清史紀事本末湘軍水師の編制(湘軍水師之編制)

要約

咸豊三年秋七月、湖北按察使江忠源が両湖と四川に戦船を造らせ長江を清めるよう上奏し、詔して行わせた。さきに咸豊二年冬、湖北巡撫常大淳も砲船を長江の上下流に配して敵の糧道を断つよう請うたが、武備はすたれ水師は名のみで船無く、向栄の呼んだ湖南の砲船も登州水師も民船・商船にすぎず、広州外海の快蟹・大扒も葉名琛に断られた。五月、御史黄経も造船を請うたが駱秉章は放置した。南昌を守る編修郭嵩燾は、東南は水郷で敵が水路を占める以上長江の険を争うべきだと説き、忠源のため三省に戦船二十艘ずつ造り広東から巨砲十門を購う奏稿を作って許された。

九月、曾国藩に兵勇と船砲を割いて湖北を救うよう詔した。国藩は衡州で水軍を整えたが船の様式を知る者がなく、筏や艨艟は旋回できず、舟でなければ争えぬと嘆じた。成名標が広東の快蟹・三板の様式を説き、国藩も自ら商船を改造して舷の広い船とし、砲を試すと揺れなかった。広東の協餉銀八万両を留めて水師四千人・船二百隻を興し、衡州と湘潭で長龍五十隻・快蟹四十隻・三板百五十隻を造った。一営は快蟹・長龍各一隻と三板八隻、三百八十八人。砲は船首尾に据えて旋回発射した。

四年春三月、国藩は衡州を発して湘潭に軍を集めた。二月に船が成り、戦艦二百四十隻・砲船百三十隻、水軍五千人を十営に分け、成名標・楊岳斌・彭玉麟・褚汝航らが統べて汝航を総統とし、陸師十三営と合わせ一万七千人で湘江を挟んで下った。呉文鎔が敗死して湖北水師は散り、敵は岳州に上り、大風で船も壊れ、陸軍も敗れて長沙に還った。敵は靖港と湘潭に屯したが、塔斉布が湘潭で勝ち、水陸が八日に十戦して敵舟千隻近くを焼き首一万近くを斬った。

陳輝龍・沙鎮邦・李孟群が合流し、彭玉麟・楊岳斌は南津に敵を破って彭楊と称された。輝龍は敵を軽んじて城陵磯を攻めたが、拖罟の大船が浅瀬に乗り上げ、伏せた敵舟に軍は覆り砲船も大艦も失った。救援の褚汝航・夏鑾・沙鎮邦は敗れて水に投じて死に、戦死数百人、船三十余艘を失ったが、彭・楊が要害を守って敵は上れず、兪晟が汝航に代わった。塔斉布が城陵磯の敵塁を毀つと水軍は長江に入り嘉魚・蒲圻を収めて武漢を落とし、田家鎮では彭・楊が火をかけて敵舟を焼き尽くし、水師は天下に名を知られた。

朝廷はその戦法を長江南北の水軍に詔示し、湖南では丁善慶・唐際盛らが造船局を設けて黄冕が砲を造った。水軍は岳斌十営・玉麟八営、戦船五百隻・砲二千門に至り、九洑洲が破れて長江は清められ金陵の大功が成り、国藩の功は舟師創立を第一とされた。同治五年六月、水勇を経制の水兵に改め、提督以下一万二千人・船七百七十四隻を六標に分汛し、章程六巻を頒布して黄翼升を提督とした。

編者はいう、その舟師で功を立てた者は彭・楊を最上とする。二人の志は曾氏兄弟と同じであったが、彭氏は節鉞を執り地方を任されるのを喜ばず、心残りがあるかのようであったのはなぜか。

年表

太平天国の軍が長江の水路を押さえるなか、陸師だけでは勝てないと悟った清朝側が水軍を一から作り上げ、やがて天下に名を知られるまでの経緯を記す。咸豊三年(1853年)、江忠源が郭嵩燾の献策を容れて両湖・四川での造船を上奏し、曾国藩が衡州・湘潭で船を試作して水師四千人・船二百隻を興した。咸豊四年(1854年)には湘潭で大勝したものの、城陵磯で陳輝龍・褚汝航らを失う痛手も受け、その後は彭玉麟・楊岳斌が武漢・田家鎮で勝ちを重ねて長江を制した。九洑洲が破れて金陵の大功が成り、曾国藩の功はまず舟師の創立が第一とされた。同治五年(1866年)には水勇を正規の経制水兵に改め、章程六巻が天下に頒布されて長江水師が制度として確立した。

年表(4件)

現代語訳全文

西暦1853年 文宗咸豊三年秋七月

  • 文宗の咸豊三年秋七月、江南の軍務を補佐する湖北按察使の江忠源が上奏した。「両湖(湖南・湖北)と四川とに分けて戦船を造らせ、長江の水面を清めますように。」詔してこれを行わせた。
  • これより先、咸豊二年の冬、湖北巡撫の常大淳が上奏して言った。「洪秀全が水陸から武昌を攻め、船と砲があふれております。江南の軍中にある広西の砲船、江南水師の広艇砲船および中小型の砲船を動かし、長江の上流・下流に分けて配置して、敵の勢いを遏め、糧食の輸送を断つようお願いします。」詔して軍を督する徐広縉らに命じて行わせた。
  • 当時、武備はすたれきっており、ただ水師の名が残るばかりで、船が無かった。のちに向栄が代わって軍を督すると、湖南の砲船を呼び寄せたが、民間の船に砲を載せただけであった。詔して登州水師の船を徴発させたが、これも商船を雇い集めたにすぎなかった。
  • この年の春のころ、九江が陥落すると、向栄はまた上奏して広州外海の快蟹・大扒など百余隻を動かし、海路をとって江南に至らせようとした。ところが総督の葉名琛は、命ぜられた戦船はかなり重くて鈍く、長江に乗り入れるのは難しかろうと返答した。のちにまた上海の柁罟戦船、温州の頭莽などの船を動かしたが、これも上海道の呉健彰が、二重底の夾板船三隻を雇い受けて、海から長江に入れただけであった。
  • 五月に至って、洪秀全の軍が北のかた淮河を渡り、南は南昌を囲むと、御史の黄経が上奏して言った。「呉(江蘇)・楚(湖広)・蜀(四川)の三省にそれぞれ砲船を造らせ、水師を訓練させ、流れに順って攻撃させますように。」そして名指しで湖南に言及した。詔して巡撫の駱秉章に命じたが、秉章は力が及ばないとして、これを放置した。
  • 忠源ははじめ湖北に救援に赴いたとき、曾国藩と江西・安徽方面の大局を論じ、戦船数百隻を造り、まず長江の水面を清めることを議したが、これも事が重大で行いがたいとされた。ここに至って、編修の郭嵩燾が忠源に従って南昌を守り、敵がみな船に居るのを偵察して、強く説いた。「東南はすべて水郷で、敵は長江の水路を占拠しています。それをわが方は陸師で撃つのですから、勢いとして常に及びません。必ず敵と長江の険を争ってこそ、はじめて戦うことが言えるのです。」そこで忠源のために上奏文の草稿を作った。「湖北・湖南・四川にそれぞれ戦船二十艘を造らせ、広東から巨砲十門を購って備えつけるようお命じください。」聖旨を得て、許されて行われた。

西暦1853年 同(咸豊三年)九月

  • 九月、湖南の団練を補佐する侍郎の曾国藩に詔して、兵勇と船・砲を適宜割いて、湖北の救援に赴かせた。
  • このとき国藩はすでに長沙から衡州に移り駐して、水軍を整え、船の様式を尋ねまわっていた。はじめは知る者がおらず、古法に依って筏を作って砲を載せ、流れをさえぎろうとし、また艨艟の大艦を造ろうともしたが、いずれも旋回運用ができなかった。そのうえ軍を徴発する急ぎの檄が日に幾度も届き、人々はぐずぐずしていると疑いをかけた。
  • 国藩は嘆じて言った。「いま敵は江湖を縦横に動いており、舟でなければ利害を争う手だてがない。しかも軍を成して出る以上は、東征して帰らぬ覚悟をすべきである。九江から上流は千里、洗ったように何も無い。どうして、にわかに募り集めた衆をもって、粗悪でもろい器(底本は「蠱脆」に作る。「窳脆」の誤りか)を執らせ、三千里を徒歩させて、虎狼のごとき百万の強敵に当たらせられようか。」
  • 水師守備の成名標という者がいて、広東の快蟹・三板船の様式を説明できた。国藩もまた自分の考えで、商船を改造して唇の長い舷の広い船とし、試しに砲を撃たせてみると、はたして船は揺れなかった。ただ経費の出どころが無いのに苦しみ、そこで広東省から協力送金される銀八万両を留め置くよう奏し、水師四千人・船二百隻を興した。その船は大きさが五百石から千余石まで、砲は二百斤から三千斤までであった。
  • また端午の競渡の船を推し広げ、蚿(やすで)の足のように短い櫂と長い櫓を並べ、人の力で風と水に勝とうと考えた。右江道の張敬修に戦船を率いさせるよう奏請したが、結局は来なかった。
  • そして広西同知の褚汝航が檄を受けて敬修に代わって至り、長龍船の様式を献じた。国藩は名標に衡州の造船の役を監督させ、湘潭に分工場を設けて汝航にこれを監督させた。まず長龍五十隻ができ、続いて快蟹四十隻・三板百五十隻ができた。こうして閩(福建)・越(広東)の船の制がひととおり備わったが、これも定まった法があったわけではなく、ただ思いつきのままに作り、たびたび改めてようやく成ったのである。
  • 壮丁を募って水戦を習わせ、儒生や農民、あるいは陸営の官・下士を営官・哨官とした。その営制は、一営ごとに快蟹・長龍船それぞれ一隻、三板船八隻。快蟹一隻には櫂手二十八人、櫓手八人、艙長一人、舵取り一人、頭篙(船首の竿さし)一人、砲手六人。長龍一隻には櫂手十六人、櫓手四人、舵取り・頭篙おのおの一人、砲手二人。三板一隻には櫂手十人、舵取り・頭篙おのおの一人、砲手二人。合計三百八十八人で一営を成す。
  • その武器は、刀・盾・槍・矛もあるにはあるが、使いどころがない。砲は船の首と尾に据えて、旋回させて発射する。砲を一発撃てば船が一度沈み込み、そのぶん進みが速くなる。あるいは腰砲を据えて見た目を立派にするが、敵に臨んでもやはり使いどころはない。
  • 営を作る法は、たがいの間隔をまばらにするのがよく、小船は中州に寄せ、大船は流れに横向きに置き、暴風に遭っても互いに衝突しないようにする。流れに乗り継いで先を争うには、もっぱら三板に頼り、快蟹・長龍は指揮に備えるだけである。敗れればこれを棄て、三板に乗って帰る。三板には苫の板が無いので、袷の帳をかぶせる。兵士たちが私に長龍を造れば、公の船に編入して、そこで食事し寝起きさせる。

西暦1854年 文宗咸豊四年春三月

  • 四年春三月、曾国藩は衡州を発し、軍を湘潭に集めた。この年の二月、湖南の軍船ができあがり、大小の戦艦は二百四十隻、輜重用の砲船は百三十隻、輜重用の民船は百隻、水軍は五千人で、十営に分けた。
  • 衡州で募った六営は、成名標・諸殿元・楊岳斌・彭玉麟・鄒漢章・龍献琛がこれを統べ、湘潭で募った四営は、褚汝航・夏鑾・胡嘉垣・胡作霖がこれを統べ、汝航が総統となった。さらに陸師十三営を加え、塔斉布・周鳳山・儲玟躬・林源恩・鄒世琦・鄒寿璋・楊名声・曾国葆がこれを統べ、塔斉布が先鋒となった。水陸あわせて一万七千人が湘江を挟んで下り、ひととき軍容は極めて盛んだと称された。
  • このとき総督の呉文鎔は、戦いを催促されて先に出陣し、敗死し、湖北の水師はことごとく散った。敵は洞庭湖から岸に上がって寧郷を襲ったが、水師が下ってくるのに出会うと、あわてて退いた。ほどなくまた岳州に上り、守備の軍は潰えたが、砲船のおかげで難を免れた。たまたま大風に遭って船が壊れ、流され傷んだものが大半を占め、陸軍もまた敗れて、長沙に還って軍を整え直した。敵はそこで勝ちに乗じて上り、靖港と湘潭に屯した。
  • 国藩は全軍をあげて攻めに行き、湘潭まで十里という所に至らぬうちに、塔斉布が湘潭で戦い勝ったという報せが届いた。そこで水陸が城に沿って進み攻め、八日のあいだに十戦してみな勝ち、敵の舟千隻近く(底本は「近干」に作る。「近千」の誤りか)を焼き、斬った首は一万近く、敵は城を棄てて走った。湘潭が回復されると、軍の気勢は大いに揚がった。
  • ほどなく、山東登州総兵の陳輝龍が広州から、広東游撃の沙鎮邦が広西から、道員の李孟群が桂林から、それぞれ水軍を率いて来て軍に合し、水軍はいよいよ盛んになった。やがて長沙を発して湖を渡り、湖の中で敵に遭い、彭玉麟と楊岳斌が二人で敵を南津に破った。二人はこれより勇略で名を知られ、「彭楊」と称された。
  • 輝龍は後から至り、彭・楊が戦い勝ったと聞いて、心中で敵を軽んじ、自ら兵を率いて城陵磯を攻めた。湘軍は、南風で川を下れば退くのが難しかろうとかなり疑ったが、輝龍は言った。「わしは水戦を習って三十年になる。諸君は心配するには及ばぬ。」
  • 翌朝、砲を鳴らして出発した。広東の軍は旗指物が鮮やかで、刀矛は霜雪のごとく、洋式の銅砲は山谷(底本は「山逋」に作る。「山谷」の誤りか)を震わせた。輝龍は自分で造らせた拖罟の大船に乗り、進んで流れの中ほどに至ったところで、舟が浅瀬に乗り上げた。敵は伏せていた舟を一斉に出し、こちらの小船が救いに行こうとしたが、水は急で風は敵に利があり、吹き返されてみな流れ下り、敵は先を争って船を奪った。輝龍(底本は「輝」に作る。「輝龍」の脱字か)は陥れられ、軍は覆り、砲船をことごとく失い、拖罟の大艦はついに敵軍の戦利品となった。
  • 敵の軍はこれに乗じて、城陵磯に還った。褚汝航・夏鑾・沙鎮邦は救援に赴いて敗れ、ともに水に身を投じて死んだ。この戦役では、戦死した者は数百人、失った船は三十余艘であった。彭・楊が力を尽くして要害を守ったおかげで、敵は上ることができなかった。国藩は残った船を収めまとめ、兪晟を汝航の代わりとし、さらに唐際盛が舟を造ってこれを助けるのを得た。
  • ちょうど塔斉布の陸軍が行く先々で功を立て、進んで城陵磯に迫り、敵の塁十三を毀ち、首二十を斬った。水軍はそこで勝ちに乗じて長江に入り、東西の岸の敵の塁九・砲台三を毀ち、螺山・倒口・六豁口を掃討し、黄蓋湖(底本は「黃益湖」に作る。「黃蓋湖」の誤りか)に入り、嘉魚を収め、蒲圻を回復し、進んで武漢を攻め落とした。
  • これより敵は水軍が至ると聞けばすぐに震え怖れ、施す策もなく、守っていた場所を棄てて去った。そのため湘軍は流れに順って千里を下り、行軍が滞ることが無かった。下流の敵軍は、水軍とは鋒を争えないとして、衆をあげて田家鎮に屯した。彭・楊が水師を率いて陸師と合わせて進撃し、これを大いに破った。岳斌はまっすぐ進んで武穴に至り、そこで船を返して火を投げ、焼きながら上り、玉麟は焼きながら下った。にわかに東風が起こり、岳斌は風に乗り、玉麟は流れに乗って、夜明けに軍を合わせてともに還ると、敵の舟は燃え尽き、陸上に陣していた者は夜のうちに逃げ去っていた。田家鎮が破られると、湘軍の水師は天下に名を知られた。
  • 朝廷はその戦法を採り上げ、自筆の詔で長江の南北の諸水軍に宣示した。長江南北の水軍は、師艇の船が戦いに慣れておらず、続いて紅単船・拖罾船を徴発したが、いずれも風を待ってはじめて動くので、行く先々で長く滞った。江西でもまた戦船を造り、湖南の船の制を模倣したが、将領がいないためにそのつど失敗した。
  • 湖南で本籍地に在る官である丁善慶・陳本欽・唐際盛・李㮣らが、はじめて資金を出して造船局を設け、黄冕はもっぱら砲を製造して出征の軍に応じた。当時、船と砲を論ずる者は、みな湖南に及ばなかった。
  • その後、水軍はいよいよ拡張され、岳斌の統べるものが十営、玉麟の統べるものが八営、あわせて大小の戦船五百隻、砲二千門となった。国藩が父の喪に遭うと、岳斌を総統に、玉麟を協理にするよう奏請し、戦いはいよいよ有利になって、行く先々で勝ち、たとえ小さな挫折があっても、最後には敵に勝った。九洑洲がひとたび破られるにおよんで、長江は清められ、金陵の大功が成し遂げられた。詔して国藩の功を論ずるに、舟師を創立したことを第一とした。

湘軍水師の経制化と章程の頒布(同治五年六月、1866年)

  • そこで国藩は、募った水勇を経制(正規定員)の水兵に改めるよう奏請した。当時、長江の水師の船は一千余隻に至り、砲の座は三千にも及んだ。数えると提督一員、総兵五員、営官である副将・参将・游撃が二十四員、哨官である都司・守備・千総・把総・外委が七百七十四員、兵の数は一万二千。荊州・岳州から崇明まで五千余里に、六標を立てて汛(持ち場)を分けた。船は七百七十四隻、営は二十四で、副将営の戦船は四十三隻、参将営は三十三隻、游撃営は二十三隻。提督から外委に至るまで、それぞれに乗船を支給した。長龍には大砲六門を据え、三板には大小の砲おのおの二門を据えた。火薬局を安徽・湖北二省の省城に設け、弾丸局を湖南の省城に設け、造船局を漢陽・呉城・草鞋夾に設けた。そこで事宜三十条・営制二十四条を奏した。
  • 同治五年六月、軍機大臣が奏のとおりに行うこととなった(底本は「軍機大臣曾奏依行」に作る。「曾」は衍字か)。章程六巻に編んで方略に収め、後世に垂れ示し、天下に頒布した。水師が立てられると、黄翼升を提督とし、玉麟には毎年一度長江を巡視するよう詔した。

史論(編者曰)

  • 編者は言う。太平天国が滅んだのち、詔して曾氏の功を論ずるにあたり、舟師を創立したことを第一とした。そして舟師の中で功を立てた者は、彭(玉麟)と楊(岳斌)とを最上とする。この二人の生涯の志すところは曾氏兄弟と同じであった。しかし彭氏の一生を見ると、節鉞(指揮権の印)を執り、地方を任されることを喜ばず、何か心残りがあるかのようであったのは、いったいなぜであろうか。
原文(底本)
文宗咸豐三年,秋七月,幫辦江南軍務湖北按察使江忠源奏:「請飭兩湖、四川分造戰船,以清江面。」詔行之。先是二年冬,湖北巡撫常大淳疏言:「洪秀全水陸攻武昌,船礮充斥。請調江南軍中之廣西礮船、江南水師之廣艇礮船及中小號礮船,分佈長江上下遊,以遏敵勢,斷糧運。」詔督師徐廣縉等飭行。時武務廢弛,徒存水師名,無船也。後向榮繼起督師,遣調湖南礮船,以民船載礮而已。詔徵登州水師船,亦募商舟。是年春間,九江陷,榮又奏調廣州外海快蟹、大扒百餘,取海道至江南。而督臣葉名琛覆稱所調戰船頗笨重,恐難駛入長江。後又調上海之柁罟戰船、溫州之頭莽等船,亦僅由上海道吳健彰,僱領夾板船三隻,由海入江。至五月,洪軍北渡淮河,南圍南昌,御史黃經始奏:「請飭吳、楚、蜀三省,各製礮船,習水師,順流攻擊。」乃指名及湖南。詔飭撫臣駱秉章,秉章以力不及,置之。忠源初援湖北,與曾國藩論江皖大局,議造戰船數百,先清江面,亦以事艱鉅難行,至是編修郭嵩燾從忠源守南昌,偵敵皆船居,乃極言:「東南皆水鄉,敵據有江路。而我以陸師擊之,勢常不及。必與敵爭長江之險,而後可以言戰。」因為忠源草疏,「請飭湖北、湖南、四川造戰船各二十艘,自廣東購巨砲十尊配之。」得旨允行。 九月,詔幫辦湖南團練侍郎曾國藩,酌派兵勇船砲,赴援湖北。時國藩已先自長沙移駐衡州,治水軍,訪船制。初無知者,依古法作筏載砲,將以截流,又欲爲艨艟大艦,皆不能旋運,而羽檄徵軍,日數至,人頗以逗遛爲疑。國藩歎曰:「今敵縱横江湖,非舟楫無與爭利害。且成師以出,當爲東征不歸之計。九江以上,千里如洗,奈何以倉猝召募之衆,執蠱脆之器,徒步三千里,以當虎狼百萬之強敵乎?」有水師守備成名標者,顧能言廣東快蟹三板船法式,國藩亦自以意,用商船改造爲長脣寬舷,試發砲,果不震,惟苦經費無所出,乃奏留粵省協餉銀八萬,興水師四千,船二百,其大自五百石及千餘石,砲自二百斤至三千斤。又推五日競渡船,意爲短橈長槳如蚿足以人力勝風水奏徵右江道張敬修率戰船不果

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來而廣西同知褚汝航奉檄代敬修至上長龍船製國藩乃以名標董衡州船役而於湘潭設分

廠使汝航董之先成長龍五十繼成快蟹四十三板百五十於是閩越船制略備然亦非有法直

以意爲之屢改乃成招募壯丁習水戰以儒生農氓或陸營官弁爲營哨官其營制每一營凡快

蟹長龍船各一三板船八一快蟹槳二十八人櫓八人艙長一人舵一人頭篙一人礮手六人一

長龍槳十六人櫓四人舵頭篙各一人礮手二人一三板槳十人舵頭篙各一人礮手二人計三

百八十八人而成營其軍器雖亦有刀盾槍矛無所用置砲於船之首尾旋而發之砲一發船一

頓則其進愈疾或置腰砲美觀瞻臨敵亦無所用之其作營法相距宜疏小船依洲大舟横流設

遇暴風不致相撞接流爭先全恃三板快蟹長龍備指揮而已敗卽棄之乘三板以歸三板無篷

板覆以夾帳軍士私造長龍編爲公船以餐宿於其中

四年春三月曾國藩發衡州集軍湘潭是年二月湖南師船成凡大小戰艦二百四十輜重砲船

百三十輜重民船百水軍五千分十營由衡州募者六營以成名標諸殿元楊岳斌(原名載福後

避穆宗名上一字改)彭玉麟鄒漢章龍獻琛統之由湘潭募者四營以褚汝航夏鑾胡嘉垣胡作

霖統之而汝航爲總統又益以陸師十三營以塔齊布周鳳山儲玟躬林源恩鄒世琦鄒壽璋楊

名聲曾國葆統之而塔齊布爲先鋒水陸萬七千人夾湘而下一時軍容稱極盛時總督吳文鎔

以促戰先出敗死湖北水師盡散敵由洞庭登岸襲寧鄉遇水師下遽退尋復上岳州防軍潰賴

砲船以免會大風壞船飄傷大半陸軍亦敗還長沙整軍敵遂乘勝上屯靖港及湘潭國藩全軍

往攻未至湘潭十里塔齊布湘潭戰勝之報至於是水陸循城進攻八日之閒十戰皆捷燬敵舟

近干斬馘近萬敵棄城走湘潭旣復軍氣大揚未幾山東登州總兵陳輝龍自廣州廣東游擊沙

鎮邦自廣西道員李孟羣自桂林各將水軍來會師水軍益盛已而發長沙渡湖遇敵湖中彭玉

麟楊岳斌兩破敵於南津二人自是以勇略名稱彭楊輝龍後至聞彭楊戰勝意輕敵自將攻城

陵磯湘軍頗疑南風下水難退輝龍曰吾習水戰三十年諸君無以爲憂翌旦聲砲行廣東軍旌

旗鮮明刀矛如霜雪洋裝銅砲震山逋輝龍乘自作之拖罟大船進至中流舟膠敵伏舟齊出諸

小船往救水急風利返吹俱下敵爭前奪船輝陷敵軍覆砲船盡喪拖罟大艦遂爲敵軍戰勝品

敵師乘之還城陵磯褚汝航夏鑾沙鎮邦因赴援敗同蹈水死是役也戰死者數百人失船三十

餘艘賴彭楊力守要害敵不得上國藩乃收拾餘船以兪晟代汝航復遇唐際盛造舟資之會塔

齊布之陸軍所至有功進薄城陵磯毀敵壘十三斬馘二十水軍乃乘勝入長江毀東西岸敵壘

九砲臺三搜螺山倒口六豁口入黃益湖收嘉魚復蒲圻進克武漢自是敵聞水軍至輒震怖無

策棄所守去故湘軍順流下千里無留行下江敵軍以水軍不可與爭鋒悉衆屯田家鎮彭楊將

水師合陸師進擊大破之岳斌直進至武穴乃回船擲火燒而上玉麟燒而下忽東風起岳斌乘

風玉麟乘流天明合軍俱還敵舟燼陣陸上者已夜走田鎮旣破湘軍水師名天下朝廷采其戰

法手詔宣示江南北諸水軍江南北水軍師艇船不諳戰續徵紅單拖罾船皆待風乃行所至淹

留而江西亦造戰船仿湖南船制以無將領輒失敗湖南在籍官丁善慶陳本欽唐際盛李㮣等

始捐貲設船局而黃冕專製砲以應征軍時言船砲者皆莫能及湖南其後水軍益擴張岳斌所

統十營玉麟所統八營合大小戰船五百砲二千國藩遭父喪奏請以岳斌爲總統玉麟爲協理

而戰益利所至克捷雖或有小挫終獲勝敵迨九洑洲一破長江肅淸金陵大功吿成詔論國藩

功以剏立舟師爲首於是國藩奏請以所募水勇改爲經制水兵時大江水師船至一千餘砲位

及三千計提督一員總兵五員營官副參游二十四哨官都守千把外委七百七十四兵數萬二

千自荆岳至崇明五千餘里立六標分汛計船七百七十四營二十四副將營戰船四十三參將

營三十三游擊營二十三自提督至外委各給坐船長龍設大砲六三板大小砲各二設火藥局

於安徽湖北二省城設子彈局於湖南省城設船局於漢陽吳城草鞵夾因奏事宜三十營制二

十四同治五年六月軍機大臣曾奏依行編章程六卷入方略垂示後世頒之天下水師旣立以

黃翼升爲提督詔玉麟每歲一巡長江

 編者曰太平天國旣亡詔論曾氏功以剏立舟師爲首而舟師中人立功以彭與楊爲最是兩

 人之生平宗旨與曾氏兄弟同然觀彭氏一生不樂秉節鉞任疆寄若有所憾焉者則何哉

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