清史紀事本末捻軍の興りと滅び(捻事之起滅)
要約
咸豊三年冬十月、安徽の潁州・亳州の捻子が事を起こした。捻とは捏で、儺に紙をひねって火をともす龍の戯を拝捻といい、隊をなして掠奪する徒を捻子と呼んだ。山東・河南・安徽・江南・湖北に蔓延し、康熙に起こって嘉慶の半ばに党は増えた。嘉慶十九年、陶澍が頭目の捕縛を奏したが果たせなかった。咸豊元年、河南の地方長官が捻の掠奪を詰問され、二年、蘭山の盗賊が把総を殺して海州を掠め、捻は鹿邑・寧陵を侵した。この秋、索恩・陸応穀・袁甲三が討って効なく、鄧天俊が宿州・蒙城に起こって雉河集に拠った。
五年八月、張楽行がまた雉河集に拠った。呂賢基が安徽の団練を治め、袁甲三が雉河集を攻めて斬獲したが、残党は帰徳・信陽へ移り夏邑・沈丘を囲み、督師は周天爵から袁甲三・武隆額・英桂へ移った。捻は五旗に分かれて徐州・曹州・帰徳へ馳せ突き、六年九月、陳州に迫った。七年、捻は南陽に入り、霍丘・寿州から内郷まで掠め、商南で施作霖が力戦して死んだ。霍山から滁州まで東西二千里が蹂躙され、遊騎は直隷の大名府に及び京師は戒厳となった。
八年七月、勝保に安徽の軍務を、袁甲三に三省の捻討伐を督弁させた。太平軍が捻と合して固始・六安を破ったが福済が回復し、瑛棨は苗沛霖を招撫し、李昭寿は滁州を献じて投誠し勝保を清流関に迎えた。九年、勝保は袁甲三が好機を失したと弾劾し、捻は北舞で邱聯恩を戦死させたが、甲三は臨淮関を回復した。十年、張楽行・龔得樹が清江浦を陥れて呉葆晉らを殺し、勝保は罷免され毛昶熙が河南の団練を治めた。九月、捻が済寧に入り山東は乱れ、僧格林沁は捻の騎歩は数万だとして二軍を合わせ老巣を攻めるを請うた。十一月、鉅野へ進んだが大雪で大敗し、諸州県に長囲を築かせた。
十一年、兵はまた菏沢で敗れ軽進を責められた。九月、勝保に招降されて川北道に任じた団練の苗沛霖が寿州を陥れた。寿州の練局が使いを斬ると怒り、翁同書は媚びて郷紳三人を殺したが城中は死守し、朱佩芬らが門を開いて引き入れた。苗沛霖は陳玉成と通じて平北王に封ぜられたが、翁同書はなお叛いていないと保証した。この間、伊興額と滕家勝が戦死し、捻は青州を囲み、清河や登州・莱州の諸県も失われた。僧格林沁は驕って軍をなおざりにすると袁甲三に疏されたが、沂州・邳州の功で親王に進み、亳州北の諸荘・圩を破った。
同治元年七月、僧格林沁に山東・河南の軍防を統轄させ、直隷・山西を加えた四省の督撫・提督・総兵も節制に帰した。捻は宜陽を陥れて謝仁漙を、陳得才と合して渭南を陥れ曹士錫を殺し、華州も陥れた。十二月、多隆阿に陝西の軍務を督弁させ、荊紫関で捻を破ったが、捻は随州・応山を陥れた。袁甲三は病で罷めて李続宜が代わり、李続宜が母の喪にあって臨淮の督師は廃された。勝保は驕り欺いた罪で逮捕され、降った捻の張錫珠が叛いて秦聚奎が戦死し、宋景詩も八百人で内地二千里を行き、譚廷襄らは軍台へ流された。
二年正月、僧格林沁が尹家溝で張楽行を破り、国瑞が雉河集を攻め落とした。楽行は苗沛霖に捕らえ献ぜられて殺されたが、勝報では英翰の功という。甥の張総愚は衆を率いて任柱・頼文光と合した。七月、勝保に自尽を賜った。勝保は久しく功なく声色を好み、定遠の民胡文忠は訴えを御史林之望に阻まれて縊死し、徳興阿は妓女同伴と陳玉成の妻を妾にしたと弾劾した。李昭寿らが恩を乞うと脅して獄は決せず、二逆がまた叛くに及び、帝は癰を養って禍いを残したとして帛を賜った。六月、苗沛霖がまた寿州を陥れた。勝保が湘軍の功を妬んで苗沛霖を養うと、苗は陳玉成を誘い献じ、僧格林沁を離間して湘軍を撤退させた。削籍が回復されぬのを怨んで渦水を断ち、懐遠を襲い鳳台を陥れ蒙城を囲み、下蔡も献ぜられ毛維翼は死んだ。十月、陳国瑞が外濠を攻めると、親兵三千は英王を誘い殺した仇だと謀り、うち二人が夜営を巡る苗沛霖を刺し、王万清は自分の功と偽った。党は瓦解し、唐訓方は雉河集に渦陽県を置くよう奏したが弾劾されて官を降された。
三年九月、陳得才が捻とともに湖北・河南の境を荒らし、舒保が徳安の西で戦死して、僧格林沁の兵は麻城で潰え鄧州へ退いた。その左右は面会に百金・四百金を取り、民の訴えも取り合わなかった。六月、金陵が回復されて太平軍の残衆は捻に合し、黄安・麻城を攻めて石清吉が陣没した。捻は憂うるに足らぬとして湘軍・淮軍の出動を止めさせたが、常星阿が敗れると狼狽して走った。十月、陳得才は金陵の陥落を聞いて自尽し、僧格林沁は軽騎で追って恒齢らを失い、日夜二、三百里を駆けた。四年、捻の歩兵は足が腫れ裂けて招撫を願い、張総愚・頼文光の使者が至ったが、半ばで斬らせて決裂した。四月、曹州の南で敗れて荒荘に閉じこめられ、夜に囲みを突くと部下が矛先を返し、伏兵に乗ぜられて全軍は壊滅し、僧格林沁は戦死した。陳国瑞は身一つで免れ、麦畝に八か所の傷の屍を見つけた。京師は戒厳となり、曾国藩に直隷・山東・河南の軍務を扱わせ、李鴻章を両江総督署理とした。六月、張総愚らが旧巣の渦陽で英翰の営を囲んだが、劉銘伝・周盛波が渦河西岸で大破した。曾国藩は、賊が流れて兵も流れれば兵力は尽きるとして四省十三府州に四鎮を置き、臨淮に劉松山、済寧に潘鼎新、周家口に劉銘伝、徐州に張樹声を駐め、一省に急あれば三省が援けた。
五年十一月、曾国藩を両江総督の本任に還し、李鴻章に捻討伐を専任させた。曾国藩は黄河・運河の要害を守って敵を一隅に追い詰め、捻の勢いは衰えたが、徐州に居るのをそしる議論が満ち、病を理由に願い出た。六年正月、左宗棠を転じて西捻を討たせた。東捻は任柱・頼文光が山東・河南を、西捻は張総愚が陝西の中央を荒らしていた。この月、鮑超が尹隆河で東捻を大破した。挟撃の期を劉銘伝が首功を望んで破り、先に進んで大敗し死を待ったが、霆軍が至って敵は潰え、鮑超は劉銘伝と将士二千人を救った。劉銘伝はかえって期日に遅れたと咎め、李鴻章も味方したので、鮑超は憤って兵を解き、三十営も解散させられた。二月、劉松山は西安に馳せて同州・朝邑の囲みを解き、西捻を大破した。五月、東捻が戴廟から運河を突き過ぎ、周毓楠を殺し堤を踏み壊した。七月、東捻が濰河を渡って膠莱の防備が潰えた。李鴻章は山東の軍一万六千で守らせようとしたが丁宝楨は七千しか与えず、王心安の処分で非難し合い、のち王心安は運河中段を守り固めた。十月、劉銘伝は潘貴升を買収して任柱を狙い撃たせ、死後、衆は頼文光を推した。十一月、東捻が黄河をうかがって運河防備の軍が抽かれ、張総愚は壺口から渡河して吉州を侵した。十二月、頼文光は南へ走り、事の成らぬのを知って揚州の呉毓蘭に檄を下し、夜その営に身を投じて東捻は平定された。
七年正月、張総愚が山西から黄河を渡って畿輔に迫り、京師は戒厳となった。李鴻章は諸将の休養を乞うたが、西捻は絳州から済源・新郷を経て定州に至った。劉銘伝を河北へ赴かせよとの督促も引き延ばし、丁宝楨が先に河間に至ったので、詔は李鴻章らの官を奪ってこれを褒めた。奕訢に巡防と諸軍の節制を、左宗棠に前線の戦事を総べさせた。二月、諸軍の掠奪に市民が討ち殺しで応じ死者は数えきれず、李鴻章は捻を太行山と黄河の間へ追い込む議を立てた。三月、捻は封丘で陝西の軍を、滑県で淮軍を破って提督周盈瑞・周振邦が戦死し、恭親王は一か月を限って平らげよと申し渡した。閏四月、都興阿を天津へ赴かせて会同して討たせた。六月、李鴻章は運河の北と馬頰河の西北に牆を築いて内外の囲いとし、捻を西南へ追い詰めて海豊・隆福寺で破り、曾国藩の水師も高家渡で破った。捻は茌平の広平鎮へ走ったが大雨で徒駭河が増水して渡れず、数千を斬り、張総愚は水に入って死んで西捻は平定された。劉銘伝は濰水に兵を擁して動かなかったが、曾国藩の書を得て進み、一等男に封ぜられた。左宗棠は、劉松山は陝西を保ち山西を救い畿輔を衛り、歩兵で騎兵に当たって先んじた、掃討もその力だと奏したが、淮軍に首功を独り占めさせていた朝廷はかえりみず、人はみなその論が公平だと言った。
年表
安徽の潁州・亳州に起こった捻子の乱が、咸豊三年(1853年)から同治七年(1868年)までの十六年にわたって山東・河南・安徽・江南・湖北を荒らし、ついに鎮圧されるまでを述べる。鄧天俊・張楽行・任柱・張総愚らが五旗に分かれて流動し、太平天国の陳玉成・陳得才・頼文光と結んで勢いを張った。討伐に当たった袁甲三・勝保・僧格林沁は功を挙げられず、勝保は自尽を賜り、僧格林沁は曹州の南で伏兵にかかって戦死した。代わって曾国藩が四鎮駐屯と黄河・運河の防備という策を立て、李鴻章がこれを継いで東捻の頼文光を揚州で、西捻の張総愚を茌平で滅ぼした。団練から叛いた苗沛霖の反復と誅殺、鮑超と劉銘伝の尹隆河の功争いなど、官軍内部の軋轢も併せ記す。
年表(15件)
- 西暦1853年 文宗咸豊三年安徽潁州・亳州の捻子が事を起こし雉河集に拠る
- 西暦1855年 咸豊五年張楽行が再び雉河集に拠り、捻は五旗に分かれて流動する
- 西暦1856年 咸豊六年英桂が督師となり、袁甲三が雉河集を攻める
- 西暦1857年 咸豊七年捻が南陽に入り知県施作霖が戦死、京師が戒厳となる
- 西暦1858年 咸豊八年勝保が安徽の軍務を督弁し、苗沛霖・李昭寿が投誠する
- 西暦1859年 咸豊九年勝保が母の喪で帰り、袁甲三が臨淮関を回復する
- 西暦1860年 咸豊十年張楽行らが清江浦を陥れ、僧格林沁が鉅野で敗績する
- 西暦1861年 咸豊十一年苗沛霖が叛いて寿州を陥れ、僧格林沁は親王に進む
- 西暦1862年 穆宗同治元年僧格林沁が四省の軍を統轄し、勝保は逮捕される
- 西暦1863年 同治二年張楽行が捕らえられて殺され、勝保に自尽が賜わる
- 西暦1864年 同治三年僧格林沁の兵が麻城で潰え、光山・鄧州へ退く
- 西暦1865年 同治四年僧格林沁が曹州の南で伏兵にかかって死ぬ
- 西暦1866年 同治五年曾国藩が退き、李鴻章が捻討伐を専任する
- 西暦1867年 同治六年任柱が刺殺され、頼文光が降って東捻が平定される
- 西暦1868年 同治七年張総愚が茌平で水に入って死に、西捻が平定される
現代語訳全文
西暦1853年 文宗咸豊三年
- 冬十月、安徽の潁州・亳州(底本は「穎毫」に作る)の捻子(底本は「捻予」に作る。「捻子」の誤りか)が事を起こし、雉河集に拠った。
- 捻とは捏(ひねる)である。郷里の人々が儺(追儺の行事)を行って疫病を追い払うとき、紙をひねって脂に火をともし、龍の戯をなす。これを拝捻という。不逞の徒が集まり、ひねり合わせて隊をなし、公然と仇殺・焼き討ち・略奪をほしいままにし、そこで捻子と呼ばれるようになった(底本は「欲呼爲捻子」に作る。「遂」の誤りか)。
- はじめ山東の兗州・沂州・曹州・済寧から起こり、河南の南陽・汝寧・光州、安徽の潁州・亳州・寿州(底本は「穎毫壽」に作る)、江南の淮安・徐州・海州、湖北の襄陽・棗陽・鍾祥・随州へと蔓延した。
- おおむね康熙のころに起こり、嘉慶の半ばに至って、その党はいよいよ人数を増した。
- 嘉慶十九年十月、御史(底本は「御使」に作る)の陶澍が、河南巡撫の方受疇・安徽巡撫の胡克家に命じ、頭目の王妮子・李東山・馬大振らを名指しで捕らえさせるよう奏上した(底本は「秦飭」に作る。「奏飭」の誤りか)が、ついに捕縛できなかった。
- 咸豊元年、太平軍が起こり、朝廷はとりわけ盗賊の取り締まりを重んじた。夏邑・南陽が捻の掠奪を訴え、詔を下して河南の地方長官を詰問し、あわせて両江・湖広の総督・巡撫にも協力して捕らえるよう命じた。寿州の盗賊のことも上聞に達した。
- 咸豊二年、山東の蘭山の盗賊が把総に抵抗してこれを殺し、海州を掠奪した。安徽の捻は鹿邑・寧陵を侵し、豊県・沛県、曹県・単県の間(底本は「聞」に作る。「間」の誤りか)も騒然となった。
- この年の秋、山東巡撫の索恩(底本は「束撫」に作る。「東撫」の誤りか)、河南巡撫の陸応穀、安徽の団練を協理する給事中の袁甲三(底本は「袁三甲」に作る)が、それぞれ兵を率いて討伐にあたったが、いずれも効果がなかった。安徽・江南の省城が陥落するに及んで、安徽の中部は大いに震撼した。
- 捻の首領の鄧天俊は、その勢いに乗じて宿州・蒙城、亳州・寿州の一帯に起こり、安徽・山東・河南の間を横行した。行く先々で焼き討ちと掠奪をはたらき、軍を督する者もこれを制することができなかった。奮い立って討伐に進む者があっても、そのつど敗れた(底本は「敗卹」に作る。「敗衄」の誤りか)ので、その勢いはますます猖獗をきわめた。ここに至って雉河集(底本は「雉可集」に作る)を襲い、これに拠った。
西暦1855年 咸豊五年
- 秋八月、捻の首領の張楽行がふたたび雉河集に拠った。
- これより先、捻の事が起こったとき、提督の善禄に命じて永城に駐屯させ、巡撫の周天爵に徐州・宿州に駐在させ、侍郎の呂賢基を出して安徽の団練を治めさせた。賢基は袁甲三を遣わして軍を督して討伐に進ませ、まっすぐ雉河集を攻め、かなりの斬獲があった。残党は桐城へ走り、開封・帰徳、汝寧・信陽へと移って、勢いはふたたび熾んになった。
- 正陽を攻め、永城を掠め、桐柏を破り、夏邑・沈丘を囲んだ。河南巡撫の陸応穀は汝寧から省城へ退いてこれを守った。周天爵が死に、袁甲三がこれに代わり、潁州・亳州(底本は「顧亳」に作る)で軍を治めた。
- 詔して陝甘総督の舒興阿に軍を率いて陳州に駐屯させ、のちに安徽北部へ移し、河南按察使の牛鑑をこれに代え、河南巡撫の英桂の統率下に置いた。
- この年の春に至り、袁甲三は事に坐して罪を得て去り、提督の武隆額が兵を率いて亳州に駐屯し、江蘇・河南・安徽三省の戦守の事をすべて取りしきった。ところが張楽行がふたたび蒙城・亳州で起こり、帰徳を侵した。英桂を武隆額の軍の統率に代えた。これより捻は五旗に分かれ、おおむね徐州・宿州・曹州・帰徳へ馳せ突いた。防衛の軍が並び屯したが、これを防ぎとめることができなかった。
西暦1856年 咸豊六年
- 秋九月、捻の衆が西へ走り、陳州に迫った。
- 英桂が督師を命ぜられたのち、江南の軍将を増し調え、総兵の鄭魁士に宿州を援けさせ、なお袁甲三に亳州の軍を督させた。
- この年の八月、袁甲三は永城から軍を進めて雉河集を攻めた。張楽行は潁州へおもむき、ふたたび東へ走って徐州へ向かい、いずれも大いに掠奪して還った。
西暦1857年 咸豊七年
- 冬十月、捻の衆が南陽に入り、知県の施作霖がこれに殉じた。
- 捻は河南へ走って固始を囲んだ。署河北鎮総兵の勝保に命じて討伐を助けさせたが、邳州・郯城の盗賊がまた起こった。亳州の捻は袁甲三と対峙し、南は霍丘・寿州にまで延び、西北は舞陽・葉県・内郷を掠めた。捻はまた宜陽・嵩県を侵し、英桂は禹州・密県へおもむいた。河南は烽火が相望むありさまとなり、太平軍もまた捻と合して分かれて廬州・巣県を騒がせた。
- 勝保と袁甲三は正陽で軍を会わせて議論を交わし、勝保を北の潁州に屯させて帰徳を遮らせ、陝西の軍には武関を防がせることとした。ところが捻は商南に入り、施作霖が勇・練を督いて迎え撃ち、力戦して死んだ。ここにおいて霍山から和州・滁州まで、東西およそ二千里が捻に蹂躙され、その遊騎はついに直隷の大名府などの地にまで及び、京師は戒厳となった。
西暦1858年 咸豊八年
- 秋七月、都統の勝保に安徽の軍務を督弁するよう命じ、巡撫の翁同書をこれに副えた。太僕卿の袁甲三には三省の捻討伐の事宜を督弁させた。
- この年の春のあいだ、太平軍が捻と合して固始・六安を破り、党を分けて出て掠奪し、出たかと思えば入り、軍はその応対に疲れた。
- 夏五月、安徽巡撫の福済が臨淮の捻の衆を撃退し、河南の軍と協同して六安を回復した。捻はみな東へおもむき、南は全椒・来安・滁州を攻め、北は徐州・宿州に及んだ。英桂は病んで還り、瑛棨が代わって河南巡撫となった。臨淮を援け、苗沛霖を招撫した。
- 袁甲三は進んで宿州に駐屯し、李昭寿もまた滁州を献じて投誠し、勝保を清流関に迎えた。淮南・淮北の事は戒厳を解かれた。
- ここに至って勝保に命じて廬州で軍を整えさせたが、捻は山東に入って単県を囲み、金郷を攻め、商水の北の周家口を大いに掠め、その勢いはいよいよ張った。
西暦1859年 咸豊九年
- 冬十月、漕運総督の袁甲三に安徽省の軍務を督弁するよう命じた。
- この年の正月、勝保は袁甲三が慎重にすぎて好機を失したと弾劾する上奏をした。詔して総兵の傅振邦(底本は「傳振邦」に作る)をこれに代え、都統の伊興額を副とし、勝保の統率下に置いた。
- 二月、捻は西華から舞陽へおもむき、北舞で防衛の軍を破り、総兵の邱聯恩が戦死した。伊興額は全軍をあげて西へ援けに向かったが、傅振邦らが仲たがいをしたと弾劾したため罷免された。協領の関保に河南の軍を督させ、副都統の徳楞額に天津の海防軍を率いて曹州に駐屯させた。勝保自身は盱眙(底本は「旴𣅿」に作る。「盱眙」の誤りか)へ防を移した。捻が定遠を攻め、安徽巡撫の翁同書は退いて寿州へ走った。ここに至って勝保は母の喪により帰り、ふたたび袁甲三にこれを代えるよう命じた。
- 十一月、袁甲三が臨淮関を回復した。捻はすでに帰徳を出て、蘭儀から黄河を渡り定陶・東明を侵し、そのまま潁州へ還った。ここにおいて(底本は「淤是」に作る。「於是」の誤りか)諸将帥はみな捻が巣へ帰ったことを幸いとし、章を騰せて勝利を告げた。袁甲三は軍に至り、臨淮を攻め落とした。
西暦1860年 咸豊十年
- 春正月、勝保に河南の捻討伐の事宜を督弁するよう命じた。
- 勝保は安徽中部で軍を督して久しく功が無かった。都統として河南の軍を督するよう命じ、関保をこれに副えた。提督の傅振邦には徐州・宿州の軍を督させ、総兵の田在田をこれに副えた。
- そのとき袁甲三はすでに(底本は「己」に作る。「已」の誤りか)鳳陽の府城・県城の二城を回復していたが、捻の首領の張楽行・龔得樹が清江浦を襲って陥れ、淮海道の呉葆晉・副将の舒祥らを殺した。漕運総督の聯英・河道総督の庚長は、ちょうど酒宴を設けて伎楽を奏でさせていたところで、あわてて淮安へ走ってこれを守った。清江は黄河と漕運の集まり合う所で、家屋も器物も次々に華美を極めており、捻の首領たちが久しく垂涎していた。ここに至って衆を率いて呉家墩から突如として至り、ついに清江を陥れ、またもとへ走り還った。
- 河南の捻は鞏県・洛陽へおもむき、山西・陝西が大いに震撼した。詔して勝保を罷免し、府丞の毛昶熙(底本は「毛昶齡」に作る)を河南へ還して団練を治めさせ、南汝光道の鄭元善をこれに副えた。
- 秋九月、捻が済寧に入り、科爾沁郡王の僧格林沁に命じて軍を督して討伐に行かせた。
- そのとき帝は熱河へ出奔しており、捻はその機に乗じて済寧に侵入し、菏沢(底本は「荷澤」に作る)のあたりを縦横に荒らし、山東は大いに乱れた。徳楞額の軍は嶧県で敗れた。
- 僧格林沁は軍に至って奏上して言った。「捻の衆は数が多く、出て掠奪するときは手薄なところをうかがい、官兵を避け、焼き討ちと掠奪によって良民を脅して虜にするので、その党衆は日ごとに増え、騎兵・歩兵は数万、隊を列ねること百里に及びます。兵は少なく捻は多く、多寡の差は懸け離れています。もしその巣を攻めようとすれば、一、二百里も離れた所は井戸は埋められ地は赤裸で、糧を包み水を携えても長くは持ちこたえられず、退けば追い迫られて、しばしば不利をこうむります。この十年来、軍を進めて戦いを交えることのできた者はおりません。臣の軍は一万二千人。傅振邦・徳楞額の二軍を合わせて、まっすぐ老巣を攻めることをお願いします」。詔して、後詰めの無いことを戒めとするよう示した。
- 冬十一月、僧格林沁が鉅野で敗績した。
- 僧格林沁は鉅野へ進攻して菏沢を援けようとしたが、おりから大雪となり、捻が逆にその機に乗じたため、ついに大敗して還った。関保は昏庸のかどで罷免され、河南の軍事は毛昶熙が専らにあたった。徐州の民や士人が伊興額の起用を願い出て、上申の章が三度に及んで、はじめてその願いが容れられた。僧格林沁は諸州県にそれぞれ長い囲いを築かせて、捻の騎兵・歩兵を防がせた。傅振邦は病により免ぜられ、田在田がこれに代わった。
西暦1861年 咸豊十一年
- 春正月、僧格林沁の兵が菏沢で敗れた。
- 僧格林沁は軍を遣わして菏沢を援けたが、また敗れて還り、詔して勇み進んで軽々しく前進したことを責められた。副都統の穆騰阿は病により免ぜられ、総兵の成明がこれに代わった。
- 秋九月、団練から叛いた苗沛霖が寿州を陥れた。
- 苗沛霖(底本は「沛霈」に作る)はもと鳳台の諸生で、団練の長となり、はじめ叛いたが、勝保が招いて降らせ、川北道に任じた。それでもなお両端を持し、官を受けながら冠服を着けず、配下には自分を「先生」と呼ばせた。
- 咸豊十年八月、イギリスの艦が天津に至り、詔して勝保に勤王の師を統べさせ、苗の団練にまで徴発が及んだ。苗沛霖はふたたび叛く志を抱き、高い台を設けて衆を集めて号泣し、京師の危急のさまを言い立て、ひそかに配下に自分を推戴させようとしたが、衆は互いに顔を見合わせて黙りこみ、そのままやんだ。
- 十月、苗沛霖は使いを遣わして寿州の練総を徴し、下蔡に集めて旗を受けさせ、遅れた者は斬るとした。寿州の練局はその使いを斬った。苗沛霖は怒り、まず寿州を取ると誓った。
- この年の正月、寿州を攻めた。そのとき安徽巡撫の翁同書は定遠から逃れて来て城中にあり、苗沛霖を手なずけておこうとして、州の郷紳である徐立壮・孫家泰・蒙時中を殺して苗沛霖に媚びた。城中の人々は憤り、いっそう死守した。ここに至って、城を守る游撃の朱佩芬・都司の林雲錦・千総の吉玉成・外委の朱淮潮らが門を開いて苗沛霖を引き入れた。
- 苗沛霖はまたひそかに太平天国の英王の陳玉成と誼を通じ、陳玉成は上表して平北王に封じた。それでも翁同書はなお、苗沛霖は叛いたのではないと力をこめて保証したという。
- 冬十一月、僧格林沁が亳州の北の諸々の荘・圩を攻め破った。
- これより先、捻は曹州から鄆城へおもむき、汶水を渡って泰安の南北を掠め、伊興額と総兵の滕家勝がともに戦死した。僧格林沁は汶上に屯を移し、捻はついに青州を囲んだ。
- そのとき河南の捻は二十余県にわたって掠奪をほしいままにし、西は南陽から、南は汝寧から、東は淮を境とし、南は黄河を境とした(底本は「南界河」に作る。「北界河」の誤りか)。山東の捻は西は淅川(底本は「浙川」に作る)に及び、北は大名を侵し、滕県・嶧県の一帯は騒然となった。僧格林沁は兵を収めて鄒県を保ち、山東巡撫の譚廷襄は出て茌平(底本は「荏平」に作る)に屯した。捻は曲周を陥れ、威県を掠め、東のかた清河を陥れて知県の陳大烈を殺した。苗沛霖が寿州を陥れ、徐州・宿州の道は絶たれた。
- 僧格林沁は詹啓綸を遣わして軍を募り清江・淮安を防がせたが、捻は衆を分けて北へおもむいた。徳楞額は免ぜられた。袁甲三は上疏して、僧格林沁は驕り高ぶって軍をなおざりにしていると非難した。まもなく山東の登州・莱州の諸県がことごとく失われた。
- 僧格林沁は南下して沂州・邳州で功を奏し、爵を進めて親王となり、諸々の圩の団練および河を防ぐ大臣をことごとく罷めるよう奏請して、権限を総督・巡撫に委ね、道員の聯捷に代えて副都統の遮克登布に河を巡らせ、大順広道の王榕をこれに副えた。勝保は京師に屯して防ぎ、まもなく軍を移して潁州を援けるよう命ぜられた。
- 僧格林沁は単県に屯し、湘軍は潁州・亳州へ進攻すると言い広めた。ここにおいて捻の群れはすでに多くが太平軍の中に合し、襄陽・洛陽のあたりを遊弋して、もはや掠奪に従事しなくなった。僧格林沁はかくて亳州の北の諸々の荘・圩を連続して破った。
西暦1862年 穆宗同治元年
- 秋七月、僧格林沁に山東・河南の軍防を統轄するよう命じ、直隷・山西を加えた四省の総督・巡撫・提督・総兵および兵を率いる大員は、みなその節制に帰した。
- この年の春、潁州の囲みが解けた。夏、捻は宜陽を陥れて知県の謝仁漙を殺し、西は永寧を陥れ、別隊は内郷から高州(底本は「高州」に作る。「商州」の誤りか)に入り、鎮安・孝義を陥れ、固原提督の孔広順が藍田でこれを防いだ。捻は太平天国の扶王の陳得才と合し、渭南を陥れて知県の曹士錫を殺し、東は華州を陥れ、まっすぐ澠池へ走り、還って河南の軍を破った。
- そのとき廬州が攻略されて安徽の事は定まり、将軍の多隆阿は廬州の軍を率い、勝保は潁州の軍を率いて、ともに関中に入った。朝廷は僧格林沁に命じて山東・河南の全省の軍務を統轄させ、あわせて直隷・山西両省の防兵を調度させ、四省の総督・巡撫・提督・総兵および漕運総督・圩の団練の大臣は、みなその節制に帰した。
- 冬十二月、多隆阿に陝西の軍務を督弁するよう命じ、劉長佑を直隷総督に転じた。
- これより先、湖北が軍を出して河南の捻の屯を攻めるのを助け、多隆阿は兵を荊紫関へ進めて陳得才および捻の兵を破り、進んで商南の捻を討伐した。捻は反転して奔り、北は盧氏へ走り、南は棗陽へおもむき、随州・京山・応山を陥れ、湖北は大いに震撼して、ふたたび多隆阿の軍を還すよう奏請した。
- 袁甲三が病により罷め、李続宜がこれに代わった。李続宜は母の喪にあい、臨淮の督師はそのまま廃されて、以後は置かれなかった。
- 勝保は陝西の軍務を督弁するにあたって驕りほしいままにし欺きごまかしたかどで逮捕して取り調べることとなり、多隆阿にその軍を兼ね統べるよう命じた。おりしも降った捻の張錫珠が莘県・冠県でふたたび叛き、大漳(漳河か)を渡って大名を侵し、大順広道の秦聚奎が戦死した。堂邑の猛々しい捻である宋景詩もまた郃陽で叛き、黄河を渡って山西・直隷へ走り、張錫珠と合しようとして、八百人で内地をおよそ二千里も行き、通り過ぎる所で足を留めることがなかった。山東巡撫の譚廷襄と直隷総督の文煜は、いずれもこのために軍台へ流され、閻敬銘(底本は「閣敬銘」に作る)・劉長佑がこれに代わった。副都統の遮克敦布は新疆へ流され、成保がこれに代わった。
西暦1863年 同治二年
- 春正月、僧格林沁が雉河集を攻め落とし、苗沛霖が捻の首領の張楽行らを捕らえて献じた。
- 張楽行は捻の中の渠魁(底本は「渭魁」に作る)であったが、ここに至って僧格林沁が尹家溝でこれを破り、侍郎の国瑞がふたたび雉河集を攻め落とした。張楽行は姜台凌とともに宿州へ走ったが、苗沛霖に捕らえられて献じられ、そのまま殺された。ところが勝報の上奏では、張楽行は敗れて宿州へ逃げこみ、知州の英翰がこれを捕らえたのだと言っている。
- 張楽行が死ぬと、その甥の張総愚がその衆を率いて山東へ走り、捻の首領の任柱、太平天国の将の頼文光と合した。
- 秋七月、勝保に自尽を賜った。
- 勝保は咸豊八年七月から安徽中部で軍を督していたが、久しく功が無く、そのうえ驕りほしいままにして音楽と女色を好んだ。苗沛霖・張龍は投誠しては再び叛き、李昭寿は滁州・来安を荒らし、名のある城が続けて陥ちて、地方の荒廃はきわまったが、勝保はまったく意に介さなかった。
- 咸豊九年九月、定遠の庶民である胡文忠が京師へ走り、宮門を叩いてこの事を訴えようとしたが、御史の林之望が力をこめてこれを阻んだ。胡文忠は首を吊って死んだが、その懐に林之望を責める書を抱いており、その言葉はいっそう激しかった。林之望が上疏して報告したが、文宗はなおただちに勝保を罪することを許さず、命を改めて河南省の軍を督させた。
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同治元年十一月、徳興阿は勝保が妓女を連れて陝西へ赴いたこと、あわせて陳玉成の妻を納れて妾とし、張龍の妾を拝して義理の娘とし、しかもその女に四品の封典を請うたことを弾劾した。内外からもまた次々と章を上げてその貪汚と欺きを訴え、逮捕して取り調べるよう命が下った。ところが李昭寿は自分の官を返上してその罪をあがなうと奏し、苗沛霖・宋景詩もまた勝保に代わって恩を乞うと言い立てて朝廷を脅しつけたので、勝保は久しく獄につながれたまま決着がつけられなかった。ここに至って苗沛霖・宋景詩がすでにふたたび叛き、帝は、この二逆が軍糧を費やし軍を疲れさせているのは、すべて勝保が癰を養って禍いを残した(底本は「飬癱」に作る。「養癰」の誤りか)せいだとして、ついに帛を賜って死なせた。内外の人々はこれを快とした。
-
夏六月、苗沛霖がふたたび寿州を陥れた。
- はじめ咸豊十一年九月、苗沛霖が寿州を陥れたとき、詔してその布政使の銜と川北道の職を剥奪し、まさに軍に命じてこれを討たせようとした。袁甲三は湘軍の威を借りようとして李続宜を調発するよう奏上し、李続宜は将の成大吉らを遣わして潁州へ進ませ、多隆阿は廬州を破った。苗沛霖は恐れて、ふたたび勝保に撫めを求めた。勝保はもともと湘軍の功を妬み、そのうえ苗沛霖を養って兵権を固めようとしたので、上奏して湘軍を止めさせた。苗沛霖はそこで陳玉成を誘い出して捕らえ、勝保に献じ、潁上・寿州および正陽関を空けて湘軍に屯守を譲った。
- 勝保は陝西へ移ってからも、なお章を騰せて湘軍を非難し、苗沛霖のために僧格林沁の麾下に属させるよう請うた。僧格林沁は外藩の王子で驕り高ぶって貴く、耳目を左右の者に託し、また自分の忠勇を恃んで、湘軍を功を求める者だと見なしていた。苗沛霖がそこにつけこんで僧格林沁を離間すると、はたして僧格林沁は苗沛霖のために、湘軍を撤退させ、苗の団練の軍に一万金を犒うよう請うた。曾国藩は決裂を恐れ、和州・巣県・含山・舒城が手薄であることにかこつけて、寿州などの地の屯軍を撤し、退いて霍丘・舒城を守った。僧格林沁は恥じ入って気落ちし、あらためて上奏して弁明した。
- 苗沛霖はいよいよ自ら僧格林沁に結びつこうとして、宿州に伏兵を設けて張楽行を捕らえた。だが自分は続けて大功を立てたのに、以前の罪による削籍がなお回復されないので、不平を抱いて巡撫の唐訓方に会い、団練を解散して農に帰りたいと願い出ながら、ひそかに渦水を断ち切って臨淮・蒙城の糧道を絶った。唐訓方は湘軍を召集して防ぎ止める備えをした。僧格林沁はすでに山東へ移っていたが、なお変が起きるのを恐れると言って、手なずけておくよう指示を請うた。苗沛霖は、僧王は降伏した者を殺したのだから、力を尽くすには足らぬ、と言い触らし、ついにこの年の三月、懐遠を襲って拠り、寿州を攻め、潁上を掠め、鳳台を陥れ、蒙城を囲んだ。
- 四月、湘軍の将の蔣凝学(底本は「將學凝」に作る)と毛有銘が寿州を援けたが、まだ着かないうちに城中の糧はすでに尽き、下蔡の外委の邱維城が夜に城をあげて苗沛霖に献じ、知州の毛維翼は力戦して死んだ。事が聞こえると(底本は「事閒」に作る。「事聞」の誤りか)、僧格林沁と都興阿にそれぞれ兵をもって援けに赴くよう命じた。
- 冬十月、僧格林沁の軍が蒙城に至り、太平天国の英王の陳玉成の旧部が苗沛霖を斬って降った。
- 苗沛霖が蒙城を囲んだとき、南は湘軍の盛んなことを恐れ、北へ中原におもむいて捻の群れを呼び集めようとし、蒙城がその要衝を扼していたので、衆をあげてこれを攻めたのである。江北の督帥である都興阿は、将軍の富明阿・総兵の王万清を遣わし、揚州から兵を引いて援けに来させたが、みな塁を堅くして戦おうとしなかった。僧格林沁の前軍の将である陳国瑞の軍が至り、諸軍を合わせてその外濠を攻めた。
- 苗沛霖の親兵三千人が互いに謀って言った。「我らはもと英王の旧部である。苗の逆賊は我が王を誘い殺し、そのうえ威をもって我らを脅し、自分のために使っている。これは我らの仇だ。これを殺して仇を報い恥をすすがずにおられようか」。苗沛霖が夜に営を巡ったとき、親兵二人が背後からこれを刺し、その場で倒れた。走って詹啓綸に報せたが信じられず、王万清に報せた。王万清は行ってその首を刎ね、軍中に迎え献じたが、濠を巡っているところを斬り殺したのだと偽って功を上申し、上からの賞を望み、そのうえ二人の親兵を殺して口を封じた。こうして詹啓綸は僧王の上奏によって上からの賞を受け、王万清がこれに次ぎ、それぞれ騎都尉の世職と黄馬褂とを与えられた。
- 苗沛霖が死ぬとその党は瓦解した。富明阿はそのまま蒙城に入って下蔡を収め、陳国瑞の部将の宋慶は苗景開を脇に従えて寿州を収め、蔣凝学(底本は「凝舉」に作る)は潁上を収め、毛有銘は正陽を収めた。唐訓方は諸々の圩を巡って撫し、その兵器を収め、鳳台の治所を下蔡に移し、雉河集に新たに渦陽県を置くよう奏上して、まさに大いに治めるところがあろうとした。ところが僧格林沁と富明阿が前後してその措置は道理に外れていると弾劾したため、官を降されて去り、喬松林が代わって巡撫となった。淮のあたりは事が無くなり、湘軍を用いるところは無くなった。
西暦1864年 同治三年
- 秋九月、僧格林沁の兵が麻城で潰え、光山へ退き、さらに鄧州へ退いた。
- はじめ太平天国の扶王の陳得才が捻の衆(底本は「稔衆」に作る)とともに湖北・河南の境界を荒らし、湖広総督の官文が京山で軍を督して僧格林沁と会して討伐した。護軍統領の舒保が徳安の西の山谷のあいだで戦死した。舒保は湖北の名将であり、その死によって諸軍は気を奪われ、戦の事は僧格林沁の軍に頼ることとなった。
- ところがその左右の者はほしいままに振る舞い、面会を求める者はまず百金を納め、四百金にまで至り、率いる軍の多少によって差をつけた。民で軍の淫掠を訴える者があると、僧格林沁は眉をひそめて言った。「あの者たちは家を離れて来て久しいのだ。まあ民のほうを移してこれを避けさせるがよい」。湖北の民は大いに失望した。
- 六月、金陵が回復され、太平軍の残りの衆は捻に合した。この月、黄安・麻城を攻め、蘄水(底本は「蔪水」に作る。「蘄水」の誤りか)に至り、大将の石清吉が陣没し、成大吉は蘄の北で囲まれた。僧格林沁は麻城に軍し、官文は黄州へ出た。詔して両江総督の曾国藩に援けに行かせ、あわせて湘軍・淮軍の名将である劉連捷・劉銘伝の軍を徴した。
- 僧格林沁ははじめ転戦して追いかけ回すばかりで、いまだかつて太平軍と会戦したことがなく(底本は「木嘗」に作る。「未嘗」の誤りか)、捻は自分を恐れており憂うるに足らぬと言い、湘軍・淮軍を軽んじて、みな戦えぬと考えて、上奏してその出動を止めさせた。捻が広済を掠めて還るに及び、騎兵隊の将である常星阿がまた敗れ、僧格林沁は狼狽して光山へ走り、まもなく鄧州へ走った。僧格林沁の軍の名誉はたちまち損なわれた。
西暦1865年 同治四年
- 夏四月、僧格林沁が捻を山東に追い、曹州の南に至って伏兵にかかって死んだ。
- これより先、同治三年十月、僧格林沁は陳得才および捻の衆を湖北・河南のあいだに追い、陳得才は金陵が破られたと聞いて薬をあおって自尽した。僧格林沁はますます意気込んで軽騎を率いて追い回し、光州・黄州・汝寧・鄧州の交わるあたりに至り、しばしば敵の伏兵にかかって、その良将の恒齢・舒通額・蘇克金らを失った。いよいよ怒って、日夜二、三百里を駆けた。
- おりしも捻の歩兵隊は足がみな腫れ裂けて行軍できず、招撫に応じたいと願い、すでに陳国瑞を遣わして話がまとまりかけていた。捻の首領の張総愚・頼文光がそれぞれ使者を遣わして至ったが、話が半ばにも及ばぬうちに、急に命じてこれを斬らせ、そのままふたたび決裂した。
- この月、敵を追って曹州に至り、州の南で戦って敗れ、荒荘に入って守ったが、重囲の中に閉じこめられ、その部下の衆には怨んで叛く者が多かった。敵は林の外に伏兵を設けてこれを待った。僧格林沁は夜に囲みを突いて出たが、部下の兵が矛先を返して陣に突きかかり、敵がその機に乗じて、ついに全軍が壊滅した。
- 陳国瑞はかろうじて身一つで免れた。捻の首領で三眼の花翎をつけ、意気揚々と圩を過ぎて去る者を見て、泣いて言った。「我が王は死んだのだ」。ひそかに跡をたどって麦の畝(底本は「麥媵」に作る。「麥壟」の誤りか)の中に至り、その屍を見つけたが、八か所の傷を受けており、一人の馬丁が同じく死んでいた。
- 事が聞こえると京師は戒厳となり、急ぎ曾国藩を召して衛りに入らせた。山東・河南の巡撫はみな王を陥らせたかどで厳しい譴責を受けた。まもなく曾国藩に直隷・山東・河南の軍務を取り扱うよう命じ、李鴻章を両江総督の署理とした。
- 六月、提督の劉銘伝らが渦河の西岸で捻を破り、雉河の囲みが解けた。
- これより先、張総愚らは淮北に拠ろうと謀り、城武から永城・宿州へおもむき、西のかた新たに置かれた渦陽を攻め、巡撫の英翰の営を囲んだ。渦陽というのは、もとの雉河集で、張楽行の旧い屯である。英翰は軽騎で脱け出して走り、大いに諸軍を徴した(底本は「太徵」に作る。「大徵」の誤りか)。曾国藩が以前に募った(底本は「暮」に作る。「募」の誤りか)湘軍はほとんど残らず裁撤されており、李鴻章の部隊がいくらか北方に慣れていたので、劉銘伝・周盛波および河南の将の宋慶、安徽の将の張得勝らを遣わして援けに赴かせ、史念祖が囲みの中からこれに応じた。劉銘伝は周盛波とともに徐州からまっすぐ西洋集を衝き、渦河の西岸の張荘・王圩で捻を大いに破り、雉河の囲みはついに解けた。
- そのとき曾国藩は言った。捻はすでに流賊となっている。もし賊が流れ、兵もまたこれとともに流れるならば、賊の物資と糧食は限りが無く、我が兵力のほうは尽きてしまう、と。そこで、四省十三府州の地に四つの鎮を設けて重兵を置くことに議を定めた。安徽は臨淮を老営とし劉松山をこれに駐在させ、山東は済寧を老営とし潘鼎新をこれに駐在させ、河南は周家口を老営とし劉銘伝をこれに駐在させ、江蘇は徐州を老営とし張樹声をこれに駐在させて、四省の重鎮とし、一省に急があれば三省が援けに行くこととした。あわせて河南の軍には鞏県・洛陽に屯させ、湖北の軍には随州・棗陽に屯させた。まもなく、捻を攻めるのに首尾ともに追尾するばかりであったので、以後は迎え撃てるようにさせ、改めて張樹珊を周家口に屯させ、劉銘伝には遊撃をさせ、吉林の騎兵隊は解散して帰らせた。これより捻討伐の局面には、はじめて綱紀が立った。
西暦1866年 同治五年
- 冬十一月、曾国藩に両江総督の任に戻るよう命じ、李鴻章に捻討伐の事宜を専任させた。
- はじめ諸軍が捻を討つのに、ただ追い迫ることばかりを事とし、その場しのぎに手をゆるめて敵の鋭鋒を養うのでなければ、逸って進んで謀りが無く兵力を鈍らせるかで、そのため十余年も兵を用いながら、労するばかりで功が無かった。曾国藩が事を受けてからは、はじめに兵を四鎮に駐屯させる議を立て、次いで黄河・運河の要害を守る策を設け、必ず敵を一隅に追い詰め、長い囲いで囲いこんで制し、しかるのちに集めて殲滅できると考えた。軍を督すること一年余り、大小数十戦して、力は敵の鋭鋒を凌ぎ、捻の勢いは実際これによって衰えた。
- ところが人はこれをくみとらず、また僧格林沁が軍を督して数か月で五省を巡ったのを見慣れていたので、曾国藩が徐州に安んじて居ることを怪しみ、そしりの議論が道に満ちた。曾国藩は危急のときに命を受けたが、その部下の湘勇はみな解散させており、無理に立ち上がって任を受け、淮軍を率いて前線に赴いたのであって、思うに久しく席を空けて李鴻章を待とうとしていたのであった。ここに至って病を理由に願い出、朝廷は李鴻章にこれを代えるよう命じ、詔して曾国藩を両江総督の本任に還した。
西暦1867年 同治六年
- 春正月、陝甘総督の左宗棠を転じて軍を督させ、西捻を討たせた。
- そのとき捻は東西の二大股に分かれ、東捻は任柱・頼文光が衆を糾合して山東・河南を荒らし、西捻は張総愚が陝西の中央部を荒らしていた。おりしも督師の官文が事に坐して免ぜられ、その欽差大臣(底本は「欽臣」に作る。「差」の脱字か)の関防が武昌に留め置かれていたので、左宗棠が福建から漢口を通ったさいに、これを授けたのである。
- この月、提督の鮑超が尹隆河で東捻を大いに破った。
- これより先、任柱・頼文光・牛洪・李允らが河南から湖北に入り、郭松林を沙岡集に囲み、張樹珊を楊家河で戦死させ、進んで安陸の尹隆河に屯した。鮑超は劉銘伝と約して合わせ撃つこととした。そこで鮑超は霆軍を率いて臼口に屯し、劉銘伝は銘軍を率いて下洋港に屯し、庚午の日の辰の刻に軍を進めて挟み撃ちにすると期した。
- 劉銘伝は一人で首功を得ようと望み、一刻先に進んで攻めかかって大敗し、部下の大将である唐殿魁・呉維章・田履安らが死んだ。劉銘伝は諸将・幕僚とともに冠と服を脱ぎ、地に座して死を待った。ちょうどそこへ霆軍が期日どおりに至り、その勢いは風雨のようで、両翼を張って敵を蹴散らし、その喊声は十余里を震わせ、敵は大いに潰えた。
- 鮑超は五昼夜追い駆けて、敵を殺すこと二万余、生け捕り八千余、劉銘伝とその将士二千人を重囲の中から救い出し、劉銘伝が失った騾馬五千余、洋銃四百、号衣八千余、いっさいの輜重・軍械、および劉銘伝の紅頂と花翎を奪い返して、みな銘軍に送り還した。鮑超は劉銘伝に会ったときも、しいて自らを抑えて、少しも恩に着せる色を見せなかった。劉銘伝は内心恥じ入り、かえって期日に遅れたと鮑超を咎めた。
- 鮑超は多隆阿とともに久しく湘軍の名将で、「多龍鮑虎」の称があった。劉銘伝は淮軍の新しい貴顕であったから、これを嫉んだのである。李鴻章は劉銘伝に味方し、その言に依拠して軍機に報告を入れた。汪元方はそこで、鮑超に好機を失した罪と功を冒した罪を科すべきだと固く主張し、鮑超を斬るよう請うた。同列の者はみなこれを疑わしいとしたので、厳しい詔で責めるだけに擬した。
- そのとき鮑超は、直河で、豊楽河で、襄河のほとりで捻を続けて破り、殺戮すること一万、生け捕り四千、解散させること一万余、難民二万を救い出し、任柱・頼文光・李允の妻を縛り、追って棗陽・唐県に至っていた。自ら、強敵を破って銘軍を危険から救い出した功は高く、褒賞を得られようと望んでいたのに、にわかに厳しい叱責を受けたので、はじめて劉銘伝が咎を自分に帰したこと、李鴻章と汪元方が黒白を顚倒させたことを悟った。憤って納得がいかず、そこで病を理由に兵を解くことを願い出た。部下の三十営は、李鴻章がことごとくこれを解散させた。
- 二月、提督の劉松山が西安で西捻を大いに破った。
- はじめ湘勇を裁減したとき、ひとり劉松山の老湘の一軍だけを留めた。劉松山はこれを率いて捻を討ち、済寧・徐州・南陽のあいだでしばしば東捻を破った。ところが西捻は同治五年十月から陝西に入り、防衛の軍が灞橋で防ぎ戦ったが、三十余営が一戦で潰え、ついに省城を囲んだ。そのとき劉松山はちょうど命を受けて周家口から江南へ帰り兵権を解こうとしていたが、曾国藩は急ぎ檄を飛ばして陝西を援けさせた。劉松山は馳せて西安に至り、一戦して同州・朝邑の囲みを解き(底本は「同朝」に作る)、ここに至って西安で捻を大いに破り、また郿県を攻めてこれを破った。
- 夏五月、東捻が山東に入り、済寧の戴廟に至って、そのまま運河を突き過ぎた。
- はじめ捻が唐県を侵し、鉅野に至ったとき、李鴻章の諸軍はみな南にあり、山東の屯軍はにわかに潰え走った。捻はそのまま戴廟から河を渡り、東阿の知県の周毓楠を殺し、運河の堤を踏み壊し、防衛の軍の屯を焼き、その軍需物資を収めた。曾国藩が軍を督して以来、運河の防備は潰えたことがなかったので、このときの世論は大いに沸き立った。
- 秋七月、東捻が海神廟から濰河を渡り、膠莱の防備が潰えた。
- 捻が運河を過ぎたのち、膠莱へおもむこうとした。李鴻章は山東の軍一万六千人をことごとく出して膠莱を守らせようとしたが、山東巡撫の丁宝楨は承知せず、重ねて李鴻章の意に逆らうのもはばかって、七千人をこれに与えた。この月、敵軍が突然に濰河へ突きかかり、防衛の軍は潰え、敵は濰県を掠めて昌楽に至り、そこから東南の安丘へ走った。
- 李鴻章が運河を防いだとき(底本は「防渭」に作る。「防運」の誤りか)、丁宝楨とはなはだしく仲たがいした。山東の軍はもともと南の端を防いでいたのに、淮軍の将の潘鼎新が強いてこれを北へ移させ、敗れるに及んで潘鼎新は山東省の守将の王心安に罪を押しつけ、詔して斬ってさらすこととなった。丁宝楨がこれを争い、章を騰せて互いに非難し、詔してこれを和解させた。その後、丁宝楨は王心安を遣わして運河の中段を分け守らせ、厳重に固めて、ついに東捻を平らげた。
- 冬十月、東捻の潘貴升がその頭目である魯王の任柱を刺し殺して降ってきた。
- 捻はすでに濰県の松樹山および牟山で続けて敗れ、高密・諸城・日照・贛楡へ走っていた。劉銘伝は任柱の部将の潘貴升を買収し、任柱を狙い撃たせてこれを殺させ、潘貴升は馬を走らせて降ってきた。捻の衆はついに潰えた。任柱は亳州の人で、飄然として神出鬼没、戦いに巧みで、各股の総頭目となっていた。その死後、衆は頼文光を推して首領とした。
- 十一月、東捻が黄河をうかがい、詔して運河防備の軍を抽いて黄河を守らせた。
- そのとき捻は運河の防備で思うようにならず、青州・済南、黄河のほとりをうかがおうとしていた。朝廷の旨は、黄河の防衛の軍に手落ちがあることを恐れ、運河防備の軍を抽いて協同で防がせるよう命じた。
- この月、西捻が吉州を侵した。張総愚は陝西の壺口から黄河を無理押しに渡って山西の吉州を侵し、巡撫の張長齢および防河按察使の陳湜は、いずれも免職のうえ辺境へ流された。
- 十二月、東捻の首領である遵王の頼文光が敗れて揚州へ走り、自ら防衛の将である呉毓蘭の営に身を投じて、そのまま捕らえられ、東捻は平定された。
- 頼文光は濰県・寿光のあいだ(底本は「問」に作る。「間」の誤りか)でしばしば敗れたのち、残りの衆を率いて六塘河を渡り、淮安・宝応・高郵に沿って南へ走った。そのとき諸軍が大挙して集まり、頼文光は事の成らぬことを知って、揚州の防衛の将である道員の呉毓蘭に檄を下し、諸将を一々非難したうえで、呉毓蘭をまさっているとし、自分(底本は「已」に作る。「己」の誤りか)を得て功とさせようとした。夜に乗じて呉毓蘭の営に身を投じた。軍中ではその檄が伝え誦され、その言葉は深く痛切であるとされた。李鴻章らは厳しく禁じてその事を秘し、呉毓蘭には偽って、雨の中の陣で捕虜にしたのだと勝報を上げさせたという。
西暦1868年 同治七年
- 春正月、西捻の張総愚が山西から黄河を渡り、北へおもむいてまっすぐ畿輔に迫り、京師は戒厳となった。
- 頼文光が自ら身を投じて殺されてから、李鴻章は自分の軍に大功があると考え、上疏して諸将に代わって休養を乞い、遠方の役に調発しないでほしいと願い出た。ところが西捻はすでに南のかた絳州・曲沃・垣曲へ走り、東のかた済源へおもむき、黄河に沿って原武に至り、そこから北へ、新郷から順徳へおもむき、定州に至ったので、京師は大いに震撼した。
- 李鴻章は重ねて廷寄を受けて、劉銘伝を急ぎ河北へ赴かせて討伐に進ませるよう督促されたが、李鴻章は引き延ばして遣わさなかった。河南の軍の将である張曜(底本は「張矅」に作る)はやっと湯陰に至り、陝西の軍の将である劉松山らが先に清苑に至り、山東巡撫の丁宝楨は軍を率いて先に河間に至った。詔して李鴻章らを厳しく責めていずれも官職を奪い、丁宝楨を褒め賞した。詔は全部で七度下された。京師の五城には囲みの防備を配し、神機営を出して涿州・易州に屯させ、恭親王の奕訢に命じて巡防させ、あわせて諸軍および各総督・巡撫を節制させ、左宗棠に前線の戦事を総べさせた。
- 夏閏四月、盛京将軍の都興阿に天津へ赴いて左宗棠・李鴻章と会同して捻を討つよう命じた。
- この年の二月、李鴻章の軍は徳州に至り、捻は鉅鹿へおもむいた。諸軍が集まってからは、商人や民の住まいや店を掠めることが多く、市民はこれに苦しんで互いに申し合わせて討ち殺し、日々いがみ合いが起こって(底本は「很閫」に作る)、死者は数えきれなかった。そこで李鴻章はあらためて、捻を太行山と黄河のあいだへ追い込む議を立てた。
- 三月、捻は濬県・滑県に至り、西のかた新郷を侵し、黄河に沿って延津に至り、封丘で陝西の軍を破って提督の周盈瑞が戦死し、滑県へおもむいて淮軍を破り、提督の周振邦は矛にかかって死んだ。そのまま内黄から東昌・茌平・徳州・呉橋・東光へおもむき、四月には天津に至った。恭親王は上奏して、諸軍の将帥に一か月を限って捻を平らげるよう申し渡した。ここに至って都興阿を増し加えて会同して捻を討つよう命じ、その名は左宗棠・李鴻章の上に列ねられ、侍郎の索厚をこれに副えた。
- 六月、捻の首領の張総愚が敗れて茌平へ走り、そのまま水に入って死に、西捻は平定された。
- これより先、李鴻章は黄河・運河を防ぎ守って捻を海の東へ追い詰める議を立て、捻が運河の東へ走るに及んで、力をこめて運河の防備を主張した。まもなく捻が南のかた滄州へ走り、おりしも運河の水が増し、李鴻章は運河の北に牆を築いて外側の囲いとし、恩県・夏津・高唐の馬頰河の西北を区画して牆を築き内側の囲いとして、捻を西南へ走るよう追い詰めた。すでに海豊・楊丁荘・沙河などの地で続けてこれを破り、この月にはまた老海窪および玉林鎮・隆福寺でこれを追い詰め、曾国藩の遣わした水師もまた高家渡でこれを破った。ここに至って捻は茌平の広平鎮へ走ったが、おりしも大雨で徒駭河が大いに増水し、諸軍が囲んでこれを追い詰め、捻は渡ることができず、ついに数千を捕らえ斬り、残りの衆は招撫に応じた。張総愚は水に入って死んだ。
- 捻が北のかた定州を蹂躙したとき、詔して劉銘伝に急ぎ北へ赴いて援けるよう命じたが、劉銘伝は濰水のほとりに兵を擁したまま至らなかった。この年の四月、淮軍はしばしば捻に敗れ、李鴻章は鴻臚卿の米学勤に頼んで、劉銘伝を召すよう奏上させ、温かい旨をもって出発するよう教え促したが、それでも起たなかった。曾国藩が自筆の書でこれを戒め、その言葉は懇切であった。劉銘伝は書を得ると袖を振って起ち上がり、軍を率いて進んだ。
- ここに至って勝報が聞こえ、諸々の将帥に賞が与えられた。劉銘伝は新たに至って成功を収めたとして一等男に封ぜられた。劉松山は真っ先に義に赴き、力戦して敵を破り、労苦が多く功が高かったのに、賞は爵に及ばなかった。左宗棠は奏上して言った。劉松山は安徽・河南から各省を転戦し、危うくなっていた陝西を保ち、持ちこたえられなくなった山西を救い、速やかに畿輔を衛り、歩兵をもって騎兵に当たって天下に先んじた。このたびの大悪党の掃討(底本は「巨殿」に作る。「巨憝」の誤りか)も、心を平らかにして論ずるならば、どうして劉松山の力でなかったことがあろうか、と。
- そのとき朝廷は淮軍に首功を独り占めさせていたので、この疏は上げられてもかえりみられなかった。しかし人はみな左宗棠の論の持し方が公平であることに感服し、自分の好む者にへつらったのではないと言ったという。
原文(底本)
文宗咸豐三年,冬十月,安徽穎毫捻予滋事,據雉河集。捻者,捏也,鄉人行儺逐疾,捏紙燃脂,爲龍戲,謂之拜捻。不逞之徒,聚提捏成隊,公肆仇殺焚掠,欲呼爲捻子。始自山東之兗沂曹濟,蔓延於河南之南汝光、安徽之穎毫壽、江南之淮徐海,湖北之襄棗鍾隨。蓋起於康熙時至嘉慶中,黨日益衆。十九年十月,御使陶澍秦飭河南安徽巡撫方受疇、胡克家,名捕頭王妮子、李東山、馬大振等,卒未緝獲。咸豐元年,太平軍起,朝廷尤重治盜,夏邑南陽訴捻刦,有詔詰責河南疆吏,因並飭兩江、湖廣督撫協捕,而壽州盜亦上聞。二年,山東蘭山盜拒殺把總,掠海州,安徽捻犯鹿邑、寧陵,而豐沛、曹單聞,亦騷然。是年秋,束撫索恩、豫撫應穀、安徽協理團練給事中袁三甲,各督兵剿捕,皆無效,及安徽、江南省城失守,皖中大震。捻首鄧天俊遂乘勢起於宿蒙、亳壽一帶,橫行皖齊豫間。所至焚刦,督軍者不能制。其有奮勇進剿者,輒敗卹,故其勢益猖。至是,襲雉可集,據之。 五年,秋八月,捻首張樂行復據雉河集。先是,捻事起,命提督善祿屯永城,著巡撫周天爵駐徐宿,侍郎呂賢基出治安徽團練。賢基遣甲三督師進剿,直撲雉河集,頗有斬獲,餘衆走桐城,開歸汝寧、信陽,勢復熾。攻正陽,掠永城,破桐柏、圍夏邑、沈邱,豫撫陸應穀自汝寧走保省城。天爵卒,甲三代之,治軍顧亳。詔陝督舒興阿領軍駐陳州,後移皖北,以河南按察使牛鑑代之,統於豫撫英桂。至是年春,甲三以事得罪去,提督武隆額將兵屯亳州,總江蘇、河南、安徽三省戰守事宜,而張樂行復起蒙亳,犯歸德,以英桂代統武隆額軍,自是捻分五旗,率馳突徐宿曹歸。防軍夾屯,莫之能禦。 六年,秋九月,捻衆西走,逼陳州。英桂奉命督師後,增調江南軍將,總兵鄭魁士援宿州,仍以袁甲三督亳軍。是年八月,甲三自永城進軍,攻雉河集, 清史紀事本末四 74 張樂行趨潁州復東走徐州皆大掠而還 七年冬十月捻衆入南陽知縣施作霖死之捻走河南圍固始命署河北鎮總兵勝保助𠞰而邳 郯盜復起亳捻與甲三相持南延霍邱壽州西北掠舞陽葉內鄉捻復犯宜陽嵩英桂赴禹宻河 南烽火相望太平軍亦合捻分擾廬巢勝保甲三會師正陽閧議以勝保北屯潁州遏歸德陜西 軍防武關而捻入商南作霖督勇練迎擊力戰而死於是霍山和滁東西幾二千里皆蹂於捻其 游騎遂擾及直隸之大名府等地京師戒嚴 八年秋七月命都統勝保督辦安徽軍務廵撫翁同書副之太僕卿袁甲三督辦三省𠞰捻事宜 是年春閒太平軍合捻破固始六安分黨出掠佹出佹入軍疲於應夏五月皖撫福濟擊退臨淮 捻衆協同河南軍收復六安捻皆東趨南攻全椒來安滁北及徐宿英桂病還瑛棨代爲豫撫援 臨淮招撫苗沛霖甲三進駐宿州李昭壽(官書作兆受後賜名世忠)亦獻滁州投誠迎勝保 於清流關淮南北事解嚴至是命勝保整軍廬州而捻入山東圍單攻金鄉大掠商水北周家口 其勢益張 九年冬十月命漕運總督袁甲三督辦皖省軍務是年正月勝保奏劾甲三持重失機詔以總兵 傳振邦代之副以都統伊興額而統於勝保二月捻自西華趨舞陽破防軍於北舞總兵邱聫恩 戰死伊興額悉軍西援振邦等劾以齟齬罷之以協領關保督河南軍副都統德楞額將天津海 防軍屯曹州而勝保自移防旴𣅿捻攻定遠皖撫翁同書退走壽州至是勝保以母喪歸復命甲 三代之 十一月袁甲三復臨淮關捻旣出歸德自蘭儀渡河犯定陶東明遂還潁州淤是諸將 帥皆以回巢爲幸騰章吿捷甲三至軍攻克臨淮 十年春正月命勝保督辦河南𠞰捻事宜勝保督師皖中日久無功命以都統督軍河南關保副 之提督傅振邦督軍徐宿總兵田在田副之時甲三己復鳳陽府縣二城而捻首張樂行龔得樹 襲陷清江浦殺淮海道吳葆晉副將舒祥等漕督聨英河督庚長方置酒奏伎倉卒走保淮安淸 江爲河漕聚滙處居室器用踵事增華各捻首垂涎已久至是率衆由吳家墩骤至遂陷淸江復 還走而河南捻趨鞏洛山陜大震詔罷勝保以府丞毛昶齡還河南治團練南汝光道鄭元善副 之 秋九月捻入濟寧命科爾沁郡王僧格林沁督師往剿時帝出奔熱河捻乘之侵入濟寧縱 横荷澤閒山東大亂德楞額軍敗於嶧僧格林沁至軍奏言捻衆繁多其出掠伺空虛避官兵以 焚掠脅俘良民黨衆日增馬步數萬列隊百里兵少捻多衆寡懸殊如欲攻其巢則相距一二百 里外井堙地赤裹糧攜水不能持久退爲所躡往往失利十年以來未有能進軍接仗者也臣軍 萬二千人請合傅振邦德楞額二軍直攻老巢詔以無後勁爲戒 冬十一月僧格林沁敗績於 鉅野僧格林沁進攻鉅野以援荷澤會大雪捻反乘之遂大败還關保以昏庸罷河南軍事專於 毛昶熙徐州民士請用伊興額章凡三上始從所請僧格林沁令諸州縣各築長圍以扞捻馬步 振邦病免田在田代之 十一年春正月僧格林沁兵敗於荷澤僧格林沁遣軍援荷澤復敗還詔責以勇往輕進副都統 穆騰阿病免總兵成明代之 秋九月叛練苗沛霖陷壽州沛霈本鳳臺諸生爲團練長始叛勝 保招降之授川北道猶持兩端受官不冠服命其下稱之先生十年八月英艦至天津詔勝保總 勤王師徵及苗練沛霖復懷叛志設高臺聚衆號哭言京師危急狀陰欲其下推戴衆相視默然 而罷十月沛霖遣徵壽州練總集下蔡領旂後者斬壽州練局斬其使沛霖怒誓先取壽州是年 正月攻壽州時皖撫翁同書自定遠遁至居城中欲覊縻沛霖爲殺州紳徐立壯孫家泰蒙時中 以媚之城中人忿益死守至是守城游擊朱佩芬都司林雲錦千總吉玉成外委朱淮潮等開門 以納沛霖沛霖復陰通欵太平英王陳玉成玉成表封爲平北王而翁同書猶力保沛霖之非叛 云 冬十一月僧格林沁攻破亳北諸莊圩先是捻自曹州趨鄆城渡汶掠泰安南北伊興額及 總兵滕家勝俱戰死僧格林沁移屯汶上捻遂圍靑州時河南捻縱掠連二十餘縣西自南陽南 自汝寧東界淮南界河山東捻西及浙川北侵大名滕嶧一帶騷然僧格林沁斂兵保鄒東撫譚 廷襄出屯荏平捻陷曲周掠威東陷清河殺知縣陳大烈苗沛霖陷壽州徐宿阻絕僧格林沁遣 詹啟綸募軍防清淮而捻分衆北趨德楞額免袁甲三疏詆僧格林沁驕愎慢軍旋山東登萊諸 縣俱失僧格林沁南下沂邳奏功進爵親王悉奏罷諸圍練及防河大臣委權督撫以副都統遮 克登布代道員聫捷廵河大順廣道王榕副之勝保屯防京師尋命移軍援潁僧格林沁屯單湘 軍揚言進攻潁亳於是羣捻已多合太平軍中游弋襄洛不復從事剽刦僧格林沁遂連破亳北 諸莊圩 穆宗同治元年秋七月命僧格林沁統轄山東河南軍防直隸山西四省督撫提鎮將兵大員均 歸節制是年春潁州圍解夏捻陷宜陽殺知縣謝仁漙西陷永寧別自內鄕入高州陷鎮安孝義 固原提督孔廣順禦之藍田捻合太平扶王陳得才陷渭南殺知縣曹士錫東陷華州直走澠池 還敗河南軍時廬州克安徽事定將軍多隆阿將廬州軍勝保將潁州軍俱入關朝命僧格林沁 統轄山東河南全省軍務並調度直隸山西兩省防兵四省督撫提鎮及漕督圍練大臣均歸節 制 冬十二月命多隆阿督辦陜西軍務調劉長佑爲直隸總督先是湖北出軍助攻河南捻屯 多隆阿進兵荆紫關破陳得才及捻兵進𠞰商南捻捻還奔北走盧氏南趨棗陽陷隨州京山應 山湖北大震復奏請多隆阿還軍袁甲三病罷李續宜代之續宜母喪臨淮督師遂罷不復設勝 保以督辦陜西軍務驕恣欺罔逮治命多隆阿兼統其軍會降捻張錫珠復叛於莘冠渡大漳犯 大名大順廣道秦聚奎戰死堂邑悍捻宋景詩亦叛於郃陽渡河走山西直隸欲與錫珠合以八 百人行腹地幾二千里所過無留行東撫譚廷襄直督文煜均以是發軍臺以閣敬銘劉長佑代 之副都統遮克敦布發新疆成保代之 二年春正月僧格林沁攻克雉河集苗沛霖執捻首張樂行等以獻樂行爲捻中渭魁至是僧格 林沁破之於尹家溝侍郎國瑞復攻克雉河集樂行與姜台凌走宿州爲苗沛霖所執獻遂被殺 而捷奏則言樂行敗竄宿州知州英翰獲之云樂行死其從子總愚領其衆走山東與捻首任柱 太平將賴文光合 秋七月賜勝保自盡勝保自咸豐八年七月督師皖中久無功又驕縱好聲 色苗沛霖張龍投誠復叛李昭壽滋擾滁來連陷名城地方縻爛已極勝保絕不爲意九年九月 定遠布衣胡文忠走京師欲叩閽訴其事御史林之望力阻之文忠自縊死而懷書責之望語益 激之望疏聞文宗猶不允遽罪勝保改命督軍豫省同治元年十一月德興阿劾其攜帶妓女赴 陜並納陳玉成之妻爲妾拜認張龍之妾爲義女並爲請四品封典內外復交章訴其貪汙欺罔 命逮問而李昭壽奏納己官以贖其罪苗沛霖宋景詩復揚言當代乞恩以挾制朝廷故勝保久 覊獄中未予引決至是沛霖景詩已復叛帝謂二逆之縻餉勞師皆勝保飬癱貽患所致遂令賜 帛死中外稱快 夏六月苗沛霖再陷壽州初咸豐十一年九月沛霖陷壽州詔禠其布政使銜 川北道將命師討之袁甲三欲假湘軍威奏調李續宜續宜遣將成大吉等進潁州多隆阿破廬 州沛霖懼復求撫於勝保勝保旣妬湘軍功且欲飬沛霖固兵柄爲奏止湘軍沛霖因誘執陳玉 成以獻勝保而空潁上壽州及正陽關讓湘軍屯守勝保移陜西猶騰章詆湘軍爲沛霖請隸於 僧格林沁僧格林沁外藩王子驕貴寄耳目於左右又自負忠勇以湘軍爲邀功沛霖因閒之果 爲之請撤湘軍犒苗練軍萬金曾國藩懼決裂因託以和巢含舒空虛撤壽州等處屯軍退守霍 邱舒城僧格林沁慙沮更奏辯沛霖益欲自結於僧格林沁設伏宿州擒張樂行旣自以連立大 功而前罪削籍仍未復怏怏謁廵撫唐訓方請散練歸農而潛斷渦水以絕臨淮蒙城糧道訓方 召集湘軍備堵禦僧格林沁已移山東猶以恐生變爲言請示羈縻沛霖揚言僧王殺已降(指 台淩被戮事)不足爲盡力遂於是年三月襲據懷遠攻壽州掠潁上陷鳳臺圍蒙城四月湘軍 將將學凝毛有銘援壽州未至城中糧已絕而下蔡外委邱維城夜舉城獻沛霖知州毛維翼力 戰死事閒命僧格林沁都興阿各以兵赴援 冬十月僧格林沁師至蒙城太平英王陳玉成舊 部斬苗沛霖降方沛霖之圍蒙城也因南畏湘軍之盛欲北趨中原號召羣捻以蒙城扼其衝故 悉衆攻之江北督帥都興阿遣將軍富明阿總兵王萬淸自揚州引兵來援皆堅壁不敢戰僧格 林沁前軍將陳國瑞師至合諸軍攻其外濠沛霖親兵三千人相與謀曰吾儕故英王舊部也苗 逆誘殺吾王復以威刦我使爲之用是吾仇也盍殺之以復仇雪恥乎沛霖夜廵營親兵二人自 後刺之立隕走報詹啟綸不信報萬淸萬淸往剄其首迎獻軍中詭以廵濠斫死上功希上賞且 殪二親兵以滅口於是啟綸以僧王奏受上賞萬淸次之分別給與騎都尉世職黃馬褂沛霖死 其黨瓦解富明阿遂入蒙城收下蔡國瑞部將宋慶挾苗景開收壽州凝舉收潁上有銘收正陽 訓方循撫諸圩收其兵械奏移鳳臺治下蔡於雉河集增立渦陽縣將大有所治而僧格林沁及 富明阿先後劾其措置乖方降官去喬松林代爲廵撫淮甸無事無所用湘軍矣 三年秋九月僧格林沁兵潰於麻城退光山再退鄧州初太平扶王陳得才與稔衆擾楚豫邊界 鄂督官文督軍京山與僧格林沁會𠞰護軍統領舒保戰死於德安西之山谷閒舒保爲湖北名 將及死諸軍奪氣戰事倚於僧軍而其左右横恣求見者先納百金至四百金視領軍多少以爲 差民有訴軍淫掠者僧格林沁蹙額曰若輩離家來久且宜徙民避之湖北民大失望六月金陵 克復太平餘衆合於捻是月攻黃安麻城至蔪水大將石淸吉陣亡成大吉被困於蘄北僧格林 沁軍麻城官文出黃州詔江督曾國藩往援並徵湘淮名將劉連捷劉銘傳軍僧格林沁初轉戰 追逐木嘗與太平軍合戰謂捻畏我不足慮輕湘淮軍以爲皆不能戰奏止之及捻掠廣濟還馬 隊將常星阿再敗僧格林沁狼狽走光山尋走鄧州僧軍名譽頓損 四年夏四月僧格林沁追捻山東至曹州南中伏死先是三年十月僧格林沁追陳得才及捻衆 於鄂豫閒得才聞金陵破飲藥自盡僧格林沁益銳意率輕騎追逐至光黃汝鄧之交屢中敵伏 喪其良將恆齡舒通額蘇克金等益怒日夜逴二三百里會捻步隊足皆腫裂不能行願就撫已 遣陳國瑞與有成言及捻首張總愚賴文光各遣使至語未及半促命斬之遂復決裂是月追敵 至曹州戰於州之南敗入保荒莊困重圍中其部衆多怨叛敵設伏林外待之僧格林沁夜突圍 出部卒反戈衝陣敵乘之遂全軍覆沒國瑞僅以身免見有捻首戴三眼花翎揚揚過圩去哭曰 吾王死矣潛跡至麥媵中見其屍受八創一馬僮同死事聞京師戒嚴急召曾國藩入衛山東河 南廵撫皆以陷王獲嚴譴旋命國藩辦理直隸山東河南軍務以李鴻章署理兩江總督 六月 提督劉銘傳等破捻於渦河西岸雉河圍解先是張總愚等謀據淮北乃自城武趨永城宿州西 攻新渦陽圍廵撫英翰營渦陽者故雉河集張樂行舊屯也英翰輕騎出走太徵諸軍曾國藩前 所暮湘軍裁撤殆盡李鴻章所部稍習北方乃遣銘傳周盛波及河南將宋慶安徽將張得勝等 赴援史念祖自圍中應之銘傳與盛波自徐州直擣西洋集大破捻於渦河西岸之張莊王圩雉 河之圍遂解時國藩謂捻已成流寇若匪流而兵亦與之俱流則匪之資糧無限而我之兵力有 窮乃定議以四省十三府州地設四鎮重兵安徽以臨淮爲老營劉松山駐之山東以濟寧爲老 營潘鼎新駐之河南以周家口爲老營劉銘傳駐之江蘇以徐州爲老營張樹聲駐之爲四省之 重鎮一省有急三省往援並飭河南軍屯鞏洛湖北軍屯隨棗尋以攻捻首尾追今後始得迎擊 改以張樹珊屯周家口使銘傳游擊罷遣吉林馬隊自是剿捻之局始有綱紀 五年冬十一月命曾國藩回兩江總督任以李鴻章專辦剿捻事宜初諸軍剿捻惟事追躡非苟 且姑息以飬敵鋒則躁進無謀以鈍兵力故用兵十餘年勞而無功自國藩受事以後初立駐兵 四鎮之議次設阨守黃運河之策謂必蹙敵一隅長圍以圈制之然後可以聚殲督師年餘大小 數十戰力過敵鋒捻勢實因此而衰而人不諒之又習見僧格林沁督師以數月曆五省怪國藩 安居徐州謗議盈路而國藩受命於危急之際其所部湘勇皆散遣強起受任率淮軍以赴前敵 蓋欲虛席以待鴻章久矣至是以疾請朝命鴻章代之詔國藩還江督本任 六年春正月調陜甘總督左宗棠督軍討西捻時捻分東西兩大股東捻任柱賴文光糾衆擾東 豫西捻張總愚擾秦中會督師官文坐事免其欽臣關防存武昌宗棠自福建道漢口因以授之 是月提督鮑超大破東捻於尹隆河先是任柱賴文光牛洪李允等自河南入湖北圍郭松林 於沙岡集陣亡張樹珊於楊家河進屯安陸之尹隆河超約劉銘傳合擊之於是超率霆軍(超 字春霆所部故命霆軍)屯臼口銘傳率銘軍屯下洋港期以庚午日辰刻進軍夾擊銘傳冀獨 得首功先一刻進攻大敗所部大將唐殿魁吳維章田履安等死之銘傳與諸將幕僚俱脱冠服 坐地待死適霆軍踐期至勢如風雨張兩翼以蹴敵呼聲震十餘里敵大潰超追奔五晝夜殺敵 二萬餘生擒八千有餘拔銘傳及其將士二千於重圍之中奪還銘傳所失之騾馬五千餘洋鎗 四百號衣八千餘一切輜重軍械及銘傳之紅頂花翎皆送還銘軍超晤銘傳強自抑無幾微德 色銘傳內慚反以後期咎超超與多隆阿久爲湘軍名將有多龍鮑虎之稱銘傳淮軍新貴故嫉 之鴻章右銘傳據其言以入吿軍機汪元方遂堅持科超以失機與冒功之罪請斬超同列均以 爲疑僅擬嚴旨責之時超方連敗捻於直河於豐樂河於襄河邊殺戮一萬生擒四千解散萬餘 拔出難民二萬縶柱文光允之妻追至棗陽唐縣自念破強敵救銘軍出險功高冀獲褒獎悤奉 嚴飭始悟銘傳之歸咎而鴻章元方之顚倒黑白也憤不平遂請疾解兵所部三十營鴻章悉遣 散之 二月提督劉松山大破西捻於西安初裁湘勇獨留松山老湘一軍松山率以剿捻屢敗 東捻於濟寧徐州南陽之閒而西捻自五年十月入陜防軍拒戰於㶚橋三十餘營一戰而潰遂 圍省城時松山方奉命自周家口回江南解兵柄曾國藩亟檄之援陜松山馳抵西安一戰解同朝 圍至是大破捻於西安又攻郿破之 夏五月東捻入山東至濟寧之戴廟遂衝過運河初捻犯 唐縣至鉅野李鴻章諸軍皆在南山東屯軍倉猝潰走捻遂自戴廟渡河殺知東阿縣周毓楠蹋 運隄燒防軍屯收其軍實自曾國藩督師以來運防未嘗潰於是時論大譁 秋七月東捻由海 神廟渡濰河膠萊防潰捻過運河後將趨膠萊鴻章欲盡發山東軍萬六千人守膠萊東撫丁寳 楨不可重違鴻章意以七千人與之是月敵軍突撲濰河防軍潰敵掠濰至昌樂乃東南走安邱 方鴻章之防渭也與寶楨極齟齬山東軍本防南頭淮軍將潘鼎新強移之北及敗鼎新委罪東 省守將王心安詔斬以徇寶楨爭之騰章相詆詔和解之其後寶楨遣心安分守運河中段嚴固 卒平東捻 冬十月東捻潘貴升刺殺其魁魯王任柱來降捻旣連敗於濰縣之松樹山及牟山 走高宻諸城日照贛榆劉銘傳購柱部將潘貴升狙擊柱殺之縱馬來降捻衆遂潰柱亳州人飄 忽善戰爲各股總頭目及死衆推賴文光爲首 十一月東捻窺黃河詔抽運防之師守黃河時 捻不得志於運防將窺靑濟黃河之濵朝旨恐黃河防軍有失命抽運河防軍協防 是月西捻 犯吉州張總愚由陜西壺口搶渡黃河犯山西吉州廵撫張長齡及防河按察使陳湜均革職遣 戍 十二月東捻首遵王賴文光敗走揚州自投防將吳毓蘭營遂被執東捻平文光自濰縣壽 光問屢敗後率餘衆渡六塘循淮安寳應高郵南走時諸軍大集文光知事不濟下檄揚州防將 道員吳毓蘭歷詆諸將而以毓蘭爲愈使得已以爲功乘夜投毓蘭營軍中傳誦其檄言至深痛 鴻章等嚴禁秘其事使毓蘭謬上捷言雨中陣俘之云 七年春正月西捻張總愚由山右渡河北趨直偪畿輔京師戒嚴自賴文光自投被殺鴻章自以 其軍有大功疏代諸將乞休飬勿調遠役而西捻已南走絳州曲沃垣曲東趨濟源循河至原武 遂北自新鄉趨順德至定州京師大震鴻章叠奉廷寄飭催劉銘傳迅赴河北進剿鴻章持不遣 河南軍將張矅方至湯陰陜西軍將劉松山等先至清苑東撫丁寳楨率軍先至河閒詔切責鴻 章等均奪職而嘉獎寳楨詔凡七下發京師五城圍防神機營出屯涿易命恭王奕訢廵防並節 制諸軍及各督撫以左宗棠總前敵戰事 夏閏四月命盛京將軍都興阿赴天津會同左宗棠 李鴻章剿捻是年二月鴻章軍至德州捻趨鉅鹿諸軍旣集多掠商民居市民患之相約格殺日 有很閫死者不計其數於是鴻章復議驅捻太行黃河閒三月捻至濬滑西犯新鄉循河至延津 破陜西軍於封邱提督周盈瑞戰死趨滑敗淮軍提督周振邦中矛死遂自內黃趨東昌荏平德 州吳橋東光四月至天津恭王奏飭諸軍帥限一月平捻至是增命都興阿會同剿捻列名在宗 棠鴻章上侍郎索厚副之 六月捻首張總愚敗走荏平遂赴水死西捻平先是李鴻章建防守 黃運蹙捻海東之議及捻走運東遂力主防運旋捻南走滄州值運河水發鴻章就河北築牆以 爲外圈劃恩縣夏津高唐之馬頰河西北築牆以爲裏圈偪捻西南走旣連破之於海豐楊丁莊 沙河等處是月又逼之於老海窪及玉林鎮隆福寺曾國藩所遣水師又敗之於高家渡至是捻 走荏平之廣平鎮值大雨徒駭河盛漲諸軍圍蹙之捻不得渡遂擒斬數千餘就撫總愚赴水死 方捻之北蹂定州也詔劉銘傳迅赴北援銘傳擁兵濰上不至是年四月淮軍屢敗於捻鴻章屬 鴻臚卿米學勤奏召銘傳溫旨敎促啟行仍不起國藩手書戒之詞懇切銘傳得書投袂起率師 行至是捷聞賞諸將帥銘傳新至收成功封一等男劉松山首先赴義力戰破敵勞苦功高而賞 不及爵左宗棠奏松山由皖豫轉戰各省能保垂危之秦救不支之晉速衛畿輔以步當馬爲天 下先此次巨殿蕩平平心而論何嘗非松山之力時朝廷以淮軍擅首功疏入不之省然人皆服 宗棠持論之公言非阿所好云
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