清史紀事本末太平天国の興亡(太平天国之興亡)
要約
道光三十年秋八月、広東花県の諸生洪秀全が広西の金田村で兵を起こした。秀全は朱九濤の上帝会に馮雲山と師事し、その死後は上帝教を樹てた。道光十六年に会を広西へ移し、雲山らが各県に布教した。秀全は教主に推され、エホバを天父、イエスを天兄、自らをその弟とし、教中は平等とした。信徒は二千を超え、水賊の羅大綱も帰し、官の捕縛が急なので挙兵した。冬十月、林則徐は赴任の途中に病没し、十一月、提督張必禄も金田で敗死した。
咸豊元年閏八月、秀全は永安州に入って天王と称した。招撫を命じられた李星沅は断藤峡で薬をあおって死に、賽尚阿が督師となった。秀全はその間に布置を整えて太平王に推され、象州を破り、国号を太平天国とし、楊秀清・蕭朝貴・馮雲山・韋昌輝を東西南北王、石達開を翼王、洪大全を天徳王とした。
二年四月、賽尚阿が四か月囲んだ永安から洪大全が突囲して執えられ、羅大綱は烏蘭泰を六塘墟で敗死させ、太平軍は全州を破った。道州の挙人胡孝先は、まず咸陽を取れと説いて先生と呼ばれたが、楊秀清が忌んで殺した。五月、馮雲山が長沙へ向かう途中で陣没し、秀全は良き輔佐を奪われたと慟哭した。七月、桂陽州・彬州を破って長沙に趨ったので、駱秉章を罷めて張亮基を代えた。
十月、蕭朝貴が長沙に迫ったとき、城中の額兵・練勇八千余は動かず、鮑起豹は城隍の神像を城楼に置いて対坐した。病と称していた向栄も賽尚阿の罷免後に長沙へ至ったが、水落洲で大破された。三か月攻めても下らず、囲みを解いて江を渡り、岳州を下して呉三桂の遺した軍械を得た。十二月、漢陽・武昌が下って巡撫常大淳らは死に、喪中の侍郎曾国藩を団練に当たらせた。
三年正月、太平軍は東下して蘄・黄を取り、九江・安慶を落として巡撫蔣文慶は死んだ。秀全は潼関の堅さと積荷の重さを慮り、銭江の策で江寧を図った。二月、総督陸建瀛は遁れ、七日で城は下って将軍祥厚らは死んだ。建言を納れて江寧を天京と升せ、頼氏を皇后、福瑱を太子とし、六官・朝儀・法律・学校を立て、科を開くと二万余が赴いた。暦は閏月を置かず七日ごとに礼拝し、一万二千五百人を一軍とした。南昌の囲みは江忠源の援けで解け、八月には直隷に入り訥爾経額の兵を臨洺関で大潰させ、李開芳らは天津を攻めて利あらず静海に拠った。十二月、廬州が陥ちて巡撫江忠源は死んだ。
四年正月、湖広総督呉文鎔は崇綸に弾劾されて黄州に出師し、大敗して自殺した。三月、独流の李開芳・林鳳祥の軍は大雪に凍え、僧格林沁に大敗して阜城に拠った。曾国藩は靖港で敗れて水に投じ章寿麟に救われ、塔斉布の陸師と舟師が水陸十戦十勝して湘潭を復した。六月、石祥貞がまた武昌を破って巡撫青麟は誅され、七月以後、国藩は岳州・武昌・漢陽・黄州を復した。
五年正月、吉爾杭阿はフランスの助けで劉麗川の拠る上海県城を復したが、フランス人は東門外に放火し、政府はその地を譲った。三月、楊霈が広済で襲われて走り、漢口・漢陽・武昌がまた失われ、巡撫陶恩培は死んだ。四月、僧格林沁は馮官屯に黄河の水を決して灌ぎ、李開芳を擒えた。七月以後、彭玉麟・胡林翼・羅沢南・和春らが蔡店・漢口鎮・通城崇陽・廬州を克復した。六年三月、羅沢南は武昌攻めで弾を受けながら指揮して全軍を還らせ、六日後に卒した。
六年二月、李秀成・陳玉成は揚州を抜き、四月に石達開の兵と挟み撃って孝陵衛の江南大営を潰えさせ、向栄は憂憤して自ら縊れた。八月、楊秀清は簒奪を図り、北伐を勧めた沛王羅大綱を毒殺して秀全に禅位を迫った。秀全の血詔で韋昌輝が帰って秀清を殺し、その家属・党与二千余を屠り、石達開は誅戮が過ぎると責めて狙われ、寧国に走って母・妻・子女を殺された。昌輝も侍衛を濫殺して朝房で襲い殺された。十一月、官文・胡林翼が武昌・漢陽を復した。
七年十一月、張国梁らが鎮江・瓜洲を復し、八年二月には江寧城に逼り、四月、李続賓らが一年余り囲んだ九江を克ち、林啓容は死んだが、士卒一万七千余に降る者はなかった。八月、曾国荃は吉安を克った。九月、陳玉成が揚州をまた取ったが、張国梁が渡江して復した。十月、李続賓は三河で陳玉成の九塁を克ったが、李秀成の援兵に囲まれて自ら縊れ、曾国華ら六千が死んだ。九年二月、李孟羣は廬州城西で糧尽き縊れ、十一月、池州守将韋志俊が降った。
十年二月、李秀成は寧国の囲みを解いて広徳を下し、地道を穴って三日で杭州を破り、巡撫羅遵殿らは自ら縊れた。閏三月、江南の囲みの師は驕り、和春が城を破らねば餉を出さぬとして軍心は離れた。秀成が撲りかかり城中も十三門から挟撃し、張国梁は丹陽に退いて乱流に死に、和春は常州で血を嘔いて死に、三百余営は平地となった。常州が失われて何桂清は上海に遁れ、蘇州の民は秀成を迎え、巡撫徐有壬らは死んだ。秀成は一か月足らずで六十余城を抜き、郷鎮を巡って乱民を鎮めた。六月、曾国藩が江南の軍務を督弁し、祁門に駐まって曾国荃に安慶を囲ませた。
十一年八月、曾国荃が九年ぶりに安慶を復した。長濠で囲むと陳玉成の援けは挂車河で破られ、鮑超らが赤崗嶺の塁を、国荃が菱湖の諸塁を克って、餉も援けも絶えた。捷報が至ったとき帝は熱河で崩じ、胡林翼も卒していた。十一月、秀成が杭州を破ると巡撫王有齢は自ら縊れ、忠臣だと歎じて礼葬し、難民を賑い蘇州で学校を興した。
同治元年二月の上海攻めは、内応を約したイギリス兵を先鋒が疑って銃撃し、兵艦の砲撃に退いた。敵塁から得た諸生王畹の上海攻略の策も、毒に過ぎるとして用いなかった。四月、多隆阿が廬州を復すと陳玉成は寿州の苗沛霖を頼り、伏兵に執えられて勝保に送られ、降を拒んで殺された。年二十六、国藩も畏れた驍将で、秀成は助けを失ったと歎じた。十月、曾国荃は雨花台で四十六日囲まれ、軍士五千と弟を失った。
二年、左宗棠が金華を、多隆阿が興安を、李鴻章らが福山・太倉・崑山を復した。呉煦が募った常勝軍の西洋の将は驕って統制に服さなかった。蘇州の紳士潘馥らが安慶に師を乞い、曾国藩は李鴻章に淮勇を募らせて湘軍の制に倣わせ、鴻章は五千五百を率いて上海に至った。ウォードらは秀成に四十余営を破られ、太倉では蔡元隆の詐降で鴻章が大敗した。七月、ウォードが陣没し、代わったバージヴァインは秀成に投じ、鴻章はゴードンに常勝軍を領させた。石達開は兵権を解かれて鬱し、蜀へ去って百余城を抜いたが、駱秉章が土司に賄して退路を断ち、大渡河の増水に阻まれ、敵が欲するのは私一人だと秉章に会って士卒の命を請い、殺された。十月、郜永寛ら八人が程学啓に通じて譚紹光を刺し蘇州を開いたが、学啓は八人と将弁千余を饗宴で誘い殺し、怒ったゴードンは鴻章を殺そうとしたが、祭り弔って解けた。
三年正月、劉蓉が漢中を復し、程学啓は嘉興で弾に中って卒した。陳炳文が夜に脱けて左宗棠が杭州に入城し、浙江の郡県は順次下り、鴻章も常州を復した。六月、曾国荃が金陵を復した。二年に九洑洲が破れて糧援は絶え、正月に鍾山の石塁を抜いて囲みが合わさった。四月に糧が絶えて草根樹皮を食い、日に自殺する者は数百人に及び、秀全は憂憤して病篤く、遺命して秀成に国を輔けさせて卒した。年六十五。太子福瑱が十六で立った。国荃は太平門外に地道を掘り、十六日正午に発して城は陥ち、秀全の屍は掘り出されて首を焼かれた。将弁三千余は戦没し、軍民十余万が死に、城郭・宮室は三日焼けた。頼后は幼主を秀成に託して河に入り、秀成は駿馬を福瑱に与えて逃がし、九騎で方山に登り、湖州の大営で村民に国荃の軍へ渡された。国荃の訊問には、実録はお前たちが焼いた、私が述べねば何で信を伝えようと言い、十日で数万言を記して殺された。国藩は民心がなお去らぬのを恐れて京に送らず誅し、詔して国藩を侯、国荃・鴻章を伯に封じた。七月、秀成の次子李士貴も杭州で殺された。八月、幼主洪福瑱も江西の石城で席宝田に破られ、難民に紛れて執えられ殺された。陳得才は湖北、李世賢・汪海洋は広東で敗死した。金田の挙兵からおよそ十五年で太平天国は亡んだ。
年表
広東花県の諸生洪秀全が上帝教を唱えて広西金田村に挙兵し、太平天国を号して江寧(天京)に都を定めてから、幼主洪福瑱が捕えられて滅びるまでのおよそ十五年を記す。馮雲山・楊秀清・蕭朝貴・韋昌輝・石達開ら諸王が各地を席巻し、武昌・江寧・蘇州・杭州を陥れたが、咸豊六年の楊秀清・韋昌輝の内訌で骨格が崩れ、以後は李秀成・陳玉成が支えた。清側は曾国藩・曾国荃・胡林翼・左宗棠・李鴻章の湘軍淮軍と常勝軍が反攻し、安慶・蘇州・杭州を奪回する。同治三年に金陵が陥ちて洪秀全は病没、李秀成は擒えられて殺され、道光三十年から数えて十五年で太平天国は亡んだ。
年表(15件)
- 西暦1850年 宣宗道光三十年洪秀全が広西金田村で兵を起こし、林則徐ら討伐の人事が相次いで挫折する
- 西暦1851年 文宗咸豊元年洪秀全が永安州に拠って国号を太平天国と定め天王と称し、四王を置く
- 西暦1852年 咸豊二年全州・道州を破って長沙を囲み、岳州を経て漢陽・武昌を陥れる
- 西暦1853年 咸豊三年江寧を取って天京と改め、官制・暦・軍制を定めて建国の体裁を整える
- 西暦1854年 咸豊四年曾国藩の湘軍が湘潭で勝ち、岳州・武昌・漢陽・黄州を次々に回復する
- 西暦1855年 咸豊五年太平軍が再び武昌を取り、僧格林沁は馮官屯で李開芳を擒え北伐軍が壊滅する
- 西暦1856年 咸豊六年韋昌輝が楊秀清を殺し、天王は昌輝も誅して石達開は出奔、向栄の江南大営も潰える
- 西暦1857年 咸豊七年張国梁・徳興阿が鎮江と瓜洲を回復する
- 西暦1858年 咸豊八年李続賓が九江を復したが、三河で陳玉成・李秀成に敗れて戦死する
- 西暦1859年 咸豊九年李孟羣が廬州で敗れて自縊し、池州守将韋志俊が降る
- 西暦1860年 咸豊十年李秀成が杭州を破り、江南大営を潰して張国梁・和春を死なせ蘇州に入る
- 西暦1861年 咸豊十一年曾国荃が安慶を復し、李秀成は杭州を陥れて王有齢が自縊する
- 西暦1862年 穆宗同治元年陳玉成が苗沛霖に売られて捕えられ処刑され、曾国荃は雨花台の囲みに耐える
- 西暦1863年 同治二年石達開が大渡河畔で窮して降り殺され、李鴻章が蘇州を復して降将八人を誅す
- 西暦1864年 同治三年金陵が陥ちて洪秀全は病没、李秀成は擒えられて死に、幼主福瑱も捕えられ太平天国が滅ぶ
現代語訳全文
西暦1850年 宣宗道光三十年
- 秋八月、洪秀全が広西の金田村で兵を起こした。秀全は広東花県の諸生である。朱九濤という者が粤城(広州)で上帝会を唱え、秀全は従兄弟(中表)の馮雲山とともにこれに師事した。九濤が死ぬと、秀全はキリスト教の教義を奉じ、みずから一つの旗を樹て、これを上帝教と称し、会を立てて衆を召し、その会を名づけて「三点会」といい、自分がその長となった。
- 道光十六年、会を広西に移し、桂平・武宣二県の間の鵬化山中に居て、ひそかに布教に従事した。雲山は、秀全の妹婿である武宣の蕭朝責(蕭朝貴の誤りか)、および桂平の楊秀清、桂林の韋昌輝、貴県の石達開とともに、手分けして各県に赴き教えを勧めた。秀全は留まって桂平の曾玉珩の家を宿とした。
- 十七年、広東に返り、みずからアメリカの牧師羅巴爾特(ロバーツ)に就いて洗礼を受けた。このころ入教する者がしだいに多くなり、みな秀全を先生と称し、ついに公推されて教主となった。秀全は、エホバを天父と称し、イエスを天兄と称し、自分はその弟であるとし、教中ではみな平等であるとした。驕り高ぶることを禁じ、真言・宝誥などの書を作って教えの訓えとし、その徒にはそれぞれ髪を蓄えさせ、山中の草木の茂みの間に隠れさせた。
- 秀全がふたたび広西に至ると、雲山らの勢いはすでに大いに張り、信徒の数は二千以上に達していた。当時、水賊の羅大綱は衆千余を擁し、永州を掠めたが、敗れて平南県花洲の人、胡以光の家に身を寄せた(「遇」は「過」の誤りか)。秀全がそこにいた。以光は大綱に秀全に帰属するよう勧めた。おりしも官が秀全を捕えようとすることが急であったので、平南・藤県の間の金田村に赴いて兵を起こした。貴県の林鳳祥、衡山の諸生洪大全らは、みなこれのもとに奔った。
- 冬十月、広西巡撫鄭祖琛の職を革め、前の雲貴総督林則徐を起用して軍務を督弁させ、巡撫を兼署させた。則徐は潮州に至って病没し、詔して前の両江総督李星沅にこれに代らせ、布政使労崇光を巡撫署理とした。
- 十一月、提督張必禄が金田で兵敗れ、これに死んだ。前の漕運総督周天爵を広西巡撫署理とした。
西暦1851年 文宗咸豊元年
- 秋閏八月、洪秀全が永安州に入り、天王と称した。これより先、広東高要の人張嘉祥が衆二百を聚めて秀全に投じたが、言うことが合わず、去って潯州を掠めてこれに拠った。おりしも李星沅と周天爵とが事ごとに齟齬したので、疏を上って統帥を請い、そこで大学士賽尚阿を出して師を督させた。その指令が至ったところで星沅は卒した。
- これより先、廷議は、星沅がかつて広西学政を務め、洪秀全はその門から出たので師弟の誼があるとして、星沅に粤に赴いて招撫に従事するよう命じた。星沅はぐずぐずして進もうとせず、朝旨が強く迫るに及んで大いに恐れ、粤西の断藤峡に行って薬をあおって死んだ。天爵はまた提督向栄と隙があり、栄が節制に従わないと弾劾した。詔して天爵を罷め、鄒鶴鳴(「鄒鳴鶴」の誤りか)を巡撫とした。
- 賽尚阿が軍に至り、都統烏蘭泰および栄の軍と合して嘉祥を撃ち、秀全にまで手が回らなかった。秀全はその間にゆっくりと布置をととのえることができ、そのため附き従う者がますます多くなった。嘉祥は敗れ、栄に降り、名を国梁と改め、師を移して秀全を撃ったが、しばしば敗れた。衆は秀全を推して太平王とした。象州を破り、進んで永安に拠り、国号を定めて「太平天国」といい、天王と称した。楊秀清・蕭朝貴・馮雲山・韋昌輝を東西南北の四王とし、石達開を翼王、洪大全を天徳王とした。
西暦1852年 咸豊二年
- 夏四月、太平軍が全州を破った。これより先、賽尚阿は諸道の兵数十営を合わせて永安を囲んだが、四か月を閲しても下らなかった。洪大全が囲みを突いて北の楊朔に趨り、烏蘭泰に誘い出されて執えられ、京師に送られた。羅大綱もまた囲みを突いて出た。烏蘭泰がこれを逐い、六塘墟に至って敗れ没した。大綱はその軍の旗を毀し、桂林城をだまし取ろうとしたが、言葉を誤って入ることができず、一か月あまり攻めて退き、続けて興安・全州を破った。
- 洪全(洪秀全の誤りか)が永安にいたとき、道州の挙人胡孝先が往って謁したが(底本は「住」に作る。「往」の誤りか)、間諜ではないかと疑われて繋がれた。孝先は獄中から書を上り、政府の悪を暴くことはきわめて至れり尽くせりであった(底本は「暴政府惡善甚至」に作る。「善」は誤字・脱字か)。秀全はちょうど文士を求めているところで、書を得て大いに喜び、これを釈して、ともに大計を論じた。孝先は言った、「関中は天府の国で、周と秦とが興った所以のものです。天下を争おうとするなら、必ずまず咸陽を取り、しかるのち山右に出て、燕・薊を定めれば、天下は檄を伝えるだけで定まりましょう」と。秀全は善しと称し、孝先を左右に置き、先生と称して名を呼ばなかった。楊秀清はこれを忌んだ。永安から軍を退くときにあたり、これを道中で殺して敵に陥ったことにした(底本は「陷敵關」に作る。「關」は意味不通)。秀全はたいそうこれを悼んだ。
- 五月、太平軍が長沙をうかがった。まだ至らないうちに、馮雲山が陣没した。秀全はこれを哭して慟き、「天は私に天下を定めさせようとしないのか。どうして私の良き輔佐を奪うことがこれほど速いのか」と言った。雲山は謀に能く決断に優れ、規画するところが多く、秀全は深くこれに倚っていた。雲山が歿すると、秀全は移って道州を攻め、提督余万清は遁れた。秀全は道州に入り、兵を分けて江華・永明・嘉禾・藍山を破った。
- 秋七月、太平軍が桂陽州・彬州を破り、長沙に趨った。湖南巡撫駱秉章を罷め、張亮基をこれに代らせ、余万清を逮えて治罪し(「遠治」は「逮治」の誤りか)、雲貴総督羅繞典を長沙に遣わし(「遺」は「遣」の誤りか)、留まって防堵に当たらせた。
- 冬十月、太平軍が岳州を破った。これより先、蕭朝貴は彬州から師を率いて長沙を攻め、数日のうちに続けて安仁・攸・醴陵などの県を破り、長沙省城の南十里の跳馬港にまで至った。民が走って城中に報せたが、公文が無いことを怒られ、捕えられて斬られようとした。石馬鋪の屯将尹培が陝西軍千余を率いてあわてて拒ぎ戦ったが、たちまち潰え、培はその場で死に、潰兵は遁れて城に入った。
- 駱秉章は南門を塞がせた。当時、城中の額兵と練勇とは八千余に及び、将弁もまた数百であったが、秉章は敢えて口をきかず、節度の羅繞典はひたすら諸生や挙人・貢生と事を議するばかりであった(「曰」は「日」の誤りか)。提督鮑起豹は城隍の神像をかつぎ来て、南の城楼に置いて向かい合って坐した。賽尚阿は永州に駐まり、総督程矞采は衡州に駐まり、いずれも防備にかこつけて来なかった。張亮基はすでに寧郷に至っていたが、警報を聞いて常徳に引き返した。詔して賽尚阿・程矞采の職を奪い、張広縉(徐広縉の誤りか)をもってともにこれに代らせた。
- 向栄に援けに赴くよう促した。栄ははじめ烏蘭泰と齟齬し、賽尚阿を怒って、四月から病と称して桂林に居た。賽尚阿は深くこれを弾劾し、罪は遣戍に至ったが、ついに起とうとしなかった。賽尚阿が罷められたと聞いて、ようやく疾く行って長沙に至った。太平軍は城河の対岸の水落洲で栄の軍を大破した。栄の軍は死者数千に及んだ。城を攻めること三か月にして下らず、ついに囲みを解いた。夜に浮橋を造り、江を渡って湘に入り、益陽を破った。洞庭を渡って岳州に至ると、湖北提督博勒・恭武(底本は「博勒、恭武」に作る。一人の人名「博勒恭武」か)らは三日前に遁れており、そこでこれを下し、呉三桂が遺した軍械と砲位とを得た。
- 十二月、太平軍が漢陽・武昌を破った。このとき太平軍は江を蔽って東し、過ぎるところ靡かぬものはなく、漢陽・武昌が相ついで下り、巡撫常大淳らはこれに死んだ。詔して徐広縉を逮えて治罪し、向栄をもって師を督させた。琦善は兵を選んで河南に駐まり、張亮基を湖広総督署理、潘鐸を湖南巡撫署理、駱秉章を湖北巡撫署理とし、羅繞典は荊襄を防がせ、喪に服して郷里にあった侍郎曾国藩を起用して団練に当たらせ、長沙に駐まらせた。
西暦1853年 咸豊三年
- 春正月、太平軍が東に下り、蘄・黄を取り(底本は「蔪」に作る。「蘄」の誤りか)、流れに順って九江・安慶を取った。はじめ、秀全は胡孝先の遺した策に従おうとし、常徳を取り、漢中に趨り、咸陽を襲い、山右に出て、それによって燕・薊を規ろうと議していたが、武漢を下すに及んで、石達開らに命じて蘄・黄を取らせ、流れに順って九江・安慶を攻めさせた。いずれも手に唾して下し、安徽巡撫蔣文慶はこれに死んだ。
- 二月、太平軍が江寧を取り、兵を分けて鎮江・揚州を取り、臨淮を経て鳳陽に入った。秀全ははじめ九江・安慶を棄て、襄樊に出て潼関に逼り、それによって長安を取ろうとした。財賦を括めて武漢に入れたが、続いて潼関が堅くて抜き易くないことを慮り、また積荷が重くて行軍が遅れ、追撃の軍に逼られることを慮って、そこで浙江帰安の人銭江の策を用い、やはり流れに順って江寧を図った。総督陸建瀛は軍を委てて遁れ、城を攻めること七日にして下った。将軍祥厚らはこれに死んだ。その月の八日のことである。建瀛は逮問の旨があると聞き、懼れて金を呑んで死んだ。
- 秀全は江北に趨って汴を図り、洛陽に都を定め、黄河を渡って燕都を囲もうとした。ある者が「明の太祖もまた金陵に拠って天下を有しました。まず建国して、天下に趨向するところを知らせるべきです」と建言した。秀全はこれを納れた。群下は尊号を上り、江寧を升せて天京とした。柴を焚いて上帝を祭り、大赦し、頼氏を立てて皇后とし、子の福瑱を太子とし、六官を設け、朝儀を立て、法律を制し、学校を設け、楊秀清らを軍師・丞相・主将・将軍に進め、その他の文武にも差を付けて封賞した。科を開いて士を取り、試験に赴いた者は二万余人であった。この科の状元は王弢である。
- 新しい暦を定め、三百六十六日を一年とし、閏日はあるが閏月は無く、七日ごとに一度礼拝し、上帝を讃美した。高座を設けて説法し、これを講道理といった。その軍制は、一軍の軍帥が五人の師帥を統べ、一人の師帥が五人の旅帥を統べ、一人の旅帥が五人の百長を統べ、一人の百長が十人の司馬を統べる。一万二千五百人を一軍とし、これを監軍が総べる。行省には文武の将帥が各一人、文は方伯、武は主将、佐将がこれを副える。県は令、州は牧、府は太守とした。
- 夏四月、太平軍が帰徳を取り、懐慶を囲んだ。
- 五月、太平軍が南昌を囲み、兵を分けて各府を攻めたが、まもなく敗れて退いた。このとき胡以光がふたたび安慶を破り、南昌を囲んだが、たまたま湖北按察司江忠源が援けに来て、戦ってしばしば勝ち、囲みはそこで解けた。
- 秋八月、太平軍が山西平陽府を攻め破り、直隷の境に入った。このとき訥爾経額は邯鄲県の北の臨洺関に軍を屯していたが、敵軍はすでに潞城・黎城の間の小径から入っており、あわてて接戦し、兵は大いに潰えた。
- 九月、太平国の将胡以光らが南昌の囲みを解いて九江に趨り、湖北の境に入り、続けて黄州・漢陽の二府を攻めた。李開芳らは深州を破り、天津を攻めたが利あらず、退いて静海県に拠り、分かれて独流・楊柳青などの所に屯した。
- 冬十月、太平軍が桐城・舒城を取り、郷里にあった侍郎呂賢基はこれに死んだ。そして廬州を囲んだ。
- 十一月、参賛勝保が静海を攻めて敗績し、副都統佟鑑らはこれに死んだ。
- 十二月、太平軍が廬州を取り、巡撫江忠源はこれに死んだ。この年の九月ごろ、忠源は九江の援けに赴いて敗績し、田家鎮で囲みを突いて広済に走り、まもなく安徽巡撫を授けられた。廬州の事が急であったので、兵を率いて六安州から進んで援け、城に入って堅く守ること一か月を越え、ここに至って城が破れ、水に投じて死んだ。
西暦1854年 咸豊四年
- 春正月、湖広総督呉文鎔の師が黄州で潰え、これに死んだ。このとき巡撫崇綸は文鎔を忌み、文鎔が門を閉ざして自守していると密かに弾劾した。詔があって詰責されたので、文鎔はやむを得ず黄州に出師し、堵城に駐まった。おりしも上元の夜、敵が灯を張って盛んな宴を開いたのを、文鎔は偵知し、急ぎ兵を出してこれを襲ったが、大敗し、文鎔は自殺した。ここにおいて漢陽はふたたび失われた。徳安・随州・棗陽はみな破られた。
- 二月、大平図(太平国の誤りか)は将の孫寅三を遣わして太平を取り、また石祥貞を遣わして漢・黄の各軍を会して江を溯り、岳州を取り、湘陰に入り、兵を分けて寧郷を下した。
- 三月、太平軍が皖北から山東に入り、臨清州に逼った。この年の正月ごろ、李開芳・林鳳祥らは軍を合わせて独流に屯していたが、おりしも大雪に遭い、南方の兵は寒さに慣れておらず、耳や鼻が凍って裂けるたびに火を熾んにしたため、潰爛する者が十のうち六、七に及び、そのため疲弊がはなはだしかった。僧格林沁らに乗ぜられて大敗し、静海に走り、進んで阜城に拠った。ここに至って楊秀清は安徽に密令して兵を分けさせ、豊工から河を渡って金郷・臨清・陽穀・鉅野・鄆城・朝城・冠華などの州県を破らせた。
- この月、曾国藩が湘軍の水陸の師を統べて湘潭で太平軍を破った。国藩は水師を督して靖港を攻めたが利あらず、憤って水に身を投じ、幕客の章寿麟がこれを援け出した。おりしも副将塔斉布が陸師を統べて湘潭を援け、敵の不意を出て搏ち、戦って敵は靡いた。国藩はそれを聞いていっそう舟師を遣わして助けに往かせ、八日のうちに水陸十たび戦って十たび勝ち、ついに湘潭を復した。
- 夏六月、太平軍がふたたび武昌を破った。太平の将石祥貞は、湘潭から(「白」は「自」の誤りか)退いて華容に拠り、兵を回して岳州を抜き、また道を分けて竜陽・常徳を取り、まもなくまた武昌を破った。巡撫青麟は遁れ、長沙布政使岳興阿はこれに死んだ。詔して青麟を誅し、総督台湧の職を褫い、楊霈をこれに代らせた。
- 秋七月、曾国藩が岳州を復した。国藩は湘潭を復したのち、兵を三路に分け、提督塔斉布・道員褚汝航・知府羅沢南を中路として岳州に趨らせ、貴東道胡林翼を西路として常徳に趨らせ、知府江忠淑・直牧林源恩を東路として崇陽・通城に趨らせた。敵将林紹璋はこれを聞き(「間」は「聞」の誤りか)、常徳・澧州を棄てて岳州に走り、さらに湖北に走った。
- この月、向栄らが太平を復した。
- 八月、曾国藩が武昌・漢陽を復し、あわせて黄州を復した。武昌がすでに復すると、続いて漢陽を克ち、楊霈が遣わした団勇もまた黄州を収復した。
西暦1855年 咸豊五年
- 春正月、吉爾杭阿が上海を復した。これより先、三年十月に劉麗川が上海県城に拠り、イギリス領事の温那治と交渉し、陳家木橋に拠って軍火を通わせることを許された。巡撫吉爾杭阿はこれを憂え、各国に諮ったところ、フランスの提督辣呃爾が戦守を助けることを許し、ここに至って会同して進攻した。そして城はそれによって復した。フランス人はそこで守りを助けるという名を借りて東門外に火を放ち、城郭に付随する民家はことごとく灰燼となった。政府はフランスに攻撃を助けた功があることを思い、そのままその地を譲り与えた。
- 三月、太平軍がふたたび武昌を取った。楊霈は黄州を収復したのち、広済に駐軍したが、おりしも大晦日にあたり、軍中では酒を置いて盛んな宴を張っていた。そこへ敵軍が大挙して至り、霈はあわてて蘄水に走り、ここにおいて漢口・漢陽・武昌が相ついでふたたび失われ、巡撫陶恩培は水に赴いて死んだ。署按察使の多山は城上の砲に点火したが発せず、これを拝んで祈り、ふたたび点火したところ、火の煙は出たが音がしなかったので、発憤して自ら首を刎ねて死んだ。胡林翼を巡撫署理とし、詔して湘軍に陸師を分けて援けに赴かせた。
- 夏四月、僧格林沁が馮官屯で太平軍を破った。この年の正月、林鳳祥が連鎮で執えられ、残る衆は高唐州に拠った。二月に僧格林沁は高唐を破り、李開芳は走って馮官屯を保った。僧格林沁は黄河の水を決して灌ぎ、敵軍はことごとく没し、開芳は擒えられて死んだ。この月、太平軍が徳安を破った。楊霈の職を革め、官文を湖広総督とした。
- 秋七月、彭玉麟が蔡店を克った。玉麟は湘軍の水師を率いて湖北を援け、進んで蔡店に至ってこれを克ち、襄河の鉄索橋を燬いた。
- 八月、胡林翼が漢口鎮を攻め抜いた。林翼はみずから将として漢鎮を攻めたが、敵軍がこれに乗じて、あやうく潰えようとした。林翼は士を指揮して奮い闘い、漢鎮を抜いた。
- 九月、羅沢南が通城・崇陽を克った。沢南は湘軍の陸師をもって湖北を援け、続けて通城・崇陽を克った。おりしも石達開が衆を率いて義寧から不意に至ったが、また力戦してこれを破り、胡林翼と羊楼で軍を合わせ、蒲圻・咸寧が相ついで復した。
- 冬十月、和春らが廬州を復した。これより先、三年の冬に江忠源が戦没し、詔して提督和春・漕督福済に廬州を規らせたが、久しく要領を得なかった。郷里にあった編修李鴻章は四年の冬に兵を領して含山を復した。ここに至って、和春らは廬州を克った。
西暦1856年 咸豊六年
- 春三月、布政使羅沢南が武昌を攻めて敗れ、続いてこれに死んだ。沢南は洪山に軍を屯し、正月から二月にかけて大小百数十戦し、まっすぐ城下に迫った。おりしも大霧となり、敵はひそかに穴を掘って門を突き、沢南の軍に衝きかかった。沢南は三たび退いて三たび進み、軍はあやうく潰えようとしたが、その部下はみな郷里の子弟であって(底本は「鄉、子弟」に作る。「鄉人子弟」の脱字か)、たがいに棄てるに忍びなかった。沢南は左の額に弾を受け、血が衣を霑したが、なお踞坐して指揮し、全軍を還らせることができ、六日を越えて卒した。
- 夏五月、太平軍が孝陵衛で江南の軍を攻め破った。これより先、三年の春に江寧・鎮江・揚州が失守し、その後、向栄は孝陵衛に軍し、琦善・陳金綬・勝保は揚州城外に軍し、江南・江北の両大営と号した。四年の秋に琦善が卒し、托明阿をこれに代らせた。栄は堅城のもとに軍を頓め、年を重ねても功効が無かった。五年の春に至り、吉爾杭阿が上海を復し、進んで鎮江を囲んだ。この年の二月、敵将の合天侯李秀成・丞相陳玉成が囲みを突き、夜に瓜洲を渡り、翌日、土橋・虹橋・卜著湾・三岔河の諸営を攻め破ると、残る百二十余営はみな風を聞いて遁れ、ついに揚州を抜いた。詔して托明阿を罷め、徳興阿をこれに代らせた。
- 四月に及び、秀成・玉成は軍を合わせて高資を破り、吉爾杭阿は自殺した。秀成らは江寧に返った。楊秀清は檄して栄の軍を撃たせた。秀成はまず兵を引いて丹陽の営を襲い、栄は提督張国梁を遣わして馳せ救わせたが、秀成はこれを大破した。翌日、返って栄の軍の後路を攻めたところ、石達開の兵がちょうど至って、これを挟み撃ちにし、肉薄して塁を搏ち、栄の軍は大いに潰えて、退いて丹陽に屯した。敵は朝陽門外の六十余の塁をことごとく奪い、さらに道を分けて進み迫り、営塁は百を数えた。栄は憂憤すること一か月を越えて、自ら縊れて死んだ。
- 秋八月、太平天国の北王韋昌渾(韋昌輝の誤りか)が天王洪秀全の命によって東王楊秀清を殺し、天王はさらに昌輝を殺し、翼王石達開は安慶に奔った。秀清は久しく簒奪を行おうとしていたが、ただ沛王羅大綱を懼れていた。大綱は謀に富み戦に善く、士卒を愛し、殺戮を好まず、しかも功もまた最も高かった。しばしば秀清に、みずから師を統べて北伐するよう勧め、たとえ金陵に都しようとするにしても、やはり多く戦艦を備え、水軍を精練し、しかるのちに戦うも守るもできるのだと説いた。秀清はちょうど権を専らにしていて容れず、わずかに李開芳・林鳳祥を遣わして師を率いて北行させただけであった。大綱は出て人に語って言った、「天下はまだ定まらないのに、この都に安居しようとしている。それで長く保てようか。われらは虜となるぞ」と。秀清はいよいよこれを忌んだ。
- 大綱が病むのにあたって、医者に毒殺させ(「毐」は「毒」の誤りか)、そして秀全に位を禅るよう迫った。秀全は血詔をもって昌輝を江西から召して入衛させた。昌輝は燕王秦日昌とともに精卒五百を領して星のように馳せ帰り、秀清の府に至り、門を奪って入った。衛士が死を決して戦い、日昌は傷つけられた。昌輝が大呼して「詔を奉じて賊を討つのだ。武器を釈く者は罪せぬ」と言うと、しだいに散り去った。昌輝は秀清を引き出してこれを殺し、その家属およびその一党を二千余人まで、ことごとく屠った。達開は変を聞いて馳せ入り、昌輝が残党を治めることが厳に過ぎると責めた。昌輝はさらに達開を殺そうと謀り、達開はこれを覚って、城を縋り下りて寧国に走り、兵を召して難を靖めようとした。昌輝はその母・妻・子女を殺した。また秀全の侍衛をほしいままに殺した。侍衛数十人は約束して五鼓に武器を持ち、東の朝房で昌輝を襲って殺した。秀全は命じてその首を寧国に伝えさせ、靖難の兵を止めさせた。
- 冬十一月、官文・胡林翼らが武昌・漢陽を攻め復した。これより先、湖広総督官文は漢陽を攻め、湖北巡撫胡林翼は武昌を攻めたが、武昌は囲むこと久しくして下らず、戦没した水陸の軍士は三千以上に至り、将弁は六百以上に至った。しかし城内もまた糧が乏しくて守るに堪えなかった。ここに至って、それぞれ城を開いて東に走り、武漢はそこで同日に克復され、黄州・興国・蘄州・蘄水・広済もみな復した。
西暦1857年 咸豊七年
- 冬十一月、張国梁・徳興阿らが瓜洲・鎮江を復した。六年八月、張国梁は丹陽城外の諸々の敵塁を撃ち破り、進んで句容を攻めようとした。督帥和春は総兵傅振邦を遣わして漂水(溧水の誤りか)を攻めさせたが、敵は大隊を出して烏山を守り、塁を築いて援けとした。この年の二月に至り、振邦らは烏山の援敵を大破し、そこで五月に漂水を克ち、国梁は閏五月に句容を克った。九月・十月ごろ、国梁は続けて敵塁十余を克ち、敵艦六十余を沈め、進んで鎮江に迫り、ここに至ってこれを克った。徳興阿もまた同日に瓜洲を復した。
西暦1858年 咸豊八年
- 春二月、張国梁が秣陵関を攻め克ち、さらに七甕橋・雨花台などの所で敵を破り、江寧城に逼って軍を置いた。
- 三月、江西の太平軍が浙江に入り、江山・常山・開化の諸邑を取った。石達開は江西から衢州を規り、ついで処州を抜いた。詔して曾国藩を起復させ、師を督させた。敵は久しく衢州を囲んだが下らず、おりしも湘軍が至って敵を破り、敵は改めて閩を図った。
- 夏四月、李続賓らが九江を復した。九江は囲み攻めること一年余りで下らなかった。守将の貞天侯林啓容(底本は「貞天侯、林啟容」に作る。貞天侯は林啓容の爵号)は堅く忍んで軍をよくし、食糧が尽きると、城にこもって麦を種えて自給した。坑道の火薬が発して城が崩れると、そのたびに塞ぎ合わせた。当時、援けの師が大いに集まり、続賓と楊岳斌とが統べる水陸の兵は百万近く、さらに曾国藩の弟国華も至って続賓の軍を賛けた。続賓はいよいよ軍を督して日夜地を穴り、ここに至って城を燬いて入った。啓容はこれに死んだ。士卒一万七千余には一人も降る者がなかった。みな啓容が平生よく衆を撫していたからだと称したという。
- 五月、太平軍が浙江から閩に入り、邵武などの郡県を取った。
- 秋七月、太平軍がふたたび廬州を陥れた。福済に京に回るよう命じ、李孟羣を安徽巡撫署理とした。詔して勝保に安徽の軍務を督弁させた。
- 八月、曾国荃が吉安を復した。曾国藩の弟国荃は師を率いて吉安を規り、長い囲みを築いて敵を困しめ、しばしば撃ってその外からの援けを却け、ここに至ってこれを克った。蕭啓江らが邵武を復した。
- 九月、太平軍がふたたび揚州を取った。このとき太平の将陳玉成が浦口の徳興阿の営を攻めてこれを大破し、ついで揚州を克ち、徳興阿は邵伯に走った。ほどなく張国梁が師を率いて江を渡り、揚州および儀徴を復した。六合の囲みが急となり、国梁は趨り赴いたが、援けが至ったときには城はすでに失われており、道員温紹原はこれに死んだ。
- 冬十月、浙江布政使李続賓の師が三河で潰え、これに死んだ。敵の前軍主将陳玉成は、すでに廬州を抜くと、廬州から五十里の三河に糧と武器とを屯し、大砲を築き、九つの塁でこれを環らし、防守がはなはだ厳重であった。続賓はすでに続けて太湖・潜山・桐城・舒城の四邑を復し、進んで三河を攻め、連日大いに戦って敵の九塁を克ったが、部下の傷亡もまた多かった。おりしも敵の後軍主将李秀成の援兵が大挙して至り、三十重に囲みを合わせた。続賓はみずから搏ったが、戦って進むことができず、七営はことごとく没し、続賓は自ら縊れて死に、曾国華および員弁・兵勇で死んだ者は六千に及び、先に復した四県はみなふたたび失われた。
- 太平天国の滁州守将李兆受が城をもって降って来た。兆受ははじめ霍邱の大盗陳玉に附いて壽王と称し、後に何桂珍に降ったが、ほどなく叛いて桂珍を殺し、九江に走って太平の将検点林啓容に降ろうとしたが、啓容は受けなかった。去って黄梅の守将黄文金に降ろうとしたが、これもまた受けなかった。そこで丞相李秀成に帰し、秀成はこれを優礼した。兆受は張楽行・龔得樹・蘇老天を招安し、馬歩の兵は各三十万であった。ここに至って、兵を督することが厳でなく、県令を殴って辱めたため、罪を得ることを懼れ、そこで走って勝保に降った。命じて名を世忠と改めさせ、参将として補用した。秀成は人を遣わしてその妻子を帰した。兆受はそこで書をもって秀成を招いたが、秀成は歎じて「兆受はみずから不義を為しておきながら、人をも陥れようとするのか」と言い、これを拒んだ。
西暦1859年 咸豊九年
- 春二月、免職された安徽巡撫李孟羣の兵が廬州で潰え、これに死んだ。孟羣は八年七月から廬州城の西に駐まり、敵と相持していたが、ここに至って糧が尽き塁が破れ、五日を越えて自ら縊れて死んだ。孟羣には従妹の素貞があり、騎射を巧みにし、韜略に精しかった。孟羣が湖北を援けたとき、素貞は戎装して従って行き、しばしば奇功を建て、しばしば重囲の中から孟羣を救い出した。のちに従って漢陽を攻め、夜に敵営を襲ったが、伏兵にあたって死んだ。
- 冬十一月、太平天国の池州守将韋志俊が城をもって降ることを約したが、部将の古隆賢らが従わず、攻めてこれを走らせた。志俊はそこで降って来た。
西暦1860年 咸豊十年
- 春二月、太平軍が杭州を破った。敵帥李秀成は、すでに揚州・六合・合肥・廬州・黄梅・宿松・太湖などの郡県を破り、さらに浦口を防ぎ塞いだ。勝保・張国梁が進攻したが大敗し、勝保はあやうく虜になるところだった。秀成は兵三千を率い、鳩江から清弋江を越えて寧国の背後に出て、寧国の囲みを解き、疾く広徳に趨って一撃のもとにこれを下した。泗安に至り、続けて浙江の防守の兵十五営を破り、従弟の左軍主将李世賢に命じて湖州を攻めさせ、みずからは譚紹光らを率いて銭塘に趨り、清波門から地道を穴って三日でこれを破った。巡撫羅遵殿らは自ら縊れて死んだ。
- 国梁は提督張玉良に浙江を援ける諸軍を総統させて至らせたが、城上に一面に秀成の旗が挿されているのを見て、逼ることを敢えてせず、城を離れること四十里の塘西に駐まった。秀成は盲人に拍子木を伝えさせること三日、城中は静まりかえっており、夜に乗じて全師を退いて広徳に趨らせた。玉良は兵を止めて追いに往かず、(秀成の軍は)そのまま建平に達した。秀成が杭州を下したのは、江南の軍の家族(「鐶」は「眷」の誤りか)が杭州に在ると偵知したためで、事が急になれば和春は必ず金陵の囲みを解いて杭州を救うと見込んだからである。秀成は、玉良の兵が至り、江南の兵勢がすでに分かれたのを見て、そのため急ぎ師を引いて返し、金陵を救ったのである。
- 閏三月、太平軍が江南の囲みの師の張国梁を攻め破った。八年二月から金陵城に逼り、軍はここに至って長い囲みを増築し、克復は目のあたりにあると思っていた。将士は驕り、営の規律は廃れ弛んだ。当時、蓄えの軍餉はなお三十万あったが、督師和春は城を破らねば餉を発しないとして軍を激励した。軍はしばしば騒いだが、動じなかった。提督張国梁は跪いて諫め、続いて泣いたが聴かれず、ここにおいて軍心は二つに離れた。
- このとき敵帥李秀成は諸鎮の兵を集めて援けに入り、分かれて囲みの師に撲りかかった。城中もまた十三門から兵を出して挟み撃ちにし、刁斗(軍中で時を報せる鳴り物)の音は数十里に聞こえ(底本は「刀斗」に作る。「刁斗」か)、旌旗は長い虹のように天をめぐった。この日は小雨であった(「兩」は「雨」の誤りか)。敵軍は蜂のように湧き入り、勢いは奔る潮のようであった。国梁は防ぐことができず、退いて丹陽を守った。敵の師が踵を接して至り、国梁は拒ぎ戦って傷がひどく、馬を躍らせて河を渡ったが、馬がつまずき、国梁は乱流の中に死んだ。和春は傷を受け、常州に遁れ、血を嘔いて死んだ。江南の囲みの師三百余営は、ことごとく平地に夷げられた。秀成は国梁の忠勇であったことから、その屍を探し出して礼をもって葬った。
- さらに敗走する敵を逐って奔牛鎮に至り、二十余座の営を破った。おりしも張玉良が杭州から師を率いて救いに返り、常州で迎え戦ったが大敗し、常州はそこで失われた。総督何桂清は上海に遁れ、ほどなく免職されて逮問された。秀成は玉良を追って無錫に至り、みずから鋭卒三千を率いて玉泉山に登った。玉良の軍はこれを見て、四十余営が戦わずして自ら潰えた。潰兵は遁れて蘇州に入り、沿道で大いに掠め、蘇州の民は深くこれを恨んで、かえって秀成を迎えた。そこで無錫に入り、進んで蘇州に迫った。道員の李文炳・阿海らが城をもって降り、巡撫徐有壬らはこれに死に、玉良は杭州に遁れた。秀成が檄を伝えると、郡県はみな定まった。朝廷は都興阿に江蘇・江北の軍務を督弁させ、曾国藩を両江総督署理とした。
-
秀成は出師から一か月も経たないうちに、敗走する敵を逐うこと七百里、抜いた城は六十余、師は蘇州の城に止まった。当時、乱民が千百と群れて掠奪をやめなかった。諸将がこれを勦滅するよう請うと、秀成は言った、民は刀や矢に苦しみ、家室に安んじられず、やむを得ずして暴を為しているのだ、私はどうして忍んで兵をもってこれを誅せようか、と。そこでみずから数十人を率いて郷鎮を巡り、左右に呼び伝えさせて「忠王が来られた」と言わせると、乱民はみな戈を釈いてぐるりと取り巻いて拝み、一か月で乱は定まった。官吏千余人を召し寄せ、留まることを願う者にはこれを官につけ、去る者には任せ、旅費に乏しい者にはこれを給し、農で業を失った者には牛と種とを給し、窮民で業を失った者にはその資を助け、倉の銭十余万緡、糧一万余石を散じ、蘇州の民は安んじ和んだ。
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夏六月、曾国藩に江南の軍務を督弁するよう命じた。国藩は命を奉じたのち、移って祁門に駐まり、左宗棠を軍務襄弁に奏保し、沈葆楨を起用して江西広信の防務に当たらせ、鮑超・朱品隆・唐義訓の諸軍を調えて江を渡らせ、李元度に檄して湘に回って軍を募らせ、曾国荃に安慶の囲み攻めを任せた。
- 秋九月、太平軍が寧国を破った。太平軍は徽州から兵を分けて寧国を攻め、提督周天受らは七十余日守ったが、城は破れ、これに死んだ。あわせて浙江の厳州府を破った。
西暦1861年 咸豊十一年
- 秋八月、曾国荃が安慶を復した。安慶が失守してからすでに九年であった。この年の四月、国荃は湘から一万人を増募して至り、長い濠を掘ってこれを困しめた。敵帥の英王陳玉成が師を率いて援けに赴き、桐城に至ったが、多隆阿・李続宜が軍を合わせて挂車河でこれを撃ち破り、胡林翼はさらに営を移して囲みを合わせた。玉成は、湖北は湘・楚の軍の根本であり、その腹心を衝けば必ず安慶の囲みを解いて自らを救うだろうと考え、そこで間道から湖北に入り、続けて黄州・蘄州・徳安の諸郡県を破った。続宜が軍を率いて回って援けると(「提」は「援」の誤りか)、玉成は安慶に返り、集賢関の菱湖に塁を築いて、城中の援応とした。
- 李秀成は安慶の事が急だと聞き、みずから兵を率いて蕪湖に至り、進兵の図を描いて玉成に寄せた。すでに(「己」は「已」の誤りか)玉成が新たに孫奎星の降卒二十余万を得たと聞き、秀成は言った、「英王は新たに衆を得たので、必ずにわかに驕ってわが兵を止めるだろう。そうなれば皖は危うい。奎星の降将の兵は、烏合であって恃むに足りない」と。はたして玉成の書を得たが、兵はすでに(「己」は「已」の誤りか)用に足りるので馳せ救う労をしないでほしい、糧が続かないので豫・楚に進兵して敵の糧道を断ってほしい、と言ってきた。秀成はそこで兵を引いて行った。
- おりしも鮑超・成大吉が師を合わせて至り、集賢関外の赤崗嶺の敵塁を攻め克ち、国荃は䈊湖(「䈊」は「菱」の誤りか)の南北の諸々の敵塁を克ち、いよいよ城に逼って塁を築いた。敵は餉も援けもともに絶え、飢え疲れて城を守ることができず、ついに下った。勝利の奏上が至ったとき、帝はすでに熱河で崩じており、林翼もまた武昌で卒し、遺疏で続宜をもって自分に代らせるよう願っていた。
- 冬十一月、太平軍が杭州を破った。太平の忠王李秀成は、その弟の侍王李世賢に部下を率いて浙江を取らせ、属郡の厳・衢・温・台・寧波・金華はみな下った。秀成はまっすぐ杭州に趨り、部将陸順徳に命じて紹興を取らせ、旁近の州県はみな款を納れた。杭州城を攻めること二か月、張玉良は童海容に撃ち破られて死に、城はついに破れ、巡撫王有齢は自ら縊れて死んだ。秀成は趨ってこれを救ったが間に合わず、屍を撫して歎じ、「忠臣である」と言って礼をもってこれを殯し、兵を遣わして棺を護って上海に帰らせた。布政使林福祥を獲え、降るよう説いたが、応じず、帰って墓を守らせてほしいと請うたので、秀成は厚く資を与えて行かせた。
- 満城が破れ、将軍瑞昌は自殺した。秀成はその部下に遺骸の棺を奉じて北に還らせ、満洲の兵は釈して殺さず、行こうとする者には資を与えて遣わした。難民を賑い恤み、餓死者を収めて葬り、費えは巨万を数えた。徳王陳炳文を留めて杭州を鎮めさせ、師を還して蘇州に駐まり、鰥寡を恤み、学校を興し、租税を免じ、民の疾苦を問うたので、民はいよいよこれを徳とした。
西暦1862年 穆宗同治元年
- 春二月、太平軍が上海を攻めたが、まもなく引き還した。咸豊十年七月、太平軍が上海を攻めたとき、巡撫薛煥はこれを撃ち走らせ、進んで青浦を攻めたが、李秀成がみずから率いて援けに往き、煥は敗れて還った。ここに至って敵兵がふたたび攻め、上海のイギリス人が土地の兵を合わせて内応し、城を献じることを約した。師が徐家匯に至ると、イギリス兵二百が迎えに来たが、まだ前もって告げていなかったので、先鋒は敵ではないかと疑ってこれを銃撃した。イギリス兵は怒り、そこで返って江上で闘い、イギリスの兵艦もまた砲を開いてこれを撃ち、秀成は退いた。
- 煥の軍が敵の塁を捜索したとき、蘇州の諸生王畹が秀成に上った書を獲た。上海を攻め取る策を具さに陳べたもので、おおよそ敵に西洋人と和して、その勢いを藉りて中原を図るよう勧めるものであった。いわく、「西洋人はかつて金陵に使いを遣わし、各国の貿易の在る所であるから、上海を攻めないでほしいと請うたのに、東王は西洋人を許さなかった。それで西洋人が中国の城守を助けることになったのは失策であった。いま急ぎ攻めないことを許してやり、そのうえで、今後は軍装・火薬をもって中国を資けてはならぬと要求すべきである(「裴」は「装」の誤りか)。さらに舟師を遣わして江を渡らせ、分かれて通州・泰州の里下河の完全な地域を騒がせ、あわせて海路で華商を劫掠し、貨物を載せ運んで貿易することを敢えてできないようにさせ、釐金を通わせず、軍の餉を断ち絶つ。西洋人が上海に坐して困り、数百万の避難の人が聚まって食べるものが得られなくなれば、必ず変が生じよう。そして西洋人は生計がすでに絶たれれば、これもまた首を垂れて修好を求めに来よう。しかるのちこれを脅して上海を献じさせるのが、策の上である。
- もし一時に西洋人と和することができず、先に上海を得ようとするのなら、大兵を調え集める必要もない。そもそも西洋人は利を好み、近ごろ蘇・浙二省の避難の人が上海の地に群れ集まったので、洋場に広く家屋を造り、重く家賃を取り、もとより人の来歴を問わない。精兵数千人を遣わして偽って難民とさせ、洋館を賃りて住まわせるべきである。土地は洋場であるから、中国の官は取り調べようがない。夜半に一声呼ばわれば、応ずる者が四方に起こり、火を放って焼き、人に遇えば斬り殺す。西洋人としては舟に登って逃げ隠れるほかに計がなく、上海は手に唾して得られる(底本は「唾乎得」に作る。「唾手可得」の誤りか)。上海がすでに得られたなら、そののち西洋人を招き返して厚く待遇し、その怒りに触れないようにすれば、なお用いることができる。これが策の次である」と。
- 秀成はその考えのはなはだ周到なのに服したが、その計があまりに毒であるのを少しく嫌い、置いて用いなかった。ここに至って薛煥はこれを読み、大いに驚いて、その日のうちに疏して朝廷に聞こえさせた(「間」は「聞」の誤りか)。寄諭(「謂」は「諭」の誤りか)では、書中に外国人を醜く詆る詞が多いとされ、煥にイギリス・フランスの領事に告知してその奸謀を破らせ、あわせて江南・江北に大いに警備させた。のちついに事は無く、畹もまた去ってアメリカに行った。
- 三月、鮑超が青陽・石埭・太平・涇の四県を復した。太平の将古隆賢が青陽城外に屯していたが、浙江提督鮑起(鮑超の誤りか)がこれを撃ち破り、そのまま進んで各邑を克った。
- 夏四月、彭玉麟らが蕪湖を復した。玉麟は曾国荃と水陸の師を合わせ、ともに蕪湖を克ち、あわせて金柱関・東梁山の各要害を克った。
- 多隆阿が廬州を復した。多隆阿が廬州を攻め破ると、陳玉成は寿州に走った。練総の苗沛霖はかつて降って、すでに封爵を受けているので、往って依れば必ず害されまいと考えたのである。至ると、沛霖は迎え謁して城に入れ、伏兵がこれを執え、潁州の勝保の営に護送した。勝保が高く坐して驚き見つめると、玉成はこれを叱って言った、「お前は私の敗将だ。何を私に向かって態度を作っているのか。かつて合肥官亭の一戦を憶えているか。お前の騎兵三万に生きて還った者が一人でもあったか」と。勝保はその言葉に恥じ入り、酒食を与えて降るよう説いた。玉成は「私は今日みずから羅網に投じたのだ。死あるのみ。何をくだくだ言うのか」と言い、そこで殺されて死んだ。年二十六。玉成は眼の下に二つの傷痕があり、軍中で「四眼狗」と号された。驍勇で謀略に富み、その軍の強さは諸鎮に冠たるもので、曾国藩と数年相持し、国藩は深くこれを畏れた。李秀成はその死を聞いて、歎じて、私には助けが無くなった、と言った。
- 五月、太平軍が湖州を破り、湖州府知事の楊然敬は薬を飲み、衣冠して堂上に坐して死んだ。在籍(「在蕭」は「在籍」の誤りか)の道員趙景賢は執えられ、翌年ついに蘇州で死んだ。
- 六月、鮑超が寧国を復し、属邑はみな下り、あわせて広徳州を復した。
- 冬十月、曾国荃が金陵を援ける太平軍を撃退した。国荃は雨花台に駐軍していたが、おりしも江南に大疫があり、囲みの師の死者は山のように積み上がった。閏八月に至って李秀成が蘇州から至り、国荃の軍を数重に囲んだ。九月、李世賢が浙江から至り、坑道を開いて国荃を攻めたので、国荃は内側に壕を掘ってこれを阻んだ。相持すること四十六日にしてようやく囲みは解けた。軍士の死亡は五千に及び、国荃の弟の貞幹もまた疫病で死んだ。
西暦1863年 同治二年
- 春正月、左宗棠が金華を復した。これより先、李世賢は出師して浙江を援け、金華を破り、衢州を囲んだ。巡撫左宗棠が開化・遂安から往って援け、これを破った。世賢が金陵の援けに入るに及び、布政使蔣益澧・道員劉典らが湯溪・竜游・蘭渓を攻め復し、そこで金華の府城を復し、ほどなく進んで浦江・諸曁および紹興を克ち、桐廬に之いた。
- 多隆阿が興安を復した。太平の扶王陳得才は、元年三月に河南南陽から陝西の武関に入り、まっすぐ省城に逼り、渭南を破り、還って関県(「關縣」は不通。地名の誤りか)・澠池を取り、まもなく湖北光化に属する老河口を攻め、荊紫関を襲って拠り、さらに襄陽・徳安・安隆(「安陸」の誤りか)の各属を侵した。当時、多隆阿は陝西で軍を督しており、商南でこれを撃ち破り、まもなくまた樊城でこれを破った。得才はまた河南の道に走り、鄖陽の府城を攻め、房県を破った。ふたたび陝に入って興安を破り、ここに至って敗れ走り、多隆阿はそこで興安の府城を収復した。
- 三月、李鴻章らが福山を復し、そのまま太倉・崑山を復した。元年二月、イギリス兵が太平軍を撃ち走らせたのち、薛煥はイギリスの将に賄して代りに城を守らせ、そして上海道の呉煦に厚い餉をもって華人の兵数千を募らせ、アメリカ人のウォード(華爾)に西洋の陣法でこれを部勒させ、「常勝軍」と号した。さらに重い利でイギリス・フランス二国を誘い、会防局を設けて戦守を助けさせた。西洋の将は強さを恃んで驕り倨り、ウォードは功によって副将を加えられたが、廷議は必ず薙髪し服を易えることを求めたので、これによって西洋人はいよいよ統制に服さず、事が緩やかなときは重い賄を索め、急なときは坐して成敗を観ていた。前後に募った勇は五万余であったが、訓練することができなかったので、敵に遇うと軽々しく敗北した。
- 当時、蘇州の紳士潘馥・銭鼎銘らは兵を避けて上海に在り(「左」は「在」の誤りか)、深くこれを憂え、そこで安慶に走って曾国藩に師を乞い、すすり泣き涙を流し、声を放って長く号んだ。国藩は幕僚の道員李鴻章を遣わして合肥に帰らせ淮勇を募らせ、率いて安慶に赴かせた。国藩は営伍の法・器械の用・薪糧の数を定めてやり、ことごとく湘軍の制に倣わせ、また湘軍の名将郭松林・程学啓を選んでこれを助けさせたので、両省の将卒は一家のようであった。鴻章はそこで三月に、その部下の湘軍および新たに募った淮軍あわせて五千五百人を率いて上海に至った。国藩は表奏して鴻章を江蘇巡撫署理とし、別に薛煥を通商大臣に授けた。
- 四月、鴻章は参将李恒嵩と常勝軍の統将ウォードとを遣わし、イギリス・フランスの兵と会して青浦・嘉定を攻めさせ、営を連ねること二百余、勢いははなはだ盛んであった。李秀成はみずから嘉定を援け、師の至ること風雨のようで、西洋の兵はみな手を斂めて出て戦うことを敢えてしなかった。秀成が精鋭を率いて衝き入ると、兵は支えきれずことごとく潰え、続けて四十余営を失った。秀成は勝ちに乗じて青浦・松江に逼り、続けて七十余営を破り、松江を二か月困しめた。たまたま金陵が危急となって秀成が金陵の援けに入り、嘉定・青浦はみな復し、あわせて奉賢を復した。フランスの提督ト・ロード(卜羅徳)は敵と南橋鎮を争ったときに銃に中って殞した。
- 鴻章はみずから軍を督して太倉を攻め、秀成は上将の蔡元隆を遣わして馳せ救わせた。元隆は詐って降を乞い白旗を揚げ、先導して鴻章の軍に近づくと、突然これを撃った。鴻章は大敗して走り、大将の知府李慶琛は戦没し、兵士の死んだ者は五千余であった。元隆は進んで青浦・嘉定を攻め、イギリス・フランスの兵はその勢いに怖れて囲みを突いて遁れ、嘉定はふたたび失われた。元隆は兵を進めて松江に向かい、兵を分けて青浦に逼った。ウォードは青浦を棄てて松江に走った。元隆は新橋涇を攻め、学啓を数十重に囲んだ。鴻章がみずから兵を提げてこれを救うと、元隆の師は退いた。
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六月、総兵黄翼升が淮揚の水師十営を率いて上流から至った。七月、青浦を復したが、敵兵がふたたび法華鎮に逼り、まもなく敗れ走った。常勝軍は兵を分けて浙江の慈谿を攻め、ウォードは陣没した。アメリカ人バージヴァイン(白文斉。「白齊文」の誤りか)にその軍を領させたが、アメリカの兵頭那師もまた陣亡した。イギリスの提督ホープ(何伯)は鴻章の師と合わせて嘉定を克ち、上海が厳戒を解いていくらも経たないうちに、バージヴァインは秀成に款を通じ、松江に拠って内応することを謀った。事が覚れて、走って秀成に投じ、参謀に署せられた。鴻章は改めてイギリス人ゴードン(戈登)に常勝軍を領させた。ゴードンは咸豊年間に連合軍が都に入って円明園を焼いたとき、その事に与った者でもある。やがてバージヴァインはひそかに蘇州に入り、秀成のために軍械や火輪船を購い、あわせてイギリスの海軍士官リンドレー(林利)を秀成に薦め、忠義軍を組織して常勝軍に対抗させた。ここに至って、秀成が常熟を攻めたので、鴻章は劉銘伝らを遣わして福山を攻めさせ、程学啓らに太倉・崑山を攻めさせてその勢いを分け、みなこれを抜き、常熟の囲みは解けた。
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夏四月、太平の翼王石達開の兵が老鴉で困しめられ、ほどなくこれに死んだ。はじめ、達開は寧国から入って謁見したが、秀全はその兵権を解き、留まって輔けさせた。しかし政事はもっぱら秀全の諸兄である安王仁発・福王仁達から出て、達開は鬱々として閑居していた。その参謀の張遂謀が、蜀に入って鼎足の業を成すようそれとなく勧めたので、達開は疏して去ることを求めた。これに従った者は数十万人で、これより六、七省に出入りし、百余城を攻め抜いた。
- 元年十月に、蜀を援ける湘軍の将胡中和らに叙州で敗られてから、雲南の東川に入り、この年の二月にふたたび蜀に入った。その将の頼裕新は寧遠で敗れて死んだ。達開は大隊を率いて金沙江を渡り、辺地の土司に道を借りた。四川総督駱秉章は、松林地の土千戸王応元と邛部の土司嶺氶恩とに賄し、達開を誘って小径に入らせ、そして土兵にその背後を抄らせ、越巂の大路を截って、退けないようにさせた。
- 達開は紫打地に至り、筏を造って大渡河を渡り、渡った者はすでに一万余人であった。おりしも日が暮れたので、にわかに南岸に撤回するよう命じ、「師の渡ったのが半ばに及んでいない。敵軍がにわかに至るのを恐れる。これは危うい道だ。明日を待って渡り終えるにしかず」と言った。夜になって大雨が降り、河の水が急に漲って渡ることができなかった。二日を越えて水勢は平らかになったが、四川の防江の将唐友耕がすでに至り、河の対岸に営を列ねていた。その地は左は松林河に阻まれ、右は老鴉漩河に阻まれ、しかも土司がまた背後から古木を偃して路を塞いだ。達開は路が窮まり、老鴉漩に奔った。
- 兵はすでに二日食を得ていなかった。達開は慷慨して部下に語って言った、「敵軍が得ようとしているのは私だけだ。私一人が敵のもとに赴けば、お前たちは死を免れられる」と。そこで馳せて秉章に会い、長揖して拝まなかった。秉章が「降るのか。たいへん結構だ」と言うと、「私は死を乞いに来たのだ。あわせて士卒のために命を請う。九原の下で公の賜物を拝しよう」と言った。秉章は「私はお前の志を成してやろう」と言い、そこでこれを殺した。死んだ年は三十三であった。秉章はその士卒・将弁二百を招撫したが、鋭卒数千には一人も降る者がなかった。
- 秋九月、太平国の将古隆賢が石埭・太平・旌徳の三県をもって降って来た。隆賢は堵王黄文金が青陽を攻めて兵敗れたと聞いて、そこで降って来たのである。
- 冬十月、李鴻章らが蘇州を復した。淮軍は常勝軍の力を得て、次々に呉江・江陰の各県を復し、あわせて太湖の各関所を克ち、そこで蘇州城に逼って軍を置いた。当時、太平の慕王譚紹光が蘇州を守っていたが、兵は少なく糧は欠けていた。李秀成が馳せ往ってこれを援け、鴻章と婁門で大いに戦い、勝敗は相半ばし、たがいに攻めること一か月余りであった。納王郜永寛・比王伍貴文・康王汪安均・寧王周文佳・将軍范起発・張大洲・汪環武・汪有為らが、副将鄭国魁を介して程学啓に款を通じた。学啓は常勝軍の統領であるイギリス人ゴードンとともに軽舟で城北の洋澄湖に行き、永寛らと約を訂した。永寛と有為はそこでこの月の二十四日に紹光を刺殺し、斉門を開いて降った。秀成は退いて無錫・常州に屯し、丹陽に営を連ねて、鴻章の軍を遏めた。
- 学啓ははじめ永寛らに総兵・副将などの職を許していたので、のち約のとおりにするよう求めてきた。学啓は鴻章と密かに謀り、饗宴を設けて八人およびその将弁千余を誘い殺した。国魁はこれを聞いて涕泣し、食わずに三日臥した。ゴードンもまた学啓を罵り、そのうえ鴻章を殺そうとして短銃を携えてこれを探し、鴻章は避けて営に帰ることを敢えてしなかった。ゴードンは自軍を挟んで変を起こすと揚言し、永寛の首を探し出してこれを持って哭き、あわせてその養子を求め得て崑山に送った。鴻章は永寛らのために醮を設け、みずから詣でて祭り弔い、涙を数行流したので、ゴードンの怒りはようやく解けた。ただ、二度と学啓には会わないと誓った。
西暦1864年 同治三年
- 春正月、劉蓉が漢中を復した。陳得才は漢中にいたが、金陵の囲みが急なので、師を率いて援けに入った。陝西巡撫劉蓉は兵を遣わして待ち伏せて撃ち、これを破り、漢中の府城を収復した。
- 程学啓が嘉興を復した。学啓は肉薄して城に登ったが、弾に中って脳を傷つけられ、輿で帰された。その部将劉玉奇が軍を督して奮って攻め、潘鼎新・劉秉璋もまた水陸から交々進み、そこで嘉興の府城を抜いた。学啓は陳玉成の養子であった。玉成は大将葉芸台とともに安慶を守らせ、芸台はこれを左右の手のように頼み、姪の高氏をめあわせた。曾国荃の安慶の囲みが急になったとき、芸台は学啓に重い兵を畀え、城外に駐まって犄角の勢を成させたが、学啓は芸台に背いて衆を率いて降って来た。国藩から遣わされて李鴻章に従ってからは、向かうところ功があった。郜永寛らが降ろうとしたとき、学啓は彼らと誓って「もし食言したら、他日、砲によって死のう」と言った。のちついに永寛らを殺し、ここに至ってついに砲に中った傷が重くて卒した。
- 嘉興の郡がすでに復すると、杭州城は大いに震え、敵将陳炳文は夜に乗じて北門から脱け出し、左宗棠が入城した。はじめ、蔣益灃の軍は、花䋴頭軍を統べるフランス人托格比の助けを得て富陽を攻め復し、そのまま進んで杭州に逼り、まもなく徳清を復し、石門を降し、浙江全省の郡県は順次に下った。鴻章もまたイギリス・フランス兵の力によって常州を復し、蘇州・常州の敵軍はことごとく徽州から江西に入り、江蘇省は金陵のほかはことごとくすでに収復された。
- 夏六月、曾国荃が金陵を復した。これより先、国荃は湘軍の水陸の師を合わせて金陵を囲むこと二年であった。二年五月に彭玉麟・楊岳斌が水師をもって金陵の対岸の九洑洲の要鎮を攻め破ってから、敵の糧と援けとはそこで絶え、国荃ははじめて一途に進攻することができ、そこでこの年の正月に鍾山の石塁を抜いて、囲みの師はようやく合わさった。
- 国荃が七甕橋に営を連ねたころ、李秀成はしばしば洪秀全に、みずから鄂・贛に親征して上流を握って天下に号令し、蘇・浙を襟帯として餉の源を利するよう勧めたが、秀全は聴かなかった。秀成はまた、太子を奉じて軍を監せしめ(「読」は「請」の誤りか)、万一、京師に不幸があれば、幼主を奉じて恢復を図ること、唐の粛宗の霊武の故事のようにと言ったが、これもまた省みられなかった。
- 四月に至って城中は糧が絶え、草の根や樹皮を食ったが、軍は死を決して守った。秀成は飢えた民に語って言った、「曾国荃は城外に局を設けて難民を招き撫している。お前たちはどうして往って食にありつかないのか」と。衆は言った、「王は身を捐てて社稷を衛っておられる。われらは王に従って死ぬだけです」と。日に自殺する者は常に数百人であった。秀成はこれを傷み、民を放って城を出させようとしたが、秀全は許さなかった。秀成はついにこれを放った。秀全は事のもはや為すべからざるを知り、憂憤して病篤くなり、足がにわかに腫れた。病が革まり、遺命して秀成に国を輔けさせ、そして卒した。年六十五。その月の二十七日のことである。
- 太子福瑱が即位した。年は十六であった。秀成は昼は政務を綜べ、夜は軍を巡り、憔悴して骨と皮になったが、人を知って善く任じ、恩と威とをあわせ行ったので、人心はこれに服すること、子が父に対するようであった。五月の朔に及び、坑道の火薬が発して城が崩れたが、国荃の兵は撲りかかることを敢えてしなかった。当時、陳得才は漢中から師百万を提げて援けに赴き、すでに英・霍に至っていた。国荃は力めて竜膊子山の陰の堅塁を攻め、晦日に至ってこれを克った。城中の火薬が尽きたことを偵知し、太平門外に蒿と秫とを積んで濠を填め、まっすぐ城下に達して地道を掘った。
- 秀成は夜に決死の士三十人を出し、道を分けて太平・朝陽の両門の欠け口から突出し、国荃の営に衝きかかった。当時、湘軍は労を積んで疲弊し、戦う力はほとんど尽きており、警に遇って鳥や獣のように散りかけたが、おりしも李臣典・彭毓橘の諸将が新兵を率いて馳せ救ったので、わずかに免れることができた。そして秀全の寵臣沈桂、松王陳得風、尚書朱兆英がひそかに国荃に款を通じた。この月の十六日の正午、地道が大いに発して城はついに陥ち、秀全の屍を掘り出し、その首を斬って焼き化した。
- 章王林紹璋・顧王呉汝孝はみな自殺し、妃嬪で御河に身を投じた者は百人・十人を単位に数えるほどであり、将弁三千余はみな戦没し、軍民十余万は争って河に踏み入って死に、屍は填まり溢れて橋のようであった。城郭や宮室は続けて三日焼けて絶えなかった。后の頼氏は幼主福瑱を携えて秀成に付し、身を返して河に入って死んだ。秀成はあわただしく福瑱を挟んで出て、家に至り、伯母に別れを告げた。伯母は秀成を追いやり、まさにみずから縄に首を掛けようとしたが、秀成の弟の揚王名成が至ってこれを見、縄を断ち切って下ろし、大呼して言った、「兄は幼主を護り、弟は老母を護って、天命に聴せよう」と。
- ともに城に登り、大北門の欠け口を衝いて出て、三百余里を行き、精強な兵に遇い、部下の衆はみな撃ち散らされた。秀成はそこで愛する駿馬を福瑱に与え、名成にこれを奉じて、その母とともに馳せ去らせ、みずからは九騎を率いて方山に登った。日暮れになって山を下り河を渡ろうとすると、村民が群れ集まって殺し(底本は「村民坌集殺」に作る。「殺」の下、字を脱するか)、すでに六騎は渡っており、秀成を見るとみな跪き、みずから進み出て言った、「これは忠王だ。百姓を愛し、われらを厚遇された。これを護るべきだ」と。湖州の大営に至ったとき、他の村民がたまたま群がり至り、秀成を挟んで国荃の軍に送った。
- 国荃は儀衛を盛んに陳ねてこれを訊した。秀成は背を向けて立って言った、「そんな必要があろうか。早く紙と筆とを持って来い。私が書こう。わが史館の実録はお前たちが焼き尽くした。私が述べなければ、何によって信を伝えよう」と。この月の十七日から二十七日まで、およそ十日の間、立ち枷の中にあって(「左」は「在」の誤りか)、慷慨して筆を吮い、数万言を記述し、事が畢わって殺された。年四十。のち村民が夜に蕭孚泗の親兵を劫し、王三清を連れ去って殺し、これを水中に投じた。三清は手ずから秀成を斬った者である。
- 秀成は広西藤県の人で、陳玉成と同郷である。篤実忠厚で、信義を尚び、謀略に富み、恩をもって士卒を撫したので、みな喜んでそのために死んだ。五王が死んでからは、秀成に頼って危局を支え、長江沿いの数省を縦横に盪け決すること六、七年にわたった。秀全はこれを柱石と頼み、廷で争い直諫して大臣の風があった。蘇州を去る日には、男女老幼が涙を流してこれを送った。国藩の営中に護送されると、松王らはこれを見てみな長く跪いて安否を問うた。国藩は民心がまだ去っておらず、その党羽が変を為すことを恐れ、ただちに除くことを決し、京に送ろうとしなかった。意外の変が生じるのを免れるためである。死ぬに及んで、人々は争ってこれを痛惜した。金陵の勝報が聞こえると、詔して国藩を侯に封じ、国荃・李鴻章を伯、李臣典を子、蕭孚泗を男に封じ、その他もそれぞれ差を付けて奨叙した。
- 秋七月、太平国の将李士貴が杭州で執えられ、これに死んだ。太平の揚王李名成は、その幼主福瑱を奉じて広徳に至り、のちに黄文金が湖州を囲んでいると聞いて、干王洪仁玕とともにその軍に詣で、文金に、速やかに汪海洋と合して幼主を奉じて旗印とし、まっすぐ長沙を擣き、漢中の陳得才および張宗禹の兵を連ねれば百万の衆を集めることができ、そこで疾く関中に趨って咸陽を取れば、中興は卜すべきである、いたずらに長く湖州に困しめられて敵軍がひとたび集まれば事は為すべからざるものとなる、と勧めた。文金は従わず、「敵はすでに食を絶っている。旦夕のうちに破れる。必ずこれを滅ぼす」と言った。城が破れるに及び、湘軍の黄少春の兵が至り、城はふたたび失われ、文金は砲に中って死んだ。
- 士貴は忠王李秀成の次子である。福瑱を護って徽州に走ったが、席宝田の軍に遇って大敗し、福瑱は衆に擁されて馳せ去り、士貴は身ひとつで杭州に走り、左宗棠の砲船に捕えられ、宗棠はこれを殺した。士貴は驍勇で胆略に富み、年十六で当時すでに兵一万余を統べ、戦えばそのたびに勝ち、軍中で「神童」と称され、行軍にはつねにみずから殿を務めた。六合の役で、李兆受はこれを数十重に囲み、生け捕りにしようとしたが、ついに陣を突いて去り、敢えて近づく者もなかった。兆受は歎じて「虎の父に犬の子は無い。惜しいかな。私は得て将とすることができぬ」と言った。死んだ年は十九であった。
- 八月、太平国の幼主洪福瑱が江西で執えられ、これに死んだ。太平国は亡んだ。福瑱は石城に至ったが、兵はわずかに二千であった。席宝田が追い及んでこれを大破し、福瑱は走って山中に隠れた。ほどなく難民の中に紛れ込んで行ったが、その伯叔父である卹王仁政に遇い、馬を牧う者がこれを見知って、営官蘇元春に引見させた。元春はこれを釈そうとした。宝田は聞いて、部将周家良に令を持たせて取りに往かせたが、元春はこれを拒んだ。宝田がみずから馳せ至ると、元春はこれを与えた。ある者が言った、「宝田公、みずから功と為してはなりません。禍が遠くないことを恐れます。国藩は洪氏に残る者は無いと奏しました。いま突然に福瑱を獲たとして、国藩が容れられましょうか」と。宝田は黙然とし、ついに巡撫沈葆楨に送って、これを殺させた。事が聞こえると、詔して葆楨に軽車都尉、宝田に雲騎尉を賞し、あわせて鮑超に子爵を賞した。福瑱がすでに獲えられ、陳得才は湖北で敗死し、李世賢・汪海洋は広東で敗死した(底本では「湖北」「広東」の二語をそれぞれ下の句の頭に置く)。道光三十年秋八月に洪秀全が金田で兵を起こしてから、ここに至るまで、およそ十五年にして亡んだのである。
原文(底本)
宣宗道光三十年,秋八月,洪秀全起兵廣西金田村。秀全,廣東花縣諸生,有朱九濤者倡上帝會於粵城,秀全與中表馮雲山並師事之。九濤死,秀全奉基督教義,自樹一幟,謂之上帝教,立會召衆,名其會曰:「三點會」,而已爲之長。道光十六年,移會至廣西,居桂平、武宣二縣間之鵬化山中,陰事布教。雲山與秀全妹夫武宣蕭朝責及桂平楊秀清、桂林韋昌輝、貴縣石達開分赴各縣勸教。秀全留主桂平曾玉珩家。十七年,返廣東,親就美國牧師羅巴爾特受洗。時入教者寖衆,皆稱秀全爲先生,遂公推爲教主。秀全稱耶和華爲天父,耶穌爲天兄,而已爲其弟,在教皆平等。禁驕矜,作真言、寶誥諸書(即規時良言,係基督教教書爲真理,遵博士之譯本)以爲訓,使其各蓄髮藏山菁間。及秀全再至廣西,則雲山等勢已大張,信徒數達二千以上。時水寇羅大綱有衆千餘,掠永州,敗遇平南縣花洲人胡以光家。秀全在焉,以光勸大綱歸秀全,會官捕秀全急,乃赴平南藤縣間之金田村起兵。貴縣林鳳祥、衡山諸生洪大全等皆奔之。 冬十月,革廣西巡撫鄭祖琛職,起前雲貴總督林則徐督辦軍務,兼署巡撫。則徐至潮州病卒,詔前兩江總督李星沅代之,以布政使勞崇光署巡撫。 十一月,提督張必祿兵敗於金田,死之,以前漕運總督周天爵署廣西巡撫。 文宗咸豐元年,秋閏八月,洪秀全入永安州,稱天王。先是,廣東高要人張嘉祥聚衆二百投秀全,語不合,去掠潯州據之。會李星沅、周天爵以事相齟齬,疏請統帥,乃出大學士賽尚阿督師。示至而星沅卒。先是,廷議以星沅曾任廣西學政,洪秀全出其門,故有師生之誼,命星沅赴粵,從事招撫。星沅逡巡不肯進,及朝旨敦迫,乃大恐,行之粵西之斷藤峽仰藥死。天爵復與提督向榮有隙,劾榮不尊節制,詔罷天爵,以鄒鶴鳴爲巡撫。賽尚阿至軍,合都統烏蘭泰及榮軍擊嘉祥,未暇及秀全,秀全得以其間從容布置,故附從者益衆。嘉祥敗,降於榮,改名國梁,移師擊秀全,屢敗,衆推秀全爲太平王。破象州,進據永安,定國號曰:「太平天國」,稱天王。楊秀清、蕭朝貴、馮雲山、韋昌輝爲東西南北四王,石達開爲翼王,洪大全天德王。 二年,夏四月,太平軍破全州。先是,賽尚阿合諸道兵數十營圍永安,四閱月不下,洪大全突圍,北趨楊朔,爲烏蘭泰誘執之,送京師。羅大綱復突圍出,烏蘭泰逐之,至六塘墟敗沒。大綱毀其軍旗,賺桂林城,語誤不得入,攻月餘退,連破興安、全州。方洪全在永安時,道州舉人胡孝先住謁,疑爲諜,繫之。孝先自獄中上書,暴政府惡善甚至,秀全方求文士,得書大喜,釋之,與論大計。孝先曰:「關中,天府之國,周、秦之所以興,欲爭天下必先取咸陽,然後出山右,定燕薊,天下可傳檄定也。」秀全稱善,置孝先左右,稱先生而不名,楊秀清忌之。值退軍永安,殺諸道以陷敵關,秀全甚悼焉。 五月,太平軍窺長沙,未至,馮雲山陣沒,秀全哭之慟曰:「天不欲吾定天下,奈何奪吾良輔之速也?」雲山能謀善斷,多所規畫,秀全深倚之。雲山歿,秀全移攻道州,提督余萬清遁。秀全入道州,分兵破江華、永明、嘉禾、藍山。 秋七月,太平軍破桂陽州、彬州,趨長沙,罷湖南巡撫駱秉章,以張亮基代之,遠治余萬清,以雲貴總督羅繞典遺長沙,令留辦防堵。 冬十月,太平軍破岳州。先是,蕭朝貴自彬州率師攻長沙,數日之間連破安仁、攸、醴陵等縣,比至長沙省城南十里之跳馬港。民走報城中,怒其無公文,執將斬之。石馬鋪屯將尹培率陝西軍千餘倉猝拒戰,立潰,培立死之,潰兵遁入城。駱秉章令塞南門,時城中額兵練勇及八千餘,將弁亦數百,秉章不敢言,節度羅繞典惟曰與諸生舉貢議事。提督鮑起豹至舁城隍神像,置南城樓與對坐,而賽尚阿駐永州,總督程矞采駐衡州,皆託防不至。張亮基已至甯鄉,聞警引還常德,詔奪賽尚阿、程矞采職,以張廣縉並代之。促向榮赴援,榮始與烏蘭泰齟齬,怒賽尚阿,自四月稱疾,居桂林。賽尚阿深劾之,罪至遣戍,終不肯起。聞賽尚阿罷,乃疾行抵長沙,大破榮軍於城河對岸之水落洲。榮軍死有數千,攻城三月不下,遂解圍。夜造浮橋,渡江而湘,破益陽。渡洞庭,至岳州,湖北提督博勒、恭武等先三日遁,遂下之,得吳三桂所遺軍械礮位。 十二月,太平軍破漢陽、武昌。時太平軍蔽江而東,所過披靡,漢陽、武昌相繼下,巡撫常大淳等死之。詔逮治徐廣縉,以向榮督師。琦善選兵駐河南,張亮基署湖廣總督,潘鐸署湖南巡撫,駱秉章署湖北巡撫,羅繞典防荊襄,起丁憂在籍,侍郎曾國藩團練,駐長沙。 三年,春正月,太平軍東下,取蔪黃,順流取九江、安慶。初,秀全欲從胡孝先遺策,議取常德,趨漢中,襲咸陽,出山右,以規燕薊,比下武漢。命石達開等取蘄黃,順流攻九江、安慶,皆唾手下,安徽廵撫蔣文慶死之。 二月,太平軍取江寗,分兵取鎮江、揚州,由臨淮入鳳陽。秀全先欲棄九江、安慶,出襄樊,逼潼關,以取長安。括財賦入武漢,繼慮潼關堅不易拔,又慮載重行緩,爲追軍偪,乃用浙江歸安人錢江策,仍順流圖江寗。總督陸建瀛委軍遁,攻城七日而下,將軍祥厚等死之,時月之八日也。建瀛聞有旨逮問,懼,吞金死。秀全欲趨江北圖汴,定都洛陽,渡黃河以圍燕都。或建言『明太祖亦席金陵以有天下,宜先建國,俾天下知趨向。』秀全納之。羣下上尊號,升江寗爲天京。柴燎上帝,大赦,立賴氏爲皇后,子福瑱爲太子,設六官,立朝儀,制法律,設學校,進楊秀淸等軍師、丞相、主將、將軍,餘文武封賞有差。開科取士,赴試者二萬餘人。是科狀元王弢。定新曆,以三百六十六日爲一年,有閏日,無閏月,每七日一禮拜,讚美上帝。設高座說法,謂之講道理。其軍制每軍一軍帥統五師帥,一師帥統五旅帥,一旅帥統五百長,一百長統十司馬。萬二千五百人爲一軍,而總之以監軍。行省文武將帥各一,文方伯,武主將,佐將副之。縣爲令,州爲牧,府爲太守。 夏四月,太平軍取歸德,圍懷慶。 五月,太平軍圍南昌,分攻各府,尋敗退。時胡以光再破安慶,圍南昌,適湖北按察司江忠源來援,戰屢勝,圍遂解。 秋八月,太平軍攻破山西平陽府,入直隸境。時訥爾經額屯軍邯鄲縣北之臨洺關,敵軍已由潞城、黎城間小徑入,倉猝接戰,兵大潰。 九月,太平國將胡以光等解南昌圍,趨九江,入湖北境,連攻黃州、漢陽二府。李開芳等破深州,攻天津不利,退據静海縣,分屯獨流、楊柳靑等處。 冬十月,太平軍取桐城、舒城,在籍侍郎呂賢基死之,遂圍廬州。 十一月,參贊勝保攻静海,敗績,副都統佟鑑等死之。 十二月,太平軍取廬州,廵撫江忠源死之。是年九月間,忠源赴援九江,敗績,於田家鎮突圍走廣濟,旋授安徽廵撫,以廬州事急,將兵由六安州進援,入城堅守逾月,至是城破投水死。 四年,春正月,湖廣總督吳文鎔師潰於黃州,死之。時廵撫崇綸忌文鎔,密劾文鎔閉門自守,有詔詰責,文鎔不得已出師黃州,駐堵城。會上元夜敵張鐙高會,文鎔偵知,急出兵襲之,大敗,文鎔自殺,於是漢陽復失。德安、隨州、棗陽俱破。 二月,大平圖遣將孫寅三取太平,復遣石祥貞會漢黃各軍溯江,取岳州,入湘陰,分兵下寗鄉。 三月,太平軍自皖北入山東,偪臨淸州。是年正月間,李開芳、林鳳祥等合軍屯獨流,時值大雪,南兵不習寒,耳鼻凍裂輒熾火,潰爛者十六七,故憊甚。爲僧格林沁等所乘,大敗,走静海,趨據阜城,至是楊秀清密令安徽分兵,由豐工渡河破金鄉、臨清、陽穀、鉅野、鄆城、朝城、冠華等州縣。 是月,曾國藩統湘軍水陸師敗太平軍於湘潭。國藩督水師攻靖港不利,憤而投水,幕客章壽麟援出之,會副將塔齊布統陸師援湘潭,出敵不意與搏,戰敵披靡,國藩聞益遣舟師往助,八日之間水陸十戰十勝,遂復湘潭。 夏六月,太平軍再破武昌,太平將石祥貞、白湘潭退據華容,回兵拔岳州,復分途取龍陽、常德,尋又破武昌,廵撫靑麟遁,長沙布政使岳興阿死之。詔誅靑麟,褫總督台湧職,以楊霈代之。 秋七月,曾國藩復岳州。國藩復湘潭後,分兵三路,以提督塔齊布、道員褚汝航、知府羅澤南爲中路,趨岳州;貴東道胡林翼爲西路,趨常德;知府江忠淑、直牧林源恩爲東路,趨崇陽、通城。敵將林紹璋間,棄常德、澧州,走岳州,復走湖北。 是月,向榮等復太平。 八月,曾國藩復武昌、漢陽,並復黃州。武昌旣復,隨克漢陽,楊霈所遣團勇亦收復黃州。 五年,春正月,吉爾杭阿復上海。先是三年十月劉麗川據上海縣城,與英領事溫那治交涉,允據陳家木橋,以通軍火。廵撫吉爾杭阿憂之,謀諸各國,法提督辣呃爾許助戰守,至是會同進攻。而城以復,法人遂假助守之名,火東門外,附郭之民居悉燼,而政府念法有助攻之功,卽以其地讓與之。 三月,太平軍復取武昌。楊霈收復黃州後,駐軍廣濟,會歲除,軍中置酒高會,而敵軍大至,霈倉皇走蘄水,於是漢口、漢陽、武昌相繼復失,廵撫陶恩培赴水死。署按察使多山燃城上礮不發,拜祝之,復燃,火煙出而無聲,發憤自剄死,以胡林翼署廵撫,詔湘軍分陸師赴援。 夏四月,僧格林沁破太平軍於馮官屯。是年正月,林鳳祥自連鎮被執,餘衆據高唐州,二月僧格林沁破高唐,李開芳走保馮官屯,僧格林沁決黃河水灌之,敵軍盡没,開芳被擒,死之。是月,太平軍破德安,革楊霈職,以官文爲湖廣總督。 秋七月,彭玉麟克蔡店。玉麟率湘軍水師援湖北,進至蔡店,克之,燬襄河鐡索橋。 八月,胡林翼攻拔漢口鎮。林翼自將攻漢鎮,敵軍乘之,幾潰,林翼麾士奮鬬拔漢鎮。 九月,羅澤南克通城、崇陽。澤南以湘軍陸師援湖北,連克通城、崇陽,會石達開率衆自義寗掩至,復力戰破之,與胡林翼合軍羊樓,蒲圻、咸寗相繼復。 冬十月,和春等復廬州。先是,三年冬,江忠源戰殁,詔提督和春、漕督福濟規廬州,久不得要領,在籍編修李鴻章領兵於四年冬,復含山。至是,和春等克廬州。 六年春三月,布政使羅澤南攻武昌敗,續死之。澤南屯軍之洪山,自正月至二月,大小百數十戰,直薄城下。會大霧,敵陰穴突門衝澤南軍,澤南三退三進,軍幾潰,而所部皆鄉、子弟,不忍相棄。澤南左額中彈,血霑衣,猶踞坐指揮,得全軍還,越六日卒。 夏五月,太平軍攻破江南軍於孝陵衛。先是,三年春,江寗、鎮江揚州失守,之後向榮軍孝陵衛,琦善、陳金綬、勝保軍揚州城外,號爲江南北兩大營。四年秋,琦善卒,以托明阿代之,榮頓軍堅城,累歲無功效。至五年春,吉爾杭阿復上海,進圍鎮江,是年二月,敵將合天侯李秀成、丞相陳玉成突圍,夜渡瓜洲,翌日攻破土橋、虹橋、卜著灣、三岔河諸營,餘百二十餘營皆聞風遁,遂拔揚州,詔罷托明阿,以德興阿代之。及四月,秀成、玉成合軍,破高資,吉爾杭阿自殺,秀成等返江寗。楊秀淸檄擊榮軍,秀成先引兵襲丹陽營,榮遣提督張國梁馳救,秀成大破之。翌日,返攻榮軍後路,而石達開之兵適至,夾攻之,肉薄搏壘,榮軍大潰,退屯丹陽。敵盡奪朝陽門外六十餘壘,復分道進迫,營壘以百計,榮憂憤逾月,自縊死。 秋八月,太平天國北王韋昌渾以天王洪秀全命殺東王楊秀淸,天王復殺昌輝,翼王石達開奔安慶。秀淸久欲行篡,惟懼沛王羅大綱。大綱多謀善戰,愛士卒,不嗜殺戮,而功亦最高,屢勸秀淸親統師北伐,卽欲都金陵,亦宜多備戰艦,精練水軍,然後可戰可守。秀淸方專權不納,僅遣李開芳、林鳳祥率師北行,大綱出語人曰:“天下未定,乃欲安居此都,其能久乎?吾屬爲虜矣!”秀淸益忌之。值大綱有疾,乃使醫毐殺之,遂迫秀全禪位。秀全以血詔召昌輝自江西入衛,昌輝與燕王秦日昌領精卒五百星馳歸。至秀淸府,奪門入,衛士殊死戰,日昌被𢦤,昌輝大呼:“奉詔討賊,釋械者勿罪!”漸散去,昌輝引秀淸出,殺之,盡屠其家屬及其黨至二千餘。達開聞變馳入,責昌輝治餘黨過嚴,昌輝復謀殺達開,達開覺,縋城走甯國召兵靖難,昌輝殺其母妻子女。又恣殺秀全侍衛,侍衛數十約五鼓持械襲殺昌輝於東朝房,秀全命傳首甯國,止靖難兵。 冬十一月,官文、胡林翼等攻復武昌、漢陽。先是,湖廣總督官文攻漢陽,湖北廵撫胡林翼攻武昌,武昌圍久不下,戰殁水陸軍士至三千以上,將弁六百以上,而城內亦以糧乏不可守。至是,各開城東走,武漢遂同日克復,黃州、興國、蘄州、蘄水、廣濟皆復。 七年冬十一月,張國梁、德興阿等復瓜洲、鎮江。六年八月,張國梁擊破丹陽城外諸敵壘,將進攻句容。督帥和春遣總兵傅振邦攻漂水,敵出大隊守烏山,築壘爲援,至是年二月,振邦等大破烏山援敵,遂以五月克漂水,國梁以閏五月克句容。九、十月間,國梁連克敵壘十餘,沉敵艦六十餘,進薄鎮江,至是克之,而德興阿亦以同日復瓜洲。 八年春二月,張國梁攻克秣陵關,復破敵於七甕橋、雨花臺等處,偪江寗城而軍。 三月,江西太平軍入浙江,取江山、常山、開化諸邑,石達開自江西規衢州,遂拔處州。詔起復曾國藩督師。敵久圍衢州不下,會湘軍至,破敵,敵改圖閩。 夏四月,李續賓等復九江。九江圍攻年餘不下,守將貞天侯、林啟容堅忍能軍,食罄,嬰城種麥自給。隧道火藥發,城崩,輒堵合之。時援師大集,續賓與楊岳斌所統水陸近百萬,而曾國藩弟國華復至,贊續賓軍。續賓益督軍日夜穴地,至是,燬城入,啟容死之,士卒萬七千餘無一降者,皆稱啟容平日善撫衆云。 五月,太平軍自浙江入閩,取邵武等郡縣。 秋七月,太平軍復陷廬州,命福濟回京,以李孟羣署安徽廵撫。詔勝保督辦安徽軍務。 八月,曾國荃復吉安。曾國藩弟國荃率師規吉安,築長圍以困敵,屢擊,卻其外援,至是,克之。蕭啟江等復邵武。 九月,太平軍復取揚州。時太平將陳玉成攻浦口德興阿營,大破之,遂克揚州,德興阿走邵伯。旋張國梁率師渡江,復揚州及儀徵,而六合圍急,國梁趨赴,援至,則城已失,道員溫紹原死之。 冬十月,浙江布政使李續賓師潰於三河,死之。敵前軍主將陳玉成旣拔廬州,於距廬州五十里之三河屯糧械,築大礮,環以九壘,防守甚嚴。續賓旣連復太湖、潛山、桐城、舒城四邑,進攻三河,連日大戰,克敵九壘,所部傷亡亦衆。會敵後軍主將李秀成援兵大至,合圍三十重,續賓自搏,戰不能進,七營盡没,續賓自縊死,曾國華及員弁兵勇死者六千,先所復四縣皆復失。 太平天國滁州守將李兆受以城來降。兆受始附霍邱大盜陳玉,稱壽王,後降何桂珍。旋叛,𢦤桂珍,走九江,降於太平將檢點林啟容,啟容不受,去降於黃梅守將黃文金,亦不受,乃歸丞相李秀成,秀成優禮之。兆受爲招安張樂行、龔得樹、蘇老天,馬步兵各三十萬,至是,因督兵不嚴,毆辱縣令,懼得罪,乃走降於勝保,命改名世忠,以參將補用。秀成使人歸其妻拏,兆受乃以書招秀成,秀成歎曰:“兆受自爲不義,乃欲陷人乎?”拒之。 九年春二月,革職安徽廵撫李孟羣兵潰於廬州,死之。孟羣自八年七月駐廬州城西,與敵相持,至是糧盡壘破,越五日,自縊死。孟羣有從妹素貞工騎射,精韜略。孟羣援湖北,素貞戎裝從行,數建奇功,常拔孟羣於重圍之中,後從攻漢陽,夜襲敵營,中伏死。 冬十一月,太平天國池州守將韋志俊約以城降,部將古隆賢等不從,攻走之,志俊遂來降。 十年春二月,太平軍破杭州,敵帥李秀成旣破楊州六合合肥廬州黃梅宿松太湖等郡縣,復防堵浦口,勝保張國梁進攻大敗,勝保幾爲虜。秀成率兵三千,由鳩江越淸弋江出甯國之後,解寗國圍,疾趨廣德,一鼓下之,至泗安,連破浙江防守兵十五營,命從弟左軍主將李世賢攻湖州,而自將譚紹光等趨錢塘,由清波門穴地道三日破之,廵撫羅遵殿等自縊死,國梁使提督張玉良總統援浙諸軍至,見城上徧插秀成旗幟,不敢偪,駐離城四十里之塘西。秀成使瞽者傳柝三日,城中寂然,乘夜全師退趨廣德。玉良止兵不往追,遂達建平。方秀成之下杭州也,因偵知江南軍鐶在杭冀,事急和春必解金陵之圍以救杭,及玉良兵至,見江南兵勢已分,故急引師回救金陵。 閏三月,太平軍攻破江南圍師張國梁。自八年二月偪金陵城,而軍至是增築長圍,意謂克復在指顧間,將士驕蹇,營規廢弛,時存餉尙三十萬,督師和春以不破城不發餉激軍,軍屢譁,不爲動,提督張國梁跪諫,繼以泣不聽,於是軍心攜貳。時敵帥李秀成集諸鎮兵入援,分撲圍師,城中亦自十三門出兵夾擊,刀斗聲聞數十里,旌旗若長虹匝天,是日微兩,敵軍蜂湧入,勢若奔潮。國梁不能禦,退守丹陽,敵師踵至,國梁拒戰創甚,躍馬渡河,馬蹶死亂流中。和春受傷,遁常州,嘔血死。江南圍師三百餘營,悉夷爲平地。秀成以國梁忠勇,覓其屍禮𦵏之。復逐北奔牛鎮,破營二十餘座,值張玉良自杭州率師回救,迎戰常州,大敗,常州遂失。總督何桂淸遁上海,旋革職逮問。秀成追玉良至無鍚,自將銳卒三千登玉泉山,玉良軍見之,四十餘營不戰自潰,潰軍遁入蘇州,沿途大掠,蘇民深恨之,而迎秀成,遂入無鍚,進薄蘇州。道員李文炳阿海等以城降,廵撫徐有壬等死之,玉良遁杭州。秀成傳檄,郡縣皆定。朝命都興阿督辦江蘇江北軍務,曾國藩署兩江總督。秀成自出師不一月,而逐北七百里,拔城六十餘,師止蘇城。時亂民千百掠不止,諸將請勦之,秀成曰,民苦鋒鏑,不安家室,不得已而爲暴,吾甯忍以兵誅之。乃親率數十人廵鄉鎮,使左右傳呼,曰忠王至,亂民皆釋戈羅拜,匝月而亂定。召官吏千餘人至,願留者官之,去者聽之,乏資斧者給之,農失業者給牛種,窮民失業者助其資,散庫錢十餘萬緡,糧萬餘石,蘇民安輯。 夏六月,命曾國藩督辦江南軍務。國藩奉命後,移駐祁門,奏保左宗棠襄辦軍務,起沈葆楨辦江西廣信防務,調鮑超、朱品隆、唐義訓諸軍渡江,檄李元度回湘募軍,任曾國荃圍攻安慶。 秋九月,太平軍破寗國。太平軍自徽州分兵攻甯國,提督周天受等守七十餘日,城破,死之,並破浙江嚴州府。十一年秋八月,曾國荃復安慶。安慶失守已九年,是年四月,國荃自湘增募萬人至,掘長濠困之。敵帥英王陳玉成率師赴援,至桐城,多隆阿、李續宜合軍擊敗之於挂車河,胡林翼復移營合圍,玉成念湖北爲湘楚軍根本,衝其腹心必解安慶之圍以自救,乃從間道入湖北,連破黃州、蘄州、德安諸郡縣,續宜率軍回提,玉成返安慶,築壘集賢關之菱湖,爲城中援應。李秀成聞安慶事急,自將兵至蕪湖,繪進兵圖寄玉成。己聞玉成新得孫奎星降卒二十餘萬,秀成曰:“英王新得衆,必驟驕止我兵,則皖危矣。奎星降將兵,烏合不可恃也。”果得玉成書,言兵己足用,勿勞馳救,糧不繼,請進兵豫、楚,斷敵糧道,秀成乃引兵行。會鮑超、成大吉合師至,攻克集賢關外赤崗嶺敵壘,國荃克䈊湖南北諸敵壘,益偪城築壘,敵餉援俱絕,飢疲不能守城,遂下。捷奏至,帝已崩於熱河,林翼亦卒於武昌,遺疏以續宜自代。 冬十一月,太平軍破杭州。太平忠王李秀成令其弟侍王李世賢將所部取浙江,屬郡嚴、衢、溫、台、寗波、金華皆下,秀成直趨杭州,命部將陸順德取紹興,旁、循州縣皆納欵。攻杭城兩月,張玉良爲童海容擊敗死,城遂破,廵撫王有齡自縊死,秀成趨救之不及,撫屍歎曰:“忠臣也!”禮殯之,遣兵護櫬歸上海,獲布政使林福祥,說之降,不可,請歸守邱壟,秀成厚資之行。滿城破,將軍瑞昌自殺,秀成令其部下奉遺櫬北還,滿兵釋不殺,欲行者資而遣之。賑恤難民,收𦵏餓殍,費以鉅萬計。留德王陳炳文鎮杭,而還師駐蘇,卹鰥寡,興學校,豁租税,問民疾苦,民益德之。 穆宗同治元年春二月,太平軍攻上海,尋引還。咸豐十年七月,太平軍攻上海,廵撫薛煥擊走之,進攻靑浦,李秀成自將往援,煥敗還。至是,敵兵復攻,上海英人合土兵內應,約獻城。師至徐家匯,英兵二百來迎,未及預吿,前驅疑爲敵槍擊之,英兵怒,乃返鬬江上,英兵艦亦開礮擊之,秀成引退。煥軍搜敵壘,獲蘇州諸生王畹(官書作黃畹)上秀成書,具陳攻取上海之策,大略勸敵與西人和而藉其勢以圖中原,謂“西人曾遣使金陵,以各國貿易所在,請毋攻滬,而東王不許西人,遂助中國城守爲失策。此時宜急許其不攻,而要今不得以軍裴火藥資中國,再遣舟師渡江,分擾通泰裏下河完善之區,並於海道刦掠華商,使不敢載運貨物貿易,不通釐捐,斷絕軍之餉。西人坐困上海,聚數百萬避難之人,無所得食,必且生變,而西人生理旣絕,亦必俯首來求修好,然後脅之使獻上海,策之上也。若一時不能與西人和,而先欲得上海,亦不必調集大兵也,蓋西人嗜利,近以蘇、浙二省避難人麇至滬地,遂於洋場廣造房屋,重收租息,初不問人之來歷也。宜遣精兵數千人僞作難民,賃洋屋以居。地係洋場,中國官無從稽察,中夜一呼,應者四起,縱火焚燒,遇人斫殺,西人計惟登舟逃𨓜,而上海唾乎得矣。上海旣得,然後招回西人而厚待之,不攖其怒,而仍可爲用,策之次也。”秀成服其慮甚周,而微嫌其計太毒,置不用。至是,薛煥閱之,大驚,卽日疏間於朝廷,寄謂書中於外人多醜詆之詞,飭煥吿知英法領事,破其奸謀,並著江南北大爲警備,後卒無事,畹亦去而之美。 三月,鮑超復靑陽、石埭、太平、涇四縣。太平將古隆賢屯靑陽城外,浙江提督鮑起擊破之,遂進克各邑。 夏四月,彭玉麟等復蕪湖。玉麟與曾國荃合水陸師,共克蕪湖,並金柱關、東梁山各要隘。 多隆阿復廬州。多隆阿攻破廬州,陳玉成走壽州,以練總苗沛霖曾降,已受封爵,往依必不見害。及至,沛霖迎謁入城,伏兵執之,解送潁州勝保營。勝保高坐愕眙,玉成叱之曰:“爾乃吾敗將,何向我作態?曾記合肥官亭一戰,爾騎兵三萬有一生還者乎?”勝保怍其言,予酒食說之降,玉成曰:“吾今日自投羅網,有死而已,何饒舌爲?”遂見殺死,年二十六。玉成眼下雙疤,軍中號“四眼狗”,驍勇富謀略,軍強冠諸鎮,與曾國藩相持數年,國藩深畏之。李秀成聞其死,歎曰吾無助矣。 五月,太平軍破湖州,知湖州府楊然敬飲藥,衣冠坐堂上死,在蕭道員趙景賢被執,明年遂死於蘇州。 六月,鮑超復寧國,屬邑皆下,並復廣德州。 冬十月,曾國荃擊退援金陵之太平軍。國荃駐軍雨花臺,值江南大疫,圍師死者山積。至閏八月,李秀成自蘇至,圍國荃軍數重。九月,李世賢自浙至,開隧道以攻國荃,掘內壕以阻之,相持四十六日,圍始解,軍士死亡及五千,國荃弟貞幹亦病疫死。 二年春正月,左宗棠復金華。先是,李世賢出師援浙,破金華,圍衢州,廵撫左宗棠自開化、遂安往援,破之。及世賢入援金陵,布政使蔣益澧、道員劉典等攻復湯溪、龍游、蘭溪,遂復金華府城,旋進克浦江、諸暨及紹興,之桐廬。 多隆阿復興安。太平扶王陳得才於元年三月自河南南陽入陜西武關,直偪省城,破渭南,還取關縣、澠池,尋攻湖北光化屬之老河口,襲據荆紫關,復侵襄陽、德安、安隆各屬。時多隆阿督軍陜西,擊敗之於商南,尋又敗之樊城,得才復走河南道,攻鄖陽府城,破房縣。復入陜,破興安,至是敗走,多隆阿遂收復興安府城。 三月,李鴻章等復福山,遂復太倉、崑山。元年二月,英兵擊走太平軍後,薛煥因賂英將代守城,而使上海道吳煦以厚餉募華兵數千,使美人華爾以泰西陣法部勒之,號曰“常勝軍”,復以重利嚪英、法二國設會防局助戰守。西將恃強驕倨,華爾以功加副將,廷議必責其薙髮易服,以是西人益不銓制,事緩則索重賂,急則坐觀成敗。前後募勇五萬餘,以不能訓練,遇敵輕北。時蘇紳潘馥、錢鼎銘等避兵左滬,深憂之,因走安慶乞師於曾國藩,欷歔流涕,縱聲長號。國藩遣幕僚道員李鴻章歸合肥募淮勇,率赴安慶,國藩爲定营伍之法、器械之用、薪糧之數,悉仿湘軍制,又選湘軍名將郭松林、程學啟以助之,以故兩省將卒如一家然。鴻章遂以三月率所部湘軍及新募淮軍共五千五百人至上海,國藩表奏署鴻章爲江蘇廵撫,別授薛煥通商大臣。四月,鴻章遣參將李恆嵩、常勝軍統將華爾會英法兵攻靑浦、嘉定,連營二百餘,勢張甚。李秀成親援嘉定,師至如風雨,西兵皆斂手不敢出戰。秀成將精銳衝入,兵不支,悉潰,連失四十餘營,秀成乘勝偪靑浦、松江,連破七十餘營,困松江兩月。適金陵危急,秀成入援嘉定、靑浦皆復,並復奉賢,而法提督卜羅德與敵爭南橋鎮時中槍殞,鴻章親督軍攻太倉,秀成遣上將蔡元隆馳救。元隆詐乞降揭白旗,前導近鴻章軍,突擊之,鴻章大敗走,大將知府李慶琛戰殁,兵士死者五千餘。元隆進攻靑浦、嘉定,英法兵怵其勢,突圍遁,嘉定復失。元隆進兵松江,分兵逼靑浦,華爾棄靑浦,走松江,元隆攻新橋涇,圍學啟數十重。鴻章自提兵救之,元隆師𨚫。六月,總兵黃翼升率淮揚水師十營自上游至。七月,復靑浦,而敵兵復偪法華鎮,尋敗走。常勝軍分兵攻浙江慈谿,華爾陣殁,以美人白文齊領其軍,美兵頭那師亦陣亡。英提督何伯合鴻章師克嘉定、上海,解嚴未幾,白文齊通欵秀成,謀據松江爲內應,事覺,走投於秀成署參謀,鴻章改以英人戈登領常勝軍。戈登於咸豐間聨軍入都焚圓明園,亦與其事者。旣而白文齊潛入蘇州,爲秀成購買軍械火輪船,並薦英國海軍官林利於秀成,爲組織忠義軍以對抗常勝軍。至是,秀成攻常熟,鴻章遣劉銘傳等攻福山,程學啟等攻太倉、崑山以分其勢,皆拔之,常熟圍解。 夏四月,太平翼王石達開兵困於老鴉,旋死之。初,達開自寧國入覲,秀全解其兵柄,令留輔,而政事一出秀全諸兄安王仁發、福王仁達,達開鬱鬱閒居,其參謀張遂謀諷之入川,成鼎足之業,達開因疏求去,從之者數十萬人,自是出入六七省,攻拔百餘城。自元年十月爲援川湘軍將胡中和等敗之於叙州,遂入雲南東川,是年二月復入川,其將賴裕新敗死於寧遠,達開率大隊渡金沙江,假道邊地土司,川督駱秉章賂松林地土千户王應元、邛部土司嶺氶恩誘達開入小徑,而以土兵抄其後,截越巂大路,使不得退。達開至紫打地,造筏渡大渡河,渡者已萬餘人。會日暮,悤令撤回南岸,曰“師渡不及半,恐敵軍猝至,乃危道也,不如俟明日畢渡。”至夜,大雨,河水暴漲不及渡。越二日,水勢平而川中防江將唐友耕已至,列營河對岸,其地左阻松林河,右阻老鴉漩河,而土司復自後偃,古木塞路,達開路窮,奔老鴉漩。兵已二日不得食,達開慷慨語其下曰:“敵軍所欲得者我耳,吾一人赴敵,爾等可免死。”乃馳見秉章,長揖不拜,秉章曰:“降乎?甚善!”曰:“吾來乞死,兼爲士卒請命,九原當拜公賜。”秉章曰:“吾成汝志。”乃殺之,死年三十有三,秉章招撫其士卒將弁二百,銳卒數千無一降者。 秋九月,太平國將古隆賢以石埭、太平、旌德三縣來降。隆賢聞堵王黃文金攻靑陽,兵敗,遂來降。 冬十月,李鴻章等復蘇州。淮軍得常勝軍之力,迭復吳江、江陰各縣,並克太湖各卡,乃逼蘇城而軍。時太平慕王譚紹光守蘇州,兵薄糧缺,李秀成馳往援之,與鴻章大戰於婁門,勝敗相等,互攻月餘,納王郜永寬、比王伍貴文、康王汪安均、寧王周文佳、將軍范起發、張大洲、汪環武、汪有爲等因副將鄭國魁通欵於程學啟,學啟與常勝軍統領英人戈登輕舸造城北之洋澄湖,與永寬等訂約,永寬與有爲遂於是月二十四日刺殺紹光,開齊門降。秀成退屯無錫、常州,連營丹陽,以遏鴻章軍。學啟初許永寬等以總兵副將等職,後求如約。學啟與鴻章密謀設饗誘殺八人及其將弁千餘,國魁聞之涕泣,不食臥三日,戈登亦詈學啟,且欲殺鴻章,攜短銃覓之,鴻章避不敢歸營,戈登揚言挾其軍變,覓永寬首持之哭,並索得其飬子送崑山。鴻章爲永寬等設醮,親詣祭弔,泣數行下,戈登怒乃解,惟宣誓不復見學啟。 三年春正月,劉蓉復漢中。陳得才在漢中,因金陵圍急,率師入援,陜西廵撫劉蓉遣兵要擊,敗之,收復漢中府城。 程學啟復嘉興,學啟肉薄登城,中彈傷腦,舁歸,其部將劉玉奇督軍奮攻,潘鼎新、劉秉璋亦水陸交進,遂拔嘉興府城。學啟爲陳玉成飬子,玉成使與大將葉芸臺守安慶,芸臺倚之如左右手,以甥女高氏妻之。及曾國荃圍安慶急,芸臺畀學啟重兵,使駐城外爲犄角,學啟背芸臺率衆來降,自國藩遣從李鴻章,所向有功。郜永寬等將降,學啟與誓曰:“若食言,他日死於礮!”後竞殺永寬等,至是卒以中礮創重卒。嘉郡旣復,杭城大震,敵將陳炳文乘夜自北門脱出,左宗棠入城。初,蔣益灃軍得統花䋴頭軍法人托格比(一作德克碑)之助,攻復富陽,遂進偪杭州,尋復德淸,降石門,全浙郡縣以次下。而鴻章亦以英法兵之力,復常州,蘇、常敵軍悉由徽州入江西,蘇省自金陵外悉已收復。 夏六月,曾國荃復金陵。先是,國荃合湘軍水陸師合圍金陵二稔,自二年五月,彭玉麟、楊岳斌以水師攻破金陵對岸九洑洲重鎮後,敵糧援遂絕,國荃始得一力進攻,遂於是年正月拔鍾山之石壘(名天保城),圍師乃合。方國荃之連營七甕橋也,李秀成屢勸洪秀全親征鄂、贛,握上游以號令天下,襟帶蘇、浙,以利餉源,秀全不聽。秀成讀奉太子監軍,萬一京師不幸,奉幼主以圖恢復,如唐肅宗靈武之故事,亦不省。至四月,城中糧絕,食草根樹皮,而軍殊死守。秀成語餓民曰:“曾國荃設局城外,招撫難民,爾曹盍往就食。”衆曰:“王捐軀以衛社稷,吾儕從王死耳。”日自殺恆數百人,秀成傷之,欲放民出城,秀全不可。秀成卒放之,秀全知事不可爲,憂憤疾篤,足暴腫。病革,遺命秀成輔國,遂卒,年六十有五,時月之二十七日也。太子福瑱卽位,年十有六,秀成日綜政務,夜則廵軍,憔悴骨立,而知人善任,恩威並行,人心服之,若子於父。及五月朔,隧道藥發,城崩,國荃兵不敢撲。時陳得才自漢中提師百萬赴援,已至英、霍,國荃力攻龍膊子山陰堅壘(名地保城),至晦日,克之,偵知城中藥盡於太平門外,積蒿秫填濠,直達城下,掘地道。秀成夜出死士三十,分道自太平、朝陽兩門缺口突出,衝國荃營。時湘軍積勞疲憊,戰力殆盡,遇警幾鳥獸散,值李臣典、彭毓橘諸將率新兵馳救,僅乃獲免,而秀全寵臣沈桂、松王陳得風、尙書朱兆英陰通欵國荃。是月十六日正午,地道大發,城遂陷,掘秀全屍,斬其首,焚化之。章王林紹璋、顧王吳汝孝皆自殺,妃嬪投御河以百十計,將弁三千餘皆戰殁,軍民十餘萬爭蹈河死,屍填溢如橋,城郭宫室連燒三日不絕,后賴氏攜幼主福瑱付秀成,返身入河死。秀成倉猝挾福瑱出,至家,別世母。麾去之,方投繯,秀成弟揚王名成至,見之,斷繯下,大呼曰:“兄護幼主,弟謢老母,以聼天命!”相將登城,衝大北門缺口,出行三百餘里,遇勁兵,部衆皆擊散,秀成乃以所愛駿馬與福瑱使名成奉之並其母馳去,自率九騎登方山。至暮,下山渡河,村民坌集殺,已渡六騎,見秀成皆跪,而自投曰:“此忠王也,愛百姓,厚吾儕,當謢之!”至湖州大營,會他村民麇至,挾秀成送國荃軍,國荃盛陳儀衛訊之。秀成背立言曰:“何必爾?速以紙筆來,吾當書之吾史館,實錄爾輩焚燬盡。吾不述,奚以傳信!”自是月十七日至二十七,日凡十日間,左站籠中,慷慨吮筆,記述數萬言,事畢被殺,年四十。後村民夜刦蕭孚泗親兵,王三清去殺而投諸水中,三清卽手斬秀成者。秀成廣西籐縣人,與陳玉成同里,篤實忠厚,尙信義,富謀略,恩撫士卒,皆樂爲之死。自五王死後,賴秀成支拄危局,縱横盪決於長江數省,亘六七年。秀全倚爲柱石,廷爭直諫有大臣風,去蘇州日男女老幼流涕送之。解至國藩營中,松王等見之皆長跪請安。國藩恐民心未去,黨羽之爲變,卽決計除之,不欲解京,以免意外生變,及死,人爭痛惜之。金陵捷聞,詔封國藩侯,國荃、李鴻章伯,李臣典子,蕭孚泗男,餘各獎叙有差。 秋七月,太平國將李士貴被執於杭州,死之。太平揚王李名成奉其幼主福瑱至廣德,後聞黃文金圍湖州,乃與干王洪仁玕同詣其軍,勸文金亟與汪海洋合奉幼主爲號,直擣長沙,連漢中陳得才及張宗禹之兵,百萬之衆可集,乃疾趨關中,取咸陽,中興可卜,徒久困湖州敵軍一集事不可爲矣。文金不從,曰:“敵已絕食,旦夕可破,必滅之。”及城破,湘軍黃少春兵至,城復失,文金中礮死。士貴爲忠王李秀成次子,護福瑱走徽州,遇席寳田軍,大敗,福瑱擁衆馳去,士貴孑身走杭州,爲左宗棠礮舟所得,宗棠殺之。士貴驍勇富膽略,年十六,時統兵萬餘,戰輒勝,軍中稱“神童”,行軍常自斷後。六合之役,李兆受圍之數十重,欲生致之,卒突陣去,無敢近者,兆受歎曰:“虎父無犬子!惜哉!吾不得而將之也。”死年十九。 八月,太平國幼主洪福瑱被執於江西,死之,太平國亡。福瑱至石城,兵僅二千,席寶田追及,大破之,福瑱走匿山中。旋混入難民中行,遇其諸父卹王仁政,牧馬者識之,引見營官蘇元春,元春欲釋之。寳田聞,使部將周家良持令往取,元春拒之。寳田自馳至,元春與之,或語“寶田公勿自爲功,恐禍不遠矣。國藩奏洪氏無遺類,今忽獲福瑱,國藩能相容乎?”寳田默然,卒送廵撫沈葆楨殺之。事聞,詔賞葆楨輕車都尉,寶田雲騎尉,並賞鮑超子爵。福瑱旣獲,陳得才敗死,湖北李世賢、汪海洋敗死,廣東自道光三十年秋八月洪秀全起兵金田,至是凡十五年始亡。
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