清史紀事本末日本との条約締結(日本訂約)
要約
同治十年夏五月、日本の使臣伊連宗城・柳原前光が来て条約を議し、李鴻章を全権大臣とし天津で交渉させた。日本は四つの大島と千八百余の小島を統べ、周の恵王のとき日向国に起こった神武帝が橿原に都を遷した。漢以来、貢聘は絶えず封爵を受け、献帝のとき神功皇后が新羅を降して高麗・百済も帰服し、隋の煬帝には国書が礼を失したが煬帝はなお返報した。唐の貞観以後は留学生を送って手本を取ったが、昭宗のとき菅原道実が遣唐使の廃止を奏し、五代・宋には国交が絶えた。元の世祖は東を伐って十余万を喪い、日本人は通商を禁じて中国を軽んじた。明では倭寇が嘉靖に猖獗をきわめたが戚継光・兪大猷が破り、豊臣秀吉が二度朝鮮を侵して明軍は利を失い、のち徳川氏の二百数十年は相安んじた。
咸豊・同治以来、日本は外患に迫られて法を変え、泰西と条約を結び、中国とも好みを通じようとした。九年七月、柳原前光らが外務卿の書を携えて来、総理衙門は通商のみ許して条約には及ばぬとしたが、前光の力争で許され、秋九月に条約が成った。明代の倭寇を理由に拒絶を請う大臣があったが、李鴻章は、順治以来江蘇・浙江で通商し、長崎へ行く商人も絶えぬ、強く拒めば泰西の紹介で請うてくるだけだと駁した。曾国藩も、日本は隣邦で臣属の国と比べられぬが、条約に泰西の通例に比照すると明記するなと上疏した。旨はこれを是とし、修好条規十八条・通商章程三十三款を定めて海関税則を付したが、西洋との条約と同じにできぬものがあり、宗城は帰国後官を免ぜられた。
十二年夏四月、李鴻章を換約大臣とした。前年二月、日本は柳原前光を遣わし、自国民を自国法で訊断する条の訂正、調停の語と帯刀の禁の削除、輸出入税の自国徴収を求めた。李鴻章は、改約が成ってのち協議すればよい、載せて削るのは物笑いを残すと言い、前光は退いた。のち岩倉具視が泰西で改約を議したが要領を得ず、帯刀は森有礼の議で自ら禁を改め、調停の語は中国が削除を許さなかった。十月、ペルーの商船マリア・ルース号が澳門の華民三百余人を騙して載せ、横浜で工人がイギリス艦に救われると、種臣は商船を押さえて解放させ、陳福勲が連れ帰った。十一月、種臣は全権大使として条規を取り交わし、紫光閣に謁見して大婚と親政を賀した。帰るに前光を公使とし、井田譲らに各口の商務を管させた。
十三年夏四月、沈葆楨に台湾を巡視させ通商事務を扱わせた。十年十一月に琉球の船が台湾に漂着し生蕃に殺された者五十四人、十二年二月には小田県の民四名も害に遭い、日本は境界を中国に質した。柳原前光が毛昶熙・董恂に問うと、二島はともに我が属土で裁決は我らにあると答えた。琉球は明初に尚氏が統一して冊封を受け、順治以後も入貢しながら日本にも朝貢していたので、前光は日本の版図だと論争し、蕃人を懲らしめぬのはなぜかと問うた。化外の民で処断しがたいと答えると、前光は、わが邦は島人の罪を問うと言って去った。三月、日本は西郷従道を都督として兵を台湾に赴かせ、リゼンドルを参謀に招き、大隈重信を総理とした。アメリカ公使ローは局外中立を執り船舶と人民を収め還し、パークスも公法に合わぬと言い、内閣は出兵を止めようとしたが従道は聴かなかった。閩督李鶴年は生蕃は中国の属地だと争って撤兵を請い奏聞した。日本は賃借の船を返して糧運の便を失い、諸艦は二か月余で社寮港に達したが生蕃は険に拠って拒み、退いて黽山で屯田し持久を図った。葆楨は砲台と海底電線を設け洋銃・鉄甲艦の購入を議し、諸社に諭すと蕃人は従うことを願った。龜山では酷暑の病疫で死者が相並び、来凱泰が兵二万で向かうと報じられて日本は懼れ、八月に大久保利通を弁理全権大臣として遣わした。境界の弁論は決せず、利通は帰国して兵を挙げると言いながら内々にウェードに調停を頼んだ。軍需金三百万円の要求を総理衙門は許さず、文祥は一銭も与えぬと執り、葆楨も倭は虚勢だと疏したが、イギリス公使が再三あいだに立ち、期限を切って撤兵させ、日本の挙は民を保つ義挙で清国は非とせず、撫恤銀十万両と籌補銀四十万両を給し、往来公文は撤回して罷論とし、生蕃は清国が取り締まる三条を立てた。利通が帰ると勅使が台湾に遣わされて軍は還り、十一月、葆楨は撤兵を奏して台湾の善後の籌画を命じられた。この役で日本は六百万円余を費やし疫死した兵士は多かった。日本はすでに琉球を自国の属地と公言していたが中国政府は知らず、三年を越えて琉球を廃して沖縄県とし、抗議は通らず、中仏の越南新約を例に援いて、琉球はついに日本に帰した。
年表
同治十年(1871年)から同治十三年(1874年)まで、清と日本が初めて条約を結び、続いて台湾出兵をめぐって交渉した経緯を述べる。伊達宗城・柳原前光が来て李鴻章が全権大臣となり、曾国藩の建言も容れて修好条規十八条と通商章程三十三款が定まった。次いで副島種臣が来て条約を取り交わし、日本側の条約改定の申し入れは李鴻章に退けられた。琉球・小田県の漂流民殺害を理由に西郷従道が台湾へ出兵すると、沈葆楨が台湾を巡視して防備を固め、大久保利通とのイギリス公使ウェード仲介の交渉で撫恤銀十万両・籌補銀四十万両を約して撤兵させたが、後に琉球は日本に帰した。
年表(3件)
- 西暦1871年 穆宗同治十年伊達宗城・柳原前光が来り、李鴻章と修好条規十八条を結ぶ
- 西暦1873年 同治十二年副島種臣が来て条約を取り交わし、条約改定の議は退けられる
- 西暦1874年 同治十三年日本が台湾に出兵し、沈葆楨が備え、条約三条を立てて撤兵する
現代語訳全文
西暦1871年 穆宗同治十年
- 夏五月、日本の使臣である伊連宗城(伊達宗城の誤りか)・柳原前光が来て、条約を結ぶことを議した。李鴻章に命じて全権大臣とし、天津で交渉に当たらせた。
- 日本は東海の中にあり、国全体が四方を海に囲まれ、四つの大きな島を統べて国をなしている。所属する小島は、あわせて千八百余りである。
- 周の恵王のとき、盤武彦尊(神日本磐余彦尊の誤りか)という者が日向国に起こり、軍を率いて東征し、長髄彦および八十島の賊を討ち平らげ(底本は「計平長髓及彥八十島賊」に作る。「計」は「討」、「長髓及彥」は「長髓彥及」の誤りか)、山林を開き、宮室を営み、ついに大倭の橿原に都を遷して位を継いだ。これが神武帝である。
- 漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから、はじめて駅使が漢に通じた。建武年間には、その倭奴の国王が使者を遣わして貢物を奉り、漢に朝賀し、光武帝は印綬を賜った。
- 安帝のときには、また使者を遣わして生口百六十人を献じた。しかしこれらはみなその国造の行ったところから出たもので、王室が遣わしたものではない。
- 献帝の朝に至り、神功皇后が海を渡って新羅を攻め、これを降し、高麗・百済もみな帰服した。のちに高麗の道案内によって、たびたび使者を遣わして魏に朝した。
- 西晋から南朝に至るまで、貢物と聘問は絶えることなく、みな中国の封爵・任命を受けた。
- 隋の煬帝の世には、国書の言葉づかいが礼を失していたが、煬帝はそれでも使者を遣わして返報した。
- 唐の貞観以後(底本は「以逄」に作る。「以後」の誤りか)、信使があいついで至り、僧侶や学生を遣わして(底本は「遺」に作る。「遣」の誤りか)唐に留学させ、唐に仕える者もあった。このとき、上は天時・地理・官制・兵備から、典章制度・言語文字、さらには飲食や住居の細かいことから、玩具や遊戯のわずかなことに至るまで、一つとして大唐に手本を取らないものはなかった。礼儀と文物は、まことによく備わった。
- 昭宗のときに国が乱れると、聘使で海を渡る者の多くは兵乱に阻まれて到達できなかった。その参議菅原道実(菅原道真の誤りか)は、唐に留まっていた学僧中瓘の報告を採り、遣唐使を廃することを奏上した。
- 五代および宋の時代には、国交は双方ともに絶えた。
- 元の世祖は天下を統一した志が驕り、兵を窮めて東を伐ち、十余万の軍を喪った。日本人は博多に石の砦を築き、通商を禁じた。これより中国を軽んじる心を持ちはじめた。
- 明の太祖のときには、張士誠・方国珍の残党が、日本の悪民を導いて寇をなし、海上に出没した。嘉靖年間に至って、とりわけ猖獗をきわめた。北は遼海・山東から、南は福建・浙江・東粤に至るまで、海に臨む地域はみなその害を被った。四十三年、総兵の戚継光・兪大猷らが軍を合わせて大いにこれを打ち破り、その患いはようやく次第に収まった。
- 神宗の世には、その関白豊臣秀吉が二度兵を出して朝鮮を侵し、明の軍が救援に赴いたが、いずれも利を失った。秀吉が死ぬと、日本ははじめて兵を収めて国に還った。
- のちに徳川氏が代々政権を執り、文治によって太平を致そうとしたので、二百数十年のあいだ、彼我ともに事なく相安んじた。
- 咸豊・同治以来、その国は外患に迫られ、詔を下して法を変え、広く外交を行い、泰西の諸国と互いに条約を結んだ。中国と隣り合っていることを思い、速やかに好みを通じ、心を同じくし力を合わせて外侮を防ぐことを期すべきだと考えた。
- そこで同治九年七月、外務大丞の柳厚前光(柳原前光の誤りか)、少臣の花房義質らを遣わし、外務卿の書を携えて中国に来させ、総理各国事務衙門とあらかじめ通好の事宜を協議させた。天津に至り、通商大臣の成林、総督の李鴻章に謁見した。成林が代わって上書し、天津に留まって命を待つようにと命じられた。総理衙門は回答を議し(底本は「議履」に作る。「議覆」の誤りか)、通商は許すが条約を取り交わすには及ばないとした。前光が再三力争し、総理衙門ははじめて条約を結ぶことを許した。
- ここにおいて、日本はとくに大蔵卿の伊連宗城(伊達宗城の誤りか)を正使とし、盟約を締結するために来させ、前光をその副とした。朝廷は鴻章に命じて全権大臣とし、日本との通商事務を取り扱わせた。江蘇按察使の応宝時、署津海関道の陳欽が随行して補佐した。これが日中が条約を議した始めである。
- 秋九月、日本と条約を結ぶことが成った。これより先、日本の使者柳厚前光(柳原前光の誤りか)が帰ったとき、地方の大臣のなかには、以前の明代の倭寇を理由に挙げ、日本との通商を拒絶するよう奏請する者があった。李鴻章は奏してこれに反論し(底本は「奏馭之」に作る。「奏駁之」の誤りか)、こう言った。「順治より(「乞」は「迄」の誤りか)嘉慶・道光年間まで、かつて日本と江蘇・浙江で通商し、官の商船の定額を設け、毎年銅(底本は「鋼」に作る。「銅」の誤りか)百万斤を買い入れていた。咸豊以後、江蘇・浙江・福建の商人で長崎に行って貿易し寄留する者はひきもきらない。拒絶せよという議論をする者は、今と昔の時勢、かの国の事実について、まだ深く究めていないのであろう。いま彼らは泰西各国が中国と条約を立てたのを見て、彼らもその例を援いて来たのである。もし拒むことがはなはだしければ、あるいは(底本は「和」に作る。「或」の誤りか)泰西の紹介によって強く請うてくるであろう。それよりは、この機会に誠意を推してつきあうにこしたことはない。かの使臣らが来て謁見するたび、中国と好みを結び、力を合わせて外に当たりたいと称しており、その物言いもなかなか体を得ている。すでに先に条約を結ぶことを許したのだから、あとになって拒絶することは到底できない」云々。
- このとき大学士・両江総督の曾国藩もまた上疏して力争したが、その大要は鴻章の上奏文中の言と同じであった。さらに言う、「彼らはあるいは転じて西国に紹介を求めて強く請うてくるであろうし、そうなれば途中で退けることは難しい。たとえ外国が前後に傍観していても(底本は「恭觀」に作る。「旁觀」の誤りか)、中国の交際の道を疑い、逆らって脅せば話をまとめやすく、従って求めれば好みを修めにくい、と思うであろう」。また言う、「日本はもとより隣邦と称し、朝鮮・越南・琉球のような臣属の国とは比べられない。もし泰西諸国の例をもって遇しなければ、彼らは彼を厚くし此を薄くしている(底本は「厚驣簿薛」に作る。「厚彼薄此」の誤りか)と言い、疑いを積んで嫌悪を生ずるであろう。ただし条約の中に、泰西各国の通例に比照して取り扱うと明記してはならず、とりわけ利益均霑などの語を載せてはならない。条ごとに詳しく載せ、国ごとに詳しく書き、このような簡略で曖昧な文言を用いて、彼の党を堅くし我が条章を損なう(底本の文字に乱れがあるか)ようなことをしてはならない」。
- 疏が奏上されると、朝廷の旨はこれを是とし、ついに鴻章に命じて修好条規十八条、通商章程三十三款を定めさせ、中国・日本の海関税則を付した。条約は成ったが、その中に西洋との条約と全く同じにはできないものがあったため、宗城が帰国すると、日本政府の意向はすこぶる不満で(底本は「意沿觖望」に作る。「意頗觖望」の誤りか)、まもなく事に託して宗城の官を免じた。
西暦1873年 同治十二年
- 夏四月、北洋大臣の李鴻章に命じて換約大臣とし、日本の全権大使副島種臣と条約を取り交わさせた。
- はじめ、十一年二月、日本は外務大臣柳厚前光(柳原前光の誤りか)を前少弁務使として遣わし、条約改定を議させ、あわせて外務卿副島種臣・大輔寺島宗則から鴻章に宛てた書を齎した。その大略はこうである。「先に結んだ条規は、謹んで奏聞して施行を許されました。ただ昨年わが国はとくに大臣を欧西に派遣し、万国の通例にならって条約改定を協議しようとしております。将来改定したのちには、条規の中に載せてある『自国の法をもって自国の民を訊断する』などの事は、必ず訂正しなければなりませんので、先だって話し合っておくのです。また条規第二条の『事に遇えば彼此相助け、中に立って調停する』という語は、両国がすでに和議を結んだ以上、この語がなくとも行う権限はありますので、削除をお願いしたい。第十一条の帯刀の禁ですが、刀を佩びるのはわが国の礼制であります(底本は「喔國禮制」に作る。「我國禮制」の誤りか)。もし入国に際して禁を問うというのであれば、ただわが国の理事官に引き渡して取り締まらせればよいので、明文で禁ずるのは不都合であり、これも削るのがよろしい。いま特に前光らを派遣して面談して申し述べさせます。貴大臣とのあいだで随時文書を往来させて議案を立て、他日の批准取り交わしの地ならしとしたく存じます」云々。
- 前光はまた、通商章程に載せてある輸出入税の各条について、日本の海関が従来の規定にしたがって徴収することにし、税則を指定するには及ばないと協議したい旨を陳べた。鴻章は前光に言った。「日本と泰西との条約改定が成るか否かはまだ分からない。事がはたして成ったなら、条約を取り交わしたのちに改めて協議すればよい。海関の徴税もそのときに相談して処理すればよい。帯刀の禁は、もともと下々の者が事を起こすのを懸念し、あらかじめ防いでおくためのものである。理事官から禁令を布告させるのでも差し支えはないし、条約の期限が満ちたときに削ればよい。中に立って調停するという語については、まことに外務卿の言うように各国ともこの権限はある。しかし条約を議するときに載せないのならそれでよいが、いったん載せておきながら改めて削るのでは、かえって物笑いの種を残すことになる。しかも万国公法では信を失うことを最も忌むという。いま両国が条約を取り交わす前に、にわかに人を遣わして改定を議し、許しておいてすぐ悔いるというのでは、全権をもって条約を立てよという命令と、食い違って外国人の笑いものになるのではないか」。前光は口ごもり、恐れ恥じて退いた。
- のちにその右大臣岩倉具視が泰西の諸邦に至って条約改定を議したが、領事裁判権と海関税則の二事については、ついに要領を得ずして帰った。帯刀の一事も、まもなくその外務少輔森有礼の議にしたがい、ついに自分から禁を改めた。彼此の調停の語については、中国が削除を許さず、日本は西洋人からすこぶる揶揄を受け(底本は「倻揄」に作る。「揶揄」の誤りか)、日本人は大いに恥じた。
- 十月ごろになって、ペルー国の商船マリア・ルース号が澳門の華民三百余人を騙して誘い、その国に載せて行って傭工とすることがあった。ところが風を避けて横浜に入り、船員が工人を虐げ、工人は憤って水に投じてイギリス艦に泳ぎ着き、ここに停泊していた艦長アーニーチョウ(底本「挨仁雕」)がこれを救い出し、神奈川県庁に引いて訴え出た。種臣はそのとき外務卿であり、商船を差し押さえ、工人を解放させ、中国に告げさせた。中国は同知の陳福勲を遣わして謝し、工人を連れ帰らせた。
- 日本はまもなく十一月に、種臣を特命全権大使として条約の取り交わしに来させた。種臣は天津に至って鴻章に会い、先に前光が来て条約改定を協議したのは自分の本意ではなかったと自ら陳べた。そして条規を取り交わした。種臣はまもなく北京に入り、泰西各国の公使とともに紫光閣で謁見し、大婚と親政の盛典を賀し、あわせて国書を呈した。種臣が帰ると、前光を留めて公使とし、井田譲を総理事として十五口の商務を管させ、品川忠道を理事として上海に駐在させ、あわせて寧波・鎮江・九江・漢口の四か所を管させ、林道三郎を副理事として広州・瓊州・潮州の三か所を管させ、香港に駐在させた。
西暦1874年 同治十三年
- 夏四月、船政大臣の沈葆楨に命じて台湾を巡視させ、あわせて各国との通商事務を取り扱わせた。
- これより先、十年十一月、琉球の船が颶風に遭って台湾に漂着し、生蕃に殺害された者が五十四人あった。十二年二月には、日本の小田県の民四名もまた漂着して害に遭った。日本の諸臣で事を好む者は、生蕃は豺狼であって懲らしめないわけにはいかないと言った。ただ生蕃と熟蕃とには違いがあるので、まず中国に境界のことを質そうとした。ちょうど副島種臣が北京にいたので、種臣に訓令を寄せ、台湾の地のことを問いただすよう命じた。種臣は言い出しにくかったので、副使の柳原前光を遣わし、総理衙門大臣の毛昶熙・董恂に問わせた。昶熙らは答えて言った。「蕃民が琉球の民を殺したことは、すでにその事を聞いている。貴国の人を害したことは、我らはまだ聞いていない。そもそも二島はともに我が属土であり、属土の人が互いに殺し合ったのであれば、その裁決はもとより我らにある。我らが琉球人を憐れみ恤むについては自ら処置があるのに、どうして貴国の事に関わりがあって、わざわざ口出しをされるのか」。
- 琉球群島は日本の西南にあり、中国(底本は「中之臺灣」に作り、「國」の字を脱するか)の台湾などと相対している。旧く山南・山北・中山の三部に分かれ、それぞれ王があって分け領していた。明の初めに中山王の尚氏が琉球を統一し、明の冊封を受け、代々朝貢を通じた。順治が関に入って以後も、臣と称して入貢すること一に明の制のごとくであったが、同時に日本にも朝貢していた。それゆえ当日、前光は琉球が日本の版図であると大いに論争したのである。
- 前光はまた小田県の民が害に遭った様子の証拠を具え、かつ言った。「貴国はすでに琉球人を恤むことを知りながら、台湾の蕃人を懲らしめないのはなぜか」。答えて言った。「生蕃は化外の民であり、我が政府はたやすく徹底して処断するわけにいかない」。前光は言った。「生蕃が人を害しても、貴国は捨てて治めない。しかし一人の民といえどもみな赤子である。赤子が害に遭っても問わないのでは、どうしてその父母たりえようか。そこでわが邦は島人の罪を問おうとしているが、盟好のゆえに、それがしをして先に告げさせるのである」。反覆して論じ詰めること数日、ついに議を尽くすことができずに去った。
- この年三月、日本の朝廷は陸軍少将の西郷従道を都督とし、谷干城および海軍少将の赤松則良を参軍として、兵を率いて台湾に赴かせ、海軍少佐の福島九成を厦門領事としてあわせて蕃地の事を管させ、別にアメリカ人のリゼンドル(李仙得)を招いて参謀の議に与らせ、イギリス・アメリカの船を雇って運輸に当て、特に参議兼大蔵卿(底本は「大藏鄉」に作る。「卿」の誤りか)の大隈重信に命じて総理とした。
- そのときアメリカ公使のロー(鏤斐迪)は局外中立の例を執り、その船舶および人民で日本に雇役されている者を収め還し、あわせて厦門領事にリゼンドル(底本は「李先得」に作る)らを捕らえさせた。イギリス公使のパークス(巴夏礼)もまた、日本のこの挙は公法に合わず、中国が必ず異議を生ずるであろうと言った。そこで内閣では大いに議論が紛糾し、急いで人を遣わして重信のもとに馳せて諭し、軍の出発を止めさせ、かつ帰京させようとした。重信が従道に告げると、従道は命を奉ぜず、言った。「それがしはまさに自ら虜の巣を搗き、斃れてのちやむ。万一清国が異議を生じたなら、朝廷は臣らを亡命の流賊とみなして討ち滅ぼされてよろしい」。重信は百方説き諭したが、従道は聴かず、その夜のうちに令を下して出兵した。重信が電報で報告すると、日本の朝廷は大いに憂え、重ねて内旨を長崎に伝えたが、従道は憤然として出発した。
- 一方、厦門の日本領事九成もまた書を閩督の李鶴年に送り、いま貴国の化外の地に軍を起こして罪を問おうとしていると告げた。鶴年は書を返して、生蕃は中国の属地であると争い、撤兵を請い、ついで疏を上げて奏聞した。葆楨に台湾を巡閲し、兵を調えて警備するよう命じた。
- 冬十一月、沈葆楨が日本が約に従って兵を退いたことを奏上し、台湾の善後の事宜を適切に籌画するよう命じた。
- はじめ、日本はイギリス・アメリカの公使に異議があったため、賃借していた船舶をすべて契約を解いて返した。そのため糧の運搬も兵の移動もみな便宜を失った。諸艦は出発して二か月余りしてはじめて台湾の社寮港に達し、道を分けて竹社・風日・石門の諸蕃を攻めたが、生蕃は険に拠って力の限り拒み、進むことができなかった。牡丹社を攻めたのもまた利あらず、そこで退いて黽山(「龜山」の誤りか)を守り、都督府を造り、病院を設け、橋を修め道を繕い、屯田して持久する計とした。
- 葆楨は台湾に到着すると、澍湖(「澎湖」の誤りか)の諸島に砲台を築き、台湾と厦門のあいだに海底電線を設け、新式の洋銃三万挺をドイツに購入し、淮軍を調えて台湾に来させ、鉄甲艦をデンマークに購入することを議した。防務がすでに備わっても(底本は「旣傋」に作る。「旣備」の誤りか)、先に釁端を開くことはせず、なお生蕃の諸社にあまねく諭したところ(底本は「仍成諭」に作る。「成」は「咸」の誤りか)、蕃人は約束に従うことを願い、日本人はそのために気を奪われた。また龜山に長く駐屯していて、酷暑のために病疫が多く、棺槨(底本は「棺楷」に作る。「楷」は「槨」の誤りか)が見渡すかぎり相並ぶありさまで、進むも退くもきわまった。
- そのとき赤松則良が上海で偵察しており、巡撫の来凱泰(王凱泰の誤りか)が兵二万を率いて台湾に向かい、戦守を助けようとしていると馳せ報じた。日本は大いに懼れ、そこで八月に参議兼内務卿の大久保利通を弁理全権大臣として、台湾の事を議するために来させた。九月に天津に至り、総理の王大臣に謁し、蕃地の所属する境界について弁論したが、互いに食い違い、二十日余りを過ぎても決しなかった。利通はそこで表向きには帰国して再び兵を挙げると言いながら、内々にイギリス公使のウェード(威妥瑪)に依頼して調停に当たらせた。
- 利通ははじめ軍需金三百万円の償いを要求したが、総理衙門は日本を無理無体であるとして、堅く執って許さなかった。軍機大臣の文祥は一銭も与えないという議を執った。
- 葆楨もまた疏して言った。「倭の備えは増しているものの、倭の情は次第に怯えており、虚勢を張って脅しつけ、我が折れて和を求めることを期しているのです。もしその術中に入れば、彼は必ず一歩を得れば一歩を進めましょう。我がただ兵力を厚く集め、乗ずべき隙がなければ、おのずと耳を垂れて去るに決まっています。定見を堅持し、力を尽くして拒み却けられるようお願いします」。葆楨はまた北洋大臣の李鴻章に書を送り、利通が来たのは、その内情の切迫を想像できるが、それでもわざと余裕あるさまを示し、たやすく我が枠の中に入ろうとはしないであろう、急ぎたい気持ちは彼の側にあるのだから、我はすでに逸をもって労を待ち、主人として客を待つ立場にある以上、和議を急ぐには及ばない、と述べた。鴻章がこれを告げると、朝廷の議は大いにこれを是とした。
- やがてイギリス公使が再三あいだに立ったので、ついに撫恤と籌補の銀を許し、期限を切って撤兵させ、条約三条を立てた。次のとおりである。(一)日本国が今回行ったのはもともと民を保つための義挙であって、清国はこれを非とはしない。(二)先に害に遭った難民の家には、清国が撫恤銀十万両を給することを許す。日本がかの地で道を修め家屋を建てた等の物件は、清国が留めて自ら用いることを願い、あらかじめ籌補銀四十万両を議定する。(三)この事に関する両国一切の往来公文は、彼此ともに撤回・抹消し、罷論としたものとする。かの地の生蕃については、清国が自ら方法を設けて適切に取り締まる。
- 調印が定まると、利通は帰った。まもなく日本の皇帝は勅使を台湾に遣わし、詔して軍を還らせた。この役では、日本は六百万円余りを費やし、兵士で疫死した者ははなはだ多かった。しかしこのとき日本はすでに琉球は自国の属地であり、琉球の難民が害を受けたことは清政府とは関わりがないと公言していたのに、中国政府はこれを知らなかった。三年を越えて、日本は琉球を廃し、平らげて沖縄県とした。中国政府ははじめて使者を遣わして抗議したが、筋を通すことができなかった。中国とフランスとのあいだに越南の新約が定まると、日本はこれを例として援いた。こうして琉球群島はついに日本に帰したのである。
原文(底本)
穆宗同治十年,夏五月,日本使臣伊連宗城、柳原前光來議訂約。命李鴻章爲全權大臣,與議於天津。日本在東海中,全國四面環海,統四大島而爲國。所屬小島,凡一千八百餘。當周惠王時,有盤武彥尊起日向國,率師東征,計平長髓及彥八十島賊,開山林,營宮室,遂遷都繼位於大倭(即大和)之橿原,是爲神武帝。自漢武帝滅朝鮮,始有驛使通漢。建武中,其倭奴(今作伊都古怡土縣)國王遣使舉貢,朝賀於漢,光武帝賜以印綬。安帝時,又遣使獻其生口百六十人,然皆出其國造(神武帝即位,賜功臣椎根津彥等以地名,曰國造。)之所爲,故非王室之所遣。至獻帝朝,神功皇后渡海攻新羅,降之,高麗、百濟皆歸歀。後遂因高麗鄉導,數遣使朝於魏。自西晉以至於南朝,貢聘不絕,皆受中國封拜。隋煬之世,國書失辭,煬帝仍遣使往報。唐貞觀以逄,信使踵至,遺僧侶、學生留學於唐,或有仕唐者。當是時,上自天時、地理、官制、兵備,暨乎典章制度、語言文字,至於飲食居處之細,玩好遊戲之微,無一不取法於大唐。禮儀文物,居然大備。及昭宗國亂,聘使渡海者多阻於兵,不得達,其參議菅原道實採留中學僧中瓘報告,奏罷遣唐使。五代及宋,國交彼此皆絕。元世祖混一志侈窮兵東伐,喪師十餘萬。日人築石砦於博多,禁通商,自是始有輕中國之心。明太祖時,張士誠、方國珍餘黨,導其奸民爲寇,出沒海上。至嘉靖中,尤猖獗。北自遼海、山東,南抵閩、浙、東粵,濱海之區皆罹其害。四十三年,總兵戚繼光、俞大猷等合師大創之,其患始漸息。神宗之世,其關白豐臣秀吉兩出兵侵朝鮮,明師赴援,皆失利。秀吉卒,日本始收兵還國。後德川氏世執政權,方欲以文治致太平,故二百數十載彼此相安於無事。咸豐、同治以來,其國迫於外患,下詔變法,廣事外交,與泰西諸國互訂條約。念與中國鄰近,宜亟通好,以冀同心協力,禦外侮。乃於同治九年七月,遣外務大丞柳厚前光、少臣花房義質等攜外務卿書來中國,與總理各國事務衙門預商通好事宜。至天津,謁見通商大臣成林、總督李鴻章。成林代爲上書,命留津候命。總理衙門議履,許通商,不必換約。前光再三力爭,總理衙門始允與之訂約,至是,日本特以大藏卿伊連宗城爲正使,來締盟約,前光副之。朝命鴻章爲全權大臣,辦理日本通商事務。江蘇按察使應寶時、署津海關道陳欽隨同幫辦,是爲中日議約之始。 秋九月,與日本訂約成。先是,日使柳厚前光歸,疆臣有以前明倭寇爲辭,奏請拒絕日本通商者,李鴻章奏馭之,謂:「順治乞嘉、道年間嘗與日本通市江、浙,設官商額船,每歲購鋼百萬斤。咸豐以後,蘇、浙、閩商往長崎貿易寄居者絡繹不絕。論者拒絕之請,於今昔時勢,彼國事實,蓋未深究。今彼見泰西各國與中土立約,彼亦援例而來,設拒之太甚,和因泰西介紹固請,自不如就此時推誠相與。彼使臣等來謁,每稱欲與中國結好,協力對外,立言亦頗得體。既允立約在前,斷難拒絕於後云云。」時大學士兩江總督曾國藩亦上疏力爭,其大致與鴻章摺中言相同,且言:「彼或轉求西國介紹固請,勢難中卻,即使外國前後恭觀,疑中國交際之道,逆而脅之則易於行成,順而求之則難於修好。」又言:「日本素稱鄰邦,非朝鮮、越南、琉球臣屬之比,若不以泰西諸國之例待之,彼將謂厚驣簿薛,積疑生嫌,但約中不可載明比昭泰西各國通例辦理,尤不可載利益均沾等語。逐條備載,每國詳書,不必爲此簡帖含混之詞,堅彼之黨而奈我之章。」疏入,朝旨韙之,遂命鴻章與定修好條規十八條,通商章程三十三欵,附以中國、日本海關稅則。約成,以中有不能盡同西約者。宗城既歸,日政府意沿觖望,旋以事免宗城官。 十二年,夏四月,命北洋大臣李鴻章爲換約大臣,與日本全權大使副島種臣互換條約。初,十一年二月,日本以外務大臣柳厚前光前少辦務使(即四等公使)來議改約,並齎有外務卿副島種臣、大輔寺島宗則致鴻章書,略謂「承訂條規,謹奏聞允行。惟去歲我國特派大臣使於歐西,欲仿萬國通例,議商改約。將來改定後條規中所載『以己國法訊斷己民』等事,必須更正,故先商明。又條規第二條:『遇事彼此相助、從中調處』之語,兩國既結和議,雖無此語,亦有權可行,應請裁撤。第十一條,帶刀之禁,佩刀乃喔國禮制,若以入國問禁,第交我國理事官檢束可耳,不便明禁,亦宜削去。 清史紀事本末五 4 col.9 今特派前光等面陳冀與貴大臣時備文書往來擬議以爲他日批準互換之地云云前 光又陳通商章程所載進出口税各條須議由日本海關按照成規抽收不必指明税則鴻章謂 前光曰日本與泰西改約成否未可知事果有成可以換約後再商海關收税亦可屆時商辦帶 刀之禁原慮細民滋事預爲防範由理事官佈吿禁令亦無不可待約满時刪除至從中調處一 語信如外務卿所謂各國均有此權但議約不載則可旣載復裁轉貽恥笑且語以萬國公法最 忌失信今兩國於未換約之先遽爾遣員議改旋允旋悔於全權立約之命不幾相枘鑿而貽笑 外人乎前光囁嚅惶愧而退後其右大臣岩倉具視至泰西諸邦議改約於領事法權及海關税 則兩事終不得要領而還帶刀一事未幾亦從其外務少輔森有禮之議卒自行革禁至彼此調 處之言中國不允裁撤頗受西人倻揄日人大慚迨十月閒有秘魯國商船瑪利亞留士騙誘澳 門華民三百餘人載往其國傭工已而避風横濱舟師虐工人工人憤而投水通英艦長挨仁雕 泊此救之出引吿神奈川縣廳種臣時爲外務卿令扣留商船解放工人使吿於中國中國遣同 知陳福勲往謝攜工人歸日人旋於十一月以種臣爲特命全權大使來換約種臣旣至天津見 鴻章自陳前此前光之來商改約非其本意云遂互換條規種臣旋入京與泰西各國公使同覲 見於紫光閣賀大婚及親政盛典並呈遞國書種臣旣歸留前光爲公使以井田讓爲總理事管 十五口商務品川忠道爲理事駐上海兼管寧波鎮江九江漢口四處林道三郎爲副理事管廣 州瓊州潮州三處而駐於香港 十三年夏四月命船政大臣沈葆楨廵視臺灣兼辦各國通商事務先是十年十一月有琉球船 遇颶風飄至臺灣爲生番刼殺五十四人十二年二月日本小田縣民四名亦漂至遭害日本諸 臣喜事者因謂生番豺狼不可不膺懲特以生番熟番有異欲先質經界於中國會副島種臣在北 京乃寄諭種臣命詢臺地事種臣難於啟口因遣副使柳原前光往問總理衙門大臣毛昶熙董 恂昶熙等答曰番民之殺琉民旣聞其事害貴國人則我未之聞夫二島俱我屬土屬土之人相 殺裁決固在於我我恤琉人自有措置何預貴國事而煩爲過問琉球羣島在日本之西南與中 之臺灣等處相對舊分山南山北中山三部各有王分領之明初中山王尙氏統一琉球受明冊 封世通朝貢順治入關以後稱臣入貢一如明制然同時亦朝貢於日本故當日前光大爭琉球 爲日本版圖又具證小田縣民遇害狀且曰貴國已知恤琉人而不懲臺番者何也曰生番係化 外之民我政府未便窮治前光曰生番害人貴國舍而不治然一民莫非赤子赤子遇害而不問安 在爲之父母是以我邦將問罪島人爲盟好故使某先吿之反覆論詰者累日卒不能畢議而去 是年三月日廷乃以陸軍少將西鄉從道爲都督谷干城及海軍少將赤松則良爲參軍率兵赴 臺海軍少佐福島九成爲厦門領事兼管番事別延美國人李仙得參謀議傭英美船爲運輸而 特命參議兼大藏鄉大隈重信爲總理時美公使鏤斐迪執局外中立之例收還其船舶人民之 爲日本所傭役者並令厦門領事捕李先得等英公使巴夏禮亦言日本此舉不合公法中國必 生異議於是內閣大生紛議急遣人馳諭於重信令止軍行且歸京重信吿從道從道不奉命曰 某當親擣虜巢斃而後已萬一清國生異議朝廷目臣等爲亡命流賊以覆之可也重信勸諭百 端從道不聽卽夜下令發師重信電聞日廷大憂再傳內旨於長崎從道憤然行而厦門日領事 九成亦書吿閩督李鶴年謂今將起師問罪於貴國化外之地鶴年覆書爭生番爲中國屬地請 撤兵隨疏以聞令葆楨廵閱臺灣調兵警備 冬十一月沈葆楨奏日本遵約退兵命妥籌臺灣 善後事宜初日本以英美公使有違言所賃船舶悉解約還之於是運糧調兵皆失便諸艦出發 兩月餘始達臺灣之社寮港分道進攻竹社風日石門諸番生番據險力拒不能進攻牡丹社亦 不利乃退守黽山造都督府設病院修橋繕道爲屯田持久之計葆楨抵臺築礟臺於澍湖諸島 設海底電線於臺灣厦門閒購新式洋鎗三萬枝於德調淮軍來臺議購鐡甲艦於丹防務旣傋 不先開釁端仍成諭生番諸社番人願遵約束日人爲之奪氣又久屯龜山以酷暑多病疫棺楷 相望進退維谷而是時赤松則良在上海偵探馳報廵撫來凱泰將兵二萬向臺助戰守日本大 懼遂於八月以參議兼內務卿大久保利通爲辦理全權大臣來議臺事九月至天津謁總理王 大臣辯論番地所隸之經界互相齟齬逾兩旬不決利通乃陽言歸國再舉而陰託英公使威妥 瑪出任調停利通始要償軍需金三百萬圓總理衙門以日本爲無理横肆堅執不許軍機大臣 文祥執議不給一錢葆楨亦疏言倭備雖增倭情漸怯虛聲恫喝冀我遷就求和倘入其彀中彼 必得步進步我但厚集兵力無𨻶可乘自必帖耳而去請堅持定見力爲拒𨚫葆楨又遺書北洋 大臣李鴻章謂利通之來其中情窘急可想然必故示整睱不肯遽就我範圍是欲速之意在彼 我旣以逸待勞以主待客自不必急於行成鴻章以吿廷議大韙之已而以英使居閒再三乃終 許撫恤籌補銀限期撤兵立約三條如下(一)日本國此次所辦原爲保民義舉清國不指以爲 不是(二)前次所有遇害難民之家淸國許給以撫卹銀十萬兩日本所有在該處修道建房等 件清國願留自用先行議定籌補銀四十萬兩(三)所有此事兩國一切往來公文彼此撤回註 銷作爲罷論至該處生番清國自行設法妥爲約束簽約旣定利通歸旋日皇遣敕使於臺灣詔 班師是役也日本縻費六百餘萬圓兵士疫死者甚衆然是時己昌言琉球爲其屬地琉球難民 被害與淸政府無涉中國政府未之知也越三年日本廢琉球夷爲沖绳縣中國政府始遣使與 抗議不得直及中法越南新約定日本援以爲例於是琉球羣島終歸日本矣
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