝が病み、世宗は三度宮中に入って病を見舞い、諸臣ではただ隆科多だけが傍らにいた。日の入る時分になり、諸臣が当直を退こうとしたとき、にわかに隆科多が出てきて、帝が崩御し、皇四子の雍親王が遺詔を奉じて即位したと伝えた。君位継承の事は国家の重要な問題であるのに、あわただしい間に決着がつけられ、当時、内外にかなりの疑いと議論が生じた。
原文(底本)
聖祖康熙十四年,冬十二月,立次子胤礽爲太子。諸子中,胤禔居長,而非嫡出,嫡子胤礽。時甫二齡,是日御殿受賀,頒詔大赦。 二十九年,秋七月,帝親征準噶爾,中途有疾,還京師。帝次舍里烏珠,召太子馳驛往迎。及太子入見,無戚容,帝不悅,謂其無忠愛君父之心,命即先囬京師。太子性仁弱,率易任性無矯飾,於至尊前,禮節頗多疏忽,而帝輙以此相責望,父子之間,遂漸生猜阻矣。 三十二年,春二月,帝復親征準噶爾,命太子監國。 四十一年,冬十月,帝巡視南河,太子從行,尋以太子有疾,駐德州,召大學士索額圖前往奉侍。時帝惡索額圖效忠太子,太子疾,特令保護起居,意在稍有疏虞,即當坐以罪也。尋太子愈,索額圖奉太子囬京師。 四十二年,夏五月,殺大學士索額圖。先是太子監國,帝不時有疾,行在距京數千里,小人陰附藩府者讒搆萬端,侍從監國之人往往得罪。而諸王覬覦儲位,各植黨暗爭,中以長子胤禔、四子胤禛()、八子胤𥜥之運動為尤力。胤禔、胤𥜥皆以母賤,無外家援。世宗元舅隆科多佟氏爲遼左世族,權侔人君,富可敵國。自其傾身擁護,羣臣畏而附之。於是羽翼青宮者少,而樹功雍邸者多矣。即東宮師傳之屬,一時負人望如張英、湯斌、徐元夢、熊賜履輩亦皆潛默歸心焉。加以帝性多猜忌,自舍里烏珠行次,太子視疾不謹,眷愛頓衰,而世宗偶值帝有不豫輙痛哭,陳請入侍,親調湯藥,備極殷勤。帝謂其懇切,愛之,常形諸手諭,故每次巡狩,輙命扈行,軍國大計亦多諮決,禋祀大典恆令以代。胤礽之儲位,自此乃日益岌岌矣。帝還京師,有爲蜚語上聞者,謂立太子時,索額圖倡議,凡太子服御俱用黃色,所定一切儀注幾與帝等,帝深惡之。然以索額圖有大功於國家,隱忍未發也。至是有嗾索額圖家人上變者,告索額圖暗助太子潛謀大事。下廷鞫,無左證,勘問再三,乃坐以前在德州時,索額圖乘馬至太子中門方下,罪應死,棄市,妻妾子孫皆沒官,大臣連坐死者數人。索額圖有謀略,康熙初鰲拜輔政,跋扈甚。嘗托病不朝,要帝幸其第,至寢室,侍衛和託見其色變,趨榻前,揭席刀見。帝趨出,以弈棋召索額圖入謀。數日後,鰲拜入見,忽爲習布庫者所擒,付外廷,遂伏誅。尼布楚之役爲中西交涉之始,索額圖折衝樽俎間,不激不隨,卒占外交優勝而歸,俄人至今稱之。征三藩時掌軍機,料理軍書,調度將帥皆中肯要,吳三桂患之,遣客行暗殺。是夕索額圖秉燭治軍書,客自梁間持匕首下,長跪頫首曰:「吾至良久,見公批視軍機咸如親見,料理軍書竟夕不寐,誠良相也。某雖愚,豈敢刺良相,反接請死。」笑,揮之出,次日,投邸中爲奴,驅使無不如意。後索額圖下獄,潛入饋飲食,及被刑,料理喪殮之事畢,痛哭而去,不知所終。 四十七年,秋九月,帝次布爾哈蘇台,下詔廢太子胤礽。先期召王大臣至,命太子跪於側,宣布罪狀。中有「胤礽欲爲索額圖復仇,窺伺朕躬,令朕未卜今日被鴆,明日遇害」等語。諭畢痛哭,自投於地,諸臣扶起。帝語諸臣曰:「胤礽不肖,致朕中心憤懣至此。」遂傳旨拘執而殺索額圖之子格爾芬、阿爾吉善,暨二格蘇爾特、哈什太、薩爾邦阿等。餘發遣盛京,皆東宮官屬也。先是一年前,帝一日忽語太子曰:「朕近日意中,時若有一不幸之事將發現者,及朱三太子事出後。」太子曰:「皇父之言驗矣。」帝曰:「尚恐未盡於此也。」朱三太子者,明崇禎第四子,定王慈煥。鼎革後,變姓名爲王士元,后改張用觀,字潛齋,客山東新城李方遠家,居西席。是年正月,爲浙江大嵐山劫賊念一和尚所供,引稱爲朱三太子,致被捕獲,解往浙江,後解京訊,因供係崇禎第四子。帝謂第四子早殤,乃定假冒朱三太子之罪而戮之。而諭旨又但言明代宗室,不言匪徒假冒,令凌遲處死。其子五,兟、、壬、在、坤、孫鈺寶皆立斬,其案遂結。至是,帝以語諸近侍,且曰:「曩時,朕亦不知所再發現者爲何事,而不意竟有今日之事也。」太子被執後,忽患狂疾,囬京後幽之於上駟院旁。是日召集羣臣於午門,宣諭曰:「儲位重大,未可輕移。近觀胤礽舉動,跡近狂易,似有鬼物憑之者,卿等謂何?」衆言皇上所見至明,臣等不敢有異詞。帝嗚咽不已,久之,始令諸臣起,曰:「朕志已定,當即昭告天地、宗廟、社稷廢黜之,移禁咸安宮。」 冬十月,革胤禩貝勒爲散閒宗室。初拘禁廢太子時,胤禔密言與帝曰:「相士張明德曾相胤禩,後必大貴,請立胤禩爲皇太子,臣當輔之。且言欲誅胤礽,不必出自皇父之手。」帝大驚,叱胤禔爲亂臣賊子,曰:「汝其吳三桂在世耶?」胤禔懼,乃言胤於太子未廢之前,欲令明德暗殺太子,明德言有飛賊十六人,已招致兩人在此。又云得新滿洲一半,乃可行事。帝大怒,明德坐磔,胤禩降爵。 十一月,詔釋廢太子,革胤禔王位,即幽禁於其府內。太子既廢,帝常思之,至於染疾。連日召見太子,帝意頗適。忽三子胤祉奏言:「直郡王胤禔,前令蒙古剌麻巴漢格隆呪詛廢太子,用術鎮壓。」帝命交廷臣嚴訊,得實,並掘出鎮壓物十餘處。帝大怒,革胤禔爵,磔巴漢格隆,尋詔廢太子及王大臣等入,語之曰:「朕初次中路出師,留太子辦理朝政,舉朝稱善。及朕出師甯夏後,忽傳太子素行變易,自此朕心眷愛稍衰,囬京後,置數人於法,因是外間竊議太子之不孝,及所行不法者。日有所聞,朕特命拘繋之。近日太皇太后及皇后,皆以太子被冤見夢,且執太子之日,天色忽昏,朕進京前一日,大風旋繞駕前。朕詳加體察,太子平日雖有暴怒捶撻下人之事,並未致人於死,亦未嘗干預國政。前此狂疾皆由胤禔壓魅所致,以致本性汨沒耳。每念前事,不釋於心,因召至左右,加意調治,今已痊可矣。特奏請太后釋之,誠朕之福,亦諸臣之福也。顧問廢太子,汝有何語可於衆前悉言無隱。」廢太子曰:「凡事皆臣不德,人始從而陷害之。今臣亦不復有所希冀,若廷臣仍有望子爲太子者,則斷斷不可。」帝因語廢太子曰:「古放太甲,卒成今主,汝其勉之。」 四十八年,春三月,詔復立胤礽爲太子,遣官告祭天地、祖先、社稷,文中有「自此寬釋之後,見其夙夜抵事,憂形於色,藥餌躬親,克盡子職,朕復屢加省視,惟誠謹」云云。 五十年,冬十月,帝在暢春園,召王大臣入,責以詔附太子,援結黨羽之罪,命將步軍統領託合齊磔死,其子督統舒起及尚書耿額、齊世武并坐絞,餘降革有差。語羣臣曰:「朕父子之間,并無他故,皆若輩從中生事耳。」未幾,託合齊死於獄,仍命剉屍揚灰,不準收葬。而隨從太子之德麟,亦坐磔死。且將其父福陵閗防官阿哈占,開棺戮屍。 五十一年,冬十月,再頒詔廢太子,仍禁錮咸安宮。於是羣臣遂日有疑議,謂前此廢太子時,必有默主其事者,豫假帝手以爲之,至是復而再廢,奪嫡之獄遂成。始恍然於前此而諭中所謂「凡人有所甚愛之子,亦有所不甚愛之子」一語,蓋帝意中已早有付託人在也。及雍正二年八月,世宗宣布胤𥜥罪狀時,語諸王宗室曰:「二阿哥爲太子時,因皇考篤愛朕躬,二阿哥恐有妨於己,遂致以非禮相加。」又曰:「從前衆大臣保廉親王爲皇太子,皆視爲奇人」云云,益信世宗在僭邸時,深滋奪嫡之疑謗者,人無實不爲無因也。自是,帝禁言立儲事。羣臣以是爲請者得罪,甚至有陷大辟者。 五十四年,冬十一月,殺太醫賀孟頫,下都統公普奇於獄。先是胤礽之福晉有疾,孟頫入府醫治,胤礽以唾水作書,令孟頫密送普奇,探聽有無釋放消息。至是爲輔國公阿布蘭所首。帝惡諸人交通廢太子,交部重處。 五十七年,春正月,殺檢討朱天保。時覬覦儲位者,恐太子復立,時造蜚語以激帝怒,欲置廢太子重典者屢矣。眾莫敢諫,天保深愛之,上疏略謂皇太子雖以疾廢,然其失良由左右,非人習於驕撗,若選碩德名臣,如趙申、喬革輔導之,潛德益彰,將見皇太子聖而益聖,賢而益賢,否則恐藩臣覬覦儲位,天家骨肉之禍有不可勝言者。疏上,帝欷歔久之,近臣阿靈阿素爲胤𥜥黨,曰:「朱某之言,乃為異日寵幸耳。」帝大怒,置天保及其姊壻戴保於法,其父侍郎朱都訥,亦荷校死,連坐者十餘人,皆革職鞭責。 六十年,春三月,發遣大學士王掞,御史陶彞、柴謙等十三人往西陲軍前效力。王掞年老,命其子少詹事亦清代往,因請立儲忤旨也,時有十三忠臣一孝子之稱。先是,掞於康熙五十六年五月密奏建儲事,懇懇數千言。帝召掞入見,耳語久之,是年正月掞入賀萬壽節,即復前奏事,語加沈痛。至彞等亦先後上書如掞言。帝久惡言太子事,閱之,大不懌,嚴旨申飭。謂朕六十年大慶,王掞等不悅,以朕衰邁,謂宜建儲。王掞等視清朝之安危與彼漢人無涉,故爾如此。且痛詆其祖父錫爵在明神宗朝,力請立泰昌,不久而神宗即崩,令天下大亂,錫爵爲亡明之賊,應剖棺斬首,以祭神宗之陵。王錫爵已滅明朝,王掞以朕爲神宗,意欲搖動清朝耳。時廷臣持國本之章屢上,而帝以爲不入耳之言,深相怨毒。酷罰示威,則有物以蔽之也。究之前星之耀不朗,摘瓜之謀遂行矣。 六十一年,冬十一月,帝疾,世宗三次入宮問疾,諸臣惟隆科多在側。至日入時,諸臣將散值,俄隆科多出,傳駕崩,皇四子雍親王奉遺詔即位矣。君位繼承之事,爲國家重要問題,乃解決於倉猝之間,時中外頗滋疑議焉。
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