清史紀事本末度を越した巡遊(巡游之無度)

要約

乾隆六年七月、太后を奉じて木蘭で巻き狩りをし、御史叢洞の諫めを聞かず、これより毎年七月に狩り、九月か十一月に還った。はじめ蘇州の風景を慕い訥親に道筋を調べさせたが、風景とは言えぬと復命してやめた。八年に興京・盛京、十年に多倫諾爾、十一年に五台山へ行った。

十三年二月、太后と后を伴い東巡し、孔林・岱嶽廟に詣で岱山に登り、還御の途上、徳州で后富察氏が崩じた。后が他の舟から帝の夜宴に来て強く諫めたが、酔った帝がののしり責めたので、恥じ憤って水に落ちて死んだ。帝は悔いて葬送の儀典を手厚くした。

十六年正月、南巡した。二月、蘇州で霊巌の梅を称えると、内大臣の博爾奔察が刀を抜き、この木が円明園になく陛下に川や湖を越えさせるのが恨めしいと諷した。八月、顧棟高が老病で辞し、帝が将来江南で会おうと言うと、なお南巡なさるのかと言われて黙り込んだ。

さきに十四年十月、江督の黄廷桂が紳民の願いとして行幸を請い、設営の督責が厳しく属吏は苦しんだ。十八年二月、江西撫州衙千総の盧魯生を磔にし、子二人と守備の劉時達を殺した。魯生らは大学士の孫嘉淦が南巡を諫め止めたとの上奏の草稿を偽作し、乗輿を指弾し鄂爾泰・張廷玉らを弾劾する内容が遠近に広まった。滇督の碩色が真相を得たが、連座は千人近く七、八省に及び、嘉淦も憂死した。

二十二年正月、南巡して蘇州・杭州・江寧に行幸し、闕里で釈奠した。帝は毎年四、五月に熱河で避暑して狩りをし、八、九月に燕京へ帰るのを常とし、避暑山荘七十二か所を建てて数十里を囲い、費用は億万を数えた。二十四年、帝が避暑山荘の名に恥じぬと言うと、博爾奔察は皇帝の荘はまことに避暑、百姓はやはり熱河のまま、という民間の諺を挙げ、帝は憤った。

二十六年十一月、太后の七十の万寿に、万寿寺のそばに江南風の市街を数里造って蘇州街と名づけ、同楽園にも売り買いの街を設けて楽しんだ。毎年の竈祭りには坤寧宮で自ら鼓と拍子板を打ち訪賢の一曲を歌い、嘉慶にやめた。二十八年五月、増水した河を馬で渡ろうとすると、按察使の三保が太后の輿は何を頼りに渡るのかと諫め止めた。三十年閏二月、斉召南に天台・雁宕を尋ねると、老母があり孝子は高きに登らぬゆえ遊ばぬと答え、帝は還御した。

三十一年七月、后の那拉氏が崩じ、妃の礼で葬らせた。さきに杭州での深夜の微行を涙して諫めたので、狂気の病として先に京へ帰らせ、廃そうとした。諫めた刑部侍郎の覚羅阿永阿を黒龍江に戍らせ、母を言い立てた刑部尚書の銭汝誠も退けたが、后は廃されずにすんだ。三年の喪を請うた御史の李明玉も伊犁に戍られ、二人は辺境で死んだ。

二十一年に準噶爾、三十六年に金川の平定を孔廟に告げ、四十八年、和闐の玉で新たな冊宝ができたので盛京へ行き古い冊宝を太廟に納めた。五十五年、東巡の還御の途上、涿州で僧侶が幼い子を連れて出迎え、皇四子履郡王永珹の子だと言ったが、偽りとされて僧侶は斬られ、子も伊犁に戍られ、のち皇孫と称して斬られた。五十七年、台麓寺行宮に堆撥も伝籌も設けず随行の王大臣が厳議された。五十九年、天津に行幸し、銀三万両を龍舟の費用に賞賜した。

編者はいう、康熙の朝に六度の南巡があり、乾隆もならって南巡六度、東巡七度、西巡五度、盛京・天津・熱河への行幸は記しきれない。六十年の間、春は東南に巡幸し秋は木蘭で狩りをして空しい年はなく、内禅後の三年も同じであった。郡邑では租税を減らしもしたが、供応のわずらわしさに住民は堪えず、抗弁すれば厳しい譴責が続いた。編修の杭世駿は弊害は百姓に及ぶと奏して重刑に処せられかけ、観保の諫めで郷里に帰された。尹会一は南巡で怨みの声が道に満ちると奏し、誰の怨み言かと詰問されて左遷された。紀昀が東南の財力は尽きたと言うと、帝はみだりに国事を論ずるのかとしかった。尹壮図も倉庫の欠け減りを奏して革職された。これより後、朝臣は舌を結んで民のために命乞いする者はなく、民を疲れさせ財を損ない、末の運に至って中国に安らかな年はなかった、と。

年表

乾隆六年(1741年)から五十九年(1794年)まで、高宗が木蘭の巻き狩り、南巡六度、東巡七度、西巡五度をはじめ、盛京・天津・熱河・河南へ絶え間なく行幸を重ねた記録である。訥親・博爾奔察・顧棟高・斉召南・三保らは折にふれて諷諫し、皇后富察氏は徳州の舟中で諫めて水に落ちて死に、后那拉氏は杭州の微行を諫めて廃されかけ、妃の礼で葬られた。行幸に伴う供応の負担は民を苦しめ、乾隆十八年には偽の孫嘉淦奏稿事件で千人近くが連座した。杭世駿・尹会一・紀昀・尹壮図ら諫言した朝臣は譴責・左遷を受け、以後は誰も民のために口を開かなくなったと編者は論じる。

年表(30件)

現代語訳全文

西暦1741年 高宗乾隆六年

  • 秋七月、帝は太后を奉じて木蘭に行幸して巻き狩りを行った。御史叢洞が上奏して諫めたが、聞き入れなかった。これより毎年七月に木蘭で狩りをし、九月あるいは十一月になってはじめて京師に還った。
  • はじめ、帝は蘇州の風景を慕い、南巡しようとして、大学士訥親を江浙に遣わして道筋を調べさせた。訥親は復命して奏した、『蘇州では城外でただ虎邱が名勝と称されますが、実際のところは墳の土盛りの大きなものにすぎません。城中では街路が河に臨み、河筋は狭く迫っていて、舟がびっしり寄り集まり(底本は「翼船𣏰集」に作る。「𣏰」は不通字)、午後になるとそのつど臭くて耐えられず、風景などと言えたものではございません。』帝はこれを聞いてやめにした。

西暦1743年 乾隆八年

  • 秋九月、帝は太后を奉じて興京・盛京に行幸した。
  • 冬十月、京師に還った。

西暦1745年 乾隆十年

  • 秋七月、帝は太后を奉じて多倫諾爾に行幸した。
  • 九月、京師に還った。

西暦1746年 乾隆十一年

  • 秋七月、帝は太后を奉じて西巡し、五台山に行幸した。慶都県を改めて『望都』とした。堯の生母の名を避けたためである。

西暦1748年 乾隆十三年

  • 春二月、帝は太后を奉じ、后を率いて東巡し、趙北口に駐まり、太后に侍して水上の巻き狩りを臨席して見た。曲阜に至って孔林に詣で、泰安に至って岱嶽廟に詣で、岱山に登った。
  • 三月、済南に駐まり、趵突泉に行幸し、太后に侍して閲兵した。歴下亭に行幸し、還御の途上、徳州に至った。后が崩じ、荘王・和王に命じて太后を奉じてゆるやかな道程で京に帰らせた。
  • 后の富察氏は性質が厳かで重々しく、旅の宿りにあっても、永巷の規(後宮の掟)を忘れなかった。この日、帝は舟中で夜の宴を開いていたが、后が別の舟から来て、事にかこつけて諫めをたてまつり、その言葉はかなり激しく切実であった。このとき帝はすでに酒に酔っており、怒って、ひどくののしり責めた。后は恥じ憤り(底本「近」は字を誤るか)、足を踏み外して水に落ちて死んだ。帝は酔いが醒めると大いに悔い、留まって殯と納棺に付き添い、終わると自ら柩に付き添って京師に返り、葬送の儀典は、ほかの后たちに比べてひときわ手厚かった。

西暦1750年 乾隆十五年

  • 春二月、帝は太后を奉じて西巡し、五台山に行幸した。
  • 三月、京師に還った。
  • 冬十月、帝は太后を奉じて河南に行幸し、中嶽廟に詣で、嵩山に登り、開封に駐まって閲兵し、吹古臺に行幸した。
  • 十一月、京師に還った。

西暦1751年 乾隆十六年

  • 春正月、帝は太后を奉じて南巡した。
  • 二月、蘇州に至り、霊巌の梅が一抱えもあるのを見て、帝は感嘆して称賛してやまなかった。このとき内大臣博爾奔察がかたわらにおり、刀を抜いて木を斬ろうとする格好をした。帝が驚いて問うと、答えて言った、『この木が円明園に生えておらず、陛下に川や湖を越える難儀をおさせするのが恨めしいのです。』帝はそれが自分を風刺していることを知り、久しく機嫌が悪かった。
  • 三月、杭州に至り、観潮楼に行幸して閲兵し、銭塘江を渡り、禹陵を祭り、還って杭州に駐まり、閲兵した。江南の学生たちを召して試験し、蔣雍ら五人に挙人を賜い、あわせて進士孫夢選とともに内閣中書とした。
  • 夏四月、泰安に駐まり、東嶽を祀った。
  • 五月、京師に還った。
  • 秋八月、経学で保挙された顧棟高を放って帰らせた。棟高は経学で保挙されたが赴かず、諭して国子監司業の位を与えた。地方の大官が無理やり輿に乗せて都へ入らせ、召されて答えるに及ぶと、また老病で職に堪えられないと辞退した。帝はこれを許して言った、『そなたの年の衰えを憐れむ。それゆえ本籍に帰って養生することを許すのだ。将来わたしが巡って江南に至れば、なお会うこともできよう。』棟高は言った、『陛下はなお南巡なさろうとお思いなのですか。』帝は黙り込み、まもなく放って山に帰らせた。

西暦1753年 乾隆十八年

  • 春二月、江西撫州衙千総盧魯生を磔にし、あわせてその子の盧錫齢・盧錫栄および南昌衛守備劉時達を殺した。
  • これより先、乾隆十四年十月、江督黄廷桂が、その省の紳士・長老・士人・庶民が、翠華が臨幸されることを共に願っていると報告して入れた。帝は大いに喜び、穏やかな旨をもって許可を伝えた。廷桂は眉を上げ厳しい顔つきで、出迎えの設営を取りしきったが(底本は「供張辦」に作る。脱字か)、督促と責め立てが度を越して厳しく、属吏はこれに苦しんだ。
  • このころ大学士孫嘉淦という者がおり、雍正の初年、検討の職にあって密封の上書を三つたてまつり、『骨肉を親しむこと、捐納をやめること、西征を罷めること』と言った。これによって剛直の名声が天下を震わせ、帝の代に至ってとりわけこれを頼りにし、およそ言うことで容れられぬものはなかった。魯生はそこで時達らとともに、嘉淦が南巡を諫め止めたという上奏の草稿を偽作した。万言に及び、乗輿(天子)を指弾し、閣臣鄂爾泰・張廷玉らを弾劾する内容で、遠近に広まった。乾隆十六年八月から、滇督碩色がこの事を摘発し、一年余りにわたって徹底的に取り調べ、ここに至ってはじめて真相が得られた。
  • この一件では、文武の官吏で連座して罪を得た者は千人近くに及び、七、八の省にまで広がった。嘉淦もこれ以来落ち着かず、まもなく憂いのうちに死んだ。

西暦1756年 乾隆二十一年

  • 春二月、帝は東巡して孔林に詣でた。準噶爾を平定したので、孔廟に功を告げたのである。
  • 三月、京師に還った。

西暦1757年 乾隆二十二年

  • 春正月、帝は太后を奉じて南巡した。
  • 二月、蘇州・杭州に行幸した。
  • 三月、江寧に行幸した。
  • 夏四月、闕里に行幸し、孔廟に釈奠した。
  • 五月、木蘭に行幸して避暑した。
  • 秋九月、京師に還った。
  • 帝は毎年四、五月に夏に入ると熱河へ行って避暑し、あわせて巻き狩りを行い(底本は「且行圍馬」に作る。「馬」は衍字か)、八、九月に天気がしだいに涼しくなると燕京へ帰るのを、年ごとの常とした。今この年についてはその往復をすべて記したが、他の年は詳しく載せない。

西暦1759年 乾隆二十四年

  • 夏五月、帝は木蘭にあった。これより先、道すがらに避暑山荘七十二か所を建て、数十里の土地を囲い込み、さまざまな時の花を植え、あちこちに亭や榭を配置し、その費用はおよそ億万と数えられた。
  • ある日、帝は遊んで蒼石に至り、四方を見回すと茂った樹木と長い竹があり、緑の草は敷物のようで、涼風がそよそよと吹き、ほとんど盛夏が来ようとしていることに気づかぬほどであった。帝はこれを眺めて楽しみ、内大臣博爾奔察に語って言った、『これはまことに避暑山荘の名に恥じぬものだ。』
  • 答えて言った、『陛下は宮の内について仰せになったにすぎません。外のほうはと申しますと、町は狭く、家屋は低く小さく、人民はみなその中に蝸牛のように押し込まれ、その上に家々の竈が続いていて、炎熱はまことにはなはだしゅうございます。それゆえ民間に諺があって、「皇帝の荘はまことに避暑、百姓はやはり熱河のまま」と申します。』帝は憤って手を振って退出させ、このために何日も機嫌が悪かった。

西暦1761年 乾隆二十六年

  • 春二月、帝は太后を奉じて西巡し、五台山に行幸した。
  • 三月、正定に至って閲兵し、平陽淀に至って狩りを行い、京師に還った。
  • 冬十一月、太后の七十の万寿にあたり、帝は后が江南の風景を喜ぶので、万寿寺のそばに家を造り、江南の様式にならい、市の店舗や町並み・路地をすべて備え、長さは数里にも及んだ。鑾輿を奉じて行き来して遊び、これを名づけて蘇州街といった。
  • また同楽園に売り買いの街を設け、およそ骨董・古着から酒屋・茶の炉に至るまで、備わらぬものはなく、小さな籠を提げて瓜の種を売る者まで備えられていた(底本は「售瓜子得」に作る。「得」は「者」の誤りか)。諸大臣は園に入って物を買い、あるいは酒場や飯屋に集まって飲み食いした。帝は店の門にさしかかると、給仕が料理を呼ばわり、小僧が勘定を告げ、帳場の者が計算する声が、さまざまに入り混じってにぎやかに一時に起こるのを聞き、帝はそのたびに眺めて楽しんだ。
  • また毎年の竈祭りの日には、坤寧宮正室の炕の上に鼓と拍子板を置き、后が先に至り、帝が続いて至り、自ら鼓と拍子板を打って訪賢の一曲を歌い、執事の官は鶴のように立ち並んで取り巻いて聴き、歌い終わると神を送り、帝は立って宮に還った。嘉慶のときに至ってはじめてやめになった。

西暦1762年 乾隆二十七年

  • 春正月、帝は太后を奉じて南巡した。
  • 二月、京口に至って閲兵し、焦山・蘇州に行幸した。
  • 三月、杭州・江寧に行幸した。
  • 夏四月、荘主に命じて太后に侍して京へ帰らせた(「莊王」の誤りか)。帝は徐州から曲阜に至って孔林に詣で、岱廟を祭った。
  • 五月、京師に還った。

西暦1763年 乾隆二十八年

  • 夏五月、帝は太后を奉じて木蘭に行幸して巻き狩りを行い(底本は「行園」に作る。「行圍」の誤りか)、承徳に至った。このとき長雨が十日続き、河の水は激しく増していた。帝は馬に乗って河を渡ろうとしたが、按察使三保が馬を引き止めて諫めた。帝が満洲の古い習わしでは労苦に慣れ武を尊ぶのだと言うと、三保は答えて言った、『陛下は太后を奉じて輿とともにお越しになっております。たとえ陛下が河を渡って無事であられても、太后の輿は何を頼りにして渡るのでございましょうか。』帝は顔色を動かして営に帰った。

西暦1765年 乾隆三十年

  • 春正月、帝は太后を奉じて南巡した。
  • 閏二月、蘇州・杭州に至り、東浙に行幸しようとして、侍郎斉召南を召し入れ、天台・雁宕の勝景について尋ねた。召南は遊覧したことがないと答えた。帝は言った、『そなたの本籍は台州であるのに、なぜ行かぬのか。』答えて言った、『山勢は険しくそばだち、谷川の流れは深くけわしゅうございます。臣には老母がおります。孝子は高きに登らず、深きに臨まぬものでございますから、あえて遊びに行かぬのでございます。』帝はこのとき太后を奉じて南へ来ており、これを聞いてそのまま還御を命じた。
  • 三月、焦山に行幸し、江寧に駐まり、江神を祭った。
  • 夏四月、京師に還った。

西暦1766年 乾隆三十一年

  • 秋七月、后の那拉氏が崩じ、妃の礼をもって葬るよう命じた。
  • これより先、三十年閏二月、帝は杭州にあり、かつて深夜に微行して岸に上がって遊んだ。后は力を尽くして諫め止め、涙を流すまでになった。帝は后が狂気の病だと言い、先に京へ帰らせた。還御ののち、后は病を理由に廃されようとした。刑部侍郎覚羅阿永阿は諫めようとしたが、母が老いているので躊躇した。母がこれを諭し、阿永阿は涙を流して母に別れを告げ、堂々と上奏した。帝は大いに怒って言った、『阿某は覚羅の近臣でありながら、あえて漢人の悪い習わしを踏み、自分一身の名声を求めるのか。』そこで九卿を召して罪を議させた。閣臣陳宏謀は愚を装い、みな曖昧な態度でその間を過ごした。刑部尚書銭汝誠だけが言った、『阿永阿には母が家におります。忠を尽くせば孝を尽くすことができません。』帝はこれをしかって言った、『銭陳羣は老病で家におる。そなたは一人息子である。なぜ家に帰って孝を尽くさぬのか。』そこで阿永阿を黒龍江に戍らせ、汝誠を退けて親を養わせ、后は廃されずにすんだ。
  • ここに至って后が崩じると、諭して、すべての喪の儀礼は皇后としての大事の例に従って行うのは適当でなく、ただ妃の例に照らして行うべきであるとし、内務府に引き渡して取りしきらせた。御史李明玉がさらに上奏して三年間の喪を行うよう請うたが、これもまた伊犁に戍らされた。二人は前後して辺境で死んだ。

西暦1767年 乾隆三十二年

  • 春二月、帝は天津に行幸した。
  • 三月、京師に還った。

西暦1770年 乾隆三十五年

  • 春三月、帝は太后を奉じて東巡し、まもなく京師に還った。

西暦1771年 乾隆三十六年

  • 春二月、帝は太后を奉じて東巡した。金川が平定されたので、孔廟に告げたのである。
  • 三月、岱廟に詣で、泰山に登り、孔林に詣でた。
  • 夏四月、京師に還った。

西暦1776年 乾隆四十一年

  • 春二月、帝は太后を奉じて東巡した。
  • 三月、徳州に至り、泰山に登り、孔林に詣で、山東および各省で召し出して試験した諸生黄道㷡ら三人に挙人を賜い、挙人竇汝翼ら二人に内閣中書を賜った。
  • 夏四月、京師に還った。

西暦1778年 乾隆四十三年

  • 秋七月、帝は盛京に行幸した。
  • 八月、京師に還った。

西暦1780年 乾隆四十五年

  • 春二月、帝は南巡し、焦山・蘇州に行幸した。
  • 三月、海寧に行幸して潮を観、尖山に行幸し、杭州から江寧に至った。
  • 夏五月、京師に還った。

西暦1781年 乾隆四十六年

  • 春二月、帝は東巡し、五台山に行幸した。
  • 三月、京師に還った。

西暦1783年 乾隆四十八年

  • 秋八月、帝は盛京に行幸した。和闐の玉で新たに造った歴代の冊宝ができあがったので、自ら古い冊宝を送って盛京太廟に納めたのである。
  • 九月、京師に還った。

西暦1784年 乾隆四十九年

  • 春正月、帝は南巡した。
  • 二月、曲阜に駐まり、孔林に詣でた。
  • 三月、金山・焦山・蘇州・海寧・尖山・杭州に行幸し、そのまま蘇州に至った。
  • 三月、江寧に行幸し、張家楼に至り、江を渡って京師に還った。

西暦1786年 乾隆五十一年

  • 春三月、帝は西巡し、五台山に行幸した。
  • 三月、京師に還った。

西暦1788年 乾隆五十三年

  • 春二月、帝は天津に行幸し、まもなく京師に還った。

西暦1790年 乾隆五十五年

  • 春二月、帝は東巡し、泰安に至り、岱山に登り、曲阜に至って孔廟・孔林に詣で、還御した。涿州に至ったとき、ある僧侶が一人の幼い子どもを連れて行列を出迎え、この子は皇四子履郡王永珹の子であり、次妃の王氏が妬んだために、産着のうちに追い出されたのだと言った。帝はその子どもを都に入れ、軍機大臣を集めて取り調べさせた(底本「會軍大臣」は字を欠くか)。司官保成が偽りであると指摘したので、僧侶を市で斬り、子どもを伊犁に戍らせた。のちに松筠が、その者は自ら皇孫と称して愚かな民をたぶらかしていると奏したので、これを斬った。
  • 夏五月、京師に還った(底本「還自京師」は「還京師」の誤りか)。

西暦1792年 乾隆五十七年

  • 春三月、帝は西巡し、五台山に行幸した。
  • 夏五月、木蘭に行幸して避暑した。台麓寺行宮北垣外に堆撥(歩哨所)を設けず、また伝籌(夜警の札回し)も行わなかったとして、随行していた王大臣らはみな厳しく処分を議された。
  • 秋九月、京師に還った。

西暦1794年 乾隆五十九年

  • 春三月、帝は天津に行幸し、銀三万両を賞として与え、津淀揚芬港で龍舟をあらかじめ用意する費用とした。
  • 夏四月、京師に還った。

史論(編者曰)

  • 編者は言う。康熙の朝では、河の巡視にことよせて、六度の南巡の挙があった。乾隆のときに至っては、その旧例にならい、南巡もまた六度、東巡は七度、西巡は五度に及んだ。盛京と興京、近畿の天津・保定・熱河・河南に至っては、車駕がしばしば出て、記しきれないほどである。
  • おおよそ位にあった六十年の間、毎年春の明るい時節には東南に巡幸し、秋には木蘭で狩りをして、空しく過ぎた年はない。内禅ののちの三年の間もまた同様であった。通った郡邑では、その租税を減らし、学校の定員を広げ、老人を手厚くもてなし、文学の士を召して試験もしたが、供応のわずらわしく厳しいことに、住民はすでにその苦しみに堪えられなかった。
  • その当時、朝臣の中にも、声を上げて行幸を止め、力を尽くして還御を請う者がなかったわけではない(底本「亦始無」は「亦未始無」の誤りか)。しかしひとたび抗弁の議論をすれば、厳しい譴責がそれに続いた。
  • 編修杭世駿は上奏して時事を論じ、その中に『巡幸の至るところ、役人はひたすらご機嫌取りに努め、その弊害はみな百姓に及びます』という言葉があった。高宗は大いに怒り、重刑に処すよう命じたが、侍郎観保の諫めのおかげで免れ、赦されて郷里に帰された。
  • 尹会一は江蘇の学政を視察して帰り、奏して『前回の南巡では、民間は苦しみ、怨みの声が道に満ちております』と言った。厳しい諭しでこれを詰問して言った、『そなたは民間が苦しんでいると言うが、試みにどの人が苦しんでいるのか指摘してみよ。怨みの声が道に満ちているというなら、試みにどの人の怨み言か指し示してみよ。』そのために左遷・流謫の罪に問われた。
  • 侍読学士紀昀はかつて落ち着いた調子で帝に言った、『東南の財力は尽きております。陛下はこれを救済する方法をお考えになるべきです。』帝は怒ってこれをしかった、『朕はそなたの文学がまずまず優れているというので、四庫書館を領させたのだ。実のところ芸人のように養っているにすぎない。そなたはどうしてみだりに国事を論ずるのか。』
  • 内閣学士尹壮図は上奏して言った、『総督・巡撫は差し役を取りしきることにかこつけて属吏に割り当てを押しつけ、そのために倉庫は欠け減っております。』旨を下して問うた、『眉をひそめて嘆いているというのは、いったい誰のことか。』壮図は答えて奏した、『下級の役人が総督・巡撫に怒り、小民が牧令に怨みを抱いているのでございます。』怒りはそこでいくらか解けたが、それでも免職を命じた。
  • これより後、朝臣はみな互いに舌を結び声を呑み、二度と民のために命乞いをする者はいなくなった。民を疲れさせ財を損ない、ついに国の元気を消耗し、末の運に至って、中国に安らかな年はなくなったのである。
原文(底本)
高宗乾隆六年,秋七月,帝奉太后幸木蘭行圍,御史叢洞疏諫,不聽,自是每歲七月畋於木蘭,至九月或十一月始還京師(後不備記)。初,帝慕蘇州風景,欲南巡,使大學士訥親往江浙查道,覆奏曰:『蘇州城外惟虎邱稱名勝,實則一墳堆之大者。城中街道臨河,河道仄逼,翼船𣏰集,午後輙臭不可耐,不足以言風景也。』帝聞之遂止。

八年,秋九月,帝奉太后幸興京、盛京。 冬十月還京師。

十年,秋七月,帝奉太后幸多倫諾爾。 九月還京師。

十一年,秋七月,帝奉太后西巡,幸五臺山,改慶都縣曰:『望都』,因避堯母名也。

十三年,春二月,帝奉太后率后東巡,駐趙北口,侍太后臨閱水圍。至曲阜,謁孔林。至泰安,詣岱嶽廟,登岱。 三月駐濟南,幸趵突泉,侍太后閱兵。幸歷下亭,回鑾至德州。后崩,命莊王、和王奉太后緩程回京。后富察氏,性嚴重,雖在行次,不忘永巷之規。是日,帝在舟中夜讌,后至自他舟,因事進諫,語頗激切。時帝已被酒,怒,頗加詬誶,后羞忿近,失足蹈水死。帝醒,乃大悔,留侍殯殮畢,親扶櫬返京師,飾終之典,視他后獨隆焉。

十五年,春二月,帝奉太后西巡,幸五臺山。 三月,還京師。 冬十月,帝奉太后幸河南,詣中嶽廟,登嵩山,駐開封閱兵,幸吹古臺。 十一月,還京師。

十六年,春正月,帝奉太后南巡。 二月,至蘇州,見靈巖梅可合抱,帝嘆賞不置。時內大臣博爾奔察側,拔刀作欲砍樹狀,帝驚問,對曰:『憾其不生於圓明園,而使上跋涉江湖之險也。』帝知其諷己,不懌者久之。 三月,至杭州,幸觀潮樓,閱兵,渡錢塘江,祭禹陵,還駐杭州,閱兵。召試江南諸生,賜蔣雍等五人舉人,並進士孫夢選,同爲內閣中書。 夏四月,駐泰安,祀東嶽。 五月,還京師。 秋八月,保舉經學顧棟高放歸。棟高保舉經學不赴,論給國子監司業銜。疆吏強舁之入都,及召對,復以老病不任職辭,帝許之,曰:『憐卿年衰,是以允令回籍頤養。將來朕巡至江南,尚可相見。』棟高曰:『上尚欲南巡耶?』帝默然,旋放還山。

十八年,春二月,磔江西撫州衙千總盧魯生,並殺其子盧錫齡、盧錫榮及南昌衛守備劉時達。先是,乾隆十四年十月,江督黃廷桂以該省紳耆士庶,共望翠華臨幸入告,帝大悅,溫旨報可。廷桂旴衡厲色,供張辦,而督責過嚴,屬吏苦之。時大學士孫嘉淦者,當雍正初年,以檢討上封事三,曰:『親骨肉,停捐納,罷西征。』用是直聲震天下,至帝尤倚重之,凡所言無不納。魯生遂與時達等僞爲嘉淦諫止南巡疏彙,累萬言,指斥乘輿,傓劾閣臣鄂爾泰、張廷玉等,傳播遠近。自十六年八月,滇督碩色發其事,窮治年餘,至是始得真相。此案文武吏牽連獲罪者幾及千人,蔓延至於七八省,而嘉淦自是亦不自安,未几以憂卒。

二十一年,春二月,帝東巡謁孔林,時以平定準噶爾,告功孔廟也。 三月,還京師。

二十二年,春正月,帝奉太后南巡。 二月,幸蘇州、杭州。 三月,幸江甯。 夏四月,幸闕里,釋奠孔廟。 五月,幸木蘭避暑。 秋九月,還京師。帝每年四五月入夏則往熱河避暑,且行圍馬,八九月天漸涼則回燕京,歲以爲常。今於是年俱紀往還,餘不悉載。

二十四年,夏五月,帝在木蘭。先是,沿途建設避暑山莊七十二處,圈地數十里,雜植時花,分置亭榭,所費約計億萬。一日,帝遊至蒼石,四顧茂木修竹,綠草如茵,涼風習習,幾不知盛暑之將至,顧而樂之,語內大臣博爾奔察曰:『此真無愧避暑山莊也!』對曰:『陛下就宮內言之耳。若外閒,城市狹隘,房屋低小,人民皆蝸處其中,兼之戶竈銜接,炎熱實甚,故民間有諺曰:「皇帝之莊真避暑,百姓仍是熱河也。」』帝慍然,揮之出,爲之不怡者累日。

二十六年,春二月,帝奉太后西巡,幸五臺山。 三月,至正定閱兵,至平陽淀行獵,還京師。 冬十一月,太后七旬萬壽,帝以-{后}-喜江南風景,於萬壽寺傍造屋,仿江南式,市㕓坊巷畢具,長至數里。奉鑾輿往來遊行,名曰蘇州街。又於同樂園設買賣街,凡古玩估衣以及酒肆茶爐,無不備,甚至攜小筐售瓜子得亦備焉。各大臣入園買物,或集酒館飯肆哺啜。帝遇肆門,聞走堂者呼菜,店小二報帳,司帳者核算,字音雜還,紛然並作,帝每顧而樂之。又每歲祀竈日,坤寧宮正室中之炕上設鼓板,-{后}-先至,帝繼至,自擊鼓板,唱訪賢一曲,執事官鵠立環聽,唱畢送神,帝起還宮,至嘉慶時始罷。

二十七年,春正月,帝奉太后南巡。 二月,至京口,閱兵,幸焦山、蘇州。 三月,幸杭州、江寧。 夏四月,命莊主侍太后回京。帝由徐州至曲阜謁孔林,祭岱廟。 五月,還京師。

二十八年,夏五月,帝奉太后幸木蘭行園,至承德,時霪雨浹旬,河水瀑漲,帝欲乘騎渡河,按察使三保扣馬諫,帝以滿洲舊俗習勞尚武爲言,對曰:『上奉太后乘輿同至,即使上渡河安,不識慈輿何恃以濟?』帝動容回營。

三十年,春正月,帝奉太后南巡。 閏二月,至蘇州、杭州,欲幸東浙,召侍郎齊召南入,詢以天-{台}-雁宕之勝,召南以未經遊覽對。帝曰:『卿籍隸-{台}-州,因何不到?』對曰:『山勢岝㟯,谿流深險,臣有老母在,孝子不登高、不臨深,是以不敢往遊。』帝時奉太后南來,聞之遂命回鑾。 三月,幸焦山,駐江寧,祭江神。 夏四月,還京師。

三十一年,秋七月,-{后}-那拉氏崩,命以妃禮葬之。先是,三十年閏二月,帝在杭州,嘗深夜微服登岸遊,-{后}-力諫止,至於泣下,帝謂其病瘋,令先程回京。及回鑾,-{后}-將以病廢,刑部侍郎覺羅阿永阿欲諫,以母老躊躇。母諭之,阿永阿涕泣別母,侃然上疏,帝大怒曰:『阿某覺羅近臣,乃敢蹈漢人惡習,博一己之名!』,召九卿議罪。閣臣陳宏謀託庸,皆依違其間。刑部尚書錢汝誠獨曰:『阿永阿有母在堂,盡忠不能盡孝。』帝斥之曰:『錢陳羣老病居家,汝爲獨子,何不歸家盡孝?』乃戍阿永阿黑龍江,斥汝誠歸養,而-{后}-得以不廢。至是,-{后}-崩,諭所有喪儀不便復循皇后大事辦理,止可照妃例行,交內務府承辦。御史李明玉復上疏請行三年喪,亦戍伊犁。二人先後卒於邊。

三十二年,春二月,帝幸天津。 三月,還京師。

三十五年,春三月,帝奉太后東巡,旋還京師。

三十六年,春二月,帝奉太后東巡,以金川平定,告孔廟也。 三月,謁岱廟,登泰山,謁孔林。 夏四月,還京師。

四十一年,春二月,帝奉太后東巡。 三月,至德州,登泰山,謁孔林,賜山東及各省召試諸生黃道㷡等三人舉人,舉人竇汝翼等二人內閣中書。 夏四月,還京師。

四十三年,秋七月,帝幸盛京。 八月,還京師。

四十五年,春二月,帝南巡,幸焦山、蘇州。 三月,幸海寧觀潮,幸尖山,自杭州至江寧。 夏五月,還京師。

四十六年,春二月,帝東巡,幸五臺山。 三月,還京師。

四十八年,秋八月,帝幸盛京,以和闐玉新造,列朝冊寶告成,親送舊冊寶藏於盛京太廟也。 九月,還京師。

四十九年,春正月,帝南巡。 二月,駐曲阜,謁孔林。 三月幸金山、焦山、蘇州、海寧、尖山、杭州,乃至蘇州。 三月,幸江寧,至張家樓,渡江還京師。

五十一年,春三月,帝西巡,幸五臺山。 三月,還京師。

五十三年,春二月,帝幸天津,旋還京師。

五十五年,春二月,帝東巡,至泰安,登岱,至曲阜,謁孔廟、孔林,回鑾。至涿州,有僧人率一幼童迎蹕,言係皇四子履郡王永珹之子,以次妃王氏妒嫉,襁褓逐出。帝以童子入都,會軍大臣會鞠,司官保成指爲僞,斬僧於市,戍童子於伊犁。後松筠奏其自稱皇孫,招搖愚民,斬之。 夏五月,還自京師。

五十七年,春三月,帝西巡,幸五臺山。 夏五月,幸木蘭避暑,以駐蹕臺麓寺行宮北垣外未設堆撥,又不行傳籌,隨扈王大臣等皆嚴議處分。 秋九月,還京師。

五十九年,春三月,帝幸天津,賞銀三萬兩,爲津淀揚芬港豫備龍舟之用。 夏四月,還京師。

編者曰:康熙朝籍閱河爲名,有六度南巡之舉。至乾隆時,循其舊例,南巡者亦六度,東巡者七,西巡者五。至於盛京與興京,近畿之天津、保定、熱河、河南,車駕時出,紀不勝紀。蓋臨御六十年中,每歲春明巡幸東南,秋畋木蘭,無虛歲。內禪後三年中亦如之。所過郡邑,雖亦減其租稅,增廣學額,優禮耆年,召試文學,而供億煩苛,居民已不堪其苦。其時朝臣中亦始無呼戲阻駕,力請回鑾者,然一經抗論,斯嚴譴隨之。編修杭世駿疏論時事,中有謂『巡幸所至,有司一意奉承,其流弊皆及於百姓。』高宗大怒,命置重典,賴侍郎觀保諫免,赦回里。尹會一視學江蘇還,奏言『上次南巡,民間疾苦,怨聲載道。』嚴諭詰之曰:『汝謂民間疾苦,試指出何人疾苦。怨聲載道,試指明何人怨言。』坐謫戍。侍讀學士紀昀嘗從容爲帝言:『東南財力竭矣,上當思所以救濟之。』怒叱之曰:『朕以汝文學尚優,故使領四庫書館,實不過以倡優蓄之,汝何敢妄譚國事?』內閣學士尹壯圖疏言:『督撫籍詞辦差,勒派屬吏,遂致倉庫虧耗。』降旨詢問:『蹙額興嘆,究屬何人?』壯圖回奏:『係下吏怒及督撫,小民怨及牧令。』怒乃稍解,仍命革職。自是而後,朝臣皆相與結舌吞聲,無復有爲民請命者矣。勞民傷財,卒耗元氣,及至末運,而中國無寧歲焉!

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