清史紀事本末雍正帝の英明と明察(雍正英察)

要約

雍正元年春正月、諭旨十一道を頒って督撫以下の文武を訓戒した。腐敗の極まるのを見て即位早々紀綱を粛めた。職に堪えぬ翰林・詹事を退け、督撫に幕客の姓名を報告させ、山西・陝西の楽籍を除いて良民とし、旗人の横暴に直隷巡撫李維鈞へ密奏させ、孔子の先祖に王爵を加え、隆科多らを明史の監修とし、湖南に試験場を建て、律例を編纂させ、惰民の籍を除き、天主堂を改めて宣教師を澳門に落ち着かせた。八月、立太子を宣諭し、諸子の争いの弊から儲位を密かに定める法を創り、弘暦の名を封じて「正大光明」の扁額の裏に置かせ、一代の家法とした。

二年、満洲人の断筋の刑は別に具奏せよと諭し、『聖諭広訓』を頒ち、『大清会典』を続纂し、大都市に普済堂を設け、宗学・覚羅学と八旗の官学で宗室・八旗の子弟を教えた。貴族の教育はこれより始まる。闕里の孔子廟が雷火で焼けて修復させ、官有地二百余頃に井田を立てて八旗の無職百戸に各百畝を分かち与えた。捐納の例を停め、山西の丁銀を田畝に割り入れ、前明の宗室朱之璉を一等侯に封じて明の諸陵に祭告させ、葬儀の演芸を厳禁した。

三年、固安県の官有地を井田とし、合璧・連珠を史館に下し、杭州府の海塘を修め、蘇州・松江の漕糧を減らし、台湾の生蕃が帰化した。允祥らの水利・営田の三か条を行わせ、孔子の諱は「邱」と改め「期」と読ませた。

四年、制銭を私かに毀す弊を防ぐため黄銅の器皿を厳禁し、雲南の地丁を畝内に割り入れた。田文鏡が十三穂の嘉禾を奏進すると民のために尽くしてこそ天の和を召すと褒め、黄河が三旬余り澄んだので京内外の官に一級を加えた。

五年、会試を三月に改め、閩督高其倬の請いで海禁を開いた。奴隸のごとく役された徽州の伴儅、寧国の世僕も、証文の無い者を世僕と呼ぶを厳禁とした。岳鍾琪が建昌・冤山の蕃人を撫して叙功し、瀛台の射比べに武挙人は驚き服した。六年一度の抜擢の選考を命じ、各省の丁銀も田畝に割り入れた。

六年、安南に旧境四十里を賜り返した。高其倬が百二十里を取り返せと奏したが安南は承知せず、鄂爾泰が八十里を返させてもなお訴え、勅諭に国王が謝したのを嘉したのである。越巂衛の蕃民ら内附し、善政第一として田文鏡を河東総督とし、福建・広東の訛りのため正音書院で官話を学ばせた。

七年、雲南の卿雲を鄂爾泰が報じて阿思哈尼哈番を加えられた。司道の祝賀の中、大理の令の劉某だけが「目がかすんで慶雲が見えぬ」といい、鄂爾泰は長く黙り込んだ。河に功のあった靳輔・斉蘇勒の祠を建てさせ、広東の蜑戸を陸に上がらせ保甲に入れた。

八年、鳳凰・卿雲が奏され、丐戸の籍を除いて民に列し、棚民も保甲に入れ、黄河が澄み、京師の地震は一か月余りに及んだ。冬十月、白雲観の道人賈士芳を殺した。宮中で病を治療したが、経呪に「天地は我が主宰を聴き、鬼神は我が駆使に従う」の語があり、責めてもなお法術で崇りをなした。験のあった道人婁近垣は四十九日祈祷して患いを除き妙応真人とされ、士芳の親族の男十六以上は斬られた。十二月、煙草を禁じ、吸う者と売る者を枷と杖、再犯を充軍とした。阿片もイギリスから輸入され民間に吸う者が現れた。

九年、広東の生黎が内附し、旱で刑獄を整理し日食。十年も旱で刑獄を整理し、江南で大風・海嘯、景陵の瑞芝が奏された。十一年、諸省に書院を設立させ瑞麟が奏された。また刊本で胡・虜・夷・狄を空欄にし夷を彝、虜を鹵と改めるを大不敬の律で禁じた。忌み避けるのは満漢の別に拘泥し君臣の義に暗いのだと帝はいった。十二年、元旦の立春の雪を天の心の喜びだと喜び、河南学政兪鴻図は賄賂を受けて誅に伏した。

十三年、卿雲・麒麟が奏され生員が軍籍で糧を食むを禁じ、烈婦を表彰する例を停めた。秋八月、帝が崩じた。寿は五十八、諡は憲、廟号は世宗、泰陵に葬り、弘暦が嗣いで允禄・允礼・鄂爾泰・張廷玉が輔政した。西苑の道士張太虚らを追い払い、内監には内外に言を伝えるな違えば死罪と諭した。崩御の日、鄂爾泰は鞍も無い馬で駆けつけ禁中に七昼夜泊まったので、大行皇帝が刺されたという説が紛々と起こったのである。

編者曰く。世宗は天を敬い祥瑞を好んだ。藩邸で諸子が術士を養い太子を陥れるのを目にし、天の加護で大統を継いで諸藩を滅ぼした。志が満ちると長生を望んで道を学び、李衛・田文鏡の輩が賈士芳・婁近垣らを供奉させた。祈祷の祠が林立し、欽天監や大官は連珠・合璧、卿雲・嘉禾・麒麟・鳳凰、黄河の澄むことを奏して帝意に迎合した。世宗は外に謙虚を示しながら内心喜び、賈士芳を戮した後もなお張太虚らが侍った。群臣は猜疑の罪で臣下を戮し辱めるのを見慣れ、阿諛して発言しなかった。金石の薬で鼎湖に龍が昇り、高宗が即位して西苑の道士を追い払った。在位十三年、兵を用い財を斂め神仙の土木まで加えて海内を疲らせたが、大権が手中にあって政が下に移らず、英邁剛毅さは漢の武帝に劣らぬから始皇帝の跡は踏まなかった。後嗣が軟弱で母后に制せられ、義和神拳・紅灯照が濫觴となって強鄰の怒りに触れ、両宮は塵を蒙った。浅薄な法は子孫の常法となる。慎まずにおられようか。

年表

世宗雍正帝の一代十三年(1723年から1735年まで)の内政と、その英察が晩年に神仙・祥瑞へ傾いていった経緯を記す。即位の年に諭旨十一道を頒って紀綱を粛正し、儲位を密かに定める法を創って弘暦の名を「正大光明」の扁額の裏に納めた。楽籍・惰民・世僕・蜑戸・丐戸の賤籍を除き、丁銀を田畝に割り入れ、井田を設け、宗学・官学や直省の書院を立てるなど、制度の整備に努めた。他方で田文鏡・鄂爾泰らが嘉禾・卿雲・黄河澄清・麒麟の瑞を競って奏報し、帝は賈士芳・婁近垣ら道士を宮中に入れた。雍正十三年八月に五十八で崩じ、弘暦が嗣いで道士を追い払ったが、編者はその英邁剛毅を漢武帝・明世宗に比べつつ神仙への傾斜を戒めている。

年表(13件)

現代語訳全文

西暦1723年 世宗雍正元年

  • 春正月、諭旨十一道を頒ち、総督・巡撫・提督・総兵以下の文武の各官を訓戒した。帝は藩邸にあること四十余年、人情や世態について洞察していないものはなかった。当時の政治の腐敗が極点に達しているのを見て、慨然としてこれを整え粛正しようと思い、即位するとすぐに紀綱を振るい粛める詔を第一に頒った。
  • 二月、翰林・詹事の官で職に堪えない者を甄別し、職を解いて退かせるよう命じた。
  • 部の属官が他司の事務を兼ね摂ることを禁じた。
  • 三月、各省の総督・巡撫に諭して、幕客の姓名を名簿に作って部に報告させることとした。
  • 夏四月、山西・陝西の教坊の楽籍を除き、業を改めて良民とならせた。はじめ、明の建文の代替わりの際、燕王の兵に味方しなかった者を成祖は憎み、みな教坊に落とし入れ、代々賤しい業に就かせて平民と伍することを許さなかった。ここに至って特に取り消すよう命じたのである。
  • 五月、直隷巡撫の李維鈞に諭し、幾甸(畿甸の誤りか)の内の旗人・民および皇荘の内の人などで地方を騒がし害する者があれば、みな密かに奏上して報告せよとした。これより先、各地の旗人が横暴で、庶民は被害を受けていたが、地方の官吏は誰も手出しができなかった。帝はこれを知って、特に整え粛めるよう命じたのである。
  • 六月、孔子の先祖の代にみな王爵を加え封じた。
  • 秋七月、江南で大旱。
  • 隆科多・王頊齢を明史の監修官とし、徐元夢・張廷玉・朱軾・覚羅逢泰を総裁官とし、あわせて儒臣を慎重に選んで分担して修めさせ、さらに山林に隠れた学業を積んだ士で、心ばえが忠厚で常識が広く通じている者を訪ね、一同で編輯させた。
  • 湖南の地に試験場を建てるよう命じ、科ごとに別に考官を選ばせた。湖広の郷試を場を分けて行うのはこれより始まる。
  • 八月、官・民の人らが五爪の龍を織り出した紗や緞子を着用することを禁じた。
  • 王・大臣を乾清宮に召集し、皇太子を立てる事について宣諭した。帝は藩邸にいたとき、聖祖の諸子が儲位をうかがい、争奪が紛糾するのを親しく目にし、皇太子を立てる法制が善くなく、かえって弊害を生むことを深く知っていた。しかしきっぱりと廃止してしまえば国の根本が立たず、末長い計にはならない。そこで両者の間を折衷し、特に儲位を密かに定めておく法を創ってこれをよくしたのである。この日、帝は自ら第四子の弘暦の名を秘密の書にして封をした。諸王・大臣を召して入見させ、面と向かってそのわけを語り、そのまま密封した書を取らせ、宮中の最も高い処、「正大光明」の扁額の裏に置き、万一に備えさせた。これより後、この制度は遂に一代の家法となった。
  • 九月、律例を編纂するよう命じた。
  • 紹興府の惰民の籍を除いた。その業は楽籍と異なるところがないので、削除させたのである。
  • 冬十二月、天主教の宣教師を澳門に落ち着かせた。これより先、閩浙総督(底本は「閩督」に作る)の覚羅満保が疏して言った、「西洋人が省内で天主堂を建て、ひそかに住んで布教しており、人心が次第にそそのかし惑わされております。各省の教堂を公共の建物に改め、その宣教師は北京に送って技能を用いる者を除き、残りはみな澳門に落ち着かせるようお願いします」と。これに従った。

西暦1724年 二年

  • 春二月、刑部に諭した、およそ罪人は筋を断ち切られた後はそのまま廃人となるので、道理として慎重に審らかにすべきである、今後は満洲人でこれを犯した者については別に具さに奏上せよ、と。当時、帝はよく刑を慎むことができると称されたが、漢族が同様に恩恵に浴することができないのを惜しみ、皇帝の仁が広く及ばないことをひどく嘆いたという。
  • 『聖諭広訓』を頒った。聖祖御製の上論(「上諭」の誤りか)十六条について、文の意味を推し広げて万言を得、名づけて『聖諭広訓』といい、あわせて序を作って刊行し、天下に頒ち示した。
  • 夏閏四月、『大清会典』の続纂(原文は「績纂」。続纂の誤りか)を命じた。
  • 各省に対し、大きな都市で人家の密集した地区には、京師の例にならって普済堂を一か所設けるよう命じた。
  • 左右の両翼にそれぞれ宗学を一か所立てさせ、ついでさらに覚羅学八か所を添え設けて、宗室の子弟を教えさせた。咸安宮・景山の官学各一か所、八旗の官学八か所を設けて、八旗の子弟を教えさせた。当時、宗室・八旗の子弟は教育がなかったために、しばしば親族・貴顕の勢いを頼んでほしいままに威福をふるっていた。帝は特に学校を設けてこれを教育し、みな大儒を選んでその事を統べさせ、進士や挙人を教習とした。貴族に教育があるのはこれより始まる。
  • 六月、闕里の孔子廟が火災に遭った。この月の九日申の刻、激しい雷電があり、火が鴟吻の中から出て、大成殿および雨廡(両廡の誤りか)がともに焼けた。帝は聞いて、工部の堂官一名を山東に遣わし、巡撫と合同で修復させた。
  • 井田を設立した。内務府の余った土地および官に没収された地二百余傾(底本は「傾」に作る。「頃」の誤りか)を選んで八旗の職を持たない人に与えて耕作させた。全部で百戸、各々の田は百畝、周囲の八分を私田とし、中央の百畝を公田とし、力を合わせて共に公田を養い、三年後を待って公田に植えた穀物を徴収することとした。戸部に人員を派遣して村荘を設け家屋を建てさせ、人数を計って分け与えさせた。その耕作する人には、一名につき銀五十両を給して、種もみ・牛具・農具を買い整える費用とさせた。当時、八旗の職を持たない遊民は頑迷・怠惰に慣れて、しばしば不法の事があり、帝はこれを憂えていたが、たまたま戸部侍郎の塞徳が条を挙げて奏上してこの事に及び、帝は大いに喜び、これに従った。
  • 吏部尚書の田従典に大学士の職務を協理させた。
  • 秋八月、東南で海嘯。
  • 九月、各種の捐納(原文は「損納」。捐納の誤りか)の事例を停止した。西辺の軍務がまもなく終わろうとしていたからである。
  • 山西の丁銀を田畝に割り入れて(底本は「灘入」に作る。「攤入」の誤りか)徴収させた。
  • 冬十月、前明の宗室、銀・白旗(鑲白旗の誤りか)、正定府知府の朱之璉を一等侯に封じた。明室が滅亡して後、各地で兵を挙げて事を起こす者は決まって朱明の光復を口実としていた。聖祖は民の気持ちが平らかでなく、浮説に揺り動かされやすいことを知り、その思いを解き消す手立てを考え、明の後裔を一人訪ね出して、程よく官職を授けて明の祭祀を奉らせようとしたが、旨を発しないうちに崩じた。帝は即位すると、朝臣に詔してこれを訪ね求めさせた。ほどなく朝臣らは漢軍の知府朱之璉ら六人を引見させた。詔して之璉を一等侯に封じ、世襲とし、あわせて礼部とともに官を遣わして明の諸陵に祭告させ、終わればなお北京に帰って居住させた。
  • 十一月、兵・民らが葬儀を出すときに前に諸々の演芸を並べること、および前日に親友を集めて宴を設け芝居を演じることを厳禁した。
  • この年の八月、東南で海嘯。

西暦1725年 三年

  • 春正月、官を遣わして固安県の官有地二百頃を選んで井田とし、八旗の職を持たない人に受けて耕させた。
  • 欽天監が、本年二月二日庚午に日と月とが壁を合わせ(底本は「合壁」に作る。「合璧」の誤りか)、五星が珠を連ねると奏上した。史館に下して中外に頒ち示し、あわせて景陵に祭告するよう勅した。
  • 三月、浙江杭州府および江南華亭などの県の海塘を修めた。浙江の海塘の修築を監督する吏部尚書朱軾の請いに従ったのである。
  • 蘇州・松江の淳糧(漕糧の誤りか)を程よく減らした。戸部を管する怡親王の請いに従ったのである。
  • 台湾の陳阿難ら六社および山後の七十四社の生蕃が帰化した。
  • 夏五月、台湾の生蕃、巴・荖遠ら四社、貓仔ら十九社が帰化した。
  • 冬十二月、怡親王允祥らが直隷の水利・営田の事項三か条を陳べ奏した。一つは白衛淀の地などの河の状況ならびに付図、一つは薊などの各地に営田を設けること、一つは河工の官員を選抜すること。帝はこれを嘉して受け入れ、議して行わせた。
  • 先師孔子の諱について諭し、四書五経を除き、およそこの字に出会えば、みな偏旁を加えて「邱」の字とし、「期」の音で読ませることとした。

西暦1726年 四年

  • 春正月、黄銅の器皿の禁を厳しく立てた。すでに出来上がっているものは廃銅とし、官に引き渡して価を見積もって値を給する。もし再び製造する者があれば、例に違って禁制の物を造る律に照らして罪を科する。当時、制銭が日に日に少なくなっていたので、悪辣な民が私かに制銭を毀す弊害を防いだのである。御史の覚羅勒因特の言に従った。
  • 夏四月、雲南全省の地丁を畝内に割り入れて徴収させた。
  • 秋八月、河南巡撫の田文鏡が、豫省で産した嘉禾で多いものは十三穂に至るものを奏進した。帝は、文鏡が心を尽くし力を竭くして国のため民のために努めてこそ、初めて天の和を感じ召び寄せ、災いの気を変えて豊作を成すことができたのだと言い、伝諭して褒め励ますよう命じた。
  • 冬十二月、黄河が澄んだ。河南の陝州から江南の桃源県まで澄み清むこと二千里、経過すること三旬余りに及んだ。京の内外の官にはみな一級を加え、王公には紀録一次を与えるよう勅した。

西暦1727年 五年

  • 春三月、会試を改めて三月に挙行することとした。本年は閏月があって節気がやや遅く、二月はなお寒かったからである。後にこれが例となった。
  • ふたたび海禁を開いた。関督(「閩督」の誤りか)高其倬の請いに従ったのである。其倬の疏に言う、「福・興・漳・泉の府、五府は土地が狭く人が多く、その地の産物では実際の用に足りません。ふたたび海を開いて商人と民に恵みを与えるようお願いします」と。
  • はじめ、帝は、江南の徽州府には伴檔(伴儅の誤りか)があり、寧国府には世僕があって、その土地では細民と呼ばれ、ほとんど楽戸・惰民と同等であり、しかも両家の村荘が対等であるのに、この姓の者が彼の姓の者のために服役し、奴隸のようで、その主従の関係を全うしていることを知った。それが何から起こったのかは、まったく調べようがなかった。江都(「江督」=両江総督の誤りか)に詔して調べ明らかにし、議を定めさせた。礼部の議が認めたところに従い、安徽巡撫の魏延珍が奏請した、「今後、郷紳・生員の家で奴僕を売買して証文が調べられるもので、まだ身請けをしていない者は、本人および子孫はみな使役に任せる。年代が久しく遠くて証文が残っておらず、主家の養いを受けていない者については、一概に世僕の名で呼ぶことを許さず、永く厳禁とする」と。詔してこれに従った。
  • 冬十月、川陝総督の岳鍾琪が勅を奉じて建昌・冤山の蕃人を撫し、事が終わって、功を議して叙するよう命じた。
  • 冬十一月、八旗で射術を比べた者たちに銀両を賞し与えた。帝は瀛台に出御し、各省の武挙人の騎射を試験した後、八旗の人々の技芸と勇を見せびらかそうとして、特に衆人の前で射を比べさせた。用いた弓は十八個力から十三個力までまちまちであったが、重いものを軽々と挙げるようで、ゆったりとして法にかない、武挙人らはみな驚き服した。帝は大いに喜び、区別して銀両を賞し与えさせた。
  • 十二月、各省に六年に一度、抜擢の選考をさせることとした。
  • 各省の丁銀を田畝に割り入れて徴収するよう命じた。両江総督の范時繹の請いに従ったのである。

西暦1728年 雍正六年

  • 春正月、安南国の境内の地のうち旧境四十里を賜り返した。これより先、雲貴総督(底本は「滇督」に作る)の高其倬が、安南の国境を整理し、賭咒河に境を立てれば旧境百二十里を取り返せると奏請した。安南は承知せず、現任の総督である鄂爾泰に命じて調査させ、八十里を返し、鉛廠山の下の小河より内の四十里に境を立てた。安南はまた激しく訴え出た。帝はその地の山川の形勢が中と外とではっきり分かれていることを示して勅諭したところ、国王は表を奉って謝した。帝はその言葉の趣旨が恭順であるのを嘉し、なお四十里をこれに賜った。
  • 二月、四川越巂衛の官馬廠などの地の蕃民五百二十五戸、および会監営に属する木里剌麻六蔵塗部が、前後して内附した。
  • 夏五月、河南巡撫の田文鏡を河東総督に推し、河南・山東二省の事務を管理させた。その善政は直轄の諸省で第一であるというのである。後にはこれを例としなかった。
  • 秋八月、引見される人員が履歴を陳べ奏するとき、福建・広東両省の人は郷里の訛りが聞き取れないので、両省の総督・巡撫に命じて所属の各地方官に通達させ、伝え示して教え導かせた。ほどなく両省の総督・巡撫は命に従って正音書院を諸州県に建て、士人・庶民が官話の音を学習する場とした。

西暦1729年 七年

  • 春正月、雲南に卿雲が現れ、総督の鄂爾泰がこれを報告し、鄂爾泰に三等阿思哈尼哈番を加え、文武の各官にもみな差をつけて加級した。これより先、雲南に卿雲が現れたとき、布政使・按察使ら司道の官が総督府の庭に参って祝賀したが、大理の令の劉某だけが「私は目がかすんでおり、実は慶雲が見えません」と言った。鄂爾泰はそのために長いこと黙り込んだ。
  • 二月、両江総督の尹継善に諭して靳輔・斉蘇勒の祠を合わせ建てさせた。帝は、二人が前後して河を治め、民と社稷に功があるので、祀典を与えるべきだとしたのである。黄河に近い地方に祠を合わせ建て、役人が春秋に祭祀するよう命じた。
  • 夏五月、広東の海辺の蜑戸の籍を除き、保甲に編入した。蜑戸は船を家とし、陸に住むことができなかったが、ここに至って命が下された。その省の総督・巡撫はあまねく通達して諭し、陸に上がることを許し、一般の民と同じように保甲に編み入れさせた。
  • 秋九月、鄂爾泰が奏報した、「雲南白崖郷の平地から甘い泉が二筋湧き出ました。一つは仙女荘に出、一つは蝦蟆口に出ています」と。

西暦1730年 八年

  • 春正月、直隷総督の唐執玉が奏した、「鳳凰が房山に現れました」と。江寧織造の隨赫徳、山西巡撫の覚羅石麟も同じく奏した。
  • この月の朔、日食があったが見えなかった。
  • 夏五月、江蘇の常熟・昭文二県の丐戸の籍を除いた。(丐戸は)惰民と異なるところがなかった。ここに至ってその籍を削除し、一般の民に列した。その他、江西・浙江・福建に属する山県内の棚民も、前後して保甲に列し入れた。
  • 六月、甘粛に卿雲が現れ、巡撫の許容が奏した、「この月の十五日、旨に遵って河州口外に河神廟を造営しましたところ、たちまち瑞雲が日を捧げ、五色が文様をなしました」と。
  • 秋七月、甘粛の黄河が澄んだ。許容が奏して称した、この月の十五日、積石関から撒喇城・査漢達斯などの地まで百余里、黄河が底まで澄み透り、全部で三昼夜にわたった、と。
  • 八月、京師で地が大いに震えた。
  • 冬十月、白雲観の道人賈士芳を殺した。士芳は河南の人で、かつて京師の白雲観に住み、怡親王の推薦によって召し見られた。ほどなく暇を請うて河南に帰ったが、後にまた李衛・田文鏡が交々上章して薦めたので、宮中に入って病を治療した。経や呪を誦する中に「天地は我が主宰を聴き、鬼神は我が駆使に従う」という語があり、帝は厳しい旨をもってその妄りで荒唐なことを厳しく責めた。士芳はなお法術を行って崇り(底本は「崇」に作る。「祟」の誤りか)をなし、その意図は鬼魅にあった。当時、江西の道人婁近垣が召されて京に入り、宮中で幡を結んで鶴を招き、霊壇で雨を祈り、みな証拠となる効験があり、帝はこれを信じ、正大光明殿に住まわせていた。ここに至って、帝のために宮中で醮を設けて四十九日祈祷し、患いはようやく除かれた。近垣を妙応真人に封じた(底本は「封近垣這妙應真人」に作る。「這」は「為」の誤りか)。士芳は法に伏し、その親族は、男は十六歳以上をみな斬り、あわせて母・娘・妻妾は功臣の家に送って奴とした。
  • 江南で地震。
  • 十二月、煙草の禁を頒ち、吸う者と売る者は枷と杖に処し、再犯は辺境の遠地に充軍とした。阿片の煙は英吉利に産し、東印度の商船会(底本は「商船會」に作る。「商船會社」の脱か)によってこれを中国に輸入し、民間に初めて吸う者が現れたのである。
  • この年の八月、京師で地震があり、一か月余りに及んだ。十月、江南で地震。

西暦1731年 九年

  • 夏四月、広東の山・州・化などの州県の生黎が内附した。
  • 六月、旱のため、刑部に刑獄を(整理するよう。底本はここで語が足りない)命じた。
  • 冬十二月、朔、日食。

西暦1732年 十年

  • 夏五月、京師が旱であったので、刑獄を整理した。
  • 秋七月、江南で大風・海嘯。
  • 冬十月、大学士・九卿らが奏した、景陵の宝城の山に瑞芝が株を生じた、と。詔して史館に下した。

西暦1733年 十一年

  • 春正月、直轄の諸省に書院を設立するよう命じた。
  • 夏六月、山東巡撫の岳濬が奏した、「鉅野県の民、李思の家の牛が瑞麟を産みました」と。勅して史館に下し、あわせて中外に宣べ示した。
  • 民間で書籍を刊刻するとき、およそ胡・虜・夷・狄などの字に出会うたびに空欄とし(底本は「空向」に作る。「空匡」の誤りか)、あるいは字形・字音を改め変えて、夷を彝とし、虜を鹵とするような類のことを禁じ、犯す者は大不敬の律に照らして罪を治めることとした。忌み避ける者はこれを君を尊ぶことだと思っていたが、帝はそれは満と漢との区別の跡に拘泥(原文は「揂泥」。拘泥の誤りか)するものであり、かえって君臣の義に暗いのだと言ったという。
  • 秋七月、四川総督の黄廷桂が奏した、「塩亭県の牛が瑞麟を産みました」と。

西暦1734年 十二年

  • 春正月、元旦の立春の雪により、帝は大いに喜び、諸臣に語って言った、「これは天の心が喜びを示すものである。どうして慶事としないでいられようか」と。
  • 三月、河南学政の兪鴻図が賄賂を受けて私を営み、誅に伏した。
  • 秋七月、江南で大風、海嘯。

西暦1735年 十三年

  • 春正月、雲貴総督の尹継善が奏した、「十二年十二月二十九日、恭しくも聖誕の日に当たり、雲南の楚雄などの地に卿雲が現れました」と。同時に広東も奏し、やはりこの日に卿雲が現れたという。山東は寧陽県が麒麟を産んだと奏した。
  • 二月、文武の生員が軍籍に入って糧を食むことを禁じた。
  • 夏四月、烈婦を表彰する例を停止した。
  • 秋八月、帝が崩じた。寿は五十八。諡して憲といい、廟号は世宗、易州の太平峪に葬り、泰陵と号した。皇四子の弘暦が位を嗣ぎ、荘親王允禄・果親王允礼・大学士鄂爾泰・張廷玉が輔政した。
  • 道士の張太虚・王定乾らを追い払うよう諭した。これより先、世宗の時、太虚らは炉火による修煉の術をもって西苑に供奉していたが、ここに至って駆逐して郷里に帰らせるよう命じた。
  • 内監らに諭した、「国家の政事は妄りに誤り伝えることを許さず、外の言葉もまた内廷に伝え入れてはならぬ。違反する者は死罪とする」と。これより先、世宗が崩御した日、早朝は平常どおりであったが、午後に急に鄂爾泰を召して宮に入らせ、外ではすでに急死の知らせが言い触らされていた。鄂爾泰が入朝したとき、馬に鞍と轡が間に合わず、石炭運びの痩せ馬(底本は「煤贏」に作る。「煤騾」=石炭運びのラバの誤りか)に乗って駆け、股から血がしたたり落ちた。禁中に七昼夜(底本は「七盡夜」に作る。「盡」は「晝」の誤りか)泊まってようやく出て来た。当時は国家は太平で、年長の君が統を継ぐのであって、何の危うみ疑うところがあってこのように慌てふためいたのか。そこで大行皇帝が刺されたという説が紛々と起こり、それでこの諭があったのである。

史論(編者曰)

  • 編者曰く。世宗は自ら天を敬い神を信ずると称し、また祥瑞を言うことを好んだ。藩邸にいた時、聖祖の諸子の中で分不相応な望みをうかがう者たちが、それぞれ術士を養って秘密の工作を行い、皇太子を陥れようとするのを目にし、自身も危うく免れないところであった。そして自分(底本は「而已」に作る。「已」は「己」の誤りか)は散々に苦しめられながらも、ついに天の加護を得た。大統を継いで即位すると、次々に諸藩を切り滅ぼした。
  • 位が尊く志が満ち足りると、そこで今度は長生を望み、清虚を尊んで道を学ぶようになった。李衛・田文鏡の輩が、さらに心性の学をもってこれを導き、性宗や道教に通じ暁った賈士芳・婁近垣らの人を推薦して側近に供奉させ、養生を調え助けとすることができると言った。そのため十余年来、祈祷の祠が林立し、神に封を与えることがほぼ行き渡り、そこで欽天監および地方の大官が吉祥の瑞を奏報するようになった。珠が連なり璧が合するもの、瑞雪・卿雲、甘露・醴泉、嘉禾・芝草、麒麟・鳳凰、黄河の澄み清むこと、日食が見えないことの類をもって、帝の意に迎合したのである。
  • 世宗は外では謙虚な思いを示していたが、その言を聞いて内心喜び、帝王には真の姿があり、神霊は尋常のものではないと考えた。道士の婁近垣を招いて宮に入れたときには、鶴を招けば仙禽が庭に降り、雨を祈れば春の霖雨がたちまち降り注いだ。世宗はこれを信じ、喜んで神仙は招き寄せられるものだとして、これを尊んで妙応真人とし、光明殿の上に住まわせた。やがて宮中で崇り(底本は「崇」に作る。「祟」の誤りか)が起こるに及んで、賈士芳は獄に下されて戮せられたが、それでも張太虚・王定乾の徒がまた続々と(底本は「聯徧」に作る。「聯翩」の誤りか)入って侍った。
  • その時、大臣は禄を守って阿諛し(底本は「阿腴」に作る。「阿諛」の誤りか)、小臣は罪を畏れてただ従い、卑屈な者が朝廷に満ちて、あえて発言する者がいなかった。というのも、群臣は世宗が猜疑と誹謗の罪で臣下を戮し辱めるのを見慣れていたので、奥深い宮中の挙動については、あえて反対するところがなかったのである。
  • ついに金石の薬が燥り烈しく、鼎湖に龍が昇る(皇帝が崩ずる)に至り、高宗が位に即くと、はじめて西苑に供奉していた道士たちをことごとく追い払って故郷に帰らせた。世宗は在位十三年、兵を用い財を斂め、さらに神仙のための土木の役に至るまで、海内を疲れさせ耗らせた。幸いにも権が手中に握られ(底本は「在權在握」に作る。「大權在握」の誤りか)、政が下に移らなかったので、その英邁剛毅さは漢の武帝・明の世宗に劣らない。だから始皇帝や道君皇帝の跡を踏むには至らなかっただけである。
  • その後嗣が軟弱となり、母后に制せられるに及んで、義和神拳・紅灯照がそれを溢れさせる源(底本は「溢觴」に作る。「濫觴」の誤りか)となり、遂に強隣(底本は「強憐」に作る。「強鄰」の誤りか)の怒りに触れ、国はそれとともに破れた。連合軍は長駆して北京に入り、両宮は塵を蒙り、一たび倒れて振るわなかった。冷えた(浅薄な)ところに法を作れば、それが子孫の常法となる。慎まずにおられようか。
原文(底本)
世宗雍正元年,春正月,頒諭旨十一道,訓飭督撫提鎮以下文武各官。帝在藩邸四十餘年,於人情世態,無不洞悉。見當日政治腐敗,達於極點,慨然思有以整飭之,故即位即首頒振肅紀綱之詔。 二月,甄別翰林詹事官不職者,勒令解退。 禁部員兼攝他司事。 三月,諭各省督撫,應將幕客姓名造冊報部。 夏四月,除山西、陝西教坊樂籍,令改業為良。初,明建文鼎革之際,凡不附燕兵者,成祖惡之,均貶入教坊,使其世執賤業,不得與平民為伍,至是特令革除。 五月,諭直隸巡撫李維鈞,幾甸內旗民及皇莊內人等,有擾害地方者,皆密奏以聞。先是,所在旗人橫暴,小民受累,地方官吏莫敢誰何。帝知之,特令整飭。 六月,加封孔子先世俱為王爵。 秋七月,江南大旱。 以隆科多、王頊齡為明史監脩官,徐元夢、張廷玉、朱軾、覺羅逢泰為總裁官,並令其慎選儒臣分脩,再訪山林績學之士,存心忠厚,常識淹通者一同編輯。 命於湖南地方建立試院,每科另簡考官,湖廣鄉試分闈自此始。 八月,禁官民人等服用五爪龍紗緞。 召集王大臣於乾清宮宣諭建儲事。帝居藩邸時,親見聖祖諸子覬覦儲位,爭奪紛紜,深知建儲之法制不善,反滋流弊。若斷然廢去,又維國本不立,非所以計久長,乃折衷兩者之間,特創儲位密建法以善之。是日,親以四子弘曆名秘書加緘。召諸王大臣入見,面語其故,即命取密緘,置諸宮中最高處,正大光明扁額之後,以備不虞。自是而後,此制遂為一代家法。 九月,命纂脩律例。 除紹興府惰民籍,其業與樂籍無異,故令削除之。 冬十二月,安置天主教士於澳門。先是,閩督覺羅滿保疏言:『西洋人在自省起蓋天主堂,潛住行教,人心漸被煽惑。請將各省教堂改為公所,其宣教師除送京效力外,餘皆安插澳門。』從之。

  二年,春二月,諭刑部,凡罪犯割筋後即成廢人,理宜審慎,嗣後滿洲人犯此者,應另行具奏。時稱帝能慎刑,惜漢族不得一體沾惠,頗嘆皇仁之不廣云。 頒聖諭廣訓,以聖祖御製上論十六條,推衍文義得萬言,名曰《聖諭廣訓》,並製序刊行,頒示天下。 夏閏四月,命績纂《大清會典》。 命各省於通都大邑,人煙稠密之區,照京師例設普濟堂一所。 命左右兩翼各立宗學一所,尋復添設覺羅學八所,以教宗室子弟。咸安宮、景山官學各一所,八旗官學八所,以教八旗子弟。時宗室八旗子弟以無教育故,往往挾親貴之勢恣為威福,帝特設學校以教育之,皆簡大儒綜其事,以進士若舉人為之教習。貴族之有教育自此始。 六月,闕里孔廟災。是月九日申時,大雷電,火自鴟吻中出,大成殿及雨廡俱燬。帝聞,遣工部堂官一員往山東會同撫臣脩復。 設立井田,擇內務府餘地及入官地二百餘傾給與八旗無業人耕種,共一百戶,各田百畝,周圍八分為私田,中間百畝為公田,共力同養公田,俟三年後所種公田之穀,再行徵取,令戶部派員往設村莊蓋造房屋,計口分給。其耕種之人,每名給銀五十兩以為置辦種粒、牛具、農器之用。時八旗無業遊民多習於頑惰,常有不法之事,帝患之,適戶部侍郎塞德條奏及此,帝大喜,從之。 命吏部尚書田從典協理大學士。 秋八月,東南海嘯。 九月,停止各項損納事例,以西邊軍務將次告竣也。 命山西丁銀灘入田畝徵收。 冬十月,封前明宗室銀,白旗正定府知府朱之璉為一等侯。自明室覆亡後,各舉稱兵起事者輙以光復朱明為詞,聖祖知民氣不平,易為浮言搖動,思有以消納其思念,因欲訪明裔一人,量授官職以奉明祀,旨未發而崩。帝即位,詔廷臣訪求之。尋廷臣等以漢軍知府朱之璉等六人引見。詔封之璉一等侯,世襲,並令同禮部差官祭告明諸陵畢,仍回京居住。 十一月,嚴禁兵民等出殯時,前列諸戲及前一日聚集親友設筵演戲。 是年八月,東南海嘯,

  三年,春正月,遣官擇固安縣官地二百傾為井田,令八旗無業之人受耕。 欽天監奏本年二月二日庚午,日月合壁,五星聯珠,敕付史館頒示中外,並祭告景陵。 三月,脩浙江杭州府、江南華亭等縣海塘。從督脩浙江海塘,吏部尚書朱軾請也。 酌減蘇松淳糧,從管戶部怡王請也。 臺灣陳阿難等六社及山後七十四社生番歸化。 夏五月,臺灣生番巴、荖遠等四社,貓仔等十九社歸化。 冬十二月,怡親王允祥等陳奏直隸水利、營田事宜三欵:一白衛淀地等河情形並附圖;一薊等處各設營田;一揀選河員。帝嘉納之,著議行。諭先師孔子諱,除四書五經外,凡遇此字,俱加偏旁為邱字,讀作期音。

  四年,春正月,嚴立黃銅器皿之禁,已成者作廢銅,交官估價給值,儻再有制造者,照違例造禁物律治罪。時以制錢日少,故杜奸民私毀制錢之弊,從御史覺羅勒因特言也。夏四月,命雲南通省地丁攤入畝內徵收。秋八月,河南巡撫田文鏡奏進豫省所產嘉禾,有多至十三穗者,帝謂文鏡殫心竭力,為國為民,始能感召天和,化災祲而成豐稔,著傳諭嘉獎。冬十二月,黃河清,自河南陝州至江南桃源縣澂清二千里,經歷三旬有餘,勅京外官俱加一級,王公紀錄一次。

  五年,春三月,改會試其於三月舉行,以本年閏月,節氣稍遲,二月尚寒故,後遂為例。復開洋禁,從關督高其倬請也。其倬疏言:『福興漳泉府五府,地狹人稠,本地所產不敷實用,請復開洋以惠商民。』初,帝以江南徽州府有伴檔,寧國府有世僕,本地呼為細民,幾與樂戶、惰民相等,且有兩戶村莊相等,而此姓為彼姓服役,有如奴隸,完其主奴關係。何自而起,則茫然無考。詔江都查明定議。遵禮部議准,皖撫魏延珍奏請:『嗣後紳衿家典賣奴僕有文契可考,未贖身者,本身及子孫俱聽從役使,至於年代久遠,文契無存,不受主家豢養者,慨不得以世僕名之,永行嚴禁。』詔從之。冬十月,川陝總督岳鐘琪勅撫建昌、冤山、番人,事竣,命議敘。冬十一月,賞給八旗校射人等銀兩。帝御瀛臺,考試各省武舉騎射後,欲炫耀八旗人等藝勇,特令當眾較射,所用之弓,十八個力至十三個力不等,舉重若輕,從容合度,武舉等皆驚服。帝大悅,令分別賞給銀兩。十二月,令各省六年選拔一次。命各省丁銀攤入田畝徵收,從江督范時繹請也。

  雍正六年,春正月,賜還安南國界內地舊境四十里。先是,滇督高其倬奏請,清理安南疆界,應於賭咒河立界,可收回舊境百二十里。安南不允,命現任督臣鄂爾泰清查,給還八十里,於鉛廠山下小河以內四十里立界,安南復激切申訴。帝以其地山川形勢,中外截然勅諭之,國王乃表謝,帝嘉其詞旨恭順,仍以四十里賜之。二月,四川越巂衛官馬廠等處番民五百二十五戶及會監營所屬木里剌麻六藏塗部,先後內附。夏五月,推河南巡撫田文鏡為河東總督,管理河南、山東二省事務,謂其善政為直省第一也。後不為例。秋八月,以引見人員陳奏履歷,閩粵兩省人鄉音不可通曉,令兩省督撫轉飭所屬各地方官,傳示教導,尋兩省督撫遵建正音書院於諸州縣,以為士民學習官音之地。

  七年,春正月,雲南卿雲見,督臣鄂爾泰以聞,加鄂爾泰三等阿思哈尼哈番,文武各官俱加級有差。先是,雲南卿雲見,司道詣督府庭賀,大理令劉某獨曰:『某眼眯,實不見慶雲。』鄂爾泰為之默然者久之。二月,諭兩江總督尹繼善合建靳輔、齊蘇勒祠,帝以二人先後治河,有功民社,應予祀典。著於黃河就近地方,合建祠宇,有司春秋祭祀。夏五月,除廣東濱海蜑戶籍,編入保甲。蜑戶以船為家,不得陸居,至是飭。該省督撫通飭曉諭,准其登岸,與齊民一同編列保甲。秋九月,鄂爾泰奏報:『雲南白崖鄉平地湧出甘泉二股,一出仙女莊,一出蝦蟆口。』

  八年,春正月,直隸總督唐執玉奏:『鳳凰見於房山。』江寧織造隨赫德、山西巡撫覺羅石麟同奏。是月朔,日食不見。夏五月,除江蘇常熟、昭文二縣丐戶籍,與惰民無異。至是削除其籍,列為編氓,餘如江西、浙江、福建所屬山縣內棚民,亦先後列入保甲。六月,甘肅卿雲見,撫臣許容奏:『是月十五日,遵旨於河州口外營建河神廟,即有祥雲捧日,五色成文。』秋七月,甘肅黃河清,許容奏稱:是月十五日,自積石關至撒喇城、查漢達斯等處百餘里,黃河澂清徹底,凡歷三畫夜。八月,京師地大震。冬十月,殺白雲觀道人賈士芳。士芳河南人,曾居京師白雲觀,以怡王薦召見,尋假歸河南,後復以李衛、田文鏡交章薦入宮治疾,因誦經咒,有「天地聽我主持,鬼神歸我驅使」之語,帝嚴旨切責其妄誕。士芳仍作法為崇,意在鬼魅。時江西道人婁近垣被召入京,於宮中結幡招鶴,靈壇禱雨,皆有左騐,帝信之,命居正大光明殿。至是,為帝設醮宮中祈禱四十九日,患始除,封近垣這妙應真人。士芳伏法,其親屬,男年十六以上皆斬,並母女妻妾發功臣家為奴。江南地震。十二月,頒煙禁,吸食者與販賣者枷杖,再犯邊遠充軍。鴉片煙產自英吉利,自東印度商船會,以之輸入中國,民間始有吸食者。是年八月,京師地震,至一月有餘。十月,江南地震。

  九年,夏四月,廣東山、州、化等州縣生黎內附。六月,以旱,命刑部刑獄。冬十二月,朔,日食。

  十年,夏五月,以京師旱,清理刑獄。秋七月,江南大風、海嘯。冬十月,大學士、九卿等奏:景陵寶城山產瑞芝本,詔付史館。

  十一年,春正月,命直省設立書院。夏六月,山東巡撫岳濬奏:『钜野縣民李思家牛產瑞麟。』勅付史館,並宣示中外。禁民間刊刻書籍,凡遇胡、虜、夷、狄等字,每作空向,又或改易形聲,如以夷為彝,虜為鹵之類,犯者照大不敬律治罪。在避忌諱者以此為尊君,而帝則謂揂泥滿漢之形跡,反昧於君臣之義云。秋七月,四川總督黃廷桂奏:『鹽亭縣牛產瑞麟。』

  十二年,春正月,以元旦立春雪,帝大悅,語諸臣曰:『此天心所以示喜也,豈得不以為慶!』三月,河南學政俞鴻圖受賄營私,伏誅。秋七月,江南大風,海嘯。

  十三年,春正月,雲貴總督尹繼善奏:『十二年十二月二十九日,恭逢聖誕之辰,雲南楚雄等處卿雲見。』同時廣東奏,亦於是日卿雲見,山東奏寧陽縣產麒麟。二月,禁文武生員入伍食糧。夏四月,停旌表烈婦之例。秋八月,帝崩,壽五十有八,諡曰憲,廟號世宗,葬易州太平峪,號泰陵。皇四子弘曆嗣位,以莊王允祿,果王允禮,大學士鄂爾泰、張廷玉輔政。諭逐道士張太虛、王定乾等。先是,世宗時,太虛等以爐火脩煉之術供奉西苑,至是命驅逐回籍。諭內監等:『國家政事,毋許妄行傳訛,外言亦無得傳入內廷,違者正法。』先是,世宗升遐之日,早朝如常,午後忽召鄂爾泰入宮,外間已宣傳暴崩之耗矣。鄂爾泰入朝時,馬不及鞍轡,騎煤贏而奔,髀血涔涔下,宿禁中七盡夜始出。時值國家承平,長君繼統,何所危疑而倉皇若此?於是大行被刺之說紛起,因有是諭。

  編者曰:世宗自謂敬天信神,又喜言祥瑞。在藩邸時,見聖祖諸子中覬覦非分者,各蓄養術士為秘密之運動,以傾陷儲宮,身幾不免。而已雖備遭齮齕,卒獲玄佑。及入纘大統,次第翦滅諸藩。位尊志盈,遂復希冀長生,清虛學道。李衛、田文鏡輩,復以心性之學導之,表薦通曉性宗道教者賈士芳、婁近垣等人,供奉左右,謂可為調攝熙養之助,故十餘年來,禱祠林立,封神殆遍,於是欽天監及封疆奏報嘉祥。如珠聯壁合、瑞雪卿雲、甘露醴泉、嘉禾芝草、麒麟鳳凰、黃河澂清、日食不見之屬以逢迎之。世宗雖外示謙懷,聞言內喜,以為帝王有真,神靈非常,方其延道士婁近垣入宮也。招鶴則仙禽降庭,禱雨則春霖立霈,世宗信之,欣然以神仙可致,尊之為妙應真人,居之於光明殿上。迨至宮中崇作,賈士芳下獄被戮,而張太虛、王定乾之徒復聯徧入侍。其時大臣持祿為阿腴,小臣畏罪而將順,淟涊盈庭,無敢發言者,則群臣習見夫世宗以猜疑誹謗戮辱臣下,故於深宮之舉動,未敢有所反對也。直至金石燥烈,鼎湖龍升,高宗踐阼,始盡逐西苑供奉諸道士還故里,以世宗在位十三年,用兵斂財(世宗在位時,特置封椿庫於內閣之東,一切贓欵羨餘銀兩存在焉,末年至三千餘萬。)以至神仙土木之役,疲耗海內。幸以在權在握,政不下移,其英毅不減於漢武帝、明世宗。故未為始皇道君之績耳。迨其後嗣孱弱,受制母后,義和神拳、紅燈照為之溢觴,遂致觸怒強憐,國隨以破。聯軍長驅入北京,兩宮蒙塵,一蹶不振。作法於涼,為子孫常,可不慎歟?

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