清史紀事本末同治の中興(同治中興)
要約
咸豊十一年七月、熱河で病篤い文宗は載垣・端華・粛順ら八人に顧命を授け、載淳を皇太子、八人を賛襄政務王大臣として翌日崩じ、太子が即位し明年を祺祥元年とした。皇后鈕祜禄氏と生母那拉氏を皇太后とした。八月、五星が張・翼に聚まり、欽天監は中興の兆しと占った。曽国荃は九年拠られた安慶を克復し池州・桐城・宿松も回復した。九月、母后・聖母の称を那拉后が嫌い慈安・慈禧の徽号を奉った。両宮は間道から先に還り東太后・西太后と称された。
十月、恭親王奕訢に議政王を授け、桂良・文祥らを軍機大臣とした。御史董元淳が垂簾と親王輔政を請うと、載垣らは遺詔の賛襄と母后臨朝を禁ずる家法で論駁し、杜瀚は嫂叔・居喪を理由に恭王の召見を阻んだが、奕訢は太后に会って誅する謀を定めた。太后が先に京へ入ると賈楨らが垂簾を、勝保が親王輔政を請うた。載垣・端華に自尽を賜い、粛順を市に棄て、景寿・穆蔭ら五人を革職し、党与も発遣した。帝は太和殿で即位し祺祥を同治元年と改め、政務は両宮が裁決するが諭旨には朕の字を書けと諭した。曽国藩に江蘇など四省の軍務を統轄させ、十一月、両宮は養心殿で聴政した。
同治元年、麟魁と曽国藩を協弁大学士とし、外洋の船砲を購わせ山東の畝捐を行った。台湾の戴万生らが彰化を拠し徐宗幹に剿討させ、長江水師提督を蕪湖に新設した。京師の大疫、広東の風災があり、畿輔の教匪・捻軍に堅壁清野を行わせた。翁心存が卒し、下獄中の子翁同書は釈された。彭蘊章も卒した。湘軍を撤し曽国藩の兵権を抑えよと請うて嗤われ、再び用いられなかった。二年、京師に同文館を設立し、曽国藩・李鴻章の請いで蘇松太三属の重い賦額を減じた。
三年、山東の畝捐を停めた。西安将軍多隆阿に祭葬と世職を与え忠勇と諡した。多隆阿は三百余戦で二百余の城砦を落とし陝西の回民を剿し尽くしたが、盩厔で弾に目を傷つけ、なお攻め抜いて薨じた。御史賈鐸が太監への濫賞と庫の緞子の流用の禁止を奏したが、懿旨は無き事と断じた。六月、金陵克復で曽国藩らに侯伯子男と世職を封じ、八月、洪福瑱の生け捕りで沈葆楨らに世爵・世職を与えた。
四年三月、慈禧が寵した太監安得海の讒で恭親王奕訢の議政を止め差使を撤したが、惇親王らの諫めで内廷行走と総理衙門管理に復した。議政の名は戻らなかった。江蘇・浙江の水害で溺死十余万。僧格林沁は捻軍を追い曹州の西で重囲に陥り、夜に突囲したが前駆が戈を反し、酔って戦えず全軍覆没して死に、忠と諡された。十二月、太平天国の残衆が広東に入り、左宗棠が追って嘉応州で殲滅し一等伯に封ぜられた。降った回民を殺し掠奪させた都興阿は議処に交された。安徽南部の大飢饉で人肉一斤が百二十文に至った。
五年、文祥が神機営で畿輔の馬賊を殲し、左宗棠の請いで福建に工場を設け火輪船を造らせ沈葆楨に船政を総管させた。祁寯藻が卒した。曽国藩を排斥し何桂清を救おうとして糾弾された。六年、曽国藩を大学士、駱秉章を協弁大学士とし、旱で庶獄を整理して直言を求めた。同文館に閣部翰林を入れ各国の語学・天文暦算・造船製器を学ばせようとしたが、夷裔を師とすべきでないとの論が伝誦され一人も入館せず、倭仁も管理を辞して落馬を装い、楊廷熙は同文館撤廃を代奏した。イギリスの条約は勢いで脅し取られたものゆえアメリカと結んで助けとし、蒲安臣・志剛・孫家穀を各国へ派した。十二月、東捻蕩平で李鴻章らに世職を賞し、駱秉章が卒し文忠と諡された。
七年、西捻蕩平で李鴻章を協弁大学士に抜擢し、曽国藩を直隷総督、馬新貽を両江総督とし、彭玉麟に長江水師を籌画させた。御史徳泰は園庭修理と戸・畝・村ごとの捐を代進し、奢侈の端を開くとして革職された。八年、席宝田が貴州の苗・教匪を破り鎮遠の二城を克復し、山東巡撫丁宝楨が太監安得海を殺した。得海は奕訢を中傷して以来、朝士が門に奔走し声勢赫々たるものがあり、帝は泥人形の首を斬って小安子を殺すのだと言った。宝楨は帝と密かに謀り、欽差と称し竜衣を着け女楽を連れ南下した得海を泰安で捕らえ、皇太后の命だという大言も顧みずその夜に市に棄て、一党二十余人を誅した。
九年、劉松山が回族の頭目馬五の寨を攻めて陣没した。七月、両江総督馬新貽が閲兵の帰りに張文祥に刺されて卒した。文祥は友の仇を報じたと供したが、取り調べの官は盗賊の残党の仕業と作り変え磔にした。曽国藩を両江総督、李鴻章を直隷総督に転じ、三口通商督弁を廃し直隷総督に帰した。席宝田は台拱庁城、劉士奇は都匀府城を落とした。十年、ベトナムの匪徒曽亜治を剿討させ、浙江の暴風と雹が数万を死傷させた。
十一年正月、大学士・両江総督・一等毅勇侯の曽国藩が卒し、文正と諡された。国藩は侍郎の身で郷兵を治め、征伐は十八行省に及び、中興の功は第一である。軍旅が平らぐと勧農・塩務・練兵まで章程を定めた。和議が成ると海上に雄を争う志を抱き、安慶に内軍械所、上海に械器局を設けて火輪船を模造し、子弟を泰西に遣わすよう奏請した。喪が帰ると百姓は香を焚いて送った。三月、咸豊五年から貴州を蹂躙した張秀眉らを、席宝田の湘軍が懸軍深入して砦数千を破り、宝田の病後に諸将が捕らえ長沙で磔にしたので、宝田に騎都尉の世職を賞した。李宏謨が日ごとの召見を請うと、慈禧太后は春来不調で臨朝せぬのに冒昧だとの厳旨が下った。七月、御史辺宝泉が李鴻章の瑞麦献上を弊とし永定河合竜の保案撤回を請うて嘉納された。九月、左宗棠の瑞麦瑞穀の奏は許されず、地方官の報告に誇るなと戒められた。阿魯特氏を皇后、富察氏を慧妃とした。慈禧の意は慧妃にあったが、慈安が后を重んじ帝も后と答えて冊立した。大婚の費用は千万に上り、慈安にも禁じられなかった。
十二年正月、帝が親政した。貴州・雲南の回民粛清で曽璧光・岑毓英に宮銜と世職を賞した。六月、日本の副島種臣とロシア・アメリカ・イギリス・フランス・オランダの使節が紫光閣で謁見し国書を呈して大婚と親政を賀した。十月、御史沈淮が円明園修復を緩めるよう請うて旨に忤り厳責された。園は乾隆年間に四十景を列ね費億万を数えたが、咸豊十年、阿片の役でイギリス人に焼かれていた。十一年、李光昭が木材を献じて園庭修理を請い、帝が各省で木材を買わせ内外は驚き惑った。帝は両宮の養生のためと言ったが、淮は、仇敵が国内にある今、興修は議すべきでなく、園が成っても両太后は楽しまれますまいと述べ、游百川も諍ったが納れられなかった。粛州回復と回民粛清で左宗棠を協弁大学士に抜擢した。
十三年、広東の闈姓賭博を禁じ、李鴻章にペルーの使臣と会商させた。七月、李光昭を革職し鴻章に審理させた。光昭は欽命を借りて産地で勒索し、五万余元の洋木を三十万両と捏造して報じ、フランス商人との訴訟から露見した。内務府の崇綸らも革職され、光昭は斬監候、円明園の工事は停め三海を修めることとした。恭親王奕訢を郡王に降したが、まもなく賞し戻した。十月、帝が不予となり李鴻藻に章奏の批を代らせた。帝は后阿魯特氏を敬礼したが、慈禧が慧妃を偏愛して后を疎んじ、帝は乾清宮に独り宿り、微行へ導く内侍があって病を招いた。十一月、天花に遇ったとして内外の陳奏を皇太后に呈せと諭した。十二月、帝が崩じた。病篤くなると李鴻藻を召し、載㴻に大統を承けさせようと遺詔を書かせたが、鴻藻は儲秀宮に馳せて草稿を進め、慈禧は怒って叱り出した。崩御は秘され、慈禧は軍機の王大臣を召して誰が大統を承けようかと問い、文錫が溥の字の輩から択べと答えると色を変え、醇親王奕譞の子載湉を承継させると言い、諸臣が応じてから、皇帝はすでに崩御したのだと厲声で言った。嗣皇帝は四歳で即位し、明年を光緒元年として両宮が垂簾聴政した。皇后を嘉順皇后と封じ、載㴻・文錫は罪を得た。大行皇帝に毅と諡し廟号を穆宗として恵陵に葬った。享年十九。
年表
咸豊十一年(1861年)の文宗の崩御から同治十三年(1874年)の穆宗の崩御まで、およそ十四年間の政局を編年で追う。熱河で顧命を受けた載垣・端華・粛順らが両宮皇太后と恭親王奕訢に討たれ、慈安・慈禧の垂簾聴政が始まり、年号は祺祥から同治に改められた。曾国藩・李鴻章・左宗棠・僧格林沁・席宝田らによって太平天国・捻軍・貴州の苗・陝甘や雲南の回民の乱が次々に平定され、同文館の設立や火輪船の製造、蒲安臣の派遣など洋務も進んだ。内では丁宝楨が太監の安得海を誅し、円明園修復をめぐって沈淮・游百川が諍い、李光昭の詐欺で工事は停止された。同治十二年(1873年)に帝は親政したが、翌年疱瘡で崩じ、四歳の載湉が迎えられて光緒と改元、垂簾聴政が続いた。
年表(14件)
- 西暦1861年 文宗咸豊十一年文宗が熱河で崩じ、載垣・端華・粛順が誅されて両宮皇太后が垂簾聴政する
- 西暦1862年 穆宗同治元年外洋の船砲購入が許され、長江水師提督を新設して蕪湖に駐紮させる
- 西暦1863年 同治二年京師に同文館を設立し、蘇州・松江・太倉三属の賦額を減ずる
- 西暦1864年 同治三年金陵が克復され、曾国藩らに侯伯子男の封が下る
- 西暦1865年 同治四年僧格林沁が曹州で敗死し、左宗棠が太平天国の残衆を嘉応州で殲滅する
- 西暦1866年 同治五年左宗棠の奏請で福建に火輪船製造の工場を設け、沈葆楨に船政を総管させる
- 西暦1867年 同治六年倭仁が同文館を排し、蒲安臣を各国に派遣、東捻が蕩平される
- 西暦1868年 同治七年西捻が蕩平され、曾国藩を直隷総督、馬新貽を両江総督とする
- 西暦1869年 同治八年山東巡撫の丁宝楨が太監の安得海を捕らえて市に棄てる
- 西暦1870年 同治九年両江総督の馬新貽が張文祥に刺殺され、曾国藩が両江、李鴻章が直隷に転ずる
- 西暦1871年 同治十年馮子材にベトナムの匪徒曽亜治の剿討を命じ、永定河がたびたび決壊する
- 西暦1872年 同治十一年曾国藩が卒し、貴州の苗が平らぎ、阿魯特氏を皇后に立てる
- 西暦1873年 同治十二年帝が親政し、六か国の使節が紫光閣で謁見、円明園修復の諫言が退けられる
- 西暦1874年 同治十三年李光昭の詐欺で園工を停め、帝が崩じて四歳の載湉が大統を承ける
現代語訳全文
西暦1861年 文宗咸豊十一年
- 秋七月、帝は熱河にあって不予(ご病気)であった。十六日の子刻、病が大いに篤くなり、宗人府宗令の載垣、右宗正の端華、御前大臣の景寿・粛順、軍機大臣の穆蔭・匡源・杜瀚・焦祐瀛を避暑山荘の行殿の寝宮に召して顧命を受けさせ、皇長子の載淳を立てて皇太子とし、あわせて載垣・端華・粛順・景寿・穆蔭・匡源・杜瀚・焦祐瀛を賛襄政務王大臣とする旨を諭した。翌日の寅刻、帝は崩じ、諸臣は太子が正しく尊位に即くことを請い、詔して明年を祺祥元年と改めた。
- 皇后の鈕祜禄氏および生母の懿貴妃那拉氏を、ともに皇太后と尊んだ。このとき両后を並べて尊んだとはいえ、なお微かに区別を示した。皇后を母后皇太后と称し、貴妃を聖母皇太后と称したのは、明の万暦朝の故事に拠ったものである。
- 八月、丁巳朔、日と月とが璧を合わせ、五星が珠を連ねた。この日、五星が張宿と翼宿との間に聚まり、欽天監が占って、楚の地に賢才の補佐があり、中興をもたらす兆しであるとした。
- 安慶および池州・桐城・宿松の各郡県を克復したことにより、道員の曽国荃らに差をつけて褒賞・抜擢を行った(底本は「獎等擢」に作る。「等獎擢」の誤りか)。安慶が太平軍に占拠されてすでに九年を越えていたが、前年の冬のあいだに国荃が水軍・陸軍の諸軍を統領して包囲し、この月の初一日に至って克復し、そのまま勢いに乗じて池州・桐城・宿松の各郡県を回復した。
- 九月、両宮皇太后に徽号を奉った。初め、母后・聖母という称について、帝の生母である那拉后は深く不快の念を募らせていた。ここに至って太后の徽号を奉って「慈安皇太后」といい、生母の太后を「慈禧皇太后」といい、あわせて今後の奏牘では慈安・慈禧と並び称し、もはや母后・聖母の別を設けないと諭した。
- 奉天の金州で地震があり、人口百十戸を圧死させた。
- 帝は大行皇帝の梓宮を奉じて京師に帰った。出発ののち、両宮皇太后を奉じて先に間道から宮に還らせ、慈安太后を宮の東所の綏履殿に居らせ、慈禧太后を宮の西所の平安室に居らせた。これによって俗間に東太后・西太后の称が生じた。
- 冬十月、恭親王奕訢に議政王を授け、軍機処に行走させた。大学士の桂良、尚書の沈兆霖、侍郎の文祥・宝鋆に軍機大臣上行走を命じ、鴻臚少卿の曹毓英に軍機大臣上学習行走を命じた。
- 怡新王(怡親王の誤りか)載垣、鄭親王端華、協弁大学士戸部尚書の粛順を殺し、御前大臣の景寿、兵部尚書の穆蔭、吏部左侍郎の匡源、署礼部右侍郎の杜瀚、太僕寺卿の焦祐瀛の職を革めた。これより先、御史の董元淳(董元醇の誤りか)が疏して言った、「皇上は沖齢で、まだ親政あそばすことができません。しばらく皇太后の垂簾聴政を請い、あわせて近支の親王一、二人を派して輔政させていただきたい」と。疏が入ると、太后は賛襄王大臣を召見し、奏するところのとおりに行えと命じた。載垣らは抗論して、不可であるとした。「臣らは遺詔を奉じて賛襄しているのであり、皇上が太后に聴命なさるべきではない」といった言葉があった。退いてまた、本朝の家法では母后の臨朝を禁じているとして、軍機処に命じて論駁して突き返させた。このとき恭親王奕訢はすでに熱河に至っており、太后が召見しようとすると、杜瀚はまた、恭王は太后とは嫂と叔の間柄で行き来すべきでなく、まして太后の居喪の間であるから、なおさら嫌疑を遠ざけるべきである、と言った。のち奕訢は計略をめぐらして太后に会うことができ、太后は載垣らの専恣を憂慮し、奕訢(底本は「弈訢」に作る。「奕訢」の誤りか)は密かに彼らを誅する謀をめぐらし、鴻臚少卿の曹毓英を召して、それぞれを拏問する諸々の旨を密かに起草させ、発表に備えた。奕訢が京に還り、その出発ののち、太后もただちに詔を下して回鑾し、粛順に梓宮の護送を命じ、載垣らには扈蹕させ、自らは先に間道から行った。そこで大学士の賈楨・周祖培、尚書の沈兆霖・趙光が合同して疏し、太后の垂簾を請い、安徽・河南の督師である内閣学士の勝保もまた、近支の親王を簡んで輔政させるよう奏請した。太后が京師に至ると、そこで詔を下して載垣らの罪状を暴き、あわせて旨を降して奕訢(粛順の誤りか)を拏問させた。詔を捧げて(底本は「俸」に作る。「捧」の誤りか)宣示し終わると、侍衛に命じて載垣・端華の二人を捕らえ、宗人府に押し込めて幽閉した。このとき粛順はちょうど密雲に宿営していたが、これもまた逮捕されて京に至った。まもなく載垣・端華には自尽を賜い、粛順を市に棄て、景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦祐瀛はみな免職された。穆蔭は軍台に遣戍され、党与を厳しく処断した。尚書の陳孚恩、侍郎の黄宗漢・劉崐・成琦、太僕少卿の徳克津、太京堂(大京堂の誤りか)の富績、太監の杜双全・袁添喜・王喜慶・張保桂・劉二寿はみな免職され、差をつけて発遣された。これより垂簾の局はすでに定まった。
- 皇太后垂簾の儀を議するよう命じた。
- 帝は太和殿で即位の礼を行い、明年を同治元年とした。初め、載垣らは建元して祺祥としようと擬したが、載垣らが罪を得たので、そこで同治と改めた。
- 諭した、「現在の一切の政務は、みな両宮皇太后が自ら裁決しておられるが、ただ諭旨を書き上げるときは、やはり朕の意としてなすべきである。今後、議政王・軍機大臣が諭旨を書き上げる際には、やはり『朕』の字を書け」と。
- 東南の方角に雷のような音があった。
- 熱河避暑山荘の一切の工事を停止した。
- 欽差大臣・両江総督の曽国藩に、江蘇・安徽・江西・浙江四省の軍務を統轄するよう命じた。このとき安慶がすでに回復し、群臣は争って上書して事を言い、多くが湘軍・楚軍の軍功を推して、その副将級の者でもみな総督・巡撫になれるとしたので、いよいよ国藩を重んじ、そこでこの命があった。四省の巡撫以下の各官は、ことごとくその節制に帰した。国藩は恐懼して三たび辞退を奏したが、聴かれなかった。
- 十一月乙酉朔、帝は両宮皇太后を奉じて養心殿に御し、垂簾聴政した。
- 十二月、曽国藩に進剿の事宜を通じて籌画するよう諭した。
- 詔して東三省に兵丁の訓練を厳しく命じた。
- 前任の副都統である富明阿を京に召し、京旗各営の訓練の事宜を講究させた。
西暦1862年 穆宗同治元年
- 春正月、兵部尚書の麟魁、両江総督の曽国藩を、ともに協弁大学士に命じた。
- 総理各国事務衙門が、江蘇など諸省に款を工面させ、外洋の船と砲とを購入するよう奏請し、これに従った。
- 三月、左副都御史の晏瑞書に広東へ赴き、韶州に駐紮して省全体の釐金を督弁し、浙江など諸省の兵糧の需めを援助するよう命じた。
- 夏四月、山東の畝捐を実施するよう命じた。科爾沁親王の僧格林沁の奏請に従ったのである。
- 五月、台湾の民人である戴万生らが兵を起こし、彰化を占拠した。福建巡撫の徐宗幹に剿討を命じた。
- 長江水師提督を新たに設け、蕪湖に駐紮させた。
- 六月、直隷に蝗の害があった。
- 秋七月、多くの星が西南に流れ、織るがごとくであった。
- 京師に大疫が流行した。
- 八月、広東の省城および省に近い各属に風災があり、縦横千里に及び、人口数万を傷つけ死なせた。
- 九月、詔して畿輔に堅壁清野の法を行わせた。このとき畿輔に教匪・土匪・捻軍・幅軍の各党が沸き起こっていたからである。
- 冬十一月、己酉朔、日食があった。
- 大学士の銜をもって工部の事務を管理していた翁心存が卒し、諡を文端と与えた。このとき、翁心存の子で免職された安徽巡撫の翁同書が、安慶の城池を失守したかどで下獄していたが、釈放を命じた。
- 予告(致仕)の大学士である彭蘊章が卒した。蘊章は初め政府にあり、阿桂清(何桂清の誤りか)を力めて薦めたことで斥けられ、再起するに及んで時事を条陳して議し、湘軍・楚軍を撤し、曽国藩の兵権を裁ち抑えるよう請うたが、政府はこれを嗤い、これより再び用いられなかった。
- この年、黒い虹が天に現れ、江蘇などで大疫が起こった。
西暦1863年 同治二年
- 春二月、京師に同文館を設立した。
- 夏五月、蘇州・松江・太倉の三属の賦額を減ずるよう諭した。三属の賦額は、他省に較べて一、二十倍も多いものがあった。ここに至って、曽国藩および巡撫の李鴻章が言葉を合わせてその減額を奏請したのである。
- 金星が昼に現れた(「畫」は「晝」の誤りか)。
西暦1864年 同治三年
- 春二月、山東の畝捐を停止した。巡撫の閻敬銘の奏請に従ったのである。
- 三月、蘇州・松江・太倉の各属で地震があった。
- 夏四月、辛未朔、日食があった。
- 西安将軍の多隆阿に祭葬と世職とを与え、まもなく諡を忠勇と与えた。多隆阿は黒竜江の馬隊を率いて曽国藩の軍に属し、楚(湖北・湖南)と皖(安徽)の征伐に従い、身をもって三百余りの戦陣を経て、城や砦を二百あまり攻め落とした。生涯、士卒を愛すること骨肉のごとくであり、しかも威令は厳明、智と能とを兼ね備えていたので、しばしば奇功を奏した。軍を提げて陝西に入ってからは、回民をほとんど剿し尽くした。この年の二月、軍を督して盩厔を力攻し、弾に中たって目を傷つけたが、攻めをいよいよ急にして、ついにこれを抜いた。ここに至って傷が悪化して薨じ、これを聞く者で痛み傷まない者はなく、陝西では処々にこれを祠った。
- 五月、御史の賈鐸が奏した、「太監が芝居を演じ、一度の賞に十金を与え、あわせて庫に蓄えた緞子を裁って芝居の衣裳に作っていると聞き及びました。速やかに禁止するよう命じ、それによって漸を杜ぎ微を防いでいただきたい」と。まもなく懿旨が下った、「奏を見て実に怪しむべきである。まさに今、各省の軍務はまだ平らがず、百姓の傷は目に満ち、庫の財は不足し、山陵はまだ安んじておらず、深宮の隠れた痛みは実に切なるものがある。どうしてその御史の摺の中で指すような事があろうか。まして庫に蓄えた銀や緞子は、奏して允可を得なければ勝手に動かすことはできぬ。この事は必ず無いと断じてよい」と。
- 六月、金陵克復の捷報が聞こえ、曽国藩らに侯・伯・子・男および世職の官階を封じた。
- 秋八月、洪福瑱を生け捕りにしたことにより、沈葆楨らに差をつけて世爵・世職を与えた。
西暦1865年 同治四年
- 春二月、直隷など諸省の雷・雹の災異により、詔を下して身を修め省みさせた。
- 三月、恭親王奕訢に、軍機処で議政するに及ばずと命じ、あわせて一切の差使を撤した。奕訢は載垣らを誅した功により、両宮から深く頼りとされていた。このとき太監の安得海がちょうど慈禧太后に寵せられ、事を用いようと思って、奕訢を甚だしく嫉み、讒言によってその議政の権を去らせたのである。まもなく惇親王綿愷(奕誴の誤りか)、醇郡王奕譞、通政使の王拯、御史の孫翼謀が前後して奏諫し、給事中の広泰らは、さらに言った、「廟堂の上で先に猜疑と嫌忌とが開かれ、根本の間で和み協うことができず、中外の見聞を驚かせ、宵旰のご憂労を増しております」と。そこで初めて懿旨があり、「なお内廷に行走させ、あわせてなお総理各国事務衙門を管理させよ」と令し、まもなく、なお軍機大臣上行走とするが、議政という名目は復さず、もって裁ち抑えることを示せと命じた。
- 五月、江蘇・浙江に水害があり、住民で溺れ死んだ者が十余万であった。
- 醇郡王奕譞に京師の防範の事宜を籌弁するよう命じ、僧格林沁が曹州で陣没したことにより、諡を忠と与え、あわせて太廟に配饗するよう命じた。僧格林沁は捻軍を追って山東の曹州の西に至り、重囲に苦しめられた。夜になって陣を突き破って出たが、前駆の者が戈を反して背き、敵がこれに乗じた。僧格林沁は酒に酔っていて戦うことができず、ついに全軍が覆没した。僧格林沁および総兵の何建鰲、内閣学士の金順らはみな敗れて死んだ。
- 六月、安徽に安慶廬滁和道を増設し、鳳穎道を改めて鳳穎六泗道とし、渦陽県を増設して雉河集に治所を置き、鳳台県を下蔡鎮に移した。
- 秋七月、大きな星が隕ち、その光は月のようであった。
- 冬十二月、太平天国の残衆を蕩平したことにより、浙江巡撫の左宗棠を一等伯に封じ、布政使の蔣益澧に騎都尉を賞した。これより先、太平天国の残衆は浙江から江西に走り、福建に入り、まもなく広東に入った。宗棠は奏して益澧に巡撫を護理させ、自ら全軍を統べて、浙江・福建から追って嘉応州に至り、ことごとくこれを殲滅した。
- 寧夏の府城を回復した際、西安将軍の都興阿がすでに降った回民の頭目を殺し、あわせて兵を放って掠奪・殺戮させ、旨を奉じて部に交して議処させ、まもなく盛京に転じた。
- この年、安徽南部に大飢饉があり、民は互いに食らい、人肉一斤の値が百二十文にまで至った。江蘇の句容・溧陽・溧水もまた同様であった。
西暦1866年 同治五年
- 夏四月、大学士の文祥が奉天の馬賊を勦滅し、兵を撤して京に還った。これより先、馬賊が口外から入って畿輔を騒がせ、陵寝を震え驚かせ、文祥に神機営を率いて剿討を督するよう命じた。ここに至って、ほとんど殲し除き、撤して京師に還った。
- 六月、閩浙総督の左宗棠が奏して、福建に地を択んで工場を設け、火輪船を製造することを請い、これに従った。まもなく丁憂(服喪中)の巡撫である瀋葆楨(沈葆楨の誤りか)に船政の事務を総管するよう命じた。
- 秋九月、予告(致仕)の大学士である祁寯藻が卒した。咸豊年間、曽国藩が郷兵を起こして湖北を粛清し、その捷報が聞こえると、文宗は喜びを色に表したが、寯藻は力めてこれを排斥した。両江総督の何桂清が軍律を失ったかどで斬に擬せられたときには、寯藻ひとり疏を上って力めて救い、言路の卞宝第に糾弾され、挙国が快哉と称した。
西暦1867年 同治六年
- 春二月、帝は両宮皇太后を奉じて惇親王綿愷(奕誴の誤りか)の邸に行幸した。これより先、侍読学士の夏同善は、惇邸に行幸し、梨園(芝居の一座)を召し集める事があると聞いて、疏を上って力めて諫めたが、諭旨は旧来の章程に循うとしてこれを退けた。
- 夏五月、曽国藩を大学士とし、四川総督の駱秉章を協弁大学士とするよう命じ、ともになお総督の任に留めた。
- 夏至の日、京師で地震があった。
- 旱魃により、詔して庶獄を整理し、直言を求め、あわせて宮廷の用度をしばしば減らした。
- 大学士の倭仁に、休暇が満ちたのちただちに総理各国事務衙門の任に赴くよう命じたが、なお病を理由に辞した。初め、京師に同文館を設立したとき、朝議では閣部や翰林の官のうち年若く聡明な者を選び、館に入れて各国の言語文字および天文暦算の学、造船・製器の諸法を学ばせようと擬した。〔倭仁は〕工部に責めを負わせて匠役を督して習わせるべきである、文儒の近臣が技能を崇び尚び、夷裔を師と法るべきではない、と論じた(底本はここに発言者を示す句を欠く。倭仁の上疏か)。疏が上ると、都下では一時これを伝え誦し、至論であるとした。そこで詞館や曹郎の者はみな、自ら高木を下りて谷に移ることを恥とし、ついに一人として館に入ろうとする者がなかった。まもなく倭仁に総理衙門に行走し、あわせて同文館の事を管理するよう命じた。倭仁はしばしば病を理由に辞し、おりしも旱魃により言を求めたので、候選の直隷州知州である楊廷熙が都察院に代奏を請い、同文館を撤廃して天変を弥めるよう求め、あわせて各部院の王大臣を痛烈に罵った。諭はこれを倭仁の授意によるものと指し、休暇が満ちたらただちに任に赴けとした。倭仁は馬を策って館に臨んだが、途中でわざと落馬し、そこで足の病を理由に急な休みを請うた。
- 秋七月、永定河が溢れた。
- 八月、乙巳の望、月食があった。
- 九月、各省に哥老会を厳しく捕らえるよう重ねて諭した。
- 冬十月、アメリカの使節である蒲安臣(バーリンゲーム)を条約を結んでいる各国へ派遣し、中外の交渉の事務を処理させ、まもなくまた道員の志剛、郎中の孫家穀を派遣した。このとき、イギリスが前後に結んだ条約はみな勢いで脅して力ずくで取ったものであったので、中国はアメリカと好みを結んで自らの助けにしようとし、この挙があったのである。
- 十二月、東捻を蕩平したことにより、欽差大臣の李鴻章らに、差をつけて世職などを賞し加えた。
- 協弁大学士・四川総督の駱秉章が卒し、諡を文忠と与えた。秉章は公忠にして賢者を推し、湖南を撫したときには、ひとり幕僚の左宗棠を任用し、兵糧を集め兵を練り、援軍が四方に出て、捷報が道に相望んだ。蜀(四川)を総督するに及んでは、また劉蓉を招いて佐理させ、その国力を資として藍朝鼎・李短褡および石達開の衆を平らげた。卒した日には、士も民も巷で哭き、市を罷め、蜀の人はその遺した恵みを慕い、漢の諸葛亮、唐の韋皋の後ではただこの一人だけだ、と言ったという。
西暦1868年 同治七年
- 夏六月、西捻を蕩平したことにより、湖広総督の李鴻章を協弁大学士に抜擢し、その他の者にも差をつけて恩賞を加えた。
- 秋七月、黄河南岸の滎沢汛の十堡で堤が切れて水が溢れた。
- 両江総督の曽国藩を直隷総督に転じ、閩浙総督の馬新貽を両江総督とした。
- 兵部侍郎を開缺(免職)となっていた彭玉麟に、江蘇・安徽へ赴いて長江水師の事宜を会同して籌画するよう命じた。
- 八月、御史の徳泰らの職を革めた。徳泰は園庭の修理を奏請し、あわせて内務府の庫守である貴祥が起草した款を工面する章程を代わりに進呈し、京師の外の各地方で戸ごと・畝ごと・村ごとに順次に捐を取り立てることを請うた。恭王奕訢は奢侈の端緒が開かれようとしているとして、旨を請い、徳泰を喪心病狂であると厳しく責め、ただちに免職させ、貴祥は黒竜江の披甲人に与えて奴とした。当時その事情を知る者があって、安得海が二人に授意したのだと言った。
- 永定河が溢れた。
- 九月、流星があって織女星を犯し、大きさは扇ほどであった。
西暦1869年 同治八年
- 春二月、記名布政使の席宝田が貴州の苗族・教匪の各衆を撃ち破り、鎮遠の府城・衛城の二城を克復した。
- 戊午、日に重なる輪がかかり、抱珥があり、五色であった。
- 夏六月、永定河が溢れた。
- 京師の武英殿が火災にあった。
- 秋七月、辛未朔、日食があった。
- 八月、山東巡撫の丁宝楨が太監の安得海を捕らえて殺した。得海は直隷南皮の人で、恭王奕訢が彼に中傷されて議政の任を去ってからは、朝廷の士を掌握し、日々その門に奔走する者があり、声勢は赫々たるものであった。帝は年がしだいに長じ、心につねにこれを憂え、ときに宮中で剣をもって泥人形の首を斬り、左右の者がひそかにその理由を尋ねると、「小安子を殺すのだ」と言った。おりしも宝楨が入朝して謁見したので、帝は人を遣わして宝楨と密かに得海を誅する謀をめぐらした。宝楨はそこで、安得海が広東へ行こうとしていると聞いており、必ず山東の境を過ぎるはずだから、これを捕らえて殺し、罪を挙げて奏聞することを請うた。この年の七月、得海は果たして都を出て、舟が徳州を過ぎた。宝楨はただちにその僭越が度を知らず、権勢をひけらかして人心を惑わしている(底本は「煸」に作る。「煽」の誤りか)ことを奏した。疏がようやく整うとすぐに東安府(東昌府の誤りか)知府の程縄武に命じてこれを捕らえさせたが、その後を三日つけながら、あえて動かなかった。そこでさらに総兵の王正起に檄して兵を発してこれを追わせ、泰安に至ってこれを捕らえ、械につないで済南に至らせた。得海は大言した、「わしは皇太后の命を奉じて、広東で竜衣を織らせに行くのだ。おまえたちは自ら死を早めるだけだぞ」と。官吏たちは驚いたが、宝楨は朝廷の旨がどうなるか分からぬと思い、先に処断して殺そうとした。泰安県知県の何毓福が長く跪いて力めて諫め、少し待つよう請うたが、宝楨は毅然としてこれを顧みず、そのまま夜のうちに得海を市に棄て、その一党二十余人を並べて誅した。得海が帆を揚げて南下したときには、自ら欽差と称し、身に竜衣を着け、船の上には日の形と三足鳥との旗を立て、船の傍らには竜と鳳との旗幟を立て、あわせて前站官・標兵・蘇拉(雑役の役人)・僧人および妻妾・太監・女楽など数十人を連れ、笛を吹き糸を調べさせ、沿岸で見物する者は垣のようであった。宝楨の摺が上ってから九日を越えて、ようやく取り調べ捕らえよという通達の命が下ったが、そのとき得海はすでに法に伏して五日が経っていた。
- 布倫托海を回復した。額魯特(オイラト)の人衆が布倫托海を占拠していたのを、呼図克図(フトクト)の棍噶扎勒参が兵を率いて回復した。
- 冬十月、席宝田が勝秉城を克復した。
西暦1870年 同治九年
- 春正月、京師の神武門内にある敬事房の木庫が火災にあった。
- 広東陸路提督の劉松山が回族の頭目である馬五の寨を攻め、陣没した。諡を忠壮と与えた。
- 夏六月、永定河が溢れた。
- 彭玉麟に江南へ赴いて長江水師を整頓するよう命じた。
- 秋七月、両江総督の馬新貽が刺されて卒し、諡を端愍と与えた。新貽は役所の右の箭道で閲兵を終え、還って西の夾道まで来たところで、河南の人である張文祥に殺された。文祥を捕らえて訊問した供述では、新貽は色を漁って友を裏切ったので、自分は友のために仇を報じたのだと言った。取り調べの官は、事が曖昧なところに及んでいて上奏するのに都合が悪いとして、わざと婉曲な言葉に作り変え、文祥は盗賊の残党として、仇を挟んで大臣を殺害したのであるとし、謀反叛逆に準えて、市でこれを磔にした。
- 星があって西に流れ、大きさは盃ほどであった。
- 八月、曽国藩を両江総督に、李鴻章を直隷総督に転じた。
- 九月、水害と旱魃とが重ねて現れたことにより、詔を下して身を修め省みさせた。
- 冬十月、三口通商督弁を廃止し、直隷総督の管轄に帰し、津海関道を増設した。
- 席宝田が台拱庁の城を攻め落とした。台拱の苗の砦は数百年を経て、革苗のうちで最も大きかった。宝田は軍を督してこれを攻め、まずその傍らの砦を取り、夜に革苗を破り、そのまま台拱庁の城を攻め落とした。
- 十二月、総兵の劉士奇が貴州の都匀府の城を攻め落とした。都匀は苗人の金幹二に久しく占拠されていたが、ここに至って克復した。
西暦1871年 同治十年
- 春正月、ベトナムの匪徒である曽亜治が掠山・木馬などの処を騒がせ荒らしたことにより、広西提督の馮子林(馮子材の誤りか)に太平へ馳せ赴き、兵を督して進み剿討するよう命じた。
- 二月、浙江で暴風があり、雹が降り、人口数万を傷つけ死なせた。
- 夏六月、太白(金星)が昼に現れた(「畫」は「晝」の誤りか)。
- 永定河が溢れた。
- 草倉河が溢れた。
- 流星があって天市垣から出た。
- 秋七月、永定河がふたたび決壊した。
- 草倉河がふたたび溢れた。
西暦1872年 同治十一年
- 春正月、大学士・両江総督・一等毅勇侯の曽国藩が卒し、諡を文正と与えた。初め、国藩は在籍の侍郎の身で出て郷兵を治め、征伐は十八の行省に遍く及び、ついに四方を平定した。中興の功は、まことに第一に推してよい。軍旅がしだいに平らいでからは、あらゆる務めが新たに起こされ、およそ農を勧め桑を課すこと、文を修め窮民を振るわせること、暴を取り締まり貧(「貪」の誤りか)を去ること、および塩務・開壑(みぞを開くこと)・請訟(「聴訟」の誤りか)・水陸の練兵などは、国藩がみな自ら章程を定め、それは長く行っていけるものであった。和議が成ると、国藩はひそかに海上に雄を争う志を抱き、安慶に内軍械所を、上海に械器局を設け、火輪船を模して造り、聡明な子弟を選び抜いて泰西の各国に赴かせ、技芸を修習させ、十五年を期して帰国させるよう奏請した。その遠大な謀りごとはこのようであった。文章はとりわけ美しく、集百余巻が世に行われている。喪が帰ったときには、百姓は香を焚いて追い送り、路に満ちて喪の列を囲み、行くことができなかった。江南では家ごとに像を描いて祀り、慕い偲ぶ思いをやめなかった。
- 二月、詔して彭玉麟を起用し、長江水師を巡閲させた。
- 三月、貴州の苗がことごとく平らいだことにより、席宝田に騎都尉の世職を賞した(「常」は「賞」の誤りか)。苗の首領である張秀眉らは、咸豊五年から事を起こし、城池を陥れ、貴州の東西をほとんど遍く蹂躙し、湖南・四川の辺境も騒然となった。同治六年十月に至って、宝田は湘軍を統べ率いて貴州に入り、提督の周達武・唐本有・龔継昌と合し、貴州軍の蘇元春らも力を協せて剿討を助けた。剿討を助けた者たちは軍を懸けて深く入り、飢え困じて敵の糧に依り(底本は「困」に作る。「因」の誤りか)、夜は敵の塁(底本は「疊」に作る。「壘」の誤りか)に宿り、行くにも営帳を持たず、居るにも城砦に依らず、軍は時を定めずに至り、出ては時を定めずに返った。昔、岳鍾琪・張広泗が苗蛮を制した方法である。兵を用いること五千余、地を拓くこと十余里、砦を破ること数千、苗を殲すこと百万に及んだ。十年九月、宝田は瘴気に感じて風痺を病み、帰ることを乞い、繼昌・元春・本有の三提督および道員の謝蘭階に、その軍を分けて統べさせた。諸将が交互に戦い、ここに至ってついに秀眉および奎大五を捕虜とし、長沙に送ってこれを磔にし、苗の地は平らいだ。
- 夏五月、甲申朔、日食があった。
- 御史の李宏謨が、しばしば召して応対することを勤めるよう奏請し、厳しい旨で申し飭した。おおよそ次のようにいう。本年、春に入って以来、慈禧皇太后はときおり不調があり、三月より後になって、ようやく一月余り朝に臨むことがなかった。李宏謨は何と日ごとの召見を請うており、冒昧きわまりない。やはり旨を伝えて厳しく申し飭せ、と。
- 秋七月、御史の辺宝泉が奏し、直隷総督の李鴻章が瑞麦を献上したことは弊害を広げる恐れがあるとし、あわせて永定河口の合竜(締め切り工事)の保案を撤回するよう請うた。旨を奉じて嘉納し、実行させた。
- 九月、江蘇で地震があり、音がして、雨が降るのに似て、南から北へ動いた。
- 陝甘総督の左宗棠が瑞麦・瑞穀が生じたと奏し、史館に下し付けることを請うたが、許さなかった。あわせて、甘粛省では軍務がまだ平らいでおらず、民間は衰え病んでいるのだから、地方官の報告によって少しでも誇り高ぶることがあってはならぬ、と戒めた。
- 阿魯特氏を立てて皇后とし、富察氏を慧妃とした。これより先、この年の二月のころ、満洲の諸大臣の娘を宮に召して后を選んだ。慈禧太后の意は慧妃にあり、后は年がやや若く、容貌もまた較べて劣っていたが、雍容として端荘であったので、慈安太后は常々これを重んじた。ひそかに帝に問うたところ、やはり后をもって答えたので、これを冊立し、議はそこで定まった。このとき大婚の準備には費用がすでに千万に上り、宮門に綵を結ぶだけで十余万に至った。しかも公然と朝廷に奏して銭糧を動かし用いるので、慈安のごとき賢明さをもってしても、これを禁じることはできなかった。
- 冬十二月、日に重なる輪がかかり、抱珥があって五色であり、翌日も同じであった。
西暦1873年 同治十二年
- 春正月、帝が親政した。
- 貴州の回民が粛清されたことにより、巡撫の曽璧光に宮銜と世職とを賞し、その他の者にも差をつけて昇進・抜擢を与えた。
- 六月、日本の使節である副島種臣、ロシアの使節である倭良戛里、アメリカの使節である鏤斐迪、イギリスの使節である威妥瑪、フランスの使節である熱福里、オランダの使節である費果蓀が紫光閣に入って御前に謁見し、あわせて国書を呈し、大婚を、また親政を賀した。このとき新たに日本と条約を結んだところで、種臣は特命全権大使として首席に居り、この上ない栄誉であると誇った。
- 閏月、永定河が溢れた。
- 雲南の回民が粛清されたことにより、岑毓英に宮銜を賞し、改めて一等軽車都尉を与えた。
- 秋八月、直隷の運河の堤が決壊した。
- 冬十月、御史の沈淮が奏して、円明園の修復を緩めるよう請うたが、旨に忤らったので、厳しくこれを責めた。円明園は明の武清侯李偉の清華園の旧址であり、康熙年間には暢春園といい、のち園中に地を開いて室を築き、雍親王の邸に賜り、円明と名づけた。雍正三年、宮殿と朝署の規模を大きくし、避暑して政を聴く所とした。乾隆年間には大いに修飾を施し、離宮・別館を増し置き、景を四十列ね、費やしたところは億万を数えるほどで計り知れなかった。雍正・嘉慶・道光の百余年を経て、毎年みな夏の初めに園へ行幸し、冬の初めに宮へ還った。咸豊の初元、広東で兵が起こると、帝は禍乱に心を傷め、つねに夜半に痛哭し、続いて言葉に託して気を紛らわせ、酒色に情を縦にし、広く漢人の女を園中に集めて、亭や館に分けて住まわせた。四春の寵というものがあり、いわゆる杏花春・武陵春・牡丹春・海棠春である。十年八月、阿片の役で、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの連合軍が天津に至り(「主」は「至」の誤りか)、帝はちょうど園に居たが、警報を聞いて、あわただしく熱河へ逃れ出た。イギリス人は火を放って園を焼き、三昼夜も絶えなかった。同治七年、満洲の御史である徳泰が修復を奏請したが、許されず、しかも厳しい譴責を蒙った。十一年、広東の奸民である李光昭が富貴を覬覦し(「覲覦」は「覬覦」の誤りか)、内務府に願書を具え、木材を献納し、園庭を重ねて修めて皇太后の憩いの場に備えることを請うた。帝はこれを許し、光昭に道員を賞し、円明園工程監督に任じ、各省へ行って木材を買い集めるよう命じた。命がすでに下ると、内外は驚き惑い、淮が先に上書して力めて争った。帝は大いに怒り、宮殿を修葺するのは両宮の遊び楽しみ休息する地とし、養生の資とするためであると言い、そこで淮を宣して引見し、厳しい言葉でなじり責めた(「譞」は「讓」の誤りか)。淮は動じることなく、ただ次のように述べた。淀園の毀たれたのは天災によるものではありません。今、時事は困難で、仇敵が国内におります。たとえ国庫の蓄えが満ち溢れていても、にわかに興修を議すべきではありません。皇上は両宮の養生のためだと仰せられますが、ただ臣が恐れますのは、園の工事が落成し、両太后がその中に入って住まわれても、かえって愀然として楽しまれぬであろうということです、と。まもなく同僚の台官である游百川もまた疏を袖にして上った。朝廷で諤々と数百言を諍い、声は殿の瓦を震わせたが、みな納れられなかった。
- 粛州を回復し、関内の回民の衆が粛清されたことにより、左宗棠を協弁大学士に抜擢し、なお陝甘総督の任に留め、世職を改めて軽車都尉とした。金順・穆図善・宋慶・張曜もみな差をつけて褒賞・叙任された。
西暦1874年 同治十三年
- 春正月、広東の闈姓賭博を禁ずるよう諭した。
- 三月、李鴻章にペルー国の使臣と事務を会商するよう命じた。
- 夏五月、彗星が現れた。
- 秋七月、候選知府の李光昭の職を革め、李鴻章に交して厳しく審理させた。光昭はもともと一介の市井の無頼の子で、佞幸の縁によって進み、欽命を借りて護身符とし、四川・湖広・江蘇・浙江の諸々の木材を産する地域を遊歴し、勒索して私腹を肥やすことができた。命を受けるやいなや、「旨を奉じて採弁す」および「円明園監督」の銜を大書した旗印を掲げ、四方に出て威勢を誇示して回った。洋木を献上するに及んでは、五万余元の木の値を三十万両と捏造して報告し、しかも受け渡しが不明瞭だとしてフランス商人と訴訟を起こし、フランス領事から津海関道に照会して、貴国の欽臣李光昭および園工の木材を一括して差し押さえ、逃亡させないでほしいと請われた。鴻章がこれに拠って上聞し、ただちに免職を命じ、鴻章に交して究明処理させ、通じ合って不正を働いた内務府の前後任の大臣である崇綸・明善・春佑・貴宝および筆帖式の成麟らもみな免職され、まもなく光昭に斬監候を定め、あわせて円明園の工事を停止し、程度を斟酌して三海を修理することとした。
- 恭親王奕訢を降して郡王とし、親王の世襲罔替を取り消し、あわせてその子である貝勒載澂の郡王の銜を革めた。この日、帝が載澂と戯れ、些細なことで歓を失ったためである。まもなく懿旨を奉じて賞し戻したが、なお奕訢には朝廷の訓戒の意を仰ぎ体し、今後いっそう努め慎むべきであると勉めさせたという。
- 冬十月、帝が不予となり、軍機大臣の李鴻藻に代わって章奏に批をつけるよう命じた。帝は大婚ののち、后の阿魯特氏が才と徳とを兼ね備えていたので、后に対して敬礼を加えていた。しかし慈禧太后は慧妃を偏愛していたために、后が入って見えるたびに、少しも柔らかな言葉や顔色を与えることがなく、しかも帝に語った、慧妃は賢明であるから、ねんごろに遇すべきである。皇后は年が若く、礼節に習熟していない。皇帝はたびたびその宮に行き、政務を妨げるに至っている、と。また密かに内監に時々これを監視させたので、帝は大いに不快となり、そのため一年じゅう独り乾清宮に宿った。内侍には密かに帝を微行に導く者があり、起居は多く規律を外れ、ついにそれによって病を招いた。
- 十一月、諭した、朕は本月、天花の喜び(疱瘡の発症)に遇ったので、内外の各衙門が陳奏する事件は、みな皇太后に呈して披覧・裁定を請うように、と。
- 十二月、帝が崩じ、両宮皇太后の懿旨を奉じて、醇親王奕譞の子である載湉を立て、文宗顕皇帝の子として承継させ、入って大統を承け、嗣皇帝とした。これより先、帝の病はしだいに癒えていたが、ある夕、慧妃の宮に宿り、翌朝には病が大いに篤くなった。李鴻藻を召して引見し、貝勒の載㴻に大統を承けさせようと謀り、しかも遺詔を口授して、鴻藻にこれを書かせた。全部で千余言であった。鴻藻は宮を出ると、儲秀宮に馳せ赴き、急な対面を請い、袖の中の草稿の疏を出して進めた。慈禧太后はこれを閲して大いに怒り、鴻藻を叱って出させ、しばらくして帝は崩御した。この月の初五日の酉刻のことであったが、外ではなおこれを秘して知らせなかった。この日の薄暮、にわかに懿旨を奉じて、軍機の王大臣に入って要政を議するよう命じた。諸臣が養心殿の西煖閣に趨り詣で、帝の病状を問うと、慈禧太后はそのとき笑みを含んで応えて言った、「皇帝に異状はない」と。言い終わると黙然とし、しばらくして、また言った、「聖躬はすこぶる虚弱である。もし不測のことがあれば、宗室の中で誰が大統を承けられようか」と。内務府大臣の文錫(底本は「文鍚」に作る)が真っ先に答えて言った、「溥の字の輩のうち賢なる者を択んでこれを立てられますよう」と。太后は色を変え、久しくして、そこで言った、「醇親王奕譞の子である載湉を文宗顕皇帝の子として承継させ、入って大統を承けさせる」と。諸臣はみな唯々と応じた。太后はそこで初めて厲しい声で言った、「しからば皇帝はすでに崩御したのである」と。諸臣はみな声を失って大いに哭いた。このとき嗣皇帝は年がわずか四歳で、すぐに醇親王の邸から禁中に移り住み、皇帝の位に即き、明年を光緒元年とし、やはり両宮皇太后が垂簾聴政した。皇后を封じて嘉順皇后とし、載㴻・文錫はみな罪を得た。まもなく大行皇帝に諡を奉って毅といい、廟号を穆宗とし、遵化州の双山峪に葬って恵陵と号し、享年は十九であった。
原文(底本)
文宗咸豐十一年,秋七月,帝在熱河不豫。十六日子刻,疾大漸,召宗人府宗令載垣,右宗正端華,御前大臣景壽、肅順,軍機大臣穆蔭、匡源、杜瀚、焦祐瀛至避暑山莊行殿寢宮,受顧命,立皇長子載淳為皇太子,並諭以載垣、端華、肅順、景壽、穆蔭、匡源、杜瀚、焦祐瀛為贊襄政務王大臣。翌日寅刻,帝崩,諸臣請太子即正尊位,詔改明年為祺祥元年。 尊皇后鈕祜祿氏及生母懿貴妃那拉氏均為皇太后。時雖以兩后並尊,而仍微示區別。皇后稱母后皇太后,貴妃稱聖母皇太后,援明萬曆朝故事也。 八月,丁巳朔,日月合璧,五星聯珠。是日也,五星聚張、翼之間,欽天監占,以為楚地有賢才佐,致中興之兆。 以克復安慶及池州、桐城、宿松各郡縣,道員曾國荃獎等擢有差。安慶為太平軍所佔據,已逾九年,上年冬間,國荃統領水陸諸軍合圍,至是月初一日克復,遂乘勢收復池、桐、宿各郡縣。 九月,上兩宮皇太后徽號。初,母后及聖母之稱,帝生母那拉后深滋不悅,至是上太后徽號曰:「慈安皇太后」,生母太后曰:「慈禧皇太后」,並諭嗣後奏牘,以慈安、慈禧並稱,不復有母后、聖母之別矣。 奉天金州地震,壓斃人口百十戶。 帝奉大行皇帝梓宮回京師,啟行後,奉兩宮皇太后先由間道還宮,奉慈安太后居宮東所之綏履殿,慈禧太后居宮西所之平安室,由是俗間有東太后、西太后之稱。 冬十月,授恭親王奕訢為議政王,在軍機處行走;命大學士桂良,尚書沈兆霖,侍郎文祥、寶鋆在軍機大臣上行走;鴻臚少卿曹毓英在軍機大臣上學習行走。 殺怡新王載垣,鄭親王端華,協辦大學士戶部尚書肅順,革御前大臣景壽,兵部尚書穆蔭,吏部左侍郎匡源,署禮部右侍郎杜瀚,太僕寺卿焦祐瀛職。先是,御史董元淳疏言:「皇上沖齡,未能親政,暫請皇太后垂簾聽政,並派近支親王一二人輔政。」疏入,太后召見贊襄王大臣,命照所奏行。載垣等抗論,以為不可。有臣等奉遺詔贊襄,皇上不能聽命于太后等語。退復以本朝家法禁母后臨朝,令軍機處駁還。時恭親王奕訢已至熱河,太后將召見,杜瀚復言恭王於太后嫂叔不通,間太后居喪,尤宜遠嫌。後奕訢設計得見太后,太后慮載垣等專恣,弈訢密謀誅之,召鴻臚少卿曹毓英密擬拏問各旨以備發表。奕訢還京,啟行後,太后亦即下詔回鑾,命肅順護送梓宮,載垣等扈蹕,先從間道行。於是大學士賈楨、周祖培,尚書沈兆霖、趙光合疏請太后垂簾,皖豫督師內閣學士勝保亦奏請簡近支親王輔政。太后既至京師,乃下詔暴載垣等罪狀,並降旨拏問奕訢。俸詔宣示畢,命侍衛執載垣、端華二人擁之宗人府幽之。時肅順方次密雲,亦逮至京。旋賜載垣、端華自盡,棄肅順於市,景壽、穆蔭、匡源、杜翰、焦祐瀛俱革職。穆蔭遣戍軍臺,嚴治黨援。尚書陳孚恩,侍郎黃宗漢、劉崐、成琦,太僕少卿德克津。太京堂富績,太監杜雙全、袁添喜、王喜慶、張保桂、劉二壽均革職,發遣有差,自是垂簾之局已定。 命議皇太后垂簾之儀。 帝行即位禮於太和殿,以明年爲同治元年。初,載垣等擬建元爲祺祥,載垣等遂得罪,遂改爲同治。 諭:「見在一切政務,均蒙兩宮皇太后躬親裁決,惟繕擬諭旨仍應作爲朕意。嗣後議政王、軍機大臣繕擬諭旨,著仍書『朕』字。」 東南方有聲如雷。 停止熱河避暑山莊一切工程。 命欽差大臣兩江總督曾國藩統轄江蘇、安徽、江西、浙江四省軍務。時安慶既復,羣臣爭上書言事,多推湘楚軍功,以爲偏裨皆可督撫,因益重國藩,遂有是命。所有四省巡撫以下各官,悉歸節制。國藩皇恐,三奏辭,不聽。 十一月乙酉朔,帝奉兩宮皇太后御養心殿垂簾聽政。 十二月,諭曾國藩通籌進剿事宜。 詔飭東三省訓練兵丁。 召前任副都統富明阿來京,講求京旗各營訓練事宜。 穆宗同治元年,春正月,命兵部尚書麟魁,兩江總督曾國藩,均協辦大學士。 總理各國事務衙門,奏請飭江蘇等省籌款,購買外洋船砲,從之。 三月,命左副都御史晏瑞書赴廣東,駐紮韶州,督辦通省釐金,接濟浙江等省餉需。 夏四月,命辦山東畝捐,從科爾沁親王僧格林沁奏請也。 五月,臺灣民人戴萬生等起兵,據彰化。命福建巡撫徐宗幹剿辦。 添設長江水師提督,駐紮蕪湖。 六月,直隸蝗災。 秋七月,有衆星西南流,如織。 京師大疫。 八月,廣東省城及近省各屬風災,縱橫及千里,傷斃人口數萬。 九月,詔畿輔行堅壁清野法,時畿輔教、土、捻、幅各黨轟起故也。 冬十一月,己酉朔,日食。 大學士銜管理工部事務翁心存卒,予諡文端。時翁心存之子革職安徽巡撫翁同書,以失守安慶城池下獄,命釋放。 予告大學士彭蘊章卒。蘊章初在政府,以力薦阿桂清被斥,及再起,條議時事,請撤湘楚軍,裁抑曾國藩兵權,政府哂之,由是不獲再用。 是年,黑虹見天,江蘇等見大疫。 二年,春二月,設立同文館於京師。 夏五月,諭減蘇、松、太三屬賦額。三屬賦額,有較他省多至一二十倍者,至是,曾國藩及巡撫李鴻章合詞奏請減之。 金星畫見。 三年,春二月,停山東畝捐,從巡撫閻敬銘奏請也。 三月,蘇、松、太各屬地震。 夏四月,辛未朔,日食。 予西安將軍多隆阿祭葬世職,尋予諡忠勇。多隆阿以黑龍江馬隊隸曾國藩軍,從征楚皖,身經三百餘陣,克城砦二百有奇,生平愛士卒如骨肉,而威令嚴明智能兼備,故屢奏奇功。自提師入陝,剿回幾盡。是年二月,督軍力攻盩厔,中彈傷目,攻益急,遂克之。至是,傷發,薨,聞者莫不傷痛,陝西處處祠之。 五月,御史賈鐸奏:“見聞有太監演戲,一賞十金,並用庫存緞匹裁作戲衣,請飭速行禁止,用以杜漸防微。”旋奉懿旨:“覽奏實堪詫異。方今各省軍務未平,百姓瘡痍滿目,庫帑支絀,山陵未安,深宮隱痛實殷,又何至有如該御史摺內所指情事?況庫存銀緞,非奏準不能擅動,茲事可斷其必無也。” 六月,金陵克復捷聞,封曾國藩等侯伯子男及世職官階。 秋八月,以生擒洪福瑱,予沈葆楨等世爵、世職有差。 四年,春二月,以直隸等省雷雹災異,下詔修省。 三月,命恭親王奕訢毋庸在軍機處議政,並撤一切差使。奕訢以誅載垣等功,兩宮深爲倚任。時太監安得海方有寵於慈禧太后,思用事,嫉奕訢甚,以讒去其議政權。旋惇親王綿愷、醇郡王奕譞、通政使王拯、御史孫翼謀先後奏諫給事中廣泰等,更謂:“廟堂之上先啟猜嫌,根本之間未能和協,駭中外之觀聽,增宵旰之憂勞。”始有懿旨,令:“仍在內廷行走,並仍管理總理各國事務衙門,旋命仍在軍機大臣上行走,毋庸復議政名目以示裁抑。” 五月,江浙水災,居民淹斃十餘萬。 命醇郡王奕譞籌辦京師防範事宜,以僧格林沁陣沒曹州,予諡曰忠,並命配饗太廟。僧格林沁追捻至山東曹州之西,困重圍。及夜,突陣出,前驅反戈,敵乘之。僧格林沁中酒,不能戰,遂全軍覆沒。僧格林沁及總兵何建鰲、內閣學士金順等皆敗死。 六月,增設安徽、安慶、廬滁和道,改鳳穎道為鳳穎六泗道,增設渦陽縣,治雉河集,移鳳臺縣於下蔡鎮。 秋七月,有大星隕,光如月。 冬十二月,以蕩平太平餘眾,封浙江巡撫左宗棠一等伯,賞布政使蔣益澧騎都尉。先是太平餘眾自浙江走江西,入福建,尋入廣東,宗棠奏以益澧護巡撫,而自統全軍,由浙、閩追至嘉應州,盡殲之。 以收復寧夏府城,西安將軍都興阿殺已降回目,並縱兵搶殺,奉旨交部議處,旋調盛京。 是年,皖南大飢,民相食,人肉一斤,價至百二十文。江蘇之句容、溧陽、溧水亦然。 五年,夏四月,大學士文祥勦滅奉天馬賊,撤兵還京。先是,馬賊由口外入擾畿輔,震驚陵寢,命文祥率神機營督剿。至是,殲除殆盡,撤還京師。 六月,閩浙總督左宗棠奏,請於福建擇地設廠,製造火輪船,從之。旋命丁憂巡撫瀋葆楨總司船政事務。 秋九月,予告大學士祁寯藻卒。咸豐中,曾國藩起鄉兵,肅清湖北,捷聞,文宗喜形於色,寯藻力觗排之。及兩江總督何桂清以失律擬斬,寯藻獨上疏力救,為言路卞寶第所糾,舉國稱快。 六年,春二月,帝奉兩宮皇太后幸惇親王綿愷第。先是,侍讀學士夏同善聞有將幸惇邸,傳集梨園之事,上疏力諫,諭旨循舊章以折之。 夏五月,命曾國藩為大學士,四川總督駱秉章協辦大學士,均仍留總督任。 夏至日,京師地震。 以旱,詔清理庶獄,求直言,並數減宮廷用欵。 命大學士倭仁假滿後,即赴總理各國事務衙門之任,仍以疾辭。初,京師設立同文館,朝議擬選閣部翰林官年少聰穎者,入館學習各國語言文字及天算學、造船、製器諸法,宜責成工部督匠役習之。文儒近臣,不當崇尚技能,師法夷裔。疏上,都下一時傳誦,以為至論,於是詞館曹郎皆自以下喬遷谷為恥,竟無一人肯入館者。尋命倭仁在總理衙門行走,並管理同文館事。倭仁屢以疾辭,會因旱求言,候選直隸州知州楊廷熙請都察院代奏,撤銷同文館以彌天變,並痛詆各部院王大臣。諭指為倭仁授意,著假滿後即行赴任。倭仁策騎蒞館,中途故墜馬,遂以足疾請急。 秋七月,永定河溢。 八月,乙巳望,月食。 九月,申諭各省嚴拏哥老會。 冬十月,派美使蒲安臣往有約各國,辦理中外交涉事務,旋又派道員志剛、郎中孫家穀往。時因英國前後所立之約皆以勢脅而力取者,中國欲結好美洲,以為己助,故有是舉。 十二月,以東捻蕩平,欽差大臣李鴻章等,賞加世職等有差。 協辦大學士四川總督駱秉章卒,予謚文忠。秉章公忠推賢,撫湖南,獨任幕僚左宗棠,集餉練兵,援軍四出,捷音望於道。及督蜀,又延劉蓉佐理,資其國以平藍朝鼎、李短褡及石達開之眾。卒之日,士民巷哭罷市,蜀人思其遺愛,謂自漢諸葛亮、唐韋皋後,惟一人云。 七年,夏六月,以西捻蕩平,擢湖廣總督李鴻章協辦大學士,餘加恩賞有差。 秋七月,黃河南岸滎澤汛,十堡漫口。 調兩江總督曾國藩為直隸總督,閩浙總督馬新貽為兩江總督。 命開缺兵部侍郎彭玉麟赴江皖會籌長江水師事宜。 八月,革御史德泰等職。德泰奏請修理園庭,並代進內務府庫守貴祥所擬籌欵章程,請於京外各地方按戶按畝按村鱗次收捐,恭王奕訢以侈端將啟,請旨切責德泰喪心病狂,著即革職,貴祥發給黑龍江披甲人為奴。時有知其事者,謂安得海授意二人云。 永定河溢。 九月,有流星犯織女,大如扇。 八年,春二月,記名布政使席寶田擊敗貴州苗教各眾,克復鎮遠府衛二城。 戊午,日重輪,抱珥,五色。 夏六月,永定河溢。 京師武英殿災。 秋七月,辛未朔,日食。 八月,山東巡撫丁寶楨捕殺太監安得海。得海,直隸南皮人,自恭王奕訢為所中,去議政,握朝士,日奔走其門,聲勢煊赫。帝年寖長,心恆憂之,時於宮中以劍斷泥人首,左右私請其故,則曰:“殺小安子!”會寶楨入覲,帝遣人與寶楨密謀誅得海。寶楨因言,聞安得海將往廣東,必過山東境,請執而殺之,以罪奏聞。是年七月,得海果出都,舟過德州,寶楨即奏其僭擬無度,招搖煸惑。疏甫具即飭知東安府程繩武捕之,踵其後三日,不敢動,復檄總兵王正起發兵追之,及泰安,獲之,械至濟南。得海大言:“我奉皇太后命,織龍衣廣東,汝等自速死耳!”官吏驚焉,寶楨念朝旨未可知,欲先論殺之。知泰安縣何毓福長跪力諫,請少待,寶楨毅然不之顧,遂夜棄得海於市,駢誅其黨二十餘人。方得海之揚帆南下也,自稱欽差,身服龍衣,船上有日形三足鳥旗,船旁有龍鳳旗幟,並帶有前站官、標兵、蘇拉、僧人及妻妾、太監、女樂等數十人,品竹調絲,沿岸觀者如堵。寶楨摺上,越九日而通飭查拏之命始下,時得海已伏法五日矣。 收復布倫托海。額魯特人眾佔據布倫托海,呼圖克圖棍噶扎勒參帶兵收復。 冬十月,席寶田克復勝秉城。 九年,春正月,京師神武門內敬事房木庫災。 廣東陸路提督劉松山攻回酋馬五寨,陣亡,予謚忠壯。 夏六月,永定河溢。 命彭玉麟赴江南,整頓長江水師。 秋七月,兩江總督馬新貽被刺卒,予謚端愍。新貽於署右箭道校閱訖事,還行至西夾道,為河南人張文祥所戕。獲文祥訊供,謂新貽漁色負友,己為友復仇云。問官以事涉曖昧,不便上聞,故矯為微詞,稱文祥以盜匪餘孽,挾仇戕害大臣,比照謀反叛逆,磔之於市。 有星西流,大如盞。 八月,調曾國藩為兩江總督,李鴻章為直隸總督。 九月,以水旱疊見,下詔修省。 冬十月,裁撤三口通商督辦,歸直隸總督經管,增設津海關道。 席寶田攻克台拱廳城。台拱苗砦數百年,革苗最大,寶田督軍攻之,先取其旁砦,夜破革苗,遂克台拱廳城。 十二月,總兵劉士奇攻克貴州都勻府城。都勻為苗人金幹二久據,至是克復。 十年,春正月,以越南匪徒曾亞治滋擾掠山木馬等處,命廣西提督馮子林馳赴太平,督兵進剿。 二月,浙江暴風,雨雹,傷斃人口數萬。 夏六月,太白畫見。 永定河溢。 草倉河溢。 有流星出天市垣。 秋七月,永定河復決。 草倉河復溢。 十一年,春正月,大學士兩江總督一等毅勇侯曾國藩卒,予謚文正。初,國藩以在籍侍郎,出治鄉兵,征伐徧於十八行省,終以底定四方。中興之功,允為推第一。自軍旅漸平,百務剏舉,凡勸農課桑,修文振窮,緝暴去貧,及鹽務、開壑、請訟、水陸練兵等,國藩皆手定章程,其可行之經久。和議成,國藩陰有爭雄海上之志,設內軍械所安慶,械器局上海,仿造火輪船,奏請挑選聰穎子弟,赴泰西各國,肄習技藝,期十五年還國。其遠略如此。文章尤美,有集百餘卷行世。喪歸,百姓爇香追送,盈路擁喪不得行,江南家家繪像以祀,謳思弗置。 二月,詔起彭玉麟,巡閱長江水師。 三月,以貴州苗悉平,常席寶田騎都尉世職。苗首張秀眉等,自咸豐五年起事,盪陷城池,蹂躪貴東西殆徧,楚蜀邊境騷然。至同治六年十月,寶田統帶湘軍入黔,與提督周達武、唐本有、龔繼昌會,黔軍蘇元春等協力助勦。助勦者懸軍深入,饑困敵糧,夜宿敵疊,行不持營帳,居不依城砦,軍不時至,出不時反。昔岳鍾琪、張廣泗所以制苗蠻也,用兵五千餘,拓地十餘里,破砦數千,殄苗及百萬。十年,九月,寶田感瘴病風痺,乞歸,以繼昌、元春、本有三提督及道員謝蘭階,分統其軍,諸將迭戰,至是遂俘秀眉及奎大五,送長沙磔之,苗疆平。 夏五月,甲申朔,日食。 御史李宏謨奏請勤召對,嚴旨申飭,略謂本年入春以來,慈禧皇太后時有不適,三月以後,始月餘未經視朝,李宏謨竟以逐日召見爲請,冒昧已極,仍傳旨嚴行申飭。 秋七月,御史邊寶泉奏,直隸總督李鴻章呈進瑞麥,恐滋流獘,並請將永定河口合龍保案撤銷,奉旨嘉納飭行。 九月,江蘇地震,有聲,似雨降,自南而北。 陜甘總督左宗棠奏產瑞麥、瑞穀,請宣付史館,不許。並誡以甘省軍務未平,閭閻彫瘵,毋得因地方官呈報稍涉矜夸。 立阿魯特氏爲皇后,富察氏爲慧妃。先是,是年二月間,召諸滿大臣女入宮選后,慈禧太后意屬慧妃,后年稍稚,貌亦較遜,而雍容端莊,慈安太后雅重之。密詢帝,亦以后對,冊立之,議遂定。時備辦大婚,費已千萬,結綵宫門,至十餘萬,而公奏朝廷,動用錢糧,雖以慈安之賢,莫能禁之也。 冬十二月,日重輪,抱珥五色,翌日如之。 十二年,春正月,帝親政。 以黔回肅淸,賞巡撫曾璧光宮銜世職,餘升擢有差。 六月,日使副島種臣、俄使倭良戛里、美使鏤斐迪、英使威妥瑪、法使熱福里、和使費果蓀入紫光閣前覲見,並呈遞國書,賀大婚,且親政也。時新與日本訂約,種臣以特命全權大使居首班,誇爲至榮。 閏月,永定河溢。 以滇回肅淸,賞岑毓英宫銜,改給一等輕車都尉。 秋八月,直隸運河隄決。 冬十月,御史沈淮奏,請緩修圓明園,忤旨,切責之。圓明園爲明武淸侯李偉清華園舊址,康熙間名暢春園,後於園中闢地築室,賜雍邸,命名圓明。雍正三年,乃大宮殿朝署之規,以避暑聽政。乾隆中,大事修飾,增置離宫別館,列景四十,所費不計億萬,厯雍、嘉、道百餘年,每歲皆以夏首幸園,冬初還宮。咸豐初元,粵中兵起,帝傷禍亂,恆夜分痛哭,繼乃託詞抑解,縱情酒色,廣集漢女於園中,分居亭館。有四春之寵,所謂杏花春、武陵春、牡丹春、海棠春者也。十年八月,鴉片之役,英、法、俄、美聯軍主天津,帝方園居,聞警,倉猝出走熱河,英人縱火焚園,三晝夜不絕。同治七年,滿御史德泰奏請修復,未准,且荷嚴譴。十一年,廣東奸民李光昭,覲覦富貴,具呈內務府,請報効木植,重修園庭以備皇太后燕憩,帝允之,賞光昭道員,任爲圓明園工程監督,命往各省採辦木植。命旣下,中外錯愕,淮首上書力爭,帝大怒,謂修葺宫殿爲兩宫娛游休息之地,以資頣養,乃宣淮入見,嚴詞誚譞。淮不爲動,但稱淀園之毀非由天災,今時事艱難,仇人在國,卽庫藏充溢,亦不當遽議興修。皇上謂爲兩宮頤養起見,但臣恐園工落成,兩太后入居其中,反覺愀然不樂。旋同臺游百川亦䄂疏。廷諍諤諤數百言,聲震殿瓦皆不納。 以收復肅州,關內回衆肅淸,擢左宗棠協辦大學士,仍留陜甘總督任,改世職爲輕車都尉。金順、穆圖善、宋慶、張曜皆獎叙有差。 十三年,春正月,諭禁廣東闈姓賭博。 三月,命李鴻章與秘魯國使臣會商事務。 夏五月,彗星見。 秋七月,革候選知府李光昭職,交李鴻章嚴行審辦。光昭本一市井無賴子,緣佞幸以進,藉欽命爲護身符,得游厯川楚江浙諸產木之區,勒索肥己,甫受命卽大書奉旨採辦及圓明園監督銜條旗號,四出招摇。及呈進洋木以五萬餘元之木價揑報三十萬兩,且以交割不淸與法商搆訟,經法領事照會津海關道,請將貴國欽臣李光昭及園工木植一倂扣留,毋使逃逸。鴻章據以上聞,命卽革職,交鴻章究辦,其通同作弊之內務府前後任大臣崇綸、明善、春佑、貴寶及筆帖式成麟等均革職,旋定光昭斬監候並停止圓明園工程,酌量修理三海。 降恭親王奕訢爲郡王,革去親王世襲罔替,並革其子貝勒載澂郡王銜。因是日帝與載澂戲,以細故失歡也,尋奉懿旨賞還,仍勉奕訢當仰體朝廷訓誡之意,嗣後益加勒愼云。 冬十月,帝不豫,命軍機大臣李鴻藻代批章奏。帝大婚後,因后阿魯特氏才德兼備,於后敬禮有加,而慈禧太后以偏愛慧妃故,每值后入見,從未少假以辭色,且語帝:慧妃賢明,宜加眷豫。皇后年少,未嫺禮節,皇帝每輒至宫中,致妨政務,又陰使內監時復監視之,帝大不懌,故終歲獨宿乾清宫。內侍有陰導帝以微行者,起居多不律,遂以致疾。 十一月,諭朕於本月遇有天花之喜,所有內外各衙門陳奏事件,呈請皇太后披覽裁定。 十二月,帝崩,奉兩宫皇太后懿旨,立醇親王奕譞之子載湉承繼文宗顯皇帝爲子,入承大統,爲嗣皇帝。先是帝疾漸瘳,一夕,宿慧妃宫,翌晨大漸,召李鴻藻入見,與謀以貝勒載㴻承大統,且口授遺詔,令鴻藻書之,凡千餘言。鴻藻出宫,馳赴儲秀宮中,請急對,出袖中草疏以進,慈禧太后閱之大怒,叱鴻藻出,移時駕崩,時是月初五日酉刻也,外間尙祕不之知。是日薄暮,忽奉懿旨,命軍機王大臣入議要政,諸臣趨詣養心殿西煖閣,問帝病狀,慈禧太后時含笑應曰:「皇帝無恙。」語畢,默然,少頃,復言曰:「聖躬頗虛弱,脱有不測,宗室中誰可承大統者?」內務府大臣文鍚首對曰:「請擇溥字輩之賢者而立之。」太后色變,久之,乃曰:「醇親王奕譞之子載湉承繼文宗顯皇帝爲子,入承大統。」諸臣皆唯唯。太后始厲聲曰:「然則皇帝已駕崩矣!」諸臣皆失聲大哭。時嗣皇帝年甫四齡,卽由醇邸移居禁中,卽皇帝位,以明年爲光緒元年,仍由兩宫皇太后垂簾聽政。封皇后爲嘉順皇后,載㴻、文錫皆得罪。旋上大行皇帝謚曰毅,廟號穆宗,葬遵化州雙山峪號惠陵,享年十有九。
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